今日の演題に定めた「神道に現れた民族論理」と云ふ題は、不熟でもあり、亦、抽象的で、私の言はうとする内容を尽してゐないかも知れぬが、私としては、神道の根本に於て、如何なる特異な物の考へ方をしてるかを、検討して見たいと思ふのである。一体、神道の研究については、まだ、一貫した組織が立つてゐない。現に、私の考へ方なども、所謂国学院的で、一般学者の神道観とは、大分肌違ひの所があるが、おなじ国学院の人々の中でも、細部に亘つては、又各多少の相違があつて、突き詰めて行くと、一々違つた考へ方の上に、立つてゐる事になるのである。
しかし、概して言ふと、今日の神道研究の多くは、善い点ばかりを、断篇的に寄せ集めたものである。どうも、此ではいけない。我々現代人の生活が、古代生活に基調を置いてゐるのは、確かな事実であるが、其中での善い点ばかりを抽き出して来て、其だけが、古代の引き継ぎであるとするのは、大きな間違ひであつて、善悪両方面を共に観てこそ、初めて其処に、神道の真の特質が見られよう、と云ふものである。私は、日本人としての優れた生活は、善悪両者の渾融された状態の中から生れて来てゐるのである、と思ふ。
今日でも、沖縄へ行くと、奈良朝以前の上代日本人の生活が、殆ど如実に見られるが、其処には深い懐しさこそあれ、甚むさくるしい部分もあるのである。若し上代の生活が、こんな物だつたとすれば、若い見学旅行の学生などには、余り好ましくない気がして、日本人の古代生活は云々であつた、といふ事を大声で云ふのは気耻づかしく感ずるであらう、と思ふ程である。しかし、其が真の古代生活であるならば、そして又、今日の生活の由つて来る所を示すものとしたら、研究者としては、耻ぢる事なしに此を調べて、仔細に考へて見る必要があらう。
又近頃は、哲学畑から出た人が、真摯な態度で神道を研究してゐられる事であるが、中にはお木像にもだん服を著せた様な、神道論も見受けられるやうである。此なども甚困つたものである。要するに、現代の神道研究態度のすべてに通じて欠陥がある、と私は思ふ。
そこで私の意見は、国学院雑誌(昭和二年十一月号の巻頭言)にも述べて置いたが、現代の神道研究に於ては、古代生活の根本基調、此をきいのおとといふか、てえまと云ふか、とにかく、大本の気分を定めるものが把握されてゐないのが、第一の欠点であると思ふ。すべての人は、常に、自分が生活してゐる時代や環境から、其神道説を割り出してゐるが、個性の上に立ち、時代思想の上に立つての神道研究は、質として、余りに果敢ないものである。我々が、正しく神道を見ようとするには、今少し、確かなものを掴んで来なければならぬ。
敢へてこんな事を言ふのは、僣越であるかも知れぬが、とにかく私としては、日本民族の思考の法則が、どんな所から発生し、展開し、変化して、今日に及んだかに注目して、其方向から探りを入れて見たい。いゝ事ばかりを抽象して来て、論じたのでは、結局嘘に帰して了ふ。
神道の美点ばかりを継ぎ合せて、それが真の神道だ、と心得てゐる人たちは、仏教や儒教・道教の如きものは、皆神道の敵だとしてゐるが、段々調べて見ると、神道起原だと思ふ事が、案外にも仏教だつたり、儒教又は道教だつたりする事が、尠くない。こんな事になるのは、つまり日本人の民族的思考の法則が、ほんとうに訣つてゐないからである。日本人の民族文明の基調が、外国人のものに比べて、どれだけ、特異に定められてゐるかを見ずに、末梢的な事ばかりに注意を払つてゐるから、いけないのである。
私は此民族論理の展開して行つた跡を、仔細に辿つて見て、然る後始めて、真の神道研究が行はれるのであると考へる。卒直に云ふならば、神道は今や将に建て直しの時期に、直面してゐるのではあるまいか。すつかり今までのものを解体して、地盤から築き直してかゝらねば、最早、行き場がないのではあるまいか。今までの神道説が、単に、かりそめ葺きの小屋の、建てましに過ぎなかつたのではあるまいか。今までの私は、全体的に芸術中心・文学中心の歴史を調べて行かうと志して、進行してゐたのであるが、結局それが、神道史の研究にも合致する事になつた。今日の処では、まだ/\発生点の研究に止まつてゐるが、こゝでは、其一端に就て述べて見たいと思ふ。

第一にまづ、言ひたいのは、日本の神道家の用語である。祭式上の用語とか、内務省風の用語とかでなく、昔から使はれてゐる神道関係の言葉が、どの位古い所まで突き詰めて研究されてゐるか、此が一番の問題であると思ふ。勿論或点までは、随分先輩の人々も試みられてゐるに違ひないが、それ等は何れも皆、天井でつかへてゐる。譬へば、神道といふ語自身が、何処から来てゐるかすら、今までに十分、徹底して調べた人がない。
私は、神道といふ語が世間的に出来たのは、決して、神道の光栄を発揮する所以でないと思ふ。寧、仏家が一種の天部・提婆の道、即異端の道として、「法」に対して「道」と名づけたものらしいのである。さうした由緒を持つた語である様だ。
日本紀あたりに仏法・神道と対立してゐる場合も、やはり、さうである。大きな教へに対して、其一部に含めて見てよい、従来の国神即、護法善神の道としての考へである。
だから私は、神道なる語自身に、仏教神道・陰陽師神道・唱門師神道・修験神道・神事舞太夫・諸国鍵取り衆などの影の、こびりついてゐる事は固より、語原其自身からして、一種の厭ふべき姿の、宿命的につき纏うてゐるのを耻づるのである。だから、今日の神道の内容を盛る語ではない、と信ずるので、近来、尠くとも私だけは、神道といふ語を使はない事にしてゐる。私は此自説を証明する文献上の拠り処を、今までに可なり多く見たが、若し果して、神道の光栄を表する語である事が、学問的に証明せられるやうならば、いつでも、真に喜び勇んで、元に引き戻す覚悟である。しかし今日の処では、神道それ自身の生んだ、光明に充ちた語である、とは思ふ事が出来ない。
記・紀若しくは、祝詞などを見ると、中には、古語・神語などいふべき古い語が、随分ある。其等の言葉は、不思議にも、大抵此を現代語に書き改めることの出来る程に、研究は積まれてゐるが、私の経験では、真に其が不思議である。私の今まで最苦しんだのは、祝詞であつた。既に、今までに、半分位、二度までも、口訳文を書き直して見たが、其結果、祝詞の表現法を余程会得した。尠くとも、私自身としては、胸の奥・心の底から感得したと思うてゐる。
私は学校で、万葉の講義をしてゐるが、時々、なぜこんなに、すら/\と平気に、講義をすることが出来るか、と不思議に思ふ事がある。先達諸家の恩に感謝する事は勿論であるが、此処に疑ひがある。教へながら、釈きながら居る人の態度として、懐疑的であるといふのは、困つたものであるが、事実、日本の古い言葉・文章の意味といふものは、さう易々と釈けるものではなさゝうだ。時代により、又場所によつて、絶えず浮動し、漂流してゐるのである。然るに、昔から其言葉には、一定の伝統的な解釈がついてゐて、後世の人は其に無条件に従うてゐるのである。私は、これ程無意義な事はないと考へる。
其は私が、祝詞に於ける経験及び、古事記或は降つて、源氏物語を現代語に訳し直して、書き改めて見ての、厳粛な実感であるが、譬へば「天之御蔭・日之御蔭」といふ言葉でも、さうである。恐らく現今では、あの言葉が、常に同じ用語例を守つてゐるもの、と信じてゐる人は尠いであらうが、尚、少数の守株の敬虔家のあることも考へられる。其外の古い言葉でも、記・紀・祝詞・続紀・風土記の類を通じて、用ゐられてゐる同語にして、同じ用語例に入れては、解けないものが多く存在する。此は、今日の言葉に就ても、言はれる事であらうと思ふが、其が典型的な語義である、と予断されてゐる以外に、もつと違つた形のある事が、忘れられてゐはすまいか。若しそんな事実がないと思ふならば、其は余りに、前代の学者の解釈にたより過ぎて、当然せねばならぬ研究を、十分にしてゐない為ではあるまいか。此だけは、どなたの前に立つても、私の言ひ得ることあげである。
次田潤さんも、あの「祝詞新講」を公にされるまでには、随分苦しまれたであらうと思ふが、実際に古い言葉を現代語に引き直して見ると、つく/″\困難を感ずる。尤、一通りの解釈は誰にでもつくが、本当に深く考へ出すと、訣らない事が多い。思ふに此は、口伝への間に変化したもので、各時代、各個人の解釈で、類型的の意味に於ての語義の、次第に其形が改められて行つた結果であらう。
前に言うた「天之御蔭・日之御蔭」の語でも、家の屋根とも解せられるが、又万葉巻一の人麻呂の詠らしい「藤原宮御井歌」を見ると、天日の影をうつす水とも取れるし、其外尚色々の意味に解ける。かういふ処から考へると、何れも根本から分化して、各違つた用語例を持つ様になつたのであつて、其が大体、後世の合理解を経て――民間語原は固より、学者の研究も――即、最小公倍数式に、帰納して定められたのではあるまいか。万葉などを基礎にして考へると、どうも此語は、時代人によつて、訣らぬまゝに使はれてゐるらしい。或類型的な祭りとか、其他の類似の行事のときには、かういふ言葉を使はねばならぬものとして、只、無意味に使つてゐるのである。
私の解釈に依ると、この対句は、何れも、高所から垂下してゐる、飾り縄を意味するもので、かげとは、元来、蔓草である。だから其が、宮殿を褒める時の詞とか、新室ほかひの時の詞として、使はれてゐるのである。そこで、此が転じて来ると、宮殿其ものゝ意味ともなり、又更に転じては、ある解釈に於ける、穆々たる文王といつた、ほのぐらい処に奥深くいます、といふ意味にもなるのである。前にも述べた通り、万葉では此が、影うつす水の意味に転じてゐる。
かうなると、語意が浮動して来て、解釈がつかなくなつて来るが、段々研究を推し進めて行つて見ると、此歌は、宮殿の居まはりの山を讃め、水を讃める古い意味の風水――墓相でなく――をうたつた歌であるらしい。此は家を讃める事から来る当然の帰結であつて、家を讃める事は同時に、家主の生命を讃める事であり、又同時に、生命の本源として、魂として、家主の腹中に入る水を褒める事であるからである。高い新築家屋の屋根から、垂下してゐる飾り縄が、水の意味に成つたといふ事も、かういふ風に観て来れば、少しの不思議もないのである。
橘守部の痛快に解釈した「大王オホギミ御寿ミイノチは長くアマたらしたり」の歌なども「天之御蔭・日之御蔭」といふことが、類型的の表現になつてゐる為に、其間に、綱の事を云ふのを忘れて了うてゐるのである。そんな事をこくめいに云はずとも、漠然たる常套的の感じを誘ふ詞章で、天子の齢を祝福する事が出来るからである。其外に又、出雲国造神寿詞の「天乃美賀秘」――秘の字は、相変らず疑問――は、頭に冠るかつらの事であつて、此も畢竟、播磨風土記などに見えた、兜の類に言うたかげであるが、普通の天之御蔭・日之御蔭とは、大分用ゐ方が違つてゐる。
とにかく、かういふ風に祝詞を見ると、天之御蔭・日之御蔭といふ事は、色々な場合に使はれてゐるが、其意味は、常に一定してゐないのである。そして、其が殆ど、無理会のまゝに、使はれてゐるのである。
かういふ事を公言するのは、或は敬虔な先達に、礼を失することになるかも知れぬが、私は式の祝詞を、それ程古いものとは思つてゐない。其は言語史の上から立証出来る事である。もつとも文中の一部には、かなり古いものを含んだものもあるが、新しいものが最多くて、其上に、用語が不統一を極めてゐる。第一義とか、第二義・第三義といふ様な関係ではなく、口の上で固定した、不文の古典の中から、勝手に意味を抽き出して来て、面々の理会に任せて、使つてゐるのである。さすがに、古い神聖な信仰を伝へてゐる個処では、妄りに意味を替へる様な事をしないで、譬ひ意味が訣らずとも、固定のまゝ又は、曲りなりに使つてゐるが、それでも時代が重なると、替らざるを得ない事になる。
譬へば、神典の天孫降臨の章を見ても、記・紀を突き合せて見ると、凡三通りに分れてゐる。まづ古事記を見ると、「於天浮橋、宇岐士摩理、蘇理多多斯弖」とある。随分奇妙な文句であるが、日本紀の方には、これを「則自※(「木+患」、第3水準1-86-5)日二上天浮橋於浮渚在平処」となつてをり、更に一書にも、別様に伝へてゐるではないか。此等は何れも、それ/″\の、伝承の価値を重んじて書いたもので、後世の理会では、妄りに動かす事が出来ないから、記録当時まで、元の姿で置かれてゐたのである。
ところが、実用語となると、そんな訣にはいかない。新しい意味が加はると、段々其方に移つて行くから、何処までが、果して根本の語義に叶うてゐるのか、訣らなくなつて了ふ。今日伝はつてゐる解釈は、畢竟誰かゞ、いゝ加減な所で、合理的に解釈して出来たのではあるまいか、と思ふ。
とにかく、古い言葉を仔細に研究して見ると、今までの伝統の解釈は、殆ど唯、碁盤の上の捨て石の様な、見当定めの役の外、何にもなつてゐない事が多い。随つて、そんなものを深く信じ、基準にして、昔の文章を解く事は出来ないと思ふ。

日本人の物の考へ方が、永久性を持つ様になつたのは、勿論、文章が出来てからであるが、今日の処で、最古い文章だ、と思はれるのは、祝詞の型をつくつた、呪詞であつて、其が、日本人の思考の法則を、種々に展開させて来てゐるのである。私は此意味で、凡日本民族の古代生活を知らうと思ふ者は、文芸家でも、宗教家でも、又倫理学者・歴史家でも皆、呪詞の研究から出発せねばならぬ、と思ふ。
処が、其呪詞の後なる祝詞なるものさへ、前にも云つた如く、今日の頭脳では、甚難解なことが多い。鈴木重胤などは、ある点では、国学者中最大の人の感さへある人で、尊敬せずには居られぬ立派な学者であるが、それでも、惜しい事には、前人の意見を覆しきれないで、僅かに部分的の改造に止めた様であつた。そこで、訣らぬ事が沢山に出て来る。
まづ祝詞の中で、根本的に日本人の思想を左右してゐる事実は、みこともちの思想である。みこともちとは、お言葉を伝達するものゝ意味であるが、其お言葉とは、畢竟、初めて其宣を発した神のお言葉、即「神言」で、神言の伝達者、即みこともちなのである。祝詞を唱へる人自身の言葉其ものが、決してみことではないのである。みこともちは、後世に「宰」などの字を以て表されてゐるが、太夫をみこともちと訓む例もある。何れにしても、みことを持ち伝へる役の謂であるが、太夫の方は稍低級なみこともちである。此に対して、最高位のみこともちは、天皇陛下であらせられる。即、天皇陛下は、天神のみこともちでお出であそばすのである。だから、天皇陛下のお言葉をも、みことと称したのであるが、後世それが分裂して、天皇陛下の御代りとしてのみこともちが出来た。それが中臣氏である。
古語拾遺は、其成立の本旨から見ても知れる如く、斎部広成が、やつきとなつて、中臣・斎部の同格説を唱へてゐるが、私は元来、あの古語拾遺に余り重きを置いてゐない。古い事を研究するのには、あまり大切なものとは思へぬ。尠くとも、私の研究態度には、足手纏ひにこそなれ、あまり役立つて来てゐない事を告白する。私は、あの中には、確に、後世的の合理説が這入つてゐる、と思ふ部分が多いのであるが、そんな事は第二として、そもそも、中臣氏と斎部氏との社会的位置が同じであつた、といふ事からして、誤りである。斎部氏は最初から、決してみこともちではなかつたのである。謂はゞ、山祇のみこともちといふ事になりさうに思ふ。ことほぎの基礎になるいはひごとを、伝誦する部曲及び伴造であつたので、天子の代宣者とは言へないのである。古典研究者の資料鑑別眼が、幾ら進んでも、心理的観入の欠けた研究態度を以て、科学とする間は駄目だ、と思ふ。さういふ訣で、天子のみこともちは、中臣氏である。だが、此は、根本に於ての話である。
広い意味に於ては、外部に対して、みことを発表伝達する人は、皆みこともちである。諸国へ分遣されて、地方行政を預る帥・国司もみこともちなれば、其下役の人たちも亦、みこともちとして、優遇せられた。又、男のみこともちに対して、別に、女のみこともちもある。かういふ風に、最高至上のみこともちは、天皇陛下御自身であらせられるが、其が段々分裂すると、幾多の小さいみこともちが、順々下りに出来て来るのである。
みこともちに通有の、注意すべき特質は、如何なる小さなみこともちでも、最初に其みことを発したものと、尠くとも、同一の資格を有すると言ふ事である。其は、唱へ言自体の持つ威力であつて、唱へ言を宣り伝へてゐる瞬間だけは、其唱へ言を初めて言ひ出した神と、全く同じ神になつて了ふのである。だから、神言を伝へさせ給ふ天皇陛下が、神であらせられるのは勿論のこと、更に、其勅を奉じて伝達する中臣、その他の上達部――上達部は元来、神※カムダチ[#「广+寺」、U+5EA4、151-14]部であつて、神※[#「广+寺」、U+5EA4、151-14]に詰めてゐる団体人の意である――は、何れも皆、みこともちたる事によつて、天皇陛下どころか直ちに、神の威力を享けるのである。つまり、段々上りに、上級のものと同格になるのである。
此関係は、ずつと後世にまで、伝はり残つてゐる。譬へば、寺々に附属してゐる唱門師がさうである。あれは元来、声聞身と呼ぶ、低い寺奴の階級であるが、諸方を唱へ言して歩いた。後には、陰陽道に入つて、陰陽師となつたものも多い。処が、此等の唱門師は、面白い事に、大抵藤原氏を名告つてゐる。此は、唱へ言を唱へることによつて、藤原氏と同格になる事を意味するのである。――此は、中臣になれない事情があるからの事で、又禁ぜられてもゐたのらしい――我々は時々、交通の不便な山間の僻村に、源氏又は平家・藤原の落人の子孫と称する人々の、部落を作つてゐることを見聞きするが、中には、一村皆藤原氏からなつてゐる、所謂落人村がある。ちよつと聞いたのでは、理由が判らぬが、実は皆、唱門師の住みついた空閑の新地である。祓へ言を唱へたからの名である。又蛇を退散させる呪文などに、「藤原々々ふぢはらや」などいふ句のあるのも、やはり、此唱門師の、藤原から来てゐるのである。
さういふ風に、本来のみことを発した人と、此を唱へる者とが、一時的に同資格に置かれるといふ思想は、後になると、いつまでも、其資格が永続するといふ処まで発展して来た。天皇陛下が同時に、天つ神である、といふ観念は、其処から出発してゐるのであつて、其が惟神かむながらの根本の意味である。惟神とは「神それ自身」の意であつて、天皇陛下が唱へ言を遊ばされる為に、神格即惟神のアキ御神ミカミの御資格を得させられるのである。此惟神の観念は、中臣その他のみこともちの上にも移して、考へる事が出来るのであつて、随つて、もつぱら朝廷の神事を掌つた中臣が、優勢を占めるに至つたのは、固より当然の事である。

此中臣氏が、宮廷に於ける男性のみこともちであつたのに対して、別に又、宮廷の婦人にも、一種のみこともちらしいものがある。推察するところ、此等の婦人たちは、口でみことを伝へたであらうと思はれるが、其が後に、文書の形に書き取られる様になつたのが、所謂、内侍宣・女房宣であらう。後期王朝になると、かういふ婦人たちを、みこともちとしての資格を持つてゐるもの、と考へてはゐなかつたらしいが、江家次第の類を見ると、まだ中臣女・物部女などの記載があつて、殊に、中臣女が屡、目に著く。此記録の書かれた時分には、既に固定して、無意味となつて了うてゐるが、これは元来、天皇陛下の御禊に陪して、種々のお手助けをする女である。
そこで、考へに上るのは、古い時代の后妃には、水神の女子が多い事である。私は近頃、水神及び、水神の巫女なる「水の女」の事を考へてゐるが、不思議にも、天孫降臨の最初のお后このはなのさくや媛だけは、おほやまつみの娘であるけれど、其以後の后妃は、垂仁帝あたりまで、大抵、水神の娘である。さうして、さくや媛すら「水の女」の要素を十分に持つてゐられた事が窺へるのである。要するに、出雲系の神は皆「水の神」又は「水の女」で、試みに、すさのをおほくにぬしの系統を辿つて行くと、大抵水神であることを発見する。とにかく、代々の后妃に出雲系、随つて、水神系の多い事は、事実であつて、此で見ると、代々の妃嬪は古く皆、水神の娘の資格で、宮廷に上られ、更に、出雲系の女の形式を以て、仕へ始められたものといふ事が、出来さうなのである。
此に関聯して、一つ不思議なことがある。それは垂仁の巻に、后さほ媛が、兄と共に、稲城の中で焼け死なうとされた時に、天皇が使ひを遣して、「汝の堅めし美豆ミヅ小佩ヲヒモは誰かも解かむ」と問はしめ給ふと、さほ媛は美智能宇斯王ミチノウシノミコの女の兄毘売・弟毘売をお使ひになつたらよからう、と奉答されてゐる一事である。此は、従来の解釈では、后となるのだから、小佩を解くのである、といふ風に解せられてゐるが、其考へは逆であつて、小佩を解くから、后になるのである。小佩を解くのは、禊に随伴する必須の条件であつて、禊と小佩を結び堅める役目と、妃であるといふ事とは、何処までも循環的の関係である。而も、第一には、水中から現れて、天子の物忌みの小佩を解く役の人である。


みこともちの思想が変形すると、今度は「申」更に簡単になると「預」になる。「申」となると、みこともちよりは、少し意味が広くなつて、摂政の如きものも「政申すつかさ」である。此「申す」といふのは、やはり唱へ言をする事で、古くは、下から上への、奏上する形式である。謂はゞ「覆奏」が原義に近いのであつた。後に譬ひ、唱へ事は云はないとしても、やはり其処から、出立して来てゐるのである。
そこで「祭」といふ事と「政」との区別は、既に、先師三矢重松先生が殆ど完全な処まで解釈をつけられたが、幾らかまだ、言ひ残された所があると思ふ。此区別を知るには、天皇陛下の食国の政といふ事の、正しい意義を調べるのが、一番の為事であるが、今日では「食す」を「食ふ」の敬語であると見て、食国とは、天皇の召し上り物を出す国、と固定してしか解せられぬが、昔はもつと、自由であつたであらう。併し、食国の政に於ての、最大切な為事は何であるか、と云へば、其は、天つ神から授けられた呪詞を仰せられる事である。まつりの「まつ」といふ事に就ては、安藤正次さんの研究があるが、此にもまだ、其先がある。まつりの語源を「またす」に求めて、またすは「祭り出す」の略とするのもよいが、完全ではない。またすは、用事に遣ること、即「遣使」の意で、まつるは、命ぜられた事を行ふ意である。端的に云へば、唱へ言をする事である。神功皇后の御歌に、
この御酒ミキは、我が御酒ならず。くしの神 常世にいます、いはたゝす すくな御神ミカミの、豊ほき、ほきもとほし、神ほき ほきくるほし、まつりこし御酒ぞ(仲哀天皇紀)
とある其まつるは、正確に訳するならば、豊ほきしてまつり来し、神ほきてまつり来し御酒ミキの意で、これ/\の詞を唱へての意である。まつりの最古い言葉は、此であらう。其が段々変化して、遂には「仰せ事の通りに出来ました」と云つて、生産品を奉つて、所謂食国の祭事をするのが、奉る即まつる事になつたのである。すなはち覆奏で、まをすと転じたのだ。まつるが奉るであるといふ事は、既に旧師自身、其処まで解釈をつけてゐられる。つまり、天神の仰せ言を受けて、唱へ言をせられる其行事及び、其唱へ言をしての収獲を神に見せるまでが、所謂祭事であつて、其唱へ言の部分が祭りである、と見れば、食国の政といふ事が、よく訣るのである。即、言ひ換へれば、みこともちをして来た、其言葉を唱へるのがまつりで、其結果を述べる再度の儀式にも、拡張したものだ。其が中心になつてゐる行事が、祭り事なのである。やまとたけるの尊の東国へ赴かれた時の「まつりごと」の意味も、此で立派に訣ると思ふ。
ところが、後には、其祭事が段々政務化して来て、神に生産品を捧げる祭りと離れて、唱へ言を省く様になつた。併し、根本は殆ど変らないのであつて、こゝまで来ればみこともちの思想は、まだ/\展開して行つて、此が逆に、隠居権や下尅上の気質を生んだのだ。
次には、少し方向を変へて見たい。
みこともちをする人が、其言葉を唱へると、最初に其みことを発した神と同格になる、と云ふ事を前に云つたが、更に又、其詞を唱へると、時間に於て、最初其が唱へられた時とおなじ「時」となり、空間に於て、最初其が唱へられた処とおなじ「場処」となるのである。つまり、祝詞の神が祝詞を宣べたのは、特に或時・或場処の為に、宣べたものとみられてゐるが、其と別の時・別の場処にてすらも、一たび其祝詞を唱へれば、其処が又直ちに、祝詞の発せられた時及び場処と、おなじ時・処となるとするのである。私は、かういふ風に解釈せねば、神道の上の信仰や、民間伝承の古風は訣らぬと思ふ。
さすがに鈴木重胤翁は、早くから幾分此点に注意を払つてゐる。私が、神道学者の意義に於ける国学者の第一位に置きたいのは、此為である。大和といふ国名が、日本全体を意味する所まで、拡がつた事なども、此意味から、解釈がつきはすまいか。「大倭根子天皇」といふのは、万代不易の御名で、元朝の勅にも、即位式の詔にも、皆此言葉が使はれてゐたが、此は云ふ迄もなく、やまとの国の、最高の神人の意味である。山城根子・浪速根子・大田々根子等の根子と一つである。そして、其範囲の及ぶ所は、最初に大和一国内であつたのが、後には段々拡がつたので、大和朝廷の支配下であるから、日本全国が「やまと」と呼ばれたのではなく、大日本根子天皇としての祝詞の信仰の上から、来てゐるのである。だから、山城に都が遷つても、大和の祝詞を唱へたのであつて、其証拠は、京都近郊の御料地の神を祭る時の祝詞に、大和の六つの御県の、神名の出て来る事でも明らかである。
尚又、其に関聯して起るのは、地名が転移する事である。全国の地名には、平凡に近い程までに、同名が多くある。が尠くとも、其第一原因は、皆祝詞がさうさせたのである。藤原・飛鳥などは、その顕著な一例であらう。その外、葦原中国は、九州にもあり、その他、方々にあるが、此は葦原中国の祝詞を唱へれば、即そこが、葦原中国になるのであるから、少しも不思議はない。察する所、昔はもつと自由に、地名が移動したのであつて、譬へば、天孫降臨を伝へる叙事詩をうたへば、直ちに其処が、日向の地になつたであらうと思ふ。此は、昔の人の思考の法則から見て、極めて自然な事である。だから、時間なんかは勿論、いつでも超越してゐた。譬へば、神武天皇も、崇神天皇も、共に「肇国ハツクニしろす天皇」である。私は少年時代に、此事を合理的に考へて見て、どうも、命の革る国の俤を仄かに映し見てゐたのだが、此も肇国の唱へ言があつて、その祝詞を唱へられたお方は、皆肇国しろす天皇なのであつた。其が其中でも、特に印象の深いお方だけの、固有名詞のやうになつて残るに至つたのである。
又、続紀を見ると、「すめらが御代々々中今」といふ風な発想語が見えてゐる。此は、今が一番中心の時だと云ふ意味である。即、今の此時間が、一番のほんとうの時間だ、と思つてゐるのである。一方では「皇が御代々々」といふ長い時間を考へながら、しかも呪詞の力で、其長い時間の中でも、今が最ほんとうの時間になる、と信じたのである。
天が下といふ事でも、古くは天皇陛下の在らせられる処は、高天が原の真下に当る、といふ考へから出た語である。つまり、天と地と直通してゐる皇居だけが、天が下であつた。そして此も皆、祝詞の力が、さうさせるのであつた。
更に今一層、不思議な事は、「商返」の観念である。此は、万葉の歌の中に出て来る事で、普通には「あきかへし」と訓まれてゐるが、又「あきかはり」とも訓まれる。
商変アキカヘシ、しろすとのみのりあらばこそ、我が下ごろも、かへしタバらめ(万葉集巻十六)
といふのが其歌で、此意味は古来明瞭にわかつてゐる。此「商変」といふのは、貸借行為の解放であつて、一たび其詔勅が下れば、一切の債権・債務が帳消しとなるのである。そこで、其関係を男女の関係に当てはめて、軽い皮肉を云つたのが此歌である。こゝに「みのり」とあるのは、朝廷からの命令の事で、憲法を「みのり」と訓むのと、意味に於ておなじことであるが、畢竟此も祝詞であつたのが原形だと見てよい。
商変のみのりの思想は、察するところ、春の初めに、天皇陛下が高御座に上つて、初春の頌詞を宣らせられると、又、天地が新になるといふ思想から、出てゐるのであらう。後には此宮廷行事が、御即位の時だけしかなくなつたが、高御座は、天皇陛下が、天神とおなじ資格になられる場所である。一たび其処へお登りになれば、その宣らせ給ふお言葉は、直ちに、天神自身の言葉である。そして其お言葉が宣られることに依つて、すつかり、時間が元へ復るのである。商変のみのりの効力は、畢竟、此と同一観念に基くものである。民間に関した記録が尠い為に、後世、室町時代に現れた徳政の施行が、物珍らしい事の様に、一部では見られてゐるが、祝詞に対する信仰から云へば、此は当然の形であつて、我が国には古くからあつた事なのである。
かういふ風に、祝詞の力一つで、時間も元へ戻るし、又場所も、自由に移動する。即、時間も空間も、祝詞一つで、どうにでもなるのである。
我が国には古く、言霊コトダマの信仰があるが、従来の解釈の様に、断篇的の言葉に言霊が存在する、と見るのは後世的であつて、古くは、言霊を以て、呪詞の中に潜在する精霊である、と解したのである。併し、それとても、太古からあつた信仰ではない。それよりも前に、祝詞には、其言葉を最初に発した、神の力が宿つてゐて、其言葉を唱へる人は、直ちに其神に成る、といふ信仰のあつた為に、祝詞が神聖視されたのである。そして後世には、其事が忘れられて了うた為に、祝詞には言霊が潜在する、と思ふに至つたのである。だから、言霊と言ふ語の解釈も、比較的に、新しい時代の用語例に、あてはまるに過ぎないものだ、と云はねばならぬ。世間、学者の説く所は、先の先があるもので、かう言ふ信仰行事が、演劇・舞踊・声楽化して出来たのが、日本演芸である。だから日本の芸術には、極端に昔を残してゐる。徳川時代になつても、その改められた所は、ほんの局部に過ぎない。そして注意して見ると、到る所に、祝詞の信仰が澱み残つてゐる。
譬へば、此は、圧迫の烈しかつた為でもあるが、文芸作品の上に現れて来る其時代の出来事は、時代も場所も、現実のものとは変更されてゐる。浄瑠璃を見ても、戯作を見てもさうだ。大阪陣や関个原の役の敵身方は、何れも鎌倉方・京方になつてゐる。歌舞妓芝居は固より、洒落本類や粋書本などにも、其影響が見られる。即、其等の本では、江戸の事を鎌倉へ持つて行つてゐる。稲瀬川三囲の段だの、何がヤツなどいふ地名を、江戸の町名の替りにした様な例もあれば、又富个岡八幡を、鶴个岡めかしたやうな記載も見られる。
かういふ風に、時間や空間が、徳川文芸の上で無視せられてゐるのは、前にも述べた通り、確かに、幕府の圧迫に原因してゐる、といつてよいが、特にかういふ遁げ路を取つたのには、理由がなくてはならぬ。私は此を以て、祝詞の信仰が、日本人の頭脳に根深く這入つてゐる結果である、と見るのであつて、よし個々の作者には其処までの確かな意識がないとしても、全体として、其処に源を発してゐる事は、争はれないと思ふ。
次に又、みこともちの思想から演繹されるのは、をちの思想である。此は、言ひかへれば、不老不死といふ意味で、呪詞信仰と密接の関係がある。いつでも、元始ハジメに戻る唱へ言をするから、其度毎に、新しい人になつて、永久不滅の命を得るのである。武内宿禰が、三百余歳の寿を保つたといふのも、其である。而も此人は、本宜ホキ歌の由来を繋けられてゐる。長生するのも、尤である。其外、民間の伝承では、倭媛命・八百比丘尼・常陸坊海尊などが、何れも皆長生してゐる、とせられてゐる。此も唱へ言と、関聯してゐるのである。
此等の物語では、昔語りをする人は、同時に昔生きて居た人である、といふ事になつてゐるが、後には、其物語の主人公の側近くゐた人だ、といふ事に変つて来てゐる。譬へば、義経に対して常陸坊海尊、曾我兄弟に対して虎御前などは、此類である。併し、あの虎御前といふのは、実は物語中の人物ではなく、虎ごぜといふ人が曾我の事を語りあるいた事を意味するのである。虎ごぜの「ごぜ」は、瞽女のごぜと同じである。虎といふ名の盲御前である。其が白拍子風の歌を、鼓を打つて語つたのが、段々成長して、遂に、あの一篇の曾我物語を成したのである。三州長篠のおとら狐や、讃岐の屋島狸が、長篠合戦や、源平合戦の話をするのも、此類である。不思議にも、長篠には浄瑠璃姫の蹟が残つてゐる。有名な屋島狸も、やはり此亜流で、すべてかういふ風に、旧事を物語る人は、必不老不死である、と信ぜられてゐたのである。そして同時に、何処までも遠く遍歴し、謳ひゝろめて歩いてゐた事を示してゐる。
此事を証拠立てる近世の著しい例は、歌念仏を語りあるく念仏比丘尼で、此比丘尼の事は、浄瑠璃にも残つてゐる。殊に、懺悔物語をする比丘尼に於て著しい。若狭の八百比丘尼も、恐らく、其一種の古いものであらうと思ふ。それに、的確に中る例は、近松の「五十年忌歌念仏」である。あれを見ると、清十郎が殺されてから、清十郎の妹と許嫁の女とが、共に歌比丘尼として、廻国の旅に出ることになつてゐるが、此戯曲の根本を考へると、最初は、歌比丘尼の歌が、もとになつて出来たもので、其前には「五人女」のお夏があり、更に其前に、歌祭文の材料になつたお夏があつたのである。西沢一風といふ人が、姫路に行つて、老後のお夏に逢つて、幻滅を感じたといふ有名な話は、多分ほんとうであらうが、とにかく、念仏の上の主人物を謡ひてにうつした形である。お夏の事を語り歩いた、念仏比丘尼の一類があつたのは事実で、日本式の推理法に従ふと、其がお夏だといふ事になるのである。真のお夏ではなくとも、其懺悔を語るのは、お夏の資格に於てするのである。此が、昔から語り物を語る根本の資格で、お夏の話も、元は尠くとも、お夏といふ念仏比丘尼の、語りあるいた物語であつた事が訣る。それでなければ、お夏が比丘尼になつた訣がわからない。
ともかく、念仏比丘尼即、熊野比丘尼は、虎御前型である。恐らく、虎御前と云ふ名で総称せられるべき瞽巫女も、其出身は、熊野にあるのではあるまいか。伝ふる所に依ると、あの物語は、箱根権現の信仰から生れたのであるといふから、最初に熊野の信仰を、何人かゞ箱根に移して来て、其を伊豆山と関聯させて、こゝに東西に、二つの熊野が出来たものであらう。相摸の二所権現は、熊野から来てゐるもので、其処を根拠とする、一種の熊野比丘尼の一類が、曾我物語を生み出したのである。其等は皆虎ごぜと同じく、熊野系統と見られるものである。ところが、此熊野比丘尼は、注意して調べて見ると、何寿といふ名の者が多い。譬へば、清寿の如きは其である。此は、観音信仰から出てゐるのであらうと思はれるが、お夏清十郎の清十郎といふ名前も、当然或聯想を従へて来る。
かういふ風に、祝詞を宣る人とか、或は昔物語を語る人には、一種の不老不死性が、信仰的に認められてゐるのである。天子には人間的な死がなく、出雲国造にも同様、死がない。此は、当代の国造が死んでも、直ちにおなじ資格で、次の国造が替り立つからであつて、後世の理会の加はつて後にも、国造家では、当主が死んでも、喪に服せない慣習であつた。宮廷に喪があるのは、日のみ子たる資格を完全に、獲得する間の長期の御物忌みを、合理的に解釈したのであつた。支那の礼式に合せ過ぎたのである。
それから今一つ、みこともちの事に関聯して注意したいのは、わが国では、女神の主神となつてゐる神社の、かなり多い事である。此は多く巫女神で、ほんとうの神は、其蔭に隠れてゐるのである。此女神主体の神社は、今日でも尚多く残存してゐるが、最初は神に奉仕する高級巫女が、後には、神の資格を得て了うたのである。彼女等はその職掌上、殊に人間と隔離した生活をしてゐるから、ほんとうの神になつて了ふのである。宮廷では中天皇ナカツスメラミコト――又は中皇命――が、それに当らせられる。此は主として、皇后陛下の事を申したらしく、後には、それから中宮・中宮院などゝといふ称呼を生んで来てゐる。平安朝の中宮も、それであらう。中といふのは、中間の意味で、天子と神との間にゐる、尊い方だからである。我々は、普通に此を天皇陛下の方へ引き附けて、神とは離して考へてゐるが、天子が在らせられない場合には、その中天皇が女帝とおなじ意味に居させられる。神功皇后・持統天皇などは、其適例である。つまり、次代の天皇たる資格のお方が出直されるまで、仮りに帝座に即いて、待つてゐられるのである。現に清寧天皇などは、ほとんど待ちくたぶれておいでになつた様な有様である。
此事を日本人の古い考へ方で云ふと、此等の中天皇は、神の唱へ言を受け継がれる為に、ある時期だけ、神となられるのであるが、後には此に、別種の信仰即、魂の信仰が結びついて、唱へ言をすると、神の魂がついて来る、といふ観念が生れた。神前に供へた食物を喰べても、ついて来るものと信じてゐた。
昔、わが国では、たまふりといふ事が行はれたが、其原意はやはり、魂を固著させる事である。其が後には、鎮魂即、たましづめといふ様な思想に変化するが、其までの間に、魂がふゆ、魂をふやすなどの思想が、存在したのであつて、恩賚即、奈良朝前後の「みたまのふゆ」などゝいふ言葉も、其処から生れて来てゐるのである。
かういふ意味で、神に食物又は、類似の物を捧げるといふことは、相互の魂の交換を図る為である。出雲国造神賀詞なども、其氏の人が、服従を誓ふ為に、唱へ言をすると同時に、其魂が先方へ附くのであるが、其だけでは物足りないので、魂は其食物につく、といふ古い信仰に随つて、食物を捧げ、氏々の祝詞を唱へて、魂を呼ぶ事になつた。鏡餅・水・粢・醴・握り飯など、様々の供物を捧げる根原は、こゝにある。つまり両方面を兼ねて、魂を捧げる、といふ事になつたのである。
だから、唱へ言は、其唱へられる人々からは、寿詞即、齢に関する詞であると同時に、此を唱へる人から見れば、服従の誓詞である。即、守護の魂を捧げて仕へてゐる人の健康を増進せんとすること、其が服従の最上の手段である。後には、其服従を誓ふ詞の表現に、種々の特別な修辞法を用ゐる事になり、譬喩的な誓ひの文句を入れる事になつたが、古い誓ひでは、寿詞を唱へる事が即、誓ひであつて、同時に其が受者から見れば、寿詞であつたのである。
かういふわけで、我が国の古代に於ては、寿詞ヨゴトを唱へて、服従を誓ふ事は、即其魂を捧げる事であつたが、此魂と、神との区別は、夙くから混同せられて了うてゐる。にぎはやひの命は物部氏の祖神と考へられてゐるが、実は、大和を領有する人に附くべき霊魂である。此大きな霊が附かねば、大和は領有出来なかつたのである。だから、神武天皇も、此にぎはやひの命と提携されてから、始めてながすね彦をお滅し遊されたのであつた。石上の鎮魂法が重んじられたのも、此事実から出てゐる訣であつたのだ。かやうに、下の者から上の者に、守護の魂を捧げると、其に対して、交換的に、上の人から下の者に魂を与へられる。神に祈ると、神の魂が分割されて、その祈願者にくつゝいて働きを起す。後期王朝から見える、冬の衣配り行事は、其遺習であつて、つまり、魂を衣につけて分配するのである。

以上述べたやうに、日本人は一つの行為によつて、其に関聯した幾多の事実を同時に行ひ、考へる、といふ風がある。即、家のほかひをする事は、同時に主人の齢をことほぐ事であり、同時に又、土地の魂を鎮める所以でもある。かういふ関係から、日本の昔の文章には、一篇の文章の中に、同時に三つも四つもの意味が、兼ねて表現されてゐる。ちよつと見ると、ある一つの事を表現してゐる様でも、其論理をたぐつて行くと、譬喩的に幾つもの表現が、連続して表されてゐる事を発見する。しかも、作者としては、さうした多数の発想を同時に、且直接にしてゐるのであつて、其間に主属の関係を認めてゐない。此が抑、八心思兼神の現れる理由である。思兼神とは沢山の心を兼ねて、思ふ心を完全に表現する、祝詞を案出する神である。つまり、祝詞の神の純化したものである。かういふ風に、日本の古い文章では、表現は一つであつても、其表現の目的及び効力は複数的で、同時に全体的なのである。
処が、わが古典を基礎にした研究者なる、神道家の大部分又は、其西洋式の組織を借りこんで来た神道哲学者流には、其点が訣つてゐない。そして、其が訣らないから、古代人の内生活は、極めて安易に、常識的にしか、理解せられて来ないのである。見かけはすこぶる単純な様でも、其効力は、四方八方に及ぶのが、呪詞発想法の特色であつて、此意味に於て、私は祝詞ほど、暗示の豊かな文章はないと思ふ。
次に此「のりと」といふ語の語義は、昔から色々に解説せられてゐるが、のりととは、初春に当つて、天皇陛下が宣処ノリト即、高御座に登られて、予め祝福の詞を宣り給ふ、其場所のことである。つまり、のりと屋のりと座の意味である。天皇陛下が神の唱へ言をされて、大倭根子天皇の資格を得させ給ふ場所が、即「のりと」である。そして其場合に、天皇陛下の宣らせ給ふ仰せ詞が「のりとごと」である。最初には、予めの祝福、即「ことほぎ」であつたが、次第に其が分化して、後には讃美の意味にもなり、感謝の意味にも転じた。
酒楽サカホカヒなども、最初は、酒を醸す時の祝福の詞及び、其に伴ふ舞踊であつたのであるが、後には、其醸された酒を飲む事までも云ふ様になつた。そこで最初は、良い酒が出来るやうに、と祝福する詞が同時に、飲用者の健康を祝福する意味を兼ねる事にもなり、更に転じては又、旅から戻つた者の疲労を癒し、又病気の治癒を目的として、酒を飲むといふ事にもなつた。つまり此も、論理の堂々廻りである。かういふ風で祝詞には、祝福の意味と共に、感謝と讃美との意味が、常に伴うてゐるのである。
かくの如く、昔の日本人が、すべての事を聯想的に見た事は、又、譬喩的に物を見させる事でもあつた。「天の御柱をみたて」るといふ事などは、私は、現実に柱を建てたのではなく、あるものを柱と見立てゝ、祝福したのであると見たい。淡島を腹として国生みをする、といふ事も、昔から難解の句とせられてゐて、或学者は、此を「長男として」の義に解したが、誤りである。国を生むには、生むべき腹がなければならぬ。そこで、其腹を淡島に見立てられて、国を生ませられたのである。即、此も一種の「見立て」思想なのである。
この「見立て」の考へは、祝詞の考へ・新室のほかひの考へ・大殿ほかひの考へと、互ひに聯関してゐるものであつて、殊に其中心勢力になつてゐるものは、祝詞であるから、祝詞の研究を十分にしたならば、今まで解けなかつた、神道関係の不可解な事も、存外、明らかに釈けて来さうに思ふ。

底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日初版発行
初出:「神道学雑誌 第五号」
   1928(昭和3)年10月
※「講演筆記」の記載が底本題名下にあり。
※底本の題名の下に書かれている「講演筆記。昭和三年十月「神道学雑誌」第五号」はファイル末の「初出」欄、注記欄に移しました。
※底本では「訓点送り仮名」と注記されている文字は本文中に小書き右寄せになっています。
入力:高柳典子
校正:多羅尾伴内
2007年7月13日作成
2011年2月27日修正
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