新吉しんきちがおさくを迎えたのは、新吉が二十五、お作が二十の時、今からちょうど四年前の冬であった。
 十四の時豪商の立志伝や何かで、少年の過敏な頭脳あたま刺戟しげきされ、東京へ飛び出してから十一年間、新川しんかわの酒問屋で、傍目わきめもふらず滅茶苦茶めっちゃくちゃに働いた。表町おもてちょうで小さいいえを借りて、酒に醤油しょうゆまきに炭、塩などの新店を出した時も、飯ひまが惜しいくらい、クルクルと働き詰めでいた。始終たすきがけの足袋跣たびはだしのままで、店頭みせさきに腰かけて、モクモクと気忙きぜわしそうに飯をッ込んでいた。
 新吉はちょっといい縹致きりょうである。面長おもながの色白で、鼻筋の通った、口元の優しい男である。ビジネスカットとかいうのに刈り込んで、えりの深い毛糸のシャツを着て、前垂まえだれがけで立ち働いている姿にすら、どことなく品があった。雪の深い水の清い山国育ちということが、皮膚の色沢いろつやすぐれて美しいのでも解る。
 お作を周旋したのは、同じ酒屋仲間の和泉屋いずみやという男であった。
内儀かみさんを一人世話しましょう。いいのがありますぜ。」と和泉屋は、新吉の店がどうか成り立ちそうだという目論見もくろみのついた時分に口を切った。
 新吉はすぐには話に乗らなかった。
「まだ海のものとも山のものとも知れねいんだからね。これなら大丈夫屋台骨が張って行けるという見越しがつかんことにゃ、あっしア不安心で、とてもかかあなど持つ気になれやしない。嚊アを持ちゃ、子供が生れるものと覚悟せんけアなんねえしね。」とそのさびしい顔に、不安らしいみを浮べた。
 けれども新吉は、その必要は感じていた。注文取りに歩いている時でも、洗湯せんとうへ行っている間でも、小僧ばかりでは片時も安心が出来なかった。帳合いや、三度三度の飯も、自分の手と頭とを使わなければならなかった。新吉は、内儀かみさんをもらうと貰わないとの経済上の得失などを、深く綿密に考えていた。一々算盤珠そろばんだまはじいて、口が一つえればどう、二年って子供が一人うまれればどうなるということまで、出来るだけ詳しく積って見た。一年の店の利益、貯金の額、利子なども最少額に見積って、間違いのないところを、ほぼ見極みきわめをつけて、幾年目にどれだけの資本もとが出来るという勘定をすることぐらい、新吉にとって興味のある仕事はなかった。
 三月ばかり、内儀さんの問題で、頭脳あたまを悩ましていたが、やっぱり貰わずにはいられなかった。
 お作はそのころ本郷西片町ほんごうにしかたまちの、ある官吏の屋敷に奉公していた。
 産れは八王子のずっと手前の、ある小さい町で、叔父おじ伝通院でんずういん前にかなりな鰹節屋かつぶしやを出していた。新吉は、ある日わざわざ汽車で乗り出して女のうま在所ざいしょへ身元調べに行った。

 お作のうちは、その町のかなり大きな荒物屋であった。なべおけ、瀬戸物、シャボン、塵紙ちりがみ草履ぞうりといった物をコテコテとならべて、老舗しにせと見えて、くろずんだ太い柱がツルツルと光っていた。
 新吉はすぐ近所の、怪しげな暗い飲食店へ飛び込んで、チビチビと酒をみながら、女をとらえて、荒物屋の身上しんしょう、家族の人柄、土地の風評などを、抜け目なくただした。女は油くさい島田の首を突き出しては、しゃくをしていたが、知っているだけのことは話してくれた。田地が少しばかりに、小さい物置同様の、倉のあることも話した。兄が百姓をしていて、おととが土地で養子に行っていることも話した。養蚕時ようさんどきには養蚕もするし、そっちこっちへ金の時貸しなどをしていることもしゃべった。
 新吉自身の家柄との権衡けんこうから言えば、あまりドッとした縁辺えんぺんでもなかった。新吉のうちは、今はすっかり零落しているけれど、村では筋目正しいいえの一ツであった。新吉は七、八歳までは、おぼッちゃんで育った。親戚しんせきにも家柄のうちがたくさんある。物はくしても、家の格はさまで低くなかった。
 けれど、新吉はそんなことにはあまり頓着とんちゃくもしなかった。自分の今の分際では、それで十分だと考えた。
 そのことを、同じ村から出ている友達に相談してから、新吉はようやくはなしを進めた。見合いは近間の寄席よせですることにした。新吉はその友達と一緒に、和泉屋に連れられて、不断着のままでヒョコヒョコと出かけた。お作は薄ッぺらな小紋縮緬こもんちりめんのような白ッぽい羽織のうえに、ショールを着て、叔父と田舎いなかから出ている兄との真中に、少し顔をはすにして坐っていた。叔父は毛むくじゃらのような顔をして、古い二重廻しを着ていた。兄はひしなりのような顔の口の大きい男で、これも綿ネルのシャツなど着て、土くさい様子をしていた。横向きであったので、新吉は女の顔をよく見得なかった。色の白い、丸ぽちゃだということだけは解った。お作は人の肩越しに、ちょいちょい新吉の方へ目を忍ばせていたが、新吉は胸がワクワクして、頭脳あたまが酔ったようになっていた。
 寄席を出るとき、新吉は出てゆくお作の姿をチラリと見た。お作も振りかえって、正面から男の立ち姿を二、三度熟視した。お作は小柄の女で、歩く様子などは、坐っているよりもいくらかいいように思われた。
 そこを出ると、和泉屋は不恰好ぶかっこうな長い二重廻しのそでをヒラヒラさせて、一足ひとあし先にお作の仲間と一緒に帰った。
「どうだい、どんな女だい。」と新吉はそっと友達に訊いた。
 何だか頭脳あたまがボッとしていた。叔父や兄貴の百姓百姓した風体ふうていが、何となく気にかかった。でもいやでたまらぬというほどでもなかった。

 明日あすは朝早く、小僧を注文取りに出して、自分は店頭みせさきでせっせとたるすすいでいると、まだ日影の薄ら寒い街を、せかせかとこっちへやって来る男がある。柳原ものの、薄ッぺらな、例の二重廻しを着込んだ和泉屋である。
 和泉屋は、羅紗ラシャこわそうな中折帽を脱ぐと、軽く挨拶あいさつして、そのまま店頭みせさきへ腰かけ、気忙しそうに帯から莨入たばこいれを抜いて莨を吸い出した。
 「君の評判は大したもんですぜ。」と和泉屋は突如だしぬけ高声たかごえしゃべり出した。「先方さきじゃもうすっかり気に入っちゃって、何が何でも一緒にしたいと言うんです。」
冷評ひやかしちゃいけませんよ。」と新吉はやっぱりザクザクやっている。気が気でないような心持もした。
「いやまったくですよ。」と和泉屋はり身になって、「それで話は早い方がいいからッってんで、今日にでも日取りを決めてくれろと言うんですがね、どうです、女も決して悪いて方じゃないでしょう。」と和泉屋は、それから女の身上持ちのいいこと、気立ての優しいことなどをベラベラと説き立てた。星廻りや相性のことなども弁じて、ひとりで呑み込んでいた。支度したくはもとよりあろうはずはないけれど、それでもよかれしかれ、箪笥たんすの一さおぐらいは持って来るだろう。夜具も一組は持ち込むだろう。とにかく貰って見給え、同じ働くにも、どんなに張合いがあって面白いか。あの女なら請け合って桝新ますしんのおかまを興しますと、小汚こぎたな歯齦はぐきあわめて説き勧めた。
 新吉は帳場格子の前のところに腰かけて、何やらもの足りなそうな顔をしていていたが、「じゃ貰おうかね。」と首をかしげながら低声こごえに言った。
「だが、来て見て、びっくりするだろうな。何ぼ何でも、まさかこんな乱暴なうちだとは思うまい。けど、まあいいや、君に任しておくとしましょう。逃げ出されたら逃げ出された時のことだ。」
「そんなもんじゃありませんよ。物はためし、まあ貰って御覧なさい。」
 和泉屋はほくほくもので帰って行った。
 それから七日ばかり経ったある晩、新吉のうちには、いろいろの人が多勢集まった。ぜんの朋輩が二人、小野という例の友達が一人――これはことに朝から詰めかけて、部屋の装飾かざりや、今夜の料理の指揮さしずなどしてくれた。障子を張り替えたり、どこからか安い懸け物を買って来てくれなどした。新吉の着るような斜子ななこの羽織と、何やらクタクタのはかまを借りて来てくれたのも小野である。小さい口銭コンミッションりなどして、小才のく、世話好きの男である。
 料理の見積りをこの男がしてくれた時、新吉は優しい顔をしかめた。
「どうも困るな、こんな取着とりつ身上しんしょうで、そんな贅沢ぜいたく真似まねなんかされちゃ……。何だか知んねえが、その引物ひきものとかいう物をそうじゃねえか。」

 小野は怒りもしない。愛嬌あいきょうのある丸顔にみをうかべて、「そうけちなことを言いなさんな。一生に一度じゃないか。こんな物を倹約したからって、何ほども違うものじゃありゃしない。第一見すぼらしくていけないよ。」
「でも君、あっしアまったくのところ酷工面ひどくめんして婚礼するんだからね。何も苦しい思いをして、虚栄みえを張る必要もなかろうじゃねいか。ね、小野君あっしアそういう主義なんだぜ。君らのように懐手ふところでしていい銭儲ぜにもうけの出来る人たア少し違うんだからね。」
理窟りくつは理窟さ。」と小野は笑顔えがおを放さず、
ほかの場合とちがうんだから、少しは世間体ていうことを考えなくちゃ……。いいじゃないか、後でミッチリ二人でかせげば。」
 新吉は黒い指頭ゆびさきに、臭い莨をつまんで、真鍮しんちゅう煙管きせるに詰めて、炭の粉をけた鉄瓶てつびんの下で火をけると、思案深い目容めつきをして、濃い煙をいていた。
 六畳の部屋には、もう総桐そうぎりの箪笥が一棹えられてある。新しい鏡台もその上に載せてあった。借りて来た火鉢ひばち黄縞きじま座蒲団ざぶとんなどが、あかい畳の上に積んであった。ちょうど昼飯を済ましたばかりのところで、耳の遠いやとい婆さんが台所でその後始末をしていた。
 新吉はまだ何やらクドクド言っていた。小野の見積り書きを手に取っては、独りで胸算用をしていた。ここへ店を出してから食う物も食わずに、少しずつ溜めた金がもう三、四十もある。それをこの際あらかたき出してしまわねばならぬというのは、新吉にとってちょっと苦痛であった。新吉はこうした大業な式を挙げるつもりはなかった。そっと輿入こしいれをして、そっと儀式を済ますはずであった。あながち金が惜しいばかりではない。一体が、目に立つように晴れ晴れしいことや、はなやかなことが、質素じみな新吉の性にわなかった。人の知らないところで働いて、人に見つからないところで金を溜めたいという風であった。どれだけ金を儲けて、どれだけ貯金がしてあるということを、人に気取られるのが、すでにいい心持ではなかった。独立心というような、個人主義というような、妙なかたよった一種の考えが、丁稚でっち奉公をしてからこのかた彼の頭脳あたまに強くみ込んでいた。小野の干渉は、彼にとっては、あまり心持よくなかった。と言って、この男がなくては、この場合、彼はほとんど手が出なかった。グズグズ言いながら、きっぱり反抗することも出来なかった。
 三時過ぎになると、彼は床屋に行って、それから湯に入った。帰って来ると、家はもう明りがいていた。
 新吉は、「アア。」と言って、長火鉢の前に坐った。小野は自分の花嫁でも来るような晴れ晴れしい顔をして、「どうだ新さん待ち遠しいだろう。茶でもれようか。」
莫迦ばか言いたまえ。」新吉は淋しい笑い方をした。

 するうち綺麗きれいみがき立てられた台ランプが二台、狭苦しい座敷にともされ、火鉢や座蒲団もきちんとならべられた。小さい島台や、銚子ちょうしさかずきなども、いつの間にか、浅い床に据えられた。台所から、料理が持ち込まれると、耳の遠い婆さんが、やがて一々叮寧ていねいに拭いたぜんの上に並べて、それから見事なえびはまぐりを盛った、竹の色の青々した引物のかごをも、ズラリと茶のへならべた。小野は新聞紙を引き裂いては、ほこりかぶらぬように、御馳走ごちそうの上に被せてあるいていた。新吉は気がそわそわして来た。切立ての銘撰めいせんの小袖を着込んで、目眩まぶしいような目容めつきで、あっちへ行って立ったり、こっちへ来て坐ったりしていた。
「サア、これでこっちの用意はすっかり出来あがった。何時なんどきおいでなすってもさしつかえないんだ。マア一服しよう。」と蜻蛉とんぼ眼顆めだまのように頭を光らせながら、小野は座敷の真中に坐った。
「イヤ御苦労御苦労。」と新吉もほかの二人と一緒にそばに坐って、頭を掻きながら、「あっしアどうも、こんなことにゃ一向慣れねえもんだからね……。」といいわけしていた。
「なあに、僕だって、何を知ってるもんか、でたらめさ。」と笑った。
「今夜はマア疲れ直しに大いに飲んでくれ給え。君が第一のお客様なんだからね。」
 新吉はこの晴れ晴れしい席に、親戚みよりの者と言っては、ただの一人もないのを、何だか頼りなくも思った。どうかこうかここまでぎつけて来た、長い年月としつきの苦労を思うと、迂廻うねりくねった小径こみちをいろいろに歩いて、広い大道へ出て来たようで、昨日きのうまでのことが、夢のように思われた。これからが責任が重いんだという感激もあった。明るい、神々しいような燈火ともしびが、風もないのに眼先にゆらいで、新吉の眼には涙が浮んで来た。花のような自分の新妻にいづまが、不思議の縁の糸に引かれて、天上からでも降りて来るような感じもあった。
「しかしもう来そうなものだね。」と小野はひざのうえで見ていた新聞紙から目を離して、「ひどく思わせぶりだな。」と生あくびをした。
「そうですね。」
「けど、まだ暮れたばかりですもの。」とほかの二人も目を見合わせて、伸び上って、店口をのぞいた。店は入口だけ残して、後は閉めきってある。小僧は火の気のない帳場格子のわきに坐って、懐手をしながら、コクリコクリ居睡いねむりをしていた。時計がちょうど七時を打った。
 小野と新吉とが、間もなく羽織袴を着けて坐り直した時分に、静かなよいの町をゴロゴロと腕車くるまの響きが、遠くから聞え出した。
「ソラ来た!」
 小野は新吉と顔を見合ってち上った。他の両人ふたりも新吉も何ということなし起ち上った。
 新開の暗い街を、のろいて来る腕車くるまの音は、何となく物々しかった。
 四人は店口に肩をならべ合って、暗い外を見透みすかしていた。向うの塩煎餅屋しおせんべいやの軒明りが、暗い広い街の片側に淋しい光を投げていた。

 新吉が胸をワクワクさせている間に、五台の腕車が、店先で梶棒かじぼうおろした。真先に飛び降りたのは、足の先ばかり白い和泉屋であった。続いて降りたのが、丸髷頭まるまげあたまの短い首を据えて、何やら淡色うすいろの紋附を着た和泉屋の内儀かみさんであった。三番目に見栄みばえのしない小躯こがらのお作が、ひょッこりと降りると、その後から、叔父の連合いだという四十ばかりの女が、黒い吾妻あずまコートを着て、「ハイ、御苦労さま。」と軽い東京弁で、若いしゅに声かけながら降りた。兄貴は黒い鍔広つばびろの中折帽をかぶって、殿しんがりをしていた。
 和泉屋は小野と二人で、一同を席へ就かせた。
 気爽きさくらしい叔母はちょッと垢脱あかぬけのした女であった。まゆの薄い目尻めじりの下った、ボチャボチャした色白の顔で、愛嬌のある口元から金歯の光がれていた。
「ハイ、これは初めまして……わたくしはこれの叔父の家内でございまして、実はこれのお袋があいにく二、三日加減が悪いとか申しまして、それで今日は私が出ましたようなわけで、どうかまあ何分よろしく……。このたびはまた不束ふつつかな者を差し上げまして……。」とだらだらと叔母が口誼こうぎを述べると、続いて兄もキュウクツ張った調子で挨拶を済ました。
 後はしばらくしんとして、あおたばこの煙が、人々の目の前を漂うた。正面の右に坐った新吉は、テラテラした頭に血の気の美しい顔、目のうちにも優しいうるみをもって、腕組みしたまま、堅くなっていた。お作は薄化粧した顔をボッとあかくして、うつむいていた。坐った膝も詰り、肩や胸のあたりもスッとした方ではなかった。結立ての島田や櫛笄くしこうがいも、ひしゃげたような頭には何だか、持って来て載せたようにも見えた。でも、取り澄ました気振りは少しも見えず、折々表情のない目をげて、どこを見るともなくみつめると、目眩まぶしそうにまた伏せていた。
 和泉屋と小野は、袴をシュッシュッ言わせながら、狭い座敷を出たり入ったりしていたが、するうち銚子や盃が運ばれて、手軽な三々九度の儀式が済むと、赤い盃が二側ふたかわに居並んだ人々の手へ順々に廻された。
「おめでとう。」という声と一緒に、多勢が一斉にお辞儀をし合った。
 新吉とお作の顔は、一様にほてって、目が美しく輝いていた。

 盃が一順廻った時分に、小野がどこからか引っ張って来た若い謡謳うたうたいが、末座に坐って、いきなり突拍子な大声を張り揚げて、高砂たかさごを謳い出した。同時にお作が次の間へ着換えに起って、人々の前には膳が運ばれ、陽気な笑い声や、話し声が一時に入り乱れて、猪口ちょくが盛んにそちこちへ飛んだ。
「サア、お役は済んだ。これから飲むんだ。」和泉屋が言い出した。
 新吉も席を離れて、「あっしのとこもまだほん取着とっつ身上しんしょうで、御馳走と言っちゃ何もありませんが、酒だけアたくさんありますから、どうかマア御ゆっくり。」
「イヤなかなか御丁重な御馳走で……。」と兄貴は大きいてのひらに猪口を載せて、莫迦叮寧なお辞儀をして、新吉に差した。「わたしは田舎者で、何にも知らねえもんでござえますが、何分どうぞよろしく。」
「イヤあっしこそ。」と新吉は押しいただいて、「なんしろまだ世帯を持ったばかりでして……それに私アこっちには親戚みよりと言っては一人もねえもんですから、これでなかなか心細いです。マア一つ皆さんのお心添えで、一人前の商人になるまでは、真黒になって稼ぐつもりです。」
「とんでもないこって……。」と兄貴は返盃へんぱいを両手に受け取って、「こちとらと違えまして、伎倆はたらきがおありなさるから……。」
「オイ新さん、そう銭儲ぜにもうけの話ばかりしていねえで、ちょっとおりよ。」と小野は向う側から高調子で声かけた。
 新吉はばつが悪そうに振りいて、淋しい顔にみを浮べた。「笑談じょうだんじゃねえ。明日から頭数が一人殖えるんだ。うっかりしちゃいらんねえ。」と低声こごえで言った。
「イヤ、世帯持ちはその心がけが肝腎です。」と和泉屋は、叔母とシミジミ何やら、はなしていたが、この時口をれた。「ここの家へ来た嫁さんは何しろしあわせですよ。男ッぷりはよし、伎倆はたらきはあるしね。」
「そうでございますとも。」と叔母は楊枝ようじで金歯をせせりながら、愛想笑いをした。
「これでお内儀さんを可愛がれア申し分なしだ。」と誰やらがぜッかえした。
 銚子が後から後からと運ばれた。話し声がいよいよ高調子になって、狭い座敷には、酒の香とたばこの煙とが、一杯に漂うた。
「花嫁さんはどうしたどうした。」と誰やらが不平そうにわめいた。
 和泉屋が次の間へ行って見た。お作は何やら糸織りの小袖に着換えて、派手な花簪はなかんざしし、長火鉢の前に、灯影ひかげそむいて、うつむいたままぽつねんと坐っていた。
「サアお作さん、あすこへ出てお酌しなけアいけない。」
 お作は顔をあからめ、締りのない口元にしわを寄せて笑った。

 小野が少し食べ酔って管をいたくらいで、九時過ぎに一同無事に引き揚げた。叔母と兄貴とは、紛擾ごたごたのなかで、長たらしく挨拶していたが、出る時兄貴の足はふらついていた。新吉側の友人は、ひとしきり飲み直してからいとまを告げた。
「アア、人の婚礼でああ騒ぐやつの気が知れねえ。」というように、新吉はいの退いた蒼い顔をしてグッタリと床に就いた。
 明朝あした目を覚ますと、お作はもう起きていた。枕頭まくらもとには綺麗に火入れの灰をならした莨盆と、折り目のくずれぬ新聞が置いてあった。暁からやや雨が降ったと見えて、軽い雨滴あまだれの音が、眠りをむさぼった頭に心持よく聞えた。豆屋の鈴の音も湿り気を含んでいた。
 何だか今朝から不時な荷物を背負わされたような心持もするが、店を持った時も同じ不安のあったことを思うと、ただ先が少し暗いばかりで、暗い中にも光明はあった。床を離れて茶の間へ出ようとすると、ひょっこりお作と出会った。お作は瓦斯糸織ガスいとおりの不断着に赤いたすきをかけて、顔は下手につけた白粉おしろいまだらづくっていた。
「オヤ。」と言って赤い顔をうつむいてしまったが、新吉はにっこりともしないで、そのまま店へ出た。店には近所の貧乏町から女の子供が一人、赤子をおぶった四十ばかりのしなびたおやじが一人、炭や味噌みそを買いに来ていた。
 新吉は小僧と一緒に、打って変った愛想のよい顔をして元気よくあきないをした。
 朝飯の時、初めてお作の顔を熟視することが出来た。狭い食卓に、昨夜ゆうべの残りの御馳走などをならべて、差し向いではしを取ったが、お作は折々目をあげて新吉の顔を見た。新吉も飯を盛る横顔をじっとみつめた。寸法の詰った丸味のある、鼻の小さい顔で額も迫っていた。指節ゆびふしの短い手に何やら石入りの指環ゆびわめていた。飯が済むと、新吉は急に気忙しそうな様子で、二、三服莨を吸っていたが、やがて台所口で飯を食っている傭い婆さんに大声で口を利き出した。
「婆さん、この間から話しておいたようなわけなんだから、あっしのところはもういいよ。婆さんの都合で、暇を取るのはいつでもかまわねえから……。」
 婆さんは味噌汁のわんを下に置くと、「ハイハイ。」と二度ばかりうなずいた。
「でも今日はまあ、何や彼や後片づけもございますし、あなたもおいでになった早々から水弄みずいじりも何でしょうからね……。」とお作に笑顔を向けた。
おれンとこアそんなこと言ってる身分じゃねえ。今日からでも働いてもらわなけれアなんねえ。」と新吉は愛想もなく言った。
「ハアどうぞ!」とお作は低声こごえで言った。
「オイ増蔵ますぞう、何をぼんやり見ているんだ。サッサと飯を食っちまいねえ。」と新吉はプイと起った。

 午前のうち、新吉は二、三度外へ出てはせかせかと帰って来た。小僧と同じように塩や、木端こっぱを得意先へ配って歩いた。岡持おかもちを肩へかけて、少しばかりの醤油しょうゆや酒をも持ち廻った。店がきそうになると、「ちょッしようがないな。」と舌打ちして奥を見込み、「オイ、店が空くから出ていてくんな。」とお作に声をかけた。お作は顔や頭髪あたまを気にしながら、きまり悪そうに帳場のところへ来て坐った。
 新吉は昨夜ゆうべ来たばかりの花嫁をとらえて、醤油や酒のよしし、値段などを教え始めた。
「この辺は貧乏人が多いんだから、みんな細かい商いばかりだ。お客は七、八分労働者なんだから、酒の小売りが一番多いのさ。店頭みせさきへ来て、桝飲ますのみをきめ込むてあいも、日に二人や三人はあるんだから、そういう奴が飛び込んだら、ここの呑口のみぐちをこうひねって、桝ごと突き出してやるんさ。彼奴やつつまみ塩か何かで、グイグイ引っかけてかア。うちは新店だから、帳面のほか貸しは一切しねえというめなんだ。」とそれから売揚げのつけ方なども、一ト通り口早に教えた。お作はただニヤニヤと笑っていた。解ったのか、解らぬのか、新吉はもどかしく思った。で、ろくすっぽう、莨も吸わず、岡持をかつぎ出して、また出て行ってしまう。
 晩方少し手隙てすきになってから、新吉は質素じみな晴れ着を着て、古い鳥打帽を被り、店をお作と小僧とにあずけて、和泉屋へ行くと言ってうちを出た。
 お作は後でほっとしていた。優しい顔に似合わず、気象はなかなかはげしいように思われた。無口なようで、何でも彼でもさらけ出すところが、男らしいようにも思われた。昨夜ゆうべの羽織や袴を畳んで箪笥にしまい込もうとした時、「其奴そいつは小野が、余所よそから借りて来てくれたんだから……。」と低声こごえに言って風呂敷を出して、自分で叮寧に包んだ、虚栄みえも人前もない様子が、何となく頼もしいような気もした。初めての自分には、胸がドキリとするほど荒いことばをかけることもあるが、心持は空竹からたけを割ったような男だとも思った。この店も二、三年の中には、グッと手広くするつもりだから……と、昨夜寝てから話したことなどもおもい出された。自分のうちの一ツも建てたり、千や二千の金の出来るまでは、目をつぶって辛抱してくれろと言ったことばを考え出すと、お作はただ思いがけないような切ないような気がした。この五、六日の不安と動揺とが、だるい体と一緒にとろけ合って、嬉しいような、はかないような思いが、胸一杯に漂うていた。
 お作は机にひじを突いて、うっとりと広い新開の町をながめた。うすい冬の日は折々曇って、寂しい影が一体にわたっていた。かじかんだような人の姿が夢のように、往来ゆききしている。お作の目はうるんでいた。まだはっきりした印象もない新吉の顔が、なんかしらぼんやりした輪のような物の中から見えるようであった。

 幸福な月日は、滑るように過ぎ去った。新吉は結婚後一層家業に精が出た。その働きぶりには以前に比して、いくらか用意とか思慮とかいう余裕ゆとりが出来て来た。小僧を使うこと、仕入や得意を作ることも巧みになった。体を動かすことが、比較的少くなった代りに、多く頭脳あたまを使うような傾きもあった。
 けれど、お作は何の役にも立たなかった。気立てが優しいのと、起居たちいがしとやかなのと、物質上の欲望が少いのと、ただそれだけがこの女の長所とりえだということが、いよいよ明らかになって来た。新吉が出てしまうと、お作は良人おっとにいいつかったことのほか、何の気働きも機転も利かすことが出来なかった。酒の割法わりかたが間違ったり、高い醤油したじを安く売ることなどはめずらしくなかった。帳面の調べや、得意先の様子なども、一向に呑み込めなかった。呑み込もうとする気合いも見えなかった。
 そんなことがいくたびも重なると、新吉はぷりぷりして怒った。
此奴こいつはよっぽど間抜けだな。商人の内儀かみさんが、そんなこッてどうするんだ。三度三度の飯をどこへ食ってやがんだ。」
 優しい新吉の口からこういう言葉が出るようになった。
 お作は赤い顔をして、ただニヤニヤと笑っている。
「ちょッ、しようがねえな。」と新吉はれったそうに、顔中を曇らせる。「おらア飛んだ者を背負い込んじゃったい。全体和泉屋も和泉屋じゃねえか。友達がいに、少しは何とか目口の明いた女房を世話しるがいいや。媒人口なこうどぐちばかり利きあがって……これじゃ人の足元を見て、押附おっつけものをしたようなもんだ。」とブツブツこぼしている。
 お作は、泣面べそかきそうな顔をして、術なげにうつむいてしまう。
明日あしたから引っ込んでるがいい。店へなんぞ出られると、かえって家業の邪魔になる。奥でおん襤褸ぼろでもつづくッてる方がまだしもましだ。このくらいのことが勤まらねえようじゃ、どこへ行ったって勤まりそうなわけがない。それでよくお屋敷の奉公が勤まったもんだ。」
 ののしる新吉の舌には、毒と熱とがあった。
 お作の目からはポロポロと熱い涙が零れた。
「私は莫迦ですから……。」とおどおどする。
 新吉は急に黙ってしまう。そうしてフカフカと莨をふかす。筋張ったような顔が蒼くなって、目が酔漢よっぱらいのように据わっている。口を利く張合いも抜けてしまうのだが、胸の中はやっぱり煮えている。
 こう黙られると、お作の心はますますおどおどする。
「これから精々気をつけますから……。」とふるえ声でびるのであるが、そのことばには自信も決心もなかった。ただ恐怖があるばかりであった。

 こんなことのあった後では、お作はきっと奥の六畳の箪笥の前に坐り込んで、針仕事を始める。半日でも一日でも、新吉が口を利けば、例の目尻や口元に小皺こじわを寄せた。人のよさそうな笑顔を向けながら、素直に受答えをするほか、自分からはんだ柿がつぶれたとも言い出せなかった。
 これまで親の膝下ひざもとにいた時も、三年の間西片町のある官吏の屋敷に奉公していた時も、ただ自分の出来るだけのことを正直に、真面目にと勤めていればそれでよかった。親からは女らしい娘だとめられ、主人からは気立てのよい、素直な女だと言って可愛がられた。この家へ片づくことになって、暇を貰う時も、お前ならばきっと亭主を粗末にしないだろう。世帯持ちもよかろう。亭主に思われるに決まっていると、旦那様だんなさまから分に過ぎた御祝儀を頂いた。夫人おくさまからも半襟はんえりかんざしなどを頂いて、門の外まで見送られたくらいであった。新吉に頭から誹謗けなされると、お作の心はドマドマして、何が何だかさっぱり解らなくなって来る。ただ威張って見せるのであろうとも思われる。わざとやかましく言っておどかして見るのだろうという気もする。あれくらいなことは、今日は失敗しくじっても、二度三度と慣れて来れば造作なく出来そうにも思える。どちらにしても、あの人の気の短いのと、怒りっぽいのは婆やが出てゆく時、そっと注意しておいてくれたのでも解っている――と、お作はこういう心持で、深く気にも留めなかった。怒られる時は、どうなるのかとはらはらして、胸が一杯になって来るが、それもその時きりで、不安の雲はあっても、自分を悲観するほどではなかった。
 それでも針の手を休めながら、折々溜息ためいきくことなぞある。独り長火鉢の横に坐って、する仕事のない静かな昼間なぞは、自然ひとりでに涙の零れることもあった。いっそうちへ帰って、もとの屋敷へ奉公した方が気楽だなぞと考えることもあった。その時分から、お作はよく鏡に向った。四下あたりに人の影が見えぬと、そっと鏡のおおいを取って、自分の姿を映して見た。髪を直して、顔へ水白粉なぞ塗って、しばらくそこにうっとりしていた。そうして昨日のように思う婚礼当時のことや、それから半年余りの楽しかった夢を繰り返していた。自分の姿や、陽気な華やかなその晩の光景も、ありあり目に浮んで来る。――今ではそうした影も漂うていない。憶い出すと泣き出したいほど情なくなって来る。
 店で帳合いをしていた新吉が、不意に「アア。」と溜息を吐いて、これもつまらなさそうな顔をして奥をのぞきに来る。お作は赤い顔をして、急いで鏡に被いをしてしまう。
「オイ、茶でもれないか。」と新吉はむずかしい顔をして、後へ引き返す。
 長火鉢の傍で一緒になると、二人は妙に黙り込んでしまう。長火鉢には火が消えて、鉄瓶が冷たくなっている。

 お作は妙におどついて、にわかに台所から消し炭を持って来て、星のような炭団たどんの火を拾いあげては、折々新吉の顔色をうかがっていた。
れったいな。」新吉は優しい舌鼓したうちをして、火箸を引ったくるように取ると、自分でフウフウ言いながら、火を起し始めた。
「一日何をしているんだな。お前なぞ飼っておくより、猫の子飼っておく方が、どのくらい気が利いてるか知れやしねえ。」と戯談じょうだんのように言う。
 お作は相変らずニヤニヤと笑って、じっと火の起るのをみつめている。
 新吉はほてった顔を両手ででて、「お前なんざ、真実ほんとうに苦労というものをして見ねえんだから駄目だ。おれなんざ、なんしろ十四の時から新川へ奉公して、十一年間苦役こきつかわれて来たんだ。食い物もろくに食わずに、土間に立詰めだ。指頭ゆびさき千断ちぎれるような寒中、炭をかされる時なんざ、真実ほんとに泣いっちまうぜ。」
 お作は皮膚のゆるんだ口元にしわを寄せて、ニヤリと笑う。
「これから楽すれやいいじゃありませんか。」
戯談じょうだんじゃねえ。」新吉は吐き出すように言う。「これからが苦労なんだ。今まではただ体をいごかせるばかりで辛抱さえしていれア、それでよかったんだが、自分で一軒の店を張って行くことになって見るてえと、そうは行かねえ。気苦労が大したもんだ。」
「その代り楽しみもあるでしょう。」
「どういう楽しみがあるね。」と新吉は目を丸くした。
「楽しみてえところへは、まだまだ行かねえ。そこまで漕ぎつけるのが大抵のことじゃありゃしねえ。それには内儀さんもしっかりしていてくれなけアならねえ。……それア己はやる。きっとやって見せる。ころんでもただは起きねえ。けど、お前はどうだ。お前は三度三度無駄飯を食って、毎日毎日モゾクサしてるばかしじゃねえか。だからおれは働くにも張合いがねえ。厭になっちまう。」と新吉はウンザリした顔をする。
「でもお金が残るわ。」
当然あたりまえじゃねえか。」新吉は嬉しそうなみを目元に見せたが、じきにこわいような顔をする。お作が始末屋というよりは、金を使う気働きすらないということは、新吉には一つの気休めであった。お作には、ここを切り詰めて、ここをどうしようという所思おもわくもないが、その代りびた一文自分の意志で使おうという気も起らぬ。ここへ来てから新吉の勝手元は少しずつ豊かになって来た。手廻りの道具もえた。新吉がどこからか格安に買って来た手箪笥や鼠入ねずみいらずがツヤツヤ光って、着物もまず一と通りそろった。保険もつければ、別に毎月の貯金もして来た。お作はただの一度も、自分の料簡りょうけんで買物をしたことがない。新吉は三度三度のおかずまでほとんど自分で見繕みつくろった。お作はただのろい機械のように引き廻されていた。

 得意場廻りをして来た小僧の一人が、ぶらりと帰って来たかと思うと、岡持をそこへほうり出して、「旦那。」と奥へ声をかけた。
「××さんじゃ酒の小言が出ましたよ。あんな水ッぽいんじゃいけないから、今度少し吟味しろッって……。今持って行くんです。」
「吟味しろッて。」新吉は顔をしかめて、「水ッぽいわけはねえんだがな。誰がそう言った。」
「旦那がそう言ったですよ。」
「そういうわけは決してございませんッって。もっとも少し辛くしろッてッたから、そのつもりで辛口にしたんだが……。」と新吉は店へ飛び出して、下駄を突っかけて土間へ降りると、何やらブツクサ言っていた。
 店ではゴボゴボという音が聞える。しばらくすると、小僧はまた出て行った。
「ろくな酒も飲まねえ癖に文句ばっかり言ってやがる。」と独言ひとりごとを言って、新吉はもとの座へ帰って来た。得意先の所思おもわくを気にする様子が不安そうな目の色に見えた。
 お作は番茶をれて、それから湿しとった塩煎餅しおせんべいを猫板の上へ出した。新吉は何やら考え込みながら、無意識にボリボリ食い始めた。お作も弱そうな歯で、ポツポツかじっていた。三月の末で、外は大分春めいて来た。裏の納屋なやの蔭にある桜が、チラホラ白いはなびらほころばせて、暖かい日に柔かい光があった。外は人の往来ゆききも、どこかざわついて聞える。新吉は何だか長閑のどかなような心持もした。こうして坐っていると、妙に心に空虚が出来たようにも思われた。長い間の疲労が一時に出て来たせいもあろう。いくらか物を考える心の余裕ゆとりがついて来たのも、一つの原因であろう。
 お作はなんかの話のついでに、「……花の咲く時分に、一度二人で田舎へ行きましょうか。」と言い出した。
 新吉は黙ってお作の顔を見た。
「別に見るところといっちゃありゃしませんけれど、それでも田舎はよござんすよ。蓮華れんげ蒲公英たんぽぽが咲いて……野良のらのポカポカする時分の摘み草なんか、真実ほんとに面白うござんすよ。」
「気楽言ってらア。」と新吉は淋しく笑った。「お前の田舎へ行くもいいが、それよか自分の田舎へだって、義理としても一度は行かなけアなんねえ。」
「どうしてまた、七年も八年もお帰んなさらないんでしょう。随分だわ。」お作は塩煎餅の、くいついた歯齦はぐきを見せながら笑った。
「そんな金がどこにあるんだ。」新吉は苦い顔をする。「一度行けア一月や二月のもうけはフイになっちまう。久しぶりじゃ、まさか手ぶらで帰られもしねえ。うまれ故郷となれア、トンビの一枚も引っ張って行かなけアなんねえし。……第一店をどうする気だ。」
 お作は急にしょげてしまう。
「こっちやそれどころじゃねえんだ。真実ほんとうだ。」
 新吉はガブリと茶を飲み干すと、急に立ち上った。

 桜のしげみに毛虫がつく時分に、お作はバッタリ月経つきのものを見なくなった。お作は冷え性の女であった。くちびるの色も悪く、はだ綺麗きれいではなかった。歯性も弱かった。菊がすがれるころになると、新吉にわらわれながら、すそ安火あんかを入れて寝た。これという病気もしないが時々食べたものが消化こなれずに、上げて来ることなぞもあった。空風からかぜの寒い日などは、血色の悪い総毛立ったような顔をして、火鉢に縮かまっていた。少しはげしい水仕事をすると、小さい手がじきに荒れて、み手をすると、カサカサ音がするくらいであった。新吉は、晩に寝るとき、滋養に濃い酒を猪口ちょくに一杯ずつ飲ませなどした。伝通院前に、灸点きゅうてんの上手があると聞いたので、それをも試みさした。
「今からそんなこってどうするんだ。まるで婆さんのようだ。」と新吉は笑いつけた。
 お作はもうしわけのないような顔をして、そのたびごとに元気らしく働いて見せた。
 こうした弱い体で、妊娠したというのは、ちょっと不思議のようであった。
うそつけ。体がどうかしているんだ。」と新吉は信じなかった。
「いいえ。」とお作は赤い顔をして、「大分さきからどうも変だと思ったんです。占って見たらそうなんです。」
 新吉は不安らしい目色めつきで、妻の顔を見込んだ。
「どうしたんでしょう、こんな弱い体で……。」といった目色めつきで、お作もきまり悪そうに、新吉の顔を見上げた。
 それから二人の間に、コナコナした湿しめやかな話が始まった。新吉は長い間、絶えず悪口あっこうを浴びせかけて来たことが、今さら気の毒なように思われた。てんで自分の妻という考えを持つことの出来なかったのを悔いるような心も出て来た。ついこの四、五日前に、長湯をしたと言って怒ったのがもとで、アクザモクザののしった果てに、何か厄介者やっかいものでも養っていたようにくやしがって、出て行け、今出て行けと呶鳴どなったことなども、我ながら浅ましく思われた。
 それに、妊娠でもしたとなると、何だか気があらたまるような気もする。多少の不安や、厭な感じは伴いながら、自分の生活を一層確実にする時期へ入って来たような心持もあった。
 お作はもう、お産の時の心配など始めた。初着うぶぎ襁褓むつきのことまで言い出した。
「私は体が弱いから、きっとお産が重いだろうと思って……。」お作は嬉しいような、心元ないような目をショボショボさせて、男の顔を眺めた。新吉はいじらしいような気がした。
 お作は十二時を聞いて、急に針を針さしに刺した。めずらしく顔に光沢つやが出て、目のうちにも美しい湿うるおいをもっていた。新吉はうっとりした目容めいろで、その顔をながめていた。

 お作は婚礼当時と変らぬ初々ういういしさと、男に甘えるような様子を見せて、そこらに散った布屑きれくずや糸屑を拾う。新吉もそばで読んでいた講談物を閉じて、「サアこうしちアいられねえ。」とき立てられるような調子で、懈怠けだるそうな身節みぶしがミリミリ言うほど伸びをする。
「もう親父おやじになるのかな。」とその腕をこすっている。
「早いものですね、まるで夢のようね。」とお作もうっとりした目をして、びるように言う。「私のような者でも、子が出来ると思うと不思議ね。」
 二人はそれから婚礼前後の心持などを憶い出して、つまらぬことをも意味ありそうに話し出した。こうした仲のむつまじい時、よく双方の親兄弟のうわさなどが出る。親戚みうちの話や、自分らのちいさい折の話なども出た。
「お産の時、阿母おっかさんは田舎へ来ていろと言うんですけれど、家にいたっていいでしょう。」
 時計が一時を打つと、お作は想い出したように、急いで床を延べる。新吉に寝衣ねまきを着せて床の中へ入れてから、自分はまたひとしきり、脱棄ぬぎすてを畳んだり、火鉢の火を消したりしていた。
 二、三日はこういう風の交情なかが続く。新吉はフイと側へ寄って、お作のほおに熱いキスをすることなどもある。ふと思いついて、近所の寄席よせへ連れ出すこともあった。
 が、そうした後では、じきに暴風あらしが来る。思いがけないことから、不意と新吉の心の平衡が破れて来る。
「……少し甘やかしておけア、もうこれだ。」と新吉は昼間火鉢の前で、お作がフラフラと居眠りをしかけているのを見つけると、その鼻の先でしゃくらしく舌打ちをして、ついと後へ引き返してゆく。
 お作はハッと思って、胸を騒がすのであるが、こうなるともう手の着けようがない。お作の知恵ではどうすることも出来なくなる。よくよく気が合わぬのだと思って、心のうちで泣くよりほかなかった。新吉の仕向けは、まるでうらかえしたようになって、顔を見るのも胸糞むねくそが悪そうであった。
 秋の末になると、お作は田舎の実家さとへ引き取られることになった。そのころは人並みはずれて小さい腹も大分目に立つようになった。伝通院前の叔母が来て、例の気爽きさくな調子で新吉に話をつけた。
 夫婦間の感情は、糸がもつれたように紛糾こぐらかっていた。お作はもう飽かれて棄てられるような気もした。新吉はお作がこのまま帰って来ないような気がした。お作はとにかくにみんな意嚮いこうがそうであるらしく思われた。
 新吉は小使いを少し持たして、滋養の葡萄酒ぶどうしゅなどをかばんすみへ入れてやった。
「そのうちには己も行くさ。」
真実ほんとうに来て下さいよ。」お作は出遅れをしながら、いくたびも念を推した。

 お作が行ってから、新吉は物を取り落したような心持であった。家が急に寂しくなって、三度三度の膳に向う時、妙にそこに坐っているお作の姿が思い出される。お作を毒づいたことや、誹謗へこなしたことなどを考えて、いたましいようにも思った。何かの癖に、「手前てめえのような能なしを飼っておくより、猫の子を飼っておく方が、はるかにましだ。」とか、「さっさと出て行ってくれ、そうすれば己も晴々せいせいする。」とか言って呶鳴った時の、自分の荒れた感情が浅ましくも思われた。けれど、わざわざお作を見舞ってやる気にもなれなかった。お作から筆の廻らぬ手紙で、東京が恋しいとか、田舎は寂しいとか、体の工合が悪いから来てくれとか言って来るたんびに、舌鼓したうちをして、手紙を丸めて、ほうり出した。お袋に兄貴、従妹いとこ、と多勢一緒にった写真を送って来た時、新吉は、「何奴どいつ此奴こいつ百姓面ひゃくしょうづらしてやがらア。厭になっちまう。」と吐き出すように言って、二タ目とは見なかった。
 そのころ小野が結婚して、京橋の岡崎町に間借りをして、小綺麗な生活くらしをしていた。女は伊勢いせうまれとばかりで、素性すじょうが解らなかった。お作よりか、三つも四つも年を喰っていたが様子は若々しかった。
「君の内儀かみさんは一体何だね。」と新吉は初めてこの女を見てから、小野がたずねて来た時不思議そうに訊いた。
「君の目にゃ何と見える。」小野はニヤニヤ笑いながら、悪こすそうな目容めつきをした。
「解んねえな。どうせ素人しろうとじゃあるめえ。莫迦ばかに意気な風だぜ、と言って、芸者にしちゃどこか渋皮のけねえところもあるし……。」
「そんな代物しろものじゃねえ。」と小野は目をそらして笑った。
 小野は相変らず綺麗な姿なりをしていた。何やらボトボトした新織りの小袖に、コックリした茶博多ちゃはかたの帯を締めて、純金の指環など光らせていた。持物も取り替え引き替え、気取った物を持っていた。このごろどこそこに、こういう金時計の出物があるから買わないかとか、格安な莨入れの渋い奴があるから取っておけとか、よくそういう話を新吉に持ち込んでくる。
あっしなんぞは、そんなものを持って来たって駄目さ。気楽な隠居の身分にでもなったら願いましょうよ。」と言って新吉は相手にならなかった。
「だが君はいいね。そうやって年中常綺羅じょうきらでもって、それに内儀さんは綺麗だし……。」と新吉はやにッぽい煙管きせるをむやみに火鉢の縁でたたいて、「あっしなんざ惨めなもんだ。まったく失敗しちゃった。」とそれからお作のことをこぼし始める。
「その後どうしてるんだい。」と小野はジロリと新吉の顔を見た。
「どうしたか、おらさっぱり行って見もしねえ。これっきり来ねえけれア、なおいいと思っている。
「子供が出来れアそうも行くまい。」

「どんな餓鬼がきが出来るか。」と新吉は忌々いまいましそうにつぶやいた。
 小野は黙って新吉の顔を見ていたが、「だが、見合いなんてものは、まったく当てにはならないよ。新さんの前だが、あれは少し買い被ったね。婚礼の晩に、初めてお作さんの顔を見て、僕はオヤオヤと思ったくらいだ。」
「まったくだ。」新吉は淋しく笑った。「どうせ縹致きりょうなんぞに望みのあるわけアねえんだがね。……その点は我慢するとしても、彼奴やつには気働きというものがちっともありゃしねえ。客が来ても、ろくすっぽう挨拶することも知んねえけれア、近所隣の交際つきあい一つ出来やしねえんだからね。俺アとんだ貧乏籤びんぼうくじを引いちゃったのさ。」と新吉は溜息をいた。
「ともかく、もっと考えるんだったね。」と小野も気の毒そうに言う。「だがしかたがねえ、もう一年も二年も一緒にいたんだし、今さら別れると言ったって、君はいいとしても、お作さんが可哀そうだ。」
「だが、彼奴やつもつまんねえだろうと思う。三日に挙げず喧嘩けんかして、毒づかれて、打撲はりとばされてさ。……おら頭から人間並みの待遇あつかいはしねえんだからね。」と新吉は空笑そらわらいをした。
其奴そいつア悪いや。」と小野も気のない笑い方をする。
「今度マアどうなるか。」と新吉は考え込むように、「彼奴やつおれの気の荒いにはブルブルしてるんだから、お袋や兄貴に話をして、子供でも産んでしまったら、離縁話でも持ちあがるか、どうせこのままで収まりッこはありゃしない。どうでも勝手にするがいいや。」と自分で笑いつけた。モヤモヤする胸のうちが、抑えきれぬという風も見えた。
「そうでもねえんさ。」と小野は自分でうなずいて、「女は案外我慢強いもんさ。こっちからん出そうたって、出て行くものじゃありゃしねえ。」
「どうして、そうでねえ。」新吉は目眩まぶしそうな目をパチつかせた。「君にゃよくしてるし、客にも愛想はいいし、己ンとこの山の神に比べると雲泥うんでいの相違だ。」
 二人顔を合わすと、いつでもこうした噂が始まる。小野はいかにも暢気のんきらしく、得意そうであった。小野が帰ってしまうと、新吉はいつでも気の脱けた顔をして、つまらなそうに考え込んでいる。何や彼や思い詰めると、あくせく働く甲斐かいがないようにも思われた。
 せわしい十二月が来た。新吉の体と頭脳あたまはもうそんな問題を考えているひまもなくなった。働けばまた働くのが面白くなって、一日の終りには言うべからざる満足があって、枕に就くと、去年から見て今年の景気のいいことや、得意場の殖えたことを考えて楽しい夢を結んだ。この上不足を言うところがないようにも思われた。
「少し手隙てすきになったら、一度お作を訪ねて、奴にもよろこばしてやろう。」などと考えた。

 ある朝新吉が、帳場で帳面を調べていると、店先へ淡色うすいろ吾妻あずまコートを着た銀杏返いちょうがえしの女が一人、腕車くるまでやって来た。それが小野の内儀さんのお国であった。
 お国は下町風の扮装つくりをしていた。物のよくないお召の小袖に、桔梗ききょうがかった色気の羽織を着て、意気な下駄をはいていた。女は小作りで、すずしいながら目容めつきは少し変だが、色の白い、ふッくらとした愛嬌あいきょうのある顔である。
「御免下さい。」と蓮葉はすはのような、無邪気なような声で言って、スッと入って来た。そこに腰かけて、得意先の帳面を繰っていた小僧は、周章あわてて片隅へけた。新吉は筆を耳にはさんだまま、軽く挨拶した。
「新さん、マア大変なことが出来ちゃったんです。」女は菓子折の包みをそこに置くと、ショールをって、コートの前をはずした。頬が寒い風にって来たので紅味あかみを差して、湿うるみを持った目が美しく輝いた。が、どことなく恐怖を帯びている。唇の色もうすく、ほつれ毛もそそけていた。
「どうしたんです。」新吉は不安らしくその顔をみつめたが、じきに視線をそらして、「マアお上んなさい。こんな汚いところで、坐るところもありゃしません。それにかかはいませんし、ずっと、男世帯で、気味が悪いですけれど、マア奥へお通んなさい。」
「いいえ、どう致しまして……。」女はにっこり笑って、そっちこっち店を見廻した。
真実ほんとうに景気のよさそうな店ですこと。心持のいいほど品物が入っているわ。」
「いいえ、場所が場所だから、てんでお話になりゃしません。」
 新吉は奥へ行って、蒲団を長火鉢の前へ敷きなどして、「サアどうぞ……。」と声かけた。
「おせわしいところ、どうも済みませんね。」とお国はコートを脱いで、奥へ通ると、「どうもしばらく……。」とあらたまって、お辞儀をして、ジロジロ四下あたりを見廻した。
「随分きちんとしていますわね。それに何から何までそろって、小野なんざとてもかなやしません。」と包みの中から菓子を出して、片隅へ推しやると、低声こごえで何やら言っていた。
 新吉は困ったような顔をして、「そうですかい。」と頭を掻きながら、お辞儀をした。
「商人も店の一つも持つようでなくちゃ駄目ね。堅い商売してるほど確かなことはありゃしないんですからね。」
 新吉は微温ぬるい茶をんで出しながら、「あたしなんざ駄目です。小野君のように、体に楽をしていて金をける伎倆はたらきはねえんだから。」
「でもメキメキ仕揚げるじゃありませんか。前に伺った時と店の様子がすっかり変ったわ。小野なんざアヤフヤで駄目です。」と言って、女は落胆がっかりしたように口をつぐんだ。顔の紅味がいつかいてあおくなっていた。

 お国はしばらくすると、きまり悪そうに、昨日の朝、小野が拘引されたという、不意の出来事を話し出した。その前の晩に、夫婦で不動の縁日に行って、あちこち歩いて、買物をしたり、蕎麦そばを食べたりして、疲れて遅く帰って来たことから、翌日あしたはやく、寝込みに踏み込まれて、ろくろく顔を洗う間もなく引っ張られて行った始末を詳しく話した。小野はむっくり起き上ると、「拘引されるような覚えはない。行けば解るだろう。」と着物を着替えて、紙入れや時計など持って、刑事にいて出た。
「なあに何かの間違いだろう。すぐ帰って来るから心配するなよ。」とオロオロするお国をたしなめるように言ったが、出る時は何だか厭な顔色をしていた。それきり何の音沙汰おとさたもない。昨夜ゆうべは一ト晩中寝ないで待ったが、今朝になっても帰されて来ぬところを見ると、今日もどうやらあやしい。何か悪いことでもして未決へでもち込まれているのではなかろうか。刑事の口吻くちぶりでは、オイそれと言って出て来られそうな様子も見えなかったが……。
「一体どうしたんでしょう。」とお国は、新吉の顔に不安らしい目をえた。
「サア……。」と言って新吉は口も利かず考え込んだ。
 お国の目は一層深い不安の色を帯びて来た。「小野という男は、どういう人間なんでしょうか。」
「どんなって、つまりあれッきりの人間だがね……。」とまた考え込む。
「すると何かの間違いでしょうか。間違いなら嫌疑けんぎとか何とかそう言って連れて行きそうなもんじゃありませんかね。」とお国はれ馴れしげに火鉢に頬杖ほおづえをついた。
「解んねえな。」と新吉も溜息をいた。「だが、今日は帰って来ますよ。心配することはねえ。」
「でも、あの人の田舎の裁判所から、こっちへ言って来たんだそうですよ。刑事がそう言っていましたもの。」とお国は一層深く傷口にさわるような調子で、附け加えた。
「だから、私何だか変だと思うの。田舎で何か悪いことをしてるんじゃないかと思って。」と猜疑深うたぐりぶかい目を見据えた。
「田舎のことアあっしにゃ解んねえが、マアどっちにしても、今日は何とか様子が解るだろう。」
 新吉の頭脳あたまには、小野がこのごろの生活くらし贅沢ぜいたくなことがじきに浮んで来た。きっとあぶないことをしていたに違いないということも頷かれた。「だから言わねえこッちゃない。」と独りでそう思った。
 お国は十二時ごろまで話し込んでいた。話のうちに新吉は二度も三度も店へった。お国は新吉の知らない、小野の生活向くらしむきのコマコマした秘密話などして、しきりに小野の挙動や、金儲けの手段が疑わしいというような口吻こうふんらしていた。

 小野の拘引事件は思ったより面倒であった。拘引された日に警視庁からただちに田舎の裁判所へ送られた。詳しい事情は解らなかったが、田舎のある商人との取引き上、何か約束手形から生じた間違いだということだけが知れた。期限の切れた手形の日附を書き直して利用したとかいうのであった。訴えた方も狡猾こうかつだったが、小野のやり方もずるかった。小野からは内儀さんのところへ二、三度手紙が来た。新吉へもよこした。お国には東京に力となる親戚しんせきもないから、万事お世話を願う。青天白日の身になったあかつき、きっと恩返しをするからという意味の依頼もあった。弁護士を頼むについて、金が欲しいというようなことも言って来た。暮の二十日過ぎに、お国は新吉と相談して、方々借り集めたり、着物を質に入れなどして、少しまとまった金を送ってやった。
 お国と新吉とはほとんど毎日のように顔を合わすようになった。新吉の方から出向かない日は、大抵お国が表町へやって来る。話はいつでも未決にいる小野のことや、裁判の噂で持ちきっている。もし二年も三年も入れられるようだったら、どうしたものだろうという、相談なども持ちかける。
「いろいろ人にいて見ますと、ちょっと重いそうですよ。二年くらいはどうしても入るだろうというんですがね。二年も入っていられたんじゃ、入っている者よりか、残された私がたまらないわ。向うは官費だけれど、こっちはそうは行かない。それにもう指環やくしのような、少し目ぼしいものは大概金にして送ってやってしまったし……。」とお国はこぼしはじめる。
 新吉は、「何、あっしだって小野君の人物は知ってるから、まさかあなた一人くらい日干しにするようなことはしやしない。どうかなるさ。」と言っていたが、これという目論見もくろみも立たなかった。
 押しつまるにつれて店はだんだんせわしくなって来た。かどにはもう軒並み竹が立てられて、ざわざわと風に鳴っていた。殺風景な新開の町にも、年の瀬の波は押し寄せて、逆上のぼせたような新吉の目の色がかわっていた。お国はいつの間にか、この二、三日入浸りになっていた。奥のことは一切取り仕切って、永い間の手練てなれの世帯向きのように気が利いた。新吉の目から見ると、することが少し蓮葉はすはで、派手のように思われた。けれど働きぶりがき活きしている。ほうき一ツ持っても、心持いいほど綺麗に掃いてくれる。始終薄暗かったランプがいつも皎々こうこうと明るくともされて、長火鉢も鼠不入ねずみいらずも、テラテラ光っている。不器用なお作がこしらえてくれた三度三度のゴツゴツした煮つけや、薄い汁物つゆものは、小器用なお国の手で拵えられた東京風のおかずと代って、膳の上にはうまい新香しんこを欠かしたことがなかった。押入れを開けて見ても、台所へ出て見ても、かゆいところへ手が届くように、整理が行き届いている。

 新吉は何だかむず痒いような気がした。どこか気味悪いようにも思った。
「そんなにキチキチされちゃかえって困るな。」と顔をしかめて言う。「商売が商売だから、どうせそう綺麗事に行きゃしない。」
「でも心持が悪いじゃありませんか。」と、お国は遠慮して手を着けなかったお作の針函はりばこ行李こうりや、ほどきものなどを始末しながら、古い足袋たび、腰巻きなどを引っ張り出していた。「何だか埃々ごみごみしてるじゃありませんか、お正月が来るってのに、これじゃしようがないわ。私はまた、自分の損得にかかわらず、見るとうっちゃっておけないという性分だから……。もういつからかここが気にかかってしようがなかったの。」といろいろな雑物ぞうものを一束にしてキチンと行李にしまい込んだ。
 新吉は苦い顔をして引っ込む。
 こういうような仕事が二日も三日も続いた。お国はちょいちょい外へ買物にも出た。〆飾しめかざりや根松を買って来たり、神棚かみだなに供えるコマコマした器などを買って来てくれた。帳場の側に八寸ばかりの紅白の鏡餅かがみもちを据えて、それに鎌倉蝦魚かまくらえびや、御幣を飾ってくれたのもお国である。喰積くいつみとかいうような物も一ト通り拵えてくれた。晦日みそかの晩には、店頭みせさきに積み上げた菰冠こもかぶりに弓張ゆみはりともされて、幽暗ほのぐらい新開の町も、この界隈かいわいばかりは明るかった。奥は奥で、神棚の燈明がハタハタ風にゆらめいて、小さい輪飾りの根松の緑に、もう新しい年の影が見えた。
 お国は近所の髪結に髪を結わして、小紋の羽織など引っかけて、晴れ晴れした顔で、長火鉢の前に坐っていた。
 九時過ぎに、店の方はほぼかたがついた。新吉は小僧二人に年越しのものや、蕎麦そば饗応ふるもうてから、代り番こに湯と床屋にやった。店も奥もようやくひっそりとして来た。油の乏しくなった燈明がジイジイいうかすかな音を立てて、部屋にはどこか寂しい影が添わって来た。くろずんだ柱や、火鉢の縁に冷たい光沢つやが見えた。底冷えの強い晩で、表を通る人の跫音あしおとが、硬く耳元に響く。
 新吉は火鉢の前に胡坐あぐらをかいて、うつむいて何やら考え込んでいた。まだほんの来たてのお作と一所に越した去年の今夜のことなど想い出された。
「何をぼんやり考えているんです。」とお国は銚子ちょうし銅壺どうこから引き揚げて、きまり悪そうな手容てつきで新吉の前に差し出した。
 新吉は、「何、あっしや勝手にやるで……。」とその銚子を受け取ろうとする。
「いいじゃありませんか。酒のおしゃくくらい……。」お国は新吉にいでやると、「私もお年越しだから少し頂きましょう。」と自分にも注いだ。
 新吉は一杯飲み干すと、今度は手酌でやりながら、「どうもいろいろお世話さまでした。今年は私もお蔭で、何だか年越しらしいような気がするんで……。」

 お国は手酌で、もう二、三杯飲んだ。新吉は見て見ぬ振りをしていた。お国の目の縁が少し紅味をさして、猪口ちょくをなめる唇にも綺麗な湿うるおいを持って来た。睫毛まつげの長い目や、ぎわの綺麗な額のあたりが、うつむいていると、莫迦ばかによく見える。が、それを見ているうちにも新吉の胸には、冷たい考えが流れていた。この三、四日、何だか家中うちじゅう引っ掻き廻されているような、一種の不安が始終頭脳あたまに附きまとうていたが、今夜の女の酒の飲みッぷりなどを見ると、一層不快の念がきざして来た。どこの馬の骨だか……という侮蔑ぶべつや反抗心も起って来た。
 お国は平気で、「どうせ他人のすることですもの、お気には入らないでしょうけれど、私もこの暮は独りで、つまりませんよ。あの二階の部屋に、安火あんかに当ってクヨクヨしていたって始まらないから、気晴しにこうやってお手伝いしているんです。春が来たって、私は何の楽しみもありゃしない。」
「だが、そうやってあっしのとこで働いていたってしようがないね。私は誠に結構だけれど、あんたがつまらない。」と新吉はどこか突ッ放すような、恩にせるような調子で言った。
 お国はしょげたような顔をして黙ってしまった。そうして猪口を下において何やら考え込んだ。その顔を見ると、「新さんの心は私にはちゃんと見え透いている。」と言うようにも見えた。新吉も気が差したように黙ってしまった。
 しばらくしてから、女は銚子を持ちあげて見て、「お酒はもう召しあがりませんか。」と叮寧ていねいな口を利く。
「小野さんも、この春は酒が飲めねえで、弱っているだろう。」と新吉はふと言い出した。
 それから二人の間には、小野の風評うわさが始まった。お国はあの人と知っているのは、もう二、三年前からのことで、これまでにも随分いい加減なうそを聞かされた。そのころは自分もまだ一向うぶである若い書生肌の男と一緒に東京へ出て来た。うちは田舎で百姓をしている。その男が意気地いくじがなかったので、長い間苦労をさせられた。それから間もなく小野と懇意になった。会社員だという触込みであったが、ると聴くとは大違いで、一緒に世帯を持って見ると、いろいろの襤褸ぼろが見えて来た。金は時たま三十四十とつかんでは来るが、表面うわべに見せているほど、内面は気楽でなかった。才は働くし、弁口もあるし、附いていれば、まさかのめって死ぬようなこともあるまいけれど、何だか不安でならなかった。着物も着せてくれるし、芝居も見せてくれるが、それはその場きりで、前途さきの見越しがつかぬから、それだけで満足の出来よう道理がない……とお国はシンミリした調子で、柄にないジミな話をし始めた。
「私真実ほんとうにそう思うわ。明けるともう二十五になるんだから、これをしおに綺麗に別れてしまおうかと……。」
 新吉は黙っていた。聞いているうちに、何だか女というものの心持が、いくらか胸にみるようにも思われた。

 正月になってから、新吉は一度お作を田舎に訪ねた。
 町が寂れているので、ここは春らしい感じもしなかった。通りみちは、どこを見ても、皆窓の戸をして寝ているかと思ううちばかりで、北風に白くさらされた路のそこここに、てついたような子守こもりや子供の影が、ちらほら見えた。低い軒がどれもこれもよろけているようである。呉服屋の店には、色のめたような寄片よせぎれるから手薄に並べてある。埃深ほこりぶか唐物屋とうぶつやや古着屋の店なども、年々衰えてゆく町の哀れさを思わせている。ふといつか飛び込んだことのある小料理屋が目に入った。怪しげなそこの門を入って、庭から離房はなれめいた粗末な座敷へ通され、腐ったような刺身で、悪い酒を飲んで、お作一家の内状をさぐった時は、自分ながら莫迦莫迦しいほど真面目であった。新吉は外方そっぽうを向いて通り過ぎた。
 こういう町に育ったお作の身の上が、何だか哀れなように思われてならなかった。この寂れた淋しい町に、もう二月の以上も、大きい腹を抱えて、土臭い人たちと一緒にいることを思うと、それも可哀そうであった。ショボショボしたような目、カッ詰ったような顔、蒼白い皮膚の色、ザラザラするや足、それがもう目に着くようであった。何だか済まないような気もしたが、行って顔を見るのが厭なような心持もした。
 一里半ばかり、鼻のもげるような吹曝ふきさらしの寒い田圃道たんぼみちを、腕車くるまでノロノロやって来たので、梶棒かじぼうと一緒に店頭みせさきへ降されたとき、ちょっとは歩けないくらい足が硬張こわばっていた。
 車夫くるまやに賃銀を払っていると、「マア!」と言ってお作が障子の蔭から出て来た。新吉が新調のインバネスを着て、紺がかった色気の中折を目深まぶかに冠った横顔が、見違えるほど綺麗に見え、うつむいて蟇口がまぐちから銭を出している様子が、何だか一段も二段も人品が上ったように思えた。
「よく来られましたね。寒かったでしょう。」とお作は帽子やインバネスを脱がせて、先へ奥に入ると、
阿母おっかさん、うちでいらっしゃいましたよ。」と声をかけた。
 新吉が薄暗い茶のの火鉢の側に坐ると、寝ぼけたような顔をして、納戸のような次のから母親が出て来た。リュウマチが持病なので、寒くなると炬燵こたつにばかりもぐり込んでいると聞いたが、いつか見た時よりはふとっている。気のせいか蒼脹あおぶくれたようにも見える。目の性が悪いと見えて、縁があかく、ただ気味ぎみであった。
 母親は長々と挨拶をした。新吉が歳暮の砂糖袋と、年玉の手拭てぬぐいとを一緒に断わって出すと、それにも二、三度叮寧にお辞儀をした。
 しばらくすると、あによめも裏から上って来て、これも莫迦叮寧に挨拶した。兄貴はと訊くと、今日は隣村の弟の養家先へ行ったとかで、うちには男片おとこぎれが見えなかった。

 嫂というのも、どこかこの近在の人で、口が一向に無調法な女であった。額の抜け上った姿なり恰好かっこうもない、ひょろりとした体勢からだつきである。これまでにも二度ばかり見たが、顔の印象が残らなかった。さきもそうであったらしい。今日こそは一ツ、お作の自慢の婿さんの顔をよく見てやろう……といった風でジロジロと見ていた。お作はベッタリ新吉の側へくっついて坐って、相変らずニヤニヤと笑っていた。
「サア、ここは悒鬱むさくるしくていけません。お作や、奥へお連れ申して……何はなくとも、春初めだから、お酒を一口……。」
「イヤ、そうもしていられません。」と新吉は頭を掻いた。「留守が誠に不安心でね……。」
「いいじゃありませんか。」お作は自分の実家さとだけに、甘えたような、うわずったような調子で言う。
「サア、あちらへいらっしゃいよ。」
 新吉は奥へ通った。お作が母親や嫂に口を利くのを聞いていると、良人の新吉のことを、主人か何かのように言っている。嫂に対してはそれが一層激しい。「あまり御酒ごしゅは召しあがりませんのですから。」とか、「うち真実ほんとうにせかせかしたたちでいらっしゃるんですから……。」とかいう風で……が、嫂の耳には格別それが異様にも響かぬらしい。「ヘエ、さいですか。」と新吉の顔ばかり見ている。新吉はこそばゆいような気がした。
 しばらくすると、お作と二人きりになった。藁灰わらばいのフカフカした瀬戸物の火鉢に、炭をカンカン起して、ならんで当っていた。お作はいつの間にか、小紋の羽織に着替えていた。が東京にいた時より、顔がいくらか水々している。水ッぽいような目のうちにも一種の光があった。腹も思ったほど大きくもなかったが、それでも肩で息をしていた。気が重いのか、口の利き方も鈍かった。差し向いになると黙ってうつむいてしまうのであるが、折々びるような素振りをして、そっと男の顔を見上げていた。新吉は外方そっぽうを向いて、壁にかかった東郷大将の石版摺せきばんずりの硝子張ガラスばりの額など見ていた。床の鏡餅に、大きな串柿くしがきが載せてあって、花瓶かびんに梅がしてあった。
「今日はお泊りなすってもいいんでしょう。」お作は何かのついでに言い出した。
「イヤ、そうは行かねえ。日一杯に帰るつもりで来たんだから。」新吉は素気そっけもない言い方をする。
 しばらく経ってから、「このごろ、小野さんのお内儀かみさんが来ているんですって……。」
「ア、お国か、来ている。」と新吉はどういうものか大きく出た。
 お作はうつむいて灰をいじっていた。またしばらく経ってから、「あの方、ずっといるつもりなんですか。」
「サア、どういう気だか……彼女あれも何だか変な女だ。」新吉は投げ出すように言った。

「でも、ずるずるべったりにいられでもしたら困るでしょう。」お作は気の毒そうに、赤い顔をして言った。
 新吉は黙っている。
「今のうち、断わっちまうわけには行かないんですの。」
「そうもいかないさ。お国だって、さしあたり行くところがないんだからね。」と新吉は胡散うさんくさい目容めつきをして、「それにうちだって、まるきり女手がなくちゃやりきれやしない。人をやとうとなると、これまたちょっと億劫おっくうなんです。だからこっちも別に損の行く話じゃねえし……。」と独りでうなずいて見せた。
 お作は一層不安そうな顔をした。
「でもこの間、和泉屋さんが行った時、あの方が一人でうちを切り廻していたとか……何だかそんなようなお話を、小石川の叔父さんにしていたそうですよ。」とお作はおずおず言った。「それに、あなたは少しも来て下さらないし、気分でも少し悪いと、私何だか心細くなって……何だってこんなところへ引っ込んだろうと、つくづくそう思うわ。」
「お前の方で引き取ったのじゃないか。親兄弟の側で産ませれば、何につけ安心だからというんで、小石川の叔母さんが来て連れて行ったんだろう。」と新吉は邪慳じゃけんそうに言った。
「それはそうですけれど。」
「その時私がちゃんと小遣いまであてがって、それから何分お願い申しますと、叔母っ子に頼んだくらいじゃないか。」と新吉の語気は少し急になって来た。
おれはすることだけはちゃんとしているんだ。お前に不足を言われるところはねえつもりだ。小野なんぞのすること見ねえ、あの内儀さんと一緒になってから、もう大分になるけれど、今に人のうちの部屋借りなんぞしてる始末だ。いろいろ聞いて見ると随分内儀さんを困らしておくそうだ。そのあげくに今度の事件だろう。内儀さんは裸になってしまったよ。いるところもなけれア、喰うことも出来やしない。その癖あの内儀さんと来たら、なかなか伎倆はたらきもんなんだ。客の応対ぶりだって、立派なもんだし、うちもキチンキチンとする方だし……どうしてお前なんざ、とても脚下あしもとへも追っ着きゃしねえ。」
 お作は赤い顔をしてうつむいていた。
あっしなんざ、内儀さんにはよくする方なんだ。これで不足を言われちゃうまらないや。」
「不足を言うわけじゃないんですけれど……。」お作はあちらの部屋へ聞えでもするかと独りではらはらしていた。
真実ほんとに……。」と鼻頭はなさきで笑って、「和泉屋の野郎、よけいなことばかりしゃべりやがって、彼奴あいつあっしが何の厄介になった。干渉されるわれはねえ。」と新吉はブツブツ言っていた。
「そうじゃないんですけれどね……。」お作はドギマギして来た。

「マア一口……。」と言って、初手しょてに甘ッたるい屠蘇とそを飲まされた。それから黒塗りの膳が運ばれた。膳には仕出し屋から取ったらしい赤い刺身や椀や、いなの塩焼きなどがならべてあった。
「サア、お作や、お前お酌をしてあげておくれ。あいにくお相をする者がおりませんでね……。」
 お作は無器用な手容てつきで、大きな銚子から酒をいだ。新吉は刺身をペロペロと食って、けろりとしているかと思うと、思い出したように猪口を口へ持ってゆく。
阿母おっかさん、一つどうですな。」とやがて母親へ差した。
「さようでございますかね。それでは……。」と母親は似而非笑えせわらいをして、両手で猪口を受け取った。そうしてお作に少しばかり注がせて、じきに飲み干して返した。
「これも久しく東京へ出ていたせいでござりますか、大変に田舎を寂しがりまして……それに、だんだん産月うみづきも近づいて参りますと、気がふさぐと見えまして、もう自分で穴掘ってへえるようなことばかり言っておるでござります。」とそれからお作が亭主や家思うちおもいの、気立ての至って優しいものだということを説き出した。ぜんに奉公していたやしきで、ことのほか惜しまれたということ、ちいさい時分から、親や兄に、口答え一つしたことのない素直な性質だということも話した。生来うまれつき体が弱いから、お産が重くでもあったら、さぞこたえるであろうと思って、朝晩に気をつけて大事にしていること、牛乳を一合ずつ飲まして、血の補いをつけておることなども話した。産れる子の初着うぶぎなどを、お作に持って来さして、お産の経験などをくどくどと話した。
 新吉は「ハ、ハ。」と空返辞からへんじばかりしていたが、その時はもう酒が大分廻って来た。
「お店の方も、追い追い御繁昌ごはんじょうで、誠に結構でござります。」母親は話を変えた。
「お蔭でまアどうかこうか……。」と新吉は大概さかなを荒してしまって、今度はたばこい出した。そうして気忙しそうに時計を引き出して、「もう四時だ。」
「マア、あなたようござりましょう。春初めだからもっと御ゆっくりなすって……そのうちには兄も帰ってまいります。」と母親は銚子を替えに立った。
 二人とも黙ってうつむいてしまった。障子の日が、もう蔭ってしまって、部屋には夕気ゆうけづいたような幽暗ほのぐらい影が漂うていた。風も静まったと見えて、外はひっそとしていた。
「今日は、真実ほんとうにいいんでしょう。」お作はおずおず言い出した。
「商人がうちを明けてどうするもんか。」と新吉は冷たい酒をグッと一ト口に飲んだ。
 それからかれこれ一時間も引き留められたが、いとまを告げる時、お作は低声こごえで、「お産の時、きっと来て下さいよ。」と幾度も頼んだ。
 店頭みせさきへ送って出る時、目に涙が一杯溜っていた。

 腕車くるまがステーションへ着くころ、がそこここの森蔭から見えていた。前の濁醪屋どぶろくやでは、あったかそうな煮物のいいにおいが洩れて、濁声だみごえで談笑している労働者の影も見えた。寒い広場に、子守が四、五人集まって、哀れな調子のうたうたっているのを聞くと、自分が田舎で貧しく育った昔のことが想い出される。新吉はふと自分の影が寂しいように思って、「己の親戚みうちと言っちゃ、まアお作の家だけなんだから……。」と独り言を言っていた。
 汽車は間もなく出た。新吉は硬いクッションの上に縮かまって横になると、じきに目をつぶった。中野あたりまでとりとめもなくお作のことを考えていた。あまり可愛いと思ったこともないが、何だか深く胸に刻み込まれてしまったようにも思えた。そのうちに、ウトウトと眠ったかと思うと、東京へ入るに従って、客車が追い追い雑踏して来るのに気がついた。
 飯田町のステーションを出るころは、いがもうすっかりめていた。新吉は何かにそそのかされるような心持で、月のえた広い大道をフラフラと歩いて行った。
 店では二人の小僧が帳場で講釈本を読んでいた。黙って奥へ通ると、茶のには湯のたぎる音ばかりが耳に立って、その隅ッこの押入れの側で、蒲団を延べて、按摩あんまに腰をましながら、グッタリとお国が正体もなく眠っていた。後向きになった銀杏返いちょうがえしの首が、ダラリと枕から落ちそうになって、体が斜めに俯伏うつぶしになっていた。立ち働く時のキリリとしたお国とは思えぬくらいであった。貧相な男按摩は、薄気味の悪い白眼をき出して、折々の方をみつめていた。
 坐って鉄瓶を下す時の新吉の顔色は変っていた。煙管きせるを二、三度、火鉢の縁にたたきつけると、うとましそうに女の姿を見やって、スパスパと莨をった。するうちお国は目を覚ました。
「お帰りなさい。」と舌のだらけたような調子で声かけた。「少し御免なさいよ。あまり肩が凝ったもんですから……あなたもお疲れでしょう。後で揉んでおもらいなすってはどうです。」
 新吉は何とも言わなかった。
 しばらくすると、お国はだるそうに、うつむいたまま顔を半分こっちへ向けた。
「どうでした、お作さんは……。」
「イヤ、別に変りはないようです。」新吉は空を向いていた。
 お国はまだ何やら、寝ぼけ声で話しかけたが、後は呻吟うめくように細い声が聞えて、じきにウトウトと眠りにちてしまう。
 新吉は茶を二、三杯飲むと、ツト帳場へ出た。大きな帳面を拡げて、今日の附揚つけあげをしようとしたが、妙に気がイライラして、落ち着かなかった。おそろしい自堕落な女の本性が、初めて見えて来たようにも思われた。
「莫迦にしてやがる。もう明日からお断わりだ。」

 療治が済むと、お国は自分の財布から金をくれて按摩を返した。近所ではもうパタパタ戸がしまるころである。
 お国はいつまでも、ぽつねんと火鉢の前に坐っていたが、新吉も十一時過ぎまで帳場にへばり着いていた。
 寝支度に取りかかる時、二人はまた不快まずい顔を合わした。新吉はもう愛想がつきたという顔で、ろくろく口も利かず、蒲団のなかへもぐり込んだ。お国は洋燈ランプを降したり、火を消したり、茶道具を洗ったり、いつもの通り働いていたが、これも気のない顔をしていた。
 寝しなに、ランプの火で煙草をふかしながら、気がくさくさするような調子で、「アア、何だか厭になってしまった。」と溜息をいた。「もうどっちでもいいから、早く決まってくれればいい。裁判が決まらないうちは、どうすることも出来やしない。ね、新さん、どうしたんでしょうね。」
 新吉は寝た振りをして聴いていたが、この時ちょっと身動きをした。
「解んねえ。けど、まア入るものと決めておいて、自分の体の振り方をつけた方がよかないかね。あっしあそう思うがね。」と声が半分蒲団にこもっていた。「そうして出て来るのを待つんですね。」
「ですけど、私だって、そう気長に構えてもいられませんからね。」と寝衣姿ねまきすがたのまま自分の枕頭まくらもと蹲跪つくばって、煙管をポンポン敲いた。「あの人の体だって、出て来てからどうなるか解りゃしない。」
 新吉はもう黙っていた。
 翌日あした目を覚まして見ると、お国はまだ寝ていた。戸を開けて、顔を洗っているうちに、ようやく起きて出た。
 朝飯が済んでしまうと、お国は金盥かなだらいに湯を取って、顔や手を洗い、お作の鏡台を取り出して来て、お扮飾つくりをしはじめた。それが済むと、余所行よそゆきに着替えて、スッと店頭みせさきへ出て来た。
「私ちょいと出かけますから……。」と帳場の前にひざを突いて、どこへ行くとも言わず出てしまった。
 新吉はどこか気がかりのように思ったが、黙って出してやった。小僧連は、一様に軽蔑けいべつするような目容めつきで出て行く姿を見送った。
 お国は昼になっても、晩になっても帰らなかった。新吉は一日不快そうな顔をしていた。晩に一杯飲みながら、新吉は女のうわさをし始めた。
「どうせ彼奴あいつは帰って来る気遣いないんだから、明朝あしたからみんなかわり番こに飯をたくんだぞ。」
 小僧はてんでに女の悪口あっこうを言い出した。内儀さん気取りでいたとか、お客分のつもりでいるのが小面憎こづらにくいとか、あれはただの女じゃあるまいなどと言い出した。
 新吉はただ苦笑いしていた。

 二月の末――お作が流産をしたという報知しらせがあってからしばらく経って、新吉が見舞いに行った時には、お作はまだ蒼い顔をしていた。小鼻も目肉めじしも落ちて、髪もいくらか抜けていた。腰蒲団など当てて、足がまだよろつくようであった。
 胎児は綺麗な男の子であったとかいうことである。少し重い物――行李を棚からおろした時、手を伸ばしたのが悪かったか知らぬが、その中には別に重いというほどの物もなければ、棚がさほど高いというほどでもない。が何しろ身体が※(「兀のにょうの形+王」、第3水準1-47-62)ひよわいところへ、今年は別してかんじが強いのと、今一つはお作が苦労性で、いろいろの取越し苦労をしたり、今の身の上を心細がったり、表町のうちのことが気にかかったり、それやこれやで、あまりに神経を使い過ぎたせいだろう……というのがいいわけのような愚痴のような母親の言い分であった。
 お作は流産してから、じきに気が遠くなり、そこらが暗くなって、このまま死ぬのじゃないかと思った、その前後の心持を、母親の説明の間々へ、くちれて話した。そうしてもう暗いところへやってしまったその子が不憫ふびんでならぬと言って泣き出した。いくら何でも自分の血を分けた子だのに、顔を見に来てくれなかったのは、私はとにかく、死んだ子が可哀そうだとうらんだ。
 新吉も詳しい話を訊いてみると、何だか自分ながらおそろしいような気もした。そういう薄情なつもりではなかったが、言われて見ると自分の心はいかにも冷たかったと、つくづくそう思った。
あっしはまた、どうせ死んでるんだから、なまじい顔でも見ちゃ、かえっていい心持がしねえだろうから、見ない方がましだという考えで……それにあのころは、小野の公判があるんで、東京から是非もう一人弁護士を差し向けてほしいという、当人の希望のぞみだったもんだから、お国と二人で、そっちこっち奔走していたんで……友達の義理でどうもしかたがなかったんだ。」といいわけをした。
「それならせめて初七日にでもいらして下されば……。」とお作は目に涙を一杯溜めて怨んだ。「それにあなたは、お国さんのことと言うと、家のことはうっちゃっても……。」と口の中でブツブツ言った。
 これが新吉の耳には際立きわだって鋭く響く。むろんお国は今でもうちへ入り浸っている。一度二度喧嘩けんかしてい出したこともあるが、初めの時はこっちがなだめて連れて帰り、二度目の時は、女の方から黙って帰って来た。連れて来たその晩には、京橋で一緒に天麩羅屋てんぷらやへ入って、飯を食って、電車で帰った。表町の角まで来ると、自分は一町ほど先へ歩いて、明るい自分の店へ別々に入った。何の意味もなかったが、ただそうしなければ気が済まぬように思った。それからのお国は、以前よりは素直であった。自分も初めて女というものの、暖かいある物につつまれているように感じた。

 それから二、三日は、また仲をよく暮らすのであるが、後からじきに些細ささい葛藤かっとうが起きる。それでお国が出てゆくと、新吉は妙にその行く先などが気に引っかかって、一日腹立たしいような、胸苦しいような思いでいなければならぬのが、いかにも苦しかった。
「莫迦を言っちゃいけねえ。」新吉はわざと笑いつけた。「お国とおれとが、どうかしてるとでも思ってるんだろう。」
「いいえ、そういうわけじゃありませんけれどね、子供が死んでも来て下さらないところを見れば、あなたは私のことなんぞ、もう何とも思っていらっしゃらないんだわ。」
 新吉は横を向いて黙っていた。むろんお作の流産のことを想い出すと、病気に取り着かれるようであった。彼奴やつも可哀そうだ、一度は行って見てやらなければ……という気はあっても、さて踏み出して行く決心が出来なかった。明日あすは明日はと思いながら、つい延引のびのびになってしまった。頭脳あたまが三方四方へられているようで、この一月ばかりの新吉の胸の悩ましさというものは、口にもことばにも出せぬほどであった。その苦しい思いが、何でお作に解ろう。お作はとてもそういうことを打ち明ける相手ではないと、そう決めていた。
「それで、私が帰れば、お国さんは出てしまうんですの。」お作はおずおず訊いた。
 新吉は、口のうちで何やら曖昧あいまいなことを言っていた。
「義理だから、己から出て行けと言うわけにも行かないが、いずれお国にも考えがあるだろう……。それでお前はいつごろ帰って来られるね。」
「もう一週間も経てば、大概いいだろうと思うですがね……でも、お国さんがいては、私何だかいやだわ。阿母おっかさんもそう言うんですわ。小石川の叔母さんだけは、それならばなおのこと、速くなおって帰らなければいけないと言うんですけれど……。」
 新吉は、二人のなかが、もうそういう危機に迫っているのかと、胸がはらはらするようであった。
「どちらにしても、お前が速く癒ってくれなければ……。」と気休めを言っていたが、そうテキパキ事情の決まるのが、何だかいやなような気がした。
 新吉と別れてから、十日目にお作は嫂に連れられて、表町へ帰って来た。ちょうどそれが朝の十時ごろで、三月と言っても、まだ余寒のきびしい、七、八日ごろのことであった。腕車くるまが町の入口へ入って来ると、お作は何とはなし気が詰るような思いであった。町の様子は出て行った時そのままで、寂れた床屋の前を通る時には、そこの肥った禿頭はげあたまの親方が、細い目をみはって、自分の姿を物珍らしそうに眺めた。蕎麦屋そばやも荒物屋も、向うの塩煎餅屋しおせんべいや店頭みせさきに孫を膝に載せて坐っている耳の遠いじいさんの姿も、何となくなつかしかった。
 腕車くるまを降りると、お作はちょいと嫂を振りかえって躊躇ちゅうちょした。
「姉さん……。」と顔をあからめて、嫂から先へ入らせた。

 店には増蔵が一人いるきりで、新吉の姿が見えなかった。奥へ通ると、水口みずぐちの方で、蓮葉はすはなような口を利いている女の声がする。相手は魚屋の若い衆らしい。干物ひもののおいしいのを持って来て欲しいとか、この間のしゃけ不味まずかったとか、そういうようなことを言っている。お前さんとこの親方は威勢がいいばかりで、さかなは一向新しくないとか、刺身の作り方がまずくてしようがないとかいう小言もあった。
 お作は嫂と一緒に、お客にでも来たように、火鉢を一尺も離れて、キチンと坐って聞いていた。
「それじゃね、晩にお刺身を一人前……いいかえ。」と言って、お国は台所の棚へ何やらしまい込んでから、茶のへ入って来た。やわらかものの羽織を引っけて、丸髷まるまげに桃色の手絡てがらをかけていた。ぎわがクッキリしていて、お作も美しい女だと思った。
 お国は、キチンと手を膝に突いている二人の姿を見ると、
「オヤ。」とびっくりしたような風をして、
「何てえんでしょう、私ちっとも知りませんでしたよ。それでも、もうそんなにくおなんなすって。汽車に乗ってもいいんですか。」と火鉢の前に座を占めて、鉄瓶を持ちあげて、火を直した。
「え、もう……。」とお作は淋しい笑顔えがおを挙げて、「まだ十分というわけには行きませんけれど……。」と嫂の方を向いて、「姉さん、この方が小野さんのお内儀かみさん……。」
「さようでございますか。」と姉が挨拶しようとすると、お国はジロジロその様子を眺めて、少し横の方へ出て、洒々しゃあしゃあした風で挨拶した。そうして菓子を出したり、茶をいれたりした。
「あなたも流産なすったんですってね。私一度お見舞いに上ろうと思いながら……なんしろ手が足りないんでしょう。」
 お作は嫂と顔を見合わしてうつむいた。
「暮だって、お正月だって、私一人きりですもの。それに新さんと来たら、なかなかむずかしいんですからね……。マアこれでやっと安心です。人様の家を預かる気苦労というものはなかなか大抵じゃありませんね。」
真実ほんとうにね。」とお作は赤い顔をして、気の毒そうに言った。「どうも永々済みませんでした。」
 お作はしばらくすると、着物を着替えて、それから台所へ出た。お国は、取っておいたあじに、塩を少しばかりって、鉄灸てっきゅうで焼いてくれとか、漬物つけものは下の方から出してくれとか、火鉢の側から指図がましく声かけた。お作は勝手なれぬ、人の家にいるような心持で、ドギマギしながら、昼飯ひるの支度にかかった。 
 飯時分に新吉が帰って来た。新吉はお作の顔を見ると、「ホ……。」と言ったきりで、話をしかけるでもなかった。飯の時、お作はお国の次に坐って、わが家の飯を砂をむような思いで食った。

 それでも、嫂のいるうちは、いくらか話が持てた。そうして家がにぎやかであった。日の暮れ方になると、嫂は急に気を変えて、これから小石川へもちょっと寄らなければならぬからと言って、暇を告げようとした。お作は、にわかに寂しそうな顔をした。
 お作は嫂を台所へ呼び出して、水口の方へ連れて行って、何やら密談ないしょばなしをし始めた。
「お国さんは、まったく変ですよ。私何だか厭で厭で、しようがないわ。」と顔をしかめた。
真実ほんとうに勝手の強そうな、厭な女だね。」と嫂もしんから憎そうに言った。「でも、いつまでもいるわけじゃないでしょう。私でも帰ったら、あの人も帰るでしょう。かまわないから、テキパキきめつけてやるといい。」
「でも、うちはどういう気なんでしょう。」
「サア、新さんが柔和おとなしいからね。」と嫂も曖昧あいまいなことを言った。そうして溜息をいた。その顔を見ると、何だか望みが少なそうに見える。「お前さんは、よっぽどしっかりしなくちゃ駄目だよ。」と言っているようにも見えるし、「あの女にゃ、どうせかなやしない。」と失望しているようにも見える。
 三、四十分、顔を突き合わしていたが、別にどうという話もまとまらない。いずれその内にはお国が帰るだろうからとか、新さんだってまさか、あの人をどうしようという気でもあるまいから、しばらく辛抱おしなさいとか、そのくらいであった。
 お作は嫂の口から、そのことをよく新吉に話してくれということを頼んだ。
「姉さんから、うちの人の料簡りょうけんを訊いて見て下さいよ。」と言った。
「それはお作さんから訊く方がいいわ。私がそれを訊くと、何だか物にかどが立って、かえってまずかないかね。」
「そうね。」とお作は困ったような顔をする。
 台所から出て来た時、お国は店にいた。新吉も店にいた。お作と嫂の茶のへ入って来る気勢けはいがすると一緒に、お国も茶の室へ入って来た。それをきっかけに、嫂が、「どうもお邪魔を致しました……。」と暇を告げる。
「オヤ、もうお帰り。マアいいじゃありませんか。」お国は空々しいような言い方をした。
 嫂を送り出して、奥へ入って来ると、まだあかりかぬ部屋には夕方の色が漂うていた。お作は台所の入口の柱にりかかって、何を思うともなく、物思いに沈んでいた。裏手の貧乏長屋で、力のない赤子のき声が聞えて、乳が乏しくて、脾弛ひだるいようなれた声である。四下あたりはひっそとして、他に何の音も響きも聞えない。お作はくなった子供の声を聞くように感ぜられて、何とも言えぬ悲しい思いが胸に迫って来た。冷たい土の底に、まだ死にきれずに泣いているような気もした。冷たい涙がポロポロと頬に伝わった。
 お作は水口へ出て、しばらく泣いていた。

 部屋へ入って来ると、お国がせッせとそこいらを掃き出していた。「ぼんやりした内儀さんだね。」と言いそうな顔をしている。
「あの、ランプは。」とお作がランプを出しに行こうとすると、「よござんすよ。あなたは御病人だから。」と大きな声で言って、ごみを掃き出してしまい、ほうきを台所の壁のところへかけて、座蒲団を火鉢の前へ敷いた。「サア、お坐んなさい。」
 お作はランプを点けてから背が低いので、それをお国にかけてもらって、「へ、へ。」と人のよさそうな笑い方をして、その片膝を立てて坐った。
 晩飯の時、お国の話ばかり出た。小野の公判が今日あるはずだが、結果がどうだろうかと、新吉が言い出した。もし長く入るようだったら、私はもう破れかぶれだ……ということをお国が言っていた。
「それなれア気楽なもんだ。女一人くらい、どこへどうころがったって、まさか日干ひぼしになるようなことはありゃしませんからね。」と棄て鉢を言った。
 お作はあきれたような顔をした。
「お前なんざ幸福しあわせものだよ。」と新吉はお作に言いかけた。「お国さんを御覧、添って二年になるかならぬにこの始末だろう。己なんざ、たといどんなことがあったって、一日も女房を困らすようなことをしておきゃしねえ。拝んでいてもいいくらいのもんだ。まったくだぜ。」
 お作はニヤニヤと笑っていた。
 飯が済んでから、お作が台所へ出ていると、新吉とお国が火鉢に差し向いでベチャクチャと何か話していた。お国が帰ると言うのを新吉が止めているようにも聞えるし、またその反対で、お国が出て行くまいと言って、話がごてつくようにも聞えるが、その話は大分込み入っているらしい。いろんな情実がからみ合っているようにも思える。お作は洗うものを洗ってから、手もかずに、しばらく考え込んでいた。と、新吉は何かぷりぷりして、ふいと店へ出てしまったらしい。お作が入って来た時、お国は長煙管で、スパスパと莨をふかしていた。
 その晩三人は妙な工合であった。お作はランプの下で、仕事を始めようとしたが、何だか気が落ち着かなかった。それにしばらくうつむいていると、血の加減か、じきに頭脳あたまがフラフラして来る。お国に何か話しかけられても、不思議に返辞をするのが億劫おっくうであった。新吉は湯に行くと言って出かけたきり、近所で油を売っていると見えて、いつまでも帰って来なかった。
 十一時過ぎに、お作は床に就いても、やっぱり気が落ち着かなかった。それでウトウトするかと思うと、厭な夢にうなされなどしていた。新吉とお国と枕をならべて寝ているところを、夢に見た。側へ寄って、引き起そうとすると、二人はお作の顔をみつめて、ゲラゲラと笑っていた。目を覚まして見ると、お国は独り離れて店の入口に寝ていた。

 小野の刑期が、二年と決まった通知が来てから、お国の様子が、一層不穏になった。時とすると、小野のために、こんなにひどい目にわされたのがくやしいと言って、小野をのろうて見たり、こうなれば、私は腕一つでやり通すと言って、鼻息を荒くすることもあった。
 お国にのさばられるのが、新吉にとっては、もう不愉快でたまらくなって来た。どうかすると、お国の心持がよく解ったような気がして、シミジミ同情を表することもあったが、後からはじきに、お国のわがままがしゃくさわって、憎い女のように思われた。お作が愚痴をこぼし出すと、新吉はいつでも鼻であしらって、相手にならなかったが、自分の胸には、お作以上の不平も鬱積うっせきしていた。
 三人は、毎日不快まずい顔を突き合わして暮した。お作は、お国さえけば、それで事は済むように思った。が、新吉はそうも思わなかった。
「どうするですね、やっぱり当分田舎へでも帰ったらどうかね。」と新吉はある日の午後お国に切り出した。
 お国はその時、少し風邪かぜの心地で、蟀谷こめかみのところに即効紙そっこうしなどって、取りみだした風をしていた。
「それでなけア、東京でどこか奉公にでも入るか……。」と新吉はいつにない冷やかな態度で、「あっしのところにいるのは、いつまでいても、それは一向かまわないようなもんだがね。小野さんなんぞと違って、うちは商売屋だもんだで、何だかわけの解らない女がいるなんぞと思われても、あまり体裁がよくねえしね……。」
 新吉はいつからか、言おうと思っていることをさらけ出そうとした。
 ずっと離れて、薄暗いところで、針仕事をしていたお作は、折々目を挙げて、二人の顔を見た。
 お国は嶮相けんそうな蒼い顔をして、火鉢の側に坐っていたが、しばらくすると、「え、それは私だって考えているんです。」
 新吉は、まだ一つ二つ自分の方の都合をならべた。お国はじっと考え込んでいたが、大分経ってから、莨をふかし出すと一緒に、
「御心配入りません。私のことはどっちへ転んだって、体一つですから……。」と淋しく笑った。
「そうなんだ。……女てものは重宝なもんだからね。その代りどこへ行くということが決まれば、あっしもそれは出来るだけのことはするつもりだから。」
 お国は黙って、かんざしで、自棄やけに頭を掻いていた。晩方飯が済むと、お国は急に押入れを開けて、行李の中を掻き廻していたが、帯を締め直して、羽織を着替えると、二人に、あらたまった挨拶をして、出て行こうとした。
 その様子が、ひどく落ち着き払っていたので、新吉も多少不安を感じ出した。
「どこへ行くね。」と訊いて見たが、お国は、「え、ちょいと。」と言ったきり、ふいと出て行った。
 新吉もお作も、後で口も利かなかった。

 高ッ調子のお国がいなくなると、うちは水の退いたようにケソリとして来た。お作は場所塞ばしょふさげの厄介物をはらった気でいたが、新吉は何となく寂しそうな顔をしていた。お作に対する物の言いぶりにも、妙に角が立って来た。お国の行き先について、多少の不安もあったので、帰って来るのを、心待ちに待ちもした。
 が、翌日も、お国は帰らなかった。新吉は帳場にばかり坐り込んで、往来に差す人の影に、鋭い目を配っていた。たまに奥へ入って来ても、不愉快そうに顔をしかめて、ろくろく坐りもしなかった。
 お作も急に張合いがなくなって来た。新吉の顔を見るのも切ないようで、出来るだけ側に寄らぬようにした。昼飯の時も、黙って給仕をして、黙って不味まずッぽらしく箸を取った。新吉がふいと起ってしまうと、何ということなし、ただ涙が出て来た。二時ごろに、お作はちょくちょく着に着替えて、出にくそうに店へ出て来た。
「あの、ちょっと小石川へ行って来てもようございますか。」とおずおず言うと、新吉はジロリとその姿を見た。
「何か用かね。」
 お作ははっきり返辞も出来なかった。
 出ては見たが、何となく足が重かった。叔父に厭なことを聞かすのも、気が進まない。叔父にいろいろ訊かれるのも、厭であった。叔父のところへ行けないとすると、さしあたりどこへ行くというあてもない。お作はただフラフラと歩いた。
 表町を離れると、そこは激しい往来であった。外は大分春らしい陽気になって、日の光も目眩まぶしいくらいであった。お作の目には、坂を降りて行く、幾組かの女学生の姿が、いかにも快活そうに見えた。何を考えるともなく、あし自然ひとりでに反対の方向にいていたことに気がつくと、急に四辻よつつじの角に立ち停って四下あたりを見廻した。
 何だか、もと奉公していたうちがなつかしいような気がした。始終掃除そうじをしていた部屋部屋のちんまりした様子や、手がけた台所の模様が、目に浮んだ。どこかに中国訛ちゅうごくなまりのある、優しい夫人の声や目が憶い出された。出る時、赤子であった男の子も、もう大きくなったろうと思うと、その成人ぶりも見たくなった。
 お作は柳町まで来て、最中もなかの折を一つ買った。そうしてそれを風呂敷に包んで一端いっぱし何かむくいられたような心持で、元気よくあるき出した。
 西片町界隈かいわいは、古いお馴染なじみの町である。この区域の空気は一体に明るいような気がする。お作は※(「木+要」、第4水準2-15-13)かなめ垣根際かきねぎわあるいている幼稚園の生徒の姿にも、一種のなつかしさを覚えた。ここの桜の散るころの、やるせないような思いも、胸にいて来た。
 家は松木といって、通りを少し左へ入ったところである。門からじきに格子戸で、庭には低い立ち木の頂が、スクスクと新しい塀越へいごしに見られる。お作は以前愛された旧主の門まで来て、ちょっと躊躇した。

 門のうちに、綺麗な腕車くるまが一台供待ともまちをしていた。
 お作はこんもりした杜松ひばの陰を脱けて、湯殿の横からコークス殻を敷いた水口へ出た。障子の蔭からそっと台所をのぞくと、誰もいなかったが、台所の模様はいくらか変っていた。瓦斯ガスなど引いて、西洋料理の道具などもコテコテ並べてあった。自分のいたころから見ると、どこか豊かそうに見えた。
 奥から子供をあやしている女中の声が洩れて来た。夫人が誰かと話している声も聞えた。客は女らしい、はなやかな笑い声もするようである。
 しばらくすると、束髪に花簪はなかんざしを挿して、きちんとした姿なりをした十八、九の女が、ツカツカと出て来た。赤い盆を手に持っていたが、お作の姿なりを見ると、丸い目をクルクルさせて、「どなた?」と低声こごえで訊いた。
「奥様いらっしゃいますか。」とお作は赤い顔をして言った。
「え、いらっしゃいますけれど……。」
「別に用はないんですけれど、ぜんにおりましたお作が伺ったと、そうおっしゃって……。」
「ハ、さよでございますか。」と女中はジロジロお作の様子を見たが、盆を拭いて、それに小さいコップを二つ載せて、奥へ引っ込んだ。
 しばらくすると、二歳ふたつになる子が、片言交かたことまじりに何やら言う声がする。み割れるような、今の女中の笑い声が揺れて来る。その笑い声には、何の濁りもわだかまりもなかった。お作はこの暖かい邸で過した、三年の静かな生活を憶い出した。
 奥様は急に出て来なかった。大分経ってから、女中が出て来て、「あの、こっちへお上んなさいな。」
 お作は女中部屋へ上った。女中部屋の窓の障子のところに、でこぼこの鏡が立てかけてあった。白い前垂や羽織が壁にかかっている。しばらくすると、夫人がちょっと顔を出した。せぎすな、顔の淋しい女で、このごろことに毛が抜け上ったように思う。お作は平たくなってお辞儀をした。
「このごろはどうですね。商売屋じゃ、なかなか気骨が折れるだろうね。それに、お前何だか顔色が悪いようじゃないか。病気でもおしかい。」と夫人はことばをかけた。
「え……。」と言ってお作は早産のことなど話そうとしたが、夫人は気忙しそうに、「マアゆっくり遊んでおいで。」と言い棄てて奥へ入った。
 しばらく女中と二人で、子供をあっちへ取りこっちへ取りして、あやしていた。子供は乳色の顔をして、よく肥っていた。先月中小田原の方へ行っていて、自分もともをしていたことなぞ、お竹は気爽きさくに話し出した。話は罪のないことばかりで、小田原の海がどうだったとか、梅園がこうだとか、どこのお嬢さまが遊びに来て面白かったとか……お作はうわの空で聞いていた。
 外へ出ると、そこらの庭の木立ちに、夕靄ゆうもやかかっていた。お作は新坂をトボトボと小石川の方へ降りて行った。

 帰って見ると、店が何だか紛擾ごたごたしていた。いつもよく来る、あかちゃけた髪の毛の長く伸びた、目の小さい、鼻のひしゃげた汚い男が、跣足はだしのまま突っ立って、コップ酒をあおりながら、何やら大声で怒鳴っていた。小僧たちの顔を見ると、一様に不安そうな目色をして、酔漢よっぱらいを見守っている。奥の方でも何だかごてついているらしい。上り口に蓮葉な脱ぎ方をしてある、籐表とうおもての下駄は、お国のであった。
「お国さんが帰って?」と小僧に訊くと、小僧は「今帰りましたよ。」と胡散うさんくさい目容めつきでお作を見た。
 そっと上って見ると、新吉は長火鉢のところに立て膝をして莨を吸っていた。お国は奥の押入れの前に、行李のふたを取って、これも片膝を立てて、目に殺気を帯びていた。お作の影が差しても、二人は見て見ぬ振りをしている。
 新吉はポンポンと煙管をはたいて、「小野さんに、それじゃあっしが済まねえがね……。」と溜息をいた。
「新さんの知ったことじゃないわ。」とお国は赤い胴着のような物を畳んでいた。髪が昨日よりも一層きつみだれ方で、立てた膝のあたりから、友禅の腰巻きなどがなまめかしくこぼれていた。
「私ゃ私の行きどころへ行くんですもの。誰が何と言うもんですか。」とすさまじい鼻息であった。
 お作はぼんやり入口に突っ立っていた。
「それも、東京の内なら、あっしも文句は言わねえが、何も千葉くんだりへ行かねえだって……。」と新吉も少し激したような調子で、「千葉は何だね。」
「何だか、私も知らないんですがね、私ゃとても、東京で堅気の奉公なんざ出来やしませんから……。」
「それじゃ千葉の方は、お茶屋ででもあるのかね。」
 お国は黙っている。新吉も黙って見ていた。
「私の体なんか、どこへどう流れてどうなるか解りゃしませんよ。一つ体を沈めてしまう気になれア、気楽なもんでさ。」とお国は投げ出すように言い出した。
「だけど、何も、それほどまでにせんでも……。」と新吉はオドついたような調子で、「そう棄て鉢になることもねえわけだがね。」と同じようなことを繰り返した。
「それア、私だって、何も自分で棄て鉢になりたかないんですわ。だけど、どういうもんだか、私アそうなるんですのさ。小野と一緒になる時なぞも、もうちゃんと締るつもりで……。」とお国は口の中で何やら言っていたが、急に溜息をいて、「真実ほんとうにうっちゃっておいて下さいよ。小野のところから訊いて来たら、どこへ行ったか解らない、とそう言ってやって下さい。この先はどうなるんだか、私にも解らないんですから。」
「じゃ、マア、行くんなら行くとして、今夜に限ったこともあるまい。」
 店がにわかにドヤドヤして来た。酔漢よっぱらいは、咽喉のどを絞るような声で唄い出した。

 しばらくすると、食卓ちゃぶだいがランプの下に立てられた。新吉はしきりに興奮したような調子で、「酒をつけろ酒をつけろ。」とお作に呶鳴どなった。
「それじゃお別れに一つ頂きましょう。」お国も素直に言って、そこへ来て坐った。髪をでつけて、キチンとした風をしていた。お作はこの場の心持が、よく呑み込めなかった。お国がどこへ何しに行くかもよく解らなかった。新吉に叱られて、無意識に酒の酌などして、傍にかしこまっていた。
 お国はけわしい目を光らせながら、グイグイ酒を飲んだ。飲めば飲むほど、顔が蒼くなった。外眦めじりが少し釣り上って、蟀谷こめかみのところに脈が打っていた。唇が美しいうるおいをもって、頬がけていた。
 新吉は赤い顔をして、うつむきがちであった。お国が千葉のお茶屋へ行って、今夜のように酒など引っかぶって、棄て鉢を言っている様子が、ありあり目に浮んで来た。頭脳あたまがガンガン鳴って、心臓の鼓動も激しかった。が、胸の底には、冷たいある物が流れていた。
「新さん、じゃ私これでおつもりよ。」とお国は猪口ちょくを干して渡した。
 お作が黙ってお酌をした。
「お作さんにも、大変お世話になりましたね。」とお国は言い出した。
「いいえ。」とお作はオドついたような調子で言う。
「あちらへ行ったら、ちっとお遊びにいらして下さい……と言いたいんですけれどね、実は私は姿を見られるのもきまりが悪いくらいのところへ行くんですの。これッきり、もうどなたにもお目にかからないつもりですからね。」
 お作はその顔を見あげた。
 酔漢よっぱらいはもう出たと見えて、店がしんとしていた。生温なまぬるいような風が吹く晩で、じっとしていると、澄みきった耳の底へ、遠くで打っている警鐘の音が聞えるような気がする。かと思うと、それが裏長屋の話し声で消されてしまう。
「ア、酔った!」とお国は燃えている腹の底から出るような息をいて、「じゃ新さん、これで綺麗にお別れにしましょう。酔った勢いでもって……。」と帯の折れていたところを、キュと仕扱しごいてポンとたたいた。
「じゃ、今夜立つかね。」新吉は女の目をみつめて、「あっし送ってもいいんだが……。」
「いいえ。そうして頂いちゃかえって……。」お国はもう一度猪口を取りあげて無意識に飲んだ。
 お国は腕車くるまった。
 新吉はランプの下に大の字になって、しばらく寝ていた。お国がまだいるのやらいないのやら、解らなかった。持って行きどころのない体が曠野あれのの真中に横たわっているような気がした。
 大分経ってから、掻巻かいまきをせてくれるお作の顔を、ジロリと見た。
 新吉は引き寄せて、その頬にキッスしようとした。お作の頬は氷のように冷たかった。

      *     *     *

「開業三周年を祝して……」と新吉の店に菰冠こもかぶりが積み上げられた、その秋の末、お作はまた身重みおもになった。

底本:「日本の文学9 徳田秋声(一)」中央公論社
   1967(昭和42)年9月5日初版発行
   1971(昭和46)年3月30日第5刷
入力:田古嶋香利
校正:久保あきら
2002年1月30日公開
2011年5月25日修正
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