一

「どかんと一発撃てば、それでもう、三十円丸儲けさ」
 いつでも酔って来るとその女は、そう云ってマドロス達を相手に、死んだ夫の話をはじめる。捕鯨船北海丸ほくかいまるの砲手で、小森安吉こもりやすきちと云うのが、その夫の名前だった。成る程女の云うように、生きている頃は、一発もりを撃ち込む度に、余分な賞与にありついていた。が、一年程前に時化しけに会って、北海丸の沈没と共に行衛ゆくえが知れなくなると、女は、僅かばかりの残された金を、直ぐに使い果して、港の酒場で働くようになっていた。砲手は、捕鯨船では高級な船員だった。だから雑夫達と違って、ささやかながらも一家を支えて行くことが出来た。夫婦の間には、子供が一人あった。女は愚痴話をしながら、家に残して来たその子供のことを思い浮べると、酔も醒めたように、ふと押黙って溜息をつく。
 最初のうちは、夢のように信じられなかった夫の死も、半とし一年と日がたつにつれ、追々ハッキリした意識となって、いまはもう、子供のためにこうして働きながら、酔ったまぎれに法螺ほらとも愚痴ともつかぬ昔話をするのが、せめてもの楽みになっているのだった。
 北海丸と云うのは、二百トン足らずのノルウェー式捕鯨船で、小さな合名組織の岩倉いわくら捕鯨会社に属していた。船舶局の原簿によると、北海丸の沈没は十月七日とあった。その日は北太平洋一帯に、季節にはいって始めての時化しけの襲った悪日だった。親潮に乗って北へ帰る鯨群を追廻していた北海丸は、日本海溝の北端に近く、水が妙な灰色を見せているあたり時化しけの中へ捲き込まれてしまった。
 最初に救難信号エス・オー・エス受信ききつけたのは、北海丸から二十カイリと離れない地点で、同じように捕鯨に従事していた同じ岩倉会社の、北海丸とは姉妹船の釧路丸くしろまるだった。釧路丸以外にも、附近を航行していた汽船の中には、その信号を聞きつけた貨物船が二艘あった。しかし、海霧ガスに包まれた遭難箇所は、水深も大きく、潮流も激しく、荒れ果てていて到底近寄ることは出来なかった。
 小船の北海丸は、浸水が早く沈没は急激だった。海難救助サルベージ協会の救難船が、現場にせつけた頃には、もう北海丸の船影はなく、炭塵や油の夥しく漂った海面には、最初にかけつけた釧路丸が、激浪に揉まれながらすべもなく彷徨さまよっているばかりだった。
 S・O・Sによれば、遭難の原因は衝突でもなければ、むろん坐礁、接触なぞでもなかった。ただ無暗と浸水が烈しく、急激な傾斜が続いて、そのまま沈没してしまった。しかし、まだ老朽船と云うほどでもない北海丸が、秋口の時化しけとは云え、何故そんなに激しい浸水に見舞われたのか、それは当の沈没船から発せられた信号によってさえも、聞きとることは出来なかった。捜査は、救難船と釧路丸の手によって続けられた。けれども時化しけがあがって数日たっても、北海丸は発見されなかった。
 それから、もう一年の月日が流れている。
 根室の港には、やがてまた押し迫って来る結氷期を前にして、漁期末の慌しさが訪れていた。
「どかんと一発撃てば、それでもう、三十円丸儲けさ」
 夜になると底冷えがするので、もう小さな達磨だるまストーブを入れた酒場では、今夜もまた女の愚痴話がはじまっていた。
「人間なんて、あてになるもんじゃないよ……ね、そうじゃない? 丸辰まるたつのとっつあん……」
「みんな、鯨のたたりだよ」
 丸辰と呼ばれた沖仲士らしい老水夫は、酒に焼けた目尻をものうげに起しながら、人々を見廻わすようにして云った。
「鯨の祟りだよ。仔鯨を撃つから、いけないんだ」
「とっつあん。また、ノルウェー人かい?」
 トロール漁船の水夫らしい男が、ヤジるように云った。
 鯨の祟り――しかしそれは、一人丸辰の親爺だけではなく、北海丸の沈没の原因について、根室港の比較的歳取った人々の間に、もうその当時から交されていた一つの風説だった。まだ日本の捕鯨船にノルウェー人の砲手達が雇われていた頃から、その人達によって云い伝えられた伝説だった。
「仔鯨を撃つ捕鯨船には、必らず祟りがある」
 宗教に凝った異邦人達は、そう云って仔鯨撃ちを恐れ拒んだ。もっともそれでなくても、鯨類の保護のために、仔鯨を撃つことは法律を以って固く禁ぜられていた。親鯨でさえもその濫獲を防ぐためには、政府は捕鯨船の建造を、全国で三十艘以内に制限しているのだった。しかし、捕鯨能率を高めるために、監視船の眼のとどかぬ沖合で、秘かに仔鯨撃ちも犯す捕鯨船は、時折りあるらしかった。
 根室の岩倉会社には、二艘の持船が許されていた。北海丸と釧路丸がそれだった。そして海霧ガスれた夕方など、択捉えとろふ島の沖あたりで、夥しい海豚いるかの群にまれながら浮流うきながされて行く仔鯨の屍体を、うっかり発見みつけたりする千島帰りの漁船があった。丸辰流に言えば、その鯨の祟りを受けて、北海丸は沈没した。そしてもう、一年の月日が流れてしまった。岩倉会社は、損害にもひるまず、直ぐに新らしい第二の北海丸を建造して、張り切った活躍を続けているのだった。
 丸辰の親爺は、酒に酔っぱらった砲手の未亡人が、客を相手に愚痴話をはじめだすと、きまって鯨の祟り――を持出す。そして話がそこまで来ると、殆んど船乗りばかりのその座は、妙に白けて、皆ないやアな顔をして滅入めいり込むのが常だった。
 今夜も、とどのつまり、それがやって来た。
 海から吹きつける海霧ガスが、根室の町を乳色に冷くボカして、酒場の硝子ガラス窓には霜のような水蒸気が、浮出していた。真赤に焼けたストーブを取巻いて、人々は思い出したように酒を飲んだ。冷くさめ切った酒だった。
 外には薄寒い風が、ヒューヒューと電線を鳴らして、夜漁の船の発動機がタンタンタンタンと聞えていた。なぜか気味の悪いほど、静かな海霧ガスの夜だった。人々は黙りこくって、苦い酒を飲み続けた。
 けれども、そうした白けきった淋しさは、永くは続かなかった。
 全く不意の出来事であったが、いままで酒臭い溜息をもらしながら、ボンヤリ人々の顔を見廻していた砲手の未亡人が、突然ジャリンと激しく器物をき散らしながら、テーブルを押しかしげるようにして立ちあがった。顔色は土のようにあお褪め、恐怖に見開らかれたその眼は、焼きつくように表の扉口ドアへ注がれている。
 水蒸気に濡れたそこの硝子扉ガラスどには、幽霊の影がうつっていた。――ゴム引きの防水コートの襟を立てて、同じ防水帽を深々とかむった影のような男が、外から硝子扉ガラスどにぴったり寄添って、蓬々ぼうぼうに伸びあがった髯面を突出しながら、憔悴しきった金壷眼かなつぼまなこで、きょろきょろとおびえるように屋内を見廻していたが、直ぐに立上った女の視線にぶつかると、こっそり眼配めくばせでもするようにあごをしゃくって、そのまま外の闇へ消えてしまった。
 それは沈没船北海丸の砲手、死んだ筈の小森安吉だった。

          二

 酒場の中では、人々が総立ちになった。
「お前の、亭主じゃないか」
 丸辰が、すっかり酔のさめた調子で云った。若い水夫が、顫え声で、
「人違いだろう?」
「いや、人違いじゃあねえ。わしは、この根室に出入する男の顔は、今も昔も、一人残らず知っている」丸辰は、立ちあがりながら、「あいつア、確かに北海丸の安吉だ」
「じゃア、生残っていたんか」
「助かって、今頃帰って来たんかな」
 けれどもやがて女は、ものも云わずに、扉口とぐちのほうへけだして行った。人々もその後から雪崩なだれを打って押しかけた。霧の戸外へ向ったドアがサッと開けられると、最初に飛出した女は、仄白くボヤけた向うの街燈の下を抜けて、倉庫の角を波止場の方へ折曲って行った男の影を見た。
「私の勝手にさしといておくれよ」
 女は、雪崩なだれ出ようとする男達を振切って、そのままバタバタと影の男を追い出した。
 倉庫の蔭を曲ると、乳色の海霧ガスが、磯のを乗せて激しく吹きつけて来た。男はなおも歩き続けた。幾つかの角を曲って、漁船の波止場に近いにしん倉庫の横まで来ると、男はやっと立止って、臆病そうに辺りを見廻し、黙って馳け寄って来た女の方へ振返った。
 それは幽霊でも何でもない、正真正銘の小森安吉だった。霧に濡れてかそれとも潮をかぶったのか、全身濡れ鼠になっていた。女は躍りかかるようにして、抱きついて行った。
 けれども生き帰って来た安吉は、以前の安吉とはまるでガラッと変っていた。短い間にも、女には直ぐにそれがわかった。
「おれが帰って来たことは、誰にも云ってくれるな」
 とにかく落付かないからうちへ這入ろう――女はそう云ってすすめるのだが、安吉は、再び辺りをきょろきょろと見廻して、
「ダメダメ、おれは狙われてるんだ。家なんか、帰れるものか」
 そして妻の肩を両手でかかえるようにさすりながら、声を改めて、
時坊ときぼうは、大きくなったろうな?」
「そりゃお前さん……だが、いったい誰に狙われてるんだよ」
 しかし安吉は、それには答えもしないで、
「ああ時坊に逢わしてくれ。おれは、むしょうに子供に逢いたいんだ」と再びおびえたように辺りを見廻し、「家へはとても帰れない。ここに隠れてるから、ここまで、子供を連れて来てくれんか。それから、一緒に逃げてくれ」
 妻が言葉も継げずに、呆気あっけにとられてためらっていると、安吉はかぶせるように続けた。
「とてつもない、恐ろしい陰謀なんだ。おれはもう、海を見るのさえ恐ろしくなった。……こうしてるのも、やりきれん。おい、早く逃げ仕度をして、時坊を連れて来てくれ。わけは、それからゆっくり話す」
 北海丸と一緒に海の底へ沈み込んで、死んでしまったと思われていた夫の安吉が、全く不意に帰って来た。そして、どこをどんなにして一年を過して来たのか、何者かを激しく恐れながら、子供を連れて一緒に逃げてくれと云う。驚きと喜びと、不安の一度に押寄せた思いで、たった今まで沈滞した諦めの中に暮していた女は、激しい動揺とためらいに突落されたのだった。
 けれども、やがて女は決心したように夫のそばを離れると、云われるままに町外れの、小さな二階借の自宅へ引返して来た。そして半ば夢見るような気持で、まだろくに歩けもしない子供を背負ったり、いつも子供を預って貰う階下した小母おばさんに、それとない別れを告げたりするうちに、少しずつ事態が呑み込めるようになって来た。
 いままでは、まるで家庭など眼中になく、勝手放題に振舞っていた強がり屋の安吉が、どんな恐ろしい目に合ったのか、突然帰って来ると妻子を連れて逃げ出そうと云う。そこには、よくよくの事情があるに違いない。沈没船から生帰って来たと云うだけでも、それはもう大きな秘密だ。――考えるにつれて、女には夫の立場が異様に切迫したものに思われて来て、身の廻りの品を纏めると、そのままそそくさと霧の波止場へ急いだ。
 歩きながらも、安吉を包む秘密への不審と不安は、追々おいおい高まって、安吉の云った「とてつもない恐ろしい陰謀」が影もなく浮上ったかと思うと、丸辰の「鯨の祟り」が思い出されたりして、それらが一緒になって、今度は今のままの安吉の体へ、直接の不安を覚えるようになって来た。
 しかし、その不安は、全く適中していた。恰度その頃鰊倉庫の横丁では、とり返しのつかない恐ろしい惨劇が持上っていたのだ。
 酒場みせの前を避けるようにして、霧次ろじ伝いにさっきの場所まで引返して来た女は、そこの街燈に照された薄暗うすやみの中で、倉庫の板壁へ宮守やもりのようにへばりついたまま、血にまみれた安吉の無残な姿をみつけたのだった。鯨のとどめを刺すに使う捕鯨用の鋭い大きな手銛で、虫針に刺された標本箱の蛾のように板壁へ釘づけにされた安吉へ、女が寄添うと、断末魔の息の下から必死の声を振絞って、
「く、く、釧路丸の……」
 とそこまで呻いて、あとは血だらけの右手を振上げながら、眼の前の羽目板へ、黒光りのする血文字で、
 ――船長マスターだ――
 と、喘ぎ喘ぎのたくらして行った。そしてそのまま、ガックリなってしまった。

          三

 根室の水上署員が、弥次馬達を押分けるようにして惨劇のその場に駈けつけたのは、それから三十分もあとの事だった。
 倉庫の横の薄暗い現場の露次には、激しい格闘の後が残されていた。板壁に釘づけにされるまでに、もう安吉はかなりの苦闘を続けたと見えて、全身一面に、同じ手銛の突創つききずがいくつも残されていた。激しい手傷を受けて、思わず板壁によろめきかかった安吉に、背後から最後のとどめを突刺して、そのまま犯人は逃げ去ったものらしい。
 取外された屍体は、直ぐに検屍官の手にうつされたが、しかしこれと云う持物はなにもなく、安吉がどこをどんなにして歩き廻っていたか、恐ろしい秘密を物語るような手掛は、一つも残っていなかった。
 今度こそ本当に未亡人になった女と、丸辰の親爺、それから最初酒場の扉口とぐちに安吉を見たマドロス達は、その場で一応の取調べを受けた。丸辰は、自分の見ただけのことを勝手に喋舌しゃべって、それから先が判らなくなると、「鯨の祟り」を持出した。そいつの尻馬に乗ってマドロス達は、同じように勝手な憶測ばかり撒き散らして、なんの役にも立たなかった。しかし安吉の妻の陳述によって、その不満は半ば拭われ、警官達には、事件の外貌だけがあらまし呑み込めて来た。
 重なる異変に気も心もすっかり転倒しつくした安吉の妻は、夢うつつで後さきもなく、夫の断末魔の有様を述べて行ったが、述べ進むにつれて少しずつ気持が落付いて来ると、最初生き帰って来た夫の何者かを恐れているらしい不可解な態度や、あわただしい自分の逃げ仕度など、たぐり出すようにしながら、ともかくも首尾を通して説明することが出来るようになって来た。
 やがて、根室の町から港へかけて、海霧ガスに包まれた闇の中に、非常線が張られて行った。
 安吉の告げ残した「釧路丸」と云えば、同じ岩倉会社の姉妹船で、北海丸が去年の秋に沈没した折、いち早く救助に駈けつけた捕鯨船ではないか。その船の船長が、安吉の殺害犯人なのだ。手配は直ぐに行届いて、峻厳な調査がはじめられた。
 すると、真ッ先に海員紹介所から、耳よりな報告がはいった。
 それによると、恰度惨劇の起った時刻の直後に、灰色の大きなオーバーを着た恰幅のいい船長マスター級の男が、砲手の募集にやって来たが、時間外で合宿所のほうへ廻ると、そこにゴロゴロしていた失業海員の中から、砲手を一人雇って行ったと云うのだ。その船長マスターは、なにか事ありげに落付きがなく、顔を隠すようにしていたが、玄関口で雇入れの契約中を立聞きした一人のマドロスは、乗込船の名を、確かに釧路丸と聞いた。
 そこで、波止場の伝馬船が叩き起されて、片ッ端から虱潰しらみつぶしに調べられた。けれども、新しい砲手を雇った船長マスターは、まだ陸地にうろついているのか、それとも自船の伝馬で往復したのか、それらしい客を乗せて出た伝馬は一艘もいなかった、しかし、その調べのお蔭で、もう一つの新らしい報告がもたらされた。
 それは、宵の口に帰港した千島帰りの一トロール船が、大きなうねりに揺られながら、海霧ガスの深い沖合にいかりをおろしている釧路丸を見たと云う。
 水上署の活動は、俄然活気づいて来た。
 齎らされた幾つかの報告を組合して、小森安吉を殺した釧路丸の船長は、海員合宿所から一人の砲手を雇うと、早くも自船の伝馬船に乗って、沖合に待たしてあった釧路丸へ引挙げたことが判って来た。
 執拗な海霧ガスを突破って、水上署のモーターは、けたたましい爆音を残しながら闇の沖合へ消えて行った。
 けれども、追々に遠去かって行ったその爆音は、どうしたことか十分もすると、再びドドドドドド……と鈍くよどんだ空気を顫わして、戻り高まって来た。と思うと、今度は右手の沖合へ、仄明くサーチライトの光芒ひかりをひらめかして、大きく円を描きながら消え去って行った。消え去って行ったのだがやがてまた今度は左の方に舞い戻り、舞い戻ったかと思うと戻り詰めずに再び沖合へ……
 釧路丸は、もうとっくの昔に錨を抜いていたのだ。

          四

「おい、美代みよ公。元気を出せよ」
 あくる日の午下ひるさがり。夜でさえまともには見られない疲れ切ったその酒場へ、のっそりとやって来た丸辰の親爺は、そこの片隅で、不足の眼を赤く濁らせ、前をはだけて子供に乳を飲ませながらしょげ込んでいた安吉の妻へ、そう云って笑いながら声をかけた。
「まア、悪い夢でも見たと思って、諦めるんだぜ」
 けれども、女が黙り込んでそれに答えないと、いままでカウンターに肱を突いて、女と話し込んでいたらしい酒場みせの亭主のほうへ、向き直りながら話しかけた。
昨夜ゆんべの、水上署の大縮尻しくじりを、見ていたかい。沖でグルグルどうどうめぐりよ。見てるほうで気が揉めたくらいだった。……いやしかし、どうもこいつア、思ったよりも大きな事件になるらしいぜ」
「いったい、どうなったんかね?」
 亭主が乗出して来ると、丸辰は例のガタ椅子を引寄せて腰掛けながら、
「まんまと釧路丸に逃げられて、今度は、各地の監視船へ電信を打ったんだ。つまり、みつけ次第釧路丸をひっつかまえるように、頼んだわけさ」
「ほウ、水上署から、水産局の監視船へ、事件が移牒うつされたってわけだね?」
 亭主が不精髯をなで廻した。
「うン、まアそんなこったろ……だが、なんしろ海は広いんだから、まだみつからない……ところが、一方そうして監視船に海のほうを頼んだ警察は、それから直ぐに、岩倉さんの事務所を叩き起したんだ。ところが、宿直の若僧が寝呆けていてサッパリはかが行かないと、業を煮やして、今度は署長が自身乗り出して、社長邸へ乗り込んで、岩倉さんにジカに面会を申込んだわけさ……ここまでは、まずいい。ところがここから先が、面倒なことになったんだ。と云うのは、なんでも岩倉の大将、ことが面倒だとでも察したのか、頭が痛むとかなんとか云って、逃げたがったんだそうだ。が、まアしかし、結局行会ゆきあって、署長から、これこれ云々しかじかと一部始終を聞き終ると、どうしたことかサッと顔色を変えて、なんだか妙にうろたえながら、『そいつはなんかの間違いだ。釧路丸は、いまは根室附近になぞおりません』と云うようなことを、答えたんだそうだよ」
「ふム、成る程。あの大将、なかなかの剛腹者だからな……それで、いったい釧路丸は、どっちの方面へ出漁ているって云ったんかね?」
「うんそれが、なんでも朝鮮沖の、欝陵島うつりょうとうの根拠地へ出張でばってるんだそうだ。成る程あそこは、ナガス鯨の本場だからな」
「ヘエー? だがそれにしても、欝陵島とは、大分方角が違っとるね」
「いや、とにかくそれで」と丸辰は手の甲でやたらに口ばたをコスリながら、「もうその時署長は、どうも岩倉の大将の云うことは、おかしいなとは思ったんだが、どのみちその場ではケジメもつけかねて、まず一応引きあげた。引挙げてそれから直ぐに、欝陵島のほうへ電信を打った。岩倉の大将の云ったことは本当か嘘か、いや嘘には違いなかろうが、そこんとこに何かごまかしがありはしないか、それが嘘だと云う証拠を握らねばと云うので、抜からず調べて貰った。返事は向うの警察から直ぐにやって来た。ところがどうだい、まず大将の云うように、岩倉会社の釧路丸は、当地を根拠地にして、一ヶ月ほど前から来とることは確かだ、が、しかし、今はいない。三日ほど前から出漁中で、まだ帰っていないってんだよ。いいかい、つまり事件のあった昨日きのうの前々日から、向うの根拠地を出漁したと云うんだぜ。出漁したんだから広い海へ出たんだ。どこの海でどんな風にして捕鯨をしとったか、果してあそこらの海でうろうろ鯨を追っていたのかどうか、さアそいつは誰も見ていた人はないんだから、流石さすがの岩倉社長も証明することは出来ないよ」
「いよいよ怪しいな」
「うン、怪しいのはそれだけじゃアない。問題はその釧路丸が、事件のあった昨晩、海霧ガスの深い根室ここの港へやって来て、それも人目を忍ぶようにしてこっそり沖合にとまっていたと云うんだから、こいつア変テコだろう。おまけに、その釧路丸の調査について、署長の訪問を受けた岩倉の大将が、サッと顔色を変えて、妙にうろたえはじめたってんだから、いよいよ以ってケッタイさ。つまり岩倉の大将も、釧路丸は日本海にいるなんて云って、根室へこっそり帰って来たことは、出来るだけ隠したい気持なんだ。こいつが、警察の見込みを、すっかり悪くしてしまった」
「そりゃそうだろう」と亭主は身をそらして腕を組みながら、「そんな風じゃ、岩倉の見込みの悪くなるのも、ムリはないな……どうもこいつア、成る程大きな事件になりそうだな。なにかがあるぜ。そこんとこに……」
「うン大有りだ。確かになにかがある……どうも、俺の思うには、あの北海丸が沈んだ時に、生き残った砲手の安吉が、いったいどうして釧路丸なんかに乗り込んでたか、ってのがまず問題だと思うよ……むろん俺は安吉が、大ッぴらで釧路丸に乗ってたのなんか、見たことアないが、昨夜、安吉を殺した釧路丸の船長マスターが、代りの砲手を雇って消えたってんだから、いままで安吉は、釧路丸に乗り込んでいたってことに、ま、理窟がそうなる」
「待ちなよ……」とこの時亭主は首をかしげながら、「あの北海丸が沈んだ時に、一番先に駈けつけたのが釧路丸だったんだから……そうだ。安吉は、運よく釧路丸に救い上げられたんじゃアないかな?」
 すると今まで、気の抜けたようにボンヤリして、二人の話を聞いていた安吉の妻が、顔を上げて云った。
「お前さん。それならなぜ安吉は、直ぐその時に、救けられたって、喜んで帰ってくれなかったのさ」
「う、そこんとこだよ」と丸辰が弾んで云った。「救けられても、直ぐに帰って来なかったと云うんだから、俺ア、そこんとこに、なにかこみ入った事情があると思うんだ。帰って来たくなかったのか……それとも、帰りたくても帰れなかったのか?」
「まさか、監禁されてたわけでも……」と亭主は不意に顔色を変えて、「おい、とっつあん。……北海丸は、どうして、何が原因で沈んだんだったかな?」
「え? なんだって?」と丸辰は、顔をしかめて暫く考え込んだが、「……まさか、お前は、釧路丸が故意に北海丸を……いや、なんだか気味の悪い話になって来たぞ……こいつアやっぱり、鯨の祟りが……」
 そう云って、ふと口をつぐんでしまった。
 表扉を開けて、若いマドロスが二人はいって来た。椅子について顎をしゃくった。安吉の妻が煩わしそうに立上って、奥へはいってしまうと、亭主は起直って、客のほうへ酒を持って行った。
「しかし、とっつあん。どうして又お前さんは、そんなに詳しく警察のほうの事情が判ったんだい?」
 再び元の席へ帰って来た亭主は、調子を改めてそう云った。すると丸辰は、思いついたように昂然と気どって、
「いや、それだよ……実は、白状するが、今夜から俺は、監視船に乗って、釧路丸を捜す探偵の仲間入りをするんだ」
「なんだって? お前が監視船に……」
「うン、頼まれたんだ」と丸辰は勿体ぶって、「実は、さっきに警察から、俺んとこへ依頼が来たんだ。それで、東屋あずまやって人に会って来たんだがな。その人は、内地の水産試験所の所長さんだそうだが、恰度根室へたら漁場の視察に来ていて、今度の事件を聞き込むと、なんか目論見でもあるのか、とても乗気になって、一役買って出たんだそうだ。それで、今夜オホツクから廻されて来る監視船に、乗り込むんだが、それについて、なんでも船乗りの顔に詳しい男が欲しいってわけで、この丸辰が呼ばれたんだ」
「へえー? そりゃ又、えらい出世をしたもんだな」
「うん。しかし、あの東屋って人に、果して釧路丸をつかませても、鯨の祟りが判るかどうかはアテにならんよ。俺も、監視船に乗込むんだから、この仕事には、大いに張合があるわけさ……そうだ、もうそろそろ、乗込みの仕度をしとかんならん。親爺、酒だ。酒を持って来てくれ!」
 妙に、鼻息が荒くなって来た。

          五

 北太平洋の朝ぼらけは、晴れとも曇りとも判らぬ空の下に、鉛色の海を果てしもなく霞ませて、ほのぼのと匂やかだった。
 昨夜根室を出た監視船の隼丸はやぶさまるは、泡立つ船首みよしにうねりを切って、滑るような好調を続けていた。船橋ブリッジには東屋氏を始め、船長に根室の水上署長、それから丸辰の親爺たちが、張り切った視線を遠くの海へ投げかけていた。中甲板の船室では、数名の武装警官達が、固唾かたずを飲んで待ち構える。
 こんなに広い海の真ン中で、果して釧路丸が発見みつかるだろうか? その予想は見事に当って、隼丸は、そのまま緊張した永い時間を過すのだった。
 けれども、午後になって遥かなふなべりの前方に、虹のように見事な潮を吹き続ける鯨群をみつけると、今まで無方針を押通した東屋氏の態度がガラリと変って、不意に隼丸は、ひとつの固定した進路に就くのだった。
「うまく発見みつかった。あの鯨群を見逃さないように、遠くから跡をつけて下さい」
 東屋氏は続けて命じた。
「それから、無線電信むでんを打って下さい。電文は――捕鯨船ニ告グ、東経152、北緯45ノ附近ヲ、北北東ニ向ウ大鯨群アリ――それほどの大鯨群でもないんだが」と東屋氏は笑いながら、「そうそう、ついでに発信者を――貨物船えとろふ丸――とでもしといて下さい」
「えとろふ丸、はよかったですね」
 船長が苦笑にがわらいした。
「いや、こんな場合、うそも方便ですか。釧路丸の船長マスターは、代りの砲手を雇ったんですから、鯨と聞いたら、じッとしてはいませんよ」
 間もなく船は、スピードをグッと落して、遠くに上る潮の林を目標にして、見え隠れ鯨群のあとをつけるのだった。船足は、のろのろと鈍くなったが、船の中の緊張は、一層鋭くみなぎり渡って来た。
 東屋氏は、双眼鏡めがねを持って、グルグルと水平線を見廻していたが、やがてひと息つくと、水上署長へ、
「昨晩お訊ねしたあの釧路丸の最高速度ですね。あれは、確かに十二ノットですね?」
「間違いありません」
 署長が、気どって云った。
 東屋氏は頷きながら、今度は船長へ、
「欝陵島から根室まで、最短距離をとって、八百カイリもありますか?」
「そうですね。もっとあるでしょう。八百……五、六十カイリも、ありますかな? しかしそれは、文字通りの最短距離で、実際上の航路としては、それより長くはなっても、短いことはありませんよ」
「ああ、そうですか」
 東屋氏は、再び双眼鏡めがねを覗き込む。
 雲の切れ目から陽光ひかげが洩れると、潮の林が鮮かに浮きあがる。どうやら仔鯨を連れて北へ帰る、抹香鯨まっこうくじらの一群らしい。船は、快いリズムに乗って、静かに滑り続ける。
 やがて一時間もすると、無電の効果が覿面てきめんに現れた。最初右舷の遥か前方に、黒い小さな船影がポツンと現れたかと思うと、見る見る大きく、捕鯨船となって、その鯨群を発見みつけてか、素晴らしい速力そくどで潮の林へ船首を向けて行った。
「さア、あの船に感づかれないように、もっと、うんとスピードを落して下さい」
 隼丸は、殆んど止まらんばかりに速度を落した。人々は固唾かたずを呑んで双眼鏡めがねを覗いた。捕鯨船は、見る見る鯨群に近付いて、早くも船首にパッと白煙を上げると、海の中から大きな抹香鯨の尻穂しっぽが、瞬間跳ね曲って、激しい飛沫を叩きあげた。――しかし、人々は、苦笑しながら双眼鏡めがねを外した。その船は、釧路丸ではなかったのだ。
「どうも、仕方がないですな。しかし、違犯行為はありませんか?」
「まア見てやって下さい。間違いないようですよ」
 やがて捕鯨船は、両の舷側に大きな獲物を浮袋のようにいくつも縛りつけて、悠々と引きあげて行った。
 鯨群は、再び浮き上って進みはじめた。隼丸は、もう一度根気のよい尾行を続ける。
 それから、しかし、一時間しても、第二の捕鯨船は現れない。東屋氏の眉宇びうに、ふと不安の影が掠めた。――もしも、このままで釧路丸が来なかったとしたら、夜が来る。夜が来れば、大事な目標の鯨群は、いやでも見失わねばならない。東屋氏はジリジリしはじめた。
 ところが、それから三十分もすると、その不安は、見事に拭われた。左舷の斜め前方に、とうとう岩倉会社特有の、灰色の捕鯨船が現れたのだ。うっかりしていて、最初船長がそれを発見みつけた時には、もうその船はしゃちのような素早さで、鯨群に肉迫していた。
 隼丸は、あわてて速度を落す。幸い向うは、獲物に気をとられて、こちらに気づかないらしい。益々近づくその船を見れば、黒い煙突には○のマークが躍り、船側サイドには黒くまぎれもない釧路丸の三文字が、鮮かにも飛沫に濡れているのだった。
 ダーン……早くも釧路丸の船首には、銛砲せんぽうが白煙を上げた。東屋氏が合図をした。隼丸は矢のように走りだした。
「おや」と船長が固くなった。「あいつ、っとるな。仔鯨撃ちですよ」
「恐らく常習でしょう」東屋氏が云った。
 釧路丸では、ガラガラと轆轤かぐらさん銛綱せんこうられて、仔鯨がポッカリ水の上へ浮上った。するとこの時、前檣マストの見張台にいた男が、手を振ってなにやら喚き出した。近づく隼丸に気づいたのだ。と、早くも釧路丸は、ググッと急角度で左舷に迂廻しはじめた。
 隼丸の前檣マストに「停船命令」の信号旗が、スルスルと上った。時速十六ノットの隼丸だ。――捕鯨船は、戦わずして敗れた。
 近づいてみると、鯨群は思ったよりも大きかった。逃げもせずにうろうろしているその鯨達の中に、諦めて大人しく止ってしまった釧路丸へ、やがて隼丸が横づけになると、東屋氏、署長、丸辰を先頭にして、警官達が雪崩なだれ込んで行った。釧路丸の水夫達は、ただの違法摘発にしては少し大袈裟過ぎるその陣立てを見て、ひどくうろたえはじめた。が、直ぐに警官達に依って包まれてしまった。
 東屋氏は、署長、丸辰を従えて、船橋ブリッジへ馳け登って行った。そこには運転手らしい男が、逃げまどっていたが、東屋氏が、
船長マスターを出せ!」
 と叫ぶと、
「知らん!」
 と首を振って、そのまま甲板デッキへ飛び降りた。が、そこで直ぐに警官達と格闘が始った。その様を見ながら、どうしたことかひどくボケンとしてしまった丸辰を、東屋氏はグイグイ引張りながら、船長の捜査を始めだした。
 船長室にも無電室にもみつからないと、東屋氏は、船橋ブリッジを降りて後甲板の士官室へ飛込んだ。が、いない。直ぐ上の、食堂にも、人影はない。――もうこの上は、船首おもての船員室だけだ。
 東屋氏は、丸辰と署長を連れて、前甲板のタラップを下り、薄暗い船員室のドアの前に立った。耳を澄ますと、果して人の息使いが聞える。東屋氏は、すかさずドアをサッと開けた。――ガチャンと音がして、へやの中の男が、ランプにぶつかって大きな影をゆららかしながら、向うへ飛び退いて行った。けれども次の瞬間、激しく揺れ続ける吊ランプの向うで、壁にぴったり寄添いながら、眼をいからし、歯を喰いしばって、右手に大きな手銛を持ってハッシとばかりこちらへ狙いをつけたその船長マスターを見た時に、丸辰がウワアアと異様な声で東屋氏にだきついた。銛が飛んで、頭をかすめて、後ろの壁にブルンと突刺さった。が、署長の手にピストルが光って、直ぐに手錠のはまる音が聞えると、丸辰が顫え声を上げた。
「そ、その男は、死んだ筈の、北海丸の船長マスターです!」とゴクリと唾を呑み込んで、肩で息をしながら、「そ、それだけじゃアない……いやどうも、さっきから変だと思ったが、あの運転手も、それから、甲板そとで捕まった水夫達も、ああ、あれは皆んな、死んだ筈の北海丸の乗組員です!」
「な、なんだって?」あとから飛び込んで来ていた隼丸の船長が、蒼くなって叫んだ。「飛んでもないこった。じゃア、いったい、それが本当だとすると、釧路丸の船員達は、どうなったんだ?」
 するとこの時、いままで黙っていた東屋氏が、振返って抜打ちに云った。
「釧路丸は、日本海におりますよ」
「え※(感嘆符疑問符、1-8-78)
 船長がタジタジとなった。
「ああ、ごもっともです」と東屋氏は急にすまなさそうに首を振りながら、「いや申上げます。なんでもないんですよ。……あなたは、釧路丸の最高速度を、十二ノットと再三云われましたね……問題は、それなんですよ。ま、考えて見て下さい。その十二ノットの釧路丸は、欝陵島の警察からの報告によれば、殺人事件の前々日に、あの島の根拠地を出漁したんでしょう?……ところが、欝陵島から根室までは、最短八百五十カイリもあります。それで、釧路丸が最高速度で走ったとしても、ええと……七十時間、まる三日はかかるんですよ……いいですか、つまり殺人のあった晩に根室へはいった船は、断じて釧路丸ではないんです」
 船長は、紙のように白くなりながら、あえぎ喘ぎ云った。
「じゃア、いったい、この船は?」
「この船は、去年の秋に、日本海溝附近で沈んだ筈の、北海丸ですよ」
「……」
 皆が呆れはてて黙ってしまうと、東屋氏は、やおらタラップを登りながら、切りだすのだった。
「いや、捕鯨史始って以来の、大事件です……実はこう云う私も、この丸辰さんに船長マスターを鑑定させるまでは、その確信も八分位いしかなかったんですがね……時に船長。捕鯨船の法定制限数は、三十せきでしたね。いやこれは、私の組立てた意見なんですが、――あの岩倉会社の大将は、二隻に制限されている自分の持船を、三隻にしたんですよ。つまり、幹部船員達と共謀して、一年前に北海丸の偽沈没を企てたんです。あの嵐の晩に、船側サイドの名前を書き変えて、まんまと姉妹船の釧路丸に偽装した北海丸は、勝手に油や炭塵を海に流し、にせの無電を打って、さていち早く救助に駈けつけた釧路丸のような顔をしながら、サルベージ協会の救難船と一緒に、自分の幻を二日も三日も涼しい顔で探し廻ったんですよ……どうも呆れた次第ですが、……そうして、やがて船舶局には、北海丸の沈没が登録され……そうだ、私の考えでは、恐らく今度新造された新らしい北海丸なぞ、前の北海丸の保険金で出来たんじゃアないかと思いますね……とにかく、そうして岩倉会社は、表面法律で許された二隻の捕鯨船で、その実、三隻それも一隻はぬけぬけと脱税までして、能率を上げていたんですよ……ところが、この釧路丸は贋物なんですから、船員の口から秘密の洩れるのを恐れて、まず根室の附近へは、絶対に入港も上陸も許さなかったんでしょう。むろん船員達は、荒男の集まりだけに、金にさえなれば根室なんかどうでもいい。一匹千円からする鯨のほうが、どれだけいいか判らない――とまア、そんなわけで、かれこれ一年たってしまいます。……ところが、ここに困った事は、独り者の船員達はともかくも、根室に妻子を置いてある砲手の小森ですよ。むろんあの男も、始めは他の船員達と同じ気持だったんでしょうが、段々日を経るにつれて、心の中に郷愁が芽生える。しかし船長マスターは、危険を覚えて、絶対に妻子のところへ帰さない。が、盛上る感情って奴は、押えたって押え通せるものではないですよ……根室の近くへ漁に来たチャンスを掴んで、とうとう小森砲手は、脱走してしまったんです……」
「ふーム」と船長が始めて口を切った。「成る程、それで、あとをつけた船長マスターの手で、あの惨劇が起されたわけですわ。……いや、よく判りました。実に御明察ですわい」
 船長は、甲板に立って、改めて辺りを見廻すのだった。
 海には、まだ大きな鯨共が、逃げもせずにグルグルと船の周囲まわりをまわっていた。それは不思議な景色だった。捕われた捕鯨船の船首砲には、その大きな鯨共を撃つための第二の銛が、用意されたままになっていた。老獪な船長マスターは、そうした不思議な鯨共を容易たやすく撃ち捕るために、密かに禁止された仔鯨撃ちを、永い間安吉に命じていたのだった。
 仔鯨がいると親鯨はのろい。一年前の安吉のように、子供を置いてけぼりになど絶対にしないのである。
(「新青年」昭和十一年十月号)

底本:「とむらい機関車」国書刊行会
   1992(平成4)年5月25日初版第1刷発行
底本の親本:「新青年」博文館
   1936(昭和11)年10月号
初出:「新青年」博文館
   1936(昭和11)年10月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:大野晋
校正:noriko saito
2008年10月23日作成
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