「君は何故美女を携えてここへ来た、ここには鬼神があって、美女と見れば必ず盗むので、往来の者でこの難に罹る事がある、君も能く守るがいい」
と言った。はまさかと思って疑ったが、それでも軍士に命じて家の外を衛らし、妻には十余人の侍女をつけて奥深い処に置いてあった。最初の晩は別に何事もなかったが、翌晩は烈しい風が吹き荒れた。夜半になって皆が疲れて睡ったところで、妻と枕を並べて寝ていたは、うなされて眼が開いたので、妻の方を見るともう妻の姿が見えない。驚いて起きあがったが、戸締も宵のままになっているに係わらず、どこへ往ったのか見えない。戸外へ出て探そうにも、家の前はすぐ深山になっていて不用意には探せない。朝になるのを待ちかねて探したが、手がかりになる物も見当らなかった。
は最愛の妻を失った事であるから大いに怒り悲しんで、
「女を得なければ帰らない」
と心に誓い、朝廷の方へは病気という事にして兵を留め、日々付近の山谷の間を探し歩いた。そして月を越えたところで、妻の履いていた韈を一つ拾った。それは駐屯地から支那の里程で百里ばかり往った処であった。はそこで三十人の精兵を選んで、糧食を余分に用意してまた深山に分け入ったが、十日の後に二百里外の土地へ往った。
そこには南方に当って半天に鑚り立った高山があった。その山の麓には谷川が滔々と流れていた。の一行は巌角を伝い、樹の根に縋って、山の中へ入ったが、往っているうちに、女の笑い戯れる声がした。は恠みながらその声をしるべにしてあがって往くと、大きな洞門があって、その前の花の咲き乱れた木の下で、数十人の美女が蝶の舞うように歌い戯れていた。の一行が往くと女らは別に驚きもせず、
「何しにここへ来た」
と言った。がその訳を話すと、
「その婦ならここに来て三月になるが、今は病に罹って寝ている」
と言って、を誘うて中へ入った。
病床にいた妻はの顔を一眼見ると、手を振って、
「ここへ来ては危険だ、早く出て往け」
と言った。を誘うてきた美女達は、
「妾らも君の妻と同じく、鬼神のために奪われてきたもので、久しい者は十年にもなる、この鬼神は能く人を殺すが、百人の者が剣を持って一斉にかかっても勝つことができない、今は他行中であるから帰らないうちに早く往くがよい、もし鬼神を斃そうと思えば、美酒一斛、犬十頭、麻数十斤を用意してくるがよい、そして、重ねてくる時は、午後にくるがよい、それも、今日から十日という事にして約束しよう」
と言った。
は悦んで山をおり、その約束の日を違えないように、一切の物を用意して鬼神の棲家へ往った。美女の一人はそれを見て戸外へ出てきて、
「鬼神は酒を好み、酔うと、五色の練絹を以て手足を床に縛らし、一度に躍りあがると、絹は皆切れる、もし、その絹を三幅合せて縛ると切れない、今、絹の中に麻を入れて縄にして縛ると、どんな事があっても切れる事がない、そして、鬼神の体は鉄のように固いが、ただ臍の下五六寸の処を、彼が常に覆いかくすのを見ると、そこから刃が通るらしい」
と言い、また傍の巨巌を指して、
「これは鬼神の食物を斂める処である、酒を花の下に置き、犬をそこここの樹下に繋いでから、時刻のくるまでここに隠れているがよい」
と教えた。
はその言葉に従い、酒を置き、犬を繋いで巌の陰に隠れて待っていると、申の刻になって白練団のような者がどこからともなく飛んできて、洞門の中へ入った。そして、暫くすると鬚のある綺麗な男が白絹の衣服を著、片手に杖を曳き、美女達を伴れて出てきたが、犬を見つけると、片っ端から躍りかかって引裂いて旨そうに喫った。犬を喫ってしまうと、美女達は花の下に置いてある酒を取りあげて我さきにと勧めた。男は歓んでそれを飲んでいたが、六七升ばかりも飲むと非常に酔ってきた。美女達はその手を取って洞の中へ入ったが、歓び笑う声が一頻り聞えてきた。は巌の陰で合図のあるのを待っていた。と、美女の一人が出てきて、
「早く早く」
と言って招いた。は軍士を率いて洞の中へ突進した。四足を床に縛られた大きな白猿が、敵と見て起きあがろうとしたが、練絹の中に麻縄があるので、引切る事ができないで、眼を電光のように怒らして悶掻いた。の軍士は競いかかって刀を当てたが、巌鉄のようで刃が通らない。そこでは美女の言った事を思いだしてその臍下を刺した。鬼神は、
「これは天が我を滅したものだ、汝らの力の及ぶところでない」
と言い、また、
「汝が妻は既に姙んでいるから、その子を殺さないで置け、必ず賢王に遇うて家を起す」
と言い畢って死んだ。
はそこで軍士に命じて、鬼神の掠奪してきた財宝を収め、美女の数を検べてみると美女は三十人いた。美女達は鬼神の事を細ごまと話して、
「鬼神に奪われてきた女の中で、色の衰えた者は、いつの間にかいなくなった、鬼神は毎朝、手を洗い、帽子を被り、白い衣の上にやはり白い羅の衣被を著て、古文字のような物を書いた木簡を読んだ、読み終るとそれを石の下に置いて、今度は剣を舞わして身を躍らしたが、恰も電光のようであった、食物は定まった物はなく、平生は果実を喫っていたが、犬を非常に悪んで、それを見ると一滴の血も滴さないように喫った、午の時を過ぎて他山へ飛び往き、晩になって帰ってきたが、欲しいと思った物は得ないということはなかった、女達に対しては言葉つきも丁寧であった、この鬼神は既に一千年の寿命がきて、死期の近い事を予期していた」
と言った。は財宝と美女を将て山をおりたが、美女達はそれぞれその夫を探して帰らした。
翌年になっての妻は小供を生んだが、その形は猿に似ていた。後、梁が滅んで陳の朝になると、陳の武帝がを攻殺した。の従者の江総という者が、その小供を隠匿して養育したが、至って敏捷活発で、鬼神の言ったとおり、後に文字を識り、書を著わして家名を揚げたのであった。
底本:「中国の怪談(一)」河出文庫、河出書房新社
1987(昭和62)年5月6日初版発行
底本の親本:「支那怪談全集」桃源社
1970(昭和45)年11月30日発行
入力:Hiroshi_O
校正:小林繁雄、門田裕志
2003年9月17日作成
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