水蒸気を一パイに含んだ梅雨つゆ晴れの空から、白いまぶしい太陽が、パッと照り落ちて来る朝であった。
 ちょうど農繁期で、地方新聞の読者がズンズン減って行くばかりでなく、新聞記事だねの夏枯れ季節どきに入りかけた時分なので、私のいる福岡時報は勿論のこと、その他の各社とも何かしら読者を惹き付ける大記事は無いか……洪水おおみずは出ないか……炭坑は爆発しないか……どこかに特別記事とくだねは転がっていないか……との目たかの目になっていた。そんなようなタヨリナイ苛立たしい競争の圧迫を、編輯長と同じ程度に感じていた遊撃記者の私は、ツイこの頃、九大工学部に起ったチョットした事件を物にすべく、福岡市外筥崎町はこざきちょうの出外れに在る赤煉瓦れんがの正門を、ブラリブラリと這入はいりかけていたのであったが、あんまり暑いので、阿弥陀にしていた麦稈むぎわら帽子を冠り直しながら、何の気もなく背後うしろをふり帰ると、ハッとして立ち止まった。
 工学部の正門前は、広い道路を隔てて、二三里の南に在る若杉山のふもとまで、一面の水田になっていて、はてしもなくみなぎり輝く濁水にごりみずの中に、田植笠が数限りなく散らばっている。その田の中の畦道あぜみちを、眼の前の道路から一町ばかり向うの鉄道線路まで、パラソルを片手に捧げて、危なっかしい足取りで渡って行く一人の盛装の女がいる。
 そのパラソルは一口に云えば空色であるが、よく見ると群青ぐんじょうと、淡紅色ときいろの、ステキに派手なダンダラ模様であった。小倉縮こくらちぢみらしいハッキリした縞柄しまがらの下から、肉付きのいい手足と、薄赤いものを透きとおらして、左手にビーズ入りのキラキラ光るバッグをげて、白足袋たびに、表付きの中歯ちゅうばの下駄を穿いていたが、霖雨ながあめでぬかるむ青草まじりの畦道あぜみちを、綱渡りをするように、ユラユラと踊りながら急いで行くと、オールバックの下から見える、白い首すじと手足とが、逆光線を反射しながら、しなやかに伸びたり縮んだりする。その都度に、華やかな洋傘パラソル尖端さきが、大きい、小さいまるや弧を、くうに描いて行くのであった。
 そこいらの田にうごめいていた田植笠が、一つ二つ持ち上って、不思議そうにその女の姿に見惚みとれはじめた。……と見るうちに、左手の地蔵松原の向うから、多々羅たたら川の鉄橋を渡って、右手の筥崎駅へ、一直線に驀進して来る下り列車の音が、轟々ごうごうと近づいて来る気はいである。それにつれて女の足取りも、心持ち小刻みに急ぎ始めたように見えた……。
 ……私は今一度ハッと胸を躍らした。思わず、
「……止めろッ……轢死れきしだッ……」
 と叫びかけたが、その次の瞬間に私は又、グッとつば[#「つばを」は底本では「つばを」]み込んだ。……これは新聞記事だねになるな……と思った次の瞬間にはもう正門前の道路を、女の行く畦道と直角の方向に引返していた。
 そうしてその取付とっつきの百姓家の蔭から、田に添うた桑畑の若い葉の間を、女と並行した方向に曲り込むと、急に身を伏せて、獲物を狙うけもののように、線路の方へ走り出したが、桑畑と線路との境目に在る、狭い小川を飛び越えた時には、スッカリ汗まみれになって、動悸が高まって、眼がくらみそうになっていた。
 女はもうその時に田の畦を渡りつくして、半町ばかり向うの線路に出ていたが、軌条レールの横の狭い砂まじりの赤土道を、汽車の来る方向に、さり気なく、気取った風付ふうつきで歩いて行くようすである。
 勢込んで来た私は、そうした女の態度を見ると、ちょっと躊躇して立ち止まった。覚悟の轢死じゃないのかしら……と思って……。
 ……と思う間もなく、真正面まっしょうめんに横たわる松原の緑の波の中から、真黒な汽鑵車が、狂気のように白い汽笛を吹き立てつつ、全速力で飛び出して来た。機関手が女の姿を発見したに違いないのだ。
 それと見た女は洋傘パラソルを、線路の傍の草の上に、拡げたままソッと置いた。下駄を脱ぎ揃えて、その上にビーズ入りのバッグを静かに載せた。そうして右手で襟元をつくろいながら、左手で前裾をシッカリと掴むと、白足袋を横すじかいにひらめかして、汽鑵車の前に飛び込もうとしたが、線路の横の砂利につまずいて、バッタリと横向きに倒れた。その拍子に右手で軌条レールを掴んで起き上りかけたが、何故か又グッタリとなって、軌条レールのすぐ横の枕木の上に突伏した。そのまま白い両手を向うむきに投げ出して、肩を大きく波打たして、深いため息を一つしたように見えた。
 私はそれを石のように固くなったまま見とれていたように思う。身動きは愚か、瞬き一つ出来ないままに……と思う間もなく女の全身に、真黒な汽鑵車の投影かげが、矢のように蔽いかかった。するとその投影かげの中から、群青ぐんじょう淡紅色ときいろのパラソルが、人魂ひとだまか何ぞのようにフウーウと美しく浮き出して、二三間高さの空中を左手の方へ、フワリフワリと舞い上って行ったが、その方にチラリと眼を奪われた瞬間に、虚空をつんざく非常汽笛と、大地を震撼する真黒い音響とが、私の一尺横を暴風はやてのように通過した。
 思わず耳と眼をふさいで立ちすくんでいた私は、その音響が通過すると直ぐに又、新聞記者の本能に立帰った。編上靴あみあげぐつを宙に踊らせて、二十間ばかり向うに投げ出されている、屍体の傍へ駈けつけた。線路の左右の田の中から、訳のわからない叫び声があとからあとから起るのを聞き流しながら……。
 まだ生きているのと同様に温かい女の屍体を、仰向けに引っくり返して見ると、どんな風にして車輪にかかったものか、頭部に残っているのは片っ方の耳と綺麗な襟筋だけである。あとは髪毛かみのけと血のものみたようになったのが、線路の一側ひとかわを十間ばかりの間に、ダラダラと引き散らされて来ている。その途中の処々ににわとりの肺臓みたようなものが、ギラギラと太陽の光を反射しているのは脳味噌であろうか。右の手首は、車輪に附着くっついて行ったものか見当らず、プッツリと切断された傷口から、鮮血がドクリドクリとほとばしり出て、線路の横に茂り合ったよもぎの葉を染めている。その他の足袋の底と着物の裾に、すこしばかり泥が附いているだけで、轢死体れきしたいとしては珍らしく無疵むきずな肉体が、草の中にあおのけに寝て、左手ゆんではまだシッカリと前裾を掴んでいた。
 私はチラリと汽車の方をふり返りながら、その左手を着物から引き離してあらためてみた。手の甲も、てのひらもチットも荒れていないようであるが、中指の頭にヨディムチンキが黒々と塗ってあるのに、そこいらが格別れても傷ついてもいないところを見ると、とげか何かを抜いたあとを消毒したものであろう。して見ればこの女は看護婦かな……と思い思い手早く胸を掻き開いてみると、白く水々しく光る乳房と、黒い、紫がかった乳首があらわれたが、その上を、もう、一匹の大きな黒蟻が狼狽して駈けまわっていた。
 さては……と私は息を詰めた。すぐに安物らしい白地の博多帯をさぐってみると……どうだ……ムクリムクリ……ヒクリヒクリと蠢く胎動がわかるではないか……たしかに姙娠五箇月以上である。なおついでに、たもとと、帯の間を撫でまわしてみると、筥崎から佐賀までの赤切符の未改札が一枚と、小型の名刺に「早川ヨシ子」「時枝ヨシ子」と別々に印刷したのが十枚ばかりずつ白紙に包んだのが、帯の間から出て来た。
 その名刺をポケットに落し込みながら、私は取りあえず凱歌を揚げた。早川というのは九大医学部の寺山内科に居る、医学士の医員で、記者仲間に通った色魔に相違なかった。その背後には姉歯あねばなにがしという産科医がいて、何かしら糸を操っているという噂まで、小耳に挟んでいる。又、時枝ヨシ子というのは、これも同大学の眼科に居る有名な美人看護婦ではないか。……二人の関係は二三箇月前にチラリと聞いた事があるにはあったが、評判の美人と色魔だけに、いい加減に結び付けた噂だろう……なぞと余計なカンわしていたのが悪かった。もうここまで進んでいたのか……と思い思い今度は下駄を裏返してみると、まだおろし立てのホヤホヤで、福岡市大浜竪町おおはまたてちょう金佐かねさ商店という商標マークが貼ってあって、かかとの処に※[#「┐」の中に「サ」、屋号を示す記号、188-7]と刻印が打ち込んである。次にビーズ入りのバッグを開いてみると、新しいハンカチが二枚と、六円二十何銭入りの蟇口がまぐちと、すこしばかりの化粧道具を入れた底の方から、柳川ヨシエという名宛なあての質札が二枚出た。おめしのコートと、羽織と、瓦斯ガス矢絣やがすり単衣物ひとえものと、女持のプラチナの腕時計の四点を、合計十八円也で、昨日きのうと、一昨日おとといの二日にわけて、筥崎馬出まいだし三桝みます質店に入れたものである。
 私は又も、その質札をポケットに突込みながら、二度目の凱歌を揚げた。……これだけのタネを握り込んで、三段や四段の特別記事が書けなければ、俺は新聞記者じゃない……むろん警察や、同業なかまの奴等は指一本だって指せやしないだろう……占めたナ……と奥歯を噛み締めながらも、何喰わぬ顔を上げて、そこいらを見まわした。
 私の周囲には二三人の田植連たうえれんが、おびえた顔をして立っているきりである。一気に筥崎駅へ駈け込んだ列車の窓からは、旅客の顔が鈴生すずなりに突き出ていて、そこから飛び降りた二三人の制服制帽が、線路づたいに走って来るのが見える。その外にもう一人、サアベルを掴んだ警官らしい姿も、おくせにプラットホームから駈け降りて来るようであるが、しかしまだ四五町の距離があるから、私の顔を見知られる心配はない。
 私は靴の踵に粘り付いた女の血を、よもぎの葉で拭いながら悠々と立ち上った。はるか向うの青田の中に落ちたパラソルを見かえりもせずに、今しがた女が伝って来た畦道の、下駄のあとを踏み付け踏み付け、平気な顔で工学部の前に引返した。みるみるえて行く、線路の上の人だかりを横眼に見ながら、手近い法文科の門を潜って、生徒がウロウロしている地下室を通り抜けて、人通りのすくない海門戸かいもんどに出ると、やっと上衣を脱いで汗を拭いた。ここまで来れば、もう捕まる心配は無いからである。ついでに腕時計を見るとチョウド十時半であった。
 ……夕刊の締切りまでアト二時間半キッカリ……そのうちで記事を書く時間をザット一時間と見ると……質屋にまわり込む時間は先ずあるまい……プラチナの腕時計がチットおかしいとは思うけれど……。
 ……色魔の早川や、黒幕の姉歯あねばにも会わない方が上策だろう……わざわざ泣き付かれに行くようなもんだからナ……。一つ抜き討ちをくらわして驚かしてくれよう……。
 ……帰り着くまで降り出さなけあいいが……。
 と腹の中で勘定をつけながら、とりあえずバットをくわえてマッチを擦った。
 それから数時間ののち、私は今川橋行きの電車の中で、福岡市に二つある新聞の夕刊の市内版を見比べて微笑ほほえんでいた。ほかの新聞には「又も轢死女」という四号標題みだしで、身元不明の若い女の轢死が五行ばかり報道してあるだけで、姙娠の事実すら書いてないのに反して、私の新聞の方には初号三段抜きの大標題おおみだしで、浴衣ゆかたを着た早川医学士と、丸髷まるまげに結った時枝ヨシ子の二人が並んで撮った鮮明な写真まで入れて、次のような記事が長々と掲載されていた。

標題みだし……「田植連中の環視の中で……姙娠美人の鉄道自殺……けさ十時頃、筥崎駅附近で……相手は九大名うての色魔……女は佐賀県随一の富豪……時枝家の家出娘」……「両親へ詫びに帰る途中……思い迫ったものか……この悲惨事」……
▲記事……(上略)……時枝ヨシ子(二〇)が東京にあこがれて家出をしたのは、四年前の事であったが、何故なにゆえか東京へは行かずに、博多駅で下車し、福岡の知人を便たよって、九大の眼科に看護婦となって入り込んだ。これを聞いたヨシ子の両親は非常に立腹し、直ちに勘当かんどうを申し渡したとの事であるが、美人の評判が高いままに、あらゆる誘惑と闘いつつ、無事にこの四年間をつとめて来たものであった。……(中略)……流石さすがの色魔、早川医学士(三〇)もヨシ子と関係して、現在の大浜の下宿に同棲するようになってからは、人間が違ったように素行を謹しんだばかりでなく、得意の玉突さえもやめてしまって、ひたすら彼女との恋に精進するように見えた。彼女ヨシ子の早川に対する愛着が、それ以上であった事は云う迄もない。……(中略)……かくて姙娠七箇月になったヨシ子は、早川医学士と、その友人で、兼てから二人の事にいて何くれとなく心配していた姉歯某とが、極力制止するをもかず、ひそかに旅費をこしらえて、単身人眼を避けつつ、佐賀の両親の許に行くべく決心した……(中略)……わざと博多駅より二つ手前の筥崎駅から、佐賀までの赤切符を買ったが、その列車を待ち合わせている間に、色々と身の行く末を考えて極度に運命を悲観したものらしく、遂に自分が乗って行く筈であった下り四二一号列車のわだちにかかって、かくも無残の……云々……
 ここまで読んで来ると私は、内心大得意の顔を上げて、電車の中を見まわした。当てもない咳払いを一つしてになった。

 ところがその翌る日のこと……。
 昨日きのう取り損ねた九大工学部の記事を、あさりなおしに行くべく、今川橋の下宿から、電車で筥崎の終点へ行く途中、医学部前の停留場を通過すると、職業しょうばい柄懇意にしている筥崎署の大塚警部が飛び乗って来たので、すねに傷持つ私はちょっとドキンとさせられた。
 大塚警部は私よりも十五六ぐらい年上で、二三度一緒に飲みに行ってからというもの、同輩みたように交際つきあっている。かなりずるいところのある男であるが、殆んど空っぽになっている電車の片隅に、私の姿を発見すると、ビックリした表情をしながら、ツカツカと私の横に来て、二十貫目あるという大きな図体をドタリとおろした。それからサアベルを股倉に挟んで、帽子を阿弥陀にして赤ッつらの汗を拭き拭き、すこぶる緊張した表情で、内ポケットから新聞を引き出すと、無言のまま、私の鼻の先に突きつけた。見ると私が書いた昨日の夕刊記事の全部に、毒々しい赤線が引いてある。
 私はわざとニッコリしてうなずいた。その私の顔を大塚警部はニガリ切って白眼にらみ据えた。
「困るじゃないか……こんな事をしちゃ……僕等を出し抜いて……」
「フフン、何もしやしない。工学部の正門を這入ろうとしたら、鉄道線路の上に真黒な人ダカリがしていた。行って見たらこの轢死だった……というだけの事さ……」
「女の身元はどうして洗った」
「屍体の左手の中指の先にヨディムチンキが塗ってあった。別段腫れても、傷ついてもいないところを見ると、とげか何かを抜いたアトを消毒したものらしいが、ヨディムチンキをそんな風に使う女なら、差し詰め医師の家族か、看護婦だろう」
「……フーム……ソンナモンカナ」
「ところで服装を見ると看護婦は動かぬところだろう。同時に下駄のマークを見ると、早川の下宿の近所で買っている。そこで取りあえず九大の看護婦寄宿舎の名簿を引っくり返してみたら、時枝という有名なシャンが三月みつきばかり前から休んでいる。もしやと思って原籍を調べたら驚いたね。佐賀県神野かんの村の時枝茂左衛門、第五女と来ているじゃないか」
「それだけで見当つけたんか」
「失敬な……はばかりながら君等みたいな見込捜索はやらないよ。体格検査簿にチャンと書いてあるんだ。身長五尺二寸、体量十四貫七百というのが昨年の秋の事だ。ちょうど屍体と見合っているじゃないか。姙娠七箇月は無論当てズッポウだが、胎児の動き工合から考えても多分三月か四月目から休んだ事になるだろうよ……」
「……フーン……よく知っとるんだナア、何でも……」
「大学の外交記者を半年やれあ、大抵の医者はけむに捲けるぜ。……しかし念のために、吾輩を崇拝している二三の看護婦に当って見ると、内科の早川さんと正月頃からコレコレと云うんだ。早川が寺山博士のお気に入りで、みんな反感を持っている事までわかった。どうだい。……恐れ入ったろう……」
「フーム、それじゃ写真はどうして手に入れた」
「……訊問するんなら署でやってくれ給え、絶対に白状しないから」
「アハハハハ。イヤ、実は非常に参考になるからヨ。……腹を立ててくれては困るが……正直のところを云うとこの記事はソノ……素人が見たらこれでええかも知れんがネ。僕等の立場から見ると不思議な事だらけなんだ」
「ウン。そんなら云おう。その写真はやっぱり看護婦仲間の噂から手繰たぐり出したのさ。アノ恵比須通りの写真屋には、大学の看護婦がよく行くからね。二人で秘密ないしょで撮ったのを見るかドウかしたんだろう。そんな写真があるという事をチラリと聞いたから、試しに当って見ると図星だったのだ。受取人は柳川ヨシエという偽名でネ。チャンと種板まで取ってあった……そん時の嬉しさったらなかったよ」
「いかにもナア。……それじゃアノ姉歯という産婆学校長の医学士が、一生懸命で二人の世話を焼いとる事実は、どうして探り出したんか」
「内科の医局での話さ。姉歯という産婆学校長が、この頃よく内科の医局へ遊びに来て、早川とヒソヒソ話をする。何でもヨシ子がこの頃急に佐賀へ帰ると云って駄々だだをこね出したので、二人が困っているという噂があるんだ。……ドウダイ……事実とピッタリ一致するじゃないか」
「相変らず素早いんだね君は……」
「これ位はお茶の子さ。それよりも今度はアベコベに訊問するが、アノ姉歯という男が、産婆学校長の医学士だという事を君はどうして知っている。新聞にはわざと伏せておいたのに……」
「ソ……そいつは勘弁してくれ」
 と大塚警部は眼を丸くしながら、慌てて手を振って飛び退いた。苦笑しいしいハンカチで顔をコスリ廻わした。私は儼然げんぜんとして坐り直した。
「ウム……君がその了簡ならこっちにも考えがある」
「……マ……マ……待ってくれ。考えるから……」
「考えるまでもないだろう。僕は今日まで一度も君等の仕事の邪魔をしたおぼえはない。秘密は秘密でチャンと守っているし、握ったタネでも君等の方へ先に知らせた事さえある。現に今だって……」
「イヤ。それは重々……」
「まあ聞き給え……現に今だって、自分の書いた記事を肯定しているじゃないか。本当を云うと編輯長以外の人間には、自分の書いた記事の内容を絶対に知らせないのが、新聞記者仲間の不文律なんだぜ、いわんやその記事を取った筋道まで割って……」
「イヤ。それはわかっとる。重々感謝しとる……」
「感謝してもらわなくともいいから信用してもらいたいね。姉歯という医学士が、善玉か悪玉かぐらい話してくれたって……」
「ウン、話そう」
 大塚警部は又汗を拭いた。帽子を冠り直して一層身体からだをスリ寄せた。小さな眼をキラキラ光らして声を落した。
「……エエカ。こいつが曝露ばれたら署員ぶかが承知せん話じゃがな……姉歯という奴は早川よりも上手うわての悪玉なんだ。エエカ……早川をそそのかして、女をふくらましては自分で引き受けて、相手の親から金を絞るのを、片手間の商売にしとるんだ。つまり手切金と、堕胎料と、二重に取って、早川にはイクラも廻わさないらしいのだ。僕の管轄でもかなりの被害者があると見えて、時々猛烈な事を書いた投書が来る」
「ありがとう、それで何もかもわかった。ヨシ子が駄々をこねて、単身ひとりで佐賀へ行きかけたのは、どうも少々オカシイと思ったが……そこいらの消息を薄々感付いたんだナ」
「ウン。それに違いないのだ。ちょうど姉歯早川組の奸計かんけいと、両親の勘当かんどうとで、板挟みになって死んだ訳だナ」
「書きてえナア畜生……夕刊に……大受けに受けるんだがナア……」
「イカンイカン。まだ絶対に新聞に書いちゃいかん」
「アハハハハハ書きゃしないよ。……しかし君等はナゼ姉歯をフン縛らない」
 大塚警部は苦笑した。二三本白髪しらがまじった赤い鬚を、自烈度じれったそうにひねりまわした。
手証てしょうが上らないからさ。あの姉歯という奴は、大学の婦人科にった時分から、主任教授に化けて大学前の旅館に乗り込んで、姙婦を診察して金を取った形跡がある。今開いとる産婆学校も、生徒は三四人しか居らんので、内実は堕胎専門に違いないと睨んどるんじゃが、姉歯の奴トテモ敏捷はしっこくて、頭が良過ぎて手におえん。噂や投書で縛れるものなら縛って見よという準備を、チャンとしとるに違いないのだ」
「フーム。この辺の医者のれっらしにしてはチット出来過ぎているな」
「そうかも知れん。殊に今度の事件などは、相手が佐賀一の金満家と来とるから、姉歯も腕によりをかけとるという投書があった。むろん十が十まで当てにはならんが、彼奴きゃつのやりそうな事だと思うて前から睨んではおったんだ」
「投書の出所でどころはわからないか」
「ハッキリとはわからんが、大学部内の奴の仕事という事はアラカタ見当がついとる。早川の今の下宿を世話した奴が、姉歯だという事もチャンとわかっとる。何にしてもヨシ子が子供さえ生めば、姉歯の奴、本仕事にかかるに違いない。二人をかくまっておいて、時枝のおやじ脅喝いたぶろうという寸法だ。だからその時に佐賀署と連絡を取って、ネタを押えてフン縛ろうと思うておったのを、スッカリこわされて弱っとるところだ」
「アハハハハ、大切だいじの玉が死んだからナ」
「ソ……そうじゃない。君がこの記事を書いたからサ。実に乱暴だよ君は……」
「別に乱暴な事は一つも書いていないじゃないか。事実か事実でないかは、色んな話をきいているうちに直覚的にわかるからね。第一この写真が一切の事実を裏書きしているじゃないか」
「そうかも知れん……が、しかしこの記事は軽率だよ」
しからん。事実と違うところでもあるのか」
「……大ありだ……」
「エッ……」
「しかも今のところでは全然事実無根だ」
 私はドキンとして飛び上りそうになった。……早川に直接当らなかったのが手落ちだったかナ……と思うと、立っても居てもいられないような気持ちになった。大塚警部も困惑した顔になって、サアベルの頭をヤケに押し廻したが、やがて私の顔とスレスレに赤い顔を近付けると、酒臭いにおいをプーンとさした。
「実は僕も弱っとるんだ。……というのは……こいつも絶対に書いては困るがね。この記事を夕刊の佐賀版で見た時枝のおやじが、昨夜ゆうべのうちに佐賀から自動車を飛ばして来て、今朝けさ暗いうちに僕をタタキ起したんだ。人品のいい、落付いた老人だったので、僕もうっかり信用して、ちょうどええところだから大学の解剖室へ行って、お嬢さんの屍体を見て来て下さい。貴下あなたのお子さんときまれば、解剖をしないでそのまんま、お引き渡しをしてもええからというので、巡査を附けてやった訳だ」
「なるほど……それから……」
「ところがそのおやじが、轢死当時の所持品や何かを詳しく調べた揚句あげくに、娘の屍体を一眼見ると、これはうちの娘では御座らぬと云い出したもんだ」
「……フーン……その理由は……」
「その理由というのはこうだ。……うちの娘は元来勝気な娘で、東京へ行って独身で身を立てる、女権拡張に努力するという置手紙をして出て行った位で、そんな不品行ふしだらをするような女じゃない。新聞の写真もイクラカ似とるようだが、ヨシ子では絶対にありませぬ。家出したのは四年前じゃが、チャンとした見覚えがあるから、間違いは御座らぬと云い切って、サッサと帰って行きおった」
「……馬鹿な。そんな事でゴマ化せるものか……」
「……涙一滴こぼさず。顔色一つかえずに、僕の前でそう云うたぞ」
「ウーン。ヒドイ奴だな。それから……」
「ウン。それからこれは昨日の事だが、女の下駄を売った大浜の金佐商店に当らせて見ると、売った奴は店の小僧で、しかも昨日の朝早くだったので、服装や顔立ちがサッパリ要領を得ない。あとから新聞の写真を持って行って見せると、丸髷まるまげになっとるもんだからイヨイヨ首をひねるんだ」
「フーン。困るな」
「それから早川の下宿のおかみも新聞の写真を見て、早川さんの方は間違いないが、女の方は誰だかわからんようです……とウヤムヤな事を云いおるんだ。念のために佐賀署へ電話をかけて聞いて見ると、時枝の家族も口を揃えて、あの写真は家出したヨシ子さんではないと云うとるゲナ。しかし市中では君の新聞が引張り凧になっとるチウゾ」
「そうだろうとも……フフン……」
「つまり時枝のおやじは、屍体の顔がメチャメチャになっとるのを幸いに、家の名誉を思うて、娘を抹殺しようと思うとるんだね」
「フーン。そんなに名誉ってものは大切なものかな」
「何しろ佐賀県随一の多額納税だからナ」
「なおの事残酷じゃないか」
「もっとヒドイのはこっちの連中だ。第一色魔の早川を昨夜下宿で引っ捕えて見ると、そんな女と関係した事は無い。夕刊に載っている女は、昨夜手切れの金を遣って別れた柳川ヨシエというので、自分と関係する以前に姙娠しとった事が判明したから追い出したものだが、どこの生れだか本当の事はわからん。ホンの一時の関係だと強弁するし、産婆学校長の姉歯医学士も、そんな世話をした覚えは絶対に無いと突き放すのだ」
「ダラシがないんだナ君等の仕事は……」
「証拠が無い以上、ドウにも仕様がないじゃないか。おまけに今朝けさになってから、早川の下宿のお神の奴が、御叮嚀に筥崎署へ電話をかけて、新聞の写真の時枝ヨシ子さんは、早川さんと一緒に居た柳川ヨシエさんに違いありませんが、時枝という苗字ではありません。その柳川ヨシエさんは、昨日早川さんと別れ話が済んで、どこかへ行かれましたそうです。いずれにしても柳川ヨシエさんを私が、時枝のお嬢さんと云ったおぼえはありませんから、ドウゾそのおつもりで……という白々しい口上だったそうだ。まるで警察が、寄ってたかって冷かしものにされとるようなあんばいだ」
「早川医学士と、時枝のおやじと、轢死女の血を取って胎児の血液と比較すれば、すぐにわかる話じゃないか」
「他殺か何かなら、それ位のことをやって見る張り合いがあるけども、自殺じゃ詰らんからネエ……まだ他に事件が沢山うんとあるもんだからトテも忙がしくて……」
「早川や姉歯は今どうしている」
「どうもしとらんさ。そのうちに柳川ヨシエの行先がわかったら知らせます……そうしたら轢死女と違うかどうか、おわかりになりましょう……とか何とかかしおって……」
「君の方じゃそれ以上突込まないのか」
「突込んでも無駄だと思うんだ。おれの睨んどるところでは、みんな昨日から昨夜のうちに、いくらかずつ、時枝のおやじに掴ませられとるらしいんだ。その黒幕はやっぱりアノ姉歯の奴で、君の書いた夕刊を見るなり、佐賀の時枝へ電話か何か掛けおったんだろう」
「そうだ。それに違いないよ」
「君の新聞に書かれる前に、警察こっちの手で引っぱたけば一も二もなかったんだが、すっかり手を廻しくさって……口を揃えて新聞記事を事実無根だとぬかすんだ」
「失敬な……」
 と云いさして私は唇を噛んだ。気がつくと二人はいつの間にか工科前の終点で電車を降りて、往来のまん中で立話をしているのであったが、そういう私の顔をジッと見ていた大塚警部はチョット四囲あたりを見まわすと、黄色い白眼をキラキラ光らせながら、一層顔を近付けた。
「君の手で確かな手証てしょうを挙げてくれんか……エエ?……推定でない具体的な奴を……そいつを新聞に書く前に、僕の手に渡してくれれば、スッカリタタキ上げて君の方の特別記事とくだねに提供するがね。君の手から出たタネだという事も、絶対秘密にするのは無論の事、将来キット恩に着るよ。あの記事が虚構うそとなったら君の新聞でも困るじゃろう」
 私はうなり出したいほどジリジリするのを押えつけて、無理に微笑した。
「ウン……いずれ編輯長と相談して研究して見よう」
「ウン、是非頼むよ。ドウセイ時枝の娘に間違いはないんだから……話がきまったら電話をかけて呉給くれたまえ。屍体でも何でも見せるから……ウンウン……」
 大塚警部は一人で承知したように、形式だけ片手をあげると、クルリと私に背中を向けて、サッサと筥崎署の方へ歩いて行った。そのうしろ姿を見送りながら私は、昨日のまま上衣うわぎのポケットに這入っている、ヨシ子の名刺と質札を、汗ばむ程握り締めた。いつの間にか私自身が、大塚警部の手中に握り込まれていることに気が付いて……。
 私は急に身を飜すと、案内知った法文学部の地下室へ駈け込んで、交換嬢に本社の編輯長を呼び出してもらった。
「モシモシ。僕は今法文学部の交換室からかけているんですがね。昨日の夕刊の記事ですね。あれは取消を申込んで来る奴があっても、絶対に受け付けないで下さい」
 編輯長の上機嫌の声が受話機に響いた。
「ああ。わかっている。今朝六時頃にネエ。佐賀の時枝のオヤジが僕の処へ駈け込んで、取消しの記事を頼んだよ。それから九大の寺山博士がツイ今しがた本社ここへやって来て、早川という男は自分の処に居るには居るが、色魔云々の事実は無いようである。それから、これは眼科のうしお教授の代理として云うのだが、時枝という看護婦が眼科に居た事もたしかだが、四箇月ばかり前からやめているので、新聞の写真と同一人であるかどうかは不明だ……といったような下らない事をクドクド云っていたが、どっちもいい加減にあしらって追い返しておいたよ」
「感謝します」
「あとの記事は無いかい」
「……あります……時枝のおやじと九大内科部長があなたの処へみ消しに来た事実があります」
「アハハハ、一本参ったナ。しかし何かそのほかに時枝の娘に相違ないという確証はないかい」
「あります……ここに持っています。死んだ娘が悲鳴をあげる奴を……」
「そいつは新聞に出せないかい」
「出してもいいですけど屍体を掻きまわして掴んで来たものなんです。検事局へ引っぱられるのはイヤですからネエ」
「いいじゃないか。あとは引受けるよ」
「……でも……あなたと一緒に飲めなくなりますから……」
「アハハハハ。そうかそうか。サヨナラ……」
「……サヨナラ……」

 それから三四十日経った或る蒸し暑い晩の事、私は東中洲ひがしなかすのカフェーで偶然に私服を着た大塚警部に出会でっくわした。警部は誰かを探しているらしかったが、私が声をかけると、すぐに私の卓子テーブルに来てビールを呼んだ。その顔を見ているうちにフト思い出して尋ねて見た。
「時にどうしたい……アノ事件は……」
「……アノ事件?……ウンあの事件か。あれあアノマンマサ。医学士は二人とも君のお筆先に驚いたと見えて、その後神妙にしているよ」
「イヤ。女の身許の一件さ」
「ウン。あれもそのまんまさ。今頃は共同墓地で骨になっているだろうよ。可哀相に君のお蔭で親に見棄てられた上に、恋人にまで見離された無名の骨が一つ出来たわけだ」
「……………………」
「何でも女が線路にブッ倒れてから間もなく、色男の医学士らしい、洋服の男が馳けつけて、懐中や帯の間を掻きまわして、証拠になるものをさらって行ったという噂も聞いたが、その時刻にはその色男は、チャント下宿に居ったというからね。どうもおかしいんだ」
「……ウーン……おかしいね……」
「……とにかくあの別嬪べっぴんは、君が抹殺したようなものだぜ。その色男というのは君だったかも知れんがネ……ハッハッハッまあええわ。久し振りに飲もうじゃないか」
 二人はそれから盛んにビールを飲んだが、私は妙に大塚警部の云った事が気にかかって、どうしても酔えなかった。しまいには自棄気味やけぎみになって、警部が出て行くのを待ちかねてウイスキーを二三杯、立て続けに引っかけると、ヤット睡くなって来たが、ウトウトすると間もなく眼の底の空間に、空色のパラソルが一本、美しく光りながら浮き出した。そうしてフワリフワリと舞い上りつつ左手の方へ遠く遠く、小さく小さく消えて行った……と思うと又一つ同じパラソルがもとの処にホッカリと浮かみ出したが、それがだんだんと小さくなって、左手の方へ消えて行くのを見送るたんびに、私は何ともいえない、滅入めいり込むような恐怖を感じはじめた。
 私はハッと眼を見開いて、キョロキョロとそこいらを見まわした。そうしてその恐ろしさを打ち消すために、もう一杯、又一杯とグラスを重ねたが、飲めばのむ程その幻影がハッキリして来るのであった。しまいには美しいパラソルが、あとからあとから浮き出して、数限りなく空間を乱れ飛ぶようになった。
 そのめまぐるしい空間を凝視しながら、私はガタガタとふるえ出した。

 前のパラソル事件以来、私はピッタリと盃を手にしなくなった。それでも時折りはたまらなく咽喉のどが鳴るのであったが、飲めば必ず酔う……酔えばキット空色のパラソルの幻影イリュージョンを見る……ガタガタと慄え出す……という不可抗力のつながりに脅かされて、とうとう絶対の禁酒状態に陥ってしまったので、そんな事を知らない連中みんなを、かなり不思議がらせたらしい。何しろ飲みさかっている絶頂だったので、以前の飲み仲間なぞは、一時真剣に心配したり冷かしたりして、手を換え品を換えて詰問したものであるが、私は唯ニヤニヤと笑うばかりで一言も説明らしい説明をしなかった……否、説明したくなかった……というのが本当の説明であったろう。そうしてそのお蔭という訳でもないが、事実はやはりそのおかげに違いなかったであろう、私は間もなく社長の媒妁ばいしゃくで妻を迎えたのであった。
 私の禁酒を不思議がっていた連中は、そこでやっと訳がわかったような顔をして、盛んに私を冷かしたものであった。けれども私は依然としてニヤニヤのまま押し通した。そうして福岡から二里半ばかり東北の香椎かしい村に、二人切りの新世帯を作って、そこから汽車で福岡へ通勤することにしたが、しかし私は、その新妻から尋ねられた時にも、やはりニヤニヤと笑った切り「酒が飲めなくなったわけ」を説明しないで済ましたのであった……パラソルの女を見殺しにしたお蔭で、お前と結婚した……という結論になるのが、何となくイヤでたまらなかったので……。
 ところがそれから一年足らず経過した、翌年の五月十日の或る曇った朝のこと……九州本線の下り列車は、いつもの通り風光明媚な香椎潟を横断して、多々羅たたら川の鉄橋を越えて、前の事件の背景バックになった、地蔵松原の入口で大曲りをすると、一直線に筥崎駅まで、ステキに気持ちのいいスピードをかけるのであったが、その線路の南側に展開する麦畑や、菜種畑のモザイクを、松原越しに眺めるともなく眺めて行くうちに、フト妙なものが私の眼に止まった。
 松原の中に一町四方ばかりの墓原はかはらがある。その南の端の、すこし離れた処に在る、小さな白木の墓標の前に、赤と、青と、黒と、大小三匹の鯉を繋いだ、低い幟棹のぼりざおが立っている……と思ううちにその光景は、松の幹の重り合った蔭になってしまった。
 ……この頃死んだ男の子の墓だな……と思うと、私は何とも云えないイヤナ気持ちになった。ジッと眼を閉じると間もなく、薄暗く、ダラリと垂れた鯉幟こいのぼりの姿が、又もアリアリとまぶたの内側に現われたので、思わず頭を強く振った。
 しかし筥崎駅で汽車が停ると、私は妙に降りて見たくなった。それでも暫く躊躇して考えていたが、発車間際に思い切って飛び降りて見ると、今度は是が非でも今一度、あの墓原へ行かなければならないような気持になった。それは一種の新聞記者本能で、あの墓原の鯉幟が、何かしら面白い記事になりそうに直感されたからでもあったろう……が……一方から考えるとこの時既に、アノ鯉のぼりが象徴している不可思議な、悪魔的な魅力が、グングンと私の心を引き寄せていたのかも知れない。とうとう社へ出るのを後まわしにして、鉄道線路を十五六町程引返すと、最前の墓原へやって来た。
 幟棹は墓地の最南端の、麦畑や村落を見晴らした処にてられていた。二間ばかりの細い杉丸太の根元を、砂の中に埋めたもので、大小三匹の紙製の鯉は、いずれも数日前からブラ下っていたものらしく、上の方の一番大きな緋鯉ひごいも、その次の青も、その下の小さな黒鯉も、雨や夜露に打たれて色がげ落ちたまま、互いにピシャンコになってヘバリ附き合っている。その中でも一番下の黒鯉は、半分以上白鯉になっているのに、上の二匹から滴り落ちた赤と青のインキをダラダラと浴びて、さながら血まみれになっているようで、白い砂の上に引きずった尾の周囲まわりは勿論のこと、幟棹の根元から、白木の墓標の横腹へかけていろんな毒々しい、気味わるい色の飛沫したたりを一パイにき散らしたまま、ダラリと静まり返っている。ただ、棹の上に取り付けてある羽型はがたの風車が、これも彩色を無くしたまま、時折り、あるか無いかの風を受けて廻転しかけては、ク――ック――ッと陰気な音を立てているばかり……空は一面の灰色に曇って、今にも降り出しそうである。
 私は白砂の染まった処を踏まないように、グルリと遠まわりをして、小さな松の角材で建てられた、墓標の表面を覗いて見たが、又も奇怪な事実を発見したので、思わずつばを嚥み込んだ……真黒々まっくろぐろになるほどみ流れた墨汁の中に「花房ツヤ子之墓」と書いたまずい楷書が威張っている。裏の文字を見ると「……四月三十一日卒……行年二十三歳……」とある……ツイ十日ばかり前に出来た仏様である。
 ……若い女の墓と……鯉幟と……心の中で繰り返しつつ、私は暫くの間石のように立ちすくんでいたが、やがて思い出したように横を向いて唾を吐いた。

 それから二十分程経つと、私は筥崎の町役場へ行って死亡届を調べていた。そうして、それから又、十分ばかりの後には、筥崎八幡宮の裏手の森蔭に「花房敬吾」と標札を打った、長屋風の格子戸の前に突立っていた。
「……御免下さい……お頼み申します……御免下さい……」
 と二三度繰り返すと、何の返事も無いままに、格子の中の玄関の破れ障子しょうじがガタガタといた。
「……敬吾かえ……」
 と云うシャガレた声が聞えると間もなく、一人の老婆が、障子にすがり付くようにして這い出して来た。
 私は又もやドキンとさせられた。古い格子越しに見ると、その老婆は、黄色い胡麻塩ごましお頭が蓬々ほうほうと乱れて、全身が死人のように生白く、ドンヨリと霞んだ青い瞳を二ツ見開いて、一本も歯の無い白茶気た口を、サモ嬉しそうにダラリといている。身体からだには垢だらけの手拭浴衣ゆかたを着て、赤い細帯を捲きつけていたが、帽子を取った私の顔を見上げると、みるみる暗い、しなび込んだ表情にかわってしまった。
「ドナタサマデ……アナタ……」
 と頭を下げつつゴックリと唾を呑んだ。
 私は返事するのを躊躇した。この新聞材料たねにぶつかった最初から受け続けている、何とも云えないイヤナ感じを、ここでもっと突込んでみようか……それともこの辺で思い切ってしまって、もっと明るいキビキビした、ほかの材料たねに乗り換えようかと、一瞬間思い迷った。けれどもその時に私は、今までの惰力とでもいうべき一種の気持ちに押されて、ツイ間に合わせの返事をしてしまった。
「……エエ……敬吾君と以前御交際を願っておりました……和田というものですが……」
「オオオオ、それはそれは。まあお這入り下さいまし。お上り下さいまし。……アナタ……」
 と云ううちに老婆は、古ぼけた畳の上を、赤ん坊のようにベタベタと這いながら引込んで行った。そのあとを見送って考えていた私は、やがて又、思い切って格子戸を開いた。
 家は二畳の玄関と、一坪ほどの台所と便所と、八畳の座敷に押入れと床の間という、古ぼけた長屋みたような瓦落多普請がらくたぶしんであるが、家具らしいものはあまり見えない。座敷は両側とも雨戸を閉めて、蚊帳かやが一パイに釣ってあるので、化物屋敷のように暗い上に、黴臭かびくさいような、小便臭いような臭気においが、足を踏み込むと同時にムッとした。しかし老婆は暗闇に慣れていると見えて、平気で蚊帳の裾を這いながら、縁側から台所の方へまわって行った。私もそのあとから蚊帳をけ押し除けして、雨戸の内側の縁側の板張りへ出たが、そのついでに蚊帳の中を覗いてみると、寝床が三ツ敷いてあって、床の間の前にくくり枕が一つと、台所側に高枕が二つ並べてある。その高枕と括り枕との間に、新らしいメリンスの小さな布団と、赤い枕がキチンと置いてあるのは赤ん坊の寝床であろう。夫婦と老婆が寝ていたものとも思われるが、妻女は死んでいる筈だから、寝床が三つあるのはヘンテコである。しかも役場の戸籍面には妻女の死亡が届け出てあるだけで、赤ん坊の事は何とも書いてないのに……アノ鯉幟……この小さな新しい布団……おまけに今は真ッ昼間ではないか……。
 私は進退きわまったような気持ちで、帽子を持ったまま縁側にしゃがんだ。白昼ひるまでありながらソンナ気がチットモしない。雨戸を洩れる光線が、月の光りのように白く見えて、ヒッソリとした静けさが身に迫って来る。今にも突然に老婆がワアと云って振り返ったら……なぞとあられもない事を考えているうちに、台所に首を突込んでゴソゴソやっていた老婆は、片手に茶碗を持ちながらヨタヨタと這いもどって来た。
「ヘイ……つめたいお茶を一ツ……おあてものも御座いませんで……アナタ……」
「……ヤッ……どうもありがとう……どうぞお構いなく……」
 と大きな声で云いながら、私は余儀なく板張りに坐り込んだ。老婆も私とさし向いに坐ったが、瘠せ枯れた白い手で襟元を直して、蓬々ほうほう逆立さかだった髪毛かみを撫で上げた。戸籍面によるとこの老婆はオシノといって、敬吾の祖母に当る嘉永生れの高齢者であるが、耳も眼もシッカリしているようで、気持ちも存外確からしい。
 私は心安いような態度で茶碗を口に近づけて、ト口飲む真似をした。そうしてブッキラボーに口を利いた。
「敬吾君はいつ頃お帰りで……」
 老婆は眼をショボショボとしばたたいた。右の眼の下のしわを、口と一緒にゆがまして、ペロリと一つ舌なめずりをしたが、やがて又、淋しい、たよりないシャガレ声を出して、
「……ハ――イ。もう帰る頃と思いますが……アナタ……」
 と云いつつ私を見詰めると、モクモクと口を動かした。その疑うような白い眼付きを見ると、私はたまらない程奇妙な気持ちになったので、新聞の事も何も忘れてしまって、取って附けたようにお辞儀をした。
「それじゃ……いずれ又……」
「……ア……さようで……アナタ……」
 そう云いながら老婆は、何かもっと云いたいような顔付きをしたが、又モクモクと口を動かすと、黙り込んでしまった。
「ドウゾお構いなく、いずれ又そのうちに……どうぞよろしく……」
 と切れ切れに云い云い玄関に出て、靴に足を突込むや否や表に飛び出して、格子戸をピシャリと閉めた。オシノ婆さんが這いずりながら、追っかけて来るような気がしたので……。

 それから一町ばかりのあいだを、スッカリ失望した気持ちになって、小急ぎに歩いた私は、八幡はちまん前の賑やかな通りへ出る四五軒手前の荒物屋の前まで来ると、フト立ち止ってその店の中へ這入った。
「バットがありますか」
らっしゃいませ」
 とステキに明るい声が奥の方からして、デブデブに肥った四十恰好のおかみさんが、乳呑み児を横すじかいに引っ抱えながら出て来た。その脂切あぶらぎった笑い顔を見ると、私はホッと救われたような気持ちになって、バットを三個みっつばかり受け取ったが、とりあえず一本引き出して吸口をつけながら、こころみに聞いて見た。
「この向うに花房ってうちがありますね」
「ヘエ……」
 と私の顔を見たお神さんは、急に笑い顔をやめて、大きくうなずいた。
「あのうちのお嫁さんは死んだんですか」
「ヘエ……」
 と云いながらお神さんは、一層おびえた表情になって、唾をグッとみ込んだ、私はめたと思いながら帳場に近づいて、火鉢の炭団たどんにバットを押しつけた。
「マッチでおけなさいまっせえ。炭団では火がつきにくう御座いますけん」
 と云ううちにお神さんは、私の横にベッタリと腰をかけて、マッチの箱をさし出した。このお神さんはあのうちの事を喋舌しゃべりたがっているナ……と私は直覚した。
 それから根掘り葉掘りして、私一流の質問を続けてみると、果してお神さんの説明は、一々興味深い新聞種になって行った。但、筋は極めて単純であった。
 花房というのは現在、福岡の電燈会社の工夫をやっている男で、昨年の春にオシノという高齢の祖母と、若い嫁女よめじょのツヤ子を連れて、この町内の現在の家に引越して来た者であるが、夫婦仲は云うまでもなく、オシノ婆さんと嫁女のオツヤとの仲が、親身の間柄でも珍らしいくらい睦まじいので、近所の評判になっていた。敬吾がつとめに出かけた留守中に、嫁女のツヤ子がオシノ婆さんの手を引いて、程近い八幡様の境内を散歩させたり、お湯に連れて行く光景などを、近くの人はよく見かけた。敬吾が一時やめていた晩酌を、オシノ婆さんが嫁女にすすめて、無理に又はじめさせたというような噂までも伝わった。
 ところがそのうちに嫁女が姙娠したことがわかると、オシノ婆さんは八幡様へ参詣さんけいしなくなった。
「お前が転びでもすると私が敬吾に申訳けがない。孩児ややこの着物も私が縫うてやるけに、成るだけ無理をせんようにしなさい。その代りキット男の子を生みなさいよ」
 と寝ても醒めても云っていた。嫁女も素直に笑いながら、
「ハイ……キット男の子を生みます」
 と請け合っている……という話を、亭主の敬吾が煙草を買いに来たついでに、お神さんに話して聞かせた。
 するとそのうちに嫁女がチブスにかかって、今から十日ばかり前の事、五月目の男の子を死産して死ぬると、亭主の敬吾は何と思ったか、通夜の晩から、大酒を飲んでくだを捲きはじめた。
「……かかあは死ぬが死ぬまで譫言うわごとに、鯉幟のことばかり云うとったから、法事が済んだら一つ素晴らしいのをお墓に立ててやろうと思う。それが一番のお供養だナアお祖母さん」
 と大声で何遍も何遍も繰り返すので、通夜に来ていた近所の人々は、ジッとしていられないような気持になった。胎児と母親の野辺送りをした帰りがけにも、敬吾はトロンとした眼で、白木の墓標をふりかえって、
「もうじきに大きな奴を立ててやるぞ。アハハハハハ」
 と高笑いをしたので皆、顔をそむけたという。
 けれども敬吾は、その帰り道にどう気がかわったものか、郵便局に残っていた二百円ばかりの貯金を引き出すと、そのから行方をくらましてしまった。何しろうちには高齢のオシノ婆さんが置き去りにして在るので、近所の者も心配して、二三人手を分けて行方を探しているが、今のところ皆目わからない。柳町の遊廓で見かけたという者もあるが、それも今では当てにはならなくなっている。一方にオシノ婆さんは、少しばかり残っている米でかゆを作って喰べているが、近所の人が同情をして物を呉れても、
「いずれ近いうちに敬吾が帰って来ましょうから、お構い下さいませんように……ヘエ……アナタ……」
 と云って突返すので、
折角せっかくヒトが心配してやっているのに……」
 と面憎つらにくがっている者もある。……ところがこの婆さんは、チョット見たところシッカリしているようであるが、実はもうすっかり耄碌もうろくしているので、雨戸の隙間から覗いてみると、夜も昼も蚊帳を釣り放して、いつもの通りに床を取った上に、自分が縫った「孩児ややさんの赤い布団」まで並べて待っている様子なので、近所の者はトテモ気味悪がっている。ことに依ると夫婦と子供三人で、出かけたあとの留守番をしているつもりかも知れないが、誰もそんな事を尋ねて見るものは無い。何にしても当り前でない婆さんが、タッタ一人で煮焚にたきをするので、まことに不要心だから、警察に届けようか、どうしようかと相談しいしい今日まで来ている。もっとも、もう二三日すると二七日ふたなぬかが来るから、事に依ると敬吾が帰って来るかも知れぬが……というのがお神さんの話の概要であった。
 私は礼を云って荒物屋を出ると又引っかえして、花房の近所をまわって、二三の事実を確かめてから本社へ帰った。
「……死んだ愛妻と胎児の墓に、鯉幟を立てて行方をくらました男……あとに餓死を待つ高齢の祖母……」
 といったような記事が、その墓の鯉幟と、蚊帳の前に坐った老婆の写真と一緒に出たのは、あくる日の朝刊であった。それを台所で読んだ私の妻が、
「マア。誰がこんなイヤな記事を書いたんでしょう」
 と云ったので私は思わず苦笑させられた。

『記者様――
私ハ、アナタノ新聞ノ記事ヲ読ンデカラ眼ガ醒メマシタ。私ハ妻子ヲ失ッタ悲シサノタメニ酒色ニ溺レテ、恵ミ深イ大恩アル祖母ノ事ヲ忘レテオリマシタ。柳町、大浜ト飲ミマワッテ、化粧ノ女ト遊ビ狂ウテオリマシタ。ソウシテ、アノ新聞記事ヲ見マシテカラ、ヤット昨晩、家ニ帰ッテ見マシタラ、祖母ハ蚊帳ノ釣手ニ、妻ノ赤イ細帯ヲカケテ、首ヲククッテ死ンデオリマシタ。足ノ下ニ御社おんしゃノ新聞ノ、アノ写真ノトコロガ拡ゲテ置イテアリマシタ。誰カ近所ノ親切ナ人ガ投ゲ込ンデ下サッタノデショウ。
記者様――
アノ鯉幟ノ棹ハ、私ガ酔ッタ勢イデ立テタモノデスガ、ソレガ記者様ノオ眼ニ止マッテ、コンナ不孝ナ恥ヲさらソウトハ夢ニモ思イマセンデシタ。シカシ私ハ、ドナタ様モ怨ミマセン。何モカモ、私ガ修養ガ足リナイタメニ、起ッタ事デス。私ハ皆様ニ対シテ申訳アリマセンカラ自殺シマス。ドウゾコノ大馬鹿者ノ最期ヲ、アナタノ筆デ、デキルダケ大キク世間ニ発表シテ下サイ。御社ノ御繁栄ヲ祈リマス。
  五月十一日
花房敬吾
  福岡時報 記者様』

 編輯長は、洋半紙に鉛筆で書いたこの手紙を、私の前に投げ出しながらフフンと笑った。
「ツイ今しがた来たんだ。その男はその手紙をポストに入れると、かかあの墓に参って、幟の細引を首に捲いて、鯉と一緒にブランコ往生をしていたんだ。二時間ばかり前に、あの松原を通った下り列車の乗客が見つけたんだがね、足下にウイスキーの小瓶がタタキ付けたったそうだよ……ハハハハハ」
 私は茫然として編輯長の顔を凝視した。編輯長はやはり冷笑を浮めながら云った。
「君の筆もだいぶ立つようになったね」
 私は笑いもドウもし得ないまま、何がなしにうなだれてしまった。帽子を片手にスゴスゴと編輯室を出て、一気に階段を駈け降りた。
 東中洲のカフェーに飛び込むと、昔なじみの女給連中が、ときの声をあげて立ち上って来た。
「……まあ……めずらしいじゃないの……まあ……」
「どうしたの……あんたは……この頃……」
「いらっしゃアアい」
 私は薄暗い雪洞ぼんぼりの蔭から、眼を据えて睨み付けた。
八釜やかましい……ウイスキーを持って来るんだ」
 そう怒鳴り付けた私の眼の前に、早くもあの鯉幟の幻影が浮かみあらわれた。黒と、緑と、赤の滴雫したたりを、そこいら中に引きずり散らした……ダラリと垂れ下がった……。

底本:「夢野久作全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年9月24日第1刷発行
底本の親本:「冗談に殺す」春陽堂
   1933(昭和8)年5月15日発行
入力:柴田卓治
校正:しず
2000年9月26日公開
2012年5月16日修正
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