一面、かなり深い秋霧が降りて水を流した様なゆるい傾斜のトタン屋根に星がまたたく。
 隣の家の塀内にある桜の並木が、霧と光線の工合で、花時分の通りの美くしい形に見える。
 白いサヤサヤと私が通ると左右に分れる音の聞える様な霧に包まれた静かな景色は、熱い頬や頭を快くひやして行く。
 霞が深く掛った姿はまだはっきり覚えて居るほど新らしい時に見た事はないが秋霧の何とも云えない物静かな姿は霞の美くしさに劣るまい。
 霞は人の心を引きくるめて沙婆のまんなかへつれて来る。霧は禁慾的な、隠遁的な気分に満ちて居る。
 私は今の処は霧の方をいて居る。
 冷静な頭に折々はなりたいと思うからだ。
 霧の立ちこめた中に只一人立って、足元にのびて居る自分の影を見つめ耳敏く木の葉に霧のふれる響と落葉する声を聞いて居るとおのずと心が澄んで或る無限ママのさかえに引き入れられる。
 口に表わされない心の喜びを感じる。
 彼の水の様な家々の屋根に星のまたたき、月の光までさして、カサ……カサ……折々落葉する。
 土虫がジジジー、かすかに泣いて居る。
 私の頭も手足も正面まともに月の光りに照らされててついた様にそこのそこまで白く見える。
 私は自分を、静かな夜の中に昔栄えた廃園に、足を草に抱かれて立つ名工の手になった立像の様にも思い、
 この霧もこの月も又この星の光りさえも、此の中に私と云うものが一人居るばっかりにつくりなされたものの様にも思う。
 身は霧の中にただよい、心は想いの中を流れる。
 銀の霧  月の黄金
 その中に再び我名を呼ばれるまで私は想いの国の女王である。

底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社
   1986(昭和61)年3月20日初版発行
※1914(大正3)年11月1日執筆の習作です。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2008年2月28日作成
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