彼はどっしりおおいかぶっている雨催いの空を気に病みながらもゆっくりと路を歩いていた。 そうして水溜のように淡く耀いている街燈の下に立止るたびに、靴の上へ積った砂埃すなぼこりを気にするのであったが、彼自身の影さえ映らない真暗な路へさしかかると、またしても妙に落着きを装うて歩きつづけるのであった。
 彼がようやく辿たどり着いたこの路は、常に歩きつけているなじみの場所である。 そうしてたった今、彼の歩いている左手には、二軒の葬儀社が店を構えている。 しかしいまはそこが見えない。 そうしてその一軒の大きい方の店頭には、いつも一匹の黒斑くろぶちの猫がくびも動かさずに、通りの人人を細目に眺めながら腹這はらばって寝ている。 彼はその猫の鳴き声を聞いたことがただの一度もない。 しかしたなら彼女は※(「やまいだれ+音」、第3水準1-88-52)おうしかも知れない。 たとい彼が路傍の一人の男としても、そうたびたび歩き合わせているうちには、一度ぐらい彼女の鳴き声を耳にしてもいい筈である。 そうして必ず日に一度、彼はその店の筋向いの三角卓子のあるカフェのレコードに聞きれて、そこに立ちつくすこともあるからには、その猫の声を味わっていなければならない。
 彼は常に思い惑うていることを、またしても気に病むまま想い浮べているうちに、一軒の古本屋の前を通り過ぎていた。 赤い電球が電柱の蔭に見え隠れして、ゆがんだ十字架のような岐路の一方に、ひとり夜の心臓のようにうずいている。 その標的は交番所である。 彼は急に足早に歩調を刻んだ。 この時突然、彼には二間とは間隔のない路巾みちはばが、彼自身のからだしつぶすように、同じ速度を踏んで、左右から盛り上り盛り上りせまって来るように感じられた。 彼は右へ曲ろうとするはずみに、ちらりと交番所のなかをぬすみ見した。 ひげのない若い警官が、手にペンを握ったまま入口へ乗り出して、彼の様子をじっとみつ[#「目+嬪のつくり」、170-下-17]めていた。 彼の瞳には、開かれたままの白い帖簿が映った。 彼は瞬間に心持ち歩み悩んで、その足並みを崩さず、交番所に隣接した郵便局へ心を向けていた。
「金……金……金……」
 彼は胸のうちでつぶやいて、後ろを振り返ってみた。 警官の土龍もぐらのような眼は、突き出る首とともに彼の後姿を追うていた。 彼は自分が踏み早める靴音に驚いていた。 そうして彼はまっしぐらに路地から路地をくぐり抜けながら、墨色の深い杉森の寺院のなかを縫うて、ようやく煙草たばこ店のある路地へ忍び込み、そこから宿の前へ跫音あしおとを止めた。
 この宿の戸は夜中でも錠の必要がないほどやかましくがたつくので、彼はその開閉のたびに宿の人人へ大へん気の毒な思いをする。 それにいまは決して必要もなさそうな振鈴が、きしむ戸とともにその倍以上も鳴り響くので一層気がひけていらいらとさせられる――しかしいまはそんな臆病な気持に捉われていてはいけない。 絶対絶命の時ではないか。 どんな種類の犯人でも、一度は逃げのびられるだけは逃げのびたいと願うものである。 たったいまの彼の心もそれと少しの変りもない。 交番所に隣接した郵便局には、女事務員が四人も働いている。 そうして彼女等にまじって一人の老人がいるに過ぎない。 そこで、彼は夜中こっそりとこの郵便局へ忍び込んで、金庫をねじあける、そうしてそこにある金銭をみな持ち出す。 これがうまうまと成就すれば、彼はこの金銭を自分の部屋の火鉢の灰の底へ掩蔽えんぺいしてしまう。 この思いつきは、彼にとっては一つの誇りであるとさえ思える。 そうして彼はそしらないふうを装うて小金から費い出す。 彼が先日以来気まぐれに考えていたことを、あの鬚のない若い警官がちゃんと飲み込んでいる。 彼の胸のなかを伝心的に見破っている。 警官は彼の考えをすっかりと胸のなかに感じている。 彼はおそろしいと思った。
 彼は狼狽あわてない態度で部屋のなかを見廻した。 部屋のなかの疲れたような静寂は、急に室内の壁の表面へ喧噪けんそうな響を波打ちはじめた。 彼は歩き廻っていた。
 彼は捕えられて法廷へ引き出される。 彼は考え続けた。 そうしてその裁判の結果、彼は七年ぐらいの刑を受ける。 こんな凡俗な智慧を誰が彼へくれたのか。 こんな放肆ほうしな精神を誰が彼へ授けたか。 こんなものと無二の仲間になるように誰がしたのか。 この不幸な考えは、彼を三倍も四倍もの苦みに悩ませる。 しかし彼はこの親密な関係から離れることが出来ないのである。 彼の人生へ対する役割は、こうした薄命な悲惨と煩悶はんもんとの桎梏しっこくであろうか。 彼はしばしの慰安もこの世に持てない。 彼は文字通り本当に棄てられて途方に暮れている。 否、彼は人生から放逐されてしまった。 それというのも、彼自身のはしけが大船に寄りそこねたその反動で、彼は艀のまま押し流されている。 戻るに戻れない羽目に彷徨さまようている。 かつて彼は神のような心を持っていたが、捉えるべき機会を捉え損ねた。 そうして彼は自分自身にすら予想されずにいたその割当てられた役を、後生大事に演ずる機会を永久に失ってしまった。 それともこうなったことが、彼自身の役割であったのであろうか。 果してどうであろうか。
 それに彼が貧乏に見舞われてからは、一層外部との調子が不和になりはじめた。 そうして彼の一人の親友を除いた他の債権者は、彼をあらゆることで侮辱した。 彼はあらゆる誘惑のわなはまってのろわれてしまった。 彼自身は不義者であり、悪徳の保持者でもあるかのように言いふらされた。 心ある人間であったなら、うの昔に自殺していた筈であるとさえ言われた。
「自殺!」
 彼はこの言葉を幾度か彼自身の胸のなかへ叫び返した。 そうしてこの精神の力を実感に求めようと藻掻もがいた。 彼には自分で無限の力と信じていた、このことが出来かねた。 しかし彼は他の人人が毒薬や兇器で自殺したように毎秒毎分、時という輪廓のないもので自殺していた。 ――否、自殺した。 そうして彼のこの考えは、友人を訪問している最中とか、散歩の折とかに、奇妙にも失恋の反撃のようにひるがえってしまうのであった。
 彼はこの自殺の考えから連想される彼自身の本能が、直ちに一種の熱情に変えられることを感じた。 これは彼が人間生活へ対して知り得た最初の熱情であった。 彼はこの熱情のために自分のからだが、希望で心からふるえるのを知った。 しかし彼自身の周囲には、一種の羨望せんぼうと卑屈と冷淡と臆病とで組合せられた多角型の隠謀が散在していた。 彼は自分の息を吐くにいい生活のなかに、かくも重苦しい重荷の存在のあることを知った時、溜息の生活に過ぎない彼自身の生活を充すものは何一つなくなってしまったと思った。 彼の熱情は、一瞬のひらめきすら耀かさずに消えようとしていた。 彼は神のような心を抱きながら、或機会をとり逃がそうとしていた。 しかし彼は自分の内心を疑えなかった。 そうして彼は何らの懸念も危険もなくなるに違いないと知った。 彼は宗教を知らない、思想を知らない、これらの相手になれる彼自身ではない――
「おれが相手として望む者はおれ自身にほかならないではないか!」
 彼は血のにじみ出るように叫んだ。 この時、彼自身の内心は決定した。 彼は自分の胸を平手打ちしてよろこんだ。 しかしこの悦びとても、瞬間にしてその小波さざなみき去ってしまった。 同時に彼は自分で自分を揶揄やゆしているのではないかと疑った。 そうして彼には自分の考えと感情とが、毒悪と憎怨とに制限されているのではないかと、のろわしく思われないこともなかった。 そうして彼は虚無的な憤恨を抱いているかたわら不正型な意志を持っていることを知った。
「とうとう遂行した?」
 彼は他人の言動のことのように自分自身を振り返ってみた。 そうして彼はおもむろに巻煙草へ火をつけてみはじめた。 彼の考えは吐き出される煙草のけむりのように渦巻いた――彼は刑事に尾行されている――彼は郵便局の現金を盗み出したのであろうか。 否、決してそのようなことは全然ない筈である。 それにしても彼は自分自身がおそろしいと思った。 彼は妙な気持からこっそりと部屋じゅうを歩いた。 そうしてかなり苛立つ気持が落着いたと思った時、彼は服を脱ぎはじめた。 彼はワイシャツを脱ごうとして、右の方のカフスボタンが紛失しているのを知った。 きょう、彼は他人と喧嘩けんかはしなかったし、また酒を飲みもしなかった――こんなものの相手になれる彼自身ではない――それなのに、どうしてこのボタン一つだけが見えなくなったのであろうか。 けさ、ちゃんとめ込んだカフスボタンを失ったと思えばいやな気持になった。 部屋じゅうを見たところで落ちてはいない。 それとも途中でおとしてしまったのであろうか。 それにしては余りに物足りない。 こう考えたからと言って自慢になるものではないが、しかしたなら彼はうにあの郵便局へ闖入ちんにゅうしていたのかも知れない。 彼は自分の心にはそんなことのなかったように肯定させて置いたにもかかわらず――それとも若しかしたなら彼自身ではない別の人が、彼の胸のなかをすっかり読み知っていて、彼が決行しようと思っていたことをなしとげてしまったのかも知れない。 そのためにその人は、彼のカフスボタンをいつの間にかこっそりと盗み取ったのかも知れない。 そのボタンがその人に必要なことは疑いもないことである。 その人は彼自身が考えた盗みをするために彼のカフスボタンを盗んだ。 そうしてその人はカフスボタンを故意に犯罪の現場へ捨てる心であろう。 すでにその人はその盗みをしてしまったかも知れない。 その人とは誰であろう? あの若い警官であるかも知れない。 警官であろうと、盗みをしないとは限らない。 警官などはうまい口実を見つけるにいい境遇にある。 それとも彼自身の第二体が、彼の決行しようと思っていたことをなしとげてしまったのかも知れない。 その時、そのドッペルゲンゲルは彼自身である本体には知れないようにと、余り急ぎ過ぎたので、カフスボタンをうっかりしているうちに、現場へ取りおとしたのかも知れない。 それとも彼等は彼のこうまで落魄らくはくしている境遇へつけこんで、同盟して彼一人を奈落の底へ突きおとすのであるかも知れない。 そうして彼はたった一つのカフスボタンのために、冤罪えんざいの悲運に陥るのであろう。 それにしても先刻、あの警官のにらんだ眼はなんと怕しいことであろう。 その眼光は、ある確さを持っているのみでなく、更に人の心を射るような或もので輝いていた。 それは警官を注意してみる者にとっては、或不安であると同時に冷淡の表示でもある。 あの眼は、単に夜中ただ一人、路傍を歩き廻る者を穿鑿せんさく吟味するだけのものではない。 あの眼の底には、隠れた意味が含まれている。 警官とそれを見る者の相手との外には、解らない謎が含まれている。 その説明は、事実が暴露しない以上第三者の誰にも解らないのである。 しかしその二人だけなる者は、一人の警官を中心にして幾十人幾百人おるか知れない。 そうして彼は、恥かしいながら、そのうちの一人であると思ってみてもいいのであるが、すでに行われてしまったかも知れないその犯罪には、何らの関係もない。 否、しかし虚空のなかへおもむろに流れ込んで行く水の響のようなざわめきたつ事実は、全然彼自身に関係のないことでもない。 彼は自分で盗みを考えたが、何者かはっきりと解らない者が、それをものの見事に盗み取った。 その人は彼の考えを横領してしまった。 その人は彼の盗心を盗み去った。 そうして彼は二重に苦しまなければならなくなった。 何故であろう? その人は彼自身のカフスボタンを竊取せっしゅしてしまったから。
 この苦悩は、彼の脳裡のなかへ黒雲の旋風をき起した。 彼が予想するすべては、彼自身の最期を感じさせる。 電燈などは点っていても消えていても一向差支えなくなった。 そうして怕しいしずけさは室内にあふれはじめた。 その静寂のうちに彼を見張っている何者かが潜んでいそうである。 その者は彼の心臓の動悸を数えている。 彼は自分がもう堪えられなくなった。
 彼は立ち上ると蹣跚よろめいて行って、北窓をがらりと開けた。 その刹那せつな、彼の躯は、ひやりと夜の空気に打たれたと同時に、何ものかにナイフででも切られたかのようにかすめられた。 彼は眼がくらんだように感じた。 その時、彼はその何者か解らないものは、いままで部屋のなかに潜伏していた一人の陰謀者の輪廓のないたましいではないかと思った。 彼がこう思えば当然であると会得出来る。 しかしこれは莫迦ばか莫迦しいほど無智な表白ではなかろうか。 ところが、この無智こそ人間に対する一つの威嚇いかくである。 この愚鈍と交流してこそ人生は荘厳になるのである。 何故なら、自己の絶えない失脚は、自己の実現に無駄骨を折っているから。 若しも――彼は考えつづけた――一流の賭博とばく者は、素人しろうとである相手に、現金を山と積まれて勝負に熱中したところで、その札の山を切り崩して行くことは出来ない。 この羅針盤の紛乱こそ人間の胸のなかへ挑まれる内心からの抵抗の動乱である。 この電流と稲妻との焦噪は、物理学上の実験とも合致する。 これはかくとして、人間が自分一人で自慢出来るようになるのは、あの奇妙に角張った威嚇が存在するためにほかならない。 人間は一種のマニアのポーズを持っている。 そのために彼等は人間らしく見えるのである。 そうして彼等は人生の矛盾を中和して行く技巧家である。 彼は何かまとめてみようと企てていたが、それは全く無益のことであった。 それどころではない。 彼は自分の陰謀者のたましいを見た。 この怕しさ、この苦しさ、この快さは、彼自身を悲しませなかった。 そうしてその陰謀者が逃げて行ったということは愉快に感じられた。 こんな思いにふけりながら彼はひょっくりと、十間とは離れていない杉森の間を透して、北向いにある墓地の最初の列の石塔が、部屋かられる電燈に、その半面を鈍く輝かしているのを見た時、自分のたましいがひやりとおののいたのを感じた。 そうして彼は日毎に見れすぎているこの墓地が、常と違って振向いても見たくなかったので、直ぐカーテンを引いた。 カーテンの環はかすかにきしんで、その響を消したと同時に、セピア色の染のはいったカーテンは、彼の眼を外界からさえぎってしまった。 カーテン自身がひとりでそんな作用をしたかのように。
 彼は自分の耳朶の暑く燃えるように火照ほてるのを感じた。 誰かが――確かに彼の陰謀者であるに違いない者が、彼の悪い噂をしているに相違ない。 これは彼にとって、彼自身が殺されることよりもつらいのである。 そうして実際、真実の出来事は、そうしてまた真実の出来事になり得る可能性のあるものは、はじけるような力強さで、こうした観念を無意のうちにすら呼び起さしめるものである。 これは一種の体流的の作用であるに違いはない。 彼はどうしてもそう信じない訳には行かない。 それともそれは、彼自身のように、たましいの影さえ抱かないようになった者が、常に心を苛立いらだたせて、神経過敏になっているその役にも立たなくなった焦噪の証拠を、何か別の事物へなすりつけようとするひがみ根性であろうか。 たといそれが僻み根性であろうとも、彼は自分でひととおりは考えてみなければならない。 ――
「世には軽蔑というものがある!」
 彼はペンで書きつけるように、心へ言った。 彼の躯をおおうものは、全くその軽蔑に外ならなかった。 何ものとも名ざされない者が、彼を軽蔑し侮辱しているというこの無作法な事実があればこそ、彼はそれを感じて気を腐らし、最後には自分へ向ってさえ怒り出すのである。 否、その軽蔑その物は、それ自身の価値を持っているのだからそれでもいいが、彼自身に堪えられないことは、この軽蔑をもって、人を踏んだりったりするように、寄り集って来ては慰みものにして痛快がっていることであった。 その侮辱と嘲弄とは、彼にしてもどうして感じない訳には行かない。 それは彼自身の敵である。 それともそれは、彼自身の幻影であろうか。 彼はこの明るい日の下に自己欺瞞に陥っているのであろうか。 そうすればそれは、二重の欺瞞に変えられないとも限らない。 彼は単にその幻覚に酔いつぶれているのであろうか。 彼は自分の不幸に惑いながらも、「不幸と鉄の三解韻格」をうたった人の真似をしようとしているのであろうか。 しかしそれを謳ったジョン・カーターその人は、泣ごとや不平をこぼしたことすらなかったではないか。 その人は笑い声一つさえたてなかったではないか。 紙屑とボール紙との貼り合せであると思っていたこの世が、その人には神の烙印らくいんと見えたのであろうか。 それにしても、彼は泣きごとや不平をこぼしたことが、果してあったであろうか。 それが若しもあったとするなら、馬鹿気たことではあるまいか。 二重の欺瞞に魅せられて憤恨を蹴散らすとすれば、彼は本当の道化者と何らの変りもないではないか。
「道化者!」
 彼は、誰かがささやいたかのように、こう囁いた。 彼は妙な気持ちになってしまった。 彼がこう囁いただけで、内側のない紙屑とボール紙とで貼り合せられたこの地球儀のような地球が、げっそりとひしゃげてしまいそうに思えた。
 彼は割り当てられたその役を踏みらして途方に暮れていると愚かにも考えるが、どうやら彼は道化者としての役を振りあてられているらしい。 そうして彼は何とでもして生きなければならない。 彼には並外れた野心のあるためではないが、そうしてまた、よしそんな野心があったにしたところで、彼はその犠牲となるのは好ましくないのであるが、彼は自分の家族と生活を共にしなければならないのである。 一生にたった一度より外は持てない親――彼の父親は最早この絢爛けんらんな空気を呼吸してはいない――たった一人の片親である母親を養わなければならない。 それは彼自身の義務である、その義務を果すために、彼は生きなければならない。 これは彼自身のうつろな言葉でないと同時に、彼の妄想でもない。 彼はその義務を果すということを、彼の専門としておしつけられたくはないのである。 兎に角、彼にはその生活の真似ごとだけでもしてみなければならないと思う心が強いのである。 こんなふうに彼は自分を一人前の者のように考えてもみたいのである。 道化役に当てめられた彼は、それが恐るべき呪詛じゅそであるとは知らないのである。 そうして彼は人間が受けるあの威嚇を知りながらも、人間が生むあの模倣の呪詛を知らなかった。
 そうして彼は全く夢遊病者のそれのように、押入を開けて、四個の行李を引きり出した。 今更そのなかをしらべてみたところで仕方はないのであるが、彼はいつもしていたことを繰り返してみなければ気がすまないように、第一の行李からはじめて、次ぎ次ぎとそのふたを取り払って、そのなかをのぞいてみた。 そうしてそのなかに覗かれるだけのものは、みな読みふるされた書物の間に積み込まれた活動写真のプログラムとか芝居の筋書とかに限られていた。

     *

 ここの見たところかなり見すぼらしい下宿に、彼が転宿して来た時――一たいおれの宿の何処どこに入口があるのか解らない――と転居をらすハガキを自分の親友青沼白心へ出した。 彼はその文面が少し誇張しすぎていると思ったが、それでもいいと思った。 何故なら彼の親友は、そのハガキを読んで苦笑したであろうから――ほとんど笑うということを知らない親友を苦笑にしろ笑わせたということは、彼自身のよろこびでもあった。 彼はそのことを予想してハガキを書いたのであった。 彼はこのような男を未だかつて友としたことがない。 というのは、いろいろの意味で言うのであるが、――兎に角、この宿へ来る前、彼は少しは現金を持合せていた。 それは大学ぐらいは普通に卒業出来るだけの金高であった。 ところが、急にその持合せた現金が溶けてなくなるように、何処へかその姿を隠してしまった。 彼は大へんなことになったと心に思いながらも、その行方を捜索しはじめたのであったが、どうしてもその見当がはずれがちであった。 彼は警察へ訴えて見ようかとさえ思案したのであったが、そのわずらわしさを考えてしてしまった。 それにその証拠になるべきものは、何一つ残っていなかったと言ってもいい――しかしここにその証拠物件となるものがたった一つあった。 それは彼自身の胸のなかに蓄えられていたその最初の金高であった。 それにしてもそれは彼自身の愚かな気持のかすであって、事を暴露する爪のあかほどのききめにもならないことは、考え惑うことが子供じみているだけに、聞く人にとっては実につまらないことであった。 しかし彼自身の生活をいくらかでも古風なロマンティックにしてみたい癖のある彼には、そんなふうに思い迷うのが興味をかないこともなかった。 そうして彼は人間が生きると言うことは、嘘の殿堂を築くことに過ぎないと思いながらも、相談にならない幻想を抱いてみたくてしようがない。 その幻想にひたりきっている間、彼は自分が彼自身ではないもっと別のものになった気がしている。 それこそ偽善を上塗りする高貴と言うものではないかと考えるのであるが、そこからは絶えず天啓とでも言われるものが感じられるような気がしてならなかった。 そうなふうにこだわって行く彼であったから、その金の問題にしたところで、若しかしたら置き忘れたのであるかも知れないと、考えながらもそんな途方もないところへひきずられて行って、そこへ迷い込むのであった。
 そうして彼はかなり部厚い書物のなかを札の形に切り抜いて、そこへその現金を隠して置くか、挟み込んで置くかしたのであろう。 それを彼はすっかり胴忘れしているのかも知れない。 こんな疑念が絶えず彼自身の心のなかを往来していた。 そのために彼は一層本気になって、その金の行方を探し求めたが、それは全く無駄であった。 そうして彼はこんな無駄骨を折る前に金はちゃんと使い果してしまったと知っていたことを、いまになってはじめて気づいたように思い出すのであった。 そうして彼は疲労と困憊こんぱいとの二様にいじめまくられるのであった。 それにもこりずに、彼は手匣てばことか行李とかを、もう一度一々性急に、しかも丹念にひっくり返してしらべてみるのであった。 ところが、そのなかに見られるものは、きっときまってみな活動写真のプログラムとか芝居の筋書とかそんなものに限られていた。
 そうして彼自身の背丈の半ばにも過ぎるに違いないそのプログラムのなかには、不思議にもいまだに心のなかに残っているユニヴァサル・サアカスのグラフィックなども雑っていた。 彼はそんなものを現に目前に見物しているかのように思い出していた。
 或日、彼はそんなものの常設されている所へ遊びに行って、紫色のシャツを着たローズアが、ただひとり一本縄にさかさにぶらさがって、喇叭らっぱを吹いているのを見た。 その次の日、彼は彼女に逢わずに彼女へ花環を贈った。 多分その幸運な花環は彼女の腕に抱かれたことであろう。 果してそうか? その日は雨が降っていた。 彼はその日も映画でたのしんだ。 その帰りがけに、彼は鏡の壁のあるカフェへ寄って、椅子にかけていてちょうどいい具合に上半身の映る鏡をのぞき覗き、自分の映像を相手に大へん大きな下あごを上顎へり合せながら食事をした。 そうして彼はその店を出て、細い小路を抜け、通りへ出ようとした角のところで、突然呼び止められて吃驚びっくりした。
「傘に入れて下さい、お頼みします。 」
 彼が注意してみたそこには、花売娘の支度をした少女が雨にうたれて気恥かしげにではあるが、泣きもせずにたたずんでいた。 彼はそのひとをちらりと見ただけで、口をつぐんだまま傘を差し出した。 そうして彼はそのひとを怪しむ心にもなれずに歩き出した。
「しずかに!……」
「……おや! おや!」
 その少女は妙なアクセントでつぶやいた。
「……」
「泥がはねかえったの、靴へ。 」
 彼のくびが振向く瞬間に、その少女の右足は、宙に浮いていた。 そうして彼はその少女の靴へほんの少し蟋蟀こおろぎくそほどの泥がはねあがっているのを見つけた。
「何か持っていない?」
「……」
「拭くもの!」
 彼はこの言葉で狼狽あわてながらも、懐中から先刻貰ったプログラムと真新らしいハンカチとを一束いっそくたにつかみ出した。 彼にとって、そのプログラムは日記の全頁に相当していた。 笑いごとではないが。 彼は一時の虚栄からではなく、そのハンカチを彼女へ与えた。 彼女は雨にうたれていまは消えてなくなった靴の上の泥のあった跡を、そのハンカチで拭ってからそのままそれを捨ててしまった。 赤黒い泥の上で真白なハンカチがしわくちゃになって笑った。
「ストップ!」
 その声は人の度肝を貫くような命令であった。 その大きな声の叫ばれた瞬間、彼はどきんと胸を叩かれたように感じた。 彼は馳け足をする最初の時のようにうなじもたげた。 幾千万の眼が傘の下から彼等二人を眺めていた。 こんな場合ではあるが、よく見てみると、町の一角に撮映機を据え附けた外人の一隊が、機械のハンドルを止めて、こちらを見守っていた。
「〜〜〜〜 〜〜〜〜 〜〜〜〜」
「〜〜〜〜 〜〜〜〜 〜〜〜〜」
 人人の声がいっせいに和したのであったが、彼にはその声が完全な言葉としては聞きとれなかった。 そうしてそれは人の名前が叫びあげられたようにも感じられた。 その時、彼は蜜蜂の一群が、彼自身の周囲に小さな龍風たつまきの渦をいて飛び乱れたかのように感じたので、思わずも腰を折って馳け出した。
「誰だ?」
「あの男は?」
「誰だ?」
 彼は律動している蓄音機のなかから飛び出したように感じた。 そうして彼はそれらの声にいかけられながら、ようやく逃げのびて、土蔵の立ち並んだ黒い色の感じのする町のなかへ、彼自身の姿を見出した。 その時、彼は何者かに逐いかけられているように感じた。 その瞬間、彼は一人の男に呼び止められて、振向いた。 そうして彼は若しも鳥ならば何よりも先きに羽撃はばたきするように驚いた。
「影佐君?」
「……?」
 彼は返事もせずに機械的に立ち止まった。 靴は泥のなかへめり込んだ。 その男は馳けて来たらしく息をはずませていた。 ちょっと見ると、ポオル・ゴオガンのような感じのするその青年は、彼の学校であるL――大学の制服を着ていた。
「影佐君ではありませんか?」
「……え!」
 彼はこう答えたものの、何故に見知らぬこの男はこんな気恥しいシインを見逃してはくれないのかと不快に思った。 それともこの男は、彼のいまの苦境を全然見なかったのかも知れない。 しかしそれはそのいずれのことにしてもいいのであるが、この男は彼自身の名前を知っている。 彼はそのことに疑念をはさんだ――
「このごろは少しも教室へ見えませんな!」
 この場合ではなくとも、この質問はこの頃の彼にとっては詰問である。 誰に問いかけられるとも。 しかし――彼はこの男もやはり自分と同じクラスの者であるに違いないと思った。 それにしても彼が教室へ出席しなくなってから、彼は余程の日数を数えるにいいのである――教室にあって、彼は彼自身の溜息とセコンドとの数の交響楽のリズムをひとりでに教えられた。 彼はふと教室の模様を目前へ描いてみた。 そうして教室の窓越しに豊麗な四月の町が、彼自身の瞳へ映っているようにさえ感じられた。 そうして彼は自分の唯一の楽みであるその窓から、人間の言葉とか動作とか人生の影とかを掴もうと夢みたことを、いまだに忘れてはいない。 そうして彼はそれらもろもろのものの説明を聴きたいばかりに、不安な感じに抱かれながらも、日光を浴びた町の光景のなかへ誘い込まれた。 そこへ跳び出た。 そうして彼は眼くらみながらも、そこここを歩き廻った――
 彼はふと思い出したように、自分の目前の青年を顧みて、ひと口てれかくすように訊ねてみた。
「どなたでしたか?」
「青沼白心です――どうでしょう、コーヒーでも飲みませんか。 」
 こう言って青沼は周囲を見廻した。 そうして青沼は歩き出して、ちょいちょい彼を振返って見た。 そうして彼等はその町の出鼻のところで、一軒のカフェを見つけた。 彼等は寒水石ではないが純白な色の円卓子へ向き合って坐った。 彼が気づくと、その円卓子の縁一寸ほどのところを一本の金線が細く円を描いていた。 彼はその金線に添うて、火をつけない一本の巻煙草を置いてみた。 彼は周囲の上へ直線がきちんと重ならないことは知りながらも、考え深かそうにそれを幾回でも繰返してみた。 そのうちに青沼は自分の独り言のように小さな声で、彼へ話しかけた。
「さっきのは素晴らしいスクリーン・スナップ・ショットでしたな!」
 その時、彼はちょうど一線に擬えた煙草の直線の一点へ金色の円周の一点を接点さしていた。 ――突然、接点は離れてしまった。
「えッ? え、え、え、え!」
 彼の相手はその顔を彼自身の眼から外してうつむいてしまった。 彼はかすかに微笑ほほえんだ。 彼等は一種の暗合のように同時に立ち上った。 町は明るい光によどんでいた。 四月の雨は止んで、桃色の雲はあざやかに浮びあがり、その中心を西の方へいていた。 彼等二人は再会を約しながら快く別れた。

     *

 彼は四個の行李と、書物と、プログラムとの間に埋もれながら、自分の親友青沼白心のことを考えていた。 彼自身の気持は晴々と澄んでいた。
 この時、突然のことのように、彼は戸外に雨の降る音を耳にした。 雨滴をきいて一段と彼は安心した。 そうして何心なくしかも自然であるかのようにつぶやいた。
「これですっかり、足蹟は消えるぞ!」
 そうして彼は再び不安な気持ちに捉われた、それと同時にいまの言葉で盛りかえされたかのように悪い連想はまたしても生き生きと尾を振りはじめた。 それに巣を離れて活動しているふくろうは、墓地の森のなかでしきりに鳴きはじめた。
「あいつがおれの思うこと一切を世間へ告げ散らしている、あの兇鳥まがどりが……あいつはおれの臆病な敵の間諜かんちょうだ……」彼にはまたしてもこの電流のようにすばやいひらめきがあわれにも感じられて来た。 そうして緊張は一秒一秒に増してくる。 彼は自分の最後の頼りになる唯一の親友のところへ行けばいいのであると考えに逐われていた。 それは精神的の悦びのように彼自身の躯のなかをめぐった。 いま彼は自分の名誉を毀損きそんされるというような安易な不幸に陥ろうとしているのではない。 それは彼が彼自身の身をもって当らなければならないほどの不幸である。 こういうふうに彼が考えれば、彼は自分の親友のところへ行くことを断念しなければならないようになった。 というのは、若しも彼が青沼を頼って味方になって貰うものなら、親友は彼自身とともに彼の敵の的にならなければならない。 これは断乎とした論理を含んでいる。 可笑味おかしみのある馬鹿気たことではないのである。 それにしても彼は自分が盗みをしようとした考えにこだわっていて、それが看破されたことを恐れているのであろうか。 否、彼はすでに愚鈍な技巧と真面目くさった態度の倫理家の妄語に苦しめられてはいない。 しかし彼は自分へ対する言訳には、抵抗出来なくなっている。 否、それはちょうど、偶然の出来事か、記憶を去ろうまいとする考えかが、いずれにしても一瞬はそれらの生命を保って、人間精神のなかへ、一生に一度ぐらいは巣喰うてみようとするその輪廓のない生物によって起させられる或印象と等しい価値を持っているものであるかも知れない。 しかしそんなことはもうどうでもいいことになっている――……雨! 雨! 雨よ降れ、降れ! あの兇鳥が吐き出すおれの悪口を土のなかへ葬むるように強く降れ! おい、追放された憐れな雨!……――彼は雨が彼自身ででもあるかのように呟いていた。 ――……お前はいま涯しない虚空を失おうとしている。 悲しんでなどはいまい、そんなことなどはあり得るものか。 気儘きまま勝手に自由な跳躍をほしいままにするにいい雨ではないか。 お前の見えない脚で何にもかも蹴散らしてくれ、思うさま叫んでくれ! 虚空さえつかみ損ねて呻吟しんぎんしているおれのために!……――そうして彼は彼自身の心臓を虚空へ掴み出して投げ捨てたかのように藻掻もがいた。 その投げ捨てられた心臓は、赤く燃え廻ってその真赤な尾を打ちふりながら部屋じゅうを跳んで廻っているかのようであった。 そうして彼自身の周囲に取り散らかされているものみなは、紙と言わず書物と言わず狂い廻る彼自身の心臓の跳梁ちょうりょうのためあらゆる存在をあざけるかのように飛び散った。 そうしてそこには散乱したる誠実がすばやく眠りからめて嘲り笑っていた。
 その翌朝、彼は飛び散った紙片の下敷のなかに短かい眠りをさました。 この日は日曜日であった。
 昨夜の雨はその夜のことを忘れたかのように晴れ上っていた。 彼は綿密な注意を配りながら部屋のなかを見廻した。 そうして今や彼は荷造りでもはじめようとするかのようにしかも手荒に行李をかたづけ、押入のなかへしまい込んだ。 そうして彼は路地の入口の店へ煙草を買いに行くついでに、街路の様子をうかがってみた。 乾き切らない路は、タイヤーとか靴蹟とかのために無惨にも掘り返されていた。 ちょっと気を奪われて見ると、まるまると毛にふくらんだ子犬が、向側の寺院の石段を脚早に登って行くのであった。 子犬のからだは重そうに見える。 いかにもその足並みが苦しそうに見える。 しかしその子犬は、石段の上の見えないところかられてくる口笛を目当てに急いでいた。
 彼が求めた煙草はかなり香味を失っていた。 そうして彼が部屋に戻って、三本目かそこらの煙草をみ終らないうちに、障子の外で人のけはいがした。
「居るかね。 」
「うむ……」
 部屋へ這入はいって来た青沼白心の顔は、一瞬わざとらしくゆがめられた。
「や、これはひどいけむりだね……君、君の死んだ後で、君の肉体を煙草にして喫んだら、さぞ美味おいしかろう!」
 青沼のつぶやくようなこの言葉は、彼をいたく苦しめた。 これは青沼の冗談であろうか。 と、またしても奇妙な考えに耽けろうとした時、彼は時計の打ちひびく音を階下の方から聞いた。
「みじめなものさ……そうむちゃに喫むのはよし給え。 」
 この言葉で、彼は親友もまた、彼自身の敵の連累れんるい者になったのではあるまいかと疑いはじめた。
「おれは多分死ぬだろう!」
 彼は自分へ言い惑うように言った。
「また君は興奮してるね。 」
「そうかも知れない、見る人によっては……だが、そんなことは万々あるまい。 」
「そうかね、それならいいのだが……少し病気でもありはしまいかとも思った、それとも何か考えごとでもあったのか?」
「うむ、考えたかも知れない……」
 そうして彼は唇のあたりへ苦笑ともつかない青沼の優しい微笑を見逃しはしなかった。 彼には左右へ首を動かしている熊にも似た親友の態度がうるさく思われた。
「また何かね、それヴェトウェンが大工でなかったと言うことかね、それともゲエテは彼の生涯のうちに幾回口笛を吹いたかと言う例の事柄かね?」
 こう言った青沼は、腕を胸の上へ組み合せて、部屋のなかを調子でもとっているかのように歩き廻った。
莫迦ばかな、アハ、ハ、ハ、ハ……」
 彼は自分のひたいこぶしで叩きながら笑った。
「ああ、興奮はよくないよ、アスファルトなどのけむりたつような興奮はよくないよ……今度僕は三間の部屋のある家を貸りたのだが、君もそこへ来てはどうだろうかね? 少しは静養にもなるし……そこは郊外でね、そうしたまえ!」
「うむ」と、彼は思わずも口を滑らしてしまった。 「だが、おれは殺されたくはないよ。 殺されたくは……」
「殺す? 誰が?……君をかね?」
「アハ、ハ、ハ、ハ、解りはしまいね?」
「巻狩りをするのか、困るよ。 」
「君はどう考えた?」
「何を?」
「万事休す、そして生きた人間の魂を買収するのだよ。 」
「誰の?」
「人間の……つまり確かな証拠を握るために……しかし多分その人間が、いや、その男が捕えられた時には、彼はすでに破産者になっているだろう――狼狽と擾乱じょうらんと滅亡とそして眼には見えない悲惨との犠牲者になっているだろう……二重の復讎ふくしゅうになって……」
「よし給え、君の言っていることは、僕には嚥込のみこみかねるね、一たいそれは憤恨かね、それとも自己侮蔑かね……僕には解らない……君は何かへ対して挑戦でもしていそうだ。 そんな健全でない自己嘲笑はよし給え……それとも皮肉かね……君は君自身で妙な秤で評価しようとしている……」
「そうだね、歪んだ秤だよ。 」
「もういい加減のところですのだね、君はどうかしているのだ?」
「うむ、忘れるな、希望が湧いたのだよ。 」
「希望?」
「いや、貪婪どんらんな悪魔……」と、彼は言いかけて、彼自身を顧みて見ようとする気になった。 その時彼にはそんな衝動が感じられたのであった。 そうして彼の言ったことが、ついには滑稽こっけいな様子で解剖台の上へ転輾てんてんとするのではあるまいかと思うと、彼は自分の狡猾こうかつな態度がのろわしくなって来た。 そうして彼は、かなりぼんやりした文句ででも、親友青沼はすでに自分の敵であると悟らせようとしたことが恥かしくなって来た。 それに両眼を閉じてほおふるわしている親友が気の毒でもあった。 よし彼の言ったことが狡猾こうかつとは言われないまでも、取るにも足らない憤恨の安売であった。 言わば憎悪にはじまった復讐の態度であった。 そうしてそれらは唾を吐きかけられるものでなければならない、同時に意義を求める人々にとっては笑うべきことであったろう。 それこそ文字通りに彼自身が言った貪婪な悪魔の身振りに違いなかった。 彼は彼自身をメィフェストやヨブになぞらえようと無意識のうちに考えていたのであったと思えば興味がないでもなかったが、かえって肉体的の憂鬱ゆううつを感じさせられる方が遙かに多かった。 そうして彼は自分の手で仕掛けた罠に陥ったようなものであったと思えば、自慢の出来る話ではない。 そうして彼はとうとう独り言を言うようにしかも何気なくちょっとは思い出せない人の言葉をつぶやいて見た。
「や、これは全く日毎日毎の悲劇の永遠的な喜劇だ!」
 そうして彼は自分がその場にただ一人でいて、勝手な妄想にふけりきっているかのように振舞うた。
 間もなくして彼と青沼とは散歩に出かけた。 電車は頭を痛めるという我儘わがままな彼の申し出から二人は歩いた。 空は重苦しく垂れ下って来そうであった。 それに少し歩くとびっしょりと汗がにじみ出て来た。 彼は不思議に落着かなかった。 こんな気分が相手へ感じたせいか、彼が親友と腕を組もうとしたら、親友は恥かしそうにそれを拒んだ。 彼は声を出して笑った。 青沼は打たれた後のような顔色をして余り口も利かずに、絶えず何かを聞こうとするかのように耳を澄している様子であった。
 彼等は自動ピアノの据え附けてあるレストランで、軽い昼餐をとった。 そこを出てしまうと、彼は突然思い出したことがあるかのように、親友へ別れを告げた。 青沼は無言のまましかも彼自身の気のせいか、眼をうるおわせながら、数回頭を下げて挨拶あいさつした。 彼はもう少しのところで、親友の傍へ近寄って行き、その手を力強く握ってみる気になった。 しかし彼は遠くの方に電車のカアブする響を聞いて、ひょっくり気が抜けてしまった。 そうして彼は自分の足が、親友のそれとは反対の方向へ歩みはじめた時、全く別な考えに捉えられていた。 そうして彼の目前には、はなやかな躁宴の光景が、はっきりとしかも細やかに描き出されていた。 すると彼は現に自分が金の持合せを欠いていることに寂しさを感じた。 ふとこんな考えを逐いかけると、彼は自分の躯の置き場所に苦しむように感じた。 彼は自分の躯が、足の指先きからしびれて来るようにさえ感じた。 そうして今彼が歩いている弓型にたわむその町の通りは、急にその反対の方へ反り返えるように思われた。 彼はそんなとりとめない考えを楽しみながら歩いていた。 そうしてこんなふうに考え続けている一方では、これらの考えを、夕暮時、気まぐれにであるが、反射のために輝やく金色の潮ででもあるかのように思っていた。 それにしても現実の姿を失うこのことが、彼自身には大へんグロテスクな面影のように思えた。 そうして彼はデカダンスのような熱情にあおられて、そんな物象の陳腐な幻想に多分の興味をかれてもいた。
 その夜、彼は美角みます夫人を訪ねた。 彼女は生きた良人おっとを持っている未亡人であった。 そうして彼と彼女との関係は、彼女が彼の母親の遠い親族であるというに過ぎなかった。 彼女は三十初代の婦人であるにもかかわらず、胃が弱く、その上悪い血が彼女自身の顔に薄赤い斑点を描いていた。 彼女は類なく老婆心が強く、同情心も多分に持っている。
 彼は美角夫人の前で血をみなぎらせながら、かなりの注意を怠らずに語った。 彼は彼女の言葉ごとにその意味を探索した。 彼は彼女の考えを彼自身の胸のなかで臆測した。 彼は偽欺を固く包んで話をすすめた。 ――
「……で、僕はもう六ヶ月もすると大学を卒業します。 その時周章あわてたところで仕方がありませんから……あなたは信じて下さいましょうが……あの田舎の優しい母親をこちらへ呼び寄せて一つ家に住みたいのです。 僕は十分に落着いて、短かい六ヶ月の間にでも勉強したいのです。 それについては過分の金が必要だろうと思います。 」彼はずるく微笑ほほえみを隠しながら、「そして御存じの通りいろいろ事情が起りましょうが……事情と言っても、今のところ僕にもはっきり解りかねます。 ま、金が土台になる事柄です……と、こう考えています。 で、いつもながらそのお金を貸して頂きたいのです。 」
「ええ、そのようなことになるのでしたら、お母さんはどんなに悦ばれることでしょう。 ほんに、ほんに!」
 彼女は直ぐに答えて、この最後の声を本当に女らしい声に曇らせて、彼には見えない何ものかを遠く眺めるかのように息を濁らせた。
 そうして彼は故郷を出る時、彼の母が自活するようにと与えてくれた当時の大金は、未だ予定通り残っているが、それは彼自身が卒業するまでは費いたくはない、なお彼が学校を卒業してしまえば、直ぐ就職するにいいのであるから、そうしたならその借用金は、いままでの分ともに漸次に返済するであろう。 それともそれは、彼の母親が直接に返済するかも知れない……それから家の方であるが、それはすでに友人へ頼んで置いたのが郊外の方にあること、そうしてその家は、相応の家賃でしかも間取もいいなどと、彼の言うことを、美角夫人は、女の一種特有な綿密さをもって聞き返しながら聞き受けた。
 彼は馬に一鞭あてて、危険な細い峡谷を真一文字に馳け過ぎるように、自分の宿へ帰った。 そうして彼は今夜のことを昨夜に変る幸福とんでしまった。 この有頂天で、彼は美角夫人の先刻の微笑と涙とを幻にすら見た。 しかしこの幸福と称んだものは、彼自身が満足した誇りであったろうか。
 ……………
 彼が舌をみしめて、三百四十円と書かれた小切手を目にした時、彼女の顔は明かに微笑むともつかず、かすかに歪められていた。 そうして彼女は、低い聞きとれないぐらいの声で、その小切手を指差しながら、この余分は彼女の贈りものとして受けて置いてほしいと言った。 彼は軽く頭を下げて、直ぐその座を去った。 彼女は玄関まで送り出てきて、しきいに両手をついたまま彼が門を出てしまうまで、彼の後ろを見送っていた。 いま彼には彼女のそんな様子がまざまざと見えるような気がしてならなかった。 そうして彼女は、「あの男は何をあんなに喜んでいるのだろう、あたしにはその訳が解らない!」とでも考えている様子であった。 この考えが彼の気持であるだけ、それほど彼は訳もなく有頂天になって、その帰りには足早にしかも軽々しく歩調を乱していた。
「では御機嫌よう!」
 彼は門を出てしまうと後ろを振向かずに、小声でささやくように呟いた。
 ……………
 その夜、彼の胸は、有頂天に乱れてはいたものの、与えられた謙遜と同じ程度に暗く濁っていた。 彼はふくろうの声を耳にしなかった。 彼は外面的にはかなり落着いていた。 彼は自分の計画の齟齬そごしなかったことに興味を覚えた。 そうしていまは彼自身の迫害者さえこの非道に似た一種の犯罪をぎつけなかったと思えば、彼には何とも言えない無思慮の愉快感が感じられた。
 その翌日、彼はわきめもふらずに、町の昼の雑沓ざっとうをその中心から遠退とおのいた。 そうして彼がM――銀行で用を達してから約一時間は経過していた。 ――
 彼の債権者は彼へ笑いかけて挨拶した。 彼は口をつぐんで、眼球を風車のように動かした。 しかしその時、彼のポケットには、一日の煙草銭さえなくなっていた。 そうして彼の貧しい札にありつけなかった債権者の一部の者は、彼の顔をうるさのぞき込んだので、彼は一こと物を言わなければならなかった。
「三日後にするのだね、ではこの次に……いまは仕方がないのだから……」
 彼がそれらの債鬼へこう言ったその三日目の前日は、彼が親友青沼の家へ移転する日であった。

     *

 冷かな風はすばやい忍び足をして、青い空を横切って行った。 彼はこんな天候の対照でさえ自分の胸のなかが冷たくなって行くように感じた。
 彼は靴音のような喜びと驚きと怖れとの雑った一種の苦しみで、彼の母親から送られた手紙を読んでいた。 彼女は明日にでも上京して来るようなことを書いて寄越よこした。 そうしてそのことのみをその一本の手紙のなかに口やかましく繰返していた。 彼自身にとって必要なことは何一つ書いてなかったと言えるほどであった。 こんなことになったのも、美角夫人からの手廻しであろうと、彼は不快になって後悔した。 母親は彼が何事もせずに、我儘勝手に歩き暮していると考えている。 そうして彼女の考えに間違いはないのであった。 ところで、その用もなくぶらぶらと歩き廻ることは、この機会を利用して止めてほしいというのであった。 彼自身としても、こう言われるまでもなく、一日一日と遊び暮していることは、退屈であるばかりでなく、更に心苦しいことであるから、このことを思う瞬間からでもすぐ止めてみたい、そうして学校へも出席してみたい。 と、彼は願っている。 しかし彼はこう自分自身へ願っただけでどうにもならなかった。 そうしていつのころからか、彼は彼自身へ向って一種の好奇心を抱くようになっていた。 いまのところ、彼は彼自身へは分相応のつとめをつくしていると考えているのであった。 先ず彼は学校へ出席してみたいと願った。 しかし彼はすでに学校の方は放校されていた。 彼はこのことを思い出しはするのであったが、未だに学校には籍があるような気がしてならなかった。 こんなふうに思い耽っていると、彼は型の見えない巌石の階段を少しずつ降りているかのような恐怖に襲われるのであった。
 そうして今日と言われるその日その日は、更に彼自身の気持を暗くして行った。 彼は母親の手紙を読んだだけで、最早万事は露見してしまったのではないかと疑った。 そうしてその疑惑は一瞬ごとに波紋をひろげて行った。 美角夫人は彼を監視しているのであろう、それなのに何故彼女は金を与えたのであったろう。 彼女は嘘をかれたとは思わなかったのであろうか。 彼女は微笑みに輝いた真ならぬ偽を理解しかねたのであろうか、彼の言葉が彼女をきつけたのであろうか、彼の声の調子は彼女の心を衝き返さなかったのであろうか。 それとも彼女は彼の心のなかに見てはならない何ものかを約束したのであったろうか。 否、彼はすべて善い方面のみを見ようとしている――しかし実際彼は彼女の気に入るように骨折った。 彼は自分の心からの憔悴しょうすいを彼女の前で隠した。 彼女はいままでに見せつけられなかった彼の態度から多少なりとも驚愕と嫌悪とを感じなかったのである――そうして彼女には彼自身へ向ける疑惑の心などは更にないのである、否、そんな態度などは少しも見せなかったのである――と、するなら彼の生活を誰が彼の母親へ告げしらしてやったのであろう。 彼の母親には彼を見張るために密偵を差向けるだけの余裕はない。 それなら? 彼は考えなければならない。 それはたしかに何ものかが、その間に介在していなければならない。
「伝心?」
「分身?」
「陰謀者?」
 彼はまたしてもこんな考えのなかへき入れられようとしていた。 その時、親友青沼白心と約束しておいた荷車が今いる宿へ着いたので、彼は自分を不可解な彼自身から呼びさましたように感じた。 そうして彼は秩序もなく荷物をかたづけて送り出した。 彼は雪のなかを蹌踉よろめきながら進み行く人のように、その荷車の後ろへいて行った。

     *

 彼自身は、人が言うように、決して堕落しようとは夢想だにしていなかった。 彼自身には、他人から軽蔑されるだけの行為はあったにしても、それは自己の我執を刺戟したまでのことである。 その行為の動機は、それこそすべて、他人の冷淡と卑劣と羨望せんぼうと臆病とから生れる彼自身の恐るべき不安を愛することに根ざしてはいなかったであろうか、と、こう考え至るなら、彼にとっては、最早こんな事柄はどうでもいいことになる。 いまの彼にとっては、何でもないことである。 いまや彼は自分の敵に向って宣戦を布告するのであるから。
「宣戦を布告する……どんなものだろう?」と彼が肩をそびやかして威丈高いたけだかになるのに対して、「お前は馬鹿だ!」と誰かがその声のない言葉を舌の先きでまるめこんでしまった――彼は歩きながらこんなことを繰返し惑うていた。 突然、彼の歩調は乱れはじめた。 彼は息をはずませた。 彼は坂を登りかけていた。 車はためらいがちに進んだ。 彼は見るともなく前方を見ていた。 青沼白心は坂の上で、頭上高く手を打ち振りながら、彼へ合図をしていた。
「君、遅いね、また君は悲しそうな顔をしているよ!」
 彼は親友のその合図を彼自身の言葉に飜訳ほんやくしてみた。
 その夜、彼は床へ横たわりながら、襖越ふすまごしに親友と次の会話を取り交した。
「この家は坂の頂上にあるのだね?」
「そうでもないよ、少しは離れてる。 」
「……いまにこの家は坂の上から転落して行くぞ、おれの躯と一緒に……」
 彼は最後に自分の胸のなかで思わずも言ってみた。

     *

 日毎に彼は青沼の学校帰りが待たれると同時に、親友の顔を日の光のなかに見てみたいと思う心が劇しくなりはじめた。 そうして彼は町の方へも出掛けてみたいと時折はひょっくりと思い出すこともないではなかった。 こんな場合、いつも彼には夜の町を彷徨さまようている彼自身の姿が聯想された。 そうして彼は戸外の光をうるさいまでに浴びているかのように、床のなかで転輾てんてんとしていた。 しかし彼が親友の家へ来たその翌日から、彼自身の心に求めようとするもののあらゆる機会は失われていた。
「少しは早く床を離れて、そこらを散歩してみてはどうか。 」と、言ってくれる親友の心持は、彼にもよく飲みこめるのであるが、彼は一言、「ありがとう。 」と、言っただけで、口をつぐんでしまう。 そうして彼は親友の外出する跫音あしおとを、軽く自分の耳にいれながら、彼自身の胸のなかの我と話しはじめるのであった。
「おれは朝起きする、いや、少くとも昼前には起きなければなるまい。 だが、おれはそんな資格などは、うの昔に盗み去られてしまった。 おれは自分勝手におれの持っていたものをみな盗み出してしまった。 それでおれは自分で凍氷してしまった。 おれ自身の内も外もいまは冬の最中に閉じこめられてしまった。 そして、おれはおれ自身へ対して力がない。 何故なら、おれは自分の魂をおれ自身で剽竊ひょうせつして、誰かに売ろうとしているうちに、うっかりそれを取りおとしてしまった。 」彼は自分の胸のなかでのみ怒鳴どなるようにぶつぶつ言いつづけた。 「それでいておれの熱情は恐怖とともに満月のように輝いてきたが、その火花は見るかげもなく、何ものかにおおい隠されるように吹き消されてしまった。 そしてそれは定められた一点に発した一直線か一曲線かのように、何処どこへか見当のつかないところへ逃走してしまった。 ちょうどそれは、神様でも探すかのように、忍び足をしながら、何処かの廊下でも歩き廻っていることだろう。 そしてそれは禁断の扉でもたたくかのように、一つの秘密の跡をい廻していることであろう。 しかしたら、その秘密は、おれの嫉妬しっとであるかも知れない。 それにしてもおれなどには、最早嫉妬の感情などを持つだけの資格はない。 おれはそれほどの罰あたりであるかも知れない。 しかしおれは未だに過去の忘却の饗宴きょうえんの席へつれられてはいないのかも知れない。 何故なら、このおれの執拗な抵抗を見てみろ!」と、彼は誰へ言うともなく呟いてから、彼自身を顧みて、この言葉が自分の気持の上だけのものであることを恥ておそれながらも、優しく続けるのであった。 「おれは真実悲観はしていたろう。 そして無限に欠伸あくびをするほど草臥くたびれてしまった。 しかしおれは絶望はしていない。 おれはおれ自身で取りおとした自分の魂を新らしく探そうと彷徨さまようているのかも知れない。 そしてそれに違いない。 」彼は決定的にむしろ言い含めるのであった。 「それに違いはない。 おれは産前のありとあらゆる精力を尽したかのように、何ものかを切望していた。 それには先ず手近いところからと思って、いまさら言うまでもなく、一人の母親を、あの田舎のくすぶった他人の家にまぶたをこすりながらやっと生きている……一人の法外もない馬鹿な子を夢にみている母親を……裏切られたとは感じながら、未だに彼女の子を胸のなかに描いている母親を……」と、彼はささやきつづけて、はたと言いよどんだ。
「それはおれだ!」
「それはおれの母親だ!」
 そうして彼はいまさらのようにびっくりしてしまった。 今のいままで彼は彼自身ではない他の人のことを夢に見ていたかのようにさえ感じていたそのことが、彼自身のものであると思えば、むしろ奇妙な気持になった。 彼は想像の発明に耽っていた訳ではないが、自分ながら己のうかつなのんき者にはあきれてしまった。 こう気づけば、彼はその不真面目な、鉛製の玩具のような彼自身が、更に形而下のものに思えた。 彼はこんなふうに、彼自身をあざけりながらも、言葉では自分の身振りをつづけていた。
「おれは自分の母親をこの都へ呼び寄せる……おれは自分が身のほどに働いて……お前はもう働けないのだ。 お前には最早働くなどという能力はないのだ。 よく見てみろ、蜂の巣のように破れたその頭! 姿勢の外は飾れないその躯! 売却したも同じその胸のなかの魂のない心!……いや、これらは昔からの固定観念かも知れない。 そしてこれらはおれの舞台上の過程であるかも知れない。 こんなもののシンメトリーが、おれというものを、或型に入れるのかも知れない。 それこそいままでにない新らしい型の混合の最初かも知れない。 そしておれは形而上形而下以外の別のものになるのかも知れない。 そしておれは不死の約束に入れられて、新らしいものの継続をつづけるのであるかも知れない。 」彼は半信半疑の心で、自分自身をおどしながらも、黄金の都会へでも来ているかのように独り言をささやいた。 「それにしても、おれは浅薄にも溜息とともに大学をした。 一たいその遠因は何に拠ったのであるか。 それは思い出さなければならないほど遠い昔のことであろうか。 あ、それはそれほど遠い過去のことであった、それ以来、おれはずっとアンニューイという生物のような智力に苦しめられつづけて来た。 それは闇のなかにたたずむ真黒な刺客と何らの変りもないものである。 それは人間生活のうちで最も古くそして最も新らしく、時に従って更生を繰返している、その人生初期の観念に破れた、その反動のためであった。 少年期の失恋だ。 それ以来おれは天井裏をい廻る夜の蠅のような哲学者になってしまった。 おれは黄金の都会から墜落した覆面のエピキュリアンになってしまったのかも知れない!……」
 彼は虚言を吐きつづけて、のたれ死にする倫理学者のように、迷妄の境に彷徨さまようていた。

   ――影佐が青沼へ物語った或小説の筋――

「金貨のジャック!」
 娼婦達は、夜毎に繰返すこの言葉を胸のなかにつぶやいて白粉刷毛おしろいはけを動かした。
 彼女等のクインは、窓辺にもたれて、湾内の船舶を数えた。
 ダブリンの町とその湾とは、蒼白あおじろい光にあわただしい雑音を織返していた。
「仕事着の情人!」
 港の娘達は、戸口へたたずんで、湾内を渡って来る快い軟風を吸いながら、彼女等の胸へ叫びかけた。
 彼女等の母親は、台所で食器を友として立働いていた。
 夕方に三十分は猶予のある五月の暮方。
 E・E・E――商標。
 Fine Old Scotch Whisky――看板の黒い文字は逆に読まれる。
 このレストランのなかの卓子に、二青年が座っていた。 彼等は、先刻、海岸で互に言い交した言葉を、もう一度、胸のなかからカツレツの皿の上へ吐き出した。
「競争者、決闘だ」
「決闘? 競争者」
「ふむ」
「よし」
「決闘!」
「決闘!」
「今夜、客の前で――」
「客の前で――綱の上で――」
「フレンド・シップ・ダンスの時」
「フレンド・シップ・ダンスの時」
「真剣勝負」
「真剣勝負」
 緑や赤の灯は、港町を飾った。 舷燈は湾内の潮に浮動した。
 場末のサアカスの木戸は開らいた。
 ベルが鳴った――真鍮しんちゅうのベルであった。 楽隊のはやしは子供等の足を調子づけた。
 十五銭――サアカスの普通席。
 子供等は、母の唇へ粗忽そこつなキスをして、町の方へ走った。
 娘等は戸口を去った。
 夜は影をひいてひしめき合った。
 母船を離れた大小のボートは、陸を目がけて夜光虫のようにい寄った。 「金貨のジャック」は娼婦の窓を見上げた。
「決闘!」
 ペテロは、胸へ十字を切って、楽屋へ這入はいった。
「真剣勝負!」
 サルフィユは、楽屋の入口で舞台をのぞいてみた。
 満員
 鯨波
 拍子
 ……………
「どうせ金で買われて行くながれの身なんですもの唄いますわ、唄いましょう!」
 コールテーアは胸へ両手を組合せた。
「金は肉だ!」
 青服は顔をゆがめた。
「金は血だ!」
 大工はパイプをくわえた。
「金は呼吸だ!」
 壁塗職人は口笛を吹いた。
「マコトノヨ、ヒトリノオナゴ……」
「嘘だ」
「昏倒せえ」
「地獄へ出てゆけ」
「マコトノヨ、ヒトリネミドリゴ……」
「豚の子」
「尻尾をちょんぎれ」
「ハハノウデ……」
「スカートが燃えるぞ」
「金髪をとれ、そのかつらだ」
「栗色」
「不快」
「金」
「血」
「肉」
「呼吸」
「ヒッス」
「ヒャア、ヒャア」
「ヒッス」
 ……………
 女は男の前方へ腰かけて、靴下の穴をつくろうていた。 灯は柱時計の下に点っていた。 部屋は薄暗い。
「あたしのウィリイは……」
「何だと? 勝手にサアカスなどへやって」
 男はくわえたパイプを鼻の先でもてあそんでいた。
「……」
「あいつは好くはならんぞ」
「神様、あの子、ウィリイを守り給え」
 ささやく彼女のひざの上では、靴下の穴が大きくひろがっていた。
 ……………
「始めた!」
 ……………
 鯨波
 拍手
 ベルが鳴った――騒音のなかに、ベルは声高く鳴り響いた。
 拍手
 大太鼓。 小太鼓。 喇叭らっぱ――クラリオネット。 タンバリンはブリキのバネ仕掛の汽船のように震える。
 アダムの父は後脚を空へ蹴上げる馬の背に威張っていた。 いま、彼はミリタリズムの型に熱中している。
「猿!」
 彼は剣を抜いた。 百花燈に反射した一本の指揮剣は数千の瞳のなかへひらめいた。 彼は無言である。 馬はむちの響に一段と跳び廻った。 その度に将軍の尻尾は服のなかから空へ踊り上った。
 ……………
「煙草」
「ポケットだ」
 開らききらない娼婦の指にはダイヤが閃いた。
 鯨波
 拍手
「ペテロ!」
「サルフィユ!」
 二青年はレースの襞で白く縁どった青い上衣に赤い半ズボンを穿いて現れた。 彼等の剣は左の腰にってあった。
 鯨波
 拍手
 青年二人は高く張り上げた綱の反対の両端に乗って弾動した。
 ウィリイは微笑ほほえんだ。
「おれの世界だ!」
 彼は意味もなく空を見上げた。 天幕の裏が波打っていた。 彼は淋しかった。 彼がペテロでもサルフィユでもなかったので――彼は騒擾そうじょうのなかにせきをした。 一瞬、彼の瞳は曇ったが、泣いていたのではなかった。
「おれの憧れは憧れ以上のものではない」
 彼は身内をふるわした。 彼の疲れた瞳には軽い微笑みの色が浮いた。
「おれの才能はペテロを見るだけにも足りない。 ただ彼を楽しむに過ぎない」
 彼の眼は綱へ平行して走っていた。
「おれの才能はサルフィユを見るだけにも足りない。 ただ彼を楽しむに過ぎない」
 彼の掌には油汗がにじみでていた。
 楽隊
 鯨波
 拍子
「フレンド、シップ、ダンス」
「おいらのサルフィユ、しっかりせえ。 足元をしっかりせえ」
 ペテロは相手を少々馬鹿にしてかかった。 サルフィユは先ず彼の剣を突き出した。
 カチン
 火花
 ペテロは軽く腰を引いて、相手の顔をめつけた。
 カチン
 火花
 ヒュッ――ヒュッ
 火花
 火花
 汗――
 熱狂
 動悸
 熱い呼吸
 血の熱狂
 肉の躍動
 汗
 熱い呼吸
 心臓の鼓動は綱の上に波打った。
 声――
 声
 怒
 怒
 火花
 憤怒
「おいらのペテロ」
「おいらのサルフィユ」
「しっかりせえ」
「それッ」
「右だ」
 カチン――カチン
 恐るべき光景
 笑うべき光景
 観客は両人の事情を露さえ知らなかった。
 楽しむべき光景
 恐るべき光景
 観客は両人の決闘を演技の一つと思った。
「ヤッ」
 綱は波のように弾んだ――空気は血の色をしてひらめいた。
「畜生」
「右だ」
 カチン――カチン
 火花は散った。
 サルフィユは背撃を食って、身体の中心は落下に奪われた。 瞬間、彼はもんどりうって、両手でしっかりと綱をつかんだ。 綱は大波を打って、空気を裂いてはげしく揺れた。
 ペテロもまた、はずみを食って転落した――しかし彼は頭部をさかさにして、足をもって綱にぶらさがった。 綱は弾んで鳴った。
 拍手
 鯨波
 観客は荒された丘の畑のように乱れ、どよめくままに鯨波とともに総立になった。
 渦巻く声――
 渦巻く声――
 高翔する声――
 空気は意識あるもののように鳴った。
 この記念すべき光景――
 この記念すべき言葉――
 狼煙のろしのように、サルフィユの言葉は空中へ突進した。
「満場のみなさま、御覧下さい。 ペテロの靴のかかとに附いている金具を御覧下さい。 ペテロ君が、きょうまで、綱の上で暮して来た金具を御覧下さい。 おれよりもすぐれたようなふうをして……」


 彼はこう語り終って、空を見上げながら自分でも解らないことを低い調子で独り言していた。 そうして彼等二人は、いままで思い思いの考えごとを楽しんでいたかのように、無言のままでしかも顔を隠し合いながら、さびれてゆく秋の庭を眺めていた。
「ペテロとサルフィユとの心理は一応呑込のみこめるが、話としてもその表現はイージーゴーイングだね、しかし大へんすばらしい思いつきだよ……」
 彼の親友青沼白心は、突然投げつけるように言って、折り立てた膝の間へ自分のあごを挟んで、庭の隅の方をみつ[#「目+嬪のつくり」、194-上-15]めていた。
「思いつき……書けるかね?」
「ふむ、イマジナティヴ・コンポジションと言った方がいい、書くとするなら……」
「ふむ、しかしこれは、おれがいままでに見た映画のつぎはぎさ、本心を言うと。 で、おれは(夢に見た映画)と題をつけておいたぐらいだ。 形式についてもかなり作意したつもりだ。 いま話したあのまま書くつもりだ。 それにしても純然たる竊盗かも知れないが――くだらないテイマでね、うっかり書いてしまうものなら子供じみたモラル風の味のほかはでそうにもない、それともそんな味さえ消えてなくなるかも知れない。 焦点がなくなって。 つまりやぶにらみになって……」
 彼はいままでに思ってもみなかったことを言ってから、かすかに忍び笑いをした。 それは彼自身のためにであった。 そうして彼には、柄にもなく大仰なことを言ってしまったことが、劇しく後悔されはじめた。 彼の言ったことは、すべて過失として後悔されはじめた。 彼は出来るだけの機会を捉えて親んで来た所謂いわゆるイマジナティヴ・コンポジションが、たった一言で無惨にも蹴散らされたと思えば、それまでのことであるが、蜂の巣のように破れている頭を信じている自分が情なく感じられた。 そうして彼は未だに彼自身の自惚うぬぼれに酔うていないこともなかった。
 そうしてあのコンポジションのうちに、ひょっこりと思いついたあの気の毒なウィリイこそ彼自身に外ならないではなかろうか。 ところで、あんな筋の話は、所々方々、いたるところに捨ててあるものだ。 それを彼はいかにも自分が作意したかのように言いふらした。 彼は親友の気持を欺いてもいいと思うほど、彼自身の虚勢が大切であると考えていたのであろうか。 それにあの気の毒な少年は、彼自身の対象として、直面的に見、極く簡単にではあるが、かなり貴重な置地においてある。 勿論それはあれだけの説明では足りない、と彼は考えている。 しかしいくらかは何事かを訴えるだけの力は含まれていないこともない。 それともそんなことは少しもないのであろうか。 神のような心をもっているあの少年が、彼自身と同じくあらゆる機会を取り逃がしている。 少年は何事をかなそうと考えている。 家を逃げ出してサアカスへ加入させて貰うことを無想しているのかも知れない。 少年は果して何を考えているのか。 しかしウィリイは泣き笑いの生活で満足しているらしい。 これはかくとして、彼は親友の言葉でかなり機嫌を悪くした。 彼は親友をいままで見誤っていたのであろうか。 しかし彼は親友の言葉を意地悪く受けいれてみたとしたところで、どうして悪かろう。 そうして若しも彼が親友を欺いたとしても、彼自身の虚勢は本物の虚勢であったろうか。 それが果して本物であったとするなら、それこそそれは、嫉妬の感情などを持つも恥かしい彼が、自分の親友に抱いた嫉妬の感情ではなかろうか。 そうして彼はわずかばかりの考えと僅かばかりの感受性とをもって、幻の表現に過ぎないこの人間生活のなかから、あらゆるものを見た目だけで確実なものであると見取ったこのことを、彼は恥かしく思いはじめた。 彼はものの影――言葉の言葉、動作の動作――を見極められないことを情なく思った。 彼は重々しい霧のなかを彷徨さまようているかのようであった。 突然、彼は人の歔欷きょきを耳にしたように感じた。 その歔欷は何処どこからともなくかすかに流れてくるともなく彼自身の胸のなかへ深く泌み込んできた――彼はただ一人さびれはじめた秋の末の庭先の縁へとりのこされていた。 親友は彼一人をそっととりのこしてそこを立ち去っていた。 ――そのことに気づくと、彼は自分がむせび泣きしているのであると思うより外はなかった。 彼は自分の噎び泣きさえ感じないほどの反動的の静寂のなかへ浸り切って、無意識のうちに噎び泣きしていた。

     *

 彼が東京のイルミネイションを見なくなってから二週間以上にもなっていた。 彼のいま住んでいる町――東京に接続した西北の町は、秋の荷の往復でせわしい。 遠くの森の色は色せはじめた。 秋の季節も過ぎ去ろうとしていた。 そうしてこの間にあって、彼は田舎の母親へ数回手紙を出しそこねた。 ――身のおちつくまでお待ち下さい――というのが、彼の母親への文面の主要なるものであったが、しかし彼にはどうしてもそのことが書き流せなかった。 そのうちについ書くことが消えてしまい、そうしてとうとうそれは忘れるともなく全く忘れはててしまった。


 ―――――
 私には悲しく思われます。 あなたが決して嘘を申されたとは思いませんが、此度このたびあなたのなされた態度は無情なものです。 私は親切を売物にしたのではありませんが、すべて水の泡となって消えたのでしょうか。 善は急げとか申して居ります。 一刻も早くお話のこと実行なされては如何いかがです。 母上からは三度程お手紙がありました。 ……
 ―――――
 彼は横に腹這いながら美角夫人からの附箋づきの手紙を読んでしまって、思わずも……――これは全く――……と、訳の解らない一種の不快をおさえるかのように、彼自身へ言ってみた……――おれは母の信用を質入したようなものさ。 ところで、まだその期限は切れそうにもないぞ。 ――……
 彼には最早自分の母親を呼び寄せるだけの望みも楽みもなくなっていた。 彼の心も身もともに、闇が冷たい風とともに狂おしくひしめき合っているそのなかに彷徨さまようているかのようであった。

     *

 ―――――
 南と北から家屋が建てこめているため、常に日光に遮られている薄暗い道路の行当りに、芥溜ごみためが見える、そこにミノルカではないが大きな黒い一羽の鶏が餌をあさっている。 彼はそこを目当に歩いている。 そこまではかなり長い道程があるらしい。 左右の家は書割舞台ででも出来ているかのように、絶えず震えている。 歩いている彼ははたと立ち悩んだ。 彼の足元には五銭白銅貨が、一ツ、二ツ、三ツ、四ツ、……十一、十二、十三と数えただけおちていた。 鈍く光って彼の瞳をひいた。 彼はその白銅貨を拾おうともせずに、くびを傾けながら歩きはじめようとした。 その時彼は芥溜の方へ向って、左手にあたる一軒の屑物屋を見つけた。 蒼白い顔の小娘が障子の穴から戸外をのぞいていた。 彼は彼女をちらりと一瞥いちべつした。 彼はびっくりした――この瞬間、彼の暁の夢は音もなく影絵のように崩れて消えてしまった。
 彼はひょっこり夢みたこの夢を余り気持のいいものとは思わなかった。 十三個の白銅貨は、期せずして彼自身の悪い兆を予告されたようなものであった。 しかし彼は奇妙な興味をそそられない訳でもなかった。
 ―――――
 その日の午後遅く、太陽がまだ空に輝いていたころ、彼は自分の親友の家へ来て以来、はじめて外出する気持になった。
 彼はそのへんの医者ではないが、人力車に乗ってみたいと思った。 大たいこの考えは何処どこから湧いて来たものか、彼自身にも解らなかった。 それにしても妙な思いつきであると思った。 これはてっきり彼が未だに暁の夢にかれている証拠ではないかと思われないこともなかった。 彼は車へ乗ることを止めてしまった。
 彼が半ヶ月も前まではよく歩きつけていたその通りへ彼自身の姿を見つけた時、彼は一種の暗示にかけられているのではないかと思った。 その瞬間、彼は突然に思い出すことがあって、自分の路をもと来た方へ引き返した。 そうして彼はいままでに一度か二度ぐらいは通り合せたことのある、その裏通りの密集家屋へ誘いこまれて、一歩毎にめりこむような路上を足早に過ぎて行った。 彼は自分が逃れているという気持に逐いかけられていた――彼の行手は不意に妨げられた。 母の手を離れた小児が路傍へい出て来て泣き叫んだ……と、彼の靴は地面を離れなかった。 彼は※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがいた。 その刹那せつな、彼の目前には、色あざやかに影絵のようなものが浮動した。 頬のこけおちて、瞼のたるんだ、見るからに生気のない若い男が、無意識というよりも故意に、彼の足元をふさいでいるその小さな人の子をつまみあげて、傍の溝のなかへ捨てようとした。 彼は躊躇ためらいがちに、その男をつかまえた。 同時に彼はおもむろにその小児を拾いあげて、途方に暮れた。 その時彼の両手でしっかりと支えられていたその小児は、誰か他の人のために無理やりに引きとられていた。 彼は驚き以上におののきを感じた。 ――彼の目前には、今朝、彼が夢に見たと寸分変りない、あの蒼白い顔色の小娘がたたずんでいた。 そうして不潔ではないが色褪せた花形模様の着物を着ている彼女は、いまは泣き止んでいるその小児を抱いていた。
 彼は淡い気持から彼女をなつかしんだのであったが、一言も物を言いかけなかった。 彼には何事かが予想されるように感じられた。 それにしても、あの若い男、あの頬の恐ろしくこけた男、あの瞼の垂れ下った男は、一たい誰であったろうか。 一たい何処どこから現れて何処へ消えて行ったのであろうか。 こう考えると、彼は自分を嘲弄ちょうろうした自分の敵のように、彼自身を嘲弄してみたくなった。
 しかし彼は真面目に考えてみなければならなかった――あの蒼ざめていじけきった醜い男は、一たい何者であったろうか。 彼自身の敵であったろうか。 しかしどうみたところで、あの男は彼自身によく酷似していた。 それならあの男は、彼自分のドッペルゲンゲルであったろうか。 それにしても、彼は現在離魂病をわずらっているであろうか。 かく、あの男は、一たい何の目的で、あの場へ現れたのであろうか。 彼を苦しめるためにか。 小児を殺す目的であの場へ現れ、その罪を彼へなすりつけるためにか。 それならそれは彼の敵の仕業であるに違いない。 ――こう考えながらも、彼は彼女の後へついて、彼女の家まで行った。 彼女の家は、彼の夢とは多少の相違があったにしても――そこは屑物屋ではなかったが――ほぼ相似た様子だった。 玄関のない出入口を持っていた。 彼女は彼が無断で他人の家へ近づくのをとがめはしなかった。 彼女は彼を振り返ってみた。 うちみたところその顔は、十七八にも見えたが、そのまなざしは小児らしく悲しそうに見えた。 そうしてその飾りけのない眸は、見栄えはしなかったが、どことなく気品のある彼女の顔につりあっていた。 この様子は真直ぐに彼自身の胸へひびいてみこんで来た。
 彼は彼女の様子をうかがいながら、とっつきの障子の隙間すきまからそっと内のなかをうかがってみた。 その上り口から直ぐの薄暗い部屋には、人の動く気配がしたと思うと、力のない咳が彼の耳をコホンコホンと打った。
「姉さん!」
 彼女は床のなかの人を呼びかけて、抱いている小児を、その床のなかへしずかに押しこんでやった。
「部屋を借して下さいませんか。 」
 突然彼は言った。 彼は自分のうわべを隠さなければならなかった。 彼は彼女に対して興味以上の何ものかを感じていた。 それは疲れ切った夢のおりであったかも知れない。 彼はこんな滓のようなものにさえすがらなければ生きてはいられなかったのであろうか。 彼女は当惑した様子で前掛の縁をもてあそんでいた。
「帰れ!」
 彼は自分の胸のなかへ叫びかけた。 しかし彼はもじもじしている彼女の態度を見守っていた。 彼女は無言で立ち上った。 彼女は庭へ下りて戸外へ出た。 そうして彼へもいて来るようにと、その身振りで示した。 彼は彼女の背を逐うた。 彼等二人は、上半身を斜によじって、ようやく通れるぐらいの路地をくぐり抜け、余り広くもないその裏の広場へ出た。 そこには先ずありそうに思える井戸があった。 その傍には崩れかけた小さな土蔵がひしゃげて立っていた。 そこは彼女の家の裏口に当るところであった。
「ここはどう?」
 彼女はその土蔵の戸を開けながら言った。 とぼそは砂をんできしった。 彼は開けられた戸口から内の様子をひとわたり覗いてみた。 がらん堂でしかも淋しく黙した内部は、彼の薄れている瞳を迎えた。 そこは外見よりは綺麗でもあった。
「明日から来ます。 」
 彼は低い調子のしわがれた声で言った。
 ―――――
 青沼は影佐が明日一人で転居するということを聞いた時、黙したままくびを振って点頭うなずいた。 そうして青沼はペン軸を読みさしの書物の間へ挟んだ。 親友は何か物を言いたげであった。 彼はしずかに部屋を去った。 月が昇っているのか、ただ閉めてない廊下の上はほの白く灰色に鈍っていた。 そこを踏む彼の足裏はひやりと冷気を感じた。

     *

 彼の自由な生活は冬と春との境のように活気づいて来た。 八畳敷ぐらいに見えるその土蔵のなかに、彼は床を敷いたまま枕元には――「宝石培養法」――「毒人参ヘムロック」――シュワルツ・ホフマン博士が、人間の影を水銀のなかへ保存したことを書いた、「灰色のスフィンクス」――その姉妹篇とも見える、「影人形」というのは、ヘレナ・ベルベルという旅行好きの伯爵令嬢が、或廃墟となった古城の壁のなかから抜き出して来た人間の影と交渉する小説である。 ――「ヴェラ・リカルド夫人の橢円形の指輪」という、これはヴェラ・リカルド夫人が、アフリカ探険に行った良人おっとに死別して、間もなく再婚するその結婚披露式の夜、或未知の外国人から貰った橢円形の指輪の怪奇的物語で、ちょっと見ると宝石のようなその橢円形のものは、実は獅子ししの生きている右眼が嵌込はめこんであるというところから、その物語は二百頁も続く。 ――「声論」という題で、紀元前二百年頃のアンセルムと呼ばれた哲学者の研究した、我々人類その他の生物及び無生物の音声、音響、即ち「声の行方」に関する論文――それから人の口の端によく言われている、「カアバスのカアレンダアス」や「カアマシャアストラ」や「十万白龍」――等その他数十冊の書籍を積み重ねてみた。 これは一つには、屏風びょうぶ代りで風を妨ぐのに役だった――彼の部屋の空気は、これらのもので怪しくふるえていた――そうして彼は、なお自分の手のとどく限りのところへ水差や煙草や鑵詰等を並べてみた。
 ―――――
, , ,
Itself,
by itself,
solely ONE everlastingly
and single
, , , , , , , , ,
Ce grand malheur,
de ne pouvoir ※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)tre seul.
, , ,
 時として彼の部屋は、故人の書籍から忍び出て来たと思える文字で、深夜のシャンデリヤのように奇妙に寂しくおののきつつ輝いた――そうして彼はそれからの幽霊を相手にして楽みに耽った。
 そうしてこれらの文字の幽霊は、おや! おや! と飽きれ果てるほどの蝶や蜂のように入雑いりまじり、入乱れて飛び廻るかと思えば、不意に家のなかへ舞込んで来て驚き廻っている小鳥のように、彼の部屋のあらゆるところを飛び廻り、ついには食器のなかへまで飛びつき這い廻った――それはちょうど、歓喜とか恐怖とか死とかの極印のようであった――蝙蝠こうもりのように、何処から現われるともなく、何処へ消えるともなく、ひらひら、ひらひらとファンタステックに明滅していた。 それは最初こそ、彼には楽しい想像の接穂つぎほとしても親まれたが間もなくするうちに、それはおそろしい恐怖の予言のように思われはじめた。 そうしてそれは、呪文の影でもあるかのように、彼の脳のなかへ射込さしこんで来た。
「おれの敵は姿を変装して来た、ちょっと油断をしているうちに!」
 こう思いながら、彼は自分の眼を四方へ見張った。

     *

「雪だろう!」
「雪だろう!」
 或日の夕方であった。 ――
 ひょっこり彼の耳へ、こんな会話が表口の方からひびいてきた。
「雪だろう?」
 彼はうっかり寝床のなかでつぶやいた。 そうして彼は自分の部屋のなかへひしひしと襲いこんでくる寒さを身震いしながら感じた。 たったいま、そんな寒さが急に自分の部屋を訪れて来たかのように、彼は大へん迷惑にさえ思った。 そうしてそれからの目に見えないものどもは、彼の部屋の唯一の楽しみでもあり、夜の話相手でもあるランプの光の周囲へかじかみながら遠慮会釈もなく集い寄った。 ――その時の彼の身震いは、あながちその寒さのためばかりではなかった。 彼は自分の敵を自然現象のそんな一つにも空想してみたから――彼の敵――彼は最早その一種の圧迫を空想の仲間にはして置かなかった。
「敵の襲来?」
 この奇異な神経発作を、彼は自分が彼自身によって弄絡されている病魔と思わないこともなかった。 しかし彼は――おれの敵はおれの油断を見すましているからには――と、自分の心へ向って、注意を怠らせまいとした。 そうして彼は自己催眠にでもかかっているかのように、何ごとにつけても、自分自身へ向っては、――「おれの敵」と言い含めてしまうのであった。
「おれの敵。 」
 この言葉は彼の口を離れなかった。 そうしてこれは、彼の極く不健康な折の神経的の悪気体であって、彼の日常用いている器物へ附着し、時としてそれが極偏性の感応を作用しながらふとした機会で彼の皮膚へ触れ、何ごとか奇妙な副作用を起しているもののようであった。 それは神経的と言うよりもむしろ肉体的のものであった。 肉体的憂鬱の圧迫を鼓動していた。 その波動が拡がるにつれて、すでに滅亡しているも同然な彼の心臓はふるえた。 何らの反動も起らなかった。 しかしその虚ろなしんの臓のなかでは、目に見えてない盲目的な颶風ぐふうが疾駆し廻っていた。
 こんな時、彼は自分を奇妙な気持でいたわりながら、華かな群集の一団でも眺めるように、瞬間的にではあるが彼自身を顧みてつぶやくのであった。
「この不幸!」
 この次にきっときまって叫ばれる言葉。
「何? 破廉恥はれんち漢、泥酔漢!」
 彼は訳もなくののしっている自分の声のない声を聞くのであった。 彼は意味のないものへ意味をつけて、非常に不快な気分に襲われていた。 そうして彼は自分を折檻する自分の敵は、すでにその陰謀を暴露したとも考えた。 彼は危険の近づいていることを嗅ぎつけたとも考えた。 ――それは灰色の影ではなかった。 それははかなく感ずる成長しかけた夢ではなかった。 それは不規則な連想ではあったが、彼の胸を目がけて、死の烙印をおしつけてくるものであった。 彼はそれから逃れることを考えなければならない。
「死?」
「死!」
いつわりならぬ真実!」と、東洋の詩人がうたったそのことが、彼には賞牌しょうはいの浮彫でも見るように、手探りの敏感さで、自分の皮膚へ感じられたように思えた。 その賞牌の表面へ堅牢に浮き上っている線! 彼には、その線を指先ででも触れながら楽しむように、言葉で呼ぶ死というものが大へん興味をもって眺められた。 しか彼は自分へ向って、その死という連続的の真実を見たことがなかったとは言わなかった。 その死の自存を感じなかったとは言わなかった。 また屍灰から生れ屍灰のなかへ没して行くその死を知らなかったとは言わなかった。 そうして彼には、その死というものが一種の生物で、しかも死自身はまさしく殺生鬼であると思えた。 この殺生鬼は、空想から現実へ、足音もなく忍び寄ってくる。 この死は、大股に濶歩かっぽして、あらゆるところを歩き廻る。 死を背負うた人間。 この殺生鬼は、彼の胸のなかへ、真昼の幽霊のように、姿もなく巣食うてしまった。
「死を珍客として歓待する者が、この世に幾人あるか。 」
 彼は底知れない神秘な真実に逐いまくられて、不意にこんなことを呟いた。 彼は思うさま、自分の声を揺って笑ってみようと決心したのであった。 ――この瞬間、何ものかの啜泣すすりなく響が、彼の耳もとをとぎれとぎれに過ぎていた。 そうして屋外は恐らく雪が降っているのであろう、さらさら、さらさらと軽いこまかい音がしている。 どっしりした空気その物の重みのような淋しい沈黙が、彼の体全体で感じられた。 軽くこまやかに雪が降っているのであろう。 そうしてそのなかをとぎれとぎれの啜泣が伴奏している。 彼は耳をそばたてた。 ものの十秒とも経たないうちにその啜泣は波打つ歔欷きょきと変った。 ――慟哭どうこくの早瀬となった。 ――
「お柳……?」
 彼は自分の声でびっくりした。
「お柳が泣いている……おれに部屋を借してくれたお柳が泣いている……」
 ―――――
 彼の部屋(土蔵)にただ一ヶ所よりほかはない窓から流れこむ日光は、彼の顔へ軽くじゃれついていた。 彼は日脚のくすぐりでねむりをさました。 しかし悲しい荷物を背負って旅歩きしている人のように、浅い眠りより外は眠ったことのない彼には、未だに夢のなかに取残されているように感じられた。 そうしてあの出来事は、恍惚こうこつとして醒めきらないこの苦い快感のなかに、未だに織りこまれている。 彼はお柳のことを考えはじめた。 彼は怪しく織りこまれたその糸口を手探りはじめた。 そうして彼は夢のなかのことのようなその空想によって、しばらくの間を楽もうとした。 彼は自分の空想のなかで、お柳とともに話し合うてみたいのであった。 ――ほとんど話と言っては互に語り合ったことのないお柳と。 ――否、彼は自分を奈落の底へ陥れた、彼自身の胸のなかの最初の対象であった相手と話し合ってみたいのであった。 そのために彼は自分とその女との間へお柳をさしはさんでみなければならなかった。 それが嬉しかった。 一層はっきりと彼の瞳へ映ってくるものがあった。 十年も以前、彼はその女を愛した。 ――恋した。 しかしその女は、花火のような愛情のひらめきを残して、その家族とともに遠くへ旅立った。 彼女の離別の言葉は、彼を悲しませた。 そうして間もなくして、その言葉は、彼女のこの世への死別の言葉となってしまった。 ――その時彼女は一人の少女の母親であったと、少年であった彼は聞いた。 彼は花嫁姿の彼女を目前に見たように感じた。 その彼の幻想に映じた彼女の姿は、ただ光り輝くまなざしが深い印象を残した。 そうしてその後、彼は夢のなかで、彼女に逢った。 しかしその時、彼女は、その姿の消える瞬間に、朱の色をした顔へ形の大きな真白な眸を現わした。 ――彼は自分自身がおそろしいと思った。
 そうしてその後、彼の生活は一匹の虫の生活にも値しなくなった。 彼は地上を這い廻った。 彼は一種の処女機械のような成人になった。 極く短い期間のうちに、彼の躯は陰鬱と恐怖と悲嘆との雲におおわれた。 彼は純粋と情熱とを失った。 ――少年の智慧を失った。 ――疑惑は彼を捉えた。 ――そうして彼は、悲しくも彼自身を見失ってしまった。
 ―――――
 お柳が現れた。 ――あの女と全き「同一性」を持ったお柳は、忽然こつぜんとして彼の目前を過ぎて行った。 ――お柳があの女の子としたなら。 ――年限から言ってもそんなことはあり得ない。 ――彼女自身?――彼は刻み込むような戦慄を感じた。 ――お柳とあの女との物柔かな声……蒼白い顔……頬の線……鼻そのものが宿す深い影……冷たく輝く愛情の窓である眼……ひたい……これらの相似はこの世にあり得る暗合であるかも知れない……しかしその表情?――彼はいま寂然としている自分の心へ言いかけてみた。 答えはなかった。 彼は冬の日の淡い日光の直射から自分の顔をそむけてこの穏和に幸福なしかし淋しくないこともない思い出とその幻想とに耽っていた。 彼には自分が何ものかにそそのかされているという考えが湧いて来た。 そうして彼の敵が目には見えないところへ伏線を敷いて待伏せしているようにさえ感じられた。 しかも彼女という肉体のない幽霊を使って、彼の蜂の巣のように破れた脳を煽動せんどうしているようにさえ思えた。 そうしてお柳という女を使って、彼女の肉体を再現せしめている。 彼は怕ろしいと思った。
「悪魔!」
 彼は思いがけない驚愕に襲われたかのように、床を蹴って立ち上った。 彼は獰悪に歪んだ顔を打ちふりながら戸外へ出た。 彼は眩暈げんうんを覚えた。 彼は跛のように蹌踉よろめいた。 彼の眸ははじけるようにうずいた。 物の色別も出来なかった。 頭は叩かれているように痛んだ。 そうして最初に彼の眸へ射流れてきたものは、浅く雪におおわれた日蔭の屋根であった。 彼はまぶしく天空を見上げた。 溜息がれた。 汚く湿った土壌は、遊糸かげろうのような日光をむさぼり吸うていた。 水蒸気がゆらめいていた。
 彼は思い出したようにお柳の家の方を見た。 お柳は台所の隅で、立ち悩むままに顔を蔽わずにまた泣きじゃくっていた。 お柳は昨夜から泣きつづけていたのであったろうか。
 彼は再び部屋へ戻らなければならなかった。 彼はお柳へ向けて湧きはじめた思いやりを殺さなければならなかった。 彼は彼女を恐れた。
 ―――――
「お柳は祖父じじさまが死んだので泣いてばかり居ります。 」
 その日の夕方、彼は井戸端の会話の一節に、こう言うている老婦の言葉を聞いた。
 お柳の祖父? 彼はついぞその人を見かけなかった。
「永く床についていた人であろう?」
 彼はふと自分の故郷の言葉で、死の意味を現わす言葉を無意識に呟いた。
「床?」
 彼は再びこう呟いて、自分自身を顧みた。 そうして彼は彼女の祖父の死よりも、彼女の悲観にも増して、この床と言う言葉に悩まされた。 彼は自分の躯が、裂け、破れ、乱れ散るように、悩乱した。 そうして彼は、自分が昼も夜もわきまえずに床に横わっていることを怕れはじめた。
「死ぬぞ! おれは死ぬぞ!」
 彼は死期の間に迫って来ているかのように叫んだ。 そうして俺はこの「死」を嚥下えんかしたかのように、――それは精神を錯乱させながら、おもむろに生物の生命を毒殺するアルカロイドをみ込んだかのように、感じさえした。 否、彼はこの言葉を自分の敵の毒薬と思った。 彼はその敵がこの毒薬を、無理無体に自分の体へ注ぎこんだようにさえ考えた。
 ―――――
 お柳の祖父の葬式がすんで、二十八時間経過した。 お柳の姿は、不慮の神隠かみかくしに会ったかのように、その家には見られなかった。
 彼は破れた土蔵の立退を申込まれた。 それは命ぜられたと同じことであった。 彼は怒った。 彼は胸をおののかせた。 一言の返答も出来なかった。 しかし彼はついに一両日の猶予を請うて、黒皮カバンを抱えたその男を帰した。
 その夜、彼は何処に入口があるのか解らない宿を訪ねた。 その途中、彼にはあの葬儀社の黒ぶちの猫も、あの警官の眼も気にはかからなかった。 彼はそれほど急いでもいた。 そうして彼の内心で強く大きく振子を振っているものは、「床」というただ一語であった。 この一語は、絶えず憤恨と憎悪と復讐との重々しい身振りを繰返していた。

     *

 彼は再び下宿生活をはじめた。 新鮮な感興は湧かなかった。 彼は日夜巻煙草を楽んだ――彼の手の指の内側は、黄褐色の脂でただれてしまった――指の爪は、宝石ででもあるかのようにセピア色に輝きはじめた。 そうして彼の胃は、彼を憎み嫌うかのように自ら損じはじめた。
 ―――――
「おれはおれの躯を愛しそこねた……何もかも最後に近づいた……悪口の矢をたてられ……誹謗の疵痕きずあと……悪感情の悪戯いたずら……侮辱と意地悪……譏誚きしょう……嘲笑と挑戦……嫉妬?……嫉妬!……復讐……おれはおれの躯を愛しそこなった……」
 彼が自分へ向って呟く小言は、日に日に同じことを幾回でも繰返すようになった。 ただ口に言うより外の言葉は知らない小児ででもあるかの様に――
 ―――――

     *

「きょうはやめる。 」
「どうしてですか。 」
「それでは……君の言いなりでは、物の道理に合わない……」
 彼は言い切った。
 ものの二時間も費して、さんざんに取散らかした書籍をかたづけようともせずに、古本屋の主人は帰った。
 彼はきょう古本屋の主人を呼び、書籍全部を売却する考えであった。 そうして彼はその金で何処へか旅行するつもりであった。 ところが彼には古本屋の主人の言うことが一一癪に触った。 本屋は流行の本ででもなければ価値がないと思い込んでいる。 この売れゆきのことは別としても、書物を手に持ったか持たぬさきに、直ぐ無造作にそれを投げ出す本屋のしうちに、彼は腹をたてた。 彼は内心怒った。 彼にはその様子が見ていられなかった。 ちょうどそれは指一本ずつ切って捨てられるような苦痛であった。 それに三十前後のその主人は、一ことごとに変に語尾を長く引きながら、へ、へ、へと笑う。 その笑いを飲料物のように飲みこんでから、にやりと顔全体で笑う。 反古紙ほごがみのような顔。 彼はその顔に嫌悪を催した。 大方はこんなことで彼は一切その申出を受けつけなかった。 そうして彼は肉眼には見えないものの声に耳を傾けた。
「君はおれを忘れたのか――
「それは忘恩というものだ――
「おれは十分君を憎む――
「それはおれを愚弄したことになる罰だ――
「おれは十分君を憎む――
「おれは冷たい吹息を吹きかけられたところで、決して曇るようなものでないからね……ま、君の燃えかけた蝋燭のような心を憎む――
「おれは懇願するのではない――
「君の態度はよくないと忠言する――
「壁の表にぶらさがっている時計へ向って欠伸あくびばかりしている君は、くたびれて飛べなくなった鳥のようなものだね――」
 取り散らかされた書物は、一一彼へ話しかけていた。 彼は途方に暮れた。 そうしてそれぞれの声は、ちょうど同一の音調を打ちつづけて、何処まででも進んで行くいろいろのキイででもあるかのように、それぞれのおしゃべりをつづけていた。 そうして彼は、人間の音声を聴くことを奪われた永遠の島のなかの人のように人間の言葉を聴き得なくなった。 人間の言葉を忘れてしまった。

     *

 或日――
 親友の青沼白心は、突然にひょっこり現われた猫のように、彼の下宿を訪ねた。 親友は大へん落着いた調子で話しはじめた。 しかし彼には、親友のしゃべっていることが一体何ごとであるか少しも飲みこめなかった。
「で、君は是非とも浦和博士に面会してみるのだね――」
 いつの間にか彼の耳はこんな言葉を捉えていた。
「浦和博士?」
 彼は彼等の会話が、たったいまここからでもはじめられたかのように訊返ききかえした。
「うむ、君にしたところで、教室では一面識がないという訳でもなかろう、倫理学の大家の――」
「あ。 」
 彼は思い出すことがあったかのように、しずかに応えたのではあったが、その実、その名ざされた博士のおもかげさえ思い出してはいなかった。
「君、部屋のなかに閉籠とじこもっているので、散歩がてらそこへ行ってみ給え。 」
「そこと言うと――」
「困るね、その態度では。 中学校の教師にでもなろうという者が。 ――博士はそこの顧問だ……」
「中学校?」
「うむ、君はリーダーの二を教えるようになるだろう。 多分そうだろう。 」
「おれが?」
「君、困るな――」
「解った!」
 彼は答えた。 そうして自分の身にふりかかっている就職口の件について、最初のところから訊き返してみる考えであった。 彼はただこのことに興味を感じたに過ぎなかった。 一面彼は面倒なことが持ち上って来たと考えないでもなかった。 そうして就職口を探し廻っているというそんな幻滅的なことに苦しめられるのは、彼自身としても嫌いなことであったから、就職を強いられることについてなどは一層かなりの反感をもった。 彼は親友の顔をみつ[#「目+嬪のつくり」、205-下-23]めた。 何のためにこんなひがみが湧いたのか、彼自身にも解らなかった。 しかし彼はいつか就職口のことを、青沼へ依頼したことがあった。 彼はそのことを忘れていた。 彼が忘れるのも無理はない筈であった。 もう一年以上も前のことであったから。 ――彼は親友の心を尊重しなければならなかった。
「で……」
 彼は不機嫌な顔をもたげた。 青沼はすぐ彼の言葉を受けついだ。
「で、君は明日にでも博士に会ってみ給え。 」
 親友はこう言って、地図の略図面を書いた紙片を残して帰った。

     *

 彼は記憶に浮いてこない町の片隅で、軽い溜息をいていた。 彼は目には見えないものを※[#「目+嬪のつくり」、206-上-13]めているようであった。 彼は悲みつ喜び、泣き、笑っていたのではない。 港町のように綺麗でしかも非常に混雑しているその町の片隅で、彼は煙草をゆっくりとんでいた。 その時は夕方と夜との境であった。 鮮かな紺色の空気のなかにはいろいろの光が隠されてあった。 彼はその光景にみいっていた。 一たい何を眺めているのかと訊ねられたところで、彼はその時即座に応えられはしなかったであろう。

 その日彼は自分の書物を二冊売り払った。 その金で、彼は二杯のコーヒーと一皿の菓子と夕飯を食べた。 彼は愉快であった。 彼は清新な気分を味った。
 そうしてその翌日も、その次の日も……彼は自分の書物を二冊ずつ売り払った。 ――そうして彼はこの生活を出来るだけ永く続けようと決心した。 彼には新らしい感興が湧きはじめた。 彼は生活するということを感じはじめた。 そうして彼は好んでストーヴの設けてある飲食店を求めて、町を往来した。
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 あの男はいつも今時分に見かけるが、なんと変な様子をしていることだろう、あの歩調を見給え、あれは土を踏んでいるのではない、空気を踏んでいるのだ、見給え、口笛を吹かないだけが似合わしくないよ――
 あ、あの男だ、それ見給え、ブラッシをかけた線がみえるね、それ帽子にまで……ところで、あの不恰好な不自然な元気のいい足どりを注意し給え……それにあの氷のような顔を見てみ給え――
 彼はあらゆる場所で、こんな言葉を人人の顔からも眼からも、自分の胸のなかへ感受した。

     *

 彼が青沼白心と会ってから一週間経った。 その日、――空の雲は低く太陽の下を北へ流れていた。 ――彼は一葉の略図面を皺くちゃにもみつぶして、御影石みかげいしで出来た三階建てのS――中学校の玄関を訪ねた。
 彼は浦和博士へ面会を申込んだ。 ――彼は三脚の椅子の外は、壁飾りもしていない応接室へ案内された。 俺は大へんに待たされた。 ――隣の部屋で人人の笑い合う声が、彼には不快であった。 彼にはそれが、自分の噂へふざけかかっているかのように感じられた。 彼は自分の躯が消えてなくなることを願った。
 戸口があいた。 ――彼のそんな考えを何ものかが感じたかのように。 ――彼は心持躯をふるわして、後ろを振向いた。
「お待たせしました……君ですか、影佐君というのは……何を研究されました……外国語は……英語ですか……」
 博士は部屋のなかを歩き廻りながら、軽い機敏と当惑とを現わして、独り言のように言った。
「ま、掛け給え、外国語は英語ですか。 」
 博士は一種動物的の眸を光らせて、はっきりと訊いた。 彼は博士がこの部屋へ這入って来る前から椅子へは腰掛けていた。 彼は博士へ挨拶する機会をうかがっていた。 彼は博士一人が水車のようにコトンコトンと床を踏んで、歩き廻っているのを眺めていた。 その背は、彼の眸のなかで、おかしく歪んだり、ふくれたり、伸びたり縮んだりしていた。 実際、彼は博士が彼自身の方を振向くのを待ち構えていた。 しかし博士はうつむきかげんに床をにらんで、靴で床を蹴りながら言いつづけた。
「あ、そうそう、青沼君はそう言ってました……で、失敬だが、君の主要なる研究は、何についてでしたか。 」
 彼は危く、「雄弁なる博士」と言うところであったが、それを呑みこんで応えた。
「宝石です。 」
「A GEM」
「A PRECIOUS STONE」
 博士は笑いつづけて、窓の外を眺めていた。 玄関の太い石柱が見えた。 彼は博士の顔を見た。
「ほ、それは大へんな御熱心……ま、考えて置きましょう。 ふ、ふ、ふ、ふッふ……」

 彼は恥を感じた。 ……外を歩きながら、彼は非常に恥じたのである。 「考えて置きましょう。 」彼はこの言葉を考えなければならなかった。 倫理学と実生活との間には、萎縮いしゅくし疲労した智的のワルツが繰返されている。 彼は幻のように飛び廻っている町の人人を眺めながら、こんなことを空想して歩いていた。 そうして彼は一つの連想から、思わずも彼自身へ言った。
「A PRECIOUS MANヤクザ・モン!」
 彼は歩き悩んだ。 彼は歩きはじめた。 この言葉は彼の心に導かれるもののように、SCRIPT の型で、彼の目前へ浮遊した。
「A'''''
 ''Precious
 '''''''Man.

     *

 彼の散歩は、その後日を追うて続いた。 彼にとってそれは日課であった。 ――彼の一日は二冊の書物で役立った。 そうしてそれらの書物は、何らの思慮もなしに、彼の手を離れて行った。 ――小言も悪口も悪意も更になく、快活を装う明け放しの老人のように、彼等は気どった足どりで、彼の手から古本屋の手へ渡って行った。
 或朝……みぞれが糸車のような響をたてて、寺院の黒い森へ降りしきっていた。
 彼れはその日の書物を物色していた。 彼はたった二冊の書物のために、そんな気骨を折らなければならなかった。 彼は古本屋を憎み切った。 彼は自分へ怒った。
 彼れは手ごろの書物を探し出して、行李へふたをしようとしたはずみに、彼の躯は奇妙な恰好に捩れて、歪められた鉄管のようになった。 その瞬間、何とすばやい速度であったろう、咳が破れる風船玉のように、彼の口から飛び出た。 彼の躯はそのまま強直してしまった。 前襟に添うて開け放された胸の下の方へ、その中心を外れて右の方へ拳大のものが皮膚とともに突起した。
「胃だ?」
「胃だ!」
 彼は涙声で、叫んだ。
「おれの胃が躯を抜け出ようとしたのだ!」
 彼はその突起した胃をそれがあるべきところへみこんだ。 彼は非常な痛みを感じた。
 この日以来、彼はじっと寝床へ横わってしまった。 ――三日経った。 四日、五日と時は過ぎて行った。 ――彼自身を床のなかへ残して、白と黒とのその時は、ゆっくりと一定の円周線上をリズミカルの歩調で、前方へ進んでいた。 この間にあって、彼は幻影の進化が生活の上に現れる。 というような法外もないことを妄想していた。

「物騒な人!」
 彼はこの言葉を忘れはしない。
「物騒な人だ!」
 下宿の女主人は、こう言って、来る人、会う人ごとに彼のことを饒舌しゃべった。
 ―――――
 おれは物騒な人と言われるだけのものかも知れない。 少なくともおれの感情……おれの最もうるわしい感情を、おれがおれの胸の奥底へおし隠してこのかた、おれはその感情を汲み出そう汲み出そうと藻掻もがきつづけた。 ……と、おれは思うのだが、ともかくおれは大変感じやすかった。 ……そののち、おれは疑うことを覚えた。 憎むことを覚えた。 おれは因循姑息に犯された。 この虫こそおれの寄生虫であった。 そしておれを引込思案の壺の中へ封じこめてしまった。 おれはその壺の中で侮辱を感じた。 そしておれはおれの敵を見た。 敵を感じた。 猜疑心を養った。 その壺のなかで。 憎悪を育てた。 そしておれは自分を愛しそこねた。
 おれは何ものからも見棄てられたではないか、親友の青沼さえ、おれの身のほどを誤って、揶揄からかったではないか。 博士は意地きたなく侮辱した。 おれは自分の躯を愛しそこねたために、自分で我が身を殺すのかも知れない。 それにしても常に真実を考え、真実を思い……おれは常に真実を話した。 しかしその真実はおれ以外の誰へも共通しないものであったかも知れない。 おれは勝手に自分の真実を喋った。 おれは自分の第二体、分身。 おれは自分の数あるドッペルゲンゲルへ向って真実を話したのだ。 親友の青沼さえ、あの偉大な博士でさえ、彼等はおれ自身であったかも知れない。 あの敵でさえ、おれ自身に違いはないのだ。 いや、彼等こそおれ自身のドッペルゲンゲルであった。 そしておれは、おれ自身の分身どもがつけていた、あらゆる仮面を見たのだ。 そこにはどれほど沢山のものが明滅していたことであろう。 嫉妬、陰謀、嘲笑、復讐、侮辱、猜疑、竊盗心、その他あらゆる悪が横行したのだ。 あらゆる仮面。 ……
 ―――――
 しかしいま、彼は孤独であった。 彼は自分の友を感じていたであろうか? 彼はただ一人であった。 彼は自分のドッペルゲンゲルさえ失っていた。 彼はただ一人であった。 彼は鉛のように重い頭を枕へおしつけていた。
 彼は何ということもなしに、「おれはただ一人だ!」という感じを深くした。 彼は半ば恐る恐るこの言葉を幾回か口へ出した。 この言葉ははっきりしていた――この言葉は氷のように冷かであった――この言葉はしずかにじっと彼自身の眸をみつ[#「目+嬪のつくり」、209-下-5]めていた――この言葉は瞬間的の有頂天と少しの変りもなく単純であった――この言葉は一という基数で代表されるものであった。
 彼は冷く溶けた鉛を嚥下えんかしたかのように感じた。 彼はすさまじくも寂しかった。
「お母あさん!」
 突然、彼はひょっくり物を言いかけて、彼の目前にはいない自分の母親を呼んだ。

     *

 ここで筆を擱く。 ――
 これは私の友人A・Kが、M――脳病院へ入院するようになったそれまでの断片的物語である。 気の毒なA・Kは、つい先日院内で死去した。

おれは夢と現実とを分つことが出来ない。 のみならず、何処に現実がはじまり、何処に夢が定まるか分らない。 それを決定することが出来ないのだ。 クラリモンドに愛された僧侶……(以下十数字不明)……詩人たちがうたう人生のおりのなかにあって。
一人の男 A・K
 彼は右に再録した文面を、その病院の部屋の壁へ乱雑に書き遺して置いた。
 彼の病名は、そこの医者が私に教えてくれたことに間違いなければ、AMENTIA というのである。

底本:「書物の王国11 分身」国書刊行会
   1999(平成11)年1月22日初版第1刷発行
底本の親本:「改造」改造社
   1911(明治44)年5月
初出:「改造」改造社
   1911(明治44)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※文中の「〜〜〜〜」は底本では繋がった波線です。
入力:土屋隆
校正:山本弘子
2008年5月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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