この小説「大菩薩峠」全篇の主意とする処は、人間界の諸相を曲尽して、大乗遊戯の境に参入するカルマ曼陀羅の面影を大凡下の筆にうつし見んとするにあり。この着想前古に無きものなれば、その画面絶後の輪郭を要すること是非無かるべきなり。読者、一染の好憎に執し給うこと勿れ。至嘱。
著者謹言
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大菩薩峠は江戸を西に距る三十里、甲州裏街道が甲斐国東山梨郡萩原村に入って、その最も高く最も険しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。
標高六千四百尺、昔、貴き聖が、この嶺の頂に立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹川となり、いずれも流れの末永く人を湿おし田を実らすと申し伝えられてあります。
江戸を出て、武州八王子の宿から小仏、笹子の険を越えて甲府へ出る、それがいわゆる甲州街道で、一方に新宿の追分を右にとって往くこと十三里、武州青梅の宿へ出て、それから山の中を甲斐の石和へ出る、これがいわゆる甲州裏街道(一名は青梅街道)であります。
青梅から十六里、その甲州裏街道第一の難所たる大菩薩峠は、記録によれば、古代に日本武尊、中世に日蓮上人の遊跡があり、降って慶応の頃、海老蔵、小団次などの役者が甲府へ乗り込む時、本街道の郡内あたりは人気が悪く、ゆすられることを怖れてワザワザこの峠へ廻ったということです。人気の険悪は山道の険悪よりなお悪いと見える。それで人の上り煩う所は春もまた上り煩うと見え、峠の上はいま新緑の中に桜の花が真盛りです。
「上野原へ、盗人が入りましたそうでがす」
「ヘエ、上野原へ盗人が……」
「それがはや、お陣屋へ入ったというでがすから驚くでがす」
「驚いたなあ、お陣屋へ盗賊が……どうしてまあ、このごろのように盗賊が流行ることやら」
妙見の社の縁に腰をかけて話し込んでいるのは老人と若い男です。この両人は別に怪しいものではない、このあたりの山里に住んで、木も伐れば焼畑も作るという人たちであります。
これらの人は、この妙見の社を市場として一種の奇妙なる物々交換を行う。
萩原から米を持って来て、妙見の社へ置いて帰ると、数日を経て小菅から炭を持って来て、そこに置き、さきに置いてあった萩原の米を持って帰る。萩原は甲斐を代表し、小菅は武蔵を代表する。小菅が海を代表して魚塩を運ぶことがあっても、萩原はいつでも山のものです。もしもそれらの荷物を置きばなしにして冬を越すことがあっても、なくなる気づかいはない――大菩薩峠は甲斐と武蔵の事実上の国境であります。
右の両人は、この近まわりに盗賊のはやることを話し合っていたが、結局、
「どろぼうが怖いのは物持の衆のことよ、こちとらが家はどろぼうの方で怖れて逃げるわ」
ということに落ちて、笑って立とうとする時に、峠の道の武州路の方から青葉の茂みをわけて登り来る人影があります。
「あ、人が来る、お武家様みたようだ」
二人は少しあわて気味で、炭俵や糸革袋が結びつけられた背負梯子へ両手を突っ込んで、いま登り来るという武家の眼をのがれるもののように、社の裏路を黄金沢の方へ切れてしまいます。
二
ほどなく武州路の方からここへ登って来たのは、彼等両人が認めた通り、ひとりの武士でありました。黒の着流しで、定紋は放れ駒、博多の帯を締めて、朱微塵、海老鞘の刀脇差をさし、羽織はつけず、脚絆草鞋もつけず、この険しい道を、素足に下駄穿きでサッサッと登りつめて、いま頂上の見晴らしのよいところへ来て、深い編笠をかたげて、甲州路の方を見廻しました。
歳は三十の前後、細面で色は白く、身は痩せているが骨格は冴えています。この若い武士が峠の上に立つと、ゴーッと、青嵐が崩れる。谷から峰へ吹き上げるうら葉が、海の浪がしらを見るようにさわ立つ。そこへ何か知らん、寄せ来る波で岸へ打ち上げられたように飛び出して来た小動物があります。
妙見の社の上にかぶさった栗の大木の上にかたまって、武士の方を見つめては時々白い歯を剥いてキャッキャッと啼く。その数、十匹ほど、ここの名物の猿であります。
柳沢峠が開けてから後の大菩薩峠というものは、全く廃道同様になってしまいましたけれど、今日でも通れば通れないことはないのです。そこを通って猿に出くわすことは珍らしいことではないが、それを珍らしがって悪戯でもしかけようものなら、かえって飛んだ仕返しを食うことがあります。人の弱味を見るに上手なこの群集動物は、相手を見くびると脅迫する、敵わない時は味方を呼ぶ、味方はこの山々谷々から呼応して来るのですから、初めて通る人は全くおどかされてしまいます。が、旅に慣れた人は、その虚勢を知って自らそれに処するの道があるのであります。
右の武士は、慣れた人と見えて、一目猿を睨みつけると、猿は怖れをなして、なお高い所から、しきりに擬勢を示すのを、取合わず峠の前後を見廻して人待ち顔です。
さりとて容易に人の来るべき路ではないのに、誰を待つのであろう、こうして小半時もたつと、木の葉の繁みを洩れて、かすかに人の声がします。その声を聞きつけると、武士はズカズカと萩原街道の方へ進んで、松の木立から身を斜めにして見おろすと、羊腸たる坂路のうねりを今しも登って来る人影は、たしかに巡礼の二人づれであります。
「お爺さん――」
よく澄んだ子供の声がします。見れば一人は年寄で半町ほど先に、それと後れて十二三ぐらいの女の子――今「お爺さん」と呼んだのは、この女の子の声でありました。
右の二人づれの巡礼の姿を認めると、何と思うてか武士は、つと妙見堂のうしろに身をかくします。木の上では従前の猿が眼を円くする。
「やれやれ頂上へ着いたわい、おお、ここにお堂がござる」
年寄の方の巡礼は社の前へ進んで笠の紐を解いて跪まると、
「お爺さん、ここが頂上かい」
面立の愛らしい、元気もなかなかよい子でありました。
「これからは下り一方で、日の暮までに河内泊りは楽なものだ、それから三日目の今頃は、三年ぶりでお江戸の土が踏める――さあお弁当をたべましょう」
老爺は行李を開いて竹の皮包を取り出すと、女の子は、
「お爺さん、その瓢箪をお貸しなさい、さっきこの下で水音がしましたから、それを汲んでまいりましょう」
「おおそうだ、途中で飲んでしまったげな。お爺さんが汲んで来ましょう、お前はここで休んでおいで」
腰なる瓢箪を抜き取ると、
「いいのよ、お爺さん、あたしが汲んで来るから」
女の子は、老人の手から瓢を取って、ついこの下の沢に流るる清水を汲もうとて山路をかけ下ります。
老人は空しくそのあとを見送って、ぼんやりしていると、不意に背後から人の足音が起ります。
「老爺」
それはさいぜんの武士でありました。
「はい」
老爺は、あわただしく居ずまいを直して挨拶をしようとする時、かの武士は前後を見廻して、
「ここへ出ろ」
編笠も取らず、用事をも言わず、小手招きするので、巡礼の老爺は怖る怖る、
「はい、何ぞ御用でござりまするか」
小腰をかがめて進み寄ると、
「あっちへ向け」
この声もろともに、パッと血煙が立つと見れば、なんという無残なことでしょう、あっという間もなく、胴体全く二つになって青草の上にのめってしまいました。
三
「お爺さん、水を汲んで来てよ」
瓢箪を捧げた少女は、いそいそとかけて来たが、老人の姿の見えぬのを少しばかり不思議がって、
「お爺さんはどこへ行ったろう」
お堂の裏の方へでも行ったのかしらと、来て見ると、
「あれ――」
瓢を投げ出して縋りついたのは老人の亡骸でした。
「お爺さん、誰に殺されたの――」
亡骸をかき抱いて泣きくずれます。
ここにこの不慮の椿事を平気で高見の見物をしていたものがあります。さいぜんの武士の一挙一動から、老人の切られて少女の泣き叫ぶ有様を目も放さずながめていたのは、かの栗の木の上の猿です。
猿どもは、今や木の上からゾロゾロと下りて来ました。老少二人の伏し倒れた周囲を遠くからとりまいて、だんだんに近寄ると、小さな奴がいきなり飛び出して、少女の頭髪にさしてあった小さな簪をちょっとツマんで引き抜き、したり顔に仲間のものに見せびらかすような身振をする。それを見た、も一つの小猿は負けない気で、少女の頭髪から櫛を抜き取って振りかざす。その間に大猿どもは、さきに老爺が開きかけた竹の皮包の握飯を引き出して口々に頬ばってしまうと、今度は落ち散っていた手頃の木の枝を拾って、何をするかと思えば、刀を差すようなふうに腰のところへあてがい、少女の背後へ廻って抜打ちに――つまりさいぜんの武士のやった通りに――その木の枝で少女の背中をなぐりつけました。
我を忘れて泣き伏していた少女は、この不意の一撃で、
「あれ――」
と飛びのいたが、気丈な子でした、すぐにあり合わす木の枝を拾い取って振り上げると、猿どもは眼を剥き出し白い歯を突き出してキャッキャッと叫びながら、少女に飛びかかろうとして、物凄い光景になりましたが、折よくそこへ通りかかった旅の人があります。
年配は四十ぐらいで、菅笠をかぶって竪縞の風合羽を着、道中差を一本さしておりましたが、手に持っていた松明の火を振り廻すと、今まで驕っていた猿どもが、急に飛び散らかって、我れ勝ちにもとの栗の大木へと馳せ上ります。
旅に慣れた証拠は、この旅人の持っている松明でわかります。大菩薩を通るものは獣類を逐うべく、松の木のヒデというところでこしらえた松明を用意します。獣類のなかでも猿はことに火を怖れるものであります。右の旅人はその松明を消しもせず、
「姉さん、怪我はなかったかね」
近く寄って見て、
「おやおや、人が斬られている!」
少女を掻き分け死骸へ手をかけ、その斬口を検べて見て、
「よく斬ったなあ、これだけの腕前をもってる奴が、またなんだってこんな年寄を手にかけたろう」
旅人は歎息して何をか暫らく思案していたが、やがて少女を慰め励まして、ハキハキと老爺の屍骸を押片づけ、少女を自分の背に負うて、七ツ下りの陽を後ろにし、大菩薩峠をずんずんと武州路の方へ下りて行きます。
四
大菩薩峠を下りて東へ十二三里、武州の御岳山と多摩川を隔てて向き合ったところに、柚のよく実る沢井という村があります。この村へ入ると誰の眼にもつくのは、山を負うて、冠木門の左右に長蛇の如く走る白壁に黒い腰をつけた塀と、それを越した入母屋風の大屋根であって、これが机竜之助の邸宅であります。
机の家は相馬の系統を引き、名に聞えた家柄であるが、それよりもいま世間に知られているのは、門を入ると左手に、九歩と五歩とに建てられた道場であります。いつでもこの道場に武者修行の五人や十人ゴロゴロしていないことはないのでありましたが、今日はまた話がやかましい。
「お聞きなされましたか、昨日とやら大菩薩に辻斬があったそうにござります」
「ナニ、大菩薩に辻斬が……」
「年とった巡礼が一人、生胴をものの見事にやられたと甲州から来た人の専らの噂でござりまする」
「やれやれ年寄の巡礼が、無残なことじゃ」
「近頃の盗人沙汰と言い、またしても辻斬、物騒千万なことでございますな」
「左様、なにしろこの街道筋は申すに及ばず、秩父、熊谷から上州、野州へかけて毎日のように盗人沙汰、それでやり口がみな同じようなやり口ということでございます」
「いかにも。それほどの盗賊に罪人は一人もあがらぬとは、八州の腹切ものだ」
「それにしても、この沢井村界隈に限って、盗賊もなければ辻斬もない、これというも、つまり沢井道場の余徳でありますな」
沢井道場で門弟食客連がこんな噂をしているのは、前段大菩薩峠の殺人の翌々日のことでありました。
「さて、道具無しの一本」
「心得たり、若先生の型を」
門弟二人が左右に分れると、
「沢井道場名代の音無しの勝負」
口上まがいで叫ぶ者がある。
沢井道場音無しの勝負というのは、ここの若先生、すなわち机竜之助が一流の剣術ぶりを、そのころ剣客仲間の呼慣わしで、竹刀にあれ木剣にあれ、一足一刀の青眼に構えたまま、我が刀に相手の刀をちっとも触らせず、二寸三寸と離れて、敵の出る頭、出る頭を、或いは打ち、或いは突く、自流他流と敵の強弱に拘らず、机竜之助が相手に向う筆法はいつでもこれで、一試合のうち一度も竹刀の音を立てさせないで終ることもあります。机竜之助の音無しの太刀先に向っては、いずれの剣客も手古摺らぬはない、竜之助はこれによって負けたことは一度もないのであります。
その型をいま二人は熱心にやっていると、おりから道場の入口とは斜めに向った玄関のところで、
「頼む」
中では返事がない。
「頼みましょう」
まだ誰も返答をするものがない。そのうちに、こちらの立合は、一方が焦れて小手を打ちに来るのを、得たりと一方が竹刀を頭にのせて勝負です。
「お頼み申します」
勝負が終えて気がついた門弟連が、こちらから無遠慮に首を突き出して見ると、お供の男を一人つれて、見事に装うた若い婦人の影が植込の間からちらりと見えました。
「拙者が応対して参ろう」
いま立合をして負けた方のが、道場から母屋へつづいた廊下をスタスタと稽古着に袴のままで出てゆくと、
「安藤さん、若い女子のお客と見たら臆面なしに応対にお出かけなすった」
皆々笑っていると、
「ドーレ」
安藤の太い声。ややあって女の優しい声で、
「あの、手前は和田の宇津木文之丞が妹にござりまする、竜之助様にお目通りを願いとう存じまして」
「ハハ左様でござるか」
姿は見えないけれども、安藤がしゃちほこばった様子が手に取るようです。
「その若先生はな」
いよいよ安藤は四角ばって、
「ただいま御不在でござるが」
「竜之助様はお留守……」
女はハタと当惑したらしく、
「左様ならば、いつごろお帰りでございましょうか」
「さればさ、うちの若先生のことでござるから、いつ帰るとお請合いも致し兼ぬるで……」
「遅くとも今宵はお帰りでございましょう」
「それがその、今申す通り、いつ帰るとお請合いを致し兼ぬるが、次第によりては拙者ども御用向を承り置きまして」
安藤と来客の若い婦人との問答を道場の連中は面白がって洩れ聞いておりましたが、
「若先生に直談判というて美しい女子が乗り込んで来た、前代未聞の道場荒し」
「見届けて参りましょうか」
自ら薦めて斥候の役を承ろうとする者がある。
「賛成賛成、裏口から廻って見て参られい」
ますます御苦労さまな話で、まもなくあたふたと走せ戻って、
「見届けて参りました、確かに見届けて参りました」
息を切っての御注進です。
「どのような女子じゃ」
「あれは和田の宇津木文之丞様の奥様でござりまする、しかも評判の美人で……」
「ナニ、和田の宇津木の細君か、さいぜん妹だというたではないか」
「いいえ、お妹御ではございませぬ、まだ内縁でございまして甲州の八幡村からついこの間お越しのお方、発明で、美人で、お里がお金持で評判もの、私は、八幡におりました時分から、篤とお見かけ申しました」
「文之丞の細君が何故に妹と名乗って当家の若先生を訪ねて来たか、それが解せぬ」
「あ、若先生のお帰り」
無駄口がパタリとやんで、見れば門をサッサッと歩み入る人は、思いきや、一昨日、大菩薩の上で巡礼を斬った武士――しかも、なりもふりもその時のままで。
五
竜之助の前には、宇津木の妹という、島田に振袖を着て、緋縮緬の間着、鶸色繻子の帯、引締まった着こなしで、年は十八九の、やや才気ばしった美人が、しおらしげに坐っています。
「お浜どのとやら、御用の筋は?」
竜之助の問いかけたのを待って、
「今日、兄を差置き折入ってお願いに上りましたは」
歳にはませた口上ぶりで、
「ほかでもござりませぬ、五日の日の御岳山の大試合のことにつきまして……」
竜之助もいま帰って、その組状を見たばかりのところでした。そうして机の上に置かれた長い奉書の紙に眼を落すと、女は言葉を継いで、
「その儀につきまして、兄はことごとく心を痛め、食ものどへは通らず、夜も眠られぬ有様でござりまする故、妹として見るに忍びませぬ」
「大事の試合なれば、そのお心づかいも御尤もに存じ申す、我等とても油断なく」
素気なき答え方。女は少し焦き込んで、
「いえいえ、兄は到底あなた様の敵ではござりませぬ、同じ逸見の道場で腕を磨いたとは申せ、竜之助殿と我等とは段違いと、つねづね兄も申しておりまする。人もあろうに、そのあなた様に晴れのお相手とは何たること、兄の身が不憫でなりませぬ」
「これは早まったお言葉、逸見先生の道場にて我等如きは破門同様の身の上なれど、文之丞殿は師の覚えめでたく、甲源一刀流の正統はこの人に伝わるべしとさえ望みをかけらるるに」
「人がなんと申しましょうとも、兄はあなた様の太刀先に刃向う腕はないと、このように申し切っておりまする」
「それは御謙遜でござろう」
竜之助は木彫の像を置いたようにキチンと坐って、面の筋一つ動かさず、色は例の通り蒼白いくらいで、一言ものを言っては直ぐに唇を固く結んでしまいます。女はようやく躍起となるような調子で、頬にも紅がさし、眼も少しかがやいてきたが、
「もしもこのたびの試合に恥辱を取りますれば、兄の身はもとより、宇津木一家の破滅でござりまする。ここを汲み分けて、今年限り、兄が身をお立て下さるよう、あなた様のお情けにすがりたく、これまで推参致しました、なにとぞ兄の身をお立て下されまして」
女は涙をはらりと落して、竜之助の前にがっくりと結立ての髪を揺がしての歎願です。
竜之助は眼を落して、しばらく女の姿をみつめておりましたが、
「これはまた大仰な。試合は真剣の争いにあらず、勝負は時の運なれば、勝ったりとて負けたりとて、恥でも誉でもござるまい、まして一家の破滅などとは合点なり難き」
冷やかな返事です。
女が再び面をあげた時、涙に輝いた眼と、情に熱した頬とは、一方ならぬ色香を添えつ、
「何もかも打明けて申し上げますれば、兄はこのたびの試合済み次第に、さる諸侯へ指南役に召抱えらるる約束定まり、なおその時には婚礼の儀も兼ねて披露を致す心組みでおりましたところ……」
「それは重ねがさね慶たきこと、左様ならばなお以て試合に充分の腕をお示しあらば、出世のためにも縁談にも、この上なき誉を添ゆるものではござらぬか」
「それが折悪しく……いや時も時とてあなた様のお相手に割当てられ、勝ちたいにもその望みはなく、逃げましてはなお以て面目立ちませぬ。ただ願うところはあなた様のお慈悲、武士の情けにて勝負をお預かり置き下さらば生々の御恩に存じまする。兄のため、宇津木一家のために、差出がましくも折入ってのお願いでござりまする」
この女の言うことがまことならば、いじらしいところがあります。兄のため、家のためを思うて、女の一心でこれまで説きに来たものとあれば、その心根に対しても、武士道の情けとやらで、花を持たして帰すべきはずの竜之助の立場でありましょう。ところが、蒼白い面がいよいよ蒼白く見えるばかりで、
「お浜どのとやら、そなた様を文之丞殿お妹御と知るは今日が初めながら、兄を思い家を思う御心底、感じ入りました。されど、武道の試合はまた格別」
格別! と言い切って、口をまた固く結んだその余音が何物を以ても動かせない強さに響きましたので、いまさらに女は狼狽して、
「左様ならば、あの、お聞入れは……」
声もはずむのを、竜之助は物の数ともせぬらしく、
「剣を取って向う時は、親もなく子もなく、弟子も師匠もない、入魂の友達とても、試合とあれば不倶戴天の敵と心得て立合う、それがこの竜之助の武道の覚悟でござる」
竜之助はこういう一刻なことを平気で言ってのける、これは今日に限ったことではない、常々この覚悟で稽古もし試合もしているのですから、竜之助にとっては、あたりまえの言葉をあたりまえに言い出したに過ぎないが、女は戦慄するほどに怖れたので、
「それはあまりお強い、人情知らずと申すもの……」
涙をたたえた怨みの眼に、じっとお浜は竜之助の面を見やります。
竜之助の細くて底に白い光のある眼にぶつかった時に、蒼白かった竜之助の顔にパッと一抹の血が通うと見えましたが、それも束の間で、もとの通り蒼白い色に戻ると、膝を少し進めて、
「これお浜どの、人情知らずとは近ごろ意外の御一言、物に譬うれば我等が武術の道は女の操と同じこと、たとえ親兄弟のためなりとて操を破るは女の道でござるまい。いかなる人の頼みを受くるとも、勝負を譲るは武術の道に欠けたること」
「それとても親兄弟の生命にかかわる時は……」
「その時には女の操を破ってよいか」
六
宇津木の妹を送り出したのは夕陽が御岳山の裏に落ちた時分です。しばらくして竜之助の姿を、万年橋の下、多摩川の岸の水車小屋の前で見ることができました。
「与八! 与八!」
夜は水車が廻りません、中はひっそりとして鼠の逃げる音、微かな燈火の光。
「誰だい」
まだるい返事。
「竜之助だ、ここをあけろ」
「へえ、今……」
やや狼狽の体。やがて中からガラリと戸が開かれると、面は子供のようで、形は牛のように肥った若者です。
「与八、お前に少し頼みがあって、お前の力を借りに来た」
「へえ」
この若者は、竜之助を見ると竦んでしまうのが癖です。
「与八、お前は力があるな、もっとこっちへ寄れ」
耳に口をつけて何をか囁くと、与八は慄え上って返事ができない。
「いやか」
「だって若先生」
「いやか――」
竜之助から圧迫されて、
「だって若先生」
与八は歯の根が合わない。
「俺をお斬りなさる気かえ」
「いやか――」
「行きます」
「行くか」
「行きます」
「よし、ここに縄もある、手拭もある、しっかりやれ、やりそこなうな」
七
竜之助の父弾正が江戸から帰る時に、青梅近くの山林の中で子供の泣き声がするから、伴の者に拾わせて見ると丸々と肥った当歳児であった、それを抱き帰って養い育てたのがすなわち今日の与八であります。与八という名もその時につけられたのですが、物心を覚えた頃になって、村の子供に「拾いっ子、拾いっ子」と言って苛められるのを辛がって、この水車小屋へばかり遊びに来ました。その時分、水車番には老人が一人いた、与八はその老人が死んだ時はたしか十二三で、そのあとを嗣いで水車番になったのです。
与八の取柄といっては馬鹿正直と馬鹿力です。与八の力は十二三からようやく現われてきて、十五になった時は大人の三人前の力をやすやすと出します。十八になった今日では与八の力は底が知れないといわれている。荷車が道路へメリ込んだ時、筏が岩と岩との間へはさまった時、そういう時が与八の天下で、すぐさま人が飛んで来ます。
「与八、米の飯を食わせるから手を貸してくれやい」
「うん」
そして、大八車でも杉の大筏でも、ひとたび与八が手をかければ、苦もなく解放される。お礼心に銭などを出しても与八は有難がらない、米の飯を食わせれば限りなく悦ぶ、それに鮭の切身でもつけてやろうものなら一かたげに三升ぐらいはペロリと平げてしまいます。米の飯を食わせなくても、与八がそんなに不平を言わないのは、小屋へ帰れば麦の飯と焼餅とを腹いっぱい食い得る自信を持っているからであるが、ずるい奴が、米の飯を食わせる食わせるといってさんざん与八の力を借りた上、米の飯を食わせずに済まそうとする、二度三度重なると与八は怒って、もう頼みに行っても出て来ない、その時は前祝いに米の飯を食わせると、前のことは忘れてよく力を貸します。
与八が村へ出るのをいやがるのは、前申す通り子供らがヨッパだの拾いっ子だの言って、与八が通るのを見かけていじめるからです。それで水車小屋の中にのみ引込んでいるが、感心なことには、毎朝欠かさず主人弾正の御機嫌伺いに行きます。
「大先生の御機嫌はいいのかい」
女中や雇男が、
「ああ好いよ」
と答えると、にっこりして帰ってしまう。竜之助の父弾正は老年の上、中気をわずらって永らく床に就いています。
竜之助から脅迫されて与八が出て行くと、まもなく万年橋の上から提灯が一つ、巴のように舞って谷底に落ちてゆく。暫くして与八は、一人の女を荒々しく横抱きにして、ハッハッと大息を吐いて、竜之助の前に立っています。与八に抱えられている女は、さっき兄のためと言って竜之助を説きに来た宇津木のお浜であります。
それからまた程経て、河沿いの間道を、たった一人で竜之助が帰る時分に月が出ました。
竜之助が万年橋の詰のところまで来かかると、ふと摺違ったのが六郷下りの筏師とも見える、旅の装いをした男で、振分けの荷を肩に、何か鼻歌をうたいながらやって来ましたが、竜之助の姿を見て、ちょっと驚いたふうで、やがて丁寧に頭を下げて、
「静かな晩景でござりやす」
竜之助はやり過ごした旅人を見送っていたが、
「少し待て」
「へい」
「お前はどこから来た」
「へい、氷川の方から」
「氷川? 氷川の何というものだ、名は……」
「へい、七兵衛と申します筏師で」
「待て、待てと申すに」
「何ぞ御用で……」
立ち止まるかと思うとかの男は身を飜して逃げようとするのを、竜之助は脇差に手をかけて手練の抜打ち。
侮り切って刀へは手をかけず、脇差の抜打ちで払った刃先をどう潜ったか、旅の男は飛鳥の如く逃げて行きます。竜之助は自分の腕を信じ過ぎた形になって、切り損じた瞬間に呆然と、逃げ行く人影をみつめて立っている。
早いこと、早いこと、飛鳥といおうか、弾丸といおうか、四十八間ある万年橋の上を一足に飛び越えたか、その男の身体はまるで宙にあるので、竜之助はその迅さにもまた気を抜かれて、追いかけることをも忘れてしまったほどでした。
脇差の切先を調べて見ると肉には触れている、橋の上をよくよく見ると血の滴りが小指で捺したほどずつ筋を引いてこぼれております。竜之助は右の男を斬り殺そうとまでは思わなかったが、斬ろうと思うた程度よりも斬り得なかったことが、よほど心外であるらしく、歯咬みをして我家の方をさして行くと、邸のあたりが非常に混雑して提灯が右往左往に飛びます。
「あ、若先生、大変でござります、賊が入りました」
「賊が?」
邸の中へ入って調べて見ると、この時の盗難が金子三百両と秘蔵の藤四郎一口。
「届けるには及ばぬ、このことを世間へ披露するな」
なにゆえか竜之助は家の者に口留めをします。
八
宇津木文之丞が妹と称して沢井の道場へ出向いたお浜は、実は妹ではなく、甲州八幡村のさる家柄の娘で、文之丞が内縁の妻であることは道場の人々があらかじめ察しの通りであります。
お浜は才気の勝った女で、八幡村にある時は、家のことは自分が切って廻し、村のことにも口を出し、お嬢様お嬢様と立てられていたその癖があって、宇津木へ縁づいてまだ表向きでないうちから、モウこんな策略を以て良人の急を救わんと試みたわけです。
宇津木の家は代々の千人同心で、山林田畑の産も相当あって、その上に、川を隔てて沢井の道場と双び立つほどの剣術の道場を開いております。
竜之助の剣術ぶりは、形の如く悪辣で、文之丞が門弟への扱いぶりは柔かい、その世間体の評判は、竜之助よりずっとよろしい。お浜もそれやこれやの評判に聞き惚れたのが、ここへ来た最も有力なる縁の一つであったが、実際の腕は文之丞がとうてい竜之助の敵でないことを玄人のなかの評判に聞いて、お浜の気象では納まり切れずにいたところを、このたび御岳山上の試合の組合せとなってみると、文之丞の悲観歎息ははたの見る目も歯痒いのであります。お浜は焦れてたまりませんでしたが、それでも良人の危急を見過ごしができないで、われから狂言を組んで机竜之助に妥協の申入れに行ったのが前申す如き順序であります。
その晩、お浜は口惜しくて口惜しくて、寝ても寝つかれません。
憎い憎い竜之助、歯痒い歯痒い我が夫、この二つが一緒になって、頭の中は無茶苦茶に乱れます。竜之助と文之丞とは、お浜の頭の中で卍となり巴となって入り乱れておりますが、ここでもやはり勝目は竜之助にあって、憎い憎いと思いつつも、その憎さは勝ち誇った男らしい憎さで、その憎さが強くなるほど我が夫の意気地のなさが浮いて出て、お浜のような気の勝った女にはたまらない業腹です。
縁を結ぶ前には、門弟は千人からあって、腕前は甲源一刀流の第一で、どうしてこうしてと、それが何のざま、さんざん腹を立てても、やっぱり帰するところは我が夫の意気地のないということに帰着して、どうしても夫をさげすむ心が起ってきます。夫をさげすむと、どうしてもまた憎いものの竜之助の男ぶりが上ってきます。妻として夫を侮る心の起ったほど不幸なことはない。
もしも自分が強い方の人であったならば、どのくらい気強く、肩身も広かろう。武術の勝負と女の操。竜之助のかけた謎が頑として今も耳の端で鳴りはためくのです。
邸で会った竜之助と、水車小屋の竜之助。その水車小屋では、穀物をはかる斗桶に腰をかけていた竜之助。神棚の上には蜘蛛の巣に糠のくっついた間からお燈明がボンヤリ光っていた、気がついた時は自分は縛られていた、上からじっと見据えた竜之助。
冷やかな面の色、白い光の眼、人の苦しむのを見て心地よさそうに、
「試合の勝負と女の操」
と言って板の間を踏み鳴らした。
それから、その時の竜之助の姿が眼の前にちらついて、憎い憎い念が、いつしか色が変って妙なものになり行くのです。
「お山の太鼓が朝風に響く時までにこの謎を解けよ」
という一言。それを思い出すごとにお浜の胸の中で早鐘が鳴ります。
その夜、竜之助は己が室に夜更くるまで黙然として、腕を胸に組んで身動きもせずに坐り込んでいます。
人を斬ろうとして斬り損じたこと、秘蔵の藤四郎を盗まれたこと、そのほかに、考えても考えても、わけのわからぬものが一つあるのです。与八をそそのかして、宇津木のお浜を縄にまでかけて引捕えさしたのは何のためであろう。お浜が邸を出るまでは、そんな考えはなかったが、女が門を出てから、どうしてもこの女をただ帰せないという考えが勃然として起ったので――竜之助の心には石よりも頑固なところと、理窟も筋道も通り越した直情径行のところと、この二つがあって、その時もまた、初めは理を説いて説き伏せたところが、あとはまるで形なしのことをやり出した。
それでやはり女のことを考えてみています。
九
机の家に盗難のあったその翌朝のことです。沢井から三里離れた青梅の町の裏宿の尋常の百姓家の中で、
「おじさん、昨夜はどこへ行ったの」
炉の火を火箸で掻きながら、真黒な鍋で何か煮ていた女の子、これは先日、大菩薩峠で救われた巡礼の少女でありましたが、おじさんと呼ばれた人はまだ寝床の中に横たわっていたが、ひょいと首をもたげて、
「ナニ、どこへも行きはしないよ」
その面を見れば、これはかの峠で火を焚いて猿を逐い、この巡礼の少女を助けた旅の人でありました。
「でも夜中に目がさめると、おじさんの姿が見えなかったものを」
こう言われて主人は横を向いて、
「ああそれは、雨が降ると困るので裏の山から薪を運んでおいたのだ」
「そう」
と言って少女は得心したが、
「おじさん、それでは今日お江戸へつれて行って下さるの」
たずねてみたが、直ぐに返事がないので、せがんでは悪かろうと思うたのか、そのままにして仏壇の方にふいと目がつくと、
「お線香をモ一本上げましょう」
たったいま上げた線香が長く煙を引いているのに、また新しい線香に火をつけて、口の中で念仏を唱え、
「お爺さん、わたしが大きくなったらば、きっと仇を討ちますからね」
独言を言っている間に眼が曇ってくる。寝床の中で一ぷくつけていた主人はそれを見とがめて、
「お松坊、ちょっとここへおいで」
女の子は横を向いて、そっと眼の縁を払い、
「はい」
主人の前に跪まると、
「おまえは口癖に敵々というが、それはいけないよ、敵討ということは侍の子のすることで、お前なんぞは念仏をしてお爺さんの後生を願っておればよいのだ」
「でもおじさん、あんまり口惜しいもの」
また横を向いて、溢るる涙を払います。
「口惜しい口惜しいがお爺さんの後生の障りになるといけない。あ、それはそうと、お前を今日はお江戸へつれて行くはずであったが、私は少し怪我をしてな」
「エッ、怪我を!」
「ナニ、大した事じゃねえ、昨夜それ、薪を運ぶとって転んで腰を木の根にぶっつけたのだよ、二日もしたら癒るだろう、江戸行きはもう少し延ばしておくれ」
「お江戸なんぞはいつでもようござんす、早くその怪我を癒して下さい」
「そ言ってくれると有難い。それでな、お松坊、お前に預けておきてえものが一つある」
主人は蒲団の下を探って取り出したのが、錦の袋に入れた短刀ようのもの。
「おじさん、これは何」
「何でもよい、これから大事に懐中へ入れて持っておいで、決して人に見せてはいけないよ」
「これは短刀ではないの」
「うむ、そうだ、用心に肌身をはなさず持っておいで、そのうちにはわかることがあるからな」
少女は何だか合点がゆきません。ようよう寝床を這い出したこの家の主人はかなりの怪我と覚しく、跛足を引き引き炉の傍までやって来て少女と二人で朝飯を食べていると、
「七兵衛さん、七兵衛さん」
表口で呼ぶ。ここの主人の名は七兵衛というのであるらしい。
「これは嘉右衛門さん、朝っぱらからどちらへ」
「なに、ちっと見舞に行こうかと思って」
「お見舞に? どこへ」
「まだお聞きなさらねえか、材木屋の藤三郎さんが今朝早く上げられなすって」
「材木屋のあの藤三郎さんが?」
「そうだよ、お役所へ上げられてお調べの最中だよ」
「それはまあ、どうしたわけで」
「何だかわしもよくは知らねえが、盗賊のかかわり合いだということでがす」
「盗賊のかかり合い?」
七兵衛は思わず小首を傾けながら、
「あの正直な人が盗賊のかかり合いとは、おかしいことですね」
「この間、甲州の上野原のお陣屋へ盗賊が入ったそうで」
「ナニ、上野原のお陣屋へ?」
「そうですよ、お陣屋へ入るとはずいぶん度胸のいい泥棒ですね。ところが泊り合せたお武家に見つけられて、その泥棒が逃げ出したが、その時に泥棒が書付を一本お座敷へ落したそうで、そいつを拾われちまった」
「書付を拾われた?」
七兵衛は思わず自分のふところを撫でてみる。
「それからね、どうしたものやらその書付が藤三郎さんところの材木売渡しの受取証文で、ちゃんと印形まで据わっている」
「それはとんだ災難、私もお見舞に上らなくては済みませんが、昨晩少しばかり怪我をしたものだから、お前さんからよろしく申しておいておくんなさい」
「怪我をなすった?」
「なあに、大したことはありません、山でころんで腰をちっとばかり強く打っただけのことで」
「そりゃいけねえ、まあ大切にした方がいい、それじゃ行って来ますから」
嘉右衛門が立去ったあとで、七兵衛はなんと考え直したか、
「お松坊、今から江戸へ行こうや」
「でも、おじさんお怪我は?」
「なあに、馬も駕籠もあらあな」
「嬉しいこと」
お松は大欣びで食事もそこそこ、はや手の廻りの用意をします。
十
今日は五月の五日、御岳山上へ関八州の武術者が集まって奉納試合を為すべき日であります。
机竜之助はこの朝、縁側に立って山を見上げると、真黒な杉が満山の緑の中に天を刺して立っているところに、一むらの雲がかかって、八州の平野に響き渡れよとばかり山上で打ち鳴らす大太鼓の音は、その雲間より洩れて落ちます。
「ああよい天気」
白い雲の山にかかる時は、かえって五月晴れの空の色を鮮やかにします。
「奉納日和でござりまするな」
門弟連ははや準備をととのえてそこへやって来ました。
竜之助も身仕度をして、いつぞや大菩薩峠の上で生胴を試してその切味に覚えのある武蔵太郎安国の鍛えた業物を横たえて、門弟下男ら都合三人を引きつれて、いざ出立の間際へ、思いがけなく駈け込んで来たのは水車番の与八でありました。
「若先生、今この手紙をお前様に渡してくれと頼まれた」
与八の手には一封の手紙、受取って見ると意外にも女文字。
「お山の太鼓が鳴り渡る朝までに解け」と脅したあの謎の、これが心か。
竜之助は忙しいうちに、くりかえしてこの手紙を読みました。
十一
この日、宇津木文之丞もまた夙に起きて衣服を改め、武運を神に祈りて後、妻のお浜を己が居間に招いて、
「浜、誰もおらぬか」
人を嫌った気色は別段に改まって、愁いと決心とが現われている。
「誰も見えませぬ」
「ちと改まってそなたに申し置くことがあるぞ」
「それは何でござりましょう」
「今日の門出に、これをそなたに遣わします」
机の上なるまだ墨の香の新しい一封の書状、お浜は不審顔に手に取って見ますと、意外にもこれは離縁状、俗にいう三行半でありましたから、
「これは私に下さる離縁状、どうしてまあ」
呆気に取られて夫の面をみつめていましたが、開き直って、
「お戯れも過ぎましょう。何の咎で私が去状いただきまする」
「問わず語らず、黙って別るるがお互いのためであろう」
「まあ、何がどうしたことやら、仔細も聞かずに去状もらいましたと親許へ戻る女がありましょうか、お戯れにも程がありまする」
「浜、この文之丞が為すことがそちには戯れと見えるか、そなたの胸に思い当ることはないか」
「思い当ることとおっしゃるは……」
「言うまいと思えど言わでは事が済まず。そなたは過ぐる夜、机竜之助が手込に遭って帰ったな」
「エッ、竜之助殿に手込?」
「隠すより現わるる。下男の久作が行方と言い、その夜のそなたが素振、訝しい限りと思うていたが、人の噂で思い当った」
「人の噂? 人がなんと申しました」
お浜は嚇となり、
「あられもない噂を言いがかりに私を逐い出しなさる御所存か。さほどお邪魔ならば……」
「おお邪魔である、家名にも武名にも邪魔者であればこそ、この去状を遣わします」
「口惜しいッ」
お浜は、どうするつもりか夫の脇差を奪い取ろうとするのを、文之丞はとんと突き返したから、殆んど仰向けにそこに倒れました。それを見向きもせず、文之丞は奥の間へ立ってしまいます。夫にこう仕向けられて今更お浜が口惜しがるわけはないはずです、文之丞がもしも一倍肯かぬ気象であったなら、お浜の首を打ち落して竜之助の家に切り込むほどの騒ぎも起し兼ねまじきものをです。少し気が鎮まってから、お浜がよくよく考え直したら、ここで離縁を取ったのが結局自分の解放を喜ぶことになるのかも知れない、しかし問題はここを去ってどこへ行くかです、甲州へは帰れもすまい、どこへ落着いて誰を頼る――お浜の頭はまだそこまで行っていないので、ただ無暗に口惜しい口惜しいで伏しつ転びつ憤り泣いているのです。
宇津木文之丞はその間に、すっかり仕度をととのえて、用意の駕籠に乗り、たった一人で、これはワザと門弟衆へも告げずに、こっそりと御岳山をさして急がせます。
和田村から山の麓までは三里。文之丞は禊橋の滝茶屋で駕籠を捨て、小腋には袋に入れた木剣をかかえ、編笠越しに人目を避けるようにして上って行きます。上って二十四丁目の黒門、ここへ来ると鼻の先に本山の頂が円く肥えて、一帯に真黒な大杉を被り、その間から青葉若葉が威勢よく盛り上って、その下蔭では鶯の鳴く音が聞えます。振返れば山々の打重なった尾根と谷間の外れには、関八州の平野の一角が見えて、その先は茫々と雲に霞んでいる。文之丞はしばしここに彳んでいると、黒門側の掛茶屋で、
「お早い御参拝でござります、お掛けなすっていらっしゃい」
女の呼び声に応じて茶屋に入り、腰掛で茶を呑みながら、ふと傍を見ると、茶屋から崖の方へ架け出した妙に捻った庵室まがいの小屋に、髯の真白なひとりの老人が、じっとこちらを見ています。老人の前には机があって、算木筮竹が置いてある。
「易を立てて進ぜましょうかな、奉納試合の御運勢を見て進ぜましょうかな」
老人はこう申しますのを、文之丞は首を振って見せた、老人は再び勧めようともしません。
おりから坂の下より上って来たのは、かの机竜之助の一行で、同じくこの茶屋の前で立ち止まりました。
「お早い御参拝でござります、お掛けなすっていらっしゃい」
「休んで行こうかな」
竜之助が先に立って、一行を引きつれて、この黒門の茶屋へ入ります。宇津木文之丞は何気なく入って来た人を見ると、それは自分の当の相手、机竜之助でありましたから、ハッと気色ばんだが、幸いに編笠を被って隅の方にいたので、先方ではそれと気がつかぬ様子。
先刻の老人はまた首を突き出して竜之助の方に向い、
「易を立てて進ぜましょうかな、奉納試合の御運勢を見て進ぜましょうかな」
竜之助は老人の面を見て頼むとばかり頷くと、老人は筮竹を取り上げて、
「そもそも愚老の易断は、下世話に申す当るも八卦当らぬも八卦の看板通り、世間の八卦見のようにきっと当ると保証も致さぬ代り、きっと外れると請合いも致さぬ。愚老は卦面に現われたところによりて、聖人の道を人間にお伝え申すのが務め、当ると当らぬとは愚老の咎ではござらぬでな……」
仔細らしく筮竹を捧げて、じっと精神を鎮めるこなしよろしくあって、老人は筮竹を二つに分けて一本を左の小指に、数えては算木をほどよくあしらって、首を傾けることしばらく、
「さて卦面に現われたるは、かくの通り『風天小畜』とござる、卦辞には『密雲雨ふらず我れ西郊よりす』とある、これは陽気なお盛んなれども、小陰に妨げられて雨となって地に下るの功未だ成らざるの象じゃ」
老人は白髯を左右に振分けて易の講釈をつづけます。
「されども、西郊と申して陰の方より、陰雲盛んに起るの形あれば、やがて雨となって地に下る、それだによって、このたびの試合はよほどの難場じゃ、用心せんければならん。が、しかし、結局は雨となって地に下る、つまり目的を遂げてお前様の勝ちとなる、まずめでたい」
それから老人は易経を二三枚ひっくり返して、
「めでたいにはめでたいが、また一つの難儀があるで、よいか、よく聞いておきなされ。象辞にこういう文句がござる、『夫妻反目、室を正しゅうする能わざるなり』と。ここじゃ、それ、前にも陽気盛んなれども小陰に妨げらるるとあったじゃ、ここにも夫妻反目とあって、どうもこの卦面には女子がちらついている」
門弟連はまた興に乗って、妙な面をして老人の講釈を聞いていると、
「細君に用心さっしゃれ、お前様の奥様がよろしくないで、どうもお前様の邪魔をしたがる象じゃ。夫妻反目は妻たるものの不貞不敬は勿論なれども、その夫たるものにも罪がないとは申し難い。で、細君をギュッと締めつけておかぬとな、二本棒ではいけない……」
これを聞いて門弟の安藤がムキになって怒り出しました。
「たわけたことを申すな、二本棒とは何じゃ、先生にはまだ奥様も細君もないのだ。若先生、こんなイカサマ売卜を聞いているは暇つぶし、さあ頂上に一走り致しましょう」
これに応じて、若干の茶代と見料とを置いて一行はこの茶屋を立ち去ります。
あとで宇津木文之丞は静かにこの茶屋を出ました。
これから頂上までは僅かの道のりで、二人の行く前後に諸国の武芸者が肩臂を怒らして続々と登って参ります。
十二
東国の中でも武蔵の国は武道に因の多い国柄であります。
武蔵という国号からが、そもそも武張った歴史を持ったもので、日本武尊が秩父の山に武具を蔵めたのがその起源と古くより伝えられていますが、御岳山の人に言わせると、それは秩父ではない、この御岳山の奥の宮すなわち「男具那峰」がそれだとあって、これを俗に甲籠山とも申します。御岳神社に納められたる、いま国宝の一つに数えられている紫裾濃の甲冑は、これも在来は日本武尊の御鎧と伝えられたもので、実は後宇多天皇の弘安四年に蒙古退治の御祈願に添えて奉納されたものだそうです。
さればこの山の神社に四年目毎に行わるる奉納の試合は関東武芸者の血を沸かすこと並々ならぬものがあります。八州の全部にわたり、なお信州、伊豆、甲州等の近国からも名ある剣客は続々と詰めかけ、武道熱心のものは奥州或いは西国から、わざわざ出て来るものもあるくらいで、いずれの剣士もみな免許以上のもの、一流一派を開くほどの人、その数ほとんど五百人に及び、既に数日前から山上三十六軒の御師の家に陣取って、手ぐすね引いて今日の日を待ち構えている有様です。
以上五百人のうち、試合の場に上るのは百二十人ほどで、拝殿の前の広庭には幔幕を張りめぐらし、席を左右に取って、早朝、宮司の式が厳かに済まされると、それより試合は始まります。
さても宇津木文之丞は、程なく山へ登って来て、いったん知合いの御師の家に立寄って、それから案内されて神前の広庭に出向き、西の詰から幔幕を潜って場へ出て見ると、もはやいずれの席もギッシリ剣士が詰め切って、衣紋の折目を正し、口を結び目を据えて物厳かに控えております。自分はそっと甲源一刀流の席の後ろにつこうとすると、首座の方に見ていた同流の高足広沢某が招きますから、会釈して延かるる座につき、木刀を広沢に預けて、さて机竜之助はいずれにありやと場内を見廻したが、姿が見えません。
組の順によって試合が行われます。いずれも力のはいる見物で、三十余組の勝負に時はようやく移って正午に一息つき、日のようやく傾く頃、武州高槻の柳剛流師範雨ヶ瀬某と、相州小田原の田宮流師範大野某との老練な型比べがあって後、
「甲源一刀流の師範、宇津木文之丞藤原光次」
審判が呼び上げる。この声を聞くと、少しだれかかった場内が引締まって黒ずんできます。
宇津木文之丞は生年二十七、下り藤の定紋ついた小袖に、襷を綾どり茶宇の袴、三尺一寸の赤樫の木刀に牛皮の鍔打ったるを携えて、雪のような白足袋に山気を含んだ軟らかな広場の土を踏む。少しの間隔を置いて審判が、
「元甲源一刀流、机竜之助相馬宗芳」
と呼び上げます。
机竜之助と宇津木文之丞、この勝負が今日の見物であるのは、それは机竜之助が剣客中の最も不思議なる注意人物であったからで、この中にも竜之助の「音無しの構え」に会うて、どうにもこうにも兜を脱いだ先生が少なくないのです。
今日はこの晴れの場所で、如何様の手並を彼が現わすかということが玄人仲間の研究物であったということと、もう一つは、机竜之助は甲源一刀流から出でて別に一派を開かんとする野心がある、甲源一刀流から言えば危険なる謀叛人で、それが同流の最も手筋よき宇津木文之丞と組み合ったのだから、他流試合よりももっと皮肉な組合せで、故意か偶然か世話人の役割を不審がるものが多かったくらいだから、ああこれは遺恨試合にならねばよいがと老人たちは心配しているものもあったのです。
呼び上げられて東の詰から、幔幕をかき上げて姿を現わした机竜之助は、黒羽二重に九曜の定紋ついた小袖に、鞣皮の襷、仙台平の袴を穿いて、寸尺も文之丞と同じことなる木刀を携えて進み出る。両人首座の方へ挨拶して神前に一礼すると、この時の審判すなわち行司役は中村一心斎という老人です。
この老人は富士浅間流という一派を開いた人で、試合の見分には熟練家の誉れを得ている人でありました。
一心斎は麻の裃に鉄扇を持って首座の少し前のところへ歩み出る。
首座のあたりには各流の老将が威儀をただして控えている中に、甲源一刀流の本家、武州秩父の逸見利恭の姿が目に立って、このたびの試合の勧進元の格に見える。
宇津木文之丞と机竜之助は左右にわかれて両膝を八文字に、太刀下三尺ずつの間合をとって、木刀を前に、礼を交わして、お互いの眼と眼が合う。
山上の空気がにわかに重くなって大地を圧すかと思われる。たがいの合図で同時に二人が立ち上る。竜之助は例の一流、青眼音無しの構えです。その面は白く沈み切っているから、心の中の動静は更にわからず、呼吸の具合は平常の通りで、木刀の先が浮いて見えます。
竜之助にこの構えをとられると、文之丞はいやでも相青眼。これは肉づきのよい面にポッと紅を潮して、澄み渡った眼に、竜之助の白く光る眼を真向に見合せて、これも甲源一刀流名うての人、相立って両人の間にさほどの相違が認められません。
しかし、この勝負は実に厄介なる勝負です。かの「音無しの構え」、こうして相青眼をとっているうちに出れば、必ず打たれます。向うは決して出て来ない。向うを引き出すにはこっちで業をしなければならんのだから、音無しの構えに久しく立つ者は大抵は焦れてきます。
こんな立合に、審判をつとめる一心斎老人もまた、なかなかの骨折りであります。
一心斎老人は隙間なく二人の位を見ているが、どちらからも仕かけない、これから先どのくらい長く睨み合いが続くか知れたものでない、これは両方を散らさぬ先に引き分けるが上分別とは思い浮んだけれども、あまりによく気合が満ちているので、行司の自分も釣り込まれそうで、なんと合図の挟みようもないくらいです。
そのうちに少しずつ文之丞の呼吸が荒くなります。竜之助の色が蒼白さを増します。両の小鬢のあたりは汗がボトボトと落ちます。今こそ分けの合図をと思う矢先に、今まで静かであった文之丞の木刀の先が鶺鴒の尾のように動き出してきました。業をするつもりであろうと、一心斎は咽喉まで出た分けの合図を控えて、竜之助の眼の色を見ると、このとき怖るべき険しさに変っておりました。文之丞はと見ると、これも人を殺し兼ねまじき険しさに変っているので、一心斎は急いで列席の逸見利恭の方を見返ります。
逸見利恭は鉄扇を砕くるばかりに握って、これも眼中に穏かならぬ色を湛えて、この勝負を見張っていたが、「分けよう」という一心斎が眼の中の相談を、なぜか軽く左右に首を振って肯いません。一心斎は気が気でない、彼が老巧な眼識を以て見れば、これは尋常の立合を通り越して、もはや果し合いの域に達しております。社殿の前の大杉が二つに裂けて両人の間に落つるか、行司役が身を以て分け入るかしなければ、この濛々と立ち騰った殺気というものを消せるわけのものではない。今や毫厘の猶予も為し難いと見たから、
「分け!」
これは一心斎の独断で、彼はこの勝負の危険を救うべく鉄扇を両刀の間に突き出したのでしょう、それが遅かったか、かれが早かったか、
「突き!」
文之丞から出た諸手突きは実に大胆にして猛烈を極めたものでした。五百余人の剣士が一斉にヒヤヒヤとした時、意外にも文之丞の身はクルクルと廻って、投げられたように甲源一刀流の席に飛び込んで逸見利恭の蔭に突伏してしまいました。
机竜之助は木刀を提げたまま広場の真中に突立っています。
十三
間髪を容れざる打合いで場内は一体にどよみ渡って、どっちがどう勝ったのか負けたのか、たしかに見ていたはずなのが自分らにもわからないで度を失うているのを、中村一心斎は真中へ進み出で、
「この立合、勝負なし、分け!」
と宣告しました。
分けにしては宇津木文之丞が自席へ走り込んだのがわからない、一同の面にやや不服の色が顕われました。
机竜之助の白く光る眼は屹と一心斎の面に注ぎまして、
「御審判、ただいまの勝負は分けと申さるるか」
片手にはかの木刀を提げたなりで鋭い詰問。一心斎は騒がず、
「いかにも分け、勝負なし」
竜之助はジリジリと一心斎の方に詰めよせて、
「さらば当の相手をこれへ出し候え」
「相手を出すに及び申さぬ、この一心斎が見分に不服があらば申してみられい」
「申さいでか。突いて来た刀を前に進んで外し面を打った刀、何と御覧ぜられし、老眼のお見損いか」
試合は変じて審判と剣士との立合となったので、並みいる連中は安からぬ思い。
しかしこの勝負はいかにも竜之助の言い分通り、或いは一心斎の見損いではあるまいか、老人なんと返事をするやらと気遣えば、一心斎は平気なものでカラカラと笑い、
「分けたあとの出来事はこちの知ったことでない、老眼の見損いとは身知らずのたわごと」
分ける、突く、打つ、その三つの間に一筋の隙もないようであるが、分けて考えれば三つになる。
竜之助も口を結んで老人の面を見ていたが、
「しからば再勝負を所望する」
「奉納の試合に意趣は禁物」
一心斎が取合わぬのを竜之助は固く執って屈せず、
「未練がましき勝負はかえって神への非礼、ぜひに再試合所望」
明快な勝負をつけねば決してこの場を去らずという憎々しい剛情を張っているが、一心斎もまた肯かぬ気の一徹者で、
「再試合なり申さぬ、強ってお望みならば愚老が代ってお相手致そうか」
「これは近ごろ面白い」
竜之助は冷やかな微笑を浮べて、
「富士浅間流の本家、中村一心斎殿とあらば相手にとって不足はあるまい、いざ一太刀の御教導を願う」
「心得たり、年は老いたれど高慢を挫く太刀筋は衰え申さぬ」
武芸者気質で、一心斎は竜之助の剛情が赫と癪に触ったものですから、自身立合おうという。飛んだ物言になったが、事は面白くなった。ほんとに立合がはじまったらそれこそ儲けものと、一同は手に汗を握っていると、
「机氏、机氏、控えさっしゃれ」
たまり兼ねて言葉をかけたのは甲源一刀流の本家、逸見利恭です。
十四
逸見利恭は甲源一刀流の家元で、机竜之助ももとこの人を師として剣道を学んだものでありますから、師弟の浅からぬ縁があるのです。
そもそも一刀流の本源をたずぬれば、その開祖は伊豆の人、伊藤一刀斎景久で、その衣鉢を受けたのが神子上典膳忠明(小野治郎左衛門)です。この人、柳生と相並んで、徳川将軍の師範をつとめたほどの名人で、その子小野治郎左衛門忠常が小野派一刀流、伊藤典膳忠也が忠也派一刀流を打出し、ことに忠也が父忠明より開祖一刀斎の姓と瓶割刀とを許される。それを嗣いだのが忠明以来の高弟亀井平右衛門忠雄で、これがまた伊藤を名乗る。忠雄の次が新たに溝口派の名を残した人、溝口五左衛門正勝というものであります。
武蔵国秩父小沢口の住人逸見太四郎義利は、この溝口派の一刀流を桜井五助長政というものに就いて学び、ついにその奥義を究めて、ここに甲源一刀流の一派を開き関東武術の中興と謳われたので、逸見利恭は、その正統を受けた人ですから、机竜之助の剛情我慢を見兼ねて控えろと抑えたのは当然の貫禄があります。
「検審に向い近ごろ過言なり、早々刀を引き候え」
逸見を囲んでいた門下の連中は、一方には宇津木文之丞を介抱する、その他の者は刀に手をかけて、眼を瞋らして竜之助を睨んで、いざといわば飛びかからん気色に見えます。
竜之助はこの体を見て、例の切れの長い白い光のある眼の中に充分の冷笑をたたえて、なんともいわず身をクルリと神前に向けて一礼し、左手に幔幕を上げてさっさと引込んでしまいました。
宇津木文之丞の面上に受けた木刀は実に鋭いもので、ほとんど脳骨を砕かれているのですが、さすがにその場へ打倒れる醜さを嫌い、席まで飛び込んで師の蔭に打伏したが、その時はモウ息が絶えていたのです。
机竜之助は試合とは言いながら、宇津木文之丞を打ち殺してしまったので、無慈悲残忍を極めた立合の仕方であるが、これは文之丞の方で最初しかけて行ったのは明らかで、もしも文之丞があの諸手突きが極ったならば、竜之助の咽喉笛を突き切られて、いま文之丞が受けた運命を自分が受けねばならぬ。あの場合、文之丞がナゼあんな烈しい突きを出したか、あれはやはり人を殺すつもりでなければ出せない突きです。してみれば文之丞の立合い方もまた不審千万で、無慈悲残忍の一本槍で竜之助を責めるわけにはゆかないのです。
よって竜之助の剛情我慢を憎むものも暫く口を噤んで、そのあと二番で終る試合の済むのを待っています。
あとの試合には頓着なく、机竜之助は、いったん控えの宿へ引取って着物を着換え、夕餉を済ましてから、また宿を出て雲深き杉の木立を分けて奥の宮道の方へブラリと出かけました。
十五
随神門を入って、霧の御坂を登り、右の小径を行くと奥の宮七代の滝へ出る道標があります。御岳山の地味は杉によろしく、見ても胸の透く数十丈の杉の木が麓から頂まで生え上っている中に、この霧の御坂から七代の滝へ下るまでの間は特に大きなものであります。竜之助がこの中へ入ると、雲も霧もまた一緒に捲き込んで行く。
見返れば社殿に上げられた篝火、燈籠の光はトロリとして眠れるものの如く、立ち止まって見るとドードーと七代の滝の音が聞ゆる。
立ち尽していると頭上で御祈祷鳥が鳴く、御岳山の御祈祷鳥は高野の奥に鳴くという仏法僧。
ふと、霧の御坂の方から人の足音がする。
「竜之助様か」
それは女でした。宇津木文之丞が妻の声でした。
「お浜どのか」
「あい」
「…………」
「御用心あそばせ、暗討がありまする」
「暗討?」
「お前様を討とうとて同流の手利が五人、ただいま宿を出てこれへ参りまする」
女の触れた手は熱かったが耳につけた口の息は火のようです。
「お浜どの、ここはあぶない、あれに隠れて」
目の前なる塞の神の社を指しますと、
「竜之助様、あなたは斬死をなさる気か」
お浜は竜之助の行手を遮るようにして、
「あなたがここで斬死をなさるなら、その前にわたしを殺して」
「なに?」
「文之丞は死にました」
お浜の声は震えて低い。
「宇津木の妻は去られて来ました」
竜之助はなんとも言いません。
「どこへ行きましょう」
御祈祷鳥がまた鳴く。
「甲州へは帰られません」
お浜の身は寛く、そして強くだんだんに竜之助の身を圧して来ます。
御祈祷鳥がまたホーホーと鳴く。
「不如帰ではないかしら」
お浜はわざと身を横にして杉の木立を仰ぎます。
「竜之助様、なんとかおっしゃって下さい」
竜之助はまだなんとも言いません。
「あなたは刀にお強いように、女にもお強いか」
お浜の髪の毛が竜之助の首のあたりにほつれる。竜之助は無言。
夜はいよいよ静かで七代の滝の音のみ爽かに響き渡ります。
霧の御坂でまたしても人の声。
「ああ人が来ます、敵が来ます」
竜之助は勇躍する。
「逃げましょう、逃げましょう、死ぬのはいやいや、逃げて二人は生きましょう」
お浜は身を以て竜之助にすがりつく。
雲と霧とが濛々として全山をこめた時、剣鳴りがする。二人の姿はそこから消えてしまいました。
十六
本郷元町に土蔵構えのかなりな呉服屋があって、番頭小僧とも十人ほどの頭が見え、「山岡屋」と染め抜いた暖簾の前では小僧がしきりに打水をやっていると、
「御免下さいまし」
入って来たのは百姓体の男で、小さい包を抱え、十一二になる小娘を連れていましたのは、あれから一カ月ばかり後のことでしたが、二人とも見たようなと思わるるも道理、男は武州青梅の裏宿の七兵衛で、娘は巡礼の子お松でありました。
「いらっしゃい……」
お客と思って一斉にお世辞をふりかけると、七兵衛は丁寧に頭を下げて、
「あの、こちら様は山岡屋久右衛門様でござりましょうな」
「はい、手前は山岡屋久右衛門でござい」
小僧はいささか拍子抜けの体でポカンと立っていると、
「手前は武州青梅から参りましたが、旦那様なり奥様なりにお眼にかかりとう存じまして」
「旦那様か奥様にお眼にかかりたいって、いったいお前さん、何の御用だえ」
「ヘエ、実は御当家の御親類のお娘子をお連れ申しましたので」
小僧は怪訝な面をして、七兵衛とお松の面を等分に見比べておりますと、帳場にいた番頭が口を出して、
「手前どもの親戚の娘子をお連れ下さいましたとな」
「はい、以前本町に刀屋を開いておいでになった彦三郎様のお嬢様と申せば、旦那様にも奥様にもおわかりになるそうで、このお娘御がそれでございます」
七兵衛はお松を引合わせると、番頭は変な面をしていましたが、小僧を呼んで、
「長松、なんせ旦那様はお留守だから奥様にそう申し上げて来な、青梅在のお百姓さんが、本町の彦三郎さんのお娘御をお連れ申してお目にかかりたいと申しておりますって、ね、いいか」
「は――い」
小僧は気のない返事をして奥の方へ行きました。
「まあお掛け……」
番頭が月並の愛想で火鉢を出すのをきっかけに、七兵衛は店先へ腰を下ろして、煙草をぷかりぷかりやりながら落着いているうちにも、お松はなんとなくおどおどした様子で、七兵衛のかげに小さくなっていると、さいぜんの小僧が出て来て突っ立ったなり、不愛想極まる面付をしながら、
「番頭さん、お内儀さんのおっしゃるにはねえ、本町の刀屋さんなんてのは聞いたことも見たこともないって。だからそのお娘さんなんて方には近づきがないから、どうかお帰りなすって下さるように、そう申し上げて下さいと」
これを聞いた七兵衛とお松はハッと面を見合せましたが、お松が進み出でて、
「そんなはずはないのよ」
面を真赤にして眼は潤みきって、
「そんなはずはありませんよ、こちらのお内儀さんは、わたしのお母さんの姉さんだもの、面を見ればわかるのよ」
お松は精一杯にこのことを主張します。番頭と小僧はさげすむような面をして二人を見ていますのを七兵衛は、
「この娘さんもあのように申します、奥様に一度お目にかかればすぐおわかりになりましょう」
「だって、お内儀さんが知らないとおっしゃるものを仕方がないじゃないか」
小僧は口を尖らします。
「伯母さんに会えばすぐわかるのよ、小さい時お芝居へ連れて行っていただいたこともあるのだもの」
七兵衛はお松の説明のあとをついで、やはり律儀な百姓の口調で、
「実は、このお娘御とおじいさんとが甲州裏街道の大菩薩峠と申しまするところでお難儀をなすっているところを、私が通りかかってお連れ申したわけで、このお娘さんも頼る方といっては、こちら様ばかりだそうで、いかにもお気の毒ですから御一緒にやって参りましたわけで、どうかもう一度、奥様にお取次を願います」
克明に頭を下げて頼むので、番頭は飛んだ厄介者と言わぬばかりに小僧に顋を向け、
「では、モ一遍お内儀さんにそのことを申し上げてみな」
小僧は不承不承にまた奥へ行きましたが、小さな紙包を一つ持って出て来て、
「番頭さん、何と言っても奥様は御存じがないとおっしゃる、これは少ないが草鞋銭だから、それを持って帰ってもらうように、足りなければまだ一両や二両はそちらで心配して上げてもいいからって」
番頭はその紙包を受取って七兵衛の前へ進み出で、
「幾度お取次してもお聞きなさる通りでございます、これはホンの草鞋銭の印で、これを持ってお帰り下さい」
紙包を七兵衛の前へ突き出すと、七兵衛はグッと癇癪にこたえたのを、だまって抑えつけて紙包を見詰めたままでいると、お松は横を向いて口惜しさに震えます。このときちょうど、「いらっしゃい、お掛けなさい」
小僧たちの雷のような喚きに迎えられて、この店へ入って来たのは切下げ髪に被布の年増、ちょっと見れば大名か旗本の後家のようで、よく見れば町家の出らしい婀娜なところがあって、年は二十八九でありましょうか、手には秋草の束にしたのを持っておりましたが、
「あの、この間の柄をもう一度見せて下さいな」
「これはこれはお師匠様、わざわざお運びで恐れ入ります、昨日織元から新柄が届きまして、ただいま持って上ろうと存じておりましたところで、へえ、この通り」
番頭小僧もろともにペコペコお低頭をして、棚から盛んに反物を担ぎ出して切髪の女の前に塁を築き立てると、
「ついでがあったものだから」
女は鷹揚にその反物を取り上げて、柄を打返して調べはじめますと、
「おい、番頭さん、こりゃ何だい!」
閑却されていた七兵衛はここで紙包をポンと突き返して、呼びかけた声がズンと鋭かったので、切髪の女はひょいと振返って七兵衛を見ます。かまいつけなかった番頭小僧どもは、七兵衛の鋭い権幕を見てゾッとする。
「お銭をいただきにあがったわけじゃござんせん、番頭さん、悪い推量でございます」
七兵衛は煙管をポンと叩いて、
「御当家の御親類のお娘子をお連れ申しただけのことで、それを強請かなんぞのように銭金で追っ払いなぞは恐れ入ります」
そろそろ七兵衛の言い分が巽上りになって、悪くとれば妙にこだわって、いよいよ悪く見えますから番頭小僧も不安の色を見せていると、七兵衛は、
「お金が欲しいのでお邪魔に上ったように取られては私も残念でごぜえますから、念のためにこの子の死んだお爺さんというのから、お預かり申した金をここでお目にかけます」
といって七兵衛は小包を解いて、中から百両の包を三つ取り出して、
「これが、このお娘子のお爺さんから私が預かりましたお金でございます、ナーニ、ここへ拡げなくてもよいわけでございますが、お金が欲しいくらいならわざわざこうして持って参りは致しません――ところで」
七兵衛が存外おとなしくて、
「せっかくこうして親類の名乗りをして尋ねて来たものを畳の上へもお通しなされず、見ず知らずとおっしゃって追い出すお家へ、御無理にお願い申してこの娘さんを置いて帰りましたところで行く末が案じられます。こうやってお連れ申してみればマンザラ他人のような気も致しませんから、よろしゅうございます、御当家に縁のないものなら私に縁のあるものでごぜえましょう、今日から私が貰い受けましょう、どうかあとあとのところを苦情のねえように」
こういって七兵衛は煙管を筒の中に納めて、お松を顧み、
「なあお松坊、そういうわけだから、ここはおじさんと帰るさ」
三百両の金を蔵って立ち上ろうとする。お松は情けない面をして、眼にはいっぱいの涙を含んで、小さな顋を襟にうずめて頷きます。
夏の夕風がうすら淋しい。二人が出て行くと、まもなく山岡屋の番頭小僧らはドーッと笑いました。この笑い声を聞いた時、お松は屹と振返って山岡屋の暖簾を睨みつけ、暫く立去れない口惜しさが胸までこみ上げて来るように見えましたが、
「お江戸は広いから居どころに困るようなことはねえ」
七兵衛はお松を促して連れて行く。
十七
二人が神田明神の方へ曲ろうとすると、後ろから呼びかけるものがあります。
「もしもしあの、お爺さんにお娘さん」
あたりにあんまり人通りがなかったから直ぐに気がついて二人が振返ると、それはさいぜん、同じ店に反物の柄を見ていた切髪の女でありました。切髪の女は二人に近寄って人懐こく、
「あの、無躾ながらお前さんは山岡屋の御親類なそうな」
「はい、左様でございます、この子が山岡屋の御親類で。私は縁もゆかりもない百姓でございますが」
「そう、わたしもあの店でちょいとお聞き申しました、それでお前さん方がお困りのようだから、だしぬけに声をかけてみましたの」
品のよいわりに口の利きようが慣れ過ぎた女だと思って、七兵衛は、
「左様でございましたか……」
「わたしはね」
女はちょいと横の方を向いて、
「ついそこの横町に住んでいます者、こんなところで申し上げては失礼ですが、もしなんならそのお娘さんを、わたしがお預かり申し上げても苦しゅうござんせぬ」
「へえ、そりゃ御親切に……」
七兵衛も、あまり変った救い舟が靄の中から不意に飛び出して乗せて上げようというのだから聊か面喰って、
「御親切は有難う存じますが、見ず知らずのあなた様にお縋り申しては何が何でもあまりぞんざいでございますから」
「いいえ、ぞんざいというのはわたしの言うことよ。世間は妙なもので、お前さんのさっきお言いなさる通り、親類呼ばわりをして来たものを門口から追い返すものもあれば、赤の他人でもずいぶん因縁ずくで力にもなったりなられたりするものもあります。ほかにどこぞ頼る所でもおありなされば格別、そうでなかったら、ちょうど私の家が手不足で困っておりますから……」
世間にはなかなか世話好きの女もあるものだと思って、七兵衛がまだ返答もしきらないうちに、女は先に立って、
「まあまあ、わたしの家へお寄りなさい、どちらに致せ今晩はお泊りなすっておいで、ナニ、気遣いなものは一人もおりませんよ」
「それでは、せっかくの御親切に甘えまして」
七兵衛とお松は煙に捲かれて、あとをついて行くと、湯島の高台に近い妻恋坂の西に外れた裏のところ、三間間口を二間の黒塀で、一間のあいだはくぐりの格子で、塀の中には見越の松から二階の手すりなども見えて、気取った作りの家の前まで来ると女が先に格子をあけて案内した時、表にかけた松月堂古流云々の看板で、この女がべつだん凄いものではなく、花の師匠であることを知りました。
「さあ、お入りなさい、ここはわたしの家で、婆やと猫が一疋いるばかり」
十八
甲州本街道の方は、新宿から八王子まで行く間に五宿、府中、日野まで相当の宿々もありますけれど、裏街道ときてはただ茫々たる武蔵野の原で、青梅までは人家らしい人家は見えないと言ってもいいくらいです。
ことにこの青梅街道の中で丸山台というところあたりは追剥の類が常に出没して、日の中に心強い人連れでもなければ屈強な男でさえ容易にここを通りません。まして日の暮や夜は無論のこと。それを今日は珍らしく、まだ有明の月が空に残っているうちに、馬の鈴の音がこの丸山台のあたりで聞えます。そして朝露をポクポクと馬の草鞋に蹴払って、笠を被った一人の若い馬子が平気でこの丸山台を通り抜けようとしております。大方、江戸を夜前に出て近在へ帰る百姓でありましょう。
それにしても大胆な。馬子でも思慮のあるものは今時分ここを一人歩きはしないものを。それもそのはず、この若い馬子をよく見れば、かの万年橋の下の水車小屋の番人、馬鹿の与八ですもの。馬鹿ですから怖いもの知らずです。
馬の背中には大きな行李が三つばかり鞍に結びつけられて、その真中に丈三尺ばかりのお地蔵様の木像、どこから持って来たか、大分に剥げて、錫杖の先や如意宝珠なども少々欠けておりますが、それを馬の背の真中へキチンと据えつけて、それを縄でほどよく結びつけておきますから、遠くから見ればお地蔵様が馬に乗ってござるようです。
与八は手綱を引張りながら、時々後ろを顧みて地蔵様を打仰ぎ、
「はア、地蔵様ござらっしゃるな」
と声をかけて進んで行きます。
「俺は子供の時分、なんでもこの街道へ打棄られたのを大先生が拾って下すったとなあ。俺の親というのはどんな人だんべえ、俺だってまんざら木の股や岩の間から生れたじゃあるめえから、親というものがあったには違えねえ、大概の人に父というものとおっ母というものがあるだあが、俺にはホントウの父とおっ母が無え、だから俺あ人にばかにされる、なに、ばかにされたってかまやしねえや、大先生が大事にしてくれるから不自由はねえけれども、それでも一ぺんホントウの父というものとおっ母というものに会いてえな――海蔵寺の方丈様のおっしゃるには、地蔵様というものは親なし子を大事にして下さる仏様だとよ、地獄へ行っても地蔵様が我を頼めとおっしゃって子供を助けて下さるくらいだから、地蔵様を信心していれば自然と親たちにもめぐり会えるだからと、方丈様がそうおっしゃるものだから、俺あ地蔵様を信心して、道傍に石の地蔵様が倒れてござらっしゃれば起して通る、花があれば花、水があれば水を上げて信心するだ……昨日も四谷の道具屋に、このお地蔵様の木像があったから、いくらだと聞くと一貫二百で売るというから、小遣をぶちまけて買って来た――これを持って帰って家で毎日信心をする」
与八はこんな独言をいって歩きます。
「俺もひとりぼっちだあけれど、うちの大先生も運の悪い人だ、五年も六年も御病気で、体が利きなさらねえ、たった一人の若先生はあの大試合の日から行方知れずになっておしめえなさるし――今は親類の衆が寄って世話をしてござらっしゃるが、やはり親身の人が恋しかんべえ……」
与八の独言は涙まじりになってきます。
「そりゃそのはずだあ、俺だって何不自由はねえけれども、それでも親身の親たちに会いてえと思わねえ日はねえくらいだ、大先生はああやって竜之助様を勘当しておしめえなすって、誰が何といっても許すとおっしゃらねえが、でも腹の中では若先生がいたらと思うこともあるに違えねえ……いったいが竜之助様という人が心得違えだ、たとえば勘当されたとて、たった一人の親御じゃねえか、それを慕って帰ってござらねえというのが嘘だ、俺、ふだんから若先生という人は気味の悪い人だと思っていた、剣術なんというものは身の守りにさえなればよかんべえに、若先生は人を斬ることを何とも思わっしゃらねえだ――いくら剣術でもああいう法というのはあるめえ、かりにも御主人を悪くいって済まねえけんど、あの分で行ったら竜之助という人は決していい死にようはなさらねえ、もしや江戸にござらっしゃるかと昨日も一昨日も探して歩いたが、お江戸だって広いや、なかなか見つかりゃしねえ、見つけたら意見をして引張って来べえと思ったが駄目なこんだ」
与八はしきりなく独言をつづけましたが、この時また地蔵様を振返って、
「まあいいや、大先生の分も若先生の分もおらが分も一緒に、このお地蔵様に信心をしておくべえ……」
独言が途絶えて、馬のポクポクと歩く音が林の中へひっそりと響いて行く。
ややあって与八はまた独言です。
「それからわからねえのがあのお浜という女よ、若先生から頼まれて水車小屋へ担いで来た、俺あの時のことを思うとゾッとする、今まであんな悪いことをした覚えはねえ……それにあの女が若先生に文を届けてくれろと、あの試合の日、おらがところへそっと持って来た、どうも、あの女がおらがには解せねえ女だ」
こう言っているうちに与八と馬とは丸山台の難所を三分の一ほど通り過ぎて、行手の木蔭に焚火でもあろうか火の光を認めました。
「やあ、火が燃えてるな」
与八は何の気なく手綱を取って行くと、その火のあたりで物騒がしい人声です。
「朝っぱらから人声がするな」
近づいて行くにしたがって人声はますます喧しいので、
「黙って歩いたらよかんべえ、まるで喧嘩みたような、でけえ声をして」
ポクポク進んで行くと、行手に数個の人影があって、ぐるりと輪形に突っ立ち、中に一人の人を囲んで棒を持ったり杖を持ったり、そして盛んに啖呵を切って中なる人を脅迫している様子です。
「お前たちは何してるだあ」
丸山台へは悪者が出るのがあたりまえで、出ないのが不思議なくらいですから、その心得のあるものなら早く逃げのびる工夫をすべきはずですけれども、そこは馬鹿のことですから五六人の悪者の中へ、ぬっと首を突き出してしまいました。
「何だ何だ、手前は」
悪者の方がかえって驚きます。
「朝っぱらから賭博でもしてるのかと思えば、この小さい人を捉めえて小言を言っているのかい」
極めての大胆と全くの無神経とは時によって一致します。
「馬鹿だ、こいつは」
「叩きなぐっちまえ」
悪者と見えるのは、やはりこの辺を飛び廻る下級の長脇差、胡麻の蠅もやれば追剥も稼ごうという程度の連中で、今、中に取捲いて脅しているのは、これは十二三になる侍の子と覚しき風采で、道のまん中に坐り込んだまま、刀の柄に手をかけて寄らば斬らんと身構えてはいるが、見たところ疲れきって痛々しいばかりです。
「ああわかった、お前たちはなんだな、この子を捉めえて追剥をすべえというのだな。そんならよした方がいい、人の物を取るのはよくねえだからな」
悪者どもは吹き出したくなるくらいです。何となれば間の抜けた面をこの難場へぬっと突き出して、後ろを見れば地蔵様が馬上ゆたかに立たせ給うのである、ばかばかしくて喧嘩にもならない。
「さきほどより申す通り、わしは大事を控えた身なれば、ここにありたけの金子をそちたちに遣わすゆえ見のがせと事を分けて申すに、強って衣類腰の物まで欲しいとならば是非もないから刀を抜く」
少年は坐りながら、涙ぐんだ眼に彼等を睨めてキッパリと言う。
「その大小が金目と睨んだのだ、たかの知れたお前たちの小遣銭なんぞに目はくれねえ。よ、痛い目をしねえうちに投げ出しちめえねえ。お前がいくら光るものをひねくったって、こっちは甲州筋で鳴らした兄さんたち五人のお揃いだ、素直に渡して鼻でも拭いて行きねえ」
手に持った棒を少年の頭の上で振る、一人は手を伸ばして少年の抱えた刀を奪い取ろうと、うつむいた浮腰を横の方から、ひょいと突き飛ばしたのが与八です。
「よくねえことをしやがる」
悪者の一人は茄子をころがしたようにのめると、
「この野郎」
馬鹿と見た馬方が意外の腕立て。
十九
与八の力は底知れずですから、悪者どもを手もなく追い払ってしまいました。
それから与八は少年の傍へ寄って来て、
「どうだお前様、あぶねえところだったな」
「おかげで助かりました、お礼を申します」
「お前様一人で来なすったのかえ」
「一人で」
「どこから」
「江戸から……」
「お江戸から……そうしてどこへ行きなさるだ」
「青梅の先まで」
「青梅の先……俺も青梅の方へ行くだ、一緒に行くべえ」
「それでは……」
少年は坐っていたのを、刀を杖に立ち上ろうとしたが、よろよろと足が定まりませぬ。そのはず、今朝江戸を出て来たものとすれば、子供の足で七里の道、足が腫れ上って動けないらしい、そこを悪者どもに脅されたものと見えます。それでも我慢して、痛いとも疲れたともいわず、与八と連れ立って歩こうとする、その痛々しさは与八も気がつかずにはいられなかったので、
「お前様、足が大分草臥れたようだなあ、待てよ……」
与八は馬の背中を見上げて、首を傾げることしばし、
「こうと、荷物はいくらでもねえが、地蔵様を横っちょの方へお廻し申しては勿体ないし――お地蔵様と相乗りというわけにもゆくめえし」
腕を組んでお地蔵様と首っ引きに頻りに考えていましたが、
「おおそうだ、そうだ」
にわかに両手を拍って、馬に近寄って、背中に安置した地蔵尊の木像を怖る怖る取り下ろし、それを有合せの細帯で後ろへ廻し、子供をおぶうと同じことに自分の背中へ結びつけて、
「これでよし、さあお前様、この馬へ乗っておいでなさい、なに、遠慮しなくてもいいだ、その足で歩けるもんでねえ」
少年は心から有難そうに、すすめられるままに馬上に跨がります。
与八はお地蔵様をおぶったまま、手綱を取り上げて馬を引きだす。その恰好のおかしさ。それでも当人はいっこう平気で、
「お前様はお侍様の子供のようだが、青梅はどこまでござらっしゃるかね」
朝の靄がすっかり晴れて、雲雀は高く舞い、林から畑、畑から遠く農家の屋根、それから木々の絶え間には、試合のあった御岳山あたりの山々が、いま眠りから醒めたように遥々として見え渡ります。
「和田というところへ行きます」
「和田へ……」
「和田の宇津木というところまで」
「和田の宇津木様?」
与八は歩きながら、思わず少年の面を見上げて、
「宇津木様へ……そりゃお前様の御親類でもあるのかえ」
「宇津木は、わしの実家じゃ」
「お前様の実家……それではお前様は、文之丞様の弟さんかえ」
「弟の兵馬という者です」
「ああそうでございましたかい、そうとはちっとも知らなかった」
この少年こそ、宇津木文之丞の実の弟の兵馬であったのです。
兵馬は幼少の頃から番町の旗本の片柳という叔父の家に預けられていたのが、このたびの変を聞くと無分別に叔父の家を脱け出して兄の家へ帰ろうとして、ここまで飛んで来て、疲れ切ったところを、悪者に脅されたものでありました。
宇津木兵馬と聞いて馬子が驚きの意味ありげなのを見て、
「馬子どの、お前もあちらの人か」
「エエわしも」
といったが与八はポキリと言葉の端を折って、一丁ほどは物を言いませんでした。兵馬も再び尋ねなかったが、やがて与八は、
「お前様のお兄様の文之丞様というお方も、運の悪いお人だ」
「兄上のことを御承知か」
「はあ、よく知ってますだ」
「そんなら机竜之助のことも」
「はあ、その竜之助様のことも」
「してみれば、五月五日の試合のことも知ってであろうがな」
「はあ、その事もあの事もみんなようく知ってますだが……」
「そうか、それは幸い。あの試合で兄上と竜之助の勝負は」
兵馬の意気込むにつれて与八はしょげ返り、
「あの勝負は竜之助様が勝って文之丞様が負けた」
「尋常の勝負ではなかったはず」
「尋常の勝負どころか、お前様、飛んでもねえ勝負でござんす、お前様のお兄様のことだからずいぶん腹も立つべえけれど、俺も悲しいやら口惜しいやら……」
与八は泣き出してしまいました。
「なにも泣くことはあるまい、お前の身にはかかり合いのないことだ」
「わしにかかり合いのねえどころか、大有りでさあ」
「お前に……あの試合が?」
「何も言わねえ、試合のことなんざあ忘れちまった方がよかんべえ」
「それが忘れられるものか、それがためにわしは江戸を抜け出して兄上の仇討に出て来たのだものを」
「お前様が仇討に――誰を敵にお討ちなさるだ」
「机竜之助を」
「机竜之助様を?」
与八が振向いた時、馬上の兵馬は御岳山の方を見やる眼許より雫が頬を伝うて流れるのを見かけます。
二十
七兵衛とお松とを店頭から追い払ったその晩のことです。
主人は商用で上方へ行ったというにもかかわらず、山岡屋の女房のお滝は、ニヤけた若い男を傍に置いて、夜も大分更けてゆくのにしきりに酒を飲んでいると、
「あ、人の足音」
「猫でも来たのだろうよ」
「でも、今のはたしかに人の足音でございましたよ」
「度胸のない人だねえ、そんなにおどおどしてさ。あけてごらん」
「おや」
そこにはまさしく人が立っていたので、
「あれ、お前さんは誰だえ」
「誰でもございません、さきほど店前で追っ払いを食いました百姓で……」
「ええ!」
「まず御免なせえまし」
そこへ入り込んで、どっかと胡坐をかいて黒い頭巾を投げ出したのは、なるほど裏宿の七兵衛でありました。
七兵衛は懐ろへ手を入れて、短刀を出して、刃先を前に向けてブツリと畳へ突き通します。
「お、お金がお入用ならいくらでも差上げますから――どうぞ――どうぞ命ばかりは……」
「お内儀さん、お前さんはよく金々と言いなさる、さきほども大枚のお金をわっしに下すったが、その時も申し上げた通り、金が欲しくって上ったわけじゃござんせん」
「そんなら品物を何でも、お好きな物をお持ちなすって……ただいま土蔵へ案内を致させますから」
「くどいやい、今夜は盗みに来たんじゃねえ」
お滝は慄え上りながら、やっと気がついたらしく、
「ああ、わかりました、わかりました。さっきお話の本町の彦三郎の娘のこと、つい小僧から又聞きでございまして、まことに失礼を致しました。たしかにわたくしの姪に相違ございません……よく――よくお連れ下さいました、早速手前どもで引取りまして、実の子のようにしてお育て申します、どうかそれにて御勘弁を。はい、小僧めがいいかげんなことを申しますので、ついどうも飛んだ失礼を申しました……」
「遅いやい遅いやい、いまさら夜迷言をぬかすな、あの子はあとあとの苦情のねえように、ようく念を押しておれが貰え受けたんだ、お前たちに縁もゆかりもねえ」
「それでは養育料としまして」
「馬鹿め、縁もゆかりもねえものに養育料が要るか」
「どうぞ命ばかりはお助け――」
「命まで取ろうとは言わねえ」
「それでは命をお助け下さる……」
「命は助けてやるめえものでもねえが、ただじゃ帰れねえ」
「それではお金を……」
「金は要らねえ」
「では……」
お滝は絶体絶命の体を、七兵衛は冷やかに笑って、
「山岡屋のお内儀さん、わっしはほかに望みはねえ、お前さんに恥をかかしに来た」
「恥を……」
お滝は唇の色まで真蒼になったのを、七兵衛は心地よげに、
「そんなに驚くことはねえ、恥と言ったって、なにもお前さんを弄み物にするわけじゃねえのだ、おれは子供の時分から虫のせいで、善い事にしろ悪い事にしろ仕返しをしなくっちゃあ納まらねえ性分だ、それでさきほどのお礼にやって来たわけだが――実はお内儀さん、少し手荒いかも知れねえが、お前さんを裸にして……」
「えッ?」
「お前さんに裸になってもらって、それをわっしが痛くねえように縛って上げるから、それでもってお内儀さん、先刻わっしがお松と一緒に抛り出されたお店の先へ明日の朝まで辛抱して立っていてもらうんだ。いいかえ、暁方になったら人も通るだろう、そうなるといいお内儀さんが素裸で立っているのを見過ごしもできめえから、何とかして上げるだろう、お淋しくもあろうが暫しの辛抱だ、幸いここに二歳がいる、こいつをお伽に……」
「お助け下さい――」
二人は声を合せて号泣する――そのあとはお滝がひいひいと悶え転ぶ音。
七兵衛は変った盗賊です。
この物語の最初以来、甲州から武州、ならびに関八州を荒し廻った盗賊というのは大方はこの七兵衛の仕業でした。
七兵衛は盗みの天才で、子供のうちからすでに大人の舌を捲かしたものです。
十か十一の頃でもあったろう、同じ青梅の宿の名主の家に雇われていた時分、主人の物をはじめ近所あたりの物をちょいちょい盗みます、盗んでどうするかといえば、直ぐにそれをほかの子供らにやってしまう。親たちが見つけてこれは誰に貰ったと聞けば、七ちゃんに貰ったと答える。それから七兵衛の泥棒根性と、その手腕はようやく世間の認めるところとなって問題になりかけた時に、主人が七兵衛を呼びつけて、
「お前はよくねえ癖がある、今のうちは子供で済むが年を取るとそうはいかぬ、その癖をやめろ、やめねえけりゃこの家を逐い出すからそう思え」
「旦那様、俺らは何か見ると盗みたくなってたまらねえ、盗んでしまえば気が済みます、だからみんな子供にやっちめえます、悪い気で盗むじゃねえから、どうか堪忍して下さい」
「あきれた野郎だ、悪い気でなく、善い気で盗まれてたまるものか――よし、それほど盗みたいなら七公」
主人は言葉を改めて、
「今夜おれの座敷へ忍んで来て、俺の膝元へ金包を置くから、それを盗んでみろ、もし見つけたら俺がこの刀で叩き切っちまうがどうだ」
こう言われて七兵衛はかえって平気、
「いいとも旦那、明け方までにはきっと盗んで見せまさあ」
「生意気なことを言う奴だ――いいか、盗み損ねたらホントに命はないぞ」
名主は苗字帯刀御免の人だから、切ってしまうというのはことによると嘘ではあるまい。
「もし首尾よく盗んだら旦那様、どうしてくれます」
逆捻を喰わす口ぶりに、主人もあいた口が塞がらず、
「その時は勝手にしろ」
「そんなら勝手に泥棒してもいいか」
「馬鹿! どうでも今夜は切っちまうからそのつもりで来い」
主人はその晩、一包みの金を自分の膝のところへ置いて、長い刀の鞘を払い、七兵衛が来たら切らぬまでもこれで嚇しつけて、その手癖を直してやろうと、燈火の下へ右の白刃を置いて、机を持って来て夜長のつれづれに書物を読み出していましたが、なかなか七兵衛は来ない。
「やつめ、怖くなりやがったな」
と主人も微笑していましたが、やがて一番鶏が鳴きました。
ふと見れば、膝元に置いた金の包がない。
「はて」
主人はびっくりして、机の下、行燈の蔭、衣服の裾まで振って見たけれど、差置いた金包は更に見えません。
「ああ盗られた」
急いで人を起して、
「七兵衛はいないか、七兵衛はどこへ行った」
どこへ行ったやら影も形も見えないので、主人は中っ腹で、それから日のカンカンさすまで寝込んでしまうと、
「旦那様、七兵衛が見えました」
「ここへ連れて来い」
主人の寝床の前へ七兵衛は平気な面でやって来て、
「旦那様、お土産を買って来ました」
とて経木の皮に包んだ饅頭を差出しました。呆気に取られた主人が、
「七兵衛、お前は昨夜どこへ行った」
噛みつくように怒鳴るのを七兵衛は抜からず、
「旦那様からお金をいただいたから、欲しいと思っていた網とウケ(魚を捕る道具)を買いに八王子まで行って来ました」
「八王子へ?」
主人が眼を白黒したのも道理で、八王子までは六里からあります。昨夜いつごろ金を盗んだかわからないが、それから往復十二里の道を子供のくせに平気で歩いて来たと聞いただけで、胆をつぶす価値が充分あるのです。
「こういう奴は末が怖ろしい、勝手に出て行け」
それで主人の家をお払い箱になってしまいました。
それからの七兵衛は自分の家へ帰ってコツコツと少しの畑を耕したり、賃雇いに出たりして暮していたが、その後、世話をする者があって隣村から嫁を貰った、この嫁が尻の軽い女で、初めから男があったとかなかったとかいう者もあったが、ようよう一人の男の子を生むと、女房の姿が見えなくなった、近所の人は男と駈落をしたものだろうと言っています。
子供を一人残されて女房に逃げられた時は、七兵衛も大分弱ったようでしたが、その後、子供は里へ預けて来たと言って、それからは一人で暮して、昼は山稼ぎ畑稼ぎをして、夜になっては大概早く戸を締めて人とも交際しません。七兵衛は固くなった固くなり過ぎたと、人々は評判をしておりましたけれど、実はこの時分から、持って生れた泥棒癖が再び萌しはじめたものです。
昼のうちは克明に働いて、夜分になると戸を締め切っておいて盗みに出かけます。盗みは決して近いところではしない、上州とか甲州とか数十里を隔てたところへ行っては盗んで来て、その暁方までに青梅へ帰って、昼はまたなにくわぬ面で山稼ぎ畑打ちです。それで盗んだ金は名も現わさず散らしてしまう、女狂い賭博狂いをするでもなければ身の廻りを飾るでもないから、誰も怪むものがない、それでいよいよ捕われるまでは七兵衛の大罪を知るものはなかったわけです。
二十一
竜之助の父弾正の枕元に、宇津木兵馬と与八とが坐っております。
「兵馬殿、せっかく剣術を修行なさるなら正しい剣術を修行なされよ」
弾正は言葉を改めてこう言い出しました。
憎い敵の家、竜之助の父、兵馬はこう思い込んで来たものの、事実、弾正に会うて見れば、その病気に対する同情と、寸分の隔てなく慈愛を以て自分を訓戒する真心に動かされてしまったのです。それで神妙に膝に手を置いて弾正の言うところを聞いていると、
「あの竜之助がよい見せしめ、あれも初めは見込みのある剣術であった、わしも最初のうちは欣んでいたが、わしが病気になって以来、すっかり術が堕ちてしまったでな」
「術が堕ちたとおっしゃるのは」
「何も知らぬ者は竜之助がメキメキ腕を上げたと評判するげな。わしが眼で見れば日増しに術が堕ちてゆく。ああ残念な、この身が丈夫であったらあの腕を叩き直してやろうものをと思わぬ日はなかったが、何を言うにもこの不自由で、みすみす倅を邪道に落した」
弾正の眼からは竜之助の剣術の進歩を進歩と見ないので、
「あのような剣術が今日の仕儀になるは眼に見えたものじゃ、わしはもう世に望みのない身体、兵馬殿、どうか拙者になり代って竜之助を懲らして下さい」
弾正は疲れを休めて後、
「とは言え、今の其許では、いかに心が逸っても竜之助の向うに立つことはおぼつかない、ようござるか、修行が肝腎じゃ」
「修行します、立派に修行しませいでか」
「ああよいお覚悟じゃ。時に、正しい修行には正しい師匠を取らねばならぬ……わしがその正しい剣道の師匠を其許に推薦する、その人について修行なさるがよい」
弾正が推薦する正しき剣道の師とは何者か。
「下谷の御徒町に島田虎之助という先生がある、流儀は直心陰、拙者が若いうちからの懇意で、今でも折々は消息をする、この人はまさに剣道の師たるべき達人じゃ」
「島田虎之助先生、お名前も承わったように覚えまする」
「上泉伊勢守の正統を伝えたものは当代にこの人であろう」
己れが子竜之助の剣道を邪道と罵るにひきかえて、島田虎之助を弾正が推薦することは極度であります。
「正しい代りに修行が厳しい――厳しい修行で弟子が少ない、もと名聞を好む性質でないから世間からは多く知られていないが、わしとは若い頃から気が合うてよく交わった――せっかく剣道を学ぶならこの人に就いて学びなされ」
弾正の話の中には、別におのずから見識があって、兵馬にはよくわからないながら、この老人が尋常の人と思えない、もしこんな病気にかからないならば、どんなエライ人になったろうかと、そぞろに尊敬の心を起させるようです。
二十二
「今日は五月のお節句ですねえ」
障子を少しあけて、初夏の清々しい日光と風とを入れ、その膝のところに、ようやく這うばかりになった男の子を遊ばせて、自分はその子の単衣を縫っている若い女房は、ちょっと眉根を顰めて男の方を見やりました。
「四年目の五月の節句じゃな」
見台を前にして何かを読んでいた男の人は、女房の話しかけたのをこう受けてちらと見向きますと、余念なく衣を縫うている女房の襟元のあたりが見えます。
「来年もお山に試合がございましょうねえ」
「ある」
「どなたが勝ちましょう」
「誰が勝つか」
「お前様このごろは根っから試合をあそばしませぬ……」
「日蔭者の身ではなあ」
こういって男がなんとなく深く歎息をした時に、女は針の手をとどめて、
「ほんとにもう、日蔭者になってしまいましたわねえ」
男の面を見て淋しく笑います。
「いつまでもこうしてはおれぬ」
男の所在なげに呟く時、女は持っていた縫物を投げ出して、
「坊や、抱こをおし」
膝にまつわる可愛らしい男の子を抱き上げて、
「ほんにお前様のお腕なら、この広い江戸表へ道場を開きなされても立派に師範で通ろうものを……こうしていつまでも日蔭者同様の身ではねえ」
「いまさら愚痴を言っても追っつかぬ、みんな身から出た錆じゃ」
「でもお前様……」
女は子を抱いたなり男の方へ膝を向け、
「私たちは日蔭者でも、この子だけはねえ」
「うむ――」
男は俯向いて物を考えている様子です。
「この子のために何とかして下さいな、わたしはどうなっても構いませんけれど、坊やだけは世に出したいと思いますわ」
「それはお前に言われるまでもない」
男は少しく癇癪に触ったらしく、
「よく日蔭者日蔭者とお前は口癖に言うが、日蔭者の拙者といるがいやになったか」
「どうしてまあ――」
女は怨めしそうに男の横顔を見つめて、
「こうして四年越し、晴々と明るい世間へ出たこともなし、御近所のお内儀さんたちが、やれ花見のお芝居のと誘って下すっても、ついぞ一日お仲間入りをしたこともないし、それというも、みんなお前さんへの心中立てではありませぬか、そんなことを言われるとホントにいやになってしまうわ」
「いやになったら花見にでも芝居にでも行け!」
男の言葉が荒くなったので、女も気色ばんで、
「あれ、お前さんお怒りなすったの」
男は机竜之助で、女はお浜で、子供というのは二人の中に去年生れた郁太郎で、この三人が住んでいるのは、芝新銭座の代官江川太郎左衛門の邸内のささやかな長屋です。
あれから四年後、二人の生活はこんなふうに変化して、いわゆる日蔭者のその日の暮しは、江川邸内の足軽らに竜之助が剣術の一手を教えるのと、邸内を守ることによって支えられているわけです。
「ほんとにつまらない」
お浜は郁太郎を抱きながら投げ出したような溜息です。
「何がつまらない」
「なんですか、しみじみ世の中が詰らなくなりましたわ」
「尼にでもなれ」
「ほんとに儘になるならば比丘尼か巡礼にでもなりたい……」
竜之助は苦り切って、その面には負けず根性の中に抑え難い鬱屈が漲っている、それを無理に抑えつけて、半ば不貞返った気味のお浜の言い分を黙って聞き流しているが、折にふれて夫婦の間には、こんな不愉快な空気がこの二三年来漂うて、今日はその雲行きがいつもよりは険しいのです。
「ねえ坊や、お前さえなければお母さんはどこへでも行けるのだよ、坊やのお父様という人はねえ、お母さんに尼になれだとさ、お父さまに愛想を尽かされても、坊やがあるためにお母さんは何とも口答えができないし、出て行くところもないのだよ」
お浜は郁太郎の面をじっと見つめながら、
「今日は五月の五日といって、男の子のお祝いの日なのよ、坊やも初子だからお父さんに祝っておもらい、幟を立てておもらい。お母さんは器量がないから人形一つ買って上げることはできないのだよ」
竜之助は横を向いて取合わないでいるのを、お浜は畳みかけて、
「お節句のお祝いができないから、仏様に線香でも上げましょうねえ坊や、四年前の今日死んだ文之丞という人にお線香を上げてやりましょう、坊やは悪い月星の下に生れたねえ」
こう言いながら、前に住んでいた人がこしらえておいた仏壇の方へ立って行こうとするのを、竜之助はこらえ兼ねた気色で、
「これ浜、少し待て」
「お線香を上げては悪いのですか」
「そこへ坐れ」
「はい」
「お前は了見の悪い女じゃ」
「はい、もとより悪い女でござんす、悪い女なればこそこうしてみじめな……」
「身を誤ったはお前ばかりではない、この机竜之助もお前のために身を誤った、所詮、悪縁と諦めがつかぬものか」
「悪縁……もう疾うの昔に悪縁とは諦めておりますが」
「さあ、悪縁と思えば辛抱の仕様もある、わしもお前からさんざんの嫌味を並べられ、人でないようにこき下ろされても、悪縁と思えばこそ何も言わぬ」
「悪縁なら悪縁のように少しは浮いた花やかな暮しもあろうものを、お前様と添うて四年越し、ついぞホッとした息をついたことがない」
お浜はつんと横を向いて、
「ああ、文之丞殿と添うていたら」
この一語は竜之助の堪忍の緒をふっと切ったようです。
「浜、そういうことが今更わしの前で言えるか」
竜之助の唇がピリリと顫えます。
「はい、どこでも申します、今となってわたしは文之丞が恋しい」
「ナニ!」
「あのまま添うていたら、この子にもこんな苦労をさせずに済もうものを」
お浜はハラハラと涙をこぼします。
「うむ――」
竜之助は憤りを腸まで送り返すために拳にまで力が入って、
「よう、あの頃のことを考えてみい、罪はわしにあるか、ただしお前にあるか」
「さあ、水車小屋で手込にした悪者は誰でしょう」
お浜は後れ毛をキリリと噛み切って、
「あれが悪縁のはじまり、あのことさえなくばわたしは宇津木文之丞が妻で、この子にもこんな苦労はさせず」
「ああ、女は魔物じゃ」
ここに至って竜之助は女の怖るべきことを初めて悟ったかの如く、深い歎息のほかには言句も継げなかった有様でしたが、ややあって独言のように、
「おれが方から言えば、あの試合に殺気を立てたのはみんな浜という女のなす業じゃ、文之丞が突いた捨身の太刀先には、たしかに恋の遺恨が見えていた、それを打ち返したこっちの刀にも悪女の一念が乗り移っていたに違いない、事の行きがかりはみな浜という女の一念から起る」
「ようもまあ、そんなことが」
お浜は飛びつくように詰め寄せて、
「お前様というものがなければ文之丞は無事、わたしも無事、宇津木の家にも机の家にも、何の騒ぎも起るまいに、それをみんなわたしのなす業とは、どうしてまあ、そんなことがお前様の口から……」
「いいや、お前という魔物のなす業に違いない」
「まあまあ、わたしが魔物!」
「宇津木文之丞を殺したも、机竜之助が男を廃らせたも、あれもこれもみな浜、お前の仕業に違いない」
「まあ、あれもこれもみなわたし?」
「それに違いない、お前の怖ろしさがいま知れた」
竜之助は騎虎の勢いで、言うだけ言ってのけるほかはなかったので、お浜は狂乱の体にまでのぼせ上り、
「おお、よくおっしゃった、わたしが悪魔なら、どこまでも悪魔になります」
郁太郎を投げ出して竜之助の脇差を取るより、
「坊や、お前も死んでおくれ、わたしも」
竜之助はその手を厳しく抑えた。郁太郎は火のつくように泣き叫びます。
「死ぬとも生きるとも勝手にせよ」
竜之助は脇差を奪い、刀を取って腰に差し、編笠を拾ってかぶるなり縁側からふいと表へ出てしまいました。
二十三
どこをどうして来たか机竜之助は、その日、夕陽の斜めなる頃、上野の山下から御徒町の方を歩いていました。
ふと、鼓膜に触れた物の音で、呆然と歩いていた竜之助はハタと歩みを留めたのでありました。
見上ぐればそこには卑しからぬ構えの道場がある。その中からは戞々と響き渡る竹刀の音、それと大地を突き透す気合の叫びが、おりおり洩れて来るのです。
ああ竹刀の音、気合の声、それを忘れてよいものか。竜之助は釘付けられたように立ちつくして、そうして道場の武者窓のあたりへと近寄りました。
その道場の表札も古く黒ずんで、道場の主が果して何者であるやもよくわからなかったけれども、好きな道で我を忘れて武者窓から編笠越しにのぞき込むと、主座に坐っているのは五十ぐらいの年配で、色の少し黒い、頬骨がやや高くて、口は結んで、脊梁骨がしゃんと聳え、腰はどっしりと落着いて、じっと眼をつぶって、さながら定に入ったように見える人物。左右に並んだ弟子たちが十余人、いま場の真中で行われつつある稽古ぶりを見ている熱心さ。
竜之助はこの緊張した道場内の空気、先生の態度、弟子の作法を見て、おのずから他の町道場と選を異にするものあるを知って、はてこの道場の主は何者であろう、どれほどの手腕がある人であろうと再び主座の方を見ると、その人物がちらりと自分の方、武者窓のあたりに眼をつけたと見えた時、竜之助はなんとなくまぶしい感じがしました。
いま道場の真中で行われつつある稽古か試合か、一方はすぐれて大兵な男、一方はまだ十五六の少年。大兵の男の朱胴はまだ新しく燃え立つばかりに見えるのが、竹刀は中段にとって、気合は柄に相応してなかなか凄まじいものです。相対した少年は質素な竹の胴に、これも同じく中段に構えているが、釣合いが妙ですから上段と下段くらいのうつりに見えます。
主人の位を見た竜之助は、この立合もまた興味を以て見はじめました。
「エーイ!」
大の男が鋭い気合と共に、
「足!」
足を覘うは柳剛流に限る。少年は真影流に見る人の形。
「他流試合か」
竜之助がこう呟いた時、少年はちょっと板の間を蹴るようにして左の足をはずして、飛び込んで、
「胴!」
主座の人はなんとも合図なし。両人は分れて、またも同じく中段の構えです。
竜之助はかの大兵の男よりは、この少年に眼をつけざるを得なかった、というのは、あとの「すくい胴」はとにかく、前の足をはずす巧妙さ、自分にも覚えがあるが、柳剛流の足は難物で、これをはずすは一流の達人でも難しとするところ、それをこの少年は平然としてその足をはずして直ちに腹へ行く余裕がある。
「これは出来る」
竜之助はひとり感歎しつつ一倍の興味に誘われていると――
大兵の男は上段に取って、ウナリを生ずるほどの竹刀に押しかぶせて少年の面上へ打ち下ろす、それを左へ払って面へ打ち返したがそれは不幸にして届かなかった。盛り返した大兵は呼吸をはかって突きを入れる、一歩進んでそれをはずした少年は、またしてもかいくぐって胴、これは届いたけれども浅かった。
とにもかくにも二本まで腹へ触られて大兵の男は苛って、面、籠手、腹のきらいなく盛んな気合で畳みかけ畳みかけ、透間もなく攻め立てる。竜之助は大兵の男の荒っぽい剣術ぶりを笑止がって見ているうちに、少年は右へ左へ前へ後ろへ、ほどよく綾なす手練と身の軽さ。そのうちになんと隙を見出したか、
「突き!」
細い、爽やかな少年の声は道場の板の間を矢の如く走ると見れば憐れむべし、大兵の男は板の間も砕くる響きを立ててそこに尻餅をついて、鳥羽絵にあるような恰好をして見せたので、並み居る連中は吹き出しそうなのを、主座の方に気兼ねをしてやっとの我慢です。
机竜之助は久しぶりで心地よい見物をしたと、その瞬間には今朝よりの不愉快なこともすっかり忘れ去って、少年の手並の鮮かなのに感心をすると共に、自分はいかに、我が手腕の程はいかにという自負心が勃然として頭を上げ来ったのです。
思えば四年以前、御岳山上で試合をしたことの以来、試合らしい試合をしたことがない、日蔭者の身で平侍や足軽どもを相手に腕を腐らせていたのみで、退くとも進むはずはあるまいが、さりとて世間並みの剣客や師範に劣ろうとは思わない、ここの先生はどれほどの人か知らん、とにかく今の少年と一手を争い、次にこの先生のお手の中を拝見するも一興であろうと、竜之助は矢も楯もたまらなくなりました。
二十四
改めて玄関から案内を乞うて道場内へと入りました。
主座の先生はちらと、入り来る竜之助の姿を見たばかり。竜之助は門人に導かれてその人の前に跪き、
「拙者事は江川太郎左衛門の配下にて吉田竜太郎と申す未熟者」
竜之助は我が名を表向き名乗る場合には、それ以来、吉田竜太郎の名を以てします。
「拙者は島田虎之助でござる」
この一語、さすがの机竜之助をして胴震いをさせるほどに驚かせました。
名にし負う島田虎之助とはこの人のことであったか、父の弾正が剣術の話といえば必ずこの人の名を呼ぶ、父の弾正は当時この人でなければ剣術はないように言う。
竜之助はその話を聞かされるごとに、一たびは冷笑し、一たびは小癪にさわり、折あらばその虎之助なる者と立合ってみたい、老いぼれた父の鑑識を我が新鋭の手練を以て打ち砕いてやるも面白かろうと、平生はこんなに思っていたが、今日までその人に会う機会もなかったのを、今日、計らずその道場に飛び込んで他流試合を申し入れるとは奇妙な因縁でもあり、この上もなき好機会でもある。一度は胴震いするほどに驚かされたが、好き敵御参という自負心は高鳴りをして、久しく鬱屈していた勇気が十倍の勢いで反抗してきました。
さりながら、法に従ってまず門人衆と立合わねばならぬ。
「当道場門人の末席を汚す片柳兵馬と申す未熟者」
三人は手もなく打ち込んで四人目がかの少年。今は仮に外戚の姓を名乗る宇津木兵馬でありました。あれから四年目、兵馬は十六歳。再び道具を着ける。竜之助のは道場から借受けた道具。
門人どもはこの新来の他流の客の流風に、心中畏るるところあって見ているうちに、場の真中に立ち出でた両人は、互いにしばし席を譲って、やがて相引き、机竜之助は西に向って構えたのが例の「音無し」です。
島田虎之助はこの時、両人の構えをちらと見て、机竜之助の音無しの構えの位に少しく奇異の感を起したと見えて、再び篤とその方を見ています。
宇津木兵馬は中段に取って気合を籠めているうちに、不思議なのは先方の呼吸で、サッパリ張合いがありません。
引いて構えたまま、気合もかけねば打っても突いても来ない、さりとて焦き立つ気色も見えないで、立合としてこんなのは初めて。先の心を測り兼ねますから、やむなく自分も仕掛けて行きません。二人は道場の中に、竹刀と竹刀、眼と眼を合せたきりで静かなものです。
もし島田虎之助という人が彼方此方の試合の場を踏む人であったなら、机竜之助の剣術ぶりも見たり或いはその評判を聞いたりして、疾くにさる者ありと感づいたであろうが、そういう人でなかったからこの場合、ただ奇妙な剣術ぶりじゃとながめているばかりです。
兵馬は無論、これが敵と覘う机竜之助であろうとは夢にも知るはずがない、ただ扱いにくい竹刀かなと内心にいささか焦れ気味です。そこで兵馬は思い切って一声、竹刀を返して竜之助が面をめがけて打ち込まんとする時、
「籠手!」
竹刀の動く瞬間に、竜之助の竹刀は兵馬の籠手を打ったのです。
「籠手、よろし」
島田虎之助は頷きました。
宇津木兵馬はつと飛び退って、また中段に構え直しました。
竹刀の先わずかに動いたのみで兵馬の籠手を取った竜之助は、更に飛び込んで来るかと思うとそうではなく、前の通りの音無しの構えでじっと動かず。
兵馬は小手調べを見事に失敗って、こっちから仕かけた軍に負けて一時ハッとしたが、この一手でおおよそ敵の手段のあるところがわかったらしく、退って中段に構えたなり動かず。
かの御岳山上で、兵馬の兄とこの人とが決死の立合をした時の瞬間がやはりこれです。兵馬はこんなジリジリした太刀先に立つのがいやになった、得意中の得意の一手、
「突き!」
兵馬の得意は諸手突きです。今も最後に他流の大兵を突き倒したあの一手。
と見れば竜之助の竹刀、突いた兵馬の竹刀を左に払って面! 兵馬の竹刀それよりも速きか遅きか突き! これは前のよりも一層深かった。尋常ならば相打ち。問題はいずれの刀がどれほど深いか浅いかであって、島田虎之助はそれを何とも言いません。
それからはいつまで経っても静かな音無し。ついに二人の立合は分けで終りました。
「島田先生に一太刀の御教導を願わしゅう存じまする」
竜之助は面、籠手をはずした後、虎之助の前に膝行り出でて言葉を卑うして申し入れると、島田虎之助は、
「いや吉田氏とやら、貴殿は妙な剣術をつかいなさる、どこで修行なされた」
「親共につきまして小野派の一刀流を少しく学びました、それよりは別に師と頼みたる者もなく……」
「ははあ」
島田虎之助は眼をつぶって夢を見ている体たらく。
「御高名の一手を御教授下し置かれたく……」
「…………」
島田先生、いっこう竜之助の懇願に取合いがなく、閉眼沈思の姿でありますから、
「未熟者ながら先生の一太刀を……」
繰返して願ってみても、何とも返事がなく、これもさっぱり張合いがありません。
二十五
宇津木兵馬が入門の初め、島田先生はこういうことを教えました。
剣術は自得である。筑後梁川の藩に大石進という者がある。性質愚に近いほどの鈍根で、試合に出ては必ず負ける。後輩年下の者にさえさんざんに打ち込まれる。そのたびごとに笑われ嘲られる。或る時、非常なる辱めに会ってから、さすがの鈍物も藩の道場に姿を見せなくなった。それより門を杜じて、天井より糸で毬をつるし、それを突くこと三年間、ついに天下無敵の突きの一手を発明してしまった。再び道場に現われた時は藩中はおろか、天下その突きの前に立ち得るものがない。(島田虎之助に、男谷下総守、それにこの大石進を加えて当時天下の三剣客という。)
島田先生からこの話を聞いた兵馬は、同じ方法と同じ熱心を以て突きの手を工夫し、今や同じような成功を見るに至ったわけです。
兵馬がそれとは知らずに机竜之助と竹刀を合せてから、ほぼ一カ月余りのことで、夏の日盛りを御徒町の道場から牛込のある友人のもとへ試合に行こうと、空模様が険呑であったのに、道具を肩にして出かけると、はたして御成街道から五軒町の裏を妻恋坂にのぼりかけた時分に、夕立の空からポツリポツリ。
どこか雨宿りをと坂を上りつめた時分には、一天墨の如く、ガラス玉のようなのが矢を射るように落ちて来ます。
「ここで暫しの雨やどり」
兵馬は、とある家の門側に彳み、空をながめて、雲の走り去り雨の降りおわるのを待っていると、やがて盆を覆す勢いで風雨が殺到して来ました。
「婆や、早く二階を締めて下さい」
この家の中で若い女の声。
「お松様、引窓の紐が切れてしまいました」
これは婆さんの声。
「それは困ったね、ではわたしが二階を締めるから」
こういって若い女は、あわてて二階へ走せ上って、かいがいしく雨戸を繰りはじめましたが、兵馬はなにげなく二階を見上げますと、いま戸を立てた女は、最後の一枚を残してそこから驟雨の空と往来とを見ていましたのと、ちょうど両方の間が斜めに向って、見上げても見下ろしても、ぜひ眼のぶっつかる地位でありました。
兵馬は少女を見上げて、何となくはっと心を打たれました。女も兵馬の姿から、しばらく眼を放しませんでしたが、そのうちに戸はピタリと立て切って、兵馬はそれなりまた雨の降る勢いを見て立ちつくしています。
わずかの小門の廂だけに身を寄せたのですから、好いあんばいに風は少し向うへ吹いて行く分のこと、袴の裾や衣服の袂には沫がしとしととかかります。と、くぐり戸ががらりとあいて、半身と傘の首だけを兵馬の前に突き出したのは以前の婆さんで、
「もし、あなた様、中へ入ってお休みなさいませ」
「はい、有難う存じまする」
「おっつけ晴れましょうから、どうぞ御遠慮なくお入りなさいませ」
「はい……」
兵馬は遠慮して、まだ入り兼ねていると、
「さあ濡れます濡れます、あなた様も濡れます、この婆も濡れますほどに」
こういわれて兵馬は、好意を有難く思ってこの家の中へ入りました。
「さあどうぞ、お上りあそばして」
兵馬が中へ一足入れると、障子のところに立っていたのはいま二階からちらと見合った少女、見れば髪も容も眼の醒めるような御守殿風に作っておりました。
雨はなかなか歇みそうもなく、風も少しずつ加わってくるようです。再三辞するもきかず一室に招ぜられた兵馬は、そこに坐って手持無沙汰に待っていながら、つらつらこの家の有様を見ると、別に男の気配も見えないし、茶道具とか花とか風流がかったもののみ並べてありますが、しばらくすると絹ずれの音がさやさやと、
「お客様、御退屈でござりましょう」
さきの女は、しとやかに入って来たので、
「いや別に――」
兵馬は取って附けたような返事。
「もう歇みそうなもの」
「ごゆっくりあそばしませ」
戸外では松の枝が折れたらしい。風雨の容易に止みそうもないのをもどかしがっている兵馬には、この女と差向いのように坐っていることが気が咎めるようでなりません。
ここはいかなる人の住居で、この少女は娘であろうか、それにしてもこの花やかな御守殿風は……とようやく不審にも思われてきましたが、深く推量すべき必要はないことで、雨が霽れてしまうと兵馬は厚く礼を述べて、この家を立ち出でました。
二十六
雨が上って兵馬を帰してから暫らくたって、
「お松や、さっきの若いお方はお前の知合いなのかい」
「いいえ、雨に降り込められて門前で困っておいでのようでしたから……」
「可愛ゆい若衆でしたね」
お松はこう言われて、何のわけもなく真赤になりました。
お松は大菩薩峠で七兵衛に助けられたお松。それを前に呼び寄せて話しているのは、七兵衛の手からお松を預かった切髪の年増でありました。
「それはそうと、明日はお邸へ上らなくてはなりませぬ」
「はい」
「お邸へ上りましたなら、かねて申してある通り、わたしに代って辛抱して、殿様のお気に入るようにして下さい」
「わたしのような慣れないものが、お気に入るようになられましょうやら、それが心配でございます」
「殿様はお酒をおあがりなさるとお気が荒いけれど、平生は親切なお方だから、御機嫌の取りにくいことはありませぬ」
「お手荒なことをなさることはございますまいか」
「まあそんなことがあっても、和らかにとりなすのが御奉公と申すもの」
「それでも、かよわいわたくし風情の力で殿様の御機嫌が直りませぬ時は……」
お松が心配そうに言うのを切髪の婦人は笑って打消し、
「なにも殿様が、きっと手荒いことをなさるときまったわけではなし、また朋輩もたくさんあることだから……朋輩といえばお松や、殿様や家来方の御機嫌よりも朋輩同士の仲が小面倒なのよ、よく気をつけないと嫉まれたり憎まれたり――」
「わたしはそれも心配でございます」
「お殿様にもお気に入り、朋輩衆にも嫉まれず、それが女の腕というもの。まあ初陣と思うて乗り込んでごらん」
「お師匠様の御恩報じのつもりで、きっと勤めまする覚悟」
お松の頼もしい言葉は、お師匠様と呼ばれた切髪の婦人の心を非常に満足せしめたようでありましたが、やや小声になって、
「それにねお松や、お前が女中衆のうちでいちばん年も若いしするから、何でもまず殿様を丸めてしまわなくては……ホホホ、丸めるというと恐れ多いけれど、やっぱり何とかして殿様をこっちのものにするのさ、ね、おわかりかえ」
「まあ、わたしにそんなことが――」
耳まで真赤にしてお松が俯向くのを、
「ホントにお前はまだ子供で困ります」
お松がここで行けと言われている家は、四谷の伝馬町の神尾という三千石の旗本であります。この切髪の婦人というのは先殿様の妾であったので、殿様が亡くなって殊勝らしく髪を切って、仮りに花の師匠となり、弟子というものもさっぱりないけれども、先代からの扶持やその他で裕福に暮らし、院号やなにかで通るよりも本名のお絹が当人の柄に合います。
神尾の邸の中では、旗本の放蕩息子らが日夜入りびたりで賭博に耽ると言い、十人も綺麗な女中がいて、それやこれやの聞きにくい噂があります。お松はこれから、恩義の枷でその中へ送られて行かねばならぬ。言いようのない辛さ。こんな時に兄弟でもあったらと思うにつけて、雨宿りした兵馬の面影、かりそめの縁ながら、目先にちらついて忘るることができません。
兵馬もまたこの家を出でてから、なんとなくかの少女が可憐に思われて、その後もしばしばこの家の前を通りかかったことはありましたけれど、その折の少女の姿は再びそこに現われることがありませんでした。
二十七
それから一カ月ばかり後のことで、もう秋の夜長のさびしさがうっすら身に沁みる頃、伝馬町の神尾の邸の湯殿に火を焚いている大男があります。それは水車番の与八でした。例の独言を聞いていると、与八がどうしてこの邸へ来たかがわかります。
「大先生がおなくなりなすって俺はつまらなくなったから、お江戸へでも出てみたらと当家様へ御奉公に上ったわけだが、やっぱり水車小屋にいた方が俺が性に合ってる、あれほど親類の衆も言って下すっただから水車番をしていればよかったに、俺モウいちど水車小屋へ帰るべえか……」
与八は今の境遇よりも水車小屋の昔が懐かしいと見えて、
「あのガタンピシンという杵の音や、ユックリユックリ廻る万力や、前の川をどんどと威勢よく流れる水の音なんぞが、なんぼう好い心持だか。お地蔵様も小屋の中へ押立て申して、あとの人によく信心のうするように頼んでおいたが、御岳様や貧乏山なんぞも紅くなりはじめたことだんべえ。俺が水車にいると、よく前の川へ鹿の野郎が水飲みに来たっけ。モ一ぺん水車小屋へ帰るべえか。帰ったところで大先生がいねえことにゃつまらねえな」
与八の独言はここで一段落になって、あとがしばらくひっそりと――ぷしぷしと火の燃える音のみが聞えます。
おりから、本邸の方でどっと人の笑う声、それも一人二人ではなく、男の声に金を切るような女の声が交って騒がしい。
「ああまた始まった、ここのお邸はまるで化物屋敷だ」
与八は苦り切っていると、引続いてキャッキャッとひっくり返るような女の笑い声。
「侍たちも侍たちだが女中たちも女中たちだ、女の子にお邸奉公なんぞさせるもんでねえ、ああしてみんな自堕落になっちまう……ついこの間も、若いお女中が入って来なすったが、いじらしいことだ、あんなしおらしい女の子もやがて滅茶滅茶に摺れからしちまうだんべえ」
この時またもひとしきり男女の噪ぎ返る声、ドーッと笑い崩れてまたひっそりとしてしまいました。
「どれ、水でもちっと汲んどくべえ」
与八は手桶をさげて井戸端へ出かけます。
主人の神尾主膳というのは三十越したばかりで、父が死んでの後はいい気になって、旗本の次男三男という始末の悪いやくざ者を集めて来ては、己が家を倶楽部にしてさんざんの振舞ですが、今宵も八人の道楽仲間を呼び集めて、これに七人の女中が総出で広間を昼のように明るくし、
「これより竹の子勝負」
と聞いて女中たちは面見合せ、
「まあいやな」
眉をしかめていぶかしげな笑い方をする。
「さあ円くなれ、おのおの方、組を合せ給え、読みは拙者がする」
侍どもと女中たちは夜会の席のような具合に一人ずつ席割をして円く組み合いましたが、女中どもはこんなことに慣れきっていると見えて恥かしがりもせず。
「ああつまらん、身共ばかりは独り者」
投げ出すように言い出したのは、芳村という若い侍。
「おおこれは、芳村氏が男やもめ、笑止」
すべての人が奇数であったために男やもめがひとり出来てしまったのを、主人は膝を打って、
「みどりが見えぬ、みどりを呼べ」
みどりとは、三日前にこの屋敷へ見習奉公に来たお松のことです。
「みどりさん、みどりさん」
高萩と花野と、もひとり月江という女中が都合三人で、お松のみどりの部屋へ駈け込んで来て、
「殿様のお召しでござりまする、直ぐにいらっしゃい」
「はい……」
「ただいま百人一首が始まったところ」
「あの、せっかくではございますが気分がすぐれませぬ故」
「気分がお悪いとや。些細な不快はあの面白い遊びで癒ってしまいまする、さあさあ早く」
「それでも、わたくしには歌が取れませぬ」
「なんのまあ、お前様ほどの物識りが」
「いいえ、まだ百人一首の取り方も存じませぬ、左様なお席へ出ましては、かえって失礼に存じまする故」
女中たちは左右から、みどりの手を取り抱き上げんばかりにして、
「殿様のお言いつけでござりまするぞ、そのような我儘は通りませぬ」
一人が言えば、
「ほんに、みどりさん、お前はいつもいつもこのような折は、不快じゃの不調法じゃの言いくるめて引込んでばかり。今日は許しませぬ」
花野は躍起になって、みどりの手を引張りながら、
「あれ、あのように殿様のお声が聞えまする、早うせぬとあとでどのようなお叱りに会うことやら」
みどりはどうにも已むを得ません、三人に引きずられるようにして広間へ来て見ると、形のような有様で。
「やあ、みどり見えたか、芳村殿の右へ坐れ、そちも勝負に加わるのじゃ」
主人はこう命令すると、女中どもはみどりを芳村の隣席へ押据える。
「みどり殿、遠慮してはいけない、さあ、この札をよく見て、それから自分の前へ斯様なあんばいに並べてお置きなされ、よいか、あれにて神尾殿が読み上げたなら、遠慮なく拾い取り候え」
芳村はそう言いながら札を取って、みどりの前に並べてくれます。
「わたくし、まだ札の取り方も一向に存じませぬ」
「いいや、むつかしいことはない、自分の前だけ守っておれば仔細はない、その代り、自分の前を人に拾われたら一大事じゃ」
みどりは百人一首の歌だけは覚えておりますけれど、こんなふうに札の取り合いをしたことがないので、ただもじもじしていると、
「よろしいか、はじめるぞよ」
主膳は咳払いして席を見廻し、
あらざらむ……
「しめた!」
芳村は手を伸べて、太田という隣席の札を一枚とんと指の先で刎ね上げました。一枚とられた太田は何のためか、締めていた帯を解いてポンと向うへ投げ出す。
みどりが呆れている間に、
夜をこめて……
眼も少々上ずっていた高萩が頓狂な声を出して、
「ありました」
身を躍り出して押えたのが、みどりの前の札でした。
「さあ、みどりさん」
みんなの眼がみどりの方に向く。左右の二人は、
「帯をお取りなさい」
みどりの帯へ手をかける。
「まあ、何をなさいます」
「そんなに驚くことはない、これは竹の子勝負というて、一枚とられたら一枚ぬぐというきまり、それで最初には帯から……」
みどりは驚いてしまって、その手を振り払おうとする間に、かえってこんなのを面白がる連中は、寄ってたかって無残にもみどりの帯を解いて、あちらに投げ出す。
みどりは身も世にあられぬあさましさを感じてポーッとしていると、
春の夜の……
「ありました」
花野は高萩の前にあったのを横の方にポンと飛ばし、
「みどりさんの仇を討ちました」
夕されば……
「しめた!」
最初にやられた太田が飛び出したのは、運悪くまたしてもみどりの前でした。
「やれお気の毒な、いざ一皮むき給え」
寄って来て、みどりの上着に手をかける。
「どうぞ御免あそばして」
必死にいやがるを、けっく一倍おもしろがる。
「みどり、そんなにむずかるものではない、ほんの座興じゃ」
上着を剥がるれば下は間着。
もろともに……
「ありました」
またしても意地の悪い高萩は、みどりの弱味をつけ込んで覘っていた図が当る。
「みどりさん、かさねがさねお気の毒」
間着を脱げば下は襦袢。
「どうぞ御免あそばして」
みどりは腕を組んで固くそこに突伏してしまいました。
「何という騒ぎだ」
水汲みに出た与八は、手桶を井戸側に置いて、奥庭の彼方に見える広間の障子に入り乱れた影法師を見ながら突立っていると、庭の石燈籠の蔭で、人らしいものの形が動く。
「はて誰だんべえ、あんなところに人のいるはずがねえ」
与八はつるべ縄へ掛けた手を休めて見ていると、その人の影は泉水の池のほとりから奥殿の廊下の方へと進んで行きます。泥棒だ、泥棒に違えねえ、
「泥棒!」
与八が大きな声で叫ぶと、その声は外なる怪しの男よりも、家の中の大一座を驚かして、障子を蹴開いて廊下へ走り出でます。
二十八
その翌日の朝、与八は竹箒で庭を掃いていますと、ほかの女中は昨夜の疲れで寝ているのに、みどりの部屋のみは障子があいて、もう起きているようです、それとも夜通し寝なかったものか。
それとは知らずに掃いて来た与八は、
「これは、みどり様、お早うございます」
箒の手を休めて、頬冠りをちょいと外してお辞儀をする。
「与八さん、たいそう早く御精が出ますね」
「エエ、どう致しまして。わしらあ別に早いこともありましねえが、お前様こそエラク早起きで」
「昨夜は御苦労でしたねえ。まあ少し、ここでお休み」
みどりは障子をあけて親切に与八を労わり、
「お茶を一つおあがり」
茶と菓子とを縁側のところへ持って出ます。
「こりゃどうも恐れ入ります」
与八は大悦びで、
「お前様はいつも、わしらにそんなに親切をして下さるから有難えと思います、ほんとに済みましねえ」
悦びながら相当に遠慮をしているのを、
「さあそこへお掛け。与八さん、わたしはお前さんにお礼を言わねばなりませぬ」
「なんの、お前様にお礼を言われるようなことをすべえ、行届かねえ田舎者ですから、面倒を見てやっておくんなさいまし」
与八は頬冠りを取って手拭を鷲づかみにして、しきりにお辞儀をしています。
「お茶がはいりました、遠慮をしないで」
「はい、どうも済みましねえでございます」
与八は、やっとのことで縁側へ腰をかけ、無器用な手つきをして、恐る恐る茶碗を取り上げておしいただきます。
「甘いものはお好きかえ、ここに羊羹があります」
「どうも済みましねえ、こんな結構なお菓子をいただいてどうも済みましねえ」
与八は片手に茶碗、片手に羊羹をいただいて、幾度もお礼を繰返す。
「与八さん、お前はずいぶん立派な体格ねえ」
「ええ、大くばかりあってこの世の穀つぶしみたようなものでございます」
「その身体では力もありましょうね」
「力ならたいがいの人に負けましねえ」
無邪気なる自負の色を浮ばせて、
「力ずくなら誰にも負けねえけれど、昨晩の泥棒みたようなすばしっこい奴には敵わねえ、幽霊みたようだ、そこにいたかと思うとスーッと消えてしまうだ、あんな泥棒はつかめえどころがねえでがすから力ずくにゃいかねえ、それでとうとう取逃がしてしまった」
与八、少々残念らしく見えます。
みどりのためには昨夜の泥棒は、虎口を救うてくれた恩人であります。この与八があの時、泥棒! と叫んでくれたればこそ、おかげで恥かしい目をのがれたものです。みどりはそれとは言わずに、話を別の方へ持って行って、
「あの、与八さん、お前のお国はどちら」
与八は羊羹を頬ばった口をゆがめて、
「俺が生れ土地はどこだか知らねえ」
「ホホ、生れ土地を知らないの」
「俺、棄児だからな、物心を知らねえうちに打棄られただから、どこで生れたか知らねえ」
「まあ、お前さんは棄児……」
「そうだあ、青梅街道というところへ打棄られて、人に拾われて育っただから、生れ土地は知りましねえ」
「かわいそうに。そうして、育てられたのは?」
「それはね、この玉川上水を二十里も上へのぼると沢井という所がありまさあ、その沢井の机弾正という先生に拾われて育ててもらったでがす」
「それでは多摩川の上の方。わたしも子供の時分、あのへんを通ったことがありました」
「そうかね、あの街道は甲州の大菩薩峠というのへ抜ける街道だ」
「大菩薩峠……」
「大菩薩峠というのは上り下りが六里からあるで、難渋な道だ」
「ああ、そうでござんす、あの大菩薩には猿がたんといて、峠の頂上には観音様のお堂がありましたなあ」
「お前様よく知ってござるが、あの峠を越したことがおありなさるのかえ」
「エエ、四五年前に」
「四五年前……それではやっぱり俺があの水車小屋にいた時分だ」
「与八さん、いつか一度あの大菩薩峠へ、わたしをつれて行って下さいな」
「あんな山奥へかい」
「わたしは、モ一ぺんあの峠へ行ってみたい」
「俺もお前様、ほんとうの話は、この頃こちらで奉公をしているけれども、やっぱり昔の山ん中がいいと思うからお邸を暇を貰い申して帰るべえかと思ってるところでがす」
「まあお前、奉公が飽きたの」
「ああ、厭になっちまった、俺がには水車番が性に合ってるだあ」
「そんなことは言わないで、いつまでも一緒に御奉公をしていておくれ、そして帰る時には、わたしを大菩薩峠まで連れて行って下さい」
みどりの眼には涙が宿ります。与八はしばらく考えていましたが、
「お前様にそう言われると、俺もなんだかお前様を残してこのお邸を出かけるのが気がかりになるだ」
与八は、みどりのために蔭になり日向になって力を添え、みどりは与八与八と唯一の頼みにして、二人は兄妹のように親しみを加えてゆきます。
幸いにしてその後、みどりの身の上には格別の危ないこともなく、ほかの侍女どもが主人の寵を専らにしておりますので、引込みがちで隠れた仕事をのみして日を送っておりました。
二十九
「新徴組」という壮士の団体は、徳川のために諸藩の注意人物を抑える機関でありました。まず江戸市中に入り込む志士或いは浮浪の徒を捕縛し、手剛いのは暗殺する、これが「新徴組」の役目であります。
神田柳原の金子という同志の家の一間で、凄い目つきをした十余人の新徴組が、朝から寄り集まってはささやき合い、一人出て行き、二人出て行き、また一人戻り二人戻り、何か打合せをしている。十一月の末で、今日はよほど寒い、天も朝からどんよりとしていたが、夕方からははたして粉のような雪が降りはじめました。
寛永寺の暮六ツが鳴ると、最後に出かけた一人が立帰って、
「隊長、首尾は上々じゃ」
「それは大儀」
隊長と呼ばれたのは水戸の人、芹沢鴨。
「杉山左京が邸を乗り出した駕籠が二挺、その後ろのがまさしく清川八郎」
「確と?」
「相違ない、拙者は武兵衛にあとを頼んでおいた、急ぎ用意あって然るべし」
「心得たり」
十余人が躍り立って用意の黒装束。
一方には大盃になみなみと酒を注いで、
「待て、後ろなるはめざす清川八郎、前なるは何者じゃ」
一隅から吼え出したのは、新徴組の副将で、鬼と言われた近藤勇。
「おお、それでござるが」
斥候から帰って来た武士は近藤の方へ向いて、
「それはたしかに高橋伊勢守」
「ナニ、高橋!」
一座が面を見合せる。
高橋伊勢守は後の泥舟翁、槍を取っては当時海内の随一人。
その頃、丸の内の杉山左京という旗本の邸に、月二三回ぐらいずつ毛色の変った人々が集まって、四方山の話をする会があった。集まる人は高橋伊勢守、山岡鉄太郎、石坂周造、安積五郎、清川八郎、金子与三郎、それに島田虎之助の面々で、幕臣もあれば勤王家もある、大した人数ではなかったけれど、この会合は新徴組からヒドクめざされていました。ことに清川八郎こそ奇怪なれ、彼はいったん新徴組の幹部となった身でありながら、蔭には勤王方に心を運ぶ二股者、まず清川を斬れとその計画がいま熟しつつあるので、昼のうちより杉山邸へ放った斥候が、いま上々首尾の報告を齎したわけです。
「高橋何者ぞ、彼ももろともに叩き斬れ」
隊長芹沢の気色ははげしい。
「伊勢守は幕府の重臣じゃ」
口を挿んだのは近藤勇とは同郷、武州多摩郡石田村の人土方歳三。
「幕臣でありながら浮浪者と往来する高橋伊勢め、幸いの折だ、清川もろともに叩き斬るがよい、それとも従五位の槍が怖いかな」
芹沢はこういって近藤、土方の面を意地悪く見廻すと、勃然としたのが近藤勇です。愛するところの抜けば必ず人を斬るという虎徹の一刀を引き寄せて、
「近藤勇が虎徹ここにあり、高橋伊勢、槍を取っての鬼神なりともなんの怖るるところ」
昂然たる意気を示して芹沢を睨め返す。
「待て待て」
土方歳三は徒らに気の立つ芹沢と近藤とを和めて、
「今夜めざすは清川一人、余人を突っついて無駄の骨折りするも面白からず、二人の駕籠が離るるまで待って、やすやすと清川の首を挙ぐるが労少なくして功が多い、いかがでござるな」
「うむ――」
芹沢も近藤も一座も僅かに頷いて土方を見る。
「これより見え隠れに二人が駕籠の跡を追い、高橋が乗物の離れたる折を見て清川を血祭りにする、もしその折を得ずば二人もろとも」
「よし、それも一策じゃ、しからばこの仕事の采配を土方氏、貴殿に願おうか」
芹沢にいわれて土方歳三は言下に引受け、
「承知致した、貴殿ならびに近藤氏はこれに待ち給え、仕留めて参る」
「総勢十三人、よいか」
「よし」
このとき近藤勇は、ふと一座の一隅を振返って、
「吉田、吉田氏」
少し酔うてさきほどから眠っていたらしい一人を呼びかけて、押しゆすると、むっくり起きてまばゆき眼を見開いたのは机竜之助でした。
机竜之助は近藤、土方らとは同国のよしみで、しばらく新徴組に姿を隠しております。呼び醒されて、
「眠り過ごした」
刀を取って一座の方へ進み寄ると、土方歳三が、
「吉田氏、いずれもかくの通り用意が整うた」
「ほう、拙者も仕度を致そう」
竜之助は、身ごしらえ、足ごしらえ、黒い頭巾を取って被ろうとしながら、
「相手は清川一人か」
「さいぜんも申す通り、別に苦手が一人」
「苦手とは?」
「槍の高橋伊勢守が同行」
「さらば二人もろとも殺るか」
「いや、めざすは清川一人なれども、罷り違えば高橋もろとも」
「うむ」
竜之助は土方の面と岡田の面とを等分に見比べながら、
「もし高橋を相手に取る時のその手筈は?」
「拙者はおのおのと直ちに清川に向い申さん、高橋邪魔立て致さば吉田氏、貴殿と岡田氏とにて」
「心得た」
土方は手勢をまとめて清川に向い、まんいち高橋その他の邪魔立てもあらば、机竜之助と岡田弥市とがこれに当るという手筈をここにきめました。
新徴組は野武士の集団である。野にあって腕のムズ痒さに堪えぬ者共を幕府が召し集めて、最も好むところの腕立てに任せる役目ですから、毒を以て毒を制すると謂つべきものです。
近藤勇は野猪のような男である。感情に走りやすく、意気に殉じやすい代りに、事がわかれば敵も味方もなくカラリと霽れる、その剣の荒いこと無類、術よりは気を以て勝つ。
土方歳三はこれに比べると陰忍の男である。落着いていたが荒れる時は近藤以上に荒れる。怨みはよく覚えていて、根に持っていつまでも忘れない。近藤は御し易し土方は御し難しと有司も怖れていた。隊長の芹沢は性質がことに僻けていた。後に京都で近藤勇に殺される。芹沢死して後の新徴組は、近藤勇を隊長として改めて「新撰組」となる。それは後の話。
雪はチラチラと降りつづき、夜は四ツ過ぎて、風がないからわりあいに寒くはないようなものの、時節柄ですから人通りなどはほとんどありません。
練塀小路あたりで按摩の笛、駿河台の方でびょうびょうと犬が吠える。物の音はそのくらいのもので、そこへ二挺の駕籠が前後して神田昌平橋にさしかかる。
前の駕籠側には一人の供が槍を担いでついている、後ろの提灯の紋は抱茗荷。
二つの駕籠が雪の昌平橋を無事に渡りきると、棒鼻の向きが少し変って、前のは講武所の方へ向き、同時に駕籠の中から何か声高に言うのが聞えると、それに応じて後ろなる駕籠の中からも、前のよりは少し低い調子で一言二言言い出すのが聞えます。
そこで二つの駕籠は別れて、前のは槍を持たせたまま、講武所から聖堂の方を指して行く。後ろなる抱茗荷のは、そのまま一直線に外神田から上野の方面をさして進んで行きます。
その時、昌平橋のこっちに海坊主の寄合のようにかたまって、その乗物にちっとも眼を離さなかった連中が、今や前後の乗物が別れたと見るとスーッと爪先立って橋を渡り、太刀の柄を握り締めた十余人は、いわずともかの土方歳三を大将とする新徴組の一団です。
かの槍を持たせて講武所から聖堂の方へ別れた乗物は、疑いもなく高橋伊勢守で、高橋の邸は牛込神楽坂で、邸内には名代の大楠があって俗に楠のお屋敷という、それへ帰るものに相違ないのです。案の如く高橋をイナすことができて、めざす清川八郎ただ一人。新徴組の壮士は刀の鯉口を切って駕籠をめがけて一時に飛びかかろうとするのを、土方は、
「叱!」
と制する。大将の許しがないので、腕は鳴り刀は鞘を走ろうとするのを抑えて、土方を先に十余人が乗物のあとをついて、五軒町、末広町と過ぎて広小路へかかろうとするが、土方はまだ斬れとも蒐れとも言いません。
こんなことを知ろうはずのない清川の乗物は、ずっと上野の山下へ入って行きます。
「町家を避けて山へ追い込み、そこで充分に仕遂げるつもりだな」
こう思って各々は同じく山下へ入り込んで行きましたが、究竟と思う木蔭山蔭をも無事に通り抜けさして、ついに鶯谷、新坂の下まで乗物を送って来てしまいました。
何のことだ、ここを過ぐれば山は尽きる。
三十
新坂から鶯谷へかかる所、後ろはものすごい上野の森、離れては根岸から浅草へわたり、寺院や武家屋敷の屋根が所まばらに見えるくらいのものです。
清川八郎を乗せた駕籠がいよいよ新坂下の原までかかった時に、雪は降ることが大分薄くなって、おりから月のあるべき夜でしたから空はいちじるしく明るく見えました。
「その駕籠、待て!」
今まで息を殺していた土方歳三が大喝一声、自ら颯と太刀を引き抜くと、蝗の如く十余人抜きつれて乗物を囲む。
駕籠舁はそれと見て立ちすくみ、
「誰だ、誰だいッ、ふ、ふざけたまねをするない」
振舞酒の余勢で巻舌をつかってみましたが、からきり物になりません。提灯を切り落されると地面に突伏して、
「御免、お助け、命」
「行け!」
ほしいままに駕籠舁風情の命を取ることを好まなかった。こけつ転びつ彼等が上野の山蔭に逃げて行くに任せて、さて十五人の刃は一つの乗物に向う。
駕籠の中はヒッソリして、ほとんど血の通う人の気はあるまじき様子です。眠っていたならば覚めねばならぬ、覚めていたならば起きねばならぬ。
「出ろ!」
呼ばわってみましたけれども、相も変らずヒッソリとしたものです。土方歳三は一人の黒と頷き合うと、スーッと左の方から進み寄って太刀を取り直す。
同時に、いま頷き合った黒の一人は、右の駕籠側に廻って太刀を振りかぶる。
残る十余人はやや退いて、透間もなく遠巻きにしていると、土方が取り直した太刀は矢の如く、巌も透れと貫いた――が、やっぱり手答えもなんにもない。
と見れば、太刀を振りかぶっていた黒の一人は、何に驚いてか、
「あっ!」
と叫んで柳の葉の落つるように太刀を振捨てて、身は屏風を倒すように雪の中にのめってしまいました。
土方をはじめ一団がこれはと驚くときは遅く、北の方にめぐらされた寺の垣根を後ろにとって、下緒は早くも襷に結ばれ、太刀の構えは平青眼。
「無礼をするな、拙者は御徒町の島田虎之助じゃ、果し合いならば時を告げて来れ、恨みがあらばその由を言え」
「しまった!」
思わず叫び出でたのは土方歳三です。
藪を突いて蛇ではなく、駕籠を突いて虎を出してしまった。
これより先、清川八郎は、丸の内の杉山邸を出づる時、取違えて島田の駕籠に乗って出てしまったので、島田は清川の駕籠で帰ることになったのです。
至極の達人には、おのずから神に通ずるところのものがある。この途中、島田虎之助はフト怪しい気配に打たれたので、もとより新徴組がかく精鋭を尽して来ようとは思わなかったが、心得ある乗り方で乗物の背後にヒタと背をつけて前を貫く刀に備え、待てと土方の声がかかった時分には、既に刀の下緒は襷に綾どられ、愛刀志津三郎の目釘は湿されていた。空を突かした刀の下から同時にサッと居合の一太刀で、外に振りかぶって待ち構えていた彼の黒の一人の足を切って飛んで出でたものです。
これを見て大将の土方歳三が、しまった! と叫んだのも、もとより当に然るべきところで、人違いの失策もあろうが、島田虎之助がそのころ一流の剣法であったことを知らないはずはない。
しかしながら新徴組に集まるほどの者で、名を聞いたばかりで聞怖じするような者は一人もなかったのです。またここまでやりかけて、人違いでしたかそうでしたかと引込むような人間は一人もなかったのです。彼等はみな一流一派に傑出した者共で、無事に苦しんでその腕の悪血が取りたさにこの団体に入ったくらいでしたから、人違いなどは大した問題ではなく、むしろ剣法において当代一の極め付の島田虎之助を突き出したことを勿怪の幸いと感じたくらいのものであります。
その中にも、岡田弥市と共に後詰の役を引受けた机竜之助は、またしても思いがけず島田虎之助と聞いて、親の敵に出会ったように肉がブリブリと動きます。彼はやや離れた物蔭に、島田の構えをじっと睨んで立っている。
なんにしても人違いは人違いに相違ない、先方の名乗りを受けて土方は何と言うか。
「殺れ!」
土方歳三は退引ならぬ決断で火蓋を切ったものです。
「エイ!」
銀山鉄壁を裂く響、山谷に答え心魂に徹して、なんとも形容のできないすさまじき気合ともろとも、夜の如く静かであった島田虎之助は、颶風の如く飛ぶよと見れば、ただ一太刀で、僅かに一歩を踏み出した新徴組の水島某は肩先より、雪を血に染めて魂は浄土へ飛ぶ。
島田虎之助は水島を切って落して、飛び抜けて彼方の立木を後ろに平青眼。
げに夜深くして猛虎の声に山月の高き島田の気合に、さしも新徴組の荒武者が五体ピリピリと麻痺します。
と見れば、大塚某は片手を打ち落されて折重なって雪に斃るる時、島田の身は再びもとの塀を後ろに平青眼、ほとんど瞬きをする間に剛の者二人を斬って捨てたのです。
島田虎之助は剣禅一致の妙諦に参じ得た人です。もと豊前中津の人。若い時は気が荒く、ややもすれば人を凌辱し軽佻と思われるくらいでしたが、剣の筋は天性で、二十歳の頃はすでに免許に達していたということであります。
藩を浪人して諸国を修行し、武術に限ることはなく、およそ一芸一道に秀でた者は洩れなく訪ねて練り上げたもので、流儀の根本は直心陰です。
その後、剣道の至り尽せぬところに禅機の存することを覚って、それから品川の或る禅宗寺へ参禅しはじめたのが三十歳前後のことであったと申します。それから五年の間、一日も欠かすことなく、気息を調え丹田を練り、ついに大事を畢了しました。
参禅以後は人間が一変したということで、以前の軽佻粗暴はその面影もなく、おのずから至人の妙境が現われて来たそうです。
剣を取る時は平青眼にじっとつけて、相手の眼をみつめながらジリリと進む、それに対するといかなる猛者も身の毛が竪ったそうであります。ジワリジワリと柔かな剣のうち測り知られぬ力が籠って、もしも当の相手が不遜な挙動をでも示そうものなら、その柔かな衣が一時に剥落して、鬼神も避け難き太刀先が現われて来るので、みている人すら屏息して手に汗を握るという。おそらくこの人は、その当代随一の剣であったにとどまらず、古今を通じての大名人の一人であったと信じておいてよかろうと思う。
飛び込んで斬って飛び抜ける、或いは飛び込んで斬られて斃れる、斯様な場合において刀の働きはこの二つよりほかはない。
「エイ!」
例の気合のかかる時は島田虎之助の身は囲みを破って敵の裏に出でた時で、その時はすでに新徴組の一人二人は斬られているのです。
敵も人形ではない、命知らずの荒武者にしかも一流の腕を充分に備えた血気盛りです。それが二太刀と合すことなくズンと斬り落される、あまりといえば果敢ないことです。
すでに五人を斬って捨てた島田虎之助は、またかの塀際に飛び戻って悠然たる平青眼の構え。
しかし感心なのは、さすがに新徴組で、眼の前にバタバタと同志が枕を並べて斃されても、一人として逃げ腰になって崩れの気勢を示すものがないことです。島田虎之助を虎にたとうれば、これはまさに肉を争う狼の群です。
ひとり机竜之助は、呆然と立ってこの有様を少し離れた物蔭から他事のように見ています。
島田虎之助と別れた高橋伊勢守は、神楽坂の屋敷へ帰って清川八郎と話しているところへ、この注進が伝わりました。
「はて不思議じゃ、今の世に島田を覘う命知らずありとも覚えぬに」
清川八郎がこの時ハタと膝を打って、
「さあその黒装束の一隊こそまさしく新徴組、これは片時も猶予なり難し」
「新徴組なりゃ島田を覘うはずがない、こりゃ人違いじゃな」
「乗物の取違えから、拙者を恨む新徴組の奴輩が、誤って島田先生を襲うたに相違ござらぬ」
清川は一刻もこうしてはおれぬ。
「人に斬られる島田ではないが……」
と言って高橋伊勢守も静かに立ち上る。
まもなく楠屋敷の門を、陣笠に馬乗羽織、馬に乗った伊勢守の側に清川八郎がついて、雪を蹴立てて走り出すと、従五位の槍の槍持がそれに後れじと飛んで行く。
三十一
高橋伊勢守と清川八郎とが馳せつけた時は、新坂下は戦場のような光景で、気合の声は肉を争う猛獣の吼ゆるが如く、谷から山に徹える、雪と泥とは縦横に踏みにじられた中に、右に左に折重なって斃れた人の身体が五つ六つは一目に数えられる、血の香いはぷんとして鶯谷に満つるの有様です。
塀を背後に平青眼に構えて、前には少なくともまだ十人の敵を控えた島田虎之助の姿を見るや、清川八郎が太刀を抜いて新徴組の中へ切り込もうとするのを、馬から下りて従五位の槍を槍持の手から受取った高橋伊勢が、
「人に斬られる島田でない、ここにて見物せられい、差出でては邪魔になる」
清川を制して、
「仙助、この提灯を持て」
提灯を上げると、そこらあたりが薄月の出たほど明るくなる。
「エイ!」
島田の気合。バタバタと雪に倒れるもの二人。
「エイヤ!」
新徴組の入り乱れた気合。一旦パッと離れてまた取囲んだ人の数を数えてみれば朧ろに六個はたしかです。
島田虎之助の斬り捨てたのがこの時すでに七人です。いかに達人なりとも七人の人を斬れば多少の疲れを隠すことはできまい、またいかに名刀なりとも、これほどの斬合いに傷まぬはずはあるまい。不思議なことには島田虎之助は、一人斬っても二人斬っても構えがちっとも崩れない、三人斬っても四人斬っても呼吸に少しの変りがないのです。もし明るい日で見たら、彼の面の色も余裕綽々として子供を相手にしているほどに見えたかも知れません。
しかしながら新徴組もやはり豪ことは豪い、これほどにならぬ前に逃げ出すのがあたりまえです。島田虎之助とても逃げる敵を追いもすまい。しかるに味方の過半数を斬られて一人も逃げず一歩も引かない、この分では最後の一人が斃れるまでこの斬合いは続くであろう。それというのが彼等はみな抜群の使い手で、我こそ島田を斬らん我こそ我こそという自負があったからです。
こちらから見ていると一際じっと静まり返って、しばらく天地が森閑として冴え渡ると、
「エイ!」
たがいの気合が沸き返る、人は繚乱として飛ぶ、火花は散る、刃は閃く、飛び違い走せ違って、また一際納まった時、寄手の人の影はもう三つばかりに減っています。
島田虎之助はと見れば、これは前と変らず平青眼。
地に斃された人の数はこの時すでに十一を数えられて、そして残るところの新徴組は都合四人。この四人はみな名うての者です。
机竜之助と共に高橋伊勢守に当る手筈であった岡田弥市というのは小野派一刀流で、そのころ有数の剣客です。いまひとり加藤主税というは溝口派で、有名な道場荒し、江戸中に響いていた達者で剛力です。いざや島田を斃すは我一人と、井上真改の太刀を振り翳して飛び込んで来たのを、島田虎之助の志津三郎は軽くあしらって発止と両刀の合うところ、ここに鍔競合の形となりました。
加藤主税は炎を吐くような呼吸と雷のような気合で、力に任せて鍔押しに押して来ると、島田虎之助はゆるゆると左へ廻る。とにもかくにも、今までの斬合いで島田と太刀を合せて鍔競合まで来たのは加藤ひとりです。それを見ていた岡田弥市は何と思ったか、太刀を振りかぶってちょうど島田虎之助の背後へ廻り、やッと拝み討。
見ていた高橋伊勢守がこの時はじめてひやりとしました。
島田虎之助は前後に剛敵を受けてしまったのです。前なる加藤主税がエイと一押し、鍔と鍔とが揉砕けるかと見えたるところ、
「エイ!」
組んだる太刀が島田の気合で外れたかと思えば電光一閃、
「うむん――」
井上真改の一刀は鍔元から折れて彼方に飛び、水もたまらず島田の一刀を肩先に受けて、凄まじき絶叫をあとに残して雪に斃れる。それと間髪を容れず後ろから廻った岡田弥市の拝み討。島田虎之助は、加藤主税を斬ったる刀をそのまま身を沈めて斜横に後ろへ引いて颯と払う。理窟も議論もない、人間を腹部から上下に分けた胴切りです。
一太刀を以て前後の敵を一時に斬る、これを鬼神の働きと言わずして何と言おう、高橋伊勢守がこの時はもうすっかり島田の手腕に敬服してしまって、ここは剣ではない禅であると、生涯歎称して已まなかったとのこと。
机竜之助は何をしている。心おくれたか、逃げ出したか。いやいや、まださいぜんのところに立っている。竜之助が出なければ、残るところは大将の土方歳三ただ一人です。
土方歳三もかねて島田の噂は聞いていたが、これほどの人とは思わなかった。しかしこうなっても、持って生れた気象は屈することなく、透かさず斬り込んで来た度胸には島田虎之助も感心しました。
「ははあ、あれが土方歳三じゃ」
高橋が清川を顧みて言う。
「いかにも土方、惜しいものじゃ」
清川八郎は土方歳三をよく知っている、日頃一廉の人物と見ているところから、ここで島田のために斬られることが、自業自得とは言いながら惜しいと思うのも人情です。
二人が土方の噂をしている途端、
「おう――」
絶望の叫びで土方は島田のために太刀を打ち落されてたじろぐところを、犬の子を転がすように引き倒され、起き上ろうとした時は、島田の膝は背の上にさながら盤石を置いたようです。
「汝は何者じゃ」
「…………」
「名乗れ!」
「斬れ!」
「汝が主謀と見ゆる、血気に任せて要らぬ腕立て、心なくもこの島田に殺生させた、ここに枕を並べた者共もみな一廉の剣術じゃ、むざむざ犬死させて何と言訳が立つ、愚者め」
「一生の不覚、一生の不覚」
土方歳三は血の涙をこぼして、
「幼少より剣を学んで……御身ほどの達人を見分ける眼がなかったは……それが残念!」
島田虎之助はこの時、抑えた膝を寛めて、
「剣は心なり、心正しからざれば剣も正しからず、剣を学ばん者は心を学べ」
こう言いながら土方歳三の襟髪を取って突き放すと、よろよろと彼方に飛んでと倒れます。
三十二
高橋と島田と清川とが談笑しつつ行く後ろ影を見送って、やはり呆然として立っているのが机竜之助でした。
竜之助は術も魂も打込んで見惚れてしまったのです。前にも後にもこのような鮮やかな手筋を見たことがない、見ようとて見られるわけのものでもない。最初にはなにを島田が! 次には、ああ思ったより冴えた腕! その次は凄い! 最後には神か人か!
だんだんに変化して行く心のうつり目が、かの前後の敵を一刀に斬り捨てたところに至って言句も思慮も及ばなくなりました。そうして最後に到着した結論は「我ついにこの人に及ばず」です。
この結論は竜之助にとって生命をむしり取られるほどに辛い、けれども、どの手を行ってもこのほかに打つ手はない。
この時ようよう起き上ったのが土方歳三で、彼は悲憤の涙で男泣きの体です。打ち落された刀を拾い取って同志十三人の死屍縦横たる中へ坐り直し、刀を取り直して腹に突き立てようとする。
愕然として醒めた机竜之助は、走り寄って土方の刀を押えます。