一

 太い引きずるような波鳴りの聞えるうらさびた田舎道を、小一時聞も馬を進ませつづけていた私達の前方まえには、とうとう岬の、キャプテン深谷ふかや邸が見えはじめた。
 藍碧の海をへだてて長く突出つきだした緑色の岬の端には、眼の醒めるような一群の白堊館が、折からの日差しに明々あかあかと映えあがる。向って左の方に、ひときわ高くあたかも船橋ブリッジのような屋上露台テラスを構えたのが主館おもやであろう。進むにつれて同じように白い小さな船室ケビン風の小屋が見えはじめ、小屋の傍らにはこれも又白く塗られた細長いマストが、海近く青い空の中へくっきりと聳えだした。やしきの周囲には一本の樹木もなく、ただ美しい緑色の雑草が、肌目きめのよい天鵞絨びろうどのようにむっちりと敷き詰って、それが又玩具おもちゃのような白い家々に快い夢のような調和を投げかける。が私達が岬へ近づくに従って、それは雑草ではなく極めてよく手入れの行き届いた見事な芝生であることが判って来た。
 深谷邸の主人と云うのは、なんでも十年ほど前まで某商船会社で、欧洲航路の優秀船の船長キャプテンを勤めていたと云い、相当な蓄財たくわえもあるらしく退職後はこうして人里はなれた美しい海岸に邸を構えて、どちらかと云えば隠遁的な静かな生活をしていた謂わば隠居船長なのであるが、永い間の海の暮しが身について忘れかねたのか、まるで大海の中のような或は絶海の孤島のような荒れ果てたこの地方の、それも海の中へ突出した船形の岬の上へ、しかもまるでそれが船の上の建物ででもあるかのような家を建てて日ねもす波の音を聞き暮すと云う。不幸にして、私はまだ一度もこの隠居船長に面識を持たないのであるが、そしていま又こうして夫人の重大な招きの電話を受けて始めて深谷邸を訪れる機会を持ちながらもいまはもう会おうにも会えない事情に立ち至ったのであるが、かつて私のところへ二、三度薬を取りに来たこの家の召使の言葉に依れば、なんでも深谷氏のこの奇妙な海への憧れは己れのすまう家の構えや地形のみではあきたらず、日常生活の服装から食事にまでも海の暮しをとりいれて、はては夫人召使から時折この家を訪なう外来の客にいたるまで己れを呼ぶにキャプテンの敬称を強要すると云う、それはまるで海の生活を殆んどそのまま地獄の果までも引っ提げて行こうほどの激しいひたむきな執念だった。されば既に還暦を越した老紳士で人柄としては無口な穏かな人でありながら、家庭と云うものにかけてはまことに冷淡で、わけてもひとつの妙な癖を持っていてしばしば家人を困らしていたとのこと。それはひとくちに云えば並はずれたヨット狂で、それも朝から晩まで附近の海を我がもの顔に駈け廻ると云う程度のものではなく、夜になって辺りが闇にとざされる頃から青白い海霧ガスむと立てこむ夜中にかけて墨のような闇の海を何処どこをなにしにほっつき廻るのか家人が気を揉んで注意をしても一向に聞きいれないとのこと。もっとも私のところへ取りに寄来よこした薬と云うのが凡て主人の使うもので、それが皆一種の解熱剤であるのを見ても、大分だいぶん無理な夜更しでもするらしいのは判っていたのだが、それならば私がその折召使に伝言ことづけした忠告も、恐らく家人の注意と同じように聞き捨てられたに違いない。可哀想に、年老いたかたくなキャプテン深谷氏は、そうして我れと我が命を落すような怪我あやまちをしでかしたのではあるまいか。老人がそのような夜更しをするさえ既に危険であるのに、殊にこの辺りの海は夜霧が多く話に聞けば兇悪な大ふかさえも出没すると云う。私は、夫人の慌だしい招きの電話を思い出しながら、きっとこの予感は外れていないように思われるのだった。ともあれ私達は急がねばならない。
 やがて私達は石ころの多い代赭たいしゃ色の、美しい岬の坂道にかかった。ちょうど日曜日で久々に訪ねてくれた水産試験所の東屋三郎あずまやさぶろう氏は、折角計画した遠乗りのコースをこのような海岸に変更されて最初のうち少からずふさいでいたのだが、けれども途々キャプテン深谷氏に関する私の貧弱な説明を聞き、いま又こうして奇妙な岬の深谷邸を眺めるに及んで、はやくも心中にいつもの好奇の病が首を起したのか、いまはもう私の先に立って進みはじめた。
 私達の乗った馬は、倶楽部中で一番優れたものだったし、岬の坂道は思ったよりも緩やかだったので、それから十分としないうちに私達は深谷邸の玄関ポーチに辿りついた。折から待ち構えていた下男の手によって、間もなく私達の馬は建物の日蔭の涼しいところへ繋がれ、やがて私達は明るい船室ケビン風の応接室で、キャプテン深谷氏の夫人に面会することが出来た。
 地味な黒い平服を着て銀のブローチを胸に垂れた深谷夫人は、まだ四十を幾つも越さぬらしい若々しさだ。大粒な黒眼に激しいうるおいを湛えて、沈鬱な口調で主人の上にふりかかった恐ろしい災禍について語るのだった。
 私は夫人の話すところを聞くうちに、先程私の抱いた予感が見事に適中しているのに驚いた。夫人の語るところによれば、キャプテン深谷氏は昨夜ゆうべもあの奇妙な帆走セイリングに出掛けたと云う。そして今朝はもう冷たいむくろとなって附近の海に愛用のヨットと共に漂っていたのだ。私は医師としての職責を果すために、ただちに夫人を促して、別室に置かれた深谷氏の屍体の検査をしなければならなかった。けれどもそこで私は、この事件をかくも異様な恐るべき物語にしてしまったところの驚くべき最初の事実を発見しなければならなかった。
 キャプテン深谷氏の屍体は、片足をふかにもぎとられた見るも無残な痛ましいものであったが、検死を進めるに従って、はからずも頭蓋の一部にビール瓶様の兇器で殴りつけられた、明かに他殺の証跡が残されているのを発見した。
 私は驚きにふるえながらも、つとめて平常を装うようにして、静かに夫人に訊ねた。
「御主人の屍体は、ヨットの中にありましたか?」
 すると夫人は私の顔色を見取ってか、急に不審気なおどおどした調子で答えた。
「いいえ、船尾スターンの浮袋へ、差通されたように引っかかって、ロープで船に引かれるように水びたしになっておりました」
「ヨットは最初誰が見つけましたか?」
 私は再び訊ねた。
「下男の早川はやかわでございます。あれは、白鮫号しらさめごうを見つけますと、すぐに泳いで、連れて来てくれました。でも先生、なぜでございます」
「奥さん、これは、大変重大な事件でございます。――御主人は、昨晩何時頃にお出掛けになりましたか?」
「さあ……」と夫人は蒼褪あおざめて小首をかしげながら不安気な様子で、「いつの間に出掛けましたか……なんでも今朝の七時に主人の寝室に参りました時、始めてそれと気づいたほどでございますので……それに、主人が夜中に帆走セイリングをいたすことなぞ、それほど珍らしくもございませんので……」
 この時東屋氏が、こらえかねたように傍らから口を入れた。
「失礼ですが、御主人は、なぜ夜中になぞ帆走セイリングをなさるのですか?」
 すると夫人は困ったように、
「……あれが、あの人の、道楽なのでございます」
 そう云って淋しそうに、笑うとも泣くとも判らぬ表情かおをした。
「いつも御主人は、お独りで帆走セイリングされるんですか?」
 私が訊ねた。
「はい……でも、時々家人を誘いますので、そのような時には、下男に供をさせることにいたしておりました。でも――」
「昨晩は?」
「昨晩は一人でございましたが――」
 恰度この時、二人の紳士が室内へはいって来た。私達は満たされぬ思いでひとまず口をつぐんだ。深谷夫人は立上って、二人の紳士を私達へ紹介した。
「こちらが、主人の友人で黒塚くろづか様と被仰おっしゃいます。こちらが、私の実弟で洋吉ようきちと申します。どうぞよろしく」
 キャプテン深谷氏の友人黒塚と云うのは、見たところまだ四十を五つと越していない、かっぷくのいい隆としたアメリカ型の紳士で、夫人の実弟洋吉と云う方は、黒塚氏に較べて体も小さく年も若く色の白い快活そうな青年だ。二人共同じような純白の三つ揃いを着て、どことなく洒脱な風貌の持主だった。
 形ばかりの簡単な挨拶を済ますと、私は早速夫人へ、前の続きを切り出した。
「失礼ですが、只今こちらの御家族は?」
「家族、と申してはなんですが、只いまのところ、この方達も加えまして、女中のおきみと下男の早川と、わたし達夫婦の六人でございます」
 私は二人の紳士へ訊ねた。
「失礼ですが、御二人とも永らく御滞在ですか?」
「ええ、いや」と洋吉氏が引きとって答えた。「僕はずっと前からいますが、黒塚さんは、昨夜着かれたばかりです」
「昨夜、ああ左様ですか」と今度は夫人へ、「ではもう一度お訊ねしますが、昨晩御主人は、お独りで帆走セイリングに出られたんですな?」
「ええそれはもう」
 夫人はそう云って、もどかしそうに私を見た。そこで私は思い切って乗り出すと、
「では申上げますが、実は皆さん……どうもこれは、私の力だけではお役に立たないことになりました。御主人の死は、御自身の過失によるものではありません。一応警察のほうへ、御電話して戴かねばなりません」
 すると今まで私の執拗な質問に、先程から何故か妙に落着のない不安気な様子を見せていた深谷夫人は、どうしたことか急に眼の前の空間を凝視みつめたまま、声も出さずに小さく顫えだした。
 二人の紳士は、さても面倒なことになったと云う様子で、暫く手を揉み合わせていたが、やがて荒々しく室を出ていった。
 居残った私達三人の間には、妙に気不味きまずい沈黙がやって来た。が、まもなく夫人は、なにか意を決したように顔をあげると、訴えるような様子で私達へ云った。
「……こんなことにでもならなければ、と思っていたのですが……実は、あの……昨晩から、主人の様子が、いつもと変っていたのでございます」
「と被仰おっしゃると?」
 私は思わず訊き返した。
「はい、それが、あの……あれはなんでも、ラジオの演芸が始まる頃でしたから、宵の七時半か八時頃と思いますが、その頃から、なにかあったのか急に主人は落着きを失いまして、ひどくそわそわしはじめたのでございます……」
 夫人が一寸言葉を切ると、東屋氏が口を入れた。
「失礼ですが、その頃に御来客はなかったですか?」
「ございませんでしたが」
 夫人が眉をひそめた。すると東屋氏は、ドアの方を顎で指しながら、
「只今の黒塚さんと被仰おっしゃる方は?」
「あの方のおいでになったのは、九時頃でございます」
「ああ左様そうですか。ではその前、つまり御主人がそのようになられる前に、御主人と話をされたような御来客はなかったですな?」
「ええ、お客様はおろか、昨日きのうは郵便物もございませんでした。もっとも、いつだって、此処ここを訪ねて下さる方は、滅多にございませんが――」
 夫人はそう云って先程のあの淋しげな顔色をチラッと見せた。が、すぐに次を続けた。
「……でも確かに、なにかひどく心配なことが起きたに違いございません。それは心配、なぞと云いますよりも、いっそ恐怖とでも申しましょうか……こう、ひどく困った風であちらの別館はなれの方の船室ケビンの書斎へ籠りまして、暫く悶えてでもいたようでございましたが、恰度心配してこっそり様子を見に参りました私は、そこで主人の、物に怯えるような独言ひとりごとを聞いたのでございます」
「どんなことです?」
 私は思わずき込んだ。
「はい、あの、恰度私の聞きましたのは、なんでも主人が、こう卓を叩いて、うわずった声で、『明日あす午后ひるだ、明日の午后ひるまでだ』と、それから低い声で、怯えるように、『きっとここまでやって来る』とそれだけでございますが……それから急に主人は、さもじっとしていられないように立上ってへやを出て来たのでございますが、恰度そこに立っていました私を見つけますと、一層不機嫌になりまして、いままでついぞ口にしたこともないような卑しい口調で、お前達の知ったことではないと云うように叱りつけるのでございます……でも先生。まさかこのようなことになろうなぞとは、存じもよりませんでしたので、それに……こんなことを申上げるのもお恥かしい次第でございますが、あのひとは、平常ふだんから邪険な、変った人でございますので、逆らわないに限ると思いまして、心ならずもそのまま自室へやへ下って、先にやすんだのでございます……それが、もう今朝は、こんなことになりまして……」
 夫人はここで始めて眼頭に光るものを見せると、堪え兼ねたようにかおを伏せてしまった。
 私達は、顔を見合せて、席を外すことにした。
 廊下に出ると、私は東屋氏に寄りそうようにして云った。
「……驚いたねえ……大変なことになったものだ」
 すると東屋氏は、考え深そうに、小声で云った。
「深谷氏の怖れていた奴が、明日の午後、つまり今日、でなくて昨夜やって来たわけだな」とそれから急に改まって、「君、警察の連中が此処へ着くまでには、まだまだ時間があるよ。遠い凸凹でこぼこ道だから、三時間は充分かかる。ね、ヨットを見せて貰おう。昨夜深谷氏が乗ったと云うその問題のヨットだ。……僕はなんだか、ひどくこの事件に興味を覚えるよ」
 そう云って彼は、私の肩に手をかけた。
 本来私は、余り好事家ものずきのほうではないつもりだが、東屋氏にこう誘われると、どうしたものか理性より先に口のほうが「うん、よし」と返事をしてしまった。
 そこで私達は来合せた洋吉氏に断って玄関ポーチへ出ると、下男に案内を頼み、岬の崖道を下って岩の多い波打際に降り立った。

          二

 恰度これから午後にかけて干潮時と見え、つやのある引潮の小波さざなみが、静かな音を立てて岩の上をさらっていた。
 キャプテン深谷氏のヨット、白鮫号は、まだ檣柱マスト帆布セイルも取りつけたままで、船小屋の横の黒い岩の上に横たえてあった。最新式のマルコニー・スループ型で、全長約二十フィート檣柱マスト船体ハルも全部白塗りのスマートな三人乗りだ。あかと白の派手なだんだら縞を染め出した大檣帆メンスルの裾は長い檣柱マストの後側から飛び出したトラベラーを滑って、恰度カーテンを拡げたように展ぜられ、船首プラウ三角帆ジブと風流に対して同じ角度を保たせながらロープで止められたままになっている。舵は浮嚢うきぶくろを縛りつけたロープで左寄り十度程の処へ固定され、緑色の海草が、舵板ラダーの蝶番へ少しばかり絡みついていた。
 東屋氏はロープの端の浮嚢を指差しながら下男に訊ねた。
「御主人の屍体はこの浮嚢へ通されて船尾スターンに結びつけてあったんですね?」
「ええ、そうです」
 下男が答えた。
 東屋氏は頷きながら、
「きっと、ふかに片附けさすつもりだったんだな……ところで貴方あなたは、昨夜御主人のお供をしなかったのですね?」
「はい、いつでもキャプテンのお召しがない限り、お供はしないことになっております」
 この物堅いハッキリした下男の答は、ひどく私を喜ばした。東屋氏はなおも続ける。
「いったいキャプテンは、にしに夜中になぞ、ヨットへ乗るんですか?」
「ただ帆走はしり廻られるだけです。あれが、キャプテンの御趣味なんです」
「結構な御趣味ですね」
 東屋氏は皮肉に笑いながら、今度はヨットの中へ乗り込んだ。
「君、警察官が来るまでは、余り現場に触れないほうがいいんだよ」
 けれども彼は私の忠告などには耳もかさず、大童おおわらわになってあれこれと船中を物色していたが、やがて檣柱マストの側へ近附くと、大檣帆メンスルの裾の一部を指でこすりながら、
「血が着いているよ。やっぱり深谷氏は、このヨットの中で殺されたんだな」
 私も東屋氏の言葉につい動かされて、近附いて見た。成る程紅白だんだら縞のところに血痕らしい飛沫の痕がある。東屋氏は一層乗気になってヨットの床を調べはじめたが、やがて今度は狭いさんの間から、硝子瓶のかけらしいものを拾い上げて私に見せた。で私は、
「やっぱり兇器は、ビール瓶だろう」
 すると彼は私の肩を叩きながら、
「駄目だよ先生、これをビール瓶だなんて云っちゃあ。こいつは海流瓶だよ、まあビール瓶とよく似ているがね。この中へ葉書やカードを密封して、人目につきやすいように、ほら、外側をこんな風にエナメルで着色して、海流の方向速度等を知るために、海の中へ投げ込む原始的な漂流手段だよ」
 そう云って東屋氏は、今度は下男へ、
「この邸には、勿論海流瓶なぞいくつもあったでしょうな?」
「はい。やはりキャプテンの御趣味でして」
 けれども東屋氏はそれには答えないで、
「まずこれで、兇器も現場も確かめられたわけだ、時に貴方が、今朝この船に泳ぎ着かれた時に、この他に何か船中に残っていませんでしたか?」
「別に、ございませんでしたが……食卓用の、ソフト・チョコレートのチューブが一つ落ちていました」
「それはどうしました?」
「空でしたから、海の中へ捨ててしまいました」
「捨てた?」
 東屋氏は呆れたように苦笑いしながらヨットを降りかけたが、ふと船尾スターン寄りの小さな船艙に眼をつけて、再び戻ると、その蓋を開けて中を覗き込んだ。が、やがて身をかがめてその中へぐっと上半身を突込むと、黒い大きな貝をひとつ拾いあげた。
「おや、面白い貝だね」私は覗き込むようにして云った。「恰度鳥の飛んでいるのを横から見たような恰好だね。なんと云う貝だろう?」
「マベ貝だよ。きたない貝さ」
 東屋氏が云った。すると下男が、
「この附近には、そんなものはいくらもあります」
 けれども東屋氏は暫く黙ってマベ貝をいじっていたが、やがて面白くもなさそうに再び貝を船艙に戻しながら、
「……どうも確かに、深谷氏と云うのは、変り者だね。よくよく海と縁が深いらしい……」
 云いながら彼は、片手を船縁ふなべりに掛けるようにしてヨットから飛び降りた。そして今度は白く塗られた船体ハルの外側に寄添って、船底の真ん中に縦に突き出した重心板センター・ボードの鉛の肌を軽く平手で叩いて見ながら、
「いいヨットだなあ。バランスもよさそうだ」
 と急に重心板センター・ボードの下端部を、注意深く覗き込みながら、
「こりゃ君、粘土が喰っ附いてるじゃあないかね?」
 私と下男は、云い合したように東屋氏の側へ寄って覗き込んだ。
 成る程重心板センター・ボードの下端部の、鉛と木材の接ぎ目の附近に、薄く引っこすったように柔かな粘土が着いている。
「この白鮫号は、今朝水から上げたなり、まだ一度も降ろさないですね?」
「ええそうです」
 下男が答えた。
「するとこの粘土質の泥は新しいものだし、この附近は岩ばかりだし……」と東屋氏は私の方へ笑いながら、
「つまり昨晩深谷氏の乗ったこの白鮫号は、一度何処か粘土質の岸に繋がれた訳だね。そして、この重心板センター・ボードが船底から余分に突出しているために、船底のどの部分よりも一番早く、一番激しく、粘土質の海底と接触する……」
「ふむ」
「そしてその海底には、ほら、その舵板ラダーの蝶番に喰っ附いている海草が、それは長海松ながみると云うんだが、そいつが、一面に繁茂しているに違いない。その種の海草は、水際の浅いところに多く繁殖するからね」
 私も下男もこの推論には、ただ恐れ入るより他なかった。全く海のことにかけては、私などなんにもならない。
 東屋氏は重心板センター・ボードを離れると、今度は横たえられた白鮫号の船体ハルに噛りついて、スマートな舷側に沿って注意深く鋭い視線を投げかけながら、透したり指で触って見たりしていたが、不意に私達を振り返った。
「一寸見に来給え」
 そこで私達も船体ハルに寄り添って、東屋氏の指差す線に眼を落した。
 なんのことはない。半分乾枯ひからびかかった茶褐色の泡の羅列が、船縁ふなべりから平均一フィートほどの下の処に、船縁に沿って、一様に船をぐるっと取り巻くようにして長い線を形造っているだけだ。何処にでも見受けられるありふれた現象だ。例えば、潮の引いてしまった岩の上にでも、砂の上にでも――。
「なんだ、泡の行列か……」
 思わず云いかけた私も、しかし意味ありげな東屋氏の視線に合って、ただちに彼の云おうとしている意味を汲み取った。
「ああなるほど、君は底に粘土質の泥と長海松の生えている海岸の水面に、この茶褐色の泡が浮いていた、と云うんだね?」
「うむ、だが僕は、もっと素晴らしい事実に気がついたんだ」
 そう云って今度は下男に向って、
「この辺は、波は静かでしょうね?」
「ええ、ま大体……」
「昨夜は?」
海霧ガスがあったほどですから、無論なぎでしたでしょう」
「よし、ともかく船を出そう」
 東屋氏は進み出た。
 この速製の探偵屋に最初のうち少からず危気あぶなげを覚えていた私も、いまはもう躊躇するところなく、下男と力を合わせて白鮫号を水際へ押し出した。
 やがてヨットが静かな磯波に乗って軽く水に浮ぶと、東屋氏は元気よく飛び乗った。そしてなにかひどく自信ありげに、
「さあ。これから、一寸興味ある実験を始める。船の水平を保つように、各自の位置を平均して取ってくれたまえ」
 東屋氏は上機嫌で船縁に屈み込むと、子供のように水と舷側の接触線を覗き込んでいたが、不意に立上って私をふんづかまえた。
「君、何貫ある?」
「何貫って、目方かね?」
「そうだ」
「よく覚えていないが、五十キロ内外だね」
「ふむ。よし」
 と今度は下男に向って、
「君は?」
「私もよく覚えていませんが、六十キロ以上は充分ありましょう」
「成る程。――僕が約五十六キロと……一寸君達、そのままでいてくれ給え」
 そう云って両手で抑えるように私達を制すると、そのまま岸に飛びあがって行った。が、間もなく大きな石を二つ程重そうに抱えて来て、船に積み込ませた。
「さあ、もう一度船の水平を保つために、各自の位置に注意して。いいですか」
 そう云って東屋氏は、前と同じように屈み込んで舷側をのぞき込んでいたが、間もなく微笑みながら立上って云った。
「よし。これで恰度よい――。ところで、先程僕が面白い発見をしたと云ったのは、これなんだよ。つまり、僕と君とそれから下男あなたと、そしてこの大小二つの石と、合計しただけの重量が、一層正確に云えばいまこの白鮫号に乗っかっているだけの重量と同じだけの重量が、そうだ、人間なら大人三人位の重量が、昨夜この泡のある海面に浮いていた同じ白鮫号の中に乗っかっていたのだ。つまり深谷氏は、昨夜一人だけでヨットへ乗っていたのではない。誰かと一緒に乗っていたのだ」
「成る程」
「そしてだ。その重量は、泡のある海面で、この白鮫号の上から、消えてなくなったのだよ」
「どうして?」
 私は思わず問い返した。
「だって、もしもそうでなかったなら、いま僕は、こうしてこんな発見をすることは出来ないよ。その泡の海から、波にびたつかれながら白鮫号がここまで漂って来る間に、柔かな泡は、すっかり波に洗われちまってる筈だからね」
「うむ。全くだ。判った、判った。つまり深谷氏の屍体が、その泡の浮いているところで水中に投げ込まれ、船尾スターンへロープで繋がれたんだな」
「そうだ。だがそれだけじゃあない。ただ深谷氏の屍体が船外に投げ出されただけではなく、深谷氏よりももっと重かった筈の彼以外の重量――人間なら二人の大人だ。そうだ。深谷氏の親愛なる二人の同乗者――それも、恰度その個所で船から降りてしまったのだ。つまり白鮫号はすっかりからになったわけさ。ね、いいかい、深谷氏の体重が一つ減った位では、とても白鮫号はそんなに軽く浮かないからね。試みに――」
 云いかけて東屋氏は岸に飛び上った。
「それご覧。舷側の吃水線と、君の所謂泡の行列って奴との間隔を注意してくれ給え。僕が一人降りたって、二インチとは隔てが出来ないだろう……キャプテン深谷氏だって、僕と大した違いはない筈だ。従ってそればかしの間隔は、船が漂っている内に、殆んど波に犯されてしまうべきだ。殊にヨットは、人が乗っていたりすると、揺れ易いからね。――さあ今度は、皆んな降りてみて下さい」
 で私達は、早速岩の上へ飛び上った。
 するとヨットは急に軽く浮き上って、泡の線と吃水線の間には、平均五インチほどの隔たりが出来てしまった。成る程これでは、小さな浪ぐらいでは、とても全部の泡を消すことなど出来っこない。東屋氏は再び続ける。
「つまり深谷氏の二人の同乗者は、その泡の浮いた粘土質の底の海岸で、深谷氏の屍体を船尾スターンへ繋ぎ、白鮫号をすっかりからにして自分達も降りてしまったわけだ。ところで、この茶褐色の粘り気のある泡は、普通の潮や波の泡ではない。もっと複雑な空気中の、或いは水中の埃その他無数の微粒子によって混成されているのだ。そしてこの種の泡は、広い海面よりも、入江や、彎曲した吹き溜りと云うような岸近い特殊な区域に溜っているものだよ。――ところで、この邸にははかりがありますか?」
 東屋氏は下男に訊ねた。
「あります。自動台秤の大型な奴が、別館はなれの物置の方に」
「結構、結構。――さあ、もうこれで、いまこの白鮫号へ乗った全部の重量と、深谷氏の体重を計りさえすれば、二人の同乗者の目方も判ると云うわけだ。極く簡単な引算でいい」
「こりゃあ面白くなって来た」
 私は思わず呟いた。東屋氏は笑いながら、
「いやどうも有難う……ではもう、この位でいいだろう。引揚げよう。おっと、この二枚の帆の装置と云うか、トリムと云うか、固定された方向だね。こいつは、右舷の前方から吹き寄せる風に、ひとりでに押されるように仕掛けられた訳だ。そして、左寄り約十度に固定された舵――ははあ、つまり、船を自然に大きく左廻りに前進させようと云う――泡のある吹溜りで深谷氏の同乗者が仕掛けたテクニックだな。よし。さあ出掛けよう。君、その石を持ってくれ給え」

          三

 東屋氏は大きな方の石を、私は小さな方の石を、お互に重そうに抱えて、崖道を登りはじめた。軽く吹き始めた潮風が、私達の頬を快く撫で廻す。下男の早川は、ヨットの艫綱ともづなを岩の間の杭に縛りつけたり、船小屋からシートを取り出してヨットの船体ハルへ打掛けたりしていたので、私達よりもずっと遅れてしまった。
 私達が崖道を半分ほども登った時に、深谷家の女中が馳け下りて来て、仕度が出来たから昼食をしたためるよう申出た。
 ところが東屋氏は、早速彼女をとらえて短刀直入式に質問を始めた。
「こちらの御主人は、いつも夜中に海へ出て、いったい何をされるんですか?」
「さあ……」
 と彼女は驚いたように眼をみはりながら、
「でも、夜中にヨットへお乗りになるのは、キャプテンの御趣味なんですもの……」
「随分変った趣味ですね……貴女あなたも、お供をしたことがありますか?」
「ええ、暫く以前のことですが、一度ございます……綺麗な、お月夜でございました」
「ただこう、海の上を帆走はしり廻るだけですか?」
「ええ。でも素晴らしい帆走セイリングですわ」
「お月様でも出ていればね」
 と東屋氏は話題を変えて、「時に、昨日の夕方、他所よそからのお客さんはありませんでしたか?」
「夕方ですか? ええございませんでした」
「黒塚さんは?」
「あの方は九時過ぎでした」
「電話は?」
「電話? ええ、掛りません。あの電話は、殆んど飾りでございますわ」
「昨夜御主人は、なにを心配して見えたんですか?」
「え?……さあ、少しも存じません。なんでも大変、お顔の色は悪うございましたが――」
 彼女は不審気に東屋氏を見た。
「では昨夜は、誰れと一緒にヨットへ乗られたんですか?」
「いいえ、キャプテンお独りだけでございました」
何時いつ頃出られたんです」
 東屋氏は益々執拗だ。
「さあ、存じませんが……早川さんと私は、それぞれお先へやすまして戴きましたので――」
「ではどうして、キャプテン独りで出られたのが判ったのです?」
「それは……」と彼女は明かに困った風で、「でも、ヨットは今朝、キャプテン独りだけで漂っていましたので」
 東屋氏は一息つくと、改めて云った。
「キャプテンは、随分変った方でしたね?」
「ええ。風変りでいらっしゃいました。……そして、なんでも『これはわしの趣味じゃ』と被仰おっしゃるのが口癖でございました」
 やがて私達は、崖道を登り詰めた。
「物置のある別館はなれと云うと、あれなんですね?」東屋氏は岬の最尖端の船室ケビン造りの建物に向って、歩きながら言葉を続けた。
「もう少し、私と話をして下さい」
「はい」
 彼女は仕方なさそうについて来た。
「あの黒塚さんと云う方は、どう云う人ですか?」
「ああ黒塚様ですか」と彼女は幾分元気づいた様子で、「なんでもあの方は、以前キャプテンの乗っていらした汽船で事務長をなさっていらっしゃるとかで、休航毎にああしてお遊びに来られます」
「御年配は?」
「さあ、四十位? と思いますが……まだお独身ひとりで、快活なお方ですから、キャプテンよりもむしろ奥様や洋吉様とお親しい様子で……」
「ああその洋吉さんと云う方は、奥さんの御舎弟ですってね」
「ええそうです。チョコレートのお好きな、随分モダーンな方で、この春大学を御卒業なさってから、ずっとこちらにいらっしゃいますわ」
「チョコレートが好き?」
 私は瞬間、先程の下男の言葉を思い出して、思わず口を入れた。「それで、昨夜何時頃にやすまれましたか? 洋吉さんは」
「昨夜ですか? 存じません。なんでも黒塚様と御一緒に、久し振りだからって随分遅くまで御散歩のようでしたので――」
 恰度この時、下男の早川が私達に追いついて来た。そしてもう別館はなれの物置の入口まで来ていた私達へ、
「秤は此処にございます。一寸お待ち下さい」
 そう云ってポケットから鍵を取り出した。
 東屋氏は女中へ云った。
「いや、もう結構です。有難う」
 そこで彼女は、ほっとしたように急いで、主館おもやの方へ引返ひっかえして行った。そして間もなく私達は物置の中へはいって、銘々めいめいに秤へ懸りはじめた。
 先ず東屋氏が五六・一二〇キロ、次に私が五五・〇〇〇キロ、下男の早川が六五・二〇〇キロ。二つの石は合せて一四・六〇〇キロ。そして合計一九〇・九二〇キロ。――
 東屋氏は、以上の数字をノートへ記入しながら、
「合計一九〇・九二〇キロと、さあよし。つまりこれが、昨夜の白鮫号に加えられた、最高の重量と云うわけだ。……じゃあここらで、昼食にありつくとしようか」
 そこで私達は物置の外に出た。けれども東屋氏は、物置の直ぐ右隣のスマートな船室ケビン風のへやを見ると、思いついたように早川へ云った。
「これが、キャプテンの書斎ですね?」
「ええそうです。船室ケビン船室ケビンと呼んでいる特別の室でございます。やはりキャプテンの御趣味に従って七、八年前に建てられたものでして、お許しがなくては誰でも這入れないことになっております」
「成る程、じゃあもう、永久に這入れないわけですね」
 東屋氏は皮肉を云いながら歩き出した。

「ローンジをかねた美しい主館おもやの食堂では、窓に近い明るい場所にテーブルを構えて、深谷夫人と黒塚、洋吉の三人が、悲嘆のうちにも、もう和やかな食事を始めていた。そこで私達も席について気不味さを避けるように窓の外の美しい景色を眺めながら、人々の仲間に加わった。
 ここから見ると、海の姿は一段と素晴らしい。遠く左の方には薄紫色の犬崎が、私達の通って来た海岸へ続くのであろう、この大きな内海を抱きこむようにして、漂渺たるみぎわを長々と横えている。向って右側には、油を流したような静かな内湾地帯だ。幾つもの小さな岬が重なり合った手前には、ひときわ目立ってまだらな禿山のある美しい岬が、奇妙に身をねらして海の中へ飛出している。凡て右側の湾の多い陸地は、深い山が櫛の歯のように海に迫り、蜘蛛の子を散らしたような磯馴松いそなれまつが一面に生い茂っている。この邸以外には人家らしいものとてなく、見渡す限り渺茫たる海と山との接触だ。青い、ぼかし絵のようなその海を背にして、深谷氏の船室ケビンが白々と輝き、風が出たのか白いマストの上空を、足の速い片雲が夥しく東の空へ飛び去っていた。
 やがて食事が済むと、紅茶のカップを持ったまま、窓の外を見ながら東屋氏が口を切った。
「あのマストは、何になさるのですか?」
「あああれは、汽船ふねの気分――を出すためとか申しまして」
 夫人が物憂げに答えた。「あれも主人の、趣味でございます」
尖端さきの方に妙な万力が吊るしてありますな?」
「ええ、そう云えば、時にはあの尖端さき燈火あかりを点けることもございました……年に一度か二度のことですが、なんでも、いつもより少し遠く、沖合まで帆走セイリングする時の、目標めじるしにするとか申しまして……」
「ははあ」
 と東屋氏はいずまいを改めて、
「いや、随分いい眺望ながめですなあ」
「お気に召しましたか?」
 洋吉氏が口を入れた。
「いや、全く美しいです。こんな美しい海岸でしたら、穢い泡などが浮き溜っているようなところはないでしょうなあ?」
 すると洋吉氏は、
「いや。ところがあるんですよ」
 と窓の外を指差しながら、「ほら、あそこに、静かな内湾のこちらに、妙に身をねらした、処々に禿山のある岬が見えますね。あの岬は鳥喰崎とりくいざきと呼ばれていますが、あの先端さきの向う側が、一寸鉤形に曲っていて、そこに小さなよどみと云いますか、入江になった吹き溜りがあります。その吹き溜りには、濃い茶褐色の泡が平常いつも溜っています……去年の夏水泳をしながらあの中へはまり込んで、随分気味の悪い思いをしましたから、よく覚えていますよ」
「ああそうですか。……時に貴方は、大変チョコレートがお好きだそうですな?」
 このぶっきら棒な質問には、明かに洋吉氏も驚いたと見えて、複雑な表情かおをして東屋氏を見返した。
「ああ、いや」と東屋氏は妙な独り合点をしながら、「実は今朝、ヨットの中にチョコレートのチューブがあったそうですので、私はまた、貴方が昨晩……」
「冗談じゃあない」
 洋吉氏が流石さすがに色をなして遮った。「成る程私は、チョコレートが好きです。が、あれは、昨日の午後に、姉と二人で帆走セイリングした時の残りものです。昨夜は、僕は黒塚さんと一緒に、おそくから山の手を散歩していたんです」
「ははあ、ではその御散歩中、ひょっと怪しげな人間に逢いませんでしたか?」
「逢いませんでしたよ」
 と今度は、いままで黙って巻葉シガーを燻らしていた黒塚氏が乗り出した。
「では、海の上に、白鮫号は見えませんでしたか?」
 すると黒塚氏は、口元に軽くあわれむような笑いを浮べながら、
「なにぶん闇夜で、生憎薄霧さえ出ましたからね……」
 そこで東屋氏も笑いながら、
「お風邪を召されませんでしたか?」
 とそれから急に真顔になって、「ところで、大変あつかましいお願いで恐縮ですが、貴方と洋吉さんのお二人に、一寸お体を拝借したいんですが?」
「よろしいですとも……だが、なにをなさると被仰おっしゃるんです?」
「あの物置の、秤にかかって戴きたいです」
「と被仰おっしゃると……いったい又なんのためにそんな事をなさるんですか?」
「ええその、この事件に就いて、少しく愚案が浮びましたので……」
「はて? 少しも合点がいきませんな……我々の体を天秤へ乗っける――?」
「つまりですな……犯行当時の白鮫号に、人間が合計三人以上、正確に云えば、一九〇キロ強の重量が乗っかっていた、と云う私の推定に対する実験のためにです」
「ど、どうしてそんな事が断定出来たのですか?」
「先程拝見しました白鮫号の白い舷側の吃水線から、一様に五インチ程の上のところに、水平な線に沿って、茶褐色の泡の跡が残っております。でこの五インチの開きは、正確な計算によりますと、約一九〇・九二〇キロの積載重量の抵抗、白鮫号の浮力に対する抵抗を証明しているのです」
 すると黒塚氏は軽く笑い出した。そして、冷やかな調子で口を入れた。
「成る程ね。しかしわれわれ玄人くろうと側から見ると、貴方のそのお考えには、少々異論が出ますな……」
 東屋氏の顔が心持緊張した。私もついつり込まれて、思わずテーブルの上へ乗り出した。
「貴方はローリング、つまり横揺れを考慮に入れていない」と黒塚氏が始めた。
「御承知の通り、このローリングは、どんな船でも多少にかかわらず必ず作用するものでしてね。で、この場合、からの白鮫号の吃水線上五インチのところに泡の線が着いていたにしても、それをもってただちに九〇キロ[#「九〇キロ」はママ]強の重量が積載されていたと断定するのは、甚だ早計な観測だと思うのです。と云うのは、たとえそれだけの重量の抵抗がなかったとしても、ローリングによって船が左右に傾けば、その角度の大小に従って舷側の吃水線は上下します。そしてもしも海上に泡が浮いていたとすれば、幾度か上下した吃水線のうちの最上の線に沿って、その泡は残ります。つまり空の船が水平に浮かされた場合の標準吃水線以上の位置に、貴方の見られた、第二の別な、泡の吃水線が、何にも乗らなくても、ローリングで作られるのです。成る程あの吹き溜りでは、波はなし、岬の陰で風も少い訳ですから、縦揺ピッチングなどはしないでしょう。が、ローリングは、多少にかかわらず必ずいたします。ですから支那の司馬温公みたいに、池に舟を浮べて象の重さを計るような具合には行きませんぜ。貴方の一九〇キロ説は、少々早計でしたな」
 そう云って黒塚氏は、葉巻シガーの吸い差しを銀の灰皿の中へポンと投げこんで、両腕を高く組みあげた。
 成る程流石さすがに専門家だけあって、論説もなかなか行き届いている。私は急に心配になって東屋氏の形勢を窺った。ところが東屋氏は一向に平気で、安心したように緊張を解くと、静かに始めた。
「大変有力なお説です。だがここでひとつ、私の素人臭い反駁をさして貰いましょう。でその前にもう一度申上げて置きますが、あの泡の吃水線は、白鮫号の船体ハルの周囲、舷側全体に亘って同じ高さを持っているのです。つまり泡の吃水線は船首プラウ船尾スターンもどの部分も一様に水平であって、少しの高低もないのです。――で、私の考えとしましては、只今被仰ったローリングの作用には、原則として必ず中心となる軸、と云いますか、まあこの場合白鮫号の船首プラウ船尾スターンを結ぶ線、首尾線とか竜骨線とか云う奴ですね、とにかくその軸がある筈です。でもし、貴方の被仰おっしゃったように、あの泡の吃水線が積載された一九〇キロ強の重量の抵抗によって出来たものではなく、ローリングによって標準吃水線以上の位置に出来たものであるとすれば、そのローリングの軸である船首プラウ船尾スターンの吃水線は、左右の舷側の吃水線に較べて、必ず低くなければならない筈です。逆に云えば、両舷側の泡の吃水線は、軸の両端の船首プラウ船尾スターンを遠去かるに従って高くなる訳です。ところが、再三申上げた通り、白鮫号の吃水線はどの部分にも高低がなく、一様に水平を保って着いているのです。なんでしたなら、これからひとつ実地検分を願っても好いです。で、この論点からして、失礼ですが、あの泡の跡がローリングによって出来たものであると云うお考えを否定しなければなりません。もっとも私は、白鮫号が決してローリングしなかったとは思いません。現在いま残っている泡の線を壊さぬ程度の横揺ローリングはあったでしょう。しかし、比較的波の多いこちらの海へ漂流して来る間に、ローリングをして尚且つ泡の線が殆んど全体に亘って無事でいられたのは、その吹き溜りで白鮫号が、すっかりからになり、急に軽くなって、吃水が浅くなったからです」
「……ふん、理窟ですな」
 黒塚氏は口惜しそうに呟いた。
「では、先程のお願いを、お聞入れ願いたいと思います」
 そこでとうとう、二人は秤に懸ってしまった。
 先ず黒塚氏が六六・一〇〇キロ。続いて洋吉氏が四四・五八〇キロ。合計一一〇・六八〇キロ
義兄にいさんの体重も、お知りになる必要があるんでしょう?」
 洋吉氏が云った。
「深谷氏のですか? ええ、是非ひとつ」
「恰度いいですよ。姉の『家庭日記』に、一月毎の記録がある筈ですから」
 そう云って洋吉氏は、主館おもやへ向って大声で女中に命じた。
 間もなく上品な装幀の日記帳が届けられた。洋吉氏は早速ページくる。
「ええと、これは先月……これこれ、恰度三日前のが記入してあります」
「ははあ、五三・三四〇キロですね……あ、この三八・二二〇キロと云うのは? ああ奥さんのですな。いやどうも、有難うございました」
 東屋氏の語尾がかすれるように消えると、瞬間、緊張した、気不味い沈黙がやって来た。
 東屋氏はそれとなく身を反らして数字をノートへ記入しながら、素早く引算をするらしい。私も戸外を見るような振りをして、大急ぎで暗算を始める。例の一九〇・九二〇キロから深谷氏の五三・三四〇キロを引くと……一三七・五八〇キロ――これが例の深谷氏の二人の同乗者の重量だ。ところが黒塚、洋吉両氏の合計は一一〇・六八〇キロ。同乗者の乗量より二六・九〇〇キロも少い。――昨夜深谷氏と共にヨットへ乗っていたのは黒塚、洋吉の両氏ではない。私は何故か軽い失望を覚えて東屋氏を見た。すると彼は、黙ってノートをポケットへ仕舞って、静かに外の芝生のほうへ歩き出した。
 大分風が強くなったと見えて、相変らず足の速い片雲の影が、芝生の上に慌だしい明暗を残してかすめ去る。――何気ない風を装いながらも、あれで東屋氏も私と同じように、失望したに違いない。が、やがて彼は振り返ると、さも平気な様子で、
「如何ですか黒塚さん。白鮫号の泡の跡を御検分なさいますか?」
「もう、それにも及びますまい」
「そうですか。では、警察官が着くまで、暫く白鮫号を、私達にお貸し下さいませんか?」
「どうぞ御自由に」
 すると東屋氏は、私の肩を叩きながら、わざと向うへ聞えるような大声で、
「おい、鳥喰崎へ行って見よう」

          四

 低気圧がやって来ると見えて、海は思ったよりもうねりが高かった。急に吹き始めた強い南風に先の尖った小さな無数の三角波を乗せて、深谷邸のある岬の方へむくむくと押しかけて行く。堪えられないほど陰気な色の雲が、白けた太陽の光を遮る度に、或は濃く或は薄く、水の色が著るしく映え変る。と、横ざまの疾風はやてを受けて、藍色の海面は白く光る、小さな風浪かざなみに覆いつくされ、毒々しい銀色にきらめき渡る。白い冷たいその海の彼方には、暗緑の鳥喰崎が、折りからの雲の切れ目を鋭い角度で射通した太陽の点光スポット・ライトに照らされて、心持ち赤茶けながらくっきりと映えあがって来た。
 私達の乗った白鮫号は、左舷の前方から強き南風を受けて、射るように速くうねりを切って走り続ける。私も東屋氏もヨットの帆走セイリング法は心得ていたし、それにこのシックなマルコニー・スループは、恐ろしく船足が軽い。やがて私は、軽く面舵おもかじを入れた。白鮫号の船首プラウは、緩やかな弧を描いて大きく右転しはじめる。鳥喰崎に近附いたのだ。進むにつれて右舷の海中へ、身をねらして躍り出た巨大な怪獣のような鳥喰崎の全貌が、大きくのしかかるように迫り寄る。すると、その出鼻を越して私達の視野の中へ、鏡のような内湾が静かに横わって来た。船は緩やかにその内湾の入口に差し掛る。間もなく私達は、無気味な吹溜りを擁していると云う小さな鉤形の岬を曲り始めた。内湾を左に見て段々私達がその岬を折れ曲るに従い、鳥喰崎の陰鬱な裏側が見え出して来た。確かにそれは陰鬱だった。
 水際には少しも岩がなく、それかと云って、何処の浜にでもある砂地とても殆んどなく、一面に黒光りのする岩のような粘土質の岸の処々に、あしに似た禾本かほん科の植物類が丈深く密生して、多少凸凹でこぼこのある岸の平地から後方鳥喰崎の丘にかけて、いばらのような細かい雑草や、ひねくれた灌木だの赤味を帯びた羊歯類の植物だのが、遠慮なく繁茂している。そしてその上方には、原始的な喬木の類が重苦しいまでに覆い重なっている。船がこの陰気な小さい入江にはいると、不思議に風がなくなってしまった。少しの横揺れもしない白鮫号は、惰性の力で滑るように動いている。恰度この時、いままで海面にギラギラ反射しながら照りつけていた太陽の光りが、深い雲の影に遮られると、急に辺りが暗く、だが気味悪いほどハッキリして来た。私は思わず水面を見た。
 この小さな海の袋小路の上には、どろどろした、濃い、茶褐色の薄穢い泡の群が、夥しく漂っている。そしてそれが、入江の奥へ行くに従ってどんどん密度を増し、とうとう一面の泡の海と化して来た。
「この辺へ着けよう」
 東屋氏の言葉に従って重心板センター・ボードが海の底へ触れないように、なるべく深味のところを選んで私は船を着けた。
 恰度私達が、しっとりした岸の上へ降り立った時に、
「シイッ!――」
 と東屋氏が、不意に私を制した。
 辺りが恐ろしいほど静かになった。と、その静寂しじまを破って、遠く、低い、木の枝を踏みつけるような、或は枝の葉擦れのような、慌だしいあし音が私の耳をかすめ去った。誰かが大急ぎで、密林の中を山の方へ駈け込んで行くのだ。
「誰れだろう?」
 私は東屋氏を振り返った。が、彼はもう跫音などには頓着なく、五米突メートルほど隔てた岸に立って、黒い粘土の上を指差しながら私へ声を掛けた。
「一寸見に来たまえ」
 そこで私は東屋氏の側へ歩み寄って、指差された地上へ眼を落した。水際の粘土質から草地の方へ掛けて、引っこすったような無数の妙な跡がある。確かに足跡を擦り消した跡だ。
「昨晩、キャプテン深谷氏を殺した男達の足跡だよ。それを、いま密林へ逃げ込んで行った男が消したわけさ」
「追っ駈けて捕えよう」
 私は思わずいきまいた。
「もう駄目だよ。こんな勝手の知れない山の中では、僕等の負けにきまってる」
「ふん……じゃあ怪しい奴は、まだうろうろしてたんだな」
 私は口惜しそうに云った。
「そんなことはきまってるさ」
 と東屋氏は、それから意外なことを云った。
「君は、深谷氏を殺した男達が、外部から来たと思っているのかい?」
 全く私は、先程の秤の実験に失敗してから、今更深谷氏の妙な独言を思い直して、深谷氏の恐れていたのは黒塚ではなく、全く別の、外部そとから来た男だと考え始めていた矢先きだったので、東屋氏のこの言葉には少からず驚いた。
「そりゃあ僕だって」と東屋氏は笑いながら、「君と同じように、黒塚と洋吉を臭いなと思ったが、先刻さっきのあの実験に失敗してからは、どうやら犯人は我々の知らない全々別の外部の者だな、と思っていたさ。けれども、いまはもう違う。何故って、この消された足跡を見給え。もしも犯人が外部の者だったなら、何故僕達が鳥喰崎へ来ることを早くも知ったり、足跡を消したりなぞしたんだ。……犯人は、間違いもなく、深谷家に現在いまいる人々の中にある」
「成る程。じゃあやっぱり、現在深谷家にいる人々の中に、昨夜深谷氏の恐れていた奴がいるんだね?」
「そう考えるからむつくなるんだよ。なにも深谷氏の恐れていた奴が、必ずしも犯人だとは限るまい」と東屋氏は改まって、「……とにかく、この辺に、白鮫号の重心板センター・ボードが喰い込んだ跡がある筈だ」
 そこで私達は、恰度干潮で薄穢い泡を満潮線へ残したまま海水の引いてしまった水際へ屈み込んで、どろどろした泡を両手で拭い退けはじめた。この仕事は確かに気持が悪かった。が、間もなく私達は、干潮線の海水に三分の一程ひたった幅一インチ程の細長い窪みを発見した。そしてその窪みから一フィート程のところに、海の底が岩になっていて、深緑色の海草、長海松ながみるの先端が三四本もつれたようにちょろちょろと這い出ていた。
「これで見ると、この重心板センター・ボードの窪みは、昨晩の満潮時につけられたものだね。昨晩の満潮時と云うと、恰度十二時頃だ。さあこれでよし。今度は、足跡の方向を尋ねて見ようか」
 私達は、掻き消された足跡を辿って、草地の方へ歩き出した。二回程海岸と草地の間を往復したらしく、消された足跡は、み出したり重複したりして沢山着いていた。そして、その足跡の列の左側に、処々足跡をオーバーして、重い固体を引きずったような幅の広い線が、軽く着いているのに私達は始めて気附いた。
「なんだろう? 深谷氏の屍体を運んだ跡だろうか?」
 私は東屋氏へ声を掛けた。
「うむ、だがしかし、そうとすると、深谷氏は船中で殺されそのまま船尾スターンへロープで縛って海中へ投げ込まれたと云う僕の考えは、一応覆えされることになる……」
 東屋氏は考え込みながら草地の処までやって来た。足跡の消された跡は、そこから見えなくなってしまった。昨晩踏みつけられ、又重い物を引きずられた時には、きっと草も敷き倒されたに違いない。が、時間を経ているためにもう、皆んな生々と伸びあがっている。
 やがて処々に生い茂った灌木の間を縫うようにして、草地を歩き廻っていた私達は、ひときわ高く密生した木蔭の内側で、小さな池を発見した。そしてその細かい草の敷かれた岸辺には、大型のアセチリン・ランプが一つ転がっていた。そしてもっと私達の注意を惹いたことには、先程海岸の土の上で私達が見たと全く同じな重い物を引きずったような跡が、池の中から出たらしく岸の小石を濡して草地の中へ、しかもいま私達がやって来た海岸の方とは反対に、山の方へ向けて着いていた。重い品物は、ほんの数分間前に池から上げられて引きずられたと見え、草は敷き倒されたままびっしょりと、一面に濡れていた。
 私達は昂奮しながら、それでも黙って跡を辿りはじめた。やがて細長い草地が行き詰って、密林に立ち塞がれた前方の、今私達が辿っている奇妙な跡の延長線上に、恰度大きな黒犬がうずくまった位の、訳の判らぬ品物が見えて来た。私達は心を躍らしながら、大急ぎで駈け寄った。
 が、再び私達を驚かしたことには、その黒い品物と云うのは、貝類採取用の小さな桁網けたあみに、先程深谷邸で白鮫号の浮力の実験をした時に東屋氏が発見したと同じなマベ貝の兄弟達が、ギッシリ詰っていた。網の口は、中味がこぼれないように縛りつけてある。私達は立ちすくんでしまった。
「……やっぱり深谷氏の屍体なぞではなくて、こいつだったんだな。だが、いったいこれはどうしたことだろう? こんな貝を、しかもこんなに沢山集めて、何んにしようと云うのだろう? そしてなによりも、何故先刻さっきこの木立を逃げて行った人間は、我々にこんなものを見られたくなかったのだろう?……」
 東屋氏は、そのまま暫く考え込んでしまった。が、やがて因ったように顔を上げると、急に元気のない調子で、
「……どうも僕は、いままで大変な感違いをしていたらしい」
「と云うと?」
「いや……後で話そう。とにかく、もう此処はこれで沢山だ。引き揚げよう」とそれからマベ貝の詰った桁網の上へ屈みながら、
「済まないが、君も手伝ってくれ給え。こいつは大事な証拠品だから」
 私はなんのことだか判らぬながらも、取敢とりあえず彼の申出に従った。やがてひどく重いその荷物を二人してやっとこげながら先程の小池の岸へ出て来た私達は、其処でアセチリン・ランプをも荷物の中へ加えて、間もなく元の海岸へ出た。
 重い荷物を白鮫号に積み込んだ私達は、この吹き溜りには風がないので、岸伝いに白鮫号の艫綱ともづなを引っ張って、風のある入江の口までやって来た。
「此処で昨晩の加害者も、セイルや舵の位置を固定して、白鮫号を放流したのだよ。見給え。ほら、やっぱり擦り消された足跡が、ずっと続いて着いている」
 東屋氏にそう云われて、始めて私はそれに気がついた。こちらの足跡は最初上陸した附近の足跡よりも先に消したと見えて、消し方がずっと丁寧である。
「さあ。僕等もこの辺で出帆しよう。大分風も強くなって来た」
 私達は船に乗り込んだ。大きな大檣帆メンスルは暫く音を立ててはためいていたが、やがてその位置を風向きに調節されると、白鮫号は静かに走り出した。
 東屋氏は紙巻シガーレットに火を点けると、舵手の私に向って口を切った。
「やっぱりそうだ。僕は今まで大変な誤謬を犯していたよ。つまり、先刻さっきこの浮力の実験をした時に、僕は、昨夜この白鮫号に深谷氏も加えて三人の人間が乗っていたと断定したね。あれがそもそも過失なんだ。勿論重量の一九〇キロ強と云うのは間違ってはいないさ。ただ人間の頭数だ。人間の頭数が三人ではないと云うんだ。では何人か? 二人だ。勿論、一九〇キロと云う重量は、二人の人間の重量としてはひどく重過ぎる。そこで僕等は、こいつを思い出せば好いんだ。このマベ貝やらアセチリン・ランプやらの重量をね。確かにこれらの荷物が、昨夜、深谷氏と加害者の二人に加わってこの白鮫号に乗っていたと云う事は、もはや誰にだって理解出来る筈だ。つまり犯人は二人でなくて一人なんだ。で、僕はここ数十分後に、犯人の大体の体重を知る事が出来る。つまり、一九〇・九二〇キロから深谷氏の五三・三四〇キロとこの荷物の重量とをマイナスしたものが、犯人の体重と云うことになるんだ」
「成る程、合理的だ」と私は乗り出して、「じゃあもう、この荷物を秤に懸けさえすれば、それでチョンだね?」
「いや君、ところがこの事件は、それでチョンになるような単純なものではないよ。犯人は間もなく判るさ。だがそれは、この事件の大詰めではない。例えば、まずあの『明日の午後だ。明日の午後までだ、きっとここまでやって来る』と云う怯えるような深谷氏の独言を思い出し給え。いったい深谷氏はなにをそんなに待ち恐れていたのだろう?……ここで深谷氏の、奇妙な日常生活も一応考えねばならん。そして又、桁網でこんな貝をこんなに沢山拾い集めてなにをしようと云うのだろう?……ね、いくら深谷氏だって、まさか『これもわしの趣味じゃ』なんて云えまいて……」
 東屋氏はそう云って、苦々しく紙巻シガーレットの吸いさしを海の中へ投げ込んだ。
 真艫まともに強い疾風を受けた白鮫号は、矢のように速く鳥喰崎を迂廻する。陰気な雲は空一面にどんよりと押し詰って、もう太陽の影も見えない。

 それから程なくして深谷邸に帰り着いた私達は、重い荷物を提げて崖道を登って行った。
 私達の留守の間に先発の警官達が着いたと見えて、崖道を登り詰めると、顔馴染の司法主任が主館おもやの方から笑いながらやって来た。
「やあ、先生。殺人事件だと云うのに、ヨット遊びとは驚きましたなあ」
 そこで私は、東屋氏による事件探査の異常な発展振りを、簡単にかいつまんで説明した。すると司法主任は、
「先手を打たれたわけですな。いや、結構です。じゃあひとつ、その秤の実験に立会わして下さい」
 そこで私達は、早速別館はなれの物置へやって来た。
 もういまここで、犯人が判るのかと思うと、私は内心少からず固くなった。が、東屋氏はすこぶる冷淡で、さっさと私に手伝わすと、二つの荷物を秤台の上へ乗っけてしまった。
 計量針が、ピ、ピ、ピッと大きく揺れはじめる。そして見る見るその振幅が小さくなって、神経質に震えながら――チッと止まる。
 七一・四八〇キロ
 瞬間、東屋氏は眼をつぶって暗算を始める。と、急に、どうしたことか、手に持っていたノートを、ばったり床の上に落してしまった。
 彼の眼には、顔には、見る見る驚きの色がみなぎり始める。そしてその驚きの色は、直ぐに深刻な、痛々しい、困惑の影によって覆われてしまった……が、間もなく、かすかに希望が浮ぶ。そして追々に明るく、強く、自信に満ちて……
「判りましたか?」
 司法主任が云った。
「判りました」
「犯人は誰です?」
「犯人は……」
 云いかけて東屋氏は、
「一寸待って下さい」
 と今後は私の肩を叩いて笑いながら、
「君は、判ったかい?」
「うん、いまその、計算中だよ」
 私は周章あわてて答えた。すると東屋氏は再び微笑しながら、
「おい先生、僕は君に挑戦するぜ。ひとつ、犯人は誰だか、当ててくれ給え。もう君は、この事件の関係者の中で、誰の体重がどれだけあるか? そしてどうすれば犯人の体重が判るか? いやそれだけではない、少くとも犯人を自分で推定することの出来るだけの、凡ての必要な材料データを心得ている筈だ。さあ、見事に当ててくれ給え」
 東屋氏はそう云って、私のためにノートを拾いあげてくれた。
「判っていられたなら、さっさと云って下さい」
 司法主任だ。
「一寸待って下さい」
 と今度は私が遮った。――こうなったら意地でも計算しなければならん。間違わぬように……
 ――先ず、問題の一九〇・九二〇キロから、深谷氏の五三・三四〇キロを引く……すると、一三七・五八〇キロだ。さて今度は、これからこのマベ貝やランプの七一・四八〇キロを引く……ええと……六六・一〇〇キロだ。六六・一〇〇キロ!……はて、なんだか覚えのある数字だぞ。私は大急ぎでノートの記号を辿る……と、ああまさに、黒塚氏が六六・一〇〇キロ
 で早速東屋氏へ、
「判ったよ」
「なに判った?」
 と東屋氏は、私の顔をしげしげと見詰めながら、
よく考えて見ましたか?」
「馬鹿にし給うなよ」
「じゃあ云ってご覧」
「犯人は黒塚だ!」
「違う!」

          五

「違う?……冗談じゃあない」
 私は思わず吹き出した。
「全く、冗談じゃあないよ」
 と東屋氏は大真面目だ。
 そこで私は、いささかむッとして、
「君こそ計算違いだ」
「どうして?」
「だって、いいかい……一九〇・九二〇キロから、深谷氏とこの荷物の重量を引けば、六六・一〇〇キロじゃないか。そしてこれこそは、まさに黒塚氏の体重だ。しかも、ピッタリと合う……」
「だから違うんだよ」
 と東屋氏だ。
「何んだって?」
「何んでもないさ」と東屋氏が始めた。
「つまり、ピッタリ合うから、違うんだ。判るだろう?……成る程、君の算術には間違いはない。が、君は、算術と現実とをゴッチャにしてしまった。だからいけないんだ。ね、考えて見給え。僕達は、昨夜犯行当時の白鮫号の中味を、そっくりそのまま秤に懸けたわけじゃあないんだ。今日になってから、しかもあっちこっちバラバラの寄せ集め式計算だ。おまけに、浮力の実験に際しても、厳密に云えば必ず多少の不正確さは免れなかった筈だし、搭乗者の服装やその他の細かな変化も、多少とも見逃しているのだ。だから一九〇・九二〇キロと云う数字は、いや、深谷氏の数字もこの荷物の数字も、凡て犯人推定の引算のために、なくてはならぬ大事な数字には違いないが、それはあくまで大体の数字であって、その大体の数字に依る計算の現実の結果が、ピッタリ合う筈はない!……だから、いま、引算の結果が黒塚氏の体重にピッタリ合った時には、僕は全くびっくりした。実に見事な偶然だよ。余りに見事過ぎて、君は罠に引っ掛かったのだ」
「じゃあいったい、犯人は誰です」
 司法主任が云った。
 東屋氏は私の手からノートを取ると、
「六五・二〇〇キロの下男の早川です」
 すると司法主任は浮き腰になり、
「下男?――失敗しまった。そいつは私達の着く前に、町の郵便局まで出掛けたそうです」
「郵便局?」
 今度は東屋氏が乗り出した。
「飛んでもない。――この岬から西南の海岸一帯に亙って、非常線を張って下さい。山も木立も、それから鳥喰崎も……あいつの『郵便局』はその辺にあるんです」
 と私の方をチラッと見て、
「現に僕達は、先刻さっき鳥喰崎の端っぽで早川氏の跫音を拝聴したんだ」
 司法主任は直ぐに飛び出して行った。
 東屋氏も立上った。
「さあ、忙しくなって来たぞ」
 やがて東屋氏は主館おもや玄関ポーチへやって来ると、そこで急に騒ぎ出した警官達を見ながら女中と二人でうろうろしていた深谷夫人を捕えて、早速切り出した。
「奥さん。凶悪な犯人が判りました。下男の早川です」とそれから驚いている夫人へ丁寧に改まって、「時に、甚だ済みませんが、一寸御主人の船室ケビンを拝見さして戴きたいのですが――」
「ああ書斎でございますか?」
 と夫人は一寸躊躇の色を見せたが、直ぐに、
かしこまりました」
 そう云って奥へはいって行った。が、間もなく戻って来ると、小さな銀色の鍵を東屋氏に渡しながら、
「どうぞご自由に、お調べ下さいまし」
 やがて私達が再び別館はなれの前まで来ると、東屋氏は、物置の秤台に置かれた桁網の中からマベ貝を二ツ三ツ掴み出して来て、キャプテン深谷の船室ケビンへ這入った。
 けれどもそのへやは、ただ船室ケビン式に造られていると云うだけで、中は割に平凡なものだった。海に面して大きく開いているさんのはまった丸窓の横には、立派な書架しょだなが据えられ、ギッシリ書物が詰っている。総じて渋い装幀の学術的なものが多い。書架と並び合って、大きな硝子戸棚が置かれてあり、その中には、わけのわからぬ道具や品物がいっぱい詰っていたが、黄色い硝子のはまった大きなひとつの吊りランプが私の眼を惹いた。部屋の中央には、およそこの部屋に不似合な一脚の事務机が据えられてあり、その上の隅には、書類用の小箪笥が乗せてある。
 東屋氏はひと亙り室内を見渡すと、机の上へマベ貝を置いて、椅子に腰掛け、暫くジッと考え込んでいたが、やがて書架の前へ歩み寄ると、鼻先を馬のようにうごめかしながら、なにか盛んに書物を漁り始めた。私は、ふと自分達の乗って来た馬のことを思い出した。このやしきへ来た時に日蔭へ縛りつけたなり、まだ一度も水をやってない――で、急に心配になった私は、そのままそそくさと船室ケビンを出た。
 冷たい水を馬に飲ませている間に、私は、天候がひどく悪化した事に気付いた。辺りはますます暗く、恐ろしい形相の黒雲は、空一面に深く低く立ち迷って、岬の端の崖の下からは、追々に高くなった波鳴りの音が、足元を顫わせるように聞えて来る。
 私は玄関ポーチの横の長く張り出されたひさしの下を選んで、馬を廻した。これらの仕事を、随分手間取ってやっとし終えた時に、東屋氏がやって来た。
「君、多分この家の電話は、長距離だったね? 済まないがひとつ交換局を呼び出してくれ給え。そして三重県へ掛けたいのだがね、番号が判らないんだ。多分、鳥羽とば三喜山みきやま海産部で好いと思うが、ま、そう云って問い合して見てくれ給え。そして、大急ぎでそいつを呼び出すんだ」
 東屋氏はそのままホールの方へ這入って行った。私は廊下の電話室で、命令通り交換局へ問合した。そしてその呼び出しを依頼して電話室を出ると、廊下伝いにホールの方へやって来た。
 そこでは深谷夫人と黒塚を相手にして、東屋氏が何か尋ねているところだった。
「――すると御主人は、十年前に日本商船をお退きになると、直ぐにこちらへお移りになったんですね」
「左様でございます」
 夫人が答えた。
「で、下男の早川は何年前にお雇いになりましたか?」
「恰度その頃からでございます」
「お宅でお雇いになる以前に、早川は何処にいたかご存じですか?」
「あの男の雇入れに関しては、全部主人の独断でございましたので、私は少しも存じませんが――」
「ああそうですか」と東屋氏は頷きながら、
「ところで、あの船室ケビンの前の白いマスト尖端さきへ、御主人が燈火あかりをお吊るしになったのは、度々のことではないですね?」
「ええ、それはもうほんの、年に一度か二度のことでございます」
「ではもうひとつ、これは、妙なことですが、昨晩お宅では、ニュースの時間に、ラジオを掛けてお置きになりましたか?」
「ええ、あれはいつでも掛っております」
「有難うございました」
 東屋氏は紙巻シガーレットに火を点けて、ソファの肘掛けに寄り掛った。
 恰度この時電話室の方でベルが聞え、やがて女中がやって来た。
「どなたか、鳥羽へお電話をお掛けになりましたか?」
「ああ僕です。有難う」
 東屋氏は立ちあがって、そそくさとホールを出て行った。
 私達はさっぱりわけがわからないので、ホールの中でキョトンと腰掛けたまま、ろくに話しも出来ずに東屋氏の帰りを待っていた。
 が、十分程すると東屋氏は、折から後続の警官達が着いたと見えて、私とは顔馴染の警察署長を連れてやって来た。そして満面に、軽い和やかな微笑を湛えながら、
「さあ。これでどうやら、この事件も解決が出来ました。これからひとつ説明を致します。どうぞ別館はなれ船室ケビンへお出で下さい。あちらの方に色々材料が揃っておりますから――」
 そこで私達はホールを出た。深谷夫人は頭が痛むと云うので主館おもやに居止り、東屋氏と私と黒塚、洋吉の両氏、そして署長を加えた五人は、強い疾風の吹きすさぶ中庭を横切って、別館の船室ケビン――キャプテン深谷の秘密室ブラック・チェンバーへ走り込んだ。

          六

 とうとう、嵐がやって来た。
 私達が深谷氏の船室ケビンへはいると間もなく、海に面した丸窓の硝子ガラス扉へ、大粒な雨が、激しい音を立てて、横降りに吹き当り始めた。
 高く、或は低く、唸るような風の音が、直ぐ眼の下の断崖から、岩壁に逆巻く磯浪の咆哮に反響して、物凄く空気を顫わせ続ける。
 私達を前にして椅子に腰掛けた東屋氏は、つんざくような嵐の音の絶え間絶え間に、落着いた口調で事件の真相を語りはじめた。
「まず、兇行の行われた当時の模様を、大体私の想像に従って、簡単に申上げましょう。――昨晩の十二時頃、恰度満潮時に、海流瓶で殴り殺された深谷氏の屍体と、加害者の早川と、例の奇妙な荷物を乗せた白鮫号は、あの無気味な鳥喰崎の吹溜りへ着きます。船底の重心板センター・ボードは粘土質の海底に接触し、舵板ラダーの蝶番には長海松ながみるが少しばかり絡みつき、そして舷側ふなべりの吃水線には、一様に薄穢い泡が附着します。さて、そんな事も知らないで下男の早川は、荷物を岸に投げ降ろし、深谷氏の屍体を海中へ投げ込んで船尾スターンへロープで結びつけます。そして、岸伝いに白鮫号を引張って入江の口までやって来ると、セイルと舵を固定して、船を左廻りに沖へ向けて放流します。それから早川は元の場所に戻って、荷物を引きずって草地へ這入ります。草地の奥の小さな池の岸にアセチリン・ランプを置き、池の中へ桁網に詰めたマベ貝を浸すと、犯人はそのまま陸伝いにこっそり深谷邸へ帰ります。一方、深谷氏の屍体を引張った白鮫号は、一旦沖へ走り出しますが、御承知の通り昨晩はなぎでしたので、犬崎から折れ曲って逆流している黒潮海流の支流に押されて、この岬の附近まで漂って来ます――」
 ここで東屋氏は一寸ことばを切った。
 外の嵐は益々激しさを増して来た。遠く、掻きむしるように荒れ続ける灰色の海の水平線が、奇妙に膨れあがって、無気味な凸線とつせんを描きはじめる。多分颶風ぐふうの中心が、あの沖合を通過しているに違いない。東屋氏は再び続ける。
「――只今申上げた通りで、一通りの犯行の過程はお判りになったと思います。が、まだ皆さんの前には、不思議な理解し難い幾つかの謎が残っている筈です。そしてその謎は、最初この事件の解決に当って、割合に単純なこの殺人事件を頗る複雑化したところの代物なんです。例えばまず第一に、不明瞭なこの事件の動機です。そして昨晩ラジオの演芸時間の始まる頃から、急に変られた深谷氏の妙な態度――しかも夫人は、深谷氏の怯えるような独言を聞かれました。いったい深谷氏は『明日の午後』つまり今日のこの午後までに、なにを待ち恐れていたのでしょう? そして又桁網にいっぱい詰ったマベ貝――しかも早川は、私達にそれを見られることをひどく恐れていました――。更に又、夜中にヨットへ乗る深谷氏の奇癖。そして、むっつりした邪険な、それでいてひどく海には執心のあった妙な生活。白いマスト尖端さきの信号燈――等々です。で、これらの謎を解くために、最も常識的な順序として、ただ一つの現実的な手掛かりであり、私の最も興味を覚えた品である、このマベ貝の研究にとりかかりました。この方面で生活している私が、いまさらマベ貝の研究などを始めたんですから、全くお恥かしい次第です。ところが、そうして色々ひねくり廻しているうちに、私はふとこの貝が近頃人工真珠養殖の手段として、少しづつ実用化されるようになって来た事実を思い出したんです。これはマベ貝が、普通の真珠貝、つまりアコヤガイに比較して、大型の真珠を提供するからですが、で、ふと軽い暗示にそそのかされた私は、早速このマベ貝を一つ打ち砕いて見ました。私の予感は適中しました。これをご覧下さい」
 そう云って東屋氏は、ポケットから一粒の大きな美しい真珠を取り出した。そして、驚いている私達の眼の前の机の上へ、そっと転がしながらなおも語り続けた。
「御覧の通り、これは立派な人工真珠です。ところが、皆さんの御承知の通り、人工真珠の養殖は特許になっています。三重県の三喜山氏が特許権の所有者です。従ってこの真珠は、特許をおかして密造されたものになります。そして同時にその密造者は、養殖技術をも特許権の所有者から盗み出した事になるのです。ではその密造者は誰か? 深谷氏か? 下男の早川か? それとも二人の共謀か? 私は大きさから見て、殆んど直感的に深谷氏と早川の共謀である事を知りました。そして私は、三重県の三喜山養殖場へ、早川が十年前に何等かの関係があったかどうかを電話で照会して見ました。すると果して、十年前に早川を解雇した事があるとの返事です。そこで、今度は、ひとつこれを見て下さい」
 東屋氏は、書式張った商業書類らしい紙片を数枚取り出しながら、
「これは、この戸棚の書類金庫から一寸拝借したものです。頗る略式化した一種の商品受領証と云ったようなものですね。欧文です。で、文中商品の項に青提灯とか、赤提灯とかしてありますが、勿論これは真珠を指し示しているのです。そして、この下の処に、T・W・W――としてあるのが、荷受人のサインです。お判りになりますか? つまり深谷氏は、早川と共謀して、外人相手に真珠の密造並に密売をしていられたんです。そして、この七枚の書類の日附けを、深谷夫人にそれぞれ辿って頂いたならば、きっと御夫人は、そのおのおのの日の夜遅く、あの白いマストの尖端に黄色い信号燈が挙がっていた事を思い出されるでしょう。そしてまさにその時、この海の暗い沖合遙かに一艘の怪し気な汽船の姿を、皆さんは想像する事が出来るでしょう――」
 東屋氏は一息ついた。
 いつの間にか知らない内に、崩れるような激しい嵐は消え去って、風雨は忘れたように遠去かり、追々に、元の静けさが蘇えって来た。
 やがて東屋氏が、
「最後に、私は、キャプテン深谷氏のあの奇妙な、怯えるような独言に就いて――」
 と、この時である。
 主館おもや露台テラスの方で、女中の、悲しげな、鋭い絶望的な叫び声が、不意に私達の耳に聞えて来た。
「まあ!……いったいどうしたんだろう。海の色が、まるで血のようだ……」
 私達は、驚いて窓の硝子扉ガラスどを、力一杯押し開けた。
 と――今までの灰色の、或は鉛色の、身を刺すような痛々しい海の色は、いつの間にか消え去って、陰鬱な曇天の下に、胸が悪くなるような、濃い、濁った褐色の海が、気味悪いつやを湛えて、一面に伸び拡がっていた。そして見る見る内にその色は、ただならぬ異状を加えて行く。最初は、ただ濃い褐色だった海が、瞬く内に、暗い血のような毒々しい深紅色の海と化して来た。
 不意に東屋氏が力強い声で始めた。
「これです! この物凄い赤潮です。こいつを深谷氏は恐れていたのです。皆さんもきっとお聞きになったでしょう? 昨晩のラジオのニュースで、黒潮海流に乗った珍らしく大きな赤潮が、九州沖に現れ執拗な北上を始めたと云う事を。そしてそのために、沿海の漁場、殊に貝類の漁場は、絶望的な損失を受けていると云うニュースをですね――。深谷氏もそれを聞いたのです。そしてこの、赤褐色の無数の浮漂微生物の群成に依る赤潮が、真珠養殖に取っての大敵である事を思い出したのです。だから深谷氏は、九州沖からこの附近までの間に於ける黒潮海流の平均速度を、二十四時、つまり一昼夜五〇カイリ乃至八〇カイリと見て、赤潮の来襲を、今日の午後までと、大体の計算をしたのでしょう。そして今日の午後までに、昨日にしてみれば『明日の午後まで』に、真珠まべ貝の移殖を行わなければならない。そこで深谷氏は、用意を整え、下男――実は共謀者の早川を連れて、ひそかにやしきを出帆したのです。そして、第何回目かの作業を終った時に、早川の胸裡に恐ろしい野心が燃えあがったのでしょう。恐らくその作業場と云うのは、あの鳥喰崎の向うの、美しい、静かな、鏡のような内湾に違いないです。――だが、もうこれで、あのキャプテン深谷氏の秘密人工真珠養殖場のマベ貝は、完全に全滅です――」
 東屋氏は云い終って、煙草の煙を、ぐっと一息深く吸い込んだ。
 私達は一様に深い感慨を以て、血のような鳥喰崎の海を見た。まだらな禿山の上には、何に驚いたのか鴉の群が、折からの日差しの中に慌だしく舞い上り、そしてその岬の彼方の沖合には、深谷氏の片足をもぎ取った奴であろう、丈余に亙る暗灰色の大ふかが、時々濡れた背中を鋭く光らしながら、凄じい飛沫を蹴立てて疾走していた。
(「新青年」昭和八年七月号、「白鮫号の殺人事件」を改題、改稿)

底本:「とむらい機関車」国書刊行会
   1992(平成4)年5月25日初版第1刷発行
   1992(平成4)年5月25日初版第1刷発行
底本の親本:「死の快走船」ぷろふいる社
   1936(昭和11)年
初出:「新青年」博文館
   1933(昭和8)年7月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出時の表題は「白鮫号の殺人事件」で、「死の快走船」ぷろふいる社(1936(昭和11)年)収録時「死の快走船」と改題、かつ大幅な加筆訂正が加えられた。また、探偵役も「青山喬介」から「東屋三郎」に変わった。
入力:大野晋
校正:川山隆
2009年1月27日作成
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