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 露独ろどく連絡の国際列車は、ポーランドの原野を突っ切って、一路ベルリンを指して急ぎつつある。
 一九一一年の初夏のことで、ロシアの国境を後にあの辺へさしかかると、車窓の両側に広大な緑色の絨毯じゅうたんが展開される。風は草木の香を吹き込んでこころよい。一等の車室ワゴンリを借りきってモスコーからパリーへ急行しつつある若いロシア人ルオフ・メリコフは、その植物のにおいに鼻孔びこうくすぐられながら、窓の外に眼をやると、そこには、いままでの荒涼たる景色のかわりに、手入れのゆきとどいた耕地がある。白揚はくようの並木と赤かわらの農家がある。西欧の天地だ。メリコフは汽車の速力を享楽してうっとりしている。
 ポウゼン駅にちょっと停車して動き出すとまもなく、車室の外の廊下に男女の争う声がするので、メリコフはのぞいて見た。車掌が、ポウゼンから乗って来たらしい二十五、六の上品な服装の婦人を、なにか口汚くののしっている。その婦人もなかなか負けていない。なにか切符に手違いがあって、予約してあるはずの車室が取ってないというのだ。貴族階級の甘やかされている婦人に特有の口調で、女は猛烈に車掌に食ってかかっている。
「切符はいまポウゼンで買ったばかりですけれど、三時間も前に、二つ三つむこうの停車場に止まっていたこの列車に駅から電話をかけさせて車室を申し込んであるのよ。ほら、ちゃんとこう列車番号から車室の番号まで書いてあるじゃないの。」
「そんなこと言ったって、満員だから仕方がありませんよ。」
「仕方がありませんて、どうするつもり? あたしをここへ立たしとくつもり? ずいぶん馬鹿にしてるわ。」
「冗談じゃない。そんなところに立っていられちゃ邪魔じゃまでさ。つぎの駅で降りてもらおう。」
「なんですって?」
「なにがなんだ。つぎの駅で降りろと言うんだ。」
「なんて失礼なやつでしょう。名前をおっしゃい。申告してやるから。」
 というようなことから始まって、車掌は職権をかさに呶鳴どなりたてる。女はここぞとばかりヒステリカルに泣き出す。大変な騒ぎだから、メリコフも黙っていられない。車掌の言い草もかなり横暴なので、スラヴ族は多血質だ。むかっとして、頼まれもしないのに、女の助太刀すけだちに飛び出して行く。
「車掌君、君は婦人客にたいして物の言いかたを知らない。不親切きわまる。切符の手違いとわかったら、できないまでも、いちおう車室の融通ゆうずうを考えてみるのが至当じゃないか――まあま、貴女もそう泣くことはないでしょう。」
 女をかばって、車掌を白眼にらみつけている。
 ベルリン・ドロテイン街に住むドイツ政府直属の女国事探偵フォン・リンデン伯爵夫人は、四日前に外務当局から一通の命令を手交された。
 四日後の今日、露独連絡の国際列車によってロシア外務省からパリー駐在のロシア大使のもとへ重要秘密書類を運ぶ一人の外交郵便夫が通過する。この外交郵便夫というのは、郵送できない外交上の重要物件を身に付けてもっていく。まあ、早飛脚はやびきゃくみたいなもので、どこの国でも、必要におうじてやっている。暗号は頻繁ひんぱんに切り換えることになっているが、その新しい鍵語キイなどはとても書留やなんかでは送れないから、そこでこの外交郵便夫というのが選ばれて、身をもって逓送ていそうの任に当る。常備のわけではない。たいがい、書記生どころの若い外交官を出すことになっている。

 ところで、女密偵フォン・リンデン伯爵夫人が受け取ったドイツ外務省の通牒つうちょうである。ロシアの一外交郵便夫が、ニコライ・ロマノフの宮廷からパリーの大使館へてた密書を帯びてドイツを通過するとある。それにたいするスパイの役目は、不言不語のうちにわかっている。フォン・リンデン伯爵夫人は、ちゃんと心得ていた。
 その時、密偵部の首脳が、細かい区分けになっている書棚から一通抜き取って、黙って夫人に渡したという「文字の肖像画デスクリプション」を見ると、
 ルオフ・メリコフ――三十二歳、白系韃靼人はくけいだったんじん。ギリシャ正教徒せいきょうと。前近衛このえ中隊長。えいどくふつ西せいの各国語に通じ、少しくビルマ語をも解す。兄はビルマ在住の貿易商。メリコフは反どく主義者として知られる。また英米をも嫌悪す。性格は迷信的にして、自家の宗教、主義、主張などに関しては、絶大なる狂信者なり。感激性に富み、女色を好む。騎士的。勇敢。買収の見込みなし。ドイツ人の仕事だけに、微に入り[#「微に入り」は底本では「徴に入り」]細を穿うがって調べてある。その外交郵便夫の人物に関して、これだけ予備知識があれば、十分だ。ずんとみ込んだフォン・リンデン伯爵夫人は、すっかり「甘やかされた奥様の役」にふんして、途中のポウゼン駅から乗り込む。

 まあまあ、というようなことで、め男に割り込んで来たのが強そうな紳士だから、車掌は急に降参して、その場はそれですんでしまう。メリコフの扱いで、やっと車室の都合つごうがつく。フォン・リンデン伯爵夫人は、地獄で仏に――西洋のことだから神様だが――その神様に会ったように喜んでいる。よろこびのあまり、こんなことを言った。
「どうぞベルリンでお暇がございましたら、ちょっとでもお立ち寄りくださいまし。」紋章入りの華奢きゃしゃな名刺を渡して、「主人もゆっくりお目にかかって、お礼を申し上げることでございましょうから。」
 晩餐ばんさんの招待だ。しとやかな女である。ことにさかんに主人が主人がと言うから、良人おっとがあるならとメリコフは安心した。が、ぜひ訪問すると約束したわけではない。
 その列車には、フォン・リンデン伯爵夫人のほかに、もう一人のドイツ密偵部員が、先に乗り込んで、メリコフを見張ってきていた。不親切な車掌がそれだ。ちゃんと手筈てはずができていた。口論は八百長やおちょうだったのである。
 もちろんパリー直行の予定だ。ベルリンで乗換えがある。この、ベルリンで乗換えの汽車を待っている間に、メリコフは、いま一緒に降車して別れたばかりの若い伯爵夫人のことを思い出した。ぜひ訪問すると約束したわけではない。しかし、ベルリンには一泊して行ってもいいのだ。それに、先方には良人おっともいるし、身分のある人だから、訪ねて行ったところで、たいして間違いのあるはずはない。もうそんな魅惑みわくを、夫人はメリコフの上に残していっていた。美しい女だ。ああして停車場の雑沓ざっとうの中で別れの握手をして、それきりというのは、どうも面白くない。なんとか、いろんな理窟りくつで自己納得の後、ホテルにかばんをおろしたメリコフである。まもなく、この三十二歳の白系韃靼はっけいだったん人、ギリシャ正教徒せいきょうと、前近衛このえ中隊長、迷信家で狂信家で感激性に富み、騎士的で勇敢で買収の見込みのない人別書デスクリプションは、ドロテイン街の家の玄関に立って、にこにこ笑っていた。でかけてみると、おどろいたことには[#「おどろいたことには」は底本では「おどいたことには」]、美しいフォン・リンデン伯爵夫人が泣かんばかりの顔をしているのだ。ストュットガルト市の親戚に急病人ができて、良人おっと伯爵はたったいまその地へ急行したと言う。電報を見せて言うのだから、騎士マリコフはすっかりに受けた。主人の留守ちゅうであるが、そのまま帰るわけにもゆかないので、ゆっくりあがって遊んでいくことになった。やがて晩餐ばんさんが出る。卓上には、美味と佳酒かしゅと伯爵夫人の愛嬌あいきょうとがある。葡萄ぶどう酒と火酒ウォッカだ。大いに飲んだ。あのデスクリプションには一つたらないところがあった。この前近衛中隊長殿は猛烈な酒豪だ。「魚が水を飲むごとく酒をむ」という一項を挿入そうにゅうする必要があるとフォン・リンデン伯爵夫人は思った。なかなか酔わないのだ。しんしゃんとしていて、ときどき思い出したように、そっと片手をテーブルの下へって短衣チョッキの上から腹部のあたりを押してみたり、でてみたりしている。あそこに秘密の腹帯ベルトをしているのだな、と夫人はこっちからさり気なく白眼にらみをつけている。

 いっそう酔いつぶしにかかった。
 いっそう酔い潰しにかかったが、いっこうにきき目が現われない。仕方がない。こいつを床へ送るためにはもっと強い飲物が必要である。フォン・リンデン伯爵夫人と、給仕に出ていた執事しつじとの間に素早い眼配めくばせが交された。つぎに運ばれてきた火酒ウォッカびんからは、相手にだけすすめて、自分は飲むふりに止めておくように、夫人は、眼立たないように注意した。三十分もすると、ギリシャ正教徒の生けるしかばねができあがった。その、完全に感激してぐったりしてる狂信家を、そっと夫人の寝室へ運び上げた。別室に待っていた指のく専門家のスパイが呼び込まれてさっそくメリコフの身体検査に着手する。メリコフは、重要そうにふくらんだ折り鞄を持って来ていて食事の間も足もとに引き付けていたが、どうせ古新聞紙でも詰め込んだもので、そいつへ注意を外らそうという看板にきまっている。スパイたちはそんな物へは眼もくれなかった。伯爵夫人の指揮ですぐ腹部の釦鈕ボタンを開く。案のじょう、膚に直接厳丈がんじょう革帯ベルトを締めていた。ポケットがある。特製の錠がおりていたが、指仕事専門のスパイは、錠を壊さずにたくみに開けて、中から書類を取り出した。その書類を地下室へ持っていって写真をったのち、すぐメリコフのポケットへ返して錠をおろし、元どおり洋服の釦鈕ボタンを掛けておいた。メリコフはこんこんと眠っている。

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 このメリコフの腹帯ベルトから取り出されて写真に写された書類がなんであったか、一説には、センセイショナルな内容を有する露仏ろふつ秘密条約の成文だったとも伝えられているが、いまだに判然しない。しかし、このために、欧州大戦に際して、ロシアはドイツにたいして、軍略上ひじょうに不利な立場に置かれたといわれている。

 アイヒレルという密偵部員の一人が、その夜やはりドロテイン街の家に詰めていた。ほかの連中がベルトから出た書類を地下室へ持って行って撮影している間、アイヒレルは寝台の上に昏睡こんすい状態にあるメリコフを張番していた。メリコフの所持品はすべて着衣から取り出されてかたわらの小卓の上に並べてあった。アイヒレルは、指紋がつかないように手袋を穿めて、その一つ一つを検査していたが、そのうち、ふと眼に止まったのは、メリコフの万年筆だった。それは明らかに必要以上に太い物だった。不審を打って分解してみると、はたしてインキのタンクにあたるところから上等の日本製薄紙に細字で書いて小さく巻いた密書が出てきた。これもさっそく写真に撮って、すぐ万年筆の中へ返しておいた。その時はなんだかわからなかったのだが、これは、先の革帯かわおびから出た本文の暗号を読む鍵語キイで、これがなくては、その複雑きわまる暗号文はとうてい読みえないところだった。この功績で、アイヒレルの名はドイツのスパイの間に記憶されている。所持品をすっかり元の場所へ返して、夫人以外のスパイが室外に去ると、しばらくしてメリコフはわれに返った。見ると、自分は寝台に寝ていてフォン・リンデン伯爵夫人がにっこりしてかたわらに立っているから、びっくりして起きあがろうとすると、
「あら、お眼覚め? 食卓でお眠りになったものですから、こちらへおつれ申しました。ずいぶんぐっすりお寝みでございましたわ。」
 はっとしたメリコフが、急いでバス・ルウムへ行って、手早く持ち物をしらべてみると、腹巻のポケットにもちゃんと鍵がかかっているし、そっくり元の場所にある。なに一つ紛失してもいなければ、触れた形跡さえないので、ほっとして寝室へ帰ると、美しいフォン・リンデン伯爵夫人が、強烈なイットを発散させながら寝巻に着更きがえていた。
 しかしメリコフは内心十分の疑いを抱いたのだろう。証拠のないことだし、自分も暗い饗応きょうおうあずかっているので、素知らぬ顔をしてパリーへ着いたが、大使館へ出頭して外交郵便夫の役目を果すと同時に失踪しっそうしてしまった。その後大戦は始まる。ロシアはあんなことになる。一メリコフの行方ゆくえなどさがしもしなかったろうが、突然消えせた理由だけは、後日処刑された稀代きだいの女スパイ、フォン・リンデン伯爵夫人ことマタ・アリの告白によって判明したのだった。

 世界大戦を背景に活躍した、あの有名な踊子のスパイ Mata Hari は、大戦にともなう挿話中の白眉はくびである。
 この物語に伴奏をつとめるのは、殷々いんいんたる砲声だ。空を裂く爆撃機のうなりは、どのページにも聞こえるだろう。各国の無線は執拗しつようにマタ・アリの首を追って、燈火が燃えるように鳴り続ける。彼女の報告一つで、深夜海底を蹴って浮びあがる潜航艇もある。当時初めて現われた鋼鉄の怪物、超弩級ちょうどきゅうタンク「マアク九号」も、その圧倒的な体躯たいくと銃火のきばをもって、この全篇を押しまわるのだ。将軍、参謀、陸軍大臣等要路の大官をはじめ、一皇太子と二人の帝王まで、楚々そそたる美女マタ・アリの去来する衣摺きぬずれの音について、踊らせられている。
 Mata Hari ――彼女自身が好んで用いた「伝説」によると、悪魔的性向の東洋人だったとある。中部インドに生まれた先天的ヴァンプで、長らく秘密の殿堂に参籠さんろうして男性魅縛みばくの術を体得したのち、とつじょ風雲急なるヨーロッパに現われて、その蠱惑的こわくてき美貌と、不可思議な個性力と、煽情せんじょう的な体姿とを武器に、幾多国政の権位にく人々を籠絡ろうらくし、大戦にあたっては、雲霞うんかのごとき大軍をすら、彼女の策謀一つで、またたく間に墓場に追いっている――というと、このマタ・アリは、それ自身素晴らしい物語的存在のようだが、事実は、マタ・アリは完全に普通の女であった。誘惑的な身体と顔以外には、なんら特別の才能があったわけではない。もっとも、美しいだけで平凡な女だったからこそ、あれほど思いきった活躍ができたのだといえよう。
 マタ・アリは、欧州大戦の渦中にあって、策をけずり、あらゆる近代的智能を傾けて闘った、あのドイツスパイ団という厖大ぼうだいな秘密機構の一重要分子であった。ここにおいて、このマタ・アリの生涯を語ることは、今日の太陽のごとき生色せいしょくを帯び、現代そのもののような複雑性を暗示し、しかも、アラビアン・ナイトを思わせる絢爛けんらんたる回想であらねばならぬ。
 マタ・アリの自叙伝なるものがある。それによると、彼女は、富裕なオランダ人の銀行家と、有名なジャワ美人の母との間に、ジャワ、チェリボン市に生まれた。十四の時、インドに送られて神秘教祭殿に巫女みことなり、一生を純潔の処女として神前に踊る身となった。マタ・アリという名は、彼女の美貌を礼讃らいさんして、修験者しゅげんじゃたちがつけたもので、Mata Hari というのは、「朝の眼」という意味である。この「朝の眼」が十六歳のとき、スコットランド貴族で、インド駐在軍司令部のキャンベル・マクリイ卿が、祭壇に踊っている彼女を見染みそめてひそかに神殿から奪い去った。マクリイ卿夫妻は、インドで贅沢ぜいたくな生活を続けて、一男一女を挙げたが、土人の庭師が、マタ・アリへの横恋慕よこれんぼから彼女の長男を毒殺したので、マタ・アリが良人おっと拳銃ピストルで庭師を射殺した事件が持ちあがって、夫妻はインドにいられなくなり、倉皇そうこうとしてヨーロッパへ帰った。ヨーロッパへ帰ると同時に、マクリイ卿との結婚生活にも破綻はたんが来た。ひとり娘を尼院に預けて、マタ・アリは離婚を取り、当時、大戦という大暴風雨の前の不気味な静寂せいじゃくに似た、世紀末的な平和を享楽しつつあったヨーロッパに、自活の道を求めた。
 その時のことを、マタ・アリはこう書いている。
「最後にわたしは、インドの祭殿で踊り覚えた舞踊をもって欧州の舞台に立ち、神秘的な東洋のたましいを紹介すべく努めようと決心しました。」
 するとベルリン劇場にかかっている時のことである。政府の一高官に依頼されて、宴席の女主人とし、また舞踊家として、ちょうどそのときベルリンに滞在中だったロシア大使を歓待かんたいすることになった。その目的のために、善美をつくしたドロテイン街の家がマタ・アリに提供されて、彼女も、初めてフォン・リンデン伯爵夫人と名乗り、引き続きそのやしきに住むようになったのだった。
 こうして、マタ・アリはいつからともなく、一度内部をのぞいたが最後、死によってでなければ出ることを許されない、鉄扉てっぴのようなドイツ密偵機関に把握されている自分を発見したのである。
「フォン・リンデン伯爵夫人として、私は初めて、無意識のうちにドイツ帝国のためにスパイを働いているじぶんを知りました。そして私は、それが私に一番適した性質の仕事であることを思って興味をさえ感じ出したのです。」

 マタ・アリは、死刑の日を待つ獄中で、この告白体の自伝を書いたのだ。心理的にもそのペンからは事実を、そして厳正な事実だけしか期待できない場合である。にもかかわらず、べつに愛国の真情からでなく、ただ金銭ずくで、雇われて定業的スパイに従事するほどの性格だから、先天的嘘言きょげん家だったに相違ない。それが嘘言そのものを生活するスパイの経験によって、いっそう修練を積み、でたらめを言うことはマタ・アリの習性になっていたとみえる。この「伝説マタ・アリ」として、いまだに一部の人に信じられている彼女の死の自伝なるものが、全部創作だった。
 どこからどこまで、食わせ者だったのである。

 が、珍しい美人だったことは伝説ではない。これだけは現実だった。丸味を帯びて、繊細に波動する四肢、身長は六フィート近くもあって、西洋好色家の概念する暖海の人魚だった。インド人の混血児とみずから放送したくらいだ。家系に黒人の血でも混入しているのか、浅黒い琥珀色こはくいろの皮膚をしていて、それがまた、魅惑を助けて相手の好奇心をそそる。けだるい光りを放つ、鳶色とびいろの大きな眼。強い口唇に漂っている曖昧あいまいな微笑。性愛と残忍性の表情。

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 ようするに手先だった。マタ・アリの専門は、男の欲望を扱うことだけで、淫奔いんぽんで平凡な女でしかなかったが、この平凡なマタ・アリの背後に在るドイツのスパイ機能は、およそ平凡から遠いものであるこというまでもない。それがマタ・アリを大々的に利用したのだ。娼婦しょうふ型の美女が、微笑するスパイとして国境から国境を動きまわる。戦時である。歴史的な※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)そう話にまでなってしまった。
 トルコに教育制度の変革が起こって、その委員会が生まれると、第一着手として、百五十人のトルコの学生を外国に留学させることになった。人選もすんで、さてどこにろうという段になって、それが問題だ。衆議まちまち、なかなか決まらない。
 騒いでいると、英仏独のいわゆる三先進国が、めいめい自分の国へ来てもらいたいので、それぞれ有利な条件を持ち出し、自己宣伝をやって、まるで宿屋の客引きのように、ここに猛烈な留学生の争奪戦が開始される。
 トルコの学生なぞどこへ留学しようと、ヨーロッパの大勢にはいっこう関係ないようだが、それがそうでない。というのはいまでこそ書生だが、みな一粒りの秀才である。これが外国の大学に学んで、法政経済、工科学百般、各自専門を修めて帰国すると、トルコ革新の第一線に立って大臣参議、国政を調理してトルコを運転しようというのだから、いまその書生連がどこへ留学するかは、十年二十年後のトルコが、英色にられるか、仏色を帯びるか、独色をていするか、つまり将来の対トルコ関係がいま決定されるといっていい。トルコを中心に、近東方面への投資進出と商品販路の開拓を計画している三国だからぜひ俺の国へというので、自然激烈な競争になった。
 ところが、ドイツの旗色が悪くて、留学生はいずれも英仏へられそうである。こうなるとドイツの誇るいわゆる文化クルツウル威信いしんにもかかわる問題だ。政府はいつしか躍起やっきになっている。いろいろ探りを入れてみると、目下パリー滞在中のエジプト王族の一人に、エジプト総督そうとくとも親交のあるアバス・ヌリ殿下という方が大の英仏贔屓びいきで、しかもトルコの教育制度改革委員会の上に絶対的勢力を投げているので、そのために大勢が英仏に傾きつつあるものとしれた。
 すでに留学生たちは、イギリスとフランスと二国の大学へ振りあてられることになって、着々出発の準備を調ととのえている。一九一二年の三月だった。
 すると、パリーのスパイからいちはやくベルリンに報告が飛んだ。そのアバス・ヌリ殿下が、留学生問題の後始末のためパリーからコンスタンチノウプルへ急行の途、ベルリンを通って二、三日は滞泊するらしいというのだ。色仕掛けにかぎるとあって、ドロテイン街のマタ・アリへ命令一下。
 ここを日本のメロドラマでゆくと、委細いさいみ込んだ姐御あねごが、湯上りの身体を鏡台の前にえて諸肌もろはだ脱いで盛大な塗立工事にかかろうというところ。
 手ぐすね引いて構えている。

 政府総出の出迎え。エジプト国旗。軍楽隊、儀仗ぎじょう兵。大警戒。写真班――非公式の旅行なのに、ベルリン停車場へ着いてみると、大変な騒ぎだから、アバス・ヌリ殿下は、どうして知れたんだろうと不思議に思っている。が、どのみち、歓迎されて悪い気はしない。欧亜雑種ユウラシアンの女富豪かつ天才的舞踊家として、マタ・アリが殿下に紹介されたのは最初の晩餐ばんさん会の席上だった。
 あとはわけはない。計画どおりに進んで、マタ・アリの嬌魅きょうみが、殿下をドロテイン街の家へきよせる。応接間を通り越して、彼女の寝台ベッドへまでき寄せてしまった。
 アバス・ヌリ殿下は、よほどマタ・アリが気に入ったのだろう。朝になると、政府がねらっていたように、マタ・アリをコンスタンチノウプルへ同伴するといいだした。こうして、一夜ばかりでなく、マタ・アリを殿下に付けておいて、ドイツに好感を持たせるように仕向け、その間に、側面から運動しようというドイツのはらだった。で、マタ・アリも大いに喜んで、殿下のお供をしてトルコへとうとしていると、パリーのエジプト関係者から思いがけない電報が飛んで来て、このドイツの策略はすっかり画餅がへいに帰してしまった。アバス・ヌリ殿下が、予定を変更して、急拠きゅうきょパリーへ引っ返したのである。
 大戦当時のフランスの密偵局に、ドイツのスパイ団をむこうにまわして智慧競ちえくらべを演じ、さんざん悩ました辣腕らつわん家に「第二号」と称する覆面ふくめんの士のあったことはあまりに有名だ。それがだれであったかは、当時もいまもよくわかっていないが、アバス・ヌリ殿下の行動に危険を看取かんしゅしてにわかに呼び返したのは、この「第二号」だったと言われている。また殿下自身、じつはフランス密偵部の同志で、自発的にああしてドロテイン街の家を探検したのだという、穿うがったような説もある。あのロシアの外交郵便夫ルオフ・メリコフ事件をはじめ、このやしきで奇怪な出来事が連発してきたので、すくなくとも仏露両国のスパイは、とうからこのベルリン・ドロテイン街の大邸宅とその美しい女主人、伯爵のいない伯爵夫人フォン・リンデンとに眼をつけていたのだ。
 このことがあってからまもなく、ドロテイン街の家は急に閉鎖された。これからのマタ・アリは、縦横に国境を出入して諸国に放浪する、スパイらしいスパイである。
 ほんとに活動にはいる。

 ジャワなどとは嘘の皮で、一八七六年八月七日、オランダの Leenwarder 町に生まれた。家はささやかな書籍商。父は Adam Zell、母親の名は Autje van der Maclen といった。「朝の眼マタ・アリ」も夜の眼もない。本名は Marguerite Zelle。インド内地の神殿というが、じつは首府へイグ市近郊の宗教学校、尼さんになるつもりでここで教育を受けた。が、早くも少女時代に飛び出して結婚している。もちろん、相手は貴族でもなんでもない。いていえば、兵営の貴族だった。オランダに遊びに来ていた若い英国士官マクリイの軍服は、後年の「朝の眼マタ・アリ」には、十分貴族的に見えたかもしれない。一緒になるとすぐ、マクリイはインド駐屯ちゅうとん軍付きを命じられた。のちのマタ・アリことマルガリット・ツェルもくっついて行く。
 だから、インドへ行ったことは行ったのだ。が、南国に住むと、特質が強調されて、ひそんでいた個性が現われるといわれている。青年将校マクリイがそれだった。人が変わったように、飲む。買う。打つ。手に負えない。おまけに、給料だけではたらないから、マルガリットは、良人おっとの命令で、同僚の所へ金を借りにゆかなければならない。それも、どんなことでもいいから、先方の言うとおりにして、ともかく借りてこいと言うのだからひどい。植民地の若い軍人だ。独身者が多い。周囲は黒い女ばかりの所へ、マルガリットは白い中でも美人である。要求と媚態びたいに、みな争って金を借すようになった。まもなくマクリイ夫人は人妻なのか、連隊付きの売笑婦なのかわからなくなってしまう。そんな生活が続いた。マルガリットもだんだん慣れて平気になる。後年マタ・アリとしての活躍の素地は、このインド時代に築かれたものだ。自伝では、ここのところをちょっと浪漫ろうまん化して、神前に巫女みこを勤めたなどと言っている。
 この間に、舞踊をすこし習った。もちろん祭殿で踊ったわけではなく、ヨーロッパへ帰っても、寄席よせぐらいへ出て食えるようにしておくつもりだったのだろう。Mata Hari という名は、いうまでもなく自選自称だ。
 四年ののちヨーロッパへ帰ると同時に、離婚して、初めて踊り子マタ・アリとして巡業して歩く。舞踊そのものは、どうせ彼女一流のでたらめに近いものだったに相違ないが、裸体なので評判になった。ことに東洋人というふれこみだからいたるところで珍しがられて、またたく間にいい贔屓ひいきがつく。われ来り、われ見たり、われ勝てりで、本国のオランダでは、当の首相、ベルリンでは例のお洒落しゃれな皇太子を筆頭ひっとうに政府のお歴々、フランスでは陸軍大臣が、それぞれ彼女の愛を求めて、そして当分に得ている。その他知名無名の狼連にいたっては、彼女自身記憶できないほどだった。
 ドロテイン街の家に落ち着いたのはよほどのちのことだが、この家はマタ・アリの活動とともに、ドイツ人はいまだにだれも忘れていない。近所では、とてつもない金持の女が住んでいるのだとばかり思っていた。家具、室内装飾等、ぜいつくしたものであったことはもちろんだが、各室いたるところに、あらゆる角度に大鏡が置かれてあって、屈折を利用して思いがけない場所からのぞき見できるようになっていた。室内に一人でいても、この鏡の関係と、天井の通風口の格子こうしとに気がつけば、上下左右に無数の見えない視線を意識したはずだ。素晴らしい床ランプのコウドと見える絹巻きの電線は、じつに隣室の聴取機ディクタフォンにつうじていた。面白いのは、地下室の酒倉である。各国人の口にかなうための一大ストックを備えていた。あらゆる種類の産地と年代のワインは元より、火酒ウォッカ椰子酒アラック、コニャック、ウイスキイ、ジン、ラム、テキラ――それに、Saki まであった。このサキというのは、酒のことだ。ことによると、マタ・アリの手から、この「サキ」の饗応きょうおうを受けた日本の大官もあるかもしれない。

 英国の密偵であるという嫌疑の深いエリク・ヘンダスン少佐をものにして、ある秘密を聞き出すべき内命を受けたマタ・アリは、いまソフィア地方へ急行しつつある。

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 H21というのが、ドイツの間諜かんちょう細胞としての、マタ・アリの番号だった。彼女のとおり名だった。
 このマタ・アリも英国の密偵エリク・ヘンダスン少佐には、みごとに手を焼いている。ヘンダスンという男は、イギリスの特務機関にその人ありと知られた敏腕びんわん家で、あから顔の、始終にこにこしている、しかし時として十分ぴりりとしたことをやってのける、軍人というよりも、ジャアナリズムの触手の通信員タイプの人物だった。H21はこれへぶつかっていったのだが、もしマタ・アリが眼先のきく女だったら、この失敗で、ドイツのスパイとしての自分が案外知れわたっていることに気がついて、そうとう警戒の必要を感じたことだろうが、元来この踊り子のスパイは、スパイのためにスパイを働くような性格で、たぶんに、盲目めくらへびじずというところがあった。いっこう平気で、その後もさかんに活躍している。結局ドイツの密偵部にさんざん踊らされて、死へまでダンスする運命だったのだ。

 ソフィアで、ドイツ大使ゲルツに紹介されて、マタ・アリはヘンダスンに会う。目的は、イギリスとアフガニスタンの外交上の一つの秘密事項を聞きだすため。しかし、相手が、定評ある腕きなので、初めからたいした収穫は予期していなかったが、それだけにまた、マタ・アリとしては、腕の見せ場になろうというもの。ちょうど当時、ドイツとアフガニスタンとの間にも進行しつつある交渉に関して、ドイツ密偵部員が潜動しているあいだ、ほんのしばらく、ヘンダスンの注意をマタ・アリの身辺に集めて邪魔じゃましないように足止めしておくことができれば、まず成功だが、その上で、もし機会に恵まれたら、英対アフガニスタンの関係にも、ちょっと糸を引いてみるがいい、というのだ。腕にりをかけてかかる。
 紹介されると、深い茶色の眼を、その背の高いイギリス人の上に微笑ほほえませて、
「あら、ヘンダスン少佐でいらっしゃいますの? あたくし、古いお友達のような気がいたしますわ。どこかでお目にかかったことがございますわねえ少佐。」
 甘い抑揚よくようをつけて言った。嫣然えんぜん一笑、東洋でいう傾国けいこくの笑いというやつ。そいつをやりながら、触れなば折れんず風情ふぜい、招待的、挑発的な姿態を見せる。ところが、少佐の声は、きょうもなさそうに乾いたものだった。
「そうでしたか。どこでお会いしましたかしら。」
「いやですわ少佐。あたくし思い出しましてよ。あのほらインドのボンベイ。」
「いやそんなことはないでしょう――僕も思い出しました。」
「あら、どこ、どこ、どこでございますの?」
「ベルリン市ドロテイン街一八八番邸。」
「あらっ!」虚をかれたマタ・アリは、たちまち動揺を隠して、立てなおってきた。「そうかもしれませんわ。あたくし、あんまり方々へまいりますので、時々人様や場所のことで、とんでもない思い違いをして笑われますのよ。はあ、ヨーロッパ中を旅行いたしておりますの。東洋の心を舞踊で表現したいというのが、あたくしの芸術上の願望でございますわ。」
 大きなことを言う。エリク・ヘンダスンはくすっと笑って、「その東洋の心は」真正面から斬り込んできた。「ヨーロッパ第一の暴れ者に買われたんだそうですな。」
 完全にあだとなっているH21を残して、ヘンダスンはほかの人々へ笑顔を向けていく。マタ・アリは口唇をんで口惜くやしがったが、どうにもならない。そのとおり報告した。
 ダンサア・スパイ、踊る女密偵、などといろんな浪漫的ロマンティックな名で呼ばれているマタ・アリは、ダンサアには相違なかったが、もちろん芸術家ではなかった。裸体で勝手な恰好かっこうをするだけの、与太よたなものだった。
 彼女の出現は、かえってエリク・ヘンダスンに事態の逼迫ひっぱくしていることをしらせるに役立っただけだ。きゃつがここへ出て来たところをみると、同類が他地ほかでなにかっているに相違ないと白眼にらんだのだ。思いあたるところがあるから、エリク・ヘンダスンは、その夜のうちにアフガニスタンへ飛ぶ。
 このアフガニスタンでのヘンダスンの劇的活躍こそは、ドイツ特務機関をして切歯扼腕せっしやくわんさせたもので、この事件があってから、ヘンダスンの身辺はたびたび危険を伝えられた。それほど、ドイツ自慢の智能部が、ここではこの砂色の頭髪をした一英国人のためにあっさり鼻をかされている。
 ドイツ政府は、アフガニスタンの族王エミアに秘密条約を申し込んでいた。幾折衝せっしょうを重ねたあげく、ようやく仮条約締結の段までぎつける。外務首脳部のほかだれも知らない密約である。カイゼルの批准ひじゅんを得た草稿を帯びて、厳秘げんぴのうちに、独立特務機関の有数な一細胞が、ベルリンを出発する。
 外交の秘密文書を逓送ていそうする。いわゆる外交郵便夫として本格的な場合である。なるだけ眼立たないように、特務室などは取らない。わざと一般乗客にまぎれこんで乗車する。ドイツ文の原文にえて、族王エミアが読めるようにというのでアフガニスタン語の翻訳をたずさえて行く。問題はこの訳文だった。
 厳密に調べると、どうも誤訳が多いというのである。それも原文にあるよりも、アフガニスタンに有利にとれる間違い方だった。そんなこととは夢にも知らない族王エミアが、その曲筆きょくひつの訳文を見て、そうか、これならいいだろうというんでにこにこ署名をしようもんなら、ドイツはたちまちもうけ物だ。こっそり舌を出そうという寸法。人が悪いようだが、どうせ帝国主義下の国力伸長のからくりなぞ、みんなこんなようなもので、ドイツが格別不正なわけではない。ことに小国にたいする場合、どこの国も平気でかなりひどいことをしてきている。これを称して国際道徳という。
 で、莫迦莫迦ばかばかしいようだが、ドイツは、盲人めくらに、よいように手紙を読んでやる長屋の悪書生みたいなり方で、アフガニスタンを誤魔化ごまかしてなにかせしめようとした。それがなんであったか、ハッキリ判明していない。戦時における鉄道沿線警備に関する申し合わせ、そんなような問題だったらしい。
 原訳二通の条約草稿を茶色の革袋へ密封して、特別仕かけの錠をおろす。腕っこきの特務員が、大きな眼を開けて、片時も放さず袋を握っていくのだ。万善ばんぜんを期するため、たがいにらない密偵部員が二人、めいめい自分だけと思って、見え隠れについていく。郵便夫の男も、二人の顔を知らないのだから、スパイがスパイをけている形で、二重三重の固めだった。実際、この時分のドイツには、密偵密偵機関カウンタ・エスピイネイチ・グランチといって、もっとも鋭い、老練家のスパイが選ばれて、しじゅうスパイをスパイして警戒眼を放さない制度になっていた。スパイをやるくらいの奴だからいつ寝返りを打たないともかぎらないというので、皮肉な話だ。そこで、スパイをスパイするスパイだけではまだ不安だとあって、そのスパイをスパイするスパイ、つまり、初めからいうと、スパイをスパイするスパイをスパイするスパイを置いて、そのまた上に、スパイをスパイするスパイ――とにかくらない同士の三人旅である。途中なにごともなくアフガニスタンへ着いて、密書入りの革袋は、ただちにドイツ領事館内の金庫へ保管される。領事館で初めて顔の合った三人、スパイのはちあわせで、驚いた。
「やあ、君もか。」
「なんだ、君もそうだったのか。どうも眼つきのよくない奴がけて来ると思ったよ。」
「しかし吾輩は、君がそうとは気がつかなかったぞ。しょっちゅう[#「しょっちゅう」は底本では「しょっしゅう」]眠ってたじゃないか。」
「うん。心眼をあけてね。」
「どうだか。怪しいもんだぜ。すきだらけだった。」
「馬鹿言いたまえ。虚実の間をくのがスパイの要諦ようていなんだ。はっはっは。」
 なんかと、館員も加わって豪傑ぞろいのドイツ人のことだから、呵々かか大笑、がやがややっているところへ、ノックもなしにドアが開いて、のそりとはいって来た人物を見ると、長身、筋肉的、砂色の毛髪、手筈てはずによれば、ソフィアで、同志H21にうつつをぬかしているはずの英少佐エリク・ヘンダスンだから、一同おやっと呆気あっけに取られている。
 ひとりで舞台をさらったヘンダスンは、得意時の人間の商人的馬鹿ていねいさで卓子いすへ近づいて、いきなりポケットから二通の書類を取り出して叩きつけた。
「紳士諸君」ちょいとドラマティックに見得みえを切って、「この条約文の翻訳は不正確きわまるものですな。誤訳だらけですな。あんまりひどいんで、ちょっといま、族王エミア様にお眼どおり願って御注意申し上げておきました。族王エミアさまはたいそう怒っていらっしゃる。どうもドイツ人はしからん。もうすこしアフガニスタン語を勉強したらいいじゃないか――。」
 いまそこの金庫へ入れた革袋の中にあるとばかり思っていた「厳秘げんぴ」の二書を、エリク・ヘンダスンが持って来て、眼の前へ突きつけたのだ。この、西洋仕立屋銀次みたいな腕前に、敵ながらあっぱれと一同は舌をく。ヘンダスンはすっかり男をあげた。
 ところで、H21はなにをしている?

        5

 ベルリン市ケニゲルグラッツェルシュトラッセ七〇番。
 ドイツ国事探偵本部。
 H21はここへよび出されている。

 風雲急。近づきつつある大戦の血臭をはらんで、ヨーロッパの天地はなんとなく暗い。かすかにかすかに、どこかで戦争の警鈴が鳴り響いている。空気は凝結して、じっと爆発の機会を待っているのだ。もう口火を切るばかりである。そんなような状態だった。
 ドイツ外交参謀の機密に参与するごく少数の者は、いつ、どこで、いかにして、その第一石が投じられるか、あらかじめ知っていた。が、もちろん、あれほどの大波紋をまきおこそうとは、カイゼル自身も思わなかったろう。予定の日は来た。一九一四年八月の運命の日。大戦だ。
 召集令。軍隊輸送。停車場の接吻。銀行家も大工も大学教授も肉屋も新聞記者も、パウルもチャアデンもカチンスキイも、みんなカアキ色と鉄製のヘルメットだ。やがて、進軍、塹壕ざんごう白兵はくへい戦、手擲弾しゅてきだん。砲声が聞えてくる。爆撃機のうなりが空をおおう。

 ベルリン・ケニゲルグラッツェル街のスパイ本部で、マタ・アリは命令を受け取っていた。ただちにパリーへ走り、全力をつくし、あらゆる手段を講じて、フランス内閣の某閣僚――それがだれであるかはあとでわかる――の信任をよというのだ。その人物性行に関する細大の報告、もっとも自然に接近しうる方法等、すべて同時に提供された。某閣僚ばかりではない。各方面の要路にたつ人間を、できるだけ多勢彼女の魅網みもうに包みこまなければならない。ことに陸海軍、民間運漕うんそう関係の有力者を逃がすな。H21は、そのてるすべてを彼らに与えて、彼らから聴き出した知識を逐一ちくいちもっとも敏速に通牒つうちょうせよ――そして、一つの注意が付加された。
「忘れてならない例外がある。その某閣僚にたいしてだけは、いかなる場合、いかなる形においても、H21の方から能動的に、なにか探り出そうとするような言動を示してはならぬ。これだけは厳守すること。」
 というのだ。命令はわかったが、この最後の理由がに落ちない。一番の大物に探りを入れて悪いなら、それでは、いったいなんのために生命をして近づくのか、その動機がみ込めなかった。が、すでに数年密偵部にいるのだから、下手へたに反問することの危険を熟知している。すべて命令は鵜呑うのみにすべきで、勝手に咀嚼そしゃくしたり吐き出したりすべきものではない。マタ・アリは、黙ってうなずいた。
 オランダの市民権をもっている。難なく国境を通過してパリーへはいった。初めて来るパリーではない。以前この裸体のダンサアをパトロナイズした政界、実業界の大立物おおだてものがうんといる。みんな他人に戦争させてのらくらしているブルジョア連中である。またあのマタ・アリが来るというんで爪立つまだちして待ちかまえていた。ニュウリイに素晴らしいアパアトメントがとってある。戦時でも、パリーの灯は華やかだ。すぐに女王マタ・アリを中心に、色彩的な「饒舌じょうぜつ淫欲いんよく流行ファッション宮廷コウト」ができあがって、われこそ一番のお気に入りだと競争を始める。この美貌の好色一代女があにはからんや、H21などという非詩的プロザイクな番号をもっていようとは、お釈迦しゃか様でもごぞんじなかった。この宮廷の第一人者は、とっくに最大の獲物として狙ってきた仏内閣の閣僚某、メエトルをあげてマタ・アリのパトロンになった。が、外部へは綺麗きれいに隠して、閣議の帰りやなんかに、お忍びの自動車を仕立ててニュウリイのアパアトへしきりに通っている。例の厳命がある。いっこう訳がわからないが、とにかくマタ・アリはそれを守って、なにもかなかった。大臣はもとより、なにも言わない。寄ると触ると、だれもかれも話しあっている戦争のことを、不自然なほど、二人の話題にのぼらないでいる。
 そのかわり他の恋人群の間に機密をあさった。ことに連合軍の将校に好意の濫売らんばいをやったから、報告材料には困らない。別れたあたしの良人おっとというのは、イギリスの士官でしたのよ――かつて一緒にインドへいったマクリイのことだ。嘘ではない。あどけない顔でこんなことを言うから、マタ・アリが、時に女性にしては珍しい軍事上の興味と知識を示してもだれも不思議に思わなかった。無邪気な笑顔で、急所にふれた質問をたくみに包んだ。休暇で戦線から帰って来ている軍人たちである。めいめい自分の、そして自分だけの情婦と信じ込んでいる女が、寝台の痴態ちたいにおいて、優しく話しかける。時として、可愛いほど無智な質問があったり、そうかと思うと、どうした拍子ひょうしに、ぎょっとするようなきわどいことをく。こっちは下地に、えらそうに戦争の話をしたくてたまらない心理もある。みなべらべらしゃべってしまった。それがすべて翌朝暗号電報となって特設の経路からベルリンへ飛ぶ。当時のマタ・アリの活動は、まことに眼覚めざましかった。たださえパリーだ。戦時である。性道徳は弛緩しかんしきっている。マタ・アリは、スパイそのものよりも、いろんな男を征服するのが面白いのだ。今度はそれが仕事で、資金はふんだんに支給される。時と所と人と、三拍子びょうしそろって、あの歴史的なスパイ戦線の尖端せんたんに踊りぬいていたのだった。

 マルガリイの料理店である。赤十字慈善舞踏会の夜だった。明るい灯の下、珍味の食卓を中に、一ついの紳士淑女はフォウクと談笑をもてあそんでいる。新型のデコルテから、こんがりげたような、肉欲的な腕と肩をあらわしたマタ・アリは、びのほかなにも知らない、上気じょうきした眼をあげて、相手の、連合マリン・サアヴィスのノルマン・レイ氏を見てにっこりした。駝鳥だちょう羽扇おおぎが、けだるそうに[#「けだるそうに」は底本では「けだるるそうに」]ゆらりと揺れて、香料の風を送る。どうあってもここんところは、プラス・ヴァンドウムかルウ・ドュ・ラ・ペエの空気でないと、感じがでない。グラン・ブルヴァルだと、もうコティのにおいがする。
「ねえ、このごろなんにも下さらないわねえ。」下品なようだが、そんなような意味のことを言った。
「あたしスペインのマンテラが欲しいんですけれど、いまパリー中のどこをさがしてもないんですって。つまんないわ。」
「なに、スペインのマンテラですか、あれが欲しいんですか。そうですか。」
 ノルマン・レイ氏は、すぐ顔を輝かして乗り出してきた。今夜どういうものか機嫌が悪くて、いささか持てあましていたマタ・アリが、急に天候回復して少女のようにねだりだしたのだから、彼は、カイゼルが降参こうさんしたように嬉しかったのだろう。四角くなって引きけた。
「よろしい。大至急スペインから取り寄せることにしよう。バルセロナの特置員エイジェントへ電報を打って、つぎの便船で送らせますから、わけはない。」
「あら、素敵! すると、いつ来て?」
 ノルマン・レイ氏は、商船マリンサアヴィスの理事なのだ。連合国の汽船の動きを、脳髄のしわたたみ込んでいる人である。
「待ちたまえ。」日をって考えている。「今日の火曜日と――木曜日の真夜中に、コロナ号がバルセロナを抜錨ばつびょうする。サンナザアルへ入港はいるのが来週の水曜日と見て、そうですね、金曜日にはまちがいなく届くでしょう。」
 異様に眼を光らせて聞いていたマタ・アリは、レイ氏の言葉が終った時は、もうマンテラにたいする関心をうしなったように横を向いて、小さな欠伸あくびみ殺していた。ノウさんはたのもしいわくらい言ったかもしれない。
 つぎの日、マタ・アリは、長距離電話でブレスト町を呼び出していた。兄と称する人物が、線のむこう端に声を持った。親類の一人が、木曜日の深夜に発病して、肺炎になった。つぎの週の水曜日に入院するから、それまでさっそく看病に行ってもらいたい――マタ・アリは電話でそう言っている。ただちにブレストから、オランダのロッテルダムへ電報が飛んだ。電文は、ブレストの一カフェがいわし罐詰かんづめを註文している文章だった。何ダース、何月何日の何時に着くように、どうやって送ること――そして、ロッテルダムからは、暗号電報が海底深く消え去る。
 三日後の金曜日、真夜中である。
 ビスケイ湾、あそこはいつも荒れる。ことに、その晩は猛烈な暴風しけで、海全体が石鹸の泡のようにき騒いでいた。連合軍の食糧を満載して、前夜バルセロナの港を出帆しゅっぱんしたコロナ号は、燈火がれないように、窓という窓を毛布でおおって、木の葉のように揺れながら、けんめいに蒸気ステイムをあげていた。ポルトガルの海岸線を右に見て、一路ビスケイのまっただ中へさしかかる。前檣ぜんしょうに見張りが立っていたが、空は、風に飛ぶ層雲が低く垂れて、海との境界さえ判然しない。てんで見通しがきかなかった。
 前面の波上に潜望鏡の鼻が現われる。水雷を必要としない近距離だ。ほっそりした砲塔が浮び出る。潜航艇の舷側げんそくを海水が滝のように滑り落ちた。暗い水面をいて、コロナ号の船内に非常警報が鳴り響いている。その悲鳴を[#「悲鳴を」は底本では「非鳴を」]消して、つづけさまに砲声がとどろいた。十七分で沈んだ。一人も助からなかった。約束のマンテラも沈んでしまったので、ノルマン・レイ氏は、マタ・アリはどんなに失望するかと思ったところが、それほど失望もしなかったというが、それはそうだろう。

        6

 欧州大戦には、あらゆる皮膚の色の人種が登場していて、それだけでもいまから想えば華麗混沌こんとんたる一大万華鏡まんげきょうの観あるが、のぞいて見ると、そのスパイ戦線の尖端に、茶色の肌をした全裸の一女性が踊りぬいているのを見る。それがH21のマタ・アリである。

 東洋の血のまじったオランダの貴婦人という放送。晩餐ばんさん。シャンペン。ダンス。シックで高価な服装。例の傾国傾城けいこくけいせいの「うら悲しい微笑」。背景は、ツェッペリンの空襲を怖れて、燈影とうえいほの暗い一九一四、一五年のパリー。
 人生を一連の冒険と心得るH21にとって、条件は完璧だったといっていい。秘密を胸に、男から男へと泳ぎまわっている。彼女を取りまく騎士の一人と、珈琲コーヒー店の椅子で話しこむ。そのうちふと給仕人を呼んで、マタ・アリが葡萄ぶどう酒の註文をする。いったい葡萄ぶどう酒は産地と醸造の年代でわかれていて、つうはなかなかむつかしいことをいうものだが、この女客も葡萄酒はやかましいとみえていろいろとうるさい好みを出すから、給仕人はそいつを筆記して引き退さがって行く。酒倉は地下室にある。まもなくそこを捜索しておあつらえのびんを持って来て、葡萄酒の方は、まあこれでいいが、その五日後である。船艙せんそうおおいにまで黒人植民兵を満載して仏領アフリカから急航しつつあった運送船が、アルジェリアの海岸近くでドイツの潜航艇にられている。
 それも一隻や二隻ではない。戦争が終わるまで、正確な遭難数は発表されなかったが、当時、北部アフリカとマルセイユを往復する運送船というと、まるで手を叩くように、奇妙に地中海のどこかで狙い撃ちされたので、運輸系統やスケジュウルが洩れているのではないかと大問題になった。みんなマタ・アリが、商船マリンサアヴィスの関係者を珈琲店カフェへつれ出して聞き出し、葡萄ぶどう酒の年号に託して通告したもので、同志のドイツスパイが給仕人にけていたるところの酒場、カフェ、料理店に住み込んでいた。いまでも、ヨーロッパの給仕人にはドイツ生れの人間が多いが、戦争当時は、それが組織的に連絡を取って一大密偵網を張ったものである。後日マタ・アリの告白したところによれば、この方法で十八隻沈めたことになっている。
 ところで、女のスパイは長く信用できないと言われているが、これはなにも女性は不正直でおしゃべりだというわけではなく、いや、それどころか、不正直はスパイの本質的要素の一つなんだからかなり不正直であっていいわけだ。ただここに困るのは、ときどき恋に落ちられることだとある。それも、スパイすべき相手の男に恋されたんでは、困るばかりではない。どっちのスパイかわからなくなって、たぶんに危険を感ぜざるを得ないけれど、マタ・アリにかぎってそんな心配はなかった。初めから恋する心臓を欠除している女だったというのだ。自分の暗号電報一つで多勢の男を殺すことにも、べつに歓喜も悲痛も知覚しなかったほど、無神経な性格だったのである。愛国の至情しじょうから出ているのでない以上、そうでもなければ、一日だって女性に勤まる仕事ではない。
 が、このマタ・アリも、時として恋らしいものをしている。戦争勃発ぼっぱつと同時にフランスの義勇軍に投じた若いロシア人とだけで名前はわかってない。一説には Daptain Marlew という英国将校だったともいう。まもなく、砲弾で盲目にされて後部へ退しりぞいた。この失明の帰還兵にだけは、マタ・アリもいくぶん純情的なものを寄せて、さかんに切々たる手紙を書いている。ヴィテルの尼僧にそう病院に収容されることになって、マタ・アリもパリーから行っているが、それは、恋半分、使命半分の動機からだった。ヴィテルは、フランス陸軍の重要な「空の根拠地」の一つである。

 ついでだが、大戦当時、敵地へスパイを入れるのに、おおいに飛行機を利用したもので、夜中にスパイを乗せて戦線を飛び越え、国境深く潜入して、落下傘らっかさんで落してやる。またはこっそり着陸する。連合軍もドイツ軍もこれをやったが、広大な田舎いなか[#ルビの「いなか」は底本では「ないか」]の暗夜など防ぎようがなかった。
 ヴィテルの病院で、マタ・アリは、盲目の恋人をいたわりながら、飛行隊の将校連と日増しに親しくなりつつある。と思うと、ぞくぞく不思議なことが起こって、飛行機の恐慌におちいった。いまいったように、密偵を同乗させた飛行機が、ヴィテル飛行場を発してドイツの上空へ消えてくのだが、それがすべて申しあわせたように、完全に消えうせたきり、けっして帰って来ない。どこへ着陸しても、ちゃんとドイツ兵の一隊が待ちかまえていて、操縦士と同乗者はただちに射殺、飛行機は捕虜ほりょ、帰ってこないわけだ。不思議だとはいったが、ヴィテルにマタ・アリがいるかぎり、ちっとも不思議なことはない。
 そのうち、盲目の義勇兵にも飽きたと見えて、マタ・アリはひとりでパリーへ帰る。
 運転手付きの自動車が停車場に出迎えている。ニュウリイのアパアトメントへ走らせながら、見慣れているパリー街景だ。ぼんやりほかのことを考えていたが、やがて急停車したので気がつくと、ニュウリイではない。見覚えのない町筋へ来ているから、マタ・アリはびっくりしている。
 車扉ドアが開けられて、降りるようにという声がする。降りた、そこを五、六人の男が包囲してしまう。表面は慇懃いんぎんな態度だが、それは冷い敵意の変形でしかないことを、マタ・アリは素早く看取かんしゅした。
「マダム、どうぞこちらへ――。」
 初めて恐怖がマタ・アリを把握したが、さり気なくよそおうことには慣れている。「退屈しきった貴婦人」のていよろしく、ひとしきり鷹揚おうように抗弁してみたが、ついにそこの建物の奥深い一室へつれ込まれる。書類の埋高うずたかく積まれた大机のむこうに、鋭い青銅色の眼をした老紳士が控えている。背広を着ているが、千軍万馬せんぐんばんばの軍人らしい風格、これが有名な「第二号の人」だった。とがった質問が順次にマタ・アリを突き刺し始める。
「尾行付きのドイツ人とたびたび会っているようですが、どういう要件ですか。」
 第二号は、卓上の報告に眼を走らせながら、急追求をゆるめない。この時の感想を、あとでマタ・アリは、一枚一枚着物をがれてゆくような気がしたと述べているが、裸体の舞踊家だけに、さすがにうまいことを言った。雨のような詰問きつもんを外して、けんめいに逃げを張る。とうとう石の壁にき当って、そこで全裸にされた形だ。第二号はにやりと笑う。
「つまりフランス陸海軍の動静を探って、それを報告しておられたと言うんですな。」
 マタ・アリの手には、最後の切り札が残された。
「ええ。でもあたくし、連合軍のためにしていることなんですわ。ドイツの密偵部の人には、かなり相識しりあいもございますけれど、良人おっとは英国士官でしたし、いまあたくしのお友達の大部分は、連合軍の主要な地位の方々でございます。あたくし、ほんとのことを申しますと、こういう機会がまいりますのを待っておりましたの。あたくしの方は、すっかり準備ができております。いろいろドイツ軍に不利な事実も知っておりますし、あたくしがそう思うように仕向けて、先方では、あたくしを味方のつもりでおりますから、なんでも聞き出せますわ。なにとぞあたくしをフランスの密偵部にお入れ下さい。御命令どおり、どんなことでも探りだしてきて、かならずお役に立つようにいたしますわ。」
 苦しい詭弁きべんろうしている。とにかく、立派に自白したに相違ないから、マタ・アリはこれで即座に「処理」されるはずだった。実際、だいぶこの強硬論が優勢だったのだが、第二号は考えた。マタ・アリの知友は、軍部でも外交関係でも、幅のきく連中ばかりである。こいつを死の門に送り込むには、十分すぎるほど十分な証拠を必要とする。さもないと、あちこちの大頭株あたまかぶから、厄介やっかいな文句が出そうだ。これはどうも普通のスパイのように簡単には扱えない――そこで、第二号を取り巻いて私語ささやきを交し出す。甲論乙駁こうろんおつばく、なかなか決しない。マタ・アリはこっちから、大きな眼に精一杯の嬌媚きょうびめて、じっとその様子を眺めている。
 相談一決、第二号がマタ・アリに向きなおってにっこりした。
「それじゃマダム、貴女の嫌疑は嫌疑として、今回だけ、貴女がフランスに忠実であるということを証拠立てえる機会を作ってあげましょう。われわれの同志として、いまからあらためて貴女をフランス特務機関に編入します。ベルギーのほうをってもらいたいのです。彼地を占領しているドイツ軍の部内に、こっちから三十人のスパイを入り込ませてありますから、いまその名簿をあげます。みなそうとうに働いてくれているんですが、このごろ敵の妨害スパイの活動が激しくて、どうも報告が集まらないで弱っている。貴女の任務は、その三十名の情報をまとめて身をもってパリーの私の所へ持って来ることです。」
 安堵あんどの溜息と一緒に、マタ・アリは答える。
「承知致しました。」
 あらゆる便宜の下に出発して、英仏海峡を渡った。仏白ふつはくの国境は、独軍におさえられているので、海路英国から潜入しようとしたのだ。ところが、オランダにいる娘が急病だから行かなければならないというマタ・アリの声明を、英国政府が取りあげなかった。オランダへもベルギーへもらずに、ロンドン警視庁スコットランド・ヤアド特高とっこう課長ベイジル・タムスン卿の手で、胡散臭うさんくさいやつだというので、フォルマス港からこっそりとんでもないスペインへ追放してしまう。マタ・アリもいまは盟友国であるフランスのスパイなのだから、イギリスも便利と庇護ひごを計ってしかるべきだが、これは、フランスからあらかじめ依頼があって、ちゃんと手筈てはずができていたので、すべてはフランス密偵部第二号の画策かくさくだったのである。退きならぬ証拠を作ろうとしたのだ。あとでわかる。

        7

 ベルギーにおけるドイツの占領地帯にはいり込んでいたフランス密偵部員の一人に、イグナチオ・ヴィテリオというイタリー人があった。最初に、この男の動静がくさいと気がついたのがパリーの第二号、れるべきはずのないことが、立派に洩れている。どうも変だ。それとなく眼を付けているとこのイグナチオ・ヴィテリオは、密偵仲間でいういわゆる「二重取引エイジェント・ダブル」というやつをやっていることが判明した。独軍にはドイツのスパイ、仏軍にはフランスのスパイ、二つの面をかぶって、おのおの両方に忠実なスパイをよそおい、右から左、左から右へ情報を提供する。間に立って、ひとりたんまりもうけていた。これではたまらない。なにもかも筒抜けだ。が、どっちにとっても、忠実なスパイには相違なかった。両方から報酬をもらう。金になるから、自然おおいに活動して、どっちにも重宝ちょうほうがられてきた。右の手のすることを左の手は知らないというわけ、抜け目のないやつだった。このイグナチオ・ヴィテリオの双面ダブルを感づいた第二号である。
 こいつを処罰するためと、もう一つはマタ・アリの正体を暴露する動かぬ材料をるためと、一石二鳥、やはりアルセエヌ・ルパンばりに洒落しゃれっ気たっぷりのパリー人だ。皮肉な方法を考えたのだ。

 これはマタ・アリ、ベルギー行きが許可されなくて、スペインなんかと変なところへ送られたものの、第二号が予期したとおり、パリー出発に際して彼女に手交した在白フランススパイの名簿は、そっくりその地のドイツ密偵部員に内報されている。マタ・アリはああして今度フランスのためにスパイを働くようなふりをしながら、じつはあれは一時逃れで、初めから名簿を持ってベルギーへ入国したら、さっそくそれをドイツ密偵部へ呈示して、片っ端から芋蔓いもづる的に処分し、その三十人のフランススパイ団を一掃しようというはらだったのだ。が、イギリスの邪魔じゃまで、自分が行けなくなったから、せめて三十人の住所氏名だけはとりあえず密報した次第、受け取った在白ドイツ密偵部は、勇躍した。捜索する必要もないのだ。三十人の所番地を襲って、もちろん射殺するだけ。それっというので、それぞれ手わけしてでかける。
 手わけして逮捕にむかったまではいいが、引き出して来たのは一人きりで、ほかの二十九名はどうしてもわからない。これはわからないわけだ。捕縛ほばくされた一人を抜かして、ほかの二十九人は全部、第二号の創作になる仮想的人物、初めから存在しないのだった。
 捕まったのは、名簿のいの一番にあったイタリー人イグナチオ・ヴィテリオである。おや、これはわれわれの同志のはずだがと、一同は首をひねってみたが、ドイツ側も、大事なことがさかんに内通される形跡を感じて、よりより探査の歩を進めていた際だ。フランスのスパイとしてただ一人イグナチオ・ヴィテリオが指名されて来たのだから、さてはと種々思いあたるふしもある。猶予ゆうよはない。この皮肉な第二号の贈物を遠慮なく受け取ることにした。名簿がベルギーへ達した一時間後にイグナチオ・ヴィテリオは、兵列の前に立って一斉射撃で処理されていた。
 二日後に、この報知がパリーへはいって、第二号をにっこり微笑ほほえませている。

 沙漠のような高原にぽっちり建っている太陽の都マドリッド。そこのグランド・ホテルではマタ・アリの隣室に、英国の若い帰休士官が英雄閑日月かんじつげつを気取っている。名をスタンレイ・ランドルフ。砲兵大尉。H21がマドリッドへ着いてまもなく、クルウプ博士という土地在住のドイツ密偵支部代表者がたずねて来て、こんな話をしてゆく。
 最近、英国の田舎ミッドル・エセックス州の奥に、周囲に高さ二十フィートの石垣をめぐらした公園ようの広場ができた。疑問は、その不自然に高い石の垣である。内部には、よほど秘密なことが行われているに相違ないが、さてなんだろうというのが、その地方のドイツスパイ間の問題になった。やっと探りえた程度では、中に、近代の戦場の模型が作ってあるというのだ。実際の戦線を一部切り離してきたように、塹壕ざんごう、鉄条網、砲丸の穿うがった大地穴、機関銃隠蔽いんぺい地物、その他、小丘、立樹、河沼、小独立家屋など、実物どおりにそっくりできあがっている。おまけに、塀の中からは、ひっきりなしに、強力なガソリン発動機エンジンの爆音が聞えてくる。近所のうわさによると、蛾虫さなぎのような奇妙な形をした新型牽引車けんいんしゃの試験をしているらしいという。なんでも、前線へ給水、補弾等の目的を達する装甲そうこう輸送車であると同時に、あらゆる地形、障害物を無視し、蹂躪じゅうりんして進む戦闘車の役割をもつとめるとのこと。英軍部内の関係者がタンクという写実的な名称で呼んでいる、同国陸軍が新たに発明した武器だというのだ。そこで、グランド・ホテルに隣りあわせて泊っているスタンレイ・ランドルフ大尉に探りを入れてみる。砲兵士官だから、なにかこの怪車タンクについて知っているに相違ない。こういう命令がマタ・アリに与えられた。相手は、いちじ戦争から帰ってぶらぶらしている青年将校である。こんなのこそは、マタ・アリの専門とするところ。わけはない。数日のうちに成功して、聞き出せるだけ聞き出してしまう。が、マドリッドに光っている特務機関の眼が、ドイツばかりではない。イギリスのスパイが、ランドルフ大尉の様子に秘密の流出する不安を感じて、急ぎ上司へ通告して指揮を仰ぐ。大尉はにわかにマドリッドを退去してパリーへ北上すべしという厳命を受け取った。するとマタ・アリも、ランドルフと一緒にパリーへ行かなければならないことになったが、第二号に捕まってあんな目にったばかりだから、パリーはマタ・アリの鬼門きもんである。ああいう経験は一度でたくさんだ。ここで、彼女は初めて駄々をこねてみたけれど、もちろんいやだと言って許されることではない。保証と脅迫に押し出されるようにしぶしぶマドリッドをあとにパリーへ向う。脅迫は密偵部の常套じょうとう手段、命令に服従しなければ、同志が手をまわしてその地の官憲へ売り込む。四面楚歌そかのドイツのスパイだから、たちまち闇黒やみの中で処分されてしまうという段取りで、一度密偵団の上長じょうちょう白眼にらまれたが最後、どこにいても危険は同じことだ。それはマタ・アリもよく知っているし、スパイ網から脱落しようと※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがいて、どこへ逃亡しても、常に正確に、不可解にして残酷な死を遂げた多くの細胞の例をも彼女は熟知している。仕方がない。パリーへ帰っていく。
 もっとも、密偵部から強要されたからばかりではない。政府筋の有力な連中の多いパリーの彼女の騎士たちからも、さかんに帰巴きはするようにと勧めてきている。そのもっとも熱心な一人が、例の某閣僚だから、こういう保護があれば大丈夫だろうとも考えた。いままでの話でもわかるとおり、くいえば勇猛果敢ゆうもうかかん、悪くいえば変質者に近いほど怖いもの知らずのマタ・アリである。好運を信じて、一度難を逃れた獅子ししおりへまたはいり込んだのだが、今度は、生きては出なかった。

 金に困ったことはない。困らないどころか、その頃のマタ・アリの生活は豪奢ごうしゃの頂点で、この旅行も贅沢ぜいたくをきわめたものだった。マドリッドのドイツ大使館から、オランダのドイツ大使のもとへ、マタ・アリがパリーへ着いたら、同市のオランダ大使館をつうじて、三万五千マルクの正金を支給するようにと暗号電報が飛んでいる。これは、アムステルダムのドイツ密偵部が、指定の経路でただちに送金した。マタ・アリ自身も、このパリー入りにはよほど用心した跡が見える。その某大臣はじめ重立おもだった恋人たちに手紙を書いて、あの第二号とのいきさつ、彼女のこうむった「迷惑」などを訴えている。要路の恋人たちは筆をそろえて、二度とそんな失礼はさせないから御安心あれ、呼び寄せたい一心で一生けんめいだった。いちじスタンレイ・ランドルフ大尉と別れて、別々にパリーへはいる。パリーでこっそり落ちあっておおいに遊ぼうという約束。

 約束どおり、ランドルフが停車場へ出迎えていて、ドイツスパイ団の護衛の下に、一週間ほど同棲した。その間にマタ・アリは、このランドルフについて、マドリッドから持越しの、タンクに関するある程度までの秘密をぎ出している。まもなくランドルフは英本国に召還しょうかんされてしまった。
 この使命では、H21はあまり成功したとはいえない。が、それは彼女の落度おちどではなく、新発明の地上超弩級ちょうどきゅう、タンク「マアク九号」の秘密漏洩ろうえいを防ぐ英国の警戒は、じつに厳重をきわめていて、マタ・アリにも歯が立たなかったのだ。スタンレイ・ランドルフも、ちょっと受け持ったほんの一部の専門以外には、詳しいことは知らなかった。いくら恋人でも知らないことは言えないから、そこで、マタ・アリも期待されたほどの成果を収め得なかったわけだが、こうして今後の戦場に重大な役目を持ち、近代野戦術に一大革命をもたら[#「斎」の「小」に代えて「貝」、216-5]した新戦争機具エンジン・タンクの誕生となる。前からいうとおりイギリスが発明したのだ。
 が、H21も、いくらか探りえたところがあったに相違ない。試験に試験を重ねたタンクが、とつぜん[#「とつぜん」は底本では「つとぜん」]戦線に驚異的に出現して、あの、前世紀動物のような、怪物的な鋼鉄製の巨体をゆるがせて猪突ちょとつした時、案に相違して、ドイツ方はあまりおどろかなかった。それどころか、すでにこれに備えるために新しい大砲ができているらしく、特殊の構造の弾丸が飛来ひらいしてかえって英軍をおどろかした。タンクは、地上の万物を破壊し、セメント煉瓦れんがで固めてある機関銃の巣まで踏みにじったが、敵の戦線からは、不思議な恰好かっこうをした弾がタンクに集中されて、弾丸不貫通という折り紙付きの鉄側にさかんに穴があくのである。
 こんなはずはないというので、イギリスのスパイ群がいろいろ動いたあげく、いまの、スタンレイ・ランドルフ大尉とマタ・アリとのロマンスが、初めて摘出てきしゅつされたのだった。

        8

 パリーのアパアトメントの客間で、一人の美女が男の友達の上にかがみ込んで強い接吻を押している。その接吻から西部戦線では、鋼鉄の怪物に特製の弾丸が炸裂さくれつしているのだ。この因果関係に、近世探偵組織を象徴して、複雑多色なる一つの驚くべき模様パタアンをわれわれは見る。

 一九一七年、三月。一通の秘電が、ベルリンの本部からマタ・アリへ飛んだ。
「以前、某閣僚にたいしてのみは、質問探索等すべて積極的態度をるべからずといった命令を取り消す。近く仏軍首脳部において全線総攻撃の計画ありと聞く。いかなる方法をもってもその時日を確かめよ。」
 これがマタ・アリを考えさせた。初めてわかった。いままでその大臣にだけは戦争に関する話題を持ち出してはいけなかった。先方がそれに触れても、彼女の方で避けなければならなかった。それは、マタ・アリが彼の敵でないことを、ベルリンでは知り抜いていたからだった。ほかの人間ならとにかく、この閣僚からなにか聞き出そうとして、しかも同時に、すこしも密偵の疑いを受けないということはできないだろう。それよりは、たんに友人として、これによってマタ・アリがパリーに滞在しうる最大便宜べんぎに止めておいた方が安全である。が、いまは、そんなことをいっていられない。「いかなる方法をもっても」というのは、H21にとって死を意味する。今日まで彼女は、捕縛ほばくされた場合の一つのいいぬけを持っていた。あの大臣は私の恋人です、聞こうと思えば、なんでも聞きえたはずです、それなのに、私がスパイでない証拠には、そんな絶好な立場に恵まれながら、私はあの人に戦争に関してなに一つ話しかけたことはないではありませんか、と。しかし、今度でそのゆいいつの逆証もとおらなくなる。破れればただちに死だ。といって、ベルリンの命令に服従しないとすると、そっとフランスの官憲へ身柄を暴露されるにきまっている。そこに待っているのは、同じく死だ。二つの死の間に立って、マタ・アリは、やはりスパイらしい死を選んでいる。

 同年四月九日払暁ふつぎょうを期して、ニヴィイユ元帥は全軍を躍らせて総攻撃に移る。シャンパアニュの原野。ところが、マタ・アリの予報で待ちかまえていたのだからたまらない。用意なしと見たドイツ軍に大準備ができていて、猛烈な逆襲にい、連合軍はさんざん敗北。いちじは、大戦そのものの運命をさえ決定しそうに見えた。
 自室の窓際に椅子を引いて、マタ・アリが、裸体で日光浴をしているとき、同月十六日の朝だった。ノックもなしにドアが開いて三人の男がはいって来る。
「H21! 着物を着て一緒に来い。」
 マタ・アリはおどろかなかった。ただ、取りすがるような視線を一行の首領らしい男に向けた。
「別室で着物を着たいんですけれど――。」
 もちろん、許されない。首領の監視のもとに裸体を包みながら、マタ・アリは忙しく考えている。H21とドイツ密偵部の番号で呼ばれたことだけで、彼女は最後の時が来たことを知った。他の二人は、アパアトメントじゅうを家宅捜索を始めている。マタ・アリは、着物をけつつある自分にえられた男の眼が、そういう状態に在る美しい女を見ているのではなく、敵国の一スパイを見ているにすぎないのを知って、悲しかった。
 着物を着終ると、彼女の態度は急に強くなった。
「あなた方がいらっしゃったら、なんだかお部屋が臭くなったようね。」ひどいことを言って
こうべましょう。」
 かたわらの小卓に、緑色青銅の壺に金飾きんの覆をかぶせたインドの香炉が置いてある。マタ・アリは、マッチをって手早く覆の小穴から投げ落す。白い煙りがあがった。
 監視していたフランス特務員が、つと走り寄って香炉のふたを取る。底に隠された手紙が、燃えかかっているのだ。つかみ出して揉み消す。読んでみる。"M ―― Y" という署名があった。

 みんな恋文なのである。立派な文章でしっかりした中年過ぎの男の筆蹟だ。だれだといてもマタ・アリは答えない。答えなくても、筆者がだれであるか、密偵内部の第二号にだけはわかっていた。が、M――Yという署名、判然としているようで明瞭でない。そこを押してゆくと、マタ・アリはがんと口をつぐんでいる。いざという場合にこの恋文を出して助命運動をするつもり、それで保存しておいたのだが、そのいざという場合のいま、彼女はそれを焼こうとした。しかも、あくまで相手の名を明かそうとしない。さびしい男性は、時として途上に出会でっくわした売春婦に大きな秘密を打ち明けるものだ。時としてまた、そういう女たちは、身をもって男の秘密を守ろうとする。この、マタ・アリが最後に示した一片の意気は、売春婦のそれにも似て、哀れに壮烈だといえる。
 投獄されたのは、サンラザアル刑務所だった。

 マタ・アリは軍事裁判に付された。その評判は欧州はもちろん、全世界の新聞に喧伝けんでんされているから、記憶している読者もあろう。秘密裁判だった。密偵部第二号の選択によって、しらせていいことだけ公表されているにすぎない。彼女の記録は、ベルリン・ドロテイン街の家、ヘンダスン少佐との出会いの当時までさかのぼって、そのころから英仏にとってそういう意味での要視察人だったと判明している。欧州戦争が十年、二十年以前から予期されて、各国とも軍備とスパイ戦に忙しかったことがこれでも知れよう。

 パリーはいまさらのようにドイツ密偵部員の潜略せんりゃくに驚いて、エッフェル塔の無電に絶えず高力の電波を放ってすこしでも怪しい暗号電報の妨害を試みる。同時に、フランス特務機関の暗合が一時に変改された。マタ・アリはドイツのスパイなどとは夢にもおぼえがないと無罪を主張し続けたが、まもなく、一九一六年七月二十五日、射殺の判決がくだる。各方面からの命いは猛烈をきわめたもので、本人はすっかりその効果を信じているから、サンラザアルの刑務所で悠々閑々ゆうゆうかんかん、あの嘘八百の告白体自伝はここで書いたのだ。

 三人の尼僧が付ききりでしきりに神を懺悔ざんげすすめる。マタ・アリはせせら笑って耳をそうともしない。それは処刑の朝、八月十一日午前五時だった。
 マリイ尼という一人が独房の前に立って、
「あなたは今まで人のために踊ってきましたわね。今朝けさは一つ御自分のために踊ってはいかがです。」
 ここにおいてマタ・アリは、黒衣の尼僧の前で例のでたらめの東洋踊りをやっている。どうもちょっと滑稽こっけいな、憎めない存在だった。
 舞踊なかばにして、重い靴音が刑務所の石廊を近づいてきた。こういう場合、死刑囚を急激におどろかせないために、覚悟を教えて、わざと遠くから跫音あしおとを立てて来るのだ。マタ・アリは、夜会にでも出席するように美装をらして人々を驚倒させた。
 にこにこして刑場に引き出されて行く。

 数多い「恋人」の一人でもっとも熱烈な彼女の讃美者ピエル・ドュ・モルテサックが、ひそかにマタ・アリに吹き込んだのだという。
「軍規の手前、銃殺しなければならないことになっているのだから、法を曲げるわけにはゆかない。で、形式的に処刑するのです。つくり狂言です。銃殺に使用する弾は空弾だから、音がするだけで、なんともない。あとから骸ということにして国境外へ運び出す手筈てはずになっている。」
 一時慰めようという慈悲心からか、それとも意地の悪い意味からか、それは観方みかた一つだが、とにかくこういうことをささやかれて、マタ・アリはそれを信じきっていた。だから、刑場に出るものとは思われない華やかな態度で、ヴァンサンヌの城壁の前に立つ。一隊の竜騎兵ドラグウンが銃を擬して待っていた。芝居とばかり思い込んでいるマタ・アリである。元気よく手を振って射撃隊に挨拶あいさつしたりした。

 発砲された。空弾でないことを知った時のマタ・アリの驚愕きょうがく、立ち会った人々はその悲鳴にみな耳を抑えたというから、よほど諦めの悪い死を死んだものだろう。無理もない気もする。だまし討ちのようなり方だった。
 死刑場には、ピエル・ドュ・モルテサックはじめ彼女の騎士連が多勢詰めていた。検官が蜂の巣のようになって土に横たわっているマタ・アリの死体を靴の先で軽く蹴りながら、
「どなたか引取人がありますか。」
 だれも出なかった。

 何国どこも同じことで、このマタ・アリ事件が政争の具に使われている。問題になったのは、マタ・アリに恋文を書いているM――Yの署名にあたる某閣僚である。M――Yはだれか? さあ、騒ぎになった。シャンパアニュの野の総攻撃でめちゃくちゃにられたニヴィイユ元帥ら、軍閥がまず承知しない。内務大臣ルイ・マルヴィ―― Louis Malvy ――を槍玉にあげた。
「M――Yといえばマルヴィにきまっている。手蹟しゅせきも似ているし人物もあたる。マルヴィは踊り子スパイをつうじて祖国をドイツへ渡したのだ。売国奴だ。」
 この叫びがひろまって、マルヴィの公判となる。四人の前首相が弁護に立ったが、戦時で軍人が威張っている。ニヴィイユ一派の軍閥が勝って、マルヴィ氏は失脚、七年間の追放に処される。やがて平和回復、人心秩序の樹立に飢えている時、大統領エリオットに特赦とくしゃされて、マルヴィ氏はふたたび入閣したが、議会の反対党は彼を忘れなかった。
「マタ・アリ! マタ・アリ! マタ・アリ!」
 の弥次やじに完全に封じ込まれて、何度も壇上に立往生した末、七年間の恥と苦痛に健康をそこねている。卒倒してしまった。才腕ある士だったが、まもなく政界を退いている。

 二年後に、ある婦人記者が、マルヴィ氏を追った軍閥の一人、大戦当時の陸軍大臣メサミイ元帥―― Messimy から驚くべき告白を取った。マタ・アリの恋人M――Yはこの General Messimy だった。

底本:「浴槽の花嫁-世界怪奇実話1[#「1」はローマ数字、1-13-21]」教養文庫、社会思想社
   1975(昭和50)年6月15日初版第1刷発行
   1997(平成9)年9月30日初版第8刷発行
入力:大野晋
校正:小林繁雄
2006年9月12日作成
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