折竹孫七が、ブラジル焼酎しょうちゅうの“Pingaピンガ”というのを引っさげて、私の家へ現われたのが大晦日みそかの午後。さては今日こそいよいよ折竹め秘蔵のものを出すな。このブラジル焼酎ピンガりながらアマゾン奥地の、「神にして狂うリオ・フォルス・デ・デイオス」河の話をきっとやるだろう……と私は、しめしめとばかりに舌なめずりをしながら、彼の開口を待ったのである。
 ところが、その予想ががらっと外れ、意外や、題を聴けば「水棲人」。私も、ちょっとしばらくは聴きちがいではないかと思ったほどだ。
 「君、そのスイセイとは、水にむという意味かね」
 「そうとも」と彼は平然とうなずく。しかし、人類にして水棲の種族とは、いかになんでもあまりに与太すぎる。こっちが真面目なだけに腹もたってくる。
 「おいおい、冗談もいい加減にしろ」と、私もしまいにはたまらなくなって、言った。「人間が、蛙や膃肭獣おっとせいじゃあるまいし、水に棲めるかってんだ。サアサア、早いところ本物をだしてくれ」
 すると、折竹はそれに答えるかわりに、包みをあけて外国雑誌のようなものを取りだした。Revistra Geografica Americanaレヴイストラ・ジエオグラフイカ・アメリカナ――アルゼンチン地理学協会の雑誌だ。それを折竹がパラパラとめくって、太い腕とともにグイと突きだしたページには、なんと、“Incola palustrisインコラ・パルストリス”沼底棲息人と明白にあるのだ。私は、折竹の爆笑を夢の間のように聴きながら、しばしは茫然たる思い。
 「ハハハハハ、魔境やさんが、驚いてちゃ話にもならんじゃないか。どれ、この坊やをおろして、本式に話すかね」
 折竹の膝には、私の子の三つになるのが目をみはっている。ターザンのオジサンという子供の人気もの――折竹にはそういう反面もある。童顔で、いまの日本人には誰にもないような、茫乎ぼうことした大味なところがある。それに加えて、細心の思慮、縦横の才を蔵すればこそ、かの世界の魔境未踏地全踏破という、偉業の完成もできたわけだ。その第五話の「水棲人」とは?……折竹がやおら話しはじめる。
 「ところで、これは僕に偶然触れてきたことなんだ。『神にして狂うリオ・フォルス・デ・デイオス』河攻撃の計画の疎漏そろうを、僕が指摘したので一年間延びた。そのあいだ、ぶらぶらリオ・デ・ジャネイロで遊んでいるうちに、偶然『水棲人インコラ・パルストリス』に招きよせられるような、運命にきこまれることになった。
 えっ、その水棲人とはどこにいるって※(疑問符感嘆符、1-8-77) まあまあ、かせずにブラジル焼酎ピンガでも飲んでだね、リオの秋の四月から聴きたまえ」
       *
 リオの、軟微風ヴエント・モデラードとはブラジル人の自慢――。
 棕梠しゅろ花のにおいと、入江の柔かな鹹風しおかぜとがまじった、リオの秋をふく薫風の快よさ。で今、東海岸散歩道パイラマールうきカフェーからぶらりと出た折竹が、折からの椰子やしの葉ずれを聴かせるその夕暮の風を浴びながら、雑踏のなかを丘通りのほうへ歩いてゆく。その通りには、「恋鳩ポムピニヨス・エナモール」「処女林マツトオ・ヴイルジェン」と、一等船客級をねらうナイトクラブがある。
 「ううい、処女林マツトオ・ヴイルジェンか。処女林なんてえ名は、どこにもあると見える」
 と彼は、蹣跚まんさんというほどではないが相当の酔心地よいごこち、ふらふら「恋鳩」の裏手口を過ぎようとした時に……。いきなり内部から風をきって、彼の前へずしりと投げだされたものがある。みると、一つのスーツケース。とたんに奥で、かんだかい男のどなり声がする。
 「さあさあ、出てけ出てけ。君みたいな芸なしトーロに稼がれてちゃ、沽券こけんに係わるよ。さあ、出ろヴアツ・セ・エンポーラ!」
 皆さんは、よくこうした場面シーンを映画でご覧になる。お払い箱というときは襟首えりくびをつままれて、腰骨を蹴られてポンとほうりだされるが、これも挙措きょそ動作がひじょうな誇張のもとに行われる、南米のラテン型の一つ。おやおや、ここの芸人が一人お払い箱になるらしい。どんな奴だ、さだめし肩をすぼめてしょんぼりと出てくるだろうと――多少酔いも手伝った折竹が、そのスーツケースを手にもって、いま現われるかと入口を見守っていたのだ。
 まったく、こうしてたたずんだ数秒間さえなければ、かの怪奇の点では奥アマゾンをしのぐといわれる、水棲人インコラ・パルストリスのすむあの秘境へはゆかなかったろうに。Esteros de Patinoエステロス・デ・パチニヨ―すなわち「パチニョの荒湿地」といわれる魔所。
 まもなく、その入口をいっぱいにふさいでしまいそうな、大男が悠然と現われた。舗道へ降りると、ちょっと足もとのあたりを一、二度見廻していたが、すぐ折竹に気がついたらしく、
 「やあ大将カピトーン、拾っといてくれたね」
 「番をしてたよ。どうせ、出てけ――を喰わされるようじゃ、だいじな財産もんだろう。さあ、たしかにお渡ししたよ」
 しかし、此奴こいつがと思うとじつに意外な気持。猫のように摘みだされた失業芸人とは、およそ想像もされぬ態の人物。肩付きのたくましさはかんぬきのよう、十分弾力を秘めたらしいひき締った手肢てあし、身長、肉付き、均斉きんせいといい理想的ヘルメス型の、この男には男惚れさえしよう。
 それに、服装なりをみればおそろしい古物――どこにもクラブ稼ぎの芸人といったようなところはない。違ったか、渡してしまったしとんだことをしたと、折竹も気になってきて、
 「だが、たしかに君のだね」
 「ハッハッハッハ、大将は聴いてたんだろうが」
 とその男はカラカラと笑うのだ。
 「あの、俺に出てけ出てけといった、キイキイ声の奴な、あれが、ここの支配人でオリヴェイラってんだ。俺は、あのチビ公に腰を折ってだね、どうか御支配人、ながい目で頼む。きっと、今夜から大受けにしてみせると、言ったんだが聴いちゃくれない。もっとも、理屈は向うにあるだろうがね」
 陽気で、早口で、どこをみても、お払い箱早々というような、行き暮れたところがない。顔も、駄々っ子駄々っ子してダグラスそっくり。声まで彼に似て、豪快に響いてくる。
 「俺は、女形おやまをやれる軽口師ガルガーンタという触れこみで、つい四日ほどまえ『恋鳩』に雇われた。初舞台――。ご婦人の下着などを取りだして、すっきりと笑わせる。と、行ってくれりゃ何のこたあなかったよ」
 「引っ込め――か」
 「いわれたよ。しかし、ものというのは、とりようだと思う。俺がずぶの素人でいてやかまし屋の『恋鳩』の舞台を、よく三晩も保ったかと思えば、われながら感心するよ」
 「驚いた」と折竹も呆れかえって、
 「君は、軽口師ガルガーンタのガの字も知らんのじゃないか」
 「そうとも、窮すればなんでもするよ。浪人数十回となれば、女中にもなれる」
 そう言って、とっぷり暮れた夜気を一、二回吸い、しばらく、空の星をつくねんとながめていたが、急に、なにかに気付いたらしく、くるっと振りむいた。彼は、ぜひ大将に話したいことがある。それには、ここじゃ何だから彼方あっちでといって、ぐいぐい折竹を急き立てて、向うの小路へ入っていった。
 「なんだね」
 「じつは、大将にこれを見て貰いたい」とポケットからだしたその男の掌には、キラキラ光る粒が二、三粒転がっている。手にとると、まだ磨かれていないダイヤの原石。大きさは、まあ十カラットから二十カラットぐらいだろうが……、それよりも、掘りだしたままの土の手触りが、折竹にはじつに異様であった。彼は、手にとった石をあっさりと返して、
 「君、これはったやつかね。それとも脱税品コントラバンドか」
 「マア、や後のほうだろう。ところで、見受けたところ大将は、日本人ジャポネーズらしい。日本人でも、サントスやサン・パウロにいるならお移民コロノさんだが、リオにおいでのようじゃ大使館だね。まったく、どこの税関でもおかまいなしに通れる、結構なご身分というもんさ。こっちも、そういう御仁ごじん相手でなけりゃ話しても無駄だし、また、大将なら乗ってくれるだろう。どうだ、いい値で売るが、いくらに付ける」
 しかしその時、折竹は一つの石をじっと見詰め、じつにブラジル産にしてはまれともいいたい、その石の青色に気を奪われていた。小石ならともかくこうした大型良品ボンにあって、美麗な瑠璃るり色を呈すとは、じつに珍しい。ブラジル産にはけっしてないことである。
 「君、これはブラジルのじゃないね。南阿アフリカかね、英領ギニアかね」
 「どうして、泥のついた掘りたてのホヤホヤだ。といって、ブラジルでもなしオランダ領ギアナでもない。こいつは、おなじ南米でも新礦地しんこうちのもんだ」
 出様によっては、なにかそれにいて言い出したかもしれないが、あいにく折竹はダイヤなどというものに、熱や興味をいだくような、そんな性格ではない。その男も、折竹の態度にアッサリとあきらめて、もとのポケットへポンと突っこんでしまったのだ。
 「これはね、じつは俺には宝のもち腐れなんだ。この国は、脱税品がじつにやかましい。うっかり持っていようものなら、捕まってしまうんだよ」と、いよいよさようならというようにニッコリ笑い、一、二歩ゆきかけたが、立ちどまって空を仰いだ。おおらかに、胸をはりうそぶくように言う。
 「はてさて、俺も追ん出されて行き暮れにけり――か。颯爽さっそうと、乞食もよし、牧童ガウチョもよし」
 男の魅力が、時として女以上のものである場合がある。ここでも、これなりこの奇男子と別れたくないような気持が、折竹にだんだん強くなってきた。
 警抜なる挙措きょそ、愛すべき図々しさ。なんという、スッキリとした厭味のないやつだろう。しかし、この男が何者かということは、ほぼ彼に想像がついていたのだ。泥坊か、密輸入者か故買者けいずかいか。どうせ、素姓のしれぬダイヤなどを持つようではそんなたぐいだろうが、とにかく、なんにもせよ気に入った奴だと、一度打ち込めば飲ませたくなるのが、折竹のような生酔いの常。
 「どうだ、一杯やるが付き合うかね」
 「酒※(疑問符感嘆符、1-8-77)」と、その男は飛びあがるような表情。「せめて、飯とも思っていたのに、酒とは有難い。有難いオブリガード。大将、このとおりだ」
 それから、リオ・ブランコ街の一料亭へいったのが始まり、それが、水棲人インコラ・パルストリスに招かれる奇縁の因となるのである。

 その男は、カムポスというパラグァイ人。詳しくは、カムポス・フィゲレード・モンテシノスという名だ。首府アスンションの大学をでてから牧童がはじまりで、闘牛士、パラグァイ軍の将校と、やったことを数えれば、とにかく、五行や六行は造作なくとろうという人物。それが、ぐいぐいあおりながら、虹のような気焔きえんをあげはじめる。
 「人間は、ちいさな機会チャンスなどに目をくれていたら、大きなのを失うよ。誰にも、一生に一度はやってくるでつかいやつを、俺は捕まえようってんだ。これはね、女にだって同じことだろうと思うよ。男が、生涯にれる女はたった一人しかない。ドン・ファンや、カザノヴァが女をあさったね。だがあれは、ひとりの永遠の女性を見付けるためだったと――俺はマアそういうふうに解釈している。つまり、俺のは最上主義なんだ」
 「それが、君の放浪哲学だね。些細な、富貴、幸福、何するものぞという……」
 「そうだ。時に、しゃべっているうちに気が付いたがね、今夜は、“Bichoビッショ”の発表の晩じゃないか」
 “Bichoビッショ”というのは、ブラジル特有の動物富籖とみくじである。蟻喰いタマンツァの何番、山豚ポルコ・デ・マツトオの何番というように、いろんな動物に分けて番号がつけられている。その、当り籖が今宵の十二時に、ラジオを通じていっせいに発表されるのだ。それから二人は、パゲタ島からにおう花風のなかで、動物富籖ビッショの発表を待ちながら酒杯を重ねていった。折竹は、もう泥のように酔ってしまっている。
 「ううい、動物富籖ビッショを一枚、てめえ大切候だいじそうに持ってやがって……。おいカムポス、俺はなんだか、可笑しくって仕様がねえ」
 「ハッハッハッハッハ、なけなしの俺が一枚看板みたいに、動物富籖をもっているのが、そんなに可笑しいか。だが、俺だって当ると思っちゃいないよ。うらないだ。未来をぼくすには、これに限るよ」
 やがて、十二時が近付くにつれ、しいんとなってくる。おそらく、動物富籖をもたぬものは一人もあるまいと思われるほど、この富籖には驚くべき普遍性がある。やがて、ラジオから当り番号が流れはじめた。そのうち、最高位の五万ミルの当り籖が、カムポスの持っているガラガラ蛇札カスカヴェルのなかにあるという、声に続いて番号の発表。五九六二一番。――とたんに、カムポスが、ううとうめいたのである。
 「どうした、カムポス、当ったのかい」
 「一番ちがい、大将、これをみてくれよ」
 みると、カムポスの札はたった一番ちがいで、五九六二〇番だ。たった一番――。むしろ酒よりもじぶんの運命に酔ったよう、黙って、カムポスはじっと卓を見つめている。折竹は、もうその時は昏々こんこんとねむっていたのだ。
 そんな訳で、翌日目をましたのは日暮れ近くであった。みると、寝台のそばにカムポスがいて、じつに器用な手付きでズボンをつくろっている。こいつ、昨夜のあのカムポスじゃないか。してみると、じぶんはカムポスに背負われてきたのだろう。そうそう、昨日の籖は一番違いだったっけがと……じっと目をつぶるとゆうべの記憶が、まぶたの裏へ走馬燈のように走りはじめる。そこへ、カムポスがにこっと笑って、
 「兄弟アミーゴ、目が醒めたかね」
 きょうは、昨夜は大将だったのが、兄弟アミーゴに変っている。そして針を手馴れた手付きで、スイスイと抜きながら、「どうだい、世帯持ちのいい、女房を持ちゃこんなもんだよ。これからは、みんなこんな工合に、俺が繕ってやる」
 「上手うまいもんだね」
 「そうとも、お針だって料理だって、出来ないものはないよ。俺は、コルセットの紐鉤ちゅうこうに新案さえもっている」
 この、奇抜な男が泥坊にもせよ、折竹はけっして厭がらなかったろう。いまは、意気投合というか絶妙な気合いで、二人の仲が完全に結ばれてしまったのである。たぶんカムポスは当分の食客を、折竹のいるこの室ですることになるだろう。とその夜、二日酔退治にまた酒となった席上。
 「じつは、大将に聴いてもらいたい話がある」と、なにやらカムポスが真剣顔まがおに切りだした。
 「それはな、ゆうべの動物富籖ビッショの一番違いのやつさ。あれから、俺はとっくりと考えてみた。するとだよ。あの当り籖はガラガラ蛇札カスカヴェルの、五九六二一番、俺の札が、一番少なくて六二〇番。と、そのもう一番で上りという意味から考えて……なんだか俺はいま途方もないような、生涯に一度ともいう大運に近付いているんじゃないか――とマアそんな風に考えられてきたのだ」
 「かつぐじゃないか」と折竹は面白そうに笑って、「だが、俺の国の判じようだと反対になるがね」
 「なんでだ」
 「つまり、俺の国でいう一番違いという意味は、運の、じき側までゆくがどうしても追い付けない、その、たった一番だけの距離をどうしても詰められない、とうとう、追っ付けずに一生を終ってしまうという、ごくごく悪い意味になるよ」
 「チェッ、縁起でもねえ」と、舌打ちはしたが自信はくずれぬばかりか、カムポスが大変なことを言いだしたのだ。
 「とにかく、俺は俺の考えをあくまでも押し通す。そういう気力には、逃げようとする運までも、寄ってくるというもんだ。で、大将にたいへんなお願いだがね、俺は、ここでいちばん運試しをしようと思う。一番先にある運をつかまえてやろうと思うんだ」
 「それには――」
 「大将に金を借りる。それで、俺は今夜、賭博場キヤジノへゆく」
 折竹は、しばらくカムポスの顔をじっと見まもっていた。鉄面皮というか厚かましいというか、しかし、こういうことをいささかの悪怯わるびれさもなく、堂々と、些細ささいの渋ろいもなく言いだす奴も珍しい。気に入った。こりゃ、事によったらカムポスに運がくる。これで、この泥坊が足を洗えりゃ、俺は一つの陰徳をしたというもんだ。
 なにしろ、独り身で金の使いようもないうえに、週給五百ドルをもらう折竹のことであるから、たかが、千ドルや二千ドルなら歯牙しがにかけるにも当らない。よろしいと、彼はカムポスの申出でを、きっぱりと引きうけてやった。
 リオでは、「恋鳩ポムピニヨス・エナモール」の賭博場キヤジノが最大である。折竹は、そこへ兼ねて紹介されていたが、ここで、困ったのがカムポスの処置。なにしろ、軽口師でございと大嘘をいって、あげくの果に追いだされた彼のこと。しかし、カムポスはご心配なくと、自信あるのか洒々しゃあしゃあたるものだ。まず、鼻下の細ひげを剃り落しもみあげを長くして、これなら、三日軽口師ガルガーンタの「ナリシスのカムポス」とは、誰がみようと分るまいというのである。そうして、その翌夜「恋鳩」へいった。
 歓楽地、リオへ遊ぶ一等船客級相手のナイトクラブ――。財布の底まで絞りにしぼって、オケラになったらまたお出でというのが、此処だ。したがって、リオの歓楽中いちばん暗黒のものが、賭博場キヤジノをはじめ洩れなくそろえられている。
 「君、一丁賭くかヴオツセ・ケル・アポスタール」そんな声が、はやとっ突きの玉転がし場ポーチャからも響いてくる。婦人の、キラキラかがやくまっ白な胸、脂粉、歌声、ルーレットの金掻き棒ロードの音。二人が、内部のキャバレーへはいると、パッと電気が消える。
 ※(歌記号、1-3-28)これは白いエステ・エ・ブランコ 白いは肌ペルレ・エ・ブランコ
 と、舞台の歌声とともに緞帳どんちょうがあがるが、だんだん、その白いというのが肢だけでなくなるというのが、「恋鳩」のナイトクラブたるところだ。それから、キャバレーを出てちょっと口を湿しているうちに、ふいにカムポスがなにを見たのか、ボーイを呼びとめてあれあごをしゃくって見せた。
 「君、あのご婦人はなんて方だね」
 ボーイは、ちょっとその方向をみるや、にこりと笑って、
 「さすが、旦那さまはお目が高ういらっしゃる。あの、ちょっと小柄な金髪ブロンドでございましょう。お計らいなら手前致しますが、なんせい、美しいだけにエー・ボニートちょっと高価うございますよマース・カーロ
 すると、カムポスはそれをさえぎって、違うとしかるように言った。
 「あれじゃない。ホラ、あの右にいる黒いドレスの方だ。あれは、まさかここのじゃあるまい」
 「ほう、あの方」とチップを貰ったボーイが、にこっとなって言った。「あの方は、グローリァ・ホテルにご滞在中とかでございます。ここでは、たまにルーレットをおやりになるくらいのもんで、マアこんなところへ何でお出でになっているのかと、手前どもも不審に存じあげておりますんです」
 その婦人は、もう娘という年ごろではないかもしれぬ。面長おもながで、まさに白百合とでもいいたい上品な感じは、まったく周囲が周囲だけに際だって目立つのである。カムポスは、妙に熱をもったような瞳でじっとその婦人をみていたが、まもなく、運定めをする賭け場へはいっていった。

 そこは、人間の運がいろいろに廻転し、おい、奢るぞヴォツセ・ケル・マタ・ビツシヨ――と勢いよく出てくるのもあれば、曲ってるホージ・エ・アザール! なんて三リンボウが続きァがるんだと、いずれは、ピストルのご厄介らしくうちしおれてしまうものもある。しかし、カムポスは気込んだ甲斐かいもなく、みごと「平均バランス」という賭け札でスッテンテンになってしまった。
 それみろ、やっぱり一番違いの解釈はおれのほうが正しい――と、じっと、その意味をこめた目でカムポスをみたとき……思わず折竹がアッと叫ぶようなことが起った。カムポスが札を置くとスイと立ちあがって、諸君と、室中をめまわすように言ったのである。
 「僕は、諸君に折り入っての相談がある。見られるとおり、武運つたなくカラッ尻の態となったが、まだ僕は屈しようとはせぬ。それは、僕に抵当があったからだ。でまず、その品を諸君にお目にかけるとして、どうか、気に入った方は一勝負ねがいたい」
 といって、ポケットからつかみだしたものをザラザラッと音をたてて、カムポスが卓上に置いたのである。とたんに、室中のものがハッと息をのみ、思わず土まみれのままの燦爛さんらんたる光に……ダイヤ、しかも原石! と唖然あぜんたる態。
 「オイオイ、見てばかりいないで、なんとか言ってくれ」と無言の一座にごうが煮えてきたか、カムポスの声がだんだん荒くなってくる。「いいか、俺はこの五粒のダイヤを、売ろうてんじゃない。俺が一か、八かの抵当にしようというのは……ダイヤよりも土のほうなんだ。ねえ、この渓谷性金剛石土カスカリヨがサラサラッと泣いて、十億ビルリオン一兆億トリリオンのこんないい音が、欲張りどもに聴こえないかって言ってるぜ」と土をすくったりこぼしたりしながら、最後にカムポスが条件を言った。
 「ところで、俺はこの世界にまだ一度も現われていないダイヤの新礦地の所在を賭ける。それにはまず、諸君の誰かに値を付けてもらう。そして、それだけの金額のご提供をねがう。いないか※(疑問符感嘆符、1-8-77) 俺を負かして所在を吐かせるやつは」
 即座そくざに、室の隅のほうで五万ミルという声がしたが、カムポスはふり向きもしない。それから、五万五千、六万と小刻みにいって七万ミルまでくると、そこで声がハタとなくなってしまった。
 第一、風のごとくに現われたこの不思議な人物が、いかにダイヤをみせ渓谷性金剛石土カスカリヨを示すとはいえ、誰が十二分の信頼をこの男にかけようか。まったく、こうした場所に出入りをする富有階級の人間が、怪しさ半分欲半分で、まずこの程度ならばフイにしてもというのが、七万ぐらいのその辺だったのであろう。カムポスは、もっとこの話を現実付けねばならぬと思って、
 「じゃ、その礦地とはいったい何処どこにあるか。また、どうして俺がそれを見付けたかということを、これから諸君にかい摘んで話そう。しかしだ、今度は七万ミルなんてえ、しみったれは止めて貰うよ。もし、そんな声が出たらそれっきりにして、俺はサッサと帰るからね」
 それからカムポスは、賭博場キヤジノはいうに及ばず踊り場からキャバレーまでのほとんど「恋鳩ポムピニヨス・エナモール」の全客をあつめたと思われるほどの、黒山の人を相手に滔々とうとうと言いはじめたのである。その第一声が、まず人々に動揺をおこさせた。
 「ところで、その新礦地があるのは、“Gran Chacoグラン・チャコ”だ。どうだ、グラン・チャコとは初耳だろう」
 南米に、まだ開拓のおよばぬ個所が四つほどある。一つは、人も知る奥アマゾン、さらにオリノコ川の上流もその一つだろうし、また、南端へゆけばパタゴニア地方にも、恐竜の全化石などがでる未踏地がある。そうして、第四がこのグラン・チャコなのだ。
 南緯二十度から二十七度辺にまでかけ、アルゼンチン、パラグァイ、ボリヴィアの三か国にわたり、密林あり、沼沢しょうたくあり、平原ありという、いわゆる庭園魔境の名のグラン・チャコ。そこは奇獣珍虫が群をなしてみ、まだ、学者はおろか、“Mattacoマツタコ印度人インディアンでさえも、奥地へは往ったことがないというほどの場所だ。
 「で、そのグラン・チャコのなかに“Pilcomayoピルコマヨ”という川がある」とカムポスがよどみなく続けてゆく。
 「それは、フォルモサの密林の北をながれて、ながらくパラグァイ、アルゼンチン両国の境界争いの場所だったことは、諸君も知っておることだろう。たがいに、川の南北に陣どって堡塁フオルチネスをきずき、いまなお一触即発の形勢にある。では、その境界争いはなんのために起ったか。貪ろうとしたのか? それとも、条文の不備か? 何のためかというに、それは、このピルコマヨという化物のような、じつに不可解千万せんばんな川のために起っている。
 で諸君、諸君はこの川が貫いている“Esteros de Patinoエステロス・デ・パチニョ”すなわち『パチニョの荒湿地』なるおそろしい場所を知っているかね。いや、ブラジルには通り名がある。パチニョというよりも『蕨の切り株トッコ・ダ・フェート』――。俺はその名を知らんとはいわさんぞ」
 パチニョの荒湿地、一名「蕨の切り株トッコ・ダ・フェート」――それには、また人々の中がザッとざわめき立ったほどだ。読者諸君も、わらびの切り株とはなんて変な名だろうと、ここで大いに不審がるにちがいない。蕨といえば、太さ拇指おやゆびほども[#「拇指ほども」は底本では「栂指ほども」]あれば非常な大物である。それだのに、それが樹木化して切り株となる魔所といえば、それだけ聴いても、この「蕨の切り株トッコ・ダ・フェート」なる地がいかなるところか分るだろう。でまず、順序としてピルコマヨ川の、化物然たる不思議な性質から触れてゆこう。
 ピルコマヨには、元来正確な流路がない。土質が、やわらかな沖積層で岩石がなく、そのうえ、蛇行が甚しいために水勢もなく、絶えず溢れ絶えず移動し、いつも決まりきった川筋というものがない。まったく、きょうの川は明日はなく、明日の湿地は明後日の川と、転々変化浮気女のごとく、絶えず臥床がしょうをかえゆくのがピルコマヨである。そうしてその流域のなかでもいちばん怖しい場所が、「蕨の切り株トッコ・ダ・フェート」のパチニョの湿地になっている。
 これまでこの川は、水中植物の繁茂が実におびただしいために、オールが利かず、さかのぼったものがない。従って、国際法でいう先占せんせんの事実というやつが、パラグァイ、アルゼンチンのどっちにもない訳である。日本人が、フランス人よりも先に新南群島を占めたため、いまは日本の領有となっている。その先占を、一九三二年の夏の終りごろに、いよいよアルゼンチン政府が決行することになった。
 ピルコマヨが、「蕨の切り株トッコ・ダ・フェート」の荒湿地でまったく消えてしまう。それから、そこを出ると三つの川になり、「暗秘リオ・ミステリーゾ河、「迷錯リオ・コンリーゾ」河と成程というような名の川二つ。そしてその南にピルコマヨの本流がのたくり出ている。つまり、Ramos Gimenezラモス・ジメネス 教授を主班とするその探検隊の目的は、以上三つの流系をしらべ、あわよくば、グラン・チャコの謎といわれる「蕨の切り株トッコ・ダ・フェート」をこうとするものであった。
 ところが、その探検が難渋なんじゅうをきわめ、やっと一年後に「蕨の切り株」の南隅に立つことができた。そのとき、じつに世界の耳目じもくをふるい戦かせたほどの、怪異な出来事が起ったのだ。
 そこは一面、細茅サベジニヨス、といっても腕ほどもあるのが疎生そせいしていて、ところどころに大蕨フェート・ジガンデがぬっと拳をあげている。そして、下は腐敗と醗酵はっこうのどろどろの沼土。すると、ジメネス教授が立っているところから百メートルばかり向うに、髪をながく垂らした女のようなものが、水の中からぬっくと立ちあがったのである。教授は驚いた。――よく見ればいかにも女だ。しかし、すぐゆあみをするようにかがんだかと思うと、その姿が水中に消えてしまったのだ。
 女だ。あくまで人間であって外の生き物ではない。しかし泥中で生き水底で呼吸いきのできる、人間というのがあるべき訳はない。と、半ば信じ半ば疑いながら、まったくその一日は夢のように送ってしまったのだ。すると翌日、顔をまっさおにした二人の隊員が、教授の天幕テントへバタバタと駆けこんできた。
 聴くと、「蕨の切り株トッコ・ダ・フェート」へいってえび類を採集していると、ふいに泥のなかへ男の顔が現われた。それは、まるで日本の能面にあるような顔で……びっくり仰天した私たちの様をみるや、たちまち泥をみだして水底に没してしまったというのだ。これでいよいよ、水棲人の存在が確認された。教授はそれに、沼底棲息人インコラ・パルストリスと学名さえつけたのだが、あまりに、想像を絶するような途方もないことなので、かえって世界の学会から笑殺されてしまったのである。
 こうして「蕨の切り株」はちらっと戸端口とばぐちをのぞかせたまま、むしろ妖相を増し再び謎となったのである。ところがここに、世にも可怪おかしな話といえば必ず選ばれるような、水棲人インコラ・パルストリスを三度目に見たものが現われた。それが、余人ではないカムポス。
 「俺は去年、パラグァイ軍の志願中尉をやっていた。まったくあの国は、学歴さえあれば造作なく士官になれる。で俺は、一通り号令をおぼえたころ、任地に送られた。これが、『蕨の切り株』に大分近くなっている、ピルコマヨ堡塁線フォルチネス中の“La Madridラ・マドリッド”というところだ。俺は、そこへゆくとすぐ上官に献策をした。先占せんせんをしなさい、全隊が銃を捨てて探検隊となり、『蕨の切り株』に踏みいって、パラグァイ旗を立てれば――と言ったら、俺はひどく怒られた。理屈はどうでも、銃を捨てて――なんてえ言葉は非常に悪いらしいのだ。俺は、そんな訳で業腹ごうはらあげくに、ようし、じゃ俺が一人で行って先占をしてやると、実にいま考えるとっとするような話だが、腹立ちまぎれにポンと飛び出したのだ。
 ところで、至誠かみに通ずなんてえ言葉は、ありゃ嘘だ。俺は、無法神に通ずといいたいね。ジメネスが、一年もかかってやっとゆけた道を、俺は、ズブズブ沼土を踏みながら十日で往ってしまったよ。つまり、泥沼があれば偶然に避けている、危険個所と危険個所のあいだを千番のかね合いで縫ってゆく――僥倖ぎょうこうの線を俺は往けたわけなんだ。
 で、『蕨の切り株』をはじめて見た日に、じつに意外なものに俺は出会っちまったんだよ。ちょうど、俺がいるところから四、五十メートルほど先に、ザブッと水をかぶったまま立ちあがったものがある。人だ。さてはジメネスのいうのは嘘ではない。人類の、両棲類ともいう沼底棲息人インコラ・パルストリス――。秘境『蕨の切り株トッコ・ダ・フェート』とともに数百万年も没していた怪。
 それは、藻か襤褸ぼろかわからぬようなものを身につけていて、見ればまぎれもなく人間の男だ。胸に大きな拳形のあざがあって、ほかは、吾々と寸分の違いもない。と、いきなりそいつが片手をあげて、俺をめがけて投げつけたものがある。と思ったとき、もうそいつの姿が水面にはなかったのだ。俺は水棲人のやつがなにを抛ったのだろうと、大蕨フェート・ジガンデを折ってやっとこさで掻きよせた。手にとると、なんか葉っぱの化石みたいなもん。それが、二つに合わさって藻で結えたなかから、現われたのがこのダイヤモンドだ」
 そこまで言うと、カムポスはめ廻すような目で、あたりをぐるっと一渡りみた。
 「さあ、そこまでや、納得がついたろう。その水棲人が、広茫千キロ平方もある『蕨の切り株』の、一体どこから現われたかというにゃ、俺に目印がある。どうだ、諸君はそれをいくらに踏む※(疑問符感嘆符、1-8-77)
 声がない。ようやく、カムポスの額に青筋が張ってきたころ、一隅から美しい声がかかった。
 「五十万ミル。あたくし、その程度ならお相手してもよろしゅうございます」
 そう言って、まっ白な胸をチラ付かせながら、喧騒の極に達した人波を、かきわけてくる。カムポスは、息を引いたまま白痴のような顔で、現われたその人をぼんやりとながめている。ああ、さっき彼が白百合のようにみた女性。

 「承知しました」と、目をその女性の顔へ焼きつけるようにえたまま、ちょっと上体をかがめてカムポスが挨拶あいさつした。
 「では、勝負の方法はなんに致しましょう。ですがこれは、三本勝負となるようなことは、あくまで避けねばなりません。一本勝負――それにご異存はないと思いますが」
 「でも、こういう場所でやりますカードの遊び方を、私は、あまり知っていないのです」
 その女性も、声が心持ちふるえ、上気した頬はまた別種の美しさ。言葉にも物腰にも深窓しんそう育ちがうかがわれ、いまも躊躇ためらったような初心初心うぶうぶしい言いかたをする。まったくこんな、ナイトクラブあたりにはけっして見られぬような女性が、どうして途方もない大勝負をカムポスに挑むのだろう。また、一方カムポスもどうしてしまったのか、急に、それを境いに溌剌さが消えてしまった。目も、熱を帯びたようにどろんとなり、快活、豪放、皮肉の超凡ちょうぼんたるところが、どうした! カムポスと、喰らわしたくなるほど薄れている。
 「では、“Escada de ma※(マクロン付きO小文字)エスカーダ・デ・モン”はいかがで」
 「梯子エスカーダ・デ・モン」とは、いわゆる相対さしの遊び方である。しかしそれは、賭博場キヤジノなどでやるものではなく、もちろんその婦人なども知っているものであった。とたんに、どこからともなく笑いが始まって、娘っ子がやるようなことで五十万ミルが争われるなんて、こりゃ千年に一度もないようなことだ。と、がやがやそんな声が聴えてくるなかで、その女性が小切手を書いた。ナショナル・シティ銀行リオ・デ・ジャネイロ支店。してみると、この婦人は米人であろう。そして署名が、ロイス・ウェンライト。
 と、その時――その署名をちらっと見たカムポスが、まるで一時にあらゆる思念が飛びさったような顔で、ぽかんと放心の態になったのだ。なんの衝撃ショック※(疑問符感嘆符、1-8-77)] しばらく窓際まどぎわに出て風を浴びせていたほど、カムポスには異常なものだったに違いない。
 「カムポスめ、どうしやがったんだろう。こんなようじゃ、奴め負けるかもしれないぞ」と、カムポスの様子が急に変ったのに気がつくと、なんだか勝負の結果が危ぶまれるような気に、折竹もだんだんになってきた。やがて、満座の注視を一点にあつめて、五十万ミルの「梯子エスカーダ」がはじまった。
 作者として、勝負の成行きを詳述するのは避けるが、ついに、カムポスの勝利動かぬという局面になった。手札が二枚、ハートの一に、ダイヤの十。これは誰しも、ダイヤの十で切ってハートの一を残す。人々は、緊張が去ってざわめきはじめ、やれやれ、気紛きまぐれにもせよ五十万ミルは高価たかいと、ようやく、方々で扇の音が高まってきた。
 「なるほど、こいつの一番違いの、うらないは当った。五十万ミルがそもそもの始めで、これから奴はうなぎのぼりになるか※(疑問符感嘆符、1-8-77) 代議士になり、将軍になり、大統領になり――。まだまだラテン・アメリカにはそんな余地があるからな」
 とカムポスの背後にいてこんなことを考えていた瞬後、アッと、折竹が思わず叫ぶようなことが、カムポスの指に起ってしまった。いわゆる手拍子が好勢にゆるんだのか、子供でさえ最後にとって置くハートの一を、彼がパッと場へ投げだしてしまったのである。逆転! あれよあれよと満座が騒ぐなかで、勝負は一瞬に決してしまった。
 カムポスが負け、ロイスが勝った。
 「どうも、変だ変だと思ってたんだが、れやがって※(疑問符感嘆符、1-8-77)
 と折竹は呆れかえるような思い。いまの、カムポスの失策が明らかに故意であることは、別に、本人に問いただすまでもない。一目惚れというかなんて早いやつだと、しばらく二人を見くらべながらうなっていたのだ。しかし、その翌日すべてが明らかになった。
 約束どおり、翌日ロイスがカムポスを訪ねてきた。彼女が、五十万ミルの大勝負を引きうけたというのも、事情を聴いてみれば成程なるほどとうなずける。きょうは、瀟洒しょうしゃな外出着であるせいか、白いロイスがいっそう純なものにみえる。
 「折竹さん、あなたは三上重四郎というお国の医学者を、ご存知ぞんじでいらっしゃいますね? パタゴニア人に保護区政策リザーヴェーションをとれと、アルゼンチン政府と喧嘩をした……」
 「知ってますとも。去年パタゴニアで行方不明になった……」
 「いいえ、それがパタゴニアではなかったのです。それからあのう、三上が学生時代に発表した『Petrin 堆積説ペトリン・セオリー』も、折竹さんはご存知でございましょう」
 三上重四郎は、いわゆる二世中の錚々そうそうたるもの。在学中、はやくも化石素ペトリン堆積説なるものを発表した。
 化石素とは元来植物にあるもので、一つの種類が、絶滅に近づくと組織中にあらわれてくる。たとえば、松は枯れればそのまま腐敗するが、杉は、神代杉という埋れ木になることが出来る。いわば、これは化石になる成分で、それが現われたものは絶滅に近いというのだ。で三上は、人間の血のなかにもそういったものがある。なかには現にもう現われている種族があるといって……、アルゼンチン人の大部分である雑種児の血と、いま同国の南部、パタゴニア地方で、絶滅にひんしつつあるパタゴニア人の血とを比べたのだ。
 すると、アルゼンチン人にはある化石素ペトリンが、パタゴニア人にはない。つまり、まさに滅びようとするパタゴニア人のほうが、かえって種族的には若いということになったのだ。そこで三上は、それをアルゼンチン政府攻撃に利用して、パタゴニア人の減少は自然的な原因ではなく、冷酷なアルゼンチン政府が保護区をつくらずに、むしろ滅んでしまうのを願わしく思っているのだろう。俺は、世界の輿論よろんに訴えてもパタゴニア人を救うと、三上は単身パタゴニアにおもむいたのだ。
 そこは、氷雪の沙漠、不毛の原野、陰惨な空をかける狂暴な西風、土人は、食に乏しく結核となってたおれてゆく。これでは、百の薬を投じようと到底救い得ぬ、結局保護区をもうけ氷の沙漠さばくから移さねば……と。
 三上の日本人の熱血と人道愛とが、ここに合衆国全土に呼びかける大運動になろうとした。その矢先、彼の姿がふいに、消えてしまったのだ。それ以来、一年にもなるが依然三上の行方は、ようとして謎のように分らない、という、ロイスの話を一通り聴きおわると、折竹がやさしく上目使いをして、
 「お嬢さんは、では三上君をお愛しになってる……」
 「はあ、二人ともおなじ大学でしたし……」
 とロイスも燃えるような目になってくる。
 「そんな訳で、三上はアルゼンチン政府にたいへん憎まれておりました。それで、たぶんアルゼンチンのどこかに秘密囚となっているのだろう――と、私はそう考えて南米へまいりまして、これでも、手を尽してどんなに探しましたでしょう」
 額を支えた手で、卓子がかすかに揺れている。愛するものの不幸を訴えるように、ロイスはなおも続けた。
 「でも、結局は断念あきらめねばなりませんでした。随分、金を惜しまずあらゆる手段を尽しましたが、三上の行方はどうしても分らないのです。私は、半分自棄やけでリオへ来て、話に聴いたナイトクラブとはどんなところだろうと、なんだかのぞくような気持で『恋鳩』へゆきました」
 「では、どうして、カムポスと一勝負という気になりましたね。貴女あなたに、五十万ミルぐらいの金は何でもないでしょうが」
 「それは」とロイスの顔がきゅうに火照ほてってきて、「カムポスさんが、ご覧になった水棲人の話。あれを聴いて、私がなんでそのままに出来るでしょう。水棲人の胸にあった拳形こぶしがたあざと、ちょうど同じものが三上にもあるのです」とこみあげてくる激情の嵐に、ロイスはもう、吹きくだかれたよう。
 「ですから、カムポスさんは三上をみたんでしょう。あの水棲人とは、三上ですわ」
 とたんに、室内がしいんとなった。三上が、魔境「蕨の切り株」にいて、水棲人とは※(疑問符感嘆符、1-8-77) 沼土の底にいて、なおかつ生きられるとすれば、三上という男はさいしょからの化物だ。すると、そこへカムポスがううんと嘆声を発して、
 「では、ロイスさん、こっちの話をしますからね。私が、なぜあなたに対して勝とうとはしなかったか、勝てば、勝てたのをなぜ負けたかというと……、ロイス・ウェンライトという夢にも出る名の婦人が、貴女だと始めて知ったからです。
 水棲人が、私に投げてよこした葉っぱの化石みたいなものには、じつをいうと一面の文字が書かれてあった。しかし、それを私がき寄せたために、その文字がほとんどれてしまった。ただ、残ったのがあなたの名の、ロイス・ウェンライトというだけ……」
 「ああ、そんなことを聴くと、泣きたくなりますわ。三上は、きっとダイヤを報酬にするからこれを私に届けてくれと、あなたにお願いしたのでは……?」
 奇縁とは、じつにこうした事をいうのだろう。三上が、生きてか、それとも死んでの亡霊かはしらぬが、とにかく、愛するロイスへ通信を頼んだ。それが、この話のなかのたった一つの現実。他は、すべて怪体けったいにも分らなすぎることばかりだが、ロイスの身になってみれば……。
 事実、ロイスの熱情はこれなりではすまなかった。よしんば空しかろうとも「蕨の切り株」へ往ってと、熱心に一日中折竹を説いて、ついにグラン・チャコ行きを承知させてしまったのである。そうして、カムポスを加えた三人の者が、「蕨の切り株トッコ・ダ・フェート」へとリオ・デ・ジャネイロをっていった。

 ジメネス教授が、「蕨の切り株」をとり巻く湿地を調査して、まるで海図みたいに足掛りの個所かしょを記入した地図がある。それが、米国地理学協会にあったのが大変な助けとなって、ともかく難行ながら「蕨の切り株トッコ・ダ・フェート」にでたのである。それまでは、プォルモサの密林ではアメリカ豹ジャガールの難、草原パンパスへでればチャコ狼アガラガスの大群。グァラニー印度人インディアン百名の人夫とともに、一行はいい加減へとへとになっていた。しかし、はじめて見る「蕨の切り株」の景観は……。
 ただ渺茫びょうぼうはてしもない、一枚の泥地。藻や水草を覆うている一寸ほどの水。陰惨な死の色をしたこの沼地のうえには、まばらな細茅サベジニヨスのなかから大蕨フェート・ジガンデが、ぬっくと奇妙なこぶしをあげくらい空を撫でている。生物は、わずか数種の爬虫はちゅう類がいるだけで、まったく、水掻きをつけ藻をかぶって現われる、水棲人インコラ・パルストリス棲所すみかというに適わしいのである。すると、ここへ来て五日目の夜。
 陰気な、沼蛙ぬまがえるの声がするだけの寂漠たる天地。天幕テントのそばの焚火たきびをはさんで、カムポスと折竹が火酒カンニャをあおっている。生の細茅サベジニヨスにやっと火が廻ったころ、折竹がいいだした。
 「君は、ロイスさんにどんな気持でいるんだね」
 「………………」
 「そういう気配は、君がはじめてロイスさんをみた、その時から分っていたよ。惚れもしなけりゃ五十万ミルを棒に振ってまで、君がわざと負ける道理はないだろう」
 「俺はまた、大将という人はサムライだろうと思ってたがね」とカムポスがじつに意外というような顔。
 「俺は、すべてをロイスさんにうち明けにゃならん義務を背負っている。義務であるものに金を取り込むなんて、俺にゃどうしても出来ん。カムポスはつねに草原パンパスの風のごとあれ、心に重荷なければ放浪も楽し――と、俺は常日ごろじぶんにいい聴かしてるんだ」
 「あやまる」と折竹はサッパリと言って、
 「だが、惚れたなら惚れたで、別のことじゃないか。君が、生涯に一人だけ逢うというその女性が、ロイスさんのように、俺にゃ思えるよ」
 「くどいね、大将は」カムポスも、辟易へきえきしてしまって、
 「いかにも俺は、あの人が好きだよ。好きで好きで、たまらんというような人だ。これだけ言ったら、大将も気が済んだろう」と、なにかをまぎらすように笑うのである。
 しかし、事実水棲人とはまったくいるものか? また、カムポスが逢った三上の姿は亡霊か、それとも生態が変って、沼土の底でも生きられるようになったのかと、いつも四六時中往来する疑問は、その二つよりほかになかった。カムポスが、「ロイスさんの執念にもまったく恐れ入ったよ。よくまあ、五日間ぶっ続けに水面ばかり見ていられるもんだ」
 「そりゃ、君がみた三上は幽霊じゃないだろう」
 と、はじめて折竹がその問題に触れたのだ。
 「といってだよ、たとえば、水棲人といえるものになって沼の底へはいったにしろ、もう三上は到底とうてい生きちゃいまい」
 「ええ、何のこった※(疑問符感嘆符、1-8-77)」とカムポスは煙にまかれたように、
 「君はよく、水棲人というと笑ったじゃないか。人間の三上がどうして沼の底へ入りそして生きられるか――君に、それが分ったのかね」
 「分ったかもしらん。あれは、君はともかくジメネスも見ている。僕は、水棲人が実在するものとして、考えている」
 その奇怪きわまる折竹の言葉が、それから十日ばかり後に実現することになった。それまでも、あるいは地震計をえて微動のようなものを計ったり、土人に、オムブのような浮く樹を運ばせては、いくつも沼地に投じ足掛りをつくっていた。目標は、カムポスが三上に会った地点――五本の大蕨おおわらび。なお、それに加えて千フィートあまりの、藤蔓ふじづるが三人分用意されている。
 「これから、僕ら三人は沼の底へ、もぐってゆく」
 と、指令をいうような沈痛な語気の折竹に、ロイスもカムポスも唖然あぜんとなってしまった。泥亀すっぽんでさえ、精々十尺とはもぐれまい。それだのに、何百尺ゆけば底がみえるかもしれぬ泥のなかへ、潜水器も付けず潜ってゆけとは※(疑問符感嘆符、1-8-77) しかし、折竹といえば名だたるエキスパート。あるいはと、折竹の命にしたがった二人が危なげに浮き木をわたり、最終点の「五本の大蕨」へきた。そこで、最後の言葉を折竹がいった。
 「沼の底へゆくということは依然として変らない。二人は、いっさいなにも考えず、私のとおりにする。私が、飛びこんだ個所へ、躊躇ちゅうちょせずに飛びこむ。いいか」
 そういって、折竹は大きく息を吸った。日没の、血紅の雲をうつしてまっ赤に染った沼土は、さながら腐爛ふらん物のごとく毒々しく美しい。と、彼のからだがスイと浮き木を離れ、ずぶりと泥にはまったかと思うと、たちまち見えなくなった。二人は、相次いで飛びこんだ。すると、泥のために息詰まるような苦しさが、ほとんど一、二瞬間後には消え、はっと空気を感じた。おやっと、息を吸えば肺につるうれしさ。
 「折竹さん、ここ、何でしょう? どこに、いらっしゃいますの?」ロイスが、あまりといえばあまりなこの不思議に、漆黒のやみのなかで折竹に声をかけた。腐土のにおいと湿った空気。ぬるっと、触れた手には水苔みずごけがついてくる。と、遠くないところから折竹が答える声。
 「ここはね、いわば地下の大密林というのでしょう。むかしは樹がしげった渓谷だったでしょうが、地辷じすべりもあってすっかりうもれた。そこへ、ピルコマヨが流路を求めてきた。水が、沖積層ちゅうせきそうのやわらかな土にみながら、だんだん地下の埋れ木のあいだへ道をあけていったのです。どこまで行くか、どこで終るのか、形も蟻穴のように多岐怪曲をきわめた――『蕨の切り株』の地下の大迷路ラビリンスです。それも、上から水がくるために、絶えず形が変ってゆく。また、沼の水面下に大穴が空いても、すぐピルコマヨが運んでくる藻のために埋まってしまうのです」
 「では、三上はここへ落ちたのでしょうね。カムポスさんに会ったときは、ここから出たのでしょうね」
 「そうですよ。しかし、生きていられることは、期待せんほうがいいでしょうね」
 と言ってから、カムポスに声をかけた。
 「君は、僕が地震計を持ちだしたら、笑ったじゃないか。だが、絶えず迷路が変ってゆくので、微動も起る。それに、あのダイヤの土が渓谷性金剛石土カスカリヨなのを考えても、むかしは渓谷――といったような深い地下が思われてくる」
 そこで、懐中電燈がはじめて点された。ぐるりは、水苔みずごけのついた軟かな土、ところどころに、埋れ木の幹が柱のようにみえている。三人は、それから足もとに気遣いながらじわりじわりと進んでいった。すると、紆余曲折うよきょくせつしばらくったところに右手の埋れ木にきざんだ文字と地図。あっと、ロイスが胸をおどらせてみれば……。

 ――日本人、三上重四郎なるものこの迷路に入る。アルゼンチン各所監獄を転々とした末に、政治犯四名とともに「蕨の切り株」へ連れてこられて機関銃弾で追われながら沼地へと追いやられた。四名のなかには、革命に関係した有名な女優 Emilia Vidaliエミリア・ヴィダリ 嬢も混っていた。嬢も、おそらくここへ落ちこんだのだろう。時々、かすかに歌声のようなものを聴いたが、ついにめぐり会えなかった。それほど、この迷路は複雑多岐である。さらに、ここへ来て余は、勝利を痛感す。それは、この密林が埋れて迷路ができたのは……まだ新しく、白人侵入当初だったろう。その犠牲者が、所々に完全な屍蝋しろうとなっている。それに反して、グァラニー土人のは一つも見当らない。つまり、白人における化石素ペトリ説が、ここに完全に立証されたわけだ。
 ここは、四季を通じて一定の温度を保ち、寒からず暑からず至極しごくしのぎよい。食物は、めしいたえび、藻草の類。底には、ダイヤモンドがあるが無用の大長物。さて、本日出口をさぐりさぐりやっと地上へ出たが、やはりパ、ア両軍の対峙たいじは続いている。ダイヤをやって、ロイスへの伝達を頼んだが、あの男はやってくるだろうか。

 ああ三上と、しばらくロイスはむせび泣いていた。おそらくこれが彼の絶筆であろうか。なお、地図には祈祷台トラスコロとか、鉄の門プエルタ・デ・イエロとか目印が記されてあるが、おそらく、当時と今とは道がちがっているだろう。しかしこれで、水棲人の謎が解けたのだ。
 ジメネス教授がみた女の姿は、たぶんエミリア・ヴィダリ嬢だろうし、また沼地から現われた化石屍蝋しろうをみて、水棲人のぞくと早合点したのだろう。そこからは、道あるいは広くあるいは狭まり、くねくね曲りくねりながら、下降してゆくようである。すると、眼界がとつぜん開け、かすかに光苔ひかりごけのかがやく、窪みのようなところへ出た。
 四辺あたりは、かつて地上の大森林だった亭々たる幹の列。あるいは、岩石ともみえる瘤木りゅうぼくのようなものの突出。ちょっと、この奇観に呆然ぼうぜんたる所へ、ロイスのけたたましい叫び声……。
 「アッ、あすこに誰かいますわ」
 すると、はるか向うの光苔の微光のなかに、一人の、葉か衣か分らぬボロボロのものを身につけた、せこけた男が横たわっている。声を聴いたか……手をあげたが、衰弱のため動けない。三上と、ロイスはぽろりと双眼鏡を取り落した。
 しかし、ここに何とも意地の悪いことには、ちょうど此処ここまでが綱の限度であった。ずぶずぶもぐる泥の窪みをゆくことは、僥倖ぎょうこうを期待せぬかぎり、到底できることではない。みすみす眼前にみてとロイスの切なさ。そこへ、カムポスが敢然と言ったのである。
 「俺がいってみる。このままで、帰れるもんじゃないよ」
 そうして彼は、感謝の涙にあふれたロイスの目に送られながら、綱をといて窪みに降りていったのだ。無法、神に通ず――とは、カムポスの憲法モットー。今度も、三上を抱えてようやく戻ってきたのだが……、差しあげて、折竹に渡したとき足場を取りちがえ、ずぶっと深みへ落ちこんでしまった。とたんに、その震動で亀裂がおこり、泥水が流れ入ってくる。
 「あッ、カムポス」と、思ったときは胸までもつかっている。カムポスは、一度は血の気のひいたまっ蒼な顔になったが、やがて、観念したらしくにこっと折竹にみ、
 「駄目だ。俺は、もう駄目だから、君らは帰ってくれ。ホラ、みろ、上の土がだんだん崩れてくるじゃないか」
 「カムポスさん、私のことから、なんてすまないことに」
 とだんだん浸ってゆくカムポスに絶望を覚えるほど、いっそうロイスは切なく、絶え入るように泣きはじめた。
 「じゃ、カムポス」と、折竹がおろおろ声で言うと、彼は、
 「一番違い――動物富籖ビツショのあれがやはりこれだったよ」
 それからロイスに向い、「御機嫌ようボーア気を付けてねヴイアジェン」と言った。
 それから、身を切られる思いで帰路についていた二人の耳へ、カムポスが高らかにいう声が聴えてきた。「シラノ・ド・ベルジュラック」の一節を朗誦ろうしょうしている。シラノが、末期にうち明けなかった恋を告白しているところ……。
 「面白くもない私の生涯に、過ぎゆく女性の衣摺きぬずれの音を聴いたのも、まったくあなたのお蔭」
 ああと、ロイスが何事かをさとり、抱いていた三上の感触がスウッと飛び去ったような気がした。カムポスが私に恋し、私のために死んでくれた……。朗誦の声は、なおも続く。
 「哲学者たり、理学者たり、詩人、剣客、音楽家、また、天界の旅行者たり。恋愛の殉教者――カムポス・モンテシノスここに眠る」
 そして、声が杜絶とだえた。

底本:「人外魔境」角川文庫、角川書店
   1978(昭和53)年6月10日発行
※底本は副題に、「水棲人(インコラ・パルストリス)」とルビを振っています。
入力:笠原正純
校正:大西敦子
2000年9月15日公開
2011年2月24日修正
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