一

「何うもや――いや早や、さて早や、おさて早や、早野勘平、早駕はやかごで、早や差しかかる御城口――」
 お終いの方は、義太夫節の口調になって、首を振りながら
「何うも、早や、奥州の食物のまずいのには参るて」
 赤湯へ入ろうとする街道筋であったが、人通りが少かった。侍は、こう独り言をいいながら
「早や、暮れかかる入相いりあいの」
 と、口吟くちずさんで、もう一度、首を振ってみたが、村の入口に、人々の――旅の、客引女らしいのが立っているのを見ると、侍らしくなって歩き出した。
 少し、襟垢がついていて、旅疲れを思わせる着物であるが、平島羽二重ひらしまはぶたえの濃紫紺、黒縮緬ちりめんの羽織に、絹の脚絆きゃはんをつけていた。
「お泊りなら、すずかなお離れが、空いてるよう」
「お武家様、泊るなら、こっちへ」
 女が口々に呼びながら、小走りに、近づいたが、さすがに、商人にするように、袖を掴まなかった。
「ええ、お娘子ぼこを取りもつで。江戸のお武家衆や」
 侍は笑って
「江戸と、何うして、判るか」
「ええ、身なりがに――さ、寄って、泊って行かっせ」
 勇敢な一人が、羽織をつかんだ。
「お湯も、けれえだから」
「よし、泊ってつかわそう」
「そりゃまあ」
 女は、先に立って
「泊りだよう」
 と、叫んだ。番頭が上り口へ手を突いて、お叩頭じぎ[#ルビの「じぎ」は底本では「じき」]をした。
「厄介になるぞ、何程かの」
「へい、二十五文が、定ぎめで御座ります」
「よかろう」
「手前は、浪花講で御座ります、へい、おすすぎーッ」
「ひゃあーッ」

    二

 浪宿の慣らわしとして、三人の相客があった。侍は、床の間を背にして、固い褞衣どてらの中から、白い手を出して、煙草を喫いつつ
「南町奉行附、直参、じゃが、ちと、望みがあっての」
「南町奉行附と申しますと――え、何かお召捕用で?」
「ま、そんなところだの」
 廊下に、足音が聞えると、障子が、開いて十二、三の女の子が、三人
 おばあ子、来るかやあと
 鎮守つんずの外んずれまで
 出てみたば
 と、叫んで、踊りながら、入ってきた。
「うるさい。もうええ」
 客の一人が手を振った。
 おばこ来もせで相馬の大作なんぞいかめつら
「出てくれ」
 と、一人が、一文銭を、抛出ほうりだした。女の子は、次の部屋へ唄って行った。
「ほほう、相馬大作なんぞ、この辺で、唄になっているのかのう」
「ええ、えらい人気で、御座りましてな」
「何時時分に、の辺に、おろうな、聞かんかの」
「一向に」
「わしは、その大作を追うているが――」
貴下あなた様が――へえ、そいつは、うっかり、踏込めませんぜ。宿で、泊めないなんてことが御座いますからの」
「何故」
「いえ、大作様を、生神様のように思っている奴がおりましてな」
「なるほど」
「それで、あんな唄まで、出来ましたが、旦那様、うっかりなさらんように――」
かたじけない」
 侍は、腕組をした。
れ、もう、一風呂浴びてきて、寝ましょうかの」
 一人が立上った。侍は、うなずいただけであった。

    三

「遅う御座いますな」
「遅い」
 二人の潜んでいる草叢くさむらの草は、二人の頭を隠すくらいに茂っていた。そして、その上には陽の光さえ、洩らさないような梢と、葉とが、おおいかぶさっていたし、二人の周囲には、そうした大木が、一杯に並んでいた。
 二人の横には、木の株を枕にして、大砲が置かれていた。筒口は、下を向いていて、その筒口の見当には、街道が、白く走っていた。
(この一発が、天下の眠りをますのだ。ただ、南部の為に、津軽を討つというのではない。一つは、その為だが、二つには、領民のために、三つには、武士道のために――おごっている天下の人心を醒まして、ここに、真個ほんとうの武士あることを知らせるのだ)
 関良輔は、そう考えて
吃驚びっくりしましょうな」
「ふむ」
 と、大作は、答えて、火薬の油紙包を、掌の上で、いじっていた。
「供侍のみでなく、天下が――」
「さあ――」
「先生も、お喜びなされましょう」
 大作は、答えなかった。良輔も、黙ってしまった。
 街道には、時々、人が通った。葉の間、枝の間から、ちらちらと、見えていた。
「先触れも、通りませんな」
「少々、遅いが――」
 人の影が見えると、二人は、津軽の行列の中の一人では無いかと、じっと、すかして眺めていた。
「外の道を、もしかしたなら――」
「そんなことは出来ん。無届で、参覲交代の道を変えることは、重いとがめになる」
「え、――降りて、見て参りましょうか」
「明日にでも、延びたか――」
「そんなことも――」
 大作は、大砲へ頬を当てて、もう一度、照準をきめてみた。半ヶ月前、半沢山から青面金剛堂を、打破ったので、大砲の偉力は十分に信じることができたし、自分の火術にも、十分以上の自信がもてる。
 大砲は、紙製であったが、良質の紙を重ね合せた固さは、鉄と同じくらいの固さをもっていた。大作は静かに、大砲の肌を撫でながら
「陽が、傾きかけたのう」
 とつぶやいた。
「その辺まで出て、様子を、見てまいりましょう。このまま――」
「よし、大急ぎで」
 良輔が、立上って、草の深い中を、手で分けつつ、走り出した。
「気をつけよ」
 良輔は、頷いたまま、すぐ木の中へ、草の中へ、見えなくなってしまった。

    四

「先生っ、言語道断」
 良輔が、叫んだ。
「何んとした?」
「道を変えて、逃げ走りました」
 大作は、草の中へ、立上った。
「道を変えたか」
「裏道へ」
「裏へ」
「何んとも申しようの無い卑怯ひきょう者。何うして、これが洩れましたか、それにしても侍共が、まだここへまいらんのは、幸で御座りますが、早く立退きませんと、いつ、何時まいるかと――」
「そうか」
 大作は、火薬の包を、大砲へ、抛出すように置いて
「矢張り、裏切者がいたか?」
「百姓らで、御座りましょう」
「それは判らんが――」
「先生、もし、役人が、来ましては」
「もう、追っつけ暮れるであろう。周章あわてることは無い」
「折角の大砲が――」
「大砲は、また造れる。当節は、いろいろと苦心して造っても、学んでも、役に立たんことが多い。学んで、役に立つのは、流行はやり唄ぐらいのものだ。是非も無い」
「大砲は?――このままで――」
真逆まさか、背負って歩く訳にも行かぬ、又、誰か、心ある者でも、発見したなら、工夫の役に立つこともあろう」
「よく出来ましたに、惜しゅう御座いますな」
「惜しゅうて、役に立たんのが、ずい分いる。平山先生の如き――」
「全く」
 と良輔が頷いた。
「参ろう」
 大作は、残した物の無いのを確めてから、草の中を、静かに歩き出した。
「残念だ。津軽め、命冥加いのちみょうがな」
 良輔が呟きつつ、ついて行った。
しかし、わしも、命冥加だぞ」
 大作が、振向いて、笑った。

    五

「一足ちがいだった。残念な」
 女狩めがり右源太は、大声で、叫んだ。人々が、振向いた。
「警固、御苦労に存じます」
 右源太は、役人に挨拶した。
「いや」
 役人も、軽く頭を下げた。
「江戸から、大作を追うておりまして、ようよう手蔓てづるを握ったかとおもうと、取逃しまして――」
「ほほう、江戸から――」
 役人と、役人の周囲にいる木樵きこり、百姓が、一時に、女狩の顔をみた。
「拙者は、南町奉行附同心、女狩右源太と申します。役目によって大作の手に倒れました兄の仇討なり、又二つには、役の表によって――」
 右源太が、話している内に、役人も、あたりの人も、幾度も頷いた。
「大作を、召捕ろうと――それが、半日ちがいで、取逃すとは――」
御尤ごもっとも――」
 右源太は、役人の脚元を覗いて
「それが、大砲で御座りますか」
「いかにも――」
 右源太は、脚下へ、しゃがんで、大砲を叩いてみて
「紙?」
 と、見上げた。
「紙らしく見受けますな」
「はははは、手遊びの――これは、おどかしで、昔の楠公の――」
「めっそうな、お武家様。あんた、これで、この先一里余りの所にある御堂をめちゃめちゃに打ちこわしましてな」
「馬鹿らしい。それは、買冠かいかぶりじゃ。余り、大作を恐れすぎている」
「いいえ、本当に――」
「その時は、青銅製で、嚇かしておいて、これで又、嚇かそうと、――元来、彼、相馬大作の先生、平山行蔵なる代物が、いかさま学者で、奇を売物にしているのだからのう」
 と、いった時
「退け退け」
 と、いう声がして、供を先に、後に、裏金陣笠の侍が、草の中から胸を出して、近づいてきた。

    六

らちも無い)
 と、右源太は、山を降りながら、思った。
(相馬大作、相馬大作と、豪傑のように――来てみれば、左程でも無し、富士の山だ。紙の大筒など、子供欺しをしおって――万事、平山のやり方は、山師だ。玄関先に、堂々と、いかなる身分の者、いかなる用件といえども、紹介する者無しには、面謁せぬと。頼山陽先生さえ、断ったというが――たわけた沙汰だ。大作も、その弟子だから、見えすいた術策を弄して――紙の大筒――よし、今日まで、世間の噂、びくびくしていたが、正面からの太刀打は――まず、出来んとしても、欺し討ちなら、大丈夫だ。天下のお尋ね者を討取り、重ねて兄の仇を討ったと――まず、安うて二百石。二百石になると、新吉原へ行っても太夫所が買える。芸者なら、櫓下やぐらした――)
 右源太は、にやにや笑いながら、曲り、折れる急坂を、とことこ小走りに、降りて行った。
(早く、討取って、早く戻って――何んしろ、食物の拙いのには、恐入る。食物は、江戸に限るて――)
 右源太は、江戸のことを思いながら、足は、大作の去ったと思う、津軽領の方へ、急いでいる。
「米沢街道に、白菊植えて
何さ、聞く聞く
便りきく
米沢街道に、松の木植えて
何を、まつまつ
主を待つ
とこ、すっとこ、ぴいとことん、か」
 右源太は、唄いながら
「おっとっと」
 と、独言をいって、細い、急な坂道を、どんどん降りて行った。行手に、道が白く延びていて、田畑か、川が、家の屋根が、見えていた。

    七

 二人の侍が、ずかずかと、茶店の中へ入ってきて
「只今、津軽越中守様が、御通行に相成る。許しのあるまで、ここから出んよう」
 茶店の亭主が、膝まで手をおろして
「はいはい」
 と、つづけさまに、お叩頭をした。役人は去ってしまった。
「厳しいのう」
 一人が、隣りの男へ、小声でいった。
「大砲以来、とても、とても――へっ、昼寝でもしてこまそか」
「然し、相馬大作って、人は、大きい声でいえねえが、えらい人だの。一人で、南部を背負って立って、津軽の睾丸きんたまを、縮み上らせているのだから――」
「越中さんも、ここまでくりゃ、然し、一安心だ。川を越えりゃ、自領だからのう」
「へい、へい」
 表で、忙がしい返事がして、一人の旅商人が、一人の役人に襟首をつかまれながら、小走りに、押されて茶屋の中へ入ってきた。
「うろうろするな、野良犬めっ」
 役人は、商人を突放しておいて、去ってしまった。
「何うもはや――」
 商人は、襟を直し、髪を撫でて
「御免なされて、どうも、うかうか歩きもできん」
「何うしましたえ」
「何にね、その村から、近道しようと、あぜを出てきたら、こらっと、やられて、猫の子みたいに、首筋を掴まれて――何うも、相馬大作も、いろいろたたりをしますわい。しかし、川筋の取締りが、大変で御座りますよ。津軽領には、二百人から出張ってで御座りますな。ずらっと、堤の上に――」
 女狩右源太は、人々の話を聞いていたが
「そうも、恐ろしいかのう」
 と、呟いた。人々は、一斉に、右源太を見て
「ええ、檜山領の百姓には、生神様のように思われて――」
「大砲を何しろ作って」
「見たか、その大砲を」
「いいえ」
「わしは見た。紙じゃ」
「紙? 張りこの?」
「そうじゃ。余り、びくびくすると、張りこが、かねに見える。世間が泰平じゃと、話が、面白可笑おかしく尾に鰭をつけていかん。大作など、人気とりの山師にすぎん」
 人々は、黙ってしまった。
「出るな、出るな」
 幾人も、袴をくくり上げて、草鞋履わらじばきで通って行った。行列が、近づいてくるのであった。

    八

 人々は、渡し場の、草の中へ、膝と、手とを突いていた。へさきにも、ともにも、船頭が、川の方を向いて、両手を突いていた。船中の侍は、駕の側、前後に、膝をついていた。駕の中に、垂れをあげた津軽越中守が、腕組して、水を眺めていた。
 川下にも、川上にも、小舟の中にも、侍が立って、川面、両岸を、警戒していた。向う岸の、津軽領には、人々が、草の上へ黒々と立っていたし、馬が、槍が、人々の頭の上で動いたり、光ったりしていた。
「出ます」
 杭を押えていた侍が、こう叫ぶと共に、船頭が立上って、ともづなを解いた。船は、静かに、舳を川の方へ押し出しかけて、四人の船頭は、肩へ竿を当てて、力を込めた。
 川水は、少し濁っていて、杭には、草が、藁が引っかかっている。岸の凹みには、木切れ、竹、下駄などが、浮いていた。
「おーい」
「おーい」
 船頭は、合図をして、竿を外して、に代えた。船は、ぴたぴた水音をさせつつ、静かに、中流へ出た。
「ああ何か」
 と、岸の一人が、呟いた。船べり近くの水面へ、黒い影が浮んできたのが、見えたからであった。
「何?」
 一人が、振向いた。
「あれ」
 と、指差すか、差さぬかに、水がざっと泡立ち裂けると、白鉢巻をした顔が――手が、足が――
「曲者っ」
「曲者っ」
 岸の人々が叫んで、手を延した。
「曲者だ」
 二三人が、警固の船手の方へ走出した。四五人が、刀を取って、草叢へ抛出し、羽織を脱いで袴へ手をかけた。
「ああ」
 人々の絶叫が、両岸から起った。

    九

 人々が、動揺し、絶叫した瞬間――川の中の男は、船中へ跳上っていた。駕側の供が立上った時、駕は、左へ傾いて、越中守が駕へ、しがみつきながら
「何を致す」
 と、叫んだ時であった。一人が、刀へ手をかけ、一人が組みつこうと、手を出した時、越中守の首を抱えると、力任せに、脚を船べりへかけ押しながら、己の身体の重みを利用して、越中守を抱いたまま川の中へ、半分傾いていた。
「うぬっ」
 一人は、抜討に斬ろうとしたが、男の上になって落ちて行く越中守へ、刀が当るので、はっとした時水沫しぶきを、高く飛ばし、川水に大きい渦巻を起して、二人の姿は、川の中へ没していた。
 手早く羽織をとった、一人が、川の中へ飛び込んだ。二三人は、刀を抜いて、左右へ動揺している船中から、川水を、睨みつけた。又一人が、飛込んだ。つづいて、裸の一人が、両手を延して、飛込んだ。川水は、人々に掻乱されて、岸の方へまで、波紋を描いた。
 わーっという両岸のどよめき――必死にいでくる警固の舟――川水の中へ、浮き上る黒い頭。その度に人々は
(越中守?)
 と、凝視したが、それは、家来で――いつまで経っても、越中守は浮いて出なかった。
(殺された――相馬大作だ)
 と、人々は、思って、自分達が、手出しをしても、無駄なような気がした。街道を、堤の上を、百姓が、旅人が、走って来たが、誰も止める人が無かった。
「血だ」
「ああっ。血だ」
 四五人が、水面を指さした。反対側の人々が、一時に見にきたので、船が傾いた。
「危ない」
「血だ」
「いかん。おーい、ここに血が」
 船中の人々は、川の上下で、水に潜ったり泳いだりしている人々へ、叫んだ。人々が、泳いで集ってきた。
「見えた」
「浮いた」
 川上へ黒い影がさしてきた。越中守の、黒い着物と、袴とが、水へ写って打伏うつぶせになって、浮上ってきた。
 両岸の人々は、土堤どての左右へ、我勝ちに走って、川面を、川岸を、注意していた。二町も、三町も、川の上、川の下へ、人々は、槍をもち、袴を押えて、走っていた。だが、曲者の姿は、浮いて来なかった。

    十

「何うだい、凄いことをやるじゃあねえか、この狭い渡し場で、多勢の中を、一体天狗業だの」
 一人が、堤の草の中へしゃがんで、こういった。
「全く」
 一人は、女狩を、見上げて
「お武家衆、だから、相馬大作って方は、えらいというのですよ。第一、どう潜ったのか――あいつら夜になっても、ああして張るつもりだろうが、お前、川の中に、抜穴かなんか、あるのだぜ。そうで無けりゃ、第一、呼吸いきができんもんな」
「大作って人は、三日位、呼吸をせんでもいいように――」
※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそつけ。飯じゃあるめえし――」
「いいや、羽黒の山伏について、修行したんだとよ。その辺の川底に、まだ、潜ってるかも知れんよ」
 女狩は、人々の話を聞きながら
(噂通りに、大変な奴だ)
 と、思った。
(この川へ、何う忍んだのか? 忍ぶのは、夜の内からでも、忍べるが、刺し殺しておいて、何うもぐったのか――判らん。大砲で、討取れなかったから、こんな、突飛な真似をしたのであろうが、成る程な、一人で、乗込んでくるだけある。わしの手におえる奴ではない。十人かかっても敵うまい――といって一体わしは――江戸へ、このまま戻りも出来んし――一体、何うしたらな)
 川面を眺めて、じっと、立っていた。
「渡しを出さんかよう」
 二三人が、叫んだ。
「この大騒ぎに、お前、出すもんか」
 女狩は
(せめて、大作の評判、足跡だけでも聞いて江戸へ戻ったなら――いいや、討取るといって出てきたのに――第一、何か、一手柄立てて戻らんと、女がもらえぬ。あいつは、別嬪べっぴんだから――)
 女狩は、失望を感じたが、それと同時に、辛抱をする決心をした。
(この辺に、大作は、潜んでいるにちがい無い。何か、うまい計略でも考えて――)
 女狩は、川岸の乱杭の中に、流れついた竹が、ぴくぴく動きながら、立っているのを、じっと凝視みつめて
(兄も、運の悪い、えらい奴に、討たれたものだ。対手が、強いだけならとにかく、評判までいいのだから――)
 じっと、俯きながら、竹の、川水に動くのを、凝視していた。

    十一

 夜になった。女狩右源太が堤に立って、眺めていた竹筒が、左右へ動くと、人の顔が水の中から出てきた。耳と、眼だけを出して音を、影をうかがってから、首を、胸を出した。そして、身体をふるわしながら、堤の上へ這上はいあがって、又、しばらく、四辺を、警戒していたが、静かに、指を口へ入れて、ぴーっと吹いた。
 提燈が、堤の両側に、川下に、川上に動いていた。夜風が、もう冷たくなっていたので、大作の身体はがたがたと、眼に見えてふるえ出してきた。
「ぴーっ」
 それに応じて
「ほーう」
 と、ふくろうの鳴声がした。低く、ぴっと鳴り、又、ほーっと応じた。茶店へ、押入れられた商人が
「先生」
「寒い」
 暗い中で、大作は、手早く、どんつく布子をきて、髪を束ねた。そして、薬をのんで
「大丈夫か」
 と、いった。
「人数は出しおりますが、恐ろしさが、先で、一言名を名乗ったら、逃出しましょう」
「百姓共は、何んと、申しておる」
「喜んでおります」
「ならよい。村へ逃げて入れば、どこかへかくしてくれよう」
「食事を」
「歩きながら」
 大作は、立上った。
「よく――何と申してよろしいか、人間業では御座りませぬな」
「いいや、人間業じゃ。死を決して行えば、鬼神も避けるし鬼神も討てる。遠くから手を束ねて討とうなどと考えたから、大砲は仕損じたが、越中風情短刀一本で事が足りる」
「首は」
「首か――斬ろうとは存じたが、わしに救いを求めているらしい眼をみると、気の毒でのう」
「首があっては、家断絶にはなりますまい。急死の届けで、済みましょう」
「首がうても、当節の役人は、袖の下で、何とでも成る。殺しておけば、津軽も、命には代えられんと思うから、檜山を返すであろう」
「然し」
「戻さん節は、また、殺す」
 大作と、関良輔とは、堤の上から、田圃のあぜへ降りて、紙燭をたよりに、村の方へ歩いて行った。

    十二

 いつまでも、渡し舟が出ないで、夕方近くになったから、人々は、そこから先の旅をあきらめて、近い村の百姓家で、泊ることにしていた。
 噂は、大作のことで、一杯であった。誰も、彼も、大作を、日本中で生れた、どの豪傑よりも強いと、めた。
「何しろ、船の中へ、一人で斬込んで、川の中へ潜ってしもうたんだから――」
「大作って、いい男だってのう、色の白い、としは――三十七八、背の高い――」
 女狩が
「齢は三十じゃ。余りよい男では無い」
「おやっ、御存じですかい」
 と、いった時、女狩は、側へおいてある刀へ手をかけて、じっと、往来をみた。広い土間に集っている人々は、煙草と、出がらしの茶とを楽しみながら、大声で、談笑していて、一人の侍についても、誰も、注意していなかった。
 往来を行きすぎかけた四人の人が、人々のどよめき、笑い声に振向くと、その中の一人が、走って入ってきて
「吉」
 と、叫んだ。
「おいの」
 二人が、何か囁いていた。女狩は、刀をもって、そうと、土間へ降りた。
(大作にちがいない)
 女狩が、出ようとすると
「これ、お武家、何処へ、行きなさる」
 女狩が、振向いて
「ちと、外へ」
 その男は、首を振って
「いいや」
「何故」
 大作は、向う側の軒下に立っていたが、誰かが、声をかけたらしく、その方を見て、すぐ、行きすぎてしまった。女狩が外へ出ようとした。
「これ、駄目だ――おーい、吉」
 男は、女狩の肩へ手を当てて
って行かしゃるなら、承知しねえ。赤湯から、大作様の跡をつけてきてるというのは、お前様かの、それが、本当なら、ただではおかんぞ」
 上り口の人々が、一斉に
「そうだとも」
 と、叫んだ。女狩は、少し蒼くなって
「違う。それは、違う。人違いじゃ。わしは、何も――」
「じゃ、早く、離れて行って、休まっしゃれ。おい、お春や、案内して上げな」
 女狩は
(うかうかしていると、危いぞ)
 と、思って、人々の間を、足早に、奥の方へ入って行った。

    十三

 女狩右源太は、ぼこぼこ土埃つちぼこりの立つ街道を、俯きながらゆるゆると歩いていた。足は、南部の方へ向いていたが心はそれと、一緒ではなかった。
(一体、俺は、何うしたならいいんだろう。このまま、何処まで、歩きつづけるのか? 歩いたならいいのか? 相馬大作は、この近くにいる。そして、俺と前後して、矢張り、この街道を歩いているかも知れぬ。俺が、馬で追っかけたなら、半日で追っつけるかもしれぬし、俺が、ここで待っていたなら、半日の内に、目の前へ通りかかるかもしれぬ――しかし――だ)
 右源太は、そう思うと、昨日の宿での、大作の人気に、肌を寒くした。
(大作を召捕りに、江戸から出向いたものだと、一人に話したら、何うだろう。あの百姓共の殺気の立ち方は?――俺は、袋叩ふくろだたきに逢って、簀巻すまきにされるかと思った。それに、又、あの大胆な大作の振舞は――津軽公を殺して、姿を変えてのこのこと、村の真中へ出てくるとは――いくら、村人が同情していても、人の心は計られんのに――そして、その大作が、村の人へ、よせよせ、生殺は天にある、越中守のように厳重警固していても、討たれる時には討たれる、こうしても、討てん時には、討てん、のう、そこのお役人、と笑った時には、腹の底から、冷たいものが湧いてきたが――俺は、ほうほうのていで、宿を出たが――俺には、到底、あいつは討てぬ、といって、このまま、のめのめと江戸へは立戻れぬ。江戸では、越中守を討ったから、また、大評判であろうが、その中へ、戻ることは、俺が恥を掻きに戻るようなものだ。
 右源太は、行手からくる旅人の足、追抜いて行く馬の脚を、夢のように感じながら
(所で、旅銀だ)
 と、腹巻の上から、手を当ててみた。
(未だ、大丈夫らしいが、然し、十分ともいえぬ。こいつが無くなっても、大作が討取れなかったら?)
 右源太は、この辺から奥へ行くと、だんだん大作への人気が高くなって行くのを知っていたが、江戸へ戻ることは、流石さすがに出来なかった。
(とにかく、一服して、腹ごしらえをしてからだ)
 編笠から眺めると、土堤沿いの、大きい木蔭に、すだれを立てて茶店があった。樹の背後の土堤の草の中に、馬が二匹、草をんでいた。
(飯を食ってだ)
 と、思って、右源太は、茶店へ急いだ。

    十四

 鰊の焼いたのと豆腐とで飯を食べていると
「八文かね――置くよ」
 と、隅で元気のいい声がした。右源太は一杯目の飯を食ってすぐ
「代り」
 と、茶碗を突出した時
「どっこいしょ」
 と、右源太の後方で、懸声して
「お武家様、少々」
 と、丁寧にいった。右源太は、大きく開いた右脚を、引込めて、振向くと、すぐ、顔を反向そむけた。
(大作だ――いいや、よく似ているが違う。鼻が違う)
 大作を恐れる心が、右源太を、警戒させ、狼狽ろうばいさせたが、ちがうと思うと、すぐ、振向いて、その男の顔を眺めた。大作と同じ頃の齢で、ただ少し、鼻が低い外、似た男であった。木刀を一本差して、南部家中の小者らしく、挟箱はさみばこを肩にしていた[#「していた」は底本では「してゐた」]
「御免なされ」
 右源太の前を、小腰をかがめて通って
「さよなら」
 と、かまどの前の、爺に声をかけた。横顔も、どこか大作に似ている。
「さよなら、有難うよ」
「御馳走様だ」
 小者は、急いで出て行った。
(そうだ)
 右源太は、空腹を忘れてしまった。
「旦那様」
 婆の差出した盆の上の飯を手に取ったが、すぐ、側へおいて
「勘定」
 と叫んだ。
「御飯を、旦那様」
「いらん、早く勘定を」
「何が、お気にさわりましたで御座いましょうか――」
 爺が、そういいながら、いくつも穴の並んだ、土竈の角を廻って出てきた。
「いいや、いいや、一寸、急ぎの用を思い出したゆえ」
「それなら――ああ、心配致しました。この婆め、頓間とんまで、いつも――」
「おやおやおや、自分のもうろくを棚へ上げて、人を頓間などと――」
「勘定を早くと申すに」
「はい、はい」
 爺は、周章あわてて、引込んだが
「十二文で御座ります。御粗末様で」
 右源太は、腰の巾着から小銭を出して、ばらばら腰掛けへ落して、編笠を掴むと、小走りに出てしまった。

    十五

(悪いこと――そうだ、悪いことにちがいない、然し、止むを得ないことだ。俺を助けるのは、彼奴かやつを斬るより外に道がないのだ――全く、よく似ている。彼奴を斬って、首にし、これなら、誰でも、大作の首にちがいない、というだろう――そして、よし、大作がまた現われたなら?――いいや、越中守を殺した大作が、のこのこ現れよう道理がない。いくら、大胆不敵の奴でも、命は惜しいにちがいない。が、もし、現れたなら?――)
 右源太は、行手に、小さく、黒い挟箱を担いで行く小者を、じっと見つめながら、刀を押えて、小走りに、急いでいた。
(現れたなら?――俺は、大作をよくは知らぬが、大作と信じて討取ったのだ、といえばいい。あれ位似ておれば、間違うのも、無理は無いと、誰でも思うだろう。だが――何うして討ったかと聞かれたら?――それは、尋常では討てんから、はかりごとにかけた、と、いえばいい、そうだっ)
 右源太は、微笑して、後方を振向いた。人影が無かった。
恰度ちょうどいい場所だ。村にも遠いし、人もいないし――彼奴は可哀そうだが――今、もし、彼奴を討って江戸へ戻らなかったら、俺が人から可哀そうがられるだけだ。人から、可哀そうに思われたって、俺には、何んにもなりゃしない。彼奴か、俺か、この世の中に、どっちか、可哀そうな奴が一つできるようになっているのだ)
 右源太は、足踏みして、草鞋の紐の固いのを試し、鯉口を切って、たすきを取出すと、片手と口とで、素早く、袖を絞り上げた。そして小者の歩き振りを見定めて、編笠を脱いだ。そして、笠で、襷をかくしながら、草の上を音も無く、迫って行った。
南部の山は、黄金こがね
南部の河は、黄金河
 と、小者は、口吟みつつ、歩いていた。
鮭の鱗は、金光り
家老の頭、銅光り
女房のはだえは、銀光り
そのまた
やっこらせ
女房の肌を抱く時にゃあ
(肩?――頸?)
 つつっと、小刻みに寄った右源太、足を構えて、踏止まると
「ええいっ」
 大きく、踏出す右脚と共に、十分に延した刀、十分の気合。
「ああっ」
 と、叫んで、挟箱を担いだまま、二間余り走ると、両脚を揃えて、木のように、倒れてしまった。右源太は刀を前へかくして、四方を眺めた。
(上首尾に行った)
 心臓の烈しく打つのを押えながら、心の中で
(人の来ぬよう)
 と、祈りながら、注意深く、小者の倒れている所へ近づいた。

    十六

 相馬大作は、いつもの通り、人を睨みつけるような、関良輔の眼を、じっと見つめながら
「津軽は、老中共に、袖の下をつかましているな」
「としか考えられませぬ。参覲交代の時に、届けもなく、道順を変更して、大砲の先を逃れましただけでも、咎めのあるべき筈のところ――」
「よし、津軽に対して、そういう偏頗へんぱの処置を取るなら、わしは江戸へもどって、相馬大作の名乗を上げてやろう」
「先生、それは――」
「いいや」
 大作ははげしく、首を振った。蒼白い顔色であるが、頬骨は高く、額の広い、面擦れのできた大作は、こういうと、何人なんぴとも動かしがたい決心の様が、眼にも、額にも、くちびるにも、現れたようであった。
「わしを召捕るなら召捕るがいい。津軽に袖の下を掴まされたのは、老中の一人か二人、または三四人のかかりの者位であろうが、奉行所まで、真逆、動かされてはいまい。わしを召捕って、訊問するとなれば、南北両奉行寺社奉行立会いの上であろうが、その面前でわしのしたことを、包みなく披露してやろう。さすれば、罪は津軽のみでなく、老中へまで及んで、現時の如き、腐り果てた支配向きは、いささかなりとも直ることもあろう」
「然し――」
「奉行が老中に、圧迫されるというのであろう」
「はい」
「上下共に、法を曲げて直を直とせん世ならば、人生生きていて何の甲斐がある。上下、人民までが、奢侈しゃしにのみ走り、遊惰に傾き、大義大道を忘れている世に、碌々ろくろく、生を貪っていて、何んの五十年ぞ。その時には、奉行の前で、いささか、心中の気を吐いて、倒れるだけじゃ。丈夫の事を為す。必ずしも事の成否を問わん。ただ、心の命ずるがままに行って、倒れて後やむ。わしは、江戸へ戻るぞ。そして兵学の道場を開いて、天下に向うのだ。すたれたる世なりといえども、一人や、二人の義人はあろう。それでいい、一人もいなくとも、平山先生がおわそう」
「私もいささか――」
「お身も時世に逆っているが、誠心は、いつの世にか知己のあるものじゃ。明日、早朝、江戸へ立とう」
 大作は、薄暗い燭台の灯を、半顔に受けて、じっと、天井を睨んでいた。
「越中守を討取っても、改易にならんのか」
「檜山横領を、黙認する位、当然で御座りますな」
「この噂が、世上へ拡まった時、人民は、何う思うか? 私欲のために、天下の法を曲げて徳川の代も末遠くないぞ。良輔」
「はい」
るがよい」
 大作は、腕組したまま、いつものように端坐して、眼を閉じた。

    十七

「然し先生」
 良輔は、声をかけたが、大作、黙ったままであった。暫くしてから、もう一度
「手前当代の津軽を討とうと存じますが」
 大作は、眼を閉じたまま
「討てるか」
「一人を討っただけで、捕われるのも残念に思いますから、先生が、お手を下されないなら、手前討とうと存じます」
「討てるか」
「短銃で、討てようと思います」
「それもいい。相馬大作が、二人現れてはおもしろかろう」
 大作は、眼を開いて微笑した。
「然し、短銃は、己を全うして、敵を討とうとする得物えものじゃ。凡そ、人を討つほどの者は、敵のみ討って、己を全うしようと考えてはいかん。己も死ぬ、その代りに、敵もたおす。この覚悟をせんといかん。十死一生、これが、剣道の奥儀じゃ」
「よく心得ております」
「場所は?」
「新らしい橋のあたり」
「よかろう」
「甘酒屋にでも姿を変えまして」
「それもよい」
「十分の距離にて狙撃すれば、逃がすことはあるまいと、心得ます」
「よし、わしは、見ていよう。二人の壮士が現れたことが、何ういう風に、この遊惰な世間へ響くか――やってみるがよい」
「それでは――先生、お名前を、相馬大作のお名前を使いますことを許して頂けますか」
「よいとも」
「有難う存じます」
「短銃?」
「買求めます」
「わしのを使うがいい」
「いえ――」
「精巧でないといかん。相馬大作が、武器も選ばず、旧式のを使っていたと噂されては、心外だ。二十間ほどの着弾距離があるが、十間なら、十分に、打抜けよう。江戸へ戻ってから手渡そう」
「万々、仕損じました節は、お名を汚しませぬ。また、首尾よく仕遂げましたなら、天下の白洲しらすにて、いささか学びました、大義大道を説くことに致します」
「良輔」
 大作は、和やかな眼で、眺めた。
「はい」
「わしは、十七八年、平山先生について学んで、ようよう心らしい心になったが、お身は、三年にしかならぬ。よく、その決心がついたの」
「恐入ります」
「血気だけではできんことだ」
「決して、はやっているのでは御座りません」
「逸っていてもよい。お身が、相馬大作といっても、大作はわし一人しか無い。逸った大作、逸らぬ大作、いずれにしても、世人に与えるものが同じならよい。先生は、お喜びになるであろう」
 鶏が鳴いた。
「夜鳴している」
 と、大作が呟いた時、寺の鐘が、時刻を知らせた。
「寝よう」
 と、いって、床へ入った大作は、すぐ寝入ってしまったらしく、静かな寝息が聞えてきた。良輔は、興奮に冴えた眼を、闇の中で、開きながら
(眠るのと、眠られぬのと、これが心の到る、到らんの差だ)
 そう思いながら、眠ろうとしていると、隣りの部屋で、低く
「南無阿弥陀仏」
 と、繰返している男がいた。
(あの男――あの侍、何処かで、見たことのありそうな――)
 と、良輔は思ったが、思い出せぬ内に、寝入ってしまった。

    十八

 南町奉行附与力、曾川甚八が、足早に出てきて
「大作を討取ったとは、ほんとか、入れ、入るがよい」
 と、立ったままでいって、しとねの上へ坐った。右源太は、縁側に、平伏しながら
「忝のう存じますが、旅着のまま、むさ苦しゅう御座りますゆえ、これにて――」
「首をもって戻ったか?」
「はっ、恐れながら」
 右源太は、あえいでくる心臓、呼吸を押えて、酒浸しの布にくるんだ上を、油紙で巻いた首を、布の中から取出した。臭い臭いがした。曾川は眉を歪めながら、右源太の手許を見ていた。曾川の従者が、左右から、縁側から首を伸ばして、眺めていた。右源太は、油紙を一枚一枚いで、布をとり、綿をとって、蒼白あおじろくふくれて、変色している首を剥出むきだした。
「やー、遠路ゆえ、面体損じておりまするが」
 と、曾川の顔を見たくないので、俯いたまま、左手を添えて、首を差出して、平伏していた。
 首は、睫毛は抜けていたり、脣の皮は剥けてしまっていたが、大作らしい面影は、十分に残っていた。
「何うじゃ」
 と、曾川は、左右へ聞いた。
「そうで御座りましょう」
 と、二三人が、答えた。
「女狩、何か、外に、証拠の品は?」
「外にと申しますと?」
「刀とか、懐中物とか」
「生憎く――御承知の如く、彼大作なる者は、十分に変装致しておりまして、手前、討取りまする節は、小者の姿でおりましたが――」
「成る程――して、中々、手者てものだと聞くが、尋常に名乗りかけて討ったか」
「中々――お恥かしい話で御座りますが、欺して討取りまして御座ります」
「欺してな?」
「尋常の太刀討では、手前共、五人、七人かかろうとも敵いませぬゆえ、酒に酔わさして、縄で足をとって、倒れるところを、斬りまして御座ります」
「左様か、何れにしても、討取ればよい。追って、褒美の沙汰があろうが、疲れておろう、戻ってゆっくり休憩するがよい」
 右源太は
(ここさえ無事に通ればよい。全く、芝居でもする通り、首実検は、危ない仕事だ――いいや、危ないように見えていて、昔から、やさしいことらしい。死顔と、生顔とは相好の変るもの――)
 と、肚の中で、仮色こわいろの真似をしてみた。

    十九

 湯の中は、薄暗くて――乏しい光と、濃い湯気とで、すぐ側の人の顔さえ、判らなかった。
白いお馬は、主かいな
今宵帰して、いつの日か
濡れにくるかや、しっぽりと
抱いて、あかした移り香の
さめて、果敢はかなや、肌寒の
朝の廓の霜景色
霜にまごうか白い馬
「とくらあ――あちちちち」
 一人の若い衆が、湯の中から、飛上った。
「気をつけろ」
「御免なせい。こりゃお侍さんだ。申訳御座んせん。余り、熱いので、つい――」
「いいや、そう謝らんでもよい」
「お侍さん、何う思いなさいます。あの相馬大作って人を討取ったって奴を?」
 右源太は、はっとして
「うむ、何うしたと?」
「南部の忠臣、相馬大作を討取るなんて、高師直こうのもろなおみたいな野郎じゃ御座んせんか」
「そうだのう。たった一人で、津軽二十七万石を向うへ廻しての大働きだ。俺あ、当節、贔屓ひいきにしているのは、一に大作、二に梅幸」
「三に横丁の子守っ子さ」
「誰だ、誰だ、こっちい出て来い。面あ出せ、面を」
「御覧に入れるような面じゃねえんで――」
「政公か、こん畜生――何んしろ、やることが、気に入ったね、大砲を山へもち込んで、だだあん」
「こら、耳のはたで、びっくりすらあな。ほら、女湯で、子供が泣き出したわな」
「ばばばあーん、これぞ、真田の張抜筒」
 右源太は、光の届かぬ、湯の中の隅へ入って
(南部だけでなく、江戸にも、人気があるらしいが――もし、江戸へでも、現れたなら)
 と、心臓を固くして、額の汗を拭いていた。人々は
「大作のお師匠さんの、平山行蔵ってのは妙な仙人だが――」
「大作って先生も、近頃の世間の奴らは、遊びにすぎて、といい出すと、うるさいって、村山の若旦那も仰しゃってたけれどもが、俺ら理窟抜きに好きだわな。芝居ですると、団十郎だ」
「芝居でも、船の底へもぐるなんざ出来やしめえ。俺ら、明日から一つ、贔屓ひいきにして――墓は、何処だろうな。一つ万燈を立てて、町内で、お参りしようじゃねえか。こんなお墓の石をもっていると、女の子に振られねえぜ。政公なんざ、石塔ぐるみ、背負ってるといいや」
「へん、背負っているのは、女の子だ」
「何を、借金ときゅうのあととだろう」
「一体、何んて野郎が、大作を討ったのだい」
「さあな、聞いてたが忘れたが――」
「そいつの邸へ、犬の糞を、投込んでやろうじゃねえか。ねえ、お侍さん、御存知じゃありませんか――おや、いねえぜ、二本棒あ」
「何んじゃ」
「うわあ、お出なさいまし、今晩は?」
 右源太は、頭から手拭をかぶって
「熱い熱い」
 と、いいながら、出て行ってしまった。

    二十

「羨ましいな、右源太。当節、百石の加増など、一生かかっても、有りつけんぞ」
 玄関際の、詰所――小さい庭から、差込む明りだけで、薄暗くて、冷たい、部屋の中で朋輩の一人がいった。
「そうでも無い」
 右源太は、扇子を、膝へ立てて、羽目板へもたれて、微笑していた。
「まず、重役に妾の世話をするか――己の娘を、差上げるか、そんな例は多いが、これこそ、槍先の功名に等しいからのう」
「然し、町人共は、よく申さぬな」
 と、一人が、口を出した。
「平山行蔵を始めとして、あの門下一党は、世の中を、罵倒して、上役人の無為無能、下人民の奢侈、怠惰を口汚く申しておるが、江戸っ子はおもしろいものだ、そんなことは、蛙の面に水、大作を、役者に見立ててこの狂言大当りなどと、二枚画を出して、叱られた双紙屋さえあると申すのう」
「そうらしい」
 と、右源太は頷いた。そして
「武士の作法で討つなら仕方があるまい」
 といった。
「ところが――右源太」
 と一人が、声を低くして
「大作が、もう一人いると申すでは無いか」
「ええ?」
「見かけたという奴が、たしかに、相馬大作で、然も、平山子龍の邸から出てくるのを見たというが、何うもおかしいの。討たれた奴が白昼出るのは?」
 右源太は、黙っていた。そして
(本当だ)
 と、思った。
(戻ってきているのかもしれぬ。然し、大手を振っては歩きはすまい。二度と、人に顔を見られるようなことはすまい。そんなことをしたなら、身の破滅だからな――俺は、何処までも、そいつは、他人の空似だと頑張っておればいい。もし、本物と判ったなら――その時は、その時だ)
「妙でないか」
 一人が、右源太の顔を見た。
「他人の空似ということがあるからの」
「それはそうだ」
「然し、その男は、確に、大作だと申しておったが――」
「証拠でもあるか?」
「ちらと見ただけだが――」
「はははは」
 右源太は、おっかぶせるように笑った。そして
「そんな話より、岡場所のことでも、話そうでは無いか、何んなら、今夜一つ奢ろうかの」
「結構、一つ、あやかりに――」
「又もや、御意の変らぬ内、拙者一足先へ参っておるとしようか」
 と、一人が片膝を立てた。

    二十一

 だあーん――それは、その近くに住む人が、生れて以来、聞いたことの無い音であった。その近くで、その音を立てたなら、死罪に処さるべき、鉄砲の音であった。
(鉄砲だ)
 と人々は、ぎょっとすると共に、窓を開けたり、跣足のまま走って出たり――往来の人々は、音のする方を眺めて――新らしい橋の橋外の柳の木の辺に、行列の人数の乱れているのを見ると共に――小僧は徳利を小脇にかかえて、溝沿いに、恐る恐る走ると、侍は刀を押えて、町人は顔色を変えて、走り出した。
 人の騒ぐ姿、罵る者、橋外へ来かかった津軽の行列は槍を傾け、挟箱持は濠端ほりばたへ逃げ、駕籠かごはよろめきながら、人数の乱れる脚の真中に――そして、柳の木の下には白い硝煙が、薄く立ち昇っている。
「津軽だ」
 と、挟箱の金紋を見た侍が、叫んだ。
「津軽さんだ、津軽さんだ」
 群衆は口々に、叫んだ。
「相馬大作じゃないか」
 と、いった時、橋の下に、動揺している侍、白刃、その中に囲まれている人があるらしく
「津軽近江を討取ったのは、相馬大作じゃ。檜山横領の不義をたださんがため、相馬大作津軽公を討奪うちとったり」
 群衆は、わーっと喚声を挙げた。津軽の駕籠は、すぐ、角の、酒井出羽の邸へ、押されるように入ってしまった。挟箱、草履ぞうり、御槍の人々が、そのあとを、追って行った。駕籠脇の侍が二十人余り、橋の下の一人を取囲んで、白刃の垣を作っていた。
「やれやれ」
 と、群衆が叫んだ。いろいろの人々が、四方から集ってきた。
「津軽が、討たれましたかい」
「さあ」
「何んしろ、大砲を打ち込んだからねえ」
「じゃ、駕籠は、微塵でしょうな」
「どこへ飛んじまったか、形もえだろう」
「成る程ねえ」
 橋の内部から、七八人の、棒をもった人々が、走ってきた。
「お役人だ」
「相馬大作ってのは、討たれたって話だが」
「何んの、影武者が、ちゃんと、七人あるんだ」
「じゃあ、この大作は?」
「これが、本物さ」
「あとの六人は?」
「今、昼寝している」
 役人が、走ってきて
「神妙に」
 と、声をかけた。

    二十二

 関良輔の、相馬大作は、甘酒屋の荷と、柳の大木を楯にして、脇差を抜いていた。誰も懸け声だけで近づかなかった。役人がくると同時に、自分達は、じりじりと退いた。役人は、棒を構えて
「神妙に致せ」
 と、叫んだ。幸橋の方から、霞ヶ関の方から、群衆と、役人とが――馬上で、徒歩で、それから、その近くの邸の人々は、足軽を出して、群衆を追っ払い始めた。
「神妙に致せ」
 という声が、いつまでもつづいていた。関良輔は、人々が、十分に集ったのを見ると
「白沢の関より届にも及ばずして、参覲交代の道を変更したる段につき、上より咎めあるべきはずを、沙汰の無き、これ一つ。津軽越中守を、国境の渡場にて討取ったる上は、家改易に処すべきに、これまた、咎めの無きこれその二。第三に、天下周知の檜山横領の件。この三つの大罪を犯したる津軽を依怙えこ贔屓によって、処断せざること、天下政道の乱れ、これに優ること無し。いささか、南部に縁ある者として、また、天下を憂える者として、ここに、白昼、お膝下、衆人環視の内において、津軽近江を討取ること万人が、その証拠人であろう。これによって、津軽を処分せずんば、信を天下に失うものと知るがよい」
 関良輔は、赤くなって、絶叫した。群衆の中から、幾人もが頷いた。
「無益の殺生は致さん、思うこと申したる上は尋常にお縄を頂戴致そう」
 良輔は、こういって、脇差を鞘へ納めて、荷の上へ置いた。
「神妙に致せ」
 一人が、棒を突出して、じりじりと寄った。一人が、素早く、後方から、組みついた。と、同時に、役人と津軽の家来とが、飛びついた。もとどりをつかんだ。脚を蹴った、役人が
「無法なっ」
 と、叫んで、津軽の者を、突きのけた。
「馬鹿野郎、津軽の馬鹿っ」
 と、町人が、叫んだ。
「卑怯者っ、武士かっ、それでも武士かっ」
 と、一人の侍が、走り寄った。良輔は、血を流し、髪を乱して微笑していた。役人は、津軽の人々の手から、良輔を守って、橋を渡りかけた。
 群衆は役人に追われつつついて行ったり、出羽の邸をのぞいたりして、だんだん数が増してきた。甘酒の荷と、短銃と、脇差とをもって、役人は、奉行所の方へ走った。
「志士というべしじゃ」
 と、老人の侍が呟いた。
「大作は、もっと、痩せて、身丈みたけが高いと聞いておったが――」
 と、一人が呟いた。その群衆の、後方の方で
「大作――大作が――本当かの」
 と息をはずませて、右源太が、人に聞いていた。そして、群衆の中を、走って行った。新らしい橋へ来た時、もう、大作の姿も、役人の姿も無かった。
(大作の畜生っ、何んて、大胆な――こんな所へ現れて――畜生っ、俺は、じっとしておれなくなったぞ、百石どころか、元も子も、棒に振るか、振らんか――畜生)
 右源太は、脣を噛みながら、濠に沿うて歩き出した。
(ここは、濠だが――いつか、南部の方へ、ぼんやりと、歩いて行った時は、こんな気持だった。あれから二ヶ月しか経たぬのに、又――俺は、何うすりゃいいんだ。俺の考えておいた弁解が通るか通らぬか――通らなかったら――)
 右源太は、蒼い顔をして、俯きながら、まだ、だんだん増してくる群衆の中を、当てもなく歩いて行った。

    二十三

 曾川甚八は、右源太を睨みながら
「聞いたであろうな」
「はい」
「何んと申訳する? 上を欺いた罪――」
「いえ――」
「黙れ。その方の申し分を信じて、お上へ取次いだる拙者の面目、何んとなると思いおるか? 拙者を盲目にして、お上を欺いて――」
 曾川は、拳を顫わして、声を大きくしてきた。
「恐れながら――」
 右源太は、真赤な顔を挙げた。
「お言葉を返して恐入りますが、手前――昨日捕えられました大作は、似而非者えせものと心得まする?」
「何?」
「或は、手前の討取りましたる大作が、似而非者で御座りますか――その辺、いかがかと存じまするが、相馬大作なる者は、三人も御座りまして、何れが本物やら――いろいろと南部領にて、取調べますと、判らないところが御座ります。白沢の駅で大銃おおづつを放とうと企てたのが、真正の大作か、渡し舟のが、当の本人か、どうも、出没自由にて、稀代の曲者と心得ます。手前の、討取りました大作も、その中のたしかに、手前の兄を殺しましたる、大作に相違御座りませぬが、外にも、どうも大作がいるらしく――それゆえ、大作を一人とお心得下されましては――と、恐れながら、御賢察下さりますよう――」
 右源太は、こういって
(吾ながら、うまい)
 と思った。
「ふむ」
 曾川は、暫く、黙っていたが
「同一人が、三、四人も居ると申すのか」
「はい」
「それなら、それで、何故早く、そう申さん?」
「はい――余り奇怪な事柄ゆえ、或は、お取りあげに――」
「重大なことではないか。その方一存で、胸の中へしまっておくべき事柄とは、ちがうではないか」
「恐入りまする」
「今一応取調べるが、その方の討取ったのは確に、相馬大作であろうな」
「はっ」
「よし退れ」
「お耳に逆らって、恐入ります」
 右源太は、心の中で、微笑しながら、詰所へ退ってきた。

    二十四

「大作が二、三人いる? 馬鹿なっ」
 と、一人が、怒鳴った。
「いや、いる」
 右源太は、はっきりといった。
「相馬大作は、下斗米将実しもとまいまさざねでは無いか? 平山塾へいって聞けばすぐ判ることだ」
「然し、下斗米将実だけが、相馬大作と名乗っているだけでは無い、外に――」
「昨日の相馬大作、あれ一人だ。あれが下斗米だ」
「では、拙者の討取ったのは、同名異人だと申すのか?」
「そこが判らん」
「判らずに――」
「いいや、大作は、中々の腕だからのう、世の中には、似た者が、いくらもあるし――」
 右源太は、膝を立てて
贋首にせくびだと申すのか」
 と、怒鳴った。
「怒っては困る」
「不届ではないか? 上のお眼鏡まで、汚すではないか」
 右源太が、こういった時、襖を開けて、足早に入って来た一人が
「昨日の大作は、本物でないぞ、あいつは、大作の弟子の関良輔という人物じゃ」
「ええ?」
 右源太は、微笑した。そして
(俺は運のいい人間だ、そうだろう。大作が、のこのこと江戸をうろつくものか、津軽とて、黙って見逃してはおくまいし――何うだ。うまく行く時には、うまく行くものだな)
 右源太に反感を、疑惑をもっていた朋輩は、顔を、一寸赤くして
「関良輔?」
「うむ」
「奉行所で聞いたのか?」
「聞いてきた。追っつけ此処へも、回状がくるであろう」
「ふうむ」
 朋輩は、腕組をして俯いた。
「相馬大作が一人でないことは、南部まで行かんと判らん。大名相手の大仕事を、一人や二人で出来るものかを考えずとも、判りそうなものじゃ」
 右源太は、静かにいった。右源太を、平常から軽蔑していた上に、今度の加増で、反感と、嫉妬とをもっていた人々は、右源太に、こういわれて、じっと、横から、その顔を睨みつけていた。白々とした空気が、部屋一杯になってしまった。

    二十五

「何うでえ、野郎。日本中の胆っ玉を、一人で買集めたってんだ。ええ、何うでえ」
 と、職人は、大声を出していた。新らしい槻の板に
「実用流軍学兵法指南 相馬大作将実」
 と、書いたのが、門にかかっていた。黒塗の門で、石畳が七八間も、玄関までつづいていて、その左側に、道場があるらしく、武者窓が切ってあった。
 看板の前に、大勢の町内の人が集って、口々に、話合っている。そして、侍が近づいて覗き込むと
「どうでえ。これがほんとうの勇士ってんだの、百万の敵中へ、たんだ一騎、やあやあ近くば耳にも聞け、遠くば鼻で嗅いでみよ――」
「ほほう、大胆な仁だのう」
 侍が、呟くと
「一番手合せなすったら?」
「立合せか、花かるたなら致そうが――」
「こいつは話せる、旦那」
 と、いっている間に、薄色の羽織、小粗い仙台ひらの袴の侍は、去ってしまった。
「ああいう侍ばっかりの中へ、何うでえ、町内の誉だぜ。又来た、来た」
 一人の侍が、眺めてみて、首を振って
「不敵不敵」
 と、呟きながら行った。
「あん畜生、余り女郎買して、鼻が無くなったんだろう。素的素的ってのさ、不敵不敵って、いってやがらあ」
「しっ、聞えるぜ」
「ほっ、又来た」
 一人の若侍が、小者に、何かの包を持たせて、人々の中を、玄関へ入って行った。
「ほっ、弟子入りだ。しめしめ、出てきたら胴上にしちゃえ」
 珍らしい物、珍らしいことを、何よりも好んでいた江戸の人々は大作の放れ業を、大胆さを、渇仰かつごうして、超人のようにとなえ出した。町内の人々は、自分の仕事をすてておいて隣りの町へ、自慢に行った。隣りの町の人々は、すぐ見に行って、その隣りの町の人々へ先に見てきたことを自慢した。そうして相馬大作の顔を見ようとする男、女――子供、老人、あらゆる人々が、往来一杯になる位に出てきた。役人がきた。人々は、動揺した。役人が戻った。
「今に大捕物があるぜ」
 と、噂した。そして、徹夜までしたが、何も無いと知ると
「役人も手がつけられねえ、八十人力だというからのう」
 とか
「邸の中に、お前、地雷火が伏せてあるんだとよう」
 とか、話をした。そして、相馬大作の再現は、江戸中へ、拡がった。

    二十六

 大作は縁側へ出、庭に向って、毛抜きで、頤髭あごひげを抜いていた。
(何時捕えられるかもしれぬ――いつ、捕えられてもいい)
 邸の外では、群衆が、大作に聞える位の大きい声で、口々にその素晴らしい、英雄的行為をめていた。大作は、眼を険しくして、眉をひそめて
(町人共は、わしを称めている。然し、あいつらに、わしの行いは判るであろうが、わしの志は判るまい――だが、それは無理も無いことだ。町人までが、わしの志の判る世の中なら、それは堯舜ぎょうしゅんのような時代だ、老中、重役共でさえ、大義が何んであるかを知らない時世だ。こういう世の中において、義を述べんとする者は、死をもってなすより外にない)
 大作は、したおびを新らしくし、下着を取替えて、いつでも、召捕られる用意をしていた。
「入門者が、参りました」
 と、新らしく召抱えた田舎出の老人が、いってきた。
「入門者?」
「はい、若い、御大身らしい方で、御座りますが」
「客間へ通しておけ」
 大作は、そういって
(奉行所からの廻し者であろう)
 と、思った。そして、頤を撫でて
(こうしておけば、十日、二十日、牢屋におっても、むさくるしい顔には成らん)
 と、考えながら、客間へ立って行った。
 客は、黒縮緬の羽織に、亀甲織の袴をつけた、若い侍であった。挨拶を済ますと
「入門を、お許し下されましょうか」
 と、いった。大作は
(奉行の手の者では無い。それにしても、物好きな――)
 と、感じると同時に
「相馬大作は何者で、何をした男か、御存じの上か?」
「心得ております」
「咎めを受けることがあるかもしれぬが、御承知か?」
「義を、道を学ぶ者として、俗吏の咎め位を恐れて、何と致しましょう」
 若者は、その当世風の着物に似ず、しっかりした口調でいった。大作は、微笑して頷いた。そして
(世間は広い。こんな若さで、こんなことをいえる侍も居る。矢張り、道は、同志のあるものだ)
 と、感じた。そして
「門人連名帳へ署名血判なされ」
 というと同時に、若者は
「御免」
 と、いって、脇差から、小柄を抜いて、左の親指へ当てた。

    二十七

 病気と称して、引籠ってしまった右源太は、生薬きぐすり屋から買ってきたいい加減の煎じ薬を、枕元に置いて
(さあ、困った)
 と、布団の中で、眼を閉じていた。
(どんどん門人は増えるそうだし、見に行ってきた同心、手先の奴等、口を揃えて、あれが正真正銘の大作だ、女狩の討取った大作は、贋の大作だと――それもいいが、関良輔の馬鹿野郎め、白洲で、天下に大作はただ一人だと、自分も大作と名乗った癖に――師の名を汚しましたる罪などと――余計なことをいやがって、一体、俺は、何う成るのだろう?)
 隣り長屋の人が出て行っても、裏通りを、誰かが通っても、呼出しに来たのではなかろうかと、びくっとした。
(うまくいい抜けておいただけに、俺は、余計憎まれるにちがいない。重ければ、追放、軽くて、知行半減――首のつながるだけが、目っけものだが――知行が半分になっては、あの女には第一逢え無くなる)
 女狩は、自分に、不相応な、水茶屋の看板娘が、大作を討取ったという名に惚れて、好意を見せているのを、しみじみと考えた。
(女の方は、何うにでも誤魔化せるが、お上は一寸、今度は嘗め切れない――何んて馬鹿野郎だろう。あの大作って奴は――いいや大作が、命知らずなのよりも、のめのめ捨てておくお上の気が知れぬ。いやいや、お上より津軽が、何故、早く刺客を出して殺してしまわ無かったのか? 大作に、あんな真似をされちゃ、まるで恥の上塗りではないか?――だから殿様が、二人もつづけて殺されるのだ)
 女狩は、いろいろと、上のことを考えている内に
(勝手にしろ)
 と思った。そして
「馬鹿共っ」
 と、呟いた。
「俺のことをとやかくいえるか?」
 女狩は、こう口へ出していってみて
(第一、幕府からして、いい加減なことをしているでは無いか。檜山の横領など、世間もよく知っている横領だ。上で、こんなことをしていて、俺のことだけ咎める?――そんな理前りまえに合わんことがあるか? 第一、曾川甚八が町人からの附け届けで、妾宅を構えているでは無いか?)
 右源太は、曾川の妾と、自分の水茶屋の女とを較べて
(あんな妾に、大金を使いやがって――)
 と、軽蔑した。
(大体、朋輩共も朋輩共だ。俺の出世を嫉んで、俺を陥れて手柄にしようなどと――仮令たとい贋首でごまかしたって、俺は、大作を討ちに行っているぞ。それだけでも、俺の朋輩中では、俺が一番えらいのだ)
 右源太は、そう考えて、いつか、大作の姿をみた時の、百姓家のことを思出した。
(田舎の奴は、気も、腕も強い。本当に、あの時は、恐ろしかった。大作は、江戸でも人気者だが、江戸で、彼奴を討取ったって、誰も、俺を殺しはすまい。お祭り騒ぎをしているだけだからなあ――一つ、大作を、討取るか? 本物の大作を――)
 右源太は地下で苦笑し、憤っている、兄の顔を想像したが
(兄の意気地無しめ――俺を、恨む度胸があるか?)
 右源太は誰よりも、勇気があって、誰でもしている位の誤魔化ししかしていないのに、一寸したことからでも、手柄をくつがえそうとしているらしい人々に、腹が立ってきた。
(大作が怒るのは尤もだ。檜山のことなど、奉行所へ訴えたって、勝てるものでは無いからな。お裁を見ていたって、町人には厳しいが、少し羽振りのいい、旗本だと、邸内の博奕ばくち位は、皆大目に見ている。それが今の時世だ。俺が、大作だったって、津軽を殺すより外、腹のもって行きどころが無いだろう。大作がえらいって――当り前だ。あいつ一人が人間らしいのだ)
 右源太が、こう考えてきて、自分の運命のことを忘れかけた時
「女狩」
 と、表に呼ぶ声がして、戸が叩かれた。召使の爺が
「はい」
 といって、開けに行った。女狩は、顔色を変えて、布団へもぐった。そして
(いよいよきた)
 と、思った。

    二十八

「何故、正成は、死んだか? 討死をしたか? 死なずにすむ戦であったか、まぬがれぬ戦であったか、は、別の論議としておいて――」
 大作は、師範席の上へ、布団も無しに端坐して、書見台を前に、道場の板の間に坐っている人々を見廻しながら、講義をしていた。
「つまるところ――身を滅ぼして、志を千載に伝えるという心懸けからであった。もし、正成が、尊氏謀叛むほんの前に――即ち、功成り、名遂げて、病死してしまっていたなら、正成の一生としては、仕合せであったであろうが、果して、千早挙兵の志が、今日の如く伝わったであろうか。ここだ――」
 外は、明るい陽であったが、高い、狭い武者窓からしか入って来ない光に、道場の中は、静かに、落ちついていた。門人達は、膝一つ動かさず、咳一つせずに、聞いていた。大作は
(いつ、召捕らえられてもいい、誰かの胸に、このことは、刻まれるであろう)
 と、考えていた。
「正成は、それを知っていた。だから、河内の一族に、十分、後のことを頼んでおいて、自らは、大義大道のために、死をもって、その志を鼓吹したのだ。湊川の悲壮な戦――七百騎で十万騎と戦った十死無生の、あの合戦。この悲壮な合戦、この凄愴な最期があったればこそ、正成の志は万古に生きることになった。人は、この戦を思うと、楠氏の志は必ず、思出す。即ち、正成の志は元弘、建武の御代を救うにあっただけでは無く、万代、人の道を教えるのにあったのだ」
 門人達は、頷いた。
「拙者の志は、正成公と、比較にならん位小さい。然し、一死以て、君国に報じるだけの決心は致しておる。何時召捕られる身かしれぬ拙者として、皆に申残しておきたい。第一のことはこの心掛けじゃ。碌々として生を貪るなかれ。三十にして死すとも、千載に生きる道を考えよ、と、これ平山子龍先生の教えにして、又、拙者自ら、いささか行うたところの道である」
 大作は、よく澄んだ大きい声で、説いて行った。徳川二百年の間に、比類無き、放れ業をした関係から、目の当り、その志を聞いた人々は、身体を固くして、聴入っていた。
 武者窓から覗き込んでいる小僧、町人、職人達は、耳を傾けたり、一心に大作の顔を、よく見ようとしたりしていたが、門人達の静粛なのを見て誰も、一言も口を利かなかった。
「昔、支那に、文天祥という人があった。その人の詩に、正気せいきの歌というのがある」
 大作は、こういって、見台の上の本をひらいた。

    二十九

 女狩右源太は、詰所へ戻ってきて、押入れから、捕物の支度の入っているつづらを、引出した。
(皮肉なことをいやがる。どうも、俺より一枚上手らしい)
 そう思って、脚絆、鎖鉢巻、鎖入りの襷、呼子笛、捕縄を取出した。
(何事も、眼をつむっているから、大作を、召捕って参れって――自分達は、命が惜しいものだから――)
 足音がして、朋輩が入ってきた。
「右源太も行くのか?」
「うん」
 右源太は、脚絆を当てていた。一人は、薄色の紬の羽織を脱いで、同心らしい、霰小紋の羽織に着更えた。
「いよいよ本物の大作だから、一つ、手並を見せて頂くとしよう。道場では、負けぬが、何んしろ、一度は、大作の首を上げた御仁だからの」
 一人が、板壁に立ててある突棒をとって、しごきながらいった。
「拙者が、案内を乞う。取次が出てくる。押問答になる。それだけ――まず、命に別条の無い方へ廻りたい。百石の御加増はいらんが、命はいる。拙者は不用だが、あのがいると、おっしゃる。はいはい左様で御座い」
 一人は、平服のまま、そんなことをいって、人々を眺めていた。
「一人、二人で懸かれる相手か。皆、水盃だ」
 右源太は、吐出すようにいった。組下の足軽共が、玄関へ揃ったらしく、騒がしい話声が聞えてきた。
「大抵の咎人は、逃げかくれするから、こちらも忍んで行かなくてはならんが、大作へは、まるで、戦支度の気持だのう」
「念のために、刀を三本位差して行くか」
「大作が手練者てだれものの上に、飛道具があろうし、門人の加勢も見ねばならず――」
「拙者は、そう心得て、胴を下着の下へつけて参った」
 一人が、自分の胸を、どんと叩いた。こつと音がした。
「拙者も」
 と、いって、一人が部屋を走って出て、稽古道具の方へ行った。右源太は、その人々の走るのを見ると同時に
「待て、わしも」
 と、叫んで、柱に、ぶっつかりながら、道具部屋の方へ追っかけて行った。

    三十

「捕物だっ。大捕物だっ」
 と、街の人々は、口々に叫んで、走ったり、走って入ったり、走って出たり――そして、役人の後方をつけて
「ならん」
 と叱られたり――一行が、大作の住居の、隣町まできた時、行く手に待っていた北町奉行の人数が挨拶にきた。そして、表と裏と、町の抜け路――要所要所に、人数が配置された。
 役人は、騒ぎ立てようとする町家の人々を、低く叱り、眼で制して、大作の道場の方へ近づいた。武者窓に縋りついていた人々は、役人の姿と、近づいてくる同心衆の十手を見ると、周章てて逃出した。二三人の同心が、人々の逃げてしまった武者窓へ近づいて、顔を出すと、一人の門人が立上ってきて
「何用か」
 と、怒鳴った。道場の中の門人達は、一斉に、窓の方を眺めていた。その正面にいる大作は、暫く窓の方をみていたが
「これまで」
 と、叫んだ。役人は
(大作は、感づいたな)
 と、思った。そして、右腕をげた。
「役人か」
 と、二三人の門人が叫んで、窓へよると共に、門人達は、一時に、立上った。役人は、身体を引いて
「油断すな」
 と、叫んだ。十手、突棒、袖がらみなどを持った手先、足軽が、門から雪崩れ入った。それと同時に木戸口から、門人達が出てきた。
「妨げすな」
 と、走ってきた役人が叫んで、得物を構えて、立止まった。
「妨げすな、決して――」
 真先の門人は、蒼くなって、立ちすくんでしまった。同心が
「素直に立去れば、咎めは御座らぬ」
 と、いって、道一杯になっている役人に
「開けて、開けて」
 と、手を払った。その間に、十二三人の役人は、柴折戸しおりどから庭の方へ廻って行った。門人達は、役人にお辞儀しながら、次々に出て行った。

    三十一

 一人が、玄関から
「頼む」
 と、いって、片足を式台へかけた。それは、武家に対する、形式的な挨拶であった。返事をしても、しないでも、次には、土足のまま、踏込むのであったが、誰も彼も
(飛道具が――)
 と、思っていた。そして、鉄砲が現れたら、音がしたら、地面へ平伏しようと、身構えていた。
「どうれ」
 答えがあった瞬間、二三人の役人が、首をちぢめて、かがもうとした。正面へ、大作が、素手で現れて
「御苦労」
 と、いった。真先の二三人は、式台から足を降ろした。同心も、与力も、暫く黙っていた。
「召捕にか?」
 役人は頷いたり、目で頷いたりしたが、大作の素手が、何をするか知れぬ不安さに、呼吸を殺していて、答えられなかった。
「神妙に致せ」
 と、役人の中央にいた与力が叫んだ。
「とくより、覚悟を致しておる。お出向きか、南か、北か?」
「双方からじゃ」
 大作は、微笑して
「大勢、見えられたのう」
「神妙に致せ」
「はははは」
 大作は、笑った。
「召捕れ」
 門際にいた曾川が叫んだ。後方うしろの方の役人が、得物を構えた。
「着替え致す間、猶予願いたい」
 曾川が
「成らん」
 と、叫んだが、真中の与力が
「誰か、ついて参れ」
 と、叫んだ。
「狭いところゆえ、大勢は困る。両三人見届けにいてくるがよい。誰がくるな」
 大作は、いつもの鋭い眼で、見廻した。誰も、動かなかったし、答えもしなかった。
「踏込め、踏込め」
 曾川の声であった。大作は、その声の方を見た。藤川が[#「藤川が」はママ]眼をらしめた。
「その方」
 と、大作は、前から二列目に、俯いている右源太へ、眼をやった。朋輩が、右源太の背を突いた。顔を挙げると、大作の眼が、じっと睨んでいた。右源太は、さっと、蒼くなって、膝頭が顫えてきた。
「その方、いつか、国許で、逢うた仁じゃのう、顔見知りに、ついて御座れ」
 朋輩が
「行けっ」
 と、背をつついた。
「怖いか?」
「何?」
 大作が
「心配することは無い。役人の一人や、二人斬ったとて、何んになる」
 右源太は
(そうだ。大作は、そういう人間だ)
 と、思った。そして
「参る。拙者、参ります」
 と、叫んで、かれた人のように、ずかずかと、玄関へ進んだ。
「よし、一人でよい。それとも、もっと参るか?」
 と、いったが、誰も、答えなかった。大作が、奥へはいると共に、右源太は、敷居につまずきながら、ついて行った。

    三十二

 大作は、帯を解きながら
「あの時の男か?」
「はっ」
「あの時は、危なかったらしいの」
「はっ」
 庭の方に、役人が立っていたが、大作と、右源太とを、じっと眺めていた。与力の一人が、走ってきて、何か囁いて、そのまま、二人に眼をやっていた。右源太は、厳粛な顔をして、立ちながら、小声で
「はっ、はっ」
 と、答えて、わきの下に、冷汗を流していた。大作は、薄い柳行李から、袴を出しながら
「あの節は、拙者を調べにでも参ったのか」
「はっ」
「わしがおったのでよかった。もしおらなかったなら、なぐり殺されていたかもしれん」
「忝のう[#「忝のう」は底本では「悉のう」]存ず――」
 と、までいって、右源太は、頭を下げて、周章てて、又上げた。大作は、帯を締めて、袴をつけて床の間の刀をとった。右源太は、眼を閉じていた。
「刀はあずかるであろうな」
「はい」
「では――」
 大作が、大刀を、右手で、差出した。
「はっ」
 右源太は、両手で受けた。三尺余りの、長くて、重い刀であった。
「拙者一人に、大勢がかりで、ちと、見とむないの。そうは思わぬか」
 と、いいつつ、四辺を見廻して
「何も無し」
 と、独言をいった。そして
「御苦労――はははは、少し、蒼くなって、顫えているの」
「はっ」
「役人などに、恨みは無い。恨みの無い者は斬らん。妨げるなら、格別、志を達した上はのう――その方一人の手でも、召捕らえられてよい――何うじゃ」
 と、大作は、微笑して
「縄をかけるか」
「いいえ」
「その胆もあるまい」
 大作は、そういって、ずかずかと、玄関の方へ出て行った。
(しまった。縄をかけたらよかったに――いや、この調子なら、頼めば、首でもくれたのに――えらい物を逃がした)
 右源太は、頭の中一杯に、残念さを感じながら、刀をもって、小走りに、玄関へ走って出た。
「道を開けい」
 大作が、叫んだ。役人が、道を開けた。
「脇差をとれ」
 与力の一人が叫ぶと
「武士の作法を御存じか、それとも、縄にかけるか?」
 大作は、たたずんで、じっと睨みつけた。右源太が
「刀は、あずかっております」
 と、両手で、捧げてみせた。与力の一人が
「神妙の至り、一同、十分に警固して、このまま送れ」
 と、叫んだ。右源太は
「重い刀だ、何うだ、誰の作か、判るか」
 と、笑いながら、朋輩に話かけたが、朋輩達は、黙って、人々の波と一緒に、歩き出した。
(ざまあみろ。俺の手柄を見ろ。運のいい人間って、こんなものだ)
 見知らぬ役人が
「よい度胸で御座るな。今日の手柄は、御身が第一。褒美が、たんと、出るで御座ろう。お羨ましい」
 と、いった。一人の役人が
「その刀を一寸」
 と、いって、そっと、鯉口を抜いてみた。朋輩の外の役人は、右源太の周囲へ集っていた。与力の一人が
「見事な刀だの、貸してみい」
 と、声をかけて近づいた。右源太は
(もう、大丈夫だ。贋首を討ってよかった。本物が捕えられて、俺が、これだけ手柄をした以上、贋首と判っても、心配は無い。しかし、大作め白洲で、喋りはすまいか――いや、あれほどの豪傑だ。高の知れた俺一人位のことを、何、喋るもんか――そうだ。女に逢えるぞ。褒美が出るとしたら、あいつ、女房にしてこまそ)
 右源太は、脣にも頬にも笑を浮べていた。

    三十三

(世の中って、運一つのものだ。兄貴の運などは、生れた時から曲っていて、とうとう死んじまったが、俺の運は、兄貴の死んだ時から開けてきたんだ。これで、贋首が判ったって、天下泰平。運勢の御守札は、こちらから出まーあすってんだ)
 右源太は、止めようとしても、出てくる笑を頬に、脣に出しながら
(これで、あの女も、自分のものになる。いずれ御褒美があろうし――お袋に、見せてやりてえや」
 右源太は、賑やかな、両国河岸を、水茶屋の前へきた。往来の人々が、皆自分の方を見て
(あれが、相馬大作を召捕ったお役人だぜ)
 と、囁いたり、噂したりしているように思えた。そして、全く、水茶屋の行燈の灯に照らし出された時、水茶屋の女達は
「あら、女狩様」
 と、叫んで、客の無い者は、走り出してくるし、客のある女は、一斉にこちらを向いた。右源太は大きい女の定紋を書いた衝立の蔭へ坐って
「暫く」
 お歌が、外の客に、愛想の言葉を投げかけておいて
「ほんに、お久し振り」
 と、いって、側へ腰かけて、香油の匂を漂わして
「妾まで嬉しゅうて――何んしろ、大したお手柄で御座んして」
 と、媚を見せた。職人らしい一人が
「えへんってんだ」
 と、大きい声を出した。そして
「おい、勘定だ」
 と叫んで、銭を抛出して、外へ出ようとして
「おもしろくもねえや、相馬大作がいなくなっちまって」
「全く、お世話様だっ」
 お歌が、ちらっと、振向いて
「嫌な奴」
 と、いった。
「棄ておけ、棄ておけ。わしの朋輩共でさえ、よく申さん奴がいる」
「でも、本当に、大作様は、江戸中の人気者で御座んしたのに――」
 客の無い女が、隅に立って
「お歌さん、いくら、絞るだろうね」
「さあ、御褒美に脚を出して、首をくくって舌を出してさ」
「本当に、いやな小役人風情が――」
「召捕った顔をしてさ。何んでも、ぶるぶる顫えながら、ついて行ったって、いうじゃないの」
 お歌は、右源太に
「今夜、お店を仕舞ってから――」
 と、囁いた。

    三十四

「お歌、さっきのお侍のお話をしたかえ」
 と、婆さんが
「大層な、お手柄だそうで」
 と、笑いながら、二人の前へ立った。
「ほんに、胴忘どうわすれをしておりまして――先刻二人連れのお侍衆が、お見えになりまして、是非お目にかかりたいと――」
「何んな? 何と申す」
昵懇じっこんな方らしゅう、それでお邸をお教え申しておきましたが――」
「そうか、手柄話でも、聞きたいのであろうかな」
「左様で、御座んしょ」
 水茶屋の前へ、酔った侍が四人脚をもつれさせて寄ってきた。
「よい、御機嫌で――」
 と、女達は、寄り添うて、中へ案内をしてきた。士は、[#「士は、」の後は、底本では改行1字下げ]お歌の側を通りかかって
「お歌」
 と、叫んで、その側の右源太を見ると
「やややや」
 といった。そして後ろへ退しさりながら
「これは、これは、女狩右源太殿」
 と、頭を下げた。右源太は、一寸、眉を険しくしたが
「いや、お揃いで――」
 お歌が立って
「さ、あちらの、すいた所へ、御案内仕りましょう」
「いや、すいた所は、ここにある」
 一人が、お歌の手をとって、そして
「片手に大作、片手にお歌、果報者だよ、源太さん。うわっ、こ奴」
 と、叫んで、お歌を、抱きしめようとした。お歌が、逃げたので
「お羨ましいことで御座る、右源太殿」
 右源太の左右へ、腰掛を響かせて、坐ると
「手前へ、あやかりとう御座るが――お流れさえ。――」
 と、頭を下げて、両手を出した。
「ここは、水茶屋で、酒が無いゆえ、桜湯を」
「け、けちなことを申されずに、ここを、こう参ると、亀清と申す割烹店が御座る。ほ、両国へきて、亀清を知らん仁でもあるまい。それでは、お歌が惚れぬ。お歌、案内せい、案内、亀清へ」
 士は、酔っていた。右源太は、処置に困って、お歌を見ると、お歌は、眉をひそめながら、手で、追出せと、合図をした。
(連れ立って出たなら、亀清へ、無理矢理にも、この勢いなら、連れて行くであろうが、金が――あるか? 無いか?)
 右源太は、お歌の前で、みすぼらしい懐を見せたくはなかった。だが、足りない物は、何うしようも無かった。
「とにかく、ここを出て――」
 と、立上ると、一人が、袖を押えて
「さあ、亀清へ――さあ、亀清へ、犬も歩けば、棒に当ると申して、当時、江戸第一の出世男――」
 と、いって、往来へ、大声で
「これが、相馬大作を召捕った、女狩右源太じゃ。近うよって拝見せい。面は拙うても、運慶の作、そうら笑った。そら歩いた」
 往来の人々が、笑って、集ってきた。
「その上、大の色男で、お歌がぞっこん惚れている」
 女狩は人々の間に挟まれて、赤くなっていた。お歌がそっと後から
「これを――」
 と、いって、財布を渡した。右源太は、握ってみて
(しめた)
 と思うと同時に
(本当に惚れている)
 と、心の底から嬉しさが上ってきた。そして、財布の重みで、大丈夫だと判ると
「参ろう。ここが迷惑致す。参ろう」
 と、人々を振切るようにして、外へ出た。一人が
「大作逃がすな」
 と、いって、右源太の袖をつかまえて、よろめきながら、ついて行った。

    三十五

「相馬大作の、引廻しだとよう」
 一人が、走ってきて、こう髪結床の中の人々へ、怒鳴って駈出してしまうと同時に、一人が、将棋の駒を掴んだまま、往来へ出て
「本当だ、走ってくらあ」
 と、叫んだ。そして、叫び終るか、終らぬかに、子供が、男が、老人が走ってきた。
「引廻しだ」
「引廻しだ」
 家の中から駈出してくるし、女が軒下へ立って眺めるし、髪を結っていた一人が
「親方よしてくれ。後でくらあ」
 と、いって、半ゆいのまま、走って行ってしまった。
「大作さんのお引廻しかえ、本当に――」
「そうだろう。近ごろ、泥棒はえし、火つけは無えし、引廻しなら、あの位のもんだ」
「もう一人、相馬大作が現れて、引廻しへ斬込むかも知れねえぜ」
「そうは行くめえが、一騒ぎ持ちあがるかもしれん。何んしろ、大作の師匠の平山ってのが、変ってるからのう」
「大作の門人も、黙っちゃいめえ」
 人々は、走りながら、久しく見ない引廻しを見に走った。大通りは人の垣であった。どの町角も、町角も、一杯の人であった。屋根へ登っている人もあったし、二階から、天水桶の上から、石の上に、柱に縋りついて――
「見えた」
 一人が叫ぶと、人々は背延びして、往来の真中へ雪崩れ出して、足軽に叱られたり――槍が、陽にきらきらしていたし、馬上の士の陣笠、罪状板が見えてきた。
「何んしろ、津軽の殿様を一人で、二人まで殺したって人だから、強いねえ。あの縄位ぶつと、力を込めりゃ切れるんだって」
「俺なんざ、毎晩女を殺してらあ」
「野郎、おかしなことを吐かすな。来たっ、来たっ」
 大作は、馬上で、茶の紬の袷をきて、髪を結び、髭を剃って、少し蒼白くなった顔をして、微笑していた。
(士は、死所を選ばねばならん。生前に志を行い、死を以て又志を行う――見物共は、物珍らしさに群れてきているが、わしを見た時、一点心に打たれる所があろう。それでいい。良心のある人間ならば、いつか、一度は、わしの行いに打たれるにちがい無い。わしは、死ぬが、わしの志は、永久に人々の間に、人間の心の何っかに残っているにちがい無い。志を得て、畳の上で死ぬよりも、こうした悲惨な最期を遂げれば、遂げるほど、わしの志は報いられるのだ。わしは、師に及びもつかぬ下根であるが、只一つ、死所を得た。もし、後世に至ったなら、尚、美化されて、人々の間に残されるであろう)
 大作は、明るい心で、立並んだ人々に、微笑を見せながら、
(わしを見た人々は、必ず、自分の、当今の懦弱だじゃくな、贅沢な振舞を省みるであろう。寝静まって、良心の冴えてくる時、不義に虐げられた時――)
 大作は、自分の眼の前に、高く聳えている槍の穂先を、快く眺めている。
(心残り無く死ねる、戦場で死ぬよりも、この方が、大丈夫として立派だ)
 人の出来ないことをして、そうして、こういう死をもって、なお世間へ、自分を記憶させることの出来る自分を、快く感じながら、大作は、馬上に揺られて行った。
「この仁が、大作殿か」
 編笠の侍が人混みの中で、笠を傾けて、じっと、顔を見ていたが
「成る程、こか、父に似たところがあるのう」
 と、一人の連れに囁いた。
「何こか、横顔に――」
「引廻しの日に、敵の居所をつきとめたのも、何かの因縁であろう」
 大作の馬は、一行は行きすぎた。人々は、二人の立っているところを、雪崩れ出した。
「行こう」
 二人は、人混みの中を抜けて、急いで歩き出した。

    三十六

 一人が、女狩右源太の家の前に立って
「物う」
 といった。右源太は、褒美の金を、女の前へひろげて
「何んしろ、大作って奴は、平の将門まさかどみたいに、七人も影武者があって――」
「物申う」
 お歌が
「あい」
 と、返事して
「誰方かがお越しに」
「金は仕舞っておくがいい」
「ええ」
 右源太が、立って行って
「誰方」
 と、聞いた。
「女狩殿、御在宿で御座ろうか、ちと、御意を得たく」
「拙者が、右源太で御座るが」
 入口を入った武士が、右源太を見て
「始めて御意を得申す。拙者は、御代田仁平」
 といって、表へ
「弟」
 と、振向いた。齢の若いのが入ってきた。険しい眼をして、右源太を見た。兄が
「御来客の模様なら、往来にて」
「いやいや、どうか、お上り下されい。拙者一人に、女一人」
 右源太は
(何うだ。こんな別嬪をもっている士は、ちょっとあるまい)
 と、思いながら、先に立って
「こちらへ」
 と、いった。二人は、刀をもって、右源太の前へ坐って
「御内儀で御座るか」
「いいえ、妾は、ちょっと、お遊びに――」
「ま、家内同然の」
「いやな――」
 と、お歌は女狩を睨んだ。
「時に、右源太殿、相馬大作をお召捕りなされたげで――」
「いや、いやいや、それほどでも――」
「去年、奥州へ、大作を追って行かれたのも御貴殿で」
「左様」
「その節、もう一人の大作をお討取りに――」
「いや、大作は、三人も、四人も御座って」
「その奥州白沢の宿外れにて討たれた者は、御代田仁右衛門とて、拙者ら兄弟の父で御座る」
「何?」
 弟が、素早く立って、右源太の横へ廻った。そして
「立てっ、尋常に、勝負せい」
 兄は、片膝立てて、刀をもって
「尋ねた甲斐あって――よくも、父を欺し討とし、あまつさえ、お上を欺き奉ったな。刀をとれ。――女狩、立てっ」
 右源太は、蒼白になって、顫えていた。
「父の敵、勝負だっ」
 お歌は、膝の前の金を、素早くとって、よろめきながら立上った。
「女。邪魔だっ、外へ出ろっ」
 お歌が、壁へ手を当てて、よろめきつつ、――だが、金だけは、片手に握って、走って出ようとした。
「お歌」
 お歌は、振向かなかった。
「お歌っ」
 右源太が、立上って、お歌を追おうとした。弟が、その腰を蹴った。右源太は、壁へどんとぶっつかって
「無法なっ」
 と、怒鳴った。近所の人々が、走って出てきて、お歌へ
「おやっ」
「何か、騒動が――」
「ええ、敵討。右源太は、悪人で、あの人に斬られます」
 右源太は、微かに、それを聞いて
「歌っ、何を申す」
「うぬっ、刀を持てっ」
「いや、何卒、全く人違いにて申訳御座らん。大作は、本物と、弟子と、影武者と――」
「うるさい、武士らしく、勝負せい」
「兄上。長屋の人の騒がぬうちに」
「歌っ。おのれ金を持逃げして、全く、人ちがい――」
「父の怨み、大作殿の怨みを晴らす、弟」
 二人は、刀を振上げた。
「ちがう、人ちがいだ。女狩右源太も、二人あるっ。三人あるっ。わしはちがう」
 右源太は、絶叫しながら
「許してくれ」
 と、叫んだ時、弟が、横から、肩へ打込んだ。血しぶきが、天井へ、壁へかかると同時に
「ちがう」
 と、微かにいって、右源太は倒れてしまった。

底本:「直木三十五作品集」文藝春秋
   1989(平成元)年2月15日第1刷発行
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:鈴木厚司
2007年1月3日作成
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