一

「いつかは弁天娘のお話をしましたから、きょうは鬼むすめのお話をしましょうか」と、半七老人は云った。

 馬道うまみちの庄太という子分が神田三河町の半七の家へ駈け込んで来たのは、文久元年七月二十日の朝であった。
「お早うございます」
「やあ、お早う」と、裏庭の縁側で朝顔の鉢をながめていた半七は見かえった。「たいへん早いな、めずらしいぜ」
「なに、この頃はいつも早いのさ」
「そうでもあるめえ。朝顔の盛りは御存じねえ方だろう。だが、朝顔ももういけねえ、この通りつるが伸びてしまった」
「そうですねえ」と、庄太は首をのばしてのぞいた。「時に親分。すこし耳を貸して貰いてえことがあるんですよ。わっしの近所にどうも変なことが流行り出してね」
「なにが流行る、麻疹はしかじゃあるめえ」
「そんなことじゃあねえので……」と、庄太はまじめにささやいた。「実はわっしの隣りの家のお作という娘がゆうべ死んでね」
「どんな娘で、いくつになる」
「子供のような顔をしていたが、もう十九か二十歳はたちでしょうよ。まあ、ちょいと渋皮のけたほうでね」
 それが普通の死でないことは半七にもすぐに覚られた。かれはすぐに起ちあがって、茶の間へ庄太を連れ込んだ。
「そこで、その娘がどうした。殺されたか」
「殺されたには相違ねえんだが……。そいつがい殺されたんですよ」
「化け猫にか」と、半七は笑った。「いや、冗談じゃあねえ。ほんとうに啖い殺されたのか」
「ほんとうですよ。なにしろわっしの隣りですからね。こればかりは間違い無しです」
 庄太の報告はこうであった。
 今から半月ほどまえの宵に、馬道うまみちの鼻緒屋の娘で、ことし十六になるおすてというのが近所まで買物に出ると、白地の手拭をかぶって、白地の浴衣を着た若い女が、往来で彼女とすれ違いながら、もしもしと声をかけた。なに心なく振りかえると、その女はうす暗いなかで薄気味のわるい顔をしてにやにやと笑った。年のわかいお捨は俄かにおそろしくなって、返事もしないで一生懸命に逃げ出した。勿論それぎりの話で、その若い女はまさかに幽霊や化け物でもあるまい、おそらく気ちがいであろうという噂であった。
 それから又五、六日経つと、更におそろしい出来事が起った。やはり同じ町内の酒屋の下女で、今年二十一になるお伝というのが、裏手の物置へ何か取り出しにゆくと、やがてきゃっという声をあげて倒れた。その悲鳴を聞きつけて、内から大勢が駈け出してみたが、薄暗い灯ともし頃で、そこらに物の影もみえなかった。お伝は何者にか喉笛をい切られて死んでいた。それだけでもすでに怖ろしい出来事であるのに、それにもう一つの怪しい噂が付け加えられて、更に近所の人々をおびやかしたのである。
 それはこの晩、かの鼻緒屋のおすておどしたという怪しい娘によく似た女が、あたかもそれと同じ時刻に酒屋の裏口を覗いていたのを見た者があるというのであった。前後ともに暗い時刻であるので、よくその正体を見とどけることは出来なかったが、前の女も後の女もおなじく白地の手拭をかぶって、白地の浴衣を着ていて、どうも同じ人間であるらしいと思われた。そうして、その怪しい女とお伝の死と、そのあいだにも何かの関係があるらしく思われて来た。鼻緒屋の娘は運よくのがれたが、酒屋の下女は運わるく啖い殺されたのではあるまいか。こういう風に二つの事件をむすび付けて解釈すると、かれは一種のおそろしい鬼女であるかも知れない。鬼婆で名高い浅茅あさじヶ原に近いだけに、鬼娘の噂がそれからそれへと仰々ぎょうぎょうしく伝えられて、残暑の強いこの頃でも、気の弱い娘子供は日が暮れると門涼かどすずみに出るのを恐れるようになった。
 それでも鬼女の奇怪な事実はまだ一般には信じられなかった。ある人々はそれを臆病者の噂と聞き流して、いわゆる高箒たかぼうきを鬼と見るたぐいに過ぎないと冷笑あざわらっていた。しかもそれから又十日とおかと経たないうちに、強い人々もいよいよ臆病者の仲間入りをしなければならないような事件が重ねて出来しゅったいした。鬼娘が又もや一人の女をほふ[#ルビの「ほふ」は底本では「ほう」]ったのである。それはやま宿しゅくの小間物屋の女房で、かれは誰も知らない間に、裏の井戸端で啖い殺されていた。勿論それも同じ鬼娘の仕業しわざであることに決められてしまった。
 諸人の不安がだんだん募って来た時、鬼娘は更に第三の生贄いけにえを求めた。それは庄太のとなりに住んでいるお作という娘であった。庄太の家はかの酒屋から遠くない露路のなかで、そこには裏店うらだなとしてやや小綺麗な五軒の小さい格子作りがならんでいた。庄太の家は露路の口から四軒目で、隣りの長屋にお作という娘が母のお伊勢と二人で暮らしていた。その奥は空地になっていて、そこには大きい掃溜はきだめがあった。昔からえてある大きい桜が一本立っていた。お作は浅草の奥山の茶店に出ているが、そのほかに内々で旦那取りをしているとかいうので、近所の評判は余りよくなかった。そんな噂もあるだけに、母子おやこはいつも身綺麗にして、不足もないらしく暮らしていた。隣り同士でもあり、殊に庄太の商売を知っているので、お作親子はふだんから愛想よく彼に附き合って、いろいろの物をくれたりした。
 お作が啖い殺されたのは、ゆうべの六ツ半(午後七時)を過ぎた頃であった。いつもの通りに奥山の店から帰って来て、かれは台所で行水ぎょうずいを使っていた。母のお伊勢は小さい庭にむかった奥の縁側で蚊いぶしをしていると、台所で娘の声がきこえた。お作は何者かを咎めるような口ぶりで、「誰、そこから覗くのは誰」と云っているのが耳にはいったので、おそらく近所の若い者がからかってでもいるのであろうと思いながら、お伊勢は蚊いぶしを煽いでいる団扇うちわの手をやめて、台所の方を見かえると、うす暗いところに一人の女が立っている姿がぼんやりと浮かんで見えた。女は白地の手拭をかぶって、おなじ白地の浴衣を着ているらしかった。お作はまた咎めた。
「なにを覗いているのよ、おまえさんは……」
 その声が終らないうちにお作はきゃっと叫んだ。おどろいてお伊勢は台所へ駈け付けてみると、赤裸あかはだかの彼女は大きいたらいからころげ出して倒れている。お伊勢は再び奥へ引っ返して、行燈を持ち出して来た。その灯に照らされた行水の湯は真っ紅に染まっていて、それが娘の喉からあふれ出る血であることを知った時に、お伊勢は腰をぬかすほどに驚いた。かれは表通りまで響くような声をあげて人を呼んだ。
 近所の人達もすぐに駈け付けた。町内の医者もすぐに来たが、お作は何者にか喉笛を啖い破られているので、もう手当てを加えるすべもなかった。お伊勢は夢のようで、なにがどうしたのかちっとも判らなかった。お作の行水をうかがっていたらしい女は、このどさくさのあいだに何処へか消え失せてしまった。しかし前後の事情から考えると、お作を殺した疑いは先ず第一にその女のうえに置かれなければならなかった。白地の浴衣を着た女、酒屋の下女を啖い殺した女、小間物屋の女房を啖い殺した女、それが又もやここにあらわれて、赤裸の若い女を啖い殺したのであろうとは、誰の胸にもすぐに浮がび出る想像であった。鬼娘が又来たという噂はたちまち拡がって、近所の人達をいよいよおびやかした。庄太の女房もゆうべはおちおち眠らなかった。
「その時におめえはうちにいたのか」と、半七は訊いた。
「ところが、親分。その時わっしは表の足袋屋の店へ行って、縁台で将棋をさしていたんですよ。この騒ぎにおどろいて帰って来た時には、長屋の者が唯わあわあ云っているばかりで、ほかには誰もいませんでした。白地の浴衣を着た女なんぞは影も形も見えませんでした」
「あの露路は抜け裏か」
「以前は通りぬけが出来たんですが、もともと広い露路でもなし、第一無用心だというので、おととし頃から奥の出口へ垣根を結ってしまったんですが、もういい加減に古くなったのと、近所の子供がいたずらをするのとで、竹はばらばらに毀れていますから、通りぬけをすれば出来ますよ」
「むむ」と、半七は考えていた。「無論、検視もあったんだろうが、なんにも手がかりは無しか」
「どうも判らねえようですね。今も田町たまちの重兵衛の子分に逢いましたが、重兵衛はなにか色恋の遺恨じゃあねえかと、専らその方を探っているそうです。なるほど、お作はあんな女ですから、そこへ眼をつけるのも無理はありませんが、刃物で突くとか斬るとかいうなら格別、い殺すのがどうもおかしい。それもお作一人でなし、ほかに二人も死んでいるんですからね。田町の子分共もこれにはちっと行き悩んでいるようでしたよ」
「喉笛へくらい付くとはよくいうことだが、なかなか出来る芸じゃあねえ」と、半七はまた考えていた。「ほんとうに啖い殺したのかしら、鉄砲疵には似たれども、まさしく刀でえぐった疵、とんだ六段目じゃあねえかな」
「さあ」と、庄太も少し考えていた。「わっしも死骸をみましたがね。喉笛はたしかに啖い切られていたようでしたよ。医者もそう云い、検視でもそう決まったんですが……。お前さんには何かほかの見込みがありますかえ」
「いや、おれにもまだ見当はつかねえが、どうにも腑に落ちねえようだな。それにしても、その鬼娘というのは何者だろう」
「それも判りませんよ」
「わからねえじゃあ困る。おれも考えてみるから、おめえも考えてくれ」
 云いかけて、半七はふと何事かを思い出したらしく、持っている団扇うちわを下に置いた。
「だが、なにしろ一度は行ってみよう。家にばかり涼んでいちゃあ埒があかねえ。重兵衛の縄張りをあらすようだが、おめえも土地に住んでいるんだ。おれが手伝って、おめえの顔を好くしてやろうか」
「ありがたい。何分ねがいます」
 親分を案内して、庄太が出ようとすると、半七の女房がうしろから声をかけた。
「庄さん。どこへ」
「親分を引っ張り出して浅草へ……」と、庄太は笑った。「方角が悪いが、朝っぱらだから大丈夫ですよ」
「朝っぱらからでも昼っぱらからでも、おまえさんじゃあ油断が出来ない。おかみさんがお盆に来て愚痴を云っていたよ」
 女房に笑われて、庄太は頭をかいていた。

     二

「どうも暑いな」
「ことしは残暑が強うござんすね。これで九月にあわせが着られるでしょうか」
「ちげえねえ。九月に帷子かたびらを着てふるえているか」
 二人は笑いながら浅草の仲見世の方へ来かかると、そこらの店から大勢の人がばらばら駈け出した。往来の人達も何かわやわや云いながら駈け出して行った。えさを拾っている鳩もおどろいて飛び起った。
「なんだろう」と、半七は境内の方を見た。
「みんなお堂の方へ駈けて行くようですね。喧嘩か巾着切きんちゃっきりでしょう」
「そんなことかも知れねえ。江戸は相変らず物見高けえな」
 さのみ気にも留めないで、二人はやはりぶらぶらあるいてゆくと、駈けあつまる人の群れはだんだん多くなった。それに誘われて、二人もおのずと早足に仁王門をくぐると、観音堂前の大きい銀杏いちょうの木に一人の男がくくりつけられていた。男は二十三四で、どこかの武家屋敷の中間ちゅうげんらしく、帯のうしろには木刀をさしていたが、両腕を荒縄で固く縛られて、両足を投げ出して、銀杏の木の根につながれていた。そのまえには一羽の白い鶏をかかえた男が立っていた。ほかにも七、八人の男がその中間を取りまいて、何か大きい声で罵っているらしかった。中間はくくりつけられるまでに散散の打擲ちょうちゃくをうけたらしく、頬にはかすり疵の血がにじんで、髪も着物もみだれたままで、意気地もなく俯向いていた。
 それを遠巻きに見物している人達をかきわけて、半七と庄太は前へ出た。庄太は土地の者だけに、そのなかには顔なじみの者もあるらしく、一人の男に声をかけた。
「もし、どうしたんですえ、その中間は」
「鶏をぬすんで絞めたんですよ。しかも真っ昼間、ずうずうしい奴です」
 観音の境内には鶏を奉納するものがある。それは誰も知っていることであるが、その鶏がこの頃たびたび紛失するので、土地の者も内々注意していると、今朝けさこの中間が紙につつんだ一と粒の米を餌にして、木のかげで遊んでいる鶏を釣り寄せようとしているらしいので、鶏の豆を売っている婆さんが見つけて、寺内に住んでいる町屋まちやの人達に密告したので、二、三人が駈けて来た。つづいて五、六人が駈けつけてみると、かの中間は大きい銀杏のかげに身を穏すようにして、二、三羽の鶏に米をやっていた。
 その挙動が怪しいので、気の早い者はすぐに彼を引っ捕えて詮議すると、中間は奉納の鶏に餌をあたえているのだと云った。鳩に豆をやると同じわけで、勿論それだけならば仔細はない。却って奇特きどくというべきでもあったが、その言い訳は立たなかった。彼はそのふところに一羽の白い鶏を隠していることを発見された。かれは鶏を釣り寄せて、手早くその頸を絞めていることが判ったので、死んだ鶏は無論に取り返された。そうして、逃ぐる間もなしに引き摺り倒されて、袋叩きの仕置に遭ったのである。武家に奉公している者でも、場所が観音の境内で、しかも奉納の鶏を殺したのであるから、このくらいの仕置きはこの時代としては当然であった。まして多勢たぜい無勢ぶぜいであるから、中間はとても反抗する力はなかった。かれは彼等のなすままにおめおめ服従して、白昼諸人のまえに生き恥をさらすほかはなかった。苦しいのか、面目ないのか、立木につながれた彼は眼をじたまま俯向いていた。その話を聴いて庄太はあざわらった。
「馬鹿な奴だな、若けえ者のくせに飛んだ業晒ごうさらしだ」
「これからどうするんですね」と、半七は訊いた。
 鶏をぬすんだ罪人の仕置は、まだこれだけでは済まない。彼はうしてここに半日晒しものにした上で、棒しばりにして広小路は勿論、馬道から花川戸のあたりまで、引き廻してあるくのであると彼等は云った。半七は顔をしかめた。
「そりゃあちっとむご過ぎるようだね。いくら寺内でしたことでも、土地の人達がそんなに勝手の仕置をするのはよくないだろう。なぜすぐ自身番へでも連れて行かないんですえ」
 かれらは半七の顔を識らなかったが、それでも庄太の連れであるので、薄々はその身分を覚ったらしく、余計な世話を焼くなというような反抗の顔色も見せなかった。鶏をかかえている男は丁寧に答えた。
「それがおまえさん。今も云う通り、けさ初めてじゃあない。これまでにも度々盗んでいるんですからね。いや、まだここばかりじゃあない、この頃この近所でも、たびたび飼い鶏を取られるんですよ」
 寺内の鶏をぬすみ、人家の鶏を盗み、その悪事重々の奴であるから、そのくらいの仕置は当然であるというような彼の口ぶりであったが、それならば猶更のこと、土地の者がわたくしの刑罰を加えるのはよくないと半七は思った。それを聴くと、今まで俯向いていた中間は俄かに顔をあげた。
「やい、やい、こいつら。さっきからおとなしくしていれば、図に乗って何を云やあがるんだ」と、かれは呶鳴った。「おれが取ったのはその鶏一羽だ。これまでに一度だって取った覚えはねえ。まして手前たちの飼い鶏なんぞは誰が知るもんか。きょうはおれ一人だから、こうして手籠めに遭っているんだ。部屋へ帰ったら、みんなを狩りあつめて来て片っ端から手前たちの頸を絞めて、骨は叩きにしてやるからそう思え」
「なにを云やあがるんだ。この狐野郎め」
 二、三人が又なぐりに行こうとするのを、半七は制した。
「まあ、待ちなせえ。疵でも付けると面倒だ。そこでお中間、おめえはまったくこの一羽を取っただけかえ」
「あたりめえよ。部屋へ持って帰って、みんなで鍋焼きにしようと思っただけよ」と、中間は大きい眼をひからせて云った。「一羽でよせばよかったのを、もう一羽と長追いをしたのが運の尽きだ。おれは軍鶏屋しゃもやの廻し者じゃあねえ、そこら中の鶏を取って歩くものか。ばかばかしい」
 かれは吐き出すように罵った。
「まあ、いい」と、半七はまた制した。「たとい一羽でも取った以上はおめえが悪い。まあ我慢するがいいぜ。わたしもここへ来たのが係り合いだ。まあ、なんとかみんなと話し合いをつけてみよう」
 そのなかで重立っているらしい三、四人を、すこしはなれた木のかげへ連れ込んで、半七は小声で注意をあたえた。いかに観音の寺内でも土地の者がみだりに刑罰を加えるのは穏当でない。万一あの中間が口惜くやしまぎれに舌でも食い切ったらどうするか。あるいは自分の部屋へ引っ返して大勢で仕返しに来たらどうするか。そんな事件が出来しゅったいした場合には、わたくしに刑罰を加えた人々は当然何等かの御咎めをうけなければなるまい。あれだけの仕置をしたらもう十分であるから、このままにゆるしてやるのが無事であろうと、彼は云い聞かせた。相手が相手であるので、かれらももうさからわなかった。中間は縄を解いて放された。
「こいつら、おぼえていろ」
 睨みまわして立ち去ろうとする中間を、半七は呼び止めた。
「おめえ、それがおとなしくねえ。悪いことをして威張る奴があるもんか。まあ、黙って引き取りなせえ」
 云いながら彼は中間の手に二朱の金をそっと握らせた。
「どうも済まねえ。いろいろ御厄介になりました」と、中間は顔の色を直して立ち去った。
「はは、これでいい。ついでと云っちゃあ済まねえが、ここまで来たからお詣りをして行こうよ」
 大勢の挨拶をうしろに聞きながら、半七は観音堂の段をのぼって行った。参詣も済んで、横手の随身門を出ると、庄太があとから追って来た。
「親分。つまらねえ散財をしましたね。みんなもよろしく云ってくれと云っていましたよ。だが、だんだん聞いてみると、まったく今朝ばかりじゃあねえ、この頃はたびたび鶏を取っていく奴があるそうですよ。それだもんだからみんなも余計に憎しみをかけて、あんな仕置をするようにもなったんだから、親分にもよくその訳を云ってくれと頼んでいました」
「むむ」と、半七は笑いながらうなずいた。「あの中間はとんだ人身御供ひとみごくうだったな」
「そうでしょうか」
「一朱や二朱は惜しくねえ。これで大抵あたりも付いたようだ」
「あたりが付きましたかえ」
「だが、もう少し考えてみよう」と、半七はまた笑った。「まだほんとうにお膳立てが出来ねえからな」
 庄太に案内させて、半七はまず馬道の鼻緒屋をたずねた。娘のお捨に逢って、このあいだの晩彼女が嚇されたという若い女の年頃や風俗についていろいろ詮議したが、お捨はまだ十五六の小娘で殊にこわい方が先に立って一生懸命に逃げ出してしまったので、その女が凄い顔をして牡丹のような真っ紅な口をあいたという以外に、その正体を確かに見とどけている余裕がなかったので、その詮議は結局不得要領に終った。しかし彼女が見たところでは、その女はどうも跣足はだしであったらしいというのであった。
 ここの詮議はそれだけにして、半七は更に同町内の酒屋をたずねた。

     三

 酒屋で帳場に居あわせた亭主が庄太の顔をみて丁寧に挨拶した。ふたりは店に腰をかけて、下女のお伝が何者にか啖い殺された当夜のありさまを聞きただしたが、これも薄暗がりの時刻であり、且は不意の出来事であるので、亭主は二人が満足するような詳しい説明をあたえることは出来なかった。しかしお伝は二年越しここに奉公している正直者で、今までに浮いた噂などは勿論なかったと亭主は証明した。
 二人はここを出て、山の宿の小間物屋をたずねたが、これは誰も知らないあいだの出来事であるので、そこの女房がどうして殺されたのか、まるで判らなかった。
「親分。しようがありませんねえ」と、庄太はそこの店を出て、汗をふきながら舌打ちした。
「まあ、あせるな。これでも眼鼻はだんだんに付いて行く。これからおめえの隣りへ行こう」
 庄太は自分の住んでいる露路のなかへ半七を案内すると、となりのお作の家には近所の人達があつまっていた。庄太の女房も手伝いに行っていたが、半七の来たのを知ってあわただしく帰って来た。お作のとむらいは今日の夕方に出るはずだと彼女は話した。
 半七は更に庄太に案内させて、露路の奥を見まわった。庄太の云った通り、ぬけ裏のゆき止りを竹垣でふさいであったが、その古い竹はもうばらばらにくずれかかっていた。そばには共同の大きい掃溜はきだめがあって、一種の臭いが半七の鼻をついた。こういう露路の奥の習いで、そこらの土はじくじく湿しめっているのを、半七は嗅ぐように覗いてあるいた。家へ帰ると庄太はささやいた。
「お作のおふくろを呼んで来ましょうか」
「そうさなあ、こっちへ来て貰った方が静かでいいな」と、半七は云った。
 お作の母はすぐに隣りから呼ばれて来た。ひとり娘をうしなったお伊勢は眼を泣きはらして半七のまえに出た。かれは五十に近い大柄の女であった。
「どうも飛んだことだったね」と、半七は一と通りの悔みを云った上で、あらためて訊いた。「そこで早速だが、ゆうべのことに就いてなんにも心あたりはねえのかえ」
 お伊勢は鼻をすすりながら昨夜の顛末てんまつを訴えたが、それは庄太の報告とおなじもので、別に新らしい事実を探り出すことは出来なかった。半七はまた訊いた。
「その女の人相というのはちっとも判らなかったかえ」
 その女が白地の手拭をかぶって、白地の浴衣を着ていたのは、お伊勢もたしかに認めたが、そのほかのことは夜目遠目でやはりはっきりとは判らなかった。しかしそれが若い女であるらしいことは、彼女もお捨の申し立てと一致していた。
「その女は跣足はだしだったかえ」
「はい、どうもそうらしゅうございました」と、お伊勢は思い出したように云った。
 年のわかい、白地の浴衣を着た跣足の女、それだけのことはもう疑う余地がなかった。半七はその上にもう少し何かの手がかりを得たかったが、相手はとかくに涙が先に立つので、しどろもどろのその口から何も聞き出せそうもないと諦めて、半七はそのままお伊勢を帰してやることにした。
「どうぞ娘のかたきをお取りください」
 お伊勢はくり返して頼んで帰った。やがてもうひるに近くなったので、半七は庄太を誘い出して近所の小料理屋へ飯を食いに出た。
「どうですえ、親分。お調べはもうこんなものですか」と、庄太は酌をしながら小声で訊いた。
「どうも仕方がねえ。差し当りはこのくらいかな」と、半七も小声で云った。「そこで、おれの考えじゃあ、この一件は二つの筋が一つにこぐらかっているらしい。まず人を啖い殺すやつは獣物けだものだな」
「そうでしょうか」
「人を啖うばかりじゃあねえ。そこらで鶏がたびたびなくなるという。勿論、鬼娘が見あたり次第に相手を取っ捉まえて、人間でも鳥でも構わずに、その生血いきちを吸うのだと云えばいうものの、どうもそうとは思われねえ。ちょいと、これをみてくれ」
 半七は袂をさぐって、鼻紙にひねったものを出すと、庄太は大事そうにあけて見た。
「こんなものをどこで見付けたんですえ」
「それは露路の奥の垣根に引っかかっていたのよ。勿論、あすこらのことだから何がくぐるめえものでもねえが、なにしろそれは獣物けだものの毛に相違ねえ」
「そうですね」と、庄太は丁寧に紙をひろげて、その上にうず巻いているような五、六本の黒い毛を透かすように眺めていた。
「まだそればかりじゃあねえ。垣根の近所には四足よつあしのあとが付いていた。と云ったら、犬や猫のようなものは幾らも其処らにうろついているというだろうが、おれはちっと思い当ることがあるから、こうして大事に持って来たんだ」
 半七は彼の耳に口をよせてささやくと、庄太は幾たびかうなずいた。
「そうかも知れませんね。ところで、鬼娘の方はなんでしょう。やっぱり気ちがいでしょうかね」
「気ちがいかなあ」と、半七は相手をじらすように笑っていた。
「だって、おまえさん。猫じゃ猫じゃでも踊りゃあしめえし、手拭をかぶって、浴衣を着て、跣足でそこらをうろうろしているところは、どうしても正気の人間の所作しょさじゃありませんぜ。ねえ、そうでしょう」と、庄太は少し口を尖らせた。
「それもそうだが、まあ聴け」
 半七は再び彼にささやくと、庄太はだんだんに顔を崩して笑い出した。
「なるほど、なるほど、いや、どうも恐れ入りました。きっとそれです、それに相違ありませんよ」
「ところで、それについて何か心あたりはねえかな」
 庄太は更に顔をしかめて考えていたが、やがて両手をぽんと打った。
「あります、あります」
「あるかえ」
「もし、親分。こういうお誂え向きのがありますぜ」
 今度は庄太がささやくと、半七はほほえんだ。
「もう考えることはねえ。それだ、それだ」
 二人は手筈をしめし合わせて一旦別れた。半七はそれから小梅の知己しりあいをたずねて、夕七ツ(午後四時)を過ぎた頃に再び庄太の家をたずねると、となりの葬式の時刻はもう近づいて露路のなかは混雑していた。ふだんから評判のよくない母子ではあったが、それでも近所の義理があるのと、もう一つにはお作の横死おうしが人々の同情をひいたとみえて、見送り人は案外に多いらしかった。庄太の家では女房が子供を連れて会葬することにして、庄太は半七の来るのを待っていた。
「もう帰ったのか」
 云いながら半七はうちへはいると、庄太は待ち兼ねたように出て来て、すぐに半七を招じ入れた。
「さっき帰って来て、待っていましたよ」と、庄太は誇るように云った。「まったく親分の眼は高けえ、とおに九つは間違いなしですよ。大抵のことはもう判りました」
「そりゃあお手柄だ。やっぱりおれの鑑定通りだな」
「そうです、そうです」
 かれが摺り寄ってささやくのを、半七は一々うなずきながら聴いていた。
「そうすると、さっきの約束通りにするかな」
「そうするよりほかにしようがありますまい」と、庄太も云った。「なにしろ確かな証拠を握らないじゃあ、あとが面倒ですからね」
「まったくだ。あとで世話を焼かされるのも困るからな。じゃあ、仕方がねえ。いよいよ一と汗かくかな」
「それほどのこともありますめえ」
「そうでねえ。むこうには怖ろしい味方が付いているからな」と、半七は笑った。「だが、まだ早い。隣りのとむらいのかど送りでも済ませてから、まあ、ゆっくり出掛けるとしようぜ」
「ええ、暗くなるにはまだがありますからね。腹ごしらえでもして、ゆっくり出かけましょう」
「ちげえねえ。戦場だからな」
「鰻でも取りますか」
「それがよかろう」
 鰻の蒲焼を註文して、二人は早い夕飯を済ませると、七月の日もかたむいて来た。露路のなかはひとしきり騒がしくなって、となりの送葬とむらいもとどこおりなく出てしまうと、半七ひとりを残して庄太は再びどこへか忙がしそうに出て行った。あたりはだんだんに薄暗くなって、どこからとも無しに藪蚊のうなり声が湧き出して来たので、半七は舌打ちした。
「庄太の奴め、そそくさして、蚊いぶしを忘れて出て行きゃあがった。とてもやりきれねえ。そこらに道具があるだろう」
 半七は台所へ行って、土焼きの豚をさがし出して来た。更にそこらを捜しまわって、ようやく蚊いぶしの支度をしたところへ、一人の男がたずねて来た。
「庄太さん。内ですかえ」
「あい、あい」と、半七はすぐに起って出た。「おまえさんは庄太にたのまれて来なすったんじゃあねえかね。わたしは半七ですよ」
「親分さんですか」と、男は会釈えしゃくした。「さっき庄太さんから話があったもんですから」
「どうも御苦労さん。おまえさんに少し手を貸して貰わなけりゃあならねえことが出来たんでね。まあ、おかけなせえ」
 この男にも何かささやくと、かれは笑いながらうなずいた。
「大丈夫かね」と、半七は念を押した。
「まあ、うまくやりましょう」
「ここにいて藪蚊に責められているのも知恵がねえ。おまえさんが丁度来たから、もうそろそろ出かけるとしようか」
 形ばかりに戸をひき立てて、内は留守だからと隣りの人にことわって、半七はかの男と共に露路を出ると、表通りはもう夜になっていた。かねて打ち合わせがしてあるので、半七はなるべく往来の少ないところをえらんで、善竜院という寺の角に立った。この寺には弁天がまつってあるので近所でも知られていた。ここらは一種の寺町ともいうべきところで、両側に五、六軒の寺がむかい合っていて、古い練塀ねりべいや生垣の内から大きい樹木の枝や葉の拡がっているのが、宵闇の夜をいよいよ暗くしていた。そこらの大どぶではもう秋らしい蛙の声が寂しくきこえた。半七は頬かむりをして寺の門前に立つと、連れの男は折り曲がった練塀の横手にかくれて、蜘蛛のように塀ぎわに身をよせていた。
 吉原通いらしい鼻唄の声を聴きながら、二人はここに半刻ほども待ち暮らしていると、暗いなかから人の来るような足音が低くきこえた。勿論、今までに幾人も通ったが、北の方からきこえて来るその足音がどうも待っているものであるらしく直覚されたので、半七はしわぶきの合図をすると、塀の横手からもその返事があった。
 北から来る足音はだんたん近づいて、それは素足で土を踏んでいるようで、極めて低いひそめいた響きであったが、耳のさとい半七にはよく聴き取れた。注意して耳をすますと、それは人の足音ばかりでなく、四つ這いに歩く獣の足音もまじっているらしかった。何分にも暗いので、半七は星あかりに透かしながら声をかけた。
「もし、姐さん」
 人はなんにも答えなかったが、暗い底で俄かにけものの唸るような声が低くきこえた。半七は再びせき払いをすると、塀の横手から彼の男が跳り出た。かれは太い棒を持っているのであった。暗いなかで獣のえる声がけたたましく聞えた。同時にここへ駈けてくる草履の音が聞えた。
 逃げようとする女は、半七に曳き戻されて、寺の門前に捻じ伏せられた。人と獣との闘いもやがて終ったらしく、寺町の闇は元の静けさにかえった。
「どうした」と、半七は声をかけた。「石橋山いしばしやまの組討ちで、ちっとも判らねえ」
「大丈夫です」
 それは庄太の声であった。

     四

 灯のあかるい往来へ引き摺ってゆかれたのは、白地の浴衣を着た二十歳はたちあまりの女であった。かれはさのみみにく容貌きりょうではなかったが、白く塗った顔をわざと物凄く見せるように、その眼のふちを青くぼかしていた。口唇くちびるにも歯齦はぐきにも紅を濃く染めて、大きい口を真っ紅にみせていた。とんだ芝居をする奴だと、かれは半七に笑われた。
 自身番へ引っ立てられた時、かれは狂女をよそおってその場を逃がれる積りであるらしかったが、あとからの男と庄太とが大きい黒犬の死骸を引き摺って来たので、かれの狂言は結局不成功に終った。
 彼女はお紺というけものつかいであった。子供のときから熊や狼をつかうことを習いおぼえて、以前は両国の観世物小屋に出ていたこともあった。方々の寺内で縁日の小屋掛け興行に出たこともあった。近在や近国の祭礼などに出稼ぎに行ったこともあった。本職の芸当はなかなか上手であったが、かれはいろいろの悪い癖をもっていた。女に似あわない大酒は、こういう商売の者として大目おおめにも見られたのであるが、そのほかに誰にもゆるされないのは、かれの手癖の悪いことであった。それは殆ど天性ともいうべきで、お紺は手あたり次第に楽屋じゅうのものを何でも盗んだ。金は勿論であるが、櫛でもかんざしでも、煙草入れでも、眼に触れるものは何でも逃がさなかった。それも最初のうちはあやまって堪忍されたのであるが、あまりにそれが度重なるので、ほかの芸人がすべて彼女と一座するのを嫌うようになった。結局かれは香具師やしのなかまからかまわれて、どこの小屋へも出ることが出来なくなった。
 お紺はよんどころなく商売をやめて、そこらを流れ渡っているうちに、吉原の或る女郎屋の妓夫ぎゆうと一緒になって、よし原の堤下どてした孔雀長屋くじゃくながやに世帯を持つことになった。亭主も元より身持のよくない男であったが、お紺は亭主を持っても大酒をやめないで、その内証はひどく苦しかった。夏が過ぎても、かれは白地一枚のほかには洗い替えの浴衣すら持たなかった。近所となりの者もお紺の家とは附き合わないようになった。
 こうなると、かれの悪い癖はいよいよ増長して来た。お紺は方々の店先で手あたり次第に品物を掻っさらった。しかも或るところでそれを見つけられて、店の者に袋叩きにして追い払われたことがあったので、そのにがい経験から彼女は一種の味方を作ることを考え出した。彼女はそこらにさまよっている野良犬のなかで、性質の獰猛どうもうらしいのを二匹も拾いあげた。あらい獣を仕込むのに馴れている彼女は、巧みに二匹の犬を教えて、自分の仕事に出る時にはかならず一匹ずつを連れてゆくことにした。昼では人目に立つので、かれは日の暮れるのを待って犬を連れ出すと、犬は教えられた通りに、主人のあとを追って行った。それも人の注意をひかないように、主人より、二、三間ぐらいははなれてゆくのを例としていた。熊や狼をあつかっていたお紺に取っては、犬をらすのは容易であった。二匹の犬はなんでも素直に主人の命令をきいた。
 彼女はこういうことに一種の興味をもっているので、更に自分の顔を怪しくみせることを考えた。それは自分が仕事をする場合に、ひとをおどすためでもあった。万一取り押さえられた場合に狂女を粧って巧みに逃がれようとする用心のためでもあった。彼女は怪しく化粧した顔を手拭につつんで、わざと跣足であるいた。そうして、彼女のゆくところには、必ず一匹の獰猛な犬が影の形にしたがうが如くに付いて行った。
 鼻緒屋のお捨はそれに嚇されたのであったが、時刻は宵で、しかも往来のまん中であったので、彼女は単にその弱い魂をおびやかされたに過ぎなかったが、酒屋のお伝は若い命をうしなったのである。お紺が酒屋の裏口をうかがって、その物置から何か持ち出そうとするところへ、あたかもお伝が来あわせて、かれを怪しんで取り押えようとしたので、忠実な犬はたちまち相手に飛びかかって主人を救った。犬がその敵に噛みつくのは、いつも喉笛の急所であるべく教えられていた。第二の生贄いけにえとなった小間物屋の女房も、やはり同じ運命であった。しかも第三のお作の場合は、見咎められたままにお紺がおとなしく立ち去ってしまえばよかったのであるが、彼女はお作が白い肌をあらわして素っ裸で行水をつかっている姿をみて、一種の残酷な興味を湧かせた。かれは血に飢えている犬をけしかけて、お作を咬ませたのであった。そうして、自分の運命をも縮める端緒たんちょを作り出したのであった。
 そのほかにもお紺は所々で盗みを働いていたが、幸いに人にも見咎められなかったのである。そこらで鶏をぬすんだのも、やはり彼女の仕業であった。その申し立てによると、お紺も最初は鶏に眼をつけていなかったが、ある時にその犬が一羽の鶏を咬んだのをみて、なんでも盗むことに興味を持っている彼女は、その以来、犬をつかって鶏を捕らせることをも思い付いたのである。その鶏は自分も食ったが、多くは千住あたりの鳥屋へ売ったと白状した。かれは更にその犬をつかって、猫を捕らせることをも考えているうちに、自分が半七の手に捕えられてしまった。
 お紺は引きまわしの上で、千住で獄門にかけられた。三人までも人の命をほろぼしているのであるが、ひとりも自分が手をおろしたのではない。いずれも犬を使ったのであるということが諸人の好奇心をそそって、それが江戸じゅうの評判になった。江戸の町奉行所が開かれて以来、こんな人殺しの記録はかつてなかった。
 かれが引きまわしになる時に、一匹の犬も頑丈な口輪をはめられて、その馬のあとからかれて行った。しかし侍の刀で畜生の首を斬ることはしなかった。犬は主人の首の晒されている獄門台の下に生きながら埋められて、その首だけを土の上に晒されていた。かれは勿論幾日かの後に主人のあとを追ったが、その後も刑場あたりでは夜ふけに犬の悲しい啼き声がきこえるとかいう噂が伝えられて、通行の人々を恐れさせた。お紺の亭主はなんにも知らないというので、この事件に関する重い仕置を免かれたが、平生の身持よろしからずという罪名のもとに、入牢じゅろう百日の上で追放を申し渡された。

「まあ、こういう訳なんです」と、半七老人は一と息ついた。「わたくしも初めは何がなんだか見当が付かなかったんですが、浅草へ出かけての鶏の一件にぶつかってから、どうもその鶏の一件と鬼娘の一件とが何かの糸を引いているらしいと思い付いたんです。それからだんだん調べて行った挙げ句に、なんでも人間が犬を使ってやる仕事だろうと睨んだので、庄太にそれを相談すると、吉原の堤下にお紺という獣物けだもの使いで、たちのよくない女が住んでいるという。それから庄太を探索にやると、果たしてお紺の家には二匹の強そうな犬が飼ってあるという。もうそれで、種がすっかり挙がってしまって、案外に訳なく片付いたんです。捕物の方からいえば楽なんですが、唯そのお紺が犬を連れているというので少し困りました。そこで、庄太の近所にいる腕っ節の強い男を味方にたのんで、人間も犬も一緒に片付けてしまったんです。それでも其の場でぶち殺された犬は仕合わせで、生き残っていた方は飛んだむごたらしいお仕置をうけて可哀そうでした。これが江戸じゅうの評判になって、お紺は犬神使いだなどという噂もありましたが、種を割ってみれば今云ったようなわけで、唯その遣り口がめずらしいので、ちょっと世間をおどろかしただけのことですよ。でも、まあ、いい塩梅にその後再びそんな真似をする奴も出ませんでした。今日こんにちならば死骸の疵口をあらためただけで、人間が咬んだのか、獣が咬んだのか、そのくらいのことはすぐ鑑定が付くでしょうが、昔はそれがよく判らなかったんですね。それだけに探索の方も余計に骨が折れたんですよ」

底本:「時代推理小説 半七捕物帳(二)」光文社文庫、光文社
   1986(昭和61)年3月20日初版1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:曽我部真弓
1999年9月17日公開
2004年2月29日修正
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