世おのずからすうというもの有りや。有りといえば有るがごとく、無しとせば無きにも似たり。洪水こうずい天にはびこるも、の功これを治め、大旱たいかん地をこがせども、とうの徳これをすくえば、数有るが如くにして、しかも数無きが如し。しんの始皇帝、天下を一にして尊号そんごうを称す。※(「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64)いえんまことに当るからず。しかれども水神ありて華陰かいんの夜に現われ、たまを使者に托して、今年祖龍そりゅう死せんとえば、はたして始皇やがて沙丘しゃきゅうに崩ぜり。とう玄宗げんそう、開元は三十年の太平をけ、天宝てんぽうは十四年の華奢かしゃをほしいまゝにせり。然れども開元の盛時に当りて、一行阿闍梨いちぎょうあじゃり、陛下万里に行幸して、聖祚せいそかぎりからんと奏したりしかば、心得がたきことをもうすよとおぼされしが、安禄山あんろくざんの乱起りて、天宝十五年しょくに入りたもうに及び、万里橋ばんりきょうにさしかゝりて瞿然くぜんとして悟りたまえりとなり。此等これらを思えば、数無きに似たれども、而も数有るに似たり。定命録ていめいろく続定命録ぞくていめいろく前定録ぜんていろく感定録かんていろく等、小説野乗やじょうの記するところを見れば、吉凶禍福は、皆定数ありて飲啄笑哭いんたくしょうこくも、ことごとく天意にるかと疑わる。されど紛々たる雑書、何ぞ信ずるに足らん。仮令たとえ数ありとするも、測り難きは数なり。測り難きの数をおそれて、巫覡卜相ふげきぼくそうの徒の前にこうべせんよりは、知る可きの道に従いて、古聖前賢のおしえもとに心を安くせんにはかじ。かつや人の常情、敗れたる者は天のめいを称してたんじ、成れる者は己の力を説きて誇る。二者共にろうとすべし。事敗れてこれが徳の足らざるに帰し、功成って之を数の定まる有るにゆだねなば、そのひと偽らずしてしん、其小ならずして偉なりというべし。先哲いわく、知る者は言わず、言う者は知らずと。数を言う者は数を知らずして、数を言わざる者あるいく数を知らん。
 いにしえより今に至るまで、成敗せいばいの跡、禍福の運、人をしておもいひそめしめたんを発せしむるにるものもとより多し。されども人の奇を好むや、なおもって足れりとせず。ここおいて才子は才をせ、妄人もうじんもうほしいいままにして、空中に楼閣を築き、夢裏むりに悲喜をえがき、意設筆綴いせつひってつして、烏有うゆうの談をつくる。或はすこしくもとづくところあり、或は全くるところ無し。小説といい、稗史はいしといい、戯曲といい、寓言ぐうげんというものすなわこれなり。作者の心おもえらく、奇を極め妙を極むと。あにはからんや造物の脚色は、綺語きごの奇より奇にして、狂言の妙より妙に、才子の才も敵するあたわざるの巧緻こうちあり、妄人の妄も及ぶ可からざるの警抜あらんとは。吾が言をば信ぜざる者は、こころみ建文けんぶん永楽えいらくの事を。


 我が小説家のゆう曲亭主人馬琴きょくていしゅじんばきんす。馬琴の作るところ、長篇四五種、八犬伝はっけんでんの雄大、弓張月ゆみはりづきの壮快、皆江湖こうこ嘖々さくさくとして称するところなるが、八犬伝弓張月に比してまさるあるも劣らざるものを侠客伝きょうかくでんす。うらむらくは其の叙するところ、けだいまだ十の三四をおわるに及ばずして、筆硯ひっけん空しく曲亭の浄几じょうきのこりて、主人既にきて白玉楼はくぎょくろうとなり、鹿鳴草舎はぎのやおきなこれをげるも、また功を遂げずして死せるをもって、世の結構の輪奐りんかんの美をるに至らずしてみたり。しかれども其の意を立て材を排する所以ゆえんを考うるに、楠氏なんし孤女こじょりて、南朝のために気を吐かんとする、おのずかられ一大文章たらずんばまざるものあるをば推知するに足るあり。おしかな其の成らざるや。
 侠客伝は女仙外史じょせんがいしより換骨脱胎かんこつだったいきたる。其の一部は好逑伝こうきゅうでんるありといえども、全体の女仙外史をきたれるはおおからず。これ姑摩媛こまひめすなわかれ月君げっくんなり。月君が建文帝けんぶんていの為に兵を挙ぐるの事は、姑摩媛が南朝の為に力を致さんとするの藍本らんぽんたらずんばあらず。れ馬琴が腔子裏こうしりの事なりといえども、かりに馬琴をして在らしむるも、が言を聴かば、含笑がんしょうして点頭てんとうせん。


 女仙外史一百回は、しん逸田叟いつでんそう呂熊りょゆうあざな文兆ぶんちょうあらわすところ、康熙こうき四十年に意を起して、四十三年秋に至りて業をおわる。の書のたいたるや、水滸伝すいこでん平妖伝へいようでん等に同じといえども、立言りつげんは、綱常こうじょう扶植ふしょくし、忠烈を顕揚するに在りというをもって、南安なんあんの郡守陳香泉ちんこうせんの序、江西こうせい廉使れんし劉在園りゅうざいえんの評、江西の学使楊念亭ようねんていの論、広州こうしゅうの太守葉南田しょうなんでんばつを得て世に行わる。幻詭猥雑げんきわいざつの談に、干戈かんか弓馬の事をはさみ、慷慨こうがい節義のだんに、神仙縹緲しんせんひょうびょうしゅまじゆ。西遊記さいゆうきに似て、しかも其の誇誕こたんは少しくゆずり、水滸伝に近くして、而もの豪快は及ばず、三国志のごとくして、而も其の殺伐はやゝすくなし。たゞ其の三者の佳致かちを併有して、一編の奇話を構成するところは、女仙外史の西遊水滸三国諸書にまさ所以ゆえんにして、其の大体の風度ふうどは平妖伝に似たりというべし。うらむらくは、通篇つうへん儒生じゅせい口吻こうふん多くして、説話は硬固勃率こうこぼっそつ、談笑に流暢尖新りゅうちょうせんしんのところすくなきのみ。
 女仙外史の名は其のじつを語る。主人公月君げっくん、これをたすくるの鮑師ほうし曼尼まんに公孫大娘こうそんたいじょう聶隠娘しょういんじょう等皆女仙なり。鮑聶ほうしょう等の女仙は、もと古伝雑説より取りきたって彩色となすに過ぎず、しこうして月君はすなわ山東蒲台さんとうほだい妖婦ようふ唐賽児とうさいじなり。賽児の乱をなせるはみん永楽えいらく十八年二月にして、えん王の簒奪さんだつ建文けんぶん遜位そんいと相関するあるにあらず、建文なお死せずといえども、簒奪の事成って既に十八春秋をたり。賽児何ぞ実に建文のために兵を挙げんや。たゞ一婦人の身を以て兵を起し城をほふり、安遠侯あんえんこう柳升りゅうしょうをして征戦に労し、都指揮としき衛青えいせいをして撃攘げきじょうつとめしめ、都指揮劉忠りゅうちゅうをして戦歿せんぼつせしめ、山東の地をして一時騒擾そうじょうせしむるに至りたるもの、真に稗史はいしの好題目たり。これに加うるに賽児が洞見どうけん預察のめいを有し、幻怪詭秘きひの術をくし、天書宝剣を得て、恵民けいみん布教の事をせるも、また真に是れ稗史の絶好資料たらずんばあらず。賽児の実蹟じっせき既にかくごとし。これきたりてもって建文の位をゆずれるに涙をおとし、燕棣えんていの国を奪えるに歯をくいしばり、慷慨こうがい悲憤して以て回天の業をさんとするの女英雄じょえいゆうとなす。女仙外史の人の愛読耽翫たんがん所以ゆえんのもの、決して尠少せんしょうにあらずして、而して又実に一ぺん淋漓りんりたる筆墨ひつぼく巍峨ぎがたる結構を得る所以のもの、決して偶然にあらざるを見る。
 賽児さいじ蒲台府ほだいふたみ林三りんさんの妻、わかきより仏を好み経をしょうせるのみ、別に異ありしにあらず。林三死してこれを郊外にほうむる。賽児墓に祭りて、かえるさのみち、一山のふもとを経たりしに、たま/\豪雨の後にして土崩れ石あらわれたり。これをるに石匣せきこうなりければ、いてうかがいてついに異書と宝剣とを得たり。賽児これより妖術に通じ、紙をって人馬となし、けんふるって咒祝じゅしゅくし、髪を削って尼となり、おしえ里閭りりょく。いのりには効あり、ことばにはげんありければ、民翕然きゅうぜんとして之に従いけるに、賽児また饑者きしゃにはを与え、凍者には衣を給し、賑済しんさいすること多かりしより、ついに追随する者数万に及び、とうとびて仏母と称し、そのいきおいはなは洪大こうだいとなれり。官これにくみて賽児を捕えんとするに及び、賽児を奉ずる者董彦杲とうげんこう劉俊りゅうしゅん賓鴻ひんこう等、敢然としてって戦い、益都えきと安州あんしゅう※(「くさかんむり/呂」、第3水準1-90-87)きょしゅう即墨そくぼく寿光じゅこう等、山東諸州鼎沸ていふつし、官と賊と交々こもごも勝敗あり。官兵ようやく多く、賊勢日にしじまるに至って賽児を捕え得、まさに刑に処せんとす。賽児怡然いぜんとしておそれず。衣をいで之をばくし、とうを挙げて之を※(「石+欠」、第4水準2-82-33)るに、刀刃とうじん入るあたわざりければ、むを得ずしてまた獄に下し、械枷かいかたいこうむらせ、鉄鈕てっちゅうもて足をつなぎ置きけるに、にわかにして皆おのずから解脱げだつし、ついのがれ去って終るところを知らず。三司郡県将校さんしぐんけんしょうこう、皆あだを失うを以てちゅうせられぬ。賽児は如何いかがしけん其後踪跡そうせきようとして知るべからず。永楽帝怒って、およそ北京ほくけい山東さんとう尼姑にこことごとく逮捕して京に上せ、厳重に勘問かんもんし、ついに天下の尼姑という尼姑をとらうるに至りしが、得るあたわずしてみ、遂に後の史家をして、妖耶ようか人耶ひとかわれこれを知らず、とわしむるに至れり。
 世の伝うるところの賽児の事既にはなはだ奇、修飾をらずして、一部稗史はいしたり。女仙外史の作者のりてもって筆墨をするもまたむべなり。しかれども賽児の徒、はじめより大志ありしにはあらず、官吏の苛虐かぎゃくするところとなってしこうして後爆裂迸発へいはつして※(「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおを揚げしのみ。其の永楽帝の賽児をもとむる甚だ急なりしに考うれば、賽児の徒窘窮きんきゅうしてほこって立つに及び、あるいは建文を称して永楽に抗するありしも亦知るべからず。永楽の時、史に曲筆多し、今いずくにかそのじつを知るを得ん。永楽簒奪さんだつして功を成す、しか聡明そうめい剛毅ごうきまつりごとす甚だ精、補佐ほさまた賢良多し。こゝを以て賽児の徒たちまちにして跡を潜むといえども、秦末しんまつ漢季かんきごときの世にでしめば、陳渉ちんしょう張角ちょうかくついに天下を動かすの事をすに至りたるやも知るからず。嗚呼ああ賽児も亦奇女子きじょしなるかな。而してこの奇女子をりて建文にくみし永楽と争わしむ。女仙外史の奇、の奇を求めずして而しておのずからしかるあらんのみ。然りと雖もなおおもえらく、逸田叟いつでんそうの脚色はにして後わずかに奇なり、造物爺々やや施為しいは真にしてかつ更に奇なり。


 みん建文けんぶん皇帝は実に太祖たいそこう皇帝にいで位にきたまえり。時に洪武こうぶ三十一年うるう五月なり。すなわちみことのりして明年を建文元年としたまいぬ。御代みよしろしめすことはまさしく五歳にわたりたもう。しかるに廟諡びょうしを得たもうこと無く、正徳しょうとく万暦ばんれき崇禎すうていの間、事しば/\議せられて、しかついに行われず、みん亡び、しん起りて、乾隆けんりゅう元年に至って、はじめて恭憫恵きょうびんけい皇帝というおくりなを得たまえり。その国の徳衰えたくきて、内憂外患こも/″\せまり、滅亡になりなんとする世には、崩じておくられざるみかどのおわすためしもあれど、明のの後なお二百五十年も続きて、この時太祖の盛徳偉業、炎々えんえんの威を揚げ、赫々かくかくの光を放ちて、天下万民を悦服せしめしばかりののちなれば、かゝる不祥の事は起るべくもあらぬ時代なり。さるを[#ルビの「そ」は底本では「その」]かくごとくなるに至りし所以ゆえんは、天意か人為かはいざ知らず、一動いて万波動き、不可思議の事の重畳ちょうじょう連続して、其の狂濤きょうとうは四年の間の天地を震撼しんかんし、其の余瀾よらんは万里の外の邦国に漸浸ぜんしんするに及べるありしがためならずばあらず。
 建文皇帝いみな※(「火+文」、第4水準2-79-61)いんぶん、太祖高皇帝の嫡孫なり。御父おんちち懿文いぶん太子、太祖にぎたもうべかりしが、不幸にして世を早うしたまいぬ。太祖時に御齢おんとし六十五にわたらせたまいければ、流石さすが淮西わいせい一布衣いっぷいよりおこって、腰間ようかんけん、馬上のむち、四百余州を十五年になびけて、遂に帝業を成せる大豪傑も、薄暮にしょくを失って荒野の旅に疲れたる心地やしけん、堪えかねて泣きしおれたもう。翰林学士かんりんがくし劉三吾りゅうさんご御歎おんなげきはさることながら、既に皇孫のましませば何事か候うべき、儲君ちょくんと仰せ出されんには、四海心をけ奉らんに、のみは御過憂あるべからず、ともうしたりければ、にもと点頭うなずかせられて、そのとしの九月、立てゝ皇太孫と定められたるが、すなわち後に建文のみかどと申す。谷氏こくしの史に、建文帝、生れて十年にして懿文いぶんしゅっすとあるは、けだ脱字だつじにして、父君に別れ、儲位ちょいに立ちたまえる時は、まさしく十六歳におわしける。資性穎慧えいけい温和、孝心深くましまして、父君の病みたまえる間、三歳にわたりて昼夜膝下しっかを離れたまわず、かくれさせたもうに及びては、思慕の情、悲哀の涙、絶ゆる間もなくて、身も細々とせ細りたまいぬ。太祖これを見たまいて、なんじまことに純孝なり、たゞ子をうしないて孫を頼む老いたる我をもおもわぬことあらじ、とのたまいて、過哀に身をやぶらぬよう愛撫あいぶせられたりという。其の性質の美、推して知るべし。
 はじめ太祖、太子に命じたまいて、章奏しょうそうを決せしめられけるに、太子仁慈厚くおわしければ、刑獄においなだめ軽めらるゝこと多かりき。太子せたまいければ、太孫をして事に当らしめたまいけるが、太孫もまた寛厚の性、おのずから徳を植えたもうこと多く、又太祖に請いて、あまね礼経れいけいを考え、歴代の刑法を参酌さんしゃくし、刑律はおしえたすくる所以ゆえんなれば、およ五倫ごりんあいわたる者は、よろしく皆法を屈してもっじょうを伸ぶべしとの意により、太祖の准許じゅんきょを得て、律の重きもの七十三条を改定しければ、天下おおいに喜びて徳をしょうせざる無し。太祖のことばに、われは乱世を治めたれば、刑重からざるを得ざりき、なんじは平世を治むるなれば、刑おのずからまさかろうすべし、とありしも当時の事なり。明の律は太祖の武昌ぶしょうを平らげたるの元年に、李善長りぜんちょうの考え設けたるをはじめとし、洪武六年より七年にわたりて劉惟謙りゅういけんの議定するに及びて、所謂いわゆる大明律たいみんりつ成り、同じ九年胡惟庸こいよう命を受けて釐正りせいするところあり、又同じ十六年、二十二年の編撰へんせんを経て、ついに洪武の末に至り、更定大明律こうていたいみんりつ三十巻大成し、天下にわかち示されたるなり。呉の元年よりここに至るまで、日を積むこと久しく、慮を致すことくわしくして、一代の法始めて定まり、朱氏しゅしの世を終るまで、獄を決し刑を擬するの準拠となりしかば、後人をして唐にくらぶれば簡覈かんかくしかして寛厚はそうかざるも、其の惻隠そくいんの意に至っては、各条に散見せりと評せしめ、余威は遠く我邦わがくにに及び、徳川期の識者をしてこれを研究せしめ、明治初期の新律綱領をしてこれに採るところあらしむるに至れり。太祖の英明にして意を民人に致せしことの深遠なるは言うまでも無し、太子の仁、太孫の慈、また人君の度ありて、明律りてもって成るというべし。既にして太祖崩じて太孫の位にきたもうや、刑官にさとしたまわく、大明律は皇祖の親しく定めさせたまえるところにして、ちんに命じて細閲せしめたまえり。前代にくらぶるに往々重きを加う。けだし乱国を刑するの典にして、百世通行の道にあらざる也。朕がさきに改定せるところは、皇祖すでに命じて施行せしめたまえり。しかれども罪の矜疑きょうぎすべき者は、なおこれとどまらず。それ律は大法を設け、礼は人情にしたがう。民をととのうるに刑を以てするは礼を以てするにかず。それ天下有司に諭し、務めて礼教をたっとび、疑獄をゆるし、朕が万方ばんぽうともにするをよろこぶの意にかなわしめよと。嗚呼ああ、既に父に孝にして、又民に慈なり。帝の性の善良なる、たれがこれを然らずとせんや。
 かくの如きの人にして、みかどとなりて位を保つを得ず、天に帰しておくりなあたわず、びょう無く陵無く、西山せいざん一抔土いっぽうどほうせずじゅせずして終るに至る。嗚呼ああ又奇なるかな。しかも其の因縁いんえん糾纏錯雑きゅうてんさくざつして、果報の惨苦悲酸なる、而して其の影響の、あるい刻毒こくどくなる、或は杳渺ようびょうたる、奇もまた太甚はなはだしというべし。


 建文帝の国をゆずらざるを得ざるに至れる最初の因は、太祖の諸子を封ずること過当にして、地を与うること広く、権を附すること多きに基づく。太祖の天下を定むるや、前代のそうげん傾覆の所以ゆえんを考えて、宗室の孤立は、無力不競の弊源たるを思い、諸子をおおく四方に封じて、兵馬の権を有せしめ、もって帝室に藩屏はんべいたらしめ、京師けいし拱衛きょうえいせしめんと欲せり。また故無きにあらず。兵馬の権、他人の手に落ち、金穀の利、一家の有たらずして、将帥しょうすい外におごり、奸邪かんじゃあいだに私すれば、一朝事有るに際しては、都城守るあたわず、宗廟そうびょうまつられざるに至るべし。おおく諸侯を建て、分ちて子弟を王とすれば、皇族天下に満ちて栄え、人臣いきおいを得るのすき無し。こゝにおいて、第二子そう[#「木+爽」、UCS-6A09、252-3]しん王にほうじ、藩に西安せいあんかしめ、第三子こうしん王に封じ、太原府たいげんふらしめ、第四子ていを封じてえん王となし、北平府ほくへいふすなわち今の北京ぺきんに居らしめ、第五子しゅく[#「木+肅」、UCS-6A5A、252-5]を封じてしゅう王となし、開封府かいほうふに居らしめ、第六子※(「木+貞」、第3水準1-85-88)てい王とし、武昌ぶしょうに居らしめ、第七子せい王とし、青州府せいしゅうふに居らしめ、第八子を封じてたん王とし、長沙ちょうさき、第九子[#「木+巳」、252-7]ちょう王とせしが、は三歳にしてしょうし、藩に就くに及ばず、第十子たんを生れて二月にして王とし、十六歳にして藩に※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)州府えんしゅうふに就かしめ、第十一子椿ちんを封じてしょく王とし、成都せいとき、第十二子はくしょう王とし、荊州府けいしゅうふに居き、第十三子けいだい王とし、大同府だいどうふに居き、第十四子えい[#「木+英」、UCS-6967、252-11]しゅく王とし、藩に甘州府かんしゅうふに就かしめ、第十五子しょくを封じてりょう王とし、広寧府こうねいふに居き、第十六子せん[#「木+「旃」の「丹」に代えて「冉」、252-12]けい王として寧夏ねいかに居き、第十七子けんねい王に封じ、大寧たいねいに居らしめ、第十八子※(「木+便」、第4水準2-15-14)べんを封じてびん王となし、第十九子けい[#「木+惠」、UCS-6A5E、253-2]を封じてこく王となす、谷王というはるところ宣府せんふ上谷じょうこくの地たるを以てなり、第二十子しょうを封じてかん王となし、開源かいげんに居らしむ。第二十一子しん王とし、第二十二子えいあん王とし、第二十三子けい[#「木+經のつくり」、UCS-6871、253-4]とう王とし、第二十四子とうえい王とし、第二十五子[#「木+(ヨ/粉/廾)」、253-5]王としたり。しん王以下は、永楽えいらくに及んで藩に就きたるなれば、しばらくきて論ぜざるも、太祖の諸子をほうじて王となせるもまた多しというべく、しこうして枝柯しかはなはだ盛んにして本幹ほんかんかえって弱きのいきおいを致せるに近しというべし。明の制、親王は金冊金宝きんさつきんほうを授けられ、歳禄さいろく万石まんせき、府には官属を置き、護衛の甲士こうしすくなき者は三千人、多き者は一万九千人に至り、冕服べんぷく車旗しゃき邸第ていだいは、天子にくだること一等、公侯大臣も伏して而して拝謁す。皇族を尊くし臣下を抑うるも、また至れりというべし。且つげんえいなお存して、時に塞下さいかに出没するを以て、辺に接せる諸王をして、国中こくちゅうに専制し、三護衛の重兵ちょうへいを擁するを得せしめ、将をりて諸路の兵をすにも、必ず親王に関白してすなわち発することゝせり。諸王をして権を得せしむるも、また大なりというべし。太祖の意におもえらく、かくごとくなれば、本支ほんしあいたすけて、朱氏しゅし永くさかえ、威権しもに移る無く、傾覆のうれいも生ずるに地無からんと。太祖の深智しんち達識たっしきは、まことにく前代の覆轍ふくてつかんがみて、後世に長計をのこさんとせり。されども人智はかぎり有り、天意は測り難し、あにはからんや、太祖が熟慮遠謀して施為しいせるところの者は、すなわち是れ孝陵こうりょうの土いまだ乾かずして、北平ほくへいちり既に起り、矢石しせき京城けいじょう雨注うちゅうして、皇帝遐陬かすうに雲遊するの因とならんとは。
 太祖が諸子を封ずることの過ぎたるは、つとこれを論じて、しかからずとなせる者あり。洪武九年といえば建文帝未だ生れざるほどの時なりき。そのとしうるう九月、たま/\天文てんもんの変ありて、みことのりを下し直言ちょくげんを求められにければ、山西さんせい葉居升しょうきょしょうというもの、上書して第一には分封のはなはおごれること、第二には刑を用いるはなはしげきこと、第三にはを求むるはなはだ速やかなることの三条を言えり。其の分封太侈たいしを論ずるにいわく、都城百雉ひゃくちを過ぐるは国の害なりとは、でんの文にも見えたるを、国家今やしんしんえんせいりょう※(「門<虫」、第3水準1-93-49)びんの諸国、各そのを尽してこれを封じたまい、諸王の都城宮室の制、広狭大小、天子の都にぎ、之にたまうに甲兵衛士のさかんなるを以てしたまえり。臣ひそかに恐る、数世すうせいの後は尾大びだいふるわず、しかして後に之が地を削りて之が権を奪わば、すなわち其のうらみを起すこと、漢の七国、晋の諸王の如くならん。然らざればすなわけんたのみてこうを争い、然らざれば則ち衆を擁して入朝し、はなはだしければ則ちかんりて而してたんに、之を防ぐも及ぶ無からん。孝景こうけい皇帝は漢の高帝の孫也、七国の王は皆景帝の同宗どうそう父兄弟ふけいてい子孫しそんなり。然るに当時一たび其地を削れば則ち兵を構えて西に向えり。晋の諸王は、皆武帝の親子孫しんしそんなり。然るに世をうるの後はたがいに兵を擁して、以て皇帝をあやうくせり。昔は賈誼かぎ漢の文帝に勧めて、禍を未萌みぼうに防ぐの道をもうせり。願わくば今ず諸王の都邑とゆうの制を節し、其の衛兵を減じ、其の彊里きょうりを限りたまえと。居升きょしょうの言はおのずから理あり、しかも太祖は太祖の慮あり。其の説くところ、まさに太祖の思えるところに反すれば、太祖甚だ喜びずして、居升を獄中ごくちゅうに終るに至らしめ給いぬ。居升の上書の後二十余年、太祖崩じて建文帝立ちたもうに及び、居升の言、不幸にしてしるしありて、漢の七国のたとえのあたりの事となれるぞ是非無き。
 七国の事、七国の事、嗚呼ああ是れ何ぞ明室みんしつと因縁の深きや。葉居升しょうきょしょうの上書のずるに先だつこと九年、洪武元年十一月の事なりき、太祖宮中に大本堂たいほんどうというを建てたまい、古今ここんの図書をて、儒臣をして太子および諸王に教授せしめらる。起居注ききょちゅう魏観ぎかんあざな※山きざん[#「木+巳」、256-9]というもの、太子に侍して書を説きけるが、一日太祖太子に問いて、近ごろ儒臣経史の何事を講ぜるかとありけるに、太子、昨日は漢書かんじょの七図漢にそむける事を講じきかせたりと答えもうす。それより談は其事の上にわたりて、太祖、その曲直はいずれに在りやと問う。太子、曲は七国に在りと承りぬとこたう。時に太祖がえんぜずして、あらずは講官の偏説なり。景帝けいてい太子たりし時、博局はくきょくを投じて呉王ごおう世子せいしを殺したることあり、帝となるに及びて、晁錯ちょうさくの説を聴きて、諸侯のほうを削りたり、七国の変は実にこれに由る。諸子のためこの事を講ぜんには、藩王たるものは、上は天子を尊み、下は百姓ひゃくせいし、国家の藩輔はんぽとなりて、天下の公法をみだす無かれと言うべきなり、かくの如くなれば則ち太子たるものは、九族を敦睦とんぼくし、親しきを親しむの恩をさかんにすることを知り、諸子たるものは、王室を夾翼きょうよくし、君臣の義を尽すことを知らん、と評論したりとなり。の太祖の言は、まさに是れ太祖が胸中の秘を発せるにて、はやくよりこの意ありたればこそ、それより二年ほどにして、洪武三年に、そう[#「木+爽」、UCS-6A09、257-9]こうていしゅく[#「木+肅」、UCS-6A5A、257-9]※(「木+貞」、第3水準1-85-88)ていしんたん[#「木+巳」、257-10]の九子を封じて、しんしんえんしゅう等に王とし、そのはなはだしきは、生れてはじめて二歳、あるいは生れてわずかに二ヶ月のものをすら藩王とし、いで洪武十一年、同二十四年の二回に、幼弱の諸子をも封じたるなれ、しこうして又はやくより此意ありたればこそ、葉居升しょうきょしょうが上言に深怒して、これを獄死せしむるまでには至りたるなれ。しかも太祖が懿文いぶん太子に、七国反漢の事をさとしたりし時は、建文帝未だ生れず。明の国号はじめて立ちしのみ。然るに何ぞ図らん此の俊徳成功の太祖が熟慮遠謀して、ばかり思いしことの、その死すると共にただち禍端乱階かたんらんかいとなりて、懿文いぶんの子の※(「火+文」、第4水準2-79-61)いんぶん、七国反漢のいにしえを今にしてくるしまんとは。不世出の英雄朱元璋しゅげんしょうも、めいといいすうというものゝ前には、たゞこれ一片の落葉秋風に舞うが如きのみ。
 七国の事、七国の事、嗚呼何ぞ明室と因縁の深きや。洪武二十五年九月、懿文太子の後をけてその御子おんこ※(「火+文」、第4水準2-79-61)皇太孫の位にかせたもう。継紹けいしょうの運まさにかくの如くなるべきが上に、しもは四海の心をくるところなり。かみは一にんめいを宣したもうところなり、天下皆喜びて、皇室万福と慶賀したり。太孫既に立ちて皇太孫となり、明らかに皇儲こうちょとなりたまえる上は、よわいなお弱くとも、やがて天下の君たるべく、諸王あるいは功あり或は徳ありといえども、遠からず俯首ふしゅしてめいを奉ずべきなれば、理においてはまさこれを敬すべきなり。されども諸王は積年の威をはさみ、大封のいきおいり、かつ叔父しゅくふの尊きをもって、不遜ふそんの事の多かりければ、皇太孫は如何いかばかり心苦しくいとわしく思いしみたりけむ。一日いちじつ東角門とうかくもんに坐して、侍読じどく太常卿たいじょうけい黄子澄こうしちょうというものに、諸王驕慢きょうまんの状を告げ、しょ叔父しゅくふ各大封重兵ちょうへいを擁し、叔父の尊きをたのみて傲然ごうぜんとして予に臨む、行末ゆくすえの事も如何いかがあるべきや、これに処し、これを制するの道を問わんとのたまいたもう。子澄名は※(「さんずい+是」、第3水準1-86-90)てい分宜ぶんぎの人、洪武十八年の試に第一を以て及第したりしより累進してこゝに至れるにて、経史に通暁せるはこれ有りといえども、世故せいこに練達することはいまだ足らず、侍読の身として日夕奉侍すれば、一意たゞ太孫に忠ならんと欲して、かゝる例はその昔にも見えたり、但し諸王の兵多しとは申せ、もと護衛の兵にしてわずかに身ずから守るに足るのみなり、何程の事かあらん、漢の七国を削るや、七国そむきたれども、間も無く平定したり、六師一たび臨まば、たれく之を支えん、もとより大小の勢、順逆の理、おのずから然るもの有るなり、御心みこころ安く思召おぼしめせ、と七国のいにしえを引きてこたうれば、太孫は子澄が答を、げに道理もっともなりと信じたまいぬ。太孫なおとし若く、子澄未だ世に老いず、片時へんじの談、七国の論、何ぞはからん他日山崩れ海くの大事を生ぜんとは。
 太祖の病は洪武三十一年五月に起りて、どううるう五月西宮せいきゅうに崩ず。その遺詔こそは感ずべく考うべきこと多けれ。山戦野戦又は水戦、幾度いくたびと無くおそるべき危険の境を冒して、無産無官又無家むか何等なんらたのむべきをもたぬ孤独の身を振い、ついに天下を一統し、四海に君臨し、心を尽して世を治め、おも[#ルビの「おも」は底本では「おもい」]つくして民をすくい、しこうして礼をたっとび学を重んじ、百ぼううち、手に書をめず、孔子のおしえを篤信し、は誠に万世の師なりと称して、衷心より之を尊び仰ぎ、施政の大綱、必ずこれに依拠し、又蚤歳そうさいにして仏理に通じ、内典を知るも、りょうの武帝の如く淫溺いんできせず、又老子ろうしを愛し、恬静てんせいを喜び、みずから道徳経註どうとくけいちゅう二巻をせんし、解縉かいしんをして、上疏じょうその中に、学の純ならざるをそしらしむるに至りたるも、漢の武帝の如く神仙を好尚こうしょうせず、かつ宗濂そうれんって、人君く心を清くし欲をすくなくし、民をして田里に安んじ、衣食に足り、熈々※(「白+皐」、第4水準2-81-80)ききこうこうとしてみずから知らざらしめば、是れ即ち神仙なりとい、詩文をくして、文集五十巻、詩集五巻をあらわせるも、※(「澹のつくり」、第3水準1-92-8)せんどうと文章を論じては、文はたゞ誠意溢出いっしゅつするをたっとぶと為し、又洪武六年九月には、みことのりして公文に対偶文辞たいぐうぶんじを用いるを禁じ、無益の彫刻藻絵そうかいを事とするをとどめたるが如き、まことに通ずることひろくしてとらえらるゝことすくなく、文武をねて有し、智有をあわせて備え、体験心証皆富みて深き一大偉人たる此の明の太祖、開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高かいてんこうどうちょうきりつきょくたいせいししんじんぶんぎぶしゅんとくせいこうこう皇帝の諡号しごうそむかざる朱元璋しゅげんしょうあざな国瑞こくずいして、その身は地に入り、其しんくうに帰せんとするに臨みて、言うところ如何いかん。一鳥のなるだに、死せんとするや其声人を動かすと云わずや。太祖の遺詔感ずく考うきもの無からんや。遺詔に曰く、ちん皇天の命を受けて、大任に世にあたること、三十有一年なり、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき。奈何いかんせん寒微かんびより起りて、古人の博智無く、善をよみし悪をにくむこと及ばざること多し。今年七十有一、筋力衰微し、朝夕危懼きくす、はかるに終らざることを恐るのみ。今万物自然の理をいずくんぞ哀念かこれ有らん。皇太孫※(「火+文」、第4水準2-79-61)いんぶん、仁明孝友にして、天下心を帰す、よろしく大位に登るべし。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐ほゆうし、もっが民をさいわいせよ。葬祭の儀は、一に漢の文帝の如くにしてことにするなかれ。天下に布告して、朕が意を知らしめよ。孝陵の山川さんせんは、其のふるきに因りて改むるなかれ、天下の臣民は、哭臨こくりんする三日にして、皆服をき、嫁娶かしゅを妨ぐるなかれ。諸王は国中になげきて、京師に至るなかれ。もろもろの令のうちに在らざる者は、此令を推して事に従えと。
 嗚呼ああ、何ぞ其言の人を感ぜしむること多きや。大任にあたること、三十一年、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき、と云えるは、真にれ帝王の言にして、堂々正大の気象、靄々仁恕あいあいじんじょの情景、百歳のしも、人をして欽仰きんごうせしむるに足るものあり。奈何いかんせん寒微より起りて、智浅く徳すくなし、といえるは、謙遜けんそんの態度を取り、反求はんきゅうの工夫に切に、まず飾らざる、誠に美とすべし。今年七十有一、死旦夕たんせきに在り、といえるは、英雄もまた大限たいげんようやせまるを如何いかんともする無き者。而して、今万物自然の理を得、其れいずくにぞ哀念かこれ有らん、とえる、流石さすが孔孟仏老こうもうぶつろうおしえおいて得るところあるの言なり。酒後に英雄多く、死前に豪傑すくなきは、世間の常態なるが、太祖は是れしん豪傑、生きて長春不老の癡想ちそういだかず、死して万物自然の数理に安んぜんとす。従容しょうようとしてせまらず、晏如あんじょとして※(「りっしんべん+易」、第3水準1-84-53)おそれず、偉なるかな、偉なる哉。皇太孫※(「火+文」、第4水準2-79-61)いんぶん、宜しく大位に登るべし、と云えるは、一げんや鉄の鋳られたるがごとし。衆論の糸のもつるゝを防ぐ。これよりさき、太孫の儲位ちょいくや、太祖太孫を愛せざるにあらずといえども、太孫の人となり仁孝聡頴そうえいにして、学を好み書を読むことはこれ有り、然も勇壮果決の意気ははなはだ欠く。これを以て太祖の詩を賦せしむるごとに、その婉美柔弱えんびじゅうじゃく、豪壮瑰偉かいいところ無く、太祖多く喜ばず。一日太孫をして詞句しく属対ぞくたいをなさしめしに、おおいかなわず、ふたたび以て燕王えんおうていに命ぜられけるに、燕王の語はすなわち佳なりけり。燕王は太祖の第四子、容貌ようぼうにして髭髯しぜんうるわしく、智勇あり、大略あり、誠を推して人に任じ、太祖[#「太祖」は底本では「大祖」]たること多かりしかば、太祖もこれよろこび、人もあるいこころを寄するものありたり。ここおいて太祖ひそか儲位ちょいえんとするに有りしが、劉三吾りゅうさんごこれはばみたり。三吾は名は如孫じょそんげんの遺臣なりしが、博学にして、文をくしたりければ、洪武十八年召されてでゝ仕えぬ。時に年七十三。当時汪叡おうえい朱善しゅぜんともに、称して三ろうす。人となり慷慨こうがいにして城府を設けず、自ら号して坦坦翁たんたんおうといえるにも、其の風格は推知すべし。坦坦翁、生平せいへい実に坦坦、文章学術を以て太祖に仕え、礼儀の制、選挙の法を定むるの議にあずかりて定むる所多く、帝の洪範こうはんの注成るや、命をけて序をつくり、勅修ちょくしゅうの書、省躬録せいきゅうろく書伝会要しょでんかいよう礼制集要れいせいしゅうよう等の編撰へんせん総裁となり、居然きょぜんたる一宿儒を以て、朝野の重んずるところたり。而して大節たいせつに臨むに至りては、きつとして奪うからず。懿文いぶん太子のこうずるや、身をぬきんでゝ、皇孫は世嫡せいちゃくなり、大統をけたまわんこと、礼なり、と云いて、内外の疑懼ぎくを定め、太孫を立てゝ儲君ちょくんとなせし者は、実に此の劉三吾たりしなり。三吾太祖の意を知るや、何ぞげん無からん、すなわいわく、し燕王を立てたまわば秦王しんおう晋王しんおうを何の地に置き給わんと。秦王そう[#「木+爽」、UCS-6A09、265-7]、晋王こうは、皆燕王の兄たり。そんを廃してを立つるだに、定まりたるをかえすなり、まして兄を越して弟を君とするは序を乱るなり、あに事無くしてまんや、との意は言外に明らかなりければ、太祖も英明絶倫の主なり、言下に非を悟りて、そのみけるなり。かくの如き事もありしなれば、太祖みずから崩後の動揺を防ぎ、暗中の飛躍をとどめて、ことに厳しく皇太孫允※(「火+文」、第4水準2-79-61)よろしく大位に登るべしとは詔をのこされたるなるべし。太祖のを思うのりょも遠く、皇孫を愛するの情もあつしという可し。葬祭の儀は、漢の文帝のごとくせよ、と云える、天下の臣民は哭臨こくりん三日にして服をき、嫁娶かしゅを妨ぐるなかれ、と云える、何ぞ倹素けんそにして仁恕じんじょなる。文帝の如くせよとは、金玉きんぎょくを用いる勿れとなり。孝陵の山川は其のもとに因れとは、土木を起す勿れとなり。嫁娶を妨ぐる勿れとは、民をしてさいわいあらしめんとなり。諸王は国中になげきて、京に至るを得る無かれ、と云えるは、けだその諸王其の封を去りて京に至らば、前代の※(「薛/子」、第3水準1-47-55)いげつ、辺土の黠豪かつごう等、あるいは虚に乗じて事を挙ぐるあらば、星火も延焼して、燎原りょうげんの勢を成すに至らんことをおそるるに似たり。また愛民憂世の念、おのずからここに至るというべし。太祖の遺詔、嗚呼ああ、何ぞ人を感ぜしむるの多きや。


 しかりといえども、太祖の遺詔、考うきもまた多し。皇太孫※(「火+文」、第4水準2-79-61)いんぶん、天下心を帰す、よろしく大位に登るべし、とえるは、何ぞや。既に立って皇太孫となる。遺詔無しと雖も、まさに大位に登るべきのみ。特に大位に登るべしというは、朝野の間、あるいは皇太孫の大位に登らざらんことを欲する者あり、太孫の年わかゆう乏しき、自ら謙譲して諸王のうちの材雄に略大なる者に位をゆずらんことを欲する者ありしがごときをもすいせしむ。仁明孝友、天下心を帰す、と云えるは、何ぞや。みんの世を治むる、わずかに三十一年、げんえいなおいまだ滅びず、中国に在るもの無しといえども、漠北ばくほくに、塞西さいせいに、辺南へんなんに、元の同種の広大の地域を有して※(「足へん+番」、第4水準2-89-49)ばんきょするもの存し、太祖崩じて後二十余年にして猶大に興和こうわあだするあり。国外のじょうかくの如し。しこうして域内の事、また英主の世を御せんことをさいわいとせずんばあらず。仁明孝友はもとよりたっとぶべしと雖も、時勢の要するところ、実は雄材大略なり。仁明孝友、天下心を帰するというと雖も、あるいは恐る、天下を十にして其の心を帰する者七八に過ぎざらんことを。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐ほゆうし、もっが民をさいわいせよ、といえるは、文武臣僚の中、心を同じゅうせざる者あるをおそるゝに似たり。太祖の心、それ安んぜざる有る。諸王は国中になげきてけいに至るを得る無かれ、と云えるは、何ぞや。諸王のその封国ほうこくむなしゅうして奸※かんごう[#「敖/馬」、UCS-9A41、268-4]の乗ずるところとならんことをおそるというも、諸王の臣、あに一時をたくするに足る者無からんや。子の父のそうはしるは、おのずかられ情なり、是れ理なり、礼にあらず道にあらずとさんや。諸王をして葬に会せざらしむるみことのりは、果して是れ太祖の言にづるか。太祖にしてこの詔をのこすとせば、太祖ひそかにしりぞけて聴かざりし葉居升しょうきょしょうの言の、諸王衆を擁して入朝し、はなはだしければすなわかんりてたんに、これを防ぐも及ぶ無きなり、と云えるを思えるにあらざる無きを得んや。嗚呼ああ子にして父の葬に会するを得ず、父のなりとうと雖も、子よりして論ずれば、父の子を待つもまたにして薄きのうらみ無くんばあらざらんとす。詔或は時勢にあたらん、しかも実に人情に遠いかな。およ施為しい命令謀図言義を論ぜず、其の人情に遠きことはなはだしきものは、意は善なるも、理は正しきも、けいあたるも、けんは徹するも、必らず弊にし凶を招くものなり。太祖の詔、可なることはすなわち可なり、人情には遠し、これより先に洪武十五年こう皇后の崩ずるや、しんしんえん王等皆国に在り、しかれども諸王はしりてけいに至り、礼をえて還れり。太祖の崩ぜると、其きさきの崩ぜると、天下の情勢に関すること異なりと雖も、母の喪には奔りて従うを得て、父の葬には入りて会するを得ざらしむ。これも亦人を強いて人情に遠きをさしむるものなり。太祖の詔、まことに人情に遠し。あに弊を生じ凶を致す無からんや。果して事端じたんずこゝに発したり。崩を聞いて諸王は京に入らんとし、燕王はまさ淮安わいあんに至らんとせるに当りて、斉泰せいたいは帝にもうし、人をして※(「來+力」、第4水準2-3-41)ちょくもたらして国にかえらしめぬ。燕王をはじめとして諸王は皆よろこばず。これ尚書しょうしょ斉泰せいたい疎間そかんするなりといぬ。建文帝は位にきて劈頭へきとう第一に諸王をして悦ばざらしめぬ。諸王は帝の叔父しゅくふなり、尊族なり、封土ほうどを有し、兵馬民財を有せる也。諸王にして悦ばざるときは、宗家の枝柯しか、皇室の藩屏はんぺいたるも何かあらん。嗚呼ああ、これ罪斉泰にあるか、建文帝にあるか、そも又遺詔にあるか、諸王にあるか、これを知らざる也。又ひるがえって思うに、太祖の遺詔に、果して諸王の入臨をとどむるの語ありしや否や。あるいは疑う、太祖の人情に通じ、世故せいこに熟せる、まさにかくの如きの詔をのこさゞるべし。し太祖に果して登遐とうかの日に際して諸王の葬に会するを欲せざらば、平生無事従容の日、又は諸王の京を退きて封にくの時において、親しく諸王に意を諭すべきなり。然らば諸王もまた発駕奔喪はつがほんそうの際に於て、半途にして擁遏ようかつせらるゝの不快事に会う無く、※(二の字点、1-2-22)おのおのその封に於て哭臨こくりんして、他を責むるが如きこと無かるべきのみ。太祖の智にして事ここでず、詔を遺して諸王の情を屈するは解すからず。人の情屈すればすなわち悦ばず、悦ばざれば則ちうらみいだき他を責むるに至る。怨を懐き他を責むるに至れば、事無きを欲するも得べからず。太祖の人情に通ぜる何ぞこれを知るのめい無からん。故にいわく、太祖の遺詔に、諸王の入臨をとどむる者は、太祖の為すところにあらず、疑うらくは斉泰黄子澄こうしちょうの輩の仮託するところならんと。斉泰の輩、もとより諸王の帝に利あらざらんことを恐る、詔をむるの事も、世其例に乏しからず、かくの如きの事、未だ必ずしも無きをせず。然れどもれ推測の言のみ。しん、太祖の失か、失にあらざるか、斉泰のか、為にあらざる将又はたまた斉泰、遺詔に托して諸王の入京会葬をとどめざるあたわざるの勢の存せしか、非。建文永楽のかん、史に曲筆多し、今あらたに史徴を得るあるにあらざれば、うたがいを存せんのみ、たしかに知るあたわざる也。


 太祖の崩ぜるはうるう五月なり、諸王の入京にゅうけいとどめられてよろこばずして帰れるの後、六月に至って戸部侍郎こぶじろう卓敬たくけいというもの、密疏みっそたてまつる。卓敬あざな惟恭いきょう、書を読んで十行ともに下るとわれし頴悟聡敏えいごそうびんの士、天文地理より律暦兵刑に至るまできわめざること無く、後に成祖せいそをして、国家を養うこと三十年、ただ一卓敬を得たりとたんぜしめしほどの英才なり。※(「魚+更」、第3水準1-94-42)直慷慨こうちょくこうがいにして、避くるところ無し。かつて制度いまだ備わらずして諸王の服乗ふくじょうも太子に擬せるを見、太祖に直言して、嫡庶ちゃくしょあいみだり、尊卑序無くんば、何をもって天下に令せんや、と説き、太祖をして、なんじげんなり、とわしめたり。の人となり知るきなり。敬の密疏は、宗藩そうはん裁抑さいよくして、禍根を除かんとなり。されども、帝は敬の疏を受けたまいしのみにて、報じたまわず、事ついみぬ。敬の言、けだし故無くして発せず、必らずひそかに聞くところありしなり。二十余年前の葉居升しょうきょしょうが言は、ここおいそのあたれるを示さんとし、七国の難は今まさに発せんとす。えん王、しゅう王、せい王、しょう王、だい王、みん王等、秘信相通じ、密使たがいに動き、穏やかならぬ流言ありて、ちょうに聞えたり。諸王と帝との間、帝はいまだ位にかざりしより諸王を忌憚きたんし、諸王は其の未だ位に即かざるに当って儲君ちょくんを侮り、叔父しゅくふの尊をさしばんで不遜ふそんの事多かりしなり。入京会葬をとどむるの事、遺詔にづと云うといえども、諸王、せめ讒臣ざんしんたくして、しこうして其の奸悪かんあくのぞかんと云い、こう孝陵こうりょうに進めて、而して吾が誠実を致さんと云うに至っては、けだ辞柄じへい無きにあらず。諸王は合同の勢あり、帝は孤立の状あり。嗚呼ああ、諸王も疑い、帝も疑う、相疑うや何ぞ※(「目+癸」、第4水準2-82-11)かいりせざらん。帝も戒め、諸王も戒む、相戒むるや何ぞ疎隔そかくせざらん。疎隔し、※(「目+癸」、第4水準2-82-11)離す、而して帝のためひそかに図るものあり、諸王の為にひそかに謀るものあり、いわんや藩王をもって天子たらんとするものあり、王を以て皇となさんとするものあるにおいてをや。事ついに決裂せずんばまざるものある也。
 帝のためひそかに図る者をばたれとなす。いわく、黄子澄こうしちょうとなし、斉泰せいたいとなす。子澄は既に記しぬ。斉泰は※(「さんずい+栗」、第4水準2-79-2)りっすいの人、洪武十七年よりようやく世にづ。建文帝くらいに即きたもうに及び、子澄とともに帝の信頼するところとなりて、国政に参す。諸王の入京会葬をとどめたる時の如き、諸王は皆おもえらく、泰皇考たいこうこうの詔をめて骨肉をへだつと。泰の諸王の憎むところとなれる、知るべし。
 諸王の為にひそかに謀る者を誰となす。曰く、諸王のゆうを燕王となす。燕王のに、僧道衍どうえんあり。道衍は僧たりといえど[#ルビの「いえど」は底本では「いえども」]も、灰心滅智かいしんめっち羅漢らかんにあらずして、かえってれ好謀善算の人なり。洪武二十八年、初めて諸王の封国にく時、道衍ずからすすめて燕王のとならんとし、って曰く、大王だいおう臣をして侍するを得せしめたまわば、一白帽いちはくぼうを奉りて大王がためにいただかしめんと。王上おうじょうはくを冠すれば、そのぶんは皇なり、儲位ちょい明らかに定まりて、太祖未だ崩ぜざるの時だに、かくごときの怪僧ありて、燕王が為に白帽を奉らんとし、しこうして燕王かくの如きの怪僧をいて帷※いばく[#「巾+莫」、UCS-5E59、274-11]の中にく。燕王の心胸もとより清からず、道衍の瓜甲そうこうも毒ありというべし。道衍燕邸えんていに至るに及んで※(「王+共」、第3水準1-87-92)えんこうを王に薦む。袁※(「王+共」、第3水準1-87-92)あざな廷玉ていぎょく※(「覲」の「見」に代えて「おおざと」、第4水準2-90-26)きんの人にして、これまた一種の異人なり。かつて海外に遊んで、人をそうするの術を別古崖べつこがいというものに受く。仰いで皎日こうじつて、目ことごとげんして後、赤豆せきとう黒豆こくとうを暗室中にいて之をべんじ、又五色のいとを窓外に懸け、月に映じてその色を別ってあやまつこと無く、しかして後に人を相す。其法は夜中を以て両炬りょうきょもやし、人の形状気色きしょくて、参するに生年月日げつじつを以てするに、百に一びょう無く、元末より既に名を天下にせたり。其の道衍どうえんるに及びたるは、道衍が嵩山寺すうざんじに在りし時にあり。※(「王+共」、第3水準1-87-92)えんこう道衍が相をつく/″\とて、れ何ぞ異僧なるや、目は三角あり、形は病虎びょうこの如し。性かならず殺をたしなまん。劉秉忠りゅうへいちゅうりゅうなりと。劉秉忠はがく内外を兼ね、しき三才をぶ、釈氏しゃくしよりおこって元主を助け、九州を混一こんいつし、四海を併合す。元の天下を得る、もとより其の兵力にると雖も、成功の速疾なるもの、劉の揮※きかく[#「てへん+霍」、UCS-6509、275-10]よろしきを得るにるものまたすくなからず。秉忠は実に奇偉卓犖きいたくらくの僧なり。道衍秉忠の流なりとなさる、まさに是れ癢処ようしょ爬着はちゃくするもの。是れより二人、友としし。道衍の※(「王+共」、第3水準1-87-92)こうを燕王に薦むるに当りてや、燕王ず使者をして※(「王+共」、第3水準1-87-92)こうとも酒肆しゅしに飲ましめ、王みずから衛士の儀表堂々たるもの九人にまじわり、おのれまた衛士の服を服し、弓矢きゅうしりて肆中しちゅうに飲む。※(「王+共」、第3水準1-87-92)一見してすなわはしって燕王の前に拝していわく、殿下何ぞ身を軽んじてここに至りたまえると。燕王等笑って曰く、吾輩わがはい皆護衛の士なりと。※(「王+共」、第3水準1-87-92)こうべってとせず。こゝに於て王って入り、※(「王+共」、第3水準1-87-92)を宮中にきてつばらそうせしむ。※(「王+共」、第3水準1-87-92)諦視ていしすることやや久しゅうしていわく、殿下は龍行虎歩りゅうこうこほしたまい、日角にっかく天をさしはさむ、まことに異日太平の天子にておわします。御年おんとし四十にして、御鬚おんひげへそぎさせたもうに及ばせたまわば、大宝位たいほういに登らせたまわんことうたがいあるべからず、ともうす。又燕府えんふの将校官属を相せしめたもうに、※(「王+共」、第3水準1-87-92)一々指点して曰く、ぼうこうたるべし、某はこうたるべし、某は将軍たるべし、某は貴官たるべしと。燕王ことばれんことをはかり、うわべしりぞけて通州つうしゅうに至らしめ、舟路しゅうろひそかに召してていに入る。道衍は北平ほくへい慶寿寺けいじゅじに在り、※(「王+共」、第3水準1-87-92)燕府えんふに在り、燕王と三人、時々人をしりぞけて語る。知らず其の語るところのもの何ぞや。※(「王+共」、第3水準1-87-92)柳荘居士りゅうそうこじと号す。時に年けだし七十に近し。そもまた何の欲するところあって燕王に勧めて反せしめしや。其子忠徹ちゅうてつの伝うるところの柳荘相法、今に至ってなお存し、風鑑ふうかん津梁しんりょうたり。※(「王+共」、第3水準1-87-92)と永楽帝と答問するところの永楽百問のうち帝鬚ていしゅの事を記す。相法三巻、信ぜざるものは、目して陋書ろうしょとなすと雖も、ことごとしりぞからざるものあるに似たり。忠徹も家学を伝えて、当時に信ぜらる。其のあらわすところ、今古識鑑ここんしきかん八巻ありて、明志みんし採録す。未だ寓目ぐうもくせずと雖も、けだ藻鑑そうかんの道を説く也。※(「王+共」、第3水準1-87-92)と忠徹と、ともに明史方伎伝ほうぎでんに見ゆ。※(「王+共」、第3水準1-87-92)の燕王にまみゆるや、ひげ長じてへそぎなば宝位に登らんという。燕王笑って曰く、が年まさに四旬ならんとす、鬚あにまた長ぜんやと。道衍こゝに於て金忠きんちゅうというものをすすむ。金忠も亦※(「覲」の「見」に代えて「おおざと」、第4水準2-90-26)きんの人なり、わかくして書を読みえきに通ず。卒伍そつごに編せらるゝに及び、ぼく北平ほくへいに売る。卜多く奇中して、市人伝えて以てしんとなす。燕王忠をして卜せしむ。忠卜してを得て、貴きこと言う可からずという。燕王の意ようやくにしてかたし。忠のちに仕えて兵部尚書ひょうぶしょうしょを以て太子たいし監国かんこくに補せらるゝに至る。明史巻百五十に伝あり。蓋し亦一異人なり。


 帝のかたえには黄子澄こうしちょう斉泰せいたいあり、諸藩を削奪さくだつするの意、いかでこれ無くしてまん。燕王えんおうかたえには僧道衍どうえん※(「王+共」、第3水準1-87-92)えんこうあり、秘謀を※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)うんじょうするの事、いかでこれ無くして已まん。二者の間、既にかくごとし、風声鶴唳ふうせいかくれい、人あい驚かんと欲し、剣光火影かえい、世ようやまさに乱れんとす。諸王不穏の流言、ちょうに聞ゆることしきりなれば、一日帝は子澄を召したまいて、先生、疇昔ちゅうせき東角門とうかくもんの言をおぼえたもうや、とおおす。子澄直ちにこたえて、あえて忘れもうさずともうす。東角門の言は、すなわち子澄七国しちこくの故事を論ぜるの語なり。子澄退いて斉泰せいたいと議す。泰いわく、えん重兵ちょうへいを握り、かつもとより大志あり、まさこれを削るべしと。子澄が曰く、しからず、燕はあらかじめ備うること久しければ、にわかに図り難し。よろしく先ずしゅうを取り、燕の手足しゅそくり、しこうして後燕図るべしと。すなわ曹国公そうこくこう李景隆りけいりゅうに命じ、兵を調してにわかに河南に至り、周王しゅく[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-3]及び世子せいし妃嬪ひひんとらえ、爵を削りて庶人しょじんとなし、これ雲南うんなんうつしぬ。ゆうどう[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-3]は燕王の同母弟なるをもって、帝もかねて之を疑いはばかり、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-3]また異謀あり、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-4]長史ちょうし王翰おうかんというもの、数々いさめたれどれず、※[#「木+肅」、UCS-6A5A、279-5]次子じし汝南じょなん有※[#「火+動」、279-5]の変を告ぐるに及び、此このことあり。実に洪武三十一年八月にして、太祖崩じて後、幾干月いくばくげつらざる也。冬十一月、代王だいおうけい暴虐ぼうぎゃく民をくるしむるを以て、しょくに入りて蜀王と共に居らしむ。
 諸藩ようやく削奪せられんとするの明らかなるや、十二月に至りて、前軍ぜんぐん都督府断事ととくふだんじ高巍こうぎ書をたてまつりて政を論ず。巍は遼州りょうしゅうの人、気節をたっとび、文章をくす、材器偉ならずといえども、性質実にこれ、母の蕭氏しょうしつかえて孝を以て称せられ、洪武十七年旌表せいひょうせらる。の立言正平せいへいなるを以て太祖の嘉納するところとなりしまたこれ一個の好人物なり。時に事に当る者、子澄、泰の輩より以下、皆諸王を削るを議す。独り御史ぎょし韓郁かんいくとは説を異にす。巍の言にいわく、我が高皇帝、三代のこうのっとり、※(「贏」の「貝」に代えて「女」、第4水準2-5-84)えいしんろうを洗い、諸王を分封ぶんぽうして、四裔しえい藩屏はんぺいたらしめたまえり。しかれどもこれを古制に比すれば封境過大にして、諸王又おおむ驕逸きょういつ不法なり。削らざればすなわち朝廷の紀綱立たず。之を削ればしんしたしむの恩をやぶる。賈誼かぎ曰く、天下の治安をほっするは、おおく諸侯を建てゝその力をすくなくするにくは無しと。臣愚しんぐおもえらく、今よろしくそのを師とすべし、晁錯ちょうさくが削奪の策を施すなかれ、主父偃しゅほえんが推恩のれいならうべし。西北諸王の子弟は、東南に分封し、東南諸王の子弟は、西北に分封し、其地を小にし、其城を大にし、以て其力を分たば、藩王のけんは、削らずして弱からん。臣又願わくは陛下益々ますます親親しんしんの礼をさかんにし、歳時さいじ伏臘ふくろう使問しもん絶えず、賢者は詔を下して褒賞ほうしょうし、不法者は初犯は之をゆるし、再犯は之をゆるし、三ぱん改めざれば、則ち太廟たいびょうに告げて、地を削り、之を廃処せんに、あに服順せざる者あらんやと。帝これなりとは聞召きこしめしたりけれど、いきおい既に定まりて、削奪の議を取る者のみ充満みちみちたりければ、高巍こうぎの説も用いられてみぬ。
 建文元年二月、諸王にみことのりして、文武の吏士りしを節制し、官制を更定こうていするを得ざらしむ。も諸藩を抑うるの一なりけり。夏四月西平侯せいへいこう沐晟もくせい岷王びんおうこうの不法の事を奏す。よって其の護衛を削り、其の指揮宗麟そうりんちゅうし、王を廃して庶人となす。又湘王しょうおうはくいつわりてしょうを造り、及びほしいままに人を殺すを以て、ちょくくだして之を責め、兵をってとらえしむ。湘王もと膂力りょりょくありて気を負う。曰く、われ聞く、前代の大臣の吏に下さるゝや、多く自ら引決すと。身は高皇帝の子にして、南面して王となる、あに僕隷ぼくれいの手にはずかしめられて生活を求めんやと。ついきゅうじて自ら焚死ふんしす。斉王せいおうもまた人の告ぐるところとなり、廃せられて庶人となり、代王けいもまたついに廃せられて庶人となり、大同だいどうに幽せらる。
 燕王ははじめより朝野の注目せるところとなり、かつは威望材力も群を抜けるなり、又ついに天子たるべきを期するものも有るなり、又ひそかに異人術士を養い、勇士勁卒けいそつをもたくわれるなり、人も疑い、おのれも危ぶみ、朝廷と燕とついに両立するあたわざらんとするの勢あり。されば三十一年の秋、周王しゅく[#「木+肅」、UCS-6A5A、282-3]とらえらるゝを見て、燕王は遂に壮士そうしえらみて護衛となし、極めて警戒を厳にしたり。されども斉泰黄子澄に在りては、もとより燕王をゆるす能わず。たま/\北辺に寇警こうけいありしを機とし、防辺を名となし、燕藩の護衛の兵を調してさいでしめ、其の羽翼うよくを去りて、其の咽喉いんこうやくせんとし、すなわ工部侍郎こうぶじろう※(「日/丙」、第3水準1-85-16)ちょうへいをもて北平左布政使ほくへいさふせいしとなし、謝貴しゃきもっ都指揮使としきしとなし、燕王の動静を察せしめ、巍国公ぎこくこう徐輝祖じょきそ曹国公そうこくそう李景隆りけいりゅうをして、はかりごとあわせて燕をはからしむ。
 建文元年正月、燕王長史ちょうし葛誠かつせいをして入って事を奏せしむ。せい、帝のためつぶさ燕邸えんていの実を告ぐ。こゝにおいて誠をりて燕にかえらしめ、内応をさしむ。燕王さとって之に備うるあり。二月に至り、燕王入覲にゅうきんす。皇道こうどうを行きて入り、陛に登りて拝せざる等、不敬の事ありしかば、監察御史かんさつぎょし曾鳳韶そうほうしょうこれをがいせしが、帝曰く、至親ししん問うなかれと。戸部侍郎こぶじろう卓敬たくけい、先に書をたてまつって藩を抑えわざわいを防がんことを言う。また密奏して曰く、燕王は智慮人に過ぐ、而して其の拠る所の北平ほくへいは、形勝の地にして、士馬しば精強に、きんげんの由って興るところなり、今よろしくほう南昌なんしょううつしたもうべし。しからばすなわち万一の変あるも控制こうせいやすしと、帝けいこたえたまわく、燕王は骨肉至親なり、何ぞこれに及ぶことあらんやと。敬曰く、ずい文揚広ぶんようこうは父子にあらずやと。敬の言実に然り。揚広は子を以てだに父をしいす。燕王の傲慢ごうまんなる、何をかさゞらん。敬の言、敦厚とんこうを欠き、帝の意、醇正じゅんせいに近しといえども、世相の険悪にして、人情の陰毒なる、かなしきかな、敬の言かえって実に切なり。然れども帝黙然たることやや久しくして曰く、けい休せよと。三月に至って燕王国にかえる。都御史とぎょし暴昭ぼうしょう燕邸えんていの事を密偵して奏するあり。北平の按察使あんさつし僉事せんじ湯宗とうそう按察使あんさつし陳瑛ちんえいが燕のこがねを受けて燕の為に謀ることをがいするあり。よってえいを逮捕し、都督宗忠そうちゅうをして兵三万をひきい、及び燕王府の護衛の精鋭を忠の麾下きかれいし、開平かいへいとんして、名を辺に備うるにり、都督の耿※こうけん[#「王+獻」、UCS-74DB、284-4]に命じて兵を山海関さんかいかんに練り、徐凱じょがいをして兵を臨清りんせいに練り、ひそか※(「日/丙」、第3水準1-85-16)ちょうへい謝貴しゃきに勅して、厳に北平ほくへいの動揺を監視しせしむ。燕王此の勢を、国に帰れるよりやまいたくして出でず、これを久しゅうして遂にやまいあつしと称し、以て一時の視聴をけんとせり。されども水あるところ湿気無きあたわず、火あるところは燥気そうき無き能わず、六月に至りて燕山の護衛百戸倪諒げいりょうというもの変をたてまつり、燕の官校于かんこうう諒周鐸りょうしゅうたくの陰事を告げゝれば、二人はとらえられてけいに至り、罪明らかにしてちゅうせられぬ。こゝに於てこと燕王に及ばざる能わず、みことのりありて燕王を責む。燕王弁疏べんそする能わざるところありけん、いつわりて狂となり、号呼疾走して、市中の民家に酒食しゅしを奪い、乱語妄言、人を驚かして省みず、あるいは土壌にして、時をれど覚めず、全く常を失えるものゝごとし。※(「日/丙」、第3水準1-85-16)ちょうへい謝貴しゃきの二人、入りてやまいを問うに、時まさに盛夏に属するに、王はを囲み、身をふるわせて、寒きことはななだしとい、宮中をさえつえつきて行く。されば燕王まことに狂したりとおもう者もあり、朝廷もややこれを信ぜんとするに至りけるが、葛誠かつせいひそかに※(「日/丙」、第3水準1-85-16)と貴とに告げて、燕王の狂は、一時の急をゆるくして、後日のけいに便にせんまでのいつわりに過ぎず、もとより恙無つつがなきのみ、と知らせたり。たま/\燕王の護衛百戸の※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)とうようというもの、けついたり事を奏したりけるを、斉泰いてとらえて鞠問きくもんしけるに、王がまさに兵を挙げんとするの状をば逐一にもうしたり。
 待設まちもうけたる斉泰は、たゞちに符を発し使を遣わし、いて燕府の官属を逮捕せしめ、ひそか謝貴しゃき※(「日/丙」、第3水準1-85-16)ちょうへいをして、燕府に在りて内応を約せる長史ちょうし葛誠かつせい指揮しき盧振ろしんと気脈を通ぜしめ、北平都指揮としき張信ちょうしんというものゝ、燕王の信任するところとなるを利し、密勅を下して、急に燕王をとらえしむ。しんは命を受けて憂懼ゆうくすところを知らず、情誼じょうぎを思えば燕王にそむくに忍びず、勅命を重んずれば私恩を論ずるあたわず、進退両難にして、行止こうしともにかたく、左思右慮さしゆうりょ、心ついに決する能わねば、苦悶くもんの色は面にもあらわれたり。信が母疑いて、何事のあればにや、なんじの深憂太息することよ、となじり問う。信是非に及ばず、事の始末を告ぐれば、母おおいに驚いて曰く、不可なり、汝が父のこうつねに言えり王気おうき燕に在りと、それ王者は死せず、燕王は汝のとりこにするところにあらざるなり、燕王にそむいて家を滅することなかれと。信愈々いよいよまどいて決せざりしに、勅使信を促すこと急なりければ、信ついに怒って曰く、何ぞ太甚はなはだしきやと。すなわちち意を決して燕邸にいたる。造ること三たびすれども、燕王疑いて而して辞し、入ることを得ず。信婦人の車に乗じ、ただちに門に至りてまみゆることを求め、ようやく召入めしいれらる。されども燕王なおやまいを装いてものいわず。信曰く、殿下しかしたもう無かれ、まことに事あらばまさに臣に告げたもうべし、殿下もしじょうを以て臣に語りたまわずば、上命あり、まさとらわれに就きたもうべし、し意あらば臣にみたもうなかれと。燕王信のまことあるを見、席を下りて信を拝して曰く、我が一家を生かすものはなりと。信つぶさに朝廷の燕を図るの状を告ぐ。形勢は急転直下せり。事態は既に決裂せり。燕王は道衍どうえんを召して、まさに大事をげんとす。
 天とき耶、燕王の胸中颶母ばいぼまさに動いて、黒雲こくうん飛ばんと欲し、張玉ちょうぎょく朱能しゅのうの猛将梟雄きょうゆう、眼底紫電ひらめいて、雷火発せんとす。燕府えんぷこぞって殺気陰森いんしんたるに際し、天もまた応ぜるか、時そも至れるか、※(「風にょう+炎」、第4水準2-92-35)ひょうふう暴雨卒然としておおいに起りぬ。蓬々ほうほうとして始まり、号々として怒り、奔騰狂転せる風は、沛然はいぜんとして至り、澎然ほうぜんとしてそそぎ、猛打乱撃するの雨とともなって、乾坤けんこん震撼しんかんし、樹石じゅせき動盪どうとうしぬ。燕王の宮殿堅牢けんろうならざるにあらざるも、風雨の力大にして、高閣の簷瓦えんが吹かれてくうひるがえり、※(「(ぼう+彡)/石」、第4水準2-82-32)かくぜんとして地にちて粉砕したり。大事を挙げんとするに臨みて、これ何のちょうぞ。さすがの燕王も心に之をにくみて色よろこばず、風声雨声、竹折るゝ声、裂くる声、物凄ものすさまじき天地を睥睨へいげいして、惨として隻語無く、王の左右もまたしゅくとしてものいわず。時に道衍どうえん少しも驚かず、あな喜ばしの祥兆しょうちょうや、ともうす。もとよりの異僧道衍は、死生禍福のちまたに惑うが如き未達みだつの者にはあらず、きもに毛もいたるべき不敵の逸物いちもつなれば、さきに燕王を勧めて事を起さしめんとしける時、燕王、彼は天子なり、民心の彼に向うを奈何いかん、とありけるに、昂然こうぜんとして答えて、臣は天道を知る、何ぞ民心を論ぜん、と云いけるほどの豪傑なり。されども風雨簷瓦えんがおとす。時に取ってのさがとも覚えられぬを、あな喜ばしの祥兆といえるは、余りに強言きょうげんに聞えければ、燕王もこらえかねて、和尚おしょう何というぞや、いずくにか祥兆たるを得る、と口を突いてそゞろぎののしる。道衍騒がず、殿下きこしめさずや、飛龍天に在れば、従うに風雨をもってすと申す、かわらちて砕けぬ、これ黄屋こうおくかわるべきのみ、と泰然としてこたえければ、王もとみまゆを開いてよろこび、衆将も皆どよめき立って勇みぬ。かのくにの制、天子のおくは、くに黄瓦こうがを以てす、旧瓦は用無し、まさに黄なるにかわるべし、といえる道衍が一語は、時に取っての活人剣、燕王宮中の士気をして、勃然ぼつぜん凛然りんぜん糾々然きゅうきゅうぜんただちにまさに天下をまんとするのいきおいをなさしめぬ。
 燕王は護衛指揮張玉朱能等をして壮士八百人をして入ってまもらしめぬ。矢石しせきいままじわるに至らざるも、刀鎗とうそう既にたがいに鳴る。都指揮使謝貴しゃき七衛しちえいの兵、ならびに屯田とんでんの軍士を率いて王城を囲み、木柵ぼくさくを以て端礼門たんれいもん等のみちを断ちぬ。朝廷よりは燕王の爵を削るのみことのり、及び王府の官属をとらうべきの詔至りぬ。秋七月布政使ふせいし※(「日/丙」、第3水準1-85-16)ちょうへい謝貴しゃきともに士卒を督してみな甲せしめ、燕府を囲んで、朝命により逮捕せらるべき王府の官属を交付せんことを求む。一げん支吾しごあらんには、巌石がんせき鶏卵けいらんを圧するの勢を以て臨まんとするの状をし、※(「日/丙」、第3水準1-85-16)へいきの軍の殺気のはしるところ、をば放って府内に達するものすら有りたり。燕王謀って曰く、吾が兵は甚だすくなく、彼の軍は甚だ多し、奈何いかにせんと。朱能進んで曰く、ず張※(「日/丙」、第3水準1-85-16)謝貴を除かば、く為す無き也と。王曰く、よし、※(「日/丙」、第3水準1-85-16)へいきとりこにせんと。壬申じんしんの日、王、やまいえぬと称し、東殿とうでんに出で、官僚の賀を受け、人をして※(「日/丙」、第3水準1-85-16)と貴とを召さしむ。二人応ぜず。また内官をつかわして、とらわるべき者を交付するを装う。二人すなわち至る。衛士甚だおおかりしも、門者してこれとどめ、※(「日/丙」、第3水準1-85-16)と貴とのみを入る。※(「日/丙」、第3水準1-85-16)と貴との入るや、燕王はつえいてし、宴を賜い酒をり宝盤にうりを盛っていだす。王曰く、たま/\新瓜しんかを進むる者あり、けいと之をこころみんと。自ら一を手にしけるが、たちまちにして色をしてののしって曰く、今世間の小民だに、兄弟宗族けいていそうぞくなおあいたがいあわれぶ、身は天子の親属たり、しか旦夕たんせきに其めいを安んずること無し、県官の我を待つことかくの如し、天下何事か為すからざらんや、と奮然として瓜を地になげうてば、護衛の軍士皆激怒して、すすんで※(「日/丙」、第3水準1-85-16)と貴とをとらえ、かねて朝廷に内通せる葛誠かつせい盧振ろしんを殿下に取っておさえたり。王こゝにおいて杖を投じてって曰く、我何ぞ病まん、奸臣かんしんに迫らるゝのみ、とて遂に※(「日/丙」、第3水準1-85-16)貴等をる。※(「日/丙」、第3水準1-85-16)貴等の将士、二人が時を移してかえらざるを見、はじめは疑い、のちさとりて、おのおの散じ去る。王城を囲める者も、首脳すでに無くなりて、手足しゅそく力無く、其兵おのずからついえたり。※(「日/丙」、第3水準1-85-16)ちょうへいが部下北平都指揮ほくへいとしき彭二ほうじ、憤慨あたわず、馬を躍らしておおいに市中によばわって曰く、燕王反せり、我に従って朝廷の為に力を尽すものは賞あらんと。兵千余人を得て端礼門たんれいもんに殺到す。燕王の勇卒※(「广+龍」、第3水準1-94-86)来興ほうらいこう丁勝ていしょうの二人、彭二を殺しければ、其兵もまた散じぬ。このいきおいに乗ぜよやと、張玉、朱能等、いずれも塞北さいほくに転戦して元兵げんぺいあい馳駆ちくし、千軍万馬の間に老いきたれる者なれば、兵を率いて夜に乗じて突いて出で、黎明れいめいに至るまでに九つの門の其八を奪い、たゞ一つ下らざりし西直門せいちょくもんをも、好言を以て守者を散ぜしめぬ。北平既に全く燕王の手に落ちしかば、都指揮使の※(「王+眞」、第4水準2-80-87)よてんは、走って居庸関きょようかんを守り、馬宣ばせんは東して薊州けいしゅうに走り、宋忠そうちゅう開平かいへいより兵三万を率いて居庸関に至りしが、あえて進まずして、退いて懐来かいらいを保ちたり。
 煙はさかんにして火は遂にえたり、けんは抜かれて血は既に流されたり。燕王は堂々として旗を進め馬を出しぬ。天子の正朔せいさくを奉ぜず、あえて建文の年号を去って、洪武三十二年と称し、道衍どうえん帷幄いあくの謀師とし、金忠きんちゅう紀善きぜんとして機密に参ぜしめ、張玉、朱能、丘福きゅうふくを都指揮僉事せんじとし、張※(「日/丙」、第3水準1-85-16)部下にして内通せる李友直りゆうちょく布政司ふせいし参議さんぎし、すなわち令を下して諭して曰く、予は太祖高皇帝の子なり、今奸臣かんしんの為に謀害せらる。祖訓にわく、ちょうに正臣無く、内に奸逆かんぎゃくあれば、必ず兵を挙げて誅討ちゅうとうし、もって君側の悪を清めよと。こゝになんじ将士を率いて之を誅せんとす。罪人既に得ば、周公の成王せいおうたすくるにのっとらん。なんじそれ予が心を体せよと。一面にはかくの如くに将士に宣言し、又一面には書を帝にたてまつりて曰く、皇考太祖高皇帝、百戦して天下を定め、帝業を成し、之を万世に伝えんとして、諸子を封建したまい、宗社を鞏固きょうこにして、盤石の計をしたまえり。しかるに奸臣かんしん斉泰せいたい黄子澄こうしちょう、禍心を包蔵し、しゅく[#「木+肅」、UCS-6A5A、292-11]はくけい※(「木+便」、第4水準2-15-14)べんの五弟、数年ならずして、並びに削奪さくだつせられぬ、はくもっともあわれむべし、闔室こうしつみずからく、聖仁かみに在り、なんなんこれに忍ばん。けだし陛下の心に非ず、実に奸臣のす所ならん。心なおいまだ足らずとし、又以て臣に加う。臣はんを燕に守ること二十余年、つつしおそれて小心にし、法を奉じぶんしたがう。誠に君臣の大分たいぶん、骨肉の至親なるを以て、つねに思いてつつしみを加う。しかるに奸臣跋扈ばっこし、禍を無辜むこに加え、臣が事を奏するの人をとらえて、※楚すいそ[#「※[#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、293-5][#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、293-5]楚」は底本では「※[#「竹かんむり/「垂」の「ノ」の下に「一」を加える」、293-5]楚」]。 刺※ししつ[#「執/糸」、UCS-7E36、293-5]し、つぶさに苦毒を極め、迫りて臣不軌ふきを謀ると言わしめ、遂に宋忠、謝貴、張※(「日/丙」、第3水準1-85-16)等を北平城の内外に分ち、甲馬は街衢がいく馳突ちとつし、鉦鼓しょうこ遠邇えんじ喧鞠けんきくし、臣が府を囲み守る。すでにして護衛の人、※(「日/丙」、第3水準1-85-16)きへいとらえ、始めて奸臣欺詐ぎさの謀を知りぬ。ひそかおもうに臣の孝康こうこう皇帝にけるは、同父母兄弟なり、今陛下につかうるは天に事うるが如きなり。たとえば大樹をるに、先ず附枝ふしるが如し、親藩既に滅びなば、朝廷孤立し、奸臣志を得んには、社稷しゃしょくあやうからん。臣して祖訓をるにえることあり、ちょうに正臣無く、内に奸悪あらば、すなわち親王兵を訓して命を待ち、天子ひそかに諸王にみことのりし、鎮兵を統領して之を討平せしむと。臣謹んで俯伏ふふくして命をつ、と言辞を飾り、情理をいろえてぞ奏しける。道衍わかきより学を好み詩をたくみにし、高啓こうけいと友としく、宋濂そうれんにも推奨すいしょうされ、逃虚子集とうきょししゅう十巻を世に留めしほどの文才あるものなれば、道衍や筆を執りけん、あるいは又金忠の輩やことばつづりけん、いずれにせよ、柔を外にして剛をいだき、おのれまもりて人を責むる、いと力ある文字なり。卒然としてこのしょのみを読めば、王に理ありて帝に理なく、帝にじょう無くして王に情あるが如く、祖霊も民意も、帝を去り王に就くきを覚ゆ。されどもほしいままに謝張を殺し、みだりに年号を去る、何ぞ法を奉ずると云わんや。後苑こうえんに軍器を作り、密室に機謀を錬る、これぶんしたがうにあらず。君側の奸をはらわんとすと云うといえども、詔無くして兵を起し、威をほしいままにして地をかすむ。そのすなわち可なるも、其実は則ち非なり。飜って思うに斉泰黄子澄の輩の、必ず諸王を削奪せんとするも、また理に於て欠け、情に於て薄し。れ諸王を重封せるは、太祖の意に出づ。諸王未だ必ずしも反せざるに、先ず諸王を削奪せんとするの意をいだいて諸王に臨むは、かみは太祖の意をやぶり、しもは宗室のしんを破るなり。三年父の志を改めざるは、孝というべし。太祖崩じて、抔土ほうど未だかわかず、ただちに其意を破り、諸王を削奪せんとするは、れ理において欠け情に於て薄きものにあらずして何ぞや。斉黄の輩の為さんとするところかくの如くなれば、燕王等手を袖にし息をしりぞくるもまた削奪罪責をまぬかれざらんとす。太祖の血をけて、英雄傑特の気象あるもの、いずくんぞ俛首べんしゅしてえんに服するに忍びんや。うりを投じて怒罵どばするの語、其中に機関ありといえども、又ことごと偽詐ぎさのみならず、もとより真情の人にせまるに足るものあるなり。畢竟ひっきょう両者おのおの理あり、各非理ひりありて、争鬩そうげいすなわち起り、各じょうなく、各真情ありて、戦闘則ち生ぜるもの、今に於てたれく其の是非を判せんや。高巍こうぎの説は、敦厚とんこうよろこしと雖も、時既におそく、卓敬たくけいの言は、明徹用いるに足ると雖も、勢かえし難く、朝旨の酷責すると、燕師えんしの暴起すると、実にたがいあたわざるものありしなり。是れ所謂いわゆるすうなるものか、


 燕王えんおうの兵を起したる建文元年七月より、恵帝けいていの国をゆずりたる建文四年六月までは、烽烟ほうえん剣光けんこうにして、今一々これを記するにものうし。そのしょうを知らんとするものは、明史みんし及び明朝紀事本末みんちょうきじほんまつに就きて考うべし。今たゞ其概略がいりゃくと燕王恵帝の性格※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)ふうぼうを知るきものとを記せん。燕王もと智勇天縦ちゆうてんしょうかつつとに征戦に習う。洪武こうぶ二十三年、太祖たいその命を奉じ、諸王と共に元族げんぞく漠北ばくほくに征す。秦王しんおう晋王しんおうきょにしてあえて進まず、王将軍傅友徳ふゆうとく等を率いて北出し、※(「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1-92-52)都山いとさんに至り、其将乃児不花ナルプファとりこにしてかえる。太祖おおい[#「おおい」は底本では「おおいい」]に喜び、これより後しばしば諸将をひきいて出征せしむるに、毎次功ありて、威名おおいふるう。王既に兵を知りたたかいる。加うるに道衍どうえんありて、機密に参し、張玉ちょうぎょく朱能しゅのう丘福きゅうふくありて爪牙そうがる。丘福は謀画ぼうかくの才張玉に及ばずといえども、樸直ぼくちょく猛勇、深く敵陣に入りて敢戦死闘し、たたかい終って功を献ずるや必ず人におくる。いにしえ大樹たいじゅ将軍の風あり。燕王をして、丘将軍の功は我これを知る、と歎美たんびせしむるに至る。故に王の功臣を賞するに及びて、福そのしゅたり、淇国公きこくこうほうぜらる。その将士の鷙悍※雄しかんごうゆう[#「敖/馬」、UCS-9A41、297-4]の者も、またはなはすくなからず。燕王の大事を挙ぐるも、けだ胸算きょうさんあるなり。燕王の※(「日/丙」、第3水準1-85-16)ちょうへい謝貴しゃきって反をあえてするや、郭資かくしとどめて北平ほくへいを守らしめ、ただちに師をいだして通州つうしゅうを取り、薊州けいしゅうを定めずんば、後顧のうれいあらんとえる張玉の言を用い、玉をして之を略せしめ、ついで夜襲して遵化じゅんかくだす。これ開平かいへいの東北の地なり。時に※(「王+眞」、第4水準2-80-87)よてん居庸関きょようかんを守る。王曰く、居庸は険隘けんあいにして、北平の咽喉いんこう也、敵ここるは、れ我がはいつなり、急に取らざる可からずと。すなわ徐安じょあん鐘祥しょうしょうをして※(「王+眞」、第4水準2-80-87)てんって、懐来かいらいに走らしむ。宗忠そうちゅう懐来かいらいり 兵三万と号す。諸将之を撃つをかたんず。王曰く、彼おおく、我すくなし、しかれども彼あらたに集まる、其心いまだ一ならず、之を撃たばかならず破れんと。精兵八千を率い、こうき道を倍して進み、ついに戦ってち、忠と※(「王+眞」、第4水準2-80-87)とをて之を斬る。こゝにおいて諸州燕にくだる者多く、永平えいへい欒州らんしゅうまた燕に帰す。大寧たいねい都指揮としき卜万ぼくばん松亭関しょうていかんで、沙河さがとどまり、遵化を攻めんとす。兵十万と号し、いきおいやゝ振う。燕王反間はんかんを放ち、万の部将陳亨ちんこう劉貞りゅうていをして万を縛し獄に下さしむ。
 帝黄子澄の言を用い、長興侯ちょうこうこう耿炳文こうへいぶんを大将軍とし、李堅りけん寧忠ねいちゅうえて北伐せしめ、又安陸侯あんりくこう呉傑ごけつ江陰侯こういんこう呉高ごこう都督ととく都指揮としき盛庸せいよう潘忠はんちゅう楊松ようしょう顧成こせい徐凱じょがい李文りぶん陳暉ちんき平安へいあんに命じ、諸道並び進みて、ただちに北平をかしむ。時に帝諸将士をいましめたまわく、むかし蕭繹しょうえき、兵を挙げてけいに入らんとす、しかそのしもに令して曰く、一門のうち自ら兵威を極むるは、不祥の極なりと。今なんじ将士、燕王と対塁するも、務めてこのを体して、ちんをして叔父しゅくふを殺すの名あらしむるなかれと。(蕭繹しょうえきりょう孝元こうげん皇帝なり。今梁書りょうしょあんずるに、此事を載せず。けだし元帝兵を挙げて賊をちゅうけいに入らんことを図る。時に河東かとう王誉おうよ、帝に従わず、かえって帝の子ほうを殺す。帝鮑泉ほうせんりて之を討たしめ、又おう僧弁そうべんをして代って将たらしむ。帝は高祖武帝ぶていの第七子にして、は武帝の長子にして文選もんぜん撰者せんじゃたる昭明太子しょうめいたいしとうの第二子なり。一門の語、誉を征するの時に当りて発するか。)建文帝の仁柔じんじゅうの性、宋襄そうじょうに近きものありというべし。それ燕王は叔父たりといえども、既に爵を削られて庶人たり、庶人にして兇器きょうきろうし王師に抗す、其罪もとより誅戮ちゅうりくに当る。しかるにかくごときの令を出征の将士に下す。これたまたまもって軍旅のえいぎ、貔貅ひきゅうたんを小にするに過ぎざるのみ、なりというからず。燕王と戦うに及びて、官軍時にあるいは勝つあるも、この令あるをもって、飛箭ひせん長槍ちょうそう、燕王をたおすに至らず。然りと雖も、小人のあやまち刻薄こくはく、長者のあやまち寛厚かんこう、帝の過をて帝の人となりを知るべし。
 八月耿炳文こうへいぶん兵三十万を率いて真定しんていに至り、徐凱じょがいは兵十万を率いて河間かかんとどまる。炳文は老将にして、太祖創業の功臣なり。かつて張士誠ちょうしせいに当りて、長興ちょうこうを守ること十年、大小数十戦、戦って勝たざる無く、ついに士誠をして志をたくましくするあたわざらしめしを以て、太祖の功臣を榜列ほうれつするや、炳文を以て大将軍徐達じょたつして一等となす。後又、北はさいを出でゝ元の遺族を破り、南は雲南うんなんを征して蛮を平らげ、あるい陝西せんせいに、或はしょくに、旗幟きしの向う所、つねに功を成す。こと洪武こうぶの末に至っては、元勲宿将多く凋落ちょうらくせるを以て、炳文は朝廷の重んずるところたり。今大兵を率いて北伐す、時に年六十五。老いて材いよいよ堅く、将老いて軍益々ますます固し。然れども不幸にして先鋒せんぽう楊松、燕王のために不意を襲われて雄県ゆうけんに死し、潘忠はんちゅういたすくわんとして月漾橋げつようきょうの伏兵にとらえられ、部将張保ちょうほ敵に降りて其の利用するところとなり、遂に※(「濾」の「思」に代えて「乎」、第4水準2-79-10)沱河こだかの北岸において、燕王及び張玉、朱能、譚淵たんえん馬雲ばうんの為におおいに敗れて、李堅りけん※忠ねいちゅう[#「宀/必/冉」、UCS-5BD7、300-11]顧成こせい劉燧りゅうすいを失うに至れり。ただ炳文の陣に熟せる、大敗してしかついえず、真定城しんていじょうに入りて門をじて堅く守る。燕兵かちに乗じて城を囲む三日、下すあたわず。燕王も炳文が老将にして破りやすからざるを知り、を解いてかえる。
 炳文の一敗はなお復すべし、帝炳文の敗を聞いて怒りて用いず、黄子澄こうしちょうの言によりて、李景隆りけいりゅうを大将軍とし、斧鉞ふえつたまわって炳文に代らしめたもうに至って、大事ほとんど去りぬ。景隆は※(「糸+丸」、第3水準1-89-90)がんこの子弟、趙括ちょうかつりゅうなればなり。趙括を挙げて廉頗れんぱに代う。建文帝の位を保つ能わざる、兵戦上には実にこれに本づく。炳文の子※(「王+睿」、第3水準1-88-34)えい[#「※(「王+睿」、第3水準1-88-34)」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり−小」、301-7]」]は、帝の父懿文いぶん太子の長女江都公主こうとこうしゅを妻とす、※(「王+睿」、第3水準1-88-34)えい[#「※(「王+睿」、第3水準1-88-34)」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり−小」、301-7]」]父のまた用いられざるを憤ることはなはだしかりしという。又※(「王+睿」、第3水準1-88-34)[#「※(「王+睿」、第3水準1-88-34)」は底本では「※[#「王+「虞」の「呉」に代えて「僚のつくり−小」、301-8]」]の弟けん[#「王+獻」、UCS-74DB、301-7]遼東りょうとう鎮守ちんじゅ呉高ごこう都指揮使としきし楊文ようぶんともに兵を率いて永平えいへいを囲み、東より北平を動かさんとしたりという。二子の護国の意の誠なるも知るべし。それ勝敗は兵家の常なり。蘇東坡そとうば所謂いわゆるえきする者も日に勝って日にやぶるゝものなり。然るに一敗の故を以て、老将を退け、驕児きょうじを挙ぐ。燕王手をって笑って、李九江りきゅうこう膏梁こうりょう豎子じゅしのみ、未だかつて兵に習い陣を見ず、すなわあたうるに五十万の衆を以てす、これ自らこれあなにするなり、と云えるもの、酷語といえども当らずんばあらず。炳文を召してかえらしめたる、まことにたんずべし。
 景隆小字しょうじ九江きゅうこう、勲業あるにあらずして、大将軍となれる者は何ぞや。黄子澄、斉泰のすすむるにるも、又別に所以ゆえ有るなり。景隆は李文忠りぶんちゅうの子にして、文忠は太祖の姉の子にして且つ太祖の子となりしものなり。之に加うるに文忠は器量沈厚、学を好みけいを治め、の家居するや恂々じゅんじゅんとして儒者の如く、しかも甲を※(「てへん+鐶のつくり」、第3水準1-85-3)き馬にほこを横たえて陣に臨むや、※(「足へん+卓」、第4水準2-89-35)※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)たくれい風発、大敵にいてますますさかんに、年十九より軍に従いて数々しばしば偉功を立て、創業の元勲として太祖の愛重あいちょう[#「愛重」は底本では「受重」]するところとなれるのみならず、西安せいあんに水道を設けては人を利し、応天おうてんに田租を減じては民をめぐみ、誅戮ちゅうりくすくなくすることを勧め、宦官かんがんさか[#ルビの「さか」は底本では「さかん」]んにすることをいさめ、洪武十五年、太祖日本懐良王かねながおうの書に激して之を討たんとせるをとどめ、(懐良王、明史みんしに良懐に作るはけだあやまり也。懐良王は、後醍醐ごだいご帝の皇子、延元えんげん三年、征西大将軍に任じ、筑紫つくし鎮撫ちんぶす。菊池武光きくちたけみつこれに従い、興国こうこくより正平しょうへいに及び、勢威おおいに張る。明の太祖の辺海つね和寇わこうみださるゝを怒りて洪武十四年、日本を征せんとするをもっ威嚇いかくするや、王答うるに書を以てす。その略に曰く、乾坤けんこん浩蕩こうとうたり、一主の独権にあらず、宇宙は寛洪かんこうなり、諸邦をして以て分守す。けだし天下は天下の天下にして、一人の天下にあらざるなりわれ聞く、天朝たたかいおこすの策ありと、小邦また敵をふせぐのあり。あにあえみちひざまずいて之を奉ぜんや。之にしたがうもいまだ其せいを必せず、之にさからうも未だ其死を必せず、あい賀蘭山前がらんさんぜんいささかもっ博戯はくぎせん、吾何をかおそれんやと。太祖書を得ていかること甚だしく、しんに兵を加えんとするの意を起したるなり。洪武十四年は我が南朝弘和こうわ元年に当る。時に王既に今川了俊いまがわりょうしゅんの為に圧迫せられて衰勢に陥り、征西将軍の職を後村上帝ごむらかみてい[#「後村上帝」は底本では「御村上帝」]の皇子良成ながなり王に譲り、筑後ちくご矢部やべに閑居し、読経礼仏を事として、兵政のつとめをば執りたまわず、年代齟齬そご[#「齟齬」は底本では「齬齟」]するに似たり。然れども王とみんとの交渉はつとに正平の末より起りしことなれば、王の裁断を以て答書ありしならん。このこと我が国に史料全く欠け、大日本史だいにほんしも亦載せずと雖も、彼の史にして彼の威を損ずるの事を記す、決して無根の浮譚ふだんにあらず。)一個いっか優秀の風格、多くからざるの人なり。洪武十七年、やまいを得て死するや、太祖親しく文をつくりてまつりを致し、岐陽王きようおうに追封し、武靖ぶせいおくりなし、太廟たいびょう配享はいきょうしたり。景隆はかくの如き人の長子にして、其父の蓋世がいせいの武勲と、帝室の親眷しんけんとの関係よりして、斉黄の薦むるところ、建文の任ずるところとなりて、五十万の大軍をぶるには至りしなり。景隆は長身にして眉目疎秀びもくそしゅう雍容都雅ようようとが顧盻偉然こべんいぜん卒爾そつじに之を望めば大人物の如くなりしかば、しばしばでゝ軍を湖広ここう陝西せんせい河南かなんに練り、左軍都督府事さぐんととくふじとなりたるほかには、すところも無く、その功としては周王しゅうおうとらえしのみに過ぎざれど、帝をはじめ大臣等これを大器としたりならん、然れども虎皮こひにして羊質ようしつ所謂いわゆる治世の好将軍にして、戦場の真豪傑にあらず、血を[#「足へん+諜のつくり」、UCS-8E40、305-1]み剣をふるいて進み、きずつつみ歯をくいしばってたたかうが如き経験は、いまかつて積まざりしなれば、燕王の笑って評せしもの、実にその真を得たりしなり。
 李景隆は大兵を率いて燕王をたんと北上す。帝はなお北方憂うるに足らずとしてこころを文治に専らにし、儒臣方孝孺ほうこうじゅと周官の法度ほうどを討論して日を送る、このかんに於て監察御史かんさつぎょし韓郁かんいく(韓郁あるい康郁こういくに作る)というもの時事を憂いてたてまつりぬ。其の意、黄子澄斉泰を非として、残酷の豎儒じゅじゅとなし、諸王は太祖の遺体なり、孝康こうこう手足しゅそくなりとなし、これを待つことの厚からずして、周王しょうだいせい王をして不幸ならしめたるは、朝廷のために計る者のあやまちにして、是れ則ち朝廷激して之を変ぜしめたるなりとし、ことわざいわく、親者しんしゃ之をけども断たず、疎者そしゃ之をげどもかたからずと、これことに理有る也となし、燕の兵を挙ぐるに及びて、財をし兵を損して而して功無きものは国に謀臣無きに近しとなし、願わくは斉王をゆるし、湘王をほうじ、周王を京師けいしかえし、諸王世子せいしをして書を持し燕に勧め、干戈かんかめ、親戚しんせきあつうしたまえ、然らずんば臣おもえらく十年を待たずして必ず噬臍ぜいせいくいあらん、というにり。其の論、彝倫いりんあつくし、動乱をしずめんというは可なり、斉泰黄子澄を非とするも可なり、たゞ時すでに去り、いきおい既に成るの後に於て、この言あるも、嗚呼ああおそかりしなり。帝ついに用いたまわず。
 景隆の炳文へいぶんに代るや、燕王其の五十万の兵を恐れずして、其の五敗兆はいちょうを具せるを指摘し、我これとりこにせんのみ、と云い、諸将の言を用いずして、北平ほくへい世子せいしに守らしめ、東に出でゝ、遼東りょうとう江陰侯こういんこう呉高ごこうを永平よりい、転じて大寧たいねいに至りて之を抜き、ねい王を擁してかんに入る。景隆は燕王の大寧を攻めたるを聞き、師をひきいて北進し、遂に北平を囲みたり。北平の李譲りじょう梁明りょうめい世子せいしを奉じて防守甚だつとむといえども、景隆が軍おおくして、将もまた雄傑なきにあらず、都督ととく瞿能くのうの如き、張掖門ちょうえきもんに殺入しておおいに威勇を奮い、城ほとんど破る。しかも景隆のの小なる、能の功を成すを喜ばず、大軍の至るをちてともに進めと令し、機に乗じて突至せず。ここに於て守る者便べんを得、連夜水をみて城壁にそそげば、天寒くしてたちまち氷結し、明日に至ればまた登ることを得ざるが如きことありき。燕王はあらかじめ景隆を吾が堅城の下に致して之をつくさんことを期せしに、景隆既に※(「(士/冖/一/弓)+殳」、第3水準1-84-25)やごろに入りきたりぬ、何ぞを放たざらんや。大寧よりかえりて会州かいしゅうに至り、五軍を立てゝ、張玉を中軍に、朱能を左軍に、李彬りひん右軍ゆうぐんに、徐忠じょちゅうを前軍に、降将房寛ぼうかんを後軍に将たらしめ、ようやく南下して京軍けいぐんと相対したり。十一月、京軍の先鋒せんぽう陳暉ちんき、河を渡りて東す。燕王兵を率いて至り、河水の渡り難きを見て黙祷もくとうして曰く、天し予を助けんには、河水氷結せよと。夜に至って氷はたして合す。燕の師勇躍して進み、の軍を敗る。景隆の兵動く。燕王左右軍を放って夾撃きょうげきし、遂にしきりに其七営を破って景隆の営にせまる。張玉も陣をつらねて進むや、城中もまた兵を出して、内外こもごも攻む。景隆支うるあたわずしてのがれ、諸軍も亦かててゝはしる。燕の諸将ここに於て頓首とんしゅして王の神算及ぶからずと賀す。王いわく、偶中ぐうちゅうのみ、諸君の言えるところは皆万全の策なりしなりと。前には断じて後にはけんす。燕王が英雄の心をるもたくみなりというべし。
 景隆が大軍功無くして、退いて徳州とくしゅうに屯す。黄子澄そのはいを奏せざるをもって、十二月に至ってかえって景隆に太子たいし太師たいしを加う。燕王は南軍をして苦寒に際して奔命に疲れしめんが為に、師を出して広昌こうしょうを攻めて之を降す。
 前にたてまつりりて、諸藩を削るをいさめたる高巍こうぎは、言用いられず、事ついに発して天下動乱に至りたるをなげき、書をたてまつりりて、臣願わくは燕に使つかいして言うところあらんと請い、許されて燕に至り、書を燕王にたてまつりりたり。その略に曰く、太祖たいそ[#「太祖」は底本では「大祖」]升遐しょうかしたまいておもわざりき大王と朝廷とげきあらんとは。臣おもえらく干戈かんかを動かすは和解にかずと。願わくは死を度外に置きて、親しく大王にまみえん。昔周公流言を聞きては、すなわち位を避けて東にたまいき。し大王首計しゅけいの者をりたまい、護衛の兵を解き、子孫をしちにし、骨肉猜忌さいきうたがいき、残賊離間の口をふさぎたまわば、周公とさかんなることを比すべきにあらずや。しかるをおもんばかりこゝに及ばせたまわで、甲兵を興し彊宇きょううを襲いたもう。されば事に任ずる者、口にくことを得て、殿下文臣をちゅうすることを仮りて実は漢の王の七国にとなえて晁錯ちょうさくを誅せんとしゝにならわんと欲したもうと申す。今大王北平にりて数群を取りたもうといえども、数月すうげつ以来にして、なお※(「くさかんむり/最」、第4水準2-86-82)さつじたる一隅の地をづる能わず、くらぶるに天下を以てすれば、十五にして未だそのいつをも有したまわず。大王の将士も、亦疲れずといわんや。それ大王のべたもう将士も、大約三十万には過ぎざらん。大王と天子と、義はすなわち君臣たり、しんは則ち骨肉たるも、なお離れへだたりたもう、三十万の異姓の士、など必ずしも終身困迫して殿下の為に死し申すべきや。おもいこゝに至るごとに大王の為に流涕りゅうていせずんばあらざる也。願わくは大王臣がことばを信じ、上表じょうひょう謝罪し、甲をき兵を休めたまわば、朝廷も必ず寛宥かんゆうあり、天人共によろこびて、太祖在天の霊もまた安んじたまわん。※(「にんべん+淌のつくり」、第3水準1-14-30)もしまよいを執りてかえらず、小勝をたのみ、大義を忘れ、寡を以て衆に抗し、す可からざるの悖事はいじ僥倖ぎょうこうするをあえてしたまわば、臣大王の為にもうすべきところを知らざるなりいわんや、大喪の期未だ終らざるに、無辜むこの民驚きを受く。仁を求め国をまもるの義と、逕庭けいていあるもまたはなはだし。大王に朝廷を粛清するの誠意おわすとも、天下に嫡統を簒奪さんだつするの批議無きにあらじ。もしさいわいにして大王敗れたまわずして功成りたまわば、後世の公論、大王を如何いかんの人とい申すべきや。巍は白髪の書生、蜉蝣ふゆう微命びめい、もとより死をおそれず。洪武十七年、太祖高皇帝の御恩ぎょおんこうむりて、臣が孝行をあらわしたもうをかたじけなくす。巍すでに孝子たる、まさに忠臣たるべし。孝に死し忠に死するは巍の至願也。巍幸にして天下の為に死し、太祖在天の霊にまみゆるを得ば、巍も亦以てはじ無かるべし。巍至誠至心、直語してまず、尊厳を冒涜ぼうとくす、死を賜うもくい無し、願わくは大王今に於て再思したまえ。とはばかるところ無くもうしける。されど燕王答えたまわねば、数次しばしば書をたてまつりけるが、皆かい無かりけり。
 巍の書、人情の純、道理の正しきところより言を立つ。知らず燕王のこれに対して如何いかんの感を為せるを。たゞ燕王既に兵を起したたかいを開く、巍のことばしと雖も、大河既に決す、一葦いちいの支え難きが如し。しかも巍の誠を尽し志を致す、其意と其げんと、忠孝敦厚とんこうの人たるにそむかず。数百歳の後、なお読む者をして愴然そうぜんとして感ずるあらしむ。魏と韓郁かんいくとは、建文の時に於て、人情の純、道理のまさに拠りて、げんを為せる者也。


 年はあらたになりて建文二年となりぬ。えん洪武こうぶ三十三年と称す。燕王は正月の酷寒に乗じて、蔚州いしゅうを下し、大同だいどうを攻む。景隆けいりゅう師を出してこれを救わんとすれば、燕王は速く居庸関きょようかんより入りて北平ほくへいかえり、景隆の軍、寒苦に悩み、奔命に疲れて、戦わずして自ら敗る。二月、韃靼だったんの兵きたりて燕を助く。けだし春暖に至れば景隆の来り戦わんことをはかりて、燕王の請えるなり。春たけなわにして、南軍いきおいを生じぬ。四月さく、景隆兵を徳州とくしゅうに会す、郭英かくえい呉傑ごけつ真定しんていに進みぬ。帝は巍国公ぎこくこう徐輝祖じょきそをして、京軍けいぐん三万をひきいて疾馳しっしして軍に会せしむ。景隆、郭英、呉傑、軍六十万をがっし、百万と号して白溝河はくこうがす。南軍の将平安へいあん驍勇ぎょうゆうにして、かつて燕王に従いて塞北さいほくに戦い、王の兵を用いるの虚実をる。先鋒せんぽうとなりて燕に当り、ほこふるいてすすむ。瞿能くのう父子もまた踴躍して戦う。二将のむかう所、燕兵披靡ひびす。夜、燕王、張玉ちょうぎょくを中軍に、朱能しゅのうを左軍に、陳亨ちんこうゆう軍に、丘福きゅうふくを騎兵に将とし、馬歩ばほ十余万、黎明れいめいことごとく河を渡る。南軍の瞿能父子、平安等、房寛ぼうかんの陣をいて之を破る。張玉等これを見て懼色くしょくあり。王曰く、勝負しょうはいは常事のみ、日中を過ぎずして必ず諸君のために敵を破らんと。すなわち精鋭数千をさしまねいて敵の左翼に突入す。王の子高煦こうこう、張玉等の軍を率いてひとしく進む。両軍相争い、一進一退す、喊声かんせい天に震い 飛矢ひし雨の如し。王の馬、三たびきずこうむり、三たび之をう。王く射る。射るところの、三ふく皆尽く。すなわち剣をひっさげて、衆に先だちて敵に入り、左右奮撃す。剣鋒けんぽう折れ欠けて、つにえざるに至る。瞿能くのうあいう。ほとんど能の為に及ばる。王急に走りて※(「こざとへん+是」、第3水準1-93-60)つつみに登り、いつわってむちさしまねいで、後継者を招くが如くしてわずかまぬかれ、而してまた衆を率いてせて入る。平安鎗刀そうとうを用い、向う所敵無し。燕将陳亨ちんこう、安の為に斬られ、徐忠亦きずこうむる。高煦こうこう急を見、精騎数千をひきい、すすんで王とがっせんとす。瞿能くのうまた猛襲し、大呼して曰く、燕を滅せんと。たま/\旋風突発して、南軍の大将の大旗を折る。南軍の将卒あいて驚き動く。王これに乗じ、勁騎けいきを以てめぐってそのうしろに出で、突入馳撃しげきし、高煦の騎兵と合し、瞿能父子を乱軍のうちに殺す。平安は朱能と戦って亦敗る。南将兪通淵ゆつうえん勝聚しょうしゅう皆死す。燕兵勢に乗じて営にせまり火をはなつ。急風火をあおる。ここおいて南軍おおいついえ、郭英かくえいは西にはしり、景隆は南に奔る。器械輜重しちょう、皆燕のるところとなり、南兵の横尸おうし百余里に及ぶ。所在の南師、聞く者皆解体す。このたたかい、軍を全くして退く者、徐輝祖じょきそあるのみ。瞿能、平安等、驍将ぎょうしょう無きにあらずといえども、景隆凡器にして将材にあらず。燕王父子、天縦てんしょうの豪雄に加うるに、張玉、朱能、丘福等の勇烈をもってす。北軍のち、南軍のついゆる、まことに所以ゆえある也。
 山東参政さんとうさんせい鉄鉉てつげんは儒生より身を起し、かつて疑獄を断じて太祖の知を受け、鼎石ていせきというあざなを賜わりたる者なり。北征の師のづるや、しょうを督して景隆の軍に赴かんとしけるに、景隆の師ついえて、諸州の城堡じょうほふうを望みて燕に下るに会い、臨邑りんゆうやどりたるに、参軍高巍こうぎの南帰するにいたり。ともれ文臣なりといえども、今武事の日に当り、目前に官軍のおおいに敗れて、賊威のさかんに張るを見る、感憤何ぞ極まらん。巍は燕王に書をたてまつりしもかい無かりしをたんずれば、鉉は忠臣の節に死するすくなきを憤る。慨世のなげき、憂国の涙、二人あいして、※(「さんずい+玄」、第3水準1-86-62)げんぜんとして泣きしが、すなわち酒をみてともちかい、死を以て自ら誓い、済南せいなんはしりてこれを守りぬ。景隆ははしりて済南にりぬ。燕王はかちに乗じて諸将を進ましめぬ。燕兵の済南に至るに及びて、景隆なお十余万の兵を有せしが、一戦にまた敗られて、単騎走り去りぬ。燕師の勢いよいよさかんにして城をほふらんとす。鉄鉉、左都督さととく盛庸せいよう右都督ゆうととく陳暉ちんきと力を尽してふせぎ、志を堅うして守り、日をれど屈せず。事聞えて、鉉を山東布政司使さんとうふせいししし、盛庸を大将軍とし、陳暉を副将軍にのぼす。景隆は召還めしかえされしが、黄子澄こうしちょう練子寧れんしねいは之をちゅうせずんば何をもっ宗社そうしゃに謝し将士を励まさんといしも、帝ついに問いたまわず。燕王は済南を囲むこと三月に至り、ついくだすことあたわず。すなわち城外の諸渓しょけいの水をきてそそぎ、一城のを魚とせんとす。城中ここに於ておおいに安んぜず。鉉曰く、おそるゝなかれ、われに計ありと。千人をりていつわりてくだらしめ、燕王を迎えて城に入らしめ、かねて壮士を城上に伏せて、王の入るをうかがいて大鉄板をおとしてこれを撃ち、又別にふくを設けて橋を断たしめんとす。燕王はかりごとに陥り、馬に乗じがいを張り、橋を渡り城に入る。大鉄板にわかに下る。たゞ少しく早きに失して、王の馬首を傷つく。王驚きて馬をえてせてづ。橋を断たんとす。橋はなはかたし。いまだ断つに及ばずして、王ついに逸し去る。燕王ほとんど死してさいわいに逃る。天助あるものゝ如し。王おおいに怒り、巨※きょほう[#「石+駁」、UCS-791F、316-5]を以て城を撃たしむ 城壁破れんとす。鉉いよいよ屈せず、太祖高皇帝の神牌しんぱいを書して城上に懸けしむ。燕王あえて撃たしむるあたわず。鉉又数々しばしば不意に出でゝ壮士をして燕兵をおびやかさしむ。燕王いかることはなはだしけれども、計の出づるところ無し。道衍どうえん書をせて曰く、師老いたり、請うしばらく北平にかえりて後挙を図りたまえと。王かこみを撤して還る。鉉と盛庸と勢に乗じて之を追い、遂に徳州を回復し、官軍おおいに振う。鉉ここに於てぬきんでられて兵部尚書へいぶしょうしょとなり、盛庸は歴城侯れきじょうこうとなりたり。
 盛庸は初め耿炳文こうへいぶんに従い、つい李景隆りけいりゅうに従いしが、洪武中より武官たりしを以て、兵馬の事に習う。済南の防禦ぼうぎょ、徳州の回復に、其の材を認められて、平燕へいえん将軍となり、陳暉ちんき平安へいあん馬溥ばふ徐真じょしん等の上に立ち、呉傑ごけつ徐凱じょがい等とともに燕をつの任に当りぬ。庸すなわち呉傑、平安をして西の方定州ていしゅうを守らしめ、徐凱をして東の方滄州そうしゅうたむろせしめ、自ら徳州にとどまり、猗角きかくの勢をしてようやく燕をしじめんとす。燕王、徳州の城の、修築すでまったく、防備も亦厳にして破り難く、滄州の城のついくず[#「土へん+己」、UCS-572E、317-6]るゝ[#「くず[#「土へん+己」、UCS-572E、317-6]るゝ」は底本では「くず[#「土へん+已」、317-6]るゝ」]こと久しくして破りやすきを思い、これを下して庸の勢をがんと欲す。すなわよう遼東りょうとうを征するを令して、徐凱をして備えざらしめ、天津てんしんより直沽ちょくこに至り、にわかに沿いて南下するを令す。軍士なお知らず、の東を征せんとして而して南するを疑う。王厳命して疾行すること三百里、みち偵騎ていきえば、ことごとこれを殺し、一昼夜にしてあかつきおよびて滄州に至る。凱の燕師のいたれるをさとりし時には、北卒四面より急攻す。滄州の衆皆驚きて防ぐあたわず。張玉の肉薄して登るに及び、城ついに抜かれ、凱と程暹ていせん※(「王+其」、第3水準1-88-8)ゆき趙滸ちょうこ等皆らる。これ実にこのとし十月なり。
 十二月、燕王河にしたがいて南す。盛庸兵を出して後を襲いしが及ばざりき。王遂に臨清りんせいに至り、館陶かんとうたむろし、つい大名府たいめいふかすめ、転じて※(「さんずい+文」、第3水準1-86-53)ぶんじょうに至り、済寧せいねいかすめぬ。盛庸と鉄鉉とは兵を率いてそののちみ、東昌とうしょうに営したり。このとき北軍かえって南にり南軍却って北に在り。北軍南軍相戦わざるを得ざるのいきおい成りて東昌の激戦は遂に開かれぬ。はじめは官軍の先鋒せんぽう孫霖そんりん燕将えんしょう朱栄しゅえい劉江りゅうこうために敗れて走りしが、両軍持重じちょうして、主力動かざること十日を越ゆ。燕師いよ/\東昌に至るに及んで、盛庸、鉄鉉うしを宰して将士をねぎらい、義をとなえ衆を励まし、東昌の府城を背にして陣し、ひそかに火器毒弩どくどつらねて、しゅくとして敵を待ったり。燕兵もと勇にして毎戦毎勝す。庸の軍を見るや鼓譟こそうしてせまる。火器でんごとくに発し、毒弩雨の如く注げば、虎狼鴟梟ころうしきょう、皆傷ついて倒る。又平安へいあんの兵の至るに会う。庸ここに於て兵をさしまねいておおいに戦う。燕王精騎を率いて左翼をく。左翼動かずして入る能わず。転じて中堅をく。庸陣を開いて王の入るにまかせ、急に閉じて厚く之を囲む。燕王衝撃はなはつとむれどもづることを得ず、ほとんど其のるところとならんとす。朱能しゅのう周長しゅうちょう等、王の急を見、韃靼だったん騎兵をはなって庸の軍の東北角を撃つ。庸これふせがしめ、かこみやゝゆるむ。のう衝いて入って死戦して王をたすけて出づ。張玉ちょうぎょくまた王を救わんとし、王のすでに出でたるを知らず、庸の陣に突入し、縦横奮撃し、遂に悪闘して死す。官軍かちに乗じ、残獲万余人、燕軍おおいに敗れてはしる。庸兵をはなって之を追い、殺傷甚だ多し。このえきや、燕王数々しばしばあやうし、諸将帝のみことのりを奉ずるを以て、じんを加えず。燕王も亦これを知る。王騎射もっとくわし、追う者王をるをあえてせずして、王の射て殺すところとなる多し。適々たまたま高煦こうこう華衆かしゅう等を率いて至り、追兵を撃退して去る。
 燕王張玉の死を聞きて痛哭つうこくし、諸将と語るごとに、東昌とうしょうの事に及べば、曰く、張玉を失うより、われ今に至って寝食安からずと。なみだ下りてまず。諸将も皆泣く。のち功臣を賞するに及びて、張玉を第一とし、河間かかん王を追封ついほうす。


 初め燕王えんおうの師のづるや、道衍どうえんいわく、師はいて必ずたん、たゞ両日をついやすのみと。東昌とうしょうよりかえるに及びて、王多く精鋭を失い、張玉ちょうぎょくうしなうをもって、意やや休まんことを欲す。道衍曰く、両日は昌なり、東昌の事おわる、これより全勝ならんのみと。益々ますます士を募りいきおいす。建文三年二月、燕王自ら文をせんし、流涕りゅうていして陣亡の将士張玉等を祭り、服するところのほうを脱してこれき、以て亡者ぼうしゃするの意をあらわし、曰く、れ一いえどもや、以て余が心をれと。将士の父兄子弟これを見て、皆感泣して、王のために死せんと欲す。
 燕王ついまた師をひきいてづ。諸将士をさとして曰く、たたかいの道、死をおそるゝ者は必ず死し、せいつる者は必ず生く、なんじ努力せよと。三月、盛庸せいよう來河きょうがう。燕将譚淵たんえん董中峰とうちゅうほう、南将荘得そうとくと戦って死し、南軍また荘得そうとく楚知そち張皀旗ちょうそうき等を失う。日暮れ、おのおの兵をおさめて営に入る。燕王十余騎を以て庸の営にせまって野宿やしゅくす。天く、四面皆敵なり。王従容しょうようとして去る。庸の諸将あいかえりみておどろ※(「目+台」、第3水準1-88-79)るも、天子の詔、朕をして叔父しゅくふを殺すの名を負わしむるなかれの語あるを以て、矢をはなつをあえてせず。このまた戦う。たつよりひつじに至って、両軍たがいに勝ち互に負く。たちまちにして東北風おおいに起り、砂礫されきおもてを撃つ。南軍は風にさからい、北軍は風に乗ず。燕軍吶喊とっかん鉦鼓しょうこの声地をふるい、庸の軍当るあたわずしておおいに敗れ走る。燕王戦んで営にかえるに、塵土じんど満面、諸将もる能わず、語声を聞いて王なるをさとりしという。王の黄埃こうあい天にみなぎるの中にって馳駆奔突ちくほんとつして※(「口+它」、第3水準1-14-88)しった号令せしの状、察すきなり。
 呉傑ごけつ平安へいあんは、盛庸せいようの軍をたすけんとして、真定しんていより兵を率いてでしが、及ばざること八十里にして庸の敗れしことを聞きて還りぬ。燕王、真定の攻め難きを以て、燕軍は回出してかてを取り、営中そなえ無しと言わしめ、傑等をいざなう。傑等之を信じて、遂に※(「濾」の「思」に代えて「乎」、第4水準2-79-10)沱河こだかに出づ。王かわを渡りながれに沿いて行くこと二十里、傑の軍と藁城ごうじょうに遇う。実にうるう三月己亥きがいなり。翌日おおいに戦う。燕将薛禄せつろく[#「薛禄」は底本では「薜禄」]、奮闘はなはつとむ。王驍騎ぎょうきを率いて、傑の軍に突入し、大呼猛撃す。南軍を飛ばす雨のごとく、王の建つるところの旗、集矢しゅうし蝟毛いもうの如く、燕軍多く傷つく。しかも王なお屈せず、衝撃いよいよ急なり。たまたままた※(「風にょう+(犬/(犬+犬))、第4水準2-92-41)ぼうひょう起り、おくひるがえす。燕軍之に乗じ、傑等おおいついゆ。燕兵追いて真定城下に至り、驍将ぎょうしょう※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)※(「晉+戈」、第4水準2-12-85)とうしん※(「周+鳥」、第3水準1-94-62)ちんちゅう等をとりこにし、斬首ざんしゅ六万余級、ことごとく軍資器械を得たり。王の旗を北平ほくへいに送り、世子せいしさとして曰く、これを蔵し、後世をして忘るなからしめよと。旗世子のもとに至る。時に降将こうしょう顧成こせいりて之を見る。成は操舟そうしゅうを業とする者より出づ。魁岸かいがん勇偉、膂力りょりょく絶倫、満身の花文かぶん、人を驚かして自ら異にす。太祖に従って、出入離れず。かつて太祖にしたがって出でし時、巨舟きょしゅうすなこうして動かず。成すなわち便舟を負いて行きしことあり。鎮江ちんこうたたかいに、とらえられてばくせらるゝや、勇躍して縛を断ち、とうを持てる者を殺して脱帰し、ただちに衆を導いて城をおとしゝことあり。勇力察すし。のち戦功をって累進して将となり、しょくを征し、雲南うんなんを征し、諸蛮しょばんを平らげ、雄名世にく。建文元年耿炳文こうへいぶんに従いて燕と戦う。炳文敗れて、成とらえらる。燕王自らその縛を解いて曰く、皇考の霊、なんじもって我に授くるなりと。って兵を挙ぐるの故を語る。成感激して心をし、ついに世子をたすけて北平を守る。しかれども多く謀画ぼうかくを致すのみにして、ついに兵に将として戦うをがえんぜす、兵器をたまうもまた受けず。けだし中年以後、書を読んで得るあるにる。又一種の人なり。のち、太子高熾こうし羣小ぐんしょうためくるしめらるるや、告げて曰く、殿下はただまさに誠をつくして孝敬こうけいに、孳々ししとして民をめぐみたもうべきのみ、万事は天に在り、小人は意をくに足らずと。識見亦高しというべし。成はかくの如き人なり。旗を見るや、愴然そうぜんとして之をそうとし、涙下りて曰く、臣わかきより軍に従いて今老いたり、戦陣をたること多きも、いまかつかくの如きを見ざるなりと。水滸伝すいこでん中の人の如き成をしてこの言をさしむ、燕王も亦悪戦したりというべし。而して燕王の豪傑の心を所以ゆえんのもの、実に王のの勇往邁進まいしん艱危かんきを冒してあえて避けざるの雄風ゆうふうにあらずんばあらざる也。
 四月、燕兵大名だいみょうす。王、斉泰せいたい黄子澄こうしちょうとのしりぞけらるゝを聞き、書をたてまつりて、呉傑ごけつ盛庸せいよう平安へいあんの衆を召還せられんことをい、しからずんば兵をあたわざるを言う。帝大理少卿たいりしょうけい※(「山/品」、第3水準1-47-85)せつがん[#「薛※(「山/品」、第3水準1-47-85)」は底本では「薜※(「山/品」、第3水準1-47-85)」]りて、燕王及び諸将士の罪をゆるして、本国に帰らしむることをみことのりし、燕軍を散ぜしめて、而して大軍をもっそのあとかしめんとす。※(「山/品」、第3水準1-47-85)がん到りてかえって燕王の機略威武の服するところとなり、帰って燕王の語ちょくにして意まことなるを奏し、皇上権奸けんかんちゅうし、天下の兵を散じたまわば、臣単騎たんき闕下けっかに至らんと、云える燕王の語を奏す。帝方孝孺ほうこうじゅに語りたまわく、誠に※(「山/品」、第3水準1-47-85)の言の如くならば、斉黄せいこう我を誤るなりと。孝孺にくみて曰く、※(「山/品」、第3水準1-47-85)の言、燕のため游説ゆうぜいするなりと。五月、呉傑、平安、兵を発して北平の糧道を断つ。燕王、指揮しき武勝ぶしょうりて、朝廷兵をむるを許したまいて、而して糧を絶ち北を攻めしめたもうは、前詔ぜんしょう背馳はいちすと奏す。帝書を得て兵をむるの意あり。方孝孺に語りたまわく、燕王は孝康こうこう皇帝同産どうさんの弟なり、ちん叔父しゅくふなり、われ他日宗廟そうびょう神霊にまみえざらんやと。孝孺曰く、兵一たび散すれば、急にあつむ可からず。彼長駆してけつを犯さば、何を以てこれふせがん、陛下惑いたもうなかれと。しょう錦衣獄きんいごくに下す。燕王きいおおいに怒る。孝孺の言、まことしかり、而して建文帝のじょう、亦あつしというべし。畢竟ひっきょう南北相戦う、調停の事、またす能わざるのいきおいり、今におい兵戈へいかさんを除かんとするも、五しきの石、聖手にあらざるよりは、之をること難きなり。
 このつき燕王指揮しき李遠りえんをして軽騎六千を率いて徐沛じょはいいたり、南軍の資糧をかしむ。李遠、丘福きゅうふく薛禄せつろく[#「薛禄」は底本では「薜緑」]と策応して、く功をおさめ、糧船数万そう、糧数百万をく。軍資器械、とも※(「火+畏」、第3水準1-87-57)かいじんとなり、河水ことごとく熱きに至る。京師これを聞きて大に震駭しんがいす。
 七月、平安へいあん兵を率いて真定より北平に到り、平村へいそんに営す。平村は城をる五十里のみ。燕王の世子せいしあやうきを告ぐ。王劉江りゅうこうを召して策を問う。江すなわち兵を率いて※(「濾」の「思」に代えて「乎」、第4水準2-79-10)こだを渡り、旗幟きしを張り、火炬かきょを挙げ、おおいに軍容をさかんにして安と戦う。安の軍敗れ、安かえって真定に走る。
 方孝孺の門人林嘉猷りんかゆうはかりごとをもって燕王父子をしてあい疑わしめんとす。けい行われずしてむ。
 盛庸等、大同だいどうの守将房昭ぼうしょうげきし、兵を引いて紫荊関しけいかんに入り、保定ほていの諸県を略し、兵を易州えきしゅう西水寨せいすいさいとどめ、けんりて持久の計をし、北平をうかがわしめんとす。燕王これを聞きて、保定失われんには北平あやうしとて、ついに令を下して師をかえす。八月より九月に至り、燕兵西水寨を攻め、十月真定の援兵を破り、あわせて寨を破る。房昭走りてのがる。
 十一月、※(「馬+付」、第4水準2-92-84)馬都尉ふばとい梅殷ばいいんをして淮安わいあん鎮守ちんしゅせしむ。殷は太祖のじょ寧国ねいこく公主こうしゅしょうす。太祖の崩ぜんとするや、其のかたえに侍して顧命を受けたる者は、実に帝と殷となり。太祖顧みて殷に語りたまわく、なんじ老成忠信、幼主を託すべしと。誓書および遺詔を出して授けたまい、あえて天にたがう者あらば、朕がためこれて、と言いおわりてかくれたまえるなり。燕のいきおいようやく大なるに及びて、諸将観望するもの多し。すなわ淮南わいなんの民を募り、軍士をがっして四十万と号し、殷に命じて之をべて、淮上わいじょうとどまり、燕師をやくせしむ。燕王これを聞き、殷に書をおくり、こう金陵きんりょうに進むるを以て辞とす。殷答えて曰く、進香は皇考こうこう禁あり、したがう者は孝たり、したがわざる者は不孝たり、とて使者の耳鼻じびき、峻厳しゅんげんの語をもてしりぞく。燕王怒ることはなはだし。
 燕王兵を起してより既に三年、たたかい勝つといえども、得るところは永平えいへい大寧たいねい保定ほていにして、南軍出没してまず、得るもまたつるに至ること多く、死傷すくなからず。燕王こゝにおいて、太息たいそくして曰く、頻年ひんねん兵を用い、何の時かけん、まさに江に臨みて一決し、また返顧せざらんと。時に京師けいしの内臣等、帝のげんなるをうらみて、燕王をいただくに意ある者あり。燕に告ぐるに金陵の空虚を以てし、かんに乗じて疾進すべしと勧む。燕王遂に意を決して十二月に至りて北平を出づ。
 四年正月、燕の先鋒せんぽう李遠、徳州とくしゅう裨将ひしょう葛進かっしん※(「濾」の「思」に代えて「乎」、第4水準2-79-10)沱河こだかに破り、朱能しゅのうもまた平安の将賈栄かえい衡水こうすいに破りてこれとりこにす。燕王乃ち館陶かんとうより渡りて、東阿とうあを攻め、※(「さんずい+文」、第3水準1-86-53)ぶんじょうを攻め、沛県はいけんを攻めて之を略し、遂に徐州じょしゅうに進み、城兵をおどしてあえて出でざらしめて南行し、三月宿州しゅくしゅうに至り、平安が馬歩兵ばほへい四万を率いて追躡ついせつせるを※(「さんずい+肥」、第3水準1-86-85)ひがに破り、平安の麾下きかの番将火耳灰ホルフイを得たり。このたたかい火耳灰ホルフイ※(「矛+肖」、第4水準2-82-20)ほこって燕王にせまる、あいるたゞ十歩ばかり、童信どうしん射って、その馬につ。馬倒れて王のがれ、火耳灰ホルフイらる。王即便すなわち火耳灰ホルフイゆるし、当夜に入って宿衛しゅくえいせしむ。諸将これをあやぶみてものいえども、王かず。いで蕭県しょうけんを略し、淮河わいかの守兵を破る。四月平安小河しょうかに営し、燕兵河北かほくる。総兵そうへい何福かふく奮撃して、燕将陳文ちんぶんり、平安勇戦して燕将王真おうしんを囲む。しん身に十余そうこうむり、自ら馬上にくびはぬ。あんいよいよせまりて、燕王に北坂ほくはんう。安のほこほとんど王に及ぶ。燕の番騎指揮ばんきしき王騏おうき、馬を躍らせて突入し、王わずかに脱するを得たり。燕将張武ちょうぶ悪戦して敵をしりぞくといえども、燕軍遂にたず。ここに於て南軍は橋南きょうなんとどまり、北軍は橋北に駐まり、あいするもの数日、南軍かて尽きて、を採って食う。燕王曰く、南軍えたり、更に一二日にしてかてやゝ集まらば破り易からずと。すなわち兵千余をとどめて橋を守らしめ、ひそかに軍を移し、夜半に兵を渡らしめてめぐって敵のうしろに出づ。時に徐輝祖じょきその軍至る。甲戌こうじゅつおおい斉眉山せいびざんに戦う。うまよりとりに至りて、勝負しょうはいあいあたり、燕の驍将ぎょうしょう李斌りひん死す。燕また遂にあたわず。南軍再捷さいしょうしてふるい、燕は陳文ちんぶん王真おうしん韓貴かんき、李斌等を失い、諸将皆おそる。燕王に説いて曰く、軍深く入りたり、暑雨連綿として、淮土わいど湿蒸に、疾疫しつえきようやく冒さんとす。小河の東は、平野にして牛羊多く、二ばくまさに熟せんとす。河を渡り地をえらみ、士馬を休息せしめ、げきて動くべきなりと。燕王曰く、兵の事はしんありて退たい無し。勝形成りて而してまた北に渡らば、将士解体せざらんや、公等の見る所は、拘攣こうれんするのみと。すなわち令を下して曰く、北せんとする者は左せよ、北せざらんとする者は右せよと。諸将多く左にはしる。王おおいに怒って曰く、公等みずから之をせと。このときや燕の軍のいきおい、実に岌々乎きゅうきゅうことしてまさに崩れんとするのれり。孤軍長駆して深く敵地に入り、腹背左右、皆我が友たらざる也、北平は遼遠りょうえんにして、しかも本拠の四囲また皆敵たる也。燕の軍戦っててばすなわち可、克たずんば自ら支うる無き也。しこうして当面の敵たる何福かふくは兵多くして力戦し、徐輝祖じょきそは堅実にしてひま無く、平安へいあん驍勇ぎょうゆうにして奇をいだす。我軍わがぐんは再戦して再挫さいざし、猛将多く亡びて、衆心疑懼ぎくす。戦わんと欲すれば力足らず、帰らんとすれば前功ことごとすたりて、不振の形勢あらたあらわれんとす。将卒を強いて戦わしめんとすれば人心の乖離かいり、不測の変を生ずる無きをせず。諸将争って左するを見て王の怒るもまたむべなりというべし。しかれどもこのときいきおい、ただ退かざるあるのみ、燕王の衆意をれずして、敢然として奮戦せんと欲するもの、機をる明確、事を断ずる勇決、実にれ豪傑の気象、鉄石の心膓しんちょうあらわせるものならずして何ぞや。時に朱能しゅのうあり、能は張玉ちょうぎょくと共にはじめより王の左右の手たり。諸将のうちに於て年最もわかしといえども、善戦有功、もとより人の敬服するところとなれるもの、身のたけ八尺、年三十五、雄毅開豁ゆうきかいかつ、孝友敦厚とんこうの人たり。慨然として席を立ち、剣をあんじて右におもむきて曰く、諸君うらくはつとめよ、昔漢高かんこうは十たび戦って九たび敗れぬれどついに天下を有したり、今事を挙げてよりしきりかちを得たるに、小挫しょうざしてすなわち帰らば、さらく北面して人につかえんや。諸君雄豪誠実、あに退心あるべけんや、と云いければ、諸将あいあえものいうものあらず、全軍の心機しんき一転して、生死共に王に従わんとぞ決しける。朱能のち龍州りゅうしゅうに死して、東平王とうへいおう追封ついほうせらるゝに至りしもの、あに偶然ならんや。
 燕軍のいきおい非にして、王のよろいを解かざるもの数日なりといえども、将士の心は一にして兵気は善変せるに反し、南軍は再捷さいしょうすと雖も、兵気は悪変せり。天意とや云わん、時運とや云わん。燕軍の再敗せること京師に聞えければ、廷臣のうちに、燕今はまさに北にかえるべし、京師空虚なり、良将無かるべからず、と曰う者ありて、朝議徐輝祖じょきそ召還めしかえしたもう。輝祖きそむを得ずしてけいに帰りければ、何福かふくの軍のいきおいげて、単糸たんし※(「糸+刃」、第4水準2-84-10)しないすくなく、孤掌こしょうの鳴り難き状を現わしぬ。加うるに南軍は北軍の騎兵の馳突ちとつに備うる為に塹濠ざんごうを掘り、塁壁を作りて営とすを常としければ、軍兵休息のいとますくなく、往々むなしく人力をつくすのうらみありて、士卒困罷こんひ退屈の情あり。燕王の軍は塹塁ざんるいつくらず、たゞ隊伍たいごを分布し、陣を列して門とす。故に将士は営に至れば、すなわち休息するを得、いとまあれば王射猟しゃりょうして地勢を周覧し、きんれば将士にわかち、塁を抜くごとにことごとるところの財物をたまう。南軍と北軍と、軍情おのずから異なることかくの如し。一は人えきくをくるしみ、一は人ようすをたのしむ。彼此ひしの差、勝敗に影響せずんばあらず。
 かくて対塁たいるい日をかさぬるうち、南軍に糧餉りょうしょうおおいに至るの報あり。燕王よろこんでいわく、敵必ず兵を分ちて之をまもらん、其の兵分れて勢弱きに乗じなば、如何いかく支えんや、と朱栄しゅえい劉江りゅうこうりて、軽騎を率いて、餉道しょうどうらしめ、又游騎ゆうきをして樵採しょうさいを妨げみださしむ。何福かふくすなわち営を霊壁れいへきに移す。南軍の糧五方、平安へいあん馬歩ばほ六万をひきいて之をまもり、糧を負うものをしてうちらしむ。燕王壮士万人を分ちて敵の援兵をさえぎらしめ、子高煦こうこうをして兵を林間に伏せ、敵戦いて疲れなばでゝ撃つべしと命じ、ずから師を率いてむかえ戦い、騎兵を両翼とす。平安軍を引いて突至し、燕兵千余を殺しゝも、王歩軍ほぐんさしまねいて縦撃しょうげきし、その陣を横貫し、断って二となしゝかば、南軍ついに乱れたり。何福等これを見て安と合撃し、燕兵数千を殺してこれしりぞけしが、高煦は南軍のつかれたるを見、林間より突出し、新鋭の勢をもて打撃を加え、王は兵をかえしておおい撃ちたり。ここおいて南軍おおいに敗れ、殺傷万余人、馬三千余匹をうしない、糧餉りょうしょうことごとく燕の師にらる。福等は余衆を率いて営に入り、塁門をふさぎて堅守しけるが、福この令を下して、明旦めいたん砲声三たびするを聞かば、かこみを突いて出で、糧に淮河わいかに就くべし、と示したり。しかるにこれまた天かめいか、その翌日燕軍霊壁れいへきの営を攻むるに当って、燕兵偶然三たび砲を放ったり。南軍誤ってこれわが砲となし、争って急に門におもむきしが、元より我が号砲ならざれば、門はふさがりたり。前者は出づることを得ず、後者は急に出でんとす。営中紛擾ふんじょうし、人馬滾転こんてんす。燕兵急に之を撃って、遂に営を破り、衝撃と包囲と共に敏捷びんしょうを極む。南軍こゝに至って大敗収むからず。宗垣そうえん陳性善ちんせいぜん彭与明ほうよめいは死し、何福はのがれ走り、陳暉ちんき平安へいあん馬溥ばふ徐真じょしん孫晟そんせい王貴おうき等、皆とらえらる。平安のとりことなるや、燕の軍中歓呼して地を動かす。曰く、吾等われらこれより安きをんと。争ってあんを殺さんことを請う。安が数々しばしば燕兵を破り、驍将ぎょうしょうる数人なりしをもってなり。燕王其の材勇を惜みて許さず。安に問いて曰く、※(「さんずい+肥」、第3水準1-86-85)ひかたたかい、公の馬つまずかずんば、何以いかに我を遇せしぞと。安の曰く、殿下を刺すこと、くちきとりひしぐが如くならんのみと。王太息して曰く、高皇帝、く壮士を養いたまえりと。勇卒を選みて、安を北平に送り、世子をしてく之をせしむ。安のち永楽七年に至りて自殺す。安等をうしないてより、南軍おおいに衰う。黄子澄こうしちょう霊壁れいへきの敗を聞き、胸をして大慟たいどうして曰く、大事去る、吾輩わがはい万死、国を誤るの罪をつぐなうに足らずと。
 五月、燕兵泗州ししゅうに至る。守将周景初しゅうけいしょくだる。燕の師進んでわいに至る。盛庸せいよう防ぐあたわず、戦艦皆燕のるところとなり、※(「目+干」、第3水準1-88-76)※(「目+台」、第3水準1-88-79)くいおとしいれらる。燕王諸将の策を排して、ただち揚州ようしゅうおもむく。揚州の守将王礼おうれいと弟そうと、監察御史かんさつぎょし王彬おうひんを縛して門を開いてくだる。高郵こうゆう通泰つうたい儀真ぎしんの諸城、また皆降り、北軍の艦船江上に往来し、旗鼓きこ天をおおうに至る。朝廷大臣、自ら全うするの計をして、また立って争わんとする者無し。方孝孺ほうこうじゅ、地をきて燕に与え、敵の師をゆるうして、東南の募兵の至るをたんとす。すなわ慶城けいじょう郡主ぐんしゅりて和を議せしむ。郡主は燕王の従姉じゅうしなり。燕王かずして曰く、皇考の分ちたまえるわがかつ保つあたわざらんとせり、何ぞ更に地をくを望まん、たゞ奸臣かんしんを得るの後、孝陵こうりょうえっせんと。六月、燕師浦子口ほしこうに至る。盛庸等之を破る。帝都督ととく僉事せんじ※(「王+宣」、第3水準1-88-14)ちんせんを遣りて舟師しゅうしを率いて庸をたすけしむるに、※(「王+宣」、第3水準1-88-14)かえって燕にくだり、舟をそなえて迎う。燕王乃ち江神こうじんを祭り、師を誓わしめて江を渡る。舳艫じくろあいふくみて、金鼓きんこおおいふるう。盛庸等海舟かいしゅうに兵を列せるも、皆おおいに驚きおどろく。燕王諸将をさしまねき、鼓譟こそうして先登せんとうす。庸の師ついえ、海舟皆其の得るところとなる。鎮江ちんこうの守将童俊どうしゅんす能わざるを覚りて燕に降る。帝、江上の海舟も敵の用をし、鎮江等諸城皆降るを聞きて、憂鬱ゆううつしてはかりごとを方孝孺に問う。孝孺民をりて城に入れ、諸王をして門を守らしむ。李景隆りけいりゅう燕王にまみえて割地の事を説くも、王応ぜず。いきおいいよ/\せまる。群臣あるいは帝に勧むるにせつこうするを以てするあり、あるい湖湘こしょうに幸するにかずとするあり。方孝孺堅くけいを守りて勤王きんのうの師のきたたすくるを待ち、事し急ならば、車駕しゃがしょくみゆきして、後挙を為さんことを請う。時に斉泰せいたい広徳こうとくはしり、黄子澄は蘇州そしゅうに奔り、徴兵をうながす。けだし二人皆実務の才にあらず、兵を得る無し。子澄は海に航して兵を外洋にさんとしてはたさず。燕将劉保りゅうほ華聚かしゅうつい朝陽門ちょうようもんに至り、そなえ無きをうかがいて還りて報ず。燕王おおいに喜び、兵を整えて進む。金川門きんせんもんに至る。谷王こくおうけい[#「木+惠」、UCS-6A5E、337-8]李景隆りけいりゅうと、金川門を守る。燕兵至るに及んで、ついに門を開いて降る。魏国公ぎこくこう徐輝祖じょきそ屈せず、師を率いて迎え戦う。あたわず。朝廷文武皆ともに降って燕王を迎う。


 史をあんじて兵馬の事を記す、筆墨もまたみたり。燕王えんおう事を挙げてより四年、ついその志を得たり。天意か、人望か、すうか、いきおいか、将又はたまた理のまさしかるべきものあるか。鄒公すうこうきん十八人、殿前におい李景隆りけいりゅうってほとんど死せしむるに至りしも、また益無きのみ。帝、金川門きんせんもんまもりを失いしを知りて、天を仰いで長吁ちょうくし、東西に走りまどいて、自殺せんとしたもう。明史みんし恭閔恵きょうびんけい皇帝紀に記す、宮中火起り、帝終る所を知らずと。皇后馬氏ばしは火に赴いて死したもう。丙寅へいいん、諸王及び文武の臣、燕王に位にかんことを請う。燕王辞すること再三、諸王羣臣ぐんしん頓首とんしゅして固く請う。王つい奉天殿ほうてんでんいたりて、皇帝の位に即く。
 これより先建文けんぶん中、道士ありて、みちに歌っていわく、

えんなかれ、
燕を逐ふ莫れ。
燕を逐へば、日に高く飛び、
高く飛びで、帝畿ていきのぼらん。

 ここに至りて人その言の応を知りぬ。燕王今はていたり、宮人内侍ないじなじりて、建文帝の所在を問いたもうに、皆皇后の死したまえるところを指してこたう。すなわかばね※(「火+畏」、第3水準1-87-57)燼中かいじんちゅうより出して、これこくし、翰林侍読かんりんじどく王景おうけいを召して、葬礼まさに如何いかんすべき、と問いたもう。景こたえて曰く、天子の礼を以てしたもうべしと。之に従う。
 建文帝の皇考おんちち興宗孝康こうそうこうこう皇帝の廟号びょうごうを去り、もとおくりなりて、懿文いぶん皇太子と号し、建文帝の弟呉王ごおう允※いんとう[#「火+通」、UCS-71A5、339-9]くだして広沢王こうたくおうとし、衛王えいおう允※いんけん[#「火+堅」、UCS-719E、339-9]懐恩王かいおんおうとなし、除王じょおう※(「熈」の「ノ」に代えて「冫」、第3水準1-87-58)いんき敷恵王ふけいおうとなし、ついまた庶人しょじんししが、諸王のちそのを得ず。建文帝の少子しょうし中都ちゅうと広安宮こうあんきゅうに幽せられしが、のち終るところを知らず。


 魏国公ぎこくこう徐輝祖じょきそ、獄に下さるれども屈せず、諸武臣皆帰附すれども、輝祖始終しじゅう帝をいただくの意無し。帝おおいに怒れども、元勲国舅こくきゅうたるを以てちゅうするあたわず、爵を削って之を私第していに幽するのみ。輝祖は開国の大功臣たる中山王ちゅうさんおう徐達じょたつの子にして、雄毅ゆうき誠実、父たつの風骨あり。斉眉山せいびざんたたかいおおいに燕兵を破り、前後数戦、つねに良将の名をはずかしめず。その姉はすなわち燕王のにして、其弟増寿ぞうじゅ京師けいしに在りて常に燕のために国情をいたせるも、輝祖独り毅然きぜんとして正しきにる。端厳の性格、敬虔けいけんの行為、良将とのみわんや、有道の君子というべきなり。
 兵部尚書へいぶしょうしょ鉄鉉てつげんとらえられてけいに至る。廷中に背立して、帝にむかわず、正言して屈せず、遂に寸磔すんたくせらる。死に至りてなおののしるをもって、※(「金+護のつくり」、第3水準1-93-41)たいかく油熬ゆうごうせらるゝに至る。参軍断事さんぐんだんじ高巍こうぎ、かつて曰く、忠に死し孝に死するは、臣のねがいなりと。京城けいじょう破れて、駅舎に縊死いしす。礼部尚書れいぶしょうしょ陳廸ちんてき刑部けいぶ尚書暴昭ぼうしょう礼部侍郎れいぶじろう黄観こうかん蘇州そしゅう知府ちふ姚善ようぜん翰林かんりん修譚しゅうたん王叔英おうしゅくえい翰林かんりん王艮おうごん淅江せっこう按察使あんさつし王良おうりょう兵部郎中へいぶろうちゅう譚冀たんき御史ぎょし曾鳳韶そうほうしょう谷府長史こくふちょうし※(「王+景」、第3水準1-88-27)りゅうけい、其他数十百人、あるいは屈せずして殺され、或は自死じしして義を全くす。斉泰せいたい黄子澄こうしちょう、皆とらえられ、屈せずして死す。右副都御史ゆうふくとぎょし練子寧れんしねいばくされてけつに至る。語不遜ふそんなり。帝おおいに怒って、命じてその舌をらしめ、曰く、われ周公しゅうこう成王せいおうたすくるにならわんと欲するのみと。子寧しねい手をもて舌血ぜっけつを探り、地上に、成王せいおう安在いずくにあるの四字を大書たいしょす。帝ますます怒りて之を磔殺たくさつし、宗族そうぞく棄市きしせらるゝ者、一百五十一人なり。左僉都御史させんとぎょし景清けいせいいつわりて帰附し、つねに利剣を衣中に伏せて、帝に報いんとす。八月望日、清緋衣ひいして入る。これより先に霊台れいだい奏す、文曲星ぶんきょくせい帝座を犯す急にして色赤しと。ここおいて清の独り緋をるを見て之を疑う。ちょうおわる。せい奮躍してを犯さんとす。帝左右に命じて之を収めしむ。剣を得たり。せい志のぐべからざるを知り、植立しょくりつして大にののしる。衆その歯をけっす。かつ抉せられてかつ罵り、血を含んでただち御袍ぎょほう※(「口+饌のつくり」、第4水準2-4-37)く。すなわち命じてその皮をぎ、長安門ちょうあんもんつなぎ、骨肉を砕磔さいたくす。清帝の夢に入って剣を執って追いて御座をめぐる。帝めて、清の族をせききょうせきす。村里もきょとなるに至る。
 戸部侍郎こぶじろう卓敬たくけいとらえらる。帝曰く、なんじ前日諸王を裁抑さいよくす、今また我に臣たらざらんかと。敬曰く、先帝し敬が言にりたまわば、殿下あにここに至るを得たまわんやと。帝怒りて之を殺さんと欲す。しかその才をあわれみて獄につなぎ、ふうするに管仲かんちゅう魏徴ぎちょうの事をもってす。帝のこころ、敬を用いんとするなり。敬たゞ涕泣ていきゅうしてかず。帝なお殺すに忍びず。道衍どうえんもうす、とらを養うはうれいのこすのみと。帝の意ついに決す。敬刑せらるゝに臨みて、従容しょうようとして嘆じて曰く、変宗親そうしんに起り、略経画けいかく無し、敬死して余罪ありと。神色自若じじゃくたり。死して経宿けいしゅくして、おもてなお生けるがごとし。三族をちゅうし、その家を没するに、家たゞ図書数巻のみ。卓敬と道衍と、もとよりげきありしといえども、帝をして方孝孺ほうこうじゅを殺さゞらしめんとしたりし道衍にして、帝をして敬を殺さしめんとす。敬の実用の才ありて浮文ふぶんの人にあらざるをるべし。建文のはじめに当りて、燕を憂うるの諸臣、おのおの意見を立て奏疏そうそたてまつる。中について敬の言最も実に切なり。敬の言にして用いらるれば、燕王けだし志を得ざるのみ。万暦ばんれきに至りて、御史ぎょし屠叔方としゅくほう奏して敬の墓を表しを立つ。敬の著すところ、卓氏たくし遺書五十巻、予いまだ目をぐうせずといえども、管仲かんちゅう魏徴ぎちょうの事を以てふうせられしの人、其の書必ずきあらん。


 卓敬たくけいるゝあたわざりしも、方孝孺ほうこうじゅを殺すなかれといし道衍どうえん如何いかんの人ぞや。びょうたる一山僧の身をもって、燕王えんおうを勧めて簒奪さんだつあえてせしめ、定策決機ていさくけっき、皆みずから当り、しん天命を知る、なんぞ民意を問わん、というの豪懐ごうかいもって、天下を鼓動し簸盪ひとうし、億兆を鳥飛ちょうひ獣奔じゅうほんせしめてはばからず、功成って少師しょうしと呼ばれて名いわれざるに及んで、しかも蓄髪を命ぜらるれどもがえんぜず、邸第ていだいを賜い、宮人きゅうじんを賜われども、辞して皆受けず、冠帯してちょうすれども、退けばすなわ緇衣しい香烟茶味こうえんちゃみ、淡然として生を終り、栄国公えいこくこうおくられ、そうを賜わり、天子をしてずから神道碑しんどうひを製するに至らしむ。又一異人いじんというべし。魔王のごとく、道人どうじんの如く、策士の如く、詩客しかくの如く、実に※(「王+共」、第3水準1-87-92)えんこう[#「袁※(「王+共」、第3水準1-87-92)」は底本では「袁洪」]所謂いわゆる異僧なり。の詠ずるところの雑詩の一にいわく、

志士は 苦節を守る、
達人は 玄言げんげんとどこおらんや。
苦節は かたくすからず、
玄言 あにしからんや。
いづるとると もとよりさだまり有り、
語るも黙するも 縁無きにあらず。
伯夷はくい りょう なんせまき、

宣尼せんじ 智 何ぞえんなる。
所以ゆえに いにしえ の君子、
めいに安んずるを すなわち賢とす。

 苦節はかたくすからずの一句、えき爻辞こうじの節の上六しょうりくに、苦節、かたくすれば凶なり、とあるにもとづくといえども、口気おのずからこれ道衍の一家言なり。いわんや易の貞凶ていきょうの貞は、貞固ていこの貞にあらずして、貞※ていかい[#「毎+卜」、345-6]の貞とするの説無きにあらざるをや。伯夷量何ぞせまきというに至っては、古賢の言にると雖も、せいせいなる者に対して、忌憚きたん無きもまたはなはだしというべし。擬古ぎこの詩の一に曰く、

良辰りょうしん ひ難きをおもひて、
えんを開き 綺戸きこに当る。
会す 我が 同門の友、
言笑 一に何ぞあじわい[#「月+無」、UCS-81B4、346-2]ある。
素絃そげん きよきしらべおこし、
余響よきょう 樽爼そんそめぐる。
緩舞かんぶ 呉姫ごき で、
軽謳けいおう 越女えつじょ きたる。
ただねがふ かく※酔へんすい[#「てへん+弃」、346-7]せんことを、
※(「角+光」、第3水準1-91-91)さかずきのかず なんあえて数へむ。
流年 はやく[#「犬/(犬+犬)」、UCS-730B、346-9]はしるを嘆く、
力有るもたれか得てとどめむ。
人生 すべからく歓楽すべし、
とこしえに辛苦せしむるなかれ。

 擬古の詩、もとよりただち抒情じょじょうの作とすからずといえども、これくろきて香をく仏門の人の吟ならんや。北固山ほっこざんを経てせる懐古の詩というもの、今存するの詩集に見えずと雖も、僧※(「さんずい+こざとへん+力」、第4水準2-78-33)そうろく一読して、これあに釈子しゃくしの語ならんや、といしという。北固山はそう韓世忠かんせいちゅう兵を伏せて、おおいきん兀朮ごつじゅつを破るのところたり。其詩またおもう可きなり劉文りゅうぶん貞公ていこうの墓を詠ずるの詩は、ただちに自己の胸臆きょうおく※(「てへん+慮」、第4水準2-13-58)ぶ。文貞はすなわ秉忠へいちゅうにして、※(「王+共」、第3水準1-87-92)えんこう[#「袁※(「王+共」、第3水準1-87-92)」は底本では「袁洪」]の評せしが如く、道衍のえんけるは、秉忠のげんに於けるが如く、其のはじめの僧たる、其の世に立って功を成せる、皆あいたり。けだし道衍の秉忠に於けるは、岳飛がくひ関張かんちょうひとしからんとし、諸葛亮しょかつりょうが管楽に擬したるが如く、思慕してしこうして倣模ほうもせるところありしなるべし。詩に曰く、

良驥りょうき 色 ぐんに同じく、
至人 あと 俗に混ず。
知己ちき いやしくはざれば、
終世 うらうら[#「讀+言」、UCS-8B9F、348-2]まず。
偉なるかな 蔵春公ぞうしゅんこうや、
箪瓢たんぴょう 巌谷がんこくたのしむ。
一朝 風雲 会す。
君臣 おのづから心腹しんぷくなり。
大業 はかりごと すでに成りて、
勲名 簡牘かんとくに照る。
退しりぞいて すなわち長往し、
川流れて 去つてかえること無し。
住城じゅうじょう 百年ののち
鬱々うつうつたり 盧溝ろこうの北。
まつひさぎ 烟靄えんあい 青く、
翁仲いしのまもりびと ※(「くさかんむり/靡」、第4水準2-87-21)かおりぐさ 緑なり。
強梁あばれものも あえて犯さず、
何人なんぴとか 敢てきこりうまかいせん。
王侯の 墓累々るいるいたるも、
はいすること 草宿わずかのまをも待たず。
ただこう 民望みんぼうり、
天地と 傾覆けいふくを同じうす。
このひと おこからず、
再拝して またこくす。

 蔵春は秉忠へいちゅうの号なり。盧溝は燕の城南に在り。この劉文貞に傾倒することはなはだ明らかに、其の高風大業を挙げ、しこうして再拝一哭いっこくすというに至る。性情行径こうけいあいちかし、俳徊はいかい感慨、まことにあたわざるものありしならん。又別に、春日しゅんじつ劉太保りゅうたいほの墓に謁するの七律しちりつあり。まことに思慕の切なるを証すというべし。東游とうゆうせんとして郷中きょうちゅう諸友しょゆうに別るゝの長詩に、

うまれて 四方しほうの志あり、
たのしまず 郷井きょうせいうちを。
茫乎ぼうこたる 宇宙の内、
飄転ひょうてんして 秋蓬しゅうほうの如し。
たれか云ふ さしはさむ所無しと、
耿々こうこうたるもの わが胸に存す。
うお※(「さんずい+樂」、第4水準2-79-40)いけとどまるをすに忍びんや、
とりかごとらはるゝをすをがえんぜんや。
三たび登ると 九たびいたると、
古徳ことくともに同じうせんと欲す。
去年は 淮楚わいそかくたりき、
今はかんとす 浙水せっすいの東。
身をそばだてゝ 雲衢くものちまたに入る、
一錫ひとつのつえ 游龍うごけるりゅうの如し。
かさく 霏々ひひの霧、
は払ふ ※(「風にょう+叟」、第4水準2-92-38)そうそうの風。

の句あり。身をそばだてゝの句、颯爽さっそうよろこし。そのすえに、

江天こうてん 正に秋清く、
山水 またすがたを改む。
沙鳥はまじのとりは けむりきわに白く、
嶼葉しまのこのはは 霜の前にくれないなり。

といえるごとき、常套じょうとうの語なれども、また愛すし。古徳と同じゅうせんと欲するは、にして、淮楚わいそ浙東せっとうに往来せるも、修行のためなりしや游覧ゆうらんの為なりしや知る可からず。しかれども詩情もまたおおき人たりしは疑う可からず。詩においては陶淵明とうえんめいし、笠沢りゅうたく舟中しゅうちゅう陶詩とうしを読むの作あり、うちに淵明を学べる者を評して、

応物おうぶつおもむき すこぶるがっし、
子瞻しせんは 才 当るに足る。

の二士を挙げ、その模倣者もほうしゃを、

里婦りふ 西せいひそみならふ、
わらふ可し しゅういよいよ張る。

と冷笑し、又公暇こうか王維おうい孟浩然もうこうぜん韋応物いおうぶつ柳子厚りゅうしこうの詩を読みて、四を賛する詩をせる如き、其の好む所の主とするところありて泛濫へんらんならざるを示せり。当時の詩人に於ては、高啓こうけいを重んじ、交情また親しきものありしは、高季迪こうきてきにこたえたてまつる高編脩こうへんしゅうによす高啓生一レこうけいのこをうめるをがす高啓鍾山寓舎詩見一レこうけいをしょうざんぐうしゃにといしをおくらるるをかたじけなくす雪夜読高啓詩せつやこうけいのしをよむ等の詩に徴して知るべく、この老の詩眼暗からざるを見る。逃虚集とうきょしゅう十巻、続集一巻、詩精妙というにあらずといえども、時に逸気あり。今其集について交友を考うるに、※(「王+共」、第3水準1-87-92)えんこう[#「袁※(「王+共」、第3水準1-87-92)」は底本では「韋※(「王+共」、第3水準1-87-92)」]張天師ちょうてんしとは、最も親熟しんじゅくするところなるが如く、贈遺ぞういじゅうはなはすくなからず。※(「王+共」、第3水準1-87-92)こうと道衍とはもとよりたがいに知己たり。道衍又かつて道士席応真せきおうしんを師として陰陽術数いんようじゅっすうの学を受く。って道家のを知り、仙趣の微に通ず。詩集巻七まきのしちに、席道士せきどうしをべんすとあるもの、疑うらくは応真、[#ルビの「も」は底本では「もし」]しくは応真の族をいためるならん。張天師は道家の棟梁とうりょうたり、道衍の張を重んぜるもあやしむに足る無きなり。故友に於ては最も王達善おうたつぜんしたしむ。故に其の王助教達善おうじょきょうたつぜんによすの長詩の前半、自己の感慨行蔵こうぞうじょしてまず、道衍自伝としてる可し。詩に曰く、

乾坤けんこん 果して何物ぞ、
開闔かいこう いにしえより有り。
世をこぞって たれかくあらざらん、
離会 あにたまたまなりとはんや。
ああわれ 蓬蒿ほうこうの人、
鄙猥ひわい 林籔りんそうかくる。
みずからづ 駑蹇どけんの姿、
なんぞ学ばん 牛馬の走るを。
呉山ござん ふかくしてしこうして深し、
性を養ひて 老朽を甘んず。
かつ 木石と共にりて、
氷檗ひょうばくと こころざし 堅く守りぬ。
人は云ふ ほう からたちむと、
あに同じからんや 魚のやな[#「网/卯」、354-11]るに。
※(「くさかんむり/霍」、第3水準1-91-37)れいかく わがはらわたみたし、
やぶれて 両肘りょうちゅうあらはる。
※(「くさかんむり/(止+頁+巳)/夂」、第3水準1-15-72)きりゅう 高位に在り、
たれきたりて 可否を問はん。
盤旋ばんせんす 草※そうもう[#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、356-4]あいだに、
樵牧しょうぼく 日にあいたたく。
嘯詠しょうえい 寒山かんざんに擬し、
ただ 道を以て自負す。
忍びざりき 強ひて塗抹とまつして、
こいびて 里婦さとのおんなならふに。
山霊 かくるゝことをゆるさず、
辟歴はたたがみ 岡阜こうふを破りぬ。
門をでゝ 天日をる、
行也こうや いずくにぞ あえいやしくもせん。
一挙して 即ち北にのぼれば、
親藩 待つことこれ久しかりき。
天地 たちまち 大変して、
神龍 氷湫ひょうしゅうより起る。
万方 共によろこおどりて、
率土そっと 元后げんこういただく。
われを召して 南京なんけいに来らしめ、
爵賞加恩 厚し。
常時 天眷てんけんになふ、
愛にって しゅうを知らず。(下略)

 嘯詠寒山しょうえいかんざんに擬すの句は、このろうの行為にてらせば、矯飾きょうしょくの言に近きを覚ゆれども、もしれ知己にわずんば、強項きょうこうの人、あるい呉山ござんに老朽をあまんじて、一生世外せいがい衲子とっしたりしも、また知るべからず、いまにわか虚高きょこうの辞をすものと断ずからず。たゞ道衍の性の豪雄なる、嘯詠吟哦しょうえいぎんがあるい獅子しし繍毬しゅうきゅうろうして日を消するがごとくに、その身を終ることはこれ有るべし、寒山子かんざんしの如くに、蕭散閑曠しょうさんかんこう塵表じんぴょう逍遙しょうようして、其身をわするゝを可きやあらずや、疑う可き也。※(「くさかんむり/(止+頁+巳)/夂」、第3水準1-15-72)きりゅう高位に在りは建文帝をいう。山霊蔵するをゆるさず以下数句、燕王えんおう召出めしいだされしをいう。神龍氷湫より起るの句は、燕王崛起くっきの事をいう。い得てなり。愛に因って醜を知らずの句は、知己の恩に感じて吾身わがみを世にとなうるを言えるもの、また標置ひょうちすというべし。


 道衍どうえんの一生を考うるに、えんたすけてさんを成さしめし所以ゆえんのもの、栄名厚利のためにあらざるがごとし。しか名利めいりの為にせずんば、何をくるしんでか、紅血を民人に流さしめて、白帽を藩王にいただかしめしぞ。道衍と建文帝けんぶんていと、深仇しんきゅう宿怨しゅくえんあるにあらず、道衍と、燕王と大恩至交あるにもあらず。実に解すからざるあるなり。道衍おのれの偉功によってもって仏道の為にすとわんか、仏道明朝みんちょうの為に圧逼あっぱくせらるゝありしにあらざる也。燕王覬覦きゆじょう無きあたわざりしといえども、道衍のせんして火をあおるにあらざれば、燕王いまだ必ずしも毒烟どくえん猛[※(「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64)もうえんを揚げざるなり。道衍そも又何の求むるあって、燕王をして決然として立たしめしや。王の事を挙ぐるの時、道衍の年や既に六十四五、呂尚りょしょう范増はんぞう、皆老いてしこうして後立つといえども、円頂黒衣の人を以て、諸行無常のおしえを奉じ、而して落日暮雲の時に際し、逆天非理の兵を起さしむ。嗚呼ああ又解すべからずというべし。いて道衍の為に解さば、ただれ道衍が天にくるの気と、自らたのむの材と、※々もうもう[#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、363-12]蕩々とうとう糾々きゅうきゅう昂々こうこうとして、屈すからず、たわむ可からず、しょうす可からず、おさう可からざる者、燕王にうに当って、※(「(ぼう+彡)/石」、第4水準2-82-32)かくぜんとして破裂し、爆然として迸発へいはつせるものというべき。予逃虚子集とうきょししゅうを読むに、道衍が英雄豪傑のあとに感慨するもの多くして、仏灯ぶっとう梵鐘ぼんしょうの間に幽潜するの情のすくなきを思わずんばあらざるなり。
 道衍の人となりの古怪なる、実に一沙門しゃもんを以て目す可からずと雖も、しかも文を好み道の為にするの情も、またなりとなす可からず。このゆえ太祖たいそ[#「太祖」は底本では「大祖」]実録じつろく重修ちょうしゅうするや、えん実にその監修をし、又支那しなありてより以来の大編纂だいへんさんたる永楽大典えいらくだいてんの成れるも、衍実に解縉かいしんともこれせるにて、れ皆文を好むのに出で、道余録どうよろくを著し、浄土簡要録じょうどかんようろくを著し、諸上善人詠しょじょうぜんじんえいを著せるは、是れ皆道の為にせるにづ。史に記す。道衍ばんに道余録を著し、すこぶる先儒をそしる、識者これをいやしむ。の故郷の長州ちょうしゅうに至るや、同産の姉をこうす、姉れず。その王賓おうひんう、賓もまたまみえず、ただはるかに語って曰く、和尚おしょう誤れり、和尚誤れりと。またいて姉を見る、姉これをののしる。道衍惘然ぼうぜんたりと。道衍の姉、儒を奉じぶつしりぞくるか、何ぞ婦女の見識に似ざるや。王賓は史にでん無しと雖も、おもうに道衍が詩を寄せしところの王達善おうたつぜんならんか。声を揚げて遙語ようごす、いやしむも亦はなはだし。今道余録を読むに、姉と友との道衍を薄んじてこれにくむも、また過ぎたりというべし。道余録自序に曰く、余さきに僧たりし時、元季げんきの兵乱にう。年三十に近くして、愚庵ぐあんきゅう和尚に径山けいざんに従って禅学を習う。いとまあれば内外の典籍を披閲ひえつしてもって才識に資す。因って河南かなん二程先生にていせんせいの遺書と新安しんあん晦庵朱先生かいあんしゅせんせいの語録をる。(中略)三先生既に斯文しぶん宗主そうしゅ、後学の師範たり、仏老ぶつろう※斥じょうせき[#「てへん+(嚢−口二つ)」、361-8]すというと雖も、必ずまさに理にって至公無私なるべし、すなわち人心服せん。三先生多く仏書をさぐらざるに因ってぶつ底蘊ていおんを知らず。一に私意を以て邪※じゃひ[#「言+皮」、UCS-8A56、361-10]ことばを出して、枉抑おうよくはなはだ過ぎたり、世の人も心また多く平らかならず、いわんやその学をそうする者をやと。(下略)道余録はすなわ程氏ていし遺書いしょの中の仏道を論ずるもの二十八条、朱子語録の中の同二十一条をもくして、極めて謬誕びょうたんなりとし、条をい理に拠って一々剖柝ぼうせきせるものなり。こう成って巾笥きんしに蔵すること年ありて後、永楽十年十一月、自序を附して公刊す。今これを読むに、大抵たいてい禅子の常談にして、別に他の奇無し。けだ明道めいどう伊川いせん晦庵かいあんぶつを排する、皆雄論博議あるにあらず、卒然の言、偶発の語多し、而して広く仏典を読まざるも、亦其の免れざるところなり。故に仏を奉ずる者の、三先生に応酬するがごとき、もとこれ弁じやすきの事たり。たんを張り目を怒らし、手をほこにし気をさかんにするを要せず。道衍の峻機しゅんき険鋒けんぼうを以て、しずかに幾百年前の故紙こしに対す、縦説横説、はなはれ容易なり。是れ其のる可き無き所以ゆえんなり。而して道衍の筆舌の鋭利なる、明道めいどうの言をののしって、あに道学の君子のわざならんやとい、明道の執見しっけん僻説へきせつ委巷いこうの曲士のごとし、誠にわらう可き也、と云い、明道何ぞすなわち自らくるしむことかくの如くなるや、と云い、伊川いせんげんを評しては、これは是れ伊川いせんみずからこの説を造って禅学者をう、伊川が良心いずくにかる、と云い、かんを以て天をうかがうが如しとは夫子ふうしみずからうなりと云い、程夫子ていふうし崛強くっきょう自任じにんす、聖人の道を伝うる者、かくの如くなる可からざる也、と云い、晦庵かいあんの言をなんしては、朱子の※(「寐」の「未」に代えて「自/木」、第4水準2-8-10)げいご、と云い、ただ私意をたくましくして以て仏をそしる、と云い、朱子もまた怪なり、と云い、晦庵かくの如くに心を用いば、市井しせいの間の小人の争いて販売する者の所為しょいと何を以てか異ならんや、と云い、先賢大儒、世の尊信崇敬するところの者を、愚弄ぐろう嘲笑ちょうしょうすることはなはだ過ぎ、其の口気甚だ憎む可し。是れけだその姉のれず、その友の見ざるに至れる所以ゆえんならずんばあらず。道衍の言を考うるに、※(「既/木」、第3水準1-86-3)たいがい禅宗ぜんしゅうに依り、楞伽りょうが楞厳りょうごん円覚えんがく法華ほっけ華厳けごん等の経に拠って、程朱ていしゅの排仏の説の非理無実なるを論ずるに過ぎず。しかれども程朱の学、一世の士君子の奉ずるところたるの日において、抗争反撃の弁をたくましくす。書のおおやけにさるゝの時、道衍既に七十八歳、道の為にすとうと雖も、亦あらそいを好むというべし。も亦道衍が※々蕩々もうもうとうとう[#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、363-12]の気の、む能わずして然るもの
 道衍はかくの如きの人なり、而してなお卓侍郎たくじろうるゝ能わず、これゆるさんとするの帝をして之を殺さしむるに至る。もとよりあいからざるのわたくしありしにるとは云え、又実に卓の才の大にしての偉なるをみたるにあらずんばあらず。道衍の忌むところとなる、卓惟恭たくいきょうもまた雄傑の士というべし。
 道衍の卓敬に対する、衍の詩句をりて之を評すれば、道衍りょう何ぞせまきやと云う可きなり。しかるに道衍の方正学ほうせいがくに対するはすなわおおいに異なり。方正学の燕王にけるは、実にあいれざるものあり。燕王の師を興すや、君側の小人をはらわんとするを名として、其のもくして以て事を構えしんを破り、天下を誤るとなせる者は、斉黄練方せいこうれんほうの四人なりき。斉は斉泰せいたいなり、黄は黄子澄こうしちょうなり、練は練子寧れんしねいなり、しかして方は即ち方正学ほうせいがくなり。燕王にして功の成るや、もとよりこの四人を得て甘心かんしんせんとす。道衍は王の心腹しんぷくなり、はじめよりこれを知らざるにあらず。しかるに燕王の北平ほくへいを発するに当り、道衍これをこうに送り、ひざまずいてひそかもうしていわく、臣願わくは託する所有らんと。王何ぞと問う。衍曰く、南に方孝孺ほうこうじゅあり、学行がくこうあるをもっきこゆ、王の旗城下に進むの日、彼必ずくだらざらんも、さいわいに之を殺したもうなかれ、之を殺したまわばすなわち天下の読書の種子しゅし絶えんと。燕王これを首肯しゅこうす。道衍の卓敬にける、私情の憎嫉ぞうしつありて、方孝孺に於ける、私情の愛好あるか、何ぞ其の二者に対するの厚薄あるや。孝孺は宗濂そうれんの門下の巨珠にして、道衍と宋濂とはけだし文字の交あり。道衍のわかきや、学を好み詩をたくみにして、濂の推奨するところとなる。道衍あに孝孺が濂の愛重あいちょうするところの弟子ていしたるを以て深く知るところありて庇護ひごするか、あるいは又孝孺の文章学術、一世の仰慕げいぼするところたるを以て、これを殺すは燕王の盛徳をやぶり、天下の批議を所以ゆえんなるをはかりてはばかるか、はた又真に天下読書の種子の絶えんことをおそるゝか、そもそも亦孝孺の※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)げんれい操履そうり、燕王の剛邁ごうまいの気象、二者あいわば、氷塊の鉄塊とあいち、鷲王しゅうおう龍王りゅうおうとのあいたたかうが如き凄惨狠毒せいさんこんどくの光景を生ぜんことを想察してあらかじめ之を防遏ぼうあつせんとせるか、今皆確知するあたわざるなり。
 方孝孺は如何いかなる人ぞや。孝孺あざな希直きちょく、一字は希古きこ寧海ねいかいの人。父克勤こくきん済寧せいねい知府ちふたり。治を為すに徳をもととし、心をくるしめて民のためにす。田野でんやひらき、学校を興し、勤倹身を持し、敦厚とんこう人を待つ。かつて盛夏に当って済寧の守将、民を督して城を築かしむ。克勤曰く、民今耕耘こううんいとまあらず、何ぞ又※(「金+插のつくり」、第3水準1-93-28)ほんそうに堪えんと。中書省ちゅしょしょうに請いてえきむるを得たり。是よりき久しくひでりせしが、役の罷むに及んで甘雨かんうおおいに至りしかば、済寧の民歌って曰く。

たれか我が役をめしぞ、
使君しくんの 力なり。
たれか我がしょかしめしぞ、
使君の 雨なり。
使君よ 去りたまふなかれ、
我が民の 父なり 母なり。

 克勤の民意をかくの如くなりしかば、事をること三年にして、戸口増倍し、一郡饒足じょうそくし、男女怡々いいとして生をたのしみしという。克勤愚菴ぐあんと号す。宋濂そうれん愚庵先生方公墓銘文ほうこうぼめいぶんあり。滔々とうとう数千言すせんげんつぶさに其の人となりを尽す。うちに記す、晩年ますます畏慎いしんを加え、昼のす所の事、夜はすなわち天にもうすと。愚庵はたゞに循吏じゅんりたるのみならざるなり。濂又曰く、いにしえわゆる体道たいどう成徳せいとくの人、先生誠に庶幾焉ちかしと。けだし濂が諛墓ゆぼの辞にあらず。孝孺は此の愚庵先生第二子として生れたり。天賦てんぷも厚く、庭訓ていきんも厳なりしならん。幼にして精敏、双眸そうぼう烱々けいけいとして、日に書を読むこと寸にち、文をすに雄邁醇深ゆうまいじゅんしんなりしかば、郷人呼んで小韓子しょうかんしとなせりという。其の聰慧そうけいなりしこと知る可し。時に宋濂一代の大儒として太祖の優待を受け、文章徳業、天下の仰望するところとなり、四方の学者、ことごとく称して太史公たいしこうとなして、姓氏を以てせず。濂あざなは、景濂けいれんそのせん金華きんか潜渓せんけいの人なるを以て潜渓せんけいごうす。太祖れんていめて曰く、宋景濂ちんつかうること十九年、いまかつて一げんいつわりあらず、一人いちにんたんそしらず、始終無し、たゞに君子のみならず、そもそも賢とう可しと。太祖の濂をることかくの如し。濂の人品おもう可きなり。孝孺洪武こうぶの九年を以て、濂にまみえて弟子ていしとなる。濂時に年六十八、孝孺を得ておおいに之を喜ぶ。潜渓が方生の天台にかえるを送るの詩の序に記して曰く、晩に天台の方生希直きちょくを得たり、其の人となりや凝重ぎょうちょうにして物にうつらず、穎鋭えいえいにして以てこれを理にしょくす、ままはっ[#「ままはっ」は底本では「ままはっ」]して文をす、水のいて山のづるが如し、喧啾けんしゅうたる百鳥のうち、此の孤鳳皇こほうおうを見る、いかんぞ喜びざらんと。凝重ぎょうちょう穎鋭えいえいの二句、老先生眼裏がんりの好学生を写しいだきたってしん有り。此の孤鳳皇こほうおうを見るというに至っては、推重すいちょうまた至れり。詩十四章、其二に曰く、

おもふ が 初めて来りし時、
才思 繭糸けんしごとし。
之をいて すでいとぐちを見る、
染めてせ 五色ごしき

其九に曰く、

すべからく知るべし 九仭きゅうじんの山も、
功 あるいは 一くるを。
学は 貴ぶ 日にしたがつてあらたなるを、
慎んで 中道に廃するなかれ。

其十に曰く、

羣経ぐんけい 明訓めいくん こうたり、
白日 青天にかかる。
いやしくただに 文辞におぼれなば、
蛍※けいしゃく[#「火+爵」、UCS-721D、370-6] けんを争はんと欲するなり。

其十一に曰く、

も こうも 亦何人なんぴとぞや、
顔面 ついことならじ。
あえて ※(「央/皿」、第3水準1-88-73)ぼんおううちせんや、
まさに ※(「王+連」、第3水準1-88-24)これんとなるべし。

其終章に曰く、

明年 二三月、
羅山らざん 花 まさに開かん。
高きに登りて 日に盻望べんぼうし、
く 重ねてきたるをたむ。

 その才をしょうし、其学を勧め、の流れて文辞の人とならんことを戒め、其のふるって聖賢の域に至らんことを求め、他日また再び大道を論ぜんことを欲す。潜渓せんけいが孝孺に対する、称許しょうきょも甚だ至り、親切も深く徹するを見るに足るものあり。嗚呼ああ、老先生、たれか好学生を愛せざらん、好学生、たれか老先生を慕わざらん。孝孺は其翌年丁巳ていしけいを執って浦陽ほように潜渓にきぬ。従学四年、業おおいに進んで、潜渓門下の知名の英俊、皆其のしもに出で、先輩胡翰こかん蘇伯衡そはくこうまたみずかかずとうに至れり。洪武十三年の秋、孝孺が帰省するに及び、潜渓がこれを送る五十四いんの長詩あり。そのいんうちに記して曰く、つまびらかに其の進修の功をうに、日々にことなるありて、月々に同じからず、わずかに四春秋を越ゆるのみにして而して英発光著えいはつこうちょかくの如し、のち四春秋ならしめば、すなわち其の至るところ又如何いかなるを知らず、近代を以て之を言えば、欧陽少卿おうようしょうけい蘇長公そちょうこうはいは、しばらく置きて論ぜず、自余の諸子、之と文芸のじょう角逐かくちくせば、たれか後となりいずれか先となるを知らざる也。今この説をす、人必ず予の過情を疑わんも、後二十余年にしてまさに其の知言にして、せいに許す者のあらざるを信ずべき也。しかりといえども予の生に許すところの者、なんぞ独り文のみならんやと。又曰く、予深く其の去るをおしみ、ためこの詩をす、既に其の素有の善を揚げ、またつとむるに遠大の業を以てすと。潜渓の孝孺を愛重し奨励すること、至れり尽せりというべし。其詩やことば自在じざいにして、意を立つる荘重、孝孺に期するに大成を以てし、必ず経世済民の真儒とならんことを欲す。章末に句有り、曰く、

せいすなわち しゅう容刀たまのさや
生は乃ち ※(「王+與」、第3水準1-88-33)※(「王+番」、第4水準2-81-1)よきたま
しんなれば 乃ち貴し、
なんもちゐん 空言を用ゐるを。
孳々じじとして 務めて践形せんけいし、
そむなかれ 七尺の身に。
敬義 もっし、
忠信 以てかんと為し、
慈仁 以てはいと為し、
廉知れんち 以てかわおび[#「般/革」、UCS-97B6、374-5]と為し、
ひとり立つて 千古をにらまば、
万象 あきらかにしてくらき無からむ。
このこころ ついたれか知らん、
なんじために ことば諄諄じゅんじゅんたり。
いたずらに しいてものいふとおもなかれ、
一一 よろしくしんしょすべし。

 孝孺のちに至りて此詩を録して人にしめすの時、書して曰く、前輩せんぱい後学こうがくつとめしむ、惓惓けんけんこころひとり文辞のみにらず、望むらくはあいともに之を勉めんと。臨海りんかい林佑りんゆう葉見泰しょうけんたい、潜渓の詩にばつして、又みな宋太史そうたいしの期望にむくいんことを孝孺に求む。孝孺は果して潜渓にそむかざりき。


 孝孺こうじゅしゅうは、そのひと天子のにくむところ、一世のむところとなりしをもって、当時絶滅に帰し、歿後ぼつご六十年にして臨海りんかい趙洪ちょうこうに附せしより、またようやく世に伝わるを得たり。今遜志斎集そんしさいしゅうを執ってこれを読むに、蜀王しょくおう所謂いわゆる正学先生せいがくせんせいの精神面目奕々えきえきとして儼存げんそんするを覚ゆ。幼儀ようぎ雑箴ざっしん二十首を読めば、りつこうしんより、げんどういんしょく等に至る、皆道にたがわざらんことを欲して、而して実践躬行底きゅうこうていより徳を成さんとするの意、看取すべし。その雑銘を読めば、かんたい※(「尸+(彳+婁)」、第4水準2-8-20)より、すい[#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、376-1][#「※[#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、376-1]」は底本では「※[#「竹かんむり/垂の一画目の下に横画一つ足した形」、376-1]」]、あんれんしゃ等に至る、各物一々にとう日新にっしんの銘にのっとりて、語を下し文をす、反省修養の意、看取すべし。雑誡ざっかい三十八章、学箴がくしん九首、家人箴かじんしん十五首、宗儀そうぎ九首等を読めば、希直きちょくの学をすや空言を排し、実践を尊み、体験心証して、而して聖賢の域にいたらんとするを看取すべし。明史に称す、孝孺は文芸を末視まっしし、つねに王道を明らかにし太平を致すを以ておのが任と為すと。(これ鄭暁ていぎょう方先生伝ほうせんせいでんもとづく)まことしかり、孝孺の志すところの遠大にして、願うところの真摯しんしなる、人をして感奮せしむるものあり。雑誡の第四章に曰く、学術のなるは、四蠹しとこれを害すればなり。姦言かんげんかざり、近事きんじ※(「てへん+蹠のつくり」、第3水準1-84-91)り、時勢を窺伺きしし、便べんはしげきに投じ、冨貴ふうきを以て、志とす。これ利禄りろくう。耳剽じひょう口衒こうげんし、いろいつわことばいんにし、聖賢にあらずして、しかも自立し、果敢かかん大言して、以て人に高ぶり、而して理の是非を顧みず、これを名を務むるのという。※(「てへん+蹠のつくり」、第3水準1-84-91)こうせきして説を成し、上古にがっするを務め、先儒を※(「此/言」、第4水準2-88-57)きしし、以謂おもえらく我に及ぶなりと、更に異議を為して、以て学者を惑わす。是を訓詁くんこという。道徳の旨を知らず、雕飾ちゅうしょく綴緝てっしゅうして、以て新奇となし、歯をかんし舌をして、以て簡古と為し、世において加益するところ無し。是を文辞ぶんじという。四者交々こもごもおこりて、聖人の学ほろぶ。必ずやこれを身にもとづけ、諸を政教にあらわし、以てものを成す可き者は、ただ聖人の学、聖道を去ってしこうしてしたがわず、而してただにこれ帰す。甚しいかな惑えるや、と。孝孺のこのげんてらせば、鄭暁ていぎょうの伝うるところ、実にむなしからざる也。四箴ししんの序のうちの語に曰く、天にがっして人に合せず、道に同じゅうして時に同じゅうせずと。孝孺の此言に照せば、既に其の卓然として自立し、信ずるところあり安んずるところあり、潜渓先生せんけいせんせいえる所の、ひとり立って千古をにらみ、万象てらしてくらき無しのきょうに入れるをるべし。又克畏こくいしんを読めば、あゝおおいなる上帝、ちゅうを人にくだす、といえるより、其のまさくらきに当ってや、てんとしてよろしくしかるべしとうも、中夜ちゅうや静かに思えばあに吾が天ならんや、すなわち奮って而してかなしみ、すみやかに前轍ぜんてつを改む、と云い、一念の微なるも、鬼神降監す、安しとする所に安んずるなかれ、たしなむ所を嗜む勿れ、といい、表裏交々こもごも修めて、本末一致せんといえる如き、あたかも神を奉ぜるの者の如き思想感情の漲流ちょうりゅうせるを見る。父克勤こくきんの、昼の為せるところ、夜はすなわち天にもうしたるに合せ考うれば、孝孺が善良の父、方正の師、孔孟こうもうの正大純粋のおしえ徳光とくこう恵風けいふう浸涵しんかんして、真に心胸しんきょうの深処よりして道を体し徳を成すの人たらんことを願えるの人たるをるべき也。
 孝孺既に文芸を末視まっしし、孔孟の学をし、伊周いしゅうの事に任ぜんとす。しかれどもの文章またおのずから佳、前人評して曰く、※(「广+龍」、第3水準1-94-86)博朗じゅんほうばくろう[#「醇※(「广+龍」、第3水準1-94-86)博朗」は底本では「醇※[#「厂+龍」、348-9]博朗」]、沛乎はいことしてあまり有り、勃乎ぼっことしてふせしと。又曰く、醇深雄邁じゅんしんゆうまいと。其の一大文豪たる、世もとより定評あり、動かす可からざるなり。詩はけだし其の心を用いるところにあらずと雖も、亦おのずからる可し。其の王仲縉感懐おうちゅうしんかんかいいんする詩の末に句あり、曰く

壮士 千載せんざいの心、
あに憂へんや とを。
由来 かいうかばんの志、
れ 軒冕けんべんの姿にあらず。
人生 道を聞くをたっとぶ、
富貴 またなにるものぞ。
賢にして有り 陋巷ろうこうたのしみ
聖にして有り 西山せいざんうえ
おとがいる 失ふところ多し、
苦節 いまだ非とす可からず。

 道衍どうえんは豪傑なり、孝孺は君子なり。逃虚子とうきょしは歌って曰く、苦節かたくすべからずと。遜志斎そんしさいは歌って曰く、苦節未だ非とす可からずと。逃虚子は吟じて曰く、伯夷量はくいりょう何ぞせまきと。遜志斎は吟じて曰く、聖にして有り西山のうえと。孝孺又其の※陽えいよう[#ルビの「えいよう」は底本では「けいよう」][#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「糸」」、UCS-7020、380-4]ぎるの詩の中の句に吟じて曰く、之にって首陽しゅようおもう、西顧せいこすれば清風せいふう生ずと。又乙丑中秋後いっちゅうちゅうしゅうご二日あにに寄する詩の句に曰く、苦節伯夷はくいを慕うと。人異なれば情異なり、情異なれば詩異なり。道衍は僧にして、※(「角+光」、第3水準1-91-91)こうちゅう又何ぞ数えんといいて、快楽主義者の如く、希直きちょくは俗にして、いんしんに、酒のうれいたる、謹者きんしゃをしてすさみ、荘者をして狂し、貴者をしていやしく、存者そんしゃをしてほろばしむ、といい、酒巵しゅしの銘には、しんあまねくし衆を和するも、つねここおいてし、わざわいを造りはいをおこすも、つねここに於てす、其あくに懲り、以て善にはしり、其儀をつつしむをたっとぶ、といえり。逃虚子はぶつを奉じて、しか順世じゅんせい外道げどうの如く、遜志斎は儒を尊んで、しか浄行者じょうぎょうしゃの如し。嗚呼ああ、何ぞ其の奇なるや。しかも遜志斎も飲を解せざるにあらず。其の上巳じょうし南楼なんろうに登るの詩に曰く、

昔時せきじ 喜んで酒を飲み、
さかずきを挙げて 深きを辞せざりき。
ここ中歳ちゅうさいに及んでよりこのかた、
すでまた 人のむをおそる。
後生わかきもの ゆるがせにする所多きも、
あにらんや おい会臨かいりんするを。
志士は 景光をおしむ、
ふもとに登れば すでみねを知る。
つねに聞く 前世ぜんせいの事、
すこぶる見る 古人の心。
く者 まことにやすまず、
将来 たれか今にがむ。
百年 まさに成る有るべし、
泯滅びんめつ なんうらやむに足らんや。
つねあわれむ 伯牙はくがろうにして、
しょう 死して そのことを破れるを。
みずかるあらば まことに伝ふるに堪へむ、
何ぞ必ずしも 知音ちいんを求めんや。
してはる 水中のこうお[#「※[#「條」の「木」に代えて「魚」、UCS-9BC8、382-9][#「條」の「木」に代えて「魚」、UCS-9BC8、382-9]」は底本では「※(「條」の「木」に代えて「黒の旧字」、第3水準1-14-46)」]、
仰いではる 雲際うんさいとり
真楽しんらく われ 隠さず、
欣然きんぜんとして 煩襟はんきんひろうす。

 前半は巵酒ししゅ 歓楽、学業の荒廃を致さんことを嘆じ、後半は一転して、真楽の自得にありてそとに待つ無きをいう。伯牙をろうとして破琴をあわれみ、荘子そうじを引きて不隠ふいんを挙ぐ。それ外より入る者は、うちしゅたる無し、門より入る者は家珍かちんにあらず。さかずきを挙げてたのしみとなす、何ぞれ至楽ならん。
 遜志斎の詩を逃虚子の詩に比するに、風格おのずから異にして、精神はるかことなり。意気の俊邁しゅんまいなるに至っては、たがいあいゆずらずといえども、正学先生せいがくせんせいの詩はついに是れ正学先生の詩にして、其の帰趣きしゅを考うるに、つねに正々堂々の大道に合せんことを欲し、絶えて欹側きそく詭※きひ[#「言+皮」、UCS-8A56、383-8]の言をさず、放逸ほういつ曠達こうたつたい無し。勉学の詩二十四章の如きは、けだし壮時の作と雖も、其の本色ほんしょくなり。談詩だんし五首の一に曰く、

こぞって 皆そうとす 李杜りとの詩を。
知らず 李杜の 更にたれを宗とせるを。
く 風雅 無窮の意をさぐらば、
始めて是れ 乾坤けんこん 絶妙のならん。

第二に曰く、

道徳を 発揮して すなわち文を成す、
枝葉 何ぞかつて 本根ほんこん[#「本根」は底本では「木根」]を離れん。
末俗ばつぞく 工を競ふ 繁縟はんじょくたい
千秋の精意 たれともに論ぜん。

 れ正学先生の詩にけるのけんなり。しりぞじつたっとび、雅を愛しいんにくむ。尋常一様詩詞ししの人の、綺麗きれい自ら喜び、藻絵そうかい自らてらい、しこうして其の本旨正道を逸し邪路にはしるを忘るゝが如きは、希直きちょくの断じて取らざるところなり。希直の父愚庵ぐあん、師潜渓せんけいの見も、また大略かくの如しといえども、希直の性の方正端厳を好むや、おのずから是の如くならざるを得ざるものあり、希直決して自ら欺かざる也。
 孝孺こうじゅの父は洪武こうぶ九年を以て歿ぼっし、師は同十三年を以て歿す。洪武十五年※(「さんずい+冗」、第4水準2-78-26)ごちんすすめを以て太祖にまみゆ。太祖の挙止端整なるを喜びて、皇孫にって曰く、この荘士、まさその才を老いしめて以てなんじたすけしめんと。えつ十年にして又すすめられて至る。太祖曰く、今孝孺を用いるの時にあらずと。太祖が孝孺を器重きちょうして、しかも挙用せざりしは何ぞ。後人こゝにおいりょを致すもの多し。しかれどもこれは強いて解すからず。太祖が孝孺を愛重せしは、前後召見のあいだおいて、たま/\仇家きゅうかためるいせられて孝孺の闕下けっか械送かいそうせられし時、太祖そのを記し居たまいてことゆるされしことあるに徴しても明らかなり。孝孺の学徳ようやく高くして、太祖の第十一子蜀王しょくおう椿ちん、孝孺をへいして世子のとなし、尊ぶに殊礼しゅれいもってす。王の孝孺にたまうの書に、余一日見ざれば三秋の如き有りの語あり。又王が孝孺を送るの詩に、士をけみはなはだ多し、我は希直を敬すの句あり。又其一章に

けんにして以て みづからぼくし、
ひくうして以て みづからす。
雍容ようよう 儒雅じゅが
鸞鳳らんぽうの 儀あり。

とあり。又其の賜詩しし三首の一に

文章 金石を奏し、
衿佩きんぱい 儀刑ぎけいる。
まさ世々よよ 三に遊ぶべし、
いずくんぞく 一けいこんせん。

の句あり。王の優遇知る可くして、孝孺の恩に答うるに道を以てせるも、また知るべし。王孝孺の読書のに題して正学せいがくという。孝孺はみずから遜志斎そんしさいという。人の正学先生というものは、実にしょく王の賜題にるなり。
 太祖崩じ、皇太孫立つに至って、廷臣交々こもごも孝孺をすすむ。すなわち召されて翰林かんりんに入る。徳望もとよりさかんにして、一時の倚重きちょうするところとなり、政治より学問に及ぶまで、帝の咨詢しじゅんくることほとんひま無く、翌二年文学博士となる。燕王兵を挙ぐるに及び、日に召されて謀議に参し、詔檄しょうげき皆孝孺の手にづ。三年より四年に至り、孝孺はなは煎心せんしん焦慮しょうりょすと雖も、身武臣にあらず、皇師数々しばしば屈して、燕兵ついに城下にいたる。金川門きんせんもんまもりを失いて、帝みずから大内たいだいきたもうに当り、孝孺伍雲ごうんためとらえられて獄に下さる。
 燕王志を得て、今既に帝たり。もとより孝孺の才を知り、又道衍どうえんの言をく。すなわち孝孺をゆるしてこれを用いんと欲し、待つに不死を以てす。孝孺屈せず。よって之を獄につなぎ、孝孺の弟子ていし※(「金+庸」、第3水準1-93-36)りょうよう廖銘りょうめいをして、利害を以て説かしむ。二人は徳慶侯とくけいこう廖権りょうけんの子なり。孝孺怒って曰く、なんじ予に従って幾年の書を読み、かえって義の何たるを知らざるやと。二人説くあたわずしてむ。帝なお孝孺を用いんと欲し、一日にを下すこと再三に及ぶ。しかついに従わず。帝即位のみことのりを草せんと欲す、衆臣皆孝孺を挙ぐ。すなわち召して獄よりでしむ。孝孺喪服そうふくして入り、慟哭どうこくしてかなしみ、声殿陛でんへいに徹す。帝みずからとうくだりてねぎらいて曰く、先生労苦するなかれ。我周公しゅうこう成王せいおうたすけしにのっとらんと欲するのみと。孝孺曰く、成王いずくにかると。帝曰く、かれみずから焚死ふんしすと。孝孺曰く、成王もし存せずんば、何ぞ成王の子を立てたまわざるやと。帝曰く、国は長君ちょうくんる。孝孺曰く、何ぞ成王の弟を立てたまわざるや。帝曰く、これちんが家事なり、先生はなはだ労苦するなかれと。左右をして筆札ひっさつを授けしめて、おもむろにみことのりして曰く、天下に詔する、先生にあらずんば不可なりと。孝孺おおいに数字を批して、筆を地になげうって、又大哭たいこくし、かつののしり且こくして曰く、死せんにはすなわち死せんのみ、しょうは断じて草す可からずと。帝勃然ぼつぜんとして声を大にして曰く、汝いずくんぞにわかに死するを得んや、たとえ死するとも、独り九族を顧みざるやと。孝孺いよ/\奮って曰く、すなわち十族なるも我を奈何いかにせんやと、声はなは※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)はげし。帝もと雄傑剛猛なり、ここに於ておおいいかって、刀を以て孝孺の口をえぐらしめて、また之を獄にす。


 孝孺の宋潜渓そうせんけいに知らるゝや、けだ釈統しゃくとうぺん後正統論こうせいとうろんとをもってす。四篇の文、雄大にして荘厳、その大旨、義理の正にって、情勢のしりぞけ、王道をたっとび、覇略を卑み、天下を全有して、海内かいだいに号令する者といえども、その道においてせざる者は、もくして、正統の君主とすべからずとするにり。しんずい王※おうもう[#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、390-3]や、晋宋しんそう斉梁せいりょうや、則天そくてん符堅ふけんや、これ皆これをして天下を有せしむる数百年にゆといえども、正統とすからずとす。孝孺の言に曰く、君たるに貴ぶ所の者は、あに其の天下を有するをわんやと。又曰く、天下を有してしかも正統に比す可からざる者三、簒臣さんしんなり賊后ぞくこう也、夷狄いてき也と。孝孺篇後へんごに書して曰く、予がこの文をつくりてより、いまかつて出して以て人に示さず。人のこの言を聞く者、みな予を※(「此/言」、第4水準2-88-57)ししょうして以て狂とし、あるいいんこれ詆詬ていこうす。其のしかりとう者は、独り予が師太史公たいしこうと、金華きんか胡公翰ここうかんとのみと、れ正統変統の論、もとより史のためにして発すと雖も、君たるに貴ぶ所の者はあに其の天下を有するを謂わんやとす。かくの如きの論を為せるの後二十余年にして、一朝簒奪さんだつの君に面し、其の天下にぐるのみことのりを草せんことをせまらる。嗚呼ああ、運命遭逢そうほうまた奇なりというべし。孝孺又かつて筆の銘をつくる。曰く、

みだりに動けば くいあり、
道は もとる可からず。
なんじ 才ありとなかれ、
後に 万世あり。

かつて紙の銘を為る。曰く、

これもって言を立つ、其の道をせんを欲す。
之を以て事を記す、其の民を利せんを欲す。
之を以ておしえを施す、其の義ならんを欲す。
之を以て法を制す、其の仁ならんを欲す。

 これの文、けだし少時のつくる所なり。嗚呼、運命遭逢そうほう、又何ぞ奇なるや。二十余年の後にして、筆紙前に在り。これに臨みて詔を草すれば、富貴ふうき我をつこと久し、これに臨みてめいを拒まば、刀鋸とうきょ我に加わらんことし。嗚呼、正学先生せいがくせんせい、こゝにおいて、成王せいおういずくにりやと論じ、こゝに於て筆を地になげうってこくす。父にそむかず、師にそむかず、天にがっして人にがっせず、道に同じゅうして時に同じゅうせず、凛々烈々りんりんれつれつとして、屈せずたゆまず、苦節伯夷はくいを慕わんとす。壮なるかな
 帝、孝孺の一族を収め、一人を収むるごとすなわち孝孺に示す。孝孺顧みず、すなわち之を殺す。孝孺の妻鄭氏ていし諸子しょしとは、皆経死けいしす。二女とらえられてわいを過ぐる時、あいともに橋より投じて死す。季弟きてい孝友こうゆうまたとらえられてまさりくせられんとす。孝孺之を目してなんだ下りければ、流石さすがは正学の弟なりけり、

阿兄あけい 何ぞ必ずしも 涙潜々さんさんたらむ、
義を取り 仁を成す このかんに在り。
華表かひょう 柱頭ちゅうとう 千歳せんざいのち
旅魂りょこん 旧にりて 家山かざんに到らん。

と吟じてりくせられぬ。母族林彦清りんげんせい、妻族鄭原吉ていげんきつ九族既に戮せられて、門生等まで、方氏ほうしの族として罪なわれ、坐死ざしする者およそ八百七十三人、遠謫えんたく配流はいるさるゝもの数う可からず。孝孺はつい聚宝門外しゅうほうもんがい磔殺たくさつせられぬ。孝孺慨然がいぜん、絶命のつくりて戮にく。時に年四十六、詞に曰く、

天降乱離兮孰知其由てんらんりをくだしてたれかそのよしをしらん
奸臣得計兮謀国用かんしんはかりごとをえてくにをはかるにゆうをもちゆ
忠臣発憤兮血涙交流ちゅうしんいきどおりをはっしてけつるいこもごもながる
此殉君兮抑又何求ここをもってきみにじゅんずそもそもまたなにをかもとめん
嗚呼哀哉兮庶不我尤あああわれなるかなこいねがわくはわれをとがめざれ

 ※(「金+庸」、第3水準1-93-36)りょうよう廖銘りょうめいは孝孺の遺骸いがいを拾いて聚宝門外しゅうほうもんがいの山上に葬りしが、二人もまた収められて戮せられ、同じ門人林嘉猷りんかゆうは、かつて燕王父子の間に反間のはかりごとしたるもの、これ亦戮せられぬ。
 方氏一族かくの如くにしてほとんど絶えしが、孝孺の幼子徳宗とくそう、時にはじめて九歳、寧海県ねいかいけん典史てんし魏公沢ぎこうたく護匿ごとくするところとなりて死せざるを得、のち孝孺の門人兪公允ゆこういんの養うところとなり、つい兪氏ゆしおかして、子孫繁衍はんえんし、万暦ばんれき三十七年には二百余丁よていとなりしこと、松江府しょうこうふの儒学の申文しんぶんに見え、復姓を許されて、方氏また栄ゆるに至れり。廖氏[#「廖氏」は底本では「※(「やまいだれ+謬のつくり」、第4水準2-81-69)氏」]二子及び門人王※おうじょ[#「禾+余」、UCS-7A0C、395-2]拾骸しゅうがいの功またむなしからず、万暦に至って墓碑祠堂しどう成り、祭田さいでん及び嘯風亭しょうふうてい等備わり、松江しょうこう求忠書院きゅうちゅうしょいん成るに及べり。世に在る正学先生の如くにして、あに後無く祠無くして泯然びんぜんとして滅せんや。
 せつに死し族をせらるゝの事、もと悲壮なり。ここを以て後の正学先生の墓をぎる者、愴然そうぜんとして感じ、※(「さんずい+玄」、第3水準1-86-62)げんぜんとして泣かざるあたわず。すなわ祭弔さいちょう慷慨こうがいの詩、累篇るいへん積章せきしょうして甚だ多きを致す。衛承芳えいしょうほうが古風一首、うちに句あり、曰く、

古来 馬をたたく者、
采薇さいび 逸民を称す。
みんの徳 ※(「言+巨」、第3水準1-92-4)なんしゅうゆずらん。
すなわち其の仁を成す無からんや。

と。劉秉忠りゅうへいちゅうを慕うの人道衍どうえんは其の功を成して秉忠の如くなるを伯夷はくいを慕うの人方希直ほうきちょくは其の節を成して伯夷に比せらるゝに至る。王思任おうしじん二律の一に句あり、曰く、

十族 たまの 暗き月にる有り、
九原きゅうげん はじの 青灯に付する無し。

と、李維※(「木+貞」、第3水準1-85-88)りいてい五律六首のうちに句あり、曰く、

国破れて 心 なおり、
あやうふして 舌 なお存す。

又句あり、曰く、

気はさかんなり 河山かざんの色、
しんとどまる 宇宙の


 燕王えんおう今は燕王にあらず、げんとして九五きゅうごくらいに在り、明年をもって改めて永楽えいらく元年とさんとす。しこうして建文皇帝は如何いかん。燕王の言に曰く、始め難にう、むを得ずして兵を以てわざわいを救い、誓って奸悪かんあくを除き、宗社を安んじ、周公しゅうこうの勲を庶幾しょきせんとす。おもわざりき少主予が心をまこととせず、みずから天に絶てりと。建文皇帝果して崩ぜりや否や。明史みんしには記す、帝終る所を知らずと。又記す、あるいう帝地道ちどうよりぐと。又記す、※(「さんずい+眞」、第3水準1-87-1)てんきん巴蜀ばしょくかんあいつたう帝の僧たる時の往来の跡ありと。これことばを二三にするものなり。帝果して火におもむいて死せるか、そもそもかみいで逃れたるか。明史巻一百四十三、牛景先ぎゅうけいせんの伝の後に、忠賢奇秘録ちゅうけんきひろくおよび致身録ちしんろく等の事を記して、録はけだし晩出附会、信ずるに足らず、の語を以て結び、暗に建文帝出亡しゅつぼう、諸臣庇護ひごの事を否定するの口気あり。しかれども巻三百四、鄭和伝ていかでんには、成祖せいそ恵帝けいていの海外にげたるを疑い、これ蹤跡しょうせきせんと欲し、且つ兵を異域に輝かし、中国の富強を示さんことを欲すとしるせり。鄭和の始めて西洋に航せしは、燕王志を得てよりの第四年、すなわち永楽三年なり。永楽三年にしてなお疑うあるは何ぞや。又給事中きゅうじちゅう胡※こえい[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、398-8]内侍ないし朱祥しゅしょうとが、永楽中に荒徼こうきょうを遍歴して数年に及びしは、巻二百九十九に見ゆ。仙人せんにん張三※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)ちょうさんぼうもとめんとすというをそのとすといえども、山谷さんこくに仙をもとめしむるが如き、永楽帝の聰明そうめい勇決にしてあに真にそのことあらんや。得んと欲するところの者の、真仙にあらずして、別に存するあること、知るき也。けだこの時に当って、元の※(「薛/子」、第3水準1-47-55)よけつなお所在に存し、漠北ばくほくは論無く、西陲南裔せいすいなんえいまたことごとくはみんしたがわず、野火やか焼けども尽きず、春風吹いて亦生ぜんとするのいきおいあり。且つやてん一豪傑を鉄門関辺の碣石けっせきに生じて、カザン(Kazan)しいされて後の大帝国を治めしむ。これを帖木児チモル(Timur)と為す。西人せいじん所謂いわゆるタメルラン也。帖木児チモルサマルカンドにり、四方を攻略して威をふるう甚だだいに、みんに対してはみつぎると雖も、太祖の末年に使つかいしたる傅安ふあんとどめて帰らしめず、これを要して領内諸国を歴遊すること数万里ならしめ、既に印度いんどかすめて、デリヒを取り、波斯ペルシヤを襲い、土耳古トルコを征し、心ひそかに支那しなうかがい、四百余州を席巻して、大元たいげんの遺業を復せんとするあり。永楽帝の燕王たるや、塞北さいほくに出征して、よく胡情こじょうを知る。部下の諸将もまた夷事いじに通ずる者多し。王のみなみする、幕中ばくちゅう番騎ばんきを蔵す。およこれの事に徴して、永楽帝の塞外さくがいの状勢をさとれるを知るべし。し建文帝にして走って域外にで、崛強くっきょうにして自大なる者にるあらば、外敵は中国をうかがうの便べんを得て、義兵は邦内ほうないに起るく、重耳ちょうじ一たび逃れてかえって勢を得るが如きの事あらんとす。れ永楽帝のおそうれうるところたらずんばあらず。鄭和ていかふねうかめて遠航し、胡※こえい[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、401-2]せんもとめて遍歴せる、密旨をふくむところあるが如し。しこうして又鄭は実に威を海外に示さんとし、は実に異を幽境にえるや論無し。く射る者は雁影がんえいを重ならしめて而して射、はかる者は機会を復ならしめて而して謀る。一せんがんずといえども、一雁を失わず、一計双功を収めずと雖も、一功を得る有り。永楽帝のあにあえて建文をもとむるを名として使つかいを発するをさんや。いわんや又鄭和は宦官かんがんにして、胡※こえい[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、400-8]ともにせるの朱祥しゅしょう内侍ないしたるをや。秘意察す可きあるなり。


 鄭和ていか王景弘おうけいこうと共にいで使つかいしぬ。和のづるや、帝、袁柳荘えんりゅうそうの子の袁忠徹えんちゅうてつをしてそうせしむ、忠徹いわく可なりと。和の率いる所の将卒二万七千八百余人、ふね長さ四十四丈、広さ十八丈の者、六十二、蘇州そしゅう劉家河りゅうかかよりかいうかびて福建ふくけんに至り、福建五虎門ごこもんより帆を揚げて海に入る。えつ三年にして、五年九月かえる。建文帝の事、得る有る無し。しかれども諸番国しょばんこくの使者したがって朝見し、各々おのおのその方物ほうぶつこうす。三仏斉国さんぶつせいこく酋長しゅうちょうとりことして献ず。帝おおいよろこぶ。これより建文の事に関せず、もはら国威を揚げしめんとして、再三いだす。和の使つかいを奉ずる、前後七回、の間、あるい錫蘭山セイロンざん(Ceylon)の王阿烈苦奈児アレクナルと戦って之をとりこにして献じ、あるい蘇門答剌スモタラ(Sumotala)の前の前の偽王ぎおうの子蘇幹剌スカンラと戦って、その妻子をあわせてとりことして献じ、おおいに南西諸国にみんの威を揚げ、遠く勿魯漠斯ホルムス(Holumusze ペルシヤ)麻林マリン(Mualin? アフリカ?)祖法児ズファル(Dsuhffar アラビヤ)天方てんほう(“Beitullah”House of God の訳、メッカ、アラビヤ)等に至れり。明史みんし外国伝がいこくでん西南方のやゝつまびらかなるは、鄭和に随行したる鞏珍きょうちんの著わせる西洋番国志せいようばんこくしを採りたるにもとづくという。
 胡※こえい[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、402-1]もまた得る無くしてみぬ。しか張三※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)ちょうさんぼうもとめしこと、天下の知る所たり。すなわち三※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)りし所の武当ぶとう 大和山たいかざんかんを営み、えきする三十万、ついやす百万、工部侍郎こうぶじろう郭※かくつい[#「王+追」、402-3]隆平侯りゅうへいこう張信ちょうしん、事に当りしという。三※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)かつて武当のしょ巌壑がんがくあそび、このやま異日必ずおおいおこらんといいしもの、実となってこゝに現じたる也。


 建文帝けんぶんてい如何いかにせしぞや。伝えていわく、金川門きんせんもんまもりを失うや、帝自殺せんとす。翰林院編修かんりんいんへんしゅう程済ていせいもうす、出亡しゅつぼうしたまわんにはかじと。少監しょうかん王鉞おうえつひざまずいて進みてもうす。昔高帝こうてい升遐しょうかしたもう時、遺篋いきょうあり、大難に臨まばあばくべしとのたまいぬ。謹んで奉先殿ほうせんでんの左に収め奉れりと。羣臣ぐんしん口々に、いだすべしという。宦者かんじゃたちまちにして一のくれないなるかたみきたりぬ。れば四囲はかたむるに鉄を以てし、二また鉄をそそぎありて開くべくも無し。帝これを見ておおいなげきたまい、今はとて火を大内たいだいに放たせたもう。皇后は火に赴きて死したまいぬ。このとき程済は辛くもかたみを砕き得て、篋中きょうちゅうの物を取出とりいだす。でたる物はそも何ぞ。釈門しゃくもんの人ならでたれかは要すべき、大内などには有るべくも無き度牒どちょうというもの三ちょうありたり。度牒は人の家をいでて僧となるとき官のゆるして認むる牒にて、これ無ければ僧も暗き身たるなり。三張の度牒、一には応文おうぶんの名のろくされ、一には応能おうのうの名あり、一には応賢おうけんの名あり。袈裟けさ、僧帽、くつ剃刀かみそり、一々ともに備わりて、銀十じょう添わりぬ。かたみの内に朱書あり、これを読むに、応文は鬼門きもんよりで、水関すいかん御溝ぎょこうよりして行き、薄暮にして神楽観しんがくかん西房せいぼうに会せよ、とあり。衆臣驚きおののきて面々あいるばかり、しばらくはものいう者も無し。やゝありて天子、数なり、とおお[#ルビの「おお」は底本では「おおせ」]せあり。帝のいみな※(「火+文」、第4水準2-79-61)いんぶん応文おうぶんの法号、おのずから相応ずるが如し。且つみんもといを開きし太祖高皇帝はもと僧にましましき。後にこそ天下の主となりたまいたれ、げん順宗じゅんそう至正しせい四年とし十七におわしける時は、疫病おおいに行われて、御父おんちち御母兄上幼き弟皆せたまえるに、家貧にして棺槨かんかくそなえだにしたもうあたわず、藁葬こうそうという悲しくも悲しき事を取行とりおこなわせ玉わんとて、なかの兄と二人してみずから遺骸いがいきて山麓さんろくに至りたまえるに、※(「糸+更」、第4水準2-84-30)なわ絶えて又如何いかんともするあたわず、仲の兄はせかえって※(「糸+更」、第4水準2-84-30)を取りしという談だにのこりぬ。其の仲の兄もまた亡せたれば、孤身るところなく、つい皇覚寺こうかくじに入りて僧とり、を得んがため※(「さんずい+肥」、第3水準1-86-85)ごうひに至り、こうじょえいの諸州に托鉢たくはつ修行し、三歳の間は草鞋そうあい竹笠ちくりゅうき雲水の身を過したまえりという。帝は太祖の皇孫と生れさせたまいて、金殿玉楼に人となりたまいたれども、如是因にょぜいん如是縁にょぜえん、今また袈裟けさ念珠ねんじゅの人たらんとす。不思議というもあまりあり。程済すなわち御意に従いて祝髪しゅくはつしまいらす。万乗の君主金冠をおとし、剃刀ていとうの冷光翠髪すいはつぐ。悲痛何ぞえんや。呉王ごおうの教授揚応能ようおうのうは、臣が名度牒どちょうに応ず、願わくは祝髪してしたがいまつらんともうす。監察御史かんさつぎょし葉希賢しょうきけん、臣が名はけん応賢おうけんたるべきことうたがい無しともうす。おのおの髪をえてちょうひらく。殿でんに在りしものおよそ五六十人、痛哭つうこくして地に倒れ、ともちかってしたがいまつらんともうす。帝、人多ければ得失を生ずる無きを得ず、とてさしまねいて去らしめたもう。御史ぎょし曾鳳韶そうほうしょう、願わくは死を以て陛下に報いまつらん、と云いて退きつ、のち果して燕王のめしおうぜずして自殺しぬ。諸臣おおいなげきてようやくに去り、帝は鬼門に至らせたもう。従う者実に九人なり。至れば一舟いっしゅうの岸にるあり。たれぞと見るに神楽観しんがくかんの道士王昇おうしょうにして、帝を見て叩頭こうとうして万歳をとなえ、嗚呼ああきたらせたまえるよ、臣昨夜の夢にこう皇帝の命をこうむりて、ここにまいりたり、と申す。すなわち舟に乗じて太平門たいへいもんに至りたもう。しょう導きまいらせてかんに至れば、あたかすでに薄暮なりけり。陸路よりして楊応能ようおうのう葉希賢しょうきけん十三人同じく至る。ごう二十二人、兵部侍郎へいぶじろう廖平りょうへい刑部侍郎けいぶじろう金焦きんしょう編修へんしゅう趙天泰ちょうてんたい検討けんとう程亨ていこう按察使あんさつし王良おうりょう参政さんせい蔡運さいうん刑部郎中けいぶろうちゅう梁田玉りょうでんぎょく中書舎人ちゅうしょしゃじん梁良玉りょうりょうぎょく梁中節りょうちゅうせつ宋和そうか郭節かくせつ刑部司務けいぶしむ馮※ひょうかく[#「さんずい+寉」、405-12]鎮撫ちんぶ牛景先ぎゅうけいせん王資おうし劉仲りゅうちゅう翰林侍詔かんりんじしょう鄭洽ていこう欽天監正きんてんかんせい王之臣おうししん太監たいかん周恕しゅうじょ徐王府賓輔じょおうふひんほ史彬しひんと、楊応能ようおうのう葉希賢しょうきけん程済ていせいとなり。帝、今後はたゞ師弟をもって称し、必ずしも主臣の礼にかかわらざるべしとのたまう。諸臣泣いて諾す。廖平こゝにおいて人々にって曰く、諸人のしたがわんことを願うは、もとよりなり、但し随行の者の多きは功無くして害あり、家室のるい無くして、膂力りょりょくふせまもるに足る者、多きも五人に過ぎざるを可とせん、ともはるかに応援をさば、可ならんと。帝も、しかるべしと為したもう。応能、応賢の二人は比丘びくと称し、程済は道人どうじんと称して、常に左右に侍し、馮※ひょうかく[#「さんずい+寉」、406-8][#「馮※[#「さんずい+寉」、406-8]」は底本では「憑※[#「さんずい+寉」、406-8]」]は馬二子ばじしと称し、郭節かくせつ雪菴せつあんと称し、宋和そうか雲門僧うんもんそうと称し、趙天泰ちょうてんたい衣葛翁いかつおうと称し、王之臣おうししん補鍋ほかもって生計を為さんとして老補鍋ろうほかと称し、牛景先ぎゅうけいせん東湖樵夫とうこしょうふと称し、各々おのおの姓をうずめ名を変じて陰陽いんよう扈従こしょうせんとす。帝は※(「さんずい+眞」、第3水準1-87-1)てんなんきて西平侯せいへいこうらんとしたもう。史彬しひんこれを危ぶみてとどめ、しんの中の、家いさゝか足りて、旦夕たんせきに備うき者のもとしゃくとどめたまい、緩急移動したまわば不可無かるべしともうす。帝もこれを理ありとしたまいて、廖平、王良、鄭洽ていこう、郭節、王資、史彬しひん、梁良玉の七家を、かわる/″\主とせんことに定まりぬ。翌日舟を得て帝を史彬の家に奉ぜんとす。同乗するもの八人、程、しょう、楊、牛、ひょう、宋、史なり。は皆涙をふるって別れまいらす。帝は道を※(「さんずい+栗」、第4水準2-79-2)りつように取りて、呉江ごこう黄渓こうけいの史彬の家に至りたもうに、月のおわりを以て諸臣またようやあいあつまりて伺候しこうす。帝命じて各々帰省せしめたもう。燕王くらいきて、諸官員の職をなげうって遯去のがれさりし者の官籍を削る。呉江ごこう邑丞ゆうじょう鞏徳きょうとく蘇州府そしゅうふの命を以て史彬が家に至り、官を奪い、かつ曰く、聞く君が家建文けんぶん皇帝をかしずくと。ひん驚いて曰く、全くそのこと無しと。次の日、帝、楊、葉、程の三人と共に、呉江をで、舟にのぼりて京口けいこうに至り、六合ろくごうを過ぎ、陸路襄陽じょうように至り、廖平が家に至りたもうに、そのあとう者ありければ、ついに意を決して雲南うんなんに入りたもう。


 永楽えいらく元年、帝雲南うんなん永嘉寺えいかじとどまりたもう。二年、雲南をで、重慶じゅうけいより襄陽じょうよういたり、また東して、史彬しひんの家に至りたもう。留まりたもうこと三日、杭州こうしゅう天台てんだい雁蕩がんとうゆうをなして、又雲南に帰りたもう。
 三年、重慶の大竹善慶里たいちくぜんけいりに至りたもう。このとしもしくは前年の事なるべし、帝金陵きんりょうの諸臣惨死さんしの事を聞きたまい、※(「さんずい+玄」、第3水準1-86-62)げんぜんとして泣きて曰く、我罪を神明にたり、諸人皆我がためにするなりと。
 建文帝けんぶんていは今は僧応文おうぶんたり。心のうちはいざ知らず、袈裟けさ枯木こぼくの身を包みて、山水に白雲の跡をい、あるい草庵そうあん、或は茅店ぼうてんに、閑坐かんざし漫遊したまえるが、燕王えんおう今は皇帝なり、万乗の尊にりて、一身の安き無し。永楽元年には、韃靼だったんの兵、遼東りょうとうを犯し、永平えいへいあだし、二年には韃靼だったん瓦剌わら(Oirats, 西部蒙古)とのあい和せる為に、辺患無しといえども、三年には韃靼の塞下さくかを伺うあり。ことこのとしはタメルラン大兵を起して、道を別失八里ベシバリ(Bisbalik)に取り、甘粛かんしゅくよりして乱入せんとするの事あり。甘粛はけいる遠しといえども、タメルランの勇威猛勢は、太祖の時よりして知るところたり、永楽帝の憂慮察すし。このこと明史みんしには其の外国伝に、朝廷、帖木児チモルの道を別失八里ベシバリに仮りて兵を率いて東するを聞き、甘粛かんしゅく総兵官そうへいかん宋晟そうせいに勅して※(「にんべん+敬」、第3水準1-14-42)けいびせしむ、とあるに過ぎず。しかれども塞外さくがいの事には意を用いること密にして、永楽八年以後、数々しばしば漠北ばくほくを親征せしほどの帝の、帖木児チモル東せんとするを聞きては、いずくんぞ晏然あんぜんたらん。太祖の洪武こうぶ二十八年、傅安ふあん帖木児チモルもと使つかいせしめて、あんなおいまかえらず、たちまちにしてこの報を得、疑虞ぎぐする無きを得んや。帖木児チモル、父は答剌豈タラガイ(Taragai)、げんの至元二年をもって生る。生れてなりしかば、にくむ者チムールレンク(Timurlenk)と呼ぶ。レンクはの義の波斯ペルシヤ語なり。タメルランの称これによって起る。人となり雄毅ゆうき、兵を用いまつりごとすをくす。太祖たいそみんもといを開くに前後しておおいいきおいを得、洪武五年より後、征戦三十余年、威名亜非利加アフリカ欧羅巴ヨウロッパに及ぶ。帖木児チモルは回教を奉ず。明のはじめ回教の徒の甘粛に居る者を放つ。回徒多く帖木児チモルの領土にす。帖木児チモルの甘粛より入らんとせるも、故ある也。永楽元年(1403)より永楽三年に至るまで帖木児チモルもとりしクラウイヨ(Clavijo, Castilian Ambassador)しるす、タメルラン、支那しな帝使を西班牙スペイン帝使のしもに座せしめ、わがたり友たる西帝せいていの使を、賊たり無頼の徒たる支那帝の使の下にせしむるなかれといしと。又同時タメルラン軍営につかえしバワリヤ人シルトベルゲル(T. Schiltberger)記す、支那帝使進貢しんこうを求む、タメルラン怒って曰く、われまた進貢せざらん、貢を求めば帝みずからきたれと。すなわ使つかいを発して兵を徴し、百八十万を得、まさに発せんとしたりと。西暦千三百九十八年は、タメルラン西部波斯ペルシヤを征したりしが、そのふゆ明の太祖及び埃及エジプト王の死を知りたりとなり帖木児チモルが意を四方に用いたる知る可し。しからばすなわち燕王の兵を起ししよりついくらいくに至るの事、タメルランこれを知る久し。建文二年(1400)よりタメルランはオットマン帝国を攻めしが、外にる五年にして、永楽二年(1404)サマルカンドにかえりぬ。カスチリヤの使と、支那の使とを引見したるは、すなわこのとしにして、の翌年ただちに馬首を東にし、争乱のの支那に乱入せんとしたる也。永楽帝のこの報を得るや、宋晟そうせいちょくして※(「にんべん+敬」、第3水準1-14-42)けいびせしむるのみならず、備えたるあること知りぬし。宋晟は好将軍なり、平羌将軍へいきょうしょうぐん西寧侯せいねいこうたり。かつて御史ぎょしありてせいの自らもっぱらにすることをがいしけるに、帝かずして曰く、人に任ずるせんならざれば功を成すあたわず、いわんや大将は一辺を統制す、いずくんぞく文法にかかわらんと。又かつて曰く、西北の辺務は、一にもっけいゆだぬと。其の材武称許せらるゝかくの如し。タメルランのきたらんとするや、帝また別におそるゝところあり。けだし燕の兵を挙ぐるに当って、史これを明記せずといえども、韃靼だったんの兵を借りてもって功を成せること、蔚州いしゅうを囲めるの時に徴して知る可し。建文いまだ死せず、従臣のうち道衍どうえん金忠きんちゅうの輩の如き策士あって、西北の胡兵こへいを借るあらば、天下の事知る可からざるなり。鄭和ていか胡「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、411-12]《こえい》のづるある、徒爾とじならんや。建文の草庵そうあんの夢、永楽の金殿きんでんの夢、其のいずれか安くして、いずれか安からざりしや、こころみに之を問わんと欲する也。さいわいにしてタメルランは、千四百〇五年すなわち永楽三年二月の十七日、病んでオトラル(Otoral)に死し、二雄あい下らずして龍闘虎争りゅうとうこそうするの惨禍さんか禹域ういきの民にこうむらしむること無くしてみぬ。

 四年応文おうぶん西平侯せいへいこうの家に至り、とどまること旬日、五月いおり白龍山はくりゅうざんに結びぬ。五年冬、建文帝、難に死せる諸人を祭り、みずから文をつくりてこれこくしたもう。朝廷ていもとむることみつなれば、帝深くひそみてでず。このとし傅安ふあんちょうに帰る。安の胡地こち歴游れきゆうする数万里、域外にとどまるほとんど二十年、著す所西遊勝覧詩せいゆうしょうらんしあり、後の好事こうずの者の喜び読むところとなる。タメルランののち哈里ハリ(Hali)雄志ゆうし無し、使つかいあんに伴わしめ方物ほうぶつこうす。六年、白龍庵さいあり、程済ていせい[#ルビの「ていせい」は底本では「ていさい」]つのく。七年、建文帝、善慶里ぜんけいりに至り、襄陽じょうように至り、※(「さんずい+眞」、第3水準1-87-1)てんかえる。朝廷ひそかに帝を雲南うんなん貴州きしゅうの間にもとむ。
 八年春三月、工部尚書こうぶしょうしょ厳震げんしん安南あんなん使つかいするのみちにして、たちまち建文帝に雲南にう。旧臣なお錦衣きんいにして、旧帝すで布衲ふとつなり。しんたゞ恐懼きょうくして落涙とどまらざるあるのみ。帝、我を奈何いかんせんとするぞや、と問いたもう。震こたえて、君は御心みこころのまゝにおわせ、臣はみずから処する有らんともうす。人生の悲しきに堪えずや有りけん、その駅亭にみずからくびれて死しぬ。夏、帝白龍庵に病みたもう。史彬しひん程亨ていこう郭節かくせつたま/\至る。三人留まる久しくして、帝これをりたまい、今後再びきたなかれ、我安居あんきょす、心づかいすなとおおす。帝白龍庵をてたもう。このとし永楽帝は去年丘福きゅうふく漠北ばくほくに失えるを以て北京ほくけいを発して胡地こちに入り、本雅失里ベンヤシリ(Benyashili)阿魯台アルタイ(Altai)と戦いて勝ち、擒狐山きんこざん清流泉せいりゅうせんの二処に銘をろくして還りたもう。
 九年春、白龍庵有司ゆうしこぼつところとなる。夏建文帝浪穹ろうきゅう鶴慶山かくけいざんに至り、大喜庵たいきあんを建つ。十年楊応能ようおうのう卒し、葉希賢しょうきけんいで卒す。帝って一弟子いちていしれて応慧おうえと名づけたもう。十一年てんに至りて還り、十二年易数を学びたもう。このとし永楽帝また塞外さくがいで、瓦剌オイラトを征したもう。皇太孫九龍口きゅうりゅうこうおいて危難に臨む。十三年建文帝衡山こうざんに遊ばせたもう。十四年、帝程済ていせいに命じて従亡伝じゅうぼうでんを録せしめ、みずからじょつくらる。十五年史彬しひん白龍庵に至る、あんを見ず、驚訝きょうがして帝をもとめ、つい大喜庵たいきあんい奉る。十一月帝衡山こうざんに至りたもう、避くるある也。十六年、きんに至りたもう。十七年始めて仏書をたもう。十八年蛾眉がびに登り、十九年えつに入り、海南諸勝に遊び、十一月還りたもう。このとし阿魯台アルタイ反す。二十年永楽帝、阿魯台アルタイを親征す。二十一年建文帝章台山しょうだいさんに登り、漢陽かんように遊び、大別山たいべつざんとどまりたもう。
 二十二年春、建文帝東行したまい、冬十月史彬しひんと旅店にあいう。このとし阿魯台アルタイ大同だいどう[#ルビの「だいどう」は底本では「たいどう」]あだす。去年阿魯台アルタイを親征し、阿魯台アルタイのがれて戦わず、師むなしく還る。今又さいを犯す。永楽帝また親征す。敵にわずして、軍食ぐんし足らざるに至る。帰路楡木川ゆぼくせんし、急に病みて崩ず。けだし疑うきあるなり。永楽帝既に崩じ、建文帝なおり、帝と史彬しひん客舎かくしゃあいい、老実貞良の忠臣の口より、簒国奪位さんこくだつい叔父しゅくふの死を聞く。世事せいじ測る可からずといえども、薙髪ちはつしてきゅうを脱し、堕涙だるいして舟に上るの時、いずくんぞ茅店ぼうてんの茶後に深仇しんきゅう冥土めいどに入るを談ずるの今日あるを思わんや。あゝまた奇なりというべし。知らず応文禅師おうぶんぜんじ如何いかんの感をせるを。すなわひんとゝもに江南に下り、彬の家に至り、やがて天台山てんだいさんに登りたもう。
 仁宗じんそう※(「熈」の「ノ」に代えて「冫」、第3水準1-87-58)こうき元年正月、建文帝観音大士かんおんだいし潮音洞ちょうおんどうに拝し、五月山に還りたもう。このとし仁宗また崩じて、帝をもとむること、ようやくに忘れらる。宣宗せんそう宣徳せんとく元年秋八月、従亡じゅうぼう諸臣を菴前あんぜんに祭りたもう。このとし漢王かんおう高煦こうこう反す。高煦は永楽帝の子にして、仁宗の同母弟、宣徳帝せんとくてい叔父しゅくふなり。燕王の兵を挙ぐるや、高煦父にしたがって力戦す。材武みずからたのみ、騎射をくし、はなはだ燕王にたり。永楽帝のちょを立つるに当って、丘福きゅうふく王寧おうねいの武臣こころを高煦に属するものあり。高煦またひそかに戦功をたのみて期するところあり。しかれども永楽帝長子ちょうしを立てゝ、高煦を漢王とす。高煦怏々おうおうたり。仁宗立ってそのとし崩じ、仁宗の子大位にくに及びて、ついに反す。高煦の宣徳帝せんとくていけるは、なお燕王の建文帝に於けるが如きなり。その父反してしかして帝たり、高煦父のせるところを学んで、陰謀至らざる無し。しかれども事発するに至って、帝親征して之をくだす。高煦すなわち廃せられて庶人しょじんとなる。後鎖※さしつ[#「執/糸」、UCS-7E36、416-8]されて逍遙城しょうようじょうれらるゝや、一日いちじつ帝の之を熟視するにあう。高煦急に立って帝の不意にで、一足いっそくのばして帝をこうし地に※(「足へん+倍のつくり」、第3水準1-92-37)ばいせしむ。帝おおいに怒って力士に命じ、大銅缸だいどうこうもって之をおおわしむ。高煦多力たりきなりければ、こうの重き三百きんなりしも、うなじこうを負いてつ。帝炭を缸上に積むこと山の如くならしめて之をもやす。高煦生きながらに焦熱地獄にし、高煦の諸子皆死を賜う。燕王範を垂れて反をあえてし、身さいわいにして志を得たりと雖も、ついに域外の楡木川ゆぼくせんに死し、愛子高煦は焦熱地獄につ。如是果にょぜか如是報にょぜほうかなしいたむ可く、驚く可く嘆ずべし。
 二年冬、建文帝永慶寺えいけいじ宿しゅくして詩を題して曰く、

杖錫じょうしゃく きたり遊びて 歳月深し、
山雲 水月 閑吟にふ。
塵心じんしん 消尽しょうじんして 些子さしも無し、
受けず 人間の物色の侵すを。

 これより帝優游自適ゆうゆうじてき、居然として一頭陀いちずだなり。九年史彬しひん死し、程済ていせいなお従う。帝詩をくしたもう。かつしたまえる詩の一に曰く、

牢落ろうらく 西南 四十秋、
蕭々しょうしょうたる白髪 すでこうべつ。
乾坤けんこん うらみあり 家いづくにかる。
江漢 じょう無し 水おのづから流る。
長楽 宮中きゅうちゅう 雲気散じ、
朝元ちょうげん 閣上 雨声収まる。
新蒲しんぽ 細柳さいりゅう 年々緑に、
野老やろう 声をんで こくしていままず。

 又かつ貴州きしゅう金竺きんちく長官司羅永菴しらえいあんへきに題したまえる七律二章の如き、皆しょうす可し。其二に曰く、

楞厳りょうごんけみんで けいたたくにものうし。
笑ってる 黄屋こうおく 団瓢だんぴょうを寄す。
南来 瘴嶺しょうれい 千層※(「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55)はるかに、
北望 天門 万里はるかなり。
款段かんだん 久しく 忘る 飛鳳ひほうれん
袈裟けさ あらたかわる ※(「亠/兌」、第3水準1-14-50)こんりゅうほう
百官 この 知るいずれのところぞ、
ただ有り 羣烏ぐんうの 早晩に朝する。

 建文帝かくの如くにして山青く雲白きところに無事の余生を送り、僊人せんにん隠士いんし踪跡そうせき沓渺ようびょうとして知る可からざるが如くに身を終る可く見えしが、天意不測にして、魚は深淵しんえんひそめども案に上るの日あり、とりは高空にくれども天に宿しゅくするによし無し。忽然こつぜんとしてまたきゅうに入るに及びたもう。そのことまことに意表にづ。帝の同寓どうぐうするところの僧、帝の詩を見て、ついに建文帝なることを猜知すいちし、その詩をぬすみ、思恩しおん知州ちしゅう岑瑛しんえいのところに至り、われは建文皇帝なりという。こころけだし今の朝廷また建文をくるしめずして厚くこれを奉ず可きをおもえるなり。えいはこれを聞きておおいに驚き、ことごと同寓どうぐうの僧を得て之を京師けいしに送り、飛章ひしょうして以聞いぶんす。帝及び程済ていせいけいに至るのすうに在り。御史ぎょし僧をただすに及びて、僧曰く、年九十余、今たゞ祖父のりょうかたわらに葬られんことを思うのみと。御史、建文帝は洪武こうぶ十年に生れたまいて、正統せいとう五年をへだたる六十四歳なるを以て、何ぞ九十歳なるを得んとて之を疑い、ようやく詰問して遂にそのなるを断ず。僧じつ鈞州きんしゅう白沙里はくさりの人、楊応祥ようおうしょうというものなり。よって奏して僧を死に処し、従者十二人を配流して辺をまもらしめんとす。帝そのうちり。ここおいむを得ずしてその実を告げたもう。御史また今更におおいに驚きて、この事を密奏す。正統帝せいとうてい御父おんちち宣宗せんそう皇帝は漢王高煦こうこうの反に会いたまいて、さいわいに之を降したまいたれども、叔父しゅくふために兵をうごかすに至りたるの境遇は、まことに建文帝に異なること無し。宣宗せんそうぎたまいたる天子の、建文帝に対して如何いかんの感をやしたまえる。御史の密奏を聞召きこしめして、すなわ宦官かんがんの建文帝に親しくつかえたる者を召して実否を探らしめたもう。呉亮ごりょうというものあり、建文帝につかえたり。すなわち亮をして応文の果して帝なるやあらぬやを探らしめたもう。亮の応文おうぶんを見るや、応文たゞちに、なんじは呉亮にあらずや、と云いたもう。亮なおしからざるを申せば、帝ふるき事を語りたまいて、なんじ亮にあらずというや、とおおす。亮胸ふさがりて答うるあたわず、こくして地に伏す。建文帝の左の御趾おんあしには黒子ほくろありたまいしことを思ひでゝ、亮近づきて、御趾おんあしるに、まさしく其のしるし御座おわしたりければ、懐旧の涙とどめあえず、また仰ぎることあたわず、退いてそのよしを申し、さて後自経して死にけり。こゝに事実明らかになりしかば、建文帝を迎えて西内せいだいに入れたてまつる。程済ていせいこの事を聞きて、今日こんにち臣が事終りぬとて、雲南に帰りてあんき、同志の徒を散じぬ。帝は宮中に在り、老仏ろうぶつを以て呼ばれたまい、寿じゅをもて終りたまいぬという。


 女仙外史じょせんがいしに、忠臣等名山幽谷に帝をもとむるをする、有るがごとく無きが如く、実の如く虚の如く、縹渺有趣ひょうびょうゆうしゅの文をす。永楽亭えいらくてい楡木川ゆぼくせんほうを記する、鬼母きぼの一剣を受くとなし、又野史やしを引いて、永楽帝楡木川ゆぼくせんに至る、野獣の突至するにい、こればくす、かくされてたゞ半躯はんくあますのみ、※(「歹+僉」、第4水準2-78-2)れんしてしかして匠を殺す、そのあと泯滅びんめつする所以ゆえんなりと。野獣か、鬼母か、われこれを知らず。西人せいじんあるいは帝胡人こじんの殺すところとなると為す。しからばすなわち帝丘福きゅうふくとがめて、而して福とその死を同じゅうする也。帝勇武を負い、毎戦あやうきをおかす、楡木川ゆぼくせんの崩、けだ明史みんしみて書せざるある也。

 すうか、数か。紅篋こうきょう度牒どちょう袈裟けさ剃刀ていとうああ又何ぞ奇なるや。道士の霊夢、御溝ぎょこう片舟へんしゅうああ又何ぞ奇なるや。われかつ明史みんしを読みて、その奇に驚き、建文帝と共に所謂いわゆるすうなりの語を発せんと欲す。のち道衍どうえんの伝を読む。うちに記して曰く、道衍永楽えいらく十六年死す。死に臨みて、帝言わんと欲するところを問う。衍曰く、そう溥洽ふこうというものつながるゝこと久し。願わくは之をゆるしたまえと。溥洽ふこうは建文帝の主録僧しゅろくそうなり。初め帝の南京なんきんに入るや、建文帝僧となりてのがれ去り、溥洽じょうを知ると言うものあり、あるいは溥洽の所にかくすとうあり。帝すなわち他事を以て溥洽をいましめて、しかして給事中きゅうじちゅう胡※こえい[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS-6FD9、423-8]に命じて※(「彳+扁」、第3水準1-84-34)あまねく建文帝を物色せしむ。これを久しくして得ず。溥洽してつながるゝこと十余年、ここに至りて帝道衍の言をもって命じて之をいださしむ。衍頓首とんしゅして謝し、ついで卒すと。篋中きょうちゅうの朱書、道士の霊夢、王鉞おうえつの言、呉亮ごりょうの死と、道衍のこいと、溥洽のもくと、嗚呼ああ、数たると数たらざると、道衍けだし知ることあらん。しかして楡木川ゆぼくせん客死かくし高煦こうこう焦死しょうし、数たると数たらざるとは、道衍※(「王+共」、第3水準1-87-92)えんこうはいもとより知らざるところにして、たゞ天これを知ることあらん。

底本:「日本の文学3 五重塔・運命」ほるぷ出版
   1985(昭和60)年2月1日初版第1刷発行
底本の親本:「幽秘記」改造社
  1925(大正14)年6月発行
※JIS X 0213にもない文字の一部に、字体表現の参考資料として、「※[#「木+爽」、UCS-6A09、252-3]」のように、Unicodeを添えました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※疑問箇所の確認にあたっては、底本の親本と、「露伴全集 第六卷」岩波書店、1953(昭和28)年12月20日発行を参照しました。
※底本の「凡例」に「韻文の作品は、原表記・歴史的仮名づかいのままとした。ただし、振仮名は現代表記に改めた。」と記載されています。
※「懐来(かいらい)に在(あ)り 兵三万と」「天に震い 飛矢(ひし)雨の如し。」「城を撃たしむ 城壁破れんとす。」「前半は巵酒(ししゅ) 歓楽、」「武当(ぶとう) 大和山(たいかざん)に」の空白は底本通りにしました。
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校正:しだひろし
2004年11月17日作成
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