戦前の形勢

 再度の長州征伐に失敗して、徳川幕府の無勢力が、完全に暴露された。この時既に長州は薩摩と連合して討幕の計画を廻らしていた。
 温健派の山内容堂は、幕府の命運既に尽きたるを察して、幕府をしてその終りを全うせしむる意味で、大政奉還の止むなき所以ゆえんを説いた建白書を、慶喜に呈した。当時在京中の慶喜悟る所あり、十月十三日在京の諸大名群臣を二条城に集めて諮問したる上、翌十四日朝廷へ奏問に及んだのである。
 いずくんぞ知らん、その日は薩長二藩に対し、討幕の密勅が、下された日である。
 即ち薩長や岩倉具視ともみの肚では武力を以て圧倒しようとする所に、幕府の方から、頭を下げて来たのである。
 王政維新の実を挙げ、朝廷の実力を発揮するためには、幕府に一撃を与えて、実力的に圧倒することが必要だと思っていたから、幕府からの大政奉還は、痛しかゆしであったのである。
 だから、それに対して、朝廷には二つ議論があった。その一つは、公武合体派で、慶喜の大政奉還の許を嘉賞して、新政府組織についても、慶喜に旧将軍にふさわしい一役を与えようと云うのである。他の一派は、岩倉を中心とする排幕派で、既に討幕の密勅も下っている所へ、大政奉還を申し出でたので、勝手が違ったが、たとえ武力で圧倒できなくなったにしろ、他の手段で、幕府の勢力を蹂躙じゅうりんしようと云うのである。
 所が、排幕派の議論が勝利を占めて十二月九日、王政復古の号令が発せられ、アンチ徳川の連中はことごとく復活し、公武合体派は参朝を禁ぜられてしまった。
 その夜、小御所に於ける王政第一回の御前会議は、歴史的にも最も意義のある会合で、山内容堂、松平春嶽が大に慶喜のために説いたが、岩倉、大久保のために、容れられず、両派の論争激越を極め、一時休憩となったが、その時薩藩の岩下佐次衛門は、退席していた西郷隆盛に計ったところ、隆盛泰然として「口先では、果しがない。唯一匕首ひしゅあるのみだ」と云った。岩下、之を岩倉に告げたので、具視大いに決する所あり、土越二藩なお前説を固執するならば、いかなる不測の変あらんも測られざるに至ったので、浅野茂勲しげのりその間に周旋して遂に容堂、春嶽をして譲歩せしめた。
 岩倉説勝を占めて、その翌日慶喜に対し、将軍職辞退の聴許があり、更に退官納地を奉請するように、さとされることになった。
 此の結果に対して、幕府の上下会桑二藩が、承服する筈はない。
 慶喜が、大政奉還を奏請したる以上、その善後策の朝議には、慶喜を初め会桑二藩も当然参加せしめらるべきものと、期待していたに拘わらず、会桑二藩は禁門の警衛を解かれてしまうし、慶喜は朝議に参加せしめられないばかりか、新政府に何等の座席をも与えられないのであるから、彼等の憤懣察すべきものである。
 此時は、芸兵入京し、長兵もまた入京していたので、慕府及びその一統が、憤慨して手を出せば、やっつけてやろうと云うはらが排幕派にあったのである。
 その時、二条城には幕府麾下きかの遊撃隊を初め、例の新選組、見廻り組、津大垣の兵など集っていたが、朝廷の処置に憤激止まず、また流言ありて、今にも薩長の兵が二条城を来襲して来ると云うので、城壁に銃眼を穿うがち始めると云うさわぎである。
 慶喜は、このまま滞京していてはいかなる事変が突発するかも知れないと思ったらしく、激昂する麾下を慰撫しながら、閣老参政及び会桑二藩士を率いて、大阪へ下ったのである。
 此の下阪に対し朝廷側では大阪の要地を占め、軍艦を以て海路を断ち薩長を苦しめるためだろうと疑うものもあり、一大決戦の避くべからざるを力説するものがあり、大阪城中に於ては、会桑二藩の激昂なお止まず、幕府に対する苛酷の処置は岩倉卿を初め、薩長二藩が至上の御幼少なるに乗じて私意を逞しゅうするものであるから、兵力に依って、君側のかんを除く外ないと切言する。
 形勢暗澹あんたんたるを憂いた尾、越、土の三侯は、慶喜が大阪にいては、いよいよ朝幕の間が疎隔するばかりであるから、再度おだやかに上京したらどうかと、勧説かんぜいしたが、幕府側の識者は、今おだやかに上京するなど、最も不利である。上京するなら君側の奸を除く意味で、兵力を率いて、上京するにかずと云う。その賛成者がだんだん多くなって行く。
 その時、江戸では、薩摩系の浪士が、乱暴を働いて、西丸に放火したらしい嫌疑さえあり、遂に三田の薩邸焼払いとなった。之等の飛報が大阪城に達すると、激昂していた人心が更に油をかけられるわけで、温健なる慶喜も、遂に討薩の表を作って、上洛することに決した。
 慶応四年の正月三日である。むろん、之より先、伏見、鳥羽、淀には幕兵を配置していた訳なので、先ずそれらに進軍を命じた。
 維新の原動力たりし連中には、武力的に幕府をやっつけない以上、長く禍根を残す憂ありと、信じていたわけであるから、わざわざ幕府を怒らせるように、仕向けた点もあったわけである。江戸に於ける浪士の暴動など、西郷隆盛の密命に依って、益満ますみつ休之助などが、策動したことになっているが、しかしこうした事は、文書など残っているわけでないから、いつまでも歴史上の謎として、残るであろう。
 慶喜の上洛は、尾越両侯から上洛を勧められたからと云うのは、表面の口実で、内実は討薩の表を奉って、京都から薩長の勢力を駆逐するつもりであったのであろう。
 全軍三万と称したが、ほんとうは一万三四千人であったであろう。
 幕軍の中心は、仏蘭西フランス伝習隊で、訓練もよく銃器も精鋭であった。それに、会津、桑名、松山、高松、浜田等の藩兵が加わっていた。
 京軍の方は、毛利内匠たくみ、山田市之丞、交野十郎の率いた八百の長軍、伊知地正治、野津七左衛門の率いた薩軍が主力で、それに屋張、越前、芸州等、勤王諸藩の兵が加わって一万足らずであったであろう。
 幕軍は、伏見鳥羽の両道より進んだ。まだ、ハッキリ交戦状態でないのだから、威圧的に関門を突破して京都へ入るつもりであったのかも知れない。
 鳥羽街道は、大目付滝川播磨守が先鋒となり京町奉行の組与力同心を引き連れていた。人数も、わずかに数人で、籠手こて臑当すねあてして、手槍を持ち、小銃を持っているものは、わずかに数人で、大砲は一門もなかった。
 鳥羽街道は、むかしの羅生門に通ずる道で、京都へ入る所に、東寺がある。東寺の十町ばかり手前の石橋の所まで来た時、東寺に駐屯していた薩兵が鳥羽街道を下って来るのとぶっつかった。
 両方とも殺気立っているが、まだ戦争ではない。幕軍の方で、「徳川殿上洛せらるるにつき、我々は先駆である」
 と云ったが、藩兵は「我々の方は、未だその御沙汰なければ通しがたし」と云う。再三、押し問答の上、薩兵の方では、「然らば、御所へ伺う間しばらく待たれよ」と云う事になったので、滝川播磨守は、土地の豪家村岡某の家に入り休息していると、薩長の兵はいつの間にか村岡の家を包囲し、石橋の上には大砲二門を引きすえ、今にも発砲しそうな擬勢を示したので、播磨守は形勢の険悪なるを察して、引き退いた。
 午後四時を過ぎる頃、桑名、高松、松山の藩兵が、鳥羽街道を圧して上って来た。今度は、薩兵と中島、東池の辺で出会った。
 桑名藩より、徳川殿今度このたび勅命により召寄せらるるにより、先手の者上京する由を告げたが、薩兵聴かず、問答を重ぬる裡、薩州よりにわかに大砲を打ち出したが、最初の一発に桑名の兵、十数人打ち重って倒された。これが鳥羽伏見の戦の最初の砲火である。両軍銃火を交えて戦ったが、幕軍は行軍のままの隊形だったし、小銃が少いものだから、薩長のために、打ちすくめられて、死傷すこぶる多かった。
 幕軍が下鳥羽まで退却して、夜の十時近く夜食を喰っているところを、京軍更に夜襲して、一大激戦となったが、幕軍再び敗れて退いた。だが、京軍の方でも、市木、大山、後藤等の諸将が倒れた。
 伏見口の方には、最初から新選組が幕軍の前衛として、駐屯していた。
 慶喜が二条城を去った後、永井玄蕃頭げんばのかみが、之を預り大場一心斎麾下の水戸兵二百人と、新選組百五十人が守備に任じていたが、大場は元来勤王思想があるので薩長と気脈を通じている容子があるので、近藤勇は憤慨して、十七日に二条を去って伏見に来て、其地の奉行所衛兵と合同して、警備の任に就いた。
 所が、以前に近藤勇の為めに、倒された転向勤王派たる、伊東甲子太郎きねたろうの残党なる鈴木三樹三郎、篠原泰之進やすのしん、加納就雄なりおなどが、薩摩の伏見屋敷に庇護されていた。
 十二月十八日、近藤が上京した帰途、伏見街道藤森に於て突如物陰から狙撃され、その右肩に重傷を負った。むろん、伊東の残党の計画であるが、そのために近藤は鳥羽伏見戦争には参加することが出来なかったので、土方歳三としぞうが指揮をしていた。
 新選組も、この頃は、剣ばかりではどうにもならないのを悟ったと見え、幕軍の間宮鉄太郎の隊より大砲二門を借りて来ていた。
 伏見の方は、戦前から両軍が対峙していたわけで、鳥羽口の砲声が、開戦の合図になった。
 土方歳三は、伏見京橋口に陣を布いていたが、鳥羽の砲声を聴くと、浜通りを東へ、京町を北へ進撃して戦った。所が伏見の東方桃山は、彦根藩が守って居り、幕軍では、自分達の味方だと思っていた所、薩藩は開戦となると、朝命を以て彦根勢を退去せしめ、その後に自軍の大砲を運び上げ、伏見の町を眼下に見おろして、打ちまくった。新選組は、伏見の奉行所の門前に戦っていたが、味方なりと思っていた背後より撃たれたので、一たまりもなく敗れて、勇の養子周平外十七人たおされた。
 此夜、十二時近くなって、戦線に到着した窪田備前守麾下のフランス伝習隊は、幕軍の精鋭で、目覚ましき奪闘をなし、薩藩を破り長州勢を破り、墨染まで北進したが、薩兵のふせに陥り、備前守が討死したため、遂に退却した。
 此の夜は終夜はげしい半市街戦が行われ、両軍とも死傷が多かったが、結局幕軍不利で淀まで退却した。
 翌四日、土方は昨夜の敗戦に激怒して、千本松に陣立をなした。茲は、右は淀川で、左は水沢の地で頗る要害の隘路で京軍を支えんとしたが、薩長の兵は小銃隊を以て、進撃して手もなく、新選組を打ち破った。そして、大衆文芸でおなじみの山崎すすむを初め三十人ばかり討死した。剣では、どうにも仕方がなかったのであろう。
 数年来新選組は、京洛の地に於て、薩長の志士とにらみ合っていたが、その清算が今度の戦争で行われたわけである。
 その後、江戸に来ていた近藤勇に、依田よだ学海が「伏見の戦争はどうだった?」と訊いたところ、彼はそばの土方歳三を顧みて「此の男に訊いてくれ」と云った。土方が、「これからの戦争は、刀や槍では役に立たぬ。鉄砲にはかなわない」と、苦笑しながら答えたのは、有名な話である。

 翌四日にも、幕軍は敗勢を返さんとして戦ったが、此日仁和寺宮嘉彰よしあき親王が、金甲馬にまたがり、前駆に錦旗を飜して、陣頭に進まれたので、絶えて久しき錦の御旗を仰いだわけで、官賊の別が判然としたので、薩長の軍は意気軒昂となり、幕軍は意気沮喪して、いよいよ敗勢の著しいものがあった。
 五日には、淀城附近で会津の槍隊が奮戦して、敵の隊長石川厚狭介あつさのすけなどを斃したが、淀城の城主稲葉家は、例の春日の局の血縁で、幕府には恩顧深き家柄であるに拘らず、朝廷に帰順の意を表して、幕軍が淀城に拠るを許さず、また幕府のために山崎を守備していた津の藤堂家の藩兵は、天使を受けて帰順の意を表し、ひそかに薩長の兵をわが陣中に忍ばせて置いて、六日橋本に陣している幕軍を側面より砲撃せしめた。幕軍の狼狽察すべしである。
 このあたりから、幕軍全く潰走かいそうして、大阪へ逃げるものあり、紀州に落ちるものあり、桑名藩士等は大和から本国へ直接逃げて行った。
 慶喜は、六日夜大阪に退き、同夜近臣数人と天保山沖で軍艦開陽艦に乗ろうとしたが、暗夜のため見つからず、先ず米国砲艦イロユイスに身を寄せ、翌七日開陽艦に移乗し、八日の夜抜錨して江戸に向った。

 鳥羽伏見戦の第一夜の印象を『莠草しゅうそう年録』の著者は、次ぎのように語っている。
一昨三日、薄暮より伏見の辺に当り、失火、暫くして砲声頻々響き、家屋上に上り見候処四五ヶ所より出火ほのお立上り、遂に伏見一円火中となると見ゆ、たちまちに又右淀城と覚しきあたりより、砲声轟々ごうごう烈しく相成り候間、然らば阪兵入侵薩土と合戦の事と推察し、長谷川氏に至り候処三沢も参りおり、種々評議、私は平子と相携へて、大仏に走り、耳塚に上り見候処砲声漸く近く相成り候間、阪兵入京と相成らば、御所にも伺上出可申いでもうすべし罷帰まかりかえり、門北お御所のかたに当り一道の火気を発し、甚だ騒々しく候間、これ阪兵への内応と申居り候間、忽に鎮定、その内に伏見の砲声も追々遠く相成り、京軍勝利の様子に相成り候まゝ終夜砲声にぶる事無之これなく、朝四時迄にわづかに相止み申候。
 京都の一市民の戦争当夜の感じが、よく出ていると思う。
 鳥羽伏見の戦いは、戦いと云うのでなく、一つの大競り合いである。通せ通さぬの問答からの喧嘩のようなものである。
 小笠原壱岐守などが、もっと武将らしい計略があったならば、華々しき戦争が出来たのではないかと思う。
 しかし、当時勤王思想が澎湃ほうはいとして起って居り、幕府縁故の諸藩とも嚮背こうはいに迷って居り、幕軍自身が、新選組や会津などを除いた外は、決然たる戦意がなかったのであろう。
 とにかく、幕府はすぐ瓦解してしまい、明治政府は成立間際まぎわの事なので、この戦争についても、戦記の正確なものが乏しいのは、遺憾である。

底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
   1987(昭和62)年2月10日第1刷
※底本は、物を数える際に用いる「ヶ」(区点番号5-86)(「四五ヶ所」)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:網迫、大野晋、Juki
校正:土屋隆
2009年11月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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