木寄きよせのことを、ざっと話して置きましょう。
 仏師に附属した種々いろいろの職業が分業的になってある中に、木寄師きよせしもその一つであります。これは材料を彫刻家へ渡す前に、その寸法を彫刻家の注文通り断ち切る役なのです。
 正式の寸法の割合として、たとえば坐像二尺の日蓮にちれん上人、一丈の仁王におうと木寄せをして仏師へ渡します。結局つまり、仏師が彫るまでの献立こんだてをする役です。これは附属職業の中でも重要なもので、それに狂いがあっては大変です。建築でいえば立前たてまえだから立前が狂っていては家は建たぬわけ、木寄師がまずかった日には仏師は手が附かぬというのです。
 木寄師の仕事はこのほかに天蓋の鉢、椅子いす※(「碌のつくり」、第3水準1-84-27)きょくろく、須弥壇、台坐等をやる。なかなか大変なものである。
 それから、仏師塗師ぬし、仏師錺師かざりし等いずれも分業者である。江戸ではその分業が一々際立きわだって、店の仕事が多忙いそがしいとまでは行かないが、中古から(徳川氏初期からをす)京都の方では非常に盛大なものであった。寺町通りには軒並みに仏師屋があってそれぞれ分業の店々がまた繁昌をしている。中古の(前同意義)仏師の本家は此所ここでありました。
 京都には、由来寺々の各本山がありますので、浄土とか真宗とか、地方の末寺の坊さんが京の本山へ法会ほうえの節上って行く。その時、地方で、上等ものを望む人は、その坊さんに頼み、これこれのものを注文して来て下さいと依頼する。坊さんは、法会の間、十日、半月位滞在しているが、その短期間にこれこれのものをと注文する。一週とか、十日間とかの間に、仏師はその注文品を仕上げるのであるが、たとえば、厨子ずしに入れて、たけ五寸の観音かんのんを注文するとすれば、仏師屋では見本を出して示す。七円、十円と価格が分れているのを、十円のに決めて日限にちげんを切って約束をする。そこで仏師屋では、小仏こぼとけを作る方の人が観音を作り始める。と、その五寸の観音の台坐を持って来い、と、それぞれ分業の店から、五寸という寸法で附属品を取って来る。それから、また、厨子を持って来い、何を持って来いとやる。まだ本尊が悉皆すっかり出来上がらない中に、附属品も、納まるものもチャンとそろっている。日限の日になって観音が出来上がると万事用意が整っているのだから、五寸の立像の観音は、すべるように厨子に納まり、そのまま注文ぬしの手に渡る。ほんの半月以内の短日月でこう手早く揃うのは、分業の便利であって、繁昌すればするほど、それが激しくなり、そうしてその余弊は仏師の堕落となり、彫刻界の衰退となりました。
 で、京都では段々と仏師に名人もなくなり、したがって仏師屋も少なくなり、今日では、寺町通りへ行っても、昔日のおもかげはありますまい。これは彫刻というような特殊の芸術を需要の多いのに任せて濫作する弊……拙速をとうとんで、間に合せをして、代金を唯一目的にする……すなわち余りに商品的に彫刻物を取り扱い過ぎるところの悪習ともいえましょう。
 それに引き代え、江戸は八百万石のお膝下ひざもと、金銀座の諸役人、前にいった札差ふださしとか、あるいは諸藩の留守居役るすいやくといったような、金銭に糸目いとめをつけず、入念で、しかも傑作を欲しいという本当に目の開いた華客とくいの多いこちらでは、観音一つ彫らすのでも、念に念を入れさせ、分業物の間に合せではなくして、台坐も天蓋も、これと目指した彫刻師の充分な腕によって出来たものを望むという気風がありましたから、京の寺町とは趣を異にし、芸術的良心が根まで腐るようなことはありませんでした。これは分業という話から余談にわたったが、まず以上のようなわけのものであった。

底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:山田芳美、網迫、土屋隆
校正:しだひろし
2006年2月1日作成
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