三島讓は先輩の家を出た。まだ雨が残っているような雨雲が空いちめんに流れている晩で、暗いうえに雨水を含んだ地べたがじくじくしていて、はねあがるようで早くは歩けなかった。そのうえ山の手の場末の町であるから十時を打って間もないのに、両側の人家はもう寝てしまってひっそりとしているので、非常に路が遠いように思われてくる。で、車があるなら電車まで乗りたいと思いだしたが、夕方来る時車のあるような処もなかったのですぐそのことは断念した。断念するとともに今まで先輩に相談していた女のことが意識に登って来た。
(もすこし女の身元や素性を調べる必要があるね)と云った先輩の詞が浮んで来た。法科出身の藤原君としては、素性も何も判らない女と同棲することを乱暴だと思うのはもっともなことだが、過去はどうでも好いだろう、この国の海岸の町に生れて三つの年に医師をしていた父に死なれ、母親が再縁した漁業会社の社長をしている人の処で大きくなり、三年前に母が亡くなった比から家庭が冷たくなって来たので、昨年になって家を逃げだしたと云うのがほんとうだろう、血統のことなんかは判らないが、たいしたこともないだろう……。
(一体女がそんなに手もなく出来るもんかね)と云って笑った先輩の詞がふとまた浮んで来る。……なるほど考えて見るとあの女を得たのはむしろ不思議と思うくらいに偶然な機会からであった。しかし、世間一般の例から云ってみるとありふれた珍しくもないことである。己は今度の高等文官試験の本準備にかかる前に五六日海岸の空気を吸うてみるためであったが、一口に云えば壮い男が海岸へ遊びに往っていて、偶然に壮い女と知己になり、その晩のうちに離れられないものとなってしまったと云う、毎日新聞の社会記事の中にある簡単な事件で、別に不思議でもなんでもない。
女と交渉を持った日の情景がぼうとなって浮んで来る。……黄いろな夕陽の光が松原の外にあったが春の日のように空気が湿っていて、顔や手端の皮膚がとろとろとして眠いような日であった。彼は松原に沿うた櫟林の中を縫うている小路を抜けて往った。それはその海岸へ来てから朝晩に歩いている路であった。櫟の葉はもう緑が褪せて風がある日にはかさかさと云う音をさしていた。
その櫟林の前はちょっと広い耕地になって、黄いろに染まった稲があったり大根や葱の青い畑があった。そこには櫟林に平行して里川が流れていて柳が飛び飛びに生えている土手に、五六人の者がちらばって釣を垂れていた。人の数こそちがっているが、それは彼が毎日見かける趣であった。その魚釣の中には海岸へ遊びに来ている人も一人や二人はきっと交っていた。そんな人は宿の大きなバケツを魚籃のかわりに持っていて、覗いてみると時たま小さな鮒を一二尾釣っていたり、四五寸ある沙魚を持っていたりする。
彼が歩いて来た道がその里川に支えられた処には、上に土を置いた板橋がかかっていた。その橋の右の袂にも釣竿を持った男が立っていた。それは鼻の下に靴ばけのような髯を生やした頬骨の出た男で、黒のモスの兵児帯を尻高に締めていた。小学校の教師か巡査かとでも云う物ごしであった。彼はその脚下に置いてある魚籃を覗いて見た。そこには五六尾の沙魚が入っていた。
(沙魚が釣れましたね)
と、彼が挨拶のかわりに云うと、
(今日は天気の具合が好いから、もすこし釣れそうなもんですが、釣れません)
(やっぱり天気によりますか、なあ)
(あんまり、明るい、水の底まで見える日は、いけないですよ、今日も、もすこし曇ると、なお好いのですが)
(そうですか、なあ)
彼はちょっと空の方を見た。薄い雲が流れてそれが網の目のようになっていた。彼はその雲を見た後に川の土手の方へ往こうと思って、板橋の上に眼をやったところで橋のむこう側に立ってこっちの方を見ている壮い女を見つけた。紫の目立つ銘仙かなにかの華美な模様のついた衣服で、小柄なその体を包んでいた。ちょっと小間使か女学生かと云うふうであった。色の白い長手な顔に黒い眼があった。彼はどこかこのあたりの別荘へ来ている者だろうと思ったきりで、それ以上べつに好奇心も起らないので、女のことは意識の外に逸してその土手を上流の方へ歩いて往った。
二丁ばかりも往くともう左側に耕地がなくなって松原の赭土の台地が来た。そこにも川のむこうへ渡る二本の丸太を並べて架けた丸木橋があったが、彼はそれを渡らずに台地の方へ爪さきあがりの赭土を踏んであがって往った。
そこには古い大きな黒松があってその浮き根がそこここに土蜘蛛が足を張ったようになっていた。彼は昨日も一昨日もその一つの松の浮き根に腰をかけて雑誌を読んでいたので、その日もまた昨日腰をかけて親しみを持っていた浮根へ往って腰をかけながら下流の方を見た。薄い鈍い陽の光の中に釣人達は絵に画いた人のように黙黙として立っていた。彼はさっきの女のことをちょっと思いだしたので、見なおしてみたがもうそれらしい姿は見えなかった。
彼は何時の間にか懐に入れていた雑誌を執りだして読みはじめた。読んでいるうちに面白くなって来たので、もうほかのことはいっさい忘れてしまって夢中になって読み耽っていた。それは軍備縮少の徹底的主張とか、生存権の脅威から来る社会的罪悪の諸相観とか、華盛頓会議と軍備制限とか、そう云うような見出しを置いた評論文であった。そして、実生活の煩労から哲学と宗教の世界へと云うような、思想家として有名な某文士の評論を読みかけたところで、頭を押しつけられるような陰鬱な感じがするので、読むことを止めて眼をあげると、もう陽が入ったのか四辺が灰色になっていた。旅館で飯の準備をして待っているだろうと思ったので、帰ろうと思って雑誌を懐に入れながらふと見ると、右側のちょっと離れた草の生えた処に女が一人低まった方に足を投げだし、双手で膝を抱くようにして何か考えるのか首を垂れている。それは衣服の色彩の具合がさっき板橋のむこうで見た女のようであった。
彼は不審に思った。さっきの女が何故今までこんな処にいるのだろう。それとも己と同じように一人で退屈しているから散歩に来て遊んでいるのだろうか、しかし、あんなにうな垂れて考え込んでいるところを見ると何か事情があるかも判らない、傍へ寄って往ったら鬼魅を悪がるかも判らないが一つ聞いてやろうと思った。で、腰をあげて歩きかけたが、そっと往くのは何か野心があってねらい寄るようで疚しいので、軽い咳を一二度しながらいばったように歩いて往った。
女は咳と跫音に気が注いてこっちを見た。それはたしかにさきの女であった。女は別に驚きもしないふうですぐ顔をむこうの方へ向けてしまった。彼は茱萸の枝に衣の裾を引っかけながらすぐ傍へ往った。女はな顔をまたこっちに向けた。
(あなたは、どちらにいらっしゃるのです)
(私、さっきこちらへまいりましたのですよ)
女が淋しそうに云った。
(それじゃ、宿にはまだお入りにならないのですね)
(ええ、ちょっと、なんですから)
彼はふと女は何人か待合わす者でもあるかも判らないと思いだした。
(こんなに遅くなって、一人こうしていらっしゃるから、ちょっとおたずねしたのです)
(ありがとうございます、あなたはこのあたりの旅館にいらっしゃるの)
(五六日前から、すぐそこの鶏鳴館と云うのに来ているのです、もしお宿の都合で、他がいけないようならお出でなさい、私は三島と云うのです)
(ありがとうございます、もしかすると、お願いいたします、三島さんとおっしゃいますね)
(そうです、三島讓と云います、じゃ、失敬します、ごつごうでおいでなさい)
彼は女と別れて歩いたが弱よわしい女の態度が気になって、もしかするとよく新聞で見る自殺者の一人ではないだろうかと思いだした。彼は歩くのをやめて松の幹の立ち並んだ陰からそっと女の方を覗いた。
女は顔に双手の掌を当てていた。それはたしかに泣いているらしかった。彼はもう夕飯のことも忘れてじっとして女の方を見ていた……。
讓はふと道の曲り角に来たことに気がついた。で、左に折れ曲ろうとして見ると、そこに一軒の門口が見えて、出口に一本の欅があり、その欅の後になった板塀の内の柱に門燈が光っていたが、それは針金の網に包んだ円い笠に被われたもので、その柱に添うて女竹のような竹が二三本立ち、小さなその葉がじっと立っていた。ふと見るとその電燈の笠の内側に黒い斑点が見えた。それは壁虎であった。壁虎は餌を見つけたのか首を出したがその首が五寸ぐらいも延びて見えた。彼はおやと思って足を止めた。電燈の笠が地球儀の舞うようにくるくると舞いだした。彼は厭なものを見たと思って路の悪いことも忘れて小走りに左の方へ曲って往った。
讓は奇怪な思いに悩まされながら歩いていたがそのうちに頭に余裕が出来て来て、今の世の中にそんなばかげたことのあるはずがない、神経のぐあいであんなに見えたものだろうと思いだした。しかし、それが神経のぐあいだとすると、己は今晩どうかしているかも判らない。もしかすると発狂の前兆ではあるまいかと思いだした。そう思うと憂鬱な気もちになった。
讓はその憂鬱の中で、偶然な機会から女を得たこともほんとうでなくて、やはり奇怪な神経作用から来た幻覚ではないだろうかと思った。
何時の間にか彼は今までよりは広い明るい通路へ出ていた。と、彼の気もちは軽くなって来た。彼は女が己の帰りを待ちかねているだろうと思いだした。軽い淡白な気もちを持っている小鳥のような女が、隻肱を突いて机の横に寄りかかってじっと耳を傾け、玄関の硝子戸の開く音を聞きながら、己の帰るのを待っている容が浮んで来た。浮んで来るとともに、今晩先輩に相談した、女と素人屋の二階を借りて同棲しようとしていることが思われて来た。
(君もどうせ細君を持たなくちゃならないから、好い女なら結婚しても好いだろうが、それにしてもあまり疾風迅雷的じゃないか)と、云って笑った先輩の詞が好い感じをとものうて来た。
職業的な女なら知らないこともないが、そうした素人の処女と交渉を持った経験のない彼は、女の方に特種な事情があったにしても手もなく女を得たと云うことが、お伽話を読んでいるような気もちがしてならなかった。
(僕も不思議ですよ、なんだかお伽話を読んでいるような気がするんです)と、云った己の詞も思いだされた。彼は藤原君がそんなことを云うのももっともだと思った。
……女は真暗になった林の中をふらふらと歩きだした。そして、彼の傍を通って海岸の方へ往きかけたが、泣きじゃくりをしていた。彼はたしかに女は自殺するつもりだろうと思ったので助けるつもりになった。それにしても女を驚かしてはいけないと思ったので、女を二三間やり過してから歩いて往った。
(もしもし、もしもし)
女はちょっと白い顔を見せたが、すぐ急ぎ足で歩きだした。
(僕はさっきの男です、決して、怪しいものじゃありません、あなたがお困りのようだから、お訊ねするのです、待ってください)
女はまた白い顔をすこし見せたようであったが足は止めなかった。
(もしもし、待ってください、あなたは非常にお困りのようだ)
彼はとうとう女に近寄ってその帯際に手をかけた。
(僕はさっきお眼にかかった三島と云う男です、あなたは非常にお困りのようだ)
女はすなおに立ちどまったがそれといっしょに双手を顔に当てて泣きだした。
(何かあなたは、御事情があるようだ、云ってください、御相談に乗りましょう)
女は泣くのみであった。
(こんな処で、話すのは変ですから、私の宿へまいりましょう、宿へ往って、ゆっくりお話を聞きましょう)
彼はとうとう女の手を握った。……
路はまた狭い暗い通路へ曲った。讓は早く帰って下宿の二階で己の帰りを待ちかねている女に安心さしてやりたいと思ったので、爪さきさがりになった傾斜のある路をとっとと歩きだした。彼の眼の前には無邪気なおっとりした女の顔が見えるようであった。
……(私は死ぬよりほかに、この体を置くところがありません)
家を逃げだして東京へ出てから一二軒婢奉公をしているうちにある私立学校の教師をしている女と知己になって、最近それの世話で某富豪の小間使に往って見ると、それは小間使以外に意味のある奉公で、往った翌晩主人から意外のそぶりを見せられたので、その晩のうちにそこを逃げだしてふらふらと海岸へやって来たと云って泣いた女の泣き声がよみがえって来た。
讓は己の右側を歩いている人の姿に眼を注けた。路の右側は崖になってその上にはただ一つの門燈が光っていた。右側を歩いている人はこちらを揮り返るようにした。
「失礼ですが、電車の方へは、こう往ったらよろしゅうございましょうか」
それは壮い女の声であった。讓には紅いその口元が見えたような気がした。彼はちょっと足を止めて、
「そうです、ここを往って、突きあたりを左へ折れて往きますと、すぐ、右に曲る処がありますから、そこを曲ってどこまでもまっすぐに往けば、電車の終点です、私も電車へ乗るつもりです」
「どうもありがとうございます、この前に私の親類もありますが、この道は、一度も通ったことがありませんから、なんだか変に思いまして……、では、そこまでごいっしょにお願いいたします」
讓は足の遅い女と道づれになって困ると思ったがことわることもできなかった。
「往きましょう、おいでなさい」
「すみませんね」
讓はもう歩きだしたがはじめのようにとっとと歩けなかった。彼はしかたなしに足を遅くして歩いた。
「道がお悪うございますね」
女は讓の後に引き添うて歩きながらどこかしっかりしたところのある詞で云った。
「そうですね、悪い道ですね、あなたはどちらからいらしたのです」
「山の手線の電車で、この前へまでまいりましたが、市内の電車の方が近いと云うことでしたから、こっちへまいりました、市内の電車では、時どき親類へまいりましたが、この道ははじめてですから」
「そうですか、なにしろ、場末の方は、早く寝るものですから」
讓はこう云ってからふと電燈の笠のことを思いだして、あんなことがあったらこの女はどうするだろうと思った。
「ほんとうにお淋しゅうございますのね」
「そうですよ、僕達もなんだか厭ですから、あなた方は、なおさらそうでしょう」
「ええ、そうですよ、ほんとうに一人でどうしようかと思っていたのですよ、非常に止められましたけれど、病人でとりこんでいる家ですから、それに、泊るなら親類へ往って泊ろうと思いまして、無理に出て来たのですが、そのあたりは、まだ数多起きてた家がありましたが、ここへ来ると、急に世界が変ったようになりました」
傾斜のある狭い暗い路が尽きてそれほど広くはないが門燈の多い町が左右に延びていた。讓はそれを左に折れながらちょっと女の方を揮り返った。に化粧をした細面の顔があった。
「こっちですよ、いくらか明るいじゃありませんか」
「おかげさまで、助かりました」
「もう、これから前は、そんなに暗くはありませんよ」
「はあ、これから前は、私もよく存じております」
「そうですか、路はよくありませんが、明るいことは明るいですね」
「あなたはこれから、どちらへお帰りなさいます」
「僕ですか、僕は本郷ですよ、あなたは」
「私は柏木ですよ」
「それは大変ですね」
「はあ、だから、この前の親類へ泊まろうか、どうしようかと思っているのですよ」
讓はこの女は厳格な家庭の者ではないと思った。香のあるような女の呼吸使いがすぐ近くにあった。彼はちょっとした誘惑を感じたが己の室で机に肱をもたせて、己の帰りを待っている女の顔がすぐその誘惑を掻き乱した。
「そうですな、もう遅いから、親類でお泊りになるが好いのでしょう、そこまで送ってあげましょう」
「どうもすみません」
「好いです、送ってあげましょう」
「では、すみませんが」
「その家はあなたが御存じでしょう」
女は讓の左側に並んで歩いていた。
「知ってます」
右へ曲る角にバーがあって、入口に立てた衝立の横から浅黄の洋服の胴体が一つ見えていたが、中はひっそりとして声はしなかった。
「こっちへ往くのですか」
讓は曲った方へ指をやった。
「このつぎの横町を曲って、ちょっと往ったところです、すみません」
「なに好いのですよ、往きましょう」
路の上が急に暗くなって来た。何人かがこのあたりに見はっていて、故意に門燈のスイッチをひねっているようであった。
「すこし、こっちは、暗いのですよ」
女の声には霧がかかったようになった。
「そうですね」
女はもう何も云わなかった。
「ここですよ」
蒸し蒸しするような物の底に押し込められているような気もちになっていた讓は、女の声に気が注いて足をとめた。そこにはインキの滲んだような門燈の点いている昔風な屋敷門があった。
「ここですか、では、失礼します」
讓は下宿の女が気になって来た。彼は急いで女と別れようとした。
「失礼ですが、内まで、もうすこしお願いいたしとうございますが」
女の顔は笑っていた。
「そうですか、好いですとも、往きましょう」
左側に耳門があった。女はその方へ歩いて往って門の扉に手をやると扉は音もなしに開いた。女はそうして扉を開けてから揮り返って、男の来るのを待つようにした。
讓は入って往った。女は扉を支えるようにして身をかた寄せた。讓は女の体と擦れ合うようにして内へはいった。と、女は後から跟いて来た。扉は女の後でまた音もなく締った。
「しつれいしました」
薄月が射したようになっていた。讓は眼が覚めたように四辺を見まわした。庭には天鵞絨を敷いたような青あおした草が生えて、玄関口と思われる障子に燈の点いた方には、凌霄の花のような金茶色の花が一めんに垂れさがった木が一本立っていた。その花の香であろう甘い毒どくしい香が鼻に滲みた。
「ここは姉の家ですよ、何にも遠慮はいらないのですよ」
讓は上へあげられたりしては困ると思った。
「僕はここにおりますから、お入りなさい、あなたがお入りになったら、すぐ帰りますから」
「まあ、ちょっと姉に会ってください、お手間はとらせませんから」
「すこし、僕は用事がありますから」
「でも、ちょっとならよろしゅうございましょう」
女はそう云って玄関の方へ歩いて往って、花のさがっている木の傍をよけるようにして往った。讓は困って立っていた。
家の内へ向けて何か云う女の声が聞えて来た。讓はその声を聞きながら秋になっても草の青あおとしている庭の容に心をやっていた。
艶かしい女の声が聞えて来た。讓は女の姉さんと云う人であろうかと思って顔をあげた。内玄関と思われる方の格子戸が開いて銀色の燈の光が明るく見え、その光を背にして昇口に立った背の高い女と、格子戸の処に立っている彼の女を近ぢかと見せていた。
讓はあんなに玄関が遠くの方に見えていたのは、眼のせいであったろうと思った。彼はまた電燈の笠のくるくる廻ったことを思いだして、今晩はどうかしていると思いながら、花の垂れさがった木の方に眼をやると、廻転機の廻るようにその花がくるくると廻って見えた。
「姉があんなに申しますから、ちょっとおあがりくださいまし」
女が前へ来て立っていた。讓はふさがっていた咽喉がやっと開いたような気もちになって女の顔を見たが、頭はぼうとなっていて、なにを考える余裕もないので吸い寄せられるように燈のある方へ歩いて往った。歩きながら怖ごわ花の木の方に眼をやって見ると、木は金茶色の花を一めんにつけて静に立っていた。
「さあ、どうぞおあがりくださいまし、妹が大変御厄介になりましたそうで、さあ、どうぞ」
讓は何時の間にか土間へ立っていた。背の高い蝋細工の人形のような顔をした、黒い数多ある髪を束髪にした凄いようにな女が、障子の引手に凭れるようにして立っていた。
「ありがとうございます、が、今晩はすこし急ぎますから、ここで失礼いたします」
「まあ、そうおっしゃらずに、ちょっとおあがりくださいまし、お茶だけさしあげますから」
「ありがとうございます、が、すこし急ぎますから」
「待っていらっしゃる方がおありでしょうが、ほんのちょっとでよろしゅうございますから」
女は潤いのある眼を見せた。讓も笑った。
「ちょっとおあがりくださいまし、何人も遠慮のある者はいないのですから」
後に立っていた女が云った。
「そうですか、では、ちょっと失礼しましょうか」
讓はしかたなしに左の手に持っている帽子を右の手に持ち替えてあがるかまえをした。
「さあ、どうぞ」
女は障子の傍を離れてむこうの方へ歩いた。讓は靴脱ぎへあがってそれから上へあがった。障子の陰に小間使のような十七八の島田に結うた婢が立っていて讓の帽子を執りに来た。讓はそれを無意識に渡しながら女の後からふらふらと跟いて往った。
長方形の印度更紗をかけた卓があってそれに支那風の朱塗の大きな椅子を五六脚置いた室があった。前に入って往った女は華美な金紗縮緬の羽織の背を見せながらその椅子の一つに手をやった。
「どうかおかけくださいまし」
讓は椅子の傍へ寄って往った。と、女はその左側にある椅子を引き寄せて、讓と斜に向き合うようにして腰をかけたので、讓もしかたなしに椅子を左斜にして腰をかけた。
「はじめまして、僕は三島讓と云うものですが」
讓が云いはじめると女は手をあげて打ち消した。
「もう、そんな堅くるしいことは、お互によしましょう、私はこうした一人者のお婆さんですから、お嫌でなけりゃこれからお朋友になりましょう」
「僕こそ、以後よろしくお願いいたします」
讓の帽子を受け執った婢が櫛形の盆に小さな二つのコップと、竹筒のような上の一方に口がつき一方に取手のついた壺を乗せて持って来た。
「ここへ持っておいで」
女がさしずすると婢は二人の間の卓の端にその盆を置いてから引き退ろうとした。
「お嬢さんはどうしたの」
婢は揮り返って云った。
「お嬢さんは、なんだかお気もちが悪いから、もすこしして、お伺いすると申しております」
「気もちが悪いなら、私がお対手をするのだから、よくなったらいらっしゃいって」
婢はお辞儀をしてから扉を開けて出て往った。
「お茶のかわりに、つまらんものをさしあげましょう」
女は壺の取手に手を持って往った。
「もうどうぞ、すぐ失礼しますから」
「まあ、およろしいじゃありませんか、何人も遠慮する者がありませんから、ゆっくりなすってくださいまし、このお婆さんでおよろしければ、何時までもお対手をいたしますから」
女は壺の液体を二つのコップに入れて一つを讓の前へ置いた。それは牛乳のような色をしたものであった。
「さあ、おあがりくださいまし、私も戴きますから」
讓はさっさと一ぱい饗応になってから帰ろうと思った。
「では、これだけ戴きます」
讓は手に執って一口飲んでみた。それは甘味のあるちょっとアブサンのような味のするものであった。
「私も戴きます、召しあがってくださいまし」
女もそのコップを手にして甞めるようにして見せた。
「折角のなんですけれど、僕は、すこし、今、都合があって急いでいますから、これを一ぱいだけ戴いてから、失礼します」
「まあ、そんなことをおっしゃらないで、こんな夜更けに何の御用がおありになりますの、たまには遅く往って、じらしてやるがよろしゅうございますよ」
女はコップを持ったなりに下顋を突きだすようにして笑った。讓もしかたなしに笑った。
「さあ、もうすこしおあがりなさいましよ」
讓は後の酒を一口飲んでしまってコップを置くと、腰をすかすようにして、
「折角ですけれど、ほんとうに急ぎますから、これで失礼します」
女はコップを投げるように置いて、立って来て讓の肩に双手を軽くかけて押えるようにした。
「もう、妹も伺いますから、もうすこしいらしてくださいまし」
讓の肉体は芳烈にして暖かな呼吸のつまるような圧迫を感じて動くことができなかった。女の体に塗った香料は男の魂を縹渺の界へ伴れて往った。
「何人だね、今は御用がないから、あちらへ往ってらっしゃい」
女の声で讓は意識がまわって来た。その讓の頭に己を待っている女のことがちらと浮んだ。讓は起ちあがった。女はもとの椅子に腰をかけていた。
「まあ、まあ、そんなに、お婆さんをお嫌いになるものじゃありませんわ」
女の艶めかしい笑顔があった。讓は今一思いに出ないとまた暫く出られないと思った。
「これで失礼します」
讓は扉のある処へ走るように往って急いで扉を開けて出た。
廊下には丸髷に結った年増の女が立っていて讓を抱き止めるようにした。
「何人です、放してください、僕は急いでるのです」
讓は揮り放そうとしたが放れなかった。
「まあ、ちょっとお待ちくださいましよ、お話したいことがございますから」
讓はしかたなしに立った。そして、彼の女が追って出て来やしないかと思いながら注意したがそんな容はなかった。
「すこし、お話したいことがありますから、ちょっとこちらへいらしてくださいよ、ちょっとで好いのですから」
年増の女は手を緩めたがそれでも前から退かなかった。
「どんなことです、僕は非常に急いでるのですから、こちらの奥さんの止めるのも聞かずに、逃げて帰るところですから、なんですか早く云ってください、どんなことです」
「ここではお話ができませんから、ちょっと次の室へいらしてください、ちょっとで好いのですから」
讓は争っているよりもちょっとで済むことなら、聞いてみようと思った。
「では、ちょっとなら聞いても好いのです」
「ちょっとで好いのですよ、来てください」
年増の女が歩いて往くので跟いて往くとすぐつぎの室の扉を開けて入った。
中には手前の壁に寄せかけて安楽椅子をはじめ五六脚の形のちがった椅子を置き、そのむこうには青い帷を引いてあった。そこは寝室らしかった。
「さあ、ちょっとここへかけてくださいよ」
年増の女が入口に近い椅子に指をさすので讓は急いで腰をかけた。
「なんですか」
年増の女はその前に近く立ったなりで笑った。
「そんなに邪見になさるものじゃありませんよ」
「なんですか」
「まあ、そんなにおっしゃるものじゃありませんよ、あなたは、家の奥さんの心がお判りになったのでしょう」
「なんですか、僕にはどうも判らないのですが」
「そんな邪見なことをおっしゃらずに、奥さんは、お一人で淋しがっていらっしゃいますから、今晩、お伽をしてやってくださいましよ、こうして、お金が唸るほどある方ですから、あなたの御都合で、どんなことでも出来るのですよ」
「だめですよ、僕はすこし都合があるのですから」
「洋行でもなんでも、あなたの好きなことができるのじゃありませんか、私の云うことを聞いてくださいよ」
「それはだめですよ」
「あんたは慾を知らない方ね」
「どうしても、僕はそんなことはできないのです」
「御容色だって、あんなきれいな方はめったにありませんよ、好いじゃありませんか、私の云うことを聞いてくださいよ」
「そいつはどうしてもだめですよ」
年増の女の隻手は讓の隻手にかかった。
「まあ、そんなことはおっしゃらずに、あちらへまいりましょう、私のことを聞いてくださいよ、悪いことはありませんから」
讓は動かなかった。
「だめです、僕はそんなことは厭だ」
「好いじゃありませんか、年よりの云うことを聞くものですよ」
讓はもういらいらして来た。
「だめですよ」
叱りつけるように掴まえられた手を揮り放した。
「あんたは邪見、ねえ」
扉が開いて小さな婆さんがちょこちょこと入って来た。頭髪の真白な魚のような光沢のない眼をしていた。
「どうなったの、お前さん」
「だめだよ、なんと云っても承知しないよ」
「やれやれ、これもまた手数をくうな」
「野狐がついてるから、やっぱりだめだよ」
年増の女は嘲るように云ったが讓の耳にはそんなことは聞えなかった。彼はその女を突きのけるようにして外へ飛びだした。室の中から老婆のひいひいと云う笑い声が聞えて来た。
讓は日本室のようになった畳を敷き障子を締めてあった玄関のある方へ往くつもりで、廊下を左の方へ走るように歩いた。間接照明をしたようなぼうとした光が廊下に流れていた。そのぼうとした光の中には鬼魅の悪い毒どくしい物の影が射していた。
讓は底の知れない不安に駆られながら歩いていた。廊下が室の壁に往き当ってそれが左右に別れていた。讓はちょっと迷ったが、左の方から来たように思ったので、左の方へ折れて往った。と、急に四方が暗くなってしまった。彼はここは玄関の方へ往く処ではないと思って、後帰りをしようとすると、そこには冷たい壁があって帰れなかった。讓はびっくりして足を止めた。歩いて来た廊下が判らなくなって一処明採りのような窓から黄いろな燈が光っていた。それは長さが一尺四五寸、縦が七八寸ばかりの小さな光であった。讓はしかたなしにその窓のほうへ歩いて往った。
窓は讓の首のあたりにあった。讓は窓の硝子窓に顔をぴったりつけてむこうを見た。その讓の眼はそこで奇怪な光景を見出した。黄いろに見える土間のような処に学生のような少年が椅子に腰をかけさせられて、その上から青い紐でぐるぐると縛られていたが、その傍には道伴になって来た主婦の妹と云う壮い女と、さっきの小間使のような婢が立っていた。二人の女は何かかわるがわるその少年を攻めたてているようであった。少年は眼をつむってぐったりとなっていた。
讓は釘づけにされたようになってそれを見つめた。婢の方の声が聞えて来た。
「しぶとい人ったらありゃしないよ、何故はいと云わないの、いくらお前さんが強情張ったってだめじゃないの、早くはいと云いなさいよ、いくら厭だと云ったってだめだから、痛い思いをしないうちに、はいと云って、奥様に可愛がられたら好いじゃないの、はいと云いなさいよ」
讓は少年の顔に注意した。少年はぐったりとしたなりで唇も動かさなければ眼も開けようともしなかった。妹の方の声がやがて聞えて来た。
「強情はってたら、返してくれるとでも思ってるだろう、ばかな方ね、家の姉さんが見込んだ限りは、なんとしたって、この家から帰って往かれはしないよ、お前さんはばかだよ、私達が、こんなに心切に云ってやっても判らないのだね」
「強情はったら、帰れると思ってるから、おかしいのですよ、ほんとうにばかですよ、また私達にいびられて、餌にでもなりたいのでしょうよ」
婢は鬼魅の悪い笑いかたをして妹の顔を見た。
「そうなると、私達は好いのだけれど、この人が可哀そうだね、何故こんなに強情をはるだろう、お前、もう一度よっく云ってごらんよ、それでまだ強情をはるようなら、お婆さんを呼んでおいで、お婆さんに薬を飲ませて貰うから」
婢の少年に向って云う声がまた聞えて来た。
「お前さんも、もう私達の云うことはわかってるだろうから、くどいことは云わないが、いくらお前さんが強情はったって、奥様にこうと思われたら、この家は出られないから、それよりか、はいと云って、奥様の詞に従うが好いのだよ、奥様のお詞に従えば、この大きなお邸で、殿様のようにして暮せるじゃないかね、なんでもしたいことができて好いじゃないの、悪いことは云わないから、はいとお云いなさいよ、好いでしょう、はいとお云いなさいよ」
少年はやはり返事もしなければ顔も動かさなかった。
「だめだよ、お婆さんを呼んでお出で、とてもだめだよ」
妹の声がすると婢はそのまま室を出て往った。
妹はその後をじっと見送っていたが、婢の姿が見えなくなると少年の後へ廻って双手をその肩に軽くかけ、何か小さな声で云いだしたが讓には聞えなかった。
女は少年の左の頬の処へ白い顔を持って往ったが、やがて紅い唇を差しだしてそれにつけた。少年は死んだ人のように眼も開けなかった。
二人の人が見えて来た。それは今の婢と魚の眼をした老婆であった。それを見ると少年の頬に唇をつけていた妹は、すばしこく少年から離れて元の処へ立っていた。
「また手数をかけるそうでございますね、顔ににあわない強つくばりですね」
老婆は右の手に生きた疣だらけの蟇の両足を掴んでぶらさげていた。
「強情っ張りよ」
妹が老婆を見て云った。
「なに、この薬を飲ますなら、理はありません、どれ一つやりましょうかね」
老婆が蟇の両足を左右の手に別べつに持つと婢が前へ来た。その手にはコップがあった。女はそのコップを老婆の持った蟇の下へやった。
老婆は一声唸るような声を出して、蟇の足を左右に引いた。蟇の尻尾の処が二つに裂けてその血が裂口を伝うてコップの中へ滴り落ちたが、それが底へ微紅く生なましく溜った。
「お婆さん、もう好いのでしょ、平生くらい出来たのですよ」
コップを持った婢はコップの血をすかすようにして云った。老婆も上からそれを覗き込んだ。
「どれ、どれ、ああ、そうだね、それくらいありゃ好いだろう」
老婆は蟇を脚下に投げ捨ててコップを受け執った。
「この薬を飲んで利かなけりゃ、もうしかたがない、皆でいびってから、餌にしましょうよ、ひっ、ひっ、ひっ」
老婆は歯の抜けた歯茎を見せながらコップを持って少年の傍へ往って、隻手の指端をその口の中へさし入れ、軽がると口をすこし開かしてコップの血を注ぎ込んだ。少年は大きな吐息をした。
讓は奇怪な奥底の知れない恐怖にたえられなかった。彼はどうかして逃げ出そうと窓を離れて暗い中を反対の方へ歩いた。そこには依然として冷たい壁があった。しかし、戸も開けずに廊下から続いていた室であるから、出口のないことはないと思った。彼は壁を探り探り左の方へ歩いて往った。と、壁が切れて穴のような処があった。讓は今通って来た処だと思ってそこを出た。
ぼんやりした微白い光が射して、その前に広い庭が見えた。讓は喜んだ。玄関口でなくとも外へさえ出れば、帰られないことはないと思った。そこには庭へおりる二三段になった階段がついていた。讓はその階段へ足をかけた。
讓を廊下で抱き縮めたような女と同じぐらいな年恰好をした年増の女が、隻手に大きなバケツを持って左の方から来た。讓は見つけられてはいけないと思ったので、そっと後戻りをして出口の柱の陰に立っていた。
肥った女はちょうど讓の前の方へ来てバケツを置き、庭前の方へ向いて犬かなんかを呼ぶように口笛を吹いた。庭の方には天鳶絨のような草が青あおと生えていた。肥った女の口笛が止むと、その草が一めんに動きだしてその中から小蛇が数多見えだした。それは青い色のもあれば黒い色のもあった。その蛇がにょろにょろと這いだして来て女の前へ集まって来た。
女はそれを見るとバケツの中へ手を入れて中の物を掴み出して投げた。それはなんの肉とも判らない血みどろになった生生しい肉の片であった。蛇は毛糸をもつらしたように長い体を仲間にもつらし合ってうようよとして見えた。
讓は眼前が暗むような気がして内へ逃げ込んだ。その讓の体は軟かな手でまた抱き縮められた。
「どんなに探したか判らないのだよ、どこにいらしたのです」
讓はふるえながら対手を見た。それは彼の年増の女であった。
「あなたは、ほんとにだだっ子ね、そんなにだだをこねられちゃ、私が困るじゃありませんか、こっちへいらっしゃいよ」
年増は讓の双手を握って引ぱった。讓はどうでもして逃げて帰りたかった。
「僕を帰してください、僕は大変な用事があるのです、いることはできないから、帰してください」
讓は女の手を揮り払おうとしたが離れなかった。
「そんな無理なことを云うものじゃありませんよ、あなたの御用って、下宿に女の方が待ってるだけのことでしょう」
「そんなことじゃないのです」
「そうですよ、私にはちゃんと判ってるのですよ、その女よりか、いくら家の奥さんが好いか判らないじゃありませんか、ほんとうにあなたは、慾を知らない方ね、こっちへいらっしゃいよ、いくら逃げようとしたって、今度は放しませんよ、いらっしゃいよ」
女はぐんぐんとその手を引ぱりだした。讓の体は崩れるようになって引ぱられて往った。
「放してください」
「だめよ、男らしくないことを云うものじゃありませんよ」
讓は室の中へ引ぱり込まれた。そこは青い帷を張ったはじめの室であった。
「奥様がどんなに待っていらっしゃるか判りませんよ、こちらへいらっしゃいよ」
年増は隻手を放してそれで帷を捲くようにして、無理やりに讓の体をその中へ引込んだ。
そこには真中に寝台があってその寝台の縁にな主婦が腰をかけて、じっと眼を据えて入って来る讓の顔を見ていた。その室の三方には屏風とも衝立とも判らないものを立てまわして、それに色彩の濃い奇怪な絵を画いてあった。
「ほんとにだだっ子で、やっと掴まえてまいりました」
年増は讓を主婦の傍へ引ぱって往って、主婦のむこう側の寝台の縁へ腰をかけさせようとした。
「放してください、僕はだめです、僕は用事があるのです、僕は厭です」
讓は年増の女を揮り放して逃げようとしたがはなれなかった。
「だめですよ、もうなんと云っても放しませんよ、そんなばかなことをせずに、じっとしていらっしゃいよ、ほんとうにあなたは、ばか、ねえ」
主婦の眼は讓の顔から離れなかった。
「おとなしく、だだをこねずに、奥さんのお対手をなさいよ」
年増はおさえつけるようにして讓を寝台の縁へかけさした。讓はしかたなしに腰をかけながら、ただ逃げ出そうとしても逃げられないから、油断をさしておいて隙を見て逃げようと思ったが、頭が混乱していて落ちついていられなかった。
「そんなに急がなくたって、ゆっくりなされたら好いじゃありませんか」
主婦は年増の放した讓の手に軽く己の手をかけて、心持ち讓を引き寄せるようにした。
「失礼します」
讓はその手を揮り払うとともに起ちあがって、年増の傍を擦り抜けて逃げ走った。
「このばか、なにをする」
年増の声がするとともに讓は後からつかまえられてしまった。それでも彼はどうかして逃げようと思ってもがいたが、揮り放すことはできなかった。
「奥様、どういたしましょう、このばか者はしようがありませんよ」
年増が云うと主婦の返事が聞えた。
「ここへ伴れて来て縛っておしまい、野狐がついてるから、その男はとてもだめだ」
妹と壮い婢が入って来たが、婢の手には少年を縛ってあったような青い長い紐があった。
「縛るのですか」
婢が云った。
「奥様のお室へ縛るのですよ」
年増はそう云い云いひどい力で讓を後へ引ぱった。讓はよたよたと後へ引きずられた。
「そのばか者をぐるぐる縛って、寝台の上へ乗っけてお置き、一つ見せるものがあるから、見せておいて、私がいびってやる」
主婦は室の中に立っていた。同時に青い紐はぐるぐると讓の体に捲きついた。
「私が寝台の上に乗っけよう、そのかわり、奥様の後で、私がいびるのですよ」
年増はふうふうふうと云うように笑いながら、讓の体を軽がると抱きあげて寝台の上へ持って往った。讓はもがいて体を揮ったがそのかいがなかった。
「あの野狐を伴れてお出で、野狐からさきいびってやる」
主婦はそう云いながら寝台の縁へまた腰をかけた。讓の眼前は暗くなってなにも見ることができなかった。讓は仰向けに寝かされていたのであった。
女達のなにか云って笑う声が耳元に響いていた。讓は奇怪な圧迫を被っている己の体を意識した。そして、一時間たったのか二時間たったのか、怪しい時間がたったところで、顔を一方にねじ向けられた。
「このばか者、よく見るのだよ、お前さんの好きな野狐を見せてやる」
それは主婦の声であった。讓の眼はぱっちり開いた。年増が壮い女の首筋を掴んで立っていた。それは下宿屋においてあった彼の女であった。讓ははね起きようとしたが動けなかった。讓は激しく体を動かした。
「その野狐をひねって見せておやりよ、その野狐がだいち悪い」
主婦が云うと年増は女の首に両手をかけて強く締めつけた。と、女の姿はみるみる赤茶けた色の獣となった。
「色女が死ぬるのだよ、悲しくはないかね」
讓の眼前には永久の闇が来た。女達の笑う声がまた一しきり聞えた。
讓の口元から頬にかけて鬼魅悪い暖な舌がべろべろとやって来た。
三島讓と云う高等文官の受験生が、数日海岸の方へ旅行すると云って下宿を出たっきりいなくなったので、その友人達が詮議をしていると、早稲田の某空家の中に原因の判らない死方をして死んでいたと云う記事が、ある日の新聞に短く載っていた。
底本:「日本怪談大全 第一巻 女怪の館」国書刊行会
1995(平成7)年7月10日初版第1刷発行
入力:深町丈たろう
校正:小林繁雄
2002年12月3日作成
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