去年の九月に、只一人の妹を失った事は、まことに私にとっては大打撃であって、今までに且つて経験した事のない悲しみと、厳かさを感じさせられた。
「時」のたゆみない力のために、それについての事々が記憶から、消される時のあるのを思うて、書いた「悲しめる心」は、それを見る毎に、涙がこぼれる様な、痛ましい記録となって、私の傍に残って居る。
 自分が、非常に望をかけて居た者を、不意に、素方そっぽから飛び出した者の手に、奪われてしまったと云う事は、どんなに私を失望させた事だろう。
 その当時から見れば、素より薄らいで居るには違いないけれ共、フトその名を云い出された時や何かは、云い知らぬ淋しさに襲われて居た。
 けれ共、私の悲しさをいやすべく、二親の歓びを助くべく、今まで見た事もない様な美くしい児を、何者かが与えて下すった事は、私には暁光を仰ぐと等しい事である。
 二日の午前九時四十分
 健康な産声を高々と、独りの姉を補佐すべく産れて来た児は、七日後に寿江子と名づけられた。
 うす紅色の皮膚の上を、銀色の産毛がそよいで、クルクルと丸い眼、高い広い額等には、家中の者の希んで居る賢さが現われて居る。
 のびにのびた髪の毛が、白い地に美事な巻毛になって居て、絹の中に真綿を入れてくくった様な耳朶の後には、あまった髪の端が飾りの様に拡がって居た。
 華やかな衣の中で、長閑のどからしく、首を動かしたり、咲いた許りの花の様な手を、何か欲しげに袖から出して振って居る様子は、その体があんまり肥えて居るから、あんまり可愛い顔だから、ベビーと云う発音に如何にもつり合って居る。
「赤坊」と云う音よりは、何がなしふくらみのあるこの言葉の方が此の児にはつり合う。
 大様な額から、何とも云われぬ微妙な曲線で頬は、はるかにふくらんで、肩に乗るほどに育って居る。
 第一、長い間、かついだきりにして居ると云う手を、生れた日の次頃から、外に出して平気で居る様子は、大胆な勇気の満ちて居る性質を持って居るらしくて嬉しい気がする。
 他所の児の様に、ヒクヒク周囲の者に、肝癪かんしゃくを起させる程泣きもしず、意地汚く乳もねだらず、その健康から云っても、おぼろげながら見える品性から云っても、私は、実に理想的な児だと信じて居る。
 こんな妹を私に下すった両親にも感謝する。
 私は、立派な妹を得た姉の誇りで輝いて居る。
 会う人毎に、
「そりゃあ、大きな可愛い児でございますよ。
と云って、来た人には抱いて見せ、行った先では身振りまでして、話して聞かせた。
 たまらなく可愛いので、やたらに抱くので、もう私と看護婦の手を覚えて、どんなに泣いて居ても、二人の内が抱くと、きっと泣き止む。
 成丈、脊髄を曲げない様に、左右の手を同じ様に発育させる様に注意して、ゆったりと胸に抱えあげて、形の好い鼻からさし引きする安らかな呼吸を聞いて居ると、私の心は、類もない希望と、安心にときめいて来る。
 長年の勉強と努力で、漸う出来た私の智慧の庫(それは、額の両端が、際立って発達して、手でさわると二つの分れ目にあたる中央部はズーッと凹んで居る)を、この児は、生れながらにして至極小さくはあるが持って居る。勝れた利口に育ってくれる事は確かである。
 私は、どうしても、好い自慢の出来る児に仕立てあげなければ……。
 あんまり可愛がりすぎて刺戟を多すぎさせますまい。
 早くから連れて外出はしますまい。
 危険が一瞬間に起った時さけ難い乳母車には、のせない方がいいでしょう。
 小さいうちから、音楽の耳だけは作って置いた方がいいでしょうねえ。
 若し声がよかったら歌を、そうでなかったら何か楽器を、絃楽の方がいいだろうと思いますが、どんなもんでしょう。
 どうしたって、頭の明快な趣味の高い児にならせなければねえ。
 じいっと眼をつぶると、レースのたっぷりついた短かい白い着物を着て、肩まで、丁寧にした巻毛をたれて、ムクムクした足で踊る様に足拍子を取って、私に手を引かれて歩く様子が、あざやかに、目に浮いて来る。
 心の立ち勝った妹を助手として持つと云う事は、何か一生の仕事を定めて、勉める姉の身としてどれほど心強いか分らない。
 如何に弟達は、立派に又、数多あっても、何かにつけ細かに心づけて呉れるものは、妹に及ぶものはないのである。
 私は此の歓喜を永く記憶するために、この短かい一篇を記すと同時に、親切な、筆を以て、細かに、「生い立ちの記」を年毎に月毎に日毎に書き記して置きたい心がまえである。
 人中に居ると見えて見えない。
 ごたついた中になんか入る柄でないのにと私は思う。
 あの気の多い王妃などは、向うから出て来ても私はあってやるまい。
 目のするどいフレデレキのお爺さんと、マリアテレサがしきりに何か話して居る。
 笑いながら話して居るのに、どうした事か後では兵隊が恐ろしい顔をして居る事、
 抜目のない人同志の話は油断のならないものらしい。
 私はわきでそう思って居る。
 ルーテルの何代目の孫だとか云う男が、人々の間を游ぎ廻ってしきりに何か説いて居る。
 一代目よりは体もやせこけて、ピコピコした様子をして居る。
 こわれたカブトを気にして居るナイトのドンキホーテと同じ木の根に腰をかけて仲よくして居るところを見ると、やっぱり何かの血縁にでもなって居るのかもしれない。
 偉かった筈のクロムウェルは何か思いに沈んで額を押えて居るし、ポルトガルのヘンリ王子が槍をついて歩きながら海を想う歌を大声で歌って居る。
 マルコポロは、自分で書いたらしい本を持ってきまり悪そうにして居るし…………
 地球を片手で持ちあげるジャイアントの様な気持で、得意な笑を浮べながら私は私の根元にひろがって居る、可笑しい世界をながめて居る。

底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社
   1986(昭和61)年3月20日初版発行
※1915(大正4)年7月24日執筆の習作です。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2008年2月28日作成
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