一

 桜井半兵衛は、門弟に、稽古をつけながら
(何故、助太刀を、このわしが、しなくてはならぬのか?)
 と、その理由を、考えていた。烈しく、突出して来る門弟の槍先を――流石に、修練した神経で、反射的に避けながら、声だけは大きく
「とう」
 と、懸けはしたが、何時ものような、鋭さが――門弟が
(病気かしら)
 と、疑うまでに、無くなっていた。そして、羽目板の所に立ったり、坐ったりしながら、囁合ったり、汗をふいたりしている門弟をみても
(わしの事を噂しているのではないか)
 とか
(わしを、非難しているのでは、有るまいかしら)
 とか、考えるようになった。そして、そうした疑を、門弟にさえ持つようになった自分の心の卑しさを
(意気地無しが――)
 と、自分で、叱りながら――然し、では、何うしていいのか、それは判らなかった。
(河合又五郎の妹の婿故、助太刀に出なくてはならぬ。何故かなら、縁も無い旗本が、あれだけ援助しているのに縁につながる者が、出ぬ筈は無い――尤もらしい言葉だ。然し――又五郎の殺したのは、数馬の弟の源太夫では無いか? 弟の仇を討つ――そういう法は無い筈だ。もし荒木と、数馬とが、その法を無視して、又五郎を討つならみだりに、私闘を行った罪として、処分されなくてはならぬし、この明白な事を知りながら、助太刀に出たわしも、処分されなくてはならぬ。そうした場合、主君に対して、何うして、申訳が立つか?)
 美濃国、戸田左門氏鉄の、槍術指南役として、二百石を頂いている半兵衛であった。
 旗本と、池田との、大争いとなって、池田公が、急死し、又五郎が、江戸を追われたと、世間へ噂の立った時、家中の人々は
「半兵衛が、助太刀に出るだろうか」
「そりゃ、旗本に対しても、出ずばなるまい。他人の旗本でさえ、あれまでにしたものを、助太刀にも出ずして、むざむざ又五郎を討たれては、武士の一分いちぶんが、立たぬではないか?」
 と、云った。だが、氏鉄や、その外の、重臣は
「濫りに出るべき場合ではない」
 と、云ったし、家老は、半兵衛を呼んで
「あの事件が、ただの仇討とか、上意討とかなら、助太刀に出ようと、出まいと、何んでも無いが、御老中まで、持て余されて、池田公を、毒殺したとか、せんとかの噂さえ立っている事件だ。幕府が、こうして、すっかり手を焼いているのに――無事に納めようとしているのに、濫りに、助太刀などに出て、事を大きくしては、上に対して、恐れがある。いかなる事が当家へふりかかってくるか判らぬ。よいか、ここの分別が大事ゆえ、家中の者が何と申そうと、助太刀などは致さぬよう、とくと、申付けておくぞ」
 と、申渡した。だが、半兵衛は、自分に対する、家中の噂を聞くと、稽古の時にまで、考えなくてはならなかった。

    二

 城中の、広庭の隅に設けてある稽古揚へ行って、重役の人々に、一手二手の稽古をつけて、夜詰の衆の溜り前の廊下へかかってくると
「荒木が、御前試合の中へ加わったというのは――そんなにいい腕かのう」
 一人が、腕組したまま、柱にりかかって、大きい声で話していた。半兵衛は、その言葉が、耳に入ると共に、うるささと、軽い憤りとが起ってきた。
(家中の奴等は、わし一人を、いじめている)
 と、いう風に感じた。そして、開いている襖から、顔を出して
「お揃いだな」
 と、少し、蒼白くなった額をして、中へ入った。人々は半兵衛を見上げて、しばらく黙ったが、一人が半兵衛が坐ると同時に
「お聞きしたいが」
 と、膝を向けた。
「何を?」
「将軍家御前試合に、荒木又右衛門が加わったと申すが、何故、荒木の如き、田舎侍が、歴々の中へ加わったので御座ろうか? 是水軒にしても、一伝斎にしても、一心斎にしても、天下高名な剣客であるのに、郡山藩の師範として、高々二百石位の荒木が、何故、この尊い試合に加えられたか、合点が行かぬ」
「腕が優れているからであろう」
 と、一人が云った。半兵衛が
「それも、そうだが、荒木は、柳生宗矩むねのり殿の弟子として、又右衛門という但馬守殿の通称を、譲られた位のまな弟子故と――今一つは、例の河合又五郎の一件に、助太刀をしてもおるし、一期の晴れの場所故、一生の思出として、荒木も出たかろうし、但馬殿も、出したかったのであろう」
「成る程、そういう事情があるかもしれぬ。対手は、宮本武蔵の忰八五郎だというが、これは使手つかいてで御座ろうか」
「武蔵が、好んで、養子にした者なら、申すに及ぶまい」
「では、勝負は?」
「それは判らぬ」
「二百石なら、貴殿も、二百石で、大した相違が、禄高から申せば無い訳だが、矢張り、ちがうものかの。甚だぶしつけだが、もし、荒木と立合えば、貴殿との勝負は?」
 半兵衛は、固い微笑をして、
「時の運」
 と、一言云った。人々は、余りに、ぶしつけな質問をしたのに、興をさまして、黙っていると、半兵衛が
「槍をとれば、大言ながら、相打ちにまでは勝負しよう」
 そう云うと、立上った。問うた者が、周章あわてて
「桜井氏、御立腹なさらぬよう」
 と、叫んだが、もう、半兵衛は廊下へ出てしまっていた。
(同じ二百石。荒木と、わしと――だが、荒木は御前試合に出て、剣士一代の晴れの勝負をしたし、わしは、この田舎で、一生、田舎武士の師範で、朽ちるのだ)
 そう思うと、堪らなく、不快に――歩いている左右の家々も、樹々も、空気も――岐阜の一切が嫌になってきた。
(又五郎の事など、何うでもよい。荒木と、わしとを較べて、わしがそんなに、劣っているか、何うか? 自慢をするのでは無いが、わしも、一流を究めているつもりだ。荒木も、勿論達人であろうが、その技の差は、紙一重――討つにしても、討たれるにしても、むざと、負けぬだけの自信はある。又五郎に、助太刀するとか、せんとかは、二の次の話だ。二百石と、二百石。同じ石高で、一方は、将軍の前に、その剣技を見せ――わしは――わしは、その試合に撰ばれもせぬに、荒木と、同じ禄を頂戴している――意地悪く見れば、殿を欺いているものだ。禄盗人だ。よし、わしは荒木より、そんなに、腕が劣っているか、いないか、荒木と勝負してみよう。武を人に教える者として、今の一言は、聞きずてにならぬ。討たれたなら、それは、二百石の腕もないのに、二百石を頂戴していたばちが当ったのだ。討てば――?)
 戸田の家中で、槍をとっては、霞の半兵衛と、綽名あだなされている桜井であった。
(討たれても、わしは、見苦しくは、負けまい。立派に勝負して、御前試合へ出た者のみが強いか、出ぬ者でも強いか――天下には、わし以外にも、こんな噂をされて、口惜しがっている師範役が、多いであろう。その人々の為にも、わしは、又五郎に助太刀してやろう。いいや、助太刀をするのでは無い。荒木と勝負をするのだ。同じ二百石同士の腕を競べるのだ)
 もう暮れかかろうとする町の中を――冬の初めとて、金華山から、山嵐の吹いてくる中を邸の方へ、急いだ。
(妻が不憫ふびんだが、仕方が無い。武士の意地だ。これこそ、本当の、武士の意地だ――人には云えぬ、半兵衛一人だけの、だが、我慢のできぬ意地だ)
 半兵衛の、頭の中は、熱を持っていた。我慢のしきれぬ、不快な力が、身体中に、あふれてきていた。
(明朝にでも、立ちたい。一刻も、我慢がならぬ)
 と、感じた。だが、邸の門が、黒々と見えると共に
(女房が、驚くであろうな)
 と、思って、胸の中に、固くつかえてくる物のあるのを感じた。

    三

 女房の、里恵は、黄昏近いほの明りの縁側に出て、何か縫物をしていた。玄関に、夫を出迎える召使の声を聞いて、縫物を、押入れへ入れて、廊下へ出ようとすると、もう其処に、夫の姿があった。
「お帰り遊ばしませ」
 里恵は、こう云って、ちらっと夫の顔を見たが、夫の表情は、いつもの日と、同じようであった。
(今日も、よかった)
 里恵は、夫の性質を知っているだけに、何時、助太刀に立とうと云い出すか、知れないのを恐れもし、諦めてもいた。諦め切れぬ思いを、諦めようとして、夫の周囲に立った噂を聞いた日から、半兵衛と同じように――いいや、半兵衛以上に、心の中で、夫と別れる時の事を考えては、苦しんでいた。
 その別れは、生別であり、死別であった。戸田の家中の使手として、海道にも響いている夫が、又五郎の妹婿であるというだけで、――自分につながる縁というだけで、生死の判らぬ旅+出て――。
 里恵は、又五郎を兄としていたが、好ましい兄だとは、思っていなかった。里恵にとって、兄と夫との比較は、他人と、自分との比較と同じようなものであった。ただ一人の男の子として、父母に可愛がられていた我儘な兄、三人の女姉妹の中の子として、一番誰よりも、うとんぜられていて、早く出て行け、と云わんばかりにして、半兵衛の所へ嫁がされた記憶。
 いろいろの事を想出しても、女姉妹同士には、いくらかの親しみを感じたが、兄の又五郎には、何も感じなかった――というよりも、源太夫を殺して逃げた、刀の鞘を置忘れて逃げたという話を聞いた時には、夫の前で、口も利けなかった。世間の夫なら
「やくざの兄だの」
 と、不機嫌な顔の一つでもする所を、半兵衛は
「舟遊びに参ろうか」
 と、里恵の心を察して、気晴しに連れて行って、何一つ、又五郎の事は口にしなかった夫。
 その夫が兄の為に、助太刀をしなくてはならぬ――と、家中の人々の噂は、里恵に、二重の苦しみを与えた。夫と別れる悲しさ、そうして、そんな兄の為に、そんな事をしなくてはならぬ侍の義理と、又五郎の妹という苦しさ。
(きっと、夫は、助太刀に行くであろう)
 里恵は
(自分にからまる義理?――それは、何んな事? 自分は兄を兄とも思っていないし、助太刀所か、兄の首を討って、夫の手柄になるなら、兄を討ってもいい、とさえ考えているのに、その妹に、義理が、からまるとは? 妾は、そんな義理など、少しも考えていないのに――そんなことの為に、夫が妾へ、義理を立てる? それは、世間体もあろうが――世間体、武士の義理。そんな物が、そんな物が)
 里恵は、兄の又五郎が、好もしい男なら、自分から、夫に、助太刀をしてやって下さいと、云えたが、それさえ云いたくない兄への反感。それに、その妹への義理立てをしなくてはならぬという世間――。
(何という、訳の判らない世間であろう)
 里恵は、そう考えていたが――だが、武士の娘であった。いや、半兵衛の女房であった。彼女は、家中に対する夫の面目の為に、いつでも、発足できるよう、新らしい旅仕度を調えながら――だが、泣いていた。

    四

「里恵」
 そう云った夫の眼、夫の口調、それから、その正しい坐り方に、里恵は
(今日は?)
 と、そう思っただけで、もう胸の中が、固くなってしまった。
「又五郎殿の、助太刀に出る」
 里恵は、うつむいた。
「兼々、家中の噂を存じておろう。然し、わしは、噂によって、噂に押されて、嫌々ながら、助太刀に出るのでは無い。形は、助太刀であるが、心は、荒木又右衛門なる者と一手合ひとてあわせしたいからじゃ。お前にだけは、打明けておくが、荒木も、郡山で二百石、わしも二百石。その荒木が、今度存じておろう、将軍家の御前試合に出た。同じ二百石でありながら、将軍家の前へ出られるのと、出られぬのと、どんな違いがあるか? それを天下に示したい。又五郎への助太刀は、士道の表向の意地立てだけだ、わしは気が進まぬし、断る口実は立派にある。ただ、形だけの事で、わしは出たくも無いのに、家中の虫けらに、評判されたからとて出て行く程の小心者でも無い。然し、同じ二百石でも、御前試合へ出る二百石と、出ない二百石とは、格段の相違があろうと云われたのは心外だ。殿に対して、わしは、わしの値打を示さぬと、二度と、この二百石は頂戴しかねる。それに、今出ぬと、半兵衛め、あれ見よ、荒木が御前試合に出る位強いから、同じ二百石取りであり乍ら、怯じ気がついて出ないのであろうと云われるのも、無念だ。わしから進んで――誰が、何と申そうとも、今度は出る。覚悟をしてくれ」
 里恵は、すぐ、涙の落ちそうになる眼を伏せたまま、黙って立上ると、押入れの襖を開けた。そして、一包の物を持出してきて
「旅仕度で、御座ります」
 と、いうと、はらはらと、涙が落ちた。
「兄への助太刀の為と仰しゃれば、一度はお止め致す所存で御座りました。なれど、妾の覚悟を示す為としては、これ、この通り、ちゃんと――」
 と、云って、風呂敷を開くと、合羽、脚絆、道中服が揃えてあった。
「いつ――御出立になりますか、と、そればかり、毎日毎日――」
 半兵衛は、妻の涙を、じっと、見つめていた。
「お帰りの時のお顔色、お出ましの時のお顔色、そればかりを見ておりまして、御留守の間には、旅仕度を、只今もこれにて、腹巻を縫うておりましたが、未練ながら、これが、今生こんじょうでの、お別れになるかと思いますと、生きているのも果敢はかなく覚えますが、然し、武士の妻として、いつでも、御出立出来るように、用意は――」
 と、云って、真綿入りの肌襦袢、刺子さしこの股引、それから立って行って、腹巻に、お守札の縫込んだのを出してきて
「首尾よく、荒木に、お打勝ち下されますよう――又、又――」
 里恵の声は、顫えて、くちびる痙攣けいれんしていた。
「時の運にて、御不利になりましょうと、背に傷を受けず、御立派に――」
 と、まで云うと、しゃくり上げて、袖の中へ、顔を包んでしまった。離れ難い、愛着の心を、武士の妻として、立派に処置している若い里恵の泣いている姿をみると、半兵衛は何故かしら、又五郎が憎くて、耐らなくなってきた。
(己が、人殺をしておいて、己の命を助かりたさに、この罪もない妹を、こんな目に逢わせ、わしをも、生死の境に置いて――)
 と、思うと、明らかに、形の上に於て助けに行く又五郎であるのに、心の中では、軽蔑し、憤った。そして
(わしは、わしの為に、行くのだ。又五郎の為にでは無いぞ。誰が、汝等如き、卑怯者を、援けるものか)
 と、思った。

    五

 いつ、どこで、敵に逢い、討つか、討たれるか判らない夫の身の上であった。
 仏壇には、いつも、灯が新らしく、そして、陰膳かげぜんが美しく――ただ、その中に一つ、気味の悪いのは、薄絹の上の紙の中にある、髪の切ったものであった。
「御家様、内山様が、おみえなされました」
「ま――」
 里恵は、家老の来訪と聞いて、周章てて、客間の用意をさせていると
「いや、かまうな、かまうな」
 と、もう廊下に声がして、内山が、入ってきた。そして
「おお」
 と、笑った。里恵が、両手を突いて、挨拶しかけると
「忙がしい故、そのまま、そのまま」
 と、云って、立ったままで、庭を見乍ら
「よい話を、知らせにきた。実はの」
「はい」
 手を突いたまま、顔を上げると
「城下へ、荒木又右衛門が、数馬同道で、参ったのじゃ」
「ええ?」
 里恵は、顔色をかえた。
「茶店で、或は、宿で、いろいろと、半兵衛の事を聞きただして、すぐ、発足したらしいが、宿の者の話によると、余程、荒木も、半兵衛の槍を、恐れているらしいのじゃ。繰返し、繰返し、槍の長さとか、穂の長さとか、得手は、管槍くだやりか、素槍すやりか、とか、いろいろ聞いて参ったそうだ。江戸よりの下り道であろう。半兵衛は、名代の腕故、荒木も、穿鑿せんさくに参ったものであろうが、御前試合にて、宮本八五郎と、相打になった程の勇士が、心得とは申しながら、半兵衛の事を、訊ねに参ったとは、武士の誉れじゃ。半兵衛がおったなら、一試合させるものを、周章てて、立去ったと申すが――」
「荒木様と、何うして、お判りに」
「数馬が、古今の美男であるし、すぐ、判って、あとを追うたが、もう、足が届かなんだ。荒木程の者が、用心しておるのだから、半兵衛も、名誉な事じゃ。一人で、淋しかろうが、落胆せずに、待っておるがよい。これだけじゃ」
「あの、お茶一つ」
 内山の後姿へ、声をかけたが、内山は
「又、又」
 と、手をあげて、どんどん廊下を、玄関へ出てしまった。里恵は、式台の上で、内山を見送ってしまうと
(荒木程の者が、と――それは、明らかに、夫より、荒木をつよいと考えている言葉だ。夫は、それを憤って出て行ったのだが――)
 と、思うと、里恵は、家老に腹が立ってきた。
(いい事を知らせるとは、夫よりも、荒木がえらい、という事を、知らせる事では御座りませぬ――でも、荒木様は夫の事を、訊ねに――)
 と、夫の噂を聞いて、大敵とおもい、様子を尋ねに来た又右衛門の事を考えると、夫を殺す敵だと、思うよりも、夫を理解し、知っていてくれる人だと感じて、何かしら、親しみさえ感じてきた。

    六

 又五郎は、奈良手貝、河合甚左衛門の仮宅に、身を寄せていた。
 江戸から、広島へ、広島から、大阪、奈良へと、己の身体をかくすのに忙がしかった又五郎は、すっかり、陽に灼けて、旅窶たびやつれがしていた。半兵衛には、それが、可哀そうに見えるよりも、意気地無しのように見えた。そして、それは、又五郎の叔父の、甚左衛門も、同じことであった。甚左衛門は、半兵衛が、知行を捨てて、加勢に来てくれたのを見て、又五郎に
「貴様、のめのめして逃廻るから、皆が、迷惑する」
 と、笑いながら云った。そして
「旗本への手前――旗本が、あれだけ援けて、かばってくれた手前、易々と、池田の者へ首は渡せんから、匿れるのも尤もだが、然し、逃廻ったのは、面白うない。河合又五郎宿泊と、立札でも建てて、もし、池田の者でも、斬込んだなら、よし、討たれるにせよ、一働き働いて死ぬなら武名は、後世に残るが、此奴には、その覚悟がない」
「死ぬよりは、生きている方が、おもしろいからなあ。又五郎。近頃の若い士は、武士の面目ということよりも、金と、女と、長生きという事の方を尊ぶようになった。時勢らしい」
 と、半兵衛が、笑った。そして
「河合殿と、荒木とは、御同藩だが、荒木は、何ういう腕、人物――」
「彼奴、但馬のお気に入りで、今度も、名誉な試合に出たが、腕は、さのみ、わしに優っておろうとは思わぬ。もし、今にも、彼奴と逢えば、勝負は時の運と申そうか? 紙一重と申そうか。必ず討つとも云えぬし、必ず討たれるとも申せぬ。人物は――まず、上出来かのう。わしよりは、当世であろうか、わしは、此奴が、只一人で、江戸を追われたと聞いた時、すぐ、助太刀をしてやろうと、殿へ御暇を頂戴したが、何を考えたか、荒木という奴は、余程経たんと、お暇をとらなかった。あの間考えているだけ、わしより、分別があるのかのう。あはははは」
 又五郎が、半兵衛に
「叔父は、古武士気質と申そうか、一徹者で、何か荒木の計にかかるように思えてならん。郡山の藩中の人間に聞いても、腕は、叔父も、荒木も互角だが、人気は荒木の方が高い。その高い訳は、稽古は、上手下手の手加減がある。然し、叔父には、ただ荒稽古だけだと――」
「それでよいのだ。わしの荒稽古一つ受けられん奴が、一朝事のあった時、馬前の役に立つものか。荒木の稽古で、下手が少々上達したとて、そんな稽古の剣術は、真剣の時の物の役には立たぬ、剣術とは、徒らに竹刀の末の技では無いぞ。いざと云えば、火水の中へも飛込む肚をこしらえるものだ。お前なぞ、その肚が、一番に出来とらんぞ」
 半兵衛は、荒木の稽古振りが判るような気がした。甚左衛門は、己の腕をたのんで、敵を知ろうとしないが、荒木は、己を知り、敵をも知ろうとしていると、考えた。
「半兵衛が来た上は、こんな所に、手間どっている必要は無い。早々に、江戸へ立とう、二百石の格式通り、弓、槍を立てて、いつ荒木と出逢ってもよいようにして、白昼堂々江戸へ入ろう。よし、討っても、討たれても、それが、武士らしい態度だ。ならば、旗でも立てて、河合又五郎一行と書きたいが、そうもならんでのう、半兵衛」
 甚左衛門は、又、大きく笑った。

    七

 馬は、霜柱を、さくさく砕いて、白い鼻煙を、長く吹いていた。長田橋の仮橋の上へきた時
「半兵衛、待った、待った」
 と、甚左衛門が、後方から、叫んだ。半兵衛が振向くと
「寒うてならんから、一枚重ねる」
 と、声をかけて、馬を停めた。半兵衛は、うなずいたが
(油断をしてはいけないのに)
 と、思った。寒い朝であったから、誰も厚着をしていた。その上へ又重ねては、いざという時に働けまい、と思ったが、然し、荒木の一行が、昨日から見えなかったから、半兵衛も
(寒いのに、耐えきれまい。河合も、もう四十すぎだから――)
 と、思って、正面の上野の町やら、来た方の山、田を、見廻していた。
(武芸も四十を越すと、少し下り坂になるかな。寒さが、あれだけ身にこたえるだけ、若い時よりも衰えたのか――いいや、修業一つだろう。六十になっても、袷一枚でいる人さえあるから)
 半兵衛は、甚左衛門が相当の腕の人だとは思っていたが、その頭、その肚に於て、荒木の方が、優れていると、判断していた。そして
(わしはわし一人で戦うのだ。誰もあてにはしないぞ)
 と、思うと、甚左の重ね着に、批評を加えたのも、いけないように思えた。
(他人が、何をしようが、わしは、わし一人だ)
 そう思って、馬をそろそろ歩かせかけると
「お待たせ申した」
 と、甚左が、叫んだ。そして、
「齢をとると、寒さだけには、耐えきれん」
 と、云った。
 一行の一番先には、大阪の町人、又五郎の妹婿虎屋五左衛門が馬で、その次に、半兵衛が、槍持と、下人と、小姓と三人を従えてつづき、その後方に又五郎が、供三人、最後に、甚左衛門が、同じく供三人をつれて、槍を立て、飾鉄砲に、弓矢をもち、それぞれその知行の格式で――所謂いわゆる、槍一筋の家柄をみせて、上野の町小田町へかかってきた。
 突当りが、高い石垣で、その上に、家があった。右へは、すぐ塔世坂の急な坂路が町へつづき、左は、細い小路を、城の裏手へ出る道であった。
 そして、その三つ股道の左右に、鍵屋と、よろず屋と、二軒の茶店が、角店として、旅人を送り迎えしていた(右角が、鍵屋であったという説もある。今そこには、新らしい数馬茶店というのが出来ている)。

    八

 半兵衛が万屋の角を、右へ曲ると同時に、左側の石垣の所の木の後ろに立っていた士が、走り出してきた。白い鉢巻をしめて、袴立ももだちをとっていた。半兵衛が
(さては)
 と思った時、後方に、鋭い気合がかかって、同時に、うわーっと、乱れ立った人声が、湧起った。
「喜助っ」
 と、半兵衛は、手を延して、槍持から、槍を取ろうとした。そして、槍持が
「はい」
 と、答えて、槍を半兵衛の方へ、差出そうとした刹那
「うぬっ」
 その駈出してきた男が、槍持へ、切りかかった。槍持が、その刀を避けたはずみに、槍の柄は、半兵衛の手から、遠去とおざかった。
「喜助」
 半兵衛が、こう叫びつつ、後方へ、横へ眼を配ると、右側の立木の間から、走ってきた士が、半兵衛へ刀を向けて、睨みながら、じりじり迫ったので、半兵衛は、槍に心を取られたまま、馬から飛降りて、刀を抜くと、槍持に
「槍を、早く」
 と、叫びつつ、迫る士に、刀を構えた。そして
(荒木は、甚左と戦っているのであろう。甚左も、むざむざと討たれはすまい。然し、荒木を甚左に討たせたくは無い、わしが強いか、荒木が強いか、わしは、その勝負の為に、出てきたのだ)
 半兵衛は、早く、この下人を斬って、荒木と勝負したいと思った。それで
「下郎、推参なっ」
 と、叫ぶと、じりじり刻んで行った。刀をとっても、対手とは、段ちがいであった。対手は、真赤な顔をして、脣を噛んで――だが、懸声もできないで、じりじり退りながら、――然し、必死の一撃を入れようと、刀のさきの上りかけた隙、半兵衛は
「や、やっ」
 打込んで、避けさせて、すぐ二の太刀に、肩を斬ると、対手は、よろめいて、三四尺も退った。半兵衛は
(槍だ。槍をとらぬと、太刀討はできない、槍だ。槍をとって――)
 甚左の方では、少しも、物音がしなくなってしまった。
(勝負がついたのか、それとも――)
 と、思いながら、槍持の方を見ると、もう見物人が、坂の上に、木の後方に、石垣の上に、真黒になっていた。そして、槍持は、一生懸命に、槍を振廻して、半兵衛の方へ渡さうと、対手の隙をねらっていたが、対手は、刀で、槍を叩いたり、避けて、飛込もう[#「もう」は底本では「まう」]とする様子をしたりして、槍持と、半兵衛との間を、妨げていた。半兵衛は
(荒木が、わしの槍を恐れて、わしに槍をとらすなと、命じたのだ)
 と、判断した。
「卑怯者っ」
 と、後方で声がした。振向くと、肩を切られて、もう、蒼白になって、刀尖きっさきが、ややもすると下り勝ちになってくるのを耐えながら、半兵衛に、
「逃げるか」
 と、叫んで睨みつけた。そして立留って肩で呼吸いきをした。
(可哀そうに――この二人が、わしを押えにかかったのだ。荒木は、上手に作戦をした。わしは、荒木の作戦にかかったのだ。今ここへ、荒木が来たなら、わしは、わしの不得手な刀で、闘わなくてはならぬ。槍だ、槍で無いと――)
 殿の名誉の為、妻の志の為、自分の武道の為――
(槍をとらぬと――)
 と、半兵衛は、可哀そうだとおもったが
「馬鹿っ」
 と、叫んで、一刀、斬下ろしておいて、すぐ槍持と戦っている[#「いる」は底本では「ゐる」]士へ
「除かぬかっ」
 と、叫びつつ、血刀を振上げた。その士が、半兵衛の方へ刀をつけ、槍持が
「旦那様」
 と、叫んで、槍の柄を延した時、
「半兵衛」
 声と共に、大きな足音がした。
(荒木だ)
 と、思うと、半兵衛は、槍の方へ、手を延した。だが、又、槍は、ほんの手先の所へ来たままで、遠去かって、槍持の手の中で、必死に振廻されていた。
「荒木だ」
 少し、蒼白あおざめた顔をして、上背のある荒木が、長い、厚い刀を構えていた。半兵衛より、ずっと高くて、がっしりしていた。羽織もなく、鎖鉢巻をして、十分に、軽い身なりであった。そして、その脣に、微かな余裕の笑をみせ、その呼吸は落ちつき、その構えは十分に、その足は正確に――、半兵衛は
(天晴れだ)
 と、感じると共に、槍をもって立合えないのが、はらわたの底から、悲憤して、滲み上ってきた。
(何故、この期に、槍がとれない? 負けても――勝を譲ってもいいから、槍で、十分の、心ゆくまでの勝負がしたい。この大勢の見物の前で、同じ二百石同士が――御前試合へ出た荒木と、出ぬわしと、どっちが、鮮かか、どっちが立派な態度か? わしが、槍術の家の者として、せめて、最後の働きには、槍で十分に試合ってみたい、槍が――)
 半兵衛は、自分に、槍をとらさぬよう計った荒木に
(何うだ、噂を聞いて、恐れたのだろう)
 と、云いたかったが、それは、口にすべき事でなかった。と同時に、自分の得手を封じて、不得手な刀で勝負しようとしている荒木の、武士らしくない、正直でない、策略のある態度に、怒りが生じてきた。
(この見物人は、そんな事を知らんであろう。わしが、美濃の桜井半兵衛である事を知らんであろう、矢張り、剣術の者だと考えているだろう。それはちがうぞ。わしは、槍さえとれば、荒木に五分の勝負は、できるんだ。誰か、荒木に、半兵衛に槍をやれ、荒木卑怯だと、云ってくれるものは無いかしら――いいや、そんな事を考えるのは、卑怯だ。わしの不得手な太刀で、れだけ、荒木と戦えるか? 勝敗は別として、わしが、何れだけ立派に戦ったか。それでいいのだ。わしの、立派に戦った事が、国の人へ判るなら、半兵衛が、あの時、槍さえもっていたなら、荒木と互角だと、云ってくれるだろう。槍持が、荒木の計にのったのは、わしの運のつきる所だ。わしは、太刀で、立派に荒木と戦って、立派に、負けてやろう。武士の重んじる所は、勝敗ではない。勝負は末だ。勝負をしている時の態度だ)
 半兵衛は、青眼につけて、荒木と向合った。そして、そのまま、お互に動かなかった。
 何の位経ったか、半兵衛には、判らなかった。呼吸が苦しくなり、汗が滲んできた。そして、荒木も、もう微笑を消して、眼を異様に光らせて――それは、可成りに、切迫している表情であった。
(わしは、わしの不得手な太刀打でも、これまでに試合した。もうこれで十分だ。この大勢の見物の中には、心ある人も、眼の開いた人もあろう。誰かがこの事を、国の人々へ伝えてくれるであろう。それでいい。わしが、得手の槍で負けたのよりも、不得手な刀で、ここまで戦ったほうが、却っていいかも知れない)
 そう考えた時、一足退った。そして
(しまった)
 と、心の中で叫んだ。何かの上へ、あしうらがのって滑ったからであった。そして、無意識に、荒木が、打込んでくるであろう刀を防ごうとした時、身体が崩れてよろめいた。果して、荒木は、この一髪の機をつかんで、打込んできた。半兵衛は、鍵屋の横の物置の中へうんとつんである枯松葉の中へ、どっと、倒れてしまった。

    九

 身体中が、疼痛とうつうに灼けつくようであった。咽喉のどが干いて全身に熱が出て、気が時々、遠くなった。
 手当をし、介抱し、薬をつけ、飲ましてくれる人の顔がぼんやりとしか、見えなかった。そして半兵衛の頭も、どんよりとしていて、時々、自分が槍で、荒木と戦っているのが見えた。
(立派に戦ったぞ。槍でなくとも、立派に――あの枯松葉で、滑りさえしなかったら、勝負は、もっと、長くなったのだ。俺には、二度不運がつづいた。だが、十分に戦ったぞ。この事を、国許へ――手紙をかきたいが、誰か――話でもいいから、誰か――)
 ぼんやりしてくる頭の中で、そんな事を、思いながら
「わしは、卑怯者でないと」
 一人が、首を延して、口許へ耳を寄せた。
「国許へ――立派に戦ったと」
 その人が、頷いた。
「背の傷は――倒れてから――斬られた」
「全く、あいつは卑怯な――」
 と、その人が答えた。
「国許へ、半兵衛は、荒木と太刀打をしたが、立派に戦ったと――」
「しかと申しますぞ。気を落さずに」
「妻にも、半兵衛は、荒木に劣っていなかったと――」
 そう云いながら、もう、その人の顔が、だんだんぼんやりとしか見えなくなってきた。
(わしは、立派に戦った。見ていた人が知ってくれよう。一人が荒木、一人が桜井と、後で判ったなら、知っている者は、わしを称めてくれるだろう。御前試合へ出ても、出なくても、心懸けある士は同じだと――妻に一目――家中の者にも詳しく話をしたいが――ここの人は、伝えてくれるかしら――又五郎の助太刀だと思って、悪く云うか?――いいや、志のある人には判るだろう)
 そう思っている内に、耳も聞えなくなってきた。
(わしは、もう駄目かも知れん。然し、士として、武術家として、立派に働きもしたし、考えもした。誰かが――いいや、妻だけでも、あいつだけは、知ってくれる。それでもいい――)
 半兵衛は、灰色の中に、自分と妻と二人ぎりの所を見た。

 附記 伊賀越の仇討は、荒木方四人、又五郎方士分、小者ともで、合せて十一人と、藤堂家の公文書「累世記事」にも残っているし、その外俗書にも、同じであるが、一竜斎貞山(二代目)が、附人を三十六人にして、これが当って以来、すっかり、この方が一般的になってしまった。この桜井半兵衛の如き、二十三歳で、立派な武士だが、本当に紹介されていないのは、遺憾である。この時、荒木が斬ったのは、河合甚左衛門と、この桜井半兵衛との二人だけである。

底本:「直木三十五作品集」文藝春秋
   1989(平成元)年2月15日第1刷発行
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:鈴木厚司
2006年10月24日作成
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