浅草今戸の方から、駒形の、静かな町を、小刻みな足どりで、御蔵前の方へといそぐ、女形風俗の美しい青年――鬘下地に、紫の野郎帽子、襟や袖口に、赤いものを覗かせて、強い黒地の裾に、雪持の寒牡丹を、きっぱりと繍わせ、折鶴の紋のついた藤紫の羽織、雪駄をちゃらつかせて、供の男に、手土産らしい酒樽を持たせ、うつむき勝ちに歩むすがたは、手嫋女にもめずらしいたけさを持っている。
静かだとはいっても、暮れ切れぬ駒形通り、相当人の往き来があるが、中でも、妙齢の娘たちは、だしぬけに咲き出したような、この優すがたを見のがそう筈がない。
折しも、通りすがった二人づれ――対の黄八丈を着て、黒繻子に緋鹿の子と麻の葉の帯、稽古帰りか、袱紗包[#ルビの「ふくさづつみ」は底本では「ふくさつづみ」]を胸に抱くようにした娘たちが、朱骨の銀扇で、白い顔をかくすようにして行く、女形を、立ち止って見送ると、
「まあ、何という役者でしょう? 見たことのない人――」
「ほんにねえ、大そう質直でいて、引ッ立つ扮装をしているのね? 誰だろう?」
と考えたが、
「わかったわ!」
「わかって? 誰あれ?」
「あれはね、屹度、今度二丁目の市村座に掛るという、大坂下りの、中村菊之丞の一座の若女形、雪之丞というのに相違ないでしょう――雪之丞という人は、きまって、どこにか、雪に縁のある模様を、つけているといいますから――」
「ほんにねえ、寒牡丹を繍わせてあるわ」
と、伸び上るようにして、
「一たい、いつ初日なの?」
「たしか、あさッて」
「まあ、では、じき、また逢えるわねえ。ほ、ほ、ほ」
「いやだ、あんた、もう贔屓になってしまったの」
二人の娘は、笑って、お互に袂で撲つまねをしながら、去ってしまった。
美しい俳優は、そうした行人の、無遠慮な囁きを、迷惑そうに、いつか、諏訪町も通り抜けて、ふと、右手の鳥居を眺めると、
「おや、これは八幡さま――わたしは、八幡さまが守護神――ねえお前は、この、お鳥居前で待っていておくれ――御参詣をして来ますから――」
と、供に言って、自分一人、石段を、小鳥のような身軽さでちゃらちゃらと上って行った。
八幡宮の、すっかり黄金色に染って、夕風が立ったら、散るさまが、さぞ綺麗だろうと思われる大銀杏の下の、御水下で、うがい手水、祠前にぬかずいて、しばし黙祷をつづけるのだったが、いつかれる神が武人の守護神のようにいわれる八幡宮、おろがむは妖艶な女形――この取り合せが、いぶかしいといえばいぶかしかった。
礼拝を終って、戻ろうとしたこの俳優――ハッとして立ち止った。
思いがけなく、銀杏の蔭から声を掛けるものがあったのである。
「これ、大願。一そう根を詰めねば成就いたさぬぞ」
不意に、奇怪なことを銀杏の樹蔭からいいかけられて立ちすくんだうら若い女形――胸の動悸をしずめようと、するかのように、白い手で、乳のあたりを押えたが、つづけて、皺枯れ声が、言いつづける。
「人のいのちは、いつ尽きるか分らぬもの――そなたの大望、早う遂げねば、悔ゆることがあろうよ」
女形は、右の手に持っていた銀扇を、帯の間に――そのかわりに、どうやら護り刀の柄に、そっと、その手を掛けたかのよう――四辺を見まわして、ツカツカと、声のする方へ行った。
そこには、小さい組み立ての机、筮竹、算木で暮す、編笠の下から、白い髯だけ見せた老人が、これから、商売道具を並べ立てようとしているのであった。
「御老人」
と、澄んだ、しかし鋭い調子で、
「只今のお言葉、わたくしへでござりますか?」
老人は、細長い身を、まっすぐに、左手で、しずかに、白髯をまさぐったが、
「左様――そなたの人相、気魄をうかがうに、一かたならぬ望みを持つものと観た――と、いうても驚くことはない――わしは、自体他人の運命を占のうて、生業を立てるもの――何も、そのように驚き、狽て、芸人にも似合わしからぬ護り刀なぞ、ひねくるには及びませぬよ。は、は、は、は、は」
錆びた笑いに、一そう脅かされたように、右手を帯の間から出して、白い頬に持って行ったが、
「ほんに、恐れ入りました御眼力――いかにも、わたくしは、並み並みならぬ望みを持ちますもの――」
と、つつしんで言って、
「ところが、只今、うけたまわれば、人のいのちは、限りがあるものとのお言葉――では、わたくしは、望みを遂げませぬうちに、この世を去らねばならぬのでありましょうか?」
「そこまでは、わしにも言えぬ」
と皺枯れた声が、突き放すように言ったが、
「が、しかし、そなたの寿命ばかりではない。相手の寿命ということも考えねばならぬ」
「えッ! 相手の寿命?」
女形は、低く、激しく叫んだ。彼の、剃り痕の青い眉根がきゅッと釣って、美しい瞳が険しくきらめいた。
「左様、そなたは、大方、他人のいのちを狙うている――」
老人は落ち着いた調子で、つづけて、
「しかも、一人、二人のいのちではない――三人、四人、五人――あるいはそれ以上、その人々の中、手にかけぬうち失せるものがあったら、さぞ口惜しかろうが――」
「一たい」
と、青年は、老人が前にした高脚の机に、すがり寄って、
「一たい、あなたは、どのようなお方でござります――わ、わたくしが何者か、御存知なのでござりますか?」
すッかり、血相が変って、又も帯の間の懐剣の柄に、手をかけて叫ぶのを、騒がず見下ろす老人、
「はて、いずれの仁かな? が、わしにはそなたの護り袋の中の、大方、父御の遺言らしいものの文言さえ、読めるような気がするのじゃ」
老人の言葉は、いよいよ出でて、いよいよ奇怪だ。
その怪語に、一そう急き立つ青年女形を、彼は皺ばんだ、細長い手を伸べて、抑えるようにして、
「その父御の遺言の文句は、随分変妙なものであろう――他人が、ちょいと覗いただけでは、何をいうているやらわからないような、気違いじみたものらしいな。どうじゃ、お若いお方、違うかな?」
と、言って、今は、まるで放心したように、目をみはり、唇を開けて、うっとりと突ッ立ってしまった相手を眺めたが、急に、ぐっと編笠に蔽われた顔を突き出して、囁くように――
「その、呪文のような文には、こう書いてあるに違いない――(口惜しや、口惜しや、焦熱地獄の苦しみ、生きていがたい。呪わしや。土部、浜川、横山――憎らしや、三郎兵衛、憎らしや、広海屋――生き果てて、早う見たい冥路の花の山。なれど、死ねぬ、死ねぬ。口惜しゅうて死ねぬ、いつまでつづくこの世の苦艱、焦熱地獄)――たしか、こんなものであろうな? お若いお方?」
サーッと、青ざめた若者は、口が利けなくなったように、土気いろの唇を、モガモガやったが、やっとの事で、
「あなたはどなた様? この私さえ、それを見るのが恐ろしゅうて、覗こうともせぬ、護り袋の秘文――狂うた父が、いつ気が静まった折に書きのこしたか、死後に遺っておりました文――それを、あなたが、まあ、どうして?」
と、吃り吃り身を震わせながら言うのを聴くと、編笠の中で、かすかな、乾いた笑いがきこえたようであった。
細長い指が、顎の紐を解くと、白髯ばかり見えていた、易者の面相が、すっかり現れる。
すっかり禿げ上った白髪を総髪に垂らして、額に年の波、鼻隆く、褪せた唇元に、和らぎのある、上品な、六十あまりの老人だ。
じーっと、穴のあくほど、みつめる女形。
老人の顔が、何とも言えず、懐しげな、やさしげな微笑の皺で充たされると、はじめて思い出したように、
「お、あなたさまは、孤軒先生!」
「ウム、思い出したかな?」
と、相手は、ますます楽しげだ。
役者は我れを忘れたように、高脚の机をまわって、老人にすがりつくようにして、
「わたくしとしたことが、大恩ある先生と、お別れして、たった五年しか経たないのに、お声を忘れるなぞとは――でも、あんまり思いがけなかったものでござりますから――」
美しく澄んだ目から、涙がハラハラと溢れて、白い頬を流れ落ちる。
「おなつかしゅう御座りました――だしぬけに、大坂島の内のお宅から、お姿が無くなって以来どのようにお探し申しましたことか――」
「あの当時、とうに退こうと思うていた大坂――そなたを知って、訓育が面白さに、ついうかうかと月日を送ったものの、そなたに入要なだけの学問は授けるし、もうこれで役が済んだとあれからまた、飄々四方の旅――は、は、とうとう、今は、江戸で、盛り場、神社仏閣のうらない者――が、久々で、めぐりあえて、うれしいのう」
老人は、笑みつづけて、青年俳優をしげしげと見たが、
「中村菊之丞一座花形の雪之丞、津々浦々に聴えただけ、美しゅうなりおったの」
雪之丞と呼ばれる役者は、大そう美しゅうなった――と、讃められて、小娘のように、ポッと頬を染めたが、つくづく相手を見上げて、
「でも、先生も、ちっともお変りなさいません――それは、お髪や、お髯は、めッきり白うお成りなさいましたけれど――」
「わしの方は、もう寄る年波じゃよ。が、兎に角、生きていることは悪うない。そなたに、こうして邂逅えたのも、いのちがあったればこそじゃ」
と孤軒先生なる老人は笑ましくいったが、いくらか、眉をしかめるようにして、
「わしはそなたも知っての通り、風々来々の暢気坊、世事一切に気にかかることも無いのだが雨の日、風の日、そなたの事だけは、妙に思い出されてならなんだ――もしや、若気のいたりで、力及ばずと知りながら、野望に向って突進し、累卵を巌壁になげうつような真似をして、身を亡ぼしてくれねばよいが――と、思うての――」
「師匠菊之丞からも、よくそれをいい聴かされておりますれば、これまでは、我慢に我慢をいたしておりましたが」
と、いいかけたとき、久しぶりに旧師と邂逅して、和らぎに充たされた若者の面上には、またも苦しげな、呪わしげな表情が返って来た。
老人は、ジッと見て、
「我慢を重ねて、来たが、もう我慢が成らぬと申すか?」
「はい。この大江戸には、父親を、打ち仆し、蹴り仆し、蹂み躪り、狂い死にをさせて、おのれたちのみ栄華を誇る、あの五人の人達が、この世を我が物顔に、時めいて暮しております。それを、この目で眺めたら、とても怺えてはおられまいと、師匠も、大方、今日まで、わたくしの江戸下りを、止めていてくれたのでございましょうが、今度、一緒に伴れて来てくれましたはあの仁も大方、もうわたくしに、望みを晴らせよ――と、許してくれたのだろうと思います。それゆえ、遠からず、たとえ力は叶わずとも、思い切ッて起ち上ります覚悟――その一生の瀬戸際に、ふと、八幡宮に通りかかり、祈念のためぬかずいての帰り、先生にお目にかかれまして、こんな嬉しいことはござりませぬ」
青年俳優の眉目には、最近一身一命をなげすてて、大事にいそごうとするものだけが現す、あの勁く、激しく、しかも落ちついた必死、懸命の色が漲るのであった。
「それもよかろう――」
と制めもせず、老人はうなずいた。
「しかし、大事は、いそいでも成らず、いそがずでも成らず――頃合というものがある。変通自在でのうてはならぬ。その辺の心掛けは、夙から訓えて置いたつもりゆえ、格別、案じもせねど、また、何かと、このようなじじいでも、頼りになるときがあらばたずねて来るがよい」
「いつも、このお社に御出張でございますか?」
「いや、例の風来坊――が、大恩寺前で、孤軒と訊けば、犬小屋のような住居におる。さ、売出しの女形に貧乏うらないが長話、人目に立っては成らぬ。去になされ」
「実は、これから、御存知の剣のお師匠、脇田先生へ、お顔出しいたそうとする途中でござりまする。いずれ、では、大恩寺前とやらへ――御免蒙りまする」
深まった黄昏の石段を、雪之丞役者は、女性よりも優美な後姿を見せて下りて行った。
雪之丞が八幡宮鳥居前に待たせてあった、角樽を担がせた供の男に案内させて、これから急ごうとするのは、縁あって、独創天心流の教授を受けた、脇田一松斎の、元旅籠町道場へだ。
紫の野郎帽子に額を隠し、優にやさしい女姿、――小刻みに歩み行く、たけたこの青年俳優の、星を欺く瞳の、何と俄かに凄まじい殺気を帯びて来たことよ!
彼の胸は、不図、八幡宮境内で邂逅した、奇人孤軒先生のあの暗示多い言葉を聞いてから、日頃押えつけて来た、巨大な仇敵に対する復讐心に、燃え立ち焦れ、動乱し始めているのだった。
代々続いた長崎の大商人、その代々の中でも、一番温厚篤実な評判を得ていたと云う、親父どのを、威したり、すかしたりして、自分たちの、あらぬ非望に引き入れて、しかも最後に、親父どのだけに責を負わせ、裏長屋に狂い死にさせた、あの呪わしい人達が平気な顔で揃いも揃って、栄華を極めている、その江戸へ、やっと上って来ることが出来たこのわたしが、どうして手を束ねていられよう。孤軒先生、わたしは屹度戦います。戦わずには置きませぬ。見ていらしって下さいませ――
彼は胸の底で、誓うように呟き続ける。
中村菊之丞の愛弟子雪之丞――生れついての河原者ではなかった。長崎人形町の裏長屋で、半ば耄け果てた、落ちぶれ者の父親とたった二人、親類からも友達からも、すっかり見捨てられ尽くして、明日のたつきにも、困じ果てていた時、その頃これも名を成さず、陋巷に埋もれていた場末役者の、菊之丞に拾われて、父なき後は、その人を親とも兄とも頼んで、人となって来た彼なのだった。
それなら何故に、長崎で代々聞えた、堅気な物産問屋、松浦屋清左衛門程の男と、その伜が、食うや食わずの場末小屋の河原者の情にまであずかるように成り果てたのであったろう?
すべてが、商売道に機敏で鳴った同業、広海屋を謀師とした、奉行代官浜川平之進、役人横山五助――それからおのが店の子飼いの番頭、三郎兵衛の悪業で、汎ゆる術策を揮って、手堅さにおいては、長崎一といわれていた、清左衛門を魔道に引き入れ、密貿易を犯させて、彼等自身が各々の大慾望を遂げてしまうと、長崎奉行役替りの時期が来て、その罪行が暴露するのを怖れ、清左衛門一人に、巧に罪をなすりつけ、家は闕所、当人追放、一家離散で、けりをつけてしまったればこそだった。
雪之丞はその当時、まだ七つ八つのあどけない頃で、何故、ある晩、あの美しく、優しい母が咽喉を突いて死んでしまったのか、あの大きな奥深い家から、突然、父親とたった二人、狭い小さい汚びれた、裏長屋の一軒へ、移り住まねばならなかったのか、また、あの何時も静かな微笑をたたえて、頭を撫でてくれたり、抱いてくれたりした父親が、ともすれば最愛の、いたいけな伜に拳固を上げたり、かと思えば、何やらぶつぶつ独り言をいって、男だてらにほろほろと涙を流したりするようになったのか、まるで、見当もつかなかった。
ただ、今でもはっきり目に映るのは、その頃雪太郎と呼ばれていた、いとけない一少年に過ぎなんだ自分が、そうした父親の、不思議な挙動に目をって、凝っと見詰めては、父親が泣き出すと、自分も一緒にしくしくと、何時までも泣き続けていた、黄昏の灯のない裏長屋の中のあまりに侘し気な風情だった。
雪之丞は、もっと悲しいことを思い出す――寒い寒い真冬の夜更けだったが、その日一日、物をもいわず、薄い寝具の中に潜り込んだまま、死んだようになっていた父親が出し抜けにもくりと[#「もくりと」はママ]蒲団に起き上って、血走った目で宙を睨み、
「口惜しい奴等だ。憎い奴等だ。口惜しがっても、憎らしがっても、生きたままではどうにもならぬ。わしは死んで取り殺すぞ。可愛い女房まで自害をさせ、この清左衛門の手足をもぎ、口を塞ぎ、浅ましい身の上に落した奴等、――どうしてこのままに置くものか」
と、呻きながら、枕元で途方に暮れている、吾が子をぎょろりと睨むように見詰めると、枯木のように痩せ細った手で、引き寄せて、
「俺は死ぬぞ、雪太郎。死んでお前の胸の中に魂を乗り移らせ、お前の手で屹度あやつ等を亡ぼさずには置かぬのだ」
と、世にも凄まじい調子で呟くと、わが子の身体を、ぐーっと抱きしめた。と思うと、突然、
「ううむ」
と、いうような唸り声を立てると同時に目をつり上げ、頭髪を逆立て、口尻からだらだらと血を流し始めた。
雪之丞の雪太郎は、年はもゆかぬ頃、父親が、舌を噛での狂い死にの、その臨終の一刹那とも知らず、抱きしめの激しさに、形相の怖ろしさに、ぐいぐいと締めつける、骨だらけの腕の中から、すり抜けて思わず壁ぎわまで遁げ出し、べたりと坐って、わあわあ泣き始めた。
そこへ、入口の建てつけの悪い戸が開いて、顔を出したのが、毎晩小屋の戻りには、何かあたたかい物の、竹の皮包でも提げて、見舞ってくれる、場末役者の菊之丞だった。
菊之丞は、この有様を眺めると、持っていた包を投げ出して、清左衛門を抱き起した。
顎から胸へかけて、夥しく血を流し、いまはもう、目を逆釣らせてしまった、哀れな男の顔を窺き込んで、菊之丞は涙をこぼした。
「とうとう、おやりなすったな! 無理はござりません。御尤もです。松浦屋ともいわれた方が、役人や、渡世仲間や、悪番頭の悪だくみにはめられて、代々の御身代は奪い取られ、如何に密貿易の罪をきたとはいえ、累代御恩の子分児方さえ、訪ねて来る者もない始末。天にも地にも見放されなすって、死んで仇を呪い殺そうとなさるのは、当然です。如何なる御縁かわかりませぬが壁一重隣に住んで、御懇意申すようになった、この菊之丞、日頃の御心持は、よく知っております。身分違いの河原者、しかも、世の中に名も聞えぬ、生若い身にはございますが、痩せ腕ながら菊之丞、屹度、雪太郎坊っちゃまを、お預かりいたし、必ず御無念を、このお子の手で晴らさせて御覧に入れます」
ほんに、どのような宿世であったか、その晩以来、雪太郎は、菊之丞の手に引き取られて、やさしい愛撫を受ける身となったのだ。
菊之丞は、大方、松浦屋の旦那が、草葉の蔭から、力添えをして下さるからだ、――と、時々、雪太郎だけには囁いたが、その後めきめき芸が上って、雪太郎は十二、三になる頃には、だんだん世上に名を聞え、いつか、大坂の名だたる小屋を、常小屋とするまでの、名優となることが出来たのだった。
雪太郎は十二の年雪之丞という名を貰って、初舞台。子役として芸を磨きながら、一方では菊之丞の心入れで、武芸、文学の道に突き進むことが出来たのだ。
その頃の雪之丞の師匠だったのが、つい今し方、八幡さまの境内でめぐり会った、奇人孤軒先生――そして、剣道の師範がこれから訪ねて行こうとする、今はこれも、江戸へ出て御蔵屋敷の近くに、道場を構えている、脇田一松斎なのであった。
雪之丞は、東下りをしたばかりの、今日、この二人の恩人たちに、会うことが、出来たということが、何となく、幸先がいいように思われる。
――これも大方、日頃から信心の、八幡宮の御利益だろう。
と、呟いたが、直ぐ首を振って、
――いやいや、人間一生の大悲願、恩人でも師匠でも、頼みにしてはかないはせぬ。矢張り、身一つ、心一つで、どんな難儀にもぶッつかれ――それが、あの方々の、日頃の御庭訓でもあったのだ――
そんなことを思いながら、道案内の供を先に、もうとっぷりと暮れかけた、御蔵前を急いで行くと、突然、つい鼻先で、
「無礼者!」
と、叫ぶ、荒くれた一声。
吃驚して見上げると、腰を屈めた供の男の前に、立ちはだかった一人の浪人――月代が伸びて、青白い四角な、長い顔、羊羮色になった、黒い着付けに、茶黒く汚れた、白博多の帯、剥げちょろの大小を、落し差しにした、この府内には、到るところにうようよしている、お定まりの、扶持離れのならず士だ。
供の男は、くどくど詫び入っている。
雪之丞は俯向いて、考えごとをして歩いていたので、何も気がつかなかったが、供の男が、通りすがりに、この素浪人の袖たもとに、思わず触れたものであったろう?
ならず士は、いきり立つ。
「武士たる者に、けがらわしい。見れば貴様は、河原者の供ではないか。身体に触れられて、その儘では措けぬ。不愍ながら、手打ちにするぞ」
「何分、日暮れまぐれの薄暗がり、あなたさまが横町から、お出になったに気がつきませず、お召物のどこぞに、触ったかも知れませぬが、それはこちらの不調法、どうぞ、お許し下さいませ」
と、供の男は、ひたすら詫びている。
「何に? 気がつかなかったと? その一言からして、無礼であろう。さては貴様は、この方が余儀ない次第で、尾羽打ち枯らしている故に、士がましゅう思わなんだというのだな。いよいよ以て聞き捨てならぬ。それへ直れ」
と、猛り喚く。
雪之丞は、困惑した。江戸にはこうした無頼武士がはびこって、相手が弱いと見ると、何かにつけて言いがかりをつけ、金銭をゆするはおろか時によると、剣を抜いて、挑みかかることもある故、気をつけるがいいと、いわれていたが、早くも、かような羽目に落ちて、どうさばきをつけたらよいか、途方に暮れた。
それに、この浪人の唇から漏れた、河原者という一言がぐっと胸にこたえたので、平謝りに謝るのもいまいましかったが、虫を押えて、一歩進み出た。
「これはこれは、お士さま。供の者が何か御無礼いたした様子、お腹も立ちましょうが、御堪忍あそばして、許してやって下さいませ」
と、丁寧に挨拶する雪之丞の、たわやかな姿を、素浪人は、かっと見開いた、毒々しい目でぐっと睨め下ろした。
おどおどと、恐怖にみたされて、腰も抜けそうに見える供の男を、いつか後ろに囲うようにした雪之丞は、浪人者の毒々しい視線を、静かな、美しい瞳で受けながら、重ねて詫びた。
「何分、わたくしは、御当地に始めての旅の者、殊更、取り急ぎます日暮れ時、何事もお心寛うお許し下されますよう――」
「ううむ――」
と、浪人者は呻いた。
「重ね重ね奇怪だ、無礼だ。身分違いの身で、土下座でもして謝るならまだしも、人がましゅうし目の前に立ち塞がって、それなる奴を、かばいだてしようなどとは、いよいよ以て許されぬ。それへ直れ、押し並べて、二人とも成敗する」
雪之丞は、微塵、怖れは感じなかった。相手の面構え、体構えに、本気で刀を抜こうとする気合が、籠っていないのは勿論――よしんば、斬りつけて来たにしろ、たかの知れた、腕前なのも見抜いている。
――この男、威しにかけて、いくらか、黄金をせしめる気だな――
人気渡世の女がた――殊更、始めて下った江戸。こんな奴を相手にするより、小判の一枚も包んだ方が、とくだとは思ったが、尾羽打ち枯らして、たつきに困ればとて、大刀をひねくりまわし、武力に愬えて、弱い者から飲み代を、稼ごうと言う了簡を考えると、人間の風上に置けない気がした。その上、辛抱がならないのは、天下の公道で、二言めには、河原者の、身分違いのと、喚き立て、言い罵るのを聞くことだった。
――何が、身分違い、河原者。舞台の芸に心を刻み、骨を砕き、ひたすら、一流を立て抜こうとする芸人と、押し借り強請の悪浪人と、何方が恥ずべき境涯なのだ――
そう思うと、腕に覚えは十分ある身、取って伏せたいのは山々だったが、
――いやいやここで腕立てなどしたら、師匠の迷惑は言うまでもなく、殊更、自分は、大望ある身体、千丈の堤も蟻の一穴。辛抱だ――
と、胸を撫でて、
「では、こうして、お詫びいたします程に、お通しなされて下さりませ」
雪之丞は、膝まずいて、白くしなやかな指先を、土の上に並べてついた。
「何に? (では)だと?」
と、浪人は笠にかかって、
「では――とは何だ? 心から済まぬと思うなら、そのような言葉は出ぬ筈だ。許されぬ。堪忍ならぬ」
と、大刀の鯉口を切って、のしかかる。
夕まぐれとは言え、人通りの絶えぬ巷。いつか、黒山のように、人立ちがしているが、如何にも相手が悪いので、雪之丞たちのために、扱おうとする者もない。
雪之丞は、本当に刃が落ちて来たなら、降りかかる火の粉。引っぱずして、投げ退けようとじっと気合を窺いながらも、胸の中は煮えくり返った。
――大道の泥に、手を突かせられ、人さまの前で、辱かしめられるのも、もとはと言えば、役者渡世に、身を落していればこそ、それもこれも、みんな、呪わしいあの悪人共が、親父どのを、悲しい身の上に、蹴落したからだ。この浪人を怨むなら、彼奴らを怨み抜け――
浪人者も、騎虎の勢い――止め手がないので、
「うう、おのれ――」
と、叫ぶと、とうとう、腰を捻ってギラリと抜いた。
浪人が抜いたと見ると、雪之丞は大地に片手の指先を突いたまま、片手で、うしろに踞ってわなないている供の男を、庇うようにしながら、額越しに上目を使って、気配を窺った。
雪之丞の、そうした容態は、相も変らず、淑やかに、優しかったが、しかし、不思議に、五分の油断も隙もない気合が漲って、どんな太刀をも、寄せつけなかった。
浪人は、まるで電気にでも触れたように、パッと飛び退って、驚愕の目を見はった。
彼は、白刃を振りかぶったままで、
「ううむ――」
と、呻いた。
勿論、この浪人、雪之丞を、真二つにする覚悟があって抜いたわけではない。が、相手の身体から迸る、奇怪な、霊気のようなものを感じると、顔色が変った。
――こりゃ、妙だ。この剣気はどうだ? が、この河原者、兵法に達しているわけはない。
彼は、そう心にいって、乗りかかった船、思いきって斬り下げようとしたが、駄目だった。振り下ろす刃は、ピーンと、弾き返されるような気がした。
「ううむ、――」
と、彼は、また呻いた。
雪之丞は、さもしおらしく、片手を土に突いたままだ。
するとその時、取りまいた群集の中から、
「うむ、面白いな。こいつあ面白いな」
と、言う呑気な声が聞えて、やがて、人山を割って、一人の職人とも、遊び人ともつかないような風体の、縞物の素袷の片褄をぐっと、引き上げて、左手を弥蔵にした、苦みばしった若者が現れた。
「おい、浪人さん――その刀は、どうしたんだ? 赤鰯ではねえということは、御連中さま、もうよく、お目を止められましたぜ。斬るなら斬る、おさめるなら、おさめる――どっちかに片づけたらどうだ?」
その吉原かぶりの若者は、ぞん気にいって、雪之丞をながめて、
「ねえ、役者衆――売り出しの身で、大道に手をついているのは、あんまりいい図じゃねえ。おいらが引き受けたから、さあ早く行くがいいぜ」
その言葉を聴くと雪之丞は、
「御親切はかたじけのうございます」
と、そう言いながら、チラと、若者を仰いで、すらりと身を起した。
「お言葉に従い、ではわたくしは、行かせていただきます。さあ、そなたも」
と、腰が抜けたような、供の男を促して、素早く人混みの中に、くぐり込んだ。
その彼の耳に響くのは、吉原かぶりの若者の、きびきびした啖呵だった。
「さあ、お浪人、相手が変ったぜ。弁天さまのような女形のかわりに我武者らな、三下じゃあ、変りばえがしねえだろうが、たのむぜ。その斬れ味のよさそうな刀の、始末を早くつけたらどうだ?」
雪之丞は、急に駈けるように急ぎ出した供の男の跡を追いながら、小耳をかしげていた。
――あのお若い衆は、何者なのだろう? 余程すぐれた、お腕前御練達の方に違いないが、それにしても、あの姿は?
いつか彼はもう、御蔵役人屋敷前の、脇田一松斎道場の、いかめしい構えの門前に近づいていた。
脇田一松斎道場は、森閑としていた。
丁度、昼間の稽古が済んで、夜稽古は、まだ始まらぬのであろう。
雪之丞が訪うと、直ぐに、書斎に通された。武芸者の居間に似合わず、三方は本箱で一杯で、床には、高雅、狩野派の山水なぞが掛けられている。
それを背にして、一松斎は、桐の机に坐っていた。年の頃は、四十前後――。頭髪を打っ返しにして、鼠紬の小袖、茶がかった袴をはいて、しずかに坐ったところは、少しも武張ったところがない。殊更、その風貌は、眉が美しく、鼻梁が通り、口元が優しく緊っているので、どちらかというと、業態には応わしからぬ位、みやびてさえ見える。
一松斎は、敷居外にひれ伏した雪之丞を、眺めると、微笑を含んで、
「そなたが、江戸に下られた噂は、瓦版でも読んでいた。いやもう、大変な評判で、嬉しく思う。さあこれへ進まれるがよい」
雪之丞は、燭台の光に、半面を照されている旧師の顔を、なつかし気に仰いで、一礼すると、机の前ににじり寄った。
「一別以来、もう四年だ。日頃から、逢いとう思っていたが――」
「わたくしも、先生のお姿を一日とて、思い浮べ上げぬことはござりませんでしたが――。でも、今度は滞りなく江戸下りが出来まして、お目にかかられ、かように嬉しいことはござりませぬ。それに、ただ今道すがら、八幡さまにお詣りいたしますと、孤軒老師にはからず御対面。文武の両師にいちどきにお目にかかれましたも、神さまのお引き合せと、嬉しゅうてなりませぬ」
「ほお、孤軒先生に?」
と、一松斎はいくらか、吃驚したように、
「それは珍しい。かのお方も、御出府なされていようとは、存じよらなかった」
「何しろ八幡さま御境内で、売卜をなされておりますようで、すっかり、驚かされてしまいました」
「相変らず、意表に出でた暮しをなされているな!」
一松斎は笑って、
「あれ程のお方になると、並の生活は、なさりかねると見えるの」
そう言う彼も、依然として、独身生活を続けていると見えて、茶菓をはこんで来るのも、内弟子らしい少年だった。
「拙者の方は、例によって、竹刀ばかり持ち続けているが、どうもまだ、山林に隠れる程の覚悟も決まらぬよ。慰めは酒だ。そう申せば、只今は、灘の上酒を頂いたそうで、何よりだ」
それから一松斎は、満更、芸道にも昏からぬ言葉で、江戸顔見世の狂言のことなど、訊ねるのだったが、ふと、やや鋭い、しかし、静かさを失わぬ目つきで、雪之丞を見詰めると、
「よい折だ。今夜は、そなたに、拙者としてまず第一番の、贈り物をして遣わそう」
雪之丞は、師を見詰めた。
「外でもないが、拙者幼年の頃より、独立自発、心肝を砕いて、どうやら編み出した流儀の、奥義を譲ろう」
雪之丞は、一松斎の言葉を聴くと、のけ反るばかりに驚愕した。
「え? わたくしに、御奥義を、お譲り下されると仰有るので?」
一松斎は、微笑していた。
「如何にも、その時がまいったようだ」
奥義を許されると聴いて、雪之丞は、狂気仰天したのも無理はない。
脇田一松斎の奉ずる、独創天心流は、文字通り、一松斎自身の創意から編み出されたもので、彼の説によれば、剣の道は、一生一代――真の悟入は、次々へ譲り渡すことは出来ぬものだといわれているのだった。
一松斎その人が、既に、その極意を、何人から得たわけではなかった。彼にも、そこまで剣を練るには、いうにいわれぬ、悲苦艱難があったのだ。彼の父親は、大坂城代部下の、一勘定役人であったが、お城修理の砌、作事奉行配下の、腕自慢の侍と口論し、筋が立っていたので、その場は言い分を通したが、程経て、闇打ちに会ってしまった。
文武は車の両輪というが、なかなか一身に両能を兼ねられるものではない。代々算筆で立っていた、脇田家に生れた一子藤之介、――いま現在の一松斎も、父を打たれた当座は、刀を揮るさえ、腕に重かったのだ。
だが、それからの幾年月を、天下諸国を流浪して、各流各派の剣士の門を敲き、心肝を砕いて練磨を遂げているうちに、いつとはなしに、自得したのが、所謂、独創天心流なる、一種、独特な剣技だったのだ。
「教えられるだけのものは、既に教えてある気がするが、たった一つ、深く心に、噛みしめて貰いたいことがある。道場の支度が相済んだら、早速、伝授し遣わそう」
彼は、そういうと、手を鳴らした。
内弟子が現れる。
「御神前の御灯明をかがやかし、御榊を捧げなさい。道場にて、この者と、用事あるによって、人払いをいたすがよい」
内弟子は、かしこまって去った。
間もなく一松斎は、起ち上った。
秘義伝授と聴いて胸おどり、足の踏み所を知らぬ雪之丞――強いて、心を静めて、跡につく。
最早、夜稽古が始まる時刻で、道場に詰めかけていた、通いの門弟たちは、控え所の方へ追い出されていた。
道場壇上の正面、天照皇大神宮、八幡大菩薩――二柱の御名をしるした、掛軸の前には、燭火が輝き、青々とした榊が供えられていた。
その壇上に、ピタリと端坐した一松斎、道場の板の間に、つい一松斎の足下にひれ伏した雪之丞――粗朴剛健で、何等の装飾もない十間四面の、練技場。ガランとして人気もない中に、雪持寒牡丹の模様の着つけに、紫帽子の女形が、たった一人、坐った姿は、異様で且妖しかった。
「ではこれから、秘伝伝授の儀に移ろう」
一松斎はそういって、額ずく雪之丞を見下ろすと、祭壇に向って、柏手を打ち、深く、跪拝して、いつも神霊の前に供えてある、黒木の箱の蓋をはねると、中から、一巻の巻物を取り出した。
そして、元の座に戻って、
「雪之丞、まいれ。遣わすぞ」
その一巻を、壇下から、震えるばかり白い手をさし伸べて、受けようとする雪之丞、師弟の手が触れ合おうとした、その刹那だ。
道場外に声があって、
「その御伝授、お待ち下さい」
と、切羽詰まって、荒々しく響いた。
開き扉を音高く開けて、走り入って来たのは、大坂以来、一松斎につききりの一の弟子、師範代を勤める、門倉平馬という、髪黒く眼大きく、面長な、やや顎の張った、青白い青年だった。
「お待ち下さい、先生――」
と、彼は、雪之丞と押し並んで坐って、遮るように手をさし伸べた。
突然の闖入者門倉平馬、必死の形相で、またも叫んだ。
「先生――お止まり下さい。その一巻の披見、雪之丞にお許し、お止まり下さい」
雪之丞は、伝書を受け取ろうと、伸べた手を、思わず引いたが、師匠一松斎は、ただ静かな瞳を、平馬に向けただけだった。
「日頃にもない平馬。その乱がわしさは、何事だ」
「何事とは、お情ないお言葉――」
と、平馬は、血走った目つきで、師匠を睨め上げる様にしたまま、
「かねがね仰せられるには、独創天心流には、奥義も秘伝もない、自ら学び、自ら悟るを以て、本義となす、――と、繰返しての仰せ、それを何ぞや、この場にて、門下とは申せ、言わば列外の雪之丞に、秘巻拝見をさし許されるとは、あまりと申せば、理不尽なおなされ方――この門倉平馬、幼少よりお側に侍り、とにもかくにも、到らぬながら一の御門下、――御師範代をも仰せつかっております以上、万一、御秘義、御授与の儀がありとせば、先ず以て、拙者に賜わるが順当、――他のことにござれば、恩師より、蹴られ、打たれ、如何ようの折檻、お辱かしめも、さらさらお怨みはいたしませぬが、こればかりは、黙して、忍びかねます。順に従い、御披見を、先ず拙者に許されますよう、平にお願いいたしまする」
武道の執念、栄辱の憤恨、常日頃の沈着を失った平馬は、いまは、両眼に、大粒な口惜し涙を一杯に浮かべてさえいる。
「平馬――」
と、一松斎は、顔色を動かさずに呼びかけた。
「わしはこれまで、その方はじめ、門下一同に向い、拙者一流の兵法を、よう自得いたしたとか、自得せぬとか称めもくさしもしたことがあったか? わしは何時も、ただ、竹刀木剣を持って、その方たちの打ち込みを受け、隙があればその方たちを、打ち倒してつかわしたまでだ。わしの修業が、自ら悟る一方でまいった故、その流儀で、その方たちを訓育したまで、――順の、列外のと、その方は申すが、わしにおいては、昨日の弟子も今日の弟子も、全く同じもの。その方に師範代などと言う名義を与えたこともない。単に、居つきの古い弟子故、門弟一同の方から、その方を立てているまでだ。と、申すは何も、その方を、蔑んだり、その方の剣技を認めぬと言うわけではない。わしはわしの流儀で、人間を縛るのが厭だからだ。いつも申す通り、業も一代、人も一代、いかにその方が、わしの流儀を尊んでくれたればとて、わしとて、剣の神ではない。その方自身の悟入の結果、わしの流儀に反対な、説を立てねばならぬことにならぬと、誰に言えよう? そうしたわしの心構えを、満更知らぬその方でもあるまいに――」
「それは十分呑み込んでおりまするが、それなれば何故、これなる俳優に、事々しゅう、秘巻伝授などと言う事を、仰せられましたか?」
平馬は相変らず、滂沱たる目で、師匠を見詰めつづける。
「方便だ」
と、一松斎は、強くいった。
「雪之丞は、一方ならぬ大事の瀬戸際、これまで不言不説のうちに過ごしたことを、きっぱり、思い知らせつかわそうとしたまでだ」
「然らば拙者にも、恩師御覚悟の御精髄を、改めてお示し下さるよう――」
平馬は、どこまでも退かなかった。
門倉平馬が、面色を変じて、強請をつづけるのを眺めて、一松斎は、別に怒るでもなく、
「そこまでその方が申すなら、見せても遣わそう。したが、この独創天心の流儀は、そのように焦心、狂躁いたすようでは、なかなか悟入することは覚束かないぞ――」
そして手にしている巻物を、
「雪之丞、まずその方より、――」
と、若女形の方へ差しだした。
雪之丞にすれば、何も、兄弟子平馬に先んじて、秘伝伝授を受ける心はないが、折角の折柄を妨げられて、不安を感じていたのを、師匠が、片手落ちなく両方へ、披見を許すといってくれたので、やっとほっとして、白い手を恭しく差し伸べたのだった。
すると、その刹那――間髪を入れず、ぱっと躍り上った門倉平馬、師匠から雪之丞へと、渡されようとする巻物を、傍からひっ掴むと、飛鳥のような素早さで道場外へと、飛び出した。
はっと驚愕した雪之丞、
「狼藉!」
と、叫んで、これも飛び上って跡を追おうとする。
一松斎は、呼び止めた。
「追うな。心を静めて坐れ」
「と、仰せられても――」
と、雪之丞が、踏み止まりながらも、心は、無礼暴虐な平馬の姿を追って、うわの空――
一松斎は、寧ろ悲し気に微笑していた。
「天から授からぬものを、強いて暴力で奪おうとしたところで、何も得られはせぬ。平馬は、わしの側について、十年あまり、剣技を学んだが、業よりも大事なものを、学ぶことが出来なんだ。雪之丞、彼が奪い去った一巻に、何が記してあると思ったか? 実はあの一巻――単に空の白紙に過ぎなかったのだ」
いつか、雪之丞は、師の前に、膝まずいていた。――師匠は続けた。
「わしの流儀には、不言不説を、旨とするのは、そなたたちも、よう知っている筈だ。奥義とて、文字に現せる筈もなし、それを強いて現し得たとしても、その一巻を、如何に御神霊の前なりとは言え、守る人もなきところに、捧げて置く筈があろうか? あの巻物は、何人のためでもない。わし自身の、増上慢を自ら誡めようための、御神霊への誓いだったのだ。とかく術者は、業を自得し、その名が世間に認められ、慕い寄る門下も、多くなればなる程、最初の一念を忘却し、己が現世の勢力を、押し広め、流派を盛んにして、我慾を張らんとし、秘伝の極意のと、事々しく、つまらぬ箇条を書き並べて、痴者を威そうとするものだ、わしとても、神ならぬ人間。――いつ何時、心が魔道に墜ちぬとも限らぬと、自誡のために、わざわざ白紙の一巻を、二柱の御神前に供え奉って置いたわけ。そなたに今宵、白紙の一軸を贈ろうとしたのも、今度こそ、大事を思い立っていると、見極めた程に、改めて、わしの日頃の、魂そのものを、伝えようとしたまでだ。何も、平馬を追うには及ばぬ。彼はただ、師を失い、友を失って、全く空なるものを掴んだだけじゃ」
雪之丞は、ひれ伏したままで、深い感動に満たされた。
「さあ、会得したら、彼方の室にて、そなた持参の銘酒の酒盃を上げよう。まいれ」
師弟は、神前に額ずいて、道場を去った。
一松斎も雪之丞も酒盃を傾け始めると、もう今までの道場での事件などには、何も触れなかった。言わば、浮世話と言ったような、極めて暢びやかな会話が、続くだけだった。朗かな談笑の笑声さえ漏れていた。酒だけが楽しみのような一松斎の頬に、赤い血の色が、ぼうっと上る頃、雪之丞は、暇を告げようとした。
「ゆっくりお相手をいたしたいのでござりますが、宿元に戻りましてから、狂言の打ち合せもござりますので、これでお暇が願いとう――その中に、必ずまた、御機嫌伺いにまいりまする」
「さようか。――わしも、近々、必ず、そなたの舞台を拝見に、まいろう」
と、いつくしみの目を向けた一松斎は、ふと、思い出したという風で、極めて何気なく、
「これは、心得のためにいい置くだけだが、彼の門倉平馬は、この頃、土部駿河守の屋敷に、出稽古にまいっておる。それだけは心に止めて置いてよいだろう」
土部駿河守というのは、大身旗本で、名は繁右衛門。浜川、横山などが代官又は、手付役人として長崎に在任、雪之丞の父親を籠絡して、不義の富を重ねていた頃、最高級の長崎奉行の重職を占め、本地の他に、役高千石、役料四千四百俵、役金三千両という高い給料を幕府から受けながら、猶且慊らず、部下の不正行為を煽動して、ますます松浦屋を窮地に落させた、いわば涜職事件の首魁といってもいい人物なのであった。
この人間には、不思議な病癖があって、骨董珍器、珠玉の類を蒐集するためには、どのような不徳不義をも、甘んじて行おうとする気性、松浦屋の手から召し上げた珍品だけでも、数万両の額に上ると言われていた。
それが今では、隠居して家督を、伜繁助に譲り、末娘が将軍の閨房の一隅に寵を得、世ばなれた身ながら、隠然として権力を、江都に張っていたのであった。
「ははあ、さようでござりますか、――それは何よりのことでござりますなあ」
と、雪之丞は、兄弟子が出世の緒口を、首尾よく掴み得たのを喜ぶというような、極く気軽な挨拶で受けた。
起ち上る雪之丞を、師匠は、室の出口まで見送った。
雪之丞は、供の男を従えて、外へ出る。
晩秋の夜気は、しんと沁み通るようだ。無月なのに星の光りが、一層鮮かに、冷たい風が、あるか無きかに流れている。
供男は、供待ちで、これも一口馳走になったと見えて、浪人に脅かされて以来、びくつききっていた、来る途中の萎れ方は何処へやら、元気な声で、
「この分では、初日二日目、三日目――大した人気にきまっておりますぜ。何しろ初上りの親方衆の、顔見世と言うのだから、座が割れっ返る程、大入り請合いだ」
「そうなれば宜しいが、――何分始めての御当地故、入りばかり気になって、――」
雪之丞は謙遜深く、そんな相槌を打ちながら、さしかかったのが、横町を行きつくして、御蔵前通りの、暗く淋しい曲り角――。
すうっと、ある肌冷たさが、雪之丞の、白くほっそりとした首筋に、感じられた。と思う刹那、闇をつん裂いて、無言の烈刃が、びゅうと、肩口に落ちて来た。
ぎゃっ、とおめいて、遁げ出す供男。雪之丞は、ひらりと躱すと、じっと身をそばめて、気配を窺った。
闇を透して、相手をうかがう、雪之丞の細っそりした右手はいつか、帯の間にはいって、懐剣の柄にかかっていた。
躱された敵は、退さって、じいっと、剣をあげて、次の構えに移ったと見えて、青ざめた星の光が、刀身にちらちらときらめき、遠い常夜灯のあかりに、餌食を狙う動物のように、少しばかり背かがみになった姿が、黒く、物凄く看取された。
雪之丞は、気息を整えた。
相手の荒らいだ息も静まって、死の静寂がおとずれた。
と、――見る間に、かざされた大剣がさっと走って、雪之丞の頭上に閃き落ちる。
じいんと刃金が相打って、響きを立てて、火花が散った。それなりまた、二つの姿は、少し離れて、互に隙を窺う。
暗殺者の刀は、下げられた。
懐剣をまともに突き出すようにしていた雪之丞の手先が、ぐうっと、引き上げられると、それに吸い寄せられたように、たっと土を蹴って、薙ぐと見せて、突いて来る相手――
長短の剣は、一瞬間、からみ合い、二つの黒い影は、もつれ合った。どうした羽目か、短い剣が、長い剣の持主の、腕の何処かに触れたらしく、あっと低く、呻く声がしたと思うと、黒影は咄嗟に二つに分れて、暗殺者が、傷ついた獣物の素早さで、闇に消え行く姿が見えた。
雪之丞は、懐剣をかざしたまま、追おうともせず、見送ったが、相手が余程の強敵だったと見えて、呼吸は乱れ、全身に、ねっとりと汗だ。
――あれは確かに、天心流。矢張り、あのお人だ――
彼の心の目に浮んだのは、当然門倉平馬の、あの青ざめた、顎の張った顔であったろう?
――何という浅ましいお人! お師匠さまが、何となく当てになさらなかったのも、お道理じゃ――
雪之丞は、そう心に呟きながら、懐剣に懐紙で拭いをかけて、鞘に収めると、供男の姿をあたりに探めたが、
「ほほ、――遁げ脚の速い和郎じゃ!」
と、口に出していって、不敵な微笑を唇元に浮べたが、しかしいつかまた、かすかな縦皺が、美しい眉根の間に蔭をつくった。
彼は、門倉平馬が、彼にとっては、仇敵の総本山であるような、土部駿河守の麾下に、新しく属しているということを、一松斎がわざわざ囁いてくれたのを思い出したのだ。
今夜こそ、平馬の一刀が、自分の生命を奪い損ね、まんまと敗衂の姿を見せたものの、決して油断のならぬ、技倆の持主であるということは、十分に知っている。彼は、自分の希望を成しとげるに、あらゆる意味で、大なる困難が横たわっていることを、改めて思わずにはいられなかった。
雪之丞は、しとしとと、夜道を、御蔵前通りを、駒形の方へ、歩を運ぶ。
すると、思いがけなく柳かげから、
「太夫さん、何とまあ、素晴しいお手のうちじゃござんせんか!」
と、いう、若々しい、しかし、いくらか錆た声がいいかけて、はばからず歩み近づいた一人の男。
見れば、それは、黄昏どき、浪人者に難題をいいかけられた折、割ってはいった、あのいなせな、若衆だった。
「あなたは先き程の、――」
と、そういいながら雪之丞は、御高祖頭巾を取ろうとした。
雪之丞が、両手を膝のあたりまで垂れて、先き程、はからず難儀を救って貰った、礼を言おうとするのを、若い衆は押えて、
「何の、太夫、――お言葉に及びますものか、一寸一目見ただけでも、あの浪人者なんぞは、お前さんの、扇子がちょいと動きゃあ、咽喉笛に穴をあけて、引っくり返るのは、わかっていたが、人気渡世が、初の江戸下りに、血を流すのも、縁起がよくあるめえと、持って生れた、瘋癲根性――つい飛び出してしめえやした。あの野郎、ちっとばかし、威してやると、すっ飛んで行きやがった」
雪之丞は、べらべらと立て続けに喋舌りつづける、この吉原かぶりの、小粋な姿を、不思議そうに見つめるばかりだ。
――ほんに一たい、この御仁は、如何なるお人であるのだろう? 如何にもあの時の、わたしの構えは、あの刀が振り下ろされたら、躱したと見せて、咽喉元を、銀扇の要で、突き破ってやるつもりだった。それを見抜いた眼力は、大きく見れば程知れず、低く見ても、免許取り。それ程の方が、このお姿、――ますますわたしには解らない、――
若者は、雪之丞の瞠目を、暗がりの中で感じたか、カラカラと笑って、
「お前さんは、多分、あの時、あっしが、飛び出して、その場をさばいた揚句、扇の構えが、どうのこうのといったので、やっとうの方でも解るように、お思いなすって、吃驚なすっているのだろうが、なあに、何でもありゃあしません。ごろん棒のあっし達。喧嘩に場慣れているだけでさあ」
と、事もなげにまくし立てたが気がついたように、
「実はあれから、この近所に、あっしも用達しがあったので、その戻り道。たった今の剣の光を見たわけですが、太夫さん程の腕がありゃ、どんな夜道も安心だとはいうものの、そのしおらしい女形姿を、夜更けの一人歩きは考えもの。ついそこに辻駕籠がいる筈だ、ちょいと呼んで来てあげましょう」
気軽にそういうと、もう、姿をすっと闇に消して、間もなく、向うの方で、
「おい、駕籠やさん――あそこにお客が待っている。山ノ宿まで一ッ走り、送ってあげてもれえてえ」
と、いう声がしている。そして直きに、辻駕籠は思わぬ客を拾った喜びに、いそいそと、こちらへ近づいて来る様子。
すると、突然、たったいま、あの訝しい若者の、声がしていた方角で、
「御用だ。闇太郎! ――」
「闇太郎、御用!」
と、けたたましい叫びが起り、足音が、荒々しく入り乱れる。
雪之丞は、はっとして、日頃の仕来りで、女らしく、振りの袂で胸を抱いた。
――まあ、あの騒ぎは! ――
彼は、直覚的に、夜廻り役人から、御用の声をあびせかけられている当人は、いまここを退いたばかりの、あの若者であるに相違ないと思うのだ。
雪之丞は、この府内に最近上って来たばかり、闇太郎という名から推して、大方、盗賊、夜盗の綽名とは思ったが、それにしても、あの粋で、いなせで、如何にも明るく、朗かな若者が、そうした者とも思われない。
首を傾げていると、目の前に、辻駕籠がとんと据って、
「へえ、お待ち遠さま――。駕籠の御用は、あなたさんで、――?」
と、先き棒が言うのだった。
雪之丞が、通りの向うの闇を見つめたまま、前に据えられた辻駕籠に、乗ろうとしないので、駕籠舁が、
「さあ、どうぞお召しなすって――」
雪之丞は相変らず、瞳を前方に注いだまま、心がここにない風で、
「たしか、闇太郎、御用と言ったように聞えましたが――」
「へえ、何だか、そう申したようでございましたね」
と、後棒が答えて、蔑むような口調になって、
「なあに、あなた、この辺の見廻り役人や、目明し衆が、十人十五人で追っかけたって、闇太郎とも云われる人を、どうして、捕っつかめえることが出来ますものか――」
その調子に、何となく役人に追われる者の方に、却って同情が濺がれているのを感じながら、心を残して雪之丞は、しとやかに駕籠に身を入れる。
脱ぎ捨てた雪駄を、ぽんと塵を払って中に突っ込んだ駕籠舁――肩を入れて、息杖をぽんとついて、掛声と一緒に小刻みで走り出す。
雪之丞の胸の中は、今の、闇太郎問題で一杯だ。その人物は、たしかに、つい今し方、この駕籠を、自分のために、呼びに行ってくれた、あの若い衆に相違ない。しかもそれが、この駕籠舁たちにさえ、すっかり名前が通っている、名うての悪者らしいとは――
「それで、――若い衆さん――」と、雪之丞は、訝しさに訊ねかけざるを得ない。
「その闇太郎というお人、――一たいどんな方なのだね?」
「では、ご存じがありませぬか――? あなたは、江戸が初めてだと見えますね?」
と、先棒が、
「何しろ闇太郎といっちゃあ、大した評判の人ですよ。いわば義賊とでもいうのでしょうか――大名、豪家、御旗本やら、御用達、――肩で風を切る、勢いで、倉には黄金は、山程積んであろうところから、気随気儘に大金を掴み出し、今日の生計にも困るような、貧しい者や、病人に、何ともいわず、バラ撒いて、その日を救ってやるという、素晴しい気性者、そんなわけで、江戸中の人気が一身に集まっているのです」
「そういう人のことですから、いつどんな場所で、御用の声がかかっても、元より当人は素ばしっこい腕利きですが、町の人達、通行人も、役人に腕貸しをするような、出過ぎたことはいたしません。いまのいまだってなあ――先棒?」
「そうよ。たったいまだって、この方が駕籠が欲しいようだぜ、と、声をかけてくれたその人が、五間と向うへ行かねえうちに、御用の声だ。闇太郎という声がなけりゃあ、役人衆に手貸しをして、捕めえるが、こっちらの務だろうが、あの呼びかけがあったので、わざと、聞えねえ振りをして、後も向なかったわけなのです」
雪之丞は、始めて、一切が呑み込めたのだった。
彼は、駕籠舁たちよりも、一そう強く、あの若い生き生きしい、いなせ男を、思慕せずにはいられない。賊と聞いても、怖ろしいどころか、却って懐しく、どうかして、もう一目逢いたいようにすら思うのだった。
辻駕籠が、月なき星空の下を、北へ飛ぶ。もう直き、旅籠のある、山ノ宿だ。
雪之丞の駕籠は、間もなく、大川の夜の霧が、この辺まで、しめじめと這い寄って、ぼうっと薄白く漂っている、山ノ宿の、粋な宿屋町までやって来た。
「山ノ宿へ着きましたが、――」
と、先棒が言った。
「ああ、御苦労さま、――ついそこの、花村と言う、旅宿の前に着けて下さい」
と、雪之丞は答えた。
駕籠は、屋号をしるした行灯が、ほのかに匂っている一軒の、格子戸の前に降された。
駕籠やは、酒代にありついて、喜んで戻って行く。
格子が開いて、玄関に、膝をついて出迎える女中たち。揃って、小豆っぽい唐桟柄に、襟をかけ、黒繻子の、粋な昼夜帯の、中年増だ。
「若親方――お帰りなさい」
と、いう声々にも、上方の人気女形の宿をした、旅籠の召使いらしい、好奇と喜びとが溢れている。
うしろから、眉は落しているが、歯の白い、目にしおのある、内儀が顔を出して、
「ついさっき、お供のお人が周章てて、駈け込んでおいでだから、どうしたのかと、親方さんに伺ったら、なあに何でもない。もう追っつけ、お戻りになるだろうと仰有る故、そのままにしましたが、何か途中で、変ったことでも――?」
「いいえ、何でもありませぬ。途中で、辻斬りらしいお侍に出会いますと、案内に立ってくれた、義さんとやらが、御当地のお人にも似合わない、弱虫で、横っ飛びに遁げておしまいでしたが、――では、ここまで、夢中で飛んでお帰りだったと見えますね」
と、雪之丞は、そらさぬ微笑で答えながら、白い足袋裏を見せて、内輪の足取りで階段を踏んで二階へ上る。
表二階を通して、四間。雪之丞とその師匠、中村菊之丞のための部屋になっていた。
菊之丞一座は、一行、二十数人の世帯であったが、江戸へ来ると、格で分れて、この界隈の役者目当ての宿屋に、分宿していた。
雪之丞とて、師匠の隣部屋に、宿る程の分際ではなかったが、弟とも、子とも言う、別種な関係があり、殊更、今度の江戸上りは、彼にとって、重大な意義があるのを、知り抜いている菊之丞故、わざと、身近く引き寄せて、置くわけだった。
師匠の部屋に、灯がはいっているのを見ると、雪之丞は、静かに廊下に膝をついて、障子の外から、
「お師匠さま、ただ今戻りました」
「おお、待ちかねていましたぞ、さあ、おはいり――」
いくらか錆のある、芸人独特の響きを含んだ声が答えた。
雪之丞は、部屋にはいる。
師匠菊之丞は、厚い紫地の友禅の座布団に坐って、どてら姿だったが、いつもながら、行儀よく、キチンとした態度で、弟子を迎える。
部屋の中には、何処となく、練香の匂いが漂って、手まわりの用をたす、十三、四の子役が、雪之丞が坐ったとき、燭台の、芯をなおした。
「何か妙なものに出会ったと聴いたが、そなたのこと故、別に気にもせず、帰りを待っていましたぞ」
と、菊之丞は、微笑した。
彼は、この愛弟子の不思議な、手練をよく知っているのだ。
「は、ちょいと、光り物がしましただけで――」
と、雪之丞も、微笑を返した。
それから、師匠菊之丞は、脇田一松斎の機嫌は、どうであったか――などと訊ねながら、自分で愛弟子のために、茶などいれてくれるのだった。
雪之丞は、行く道で、孤軒老師に邂逅した一条や、脇田道場での門倉平馬との経緯や、匿すべき相手でないので、一切を告げ知らせるのであった。
「ほほう、それで、そなたの前に、きらめいたという光り物のわけも、大方解ったようだ」
と、師匠は頷いて、
「してその、門倉とかいうお方は、余程のお腕前かな?」
「それはもう、一松斎先生が、一のお弟子と、お取り立てになった程の仁、まず何処へ出しても、引けをお取りになる方ではござりませぬ。わたしが、あの方の、暗中からの不意打ちを、どうやら防ぐことが出来ましたのは、何しろ、あのお方は、闇打ちは卑怯なことと、お胸の中で、何処か怯がおありでありましたろうし、それに、日頃信心の、神仏の御加護があったためでもござりましたろう。決して、油断も隙もなるお方ではござりませぬ」
と、雪之丞は、いつもの謙遜で答えた。菊之丞は、弟子の顔を見詰めて、
「そうじゃ、そうじゃ。いつもその謙遜を忘れねば、芸術も兵法も、必ず、至極の妙に達しることが出来るであろう。その志は、わし達のような年になっても、構えて忘れてならぬものだ」
などと、話しているところへ、来たのは、今度の座元、中村座の奥役の一人だった。
かたばみの紋のついた、小豆色の短か羽織。南部縞の着付。髷を細く結った、四十あまりの男は、丁寧に、菊之丞の前に挨拶して、
「大分、時刻が遅うござりますが、太夫元の方で、是非お耳に入れて、お喜ばせ申した方がいいと申しますので、出ましたが、――」
と、言いながら懐中から、書類のようなものを取り出して、
「まあ、御覧なさいませ、初日から、五日目まで、高土間、桟敷ももうみんな、売切れになりました」
菊之丞は、拡げられた香盤をのぞき込む。成程、何枚かの図面には、総て付け込みのしるしが一面に書き込まれているのだった。
「ほほう、これは素晴らしい景気でござりますな!」
「なおまた、御覧に入れたいのはお客様の顔触れで――」
と、奥役は何やら細々記した罫紙を見ながら、
「駿河町では、三星さま、油町では、大宮さま、お蔵前の札差御連中。柳橋、堀、吉原の華手やかなところはもとより諸家さま、お旗本衆――日頃御直き直きには、中々お顔をお見せにならぬお人たちも、今度は幕を張っての御見物のように承わります。その中でも、長崎の御奉行で、お鳴らしになり、御隠居になってからも、飛ぶ鳥を落すような、土部さまなどは、御殿に上ってお居での御息女が、お宿下りのお日に当るとかいうことで、初日、正面の桟敷を、御付込みになりました」
「なに、なに? 土部――?」
と菊之丞は、雪之丞の方を、チラリと眺めながら、
「どれどれ、その書き物を、お見せ願わしい」
と手をさし伸べた。
雪之丞の、星にもまがうような、美しい瞳は、奥役の唇から、土部駿河守の名が洩れた時、異様なきらめきを漲らして、思わず、何か口に出そうとしたようであったが、チラリとこちらに向けられた、師匠の視線に、辛うじて、己れを制したのであった。
菊之丞は、
「どれどれ、わしに、お書き付を、お見せ下され」
と、いって奥役から、書き込みを受け取ると、
「雪之丞、そなたも拝見なさい。成る程、さて、さて、素晴らしいお顔振れ、こうした方が、揃っての御見物では、こりゃ、うかとは、舞台が踏めませんわい」
雪之丞は、目を輝かして、師匠がさし示す見物申込の書き込を、のぞくのだった。
そこには、多くの、江戸で名だたる、花街、富豪、貴族たちの、家号や名前が、ずらりと並んでいるのだったが、彼の瞳は、ただじっと、土部三斎という、駿河守隠居名に、注がれて離れなかった。
彼の胸は、激烈な憎悪と、憤恨とに焦げるのである。父親を、破滅させて、陋巷に窮死させた、あの残忍な一味の主魁が、今や、一世の栄華を擅にして、公方の外戚らしく権威を張り、松浦屋の残映たる、自分の舞台を、幕を張り廻らした、特別な桟敷から見下ろそうとするのである。
雪之丞は、夕方、路傍にいいがかりをつけて来た、あの素浪人の口から叫ばれた、
――河原者! 身分違い――
と、いったような言葉を思いだして、奥歯を噛みしめるのだった。
師匠、菊之丞は、愛弟子の、そうした胸の中を察したように、わざと、上機嫌な語調で、
「のう、雪之丞、これは、そなたも、怠慢てはいられませぬぞ。御歴々の御見物、一足の踏み違えでもあっては、お江戸の方々から、上方者は、到らぬと、一口に嘲われましょう」
「はい、慎む上にも、慎んで、一生懸命、精進いたす覚悟でござります」
奥役は、師匠が前景気に十分喜ばされたように信じて、いそいそと帰って行った。彼の敏捷な、表情には、
――これはいよいよ大当りだ! 並の役者とは違った、一風変わった気性と聴いた菊之丞が、あれ程、嬉しそうな顔をしたので見ると、狂言には、屹度、魂がはいる。この頃不入り続きの中村座。この顔見世で、存分お釜が起きようわい――
奥役が去ってから、師匠は、仄かな灯の下に、じっとさし向いになっていた。
「雪之丞、とっくりと見たであろうな?」
「はい、拝見いたしました」
菊之丞は、考え深い目つきで、諭すように、
「だが雪之丞、申すまでもないことだが、桟敷に、土部三斎を始め、どのような顔を見たとても、構えて心の動きを外に出してはなりませぬぞ。そなたの腕なら、舞台から笄を投げても、三斎めの息の根を止めることは出来ようが、それでは、望みの十分の一を、達したとも申されぬ。その辺のことを、ようく思案して、そつなく振舞うように――」
雪之丞は、青ざめて、美しい前歯に、紅い唇を、噛みしめながら、懇ろな師匠の言葉に、素直に肯首ずいているのだった。
「いつか、夜も更けたようだ。そろそろ床を敷らせようか?」
と、師匠がいって手を鳴らした。
雪之丞が師匠の次の間に延べられた、臥床の中に、静かに身を横たえて、
――何事も思うまい。お師匠さんの仰言る通り、じっと怺えて、いざと言う場合まで、自分の力を養って行く他はないのだ。気を嵩ぶらせてはならぬ。女の子のように、めそめそしてはならぬ。また、じりじりと焦ってもならぬ。姿こそ、変生女性を装っては居れ、胆は、あくまで猛々しいわたしでなければならぬ。眠ろう――
と、胸の上にそっと手を置いて、呟いて、やっとうとうとと、まどろみ始めた頃のことであった。
この山ノ宿から、ぐっと離れた柳原河岸、――細川屋敷の裏手。町家が続くあたりに、土蔵造りの店構え、家宅を囲む板塀に、忍び返しが厳めしい。江戸三金貸しの一軒と、指を折られる、大川屋と言う富豪の塀外を、秋の夜の、肌寒さに肩先をすくめるようにして懐ろ手。吉原冠りの後ろつきも小粋な男が、先ず遊興の帰りとでもいうような物腰で、急ぐでもなく歩いていた。
その男が、遠い灯りがさすだけで、殆んど真っ暗がりな夜中の巷路に、ふと立ち停まって、件の大川屋の板塀の方へ、すっと吸い込まれるように身を寄せたその刹那、
「闇太郎――御用」
と言う叫びが、やや間を置いたところから聞えて、町家の庇合から、急に涌き出したように現れた、二つ三つの提灯の光。
吉原冠りの若者は、丁度いま、大川岸の裏塀に這い上って、忍び返しを越えようとしていた折も折この呼び掛けでじっと身を固くしたが、しかし、別に周章てるでもなく、
「うむ、執拗っこい奴等だな、御蔵前で見ん事、撒いてやったと思ったに、し太く跟けて来やあがったのか」
と、呟くと、そのまま、すうっと、下に降りて、板塀に後ろ楯。ぴったりと背を貼りつかせた。
この闇太郎と言う盗賊――先き程、雪之丞を乗せた駕籠屋が、まるで江戸自慢の一つのように、謳った通り、今や江都に、侠名嘖々たる怪人物。生れは、由緒正しい御家人の家筋。父親が、上役の憎悪を受けて、清廉潔白の身を殺さねばならなくなったのを、子供心に見て以来、いわば、社会の不合理な組織を、憎み嘲む、激情止み難く、遂に、無頼に持ち崩し、とうとう、賊をすら働くようになった若者なのだ。したがって、天晴れの気性者。その上、身の働きの素早さは、言語に絶し、目から鼻へ抜けるような鋭い機智で、どんな場合にも、易々と、危難の淵を乗り切るのだ。
闇太郎という名乗りも、大方、自分がつけたのではなく如何なる真の闇夜をも、白昼を行く如く、変幻出没が自在なので、世間で与えた、渾名が、いつか、呼び名になったのであろう。
江戸司直の手は、最近殊に手きびしく、この怪人の行方を、追い究めていた。あまりに屡々、権門富家の厳重な緊りを、自由に破られるので、今や、警吏の威信が疑われて来ているのであった。
その闇太郎の姿を、ふっとこの晩、御蔵前通りで、見つけた町廻り同心の一行。あまりに咄嗟な出会いなので、はっとする間に、強敵の姿を見失ったが、非常警報は、八方に伝えられ、ここまで遁げ延びて、大仕事に司直の鼻をあかそうとした彼を、再び網にかけたわけなのだ。
「闇太郎、遁れぬぞ!」
と、呼び立てる声は、ますます近寄って来た。
しいーんと寝静まった秋の真夜中、江戸三金貸しの一軒、大川屋の裏塀に、ピタリと背を貼りつけて、白木綿の腹巻の間に、手をさし込んで、匕首の柄を握りしめながら、じっと、追って来る捕り方たちの様子を覗う闇太郎だ。
捕り方たちは、御用提灯を振りかざして、獲物を狙う獣物のように、背中を丸めるようにして、押しつけて来るのだったが、さりとて急には飛び込めない。相手は何しろ、当時聞えた神出鬼没の怪賊。迂濶に近寄っては、怪我のあるのは当然として、却って、またも取り逃がすことになるかも知れぬ。
「馬鹿め。何をうじうじしているんだ! 秋の夜は長えといっても怠慢けている中にゃあ、直ぐ明けるぜ」
と唆かすようにいいながら、たたっ――と、空足を踏んで見せたその響きに、寄せられたように二人の手先が、銀磨きの十手を振りかぶって、毬のように飛び込んで来た。
その出鼻を、ぱっと、塀を蹴放すように、飛び出した闇太郎。振り込んで来る得物の下をかいくぐって、横っ飛びに、もういつか、五間あまり、駆け抜けていた。
「わああッ!」
と追い縋る捕り方たち。
するといつの間にか、この騒擾が知れ渡ったと見え、どろろんどろろんと、陰にこもった太鼓の響きが、遠く近く、聞えて来る。
町木戸の閉される合図だ。
捕り方の方では、その響きを聞いて、ほっと気が緩んだであろうが、そうした気持を、よく見抜いている闇太郎は、あべこべに、
「ざまあ見ろ。木戸が閉まりゃあ、却って此方のものだ」
と、心の中で嘲み笑いながら、威すように振りかざした匕首を、星の光にきらめかし、軒下の暗がりから暗がりを、ぱっぱっと、闇を喜ぶ蝙蝠のように縫って行く。――とある横町の角まで来て、軒に沿うて曲ろうとすると、前を塞ぐ、十人あまりの同勢、
「上意」
「御用」
の大喝を発しながら、突棒を振り上げて、待ち構えているのだ。
闇太郎の細そりした手先は、つと、町家の庇にかかる。
と、見る間に、彼の姿は、いたちのような素速さで、屋根を越えて、見えなくなった。
彼が飛び降りたのは、裏新町の狭い路地。その路地を、足音も立てず、ひた走りに走って、やや広い通りへ出る。
闇太郎の行動は、例によって、敏捷を極めているのだが、今夜は、相手は、なかなか厳しい準備が出来ていた。
その中をくぐりくぐり、やっとのことで、遁げ延びて来た柳原河岸。一方は大名屋敷の塀続きで、一方は石置場。昼間でも、夜鷹が茣蓙を抱えて、うろついているような、淋しい場所だ。
闇太郎――ここまで来て、もう此方のものだと思った。石置場の暗がりに飛び込んでしまえば、どのような鋭い探索の目も、及ばぬであろう。その上河には、主のない小舟も、何艘か、かかっているのだ。
その石置場へ、今や遁げ込もうとした闇太郎。激しく何者かに呼びかけられて、はっとして立ち竦んだ。
「待てッ、怪しい奴」
見れば、つい目の前に、大たぶさの侍が、突っ立っていた。
石置場の暗がりに、飛び込もうとした闇太郎――出し抜けに呼びかけられて、向き直った目の前に、大たぶさの若い武士の、立姿を見出した刹那、いつになく、はっと、衝撃を感じた。
無造作に突っ立った、相手の体構えに、不思議な、圧力が漲っていたのだ。何十何百の、捕り方に囲まれても、一度も周章たえたことのないような、不敵者の彼だった。
――こいつあ、一通りでねえ、代物だぞ!
と、心に呟いて、いままで、単に、捕り方たちを威すために抜きかざしていた短刀を、握りしめて、前屈みに、上目を使って、じっと侍の様子を覗った。
幸い、捕り方たちは見当外れの方角へ、駆け去ってしまっていたものの、この侍が大声を発したら、またも、五月蠅く、まつわって来るに相違なかった。
「夜中、怪し気な風態で、匕首なぞをきらめかしているその方は、何者だ?」
闇太郎を見下ろして、鋭い調子で、詰問するこの武家こそ、これも今夜、雪之丞への奥義伝授の経緯から、突如として、十年も側に仕えた、恩師の許を飛び出した、門倉平馬に他ならなかった。
彼は、雪之丞を、闇打ちにかけ、一刀の下に斬り伏せようとして、却って、左の二の腕に、傷を負わされ、不首尾に終って遁げ延びてから、捨て鉢の気持で、とある、小料理屋で、酔いを買ってから、松枝町にある、土部三斎の隠宅を頼って行こうとする途中だった。
「旦那――見遁してやっておくんなせえ」
と、闇太郎は、とにかく下手に出るのだった。
「つまらねえ仲間喧嘩に、お上の手がまわったので身を匿そうとするところなんで――」
「いい遁れはきかぬぞ」
と、平馬は、口元に冷たい微笑を這わせて、言った。
「その方は、うち見るところ、ただの博奕打ちや、小泥棒ではない。拙者に油断が、毛程でもあったら、もうその匕首を、とっくに胸元に突き刺していた頃だ。無頼漢には珍しい気魄、――何れ、名のある曲者だろう。見遁すわけには、断じてならぬ」
「見遁さぬといって、――それじゃあ、どうなさるんで――?」
「いうまでもなく、引っ捕えて、役向へ、突き出すまでだ。その方如きを、うろつかせ置いては、市民の眠りが乱されよう」
「ふうん、して見ると旦那は、岡ッ引の下職でもしていなさるんですかい?」
と、闇太郎の調子は、急に不逞不逞しく変った。
「無頼漢を一人突き出して、いくらか、お手当でも頂こうという腹ですかい? とかく窮屈になった御時勢で、お侍さんも、とんだ内職をなさらなけりゃあ、食えなくなったか?」
闇太郎は、相手の武士が、素晴らしい腕を持っているので、十分自分を手捕りに出来ると、自信しつつあるのを見て取った。
――何を! 相手が鬼神だって、俺が必死に突っかかりゃあ、打っ倒せねえことがあるものか――
彼は、奥歯をじっと噛んで、ますます殺気の漲る瞳で、門倉平馬の睨め下ろす視線を、何のくそと、弾き返そうと足掻くのだった。
平馬は、敵の激しい目を、ニタリと冷笑で受けていた。
闇太郎の背は、ますます丸まって来た。足の構えは、鰐足になった。目は爛々ときらめき全身に強烈な、兇暴の気が漲った。まるで、狼が、いけ牲に最初の一撃を与えようとして、牙を現し、逆毛を荒立てたかのようである。
彼の息は、押え難く、荒らいだ。
「むうん――」
と、いったような呻きが、咽喉の奥から、絞り出されるように、迸った。
相手の武士は、じいっと、突っ立ったまま、殆んど、身構えを直そうともせず、ただ、何時の間にか、腰から抜いた扇子を、右手に握って、突き出すようにしただけだった。
「ほほう、感心に、鉄壁微塵と、突っ込んで来る覚悟を極めたな!」
と、苦笑いのような調子でいって、
「なかなか凄い度胸だの。それに、普通の修業では、到り得ない、必殺の業も、得ているようだ。どうだ、そこで、ぐっと、斬り込んで来て見ぬか?」
闇太郎は、
「むうん――」
と、再び呻いた。鰐足に踏ん張った。脚部に、跳躍の気勢が現れたが、直ぐに失われた。
「やっぱり、駄目だろう――」
と、相手はいったが、しかし、その口調には、今までのような、冷笑と、侮蔑とは、響かなかった。ある感嘆と、好奇心とが、仄めいて来ていた。
「どうだ、貴様――もうそこいらで、その匕首をおろしたら――と申しても、拙者ももう貴様の首根ッこを捉えて、番所へ引き摺って行くような気持もなくなったよ」
その言葉を聴くと、闇太郎は、訝しそうな目つきになって、
「何だと? じゃあ、俺の勇気が、怖くなったというのか?」
そう呟きながらも、まだ、餓狼のような、猛悪な構えは、止めなかった。
武士は、カラカラと笑った。
「いや、大きにそうかも知れぬ。実は拙者、貴様のその、突拍子もない度胸が、惜しくなったのだ。それに、貴様の、必死必殺の気組の底には、ただ喧嘩慣れた、無頼漢には、応わしからぬ、剣気が蔵されているような気がする。貴様、何か、いわく因縁のあるものと睨んだ。一たい、名前は何と言う?」
この言葉の間に、二人の間の殺気は、自から銷沈した。闇太郎の姿は、静かな立ち姿に変り、武士の扇子は、下げられた。
「この場を、見遁してくれるというのは、有がてえが、人の名を聴くんなら、自分から名乗るが、礼儀でしょうぜ」
武士は、白い歯を見せて微笑した。
「成る程、それも理屈だな。それなら申そうが、拙者は、独創天心流を聊か修得した、門倉平馬という者だ」
「独創天心流」
と、闇太郎は肯首ずいて、
「それでは、例の、御蔵前組屋敷近所の、脇田さんの御門人か?」
「うん、今日まではなあ、今日からは、自流で立とうとする、門倉平馬だ。それは兎に角、貴様こそ、わが名を名乗ったら、名乗るがよいではないか?」
「あっしは、世間で、闇太郎と言ってくれている、妙な人間さ」
「ほう。貴様が、名代の闇太郎か!」
門倉平馬の物に動ぜぬ、不敵な瞳にも、ありありと、驚愕の色が漲るのだった。
門倉平馬は、闇太郎という名乗りを聴くと、ますます好奇心に燃えて来たらしく、闇を通して、ためつ、すかしつするように、相手を見て、またも、呻くように呟いた。
「ふうん、貴様が例の闇太郎か! 大名、富豪の、どんな厳重な緊りさえも呪文で出入りするかのように、自由に出没すると言う、稀代の賊と言うのは、貴様か?」
闇太郎は、飄然として笑うのだった。
「ははは――、あっしだって、何もそんな、魔術使いじゃありません。物を盗むにゃあ、これで相当に、苦労が要るものですよ。誰だって、盗ませるために、蓄えている奴もありませんからね」
そして、ニタリとして、
「第一、今夜のように、捕り方の五十人や百人は、わけなく潜って抜けられても、お前さんのような強敵に、行手を塞がれるときも、ありますからね」
「強敵に、出会ったと言っても、矢張りその敵に、敵意を失わせるだけの、秘術を知っているのだから、いよいよ以て妙な奴だ。成る程、ふっと噂ばなしを、小耳にはさんだのを思い出すが、貴様も元は、武家出だそうだな? 剣術は、何処で習った?」
と、平馬は最早、全く、害意のない調子で訊ねかける。
「御冗談でしょう――」
と、闇太郎は気軽にいって、
「こんな場合に、身の上調べは恐れ入りますね。お前さんも、立派なお武家――一旦、あっしを、見逃そうと仰言った以上は、もう綺麗さっぱりといざこざなしに、放してやっておくんなさい」
「いや、いや、そうも罷り成らぬ」
と、平馬は、真面目になって、
「実は拙者、貴様の様子を見ているうちにこの儘、別れたくなくなって来た」
「ほほう、そうすると、どうなさろうと仰言るんで――?」
「貴様のような、世にも珍しい才能と、度胸とを持った奴、泥棒渡世にして置くのが惜しくなった」
闇太郎は、そういう平馬の顔を、チラリと見詰めて、嘲むように笑った。
「御酔狂も、いい加減になさいましよ。人間一度染ったら、もう二度と元の白地にゃあ、なれねえものなんだ。旦那も、そんな仏くさい事をいうようじゃあ、なかなか一流は立て抜けねえね。聴けば、今日までは、お師匠さんがあったが、今夜限り、自流で行くのだとか仰言ったが――」
恐れ気もなくいってのける闇太郎に、気骨稜々たる門倉平馬の気持は、ますます惹きつけられて、行くらしかった。
「それではどうだ? 拙者ももう、泥棒渡世の足を洗えの、なんのとは、申すまい。その代りせめて今宵だけでも、拙者が連れてまいろうとする所で語り明かさぬか? その位なことは、諾ってもいいだろう。いくらか、義理がある筈だ」
「真綿で首と、お出でなすったね」
と、闇太郎は、ちょいと頭へ、手をやるようにして、首をすくめて、
「どうもそうやんわり出られてはそれもいやだとも、言えませんね。ようがす、お供を致しやしょう」
「早速、承引してくれて、嬉しい」
と、平馬は、蟠りなく言って、
「では、こう参れ」
彼は先に立って、スタスタと和泉橋の方を向いて、暗い柳原河岸を、歩き出した。
懐手で、その後に続く、吉原冠りの闇太郎だ。
吉原冠り、下ろし立ての麻裏の音もなく、平馬の後からついて行く闇太郎――、河岸は暗し、頃は真夜中。いい気持そうに、弥蔵をきめて、いくらか、皺枯れた、錆た調子で、
たまさかに
一座はすれど
忍ぶ仲
晴れて
顔さえ
見交わさず
まぎらかそうと
自棄で飲む
いっそしんきな
茶碗酒
雪になりそな
夜の冷え
などと、呑気そうな、隆達くずしが、しんしんと、更け渡るあたりの静けさを、寂しく破るのだった。一座はすれど
忍ぶ仲
晴れて
顔さえ
見交わさず
まぎらかそうと
自棄で飲む
いっそしんきな
茶碗酒
雪になりそな
夜の冷え
和泉橋の角まで行くと、橋詰めの火の番所。
破れたところが一つ二つある、腰高障子が、ぼんやり灯影を宿した中に話し声が聞えていたが、平馬の雪駄の響きが耳にはいったらしく、がたりと、立てつけの悪い、開けたての音がして、ぬっと顔を出した親爺――
でも、油断はなく、六尺棒を手にしたのが、左に持った提灯。それを突きつけるようにしてじっと、二人連れを透して見る。
左肩をそびやかすようにした平馬――歩み過ぎた時、連れを先に立てるようにして、
「親爺、――先っきの太鼓は、何の固めだ?」
「へい――」
と、辻番は、提灯を下ろして、
「あれでございますか? 江戸を名打ての大泥棒が、大川屋さんの、塀際にいたとかいうことで、いやもうこの界隈、やかましいことでござりました」
水ッ涕を啜りながら、闇太郎の後姿に、眼が触れたか触れぬか、
「とかくこの頃は、物騒な市中の形勢――お互に、苦労が多いな。まあしっかり、役目をするがいい」
と、いい捨てて相変らずの雪駄の音を、のんびりと響かせて、遠ざかって行く平馬であった。
何気なく、するりと抜けて、歩んで行く、闇太郎の、肩越しに追い抜きながら、
「隆達くずしでもあるまいぜ、あの小屋の中に、鍋焼きを啜っていた人数は、七、八人。彼奴らが、十手を振って向って来れば、一度あずかった貴様の身体だ。役にも立たぬ殺生をせねばならなかった、拙者の立場。着くところまで大人しく、ついて来たがいいではないか」
「ところが旦那、あっしはね、何の因果か熱湯好きで、五体が縮み上るような湯から出ると、そそりの一節も、唄わねえじゃいられねえんで――」
「持ちくずした男だな」
蔑むともなく、呟いた平馬、――自分もひどく楽しそうに、橋弁慶の小謡を、柄に扇子で、軽く拍子を取りながら、口ずさんで、月の無い夜を、ちゃらちゃらと、進んで行く。
松枝町の角に、なまこ塀の、四角四面の屋敷。門は地味な衡門。それが当節飛ぶ鳥を落す、将軍寵姫の外戚、土部三斎の住居であった。
吉原冠りに懐ろ手、――何処に誘う風であろうと、吹かれて行こうといったような闇太郎を後に従えた、門倉平馬、土部三斎隠居屋敷、通用門の潜りを叩いて、
「御門番、御蔵前の門倉だ」
長屋門の出格子から、不精そうな門番の顔が覗いたが直きに、扉が開く。
「連れは、拙者、知り合いの者だ」
と、言い残して、闇太郎を導いたのが、脇玄関。
「お遅いお訪ねでございますな」
と、顔見知りらしい若侍。平馬から、訝しい服装で、のっそりと後に立った、闇太郎へと、目を走らせる。
「遅なわって、相済まぬが、平馬折入ってお願いもござるし、且は、是非とも御目通りいたさせたい人間を拾いましたで、枉げて御面謁が願いたいと、仰せ入れ下さい」
若侍は、
「まだ、御寝にはなりません様子、とにかく御来訪、お伝えだけは、申上げることにいたしましょう」
と、奥にはいる。
闇太郎は、懐ろ手から、手こそ出したが、その両手を前でちょっきり結びにした、平絎の間に挟んで、じろじろとあたりを眺めまわすようにしながら、
「成る程、噂には聞いていたが、土部隠居。狭いが、豪勢な住み方をしていやあがるな。黄金の香が、ぷんぷんと、そこら中に渦を巻いていやあがる」
「これこれ、――つまらぬことを言うな」
と、平馬が流石に、あきれ顔だ。
「つまらぬことって、――門倉の旦那、あっしに取っちゃあ、この嗅ぎが、身上なんで――。こいつで、見当をつけねえ限り、他所さまの金蔵になんぞ、手がつけられるもんじゃござんせん」
金網行灯がぼんやり照らしている、脇玄関で、彼等が、こんなことをいい合っている頃、土部三斎は、奥まった蔵座敷で、黒塗り朱塗り、堆朱彫、桐柾――その他さまざまの、什器を入れた箱類を、前後左右に置き並べて坐っていた。
頭こそ丸めて、斎号をば名乗って居れ、六十に手が届いているのに、赭ら顔。眉も黒く、目は細く鋭く、ぶ厚い唇も、つやつやして、でっぷりと肉づいて、憎らしいまでの壮々しさが手足の先まで溢れているような老人だ。黒の十徳に、黄八丈の着付け、紫綸子の厚い褥の上に坐って、左手の掌に、処女の血のように真赤に透き通る、径五分程の、燦めく珠玉を乗せて、明るい灯火にかざすように、ためつ、すがめつ、眺め入っているのであった。
若侍が、襖の外まで来て、うずくまると、その気配に、慌てて、珠玉を、手の中に握り匿したが、
「誰じゃ? 何用じゃ?」
「わたくしでござります。御蔵前、門倉平馬、町人体の若者一人召し連れ、折り入って御意得たいと申し、ただ今、脇玄関まで罷り出て居ります」
「何に? 平馬が?」
と、老人は呟いて、
「かかる夜陰に、何の所存でまいったか、――会うてとらせる。あちらに待たせて置け」
そう命じると、三斎、掌の中の珠玉を、黄な、拭き革で、丁寧に清めて、幾重にも真綿で包み、小さな青色の箱に納め、更に、三重の桐箱に入れると、今度は、取り散らかっていた箱類を、重そうな扉を持った戸棚にしまって、錠を下ろし、灯を消して、さてやっと、起ち上るのであった。
土部三斎が出て行ったのは、彼の何時もの書斎に続いた、一間だった。
床には、彼の風雅癖を思わせて、明人仇英の、豊麗な孔雀の、極彩色大幅が掛けられ、わざと花を生けない花瓶は、宋代の磁だった。既に敷かれてあった、床前の白綸子の褥に僧形の三斎は、無手と坐って、会釈も無く、閾際に遠慮深く坐った平馬と、その傍に、膝こそ揃えているが、のほほんと、目も伏せていない、町人体の未知の若者とを見較べるようにした。
平馬は、三斎の姿を見ると、礼儀正しく、畳に手をついて、
「夜陰、突然、お愕かし申し、何とも、相済まぬ儀にござりまする」
「うむ、よいよい――」
と、三斎は、頷いて物珍し気な目を連れの、闇太郎から離さずに、
「して、それなる人物は、何者じゃ?」
「平素より御隠居さま、一芸一能のある者共を、あまさず、御見知り置き遊ばしたいという、お言葉を承わり居りましたれば――」
と、平馬は手を突いたまま、
「これなる者は、今宵、御隠居所をさして参りまする途中、測らず、柳原河岸にて出会いました人物――。多くの捕り方に取り囲まれしを、巧みに遁れ、拙者、眼前に現れましたで、引っ捕えて突きだそうと、存じましたなれど、聞けばこの者、当時、大江戸に名高い、例の怪賊、闇太郎に紛れなき由、承わって、御隠居さまへ、御土産として召し連れました次第でござりまする」
「何に? 闇太郎――?」
と赭ら顔の老人の唇から、その刹那、流石に、愕きの叫びが洩れた。
彼の目は相変らず、薄寒そうに膝を揃えて坐った、粋な格子縞の若者に、鋭く注がれたままだ。
平馬は、権門の前に、別に、礼譲を守ろうともせぬ連れの方に、責めるように目を向けて、
「これ、御挨拶を申し上げろ。土部三斎さまに、渡らせられる」
闇太郎は、片手を畳に下ろしただけで、さも懇意そうに、三斎隠居の顔を見上げるのだった。
「成る程、これまで世間の噂で、御中年に長崎奉行をなすって、たんまりお儲けになった上、今じゃあ、御息女を公方さまの、御妾に、差し出しなすったとかで、いよいよ天下の切れ者、土部三斎さまの名を聴けば、大老、老中も怖じ気を振うとかいうことですが、お目に掛って見りゃ、あっし達でもお交際が出来ねえでもねえニコニコした御隠居さん。今、門倉の平馬さんが、お引き合せになった通り、あっしは世間で、闇太郎と、ケチな渾名で通っている、昼日中、大手を振っては、歩けねえ人間でござんす。それでよかったら、これから先、お見捨てなくお願いいたしやす」
三斎は、ますます鋭い凝視を、飄乎たる面上に、注がざるを得ない。
土部三斎は、これまでの六十年に、実に、さまざまな人間を見て来ているのだった。将軍、大名、小名、旗本、陪臣、富豪、巾着切りから、女白浪――長崎で役を勤めるようになってからは、紅毛碧眼の和蘭、葡萄牙人、顔色の青白い背の高い唐人から、呂宋人まで善悪正邪にかかわらず、凡そありと凡ゆる、人間という人間に接して来ていた。しかし彼は、今目の前に見る江戸名打ての、大賊のような自他にこだわらず、何時も、悠々として、南山を眺め続けているような、自得の風格に染っている下郎に、会ったことはないのだった。
三斎は、しげしげと、闇太郎を見詰め続けたが、相手は例によって、膝を揃えて、坐ったまま、片手で顎を撫で上げながら、天井に目を向けて、平気な顔だ。
三斎は、日頃、自分の前へ出ると、いやに阿諛の色を見せたり、不安の挙動を示したりするような、人間ばかり見て来ているので、闇太郎のこの冷々とした物腰に、一層、心を惹かれるらしかった。
「――で、何か貴様は?」
と、老人は、親しみの調子さえ見せて、
「闇太郎ともいわれる男なら、どんな厳重な宝蔵の中にある秘宝でも、自由に、盗み出すことが、出来ると申すのか?」
「そりゃ、あっしも人間ですから、どんな物でもともいわれませんが、まあ大ていの代物なら、一度思い込んだとなりゃあ、これまで、盗りっぱぐりはありませんでした。まあいわば、病気のようなもので――。御隠居さんだって、覚えがおありなさるでしょうが、お互に、若え頃娘っ子に思いつくと、どうしても、物にしてえ、物にしてえで、寝つかれねえ。あれと同じことさ。あっしは、一度盗ろうと考えたら、そいつを手に入れねえ中は、おちおち夜も眠れねえんで――。因果な根性で、自分でも愕いていやすよ」
と、ぬけぬけと並べる盗賊の、赧らめもせぬ面魂を、三斎隠居は、まんじりともせず眺めたまま、
「しかし世間では、貴様のことを、義賊の、侠賊のと、いっているそうだが、本当にそうした、慈悲、善根も積んでいるかの?」
「冗談仰言っちゃいけません。泥棒に、慈悲、善根なんてものが、ある筈がありますものか。ただ、片一方にゃあ、黄金や、宝物が山程あって、片一方じゃ、あすの朝の、一握りの塩噌にも困っている。譬えば、こちらさんのような御大家から、ものの百両とものして出て、いい気持になっているとき、そんな貧乏人の嘆きが耳にへえりゃあ、百両の中から、一両ぐれえは、分けてやるのが、誰しもの人情でしょう」
「わしにも、貴様の気持は、いくらか解るようだ。是非に欲しいと思い込んだら、手に入れぬ中は、目蓋も合わぬというような気持は誰にもある」
三斎隠居は、自分の考えているだけのことを、どんな人間の前でも、ずばずばいってのける、この不敵な盗賊と対坐している間に、ついぞ覚えない、胸の開きをさえ、感じて来るのだった。
青年の頃から、彼自身の心に、喰い込んでしまった、不思議な欲望――骨董癖、風雅癖が昂じた結果の、異常な蒐集慾、それを満たすために、どれ程、うしろ暗い、汚らわしい行為を、繰り返して来ていた彼であったろう!
その衷情を、三斎はいま、不図言葉に漏らしてしまったのだ。
闇太郎は、きょときょとした目で、相手を見た。
「へえ、御隠居さんも、それじゃあ、ぬすっと根性が、おあんなさるんですか!」
平馬は聞きかねたように咳払いをして、
「これ、無遠慮も、いい加減にいたせ」
「かまうな――」
と三斎隠居は言って、
「この者の物語は、なかなか面白い。正直に申せば、わしだとて、そう言う根性は、無いとも言われぬかも知れぬ。まそっと詳しく、盗みの話をしてくれまいか。とにかく、一盞つかわそう」
と、言って、軽く手を打つのだった。
深夜ではあったが、前髪の若小姓と、紫矢絣に、立矢の字の侍女たちが、盃盤を齎して来た。
三斎隠居は、小姓一人を残して、他の者を去らせると、平馬と闇太郎とに、酒盃を勧めるのだった。
闇太郎は、隠居の言葉までもなく、すっかり寛ぎきった態度を見せていた。
「ごめんなすって、おくんなせえ。この方が楽にお相手が出来ますから――」
と、膝を崩して、長崎風のしっぽく台に、左の肱さえつくのだった。
門倉平馬は、苦々しげ。
彼は相変らず、きちんと坐って、三斎隠居から渡された酒盃を、口に運ぶのさえ、遠慮しているように見えた。
隠居よりも闇太郎が、口を出した。
「平馬さん、土部の御隠居さまは、いって見りゃあ、公方さまの御親類、当時、飛ぶ鳥も落す勢力かも知れないが、こんな夜更けに、あっしのようなお探ね者の泥棒風情を、一緒にお目通りまで、連れて来る程の、御懇意な仲でしょう。だのにあんたが、そんなにしゃっちょこばっていなすっちゃあ、初めてのあっしが、どうにもならねえ」
「如何にも、闇太郎が申す通りだ」
と、三斎は平馬の方に目をやって、
「そういえば門倉、この深更に、何で、わざわざ訪ねてまいったのだ?」
門倉平馬は、食卓から退るように、畳に両手を下ろした。
「実は御隠居さま、拙者、止むに止まれぬ、武道の意気地により今晩限り、旧師脇田一松斎と別れ、未熟ながら一芸一流を立て抜く決心、――それに就き、御隠居さまの、御配慮を煩したく、深夜ながら、お袖に縋るため、まかり出でました次第でござります」
「なに? 脇田の門を捨てたとか? それはまた何故」
と、さすがに土部三斎も愕きの色を浮べて、
「それはまた、どうしたわけだ?」
「御存じはござりますまいが、今度上方より初下りの、中村菊之丞一座の雪之丞、之が、不思議な縁あって、拙者よりも前かたより一松斎門にて剣技を学んだ者でござります。今宵この者に、旧師が、秘伝奥義の、伝授云々のことあり、拙者へも伝授なきものを、河原者風情に、授けられては、面目立ち難く、当方より、師弟の縁を切り、直ちに、脇田家を後にいたした理由――拙者といたしましては、武芸にては、強ち、師に劣るとも思われませぬ。御鴻恩にて、御地を賜り、道場一軒なりと、開かせいただかば辱けなく――」
この言葉を聴くと三斎よりも、闇太郎の瞳が異様な煌きを帯びて来るのだった。
「へえ、平馬さんは初下りの雪之丞と、そんな仲でござんしたかい?」
平馬は、闇太郎を顧みた。
「では貴様は、雪之丞と、存じ合いか?」
闇太郎は事もなげに、例の顎を逆か撫でに、撫で上げながら、
「何んの、江戸ッ児のあっしと、下り役者と知っている筈がありますものか、ただあんまり評判が高いんでね――」
「不思議なことを聴くものだな!」
と隠居は呟いた。
「当節女形として響いている雪之丞が、脇田の門人とは、思いもつかなんだ」
三斎隠居は、猶も腑に落ちぬように、
「実は、御城内に上っている、娘の浪路が、この間、会うたとき、江戸初下りの上方役者、雪之丞という者の舞台を、是非見たい故、宿下りの折、連れてまいってくれと申すので、中村座の方へ、すでに桟敷の申込みもして置いた次第――江戸まで名が響いている、当代名代の女形に、そのような、武術があろうなどとは、存じもよらなんだ。平馬の申す男と、中村雪之丞と、真に同一人であるのであろうか?」
「お言葉ではござりますが、紛いもなく、女形雪之丞、脇田一松斎の愛弟子に、相違ござりませぬ」
と、門倉平馬は、キッパリといったが、その調子には、明らかに、憎悪が籠められていた。
「拙者、一松斎の手元にまいって、既に十年、――その頃、彼も幼少にて、大坂道場に通ってまいるのでしたが、雪之丞を見ると、旧師は、別扱いで、必ず、自身で、稽古をつけておりました。何でも、一方ならぬ大望を抱いているとかの、話も、ふっと、耳にしているようにござります」
「一方ならぬ大望と申して、――役者風情が、まさか、親の仇というのでもあるまいが、――?」
と、三斎は、猶、不審顔だ。
闇太郎は、いつもの顎の逆か撫でをやりながら、
「ふうん、じゃあ、あのピカリっと来たのは――?」
と、呟いた。
「何に? ピカリとは何だ?」
と、平馬がじろりと観ると、
「いいえ、何でもねえんで、――。ただ、やっぱし舞台で、光るくれえの奴あ、違ったもんだ、――と感心したんで、――」
と、その場を言い濁したが、心の中では、それじゃ、御蔵前の暗やみで、あの時、女形に斬りつけたのは、この平馬だったのだな。道理で、素晴らしい気息だと思った。しかし、懐剣一本で斬り返されて、どじを踏んでしまったので見ると、一松斎さんが、この男に、奥義を譲らなかったのも、流石目があるというもんだ。
闇太郎は、彼独特の、闇を見通す程の、鋭敏な心の目で、一切を見抜いてしまうと、門倉平馬の後について、三斎屋敷へなぞ、はいり込んでしまった自分が、身に汚れでもついたように、悔いられて来るのだった。
――さあ、そろそろお暇としようか。だがお蔭で、要害きびしいなまこ塀、土部三斎の、住居の中の秘密も解った。聞きゃあ、この隠居、長崎奉行の頃から、よくねえ事ばかり重ねて、いまの暴富を積んだのだと言う。いずれ、その中出直して、何か目星しいものを、頂戴してやろう――
「平馬さん、お蔭で、自身番にも突き出されず、こんな結構なお屋敷で、御隠居さまとも、お目に掛らせて、貰いやしたが、あっしのような男が、いつまで長居も怖れです。もうお暇を頂きやしょう」
「これこれ闇太郎、――」
と、隠居は制して、
「わしは何分、年を取って、寝つきが悪い身体だ。貴様のような、珍しい身の上の人間から、いろいろ話も聴きたい故、もう少し喋舌って行け。これ、紅丸、その者の酒盃を満たしてやれ」
「そうまで仰言るなら、暁け方まで、御造作にあずかりやしょうか――」
と、闇太郎、振り袖小姓の酌を受けて、今度こそ、腰を落ちつけて飲み出すのだった。
三斎は、一度、腰を上げかけた闇太郎が、また坐り直して飲み出したので、上機嫌だった。
「実は、闇太郎、わしも、役儀は退いているといっても、矢張り、江戸に住んで、公儀の御恩を受けている身体だ。貴様のような人間が、屋敷にはいって来たのを、そのままにして置くということも、ちと、出来難いのじゃ。だが、平馬もいうたであろうが、わしには、妙な望みがあって、この世の中で、一芸一能に秀れた者に、交わりを求めたいと、かねがね願っているのだ。絵の道であれ、刀鍛冶であれ、牙彫師から、腰元彫りの名人――まあ、江戸一といわれる人間で、わしの許に出入りせぬ者はない。仮令泥棒にもせよ、貴様程の奴が、姿を現してくれたのだから、一概に野暮な業もせぬつもりだ。こう申したとて、貴様を威そうとする気持ではない。そこを間違えては困るが、こちらがそういう存念なのだから、貴様の方でもこれからは、わしにだけは、害意を捨てて貰いたいな」
「と、仰言っても、御隠居さん――」
と、闇太郎は、先き程までの、夜の巷での、悪戦苦闘の、忌わしい追憶は、とうに忘れてしまったように、美酒の酔いに、陶然と頬を、ほてらせながら、
「何しろ、性分が性分で、さっきから、申し上げるように、一度盗みたいとなると、どうも遠慮が出来ねえ生れつき、こちらのようなお屋敷に、足踏みをしていると、たまにゃあ、素手では、帰えられねえような気持になることもあるでしょう。だから、まあ、出来るだけ、この近所へは足踏みをしねえことに、いたしやしょうよ」
「ところがわしは、何となく、貴様が好ましくなって来たよ」
と、老人は、手にした酒盃をさしてやって、
「何の泥棒の、盗賊のというと、聞えが悪いが、忍びの業は、立派に武士の、表芸の一つ。音無く天井を走るだけでも、その業を申し立てればお取り立てになる程のものだ。貴様も、つまらない遠慮を抜きにして、この家へだけは、一芸の達者として、威張って出入りするがいい」
闇太郎は、礼儀にこだわらず、三斎隠居に直かに、酒盃を返しながら、きらりと鋭い目で、相手を見上げて、
「どうも恐れ入った、御懇志のお言葉ですが、御隠居さん、ざっくばらんにいって、おめえさんは、このあっしを、どんな時に、役に立てようとなさるんですね?」
三斎隠居は、ぎょっとしたように、闇太郎を見返したが、その目を外らして、苦が笑いした。
「ふうん、成る程、ますます気鋒の鋭い奴だな!」
そして、わざとらしく取ってつけたような快活さで、
「如何にも、旗本の隠居と泥棒でも、一度懇意になった上は、何かの場合、折り入って、相談ごとをする時が無いとも限らぬ、だがまあ、当分は、別に頼むことも無いようだ」
「そりゃあ、泥棒は、あっしの渡世、御隠居さんは、書画骨董、珠玉刀剣が、死ぬ程お好きだということ、何処そこの蔵から、手に入れられねえ宝物を、盗って来い位なら、御相談にも乗りましょうが、弱い者虐めや、清い人を、難儀させるようなことだけは、命を取られても、出来ねえ闇太郎、――それだけは、御承知下せえまし」
と、天地に身の置き所も無い若い盗賊、権勢家三斎を前に置いて、虹の如き気を吐くのだった。
平馬は、三斎隠居の機嫌をとるために、夜陰ながら、路傍で拾って来た、怪賊闇太郎、――それが、隠居の気に入ったらしいのが、初めの中は嬉しかったが、いつまでも、闇太郎、闇太郎で、自分の方を、ついぞ、老人が、振り向いてもくれぬので、何となく、不機嫌になって来た。
――それにしても、不逞不逞しい奴だ。この調子では、この奴、隠居の首根っこに食い下って、行く行く、どんな大それた考えを起すかも知れない。とんだ者を、ひっぱって来てしまった――
と、心に呟くのも、狭量な心を持った男の、妬み心からであった。
隠居は、それからそれへと、闇太郎から、これまでの、冒険的な生活の、告白を聴きたがって、話の緒口を、手繰り続けていたが、ふと、平馬の存在を思い出したように、
「おお、そう申せば、平馬、その方、一松斎に別れて、自流を立てるという、決心をしたそうだが、まずさし当って、如何いたすつもりだ?」
平馬は、隠居の赧ら顔が、自分の方へ向けられたので、漸くほっとして、険のある目元に、急に、諛つらいに似た、微笑さえ浮かべて、
「実は、それにつき、日頃の御恩顧に甘えて、真直ぐに、御当家に拝趨いたした次第でござりますが――一松斎、年来の情誼を忘れ、某を破門同様に扱いました限りは、拙者も意気地として、どうあっても、彼の一統を見返さねばなりませぬ。就きましては、彼の道場の近所に、新しく武道指南の標札が掲げたく、御持地所を賜わらば辱けない仕合せでござりまする」
「うむ、それも面白かろう――」
と、三斎は肯首ずいて、
「世間では、とかくこの三斎を、権勢家の、我慾者と、善からぬ噂を立て、不平不逞の浪人共、物の解らぬ直参旗本の尻押しで、ともすればわしの身に、危害を加えようとする企みもある由、――なに、彼等が、蠢動いたせばとて、びくびくいたす程の、小さな胆も持ち合せぬが、伜どもも、何かと、心痛し、身辺を警戒せよの、用心せよのと、うるさいことだ。丁度幸い、この屋敷の間近に、道場を立てるにはもってこいの空地がある。早速そこに、脇田道場に、勝るとも劣らぬ道場を、建てて遣わそう。その代り平馬、わしの一身を、身に替えて守ってくれねばならぬぞ」
三斎隠居、どんな場合にも、交換条件を、口にせずにはいられぬ老人だ。立派過ぎる程の武門に老いながら、とかく、商取引を忘れられない気性だ。
平馬、この男も、ぬからぬ人物。直ぐにその場に両手をついて、
「申すまでもござりませぬ。御恩顧に相成る上は、一身一命は、申すまでもなく、御隠居さま、御自由でござります」
闇太郎は、二人の問答を聴いて、片手に酒盃、片手に例の顎の逆か撫で、
――たったいま、十年旧恩の親にも勝る脇田先生の道場を、後足に砂、飛び出して来やあがった、人畜生の門倉平馬に、今更、つまらねえ約束を、強いようとする隠居も隠居。その前に手をついて、ぬけぬけと、一身一命、御自由でござります――などと、並べ立てている奴の、奴根性は、ちょいと、この世で、二人とは見つかるめえ。いつか、白んで来たようだ。そろそろこの薄汚ねえ場所を亡けるとしようか――
「大分頂き過ぎやした。これで御納杯と――」
闇太郎は、口では丁寧にいって、酒盃を隠居の方へさし出すのだった。
三斎隠居も、もう闇太郎を、強いて引き止めようとはしなかった。
「さようか、――もう世間が白んで見れば貴様を狙う、鵜の目鷹の目は、却って、視力を失う頃だ。だがそれにしても、あまり危ないことは、せぬがよいぞ」
と、言って、振り袖小姓に、手箱を持って来させると、二十五両包を、一つ、ずしりと膝近く投げてやった。
が、闇太郎は、押し返した。
「あっしあ、この方とは、少し渡世が違うんで――御大家に伺って、こんなものを頂く気なら、何も好んで、夜、夜中、塀を乗り越えたり、戸を外したりして、危い仕事はしてはいません。まあ、お預かりになって、置いて下せえ。その中に、頂戴したくなったら、御存じのねえ中に、そっと頂いてめえりやすから――その方が御隠居さんにとっても、面白かろうと思うんで――」
三斎隠居は、苦笑した。
「ああいえば、こういう。――始末にゆかぬ奴だな。それなら、貴様自由にしたらよかろう」
闇太郎は、門倉平馬にも、軽く会釈をすると、
「じゃあ、御隠居さん、――いつかまた、お目に掛りましょう」
といい残したなり、案内も待たず、廊下に、辷り出してしまっていた。
闇太郎は、晩秋の暁け方の巷を行く。
乳色の朝霧が、細い巷路を、這い寄るように、流れて来る。まだ人通りは無い。何処もここもが、しいんとした静寂に蔽われて、早起きの、豆腐屋の腰高障子に、ぼんやり、灯影が見えるだけだ。
住所不定の闇太郎、――どこをさして行く当もない。持って生れた、性分で、安心な方より、危険な方へ、爪先を向けたいが病い。昨夜、捕り手に囲まれた、柳原河岸を、目指して、例の鼻唄で、ぶらりぶらり歩いてゆく。
橋際に、小さな夜明しの居酒屋――この辺に、夜鷹を漁りにくる、折助どもを目当ての、乏し気な店だ。
夜が明けたので、もう客が杜絶えると見た爺むさい老人が――いま店をしまおうとするところへ、闇太郎は、ずっとはいった。
「とっつぁん、睡いだろうが、一本つけてくれ」
爺さんは、頷いて、銅壺に、燗瓶を放り込む。
直きについたやつを、きゅっと引っかけた闇太郎は、独り言のように、
「どうも、権門、富貴の御馳走酒より、自腹の熱つ燗がこてえられねえな」
「親方は、大分いけると見えますな、もういい機嫌で、お出でなのに――」
「なあに――飲みたくねえ酒を飲まされた口直しさ」
と、若者は苦っぽく笑って、
「そういやあ、この河岸で、昨夜は、騒ぎだったそうじゃあねえか?」
「へえ。大捕物がありやしてね」
と、老人は、水ッ涕を啜って、目を輝かして、
「といったって、手も足もないような手先衆が、翼の生えている大泥棒を追っかけたんですから、捕まりっこはありませんよ。お蔭で大分、燗酒は、売れましたがね」
「ははは、――それじゃあ、その大泥棒が、とっつぁんにはいい恩人だったじゃねえか――」
闇太郎は、のんびり笑って、樽にかけた片足を、片一方の股の上に組むのだった。
猿若町三座の中でも、結城孫三郎あやつりの常小屋の真向うの中村座は、江戸随一、撰りすぐりの名優を座付にして、不断の大入りを誇っていたのが、物の盛衰は理外の理、この春ごろから狂言の立て方が時好と妙にちぐはぐになって、ともすれば、軒並のほかの小屋から圧され勝ちに見えて来た。ことさら、気負った盆興行が、大の不入り、そこで座元の策戦の秘術をつくして、この大切な顔見世月には、当時大坂でめきめきと売り出している、門閥外の中村菊之丞一座を招き、これに、座付の若手を加えただけで、思い切った興行ぶりを見せようと試みたわけであった。
菊之丞一座といっても、見込んでいるのは、艶名を謳われている女形雪之丞の舞台で、それゆえ、出し物も、もっぱらこの青年俳優の芯に出来るような台本が選ばれた。坂地の作者、春水堂がかねて雪之丞に篏めて書き下した、「逢治世滝夜叉譚」で、将門の息女滝夜叉が、亡父の怨念を晴そうため、女賊となり、遊女となり、肝胆を砕いて、軍兵を集め、妖術を駆使して、時の御門を悩まし奉ろうとするとき、公達藤原治世の征討を受け、敵と恋に落ちて、非望をなげうつという筋の、通し狂言――
どこまでも、荒唐の美をほしいままにして、当時江戸前の意気な舞台に対抗させようというのであった。
この、一座の、江戸下りが、ぱあっと府内の噂に上ると、贔屓贔屓で、
「――何だって、上方役者を芯にして、中村座を開けるッて! 馬鹿くせい話もあるもんだ――おいらあ、もう、あの小屋のめえも通らねえつもりだ」
「そうともよ! 江戸に役者がねえわけじゃあなしさ。今度連中を作る奴があったら、一生仲間づきあいをしてやらねえぞ!」
なぞと、気負いな啖呵を切る人達であるが、
「何でも、中村菊之丞一座というのは、上方で、遠国すじの田舎まわりをしていた緞帳だったのが、腕一本で大坂を八丁荒しした奴等だということだ。おいらあ、一てえに、役者、芸人が家柄の、門地のと、血すじ、芸すじばかり威張り合って、一家一門でねえことには、どんな腕があっても、てんから馬鹿にするのが、癪にさわってならなかったんだ。それを、埒も塀もぶち破って、芸で来いと、天下に見得を切ったというんだから、すばらしいものじゃあねえか――おいらあ、ひとつ、うんと、肩入れをしてやるつもりだぜ」
「ほんとうに、そうですとも。江戸っ子は、強きをくじき、弱きを助けるが身上ですわ。あたしたちも、及ばずながら一生懸命駆けてあるきますから、うんと賑やかに蓋をあけさせるようにしてやって下さいましよ」
そんな風に、たのまれもせぬのに、血道を上げる男女もあるのであった。
そして、とうとう、初日が来た。
座の前には、二丁目の通りに、華やかに幟が立ちならび、積み樽は、新川すじから、あとからあとから積み立てられ、時節の花の黄菊白菊が植込まれて、美々しげな看板が、人目をそばだてさせる。
暁方から今日の観劇をたのしみに、重詰を持たせて家を出るのは山の手の芝居ずきだ。かごで、舟で、徒歩で、江戸中から群て来た老若、男女で、だんまりの場が開くころには、広大な中村座の土間桟敷、もはや一ぱいにみたされているのであった。
初日早々、父親の仇敵どもの、最上位に坐して、あらゆる便宜をはからってやった上、最後に、松浦屋闕所、追放の裁断を下した長崎奉行、土部駿河守の後身、三斎隠居一門の、華々しい見物があるということを知った雪之丞、いかに心を静めようとしても、さすがに、その朝の楽屋入りは、気軽くは出来ないのだった。
宿を出る前、師匠が、顔をじっと見て、
「少し、顔いろが悪いようだが――」
と、いったとき、日ごろの教訓を忘れたかと思われる恥かしさに、
「いえ、さすがに、江戸の舞台が、怖いような、気がいたしまして――」
と、微笑んで見せようとしたが、その口元は、われながら硬ばるのだった。
「重ねて言うにも及ぶまいが、今日は、ことさら、胸を静めて舞台を踏まねばなりませぬぞ」
師匠は、それだけ言って、例の端然としたすがたで、膝の上にひろげた書き抜きに、目を落してしまった。
雪之丞は、やがて、菊之丞と一緒に、中村座を指して出かけた。初下りの上方役者の、楽屋入りを見ようとする、若女房や、娘たちが、狭い道の両側に立ち並んで、目ひき袖ひき、かまびすしくしゃべり立てている。
そして、彼女等の視線は、あからめもせず、半開きにした銀扇で、横がおを蔽すようにした雪之丞の、白く匂う芙蓉の花のようなおもばせにそそがれているのだ。
食い入るようにみつめながら、彼女等は囁き合う。
「まあ、ゾーッと、寒気がするほど、美い男だわ」
「江戸で並べて、はまむら家、紀の国家――いいえ、それほどの人は、くやしいけど、いやしない」
「あれで、芸が、そりゃ、すばらしいんだと、言うのだもの!」
こうした言葉は、いくら低く語り合われているとしても、雪之丞の耳には、はっきり響くはずだ。いつもの彼であれば、芸人冥利、讃嘆のささやきを呟いてくれる、そうした人たちの方へ、礼ごころの一瞥はあたえたかも知れない。
が、彼の胸は、土部三斎で、一ぱいだ。
――わしに、今日、満足に、舞台がつとまろうか? その三斎という人間を、同じ屋根の下に見ながら、落ちついて、技が進められようか?
彼は魂の底に、日ごろ信心の、神仏をさえ念じる。
――どうぞ、神さま、仏さま、舞台の上にいる間は、このわしを、役に生きさせて下さりませ。さもなくて、心が散り、とんでもないことをしだしますと、第一、師匠にすみませぬ。
彼は、楽屋入りをすました。師匠と並んだ部屋の、鏡の前にすわって、羽二重を貼り、牡丹刷毛をとり上げる。
いくらか、心が澄んで来た。
将門の遺した姫ぎみ滝夜叉が、序幕のだんまりには、女賊お滝の、金銀繍い分けの、よてん姿、あらゆる幻怪美をつくした扮装で現れるわけであった。
開幕を知らせる拍子木は、廊下をすぎ、舞台の方では、にぎわしい囃子の響きが、華やかに波立ちはじめていた。
雪之丞は、心で、手を合せた。江戸下り初舞台、初日の日に、早くも怨敵の一人を引き合せて呉れようとする運命に対して……
幻惑的な舞台は、二度開いて、二度幕が下りた。
雪之丞は、生れてはじめてといってもいい程、激烈、熱心な喝采を浴びることが出来た。これまで観なれ、聴き慣れた、科白、仕ぐさとは、全く類を異にした、異色ある演技に魅惑された江戸の観客たちは、最初から好奇心や、愛情を抱いて迎えたものは勿論、何を、上方の緞帳役者がと、高をくくっていた人達までも迫力のある魔術のために陶酔境に引き込まれて、われを忘れて、手を拍ち、声を揚げずにはいられなかった。
「花むら屋!」
と、いう、聴きつけぬ屋号は、江戸ッ子たちの、歯切れのいい口調で、嵐のように投げかけられるのであった。
楽屋に戻ると、あたりの者は、目を輝かして、菊之丞と、その愛弟子とに、心からの祝辞を述べずにはいられなかった。
「親方、これで、いよいよ日本一の折紙がついたわけでございます」
「負けず嫌いの江戸の人達が、あんなに夢中になっての讃め言葉、わたし達は、只、もう涙がこぼれました」
と、弟子どもの中には、ほんとうに、涙ぐんでいるものさえあった。
雪之丞も、勿論ホッとした。
これで、長年育ててくれた恩師に対する、報恩の万分の一を果したと思うと、肩の重荷が、だんだん下りてゆく気がするのだった。
しかし、彼は、言い難い、不安に、一方では襲われている。
胸をとどろかせ、心をおどらして、今日こそ、その生面が見られると、待ちこがれている土部三斎の一行が、二幕目が下りるころにも、場内にあらわれて来ないのだ。
東の桟敷に、五間、ぶっとおして、桔梗の紋を白く出した、紫の幕を吊ったのが、土部家の席にきまっていたが、もうびっしりと、一ぱいに詰まった見物席の中で、そこだけが、ガラ空きだ。
いうまでもなく、大身、大家の一行、出かけるにも手間が取れようとは、思っても、万一、模様変えになって、今日、その顔を見ることが、出来ないようになると、何となく、大望遂行の、辻占が悪くなるような気がされて、雪之丞、胸が鬱してならないのだった。
――あまり、とんとん拍子に、前兆がよすぎるような気がしたが、この辺から、何か、ケチがつくのではあるまいか――
雪之丞は、そんな予感に、心を暗くしながら、滝夜叉の変身、清滝という遊女すがたになって、何本となく差した笄も重たげに、華麗な裲襠をまとい、三幕目の出をまっていた。
出場が、知らされて、遊里歓会をかたどった、舞台に出る。
師匠菊之丞が扮する、身を商賈にやつした藤原治世との色模様となる場面であった。
にぎわしい下座の管絃のひびきの中に、雪之丞は、しっとりと坐りながら、なまめいた台詞を口にしつつ目をちらりと、例の東桟敷の方へと送った。
雪之丞は、受けた朱杯が傾くのを、その瞬間、禁じ得ぬ――見よ! その紫幔幕がしぼられたあたりに、十人あまりの男女がしずかに控えて、熱心な注視をそそいでいるのだ。
彼は、その人達の瞳と、自分のそれとが、はっきりと、真直に衝突したのを感じた。そして意識的に、一種媚びを含んだ微笑をすら口元にほのめかして、見せるのだった。
雪之丞の、ほのかな微笑で飾られた、呪いの目は、その桟敷に、とりわけ、一人の宗匠頭巾の、でっぷりした、黒い十徳すがたの老人と、それに並んで、いくらか、身を退らせている、限りなく艶麗な、文金島田の紫勝ちないでたちの女性とを見る。
一目で、雪之丞に、それが、曾て長崎で威を張った土部三斎と、当時、柳営の大奥で、公方の枕席に侍って寵をほしいままにしているという、三斎の末むすめであるのをさとった。女性が、さも一個の処女らしく、髪のゆいぶり、着付の着方をしているのは、公衆の前に、大奥風のすがたを現すのをはばかってであろう。
その、左右に、直参髷の武家、いずれも中年なのが二人、うしろには、富裕なしかし商略に鋭そうな目付をした、顴骨の張った痩身の男が控えていた。その外は、供の者であろう――
と、雪之丞は、その後方の男女の中に、ふと、自分に向けて注がれている、激しい憎悪の視線が、まじっているのを感じた。すべての目が、讃美と、いつくしみを漲らしているのに、たった二つの瞳だけが、嘲りとも、怒りとも、いいようのない、きらめきを宿しているのに気がついた。
――不思議だ! あの目は、わしを憎んでいるらしいが――
さり気なく、じっと見たとき、雪之丞は了解した。
――さようか? それなら、いぶかしゅうも無い。
彼は、そう心にいって、もうその方に注意しなかった。
こないだ、脇田一松斎を久々でおとずれた晩、旧師の口から、あのようないきさつで、師門に後あしで砂を掛けた、例の門倉平馬が、最近、三斎の子土部駿河守家中のために、剣をおしえているということを、聴かされたのを思い出したのだ。
が、雪之丞は、それを余り問題にする必要はない。平馬の技倆と心構えについては、もう知り抜いているし、また、この昔の兄弟子が、一松斎、孤軒、それに菊之丞をのぞいては、天下の何人も知らぬであろう、彼自身の、一代の大望を知覚しているはずもないのだった。
つづまるところ、油断をしてはならぬだけの力のある、一人の敵が、自分がつけ狙う仇敵の味方に立った――と、いうことを、覚悟すれば、それでいいわけなのだ。
雪之丞は、それだけを見届けると、もう、ことさら、三斎隠居一行の桟敷に、特別気をくばりはしないのだった。師匠から、重々言われている通り、たとい、先方から、名乗りかけたとて、舞台の上で一芸をつとめる身が、この場で、相手になることは出来なかった。
況して、当の三斎隠居はじめ、感に堪えたように、うっとりした様子で、こちらの容姿と技芸とに酔っているのである。
――まず今日は、大切なお客さま、それから、ゆっくりと、御覧じて下さりませ。
雪之丞は、冷たく心に笑って、やがて、専念に、役の性根に渾身を傾け出すことが出来た。
その幕が下りて、顔を拭くか、拭かぬかに、隣の師匠の部屋から、男衆が迎えに来た。
すぐに、出向くと、あらかじめ人を払っていた菊之丞が、
「案じることもいらなんだな」
と、まず、讃めてくれるのだった。
雪之丞は、言い難い涙が、こぼれ落ちそうになるのを抑えながら、師匠の言葉を、うなだれて聴いていた。
菊之丞は、撫でさするような目つきで、
「しかも、舞台が、寸分の隙もなくつとまったのは、あっぱれ日ごろの心掛けが、しのばれましたぞ――あれでのうてはならぬ。万人と変った、大きな望みを成し遂げるは、一通りの難儀でないのが、当り前だ」
と、いって、口調をあらためて、
「実は、そなたが今日、心みだれるようなことがあると見れば、知らすまいと思うたことじゃが――世にもたのもしゅう、大事の幕を済ましたゆえ、申し聴かせようと考えますが、雪之丞、そなたは、今日の桟敷の、顔ぶれ、すべてしかと見覚えましたか?」
雪之丞の目は、涙の奥で、きららかに、きらめいた。
「は」
と、唾を呑むようにして、
「僧形は、土部三斎どの……それに並んだは、大奥にすがっておるとうけたまわる、息女でいられると存じましたが……」
「その外は?」
「その外は、うしろの方に、脇田先生に背きました、例の門倉平馬と申すが、控えておるのが見えました」
と、答えると、師匠は、取るに足りぬと、いうように、頭を振って、
「そのような者は兎に角、そなたに取っての怨敵、一人を除く外はことごとく、あの東桟敷におりますぞ」
心を動かすまいと、あらゆる折に気を引きしめている雪之丞、そう聴くと、思わず、
「おッ!」
と、叫んで、膝を乗り出して、
「して、それは、誰々にござりまする?」
「さ、すぐに、そのように、血相を変えるようでは――」
「おお、あしゅうござりました」
と、雪之丞は、両手をぴたりと突いて、
「お師匠さま、お前をもはばからず、取りみだし、申しわけもござりませぬ。心を平らに伺いますゆえ、なにとぞ、仰しゃって――」
菊之丞は、愛弟子の、思い入った容子を、あわれと見たように、やさしくうなずいて、
「そのように、しとやかに訊ぬるなら、いかにも申してつかわそうが、実は、今日、土部一門の見物があると知ってから、何となく、そなたのための仇敵の一人一人、同座することもないではあるまいと、一行の名前を、茶屋の者よりうけたまわって見たところ、案にたがわず、当節、病気にてひきこもり中の、広海屋主人をのぞく外は、江戸に集まって、昔の不義不正を知らぬ顔に、栄華をきわめておるやから、ことごとく、あの、紫幕ばりの下に、大きな顔をして見物というわけ――」
――う――む――
と、いう、激しい心のうめきを、強いて、抑えるように、雪之丞は、白い前歯で紅い下唇を噛みしめたまま、瞳をこらして、師匠をみつめつづけている。
菊之丞は、いよいよ、声をひそめて、
「土部三斎、隠居して、ますます栄耀の身となったゆえ、もはや、旧悪が暴露するうれいもないと考えているのであろう、一味の奴原が、われとわれから、そなたの面前に、みにくい顔をさらして見せたも、こりゃ、亡き父御の引き合せに相違ない。心をしずめて、めいめいの面体見おぼえるがよろしかろうよ」
「は、して、まそっと詳しゅう、居並ぶ人々の、順、なりふりをお聴かせ下さりませ」
雪之丞は、乾いた舌で嘆願するのだった。
菊之丞は、あたりを見まわすようにして、ぐっと、身を乗り出して、
「忘れまいぞ、雪之丞、向って右のはしが、あの頃の長崎代官浜川平之進、左のが横山五助、そして、息女浪路のうしろに控えた、富裕らしい町人が、そなたの父御が、世にも信用の出来る若い手代と頼んでいたに、その恩を忘れて広海屋と心を合せ、松浦屋を破滅へみちびいた三郎兵衛――今は、長崎屋と名乗って、越前堀とやらの近所に、立派な海産問屋をいとなんでいるそうな――いわば、一ばん、悪だくみの深い奴――よう、見覚えて置きなさるがいいぞ」
「では、右のが、代官浜川、左が、横山――」
と、雪之丞は喘ぐように、繰り返して、
「――あの町人体が、三郎兵衛手代――」
「そうじゃそうじゃ、今度の幕に、卒のう見て置いたがよいぞ」
その時、もう、二人とも、次の中幕、所作ごとの支度をいそがねばならなかったので、めいめい鏡に向う外はなかった。
雪之丞は、夢の場での、優雅な官女の顔を作りながら、ともすれば、心のけんが、外にあらわれるのを、いかに隠すべきかに骨を折るのだった。
――わしは、舞台に出るまえに、何も思うてはならぬのだ。心を平らに、狂言の人に、なりおおせねばならぬのじゃ。それを忘れるゆえに、こうも、顔が怖くなる――
と、そう自分を叱りながら、にもかかわらず、つい、そのあとから、胸の中にくりかえさぬわけに行かぬのが、父親の、あの、奇怪悽惨な、遺書だった。
口惜しや、口惜しや、焦熱地獄の苦しみ、生きていがたい。呪わしや。土部、浜川、横山――憎らしや、三郎兵衛、憎らしや、広海屋――生き果てて、早う見たい冥路の花の山。なれど、死ねぬ、死ねぬ。口惜しゅうて死ねぬ。いつまでつづくこの世の苦艱、焦熱地獄。
その遺書に、書き呪われた人々の中、広海屋をのぞいては、すべて、あの東桟敷、ほこりかな、紫幔幕の特別な場所で、雪之丞の演技を眺めていると、いうのである。
――もし、憎らしやと、父御の呪った広海屋さえ同じところに居合せているなら、たとい師匠の言葉に、そむこうと、斬り入って、あますまいものを――
雪之丞は、紅い唇に、べにを塗りながら、じっと鏡をみつめて、顔の凄さを消そうと、強いて微笑して見ようとするのだったが、その笑いには、却って言いがたいすさまじさが添って見えるのだった。
舞台の方では、山台の、笛、太鼓、歌ごえが、美しい朗らかさで鳴りひびきはじめていた。
雪之丞は、山ぐみが、さも重畳として見える、所作舞台へと、間もなく現れた。
中幕は、滝夜叉の夢の場――官女すがたの彼と、公卿若ぎみの、藤原治世との、色もようで観客を、恍惚たらしめるに十分なはずであった。
「ほんに雨夜の品定め、かまびすしいは女のさが――」
と、いうところが、きっかけで官女たちが大勢つどっている場に、出現するわけなのだ。
揚幕が上って、彼は、かけごえに迎えられて、花道をふんで行った。
雪之丞の官女が、花道の七三にかかって、檜おうぎをかざしたとき、東桟敷の紫幔幕の下に、そッとつつましく坐った、高島田の美女のひとみに、ありありと、讃嘆のかがやきが漲った。
「ふうむ、見事じゃ」
と、吐息に似たつぶやきが、三斎老人の唇から洩れた。
「何と、所作ぶりも、達者だの」
と、横山が、扇で、手の平を打つようにした。
息女浪路は、横山の方を、満足げにかえりみた。
横山が、その目を捉えて、
「な、浪路どの、あでやかなものでござりますな」
「ほんに、わたくしも、ゾーッと背すじが冷たくなりました」
浪路は、美しい口唇を、いくらか引き曲げるようにして告白した。
雪之丞が、あらわれて、鳴り物も、うた声も一そう際立って聴えて来た。
観客席には、今や、ささやきさえ聴えなくなってしまった。人々は固唾をのみ、瞳を見据えるようにして、見入りつづけるのだった。
その幕がしまると、人々の咽喉から、喝采のかわりに、深い嘆息が出た。
「いいなあ」
「よかったわねえ」
そうした言葉が、土間でも、廊下でも、いつまでも語りかわされるのだった。
ところが、不思議な現象が浪路の上に起った。
彼女はかなり朗らかな気性で、絶えず微笑を消さないような娘であったが、急にぱったりと黙り込んで、杯にも手を出さなくなってしまった。
「御気分が、お悪くなったのでは?」
と、老女が、気がついたように訊ねた。
「いいえ、何でもないのだけれど――」
小さい絵扇で、顔をかくすようにして目をそむけるのだった。
浪路が、勿論中心をなす一行のことだ。茶屋で中休みしている間にも、どうかして気を引き立たせようとこころみるのだったが、しかし、さっぱりその反応は見られなかった。
彼女は、じっとうつむいて、白い手先を、膝の上にみつめたり、ぽうっと遠くを見るような目をしたりしたまま、はかばかしく受け答えもしないのだった。
「気先あしければ、立ち戻ろうか?」
三斎がいった。
「いいえ、いいえ」
と急に熱心に、浪路は、かぶりを振った。
「みんな見てもどりましょう――折角たのしみにしてまいったのでござりますもの――」
浪路のこの言葉は、つき添の女中たちをよろこばせるに十分だった。
だが、浪路の、こうした心の変化の奥底の秘密を、いつかすっかり見抜いていたのが、長崎屋三郎兵衛であった。
――ふうむ、悧巧なようでも、やっぱし娘ッ子だなあ。上方役者にぞっこんまいッてしまったらしいぞ。ふ、ふ、ふ、もっとも公方のしなび切った肌ばかりじゃあ、物足りないだろうでなあ。
冷たく、独り笑って、やがて真面目な目つきになって、何か考えてみはじめるのだった。
三郎兵衛はもう舞台には、注意を払わなくなった。
――この娘に、思うようなことをさせてやって置けば、わしの日頃の望みは、千日かかるのが、十日で成就するわけだ。こんな折がなかなか二度とあるものではないぞ。
この猛悪な貪慾漢は、主家を陥れて、現在の暴富を積んだにもかかわらず、なおこの上の希望として物産用達の御用を、柳営から受けたいのだった。
この大望は、三斎父子を背景としている彼にも、なかなかむずかしいものに思われた。幕府にも手堅い組織があって、私情、自愛では、突破し難い鉄柵が存在していた。
だが、そのような非望者に取っての大障害も、道を以てすればたやすく破壊し得るであろう――三郎兵衛は、日ごろから、浪路を、その材料としてえらんではいた。とはいえ、普通ではさすがに、この娘にむかって、そこまで頼むことも出来なかった。現に、たびたび、三斎から、
「長崎屋、お互に、昔は昔、欲を張ることもいいが、そなたも、そこまでになって見れば、この上は、万事、良いほどに、我意をつつしむ方、身のためだろうぞ」
などと、忠言をうけているのだった。
――三斎隠居が、何といったところが、娘が一あし踏みそこなって見れば、もう何の口出しも出来なくなるわけだ。どうなっても、この娘に、あの役者をおしつけてしまわなければ――なあに、おとなしぶって、白い顔をしているが、あのむっちりした胸の中は、淫らな気持で一ぱいなんだ。片一方の役者の方は、これは高が、陰間あがりの女形。なんでもありはしないさ。
三郎兵衛のたぐいに取っては、彼自身の慾を遂げるために、どんな毒気を吐き散らして、他人を蠹毒しようとも意としないのだ。只、どこまでも、我慾を果してゆけばよかった。たとい来世は、地獄の黒炎に魂を焼きこがされようとも……。
彼は、幕が下りると、わざと浪路をわきにして、横山にいいかけた。
「どうでござります。横山様、雪之丞とやらいう役者――広い日本にもまず二人とは珍しく思われますが、聴けば、今日の、三斎さまの御見物を、大そうありがとう思うて、舞台を懸命に踏んでいるとの、幕内からのうわさ――殊勝なことに存じますで、はねましてからどこぞで、お杯を取らせつかわしたらと考えますが――」
「それそれ。拙者もそのことを、思わぬではなかったが――」
と、横山は、うなずいて、
「御隠居の御都合さえよろしければ、そういたしておつかわしになったら、ことさら上方からの、いわば頼りすくない彼、なんぼうかよろこぶでござろうが――」
この問答は、三郎兵衛によって、とりわけ浪路に、聴えよがしにはじめられたのだ。
彼の視線は、冷たく、鋭く、彼女にちらちらと投げつづけられる。
――それ、見るがいい。あの娘、まるで相好がかわってしまった。屈託らしい顔が、急に生き生きとかがやき出した。ふ、ふ、この三郎兵衛さまの眼光におそれ入ったか?
勿論、三郎兵衛のこの発議を、しりぞける三斎ではない。彼は異った世界の人間に接触するのが、一ばんのたのしみでもあった。
「おもしろいな。どこぞで、招いてやろうよ。浪路、そちにもいい保養であろう」
彼はのんびりした調子でいった。
父親から、雪之丞を、どこぞ会席にでも招いて、贔屓の言葉をかけてやろうではないか――と言いかけられて、浪路は、ときめく胸を隠すことが困難なように見えた。
見る見る、瞳は新しい望みでかがやき、頬には熱い血のいろが上って来た。
「よろしいように――」
と、彼女は、やっと、心の昂奮を抑えて、かすかに、さりげなく答えた。
三郎兵衛は、その横がおを、冷たい微笑で眺めて、
「ですが、浪路さまが、もし御気分がお冴えにならねば、又の日にいたしましても――」
「いいえいいえ」
と、彼女は、美しくかぶりを振るようにして、
「久しぶりで、人中に出ましたので、さっきまで、どうやら気持が重うござりましたが、もうすっかり晴れ晴れといたしました」
「それは何よりでござりました」
と、言って、三郎兵衛は、立ち上りながら、
「それでは、ひとつ、その旨を、茶屋の者に申しつたえ、雪之丞の耳に入れ、よろこばせてつかわしましょう」
雪之丞を酒席に招くということが決定すると、よろこびの色を蔽い得なんだのは、浪路ばかりではなかった。つき添いの女中たちも急に、今から、衣紋を直し合ったり、囁きを交したりして、一座はもう落ちつきを失って来たようにさえ見えるのだった。
やがて、狂言もすすんで、もう大喜利という幕間――今日の演技に魅惑しつくされて、新しい渇仰の熱を上げた男女が、雪之丞の楽屋に、山ほど使物をかつぎ込み、めいめい一ことでも、やさしい挨拶をうけたそうに、どかどかと押し寄せて来るのだったが、そこへ、茶屋の若い者が、顔を出して、男衆に、何かささやく。
男衆が、雪之丞に、
「今夜、さじきにお見えになっている土部さまから、はねてから、柳ばしの川長で、一献さし上げたいというおはなしだそうですが――」
「え! 土部さまから――」
雪之丞は、刷毛を持っていた手を止めて、相手をじろりとみつめた。
「へえ、例の三斎の御隠居さまが、大そうお讃めになっていらっしゃるそうで――何分、お客さますじがお客さまのすじですから、ほんのちょいとでもお伺いになった方が、よろしかろうと思いますので――へえ」
この瞬間ほど、美しい女がたの面上に、複雑な表情がうかんだことはなかったであろう――
彼は、自分を取りまいて、まるで酔ったように化粧ぶりを眺めている贔屓の客たちを忘れてしまったように、じっと唇を噛み締めて、空をみつめるようにしたが、やがて、決心がついたように――
「ようございます。かたじけなく、お言葉にしたがいましょう――と、土部さま御一同に申し上げて下さるよう――」
「かしこまりました。さぞ、さきさまもおよろこびなさるでございましょう」
雪之丞は、しずかにふたたび鏡にむかった。
彼はだが、もう、さき程のように殺気をあらわしてはいなかった。心は澄み切り、魂はしずもっていた。
――じっと落ちつけよ! 雪太郎――じっと落ちつけ、大事のときじゃ。
彼は呪文のように胸の底で繰り返していた。
大喜利がにぎやかに幕が引かれると、雪之丞は、潮汲みの、仇ッぽい扮装のままで、師匠の部屋に行った。
「お目出とうござります」
「お目出とう、御苦労だったの」
とてお互いに、初日をことほぎ合ったあとで、雪之丞、手を突いて、
「さて、わたくしはこれから、お客衆にまねかれまして、柳ばし、川長とやらへまで、顔出しをいたしてまいるつもりでございます。おゆるしが願わしゅう――」
「ほほう、それはありがたい御贔屓だの。して、どのような筋のお客さまだな」
菊之丞は、わが愛弟子が、江戸人から歓迎されるのを聴くのが、一ばんうれしいというように目顔に微笑をみなぎらした。
雪之丞は、きわめて落ちつき払った、さりげない調子で――
「土部さま御一行からでござりますとのこと――」
「ええ、土部から?」
かえって、師匠の瞳に、不安と恐怖とがきらめいた。
「して、そなた一人、よばれましたのか?」
「はい、わたくし一人、お名ざしでござります――が、かまえて、悪しゅうはふるまわぬつもりでござりますゆえ、御懸念には及びませぬ」
菊之丞は、じっと愛弟子をみつめたが、
「何となく心もとないが、しかし、そなたの身性を、あの人々が、気がついているはずは、万に一つも、あるはずがないと思われる。大方、そなたの芸が気に入っての招きであろう。先方が、そう申すのを断わろうともせず、ふみ入って見ようという、そなたの了見は結構だ。が、決して、今夜、その場で暴ら暴らしゅうしてはなりませぬぞ」
「申すまでもござりませぬ。雪之丞、必死にて、みずからを、おさえて見るつもりでござります」
雪之丞が、きっぱりそう言うと、
「それそれ、その覚悟が、大事の前には是非とも入用だ。今夜は、相手が、どのように出ようとも――百万に一つ、そなたの身にうたがいをかけているような気ぶりが見えようとも、必ずいいまぎらして、手荒くしてはなりませぬ」
と菊之丞はいって、
「あまり、気にしすぎるようだが、そなたの、肌身はなさぬ懐剣、今夜だけは、わしにあずけて置いて貰いたい」
ニッコリした雪之丞――
「はい、かしこまりました。お預けいたすでござりましょう。では、御免こうむって、支度を――」
雪之丞は、ざっと、舞台化粧を拭き落すと、かつら下地に、紫の野郎帽子、例のこのみの、雪持南天の衣裳、短い羽織をはおって、あらためて師匠に挨拶した。
「では、脇田先生よりたまわりましたまもり刀、今宵一夜、おあずかり下さりませ」
「たしかにあずかりました。行って来なさい」
師弟は別れた。
楽屋口から、男衆を供に、役者の出入りに、好奇な目をかがやかして立ちならんでいる女たちの間を抜けて、茶屋の前から駕籠に乗るのは遠慮して、しばし、夜風が幟をはためかしているあたりをあるく。
そして、雪之丞、やがて、駕籠に揺られて、大川端をさしていそぐのだった。
料亭の、白く、明るい障子は、黒く冷たい大川の夜かぜを防いでいた。大広間には、朱塗りの燭台が立て並べられて、百目蝋燭の光が昼をあざむくようだ。
床前に、三斎父娘が控えて、左右には浜川、横山、それに三郎兵衛、芸者、末社も、もうおいおい集まりはじめていた。
幇間遊孝が、額を叩くようにして、
「それは、とのさま方、結構なことでございますな。実は、この土地でも、かりにも猿若町の三座の随一、中村座ともあろうものが、上方役者を芯にして、顔見世月の蓋を開けるなんざああんまりなやり方――見下げ果てた仕打ちだ――今度だけは見物も、見合せた方がなんぞという人もありましたが、相手は、遠い旅をかけて来た芸人、まして、あの人達のおかげで、くさりかけた中村座が立ち直れば、これに越したことはないという論も出まして、まあ、幟、そのほか、飾りものもいたしましたが、実は、わたくしも、今日の舞台をのぞきますと、何が、けれん芸、立派な舞台で、あれでは、ちっと、当地の役者も、顔まけをいたすかも知れませぬ。それで早速、手配をしまして、三日目の見物は、土地をすぐって押し出すことにいたしました。そこへ、とのさま方が、あの雪之丞を、柳ばしにお招きくださって、言わば、この土地のものにも、おひき合せ下さろうと言うのは、われわれども、芸人仲間としても、うれしいことでございます」
なぞと、これは、男同士から、心からよろこぶように言うのだった。
芸者たちも、雪之丞と一座が出来るというので、何となく浮き立って、
「そんなにいい役者なら、もう上方へ帰してはやり度くないねえ」
「ほんとうに、芸も、位も、江戸が一ばんですのに――みなさんで可愛がって上げたら、屹度こっちに居着いてしまうでしょうよ」
三斎隠居が、ニヤニヤしながら、
「と申して、あまりその方たちが愛しすぎると、折角の、彼の芸がどんなことになるかも知れぬぞ」
「ふ、ふ、素手で蠅を追うようになるより、いっそ、一日も早う、西へ帰してやるが、雪之丞のためになろうも知れぬ」
と、浜川が、尾についてざれ口を叩く。
浪路は、明らかに眉をひそめた。彼女の、白魚のような右の指先が、美しい額をおさえる。
――ふ、ふ、ふ、まだ雪之丞を手に入れもしないのに、もう自分の情人のことをかれこれ言われてでもいるように、やきもちを焼いている。まあ、待っていなさいよ。きっと、このわしの力で、何とかまとめて上げようからね――そのかわり、わしが頼むことがあったら、お前さんも、よろしく肩入れをしてくれるのだね――
と、顔には追従笑いをうかべて、心にはさげすむ長崎屋三郎兵衛、
「浪路さま、お一つ、お盃をいただきたいものでござりますが――」
「わたくしは、また頭が痛んでまいるといけませぬゆえ――」
と、いうのを、
「いいえ、召し上りなされませ。何でもにぎわしゅう、陽気にあそばせば、お風邪気なんぞは、飛んで行ってしまいます」
「では、差し上げましょうか――」
と、いくらか微笑して、盃をさしたのも、彼女にすれば、雪之丞に今夜逢えるのも、心利いた三郎兵衛のはからいだと思えばこそであったろう――
ところへ、女中が、
「中村座から、お着きになりましたが――」
と、顔を出す。
「ほ! 待ち人がまいられたそうな――お出迎え――お出迎え!」
と、遊孝が、元気よく立つと、芸者、女中が、雪之丞のために席を設ける。
一座の目は、ことごとく、はいって来ようとする珍客の方をみつめる。いかなる事にも、物驚きをしないような、生ッ粋の柳ばし連の、美しい瞳さえ、一度にきらめき輝くのだった。
三郎兵衛は、相変らず、必要な方へだけ視線を走らせる。
――大丈夫、安心しておいでなさいよ。どんな美形連が、こがれ、あこがれて近よりたがっても、お前さんにはかなわないのだからね。何しろ、公方さまの、お側女なんだ。大した御身分。うしろには、お父上ばかりじゃあない、この三郎兵衛という軍師がひかえているんだ。
見つめられて当の浪路は、顔色さえサーッと青ざめて見えるほど、明らかに昂奮して来た。膝に置いた、白い手先きが、小さな金扇を、ぎゅっとつかみしめて、息ざしが喘ぐようだ。
「さあ、こちらへ――」
と、いう、遊孝の、案内のこえ――
「みなさま、おまち兼ねで――」
閾外の畳廊下に、ほっそりとしなやかな手を突いて、艶やかな鬘下地の白く匂う頸すじを見せた雪之丞、真赤な下着の襟がのぞくのが、限りもなくなまめかしかった。
「わざわざおまねきにあずかりまして、何とも辱じけない儀にござります。わたくしは大坂よりはるばると、御当地を頼りまいらせて下りました、中村雪之丞、いく久しく御贔屓、おん引き立てのほど願わしゅう」
「さあさあ、遠慮のう、前へ進め、これへまいれ」
と、三斎老人、例の気作な調子で、じかに声をかける。
「御前は、悪固いことが一ばんおきらい。さあ、そこの席までおいでなさい」
三郎兵衛が、身を乗り出すようにして迎えた。
頭をもたげた雪之丞、珠玉のかんばせに、恒ならず血を上らせているのは、心中にむらむらと燃え立ち渦巻く憤怨のほむらを、やっとのことでおさえつけているためなのだろうが、しかしよそめには、舞台で眺める濃い化粧の面かげとはちがった、いうにいえぬ媚びさえ感じられるのだった。
――ま、うつくしい!
――何という、おとなしやかで、品のいい人なのだろう!
一座にいあわせる女たちのみか、浪路の供をして来て、控えの間につつしんでいた女中たちさえ、廊下までのぞきに来て、お互に手を〆め合って、といきを洩らしている。
三斎の言葉と、杯とが皮切りで、一同から、讃歎が、雨のように雪之丞の上に降りかかって来る。
雪之丞、つつましやかにうつむいて、
「左様なお言葉をうけたまわるも、何と申し上げてよろしいやら――只、もう嬉し涙が、とめどもござりませぬ」
事実、彼のまつげには、熱い珠がまつわっているのだ。何の涙か――真実うれし涙であろうはずもない――いうまでもなく、この世でもっとも憎悪すべき、親のかたきから、うけねばならぬ杯から呑む酒は、沸き立つ鉛の熱湯にもまさったものに感じられたのであろう。
一座の酒は、はずんでいた。三郎兵衛は、どんな太鼓持より気軽な、調子のいい態度で、出来るだけ、雪之丞を浪路に近づけようと、試みるのだった。
雪之丞が、浪路から差された盃を、ゆすいで返そうとするのを、わざと、その儘、もとに納めさせたのも、彼だった。
「この頃、江戸の流行で、そなたのような秀れた芸道の人が、口にあてた盃の、お客が持ち帰るのが、慣わしとなっている。そなたも、御息女さまに、お願いして、そのお盃を、お持ち帰りを願うがよい」
なぞと、いったのは、何事も心の中を、口に出せぬ浪路の、胸のうちを、代っていってやったまでなのだ。
浪路は、嬉しさを強てかくすようにして、懐紙を出して、小さな猪口を包み、大事そうに帯の間にしまった。
太鼓持は、芸者の歌三味線で、持芸を並べたてていた。雪之丞つつましやかに、江戸前の遊芸を眺めているふりをしていたが、その胸のうちは、まるで、烈風に煽られる火炎のように渦まき乱れていた。呪いのほむらは、魂を灼き焦し、あおりたてた。
――たとい、懐剣は、お師匠さまのお手にお預けして来ても、この手刀が身についている限りは、ここに並んだ四人、五人、瞬く間に打ち倒して、父御の恨みをお晴し申すは、わけはない。この場に、広海屋さえ加わって居れば――
そして、再び彼は、無理無理己れを抑える。
――いいえ、駄目だ。早まってはならぬ。今度の江戸下りは、お師匠さまや、一座のためには大事の場合。わたくしの恨みを晴らすために、ともかくも花形なぞと、数えられるこのわたしが、血なまぐさい事をしてのけたら、何も彼も、滅茶滅茶だ。折角、向いて来ている江戸の人たちの人気が、そのために一座をすっかり離れるだろう。わしは、胸を撫で、さすろう。わたくし事は、人に気づかれぬよう、そっとそっと、ひとりで暗闇で、なし遂げる外はない。
雪之丞は、やっとのことで、自制して、心を落ちつけて、居並ぶ仇敵たちの様子を探ろうとするのだった。
誰は、どんな癖があるか、どのような性格だか、それを知れば知る程、彼の目的は、安全に的確に達せられるであろう。
幇間の芸がすむと、三郎兵衛が、雪之丞にいいかけるのだった。
「太夫、そなたの舞台の芸は芸として、お歴々様に、日頃のたしなみを、何かお目にかけたらよかろうが――」
雪之丞は、とりわけ、この三郎兵衛から、ものをいいかけられると、憤りに全身が、こわばって来るのだった。しかし、彼は殊更、しおらしく頭を下げた。
「未熟者で、何も覚えて居りませぬが、折角のお言葉ゆえ――」
と、そう答えて、一人の芸者から、三味線を借りると、かすめた調子で、爪弾きで、低く粋な加賀節を歌いだした。
つとめものうき
ひとすじならば
とくも消えなん
露の身の
日かげしのぶの
夜な夜なひとに
遇うをつとめの
いのちかや
紅い唇が、静かに動くのを、吸いつけられたように、浪路は、見つめて、手にしていた金扇を思わず、畳にとり落すのだった。ひとすじならば
とくも消えなん
露の身の
日かげしのぶの
夜な夜なひとに
遇うをつとめの
いのちかや
々、切々たる、哀調は、かすかに弾きすまされた爪びきの絃の音にからみ合いながら、人々の心を、はかない、やる瀬ない境に引き込んでゆくのであった。
芸者たちは、雪之丞がうたいおわって、頭を下げ、三味線をさし措いたとき、深い吐息をついた。
「加賀ぶしも、ああうたわれると胸を刺されるようだの」
と、通人の三斎がつぶやいた。
それは一座の気持を、代っていいあらわしたものといってもよかった。
雪之丞に対する人々の態度は、ますますいとおしみと、なつかしみに満たされて来た。あるものはひそかな恋ごころを、またあるものは尊敬の念をすら抱くのであった。
三郎兵衛は、ふと、浪路が、うつむいて、白い細い指先で、こめかみを押えるのを見ると、隙さず言いかけた。
「浪路さま、また、お頭がお病みなされてまいりましたか?」
「いえ――少し上気たようですけど、別に左までは――」
と答えるのを、大仰に眉をひそめて受けて、
「それはいけませぬ。大方、芝居小屋から、この席と、つづいてやかましい所に御辛抱なされたので、御気持があしゅうなられたのでしょうゆえ、しばし、あちらで御休息なられては――」
と、云って、三郎兵衛の胸の寸法を、十分にのみ込めぬ浪路が、拒もうとするのを、しいるようにして、
「それ、女中ども、御息女さまをしずかなお部屋に御案内いたしてくれ。少し横にお成りあそばすとじきにおなおりであろうから――」
浪路は、みんなから強いられて、いつまでもいたい、雪之丞の前を立たねばならなかった。そして、連れてゆかれたのは、奥深い、丸窓を持った一間だった。軽い褥に、枕もなまめかしく、ほのかな灯かげが、ろうたく映えている。
女中たちは、供の小間使の一人だけを、枕元に残して、去ってしまった。
そこへ、三郎兵衛が、顔を出して、
「実はな、あなたさまがおいでになると、これから御酒をすごそうとするわれわれに、ちと、遠慮がちになりますので――へ、へ、御休息を願ったような次第でござりますが、そのかわり只今、もうじき、よいお話相手を必ず連れてまいります。たのしみにおまち下さりますよう――」
――よい、話相手!
浪路は、いぶかしく、小くびをかしげて、そして、やがて、白梅の花びらのように、ふくらかな頬に、パアッと、紅葉を散らして、三郎兵衛の後ろすがたの方を、見送るようにするのだった。
――では、長崎屋どのは、何もかも、わたくしの胸の中を知ってしまっていたのだ――雪之丞を、この席に招こうといい出したときから、もう知ってしまっていられたのだ。
毒々しい野心に燃えている三郎兵衛を、深く知らぬ、この美女は、ただ、はずかしさと感謝とに一ぱいになるばかりだ。
――でも、雪之丞は、ほんとうに、この場に来てくれるであろうか? まいったら、うれしいけれど――まあ、どんなことをいい出したらよろしいやら――
わくわくと、少女の胸はとどろき躍る。
彼女は、小間使に、朱塗りの鏡台をはこばせて、髪かたちを直させながら、躍る血潮をしずめようと、両手でそっと、乳房のあたりをおさえるのであった。
こちらは、雪之丞、あとからあとから降って来る杯の雨を、しずかにうけながら、心の中に仇敵の一人一人を観察しているのだったが、なるほど、どれを見ても、一ぱしすさまじい面がまえと、胆の太さを持った、なかなかたやすくは行かぬ人々だ。
三斎老人はやはり、芸道の話をしきりにしかけて来るが、その和らかい言葉がふくむ鋭い機鋒は驚くばかりで、浜川旧代官は、邪智深さで随一、横山というのは、狡猾無比、これに、広海屋、長崎屋の毒々しい下品な智慧を加えたら、なるほど、どのような悪事をも、天下の耳目をくらまして、押し切って行えるだろうと思われた。
こうした連中が心を合せて、正直、まっとうに暮して来ていた、父親を陥穽に陥れ、一家を離散させ、母親を自害させ、限りない苦悩のどん底に投げ入れたのだと思うと、雪之丞は、只、すぐに一刀に斬り殺したのでは、復讐心が満足出来なくなって来るような気がする。なぶり殺し――それも、ある場合は、刀で行るもよいが、それは最後で、もっともっと、別の手段で、心も魂も、生きながら地獄の苦しみを味わせてやらねば、辛抱ならぬものに思われはじめた。
――いそぐでないぞ! 心を引きしめて、わし自身が身に覚えた、長い長い間の苦悩をも、父御の恨みに加えて、こやつ等に思い知らせてつかわそう。
そう考えて、奥歯を噛みしめたとき、ふと三斎の声が、彼の心を引いた。
「おお、そう申せば、門倉は――平馬は、どこへ行っているのじゃ――席に見えぬが――」
雪之丞は、さっき桟敷に見た、あの、憎悪に充ちた門倉平馬の顔が、ここに見当らぬのが不思議だったのだ。
「おお、なるほど、門倉――つい、さっきまでそこにおりましたが――」
と、横山が、末座に目を走らせる。
「あ、そこにおいでのお方さまは只今、少し酔いすぎたと申されまして、風に吹かれておいででございます」
と、女中が言った。
「ナニ、平馬が、酔うた――珍しいこともあるものだな?」
と、老人はいったが、急にあけっぱなしに笑って、
「いやそうでもあるまい――大方お客がお客ゆえ、わざと、この座をはずしたのであろう――胸の小さな男だな」
そう呟くと、雪之丞に、鋭い視線をちらと送って、
「のう、太夫、うけたまわれば、そなたは舞台の芸ばかりではないそうじゃの? ――と、いうことも漏れ聴いたが――」
雪之丞は、さては平馬が、すでに何か耳に入れたな――と、悟ったが、さあらぬ体で、
「と、おおせられますと?」
と、ほほえましく、
「舞台の芸さえ未熟もの――その外に何の道を、習い覚えるひまとて、あるはずがござりませぬ」
「いやいや、そなた、武士の表芸にも、練達のものと聴いた。三斎、実は、ひそかに感心いたしおったのだ」
老人がそういうと、座中の人々の間では、一そう感歎の囁きがかわされる。
「脇田門では、一、二を争うものとうけたまわった。いずれ日を期して、その方面の技も見せて貰いたいな。それにしても、門倉を呼べ、あれによういうて、何かわけありげな太夫と和らぎ合せたいと、わしは思う――門倉を呼べ」
と、三斎は、あたりにいった。
女中たちが、二人ばかりで、平馬を探しに出かけたが、間もなくいくらかこめかみのあたりを青くした剣客が、広間にはいって来て、末座に手を突いて、
「中座をいたし、はなはだ失礼つかまつりました。ちといただき過ぎたよう存じまして――」
「よい、よい」
と、三斎は、明るくうなずいて、
「ちと、そちに訊ねたいことがあってな、わざと呼びにつかわしたが――」
と、いって、雪之丞に目をうつして、
「雪之丞、そなた、これなる者を見覚えているであろうな?」
雪之丞の、美しく優しい瞳が、まともに門倉平馬の上にそそがれた。と、彼のいくらか酔いを帯びて、まるで桜の花びらのように思える面上に、さもなつかしげに笑みが漲った。
「ま、これは、門倉さま、思いがけないところで、お目通りいたしますな」
と、しずかに挨拶する。
平馬は、苦が苦がしさを、あらわにして、
「これは、雪之丞、舞台を見たが、なるほど、男ながらに、女そのまま――生身の変性女子を眺めて、何とも驚き入りましたぞ」
そういう言葉には、ありありと、役者を身分ちがいと見、女がたを片輪ものとさげすむ侮辱がふくめられていた。
しかし、雪之丞は、別にいかりの気色も見せぬ。ほがらかに笑って、
「あなたほどのお方から、女そのままとの仰せを伺えば、わたくし、これ以上のうれしさはござりませぬ」
あっさり受けるその容子を、三斎はゆたかな目つきで眺めて、
「平馬、その方、ふだんからどうも気性が固苦しゅうていかん――もっとも、武芸者は、そうあるべきだが、雪之丞とも、年来の馴染とあれば、双方とも、芸術の達人、今後、したしゅういたしたがよろしいぞ」
隠居は、雪之丞を、闇討ちに掛ようとしたほどの、心肝に徹する平馬の憎悪を知らないのだ。
「お言葉でござりますが、年来のなじみと申しましても、拙者と雪之丞とは、道がことなりますので、さまで親しゅうもいたしてはおりませなんだ」
「これさ、そう申すのが、その方のいつもの癖だ。さ、杯をつかわせ」
平馬は、よんどころなげに、杯を干す。芸者が、雪之丞に取りついで、
「あちらさまから――」
「辱のうござりまする」
うけて、清めて返したが、それで、ひとまず、一座の話頭は、別の方角へ反れてゆくのだった。
やっと、みんなの注目からのがれることが出来た雪之丞、座を立って、手洗場の方へゆこうとすると、あとから、呼びかけたものがあって、
「太夫」
ふりかえると、昔の松浦屋の手代、今は一ばん恨みの深い長崎屋三郎兵衛だ。
「御用でござりますか?」
胸をさすって、小腰をかがめると、狡そうな目つきに、妙な微笑を見せて、
「折り入って、話があるのだが――」
と、あたりを見まわすようにして、
「御隠居の御息女が、あちらで、酔をさましていらっしゃる。話相手に行って見てはくれまいか?」
三郎兵衛から、息女浪路が、別間で休息しているゆえ、話相手にその部屋を訪れてはくれまいかと、突然、思いがけないことを聞かされた雪之丞。その刹那、かあーと、全身の血が逆流するのを覚えるのだった。
――さては、ひとを河原者、色子あがり同然とあなどって、婦女子の、弄びもの、つれづれの伽として、淫らなことを、させようとしむけるのだな。しかも、相手は恨み重なる土部三斎の娘――
と、顔色さえ変えて、すぐに、はげしい言葉を酬いようとしたのであったが、
――いや、いや、ここが堪忍のしどころ、胸の、さすりどころじゃ。今夜は、どのような仕儀に臨んでも、怺えに怺え、ただ敵方の懐に喰い入り、のちのちの準備に備えようというのが、覚悟なのだ――
と、自分を叱ったものの、しかし、三郎兵衛の求めには、どうしても、応じられない気がした。
彼は、顔に、慇懃な笑みを作って、
「それは、有がたいお言葉ではござりますが、わたくしは、女形、たださえ世上の口がうるそうござります。御女性がたばかりの御席へは、かねがねから、お招きをお断わりして居りますので、何分ともに、御前態よろしゅうお詫びを申し上げておいて下さりませ」
三郎兵衛は、うなずいて、
「なる程、そなたの申し分には、道理がある。そこまで、身を慎んでこそ、日本一の芸人と、名を謳われることも出来よう」
と、さもさも感に堪えたように、いって見せて、一段と声を低くし、
「だが、のう、雪之丞殿。それは十分、理屈だが、ものにはすべて、裏がある。相手が普通の娘だとか、後家だとか、いうような者どもなら、それは、そなたの、名のために、断わりをいうもいいであろうなれど、土部三斎様といえば、何分、当時、大江戸で、飛ぶ鳥を落す勢い。その御威勢の半分は、当の、あの、浪路さまを、大奥にさし出しているからだとさえ、いわれているのじゃ。そこを、よう考えたら、そなたも、日頃の心がけを、今夜だけは忘れても、損はないように思われるが――」
雪之丞は、三郎兵衛が、例の悪狡い眼を細めるようにして、こんな事を、くどくどと述べたてるのを聞いているうちに、だんだん気持が変って来た。
――なる程、ものは考えようじゃ。相手が土部三斎の娘の、浪路であればこそ、却って、ここは、いつもの気持を捨て、側に近づく用があるかも知れぬ。わしは、今まで、恨みを晴らすに、太刀、刀を使おうとばかり思うていた。だが、それでは存分の、念ばらしが出来る筈がない。世間で、女子にもまさるとか、たたえてくれる姿、形に産みつけて下されたも御両親――その御両親の御無念を、おはらし申すに、縹緻を使ったとて、何が悪かろう。世の中の、噂なぞは、わしには少しも苦にならぬ。よし、よし、向うから、しかけて来たのを倖、公方の随一の、寵愛とかいう、あの浪路とやらを、巧言をもって、たぶらかし、思い切った仕方で、かの三斎めに、先ず第一の、歎きを見せて遣わそう。何事も大望への道だ。ためらう事はならぬのじゃ――
雪之丞は、自分に、そういい聞かせて、じっと、思案に暮れる様子を作って、
「如何にも、これは、わたくしの考え違い。相手のお方が、御息女さまとあるからは、うっかりお断わりなぞ申上げたら、飛んだ失礼になるところでござりました、お言葉に、何もかも、お委せ致すでござりましょう」
と低く、低く、腰をかがめるのだった。
雪之丞が、手の裏を返すように、折れて出たのを見ると、三郎兵衛は、ニヤリと猫族に似た白い歯を現して、
「そうじゃ、そうじゃ、そのように物わかりがよう無うては、芸人はなかなか出世がなりませぬ。いかに名人上手というても、やはり上つ方の、ひいきが無いと、人気は持ちつづけられぬもの――そなたのようにおとなしい気持でいれば、一生、現在の評判をもちこたえること疑いなしじゃ。ことさら、浪路さまは、今夜こそお微行なれ、大奥の御覚え第一、このお方の御機嫌さえ取って置こうなら、どんな貴いあたりにも、お召しを受けることも出来よう。そうなって御覧じろ、役者としては、日本開闢以来の名誉ではあるまいか――」
と、べらべらと、しゃべり立てたが、
「そういう中にも、何か邪魔がはいるとならぬ。さあ、こう来なさい。御息女のお小やすみの部屋に、わしが案内をして取らせましょう」
江戸で、物産問屋としては、兎に角、指を折られるまでに、立身をしている身で、自分から淫ずら事の手引きをしようとする、この三郎兵衛の態度に、雪之丞は堪えがたいいまわしさを覚えて、ほとんど吐き気すら感じて来るのだった。
けれども、どこまでも頭を下げて、
「何もかも、あなたさまの御恩でござりまする――わたくし風情が御息女さまのお側に出していただけるのは、思いがけないことで、どうぞあなたさまよりも、よろしゅうお口添を願い上げまする」
「よいとも、よいとも、この三郎兵衛が、呑み込んだ上は、大丈夫。まあ、何事もまかせて置きなされ」
一歩、一歩、拭き込んだ廊下を、まるで汚物でも撒かれている道を歩かせられるような、いとわしい、やり切れない気持で、雪之丞は、奥まった茶室風の小部屋の方に導かれて行くのだった。
三郎兵衛は、しいんとした小部屋の前まで来ると、軽い咳ばらいをして、襖をあける。控えの三畳に、つつましく坐った、小間使に、笑がおを見せて、
「御息女さまに、三郎兵衛、まいった由、申し上げて下され」
と、礼儀だけに言って、かまわず、雪之丞の手を引くようにして、小間使のあとからはいって行った。
休息用の、ふさ飾りのついた朱塗り蒔絵の枕は、さすがに、隅の方に押しやって、やや居くずれて、ほのかな灯影に、草双紙の絵をながめていた浪路、三郎兵衛が来たというので、目を上げると、パアッと、白い頬に血を上らせた。
「ま!」
彼女の、紅い唇から、驚喜のつぶやきが、思わず漏れざるを得ない。閾うちに膝を突いた三郎兵衛と並んで、そこにしずかにひれ伏しているのは、今日偶然舞台でその姿を一目見てから、ゾーッと身ぶるいの出る程の恋ごころをおぼえてしまった、上方下りの雪之丞その人ではないか!
三郎兵衛は、さも、内輪な、したしげな調子で、親密なまなざしを送りつつ、
「浪路さま、雪之丞が、おつれづれを、おなぐさめいたしたいと申しましてまかり出ました。上方のめずらしいお話もござりましょう。お相手おおせつけ下されまし。さ、雪之丞どの、まそっと、お進みなさるがいい」
雪之丞が目をあげると、その瞳は、熱い、燃えるような視線を感じるのだった。
愛の、悶えの、執着の熱線だった。
そして、それは、浪路の魂と肉との哀訴だった。
浪路は、片手を脇息にかけて、紅唇にほほえみをうかべようとするのだったが、その微笑は口ばたに硬ばりついて、かえって、神経的な痙攣をあらわすにすぎなかった。
三郎兵衛は、二人の目が、ピタリと合ったまま、うごかぬのを見ると、チラリと冷たい笑みを見せて、
「では、わしは彼方のお座敷でまだお相手をせねばなりませぬゆえ、ゆかせて頂きます。雪之丞どの、御息女さまは、ようくおたのみいたしましたぞ」
そう、いい捨てると、そのまま姿を消してしまった。
浪路の、白い咽喉から、いくらかかすれたような声が、はじめて洩れる。
「さ、これに、進みや」
雪之丞は、しおらしげに膝をすすめた。
「いそがしいところを、今宵は、とんだ目に逢わせましたな」
浪路は、相手に遠慮を忘れさせようとするだけの、心の余裕を持つことが出来はじめた。
彼女は、かねがね、大奥の、口さがない女たちが、宿下りの折々に、贔屓の役者と、ひそかに出逢いをして、日ごろの胸のむすぼれを晴らす、その時のたのしさ、うれしさを聴かされてもいた。
――何も、こわがることも、うじうじすることもない、だれもがすることだ。この男だとて多分、多くの女たちの、もてあそびものになって来た身であろう――
自分をはげますように、そんな風に思って見たが、すると、又、激しい愛慾の悩みが、白くむっちりと膨れた胸を、噛む。
――でも、わたしには、辛抱出来ない。一度、この人をわが物にすることが出来たら、他人の手には渡せない――
彼女は、雪之丞が、あまりにつつましすぎるのを、怨じがおに、
「その上に、又、わたしのようなものの、つれづれの伽までたのまれて、さぞ、心苦しゅうありましょうな」
「いいえ、御息女さま」
雪之丞の、澄んだ、しかし、ねばっこさのある声が遮った。
「何でそのようなことが、ござりましょう。わたくしのようなものが、貴いお身ちかく出ますのが、あまりに勿体のうて――」
「まあ! 何ということを!」
浪路は、媚びられて、うれしさに沸きたつ胸を、しいて、つんとして見せて、
「そなたは、どこまでも、他人行儀にして、わたしを近づけまいとするそうな」
そのとき、しずかに、小間使が、蒔絵の膳に、酒肴をのせて運んで来て、また、音もなく立ち去るのだった。
浪路は、まだ遠い二人の仲を近よせる、いい仲立を得て、
「もういつか、秋も深うなって、夜寒が、沁みる――さ、酌をしますほどに、ゆるりとすごすがようござります」
と、ほっそりした手に、杯を取って、雪之丞にすすめる。雪之丞は、
「いえ、わたくしが、お酌をさせていただきまする」
と、いなむのを、
「ま! いつまで、そんな堅苦しい――」
そして、二人の杯は美酒に充たされた。
雪之丞は、出来るだけすなおに、浪路と、さかずきを、さしつ押えつするのであった。
しかし、彼に取っては、いかなる美酒の香味も、まるで鉛の熱湯を呑みおろすような気持をあたえるに相違なかった。
――辛抱だ――これが、男の辛抱だ!
と、彼は魂に叫ぶ。
――この人の肺腑に食い入って、身も心も迷わせてやれば、お城づとめがおろそかになるに相違ない。
この人が、お上をしくじった暁には、三斎の、いまの勢力は地を払うであろう――
――それが、一ばんいたい心の手傷となるわけじゃ。どこまでも、美しい胸の奥をとろかさねばならぬ――
「ほんに、何という冥加なわたくしにござりましょうな」
と、彼は、片手を襟にさし込むように、いくらか流し目さえ使って、浪路をながめる。
「やんごとないお方さまの、お身ちかく、この世でならびない、御栄華にお生きなされているあなたさまのお側で、たとえ、たったしばしの間でも、こうして御贔屓をおうけいたせるなぞとは、上方をはなれますとき、思いも及ばぬことでござりました」
「何をいやるぞ――そなたは?」
と、浪路は、恨みをふくめた目で見返して、
「わたしが、上さまのお側にはべる身ゆえ、それが仕合せでもあるように、そなたは思うていやるそうな――」
「それが、仕合せでのうて何が仕合せでござりましょう? この日ッ本国中の、女性という女性、それをうらやまぬものが、あろうはずがござりませぬ」
雪之丞はべったりと、居くずれるようにして、横がおを見せるのだった。
浪路は、このたける、しとやかな優人と、世情にうとく、色黒な小柄な貴人とを思い比べて見ることさえ、苦しく、やるせなく、心恥かしかった。
「もうそのようなこと、いわずに置いてたも。さも、わたしが、好んで大奥にあがったものでもあるように――」
雪之丞は、それが耳にはいらぬもののように、ホーッと、深い吐息をして、
「わたくし、おいとまをいただきとうござりますが――」
急に、サッと、浪路の顔いろがかわって、
「なぜ――にわかに、そのような!」
「でも、考えて見ますと、あまりに空おそろしく――」
「何が、おそろしいと、いやるのか――事ごとに、わたしのこころに、針を刺さいでも――」
浪路は、べったりと、雪之丞の方へもたれかかるようにして、
「そなたには、わたしのこのこころが、わからぬと見えますな――舞台の上では、あのようにやさしく、しおらしゅうお見えであるのに、あんまりおもいやりが無さすぎます」
「御息女さま」
と、雪之丞は、かたちをあらためて、膝を正して、
「あなたさまは、わたしを、おなぶりあそばすのでござりますか? いやしい稼業はいたしておりましても、男のはしくれ、あまりのおたわむれは、罪ぶこうござりましょうに――」
「わたしが、そなたをなぶるといやるかえ?」
重ねた杯に、ぽうと染ったまなじりに、限りない媚びを見せて浪路は、一そう若きわざおぎにもたれかかるようにするのだった。
雪之丞は、だんだんに酔い染って来るような、浪路を眺めていると、胸苦しさが募ってゆくばかりだ。
――この人は、たしかにもう、わしの手の中に落ちてしまった。この人はわしからはなれることは出来ぬ。
そう思うと、自足のおもいにおのずから、冷たい微笑が、唇を軽くうごかさずには置かぬ。
「御息女さまに、こうしてたった一夜でもお目にかかって、このまま一生、お召しもうけなかったら、わたくしは一たいどうしたらよろしいのでござりましょう」
「何といやる――このまま、もうあわずなる――そのようなことがありましたら、このわたしこそ、とても生きてはおられませぬ。そのようなこと、いいだして下さるな」
少女の、熱い熱い吐息は、みじんいつわりをまじえていない。蔑すみと呪いとに充たされた雪之丞の、目にも魂にも、それはよく感じられるのだった。
すると、彼も亦、多恨の青春に生きる身ではある。思わず、美しい浪路から瞳をそむけないではいられない。
――かあいそうに、この人は、何も知らないのだ。この人には、罪も恨みもあるはずがないのだ。それなのに、わしは、ひたすら、いつわりで心をとろかそうとばかりしている――空おそろしいわざではあるまいか――
胸の奥底を、その瞬間、いうにいえぬ痛みが突き刺す。
――あわれな、罪深いわざは止したがよくはあるまいか?
「わたしは、癪さえとり詰めるような気がしてなりませぬ」
と、浪路は訴えた。
「もうじき、こよい、お別れせねばならぬと思うと――」
雪之丞は、咄嗟に答えることが出来なかった――彼の舌は硬ばった。
――わしには、これ以上のことは言われぬ――この人は、ほんとうにわしのことを思いつめておいでなのだ。こんなに、こんなに、手先がふるえていられる。
けれども、やがて、彼の激しい熱情がよみがえった。
――いいえ。わしは、こんな気弱いことでどうするのだろう! この人は三斎の娘なのだ! 三斎の分身なのだ。この人を苦しめるのは、憎い三斎を苦しめることなのだ。わしはどこまでも、土部一家に祟らねばならぬ。この人の身も、魂も、かき裂いてやらねばならぬ。この人を公方さまの側から引き離して、にがいにがい味を、三斎にまず味わせねばならない――わしは、気を弱らしてどうするのだ。
雪之丞は、父親の、あの悲しみと憎みとに燃えた、みじめな最後のすがたを思い出す。
彼は、カーッと、全身が地獄の炎で焼き焦されるような気がした。父親の、まぼろしの顔が物すさまじく痙き攣るのが、まざまざと見られる。
彼は、苛責の毒煙にまかれながら、わが子を呪う――怒る――責める――
――不孝者め! 心弱い、愚か者め! 誓いを忘れたか! この父親の冥府の苦しみを忘れたか! 浮かばれぬのだ。浮かばれぬのだ! 早く、早く修羅のうらみを晴らしてくれぬことには、いつまでも成仏出来ぬこの身なのだ――雪太郎よ! 雪太郎よ! この怖ろしのさまが見えぬか!
相手が女性、しかも、父にこそ恨みはあれ、何の罪科もない人と思うと、自分のもくろみがあまりに悪辣な気がして、やや、心が屈しかけた雪之丞、ふと、不幸薄命に狂死した親のまぼろしを目にうかべ、冥府からの責め言葉さえ耳にして、ハッと我れに返った。
――そうじゃ、わしは父御の子じゃ、父御のうらみをむくいるために、この一生を賭けた身じゃ。今更、何をためらうのか! どこまでもどこまでも、鬼になり、悪魔とならねばならぬ――
そう、胸の中に、おのれを叱って、
「御息女さま、それならば、これからのわたくしは、いつもいつも、あなたさまが、見守ってくだされているつもりで暮しまする。舞台に立つときも、ほかのお客さまに見せようとも思わずただもう毎日あなたさまが、あの桟敷においでなされると考えて、懸命につとめまする」
「ほんに、何というやさしいことを――」
と、浪路は、ゆめましげに、
「わたしも、御殿にいるうちも、いつもそなたが忘られるはずはありませぬ――上さまお側にはべるときとて、屹度屹度そなたのことのみ思い暮らしましょう――」
「この雪之丞、上方にても、ただたださまざまなまどわしに逢いかけましたこともござりますが、ただ一すじに芸道第一、ほかのことには心をひかれずくらしてまいりました。しかし、今日からはさぞや変った心となりましょう――恋とやらはせぬがましときいてはおりましたが、たやすくお目にかかれぬ、とうといお身の上のお方さまをお慕いまいらせては、いのちさえ細るに相違ござりませぬ」
浪路も、ホーッと熱い息をして、雪之丞の女にもまごう手先をじっと引きしめると、
「こよい、一夜でも、ゆるりと話が出来たらばのう――」
二人は、目と目を見合せて、しばし言葉もなかった。
すると、そのとき、廊下の方で、軽い足音がして、例の三郎兵衛のしわぶきの音――
のこり惜しげに、若い二人の手がはなれる。
三郎兵衛がさも生真面目な様子で現れて、
「浪路さま、御気分がなおりましたら、御かえりの時刻も迫りましたゆえ、お支度をとの、お父上さまからのお言葉でござります」
「あい。すぐに支度をいたしましょう」
と、つややかな、鬢のあたりに、そっと手をふれて、浪路が答える。
三郎兵衛は、雪之丞に、
「御隠居さま、仰せには、折角、なじみになったそなた、このまま別れるのも心のこりがするゆえ、お屋敷まで、見送ってはくれまいか――とのお話、――明日、楽屋入りも早いこと、迷惑ではあろうが、どうであろう、御一緒に帰ってほしいと思うが――」
浪路の、しおれた風情に、サーッと活気がよみがえる。
雪之丞は、元より渡りに船――一度は、三斎住居の模様をも、十分に見きわめて置き度いのだ。
「お言葉までもござりませぬ。お門までは是非お送りさせていただきまする」
「門までといわず、ゆるりとお邪魔いたして、かさねて上方の話でも申上げるがよい。御隠居さま、そなたが、大そう気に入られたようじゃ」
浪路の挙動は、急に生き生きしくなるのだった。
冷え冷えと、胸の底に沁み入るような、晩秋の夜風が、しゅうしゅうと吹き抜いている、夜更けの町を、吉原冠り、みじん柄の素袷、素足に麻裏を突っかけた若い男、弥蔵をこしらえて、意気なこえで、
道のちまたの
二もと柳
風にふかれて
どちらへなびこ
思うとのごの
かたへなびこぞ
なぞと、菅垣を鼻うたにしながら、やって来たが、これが、常夜灯のおぼろかな光りに、横がおを照されたところで見ると、まぎれもない、大賊闇太郎だ。二もと柳
風にふかれて
どちらへなびこ
思うとのごの
かたへなびこぞ
江戸中の、目明し、岡ッ引き、この男一人を捕るために、夜に日を次いで狂奔しているにも拘らず、どこに風がふくかと、相変らずの夜あるきをつづけている彼、しかも、爪先を向けているのが、ついこないだ、門倉平馬に連れられて無理に引き込まれた、松枝町、土部三斎屋敷の方角だった。
闇太郎、弥蔵を解いて、片手で、癖の顎の逆撫でをやりながら、ブツブツと、口に出してつぶやきはじめた。
――どうしても、今夜は、もう一度、ゆっくり、あの屋敷をたずねてやらなけりゃあ、ならねえんだ。人をつけ、泥棒こそはしていても、天下にきこえた闇太郎さまさ、まるで化ものあつけえに、物珍しげにあっちから眺めたり、こっちから眺めたり、明け方までつき合せやあがって、あげくの果てが、二十五両包一ツ、えらそうによくも投げてよこしなんぞしやがったな。そのお礼を、早くしてやらなけりゃあ、闇太郎、腹の虫がおさまらねえや。
と、急ぐでもなく歩いていたが、ふと、行く手に、黒い塀をめぐらした角屋敷を見つけると、
――おッ! そういううちに、とうとうやって来てしまやがった。どれ、まず表から、ぐるりと拝見に及ぶかな。
さしかかった表門前――それが、こんな夜更けだというのに、半開きになっているのを見て平気で通りすぎながらも、小首をかしげて、
――こいつは、妙だぞ。なるほど、三斎も変りものだな。もうおッつけ丑満だろうに、門内に、お客かごがあって、供待に、灯がついているので見ると、例の手で夜明しの客というわけか。
通り越して、鼻先で、へんと、笑って、
――だが、お客で、家の中が、ざわめいているなんざあ、闇太郎さんに、わざわざ仕事を楽にさせてやろうというものだ――まっていろ、今、目のくり玉の飛び出るような目に合せてやるから――
闇太郎、塀について、屋敷横にぐるりと廻って出ながら、
――こう見えて、このおれが、一度足を踏み込んだ以上は、屋敷ん中の隅から隅まで、蔵の中、小屋の蔭、すっかり瞳に映して来ているんだ。門倉平馬も、恩人とやらの三斎さんのところへ、とんだ客を連れ込んだものさ。ふ、ふ、ふ。あの宝ぐらの中にゃあ、公方さまからの頂きものから、在役中の不浄な財宝まで、うんと積んであるだろう――少し今夜は慾張って、貧乏人助けをしてやるか――寒さに向って、まだ単衣ものでふるえている奴もあるんだ。
闇太郎、盗んだ宝は、一物のこさず、片っぱしから、恵んだり、使ったりしてしまう性で、新しい施しがしたくなると、どこからか仕入れて来なければならないのだ。
今夜、その目的に選んだのが、三斎屋敷――この家こそ、彼に取って、いわば、わざわざお得意として存在しているようなものだった。彼の主義として出来る限りは、ふところ手で、楽々と大きな富を慾の熊手で掻き込んで暮しているような相手にしか、手を出さぬことにしているので、その点で、三斎隠居のような人物は、なかなか二人とは見当らぬはずであった。
屋敷の横手から、裏にまわった闇太郎、まん中ごろに立ち止って前後を見とおし、ちょいと耳を傾けるようにしたと思うと、
――案の定、家の中が、みんなお客に気を取られていやあがる。よっぽどの珍客らしいが、どれ、ひとつのぞいてやろうか――
と、独りごとをいうなり、ぴたりと、土塀に貼りついて、指先をどこかに掛けたが、いつかからだは、塀内に、ついと、飛び下りている。
塀下に、つつじのこんもりした灌木――その蔭に、ぐっと一度うずくまって、気配をうかがうと、植込みの幹から幹、石から石を、つうつうと、影のように渡って、近寄った軒下。
その軒下づたいに、たちまち辿りついたのが、こないだ通されたのとは別の、書院仕立ての大きな客間の外だった。
耳を澄まして、家内の容子をうかがったが――
――はてな――
と、闇太郎、いぶかしそうに、
――はて、こいつあ、いよいよ以って面白いぞ。なるほど、こないだ、猿若町を見物するとかいっていたが、今夜、あの雪之丞が、ここに来ているとは、思いもかけなかった。一芸一能の人間に逢って見るのが楽しみだと、生意気なことをいっていたが、三斎め、妙な道楽を持っていやがるな。それにしても、あの雪之丞という役者、只のねずみとも思われぬが、どこか、好いた奴――あの男ならこのおれも、一度はゆっくりと話して見てえとおもっていたんだ。
闇太郎は、いつか、盗み本来の目的を忘れてしまったように、中から洩れて来る話しごえにばかり耳を傾けはじめた。
――あの男が、いつぞや平馬の奴に、暗討ちの迎え打ち、タッと斬りつけられたとき、ひらりかわして、短刀であべこべに、相手の二の腕を突いて退けたあの手際は、なみ一通りのものではない――聴けば御蔵前の脇田の高弟とのことだが、一てえ、何のつもりで、そこまで剣法なんぞ習い覚えたのか、人間、あてのねえことには、なかなか手を出さぬもの――しかも、あの気合には、すばらしいけわしさが含んでいる――さすがのおれにも、あいつの胸の中だけは解けねえが――
と、腕を組んでいるところへ、だしぬけに、う、う、うーと、低く唸りながら、怪しい奴――と、いうように近づいて来た一頭の大犬――それと見ると、闇太郎、巧な擬声で、う、う、うーと、小さく挨拶するように唸り返す。大犬は不思議そうに、しかしもう敵意を亡くして、尾を垂れて足元にまつわるのを、手の平に唾を吐いて嘗めさせて、
「黒、温和しくしろ――これからときどきたずねて来るからな――まあ、少しの間おれに中の話を聴かせてくれ」
闇太郎は足許にまつわってくる黒犬を、片手で頭をなでてやりながら、おなじ軒下にじっとたたずんだまま、なおも家内からもれてくるかすかな気配に耳をかたむけつづける。
――それにしても、あの雪之丞もこんな屋敷に引っぱりだされてくるようじゃ、やっぱり高のしれた芸人根性の奴だったのかな。この三斎屋敷に出はいりをするような奴は、きまって、あの隠居の、髭のちりをはらって、何か得をしようと、目論んでいる奴等に、きまっているんだ。おい雪之丞しっかりしろ。娘が公方の妾になっていたって、それがなんだ。全体、芸人なんてもなあ、公方や大名の贔屓をうけたって、何の役にもたたねえものなんだ。それより、世間一統皆々様の、お引立てにあずからなけりゃならねえのは、頭取の口上できいたってわかるじゃねえか。却って、こんな屋敷に出入りなんぞすると、気っぷのいい江戸ッ子たちからは笑われるぜ。
なぞと、例の調子で、心の中につぶやいていたが、
――おッ、何かざわざわしだしたぜ。ふ※[#小書き片仮名ン、158-11]、雪之丞が、いよいよ暇乞いをしているな。ところでおれはこれからどうしたものか、折角もぐりこんできたこの三斎屋敷、小判の匂いがそこら中にプンプンして、どうにもこうにも堪えられねえが、といって、なんとなく今夜のうちにあの雪之丞の面が一目見てやりたくってならねえ。どうしようかな、おい、黒?
と、闇太郎は、黒犬の頭をもう一撫でしたが、やっと決心がついたように、
――やっぱりおれは、雪之丞のあとを付け、しおを見て話しかけてやろう。それにしても、上方くだりの、あのなまっ白い女形がなんだって、おれの気持を、こんなに引付けるのか、宿場女郎のいいぐさじゃねえが、大方これも御縁でござんしょうよ。
闇太郎は、書院づくりの客座敷の軒下を、ついとはなれると、またしても、例の蝙蝠が飛ぶような素早さで、ぐるりと裏庭に廻って、木石の間をかけぬけ、見上げるばかりな大塀の下に来て、そこまでついてきた黒犬さえびっくりするような、身軽さで、声をもかけず塀の上に飛上ると、もうその身は往来におりついた。
おりた瞬間からこの男、どこぞ遊び場のかえりでもあるような、悠々閑々たる歩きぶりだ。素袷にやぞうをこしらえて、すたすたと表門の方へと廻っていった。
門前にさしかかると、恰度、たったいま、一挺の駕籠が出たところ――
なかなか結構な仕立ての駕籠の、土部家の客用乗物に相違ないが、陸尺が二人でかいているだけで、供はない。
闇太郎は門中をちらりと覗いてすぎる。供待ちにはまだ三、四挺の駕籠が残っている。
――あの駕籠に乗っているのは、てっきり雪之丞だ。そら、この辺にすばらしく好い匂いがプンプン残っているじゃあねえか。
と、鼻をひょこつかせるようにしながら、この磊落な大泥棒は、そのままいいほどの間合をおいて、雪之丞の乗物を跟けはじめた。
駕籠は、早めもせずゆるめもせず、ころ合な速度で、松枝町から馬喰町の方へ東をさしてゆくのだった。闇太郎は首を振ってつぶやいた。
――さあそろそろ一声かけてやろうかな。
雪之丞を乗せた駕籠と、それをつける闇太郎とは、しゅうしゅうたる晩秋の夜更けの風が吹きわたっている夜道を、いつか駒形河岸にまで来ているのだった。
闇太郎は、だしぬけに小刻みな早足になって、駕籠のそばまで駆けつけて、わざと息をきりながら、かぶった手拭をとって小腰をかがめ、
「お陸尺、お前さんたちの足の早さにゃびっくりしましたぜ」
だしぬけにいいかけられて、陸尺の足が一度とまる。後棒が変な奴だというように、眉をひそめて、
「おめえは一体なんだ。何用だ」
闇太郎は、にこりと笑って見せたが、この男の笑顔には、一種独特な、どんな人間でもひきつけずにはおかない朗かさがあった。
「およびとめもうして済みませんが、実はあっしはこの駕籠の中の太夫さんに逢いたくって、松枝町のお邸の前から跟けて来たものなんです。通りすがりに御門前で、駕籠に乗る姿を、ちらと遠くから見て、こいつあてっきり、雪之丞さん、ぜひ一目とおっかけたんですが、何しろ駕籠が早いんで、やっと追いついたわけ――」
「おめえさんは、太夫さんの御存じのお人か」
と、先棒がふりかえってじろりと見る。
「そりゃあもう、よく御承知の男ですよ。ねえ太夫さん、あっしだが――」
今日の初日の幕が明いてから、次々と我身の上におこっていった、思いがけない種々な出来ごとを、胸のうちにもう一度くりかえしながら、かくもたやすく、仇敵どもに接近することの出来たのも日頃信心の仏神や、かつはなき父親の引きあわせと、心で手をあわせるように、いま更に、復讐心に燃えつづけていた雪之丞、突然駕籠を呼びとめたものがあるのを知ったその瞬間、早くも胸に来たものがあった。
――おお、この声は、たしかに二、三度聞き覚えのある声じゃ。
と、考えてみて、
――たしかにこないだ、所も恰度この界隈で、悪浪人にいいがかりをつけられた時、割ってはいってくれたお人の声がこれだ。それからその晩、脇田先生の道場を出て、平馬どのに斬りかけられたあと、供をなくして困っていたとき、駕籠を呼んでくれたお声がこれだ、してみれば、呼びとめたお方は、あの闇太郎とやらいう、江戸名代の泥棒さん――
と、思いあたると、彼の胸は不思議ななつかしさにとどろいて、白い手が駕籠の引戸にかかる。
白く匂う花のような顔が、窓から出て、
「おや、あなたは、いつぞやの――」
「へい、あっしでございますよ。是非に今夜、お前さんとお話ししたいことがあって、ここまであとをしたってきましたが、迷惑でしょうがほんのちょっとの間、そこまでお付合いが願えませんか」
雪之丞はためらわなかった。相手が泥棒にしろ、やくざにしろ、二度まで恩をうけた上、どういうわけか、その後ずっと心から離れぬ面影だ。それに彼の渡世がら大泥棒につきあっておくのも、いつかは屹度芸の上でも役に立とう。
「わたくしもお目にかかりたく思っておりました。何処なりと、お供いたしましょうが――」
「あっしの住居は浅草田圃、ここからついじきです。そこまでひとつ、来ちゃあくださいませんか」
闇太郎はそういいながら、雪之丞の顔に――例の愛想笑いをあびせかけて、
「あっしは、なにしろ変人なもんだから、町家住居が大きれえで、田圃の中の一つ家におさまっていますのさ。太夫さんのような花やかな渡世をしていなさるお方にゃけえってめずらしいかもしれません。来てくださりゃあ、このあっしの、一世一代の冥加というもの、ぜひに聞き入れておくんなさい」
雪之丞は、にこりと笑いをかえして、
「わたくしもどちらかというと、稼業ににあわず静かが好みでございます、早速おともいたしましょう」
そういって、ふっと、闇太郎の顔を見詰めたが、
――このお人は泥棒だといえば居どころを他人にしられるのは都合がわるかろう。このさびしい秋の夜更けを、江戸一番の大盗賊と、たった二人で歩いてみるのも一興じゃ。
と心でいって、
「お陸尺御苦労になりましたが、これからさきは、このお方と、ぶらぶら歩いて見るつもり、御酒をいただきすぎたので、そのほうが酔がさめてよいだろうと思いますから――」
「それでも、それじゃあ殿様から、たしかに宿までお送りもうせと、いいつけられた役目がすみません」
と、先棒がかぶりを振ったが、
「いいえ、御前様の方へは、宿まで送り届けたといっておいてくだされば、それで済んでしまいます。ほんの僅少なものですけれど」
小さく包んだものを、早くも大きな掌に握らせてしまった。
「後棒、それじゃ太夫さんのお言葉にしたがったほうが――」
「その方が気持がいいとおっしゃるなら――」
一人が揃えた雪駄に、内端な白足袋の足がかかる。
「じゃあ、気をつけてお出でなすって」
「御苦労さん」
そこで駕籠にわかれて、二人連れになった雪之丞、闇太郎。河岸通りを北へ千束池へほど近い、田圃つづきの方角さして、急ぐでもなく歩きはじめた。
闇太郎はさびしい田圃道に出ると、
「太夫さん、寒かありませんか? この辺も、夏場は蛙がたくさん鳴いて、なかなか風情があるのだが、これからさきは、空っ風の吹き通しで、あまりほめた場所じゃあなくなりますよ」
「いいえ、わたしは先刻も申した通り、賑やかな渡世をしていながら、どうもさびしい性分、ことさら御当地にまいってからは、ただもう御繁昌をながめるだけで、上ずって心がおちつかず困っておりましたところ、このような場所こそ、一番保養になる気がいたします」
「そういってくださりゃあ、あっしも鼻が高けえというものさ。そら、あすこにこんもりした森があって、そばに小家が二、三軒あるでしょう、あの右のはずれが、あっしの御殿でさあ」
闇太郎は、ひどく上機嫌で、こんなことをいいながら、雪之丞に足許を気をつけさせながら、くだんの一ツ家の方へと、導いてゆくのだった。
いよいよ小家にたどりつく。
「女房ども、只今もどったぞ――と、いうなあ、実は嘘で、猫ッ子一疋いませんのさ」
そんな戯言をいいつつ闇太郎、入口の戸をがたびしいわせはじめた。
建付けのわるい戸を、がたびし開けると、振りかえって、
「いま灯りをつけるから、ちょっと待っておくんなせえ」
と、いった闇太郎、室内にはいって火鉢を掻きたてて、付木に火をうつすと、すぐに行灯がともされた。ぱあっと上りはなの一間があかるくなる。
「さあ、どうぞ、おはいり」
雪之丞は長旅にゆきくれた旅人が、野っ原の一ツ家にでもはいってゆく時のような気持で、
「ごめんくださりませ」
と挨拶して、土間に立つ。
家は三間ほどの小ぢんまりした建てかたで、男手ひとつだというのに、さっぱりと掃除もゆきとどき、長火鉢に茶だんす――その長火鉢には、ちゃんと火が埋けてあり、鉄瓶も炭をたせば、すぐに煮えくるほどになっている。
闇太郎は八端がらの、あまり大きくない座布団を、雪之丞のために進めた。
「ごらんの通り、さっ風景な住居なんで、おかまいは出来ませんが、そのかわりどんな内緒ごとを大声でしゃべっても、聞く耳もねえ。あっしはこれでも堅気一方な牙彫師というわけで、御覧の通り、次の間は仕事場ですよ」
闇太郎は面白そうに微笑して、合の襖をあけて見せた。
行灯の灯がさし入る小部屋には、なるほど厚い木地の仕事机、いちいち鞘をかけた、小形の鑿やら、小刀やらが、道具箱のなかにおさまっているのが見えた。現に机の上には、根付けらしい彫りかけの象牙が二つばかり乗さっている。
「あなたは、なんでもお出来になる方と見えますな」
雪之丞がそういうと、闇太郎はいくらか、きらりとしたような瞳を、一瞬間相手になげて笑いだした。
「こいつあいけねえ、実は、お前さんはまだあっしの身の上を、なんにも御存じねえと踏んで今夜こそ打ちあけ咄もし、また伺いもしてえと思ったのだが――」
彼は、別に声をおとしもせず、
「それじゃあ、お前さんは、あっしが闇太郎とかいうあだ名をもった、泥棒だっていうことをしりながら、平気でわざわざついてお出でになったんですかい」
「この間、御蔵前というところでお目にかかったとき、お別れしたあとで、ついした事からそのお名前を、他人から伺いましたので――」
闇太郎は頭を掻いてみせて、
「隠すより現れるはなしっていうが、その諺は、ちょいとこちとらにゃ辻占のよくねえ文句さ」
そんな戯言をいいながら、茶道具を並べて、器用な手つきで、きゅうすに湯をそそぐのだった。
雪之丞は、苦い、香ばしい茶を、頂いて服んだ。今夜一晩、飲みたくもない酒を強いられたあとなので、この一碗にまさる美味はないように思われた。
闇太郎は、雪之丞が心おきなく、目の前に坐っているのを見るのが、嬉しくてたまらぬというように見えた。
「それにしても、お前さんが、あっしの身許をしりながら、家まで来てくれた気持は、この闇太郎一生の間わすれられねえだろう」
と、人なつッこい眼付きでいうのだった。
雪之丞はさり気なげに、
「たといあなたが、どのような御商売をなさってお出でなさろうと、あなたとわたくしの間は、そういう方にかかわりなく、御縁があったのですから――あなたは最初から、わたくしに、御親切でござりました」
「なあに、あの並木の通りで、つがもねえ素浪人が、お前さんに喧嘩を売ったとき、お前さんの眼のくばり、体のこなし、差出たことをするにもおよばねえとは思ったのだが、なにしろ、お前さんにはじめての土地ではあり、遠慮をなすっていると見てとったので、ちょいと口出しをしたばかりなのさ。それはそうとして雪之丞さん」
と、闇太郎は、これまでにない真面目な眼つきになって、相手を見詰めて、
「これはあとから、ある人の口から、はっきり聞いた話なのだが、やっぱし、あっしの眼に狂いはなく、脇田先生の道場で、免許皆伝だというじゃあねえか。いまじゃ、三都で名高けえ、女形のお前さんが免許とりだと聞いちゃあ、誰だって驚かずにはいられめえ。お前さんも不思議な道楽をもっていなさるね」
「皆伝などとはめっそうな」
と、雪之丞は白い手を振るようにして見せたが、
「一体、わたしの身について、どなたがそのようなことを、もうされておりました」
雪之丞は、我身についた武芸について、世間に評判が立つのは好ましくなかった。門倉平馬の告口で、三斎一党にそれを知られてしまったのにもすくなからず当惑を感じたが、しかし、相手方が自分を松浦屋の一子雪太郎の後身とは、すこしも気がついていないのだから、まず警戒する必要はないとして、そうじて復讐というような大事業は、こちらがいつも目立たぬ身でなくては不便だ。世間の注目があつまればあつまるほど困難だ。彼は、女形という仮面のもとにかくれて、専ら繊弱優美を装っていてこそ、どんな、あらあらしい振舞いを蔭でしても、それが自分の仕業だと、一般から目ざされるわけがないのを喜んでいたのに、この闇太郎の耳にさえ、脇田一松斎皆伝の秘密が洩れるようでは、ともすれば、今後の行動に不便が生ずるかもしれぬ。
「どなたからお聞き及びかはしりませぬが、どうぞそのようなことは、お胸におさめておいてくださるよう、女形の身で、竹刀をふるなどということが、世間さまに知れわたりましては、それこそ、御贔屓の数がへります」
と、重ねていうと、闇太郎は、にこりともせず瞶めたまま、
「だがなあ、雪之丞さん。おれの眼には、お前という人は、舞台の芸も、世の中の人気も、あんまり用のねえ人間のように思われてならねえんだよ」
と、これまでとは違って、ざっくばらんな敬称ぬきの言葉でいいかけるのだった。
「どうしてでしょう。親方」
と、雪之丞も親しげに、
「わたしは上方の女形、芸術一途でいくらかは、人さまにも知られてきましたが、もとはといえば親一人、子一人、長屋ぐらしも出来かねた体、芸と人気だけが、命のような身の上ですのに――」
「どうにもおれには解せねえんだ。こうして行灯の薄暗い光りで眺めていても、お前のそのうつくしい顔や体に、なんとなく殺気が感じられてならねえ」
闇太郎は長火鉢のふちに、両手をかけるように、強い眼で、艶麗な女形の顔を真すぐに見据えるのだった。
闇太郎から、自分の体に殺気が感じられると、だしぬけに言われた雪之丞、眼を反らして、にわかに笑いにまぎらした。
「それははじめてうかがいます。かえって師匠などからは、いかに女形だというて、平常はもっと、てきぱきしなければならぬ。そなたは兎角因循すぎるなどとさえもうされておりますのに――」
闇太郎は、大きくかぶりを振るようにした。
「誰がなんといおうと、おれの目にゃあ、ちゃんと感じられるのだ。実は今日も、中村座へ、おまえの芸を見たさに、そっと覗きにいったが、他人の眼にはいざしらず、舞台の上でさえ、おまえは剣気をはなれられぬ。滝夜叉が、すっかり恋にうちまかされ、相手に取り縋って、うっとりするときでも、どうも今にも懐中から刃ものが飛出しそうで、おれにゃ危なくってならなかった」
雪之丞は、まじまじと、呆れたように対手を見詰めたが、だしぬけに、からからと、ひどく朗らかに笑って見せた。
「まあ、お前さまは、渡世のほかに、人相も御覧になるのかえ」
「はぐらかしちゃあいけねえ。おれは真剣にいっているのだ」
と、闇太郎はどこまでも、逃さぬ顔色で、
「もしやおまえが、天下を狙う、大伴の黒主なら、おれも片棒かついでやろうかと、疾から心をきめているのだ。どういうものか、はじめて顔を見たときから、他人と思われなくなったのが因果さ」
「わたしが大伴の黒主ですって?」
と、美しい女形は微笑して、
「そういう役は、わたしとはまるで縁がない筈ですよ。それにしても、わたしの舞台に、そんな凄味が出るようでは、芸が未熟な証拠です。矢っ張り道楽でならった武術の方が、表芸に祟ってくるのですねえ。有難いことを聞きました」
闇太郎は、雪之丞を険しすぎる眼で、睨むようにしたが、これもがらりと気を代えて、
「は、は、は。なるほど、こいつあおれが出過ぎていた。実はな、雪之丞さん、おれは、たださえ気短な江戸生れ、そこへ、もってきて、こんな境涯になってからは、何時なんどきどんなことがあるかもしれぬと、一日一刻を、ゆるがせに出来ないような、気持に時々なって困るんだ。考えて見りゃあ、おまえさんが、たとい、どんな秘密に苦しんでいても、はるばる遠い、東の都で、だしぬけにあった赤の他人、しかも大泥棒から、なにもぶちまけて、胸の中を見せてくれと頼まれても、すぐに、べらべらしゃべるわけにもいかねえだろう。おれが悪かった、免してくれ。これで、せめて、このおれが、昔の身分で両刀を腰にさしてでもいた時なら、お前も、もっと信用してくれようが――」
闇太郎の言葉は、妙に理につんで、その面上には、いつも見られぬ寂しさが、薄暗くさまよっているのだった。
雪之丞は、気の毒そうに、
「ゆるせの、謝びるのと、まあなんというお言葉です。わたしとてもお前さまの真心を、感じぬわけではありませぬ。それにしても、今うかがえば、昔はお武家であったらしい――そのお前さまが、まあどういういきさつで、今のようなお身の上に――」
「また、しくじった。詰らねえことを――どうも愚痴っぽくなっていけねえ」
闇太郎は、両手で頭を抱えるように、苦く笑った。
「お前さまは、わたしのことを、かれこれ言ってくださいますが、わたしの方でも、いつか、わたしの難儀を救ってくだされたときの御様子で、たしかに、由緒のあるお方と見てとってはおりました」
と、雪之丞は一歩を進めた。
「矢っぱり、このおれも、いくら素性を隠そうとしていても、あらそわれねえものがあるのかな」
と、闇太郎は両手で、顔をつるりと撫でるようにして、
「おれが、おまえの身の上を、根ほり葉掘り聞くのは、なる程、無理かもしれねえが、おれの方は、もうとっくに、大泥棒と知られてしまっているのだ。今更、何をかくしだてしても仕方があるめえ。不思議な縁で、こうやって、田圃の中の一ツ家で、秋の夜長を語りかわす仲にもなったのだ。下手な作者のくさ草子を読むつもりで、じゃあ、面白くもねえ昔話をきいて貰いましょうかね」
闇太郎は冷えた茶で咽喉をしめすと、煤けた天井を見上げるようにして、
「つい、いま、口がすべったように、おれの家は、これでも代々御家人で、今だって弟の奴は、四谷の方で、お組屋敷の片隅に、傘の骨削りの内職をしながらも、両刀をたばさんで、お武家面をしているのさ。父親はなかなか仲間うちでも聞えた才物だったとかで、一時は、お組頭にも大変寵愛された身だったそうだよ。なにしろ、筒持ち同心といやあ、御家人仲間では幅のきいた方で、一時は随分暮しむきもよかったのだ。ところが、おれが十七の時、元服のついあとだったが、ちいさいながら呑気な一家に、だしぬけに思いがけない、ばかげた不幸が見舞って来たのだ。なあにそれも、父親の奴が悪堅かったからだがね。あたりめえの人間なら、なんとでも切りぬけられたのだが――」
雪之丞は天井を見詰めながら、そこまで話してきた闇太郎の表情に、暗い憤怒が、ひとしきり漲るのをみた。
闇太郎はちょいと黙って、唇をかむようにしたが、
「いまいう通り父親の奴は、依怙地のくせに算筆も人より長けていたというので、お組頭の側にいて、種々な仕事があるたびに、帳付けをさせられていたというが、そのころ異人の黒船が日本国の海岸に、四方八方から寄せてくるという噂が高く、泥棒を見て縄をなうというような腰抜けな政府も、狼狽くさって、それ大砲、それ鉄砲と、えらい騒ぎをはじめたのだ。筒持ち同心組頭の佐伯五平という奴が、これまた上役に取り入るのが上手な奴、異国の鉄砲を見本にして、江戸中の大きな鍛冶屋たちに、鉄砲造りを仰せつけるとき、その検分の役に廻されたそのそばに、何時もついていた家の父親――衣笠貞之進というのだが、律儀の根性から、これも一生懸命になって、頭の仕事を手伝っていたわけさ。そのうちに、曲りなりにも異国まがいの鉄砲が、だんだん山と積まれて来た。御上納も、二度三度と無事に済んでいったのだが、その鉄砲を、兵隊にもたせて、いざ、ためし打ちをしてみると、どうも工合がよくねえんだ。そこで、その道で、音に聞えた、秋帆流の達者たちが、一丁一丁を、きびしく吟味ということになるてえと、困ったことになったのだ、形こそ見本通りに出来ているが、中の機械がやってつけで、とても役にはたたねえという――当然、御上納のときの検査方から、職場検見の役人たちに、お咎めがくることになったのさ」
闇太郎は、これまで誰にも口外したことのなかった身の上ばなしを、話しだしてはみたものの、矢張り持って生れた気質で、自分のこととなると、
――こんな泣ごとをならべたって、今更どうなるんだ、ばかばかしいじゃあねえか。
というような自嘲に、言葉がとぎれそうになるのだったが、雪之丞が熱心に聞入っている姿にはげまされて、
「なあに、いつの世にだって、ざらにある話なんだ。長いものは短いものを巻くし、強い奴は弱い奴を喰う――今更、ありきたりのことなのだが、そのころ、おれはまだ十七にしかなっていなかった。どうも、このごろ父親の様子が、変だ変だと思っているうち、或る夕方、剣術の道場から、何気なく帰って見ると、家の中がざわついているのさ。駈込んでゆくと、父親の奴腹を切っていやがったんだ。書置きでみると、佐伯五平が検査する筈の上納鉄砲は、そのころ五平が病気をしていたので、全部父親が代って、吟味をし、上納を許したのだとか、そのとき係りの鍛冶屋から、貧にせまっていたので、つい、賄賂を飼われたのだとか、そんなことが書いてあった。父親が死んだので、佐伯五平の奴は、軽いお咎目があっただけで、なんの事もなく済んでしまった。だが、おれも、もう、物心がついていたから、本当に父親が不浄の金を商人から取ったかとらなかったかぐれえなことは、よく分っていた。おれの家は、父親が死んでも、葬式の金にも詰っていたんだからね。おれにゃ、ばかばかしくって、家督をもらう気になんぞなれなかった。ただ父親がどんな成行で死んだのか、その本当のことが知りたかった。こんな気質のおれだから、何度でも五平の家に押しかけていっては、面会を願ったのだがきいてくれねえ。若いも若いし、かッとして、ある日、五平の外出を狙って、素ッ首を叩きおとしてやろうとしたが、かすり疵をつけただけさ。おれは父親が憎らしかったよ。馬鹿な奴だと口惜しかった。お役目の上から、いかに日頃、側につかえていたって、その上役がやった不正を、だまって自分で背負いこんで、腹を切り、女房や子たちにまで、嘆きをかける唐変木があるものか。おれは、代々、僅少な扶持をもらって、生きている為に、人間らしい根性をなくしてしまった、侍という渡世が、つくづく厭になったんだ。それで五平を叩っきりそこなうと、すぐその場から、おさらばをきめて、それからはお定まりの、憂き艱難というやつさ。身体は身軽、年齢は若し、随分乱暴な世界を平気で歩いたが、しかし、まだそのころは、泥棒だけはしなかったよ」
闇太郎はそこまで話してきて、火鉢の火を見詰めるように、うつむいている雪之丞を見て、
「どうも、あんまり結構な話でもねえ。面白くねえだろうから止めにして、台所には白鳥が一本おったっている。熱燗をつけて、これで中々好い音声なんだ。小意気な江戸前の唄でもきかせようか」
「どうぞ、お差支えがなかったなら、もうすこし話してくださいまし。わたしも、身につまされることもあるのですから」
と、雪之丞が顔をあげて、いくらか翳ったような瞳で、相手を見上げた。
晩秋の真夜中の風が、田圃を吹きわたして、背戸口の戸をかすかにゆすぶっていた。
「そうか、じゃあ、もう少し聞いてもらおうか」
と、若き盗賊は、ふたたび話をつづけた。
闇太郎が、それから例の鉄火な口調に、しんみりした侘しさもまじえて、話しきかせたのはおおよそこんな事であった。
彼は、父衣笠貞之進の上役、佐伯五平を暗打ちにかけようとして、流石、年のゆかぬ彼、まんまと斬りそこね、その場から家も、母親も、弟も捨てて、何処ともなく逐電[#ルビの「ちくてん」はママ]してしまったのだった。
闇太郎の貞太郎は、それまでは極めて物堅く育てられ、世間のことはなにも知らなかった。素無垢な、武術文学に、貧しいながら身を入れてきた少年だった。しかし、今や、彼は突如として、これまでの一切に背中をむけ、まるで反対な方角へ駈込もうとするのである。
彼は、出来るだけ権力から、武門から、今まで彼が、もっとも尊敬せねばならぬとしていたものから、離れようとした。憎もうとした。
そこで当然、落込んでいったのは、市井無頼の徒のむらがっている、自由で放縦な場処だった。そんな仲間にはいるのに、なんの手間暇がいるであろう。四谷舟町の彼の家に、二年前まで折助をしていて、打つ、飲む、買うの三道楽に身がおさまらず、さんざん一家を手こずらせたあとで、主家に毒口を叩いて出ていった、弁公という若者が、つい、内藤新宿のある小賭博うちのもとに厄介になって、ごろごろしているのを、彼は知っていた。その弁公が、不思議にも若旦那の彼に好意をもっていて、その後偶然道であうたびに、さも懐しげに話しかけることも度々あった。
「若旦那、お前さんが、町人に生れりゃあ――町人も、せめて、人入れ稼業か、賭博打ちの伜に生れりゃあ、てえしたものなんだが――貧乏じみた御家人の、左様しからば家の跡取りじゃ一生お気の毒というもんだ。かっぷくといい面つきといい、気合から、腕前、ひとの上にたてる人なんだが――お前さんも何かのきっかけがあったら、あんな渡世はお見切りなさいよ。扶持切り米でしばられていたんじゃあ、この世の中はわかりませんぜ。一番汚ねえところばかり一生覗いて過すのが、――お前さんの身上が、そうだという訳じゃあねえが、――三人扶持一両手当の、駄三一という奴さ」
そんな事を、弁公は、憎まれ口のようでいて、そのくせ心から、市井生活を謳歌するようにいいいいするのだった。
生家を飛出した貞太郎、いきどころがないので、弁公をたずねると、相手は額を叩いて、飛上ってよろこんだ。
「そうだ、そうこなくっちゃあいけねえ、なるほどなあ、親父さまも、とうとう腹を切んなすったかい。あの人は、そんな人だったよ。お前さんは、好い時に見切りをつけなすった。これから、おれが、弟分にして、この江戸中を、ぐんぐんと引廻してやるから、勝手気儘に羽根をのばしなせえ」
そして其日から、彼は弁公の親分のもとに寄食する身となった。
賭博も、女買いも、酒も――世の中で、これほど訳なく進歩してゆく、修業の道はすくなかった。半年もたたぬうちに、いかさま賽のつかいかたも覚えれば、そそり節の調子も出せ、朝酒の、腸にしみわたるような味も覚えた。喧嘩ときては、そこらの度胸一方のやくざどもが及びもつく筈がなかった。もともと若いながら、叩きにたたき上げた武術なのだ。
「そんなこんなで、十九の声をきくころにゃ、内藤新宿の宿場じゃ、めっきり、これで顔が売れてきたものだったのさ」
だが、闇太郎は、売れっ児の若い衆として、地廻りのなかで、顔を利かせてばかりはいられなかった。ひょんな事から、元は家来で、今は兄貴分の弁公が、親分を縮尻ると、彼ばかり、もとの土地に居残っているわけにも行かなかった。
気早やで、ひょうきんで、兎角、やり損いの多い弁公と彼との、大江戸の日影から日影を、さ迷い歩くような、流浪生活は、それからはじまった。
「おれ達は、随分、ありとあらゆる世間を、経めぐったものさ。おれは、武家が嫌いだから、渡り仲間こそしなかったものの、小屋者の真似さえ、やらかしたよ。どんな事でも平気でやッつけて、幾らでも銭になりゃ、そいつを掴んで、方々の部屋をごろついて歩いた。なんしろ、弁公の奴が、ちっとも顔負けのしねえ男なので、とうとう二人で、吉原のチョンチョン格子の牛太郎にまでなったこともあるんだ。ところが、何しろ二人とも、野放図もない我儘者だったから、何処にも永く尻が落着く筈がねえ。仕舞には、流れ流れて奥州街道を、越ガ谷の方まで、見世物の中にまじって落ちて行きさえしたのだ。その越ガ谷で、えらい目に遇うことになったのだ」
闇太郎の口元には、苦いくるしい思い出を、まぎらそうとするような笑いが浮かんだ。
「その越ガ谷で、見世物師同士がぶっつかって、思いがけなく飛んだ修羅場が始まったのさ。両方何十人という若い奴等が、あいつ等の喧嘩のことだから、生命知らずに切っつはっつだ。その時、間抜けな弁公の奴、鈍刀で、横っ腹を突かれたのがもとで、身動きも出来ねえことになる。喧嘩は仲直りで済んだが、一番手傷の重い弁公は、もう見世物に、くッついて、旅から旅を歩くわけにゃあ、いかねえ。拠なくこのおれも、あいつと一緒に越ガ谷に、居残ることになったのだ。あの小さな宿場町の、裏町の棟割長屋の一軒を――一軒といったって、たった二間の汚ねえ汚ねえ家だったが、それでも小屋の親分から、別離に貰った二分か三分の銭があったので、そこを借りることは出来たのさ。だが、弁公の看病から、薬代、その日その日の暮しの稼ぎまで、おれ一人で稼がなければならなかったので、直きに、いいようのねえ、みじめなことになってしまった。しかし、何しろ、町が町、猫の額のようなところだ。おれたちのようなごろつきを喰わせるような仕事があるわけはねえ。貧乏な、御家人風情ではあっても、兎に角両刀を差したあがりのおれが、水ッ涕をすすりながら、町内のお情で生きている夜番の爺と一緒に、拍子木をたたいたり、定使いをする始末だ。それもいいが、その内に、弁公の奴は、だんだん身体が弱る、傷から毒がはいる。いや、もう、浅間しい姿になって、あの野郎、強情を張って、唸りをたてめえ、音をあげめえとするのだが、噛みしめた歯の間から洩れる呻きが、長屋中に聞える程になって、今まで、時々は外の稼ぎの出来たおれも、始終そばについていてやらなければ、どうにもならなくなってしまった。そりゃ、貧乏人同士の交際で、軒並びの奴も出来るだけのことはしてくれたが、向う様だって、その日その日に追われているのだ。そこへ持って来て、何しろ、こっちは流れの身。土地に馴染があるわけではなし、仕舞には、医者どのさえ診に来てくれはしなくなった。恨めた身ではねえ、喧嘩にもならねえ。おれは、その時ほど、この世の中が、辛く思えたことはなかったよ――」
闇太郎は、もう笑わなかった。彼は、じーっと、空を見つめるようにしたまま、腕を組んだ。
闇太郎は思い深げに、話しつづけた。
「渡る世間に鬼はなし――なぞというが、といって、仏の顔も三度というからね。世間だって、そうそういつまでも、おれ達をかまってくれるはずがねえ――前かた懇意にしてくれた、江戸のごろつき仲間にも、飛脚を立てたり、手紙をやったりして見たのだが、ろくに返事も来なかった。売り食いするにも種もなし、二人とも――病人ばかりか、この俺まで、もうアゴが干上りそうになっちゃったのだ――とうとう、これまで、あわれみをかけていてくれたような、差配さえ、いつか出てゆけがしのそぶりも見せないでもなくなった。そいつが、ピーンピーンと、こっちの胸にひびくんだね――そこで、おれも考えたんだ。こりゃあ、もうよんどころない――うちへ帰って、おふくろに、何とか泣きつく外にない――友だち一人の、一命にかかわることだ――この決心がつくまでには、ずいぶん苦しんだのだがね――」
闇太郎の顔に、苦笑がうかんだ。
「あの頃の、おれのように、捨て身になり切っていても、人間って奴あ、やっぱり人間らしい気持がのこっているものでネ。生みの親、親身の兄弟なんてものに、どこかこころが引ッかかっていると見える――おれは、弁公を、合壁に頼んで置いて、のこのこ江戸まで引ッ返したのさ。秋ももう大分深いころで、左様さ、ちょうど今日このごろの季節だったが――」
雁が、北の方へ、浅草田圃の、闇の夜ぞらを、荒々しく鳴いてすぎた。
主人も客も、その声のひびきが、遠ざかってゆくまで、黙り合っていた。
若い盗賊はしんみり聴き入っている女形に、
「風邪でもひかせちゃあ済まねえ。どてらを掛けて上げようね――」
と言って、立ち上って、押入れから、南部柄の丹前を取り出すと、ふうわりと、細そりした肩先にかけてやって、火鉢に炭をつぎ足したが、
「さて、久しぶり江戸入りをしたおれは、さすが、日の高いうちには、うちの近所へは近よれなかったので、日ぐれまぐれを狙って舟町の生家の背戸の方へ、まるでコソ泥のように、びくびくもので忍び寄ったわけさ。すっかり日が暮れかけていたが、こっちは、もう冬ぞらがくれかかっているのに、洗いざらしの縞の単衣ものを引ッ張っているだけなんだ。手拭で鼻までかくして、裏の方へまわってゆくと、幸い人ッ子一人、あたりに見えない――おふくろか、せめて、弟の奴でも出て来たらと、塀のふし穴に耳をつけるようにしていると、茶の間で夕飯中らしく、皿小鉢の音がしたり、一家中で、何か、面白そうに話し合って、笑っている声までが聞えて来るんだ。もう、親父が腹を切ったことも、おれが、佐伯を斬りそこなって家出をしてしまったことも、家督を、次の弟がついでしまって見りゃあ、もう大風が吹いたあとのように、かえって、さっぱりしたというようなありさまなんだ。そんな中へ、おれが、首を突っ込んだら、晴れた空に、黒くもが射すようなものだ――はいってゆきたくねえなあ――とためらって、大凡、小半ときもそうしていたろうか? その中に、夕飯がすんだらしいから、思い切って、台どころから、おふくろに声をかけようか――ここで、気を弱くしちゃあ、友だちが、どうなると、決心すると、塀をはなれようとすると、そのとき、妙なひそひそばなしが、ついうしろの方で、きこえたんだ――一てえ、どんな事をいっていやがったと思う?」
そこまで話して来て、闇太郎の目は、異様にふすぼり、語調はためらい、低まるのだった。
「そのとき、おれの耳を打ったひそひそばなしというのが、何だったと思うね? つい裏の、小さく並んでいる組屋敷の勝手口の方で、御新造が娘にいっているんだ――あれ、変な奴が、衣笠さんのお裏口をのぞいている、このごろこまかい物が、よくなくなるが、屹度あいつが盗るんだよ、泥棒だ、早く衣笠さんに知らせて上げたいが――その囁きが、耳にはいると、おれは、あわてふためいて、カーッとからだ中が熱くなって、前後の考えも無くして、そのままバラバラと逃げ出してしまったんだ。ねえ、雪之丞さん、お前にも、その時の、おれの気持はわかってくれると思うが――」
いかにも、雪之丞にも、それはよく呑み込めるのだった。一度、家も世も捨てて、零落し果てた青年が、冬空に、浴衣を引ッ張って、親、兄弟の家に、そっと裏口から、合力を受けようと忍び寄って、中部の歓語にはいりかねていたその折、合壁から、泥棒よばわりを、されたとしたら、どうして、その顔を、そのままなつかしい家人たちの前に曝すことが出来るだろう! 彼は、一さんばしりに、逃げ去る外はないのだ。
雪之丞は、涙があふれかけて来た。
「わかります、わかります――まあ、そのときの気持は、どんなでござりましたろうね? して、それからどうなされまして?」
闇太郎は、突然、きょとんとした目つきになって、雪之丞をみつめた。
「それから? それから――その晩から、おれは泥棒になろうと決心したのさ。どうにも、友だちのいのちにゃ代えられねえと思ったのでね――」
彼は、平然として言って退けて、
「おれは内藤新宿に長くうろついていたので、その界隈のことはよく知っていたから、強慾非道な質屋の蔵をすぐに荒してやったわけだ。生れてはじめてって程の大金をつかんで、夜道をかけて、越ガ谷に引返して、さて、翌日から、人参を、山ほど積んで浴びせかけるようにしてやれば、江戸から通しかごの外科も呼んだが、もう手遅れで、弁の奴、二、三日して、死んでしまやがったが――しかし、あいつあ、何もかも知っていやがった――かたじけねえ、貞太郎、だが、悪いことはこれからはしてくれるなよ――って、涙をボロボロ流しやあがったよ。それでも、息を引きとる真際まで、うれしそうに、おれの両手を握りしめていたが――その顔は、今も忘れられねえんだ――」
闇太郎は、また、耳を傾けるようにした。ふたたび雁が、過ぎていたが、その淋しく荒々しい声の中に、わが魂の悲泣を聴き分けていでもするかのように――
雪之丞は、これ以上、この新しい友だちの秘密に触れたがる必要はなかった。
「でも、その弁さんとやらは、仕合せな人でござりましたな。お前さんのような、お友だちを持って――」
「おれも、弁公のような奴と、この世で知り合えたのは、一生の思いでさ。いい奴だったよ。こんなおれのような人間を、あいつだけは、人間つき合いしてくれたんだ――生きていると、お前にもひきあわせてえ奴だった。一度、ほんとうにつき合ったが最後、いのちがけだったぜ――」
大賊のひとみが、無限のなつかしみで、うるんで来るのだった。
雪之丞は、この人物に、ますます新な良さというものを感じて、はなれがたなさを覚えたのである。
「面白いもんだね、俺がこんな泥棒渡世になったのも、いってみれば、あの時、お長屋の女房が、俺のことを、こそ泥と間違えて、あんなことをいやあがったからだともいえるんだ。その後の俺は、ずうっと、その商売をやりとおして来た。一度その道にはいってみると、他人にはわからねえ好さも、嬉しさもあるものなんだよ、有りあまる所に有るものを、だまってとってきて、足りながっている所へ、配ってやる――勿論、俺も、その間で、手間賃だけは貰うんだが――」
闇太郎は、又もいつもの、呑ん気な調子になって、しゃべり出した。
「俺は、理屈は一切抜きにしているのさ。早い話が、理屈で世間がどうか、なるならもう、とうに人間はみんな幸福になっているだろうと思われるんだ。日本にゃあ、神の道があるし、唐天竺にゃあ孔子、孟子、お釈迦さんもおいでなのだ。そして、何千、何万という、代々の学者が、理屈をこねつづけて、人間てもなあ、こうすべきものだ、こうありたいものだとしゃべりつづけ、書きつづけてきた、それなのに、この世の中が昔に較べて、どう違った? いつでも強いもの勝ちで、こすい奴が利得を占めて、おとなしい、正直な奴がひどい目に逢いつづけだ。俺は江戸の生れで、気短だからもう、下手談義を聞いて、じっと辛抱していろ、明日は今日より、きっとよくなる、なんていう、だまし文句にのっているわけにゃあ、いけなくなっているのさ。俺は、こんなけちな奴だから、大したことは望まねえし、又、出来もしねえと諦めている。そこで、ちょっくら、有りすぎる所から、小判を捉み出しちゃあ、無さすぎる方へ撒いて歩くのよ。それが、今の俺の仕事さ」
雪之丞は、今は、ますます心をひかれて行く。この新しい友達の考え方が、羨ましくてならぬのだった。
――江戸の生れの方は、何とキビキビ思った方へ、突き進んで行くことが、できるのだろう、それに較べて、このわしは、小さな望みを果すために、二十年を傾けてきて、まだ、何にもしていはしない。
闇太郎は、対手の、そうした心の中を、見てとったかのように、云うのだった。
「俺は、お前が胸の中を割ってみせて呉れねえと云って、先程も云う通り、少しも恨みに思いはしねえ。だが、一度思い立ったら、ぐんぐんとその方角へ、とびついて行く外は、仕方がないだろうと思うのさ。ためらっていても、どうせ、老少不定のこの世なんだ。今この一時が、人間には、一番大切だとしか思われねえんだ。お前は、ただの役者として、日本一になりたけりゃあ、そのつもりでおやんなせえ。それとも、何か他に、望みがあるなら、何もかまうもんか。明日の無え命と思って、やんなせえ。へんな気焔を上げるようだが、この俺も、お前のためには、どんな時、どんな場合でも、命をかけて、後見をするつもりだよ。それにしても、お前は今夜三斎隠居の屋敷へなんぞ、何だって、出掛けたのか。俺にゃあ、あんな奴が一番胸くそがわるく思われるんだ」
と、いって闇太郎は、ジロリと対手を見たが、急に笑って、
「イヤ、こりゃ、とんだいらねえ世話だ。冷酒で一杯景気をつけて、もう夜も更けた、お前の宿の方へ送って上げるとしようか」
彼は、そういうと、立上って、台所から大振りな白鳥徳利をぶら提げて来た。
闇太郎は、白鳥徳利の酒を、燗もせずに、長火鉢の猫板の上に、二つ並べた湯呑みに、ドクドクと注ぎ分けるのだった。
「うちの酒は、三斎隠居の邸の奴より、うまくはねえかも知れねえが、又、別な味があるかも知れねえ、夜寒むしのぎに、ひっかけて行って下せえ」
雪之丞は、白く、かぼそい手で、なみなみと満たされた湯呑を取り上げた。そして、美しい唇で、うまそうに、金色の冷酒をすすった。
ごくごくと、咽喉を鳴らしながら、一息に湯呑をあけた。闇太郎は、そのさまを、さも満足そうに眺めて、
「並木の通りで、はじめて逢ってから、一度は、ぜひ胸を割って話してみたいと思っていたお前と、やっとのことで、今夜逢えた、これで、俺の、この世の望みが、まあ、果せたというものだ」
雪之丞は、対手のそうした言葉を聞くと、この人の前に、自分の秘密をかくし通しているのが、何となくすまぬように思われてならぬ、せめて、輪郭だけでも話してしまおうか。どんな事を、告げ知らせたところが、他人の大事を、歯から外に洩らすような男ではない。
とは、思うものの、さりとて、云い出しかねる話だった。ことによれば、対手の一身一命まで、自分の運命の渦巻に、巻き込んでしまわねばならぬかもしれない――
闇太郎は、例の鋭いかんで、こちらの気持を、素早く見て取ったのでもあろう。
「なあに、太夫、俺たちの交際は今日明日に限ったものでもない。お前も知らぬ土地に来て、当分、苦労を仕様というには、俺のような男でも、いつか又、用になろうとも知れぬ。その時には、これこれだから、急に、お前の命が欲しいと知らせてくれれば、どんな所へでも飛んで行くよ。男同士が、好き合ったからには、遠慮は少しもいらぬことだ」
闇太郎は、そんな事を云って、二杯目の茶碗酒をほすと、フーと息をはき散らすようにして、
「それじゃあ、そこまで送ってゆこうか。朝の早い渡世の人を、引止めてすまなかった」
と、云ったが、ふと、思いついたように、
「折角、此処まできて貰って、何の愛想もなかった代りに、一つ上げてえものがある」
彼は、立上って、次の間にはいった。そして、象牙彫りの仕事場の隅におかれた、手箪笥をゴトゴトやっていたが、やがて、小さな象牙彫りの印籠を持って来た。
「御覧なせえ、なかなか上手な細工だろうが――」
雪之丞は、掌のひらに受けて見つめた。それは、とても器用な、素人細工とは思われぬ、三つ組みの、親指程の印籠で、細かく楼閣から、人物やらが刻まれていた。赤い、細い緒が通って、緒じめには、何やら名の知れぬ、青く輝く珠がつけてあった。
「まあ結構なお品で。お前様がお彫りになったので――」
闇太郎は得意気に微笑した。
「代々、観世よりの細工をしたり、から傘を張って暮らしてきたりしたお蔭で、これで、滅法手先きが器用なんだよ、何でも世間じゃあ、変った彫りだといって、珍しがっているそうだが、彫り師の本体が、泥棒と知れた日にゃあ、大事にしてくれる者もあるまいが――それはそうと、その中子をはずして見ねえ、とほうもねえものがはいっているよ」
雪之丞は、いわれるままに、印籠の中子をあけて見た。するとそこには、吉野紙で、丁寧に包んだ丸薬がはいっている。
茶褐色の粒々を、彼はそっと嗅ぐようにして見た。すると、甘く、香ばしい匂いが、かすかに感じられて来るのだった。
「わかるかね? 何の薬か、見当がつきますかね?」
闇太郎は、おもしろそうな調子でたずねる。
「いいえ、とんと――」
と、雪之丞は、やさしく、小首をかしげて見せる。
闇太郎は、いくらか重い口調になって、
「それはね、実は系図ものなのさ。ある強慾な紅毛流の医者の家に、ちょいとお見舞申したとき、さも大事そうに蔵ってあったので、序でに持って来て置いたのだが、まあ、なかなか珍しい効能があるのだ。怖ろしいほど、利く奴サ」
「どんな病気に利くのでございましょう?」
「病気? いんや、病気とはあべこべに、達者な奴に利く薬なのだ」
「まあ!」
と、雪之丞が、美しい目をみはる。
「まあ、その薬をたった一つぶ、そっと誰かに飲ましてごらんなせえ。ついじきにこくりこくり居睡りをはじめて、叩いたって、ぶったって、目をさましっこはねえんだよ。飲ませる間がなかったら、その薬を今度はふた粒、莨盆の火入れの中にでもくべて御ろうじ、たちまち一座がその場で睡ってしまうんだ」
「ホ、ホウ、じゃあ、ねむり薬で――」
「ねむり薬も、ねむり薬、こんな利くのは天下に類がねえ――しかも、こっちは、明礬をしめした布で鼻をふさいでいれば、いっかな薬をうけつけずに済むというのさ。おれが、実地をためしているのだから、間違いはねえのだ」
そうした秘薬を、何のつもりで与えようとするのだろう? ――雪之丞は、何となく、もうとっくに、相手が、こちらの望みをすっかり見抜いてしまっているような気がしてならぬのだ。
闇太郎は、平気でつづける。
「お前は、聴けば、武士の表芸の中でも随一番の、剣法ではだれにもひけをとらねえという――だが、世の中は、すべて表裏があるもので、裏の用意もなけりゃならねえ。忍術の方でもねむりの法は大切なものだ。まあ、用心のために、身につけていて、決して損はねえだろうよ――おれの細工物の中に入れたまま、たえず、からだをはなさぬがいいぜ」
「何にいたせ、すばらしい印籠に、かてて加えて、世界一の珍薬までいただいて、お礼の言葉もござりませぬ」
と、雪之丞は、素直におしいただいて、すぐに腰につける。
「では、もう、夜明けも近いこと、これで今夜はおいとまを戴きましょうか?」
「おお、この田圃はずれのかご屋まで、おれが見送って上げましょう。まあ、もう一ぱい引っかけて行きな」
名残りの茶わん酒を汲みかわして、いつか、露が深くなって、それが薄霜のようにも見える暁闇の浅草田圃を、二人はまた辿って行った。
吉原がよい専門の、赤竹というかご屋で、乗物をしたててくれて闇太郎、
「じゃ、また逢おうぜ」
「その日をたのしみにいたしております」
雪之丞が、しんからそう答えたとき、たれが、ぱらりと下りた。
中村座の菊之丞一座の人気は、日ましに高まるばかりだった。飾り布団、引幕飾り、茶屋の店さきほどの家も、所せまいまでに送り込まれて、下ッぱの役者までが、毎晩新しい贔屓から、宴席にまねかれぬこととてなく、江戸中の評判を、すっかり攫った形であった。
雪之丞は、三斎一党から贈られた、黄金、呉服のたぐいを、目にすることさえいとわしく、片はしから一座の者にバラ撒いてしまうので、その無慾さに一同驚きあきれ、
「大師匠も、あの通り、芸道一図のお方で、神さまとまでいわれているが、若い太夫のあの気前は、おそれ入ったものだ」
「あれで、もう四、五年たって、尾鰭がついたら、芸人としては、日本一の男になろう」
「それに今度の狂言で見ても、女形ばかりか、立役をしても、立派なものであろうとの、見巧者連の噂――大師匠も運がよい。すばらしいものを見出されたものだ」
そうしたささやきが、上方から来た一座一行の間ばかりか、江戸の芸界にもさかんにいいかわされ、このところ、どのような大立者たちも、まるで他国者のために、光を蔽われてしまったのである。
菊之丞師匠は、雪之丞の好評を、耳にするたびに、おりおりは溜息をつかずにはいられない――
――ああ、これで、あの人が、芸道のみがいのちの男なら、どんなにわしもうれしいことか――腕一本、熱心一途で仕上げて来た、この中村菊之丞の名跡、あれでなければ継がせたいものもなく、あれが襲名してくれさえすれば、わしの名は、未来永劫、芝居道の語りつたえにものころうもの――だが、それは出来ぬ望みだ。かなわぬ夢だ。かれには、人並はずれた大望がある。あれは、それを成就するためばかりに生きている男だ。ほんに、この世は、ままならぬことばかりだなあ。
師匠の、そういう気持は、雪之丞にもよくわかるのだ。
――お師匠さまも、わしのようなものが、この大江戸で、分外の人気を得たのを御覧になるにつけても、いつまでも手元に引きつけて、面倒を見てやりたいともお思いになっていように――わしのこの一身を、お師匠さまと、芸術と――この二つのためだけに、ささげることが出来ぬというのは、何とかなしいことであろう――すまないことであろう――お師匠さまの、寝られぬ床のためいきが、耳につくたび、申しわけがない気がしてなりませぬ。
雪之丞は済まぬと思う――申しわけないと思う。が、どのような私情も、恩義も、彼の一徹な復讐心を磨滅させてしまうことは出来ない。
――いいえ、お師匠さまは何もかもゆるしていて下さるのだ。万一、世間の評判なぞに巻き込まれて、一生一願のこの気持をにぶらせもしたら、それこそ、今日が日までの厚恩を忘れたというもの、却って肉を裂きたい程のお腹立ちになるであろう。
と、つぶやいて、かろうじてわれを慰めるときもあった。
七日目の大喜利の前に、鏡台に向っていると、楽屋にぬっとすがたを現した男――
「おや、長崎屋の旦那さま。この程から、かずかずの御恩――さあ、どうぞ、お敷きあそばしまして――」
と、雪之丞、客のために手ずから座布団を押しやった。
相変らず、はしッこそうな、キラキラした目付きをした長崎屋、結城縞に、鉄錆いろの短羽織という、がっちりとしたなりで、雪之丞の鏡台近くすわると、
「いやこないだは、いろいろ我儘を申して相すみませなんだ。その後、すぐ見物ながら楽屋をたずねようと思うていたに、さまざまな多用、失礼をしました。ますます人気絶頂お目出たい」
雪之丞は、そらさずに、
「何れも皆さまのお蔭でござります。あなた様のお力にて、江戸一ばん、心強い御贔屓さまがたのお近づきになれまして、一生の面ばれ、御恩は決して忘れませぬ」
「そのように申してくれると、わしも何ぼうかうれしいのだ。あちらさま御一統も、お目にかかるたび、そなたの噂が出ぬことはない。それにつき、今一人、是非、そなたに逢いたいという者があるので今夜、また、そこまでつき合ってもらいたいのだ。都合はどうであろうな」
「申すまでもなく、旦那さま、おっしゃりつけとあれば、いずれへもお供いたしますが、そのお方さまは?」
長崎屋の目つきに、複雑な、神経的なものがただよった。
「実は、わしと似寄りの渡世をしているもの――わけあって、何事につけ、共に事をしようと、約束のあるお人だ。と、いって、いうまでもなく、お互に、商売がたきでないともいわれぬのだが、まず、今のところ、ある仕事を、一緒に進めてゆかねばならぬのでな――そなたは上方のお人。かなたにも出店もある、広海屋という海産商人なのじゃ」
「おお、広海屋さま――お噂は、とうから伺っております」
雪之丞、何で忘れてよい名であるだろう。長崎奉行、代官をあやつって、松浦屋を陰謀の牲にした頭人ともいうべき奸商ではないか!
「御存知か? なかなか大きゅう店をしていられる方じゃ。わしなぞは、まだ足下にも及ばぬ」
長崎屋の表情に、あらわに嫉視のようなものがうかぶのを、雪之丞は見のがさなかった。
「実はな、わしと、広海屋、心を合せて、江戸中の大商人と張り合い、お城の御用達をうけたまわろうともくろんでいるのでな――」
と、悪ごすい商人は声を落して、
「そこで、そなたを見込んで、一ツ力が借りたいと考えているわけ――お城のことは、浪路どのの口入をうけるが便宜――その辺のことを、今夜二人で、くわしゅうそなたに頼み込みたい仕儀なのじゃ。もっとも、そなたとしても、わしが、どれほどそなたに贔屓かを知っていてくれるはずだ。平たくいえば、広海屋さんより、わしの方へ、そなたも肩入れはしてくれるであろうと、それはもう安心し切っているのだ」
楽屋内をもはばからず、ひそひそと、こんなことをいい出す長崎屋の心の中は、今迄のゆきがかりで、広海屋とどこまでも同体せねばならず、また二人心を合わせた方が、望みを果すに便利だとは思うものの、この場合、何とかして、この先輩同業を乗り越してやりたい野心を捨てることも出来ぬ。つまり、雪之丞によって、浪路をうごかし、広海屋よりも一あし先に御用允可のはこびをうけたいのである。
雪之丞は、万事、のみこんだというように、
「それはもう、あなたさまのためには、叶いますだけはいかなことなりと――」
長崎屋は、言葉せわしく、胸の一物を、概略ながら、雪之丞に囁いてしまうと、
「そなたは、こころの聡い方、大ていのみ込んでくれたであろ。不思議な縁で、したしくなったからは、わしが良ければそなたにもよし、そなたがよければ、わしもよいというようにやって行って貰いたい。な、頼みますぞや」
「ようくわかりましてござります」
と、雪之丞、うわべは、どこまでもやさしく、
「あなたさまも、幾久しく御贔屓を――」
「いうにゃ及ぶじゃ」
と、相手は、トンと胸を打って、
「では、今夜は、根岸の鶯春亭でまっていますほどに、閉ねたらすぐにまいッてくれ。乗りものを待たせて置きますぞ」
言葉をつがえて、長崎屋、楽屋を出て行く。
――あの人は、骨の髄まで慾念で固まった、この世ながらの獄卒だ。とはいうものの、あの人みずから、わしの望みの手引きをしながら、好んでだんだん死地に近づいてゆこうとするのも、みんな因縁というものであろう。今夜、広海屋というのに逢えば、それで仇敵という仇敵の顔が、すっかり見られるわけ。その上で、きっぱり仇討ちの手立てを立てねばならぬ。
そんな風に、心につぶやいた雪之丞は、大喜利をつとめてしまうと、ふじいろのお高祖頭巾もしっとりと、迎えのかごに身を揺られて、長崎屋から示された、根岸の料亭をさして急ぐのだった。
その当時、大江戸に、粋で鳴った鶯春亭の、奥まった離れには、もう、主人役の長崎屋、古代杉の手焙りを控えて坐っている。
「おお、滅法早う見えられましたな。さあ、これへ」
と、ちこぢこと、笑がおを作って、
「広海屋は、どうしたことか、まだ見えぬ。もうおッつけまいられるであろう。それまで、この家自慢の薄茶でも服って、おくつろぎなさるがよい」
雪之丞がよいほどに、長崎屋と世間ばなしをつづけていると、その中に、廊下でしとやかな足音がして、
「お連れさま、お見えなされました」
と、知らせる、女中のあとから、
「やあ、おまたせしましたな。お屋敷の御用で、急に顔出しをしなければならなかったので――」
と、その場にすがたを現したのが、もう六十路を越したらしい、鬢が薄れて、目の下や、頬が弛んだ、えびす顔の老人、福々と、市楽柄の着つけ、うす鼠の縮緬の襟巻を巻いた、いかにも大商人と思われる男だ。
「いや、待ち兼ねました。太夫もさき程から来ていられましてな――あ、これが、初下りの雪之丞、こちらが、お噂した広海屋の御主人じゃ。このお方も、そなたの舞台をつい、昨日のぞかれて、いやもう、大そう讃めておられましたぞ」
雪之丞、広海屋を一目見て、その福々しさがのろわしい。貧しく乏しい裏長屋に蹴落され、狂い死に、この世を呪って死んだ、父親の、あの窶れ削けたすがたが、今更のように思い合わされる。
――おのれ、見ておれ、間もなく、おのれも八寒地獄に落ちる身だぞ。
憎みを、満腔に忍んで、彼はやがて仇敵どもがすすめる杯を、今夜も重ねねばならぬのだった。
「ところで、長崎屋さん」
と、富裕な大商人は、仲間の方を向いていいだした。
「今夜、松枝町のお屋敷から、ちょいと御用で呼ばれたで伺いますと、思いも寄らぬ話がござりましたぞ」
「思いも寄らぬ話とは?」
と、長崎屋は、広海屋の赭ら顔を見返した。
松枝町といえば、三斎屋敷を意味するので、この連中に取っては重大な関係がいつもあるのだ。三斎一家に関する情報は、従って聴きのがすことが出来ない――長崎屋の顔さえ、ぐっと、向きかわる。
「何でも、お城のお嬢さまが、おからだがいけないとかで、当分お屋敷の方へお戻りになるというのだ」
「えッ、何だって! 浪路さまが、お戻りになるッて――」
長崎屋の顔に、ありありと驚愕のいろが漲った。
その浪路が、大奥にいればこそ、その手一すじをたよりに、城内に深刻な発展を試みようと努力しているのではないか――その手つきを失ったら――
「まさか、ずっとお城をおさがりになるわけではあるまいな!」
「それはそうであろうとも――」
と、広海屋はうなずいて、
「わたしも、実は、それが懸念で、さぐりを入れて見ると、こないだの芝居見物以来、何とないブラブラ病い、それで、御本人が、のびのびと、おうちで保養をしたら、すぐによくなろうと、いい出されたとかでな。だから、大したこともなく、すぐに快うなられて、大奥にお帰りになるに相違あるまい――また、上つ方でも、浪路さまを、お手ばなしになるはずはなしさ」
「なある――読めた!」
と、長崎屋、ずるい笑いに、目顔をゆがめるようにして、手を打った。
「浪路さまの、御病気の原因は、結局、この座敷にいるのじゃよ」
「うむ。わたしもな――」
と、広海屋が、これも意味ありげな微笑を雪之丞の方へ送るようにして、
「そなたから、こないだの事を聴いていたので、大方そんなことではあるまいかと思うているのだ」
「いやもう、てっきり、それにきまっている」
と、長崎屋が、あからさまに、雪之丞を見て、
「太夫、そなた、お嬢さまが、帰り保養ときまったら、すぐにお見舞にゆかねばなりませぬぞ――御病気のもとは、そなたにきまっていることゆえ――」
「何とおっしゃります!」
と、雪之丞、さも仰山に驚いて見せるのだった。
「御贔屓にあずかりました身、それはもう御病気とうけたまわれば、すぐにお見舞に伺うはずでござりますが――わたくしが御病気のもととは? 一たいどういうわけでござりましょうか!」
長崎屋は、笑いつづけて、
「何も不思議がることはない、御息女は、恋の病いにかかられたのじゃ。のう、広海屋さん――」
「いかにもそれに違いない。わたしもそう思いますよ。太夫」
と、広海屋主人も、大きく合点合点をして見せて、真顔になって、
「何にしても、すばらしいこと、そなたのためにも運開きじゃ」
「そりゃもう、このお人に取っては、これ以上の運開きはないが――」
と、長崎屋も、相槌を打って、
「この際、うんと本気に腰を入れてもらわぬことには、われわれの方のもくろみも、うまくゆかぬことになろうも知れぬで――」
雪之丞は、全身を汚穢なへどろで塗りこくられでもするような、言い難い悪寒をじっと堪えしのびながら、二人の言葉に耳をかたむけるふりをしていた。
「のう、雪之丞どの」
と、広海屋が、
「長崎屋から、くわしゅう聴いているらしいが、そなたが思いの儘に腕を振ってくれさえすれば、未来永劫、この二人で、そなたの一生のうしろ見は必ずして上げますぞ。何分、人気渡世は、一時の栄えは見せようが、行末長く同じ繁昌がつづくとも限らぬ――いや、そなたは格別であろうが、用心にしくはないのが、人の生涯じゃからな」
――この手で、父親のことをも、汚らわしい深みに引き入れたのであろう――
雪之丞は、胸のうちでそんな風に呪いながらも、
「全く以てお言葉通りでござります。ことさら以て、わたくしなぞは、たよりすくないみなし児の身、お二人さまがそう仰せられますと、夢のように嬉しくて、天へも上る気持でござります」
「うむ、のみ込みの早いお人で、わたしたちも大助りだ。人間はそう無うてはならぬ」
と、広海屋は、ますます膝を乗り出して、
「今も、冗談のように言ったことだが、あの御息女が、一目そなたを見て恋い焦がれ、一身一命さえ忘れかけていることは、この長崎屋さんが、見抜いた通りに相違ない。あのお方を、そなたがたとえいとわしゅう思うていても、そこを辛抱して、皮肉に食い入り、魂にまといつき、心をとろかしてしまったら、そなた一人の幸福ばかりではない。われわれ一生の大願も、それに依って定まるのじゃ。ここのところ、十分に、打ち込んで貰いたいが――」
「大凡のことは、もう胸にはいっております。位高い御女性を、たぶらかすの何のとは、怖れ多いはなしでござりますけれど、一生懸命御機嫌を取りむすぶことはいたして見るつもりでおります」
雪之丞は、はっきりと、二人の前に誓うようにいい切った。
「うれしいな、広海屋さん」
と、長崎屋は、そそるようにいって、
「これだから――このわかりのよさゆえ、浪路どのばかりではなく、男のわたし達も惚れ込まずにはいられぬのじゃ。では、御息女が、帰り保養ときまった上は、すぐに見舞に行って上げるようなすってな――」
「かしこまりました」
「と、きまれば、芸者を呼んで、一つさわやかに騒ごうか」
と、長崎屋が、手を鳴らす。
もうとうに、柳ばしから呼び寄せてあった男女の芸者達が、すぐに現れて、一座が、だしぬけのにぎわしさに変った。
「さあ、お互のための、前祝いの、盃、太夫も、心置きなく飲んだり、飲んだり」
広海屋は、粋な老人らしく、ほがらかな笑いを見せて、
「太夫ほどのものを、江戸を見限らせては土地ッ子の恥だ。さあ、女たち、しっかりつかまえて、上方を思い出させぬようせねばなりませぬぞ」
広海屋、長崎屋、二人とも、雪之丞をすっかり与し易いものと考えて、只、おだて上げ、唆り立てて置けば、好餌にさそわれて、どのような犬馬の労をも取るであろうと、すっかり信じ込んでしまったように見えた。
芸者、末社のにぎわしい騒々しさの中に、長崎屋は、雪之丞に、杯をまわしながら囁く。
「そなたは、今、こうして、このせち辛い世の中に、贅沢な杯盤を並べ立てて、うまい酒を呑んでいるわれわれが、はじめから、いい月日の下に生れて来たものと思うていられるかの? 大違いだ。のう、広海屋さん、お前とても、一時は、店の大戸を下ろさねばならないような羽目になったこともありましたな?」
「そうそう」
と、広海屋は、昔の零落を語るのさえ、今の身の上になった以上は、それも誇りの一つであるように――
「店の大戸を下ろすはおろか、借財に追いつめられて、首をくくろうとしたこともありましたがな――それも、これも、みんな夢物語になってくれましたで――ハ、ハ、ハ」
「今だから、何もかもいえるのだが、その頃このわしは、広海屋さんと同業の、手がたい見世の奉公人でありましたのさ。ところが、この広海屋さんと、不思議に話のうまが合うので、主人を捨ててこの方と合体し、あらゆる智謀をしぼり合うた甲斐があって、広海屋さんの見世も持ち直し、以前より十倍もの勢いとなり、わしもわしで、まずどうやら一人前の町人になれました。この世の中は、いいも悪いもない――ただ、お互に出世しようと目的を立てたら、心を合せて、他人をかきわけ、踏み落して、ぐんぐん進んでゆく外はありませぬ――そなたなぞも、雪之丞どの、よいうしろ立てをつかんだなら、それを力に、遠慮のう威勢を張ってゆかねばならぬ。と、まず、わしどもは思っています」
「それじゃ、それじゃ。それにかぎるで――」
と、広海屋は、てかてかした顔を、酔に染めて、しきりにうなずいて見せるのだ。
雪之丞は、冷たく、心にあざわらう――大きな声で嗤いたい――嗤って、嗤って、嗤い抜いてやりたい!
――ようも自分の口から、旧悪をさらけ出しおったな! これ三郎兵衛、おぬしが恩を売ったという主人は松浦屋――この雪之丞の父親なのじゃ。広海屋、おぬしが三郎兵衛と心を合せて、深味につき落したのも、わしの父親なのじゃ――その一子、雪太郎、いのち懸けでおぬしたちの、首を狙っているとは知らぬか!
雪之丞は、出来るだけ気を平らかにしていようと、沸き立つ腕をさすっているのに、先方から、あまりに浅間しい泥を吐いて見せるので、
――いっそ、今夜のかえりに、この二人を、まとめて成敗してのけてつかわそうか? 高の知れた素町人、当て殺そうも心のままじゃ。
そう思うと、殺気が、サーッとわれとわが背らに流れて来て、ブルブルと手足がわななくのだ。
もう、彼の目には、江戸生っ粋の美妓たちも映らぬ――耳にいかなる歓語もひびかぬ。
――わしは、手を下そう――今夜、のっぴきさせず手を下そう。
雪之丞は、ジーッと伏目に、二人を見上げた。
雪之丞、一たん、意を決してしまうと、もうじッとしていられない。
――早うこの場を退散して、この二人の帰りを待ち受け、こよいの中に冥府に送りつかわそう。どれ、その支度にかかろうか?
わざと、しなを作って、長崎屋の方へ身を擦りよせるように、
「旦那さま、実は今夜は、宿元にて、役者の寄り合いがあるはずのところ、外ならぬあなたさまのお言葉にて、この場に伺わせていただきましたので、お名残り惜しゅうござりますが、中座いたさせていただきます。あなたさまより、広海屋の旦那さまへも、よろしゅうおわびをなされて下さりませ」
「なに、中座したいといわれるのか。それは残念な――酒宴もまだはじまったばかり、今しばし待たれたら――わしも、広海屋さんも、更けたなら、よいところまで、そなたとかごを連らねられると楽しみにしていたに――」
と、三郎兵衛がいうのを、
「お言葉に従いとうはござりますが、役目も大事にいたさねば、舞台に何かと障りも出来、御贔屓様に、相すまぬようなことにならぬとも限りませぬゆえ――」
と、辞退すると広海屋も聴きつけて、
「太夫が、かえられますとか――のこり惜しいな」
――残り惜しがりなさるには及ばない。ついじき、そこに待ち合せておりますぞ。
いい程に、言いこしらえながら、店中の形勢を眺めると、ことに依れば、この一座、これから吉原仲の町へでも、繰込もうという気配も見える。幇間、末社が、しきりとはしゃぎ立てている折を見て、座をはずした雪之丞、そのまま、見世口へ出て来ると、
「おかえりなら、乗ものを――」
「かごを――」
と、ひしめく家人を制して、
「どうぞ、それには及びませぬ。はじめての御当地、お店前から乗ものに乗るなぞとは、旦那衆と御一緒なら、兎に角、勿体ない。実のところついそこに、迎えのかごを待たせてありますゆえ、御容赦――」
そう、いい捨てて、雪之丞は、小走りに外へ出てしまった。
「感心なお方――」
「ほんとうに程のよい――」
見送りに出た芸者、女中が、そんな風に囁き合うのを聴き流し巷路の闇にまぎれ込むと、闇の夜風が、鋭く頬を撫でる。
あたりは、杜と、茶畑、市の灯りからはるかに遠い根岸の里だ。人ッ子一人に出逢いはせぬ。
木下蔭の暗がりで、長裾をぐっと引き上げ、小褄をからげ、お高祖頭巾をまぶかにして帯の間に手をやると、師匠が返してくれた一松斎譲りの銘刀が、体熱に熱くなって、一刻も早く血が吸いたいというように渇している。
――おまちよ、もうすこしすると、渇きを止めてやりますぞ。
身支度をすませて、細道に出ると、向うに、遠火事の炎が映っているように見えるのは、まぎれもなく、たった一度客すじから招かれて行った、新吉原の灯のいろに相違ない。
彼等が、そこを指して押し出す下ごころを知り抜いている雪之丞、とある杜かげにじっとたたずんで、時のうつるのを待とうとするのだった。
すると、ふと、その中に、むこうからトボトボと近づいて来た、細長い人影――雪之丞が身をひそめた、つい側まで来て、ピタリと草履の音を止めた。
「ほー人くさいぞ!」
雪之丞、だしぬけに、不思議な嗄れごえのつぶやきを耳にして、暗々たる杜の中に、ハッと立ちすくんでしまった。
老い、掠れた声がなおつづく。
「人臭いぞ――路上にすがたがないのに、人臭いとは、いぶかしいな? ふうむ、さては物とり追剥のたぐいでも、この杜中に隠れておるかな?」
そして、杖で、大地を、トンと突くような響きがして、
「これ、物蔭にうごめいているのは、何者じゃ? 姿を見せい! この界隈に、魑魅魍魎を住まわせぬことにしている、このじじいに、貴さまの、異形をあらわすがよい。さも無いとことに於いては、この破邪の杖が、ずうんと、飛んでゆくぞよ」
雪之丞は、怪しくも、この低い、地を這うような音声に威迫された。
――おのれ! 貴さまこそいぶかしい奴――他人の大事の瀬戸際に、邪魔を入れようとしおって! 猛然として、圧迫をはじき返そうと、心で叫んだが、相手は、まるで、こちらの心中を読み取ったように、
「突いて来るか、斬って来るか? ハ、ハ、面白い。早う出い。出ればよいのだ」
雪之丞は、殺気を削がれた。
――何者だろう? ひどく、年を取っている奴のように思われるが――
「出ぬか!」
と、突如として、雷霆のように、一喝されて、こちらは、身を隠して、隠密と事を成そうとしつつある、いわば、後暗い彼――
「出ます」
と、思わず、受けて、そのまま差しかわす下枝をかき分け、道に出る。
闇空の下に、細長く、漂亭と、白髯長き老人が、長い杖を突いてすらりと立った立ち姿を、彼は見る――
と、咄嗟に、
――あ、老師だ!
と、瞠目した。
意外にも、それは、こないだ、蔵前八幡の境内で邂逅した、雪之丞に取っては、かけがえのない文学の師、孤軒先生にまぎれもなかったのだ。
逃げることもならず、その場に膝をついて、
「これは老師でござりましたか?」
とうなだれただけで、口がどもる。
「ふうむ、これはこれは、また、思わぬところで、そなたに逢うたものだな?」
孤軒老人も、いくらかびっくりした調子で呟いたが、
「今宵、ちと風流のこころを起して夜の上野山内から、不忍池を見渡してまいった戻り道、ここまで差しかかると、妙な気合を感じたで、いたずらをやって見たが、そなたに逢えるとは思わなんだ。ハ、ハ、ハ、これも尽きせぬえにしというものだな」
雪之丞、孤軒老師が、この付近根岸御行の松に近く住んでいるといっていたのを思い出した。
「恐れ入りまする――かかる痴かしきすがたを御覧に入れまして――」
と、詫び入るように言うと、
「まず、立ちなさい。さ、立ちなさい」
と、手を取るようにして、老師は、じっと見下ろしたが、
「さるにても、そなたは、今宵は、恒ならず事を急いているように思われるな。水、到って渠なる――の象には遠い遠い。悪しゅうはせぬ。わしのかくれ家までまいるがよい」
雪之丞は、老師のそうした言葉にも拘らず、すぐに後方に従うことがためらわれた。もうしばし、この杜かげに待ち受けていさえすれば、仇敵二人を、まとめて始末することが出来るのに――と、思うとこの場を去るのが、のこり惜しくてならぬのだった。
しかし、孤軒老師は、恒になくいかめしく言った。
「これ、わしと一緒にまいれと申すに――」
「は、はい」
今はやむなく、雪之丞は、星の高い闇空の下を、導かれるままに跟いて行った。
孤軒は、ひと言も、口を利かなかった。雪之丞も黙ったままだ。二人は枯葉が踏むたびに乾いた音を立てる森下路をしばし歩いた。
やがて、大きな松が、ひと本、黒く枝をひろげたのが見えるあたりの、生け垣の、小家の前まで来ると、老人は、枝折戸を外からあけてはいる。狭い前庭――
「戻ったぞ」
「あ――い」
と、少年の声が、奥で返事をして、入口の戸があく。
「お客だ。香ばしゅう茶をいれるのじゃよ」
と、目つきの可愛い、クリクリ坊主の小僧に命じて、
「これが、わしの侘住居じゃ。上りなさい」
と、雪之丞にはじめていった。
雪之丞は、ホッとした。老師が、あまり黙り込んでいるので、何となく、咎められているようでならなかったのだ。
老師と、彼とは、炭火が、赤々と熾っている炉ばたに向い合った。
「さて、雪、そなた、あそこで、どのような狂言の、幕を開けようと思っていたのじゃな?」
雪之丞は、キラリと底光りのする孤軒の目から、わが目をそむけた。
「しかし、わしは、よいところに通り合わせたと思っておる――」
と、老人は、刺すような調子で、
「敵を仆すには、その根幹を切らねばならぬ――ああした場所では、とても大物を仕止められようとは思われぬでな――いたずらに、こだわって、大立者を逃すようなことはせぬものだ――雪、そなたは、折角、松枝町に近づいたであろうに――」
「えッ」
と、雪之丞は、おどろかされて、
「三斎と知り合いましたを、どうして御存知でいられます?」
「わしの八卦、観相は、天地を見とおす――と、言いたいが、実はな、この老人も、中村座の初日が、気になって、のぞきにまいった――すると、あの一行の幕張りがあって、大分、そなたに執心しているように見えたゆえ――」
老人は、いくらか微笑して言って、
「いま俄かに、そなたが動き出したら、抜目のない三斎、何となく危さを感じて、他国者なぞ、身近く寄せるようなことはせなくなるぞ。まず、じっと怺えて、存分に彼等を艱ます策を立てねばならぬ」
「それは、わたくしも考えておりますものの、今宵、かの広海屋、長崎屋、二人を目の前に並べて見ましたゆえ、怺えかねて怺えかねて」
「ふうむ、それで、待ち伏せしようといたしたか? が、一思いに仕止められたら、彼等はこよない幸福者――なぜ、今しばし浮世に生じ置いて、心の苦痛を嘗めさせてやろうとはしないのじゃ?」
雪之丞が、うわべでは、うなずきながらも、心にはなお不承らしいのを、老いたる孤軒はなだめるように見て、
「わしはいつぞや、八幡境内で、油断のう進めとはいうたが、しかし暴虎馮河こそつつしむべきだ。第一、今も言う通り、今夜この二人を合せて討ったなら、物盗りとも見られまいし、誰かの目に、そなたの姿が映らぬとも限らぬ――十に八、九は、一座していたそなたに疑いが、かかるであろう。ジロリと、土部一味の目が光ったら、明日はそなたの舞台はもう江戸の人は見られなくなる。それよりも、広海屋、長崎屋、お互に同業、胸の中に、修羅のほむらを燃やしているに相違あるまいが、それを用うて一狂言、そなたにも書けそうなものだが――」
「左様、それにつきまして、実は――」
と、雪之丞が、長崎屋の、広海屋に対する反抗心を、あけすけ聴かされた旨を逐一打ち明けると、孤軒は、にこにこして、
「それが、この浮世で利慾に生きるものの、浅間しい望みなのだ。我慾に熱して、友も主も売る――そなたの父親を売った二人は、今度はお互にお互を喰らおうとしてもがき焦せる――そなたとしては、今の場合、その二人をどこまでも争わせ、魂をも肉をも、現世で食い散らさせるのを眺めるのも一興じゃと思うがな。そこでわしに一案がある」
孤軒は童子が、運んで来た茶を、うまそうに啜って、
「わしは、夜目ではわかるまいが、この小家の入口に、これでも堂々と易の看板をかけておるで、金、銀、米、そのほか、相場の高低を争う、はしッこい町人たちが、慾に瞳が暗んだ折に、よりよりわしの筮竹をたのみにして駆けつけてまいるが、その者どもに聴けば、かの長崎屋、一度に資財を数倍させようと、今年北国すじの不作を見込んで、米を買っておるそうな。ところが、広海屋一派の商人たちの方では、西国に手持ちの米が多分にあるで、利害が反対になっている――が、今のところ、広海屋も、目前の利に欺かれて、却々売り叩こうともせず、もっともっと値の出るのを待っているらしい。が、ここで、そなたが、普留那の弁口を揮うて、西の米をどしどし売らせたなら、米価は、一どきに低落し、長崎屋方は、総くずれになるは必定だ。しかも、江戸の人気は、一時、広海屋方に集まって、あれこそ、廉い米を入れてくれた恩人と持て囃されるであろうよ。一人は泣き、一人はよろこぶ――」
「お言葉ではござりますが、それでは、長崎屋をくるしめることは出来ても、広海屋は、旭の勢いとなって、さぞよろこぶことでござりましょうが――」
と、雪之丞が、進まぬげに言うと、
「そこが、若いと申すのだ」
と、孤軒がおさえて、
「落ち目に蹴落された長崎屋は、牙を剥いて噛みつくに相違ないのだ。あれたちはこれまで、あらゆる慾の世界で、合体して働いて来た、狼同士、二人とも泥の腸について知り抜いているのだ。それがいがみ合いはじめたら、そなたはまず、側で手を拍いていてもよいということになるであろう――そなたが、最後の刺止だけ刺してやればいい」
雪之丞は、了解した。
「いたして見ましょう――広海屋さんとも、いつでも御懇意に出来ますように存じますから――」
その場の胸中の憤懣に、日頃のつつしみを忘れ、軽はずみに事をいそいで、大事をあやまろうとした雪之丞、測らず邂逅した孤軒老師から、新しく智恵をつけられ、翌日、翌々日、無事に艶冶かなすがたを、舞台に見せつづけていた。
すると、三日目に、こちらから手を伸ばす必要もなく、広海屋の方から、例の鶯春亭まで、出向くようにとの迎えがある。
早速行って見ると、奥座敷に、長崎屋の姿はなく、福相な広海屋が幇間を相手に世間ばなしをしていたらしかったが、かねて打合せてあったものと見えて、雪之丞の姿が現れると、居合せた男女が、席をはずす。
辞儀が済んで、
「今晩は、長崎屋さまは、お見えあそばさぬのでござりますか?」
と、さり気なく、尋ねると、
「おお、あの男は、昨日今日、商用で大そういそがしがっておるのでな――それはそうと、例の松枝町の御息女、たった今日、向う半ヵ月のお暇を頂き、自宅保養のため、大奥から、お屋敷に戻ってまいられたで、この事を、是非、耳に入れて置こうと思うてな――わしは、お屋敷には伺ったが、御当人には、お目にかからぬ。御隠居さまは、別にこれという病気も無いらしいに、気先だけがすぐれぬというているが、おつとめが急に厭わしゅうなったのではあるまいか――なぞと、しきりに心配していられました。あれほどの鋭いお方にも、娘御のお胸の中は、図星を差すことはならぬと見える。長崎屋もいうとおり、そなたが、その美しい顔を見せたなら、忽ちほがらかになるに相違ないに――」
「わたくしに、それだけの力がござりますかどうか――でも、折角のお言葉でもござりますし、明日にもすぐにお見舞に上って見るでござりましょう」
と、雪之丞は、しおらしく受けて、ふと、思いついたように、孤軒入智恵の問題に、探りを入れて見る――
「それとは、お話が違いますが、昨晩、さる御城内お役向の御一座から、お招きをうけました節、あなたさまの御評判を洩れうけたまわって、かずならぬ身も、大そう嬉しゅうござりました」
「ほう、役向の衆から、わしの評判を聴いたとな!」
と、人気渡世の役者以上に、世評が気になってならぬように、大商人が、膝を乗り出して来た。
「それは、また、どんな評判を?」
「わたくしに、江戸では、主にどのような方々の御贔屓になっているか――なぞ、お尋ねでありますゆえ、ここぞとばかり、口幅ったくも、お名前を申し上げました。すると、うむ、それは、よき人々に贔屓れておるな――広海屋と申せば、名うての大町人、やがて江戸一にもなるべき人だ――」
「うむ、左様なことを、お城重役が申されていたか――」
広海屋の、栄達を望んでもがきつつある心は、すぐに激しく動揺して、喜色満面。
「ええ、もう、大したお讃めで――」
と、雪之丞は唆り立てて、
「その上、わたくしにはわかりませぬが、何か、よほどむずかしげなお噂もありましたようで、あなたさまについてのお話ゆえ、一生懸命理解いたそうといたしましたが、くわしゅうはのみ込めませず、残念に存じました」
「わが身についての、むずかしい噂――」
広海屋は緊張して、
「気にかかるな? 何事か聴かしてくれ」
雪之丞は、広海屋が、こちらの口車に乗せられ、ぐんと乗り出して来るのを、浅間しいものに眺めながら、
「只今も申しますとおり、わたくしなぞには、良く、呑み込みのいかないお話でござりましたが、何でも、貴方さまが、一決心なされました、お持米とやらを、東におまわしになりませば、大したことになるであろう――と、いうようなことを、しきりに仰有ってござりました」
「何と? 持米を東に廻す!」
広海屋はするどい目つきになって、
「それは、どんなわけなのか?」
「わたくしが伺いましたところでは、あなたさまは、海産物とやらばかりではなく、上方、西国で、沢山にお米を買い蓄めておいでなそうで――」
雪之丞が、相手をみつめると、
「ウム、いかにも――」
と、広海屋は、いくらか得意そうにうなずいて、
「何百万石という米を、実は妙なゆきがかりから、去年この方手に入れたところ、今年の東の凶作――もうしばし持ちこたえていたら、莫大な利得が生まれようとまずたのしみにしている次第だ」
「お武家さまたちの仰せでは、そのお米を、あなたさまが、男なら、一度に江戸にお呼びになり、こちらの米価とやらを、一朝に引き下げておしまいになると、お名前が上下にぱッと輝くばかりか、関東米相場の神さまにもお成りになり、一挙に、江戸一の勢いをお示しになれるに相違ないに、何をためらっているのであろう――やはり、町人と申すものは、目前のことにのみ、心を引かれて、大きな企みが出来ぬと見える――と、まあ、あの方々でござりますから、そんな無遠慮なことも仰せられておりました」
「ふうむ――その方々が、そのように仰せられていたか? ふうむ」
と、広海屋は、腕を組んで、伏目をつかって、
「この広海屋が、男なら、上方西国の手持ちの米を、思い切って東に呼び、江戸市中の米価を引き下げ一時の損をして、未来の得を取るべきだ――と、つまりはそんなことをいわれていたのだな?」
「いかにも左様で――その暁には、上つ方のお覚えよくなるは勿論、江戸の町人で、あなたさまに頭のあがるものもなくなるであろうに――と、まで仰せになりましたが――」
「ううむ、成るほどなあ、御もっともなお言葉だ。太夫、ほんにいいことを、耳に入れてくれましたな。だが、ここに、さりとて、その言葉を、すぐにお受けするわけにならぬ義理もあるので――」
と、広海屋は、考え込みながら、
「そなたも知る、長崎屋、あれが、中々、目から鼻に抜ける儲け師、東の不作と見て、これからますます騰貴すると見込みをつけ、今になって、買入れ、仕込みをいそいでいるのじゃ。そのために、まず、全力を集めていると言ってもよいので、ここへ、西から廉い米が、大水のように押して来たら、あの人の見込みは、ずんとはずれ、飛んだことになるであろう――そんなわけで、実はわしも手持ちの米を、あの人達の方へ少しずつまわして、利を刎ねて行こうと考えているわけなのだが――しかし、損して得とれ――との、そのお武家方のお考えは、あっぱれな名案だ」
商利を、一生の目的とし、そのためには、一切の恩愛義理をも犠牲にしようとするような人間に対しては、利害一途で、相い争わせ、相い喰ませ、骨髄まで傷つけ合せるのこそ、最大苦痛をあたえることだと、孤軒老師の訓しえからして思い到った雪之丞、広海屋の顔いろが、すさまじく変って来るのを見きわめると、一そう煽りを掛けてやらずにはいられない気がして来た。
「わたくしどもには解りませぬが、芸道の方なぞでは、どのように日頃親しくしていましても、舞台の上で蹴落し合わずにはおりませぬが、お話をうかがっておりますと、さすが、あなたさま方は、お立派なものでござりますな。長崎屋さまに御不便だとお思いあそばしますと、あなたさま、見す見す莫大な御利分があると御存じでありながら、お手をおゆるめになるとは、全く以って、恐れ入る外はござりませぬ」
すると、広海屋が、組んでいた腕を、ぎゅっと引きしめるようにしながら、じろりと、雪之丞を見て、
「太夫、そなたは、長崎屋にも、贔屓にされている身、だが、そこまで申してくれる故、打ちあけるが、商人道というものも、そなたが、今、言われる通り、どんな恩人、友達の仲でも、いざという場合は、武士の戦場、かけ引きがのうては叶わぬ。わしと長崎屋の間柄とて、今日までの味方、いつ、明日の敵とならぬとも限らぬのだ。その上、当の長崎屋とて、つねづね、わしを出し抜こうとはかっているすじが、見えぬでもないのじゃ」
雪之丞は、やはり、蛇の道は、へびだ――と、思わずにはいられなかった。
長崎屋が、広海屋に対して、どんなに修羅をもやしているかは、雪之丞がよく知っている――それに負けぬ妄念を、広海屋の方でも抱いているのは当然と思われた。
彼は、眼の前に、餌食に餓えた、二匹の野獣をみつめているような気がして、いつもであれば浅間しさに眼を反けずにはいられないのだが、今の場合、二人の姿がみぐるしく映れば映るほど、頼み甲斐のある世の中でもあるような気がするのだった。
「そう仰せられるのを伺いますと何とのう、この世が侘しゅうもなりますが、しかし浮世と申せば、よろず、止むを得ぬ儀とも思われますな」
と、雪之丞、しんみりいって、相手を見上げると、
「心弱うては、此の世界では、乞じきに、身を落すほかはない――それにしても、太夫、よいことを耳に入れてくれましたな、このことは、長崎屋には、当分のあいだ、耳に入れぬよう頼みますぞ」
「あなたさまが、そう仰せあそばせば、決して、どなたの前でも、歯から外に洩らすことではござりませぬ」
「折角、そなたの話もあったゆえ、わしも性根を据えて、ここらで、ずんとひとつ考えて見ねばならぬ」
と、広海屋は、思い入ったようにいったが、ふっと、気がついたように、腕組をほどいて、
「さて、では、心置きのう、杯をすごして貰おうか――わしも、久しぶりで、何かこう大きな山にさしかかった気がして、心がいさんでまいったようだ。は、は、は、幾つになっても、商人は商いの戦いをしたがっていてな」
彼は、パンパンと、手を拍って、座をはずしていた取り巻きを呼ぶのだった。
曩日の宿下りに、中村座顔見世狂言で、江戸初下りの雪之丞女形の舞台を、はじめて見物し、その夜、長崎屋三郎兵衛の心づかいで、料亭の奥の小間で、はからずこの絶世の美男と、親しく語り交わすことが出来た三斎息女浪路は、翌日大奥に戻ったが、かの優人のいかなる美女よりも美しく艶やかなおもかげが、たえず目の前に彷彿するにつれ、今更のように、只栄華権柄の慾望を満足させるために、心にもなく日本一の勢力者、時の公方の枕席の塵を払うことの、いかに妄虚に満たされたものであるかがはっきりと感じられて、もう一日も、この偽りに汚された生活に、堪えしのぶことは出来ないような気がされるのだった。
そこで彼女は、その晩以来、病気届けをして、公方のお成りをさえきっぱりとことわった。
すぐに典薬が、何人か閨房に派出されたが、彼等は、ただ、小首をかたむけるばかりだ。勿論、彼等とても一代の名医たち、中には浪路の病が、秘密な気苦労から出たものであろう位なことは、診て取ったものもあったのであろうものの、うっかりした事のいい切れぬ人達のこととて、当らずさわらず――
「これは大方、心気のもつれと存じます。しばらく、心静かに御静養なされましたなら――」
「申すまでもなく、このお城内にて、何の御不自由、御不満足もござらぬはずでござりますが、出来ませば、温泉、海辺にてなり御養生なされましたなら、日ならず御快癒に相違ござりますまいが――」
なぞと、老女にいいのこして退いてしまったのだった。
これこそ、彼女が、どんなに期待した診立てであったろう!
「わたくしも、せめてこの一月なり自宅に戻って楽々としていたら、このような病い、じきに癒ろうと思いますが――」
と、中老たちに対して、相当の権威を持っている、取締りの老女にささやくと、寵愛ならびない浪路のいい分に背いて得はないと知る彼女、すぐに、
「左様に御座りますな、何にいたせ、気のつまる大奥、時々はゆるりとなさらないでは――」
と、うなずいて、諸役人との相談ごとを、すぐにまとめたと見えて、三日と経つか経たぬに早速、自宅保養の許可が下りたわけなのだった。
浪路は、天にも上る気持だ。
松枝町の屋敷へさえもどれば、父親はどこまでも愛に目がなく、長崎屋をはじめ、自分の秘密な想いに気がついているものもある。たちまち、恋しい雪之丞に、一目逢わせてくれることがあろうし、さもなくとも、どのような手立てを講じてでも、彼に消息を交わして、逢瀬をたのしむことが出来るであろう――
――ああ、この恋に比べて、これまでのいつわりの栄華の月日が、どのようにつまらない、取るに足らぬものであったろう! 影の影をつかんでいたようなものだ!
しかし、名目が名目だけに、浪路は、屋敷に戻ると、奥の離れにしつらえられた臥床に、さも苦しげに身を横たえて、医師の加療に身をまかせねばならなかった。
だが、その医者も、城内典薬たちの診断と違わなかった。
「お気まかせに、のびのびと御保養が何より――お気うつから飛んだわずらいをお引き出しなさらぬとも限りませぬで――」
浪路は、わが家の病室に、和らかく贅沢な褥につつまれて、しんなりとした肉体を横たえ、母親こそとうに世を去ったが、愛娘への愛には目のない、三斎はじめ、老女、女中の、隙間もない慈しみの介抱を受けながら、その癖、心のいら立たしさは、募って来るばかりだった。
たった、向う半月か、一月が、わが物の月日なのに、このままで時を無駄にしていなければならぬのが、彼女には辛いのだ。ただ、どうにかして、この世でゆっくりと、雪之丞に逢いたいためばかりにこそ、あらゆる苦労をして、大奥を抜け出して来たのに――
しかし、浪路の、その憂鬱の胸に、突然パアッと、赤い火が点ぜられた。老女の一人が、妙に浮き浮きした調子ではいって来て、
「ただ今、広海屋が、お見舞と申して伺っておりますが、何でも、先日まいった、あの女形の雪之丞に、御病気、御保養の由を、申し聴けましたら、大そうびっくりされて、更けては却って失礼ではありましょうが、昼間、わが時のないからだ――今宵芝居が閉ねましたら、お門口までなりと、罷り出たいと申しておりましたそうで――何とまあ、御恩を忘れぬ、感心な役者ではござりませぬか――」
と、いうのを聴いて、浪路は、床の上で、膝にひろげていた草双紙を投げ捨てるように、
「まあ、雪之丞が、見舞いたいと申しておると申すのかえ?」
「はい、今夜必ずとのことでござります」
もう、五十をとうに越したような、奥女中の心にさえ、あの絶世の美男のおもかげは、ある若やぎをあたえずには置かないように見えた。彼女は、膝を進めて、
「それにつきまして、お願いがあるのでござりますが――」
「何あに? 願いというのは――」
「雪之丞も、いそがしい間を盗んで、折角お顔出しをいたしたいと申すのでござりますゆえ、お声がかりで、お病間まで、招き入れてやりましたら、どのようによろこぶかわかりますまいと存じますが――」
それこそ、浪路にとって、わたりに船であった。
彼女の瞳は、美しく輝いた。
「そうしてやった方がよければ、まかせるほどに――」
老女は去った。
浪路はうれしさで一ぱいだった。雪之丞が尋ねて来るというのに、不機嫌そうに、髪さえわざと乱していられない。彼女はやがて、懐紙を押してあった金の鈴を、リーンとかすかに鳴らした。
侍女が手を突く、
「お湯が引きたいゆえ、支度を――」
「は?」
若い、やさしげな娘は、聴き違いではないかというように、浪路の顔を見上げた。
「湯室の用意をしや」
「でも、おからだに――」
浪路は微笑した。
「いいえ、大事ない。今日は、すぐれて心地よいゆえ、湯を引いたなら、もっともっと気持が晴れるであろうと思うのじゃ。早うしてたも」
浪路が、笑顔を見せれば、一家中は、それが何よりなのだった。
三斎屋敷の奥向は、急に活気づいて来た。
浪路は、檜の香の高い風呂の中で、澄み切った湯に、すんなりした手足を透かして見て、心からのほほえみが止まらないのだった。
その頃、雪之丞が、松枝町屋敷玄関先まで艶姿をあらわしたとき、
「いえいえ、夜分と申し、お敷居外にて、どうぞおいとまを――御前のお目通りなぞ、あまりに恐れ多うござります」
と、平に辞退したに拘らず、切なるすすめで、三斎の居間に招じ上げられてしまったのだった。
三斎は、ひどく興味を持ってしまったこの上方役者の来訪をよろこんで、何かと歓待を忘れなかった。何かの参考にもなろうかと、見つけて置いたなぞいうて、梁塵秘抄そのほかの、稀らしい古謡の写し本をあまた取らせ、一ぱしその道の通のこととて、さまざま物語りに更かしていると、そこへ、例の老女が現れて、
「御息女さまが、太夫、わざわざの見舞とお聴きになり、直々逢うて礼をいいたい――との仰せでござりますゆえ、のちほど、御病間まで、おはこびを――」
と、いうのであったが、雪之丞は、その場にひれ伏して、
「卑しき身分が、御隠居さまにお目にかかり、お情け深いお言葉をうけたまわるさえ冥加でござりますに、お奥向へなぞなかなか持ちまして――」
三斎もかかる夜半、俳優を、いかに病中なればとて、愛娘の部屋に通すなぞとは、世の聴え、家の名聞――と、思いはしたが、この者が訪ねて来ると聴いてから、めっきり元気がつき、湯さえ引いたと耳にもしたし、浪路を大奥に送って、公方の寝間の伽をさせたことそれ自体、いわば、親兄の犠牲としたのにすぎないのを考え合せると、此処でその望みを阻止することもあまりに思いやりがなさすぎる気がした。
「いや、なに、雪之丞」
と、老人は、手を振るようにして、
「娘も、見苦しゅう取りみだしてはおるが、これも、日頃、窮屈な御殿暮しの気づかれが出てのことであろうと思えば、わしもあわれに思うているのじゃ、あれは、元よりそなたが大の贔屓――美しい顔を見せてやって、にぎわしゅう世間ばなしも聴かしてやってくれたら、心のもつれも晴れるであろう。折角、あいたいと申すのじゃ。つい、ちょっと、病室をのぞいてやってくれまいか」
「ま、勿体ないお言葉――」
と雪之丞は、どこまでも、礼を忘れぬ風で、
「いやしき河原者、身分ちがいの身にて、御女儀さまのお居間へなぞ――全く以て思いもかけませぬ――」
「その物がたさは感じ入るが――しかし、相手は病人じゃ」
と、三斎は心安げに笑って、
「ま、望みを叶えてやるよう頼む。老いては子にしたがえ――とか、申すが、このわしは、とりわけ彼女が可愛ゆうてな」
「すぐに、お供いたしとうござりますが――」
と、老女が強いるようにいった。
雪之丞は、さも当惑したようによそおいながら、ようやくのことで決心がついたというように、三斎の居間を辷って、老女の導くままに、冷たい、薄暗い長廊下を踏んで、やがて、木犀の匂う渡りを、離れの方へと辿っていくのだった。
やがて、渡りを行きつくすと、茶室風の小家になる。
老女は、雪之丞をちょいと振り返って、
「ほんとうに一生懸命おまち兼ねでござります」
老女の案内で、この館の中でも一ばん静かな、浪路の病間にはいったとき、雪之丞、緋いろ勝ちの臥床の上に、楚々と起き直っている彼女を一目見て、なるほど公方の寵をほしいままにするだけの、一代の美女だと思った。
この前の、わざと結った高髷とは変って、今夜は、長い、濡羽いろの黒髪を、うしろに辷らして、紫の緒でむすんで、緋い下着に、水いろの、やや冷たすぎるような綾の寝間着――
単に、口実ばかりの病気でもなかったと見えて、いくらか、頬にやつれが見えて、じっと、こちらをみつめて微笑んだ瞳に、かぎり無い淋しささえ溢れている。
手を突くと、
「ま、そのような辞儀なぞ――どうぞ、ずっとこちらへ――」
なつかしげに、親しい人にいうように、
「煩ったお蔭で、ついじき逢うて、うれしゅう思います」
雪之丞は、そうした表情や言葉に、すこしもまじり気を感じることが出来なかった。恋に焦がれつつある、一人の女性が、その恋を強いてほんのり包もうとして、悶えている遣瀬無さを、察してやることが出来るのだった。
――わしは、わしをしんから想ってくれている娘を、欺きおおせねばならぬのであろうか?
けれども、彼は、浪路の、しっとりした姿の背景をなす、古土佐絵の、すばらしい金屏や、床の唐美人図や、違い棚の豪奢をきわめた置物、飾物を眺めたとき、弱まった気持を、ふたたび緊張させることが出来た。
――この娘の父親が、この豪華をむさぼるために、どんなに悪業を積み重ねているのだろう――虐げられ、苦しめられ、狂い死に死んだのは、わしの父御ばかりではあるまい。
「御病気とうけたまわりまして、どんなに驚きましたことか――なれど、お姿をおがみまして幾らか安心つかまつりました」
老女が去ったので、浪路は、ぐっと態を変えていた。
「まあ! 何ということをいうのであろ。何という他人行儀なことを!」
怨じて、一度、顔をそむけるようにして、激しく、流眄を送って、
「わたしの気持は、この前の時から、ようく知っていてくださるに――この病気にしても」
「そのようなつもりで申したのでは――折角うかがって、御意にそむいては――それなら、おいとまいたした方が――」
雪之丞も、つんとしたように、わざと冷たくいった。
「いや、いや」
と、将軍の寵姫は、一俳優の前で、だだっ子らしい愛らしさで激しくかぶりを振って、
「おおこりになった? それなら許して――わたくし、でも、そなたの他人行儀が、苦しくって――」
彼女は、膝の上に、綾の寝巻の袖を重ねるようにして、頭を下げて見せた。
「気に障えたら、詫びます、あやまります――今夜こそ、ゆっくりしていて――頼みますぞえ」
女の童さえ、黄金瓶に、銀の盃を二つ添えたのを、そこに差し置いたまま去ってしまった。
もう二人は、何を言っても、してもよかった。
美しい彫刻のある、銀の台付の杯を、二つ並べて、浪路は、黄金のフラスコ型の壜から、香りの高い酒を充して、
「さあ、お取りなされまし」
と、白い、細い指先で、自分でその杯を取り上げた。
雪之丞も飲んだ。
何処から渡って来た銘酒か、何ともいい難い芳醇さと甘さとを持った液体が、舌の先から咽喉の奥に――それから胸の中に、じっとりと溶け流れると、すぐに目先がチラチラする程、軽い酔が感じられて来るのであった。
「太夫、そなたは、わたしの病気を、どんな煩いと、思うてか?」
浪路が、杯を手にしたまま、じっと小首をかしげるようにして訊く。
「どんな煩いというて、くわしゅうはどなたもおっしゃっては下さりませぬので――」
「わたしの病いが、どんな煩いか、どなたにわかっていましょうや」
と、浪路は、意味ありげに、
「それは、わたしだけが知った煩い――なぜ、御殿にもいられぬほどの病気になったか、そのわけは、どんなお方も、知ろうはずがありませぬ――でも、太夫、そなただけは、いくらか気付いてくれそうなものに――」
怨じ顔の目元が、蜜酒の酔いに、薄すりと染まって、言うばかりなく艶だ。
雪之丞は頭を揮って見せて、
「これは御難題――」
と、いったが、わざと冷たく戯れて、
「あまりに、御寵愛がおすぎあそばされて、そのためのお疲れでも――」
彼は容顔を、妖しくひそめたが、それは恐らく、あまりに汚らわしいことをいわねばならなかった自分を、呪いそそらずにはいられなかったのであろう――
それを、浪路は、別の意味に――言わば、雪之丞の、嫉みの表現のように取ったに相違なかった。
「まあ、何ということを! このお人は!」
浪路は、心からおこったように、大きな目で、彼を見据えて、
「お上の御寵愛が、どのように深かろうと、それが、わたしに何のこと!」
と、激しくいって、
「そなたは、わたしが、好んで、御殿へなぞ上ったとお思いなさりますの? あの、窮屈で、いかめしい、何のよろこびもない、牢屋のようなところへ――そして、お上が、どんなお方かさえも、御存知なさらぬ癖に、憎い憎い、そのようなことを――」
「恐れながら、上さまは、この世のいかなるお方さまよりも、御権威のお方とのみ、存じ上げておりますゆえ、世上の女性方は、あなたさまの御境涯を、お羨み申さぬものとてござりませぬ――そのおん方さまの御愛を、お身お一つにおしめなされていられますあなたさま、こうして、直き直きお言葉を交していただきますさえ、何とのう辱なさすぎる気がいたしまして――」
雪之丞は、ますます女ごころを、焦ら立たせようとする。
浪路は唆り、煽られるばかりだ。
「まあ! いつまでもそのような、憎らしい口――顔立ちの美しい殿御は、とかく、こころが冷たいといいますが、そなたはその諺、そのままでおいでなさる――それなら、わたしの、病気の程、はっきりいって聴かせましょうぞえ」
彼女は半身を、ぐっと雪之丞に擦り寄せるようにした。
浪路は目元に、しおを含ませて、美しき俳優を、睨めつけるようにして、
「そなたが、わたしの病気の種を、知らぬなぞと言わせませぬぞ、そなただけが知っていること――みんなみんな、一目、逢うてからの、この悩みではござりませぬか?」
雪之丞は目を反らさず、寧ろ冷たすぎる微笑で受けて、
「わたくしが、あなたさまのお煩いの因になったと仰せなさりますか――ほ、ほほ」
と、まるで、女のように、艶冶かしく笑ったが、
「あまりお言葉がうるわしゅう響きますほどに、わたくしのような痴かなものは、とかくそのままに思い込みますと、どのようなことになるかわかりませぬ――御戯れは、大がいになされて下さりませ」
「太夫、まだ、それを、お言いなさるか?」
と、浪路は、ぐっと、杯を干して、下に置いた。
雪之丞が、酌をしようとすると、それを、白い手で蓋をして、浪路が、
「わたしは、もういただかぬ――飲みませぬ。そなたのような人と、酒ごとなぞいたしたとて却って胸が蓋がるばかりでござります」
「ま、どうして、急に、そのように、御機嫌を損じましたのか――わたくしが、ここにおりまして、お心地があしゅうござりませば、おいとま申すほかには――」
両手を、畳に下そうとすると、浪路は狼てて、
「太夫、雪さま!」
と悲しげに、
「わたしは、見栄も、外聞も、恥も捨てています。わたしは、いのちさえ賭けているのに――そなたは、何というひどいことを――大川ばたで、しみじみと二人でお話したときでも、わたしのこころは、よう判っていて下さるはずなのに――太夫、ほんとうに、この気持が、おわかりになりませぬのかえ?」
「わかりませぬ」
と、雪之丞こそ、いみじく淋しそうであった。
「わたくしは、しがない河原もの――そしてそなたさまは――」
「芸に生きるお人にも似合わない!」
と、じれったげに、浪路はいった。
「恋に、身分の、わけへだてが、ありますものか! わたしは、いわば、今夜これから、二人だけで、どこの山奥に、落ち伸びようとも、いって貰えば、すぐに、大奥も、親の家も、捨てて行こうとまで思い詰めていますのに――」
「浪路さま!」
と、雪之丞は、思い入ったように、貴女をみつめた。
「あなたさまは、しんじつ、そのように、思っていて下さりますのか!」
「わかり切っていること――あの晩以来、一刻とて、忘れたことはありませぬ。夢に見るのはまだ浅い――昼間の想いが、夜よりも深いということを、はじめて、わたしは知りました」
浪路は、しっとりと、雪之丞にもたれかかってしまった。
「のう、雪さま――このわたしを、どうしてくださりますえ」
「そのお心もちが、ほんとうなら――」
と、雪之丞、
「わたくしとて、指も、髪も剪りましょう――そのかわり、一時のおもてあそびなら、死ぬほかには――」
二人の手はしっかりと結ばれ合っていたが、浪路の目かおには、からみつくような執念が、ますます燃え熾って来るばかりだった。
「ね、太夫、わたしには、まだそなたのこころが、しっくりと判らない気がしてなりません。引く手あまたの人気役者が、こんな不意気な女なぞを、しんからかれこれ思ってくれるとは、ほんとうとは思われませぬもの――」
「わたくしこそ、本気には出来ませぬ」
と、雪之丞が、上目で見上げて、
「もしほんとうのお言葉なら、いのちも賭けると、たった今申したことを、いつでも行いにあらわして御覧に入れますけれど――」
「では、太夫、わたしが、この場で、死んでくれと申したら――」
浪路の全身は、火のようだ――その躯を、もっともっと抱きしめて貰いたい。
「そなたには、何となく愛がない――わたしを出来るだけ、遠くにはなして置きたいと思っておいでに相違ない」
雪之丞は、ほおっと、深い吐息をして、顔をそむけてうなだれた。
「わたくしの、あれからの気持を、御承知でいて下すったら――」
「あれからの気持とはえ?」
浪路はぐっと、身をもたせて、そむけた顔を追うようにのぞき込む。
「とても、張り合うことの出来ない、しがない身と、天上のお方――それを考えると、同じ人間に生れながら、何というはかないことかと――」
「そなたが、しがないと、おっしゃるのかえ?」
「公方さまと、河原者――これほど天上、地下とはなれた世界が――」
浪路はパッチリと、目をいて、雪之丞の両手を取って、ぐっと顔をみつめるのだった。
「それを言われるのか? 太夫」
「申しますとも――」
「そなたが、そう言うなら――」
と浪路の声は、掠れもつれて来た。
「わたしにも覚悟がある」
雪之丞は、舌の根を噛み切りたい。
――何をわしは言うているのだ。この女にこんなことを言っていて、よくも、口が竪に裂けずにいるものじゃ。
けれども、彼は、もっともっと言うであろう――
「お覚悟とは?」
「もしも、お上の側にいるのが悪いというなら、いつでもわたしは、御殿を出ます――はなれます。それで、そなたが、ようしたと、讃めてくれるなら――」
雪之丞に唆られて、浪路は、どこまでも言い証したい。
雪之丞は、更に迫り言い寄らねばならぬ。
「ま、お口の美しさ!」
「口! 口と、そなたはお言いやるな――よくも、まあ!」
と、浪路は、紅い下唇を、白い白い、真珠を並べたような歯で、血の出るまでに噛みしめるようにしながら、
「それなら、わたしは、もう、御殿へは、二度と上らぬ」
「滅相な」
と、雪之丞は叫んだ。
「そのようなことを!」
彼は、引きしめられた両手を、しめ返した。
――この娘が、今後、どこまでも、公方を嫌い通し、大奥づとめを拒ぞけて、二度と城内にはいろうとしなかったら、三斎父子の驚きと狼狽とは、どのようなものであろう――それこそどうしても、一度は見てやらねばならぬものだ。この娘には、気の毒だが、わしはこころを鬼にせねば――
雪之丞は、浪路が、みだりがわしく、しなだれかかるに任せた。
「ほんとうに、恋というものは、どうしてこうまで酷いものでありましょう」
と、浪路は、事実、身分も、格も、振り捨ててしまったように、深い深い吐息で、自ら歎息するのであった。
「たとえ、日本国中、いいえ、唐、天竺に身のおきどころがなくなっても、わたしは少しも厭いませぬ。そなたさえ、側にいて下されば――」
「わたくしにしても、あなたさまさえ、まごころを下さりませば、生きながらの焦熱地獄――炮烙、鼎湯の刑に逢いましょうとも、いっかな怖れはいたしませぬ。ただ、いつまでも、存えている限りは、只今のお気持を、お忘れなさらずに下さりませ」
絶代の女形、三都に亘っての美男から、かくまで、手管をつくした言葉を聴かされては、どのような、木石の尼御前でも、心を動かさずにはいられまい。
まして、浪路は、青春妙齢の艶婦――しかも、彼女の方から、すでに身も心も打ち込み切っているのだ。雪之丞の、一言一句が、まるで、甘い、しかし鋭い、蜜蜂の毒針のようなものとなって、心臓の、奥深いあたりをまで、突き貫かずには置かぬ。
「まあ、うれしい! ――この胸にさわって見て」
彼女の、白い手が、雪之丞のほっそりした手首をつかんで、わが胸に、掌を押し当てさせるのであった。
胸の動悸の激しさ! いきざしの荒々しさ!
「おお、咽喉がかわいて、干ついてしまうようじゃ」
と、浪路はやがて、又も、銀の杯に、甘い酒を充たして、一つを雪之丞の手に持たせ、
「固めの杯――そなたも、一どきに飲んで――」
雪之丞、胸苦しさを、やっとおさえて、その杯を干す。
「わたしが、御殿のおつとめを拒んだなら、当分、この江戸に住むこともなりますまい。――その時には、世を忍んで、そなたの郷里へ落ちてゆき、町女房のいでたちをして、ひっそりと送りましょう――たとえ、明日のたつきに困るようなことがあったとて、それが、ほんとうの恋に生きるもののならわしと思えば――」
浪路は、そうした苦しい境涯に対する空想を、さも、楽しい未来を想像するものと、同じような嬉しさを以って語るのであった。
恰度そのころ、三斎隠居は、わが居間で、例の、珠玉いじりをしながら、ふと、考え込んでいた。
――浪路は、とかく、雪之丞めを贔屓にしすぎているようじゃ。もしもの事があっても困るが、日ごろの鬱散じに、あの子も、何か楽しみが無うてはなるまい。と言って、あれもおのれを忘れ、家を忘れ、名を忘れるほどの馬鹿でもあるまいし――
彼は、紅い宝玉を、灯に透かし見つつ、自ら安んずるようにつけ足した。
――あれがあって、上さまは、わしたちのいいなりとなって下される。そこでわしと伜とも世にはばかっていられるのだ。大切な大切な、この宝玉よりも大切な娘だ。
三斎隠居は、蚕豆ほどの大きさから、小さいので小豆粒位の透きとおり輝く紅玉の珠玉を、一つ一つ、灯にかざしては、うこんの布で拭きみがき、それを青天鵞絨張りの、台座に篏めながら、つぶやきつづけるのだ。
――お城の馬鹿とのさまは、わしの目には、利口でなくとも、あれで、なかなかお狡いお方なのだ。どんな女や男を、愛しんでやったらよいか、ちゃあんと、御承知なのだ。つまりはな、浪路ほどの女が、この世に二人と、なかなかないことを知って、あれを手放さない――その親兄に当るわしや、伜駿河守なればこそ、出来るだけ、愛してやろうとお思いになっている――が、若し、あれが、御機嫌に背くようなことになると、あの方は、手の裏を返したように、白い目をお剥きになるに相違ない。そんなことがあったら一大事――あれが、お側にいるというので、大名、旗本、公卿、町人――総がかりで隠居隠居と、わしを持てはやし、さまざまな音物が、一日として新しく、わしの庫を充たさぬということもないのだ。むすめや、むすめや、わしの方でもどんな我ままでも許すほどに、どうぞわしのために、末ながく、あの鼻の下長さまの、お思召しにだけは、そむかぬようにしてたもれよ。ほ、ほ、ほ! この珠玉のいろのすばらしさ――わしが死んだら、みんな娘に譲ってやろうのう――死なないうちでも、ほしいというのなら、いのちより大事な、この珠玉だって、そなたにはつかわそうもの――
隠居は隠居でそんな風に、自分勝手なことを、口に出して、ブツブツと繰り返しながら、更に、新しい、宝石箱の蓋を刎ねて、今度は、灯の光りをうけると、七彩にきらめく、白い珠玉を、ソッと、さも大事そうに、つまみ上げて見るのだった。
この三斎屋敷の、奥深いところで、奇怪な親子が、めいめいの慾と執着とに、魂を、燃やしている頃、この屋敷から程近い、とある普請場の板がこいの物影に、何やら身を寄せ合うようにして、ひそひそと物語っている男女の影――
さては、人目を忍ぶ逢い引きか? いいえ、二人の話に、耳を傾けるものがあったら、どうしてなかなか、そんなありふれた者どもではないのを、すぐに発見したであろう。
「だが、姐御――」
と、背の低い、ずんぐりした黒い影が、
「いいんですかえ? 松枝町の隠居ッて言えば、公方さまでも、おはばかりなさるってお人だ。その人の庫なんぞを荒したら、並大ていのことじゃあ済みませんぜ。遠島者か、首斬り台にすわらなけりゃあならねえ。そんなところを目がけずとも、本町通りへ行きゃあ、ずうっと、大きな金庫がならんでいるのに――」
「黙っておいでよ、むく犬」
と、ひびきの強い、張り切った女の声が、高飛車にいった。
「公方さまが、はばかったって、おれたちゃあ、ちっとも遠慮することはありゃあしねえよ――どうせ天下のお式目、御法度ばかり破って、今日びをくらしている渡世じゃあないか――おめえは知らず、このおれと来ては、どうせ首が、百あっても足りねえからだ――一度、見込んだら、屹度やる。万一、ほかの仲間に、この屋敷を先き駆けられちゃあ、つい鼻の先に棲んでいる、黒門町の、お初姐御のつらがつぶれてしまうじゃあないか?」
普請場の板囲いの、暗の影、低いながら、ピチピチとした鉄火な口調で、伴れの男を叱るように、こういい放った女――では、これが、当時、江戸で、男なら闇太郎、女ならお初と、並びうたわれている女賊なのだ。
「そういえば、そうですがねえ――」
と、ずんぐりした男は、詮方ないといった調子で、
「なるほど姐御が、一たんいい出して、引ッ込めるような人間じゃねえことは、だれよりもこのあッしが知っています。じゃあ、一ばん、今夜、これから、三斎屋敷に乗り込みますか?」
「いうまでもなく、この足で忍び込むつもりだが、お前は、このまま引ッ返して、隠家で、首尾を待っていなよ。つまらねえ思いつきで、小さい仕事に手を出して、ドジを踏まず、寝酒の支度でもしてお置きよ」
お初が、そう言うと、
「へえ? じゃあ、あッしは要らねえんで――」
と、男の手下は、不足顔。
「まあ、わたし一人がいいようだよ。相手はおめえのいう通り、ちっとばかし大物だ。大物狩りには、足手まといは困るからね」
「へ、あッしを、足手まといと、いいなさるんで――」
「いいえ、おめえも、相当なものさ。これが、どこぞ、商人の、土蔵でも掘るときならね。だが、武家屋敷を攻めるにゃあ、そのガニ股じゃあ、駆け引きがおぼつかないよ」
「どうも、手きびしいなあ。あッしはまた、いつかのやり損ないを今夜あ取りけえして、お讃めにあずかりてえと、思っていましたに――」
「なあに、また折があらあな。さっさと行きねえ――」
お初は、相手が、ためらうのを、追っ払うように、
「さっさと、行きねえと言ったら――そら、向うから、人影が差しているじゃあねえか――」
と、強く言う。
「じゃあ、姐御、上首尾に――」
「おお、土産はたんと忘れねえよ」
ずんぐり男は、板囲い沿いに、黒いむく犬のように、どこへか、消える。
自ら、お初と名乗る、女賊――それを見送ると、大胆に、物影をはなれて、町角の常夜灯の光りが、おぼろに差している巷路に、平然と姿を現した。
見よ! そのすんなりとした、世にも小意気な歩みぶり――水いろ縮緬のお高祖頭巾、滝縞の小袖の裾も長目に、黒繻子と紫鹿の子の昼夜帯を引ッかけにして、町家の伊達女房の、夜歩きとしか、どこから見ても見えないのだ。
顔容は夜目、ことには、頭巾眼深――ちょいとハッキリしないのだが、この艶姿から割り出すと、さもあでやかだろうとしか考えられない。
現に、今、通りすがった、二人づれの、職人らしいのが、振り返って、うしろ影をつくづく見て、
「へッ、たまらねえな――どこのかみさんだろう?」
「畜生! 亭主野郎、どんな月日の下に生れやがったんだ!」
お初は、そんな冗談口は耳にも止めず、かまわず間近な、三斎屋敷の方へしとしとと歩いている。
彼女も亦、闇太郎同様、この権門の財宝を狙っているものにきまっていた。
黒門町のお初は、しなりしなりと三斎屋敷の門前に近づいたが、扉こそとざされておれ、耳門はまだ閉っていないらしく、寝しずまるには、間があるようだ。
――宵っぱりな家だの――お客か? が、そんなこたあ、こっちには、何のかかわりもありはしない。
いつぞや、闇太郎がしたように、この女も、塀に沿うて、まわり出した。越すに易い足場のいいところを見定めようとしているのだろう。
このお初というのは、以前は、両国の小屋で、軽業の太夫として、かなり売った女だった。
足芸、綱渡り、剣打ち、何でも相当にこなして、しかも、見世物切っての縹緻よし、身分を忘れて、侍、町人、随分うつつを抜かすものも多かった由だったが、いつの間にか、その引く手あまたの一少女の、青春の魂を囚えてしまったのが、界隈によく姿を見せる、いつも藍みじんを着て、銀鎖の守りかけを、胸にのぞかせているような、癇性らしい若者――
いずれ、やくざに相違ないと知って、出来合ってしまったところが、これが賭博うちと思っていたのに、東金無宿の長二郎という名代の泥棒――
男は美し、肌も白し、虫も殺さぬ顔をしているから、人殺しの兇状こそなけれ、自来也の再来とまでいわれた人間だった。
お初も、馴染むうちに、いつか、相手の本体を知った。が、知ってしまうと、尚一そう、その性格や渡世にまで愛着を感じないわけにはいかなかった。
――長さんは、盗んだって、悪党じゃあない。困った人達はにぎわすし、パッパッと綺麗に使ってケチ臭く世の中を逃げまわってなんざあいやあしない。いつだったかも、主人の金を掏られたお手代が、橋から飛ぼうとしているのを見て、大枚百両をつかましてやったようなお人だ。
――長さんの足がひょいひょい遠のくのは、吉原の火焔玉屋のお職がこのごろ血道を上げているからだそうな。ようし、それがどんな気ッ風の女か知らないが、両国のお初が、どういう女か、長さんに、ひとつ、とっくり見て貰いましょう。あたしだって、身も軽いが、手足も動くんだ。長さんの、百分の一位なことなら、出来るだろう。
彼女は、そう思いつめて、軽業はわき芸、いつか、掏摸を本業にしてしまった。
勿論、主人持ちの小僧や、年寄りの巾着なぞは狙わない。彼女が狙ったのは、浅黄裏の、権柄なくせにきょろきょろまなこの勤番侍や、乙に気取った町人のふところだった。
どうかすると、長二郎の――今自来也と呼ばれた大泥棒のかせぎより、お初の方が、ぐっと良いこともあった。
「お初」
と、ある晩、逢ったとき、出逢茶屋の二階の灯の下で、長二郎は、いいかけた。
「お初、おめえ、大それたことをやらかしているんじゃああるめえな?」
ジロリと、鋭い、まなこだ。
「大それたことって?」
十九むすめのお初は、赤い布をかけた髷を揺するようにして、ほほえんだ。
「あたし、大それたことなんざあ、なんにもしやあしないさ」
「が、ふところが、いつも不思議だぜ」
と、長二郎が、首を振るようにして、
「無間の鐘や、梅が枝の手水鉢じゃああるめえし、そんなにおめえの力で――」
今自来也の長二郎から、
――無間の鐘をついたわけでもあるまいし、いつも、あんまりふところが豊かすぎる――何か、大それたことをしているのではないか――
と、そう問い詰められた、軽業のお初は、苦にもせずに笑ってしまった。
「あたしが、どうしてこのごろ、お金持だっていうんですか? そりゃあ、働くからですよ。無心ばっかりして、おまえに愛想をつかされてはかなしいと思うものだから――」
「女のおめえが、働くといって?」
と、相手が、小首をかしげて見せるのを、さえぎるように、
「あたしゃあね、こんなお多福だから、吉原のおいらん衆のように、お客からしぼることも出来ねえし――」
と、ややするどく、皮肉にいって、
「と、いって、まさか茣蓙をかかえて、柳原をうろつきもしねえのさ、ただね、手先きが器用なものだから、おのずと、この節お金が吸いついてならないというわけですよ、ほらね――」
と、ふところから、緋いふくさ包を取り出して、小判や、小粒をザラザラと膝にこぼして見せて、
「今夜だって、こんなに持っているわ」
「じゃあ、てめえ、掏摸を――」
と、声をとっぱらかした長二郎が、やっと、低めて、
「掏摸をはたらいているんだな?」
「びっくりなさることはねえよ――」
と、お初は、紅い唇で、むしろ、あどけ無く笑って見せて、
「おめえの縄張りを荒しているわけでもなしさ。鬼の女房に何とかいうから、あたしもいくらか働かなけりゃあ、釣合いが取れ無いと悪いからね――」
さすが、長二郎ほどの男も、このときほどびっくりした目がおをしたことはなかった。
「あたしもこれで、思い込むと、何をやらかすかわからない娘さ」
お初は、おどすようにつづけた。
「もし、おめえが、うわ気ッぽく捨てでもすると、覚えておいでなさいよ――どんなことになるか――」
「わかったよ」
長二郎は、小娘の激情に威嚇されるはずもなかったが、それもこれも、自分の心をはなすまいとする気持からだと思うと、いじらしくあわれに思った。
彼は火焔玉屋から、遠のいてしまった。
長二郎、お初の恋は、そして、ますます熱度を加えたものの、そうした生活に、破綻の来ないはずがない。
間もなく、長二郎もお初も御用になって、男の方は、首の座が飛ぶところを、侠気の点を酌量されて佐渡送り――お初は、一年あまり、牢屋ぐらしをして、出て来たのだったが、それ以来、彼女は一生かえれぬところへ送られた情人の渡世に転向して、やがて、押しも押されもせぬ女賊となり、変幻の妙をきわめて、男の手下を養い、おれ、の、てめえ、の、というような、荒っぽい調子で、鬼をあざむく奴等をこきつかっているわけだった。
そのお初、素性が素性ゆえ、身が軽かった、手先きも鋭かった。
であれば、三斎屋敷への出入りなぞは、塀が高かろうと、低かろうと、物のかずではなかった。
彼女は、だんだん、灯光に遠い、横手の方へ、塀についてまわって行った。
軽業のお初は、三斎屋敷裏塀まで来ると、ちょいと前後を、闇を透かして見まわしたが、まるで操りの糸に引かれた人形のようにふうわりと塀上に飛び上ったが、その上で、小手をかざして、ちょいと忠信のような恰好をした。
――へん、どんなもんだね? こんなけちな屋敷!
さっき、あのずんぐりが、土部一家の権柄に圧されたようなことをいったのが、今も癪にさわっているのであろう。
さて、それから、彼女は、ひらりと、地下へ下りた。
別に、小褄をからげるでもなく、そのまま奥庭のくらがりの、植込みの蔭につとより添って、母家の方をじっとみつめる。
お初は別に、闇太郎のように、この館の研究がつんでいるわけはない。ただ、何かしら、人も知ったるこの屋敷から、目の玉をでんぐりがえさせるような一品を盗み出し、仲間のものに、ひけらかしてやれば、それでいいのだ――
――まあだ起きてやあがる――うち中が起きてやあがる。いつまでぺちゃくちゃやっているんだね。人の眠る頃にゃあ、やっぱし横になる方が、お身のためなんだよ。
例の黒犬は、今夜は、この犬の方が、家人たちのかわりに、まどろんでしまっていると見えて、クンクンと、鼻を鳴らして寄っては来なかった。
――三斎屋敷というから、どんなに用心がきびしいかと思ったら、これはまた、どこもかしこもあけっぱなしだ。くそ、おもしろくもねえ。世の中に、泥棒がいねえわけじゃあないんだよ。人を馬鹿にしてやがら!
お初は木蔭をはなれると、離れのようになっている別棟に近づいて行った。その一棟の横手に、ずっと立ち並んで、文庫ぐらがある。一戸前、二戸前、三戸前――、
彼女は、蔵は望まない――土蔵までを切ろうとは思わない――その三斎とやらの寝間にしのび込んで、机元から盗み出してやりたいのだ。
――その図久入の寝部屋というのは、一たい、どの見当なんだろう?
離れと、母家をつなぐ渡り廊下の近所まで来ると、そのとき、ふッと、何か物音がした。
ハッとして、立ち止まって、身を硬くする。じっと、暗闇に棒立ちになれば、大ていは物にまぎれて判らなくなるのが恒だ。
お初は、じっと突ッ立ったが、もう遅かったのかも知れない――
「どなた? そこなお方、どなた!」
離れの、手水場の、小窓から、白い顔がのぞいて、そうしたやさしい声が掛ったのだ。
お初は、その声が、あまりに優しくほのかだったので、覚えず、
「あたくし――」
と、かすかに返事をした。
答えぬところで、向うはもう、ハッキリ、こっちの存在を、見て取ってしまっているに相違なかった。
「どなたさま?」
追い打ちに来た。
どことなく、凛とした、許さぬ調子が、ふくまれていた。
お初は、はじめて、ぎょっとした。その声と一緒に、戸が開いて、白い顔の持主が、闇に下り立とうとしているのだ。
――まあ、あいつ、あんな声で、男だ。
お初は、帯のあいだに手を入れて、匕首の柄にさわった。
――あいつ、あの白い顔の奴、男だ!
と、突嗟に悟って、匕首に手を掛けてお初、
――なあに、男だって、化け物だって、怖いものか!
近づいて、切ッ払って、亡ける覚悟し――いたずらに騒いでは、却って、此の場合、逃げ場を失うのは、知れ切っている。
庭下駄を突っかけた、不思議なしとやかさを持った人物はしずかに近づいて来て、
「そこなお人、御当家のお方か」
寄って来るのを寄らせて置いて、
「ちくしょう! 出鼻を挫きやあがったな」
低く、刺すように叫んでお初、キラリと抜き放った匕首をかざして、ぐっと、突いて行ったが、相手は、ほんの少し身をかわしただけだ。
「おや、では、泥棒だね――しかも、女子――」
引ッぱずされて、よろめく足をふみこたえて、ビュッ、ビュッと、切ってかかるのを、すっと隙につけ入って、利き腕を逆に取った、白い顔、匂いの美い女装の男性。
「騒ぐと人が来ますぞ。わしは、当家に恩のあるものでもない――見のがすほどに去ぬるがいい――」
裏庭の暗がりを、肉体のしなやかさにくらべて、驚くべき膂力を持った不思議な人間は、ぐいぐいと、お初を塀の方へ曳いてゆく。
「なら、人の仕事の、邪魔をせずともいいだろうに――こんちくしょう!」
お初はもがいている。
「もっともじゃ、じゃが、わしとても、この家から、泥棒を追いはらったとなると、鼻が高いゆえ――ほ、ほ、ほ」
女装の男は、妙な笑いを笑った。
「一てえ、おめえは何だ? 女見てえななりをしやがって――」
塀際に近く、お初が呻く。
「わしが何だと不思議がるより、こちらが倍もおどろいたわ。江戸には、大した女泥棒がいるものじゃな――さすが、お膝下だ――」
そして、ふッと、相手が、びっくりしたように――
「おやッ、おまえは、江戸下りの――中村座の!」
と、叫ぶように、何で気がついたかそう言うのを、おッかぶせて、
「そのようなこと、どうでもよい。早う逃げなされ! わしが、今、騒ぎ出しますぞ!」
塀の方に、突っぱなすようにした白面女装――裂くような声で、
「泥棒でござります! 盗賊でござります!」
バタバタと、庭下駄の音をひびかせて、高く叫び出した。
そのときには、もう、軽わざお初、ひらりと塀を越えて、影のように、どことなく消えている。
「泥棒でござります! 早う、お出合い下さい!」
ガタガタと、家中の戸が開く音がして、六尺棒や、木刀を押ッ取った若党、中間がかけ出して来る。
「おお、雪之丞どのか! して、泥棒は!」
「太夫、盗賊めは?」
口々に、提灯で、雪之丞の艶姿を振り照らしながら呼びかけた。
雪之丞は、いかにも申しわけ無げに、若党たちに挨拶するのだった。
「お手洗場のお窓から、ふと眺めますと、黒い影が見えましたので、みなさまに、先きにお知らせせずに、飛び出しましたものゆえ、むこうも狽てて、逃げ去りました。差し出たわざをいたして、折角捕えることが出来たものを、取りにがし申しわけござりませぬ」
「いやいや、見つけ下さらねば、害をうけたかも知れなんだ――捕えると捕えぬとは二の次」
と、いつか、これも押ッ取り刀で、飛び出して来ていた用人が、いって、
「して、賊の風体は?」
「黒いいでたちをしておりましたが、とっさに逃亡いたしましたゆえ、ハッキリとは見分けられませず――何でも、お庫を狙っていたように見うけました」
雪之丞は、かの女賊に、不思議な好奇心と、興味とを感じていたので、彼女に出来るだけ有利なようにいって置こうとするのだった――つづまるところ、三斎一味に敵意を抱く人々は、みんな自分の味方である――と、いうような観念を捨てることが出来なかったのであろう。
「それに致しても、そのやさしい姿で、心の猛けだけしさは、われわれも三舎を避けるのう」
と、用人は、讃めて、
「お負傷がなかったのは、何より――」
塀外をあらために出た、若侍たちも、空しく帰って来た。
「怪しい影も見当りませぬ。たった一人、町女房らしいものが、歩いておりましただけ――その女性が、つい今し方、風のように、追い抜いて駆け去ったものがあると申しましたれば、大方、そやつが――」
「土部屋敷と知って押し入る奴、大胆不敵だのう――が、事が未然に防げたのは、太夫のお骨折りだ。明夜から、警戒を、十二分にせねばならぬ」
用人は、首を振り振り、そんなことをいっていた。
雪之丞が、元の離れに帰ると、顔いろを失くして、懸念にわななきながら浪路がむかえた。
「まあ、そなたは、向う見ずな! 泥棒などに近づいて、もし負傷などなされたら、わたしがどのように心を痛めるか――」
「いえいえ、ただ、言葉をかけてやりますと、バラバラと逃げ去ってしまいました。泥棒などと申すものは、みな、気持に後れがござりますゆえ、案じたものではありませぬ」
「でも、これからは、決して、そのような危い場所に、お近づきなされてはなりませぬぞ。そなたのからだは、そなた一人のものではない程に――」
浪路は、もう強く強く決心しているのだった――柳営大奥へは、二度と足ぶみをしないとまで思いつめてしまったのだった。
――わたしは、もう、出来るだけ、父上、兄上の便利になった。この上は、わたし自身のために生きねばならぬ。自分の恋の真実に生きねばならぬ。だれが何というても、わたしはわたしの道を行く――恋しい人を、はげしくはげしく抱きしめて――
だが、憎や、そこへ、老女があらわれた。
「太夫、おかえり前に、御隠居さまが、お礼を申したいゆえ、お居間にとのことでござります」
折角、羽翼美しい小禽を、わが手先きまで引き寄せながら、きゅっと捉まえる事が出来ずに、また飛び立たしてしまうような、どこまでも残り惜しく恨めしいのが、わが居間から、このまま雪之丞を去らせてしまわねばならぬ浪路の胸中であったろう――
老女が、三つ指を突いているので、存分に別れることばさえ掛けられず、
「では、また折もあったら、見舞ってたも」
と、いうのが、関の山。
雪之丞は、恋する女の、激しい、強い視線に、沁み入るような瞳を返して、
「必ずともに、明日にもまた、お目通りいたしまする」
二人の今夜の逢瀬は、それで絶えて、それからの雪之丞は、心の中で、この世の鬼畜の頭目と呪う三斎から、聴きたくもないほめ言葉を受けにゆく外はないのであった。
こちらは、軽業お初、松枝町角屋敷の塀を刎ね越して出ると、そのまま、程遠からぬわが侘住居――表は、磨き格子の入口もなまめかしく、さもおかこい者じみてひっそりと、住みよげな家なのだが、そこに戻って来ると、
「婆や、何か見つくろって、一本おつけよ」
と、いくらか、突ッけんどんにいい捨てて、
「おや、姐さん、もうお帰り」
と、けげんそうに、這い出して来た、例の、ずんぐり者の、むく犬の吉に、
「余計なこと! 勝手なところをぞめいておいで――」
と、紙にひねったのを投げてやって、茶の間にはいって、ぴたりと、襖を閉ざしてしまった。
むく犬の吉、ペロリと舌を出して、
――だから、いわねえこっちゃあねえ――松枝町の角屋敷、なかなか七面倒な場所なんだ。出来ごころで、のぞいたって、そう易々、向うさまが出迎えちゃくれねえのだ。姐御も女は女、とかく、癇癪で、気短かで、やべえものさ。でも、引っかえして来てくれてよかった。
いろ気が薄くっていいというので、たった一人、側に置かれているむく犬、駄犬ほどには主人おもいだ。
――どれ、じゃあ、ひとつ、あいつらのつらでも見てくるかな。
裏口から、草履を突っかけて出ようとすると、婆やが、
「吉ッつぁん、あしたは、お湯にはいって、浄めてから帰っておくれよ。ほ、ほ、ほ」
気の利いた大年増だが、毒口は、生れつきだ。
その婆やが、小鍋立ての支度をしている頃、女あるじは、朱羅宇の長ぎせるを、白い指にはさんで、煙を行灯の灯に吹きつけるようにしながら、しきりに考え込んでいる。
――不思議なばけ物だねえ? あの女がた――ひとの利きうでを――匕首をつかんだ利きうでを、怖がりもせず掴みやあがったが、その力の強さ。おいらあ、思わず声が出そうだった。ほんとうに、何てにくらしい奴だったろう?
と、呟いて、また考え込んで、
――それにしても、妙だねえ、おいらをとっつかまえるのでもなく、わざわざ逃がしてくれたのはどういうものだ? あの力だ。おいらなんぞは、赤んぼのように、どうにも出来たろうに――
軽業のお初、婆やが、小鍋立てをして、酌をしながら、何かと世間ばなしをしかけようとするのを、今夜にかぎって、邪魔な顔――
「うん、そいつが聴きものだねえ――面白いはなしだ。だが、またあとで聴こうよ。あたしはちっとばかし考えたいことがあるんだから――」
婆やを追いやって、手酌で、ちびちびやりながら、
――おいらほどの泥棒を、とッつかまえたなら、御贔屓すじの三斎から、どんなにか讃められるばかりではなく、それこそ、江戸中が、わあッと沸いて、人気はいやが上にも立つだろうのは、目に見えたはなし、それを知らねえような、雪之丞でもあるまいが、何として又、追い出すようにして、おいらを逃がしてくれたのか? 何にしても、妙な奴だなあ。
そう心に呟きながら、猪口をはこぶ、彼女の仇ッぽい瞳に、ほんのりと浮んで来たのは、夜目にも、白く咲いた花のような、かの女がたの艶顔だった。
――だが、あの生れ損い、何という綺麗さなんだろうねえ、あんまり世間の評判が高いから中村座をのぞいたときにも、思い切って舞台すがたの美しい役者だとは思ったが、素顔が、又百倍増しなのだもの、三都の女子供が、血道を上げるのも無理はねえ――
と、讃めて置いて、又、おこりっぽく、
――おいらあ、しかし、今夜のことは忘れはしねえぜ。逃がす、逃がさぬは別として、とにかく、お初姐御の仕事は、てめえが立派に邪魔をしやがったのだ。てめえがよけいなことさえやらなけりゃあ、三斎の奴の枕元から、せめて葵の紋のついた印籠の一つも盗み出して、仲間の奴等に威張ってはやれたのに――ほんとうに、憎らしい奴ッたらありゃあしない。ようし、どうするか、覚えてやあがれ――三斎から盗むかわりに、てめえの部屋から、一ばん大切な物を取ってやらずには置かねえから――
盗みが渡世になってしまっているお初、雪之丞に、不思議な好奇心を懐くと同時に、妙な発願を立ててしまった。
――一てえ、あいつの宿はどこなんだろう? あしたは、芝居町の方へ出かけて行ってくわしく訊してやらざあならねえ。
パンパンと手を打って、婆やに、
「お銚子のお代りだよ」
と、いったが、それが来ると、
「ねえ、婆や、おまえも立派な江戸ッ子だが、今度はちっとばかし口惜しいわけだね?」
「何がで、ございます。御新造さん」
「何がって――中村座の大坂役者に、すっかり持っていかれてしまったじゃあないかね? 折角の顔見世月をさ、江戸の役者が、一たい、どうしているのかねえ?」
「それがやっぱし、珍しもの好きの江戸ッ子だからでございましょうねえ――聴けば、雪之丞とかいうのが、あんまり大評判、上々吉の舞台なので、来月も、つづけて演たせるとか言っているとか申しますが――」
「もちつき芝居まで引き止めるのかえ?」
「はい、忠臣蔵で、力弥とおかるの二役で、大向うをうならせたら――と、いう話があるそうで――お湯屋なんぞでは大した噂でございますよ」
この婆や、こんな話になると、じきに乗り出して来る方なのだ。お初はしきりに考えこみはじめるのだった。
軽業のお初、その晩は、婆やと、中村座の噂ばなしなぞで更かして寝についたが、翌朝、目がさめる早々、何となく後味が残っていて、どうもこのままでは済まされぬ気がしてならぬ。
――あのばけ物は、おいらが、江戸で名代の女白浪だと、まさか気がついてはいなかったろうが、贅六風情に、邪魔立てをされて、このまま引ッ込んでいたんじゃあ、辛抱がならぬ。どうなっても、あいつの宿に逆寄せをして、目に物見せてやらなけりゃあならない。
朝風呂にはいって、あっさりと隠し化粧をすると、軽く朝げをすまして、例の町女房にしては、少し小意気だというみなり、お高祖頭巾に、顔をかくして、出かけてゆく先きは山ノ宿の方角だ。
芝居町で、出方にいくらかつかませれば、役者たちについての、表立ったことはじきに何でも判って来る。
菊之丞、雪之丞の、切っても切れぬ親子のような師弟が、一緒に棲んでいる宿屋の名を聴きだし、ちゃあんと、日のある中に、所もつき止めると、夜更けまで用のないからだ。
――あいつの舞台を、もう一度見てやろうか知ら!
と、つぶやいたが、ちょいと癪にさわる気がして、中村座のつい前の、結城座で、あやつりを見たが、演しものが、何と「女熊坂血潮の紅葉」――
――畜生め、昔の女熊坂は、死に際に、恋人の手にかかって、女々しく泣いて懺悔をしたかも知れねえが、このお初は、そんな性とは丸っきり違うんだ。おいらあ、三尺高い木の上から、笑って世の中を見返すだけの度胸はちゃんと持ち合せているんだぜ。人をつけ、馬鹿馬鹿しい。
あやつりを出て、どこをどうさまよって、時を消したか、すんなりとしたお高祖頭巾の姿が、影のように、まぼろしのように、山ノ宿の、宿屋町にあらわれたのは真夜中すぎ――
芝居者相手の雑用宿のいじけた店が、二、三軒並んでいるのを、素通りして、意気で、品のいい「花村」というはたご屋の前に、ほんのしばし、立ち止って行灯を眺め、二階を見上げたお初、ニッと、目で笑った。
――ふうむ、もうかえっていやがるな。待っておいでよ。おめえの枕上に、ついじきに立ってやるから、――
こうした家の、裏口を、あけ閉てすることなんぞは、お初に取っては、苦でもない。まるで風が隙を潜るようなものだ。
何分、朝の夙い役者を泊めている家、すっかり寝しずまっていることゆえ、裏梯子を、かまわず上り下りしたところで、見とがめる目も耳もあるはずがなかった。
――あいつ等め、表二階を打っとおして借りているってはなしだっけ。
と、お初は、裏梯子の、上りつめたところで立ち止まったが、ふと、その表二階の、すっかり灯の消えた部屋部屋の、一番奥の一間に、かすかにあかりが差しているのを認めた。
――おや、あすこだな、起きているな。そういえば、何だか、もそもそ、話しごえがしていやがる。厄介な――
お初は、すうっと、薄暗い廊下を、通り魔のように抜けて、その部屋の前まで行って、立ち止まった。
話しごえは、男二人だ。やや皺枯れた年輩ものの声と、もう一つは、たしかに聴き覚えのある、あの雪之丞の和らかく美しい声が、ひそひそと囁き合っているのだった。
水いろちり緬のお高祖頭巾をかぶったままの、軽業お初が、廊下の薄暗さを幸にして、そッと、障子越しに片膝をつくように、耳をすましているとも知らず、夜更けの宿の灯の下に、ひッそりと、昼間は語れぬ秘事を囁き合う、雪之丞とその師匠だ。
「いかにもそなたが、そこまで腰をおとしてしずかに事を運ぼう気になったのは何よりだ」
と、これは、菊之丞の、やや錆た声で、
「何分にも、かたきの数は多いのだし、すべてがこの世にはばかる程の、それぞれの向きの大物たち、並べて首を取れるわけがない――ゆるゆると、人目に立たず、一人一人亡ぼしてやるのが一ばんじゃ、しかし、わずかの間に、それだけ事を運ばせたは、さすが、そなただの」
雪之丞、師匠の前で、だんだんに着手し進行せしめている、復讐方略の説明をしているものらしい。
が、お初に取っては、今夜、この役者の宿で、こんな密話を聴こうとは全然予期していないことだ、思いもかけぬ物語だ。
――何だねえ? かたきの、首のと!
と、彼女は呆気にとられながら、
――この次の狂言の、筋のはなしでもあるのかしら? いいえ、それとは思われない――でも、あの、雪之丞がかたき持ち? あろうことかしら?
妙に胸が、どきついて来るのを押えて、耳をすますと、中では、当の女がたが――
「わたしにいたせば、思い切って、一日も早く、片っぱしからいのちも取ってつかわしたいのでござりますが――父親の、あの長の苦しみ、悶えを考えますと、さんざこの世の苦しみをあたえたあとでのうては、一思いに刃を当てたなら、かえって相手に慈悲を加えてやるような気がされますので――でも、お師匠さま、三斎の娘ずれと、言葉をかわし、へつらえを口にするときの、心ぐるしさ、お察しなされて下さりませ」
この人にだけしか、口に出来ぬ愚痴をも、今夜だけはいえるよろこびに、雪之丞の言葉は涙ぐましい。
「じゃが、心弱うては!」
と、師匠が、
「悪魔にも、鬼にもならねば――この世の望みは、いかにたやすいことも成らぬのが恒じゃ」
「は、わたしとても、その積りでござりますれど――」
お初の、まるで無地のこころにも、いくらか、事の真相がわかって来るような気がされた。
――やっぱし、人は見かけに寄らぬもの――あの雪之丞、では、一方ならぬ大望をいだいている男だと見える――それでこそ、あの腕の強さ。気合のはげしさ!
彼女は、昨夜、咄嗟、さそくの一瞬の、雪之丞の働きに、今更、思い当たるのだった。
――そして、しかも、その相手の一人が、土部三斎のじじいだとすると、こいつあよっぽど舞台の芝居よりも面白い。ことによったら、このお初も、一役、買ってやってもいいが――それにしても、あの優しい、なまめかしい女がたの身で、随分思い切ったことを考えるもの――
お初は、かぼそい、白い手で、巌石を叩き砕こうとしているのを眺めてでもいるような気がして来て、自分のからだが痛くなるのだった。
彼女は、雪之丞に、ある同情を、今やはっきりと抱きはじめたのだ。
軽業のお初と、世に聴えたほどの女泥棒、師弟二人の秘話を、思わず耳にして、さすがに枕さがしもしかねて、そのまま煙のように役者宿を出てしまったが、このまま、これほどの他人の大事、歯の中におさめたまま辛抱していれば、見上げたもの、さすがはいい悪党と、讃められもしたろうに、お初とても、凡婦――凡婦も凡婦、いかなる世上の女よりも、欲望も感情も激烈な、おのれを抑えることの出来ぬ性分だった。
――役者の身で――あんななまめかしい女がたの身で、聴けば、江戸名うての、武家町人を相手に、一身一命を賭けて敵討ちをもくろんでいるとは、何という殊勝なことであろう。そしてあの、おいらを捕まえたときの、騒がずあわてぬとりなし、役者を止めさせて、泥棒にしても押しも押されもされぬ人間だ。
と、そんな風に、すっかり感心してしまったのが、運のつきとでも云おうか、その晩以来、寝ても醒めても、どうしても忘れられないのが、雪之丞の艶すがたとなってしまった。
――ほんとうに、どうしたらいいのかねえ――おいらあ、生れてから、こんな気持にされたことははじめてだが――まさか、このおいらが、あんな者に恋わずらいをしているのだとは思われないけれど――
相変らず、長火鉢の前、婆やに、燗をつけさせて、猪口を口にしながら、癇性らしく、じれった巻きを、かんざしで、ぐいぐい掻きなぞして、
――だけれど、そういうもののおいらだって、まだ若いんだ。ときどき、男が恋しくなったって、お釈迦さまだって叱りゃしめえよ。なんなら、ひとつ、ぶッつかって見るか? くよくよ、物案じをしているのは、娘ッ子のしわざだ。軽業のお初さんが、恋の病――か、ふ、世間さまが、さぞお笑いだろう。
そこは、年増だ、爛熟のお初だ――じりじりと、妄念という妄念を、胸の奥で、沸き立てて見たあとは、そのほとばしりで、相手のからだをも、焼き焦がして見ずにはいられなくなる。
――それに、いかに方便だってあの晩の話で見りゃあ、三斎屋敷のわがままむすめ、大奥のこってり化粧にも、何かたらし込みをしている容子――あれほどの男を、しいたけ髱なんぞだけに、せしめさせて置くってわけはねえよ。おいらあ、もう、遠慮はいやになった。
根が小屋もののお初、こう思い立つと、火の玉のようになって目的をさして飛びかかってゆく外にない気がするのだ。
――そうだとも、愚図愚図しているうちにゃあ、いつかこの髪だって、白くなってしまわあね――それどころか――
と、さすがに淋しく、
――いつまで、胴についている首だかわかりゃあしないよ。
彼女は、だんだん木枯じみて来る夜の、風の音を聴き分けるにつけ、現世の望みを、一ぱいに、波々と果たしてしまいたい気持に、身うちを焼かれて来るのだった。
――おいらあ、あの太夫を口説いてやろう。江戸のおんなが、どんなに生一本な気持をもっているか知らせてやろう――なあに、あいつが、肯かねえというなら、そのときは、あいつの敵の味方になって、さんざ泣かせてやるだけだ。
お初はあらぬ決心をかためて、茶碗に酒をドクドクと注いで、紅い唇でぐうっと引っかけるのだった。
ひたむきな、突き詰めた恋ごころが、女ぬす人の魂を荒々しく掻き乱した。
お初の情熱は、いわば、埒を刎ね越えた奔馬のようなものであった。
軽業おんなのむかしの、向う見ずで、無鉄砲で、止め度のないような、物狂おしい狂奮性がカーッと、身うちによみがえって来たのだ。
小屋もの、女芸人とあざけられて、人並の恋さえゆるされなかった世界に、少女時代をすごした彼女は、むしろ反抗的な、争闘的なものをふくんでいない愛情なら、決して欲しくないような気さえするのだった。
――あの女がたのまわりに、何百人の女がまつわっていたって、それが何だ? どんな家柄や金持の娘たちが、わがもの顔にへばりついていたって、それが何だ? おいらだって、生っ粋の江戸ッ子なんだし、どんな男の奴も、一目見れば、ぽうッとなってしまうだけの色香もまだ残っているんだよ。ようし、三斎のむすめとだって、立派に張り合って見せようじゃないか。
そう思い立って、愚図愚図していられるお初ではない。
「婆や!」
と、叫びながら、手をパンパン鳴らして、
「婆や、お湯の支度をしておくれよ。急ぐんだよ――大いそぎ」
「お出掛け?」
と、台どころから言うと、
「うん、出かけるのさ、ちょいとめかして出かけたいのだよ」
小さいながら、檜の香の高い、小判型の風呂が、熱くなるのを待ちかねて、乱れかごに、パアッと着物をぬぎすてると、大ッぴらに、しんなりとしていて、そして、どこにか、年増だけしか持たないような、脂ッ濃さを見せた全裸に、ざあざあと、湯を浴びせはじめるのだった。
胸も、下腹部も、股も、突然かけられた熱い湯の刺戟で、世にも美しいももいろに変わる。
――おいらだって、文身ひとつからだにきずをつけずに、今まで暮して来たのだ――長さんの名前だって、二の腕に刺れやあしなかった――だけど、ねえ、太夫、おめえの名なら、このからだ中に一めんに彫ったっていいと思っているのさ。
ふっくらした腕を、左右、そろえて、見比べるようにしながら、こんなことを、彼女はつぶやくのだった。
いつもの、薄化粧を、今日は、めっきり濃くして、丁寧に髪を掻いたお初、大好きな西陣ちりめんの乱立てじまの小袖に、いくらか堅気すぎる厚板の帯、珊瑚も、べっ甲も、取って置きのをかざって、いい時刻を見はからって、黒門町の寓を出る。
芝居町のまがきという茶屋の前まで来て、かごを捨てると、奥まった一間に通って、糸目をつけぬ茶代や、心づけを、はずんだが、
「ちょいと、たよりをしたいところがあるから硯ばこを――」
女中が、持って来た、紙筆を取り上げて、小綺麗な、筆のあとでお初は書いた。
折り入ってお話しいたしたきことこれあり候まま、ちょいと、お顔拝借いたしたく、むかし馴染おわすれなされまじく候。お高祖頭巾より
この手紙はすぐに中村座楽屋に届けられた。お初が、そんな境涯に育ったにも似合わず、器用な生れつきで、さして金釘という風でもなく、書き流した手紙が、中村座の楽屋に届けられたとき、雪之丞は、それを読み下して、ジッと考えたが、思い当たることがあるように、目にきらめきを湛えた。
使いの女中に、
「このお女中、背のすらりとした、物言いのきびきびしたお人でありましょうね?」
「ええ、さようでございます。よく気のおつきになるような、下町の御新造さんというような方ですが、手前どもへは、はじめておいでで、くわしくは存じません」
「お目にかかり度いが、何分、今晩は、先にお約束したところがありますゆえ、またいい折に、お招きにあずかりたいと、そう、丁寧に申し上げて置いて下されるように――」
茶屋の女中は、たんまり心付けを貰っている事ではあるが、雪之丞ほどの流行児を、そう気ままに扱うことが出来ないのは承知ゆえ、
「さぞ、残念にお思いなさると存じますが、よんどころございませんから――」
その返事を持ってゆくと、お高祖頭巾の女と名乗ったお初は、別に失望したようでもなく、さもあろうというように、うなずいて聴いて、
「大方、そんなことを言うであろうと思うていたが――お気の毒だけれど、もう一度、手紙を届けて下さるまいか――」
そして、新しく、結び文をこしらえた。その文面は、
壁にも耳のあることにてござそろ、密事は、おん宿元にても、かるがるしく申されぬがよろしく候、くわしくお物語いたしたきけれど、おいそがしき由ゆえ、今宵は御遠慮申し上げまいらせ候、かしく
茶屋の女は言われるままに、又も雪之丞の楽屋をおとずれねばならなかった。もうすっかり滝夜叉の出の支度をしていた雪之丞は、結び文を解いて一瞥したが、この刹那、彼の顔いろは、濃い舞台化粧の奥で、サーッと変ったように思われた。
「このお女中、この手紙を置いて帰られたか?」
と、彼は、いくらか震える唇でたずねるのだった。
「いいえ、まだ――多分、お返事を、おまち兼ねと思いますが――」
「では、はねたら、すぐに伺うゆえ、しばしおまちを――と、そう申して置いて下され」
出場だった。
稀世の女がたは、楽屋を出て行った。
お初は、女中から、二度目の手紙が、十分に奏功したということを聴くと、ニンヤリと、染めない歯をあらわして笑った。
「まあ――現金な」
そして、女中に、あらためて骨折りを包んでやった。
「太夫が来たなら、お酒の支度をして下さいよ」
女中が去ってしまうと、お初は、ジーッと、瞳を見据えるようにした。
――あの人は来るそうな。来ずにはいられぬわけさ。でも、怖わ面で口説くのはいやだねえ――おいらの気持をじきに判ってくれて、たった一度でも、やさしい言葉をかけてくれればいいけれど――このおいらは、敵にまわると、どんなことをするかわからないから――
芝居茶屋の奥ざしき、女客と役者の出逢いのために出来たような小間には、手を鳴らしてもなかなか女中さえはいっては来ないような工合になっていた。
その、しいんとした、静かな部屋に、珍しく襟に顎を差し込んで、うなだれ勝ちな、殊勝なすがたをしているお初、やがて、小屋の方で大喜利の鳴物、しゃぎりの響きが妙な淋しいようなにぎわしさで聴えると、唆られたように顔を上げた。
――おや、もう、閉場るようだが――
鬢にさわって見たり、襟元を気にして見たりしているうちに、間もなく、廊下がかすかに鳴って、女中の案内で現れて来たのが、朱いろの襟をのぞかせた黒小袖に、金緞子の帯、短い小紋の羽織――舞台化粧を落したばかりの雪之丞だ。
「ようこそ――さぞいそがしいからだでしょうに――」
お初はいくらか上釣ったような調子で迎える。
「長うはお目にかかれませぬが、折角のお招きゆえ――」
女中は、ほんの形ばかりの酒肴を並べると、去ってしまった。
雪之丞が、まるで容子を変えて膝に手を、屹ッとお初を見上げたが、
「いつぞやは、思わぬところで逢いましたな?」
「おかげさんで、あの折は――」
と、微笑したお初、もう、心の惑乱を征服した体で、猪口を取ると、
「太夫さん、まあ、おひとついかが――」
「いや、ほしゅうござりませぬ」
雪之丞は見向きもせず、
「それよりも、今宵、話があるとて、わざわざのお呼び――その話というのを、伺いたいもの」
「まあ、三斎屋敷のお局さまとは、深更けの酒ごともなさるくせに、あたし風情とは杯もうけとられないとおっしゃるの――ほ、ほ、ほ」
お初は、冷たく笑って、手酌で、自分の杯に注ぐと、うまそうに一口すすって、
「やっぱし、お前さんも芸人根性がしみ込んでいるのかねえ――それ程の大事を控えた身でも――」
雪之丞の、美しい瞳に、冷たい刺すようなきらめきが走った。彼はあの二度目の手紙を受けてから、何かしら決心しているに相違ない――壁に耳――若し、大事を真実この女白浪に気取られているとしたら、生かしては置けないのだ。
「わたしとそなたとはあの夜だけ、ほんのかりそめに出逢うた仲、それなのに、なぜまた立ち入ったことを言われるのじゃ?」
「ほ、ほ、袖擦り合うただけのえにしでも、一生の生き死にを、一緒にせねばならぬこともありまさあね――わたしが、お前さんが、どんな大望を持っているか、それを知って、かずならぬ身でも、力を添えようといったとて、何の不思議もありますまい。わたしは、ねえ、太夫、お前を敵にまわし度くはないのですよ」
お初の目付には、相手の胸の底に食い入ろうとするような、荒々しいものが漲った。
雪之丞は、その瞬間、ハッと、何ものかを感得した。
――この人は、わしに何か望みをかけている。世の中の、多くの女子のように――
彼は一種の恐怖と嫌悪とを感じた。そしてその女が、しかも、自分の大秘密をかなりくわしく知ってしまっているらしいのだ。
しかし、雪之丞に取っては、一生の大秘事を、感付いているらしい、この女白浪のお初が、自分に対して、毒々しい恋慕の情を抱いているのがまだしもな気がした。
事を仕遂げるまで、何とか綾なして置くことが出来るとすれば、手荒くふるまわずとも済むであろう――女一人の、いのちを断たずとも済むであろう。
けれども、お初は、恋にかけても、強たかなつわものだ。すこしも緩めを見せようとはしない。
ぐっと飲んだ杯を、突きつけるように差しつけて、
「ねえ、太夫、何もかも、不思議な縁と、きっぱり覚悟をしておくんなさいよ。すこしはこれで、鬼にもなれば、仏にも、相手次第でどうにもなる女なのさ――だけど、ねえ、いのちがけで想い込んだお前、決して、御迷惑になるようなことは、したかあないのですよ」
雪之丞、苦い思いで、杯を干して返して、
「思召しは、ほんとうにうれしゅうござります。もうじき今月の狂言もおわりますゆえ、そうしたら、ゆっくりお目にかかりたいもの――」
「何ですッて! 気の長い!」
と、お初はジロリと、流し目をくれて、
「あたしが、どんな世界に生きている身か、知らないお前でもあるまいに――」
彼女は、別に、声も低めなかった。
「いつ何どき、見る目、嗅ぐ鼻、ごずめずの、しつッこい縄目が、この五体にまきつくかわからないからだなのですよ――明日のあさっての、まして、十日先きの、二十日先きの、そんなことを楽しみにしてはいられないのです――」
じれったそうに、お初は唇を噛みしめて、ぐっと、からだを擦りつけるようにするのだった。
「それは、よう知っているなれど――しかし、そんなに性急にいわれても――」
雪之丞は、そこまでいって、女の了見が、怖ろしいまでに据わっているのを見ると、いっそ正直に、何もかも打ち明けた方が――と、思って、
「実は、そなたは、どう思うていられるか、この雪之丞、心願のすじがあって、女子に肌をふれぬ決心をかためている身――そなたなら、この気持を、察して下さるだろうと思うのでござりますが――」
「ほ、ほ、ほ!」
と、お初は突然、すさまじい声で笑った。
「ま! 本気そうな顔をして――ほかの人なら、その一刻のがれもいいだろうが、このあたしにゃあ通らないよ、なぜと言って、お前は三斎の娘御の、お局さまを、どん底までたらし込んでいるというではないか――見通しの、あたしの目を、めくらにして貰いますまい――」
ちょっと、指で、雪之丞の口元を突くようにして、
「まあ、こんな、可愛らしい口付をして、何という嘘ばっかり――」
と、笑ったが、急に、頬を硬ばらせて、
「太夫、用心して口をおききなさいよ――相手が、ちっとばかし変っているのですからね――そして、そういっては何だけれど、あたしの口ひとつで、お前の望みがけし飛ぶのはおろか、いのちさえあぶないのだ」
この女、捨鉢に、どこまでも追い詰めて来る気じゃな?
雪之丞は、浅間しいものに思って、ゾッと寒気さえ感じたが、お初の方では、相手の気持の忖度なぞは少しもしなかった。
見れば見るほど美しいし、こちらの身分を知って、厭気を露骨に見せているのを見ると、ねじくれた恋ごころが、却ってパアッと煽り立てられて来る。
「ねえ、太夫、あたしを、清姫にならせずに置いておくんなさいよ――あたしは自分で自分をどうすることも出来ないように、いつの間にか成ってしまっているのです。あたしは、お前をちっとも苦しめたいことはないのですよ。たった一度、かわいそうな女だと、抱き締めてくれさえしたら――」
「そなたは、わたしが、どんなに本気に申しても、わたしの心の誓い、神ほとけにも誓ったことを信用が出来ないのだ」
雪之丞は、困じ果てて、
「わたしが何も、そなたがどんな渡世をしているからというて、それをいとうではさらさらないなれど、今この場で、望みを叶えて上げることは、何としても日頃の高言に思い比べても出来にくい。そこを、よう聴きわけてくれたなら――」
「いいえ、いやじゃいやじゃ」
と、女賊は、髷がゆるみ、鬢の毛がほつれるほど激しく、かぶりを振って、ぎゅっと、雪之丞の二の腕を、爪の立つほどつかむのだった。
「あたしは、思い立ったら、ついその場で、火にも水にも飛び込んで来たからだ――ことさらここまで思いつめ、ここまで口に出した願い、この場でなくては怺えられぬ、いやなら、いやで、あたしだとて、可愛さ、憎さ――どんなことでもしてのけますぞえ」
事実、この女、自分を捨てる気になったら、こうして一緒に地獄の底までも引き落してゆくだけの、怖ろしい決心をつけかねぬ形相だ。
雪之丞は、運命のいたずらに、呆れ果てた。
――蠅一匹殺したくはないのだけれど――ことに依ったら、この女を、何とか始末せねばならぬか知れぬ。
雪之丞、毒蛇のように、火を吐かんばかりに、みつめて来る、相手をチラリと見返して、
――思い直してくれればいいのに、何という執念ぶかさ!
「何をじっと見ていなさるのさ」
お初は、手酌で、杯をふくみながら、
「あたしの顔が、蛇にでもなったの? 角でも生えたの?」
「ではこういたそうかしら」
と、雪之丞は、強いたやさしさで、
「折角の、そなたの心持、このまま、別れてしまうのも、何となく、わたしも心淋しい――さりとて、この家では、どういたそうとて、人目もある――」
「ま!」
と、お初は、急に、生き生きと、躍り立つような目顔になって、
「嬉しい!」
「大分更けたようだし、そろそろこの家を出た方が――」
「で、これから、どこへ行くつもり」
お初は、猪口を、器用に、水を切って、
「外は寒いから一つおあがんなさいな」
雪之丞は、うけたが、呑まずに、膳に置いた。
「待乳山とやらの下に、しずかそうなうちがありましたが――」
二人一緒に、芝居茶屋を出ることが、はばかられるので、山ノ宿、文殊堂の裏手で、まち合せる約束をして、まず、雪之丞が座を立った。お初が、追ッかけるように――
「いい加減なことをいって、待ちぼうけを食わせると、噛みつくから――」
「大丈夫、わたしとても男――二言はない」
あとを見送って、
「あいつのいったことほんとうか知ら?」
と、口に出してつぶやいた。お初、胸の中で、
――一時のがれの嘘っぱちとも思われないが、さりとて、おいらのこの思い詰めた気持を、あんなに急に聴き分けるとも思われない――口説にかけて、たぶらかす気か、それとも、ことによると、大事を知られて、生かしては置けずというわけか――ふ、ふ、いずれにしろ、おいらも、飛んだ奴に想いをかけてしまったものさ。
銚子に残っていた酒を、湯呑みに注いで、煽りつけて、ふうと、熱い息を吐いたお初は、やがて、これも茶屋を出て行った。
屋外は、もう、いつか初冬らしい、木枯じみた、黒く冷たい風が吹きとおしている。立ちつづく、芝居小屋前の幟が、ハタハタと、吹かれて鳴るのも、寒む寒むしい。
森閑とした通りを、お初は、小刻みに、走るようにいそいだが、その中に、めっきりあたりが淋しくなって、田圃や、杜つづきとなる。
この辺、芝居町が移って来たので、急ににぎやかになったが、ちょいと外れると、まだ田舎田舎したものだ。
山ノ宿の、文殊堂――もうじき、大川も近い、寂寞たるお堂で、小さいが、こんもりした木立を背負っていた。
そのお堂前に、黒く、ぽつりと佇んでいた、これも、お高祖頭巾の人影――まるで女だが雪之丞に、まぎれもない。
「お待ち遠さん」
と、さすがに、お初、女らしく、歩みちかづいた。
「いいえ、土地なれないものだから、迷って歩いて、やっと、辿りついたばかり――」
雪之丞は、お高祖頭巾の間から、星のように美しい目で、お初を迎えた。
「さあ、では、待乳山の方へ出かけましょうよ――お話の家は、たしか小舟とかいう茶屋でしょう――」
「そうそう、そういう家号でありました」
と、雪之丞は、うなずいたが、ふと、調子を変えて、
「ねえ、御寮人さん――名さえまだうかがわないが、こんなことになった以上、お互に何もかも底を割った方がよいと思うゆえ、訊くことを、はっきり答えて貰いたいけれど――」
「何でも、訊いて貰った方が、あたしの方もいいのですよ」
お初は、即座にいって、チラリと見返した。
「では、うかがうが、あの文にあった、壁に耳の――わたしの大望のと、いうのは何を言うのでありますえ?」
雪之丞は、キリリとした口調で言った。
お初の目が、これも、お高祖の隙で笑った。
「その言葉のままなのさ。壁に耳があることゆえ、うっかり胸の中は、しゃべれないと言ったまで――」
雪之丞は、お初に寄り添うように近づいて、
「もう少し濁さず言うて貰いたい」
雪之丞、今は思い切って、ずっと、お初に寄り添うと、ぐっと、和らかい二の腕を掴むようにした。
「ねえ、何もかも、ハッキリいって貰いたいのだが――」
お初は、腕に、指をまわさせたまま、振りほどこうともせず、あべこべに、凭れかかるようにして、
「おや、また、腕立てかえ?」
彼女は、三斎屋敷での、一条を、思い出したに相違なかった。
「腕立てというわけではないけれど」
と、雪之丞は、低い、強い調子で、
「万一、このわたしに、そなたの言うとおりの大望というものがあったとする――いい加減なことを小耳にはさんで、兎やこう噂を立てられたら、その迷惑はどんなだと思います」
「だからさ、わからないお人だねえ」
と、お初は、一そう、男の胸に、全身を押しつけるようにして、
「あたしは何度も言ってるだろう? あたしの気持さえ察してくれたら、たとえばお前が、人殺し、兇状持ちの人にしろ、決して歯から外へ、出すことじゃあないと。そこは、それ、魚ごころあれば、水ごころと言うことがある」
白く、匂わしい顔を、振りあおぐようにして、頬を、雪之丞の横がおに、擦りつけるようにするのだ。
梅花のあぶらが、なつかしく香るのが、雪之丞には却って胸苦しい。
「と、言って、それはあんまりな押しつけわざ――そなたも、見れば、江戸切っての女伊達とも思われるのに――」
「いいえ、あたしゃあ、そんなにえらい女ではありませんよ。きらわれものの女白浪、それもお前というお人を一度見てからは、意馬心猿とやらが浅間しく乗り移った、さかりのついた雌犬同然さ――それで、悪いかえ? 悪いといったって、今更、どうにもあとへは引けないんだから――」
お初は、ぐっぐっと、雪之丞にしがみつくようにして喋舌るのだ。
雪之丞は、からだ中に、沸かし立てた、汚物をでも、べとべととなすりつけられるような、いいがたい悪寒に、息もつけない。
――何というおそろしい執着だろう! この女は、わしの見かけに寄らぬ腕は、十分知っているだろうに――いのちを賭けて横恋慕をしているのじゃ――さて、どうしたら?
「ここまで来れば、二つに一つさ」
と、お初は、炎のような息を吐いて、
「あたしの心を受けてくれるか――それともあたしを敵にまわすか――」
「もし、わたしが、そなたを突きのけたら――」
「さっきからいっているように、鐘の中に逃げ込んでも、蛇体になって巻きついて、お前のからだを熔かしてやるよ――あたしは、お前が、どんな人達を、敵としてつけ狙っているか、ちゃあんと知っているのだからね。上方のおんなに、どんなにしッこしが無いか知れないが、江戸のおんなは、思い立てば屹度やるのさ」
雪之丞、淫らな雌狼にでもつけまわされているような怖れと、煩わしさとに、一生懸命おさえていた、殺気が、ジーンと衝き上って来た。
「これ、どうあっても、そなたはわたしを邪魔する気か!」
つかんでいた二の腕を、ぐっとねじり上げようとすると、お初はパッとすりぬけて、
「おや、人を殺す気かえ!」
「ホ、ホ、大方、こんなこともと思っていたんだ」
お初は、雪之丞から、パッと飛び退くと、右手を帯の間に突ッ込んでいた。
「だが、太夫、お前は兎角うで立てが好きらしいが、そんな生れぞくないに、手込めにされるようじゃあ、このお江戸で、人前でハッキリいえない商売は出来ないんだよ――ちゃんちゃらおかしいや! 人の生き口を閉ごうなんて――」
彼女は、別に、とっかわ逃げ出そうともしないのだ。
黒門町のお初というものが、下り役者にうしろを見せるのは、一生の恥辱とも思っているのであろう――
雪之丞はジリジリと進んで行った。もう彼は、今眼前へ毒口を吐いている人間を、女子供と嗤っていることが出来ないのだ。
――この場を、生けて逃がしたら、この女、三斎屋敷へ、このまま、駆け込むに相違ない――許せぬ。
ぐうっと、迫ってゆくと、闇の中で、お初の目が、凄じく光って、
「こんちくしょう! 殺してやるから! そんなに寄って来ると――」
お初、もとより雪之丞の、真の手腕を知っているわけがない――嚇して、追っぱらおうとしたが、例の、帯の間の匕首を、キラリと抜くと、
「こいつめ!」
と、ビュウと、突ッかかって来る。
雪之丞は、さすがに、自分は懐剣をひらめかせる気にはなれない。
十分に、突ッかけて来させて置いて、たぐり込んで、一絞めに絞めてやろうと、身をかわす――お初は、その隙をくぐって、二の太刀を斬りこもうとはせず、
「馬鹿め! あばよ!」
と、闇にまぎれて、パアッと、駆け出してゆくのだ。
軽業のお初――名うての女賊だけあって、その飛鳥の身のこなしは、なかなか、ありふれた剣者なぞの及ぶところではない。
――おのれ、逃がしたら、それまで――雪之丞は、追いかける。
ほとんど、真の闇の、山ノ宿裏道の真夜中――人ッ子一人通るはずがないのだが、その時、思いがけなく、駆けゆくお初の行手から、二人づれの、黒い影――
「何じゃ! 夜陰に?」
と、武家言葉が、とがめるのを、お初、
「おたすけ下さいまし、いま、あとから乱暴者が――」
「なに、乱暴者?」
と、一人が、透かして見て、
「おお、なるほど――」
雪之丞、とんだ邪魔がはいったと、ハッとしたが、お初を、どうしても、このままには逃せないのだ。
――ええ、面倒な、邪魔立てしたら、どんな奴でも――
これもはじめて、懐剣の柄に手をかけて、かまわず、飛び込んでゆくと、
「おのれ、何で、人を追う?」
二人づれの武士は、立ちふさがって、
「や! これも女だな?」
「どうぞ、お通しを――あれに逃げてまいる者に、どうあっても、用のありますもの――」
すばやい、お初、もう、その時には、くらがりの中にすがたを溶けこませかけている。
「待て! 穏かならぬ――」
二人の武士は、雪之丞をさえぎりつづけた。
前を閉ぐのは武家だが、雪之丞、大したことには思わない。右手の方の男に、隙が多いと見たから。
「どうぞ、お通しを!」
と、叫びざま、サッと、袖の下を潜り抜けると、もう一人が、また前にまわって来て、
「女だてらに――あぶない――刃物なぞ手にして?」
「ですから、おあぶのうござりますぞえ!」
雪之丞、煩わしくなって、嚇すように、懐剣を、わざと、チラと、閃めかして見せたとき、
「や! おのれは!」
と、鋭く、しかしびっくりしたような声が、立ちふさぐ侍の口から洩れた。
と、同時に、トン、トンと、二あしばかり退って、踏みしめると油断なく構えて、刀に、手をかけた容子――
雪之丞も、相手が、本気になって、身を固めたので、屹ッと闇を透かしてみつめると、あろうことか、それが、昔の兄弟子、今はあきらかに、敵とみとめずに置けぬ、門倉平馬なのだ!
「ほう、そなたは?」
と、思わずいうと、
「江戸は、広いが、狭いのう――雪之丞、久しぶりだな? よう逢えたな?」
「なに、雪之丞?」
伴れの武士、おどろいたように呟いた。
「今夜も、今夜、貴公から聴いた?」
「うむ、その女形だ」
と、黒い影が、うごめいて、
「のう、雪、今夜は、始末をつけてしまった方が、お互に為めであろうな?」
「そなたが、その積りなら、それもよいが、今は、気にかかることがある――たった少しの間待ってくれれば、引ッかえすほどに、あれなる者に、どうしてももう一度逢わねば――」
雪之丞、今の中なら、逃げ伸びたお初を、追いつめることが出来ようが、いかに腕に劣りは感ぜずとも、平馬ほどの者と、その伴れとを打ち仆してからでは、もう追いつくことが出来ないとしか思われないのだ。
「何を馬鹿な!」
と、平馬は毒々しく、
「こういう仲になった貴様の便利が計っていられるか? それとも、拙者に伴れがあるので、怖ろしくなったのか?」
「門倉、やっておしまいなさい」
と伴れの武家が、右手の腕まくりをしながらいった。
「一度、からだに傷をつけられた奴、生け置いては、武士の恥辱だ。いつ、何を申し触らさぬとも限らぬ――拙者、後ろをかためる程に、やって、おしまいなさい」
――何を、平馬は、こうまで執拗く、自分を恨むのであろう――出逢い次第、果し合わねばならぬほどの事が、どこにあるのだろうか?
雪之丞は、心で、考えて見るだけの余裕があった。
が、相手は、斟酌がない――
ギラリと、太刀を引き抜くと、一松斎仕込みの、上段、それに自分の趣向を加えた、みずから竜爪と呼んでいた、烈々たる殺気を見せた構えに取って、
「行くぞ!」
と、叫んだ。
雪之丞は、平馬が、荒々しい上段に刀を振りかぶったのを見ると、スッと、横にはずして、うしろを田圃に、もう一人の敵を用心しながら、身を沈めるように、懐剣をぴたりとつけた。
彼はいつも一松斎道場で、平馬が、この位を取るときには、ひどく勝ちをあせる場合なのを知っていた。
工夫の多い雪之丞、かねがねから、若し平馬が、立ち合いのとき、この上段を取ったら、どう破ったらいいか――と、いうことを、以前から研究していた。
それを、いま、実地でためすときが来た。
が、こんなに突きつめた、迫った場合にも、彼の心はためらわずにはいないのだ。
――大事の前の小事――いま、この男を殺して、それが、きっかけで、自分が法の網を怖れねばならぬことになったら? あの不思議な女盗賊は、秘密を知って、それを逆手につかって人を脅かすのゆえ、殺さずには置けぬ――が、平馬は、別の意味で、つまらぬ意趣で、自分を恨んでいるだけだ――こやつ等と、いのちのやり取りをしては、間尺にあわぬ煩いをのこすかも知れぬ。
一松斎、孤軒、菊之丞――
すべて、自分の指導役に当っている人達は、軽はずみをするな――と、だけいましめてくれている。
では、いかがすべきであろう?
――何の、たかだか、この二人、当て仆して、通りすぎよう。
大胆な、雪之丞、二人の相手のいのちだけは、助けて置くが、便宜だと考えると、もうサアッと、気が落ちついて、氷のような冷たさが、頭をハッキリさせた。
右手の短刀を低めたまま、左の拳を小脇に引きつけて、じっと、目をくばる。
と、そのとき、呆れたことには、つい、平馬のうしろまで、いつか、お初の、黒い影が、取ってかえしていたのだ。
彼女は、藁を積んだ、こんもりした稲塚の蔭から、嘲りの笑いを笑って、
「ホ、ホ、ホ、ホ! 生れぞくない! 思いがけないことになって、どうするつもりだね? あたしのことは、絞めも斬れも出来ようが、今度は、ちっと、相手が強いねえ? ホ、ホ、ホ!」
彼女に、どうして、雪之丞の手の中がわかり抜いているであろう!
「それにしても、あたしにしたってお前を、ここでお侍さま方の刃の錆にしてしまうには、惜しい気がしてならないのだよ。もし、お前があたしにたのむなら、何とでもおわびをして上げるが――」
お初は、雪之丞、平馬のいきさつを、これもわかっているはずがない。只この場のゆきがかりで、こんなことになったのだと思い、そして、事実、彼女としては、今、彼を斬らしてしまうのは、あまりに勿体ないような気持もするのであろう。
雪之丞は、お初が、不思議ないたずら気から、取って返したのを見ると、ホッとした。
――痴な奴だ――飛んで火に入る虫じゃ。
気が、楽になって、スウッと、身を、左にまわすと、伴れの侍が、それに誘い込まれたように、中段に取っていた刀を一閃させて、
「やあッ」
と、薙いで来るのを、かわしてやりすごすと同時に、左手の拳がパッと伸びて、十分に、脾腹にはいった。
ウウウンと、のけぞる侍――
当身を食って、大刀こそ放しはせぬが、
「む、ううむ」
と、うめいて、のけぞって、体が崩れて、そのまま、苅田の畦の中に、溜り水を刎ねかして倒れてゆく侍――
「雪、さすがだな――」
平馬は、それと見て、奥歯を噛むようにして、うめいて、
「生意気な!」
彼は、雪之丞が、剣を使わず、拳を用いたのが腹立たしかったのだ。
彼等二人は、この先きに、最近出来た、河岸の料亭に、剣客仲間の会があった崩れで、かなり酔っていたのだ。当て落されたのは、間柄助次郎といって、鳥越に道場を出している男、さまで、劣っていない身が、一瞬で敗を取ったのを見ると、平馬も、今更、警戒せざるを得ない。
が、憎い! 出逢い次第、どうしても、生かしては置けぬほど、彼は、雪之丞が憎い! その憎みが、どこから来たかは、彼にも、はっきりいえないのだ――師匠が自分を疎外して、あの白紙の巻軸を譲ろうとしたのが、原因とはなったが、そればかりで、こんなに憎悪を忘れかねるのは、彼自身にも不思議な位だ。
恐らく、この女にも見ぬほどの、たよたよしい、さも、無力にしか見えぬ、女がたが、舞台の芸の外に、かくも、神変幻妙な、武術の才を持っているのが、先天的な、異常な嫉妬を、平馬に感じさせてもいるのであろう。
――どうでも、今夜は斬るのだ! 殺さずには置かぬのだ!
彼は、心に、叫んで、最初の、独特な上段に構えたまま、
「やああ!」
と、誘う。
雪之丞も、つい今し、間柄をあしらったように、軽くは、動かぬ。
相変らず、沈めた構えで、真の変化が、相手に現れて来るのを待つ。
「でも、その生れぞくない、何て強いのだろうねえ」
稲積みの蔭で、お初の声は、嘲りから、だんだん讃歎に変りつつあるのだった。
「大刀を振りかぶった、お武家二人を相手にして、平気で戦うばかりか、見る間に一人の先生を、叩き倒したのはえらいもんだ。よう花村やあ――と、讃め言葉がほしいねえ――生憎と、田圃外じゃあ、おいら一人の見物で、物足りねえ」
お初は、大胆不敵だ。
「それにしても、じれってえなあ――お武家さん、そんな女形一人を、いつまで、持てあましているのかねえ――相手がもっと弱むしなら、このおいらが助勢に出てやるのだけれど、どうもあぶなくって近づけないよ」
その、嘲罵に、唆り立てられたのでもあるまいが、その刹那、平馬の振りかざしている烈剣が、闇の中で、キラリと一閃したと思うと、二闘士のからだがからみ合って、大刀と、短剣とが、火花を散らした。そして、次の瞬間には、二人の中のいずれかのからだが、ぐたりと、地面に崩れるのを見た。
「ほ! やりやがった」
お初は、そう叫ぶと、またしても、早い逃げ足だ。
平馬を、水月に一本入れて、その場に絶気させた雪之丞が、稲塚の方へ突進して行ったときには、もう三町も先きを、黒い影が、風のように、煙のように駆け去っているのだった。
夜の禽のように、闇に溶けゆく女の影を追うて、雪之丞は、ひた走りに走る。
が、彼は、土地も不案内、まがりくねった路――息を切らして、駆けつづけたが、いつか、大川の河岸に出たときには、もういずれにも、それらしい姿をみとめることも出来ない。
雪之丞は漫々たる、黒い流れを見下ろして当惑するばかりだ。
――しまったことをした! しまったことをした! 千丈の堤も、蟻の一穴――あのいやしい女白浪の、恋にやぶれた、口惜しまぎれの口から、大事が敵に洩れたら、それまでだ! どうしよう? どうしよう?
剣を取っては、いかなる大敵をむこうにまわそうと、決して怯みは見せぬ雪之丞も、思いがけないところから現れた、根性のひねくれた、浅間しい望みに狂った、つまらない踏みはずしの女を敵にして、今や途方に暮れざるを得なかった。
そのとき、彼のこころに、ふッと、浮んだのが、浅草田圃に、牙彫師らしく隠れ棲んでいる、あの闇太郎のことだった。
――そうだ! こんなときこそ、あのお人に相談しよう――あのお人なら、望みを打ち明けても、決して歯から外に洩らすことではあるまい。そして、今の、あの、不思議な女とは、いわば同業、世にいう、蛇の道はへびとやら――かならず何んとか、渡りをつけ、うまくさばいて下さるに相違ない――相手も女ながら、泥棒渡世をしている身、黄金を山と積んだなら、どこまでも、わしにあらがおうとはせぬであろう――そのほかに道はない――
と、思い当ると、雪之丞は、丁度、むこうから来た、戻りの辻かごを見つけると、
「かごの衆、浅草田圃まで――」
もはや、褄もおろして、やさしいものごしだ。
「へえ、ありがとうさん――お召し下さいまし」
トンと、下りたかごに、乗ると息杖が立って、
「ホラショ! ホイヨ!」
「ホラショ! ホイヨ!」
かごは、命じられた方角を指していそぎはじめた。
雪之丞の懸念は、ただ、目あての人が、夜の渡世――うまく今夜、うちにいてくれればいいということだけだ。
そのころ、もう落ちついた足どりで、さも、ほろ酔いを川風に吹かせでもしているかのように鼻うたまじりで、大川ばたを、下々に、あるいているのは、軽業のお初――
――畜生メ! お初ちゃんともあろうものが、今度はすこし味噌をつけたよ。
と、自らあざわらうように、
――どうしたわけで、あんな出来そくないの、野郎のくせに、内股にあるいているような奴に惚れたかねえ――おかげで、いのちを取られかかった。畜生! ほんとうに、いけずうずうしい奴ったらない。たしかに、土部三斎や、日本橋の大商人、長崎屋なんぞを、かたきと狙っている奴――どっちへ売り込んでも、こいつあ大した代ものだが――
と、呟いて、ぐたりと、うなだれて、火を吐くような吐息をして、
――でも、おいらには、何だかそれが出来ないんだ。あいつのあの根性と、あのすばらしい剣術――どこまで考えても不思議な奴――肘鉄砲をくわされればされるほど、殺そうとまで嫌われれば嫌われるほど、妙に心がひかされてならないんだよ。
こちらは――
例の細工場で、シュウ、シュウと、かすかな音を立てさせながら、まるで、一個の芸術家のごとく――いいえ、どんな技巧家より、もっともっと熱心に、小さい象牙の塊に、何やら、細かな図柄を彫り刻んでいた、闇太郎だ。
とんとんと、遠慮深く、戸が鳴って、やさしい声で、
「若し、お宅でござりますか? わたくしでござりますが――」
と、いうのが聴えると、ハッと、さすがに油断なく、あたりを屹と見まわすようにしたが、
「おッ! 太夫だな!」
と、叫ぶと、世にもうれしげな表情が、きりッとしたこの男の顔にうかぶ。
「あけますよ! 今すぐ!」
狽てたように、立ち上って、膝から、前かけを払い落すと、とっかわ、入口に出て行って、ガラリと開けて、
「思いがけない! こんな時刻に――一たい、どうした風の吹きまわしで――さあ、上っておくんなせえ」
細工場に導いて、行灯を掻き立てて、つくづく、雪之丞をみつめるようにしたが、急に、暗くなって、
「おや、太夫、お前さん、恒ならねえ、顔をしていなさるねえ――何があんなすったのか? さあ、すぐに話しておくんなさい」
闇太郎自身の面上にも、にわかに不安の影が射す。
雪之丞は、さも心配そうに、そういってくれる、この不思議な心友を、たのもしげに仰いだが、
「実は、身に差し迫った難儀が出来まして、是非ともお前さまのお手で、お力がお借り申したく押しつけわざに伺いましたが――」
口ごもるのを、
「そりゃあありがてえ、おれのようなものを力にしてくれた以上、どんなにでも及ぶだけ働くが――それにしても、気にかかる、その難儀というのを、早く聴かして貰いてえものだ――」
と、膝がすすむ。
雪之丞、今は、何を包みかくす気持がない――まず、三斎隠居屋敷での、女白浪との出逢いから、その女のしつッこい、執着、威嚇――それから、その女が、耳にしたという秘密が、実は、どんなものであるか――つまり雪之丞自身の本体がなにもので、いかなる大望に生きているか、敵はだれだれで、味方は何人か、一切、合財をぶちまけて聴かせたのだった。
闇太郎は、あるいは怒りあるいは歎き、悲愴な雪之丞の身の上ばなしに、耳を傾けて、あまたたびうなずいたが、
「おお、そういうお前さんだったか? 何か、大きな望みを持つ人とは思ったが――よく打ちあけて下すった。かずならねえ身も、どうにかして力になりてえものだ」
と、言って、
「その、女泥棒の方は、心配なさるな。聴いているうちに、おれに、ちゃあんと思い当って来やしたよ」
「多分、容子をお話したら、大てい見当はつけて下さろうと思いましたが、一たい、それは、どのような女子で?」
「大方、そりゃあ、軽業お初という奴さ」
と、闇太郎は、いくらか笑って、
「なあに、なかなか気性のある女だが、思い立ったら利かねえ性で、このおれとさえ仕事を張り合うような阿魔さ。ああいうのが思い込むと、どんなことでもしかねねえよ。が、まかせて下せえ。おれが、必ず何とかするから――」
闇太郎は、雪之丞の物語を聴くと、すぐに大きくうなずいて、こんな風に慰めたが、
「それにしても、太夫、物事は、ケチがつきはじめると、あとからあとからヘマが出るものだ――大望といって、あんまり大事を取っていると、どんな障げがはいるかわからぬ。お師匠がたの言葉も言葉だが、精々、思い切ったところを見せてやるのもいいと思うが――」
「いかにも、お言葉どおりでござります」
と、雪之丞も、合点して、
「せめて、ここ十日も、経ちましたら、お前さまにも、何か、お耳にひびくでござりましょう」
「折角たずねてくれたこと、茶も出さねえで失礼だが、お初と来ると、先方も勾配の早い奴――早速、穴をさぐって、ひとつ何とかとっちめて置いてやろう――」
闇太郎は、そう言うと、立ち上って、八反の平ぐけを、ぐっと引きしめて、腹巻の間に、匕首をひそめて、豆しぼりの手拭を、ビュウと振ってしごいたが、
「じゃあ、そこまで、一緒に出ようか――なあに、おれのカンは、はずれッ子はねえ。必ず、今夜中に、あの色気違えをとッつかめえるよ」
闇太郎は、辻かごのいるところまで、雪之丞を送って来て、
「そんなら、別れるが――安心して吉左右を待ちなせえよ」
「どうぞ、お願いいたします」
雪之丞は、やっと、ホッとして、かごに揺られて、旅宿の方へ――
闇太郎、例の吉原かぶり、ふところ手で、
――人は見かけによらねえものというが、女がたの雪之丞、そこまでの大望をいだいていたのかなあ――何か一癖ある奴とは思ったが――何にしても、変った奴だ。おらあ、あいつのためなら、死んでやりてえような気持までするんだ。だが、お初ッて奴も、いい加減な茶人だなあ――見す見す泥棒と見ぬかれているのを知りながら、こわおもてで口説くなんて、ちっとばかしだらしがねえ。ふ、ふ、ふ――何だって、世の中の奴あ、色恋ばかりにそう狂っていやがるんだ。
闇太郎は、お初が、さも、通い番頭のお妾さんらしく、黒門町の新道の奥に、ひっそりと隠れていることを、すっかり知っているのだ。雪之丞が、話したような出来ごとがあったあとで、まさか、商売に手を出すはずもない――やけ酒の一ぱいも呷って、自家に戻って来るだろうという推量――
夜更けの裏通りで、警邏の見廻り同心が、手下をつれて、歩いているのに、一、二度出逢ったが、闇太郎は平気で、鼻唄でやりすごして、やがて、しいんとした黒門町の細い巷路にさしかかる。
どぶ板を、無遠慮に踏んで、路地奥にはいって、磨きの格子戸――まだ雨戸がはいっていない、小家の前に立つと、ためらわずに、
「御免ねえ! ちと、急用だが――」
どこまでも、無垢のものらしく住みなしている一家――ばあやが平気で出て来て、
「どなたさんか? おかみさんは、ちっと用があって出て、戻りませんが――」
「それじゃあ、上げて貰って待って見よう――ちっと、大事な話なんで――」
ばあやは、透かして見て、遊び人が、何か筋をいいに来でもしたかと思ったか、
「でも、今夜は、遅いから、あしたのことに――もう、お前さん、夜更けですよ」
闇太郎と、婆やとの押問答が、二階に聴えたと見えて、晩酌に一本つけて貰って、女あるじ――女親分の留守の間を、楽々とごろ寝を貪っていた例のむく犬の吉むくりと起き立って、鉄火な口調がまじっているので、さては、探偵手先か? それとも、弱身を知っての押しがりか? と、耳をそば立てたが、そのまま、とんとんと、荒っぽく、段ばしごを駆け下りて、
「誰だ、誰だ? 何だ? 何だ? こう、小母さん、退きねえ――」
と、婆やを、かきのけるように格子先を、白い目で睨んで、
「おい、おまはん一てえ、どこのどなただ? よる夜中、ひとの格子をガタピシやって、どぎついことを並べるなあ、あんまりゾッとした話じゃあねえぜ!」
と、まず、虚勢を張って見る。
ピカリと、しずかに、つめたく光る十手のきらめきも見えなかったが、しかし、相手の答えは小馬鹿にしたほど、落つき払っていた。
「は、は、は、むく犬、大した気合だな、度胸だな、機嫌だな? 俺だ――わからねえか? 久しぶりだの――」
吉原かぶりを、解いて、突き出すようにした顔――その浅黒い、きりっと苦味ばしった、目の切れの鋭い、その顔を、むく犬は、一瞥すると、ぎょっとしたように、
「へえ――こりゃあ!」
と、叫んだが、また、ひどく、なつかしくもあるように、
「まあ、何と珍しい――どうした風の吹きまわしで――親分、あっしゃあ、合わせる顔はねえのだが――」
と、いいざま、土間に、殆んどはだしではね下りて、びっくりする婆やには見向きもせず、格子の止め釘をはずして、ガラリとあけて、
「あねはんはいませんが、さあ、ずっと、お上んなすって――」
「そうか、じゃあ、けえるまで、またせて貰おうか――実は、ちっと、姐御と、折り入って、話があってな――」
闇太郎、手拭で、裾を、パンパンと叩くと、吉の案内で、茶の間に通る。
見まわして、
「ほう、いい、おすめえだな? 姐御のこのみが見えて、意気で、しっとりと落ちついているな」
むく犬の吉、婆やをたのまず、自分で、小器用に、茶をいれてすすめて、
「ひとしきり、御厄けえになりながら、顔出しもしませんで、どう、まっぴら、御免なすって――」
「なあに、いいってことよ。おれもつき合い下手で、このごろ、だれにも逢わねえ――御無沙汰はおたげえだ。それにしても、吉、美しい親分を持って、さぞ、働き甲斐があるだろうな――」
「御冗談を――」
むく犬は、親分のお初が、あんまり綺麗なので、色気にひかされて、かくれ家にゴロついているなどと思われるのが恥かしいのだ。
その上、お初の、負けじ魂で、ともすれば男の闇太郎に張り合って、悪口の一つもきくのが、ひびいていやしまいかと、気にもなる。
が、闇太郎、むく犬なぞは眼中にない。
「かまわずに油を売っていてくれ。おらあ、姐御に、ひと言、話があって来ただけだから――」
「大丈夫なのかえ? 吉さん、こんな人を通してさ?」
と、心配そうな婆やを、台どころへ出て来たむく犬の吉は、目つきでおさえて、
「どうしてどうして、そんなお人じゃあねえんだよ――あれで、あのお人は、江戸で名うての人間で、名前を聴きゃあ、小母さんなんざあ、腰を抜かしてしまうのさ――それよりも、何か、有り合せのもので、親分に一口差し上げなけりゃ――」
狭いうちなので、その話ごえは、茶の間に筒抜けだ。苦わらいした闇太郎が、
「おい、吉、構ってくれるにゃ及ばねえ、姐御の留守に、そんなことをして貰っちゃあ――それより、もう一ぺえ、茶が頂戴してえな。おめえ、煎茶の心得でもあると見えて、豪勢、うめえ茶をのませてくれたよ」
吉は、闇太郎のような、斯道の大先輩と、同じ部屋に坐っているのさえ幸福だ。まして、今、いれて出した茶を讃められて、ますます歓喜に堪えない。うれしさに、背すじをゾクゾクさせて、戻って来て、
「なアにね、おほめに預かれるほどのものじゃアありゃせんが、あッしも酒のみゆえ、酔いざめに、ほろ苦い茶がうめえものだから、だんだん今の年で茶好きになりやしたのさ」
「結構だ、話せらあ。江戸ッ子だよ、おめえは――」
「へ、へ、へ。冥加なわけで――」
闇太郎、からかいながら、吉と世間ばなしをしているうちに、心の中で、
――お初の奴、今夜、はやまって、三斎屋敷へでも駆け込まなきゃあいいが――まさか、そんなこともしやあすめえが――女という奴は、一度、惚れ込んだとなると、ちっとやそっとのことでは、あきらめやしねえ――まだまだ未練があるにきまっている――その中に、ふくれッつらをしてけえって来るだろう――
すると、やがて、路地で、かすかな足音。それが家の前で止って、荒っぽく格子戸が、あけたてされて――
「おい、何て、留守番だ! よる夜中、格子をあけッぱなしにしやあがって!」
と、キンキンする、女の声が、角立ったが、
「おや! お客さんかえ? 見なれねえ草履が――」
吉公が駆け出して、
「おお、姐はん、思いがけねえお客人で――」
「こんな夜中に、だれだえ!」
と、お初の声。
「それが、姐はん――全く思いがけねえお方で――まあ、顔を見て御覧じろ」
「厭に気をもたせるねえ――どなたがお越しだってえのさ?」
お高祖頭巾をとりながら、茶の間をのぞいたお初、行灯の光に、闇太郎の半面を、くっきりと見わけると、さすがにびっくりして、
「おや! まあ! 闇の字親分――」
闇太郎は、白い前歯をあらわして笑って、
「姐御、久しぶりだったな、急に逢いてえことがあって、お邪魔をしていやしたよ」
「まあ、ほんとうにお珍しい――親分が、こんなところへ出向いて下さるなんて――そんなら、途中で愚図愚図なんぞしているんじゃあなかったっけ」
お初は、長火鉢の前の、派手な友ぜんの座ぶとんにべたりと坐って、
「実はネ、ちっとばかしぐれはまな目になって、屋台で燗ざけをあおって来ましたのさ」
酒気をホーッと吐いて、彼女は艶に笑った。
お初は、湯呑に素湯をついで、うまそうに飲んだが、気がついたように、
「おい、吉、一たい、てめえ、何をしていたんだねえ? 親分が、折角いらしったというのに、空ッ茶を上げて置くなんて――なんにも無くとも、一くち、差し上げなけりゃあ――」
「おッと、姐御、御馳走にはいつでもなれる。まあ、おれの話というのを聴いて貰ってからにして貰いてえ」
と、闇太郎がおさえる。
お初は、素直な口調で、
「そうですか――じゃあ、お話というのを伺いましょう? 何か、女手のいる大仕事でもありますのか? なあにね、あたしもこれまで、女だてらに、親分たちを向うにまわして、大きな口を利いていましたが、やっぱし、女ッ切れの一本立ちに、くるしいこともありますのさ――親分の方から、こうしてわざわざ来てくれたのですもの、どんなことでも、否やはいわずに、働かせていただきたいものですよ」
「そうかえ。気がさもののお初さんから、そんなやさしい言葉を聴けるとは、これまで思いがけなかったよ」
と、闇太郎はうなずいて、
「そう言ってくれりゃあ、ちょいと、口から出しにくい話でも、遠慮なく言い出せるというものだ」
「で、親分、お話とは何ですえ?」
と、じっとみつめるお初を、闇太郎は、まじろぎもせずに見返して、
「お初さん、頼みというのは外でもねえが、おまはんが現に手を出しかけていることから、一ばん綺麗に、身を退いて頂きてえのだ」
「身を退け? 手を出している仕事から?」
お初は、解せぬらしくつぶやいて、美しい、切れの長い目を、きらりとさせて、
「親分、何か、間違いじゃあありませんか? わたしは、今のところ、別に大きな仕事ももくろんではいませんが――」
と、言って、ニタリと、異様に微笑して、
「実はねえ、親分さん、お初もこれで、やっぱし女で、柄にもなく優しい苦労をおぼえて、いまのところ、渡世の方に御無沙汰さ」
闇太郎は、そういうお初の、淫らな、あでやかな笑いを見ると、あやしい悪寒のようなものを覚えた。
――なるほど、この女、無宙になっていやあがる。とりみだしていやあがる――おれほどの男の前で、ぬけぬけと、心の秘密をのろけるまで、魂をぶち込んでいやあがる――雪之丞が、震え上るのも無理はねえ――
「姐御、お前の、そのやさしい苦労というのが、どんなものか知れねえが、ぶちまけて言えば、おれの知っているある他所のものが、大きな望みを持って、この江戸に足をふんごみ、いのちがけで大願を成就させようとあせっているのさ。ところが、ある人の耳に、誰にも知られてはならねえ大望が洩れて、敵方に、それが筒抜けになりそうになり、今のところ、大迷惑さ。お初さん、お互に江戸ッ子――かよわいからだ、大敵を向うにまわした奴にゃあ、人情をかけてやりてえものだの――」
闇太郎が、これだけ言って、相手の顔いろをうかがうと、お初は、眉を釣るようにして、紅い唇をぐっとひきゆがめ、さげすむように、じろりと一瞥して、
「親分、おまはん、たのまれておいでなすったね――」
お初は、嘲りのいろさえ見せて、闇太郎を尻目にかけるようにしながら、言葉を次ぐ。
「親分、お前さんが、他人の色恋の、間に立ちまじって、口をお利きになろうなぞとは、わちきは思いもかけませんでしたよ」
「そうだ、全くだ」
と、闇太郎は、ざっくばらんに、
「おれだって、今日が日まで、こんな役割をつとめようたあ、思ってもいなかった。ところが、世の中のめぐり合せという奴は不思議なもので、思いがけなく、とんだ不意気で、不粋なことを、おまはんに聴かせなけりゃあならねえ羽目になった。ねえ、姐御、くどくは言わねえが、あの雪――上方もののからだから、さっぱりと手を退いておくんなせえ。何もかも知らぬ昔と思い切っておくんなせえ。このおれが、こう手を突いて頼むから――」
と、膝に手を、ピョコリ頭を下げて見せる。
「まあ、親分、馬鹿らしい――」
と、お初は手を振って、
「女のあたしに頭なんぞ、お下げになることがありますものか――だがねえ、親分、ほかのことなら、どんなことでも、おっしゃるままにしたいけれど、このことばかりは堪忍して下さいな」
闇太郎は、黙って、相手を、じろりと見る。
お初は、じれったそうに、口を引き曲げるようにして、いくらか、頬さえ紅くしながら、
「あたしは、自分でも、自分がわからない位なんですよ。女だてらに、綽名の一つも持ったものが、娘っ子じゃあるまいし、舞台の上の男に惚れて、追っかけまわす――身性を知って、嫌いに嫌っていると知りながら、あきらめず、相手の秘密を知っているをネタに、おどしにかけさえする――浅間しいとも、あつかましいとも、お話にもなりゃあしません――だけど、恋しいの、好きだの、と口に出してしまったからには、いうことを肯いてくれればよし、さもなくば、一緒に地獄へ引き落してやらなければ、辛抱が出来ないのが、あたしの生れつきなのだから、あの人にも、まあ、何もかも因果だと、あきらめて貰う外はありませんよ。それというのもあの人が、世間の女という女の、こころを乱して来た天罰というものかも知れませんねえ――ほ、ほ、ほ、ほ、ほ」
やけに、笑うお初の顔いろには、思い入った、沈痛なものが漲っている。
闇太郎は、苦っぽく笑って、
「あの人も、お前さんほどの気性ものに、そこまで思い込まれたのは仕合せといってもいいだろうが、しかし、何しろ大願のあるからだ――今のところ、色恋に心を分けるひまのないのも当り前だ。だから、せめて、あの人が望みを果す日まで、何もかも待ってくれることにして貰えれば――」
「ほ、ほ、ほ――親分にもないお言葉です」
と、お初は、捨て鉢に、
「親分、お前さんだって、このあたしが、どんな身の上か、よく御存知のはずでしょう。高い声では言われないが、明日にも運が傾けば、どんな暴しが吹いて来て、このいのちを、吹き散らしてしまうか知れないのです。あたしの一日は、世間の女の人達の、一年にも向っている――その辺のことは、親分も、御自分で、よーく知っていなさる筈ではありませんか?」
お初は、もう、闇太郎の言葉は、耳に入れたくないという風で、
「ねえ、親分、このことに就いては、黙って下さいよ。あたしを、とんだ色きちがいと笑ってくれてもいいから――そして、暫くのことだから、まあ、機嫌よく一口飲んで、世間ばなしでもして行って下さいな。おい、婆や、そう言ってあるものを、出しておくれよ」
「へえ、へえ、只今――」
婆やは、高調子なお初の声の下からそう答えて、小皿盛なぞを並べ立てた膳をはこんで来るのだった。
「親分、おひとつ――」
と、お初は、猪口を突き出す。
闇太郎は、受けは受けたが、すぐに伏せて、
「まあ、姐御、もう少し聴いて貰いてえ。お前だって、生ッ粋の江戸ッ子じゃあねえか――自分が辛いことを忍んでやってこそ、あッぱれ意気な女というものだぜ。それに、若し、お前が、ここで女を見せてくれりゃあ、あの男だって、おれだって、決して忘れやあしねえよ。何かで屹度恩を返さあな」
「闇の親分。お前さんにも似合わずくどいねえ」
と、お初は皮肉に言って退けて、
「これが、渡世の上のことなら、お前さんは立派な男、あたしは女のきれッぱし、あの縄張から手を引けとか、あの仕事は、おれにまかせろとかいうのでもあれば、へえ、そうですか――と、身をひこうが、色恋は、女のいのちなんですよ――八百屋の小娘だって色男に逢いたけりゃあ、火あぶりにさえなるのです。叶わぬ恋の恨みのためには、どんなことでもしてのけるが、あたし達さ。この事だけは、別なのだから、どうぞほうって置いておくんなさいよ」
と、手酌で、わざとらしくうまそうに飲む。
闇太郎は、腕組をしたまま、
「じゃあ、お初さん、どこまでも、お前は意地を張るつもりなんだね?」
「意地を張るというわけではないが、あきらめられなけりゃあ仕方がありませんよ」
闇太郎、慣れぬ問題だけに、当惑して、考え込んでいたが、ここで、癇癪を起してしまったら、相手はいよいよねじけるばかりであろう――
そして、自分が帰るとすぐに、三斎屋敷に駆け込むかも知れないのだ。
引き据えて、江戸ッ子の恥さらし、渡世仲間の恥辱と、撲りつけてやりたいのを怺えて、
「じゃあ、こうしよう――もう一度、このおれから、雪之丞に、お前の気持をようく話して見るから、その返事が来るまでは、どうぞ、軽はずみなことをせずに待っていて貰いてえが――」
お初も、あわれといえばあわれだ――叶わぬ恋を叶えて貰うためには、焙火箸でも、蛇の尻尾でも甘んじて掴もうとするのであろう――身を乗り出すように――
「そんなら、親分、親分が、何とか仲に立って下さろうとおっしゃるの! まあ、うれしい――あの人と親分との間柄は深いらしいから、ひとつ打ち込んで下さったら、屹度何とかなるでしょう。あたしは、慾はかきません――たった一度、しんみり話さえ出来るなら」
闇太郎は、驚かないわけに行かない――恋に狂う女の、痴さを、浅間しさを、いじらしさを――
「あたしゃあね、闇の親分――」
と、お初は、一度醒めた酒が、今の一杯でまたボウと出て来たように、目元を染めて、ホーッと吐息をして、
「今度ッくらい、自分の身の上が儚なく思われたことはないんですよ。世の中では、河原者の身分ちがいのとさげすんでいる、舞台ッ子にさえ、わけへだての目で見られなけりゃあならないなんて――あたしだって、小屋もののむすめなんぞに生れなかったら、女だてらに、こんな渡世には落ち込んではいなかった、それを考えると、ときどきこれでも、遅まきながら改心して――なんて考えることはあっても、また、やけのやん八になってしまうんですよ」
闇太郎は、お初の、そうした愚痴に、同情しないではない――が、彼は聴き度くない。彼自身は、もう世の中に、ちゃあんと見切りをつけているのだが、仲間うちが、こんな弱音を吹くのを耳にすると、
――人をつけ、後悔しているんなら、とッとと坊主にでも商売換えをしてしまえ!
と、でも、男同士なら怒鳴りつけたいのだ。
相手が、女、折も折、じっと、怺えて、苦く笑って、
「まあ、姐御、そんなに腐らねえでもいいじゃねえか――どうせ踏み込んだ泥沼だよ――それに、素ッ堅気がっている奴だって、大ていおれ達と違ったものでもねえようだ。おれたちは、正直ものだから、正直に渡世をしているだけさ。何でもありゃしねえじゃねえか――くよくよしなさんなよ」
「くよくよなんかしたくはないけれど、此の世で二度と色恋なんかするんなら、ここまで持ちくずすんじゃなかったと思って――」
と、言って、お初は、またも、縋りつくような目つきになって、
「親分、恩に被ますよ――ほんとうに、さっきから言うとおり――ね、たった一度、ゆっくり話せればいいのだから――因果な女だと、嗤ってね――」
闇太郎は、もう、一刻も早く、この痴情に心魂を爛らしてしまった年増おんなの前が、逃げ出したくなった。
「わかった、出来るだけやって見ようが、――そのかわり、おまはんも、じっくり待つ気になって貰いてえ」
「ああ、辛抱出来るだけ辛抱していますからね――まあ、三日四日にネ」
闇太郎は、淋しいひびきを立てて、冷たい風が流れている往還へ出て、はじめて、ホッとすがすがしい息をした。
――何て、こったい! ああ意気地なく出られちゃあおいらにゃあ、口が利けやあしねえよ。女って奴あ。おれには苦手だ。
だが、彼は、雪之丞に誓った手前、どうしても、お初の口をふさがねばならぬのだ。
――太夫も、もう少し不男に生れて来りゃあよかったに――知らずに罪をつくっているというものだ。が、このままにはすまされねえ――お初には、未来までうらまれるだろうが、あいつを何とかして、世間と縁を切らせて置くほかはねえかなあ、当分の間でも――
闇太郎は、妙に陰気な気持になったが、
――なあに、大の虫、小の虫だ――お初、気の毒だが、おらあ、敵になるぜ。
どう、魂胆したか、闇太郎、その夜はそのまま、浅草田圃の仕事場にもどって行くのだった。
闇太郎は、浮かなかった。翌日一日、隠れ家で、細工場の机に坐っても、仕事に気が乗らず彫刀を取り上げてはすぐに投げ捨てたり、腕組をしては生あくびをしたりしつづけていた。
たそがれが来て、彼は鬱陶しそうにつぶやいた。
――ほんとうに、厄介なこッたなあ――おらは全く厭だ。お初なんて女の子とかかり合うのはやり切れねえ――が、あいつは気違いだ。あのままで置きゃあ、雪之丞の、向うにまわって、どんなことでもする奴だ――女の執念は怖ろしいものだからなあ! ところでと、どんな風に始末したらいいものか?
雪之丞の前では、何とか必ず処理するとはいって見たものの、最初から、一すじ縄で行かないのはわかっていた。日ごろの気ッ風として、金に目をかける女ではなし、どんな場合でも、あとへ引くような性ではなし、結局は、何か、荒っぽいことになる外はないと思っていたのが、とうとう、その日が来てしまったのだ。
――あれだけ、このおれが頼んで見ても、いっかなうけひかねえのだから、もうこの上は、無理にこっちのいうことを肯かせるばかりだ。あんなに一心になっているのに、可哀そうな気もするが、大切な雪之丞のためにゃあ、鬼になる外はあるめえよ。
闇太郎は、一人ぐらしの気易さ、二たまわりの平ぐけを、きゅッと締め直すと、入口の戸を引き寄せて、突ッかけ草履――三の輪の方へ出かけたが、婆さんが、駄菓子をあきなって、伜はふらふらして、手あそび稼業、闇太郎と、しじゅう賭場で顔を合せる、ならずの新吉という男を訪ねた。
「儲け仕事というんなら、いくらでも乗りやすぜ――このごろ、ずッと勝負が悪くって、すっかりかじかんでいるんですから――」
「まあ外へ出て呉れ――歩きながら話そう」
闇太郎は、新吉を連れて、大恩寺の方へあるいた。まだ、宵にもなっていないのに、新吉原の方角から浮いた浮いたの、その癖不思議にさびしい太鼓の音が流れて来る。
「なあに、今夜、おれがしょぴき出すから、女を一匹、谷中の鉄心庵ッて古寺にかつぎ込んでくれりゃいいんだ」
と、闇太郎が言うと、
「へえ! 女の子を――」
と、闇太郎をいぶかしげに眺めて、新吉が、
「親分が、女の子とかかわりが出来たなんて珍しいね」
「なんの、人をつけ! 今更、女ぎれえで通ったおれが、阿魔ッ子風情に目をくれるもんか! ただ、当分、日の目を見せられねえわけのある奴がいるんだ――それで、暫時、鉄心庵の和尚に引ッくくッて置いて貰おうと思って――」
「相手は?」
「ちっと、筋のわるい女さ。彫りものの一ツもあろうというような――ふ、ふ、妙なひッかかりで、とんだ罪を作らなきゃあならねえんだ。そこで、腕ッぷしの強い若手を二人ばかり支度して、湯島の切り通しに、ずッと張っていて貰いてえんだが、寛永寺の鐘が四ツ打つころ、つた家ッて提灯のかごで通る。そいつを、そのまま、鉄心庵にかつぎこませりゃあいいんだよ。わかったか?」
「かごの中でじたばたしても、引ッくくって持ってきゃあいいんだね――わけはねえ」
と、新吉は何でもなげにうなずいた。
その夜更け――
湯島切通しの、大きな椎の樹の下の暗がりに、人目を避けるように、何か、待ち合せでもしているような振りで、三人の若者が、いずれも、素袷に、弥蔵をこしらえて、夜寒むに胴ぶるいをしながら佇んでいたが、これは、いうをまたず、闇太郎に頼まれて、お初攫いの役目を買った、ならずの新吉と、その一味だ。
「ハ、ハックショイ! やけに冷えて来たぜ」
「うん、もう、じきに師走だものなあ――こんなことなら、燗ざけの二、三本も、注ぎ込んで来るんだっけ」
若い者がつぶやき合うのを、新吉が、
「何でえ、江戸ッ子が、その若さで、水ッ鼻をすする奴があるか――雪が降っても、着物を着て素足に草履、それが、おいらの心意地だぜ――なに、もう少し辛抱しろよ。今夜、仕事がすめば、ゆっくり遊ばしてやらあ――こう、作蔵、てめえ、千住に深間が出来たって話じゃあねえか?」
「え、へ、へ、へ」
と、若者の一人が、笑って、
「なあにネ、そいつがついこないだ、羽州羽黒山のふもとから出て来たというんでしてネ。ねやの睦言って奴も、なかなか呑み込めねえんで――おみいさまあ、また、ずくに来てくんろよ――と、来やがらあ――へ、へ、へ、へ」
「生、いうなッてことよ、作に情女が出来るなんて、年代記ものと、こちとらあ思っているんだゼ――まあ、せいぜい大事にしてやるこった」
馬鹿をいっているところへ、向うから上って来る町かご――
「おッ!」
と、新吉がみつめて、
「こんどは間違いッ子なしだゼ――提灯に、赤い字で、つた家と書いてあらあ――かご屋はぐるなんだ。押えて、垂れの外から、八公に渡して置いた縄でぐるぐるまき、池の端から、お山の裏へ抜けて、谷中の鉄心庵にほうり込みゃあいいんだ。わかっているな」
「うん、合点だ」
ホラショ! ホイ! と、切通しのだらだら坂を、半ば上って来た、つた家のかごに乗っているのは、勿論軽業お初だ。闇太郎から、雪之丞がさすがに身につまされたと見えて、今夜、湯島境内の出逢い茶屋で、閉場てから逢おうといってくれたと聴いて、恋には、前後の差別もなく、カーッと胸をおどらせてしまった彼女であった。闇太郎が、このかごが、茶屋をよく知っているからというままに、迎いの乗物に身をまかせて揺られて来る道々、お初ほどの女、ただもう、十八の小むすめのようにワクワクして、それ以外のことに、気をくばるひまもない。
――たった一度でいい――と、誓ったあたしだ。さきにも大望があるというからには、しつッこく、二度、三度、と又の逢瀬はねだれない――せめて、今夜一晩は、明けるまで、夜っぴて、思いのたけをいってやらなくっては――
雪之丞の、あの凛として、白梅のような美しい顔が、目にうかんで、彼女の魂を、鋭く、しかし、甘ったるく、噛み破ろうとするのであった。
――たった一晩、――あたしはそれを一生ほどに思っているのだよ、太夫――
ひたむきの執念に、燃え焦れたお初、かごに揺られながら、もう広小路を越して、いよいよ湯島の切りどおし、それも、半ばは上って来たと思っていると、ふと足音がだしぬけに近づいて、
「おい、そのかご、待って貰おう」
と、低い脅かすような声がいって、棒鼻を抑えた容子――
それで、彼女の、甘ったるく、遣る瀬ない、恋路の夢が、突如として、中断されてしまった。
はッと、さすがに、びっくりすると同時に、手が、帯の間の匕首にかかって、
――畜生! 岡ッ引きか?
万一、このかごの主を、軽業お初と知って、押えにかかったのなら、遮二無二、切ッ払って逃げる外はない――ここで、縄目にかかれば、どうせ、二度と、娑婆の、明るい日の目を見られぬからだだ――恋も、色も、それどころか、明日のいのちが、それっきりだ。
――それとも、追剥ぎ、ゆすりか? それなら、いかに物騒な世の中だって、おもしろすぎる――この黒門町のお初をおどしに掛けようとは――
かごが、とんと下に下ろされたので、
「若い衆、何ですね? こんなところへ下ろしたりして――」
と、わざと、中から、探りの声をかける。
「何だとおっしゃって――どうにも仕方がねえんで――」
「うるせい! 黙っていろ!」
と、叱ったのは、癇癪持らしい若い声だ。
「かごの中のお人、しずかにしておいでなせえよ――騒ぐとために成らねえ――」
と、同じ声が――
「さあ、愚図愚図しねえで、からげてしめえ」
お初は、その言葉で、何かしら巧にかかったのだと直覚した。
――そうか! 闇太郎の奴、苦しまぎれにハメやあがったな――男らしくもねえ。
垂れを、パッと刎ねて、匕首をつかんで、飛び出そうとしたが、もう遅かった。その時にはかごを繞って、丈夫な縄が、ぐるぐるとまわされて、切り破るにも法がつかない。
「姐御、まあ、おとなしくしていさッし」
と、馬鹿にしたように若者はいって、
「なにも、いのちを取るの、奉行所へかつぎ込もうというのじゃあねえんだ。姐はんがのさばり出しては、都合がわるいんで、一時、寺あずけというわけさ、まあ、まかしておきなせえ――さあ、若い衆、いそいでくれ」
かごが、荒っぽく、ぐっと上る。
そして、突然、飛ぶようにいそぎ出すのだった。
お初は、かごの中で、青ざめて、唇を噛んだ。
――おいらも、焼きがまわったよ――あんな男女みてえな奴にいのちまでもと惚れ込んだのも、只ごとじゃあなかったんだ――だが、じたばたしたってはじまらねえ。もともと、泥棒になり下ったのも恋のため――二度と、男なんかに見向きもすめえと思っていながら、こんなことになったのもめぐりあわせだ――ただ、このまま、闇太郎の野郎なんぞに、おッ伏せられているおいらじゃあねえ筈だ。お初ちゃん、落着いて、一思案というところだぜ。
かごは、なおも一散に走っていた。かご脇を二、三人の男が、駆けている足音も聴えていた。
雪之丞は、今は、目的の遂行にいそがねばならぬのだった――追ッかけられるような不安が、いつも落ちつきを失わぬ彼の胸をも、いらいらと焦り立たせるのだった。
師匠すじの、先輩たちは、絶えず、狽てふためくな、しずかに、しっかりと進んでゆけと、忠告するのだが、闇太郎だけは、そうはいわなかった。あまり大事を取っているうちには、どんな邪魔がはいらぬものでもないと、いってくれた。彼には、この言葉に、真理があるように思われてならない。
――ほんとうに、ここまで苦労して来て、思わぬことから、たくらみが暴われてしまったら、それまでだ。敵は強い――敵は多い。一どきに、わしの一身なぞは、粉微塵にされてしまうであろう――こうしてはおられぬ。あのお初とやらのことにしろ、魔が差したのだというてもよろしい。
闇太郎に、お初の始末をたのんでから、あの不思議な友だちが、ああいってくれたものの、どうなったかと、まだ心に悩みも残って、芝居が閉ねると、招宴をことわって、宿に戻り、じっと灯の下に腕を組んでいたのであったが、女中が来て、
「浅草のお知合い――と、申せば、おわかりとのことでございますが、お客さまが――」
雪之丞は、沈思から醒めて、
――おお、では、闇太郎親分が――
と、思い当ったので、
「どうぞ、こちらへ――」
客というのは、案の定、あの江戸名代の怪賊だった。闇太郎、今日は、いつものみじんの素袷、素足ではない。髪もおとなしやかに、細く結って、万すじの着物、短か羽織――はいって来ると、慇懃そうに坐って、
「御注文の、根付が出来ましたで、持参いたしました――遅く、御迷惑でありましょうが、楽屋より、お宿で、ゆっくりと仕上げの御覧を願いたいと存じまして――」
女中の、見ている前で、ふところから、大事そうに取り出して袱紗づつみ、それをほどいて、小さな、桐の箱を、雪之丞の前に置く。
明るい世界に顔を出すので、用心に用心を重ねている闇太郎の気持を察して、雪之丞も、手際よく受ける。
桐の小箱を取り上げて、中から、精巧な牙彫の根付を出して、じっと、灯にかざして、
「これは、まあ、結構に出来ましたな。上方へ戻っての、いい自慢ばなし――ほんに、この鷹のすがたは、生きているようでありますな」
「絵柄は、わたしも、随分と吟味いたしたつもりで――鷹は、百鳥のつわもの――一度見込んだ対手は、のがしっこがないといわれてますゆえ――」
して見ると、闇太郎、出入りの口実のために、出たら目の細工ものを持参したのではなく、とうから、雪之丞に贈ろうと、この鷹の根付を苦作していたのに相違ない――雪之丞、感謝のおもいを、一そう深めないわけにはいかぬ。
「縁起をかつぐ渡世柄――ありがたいお見立て――」
「こないだお訪ねのときも、実は、一生懸命、これを彫っておりましたわけ――」
と、いったが、闇太郎、女中が茶を進めて出て行ってしまうと、
「耳は?」
と、あたりを兼ねるようにして、囁くように訊ねた。
雪之丞は、あたりを見廻わすような闇太郎の目つきに答えて、
「今夜は珍しく、お師匠さんも、鍋島さまのお留守居のお招きで、お出かけ――隣は空間でござります」
闇太郎は、うなずいて、一膝すすめて、
「実はな、あれから、直ぐに、お初のところへ押して行き、一通り理解しようとしたが、知っての気性、ああいえばこう――じまがったことのみいうので、仕方がねえから、一先ず、陣を退き、今夜あらためて策を立てて、あいつを誰も知らねえところに、押し込めてしまったゆえ、当分はまず安心しなせえ」
「まあ、では、どこぞ遠くへでも――」
いくらか、ホッとしたように、しかし眉をひそめるように、雪之丞は目をみはった。
「いんや、つい、近間さ――江戸というところは不思議なところで、お寺の縁の下に窖が出来ていてことによると、一生日の目の見られねえようなことにもなるんだからね――」
「まあ? 怖ろしいことでござんすなあ」
「向うが油断すれば、こっちの餌じき、こっちが脱かれば、向うの食いものになるのが、御府内さ――活馬の目を抜くとはうまく言っているな――だから、みじん、隙は見せられねえ。お初の奴が、片意地を張るにまかせて置きゃあ、あべこべにおめえが、どんなことになるかわかったものじゃあねえから、思い切って荒っぽく出てやったのよ。しかし、何も、いのちを取るわけでもなし、おめえの仕事がすんでしめえば、すぐに引き出してやるつもりさ」
と、いって、闇太郎、雪之丞をじろりと見たが、
「とはいっても、先きも軽業お初だ。あんまり安心していると、鉄檻でも脱けかねねえ奴――おめえの方も、きびきび行らかす心支度が出来たかな?」
「はい、もう、鈍ってはいられませぬ。必ずすぐに、敵のふところに食い入るつもり――」
雪之丞は、伏目になって、うめくように答える。
「十何年のつもる恨み、心の刃に錆はついていねえだろうが、なあ太夫、望みを果したら生きていぬ気で、存分にやるがいいぜ。骨はおいらが拾ってやるからな」
闇太郎の言葉を、たのもしげに聴く雪之丞、
「万一、わたしが、望みの半分をのこして死ぬことがありましても、魂魄をこの世にとどめて、必ず、生きのこった人達を呪い殺してやるつもりでござります」
「おお、その覚悟が第一だ――それに、のう、太夫、はたからいらざる差し出だが、この闇太郎とて、いわば一心同体のつもり――もしもおめえが行りそくなったら、必ずおいらが、残る恨みを晴らしてやるから――」
「かたじけない――親分」
と、雪之丞は畳に手を、
「冥土の父親母親が、草葉の蔭から、さぞお前さまのお心持を、ありがたがっておりましょう」
「いやいや何でもねえことだ」
と、闇太郎は、かなしげに微笑して、
「おいらも、五体五倫をそなえてこの世に生れて出ながら、こんな始末、せめておめえの大望を助けるのが、現世にのこす善根――その善根を、おめえなりゃあこそ積ませて呉れるというものだ。礼をいうのは、こっちのことだ」
――大事を取れと、言うて下さるも、わしを思うておいでなさればこそ、油断なく、いそげと言ってくれるも、わが身の心を推量していればこそ――
雪之丞は、この世に享けたいのちを、呪わしく怨じつづけている身ながら、思いやりの深い、師匠、心友の情を想えば、うれしさに涙ぐまれて来る。
――若し、かかる方たちと、何のかなしみも、怒りもなく、楽しく交際うて生きて行ける世の中であれば、どんなにうれしいことであろう――それを叶わずさせたもあの敵どものなせる業――よし、とてものことに、現世ながら、魂を地獄に堕し、悪鬼羅刹の権化となり、目に物見せてつかわそう――
「親分、今宵を限りで、雪之丞は、人界の者ではないとお思い下さりませ。明日よりは、鬼のこころとなるつもり――」
闇太郎は、励ますように、
「噛まれたら、噛め、斬られたら、斬れ――おめえが、どんな酷いことをしてやろうと、お父さんお母さんの恨み、おめえ自身の苦しみに比べりゃあ、物のかずではありゃあしねえ、気を弱く持っては駄目だ。敵というかたきの、咽喉笛に喰いついてやんねえ。曾我兄弟は十八年――おめえの苦心も、ずい分長いものだったなあ」
雪之丞は、行灯の光をみつめるようにしながら、じっと、唇を噛んでいた。
闇太郎は、ふと、気がついたように、
「あの女のいきさつを知らせてえし、何だか気にもかかるので、やって来たのだが、長居は怖れだ。師匠でもはいって来ると工合がわるい。じゃあ、けえるぜ」
「何から何までお心添え、一生、未来、忘れることではありませぬ」
「おいらも、おめえのことは、一刻も忘れねえつもりだ――しがねえからだだが、いつもいつも、うしろには、田圃の職人がついていると思って、存分にやってくんなよ」
闇太郎は、立ち上った。
見送る、雪之丞――女中どもの前では、どこまでも、役者と、牙彫師――
「では、雪之丞親方、いずれそのうち」
「そなたにも御機嫌よろしゅう」
その翌夜。
雪之丞は、魚河岸から、美しい交ぜ魚、上方から持って来ていた京人形、芝居錦絵、さまざまな品を、とりそろえ、二度目の病気見舞として、三斎屋敷に、例の浪路を音ずれた。
こないだ、盗賊の害を、未然に防いでくれたというので、土部家の歓待は、前にもまして、今は殆んど、内輪の者も同然の心易さだ。
隠居は、恰度、入浴中とかで、すぐに、浪路の病間――奥まった離れに通される。
実家に戻ったばかりには、恋にやつれて、正真の病人らしく見えるまでに、やつれ衰えても見えた浪路、雪之丞と、かたく誓いをかわしたと信じ切った今は、頬のいろも生き生きと、瞳には、きらめかしい輝きが添わって、唇の艶は、まるで、春の花のようだ。
その目、その口が、雪之丞を見たとき、燃え、喘いだ。
「まあ、いそがしい中を、よう忘れずに――」
と、飛びつくように、彼女は迎える。
「お忘れして、どういたしましょう――」
と、雪之丞は、媚びて、怨じて、
「お言葉が、うらめしゅうござります――わたくしの胸を、どう思召しておいでやら――」
人を交えぬ、二人だけの、離れ家の静寂――絹張り、朱塗りの燭の火が、なつかしく輝く下に、美しい、若い男女は、激しい情熱の瞳を見かわしたまま、いつまでも、手を取り合っていた。
浪路の、息ざしは、荒々しく、喘ぎもだえる。
「どのようにわたしが、逢いとう思っていたか――とても、にぎわしい日を送るそなたには、推量も出来ぬことだと思います――昼も夜も、現にも、夢路にも、ただもう、そなたのおもかげばかりがうかびつづけて――別れている間がこのように苦しいと知れば、いっそ、逢わずにいた方が、ましであったとさえ怨みました。怨んでならぬことではありますけれど――」
「わたくしとて、百倍のおもいに、わが身でわが身を、どうすることも出来ず、大事な舞台の上ですら、ともすると、御見物衆の中に、あなたさまのお顔が見えたような気がしますと、手ぶり、足のはこびも狂い、何度、ハッと胆を冷やしたかわかりませぬ。さりとて、しげしげと、お見舞に上れる分際ではなし――ひたすら、われとわが素性のいやしさが悔まれて――男のくせに、と、おわらいなさるかも知れませねど、浅草寺の鐘のひびきを聴きあかす宵に、枕がみを涙でぬらしたことでありましょう」
雪之丞は、口の中に、苦い、辛いものが、一めんにひろがるような気持を感じながら、狂言の台詞をいうより、もっと情をこめて、輝きの美しい瞳に、涙をさえ見せて、こんなことを囁くのだった。
浪路の情緒は、唆り立てられ、煽り立てられ、沸き立たせられる――彼女の全身は、いかなる炎よりも熱く燃えて、殆んど焼け死ぬかと思われるばかりだ。
「まあ、そなたも、ほんとうに、それまでにわたしを思うていておくれでありましたか?」
笑っていいか、泣いていいかわからないもののように、白い匂わしい美女の顔は歪み、紅い唇は、熱烈な呼吸に乾いて来る。
「ほんとうにそうなら――でもわたしには、何となく、まるで夢を見つづけているような気ばかりされて――」
と、彼女が、一そう強く、手を引きしめると、雪之丞も、緊めかえして、
「夢でもござりませぬ――まぼろしでもござりませぬ――わたくしの手を、こうしてつよくつよくお握りになっておいでではござりませぬか?」
「うれしい!」
と、浪路は、歓喜に戦慄して、
「わたしはもう死んでも――」
「又しても、もったい無い――」
雪之丞は、あわただしく抑えた。
「わたくしこそ、このことが、御前さまにお気づかれ申して、この場でいのちを召されましょうと、いっかな後悔はいたしませぬ」
「のう、雪之丞どの!」
と、切なる声で、浪路は激しくささやいた。
「わたしには、もう、一刻も、そなたとはなれては、生きていられぬような気がします――わたしは、うれしい――苦しい――切ない! 雪之丞どの」
「浪路さま!」
雪之丞の、腋下からは、冷たい汗が、しとどに流れ落ちて来る――
――ああ、何という浅間しいいつわりがこの口から出るのであろう! だが、わしはもっと、嘘をつかねばならぬのだ。
「のう、太夫――雪どの」
と、浪路は、なおも焼け付くような目で、あからさまに、雪之丞を凝視して、烈情に、身もがきせんばかりに、
「わたしは、まそッと、まそッと、そなたにぴったり近よりたい。身も、こころも、魂も、二度とはなれることのないように、ひとつになってしまいたい――」
それが、叶わぬ、この生れた家の一間を、彼女は呪い、憎まざるを得ないのだった。
雪之丞は、ただ、深く、熱い歎息をむくいるだけだ。
「のう、わたしには、もはや、こんなよそよそしげな仲では、いられない――雪どの、たとい、今夜、死なねばならぬとしても、わたしは、そなたと夫婦になりたい――」
「あなたが、このお屋敷の御息女であるかぎりは――公方さまの、おん想いものであられるかぎりは、それは存じもよらぬこと――わたくしこそ、お目もじいたさぬ昔が、恋しゅうござります」
雪之丞が、さも、悲哀に充ちた調子で、そう言って、うなだれてしまうと、火のように熱い息が、彼の耳朶にふれて、そして、驚くべき囁きが、聴かれるのであった。
「では、わたしは、この家を、抜け出しましょう――」
「ま、何ということを!」
と、雪之丞は、びっくりしたように、
「このお家を、お抜け出しになる?」
「いいえ、あとで、そなたに迷惑のかかるようなことはせぬ――お城へ二度とかえる位なら、死んでしまおうとまで決心している身、姿をかくしたとて、何で、情深い父上が、しんからお咎めになるでしょう――そなたの名はださず、わたしは、町家に身を堕してしまいましょう」
「いいえ、わたしの迷惑なぞ、少しもいといはいたしませぬが、もし、公方さまのおいかりにふれたなら――」
「公方さまとて、同じ人間――女の魂までも、自由になさることは出来ませぬ。いつぞやもこのわたしは、そなたと一緒に棲めようなら、どのような山家をも、いといはせぬというたはずじゃ」
「浪路さま! わたくしを、それほどまでに――」
雪之丞は、ともすれば、相手の至情、至恋に、哀れさを覚えようとするのであったが、浪路の白い和らかい肌の下には、親ゆずりの血が交うているのだとおもえば、いい難い汚らわしさが感じられて来るのだ。
――このわしに、人がましい心さえ持たせぬようにしたも、みんな、そなたの父親たちの悪業から――わしを怨むな! 父を怨め!
「それほどまでに――なぞ、言われるとは、そなたも、あまりに、女ごころをお知りにならぬ――雪どの、そなたのうつくしい姿に迷うて、身も世も要らぬとまで思い込んだ女子は、かず多くありましょうが、この浪路は、日本六十余州を、おんあずかり申される、将軍家の、限りない御寵愛を、草履のように打ち捨てて、そなた一人と思いかえたのではありませぬか――さらさらそれを誇るではなけれども、今少し、この胸の中を察してたも――」
「冥加とも、かたじけないとも――この雪之丞とても、尽未来、あなたさまのほかに、世上の女性にこころをうごかすようなことはいたしませぬ――」
二人は、抱き合うようにした。美女の、髪の香の、何という悩ましさ!
浪路は、雪之丞の胸にすがりつくようにしたまま、昂奮と感動とに、声をわななかせて、誓うように言うのだった。
「雪どの、わたしの言葉が、真実であるか無いか、もうじきに、そなたは思いあたりなされますぞえ――この生家に、いつまでも日を消していたなれば、御殿から、かえれ、もどれと、申して来るは知れたこと――現に今日も、重役の老女が見舞に見えられて、今は窶れ哀えも見えずなったゆえ、一日も早う、大奥へ上るように――と、くりかえしていってでありました。のッぴきならぬお迎いが見えぬうち、わたしは、この屋敷から、屹度屹度、すがたを消して見せまする。そして、しばらくするうちには、慈悲ぶかい父上、かならず御殿を何とかいいこしらえ、晴れて、そなたと共ずみも出来るよういたして下さるに相違ない――のう、雪どの――早う、その日が来ればようござりますなあ」
「ほんに、たった一度でも、そのような日に生きることが出来ませば、はかないこの身、いかなる科に逢おうともくやみませぬ」
雪之丞は、ひたむきに、恋に焦れ、ひとすじに、父親の愛情にすがろうとする、浅はかな女の心根が、不憫にも思われる。
――哀れな女性よ! そなたは、わしの心の中には、いうまでもなく気がつかず、また、あの三斎隠居の、やさしげな顔に、どのような冷たさがかくされているのかも知らぬのだ。あの老人は、なるほど、良いむすめである間は、そなたをいかほども愛くしもうが、一度、心に背き、自分の栄華栄達の道具に使えぬとわかったときには、子にもせよ、娘にもせよ、もはや敵として憎むほかはないであろう――
雪之丞の胸は、暗くなり、気弱ささえ出て来たが、そのとき、廊下で、足音がして、衣ずれが近づいた。
浪路は、うらめしそうに、その方へ目をやると、雪之丞から、やっと離れる。
いつもの老女がはいって来て、
「大分、おはなしが、お持てになりますような――」
と、何もかも、のみ込んだように微笑したが、
「太夫どの、御隠居さま、おたずねをおよろこびなされ、お杯を下さるとのこと――お居間まで、おいでなされませ」
「かたじけのうござりまする」
雪之丞は、浪路の許をはなれる機会を得たのをよろこんだ。
じっと、浪路を見上げて、手を突いて、
「それなれば、御隠居さま、お召しでござりますゆえ、これにてお別れをつかまつりまする」
「それなれば、そなたも気をつけて――」
と、だけ言うのが、浪路には、一ぱいのように見えた。
そして、熱にうるんだような目で、
――今の言葉は、かならずともに、おぼえていてたも。屹度屹度誓いを果そうほどに――
――必ず、その日を、まちまする。
と、いうように、雪之丞も、今一度、浪路と目を見合せた。
居間では、三斎隠居、湯上りの顔を、テカテカさせて、上機嫌だ。
「おお、忘れず、ようこそ娘を見舞うてくれたの。今宵は、めずらしく、客もなく退屈のところ、ゆるゆる相手をしてくれますよう――」
雪之丞は、かぎりない恭敬さを以って挨拶するのだった。
五日ばかりが過ぎて、江戸は、いよいよ、真冬らしかった。
芝居小屋の前に立ちならぶ、幟の、青、紅、藍の、派手派手しい色も、いくらかくすんで来て、中村座の顔見世狂言も、千秋楽の日が、そう遠くないことを思わせる。
その晩、雪之丞は、すばらしい贈りものを受けた。さる贔屓よりという名義で、彼自身へは、越後屋見立ての、名にちなんだ雪に南天の――その南天には、正真の珊瑚を用いたかと思うばかり、染いろも美しい衣裳一かさね。外に、金襴の帯――師匠菊之丞へは、黄金彫りの金具、黄金ぎせるの、南蛮更紗の莨入――ほかに、幕の内外、座中一たいに、一人残らず目録の祝儀という、豪勢な行き渡りだった。
雪之丞にも、この無名の贈り主に、ちょいと、心当りがなかった。
――大方、どこぞの、大名隠居か、お金持の仕わざであろうが、さすが、江戸の衆は、思い切ったいたずらをなさる。
なぞと、思っていると、楽屋に一通の文が届いて、ひらいて見れば、珍しく、広海屋主人からの招きのたよりだ。
――おお、広海屋! あの人は、いつぞやの、わしの言葉を、どう聴いたであろう! 上方持米の、江戸廻送を、ほんとうに行ったであろうか?
孤軒老師のおしえで、広海屋と長崎屋を、深刻に噛み合せるために計った、あの策略が、どんな功を奏したか、もう結果がわかるころであった。
雪之丞は、否やなく、閉場をまちかねて、かごに揺られて、例の根岸の、ひっそりした鶯春亭の奥座敷に、広海屋の席へ出た。
広海屋は、今夜、いつもより一そう福々しく、しかも、細い、象のようにまぶたの垂れた目が、生き生きと、きらきらと輝いているようだ。
「さあさあ、これへ――堅固で、相変らずの高評、お目出たいな」
と、富豪は迎えて、
「ときに、今夜、楽屋に、思いがけぬものが届いたであろうが――」
雪之丞は、広海屋の、極上の笑顔を見て、
――さては、あの贈りものの主、この人だったのだ――
と、思い当った。
「は――」
と、何か、答えようとすると、押っかぶせて、
「いや、つまらぬもので、礼には及ばぬが、実は、あれは、そなたへ、お礼と言い、かつは、心いわいのしるしじゃ。こころより、受納にあずかり度い」
「お礼と、おおせますと?」
雪之丞――例の一件に関してのこととは思ったが、気がつかぬふりで――
「何やらわかりかねまするが――」
広海屋の声は、急に低く低くひそまった。
「おわかりにならぬかな? 思い当ることはないかな? のう、太夫、そなたのおかげで、この広海屋、どうやら、江戸指折りの男になれそうじゃが――」
「お言葉、狐につままれもいたしたようで――」
どこまでも、雪之丞は、芸道一すじの、邪気のないふりでいう。
「忘れられたかな? そなた、いつぞや、お重役衆が、わしについて何か仰せられていた話を聴かせてくれたであろうがな――な、思い出したであろ?」
広海屋は、ますます目を細めて、雪之丞をみつめるのだった。
広海屋の、さも満足げな目つきを、じっと見返した雪之丞、ハッと、思い当った風で、軽く、しなを作って、膝を打って、
「はあ、いかにも、思い出しましてござりまする――江戸表、米穀払底の折柄、上方のお持米をおまわしになりましたら、さぞ世間がよろこぶであろうという――あの、お噂ばなし――」
「そうそう、その事じゃて――」
と、広海屋は、大きくうなずいて、
「商売のことは、何がきっかけになるかわかるものでない。他人さまのお噂を、すぐに告げてくれられた、そなたの心入れもうれしいが、それを仇耳に聴き流さず、早速決心、手配した、わしの心持も、まず讃めて貰わにゃならぬ。わしが、上方で買いしめて置いた米を、東へ、のこらず一どきにまわすといい出すと、店の番頭手代どもも、持ちこらえておれば、高う売れるものをと、否やをいうものもあったが、押し切って、大荷を、船積みさせたほどに、もう二、三日で、品川の海から、米船が、ぞくぞくとはいって来るわけ――これで、江戸表の、天井知らずに騰っている米価が、ずうんと下るは必定――その上、施米なぞもいたすつもりで、お上役向、名高い御寺の上人さまにも、御相談申しておれば、おかげで、広海屋の名は、天下にひびきますぞ――」
「それは、また、思い切ったなされ方――江戸の人々はさぞよろこびましょうが、それにしても、大した御損を見るわけ――わたくしは、よけいなことを申し上げたような気がしてなりませぬ」
雪之丞が懸念そうに、眉を寄せて見せると、相手は、かぶりを振って、
「いやいや、もともと、上方、西国の田舎に手をまわし、貧しい百姓のふところの窮迫を見とおして、立毛のうちに、ごくやすく手に入れて置いた米、なんぼう安く売ろうと、儲けは十分、ことさら、一どに大金がはいるわけゆえ、その利分がまた格別じゃ。世間さまの、評判をいただいた上、大金もうけも出来るというので、このところ、広海屋万々歳――そなたには、どれほど礼をいっても足りませぬ」
雪之丞は、しかし、ため息を吐いて、
「とは申せ、米価騰貴をお見越しになり、商いをなされておいでだとうけたまわる、長崎屋さまにはさぞ、お手傷でござりましょう――わたくしは、あのお方にも、一方ならず肩入れをいただく身、今更、何となく、申しわけない気がいたしまする」
と、わざと、しおれて見せると、広海屋が、きっぱりとした表情になって、
「その辺は、わしも考えて見ましたが、長崎屋が江戸の人々の困難をつけ目に、すわこそと、安く仕込んだ米に十二分の利得をみせて、只今の高売りをいたしておるは、どこまでも、人の道にはずれたはなし――わしもあれとは、仲の良い友達だが、また、今度のうめ合せは、あとでいたして上げられもしましょうゆえ、この場合は、世間さまの御便利をはかるが、何よりと思ったでな――ま、そのようなことは、わしにまかして置きなさい――なんの、そなたが、長崎屋一人を贔屓のかずから失おうと、わしがついている限りは、大船に乗った気で、安心していて貰いたい――ときに、今夜こそは、前祝いに、これから、吉原へ、是ッ非、一緒にいって貰いたいな」
ポンポンと手を鳴らして、
「末社どもに用談すんだと申してくれ。そしてすぐに吉原へゆくゆえ、乗物の、支度支度」
雪之丞も、つねづねならば、仲の町のお供なぞは、平に辞退するのであるが、今宵は、自分の差し金で、広海屋が、上方米を廻漕し、やがて、長崎屋と一戦を、開始することにもなろうと言うことを、ハッキリと聴いたので、一種、異様な満足を覚え、なおもとくと、この大商人の有頂天なありさまを見聞し、やがて打って変った大打撃をあたえた場合、喜悲両様の表情を思い比べて見たいというような、意地の悪い好奇心にさそわれ、ともども北廓への乗ものをつらねたのであった。
花こそなけれ、菊こそすぎたれ、不夜城のにぎわしさ! 明るさ! 引手茶屋に着くと、いつか、先乗りが触れ込んでいたと見えて、芸者、太鼓持が、かごを下りる姿を見かけて、ずらりと顔を揃えて迎える。
「よう、お大尽の御来駕!」
「名古屋山三さまの御着到!」
錆ごえを、ふりしぼるのもあれば、金切ごえを振り上げる女もあり、すぐに、かつぎ上げるようにして、一行を、二階に押し上げる。
百目蝋燭を、ともしつらねた灯光が、金屏風に、度強く照り映えるのも、この土地なれば、浅間しからずふさわしく見える。
琉球朱のしっぽく台に、料理がはこばれ、めぐる杯と一緒に、お座つきは、太鼓がはいって、
「執着」のひとふし――
それが、済むと、浮いた浮いたと、太鼓持が、結城つむぎのじんじんばしょり、甲斐絹のパッチの辷りもよく、手ぶり足ぶみおもしろく、踊り抜いて、歓笑湧くがごときところへ、広海屋の馴染の、玉葉太夫というのが、たいまいの笄、蒔絵の櫛も重そうに、孔雀の尾のうちかけを羽織って、しずかに現れる。
「イヨ、弁才天女の御来迎!」
何やかやと、あり来たりの掛ごえがあって、酒興はいよいよたけなわになるのであった。
明日は、大切な舞台を控えている雪之丞、いい程にして、戻ろうと、杯の水を切って、
「逆にて御無礼ではござりますが――」
と、広海屋に献した。そのときだった。
階下で、何やら女たちのかしましい歓迎のこえが聴えたが、その中に、ふッと、
「これは、まあ、ようこそ! あちらさまは、もうとうにおいでになっております。さあ、どうぞ――」
と、いうような言葉がまじるのを聴くと、広海屋は、屹と、鋭い目つきをして、眉根をぐっと引き寄せた。
そして、雪之丞にちらと目まぜをして、
「ほう! 長崎屋が見えたらしいぞ。いつも、わしと一緒じゃで、此家では今夜も伴れと思うている」
雪之丞は、胸が躍るような気持がした。自分の、ほんのちょいとした暗示から、百年の親友が、一朝にして仇敵と変じるのだと思うと、二人の顔を、見比べてやることの、どんなに痛快なことであるか!
「そうそうその広海屋さんが、今宵、大方、こっ家へこられたように聴いたので、来ましたが――そうか、やはりおいでなされたか――」
そんな声が、階段の方で聴えたと思うと、女房が入口に手をついて、
「日本橋河岸さまがお見えなされました」
「蛇の道だな――さすがに――」
と、広海屋が、わざとらしく笑って、
「さあ、長崎屋さん、おはいりなされ」
雪之丞も、かたちをあらためた。
長崎屋三郎兵衛は、茶無地の羽織に、細かい縞物、みじん隙のない大商人風だが、今夜の顔色は、いつに似ず、青黒く、目が吊って、表情にあからさまな不機嫌さが、漲っていた。
その長崎屋、座中の男女が、かまびすしく、喋々しく歓迎の叫びを揚げるのにも、広海屋の笑顔にも、殆んど無関心に――と、言うよりも、寧ろ煩さげに、座にはいったが、
「御酒宴中を、迷惑とは思ったが、広海屋さん――こなたから、是非、伺いたいことがあって、行先きをたずねたずね、まいりましたが――」
長崎屋の、沈痛な顔いろに、側に寄って行った芸者も、太鼓持も、盃をすすめることも出来なくなったようであった。
「訊きたいこととは? 更まって――そなたと、わしの間で――」
広海屋は、持ち合せた盃を献そうとしたが、長崎屋は、それを、押しのけるようにして、
「いや、まず、お預けにいたそう――実はそこどころではなく、わしの店でも騒いでいるので――」
と、いって、屹ッと、相手をみつめて、
「こんな場所で、どうかと思うが、いそぐゆえ、伺いますが、こなたの上方の持米が船積みされ、今ごろは、もう、伊豆の岬にも、さしかかっているであろう――とのこと、実証でありますかな?」
「おお、おお、そのはなしでしたか!」
と、広海屋はさも、つまらないことのように、軽くうけて、
「いかにも、さるお方のおすすめで、江戸はかように、米穀払底、今にも、米屋こわしでも、はじまるばかりになっている折柄、そういっては何だが、裕福な、物穀商人、さては、扶持取り禄高とりのお武家衆のみが、遊蕩の、遊楽のと、のんきでいるのは、天地に済まないこと――広海屋は、幸い、豊作の上方、西国に、たんまり米を持っているとのことゆえ、この場合、思い切って、持米を東にまわし、損を覚悟で売ったら、江戸の人々への恩返しになろう――第一、その方は、西の果てに生れ、江戸で商人の仲間にはいっていること、こんなときこそ、――一肌ぬがねばすむまいが、――そんな風に申されたので、のッぴきならず、大損を見こしての回漕――いや、もう、長崎屋さん、お互のことだが、他国者はつろうござんすな」
ひどく、気軽に、しかも、不平たらだらのように、広海屋はいって、吸いつけた莨を、輪に吹いた。
長崎屋は、腕組をして、そのはなしを、じっと聴いて、上目づかいに相手をじろりと見て、
「なるほど、それで、おはなしの筋は呑みこめました。では、町奉行所にお願いを立て、貧民への施米、破格の廉売というのも、まことのことでござりますな?」
「さ、それも、こちらから申し出したわけではなく、お役向からの、ねんごろな談合、わしとて、爪に火もともしたい商人、すすんでのことではありませぬが、この際、おえらい方々に憎まれては、広海屋の見世の立つ瀬がないと思われたでな――はい」
広海屋は、恬然として、いって、
「実は、そなたにも、おめにかかって、施米、廉売の、片棒をかついで貰いたいと思っていたところじゃ」
長崎屋は、下唇を、ぐっと噛み締めるようにして、目を伏せて聴いていた。
「広海屋さん、おぬし、まだ、物忘れをなさるお年とも、思われませぬがな――」
突然、モソリとした口調で、長崎屋が言いかけた。
明らかに、反感と憤怒とがふくめられているその言葉を聴いたとき、雪之丞以外の一座の男女も、はじめて、この二人の間に、いつもとは全く反対な、暗い、怖るべき空気が流れているのに気がついた風で、ぴたりと、囁きごえさえ止ってしまった。
「は、は、は、わしも、もう六十――少し耄けているかも知れぬが、まだまだ、大事なことは、そう度忘れもせぬようじゃ。は、は、は」
広海屋は、歯牙にかけぬように笑って、杯に注がせて、口に運んだ。
「はて、それにしては、いぶかしい――おぬしは、わしという人間がそなたの友達の一人でいるのをすっかり、忘れておしまいになっていると思いましたよ」
長崎屋は、広海屋とは、言わば振り出しの分際が違っていた。長崎屋は、雪之丞の故家、松浦屋を奸計に、陥れて破滅せしめたころは、まだその店の番頭にすぎなかったし、広海屋は当時すでに、長崎表で、海産問屋の相当なのれんの主であったのだ。年も違う。
それゆえ、二人とも、浅間しい慾望の一部を成し遂げて、ともども、江戸にまで進出して来て、世間から、認められるようになったのちも、長崎屋は、広海屋を、どこまでも、先輩、上座として、表面に立てていたのだ。腹の中では、いつか雪之丞に打ち明けた通り、広海屋を、乗り越そう乗り越そうと計っているのではあったが――
されば、呼びかけの名にしても――
――広海屋さん――とか、
――お前さま――とか、
――こなた――とか、いうような言葉を使って、ついぞ、長崎屋の口から、
――おぬし――なぞという、ぞんざいな言葉が洩れたことはなかったのである。
――この人達には、何か、わだかまりがあるな?
と、心利いた太鼓持、年増芸者なぞは、思い当りもしたであろう。そして、座をはずした方が、よくはないかと、考えたであろう――
しかし、彼等は、途方に暮れた風で、そこに、そのまま、居すくんでいる外はないのだった。
――弱ったな! どっちも、しくじっては困る客だし――
ひそひそと、彼等は目と目を見かわしていた。
「どうしてまた、長年懇意にしている友だちを、忘れるようなことがありますものか――そなたは、何か、勘違いをしていなさるようじゃ」
広海屋は、相変らず、落ちついた調子で言って、
「一たい、なぜに、そのようなことをお言いなさるのか? わしには、見当もつかない」
「広海屋さん、この長崎屋は、今、手一ぱいで商いをしていますのだが、それは、よう知っていなさると思うので――」
長崎屋は、食い入るような目つきで、呻いた。
「その商いを、おぬしは、片はしからこわそうとたくんでいなさる――それが友達か?」
「長崎屋さん、そなた、少し食べ酔ってでもいなさらぬか――わしが、そなたの商いを、片はしからたたきこわす! そのようなこと、思うても見なされ、あろうことではない。わしとそなた、二十年の仲じゃ――そなたの仕合せをこそいのれ――」
広海屋が、長崎屋の憎悪に充ちた言葉を聴いて、こう答えて、猫なで声になって、
「それに、この座で、其のような話はちと不似合――商売のことなれば、あとでゆっくり談合いたすことにして、そなたも、まず、機嫌よく、一ぱいすごしなさいよ。福の神は、渋面つくっていると、とかく、向うを向くと、言うによってな――」
「いやいや、わしは、そんな心の閑はない――場所柄も何も、言っていられぬ破目なのじゃ」
と、長崎屋は、あたかも嘲りでも浴びせられたかのように、却って、ますますいきり立ったが、ふと、心を持ち変えたように、急に、両手を膝に置いて、
「これは、広海屋さん、わしが、すこし、からんだ物の言い方を、しすぎたかも知れませぬ――そなたに、折り入っての頼みがありますので、それを、肯いていただきたいのでございますが――」
「え? 頼み? 何なりと――身に叶うことなら」
何でもなげに広海屋は答える。
「有りようは、広海屋さん、折角そなたが、上方から、江戸表まで廻漕なされた、五艘の米船――それを、大坂に引ッ返させなさるか、それとも、例の廉売り、投げ売りを思いとまって、わし達の手に渡してはいただけないか?」
長崎屋は、皺枯れた声で、思い入った調子で、こう言い切った。
広海屋は、あからめもせず、相手の顔を眺めた――むしろ、呆れたという表情で――
「長崎屋さん、少しばかり、それは無理な御注文だの」
「いかにも、無理は、よう知っています。そこを、何とか、御勘考なされて――」
長崎屋は、頭を下げて見せた。
広海屋は、首を振って、
「どうも、ほかのことなら、そなたとわしの仲、何ともしようが、今度のことばかりは、この広海屋も、損得を捨て、ただ人さまの為になろうとして、思い切っての大仕事――すでに、お上すじとのお約束もあり、こればかりは堪忍して貰いたい」
「では、おぬしは、年来の交誼を捨て、この長崎屋の、咽喉をおしめになるつもりだの?」
「何の、そんな、馬鹿らしいことが――」
と、広海屋はカラカラと笑って、
「長崎屋さん、お互に、米穀のあきないにまで、手を出してはおれど、そなたも物産海産の方で、立派なのれんを持っていなさるお方――思惑の米商いが少しばかり痛手を負うたとて、世帯に何のかかわりがあるではなし――それに、今度の米の値上りでは、これまでに、たんまり儲けてしまわれている癖に――は、は、は、は、は」
長崎屋は、ぐっと、広海屋を睨めつづけた。
今まで、辛抱して、妙な座敷に坐りつづけていた芸者、末社は、いつかコソコソとはずして、広海屋買いなじみの太夫と、雪之丞とがいのこっただけだった。
広海屋の皮肉な笑がおと、長崎屋の憤りに充ちた顔とが、向け合わされたままでいた。
「おぬしは、いろいろ言うてくれるがなあ、広海屋さん――」
長崎屋は、青ざめた泥焔を吐くように、呻くように言うのだ――限りない怨みをこめた目で、睨め上げながら、
「なるほど、わしは物産問屋のはしくれ、米が主なあきないではないけれど、商人は、ひともわれも同じこと、大がねを儲けるには、時には、思い切ったばくちを張らねばならぬ――折も折、関東一帯の大不作、これが三年もつづけば、飢饉も来ようかといわれている昨日今日、ここらで、一つ度胸をきめねばと、手一ぱい、米を買いしめ――どこまで、わしが乗り込んでいるかは、おぬしも知っていてくれると思ったがなあ――」
広海屋は答えずに、煙管を取り上げて、たばこを詰める。
「その手一ぱいの買いしめが、これまでは図星に当って、たとえ世の中からは、何といわれようと、この分で、あきないが続くことには、長崎屋の世帯も、その中には、倍にはなる――と考えていたところへ、おぬしの今度の采配――関東の凶作に引きかえて、九州、中国にだぶついている米が、どうッと潮のように流れ込んで来たならば、わしの思わくは丸はずれ――これまでの儲けを吐き出すはおろか、長崎屋の、財産を半分にしてしまっても、まだ帳尻はうまるまい――なあ、広海屋さん、おぬしだとて、このわしと、まるまる赤の他人でもない筈だ、昔のよしみで、ここのところを、何とか一思案して貰われまいか――」
と、長崎屋はきつくいって、また悄れて、
「もう、こうなっては、恥も、外聞もない――長崎屋、こうして、この色ざとで、そなたの前に手を突くゆえ、どうぞひとつこのわしを、助けてはくださらぬか?」
必死のいろをうかべて、畳に、手を下ろそうとするのを、広海屋は押し止めて、
「何をなさる長崎屋さん、そなたは、何か思いつめて、考え違いをなすっているようだ――そなたとわしとは、同格、同業、そのように頭を下げられては、罰が当る。さ、どうぞ、手を上げて下さい」
「それなら、広海屋さん、わしの願いを聴き入れて――」
「そなたと、わしの仲、そこまで申されるのを、押し切って否むのは、何とも心苦しいが、さっきにもいうとおり、上方米の、東まわしは、わしの一存のことではなく、実は、さる筋からの耳うちがあって、このまま、米の値を上げてゆくときは、世間が騒々しくなり、貧しい人達が、一揆さわぎを起さぬとも限らぬ――広海屋、そちは、幸い、上方に持米多きよし、思い切って御奉公せよ――とのお言葉――わしも、辛いが、よんどころなしの仕事――長崎屋さんに、今度のことで、ほんの僅か損をかけようとも、又の日で、何かでうめ合せもいたしましょう。この話だけは、まず打ち切りに願いますよ」
長崎屋の、噛みしめた下唇からは、血がにじんで来るかと思われた。
「ううむ」
と、唸って、
「そんなら、おぬしはどうあっても?」
ギリギリと、奥歯が鳴った。
「商売は、いわば戦さ、親子兄弟、敵になることもあるによッてな――」
広海屋は、平気で答えた。長崎屋は噛みつくような表情になって、
「広海屋さん、おぬしは、長崎以来のことを忘れたかな?」
その一語は、広海屋よりも、まず雪之丞の胸を激しく突き動かしたに相違なかった。
「広海屋さん、おぬしは長崎以来のことを忘れたかな?」
と、毒と呪いとをふくませて、長崎屋が言いかけたとき、雪之丞こそ、ハッとしたが、案外広海屋は平気だった。
「ナニ、長崎以来のこと? それはもう、そなたもくりかえし申されたとおり、古い馴染じゃ。さまざまのことがあろうなあ――」
「わしは、そのようなことをいうているのではない――」
と、長崎屋は血走った目で、
「そもそもおぬしが、今にも傾きかけた広海屋の店を、急に何倍にももり返すには、わしの力が加わってはおらなかったろうか? そなたは忘れてしまったかなれど、わしにはまだ昨日のようじゃ――あの人の好い松浦屋さんを、いい加減な嘘八百でたらし込んで――」
と、いいかけて、さすが絶句して、荒々しく喘いだ。
雪之丞は、顔いろが変るのを、感づかせまいとしてうつむいた。
――ああ、みんな、父御のお引き合せ、御亡魂の御念力じゃ――このわしの前で、二人が二人べらべらと、昔の悪事をしゃべり出そうとは――
彼は、ガクガクと、身ぶるいがして来るのを、一生懸命に押えながら、耳をすます。
「なあ、あの、悪いことというたら、夢にも見たことのないような松浦屋の旦那を、魔道に落し、骨をしゃぶり、血を啜って、一家退散させ、気ちがいにまでしたのは、どこのどなたじゃ」
と、長崎屋は、一度はためらったものの広海屋の悠々とした表情を見ると、煽られ、唆られるように、べらべらとこんなことをしゃべり出す。
広海屋は、軽く、冷たく笑った。
「ふん、そう言うと、わしばかりが悪人のようなれど、その松浦屋に、子飼いから奉公して、人がましくして貰うた癖に、主人に煮湯をのませたのはどなただったかといいとうなる――が、のう、長崎屋さん――」
肥満した大商人は、迫らない調子で、むしろ、逆におびやかすかの如く、
「まず、あまり、そういうことには触れない方が、お互のためであろうが、――長崎の昔ばなしには、かかわりのあるお方が、外にもたんとあることだ。そのようなことを口外したら、そなたのためにもなりますまいぞ」
長崎屋は、一そう焦ら立たずにはいられないのだ。
「いやいや、もう、こうなれば、どんなお方も怖うはない――わしは、大ごえで、今どき世にはばかる、えらい権威を持たれた人も、昔はこれこれの悪事に一味して、罪ない町人を、浅間しい目にあわせた――今の栄華も、不義の宝ゆえこそじゃ――と、世間一帯に触れてまわるわ」
「ほ、ほ、ほ、ほ!」
と、広海屋は、口をすぼめるようにして、笑殺して、
「たわけたことを――そなたが、そのようなことを、どんなにしゃべりまわったとて、世の中で信用するものもなければ、つまらぬことで捨て鉢になり、馬鹿なことをいいふらすのが、耳ざわりと思召せば、あの方々は、そなたを二日とは、この世に生かしてはお置きあそばすまい。まあ、悪しいことはいわぬ。気をしずめたがよかろうに――」
長崎屋は今は憤怒に堪えかねたように、相手の袖をぐっとつかんで、
「広海屋、では、わしを殺す気だな?」
と、唸るようにいいかけた。
「そなたを殺す? 殺したとて、わしに何の役に立とう――まず、気を鎮めたがよいと申すに――」
と、広海屋は、長崎屋がつかみしめた袖を、振りはらって、
「そなたは、ちと、気がどうかしたそうな!」
「気も狂おう! 二十年の、苦労、艱難、おぬしのために滅茶滅茶じゃ――覚えておれ――どうするか!」
長崎屋は、ズイと立って、荒々しい足どりで、広間を出て、そのまま、階下に下りてしまったが、荒れすさんだ気色を見て、茶屋を出てゆくのを、引き止めるものもないらしかった。
「は、は、は、は、人間も下ると怖いものだのう――同業切っての凄腕と言われた長崎屋、あの血迷い方は何としたものじゃ」
雪之丞は、わが身の科がおそろしいというように――
「こうしたことになると知りましたら、いつぞやのようなこと、申し上げはしませなんだに――」
「いやいや、そなたに何のかかわりもない。みんな商売道の戦いじゃ」
広海屋は、得意満面で、
「もう決して気に病まぬがよい。一たいに、あの長崎屋、功をあせって、一の力で二の働きをしようとのみもがき、おとなしく本業をいとなむことを忘れ、米あきないなぞという、大きな資本がなければ叶わぬことに手を出したが、あやまりじゃ。その上、今度の、米価の釣り上げでは、お上はもとより、御府内の人々のいかりを買っておるゆえ、今夜にも明日にも、店をこわされ、むごい目に逢うかも知れぬ――そんなこんなで、あのように、気も狂わんばかりあがきおるが、それも身から出た錆――せん方もあるまい」
雪之丞は、その時、不思議な衝動に駆られて、じっと、広海屋をみつめて、しかし、さり気なく――
「それにしても、何やら、長崎以来のことを、とやこうと、あのお人はおいいなされましたが、あなたさまに、御迷惑のかかるようなことがありましては――」
広海屋の目つきが、キラリ不安そうにきらめいたが、
「は、は、なるほど、そんなこともいうていたの? なに、何でもないはなし――お互に長崎にいたとき、わしの商売がたきに、ある老舗があったのを、あの男と、力を合せ、あきないの競り合いに、競りまかして、のれんを下ろさせたのだが、そんなことは、商人道の恒――罪も、とがもあろうはずがないのじゃ」
――悪逆無道な、罠にかけ、父御を破滅させ、母御まで死なせて置いて、罪も科もない――商人の恒だとは!
雪之丞の、腸は、煮えくりかえる。が、彼は冷たく誓う――
――まず、しばしの間、存分なことを言うておるがよい。長崎屋の殷鑑は、見る間にそなたの身の上であろう――
「又しても、興ざめのことばかり――さ、にぎやかに一はしゃぎしようのう。これ芸者たちはどこへ行った? 今夜は、小粒かくしをして遊ぼう。わしが隠す銭、探しあてた者は、いくらでもにぎわそうぞ」
酒興は、狂おしく起った。雪之丞は、もとより廓内に足ぶみを、公けに出来ぬ役者の身、それを口実に、いい頃合いを見はからって、姿を消したのだった。
仲之町の引手茶屋から、複雑な気持で、かごを走らして宿に戻った雪之丞は、真夜中にもかかわらず、そこに、一人の男が自分を待ち兼ねていることを、召使から告げ知らされた。
雪之丞は、寒そうな顔をして、小部屋で、小火鉢をかかえていた、その男から、一通の封じぶみを渡された。
開いて見ると、匿し名にはなっているが、それが、浪路からの密書であるのは、すぐにわかった。
浪路は、美しい水茎のあとで、こう書いている。
おめもじいたしてより、胸もこころも、ただただ焦れたかぶるのみにて御座候、されば、若き身をとじこめ候檻より、今日ようやくのがれいだし、古い乳母のもとをたより、その者の手にて、小石川伝通院裏の、小さき家にしのびかくれ申し候。椎の大木のそばたちたる蔭の、ささやかなる宿をおたずね下され候わば、そなたさまのみ恋い明かし申しおり候、あわれなる女のすがたをこそ、お見いだしなさるべく候。更け渡り候えども、こよい、お越したまわることをのみ念じ上げまいらせ候。
――さては、浪路どのも、とうとう、屋敷を抜けいでられたのじゃな?かしく。
苦がい、鋭い微笑が、美しい女形の口元をよぎった。
――家は愚か、父兄は愚か、公方の威光までも、恋のために土足にかけようとするとは、あのお人も、思い詰められたものと見える――
ともすれば、哀憐の情が、湧いて来そうになるのを、彼は圧し伏せて、
――ともかくも、返じだけは書かずばなるまい――もう、二度と、逢う要のないお人ではあるが――
と、思ったが、その返じを書くことさえ、この場合、つつしまねばならぬと、すぐに反省するのだった。
――いやいやどこまでも、今後は、かかわりをつけてはならぬ――恨まれ、呪われるのは、はじめから覚悟の上じゃ。
雪之丞は、使いの男の前で、文を読んでしまうと、巻きおさめながら、いぶかしげな表情をうかべて見せて、
「これは、どなたよりのお文かは、存じませねど、わたくしには、のみこめぬことばかりでござります。どうやら、ゆきちがいがありますような――」
「はて、わたくしは、雪之丞さまにこのお文をおわたし申し、なるべくは、御一緒に、おともない申すようにとの、おたのみをうけてまいったものでござりますが――わたくしは、あのお方の、乳母の伜にあたるものでござりまして――」
実直そうな男は、もぞもぞと、そんなことをいったが、雪之丞は、首をふるようにして、
「さ、それが、わたくしには、何が何やらわかりかねますので――このお文は、どうぞこのまま、お持ちかえりを――今宵はひどくくたびれておりますほどに、失礼をいたします――これは、おかご代」
白紙に包んだものを、使いの男の前に置くと、彼はそのまま、つと、立って、わが部屋にはいってしまった。
男は、どうしようもなく、戻って行くのだった。
上野の堂坊のいらかが、冬がすみのかなたに、灰黒く煙って、楼閣の丹朱が、黒ずんだ緑の間に、ひっそりと沈んで見える、谷中の林間だ。
このあたり一帯、人煙稀薄、枯すすきの原さえつづいているのだが、寛永寺末の、院、庵のたぐいが、所まだらに建っていて、おおかたの僧坊は、信心深そうな僧尼によって住みなされていた。が、中には、いつか、無住になり、荒れ果てて、雨風も漏り落ちそうに、屋根、軒も破れかたむいたのも多い。
そうした荒れ寺の一軒、老杉の、昼も暗く茂った下かげに、壁すら落ちて、その破れ目からすさまじい初冬の月も差し込みそうなのが、鉄心庵――
前住が建てて、四十年あまり、谷中で鉄心といえば、この世の者でないほどの脱俗ぶり。食べるは生ごめ、飲むは水の脱俗ぶり、といったような生活をつづけて名高かった尼僧が、ぽくりと枯木が朽ちるように仆れたあと、長く、廃庵になっていたのを、二、三年この方、いつとはなしに、図体も六尺近いかと思われる、いが栗あたまの坊主が、住みついてしまって、世間が何といおうと、今は、立派な庵主づらをしておさまっているのであった。
その鉄心庵の現住――ときどき生ぐさ物の匂いがぷんぷんとかおって、貧乏徳利がいつも台どころにころがっているだけで、経を読む声さえ、通りがかりの誰もが聴いたことがないというのだから、いずれ、破戒無慚の悪僧とはわかっていたが、さりとて、それをとがめるものもないのだから、寺法格式が厳重だとはいっても、ゆるやかな時代には相違なかった。
だが、何人も、この坊主の前身を、ほんとうに気がついているものはすくなかろう――鉄心庵現住の、大坊主、これこそ、その道では名の通った、島抜けの法印という、兇悪な代ものなのだ。
十三、四のころ、さる法印の弟子となって、厳密な修業をつけさせられていたが、持って生れた根性から、色欲二道にふみはずし、搏つわ、飲むわ――博徒の仲間にはいって、人殺し兇状を重ね、とうとうほんものの泥棒渡世をかせいで、伝馬町の大牢でも顔を売り、遂に、三宅島に送られ、そこを破ってからは、杳として消息を絶していたのが、いつの間にか、鉄心庵主としておさまっている。
その素性を知っているのが、闇太郎等の、ごく僅かな連中――軽業お初といわれるほどの女さえ、この庵の秘密は知らない。
島抜けの法印は、婦女誘拐を職とする、法網くぐりの女衒たちのために、仲宿をすることもあるので、女わらべの泣きごえが、世の中に洩れるのをはばかり、庫裡の下に窖を掘って、そこに畳をしき込み、立派な密室を造っていた。
さればこそ、闇太郎、雪之丞のために、軽業お初を、しばしの間この世から隔離する必要が生じたので、この坊主を思い出し、湯島切通しから、かごごと盗んで、深夜かつぎこませたわけであった。
島抜け法印、いつもであれば、預かりものが、年はもいかぬ娘っ子なので気も張らぬが、今度は相手が相手、なかなか気苦労が折れるらしく、例の寝酒も、この四、五日はつつしんでいた。
が、今夜、とうとう、辛抱がしきれなくなって、もう、白丁が三本も、そこらにころんでいる。
島抜けの法印、破れ行灯の、赤黒い、鈍い灯火の下に、大あぐら、古ぬの子から、毛深い胸を出して、たった一人、所在なさげに、白丁から、欠茶碗に、冷酒をついでは、ごくりごくりと飲っているが、もう一升徳利が一本、五合のが、二本目も尽きかけて来ているのだ。
さすがに、久しぶりの寝酒が、まわって来て、髯だらけの顔が、赤黒く酔い染っているのに当人は、まだまだ、どうして飲み足りない――血濁った目で、あたりを睨め廻すようにして、独り言――
――だからよ、やもめ暮しはやり切れねえってことよ。もう一升のみてえと思っても酒屋まで、ひとッぱしり行って来る奴もいねえとは何て不自由なこッたろう。三宅島にいたころのことを思や、これでも極楽、下らねえ欲をかいて、変なことから、身性が曝れでもすると、とんだことだと思って、つつしんではいるものの、精進ぐらしも、これで三年、てえげえ、辛抱が出来なくなるよ。
ごくりとまた、一口、飲んだとき、床下の方で、かすかに、女の咳ばらいのような気配が聴える。
――おや――
と、聴き耳を立てて、法印、口に出して、独りごと――
――あの、軽業お初女郎、勝気な奴だが、さすがに、ろくろく寝つけねえと見えるなあ――だが、俺も、この庵室ずまいをしはじめてから、かどわかされの女の子を預かる内職をはじめて、かなりああいう代物を手がけたが、あいつのように根性骨の突っ張った奴は、逢ったことがねえぜ。闇の兄貴の罠に落ちて、この古寺にかつぎ込まれたときにも、どうせ逃げられねえ立ち場だと知るてえと、闇の親分でも、女のあたしを相手に、こんな卑怯なことをするのかえ――と、ひと言、言っただけで、じたばたさわぎをするのは愚か、溜息ひとつ洩らしもしやがらなかった。それに、人を、なめくさって、どうだ、この俺が、飯を運んでやるたびにまあ、お気の毒さま、大の男にお給仕をして貰って――なんて、言いながら、わざと立て膝をして、水いろの湯文字なんぞを、ちらちらさせて見せやあがる――俺だからいいが、生ぐさい坊主であって見ろ、あいつの流し目を食っちゃあ、ちょいと怺え性が、なくなろうってもんだ――
と、言って、また、ごくりごくりと、煽りついたが、
――いや、この俺さまにしたって、まだ四十をほんのちょっぴり越したばかりだ――あれほどの女と、たった二人の荒れ寺ずまい――闇の兄貴の睨みが怖くなけりゃ、どんなことになるかも知れねえのよ。
島抜けの法印、厚い、紅い舌を出して、物ほしそうに、ぺろりと舌なめずりをして、
――こうやって、たった一人、しょうことなしの独酌に、何のうめえ味がある――これが、美女のお酌と来てごろうじろ。何の肴がなくッたって、甘露、醍醐味、まるッきりうまさが、違わあな――そりゃあ、俺だって、何も、あいつをどうこうしようッていうんじゃあねえ、酌をさせるだけなら、別にだれから叱られるわけはねえと思うんだが――
島を抜けて来たほどの彼、前世の露見を恐れて、身をつつしんでいるのだが、今夜は、少しばかり、とろんこになっていた。
――ほんとによ、小股の切れ上ったあいつに、注がせて飲んだら、第一、倍もききがいい酒になるだろうによ。
そして、妙に真顔に考え込んだ。
島抜け法印の、どんぐり目は、いよいよギラギラと、耀めいて来た。これまで押し伏せに押し伏せていた欲望が、一度、ムクムクと頭をもたげた以上、それを、もうどうすることも出来ない。
――あれだけの女が、同じ屋根の下にいるのを、ほんとうに勿体至極もないはなしだ。この部屋へ引き出して来たら悪いだろうが、あの、窓ひとつ大きくは切ってねえ窖なら、ちょいと、話をして酌をさせたところで、逃げられる気づけえは、断じてねえ――それによ、あの女だって、軽業お初と、あっぱれ異名も持った奴、ひょんな破目で、敵味方になったといってあんまり辛く当るのも、泥棒仲間の、仁義道徳にかけるというもんだ――あれだって、茶碗ざけの一杯も、たまにはやりたいだろう。そうだ、ひとつ、退屈しのぎに、からかいに行ってやろうか――
島抜け法印、残りの白丁を振って見て、
――こんなことなら、独りでがぶ飲みをするんじゃなかったが、それでもまだ、あいつが、ほろりとするぐれえは残っていらあ。
と、徳利をつかんだまま、よろよろと、立ちあがると、ガタピシと破れ襖をあけ立てして、庫裡の戸棚の中の、揚げ蓋を刎ね上げる。
揚げ蓋の下が、窖への、下り口になっているので、カビ臭い、しめっぽい匂いがムウと来る。
中は、真暗なのだが、慣れたわが庵のこと、爪先さぐりで、危なっかしい縄梯子を下りてゆくと、平らな板じきになる。
板じきのつき当りが、木ぶすま――法印、その木ぶすまの、釘錠を引抜くと、いくらかためらったが、思い切って、ガラリと開けて中をのぞき込んだ。
其処は、六畳はしかれるだけの広さを持った窖だ。たったひとつ、ぼんやり点いている、油灯火の光りで見ると荒木の床に、畳が三畳並べてあって、その上に唐草の蒲団を、柏にしてごろりと横になっている。それが、軽業お初の、囚われのすがただ。
不貞くされているのか、熟睡しているのか、寝すがたは、法印が、はいって行った気配にも身じろぎもせぬ。
「おい、お初つぁん」
法印は、灯心を掻き立てて声をかけた。
パッと明るくなると、木枕をして、向うをむいているお初の、襟あしが、馬鹿に白く匂う。
「おい、お初つぁん」
寝すがたが、少し動いて、無愛想な声で、
「何だねえ――人が、折角寝ついたところを――もう冬になっているんだよ、火の気のねえところで、煎餅蒲団――寒くって、一度覚めたら、なかなか寝られやしねえんだよ」
「だからよ、寝酒を持って来てやったんだな」
法印は、ひどく下手だ。
「まあ、こっちを向きねえよ――何だか、眠れねえような咳ばらいが聴えたから、丁度おいらも一口やっていたところで、残りだが、冷酒を持って来てやったんだぜ」
と、枕元に、うずくまって、白丁を、ゴボゴボ音をさせて見る。
お初は、むくりと起き上がりかけた。
「まあ、どうした風の吹きまわしなんだねえ――」
煎餅蒲団の上に、起き直ったお初、乱れ髪を、白い指でかき上げながら、片手で、はだかった前を合せる。着たままの、外出着も、すっかり皺だらけになってしまっているが、膝のあたりに水いろの湯巻がこぼれて、ふくらかな股が、ちょっとあらわれて、じきに隠されてしまった。
島抜けの法印は、その方へ、赤濁った目を吸われたのを、さすがに反らして、白丁と一緒に持って来た、茶碗を突きつけた。
「さあ、まあ、一ぺえ飲んねえ――」
「まさか、お坊さん、毒酒じゃああるまいね?」
お初は、尻目にかけて、冷たく笑った。
「何が毒酒なもんで――いい酒さ――いいも良い――池田の剣菱、ちょいと口にへえる奴じゃあねえ。これで、おいらも、何の道楽もねえ堅造だが、酒だけは吟味しねえじゃあいられねえ方だ」
「ほ、ほ、ほ、堅造が、あきれたよ!」
お初、今度は、声を出して笑ったが、
「そこまでいうなら、遠慮なく頂戴しようかねえ――」
と、茶碗を受けて、なみなみと注がせて、裸火の光りに透かすようにして見たが、
「ほんに、いい臭いだこと――いただきますよ」
きゅう、きゅう、きゅう――、
とたった三口で干して、突き出して、
「どうぞ、もう一杯」
「へえ、いけるんだねえ、姐御も――」
と、法印は、あざやかな呑みッぷりに敬服したように、お初つぁんが、姐御という尊称に変って、二つ目を差してやる。
お初は、新しい茶碗を一口飲んで、ふうと、息を吐いて、
「おいしいこと――あたしだって、実は、お坊さんだって、もう少し早く、何とか気を利かして、寝酒の一杯も、差し入れてくれそうなものだと思っていたのだよ――柄こそ不意気だが、どこかこう乙なところのあるお人なんだから――」
「へ、へ、へ、油をかけちゃあ困るぜ、姐御――だが、おいらにも、相当に苦労があるんで、今のところは、人さまのおっしゃるままになっていなけりゃあならねえのサ」
「時世時節じゃ、屋形船にも、大根を積むとかいうからね――はい、御返盃!」
法印、茶碗は受けたが、もう、生憎、白丁は空だ。
お初は、空徳利を、振って、
「何だねえ、もうおつもりじゃあないか?」
よくまあ、こんなしたみ酒を呑ませに来た――けちな奴だ――と、いいたげな目つきだ。
「だって、一人で、さんざ飲んでから、お前を思い出したのだもの――」
と、いいわけするのを、
「でも、お坊さん、ちっとも酔ってはいないじゃないか――」
「種切れなんだ」
「つまらねえ――お坊さん、もう少しどうにかおしよ。あたしだって、生じっか口をしめしたんで、後を引いてなりゃあしないよ」
「弱ったなあ!」
法印、いが栗あたまを叩いたが、折角の、今夜の歓会を、このままには、彼自身も、どうもしがたい――物足りない。
考え込むのを見て、
「じゃあ、こうおしなさいよ。あたしはここで、錠を下されて小さくなっているから、そこまで行ってかせいでおいでなさいよ」
お初はそんなことをいい出した。
お初の気軽げな申しいでは、法印にも活路をあたえたように見えた。
「そうか、そうすりゃあ、これからおいらも、緩り飲めるというものだが、しかし、その留守に、おまはんに悪あがきをされると、ちっとばかし、困るからなあ」
「悪あがきをするッて、あたしが逃げ出しでもするというのかえ?」
お初は、おかしそうに笑った。
「考えても見るがいい。この息抜きもないような窖で、出入口は、厳重な木襖じゃあないか――それを、ぴッたり閉めて、錠を下されたからにゃあ、たとえ、あたしが忍術使いだって、脱けられッこはないじゃないかね?」
「だって、おめえは、軽業お初とも、異名を取った、途方もなく身軽な女の子だというから――」
「いかに身軽なあたしだって、厚い木ぶすまは、どうにもならないよ」
「じゃあ、安心して酒買いに出かけて来るか?」
「ああ、安心して、行って来さッし」
と、問答があって、法印、やっと決心がついたように、空徳利を提げて立ち上った。
問題の木ぶすまを開けて出て、振り返って、おぼろな、裸火で、じっと、お初をみつめて、
「ほんとうに、大人しくしていてくれなきゃあいけねえぜ」
「駄目を押しすぎるよ、いい悪党の癖にさ――」
法印は、ニヤリとして、締りをしめると、太い止め釘を、ぐっと差し込んだ。
ギチリギチリと、重たいからだが吊し梯子を踏んで上ってゆく。
その気配を聴きながら、お初は微醺を帯びた目の下を、ひッ釣らせて、ニヤニヤした。
――ふうむ、これで、まあいいきッかけが着いたというものだよ。さすがの悪党、根まけがして、のこのこ貧乏徳利をさげてやって来たのは、おかしいじゃないか――
と、呟いたが、急に、怖ろしい表情になって、
――覚えてやあがれ! 闇太郎め! 義賊の、侠賊のと、人気があるのを、いい気になりゃあがって、よくも人をひどい目に逢わしゃあがったな! あいつの出鱈目に乗って、のこのこ出かけたのもおいらの不覚だったが、貧乏寺の穴ぐらに、閉じこめるたあ、何という人情知らずだ――この穴を抜け出したら、この黒門町のお初の仕返しが、どんなものだか、見せてやるぞ!
そして、まるで、闇太郎その人が、目の前にいでもするように、歯がみをして、空を睨んだものの、やがて、瞳の光を消し下唇をくわえて、うなだれた。
――それにしても、雪之丞もあんまりだ。こんなに人に物思いをさせて、ちっとも察しもせず、あんないけない奴の力を借りて、死ぬ苦しみをさせるなんて――この可愛さが逆に変ったら、どんな呪いとなるか、それ位なことは知っていそうなものじゃあないか――ねえ、太夫、おいらあ、どこまでも、恋か憎みで押し通す女なのだが。いずれ思い知るだろうけれど――
とはいうものの、雪之丞のことだけは、ほんとうに憎しみ切ることが出来ないかして、だんだん顔が伏さってしまう。
今夜も、寒い北風か? 古寺の戸障子をゆする冷たげな音が、この窖までも淋しく聴えて来るのであった。
お初が、怒りと恋慕とを新たにして、後れ毛を前歯で噛みしめたり、吐き出したりしているところへ、また、縄梯子の軋む音がして、木ぶすまが、開け閉てされ、
「うう、寒い。外はもうすっかり冬の晩だぜ」
と、呟きながら、はいって来たのが、今度こそ、たッぷり二升ははいる、貧乏徳利を提げて戻った、島抜け法印――
「早やかったろう――酒屋を叩き起して、煮売り屋を叩き起して、これでもなかなか働いて来たのだぜ」
ふところから、竹の皮包みを取り出して開いて見せる。
現われたものは、辛そうに煮〆めたこんにゃく、里いもの煮ッころがし――
「何か生ぐさものか、塩辛でもと思ったが、この辺の夜更けはまるで山里さ。ところで早速、一ぺえ献そう」
「折角、御苦労をかけたのだから、遠慮なくいただこうかね」
と、お初は、ほっそりとした手をのばして、厚ぼったい、茶呑茶碗に、なみなみと注がせて、一口呑んで、じっと、法印をみつめたが、
「それにしても、人は見かけによらぬものッてネ――お坊さんなぞは、鮹ざかなかなんかで、かどわかしの娘っ子でもさいなんでいそうに見えて、ほんとうに親切なところがあるわねえ」
「当り木よ」
と、法印、上機嫌で笑って、
「人間が見たとこ通りなら、世の中に売僧も毒婦もありゃあしねえわサ、おいらなんぞは、島抜けの何のと、世間では悪くいうが、本心は、どんな仏さまよりやさしいのだ」
「え? 島抜け?」
と、お初は、茶碗を持ったまま、大きな目で、法印を眺めた。
「島抜けッて! お前さん、佐渡でも破って来なすったことがあるのかえ?」
島と言えば、誰にも思い及ばれるのが佐渡、その島には、お初には初恋の、長二郎泥棒が送られたなり、今ごろは、生きて難儀をしているか、死んで地獄へ行っているかわからないのだ。
法印は頭を掻いて、
「いや、こりゃあ、美い女の前で、つまらねえことをしゃべってしまったものだ。なあに、島と言ったって、佐渡が島、この世の地獄へやられるほど、景気のいい悪党でもねえのサ――おれの送られたのは、三宅島――うわさに聴いた金山に比べりゃあ、極楽同然だということだが、何といっても、どこを見ても、海ばっかり――女ときたら潮風で、髪の毛さえ赤ッ茶けた奴ばかりだ。たまらなくなったから、小舟一ツにいのちをまかせ、荒波を乗っ切ってけえって来て、こんなところで世を忍んでいるわけなのだよ」
お初は、好奇心に充されて来た風で、
「思い出したよ、何でも、三宅島を破って帰って、島抜けの法印とか、仲間で聴えたお人がいるのだが、それっきり姿を見たものもねえ――そんな噂を何度か聴いていたっけ――じゃあ、その島抜けの法印さんというのがおまえさんだったのだね?」
「へ、へ、へ、姐御に、そういわれちゃあ、面目でもあるし、小ッぱずかしくもある。おッしゃる通りの、ケチな奴がおいらなのさ」
「そりゃ話せるねえ――では、改めてお近づきの御返杯だ」
島抜け法印、見かけは怖々しい大坊主であったが、して来た悪事というのも、どちらかというと、愛嬌のある方で、もし、図抜けた眼力や、ずぼらな気性なぞが手伝わなかったならば、島抜けまでするような身の上にならずとも済んでいたような人間なのだ。
況して、さして好色という方でもない、こんな連中としては、普通の部類かも知れぬ。しかし、今夜は、ひどく彼の気持はときめいている。こんな寒い晩、それも夜更けなのに、まるで、春夜の暖熱に包まれているかのような、うきうきしさを覚えている。
なぜだろうと、訊うまでもなく、それは、仇で、意気で、悪党で、美人で、こうした社会では、いわば理想の女性の随一としてかぞえられているような秀物と、たった二人、酒を汲みかわしているからこそだ。しかも、その女が、彼を、島抜けの異名のある人物だと聴いて、その名をとうから知っていてくれて――
――話せる人だ。
と、まで、いってくれたのである。
法印は、急に歓喜が二倍になり酔いが二倍になって、からだの節々も緩めば、いつか、窖番人としての警戒心さえ緩んで来るのであった。
――やっぱし、悪党は、悪党同士、話がわかっていいなあ、ほかの渡世の奴等じゃあ、とてもこんな工合に、うまく飲めねえッてことよ。
「さあ、御返杯」
と、ぐうと、一息に干したのを献す、お初。
「おッとと――散ります散ります。へ、へ、へ――黄金いろだね――いい香りだね」
すうっと、匂いを嗅ぎ込むようにして、じっとみつめて、溢れそうなのを、口から持って行ってきゅうと、啜った法印、
「う、うめえ――」
と、嘆息して、
「と、いって、何も、自分で買って来た酒を讃めているんじゃあねえんだよ。つまりはな、それ酌がいいからさ」
「ホ、ホ、ホ、上手だねえ、頭を丸めている癖にさ。あんまりうまい口ぶりを聴いていると、一そ還俗させて、こはだのおすしが売って貰いたくなるってネ」
お初は、ふたたび、重たそうに白丁を両手でもちゃげて、
「さあ、駈けつけ三杯――折角、夜道を買って来てくれたのだから、たっぷりとお上りよ」
「いや、そうはいけねえ――おいらあさっきから、一人で大分飲っているんだ。この上呑んだら、それこそ意気地なくうたたねだ。その暁に、おまはんに、謀反気を起してずらかられでもしたら、法印も、これから世の中へ面出しが出来なくなる」
「まだあんなことをいっている、疑ぐり深い人だねえ――」
と、お初は明るく笑って、
「ああ、いいことを思いついた。そんなにあたしのことが心配なら、うまい思案があるよ――二人で、いくらでもゆっくりのめる思案が――」
「え? その思案てのを聴かせねえ――実は、おれだって、おまはんとなら、夜あかし飲んでいたいんだ」
「ね、こうおしよ、おまえさんもこの窖に今夜は、あたしと泊ってゆくことにして、木ぶすまの錠をすっかり下ろして、鍵をふところにしまって置いたらいいじゃあないか。その決心をすりゃあ、飲みつぶれても安心だろう」
「へ、なるほどな、おまはんと、この窖で一緒に寝るか?」
「手と手をつないでいりゃあ、逃げたくっても逃げられないよ」
いっそ、この窖に落ちついて、飲み明す気になってくれたらどうだろうか――と、お初にねだられて、島抜け法印、なるほど、それは名案に相違ないと思った。
――ほんとだなあ、あたしは、茶碗酒なんざあ、迷惑だから、早くあッちへ行っておくれ――でないと、闇の親分が来たとき、法印坊主、しつッこくって困ったと、言ッつけるよ――と、いわれても、仕方がねえところなんだ。そんな風に出られて見ろ、さんざ艶めかしいところを見せつけられて、梅花の髪油の匂いを嗅ぎこまされて、このまま庫裡に引き取ったところが、思いがのこって、却って、どうにもならなかったろうぜ。
そんなことを、ソッと心で思って見た法印、
「じゃあ、姐はんのいう通り、ここへ腰を落ちつけるとしようぜ。そのかわり、お初つぁん、ひとつ仲間仁義は守って貰えてえな。おまはんが決して、寝こかしをして抜け出さねえと言ってくれるなら、なあに、錠にも、鍵にも及ばねえよ」
「当り前だあね。こんな風に閉じこめられているあたしを、哀れだと思って、寝酒の一杯も、わざわざ飲ませに来てくれたお前さんだ。煮え湯を飲ませてどうするものかね? あたしも、随分道楽もして見たが、まだ窖酒ッてなあ飲んだことがないんだから、ゆっくり一度、酔って見たいと思うんだよ」
「どうかまあ、今夜だけは、そういう気持で、いてもれえてえね――敵も味方もなしにして――おいらも、何だか、いやにうれしくなって来てならねえ――」
ぐうっと、一息に茶碗酒をつくして、相手に献して、法印は、膝がしらを揃えて酌をする。
「ほ、ほ、ほ――膝をくずさないところは、さすが、お庵主さまだねえ――ほ、ほ、ほ」
「は、は、どうも、姐御は、口がわるいよ」
不思議な男女、荒れ寺のあなぐらで、この初冬の夜を飲みあかそうと、献しつ押えつ、献酬がはじまった。世の中に、どんな珍景が多いにしろ、この酒盛ほど、めずらしいものは少ないだろう――しかも、場面が凄い筈なのに、すこしも凄惨さがなく、どことなく伸び伸びしているのは、島抜け法印の、持って生れた諧謔味が、空気を和やかなものにしているせいであろう。
「へへへ、こうして、姐御と、飲っていると、何か、こう小意気な咽喉でもころがしたくなって来るなあ」
「どうぞ、ひとつお聴かせよ。流行の一中ぶしでもサ」
「まさか、この古寺で、そんなわけにもいくめえわサ。ときに、姐御、たまらねえ顔いろになったぜ――ほんのりと、目元が染って、薄ざくらだ。おいらももう少し若くって、たしなみがなかったら、只は置かなくなるぜ」
「まあ、うまいことばっかし――あたしなんざあ、もう散りかかった姥ざくら、見向きもしてくれる人はないと思っているよ。さあ、お坊さん、お酌、女のあたしが、一杯一杯のやりとりはきつすぎる――まあ、お重ねな」
すすめ上手に、いつか、法印、すっかり酔わされて、まるでうで蛸のようないろになってゆくばかりだ。
「ほんとにサ、お前さんもいい加減に毛を伸ばしなさいよ――そうしたら世間の女が、うっちゃっちゃあ置かないがね」
思い出したように、じっと見て言うお初の、色気のあること!
――ふうん、島抜け法印、いよいよべろべろになって行くよ――ざまあ見ろ。もう四、五杯も引っかけたら、泥のようになって、丸太ン棒のようにぶったおれてしまうに相違ない。
冷たく笑うのだが、美しいお初の唇にうかぶ、その嘲けりが、性根をすっかり乱してしまった法印には、心からの、うれしい笑がおとしか思われないのだ。
「ねえ、お初つぁん、おいらは、あの荒波にかこまれた、三宅の島をいのち懸けで抜け出して娑婆の風にふかれてこの方、こんなにいい気持に酔っぱらったこたあねえぜ。それというのも、おまはんが、程のいい人だからよ。何にしてもすばらしく結構な心持だよ。やっぱし思い切って、浮世へ戻って来た甲斐があったなあ――へ、へ、へ、こんな弁財天女のような姐御と、膝ぐみで酒が飲める身の上になれたのだからなあ――江戸中切ッて、ううん、日本中切ってのお初つぁんと、差しつ押えつ――へ、へ、へ、大したもんだ――極楽だ」
「あたしだって、お坊さん、この窖に叩き込まれてから、いわばもうこの世の楽しみは見られまいと覚悟をきめていたのだよ、世間で名うての、そういっちゃあ何だけど、悪党たちに見張られている以上は、土の下でもぐらのように、干ぼしになってしまう外はないと思っていたのさ。そこへ、意気なおまえさんが、寒かろう、淋しかろうと慰めに来てくれたのだもの、あたしの方こそ、生れてはじめてのうれしさだね――さあ、お酌」
「うれしいなあ、ありがてえな――おいらあ何だぜ、これが縁で、おまはんの片腕となって、浮世で働くことが出来る日が来りゃあ、いのちを的だぜ」
法印、もっともらしくいいながら、いつか目が据わり、からだの中心が、取れなくなって、前に傾くと見れば、つんのめりそうになり、うしろに反ると見ると、ひっくりかえりそうになる。
何しろ、独酌で、飲んでいるうちに、御禁制の窖に、お初に酌をさせに下りて来ようと思い立つまで、ほのぼのとしてしまっていた彼だ。その上、差し向かいになってから、飲みも飲んだことであるから、どんな人間でも、用心も、根性も、すっかり失われてしまうのも無理がない。
やがてのことに、なみなみとはいった茶碗をつかんだなりで、片肱を突いて、横に伸びて、
「もういけねエ――お初つぁん、おいらあ、もういけねえ――」
「何だねえ――まだ、白丁に半分も残っているじゃあないか――」
「駄目だよ――今度はおまはんの番だ――」
と、湯呑を、突きつけようとして、その湯呑を、意気地なく手から取り落してしまう。
茶碗は落ちて、酒が古だたみをだらしなく湿らす。
じーッと、見ているお初、いつか、真顔になって、下唇をぐっと噛みしめている。
――お坊さん、とうとうまいってしまったね、ゆっくりお寝よ。
落ちた茶碗を取り上げて、手酌で一杯。
――ふ、ふ、ふ、赤ん坊のように眠ってしまったが、いい恰好だよ。それにしても、何てうるさいいびきなんだろうねえ――
ぐうッ、ぐうッといういびきを、聴きすますようにしたお初は、やがて、きちんと坐り直して、後れ毛をかきあげて、自分を眺めなおすようにした。
――なッちゃいないね、お初つぁん、着物は皺だらけ、帯も紐もゆるんでしまって――
やがて、すっと立ち上ったお初、はだかった襟元、乱れた褄をきっと直して、いい音をさせて、きゅうきゅうと帯をしめ直したが、その気配に薄目もあけず、だんだんいびきを高める島抜け法印を見下ろして、
――お坊さん、あたしはこれで、窖からお暇をして、久しぶりで外の夜風に吹かれて見ますがね――決して逃げやあしない、安心して、お飲りと言った口の手前、すこうし済まないような気がするものの、あたしだって、軽業お初とも言われる女、シラ几帳面のおしろうととは違うんだから、まあ堪忍して頂戴な。
そう、冷たい笑みと一緒に言って、足音を盗んで、窖を去ろうとした。
――と言って、救いの主見たいなお坊さんを、夜寒む、酔醒めで、風邪を引かしちゃあ申訳ない、これでも掛けて上げましょうね。
自分が、柏餅になって、くるまっていた蒲団を、それでも、法印の寝すがたの上にふうわり掛けてやって、そこは、お手の物、殆んどかすかな軋みも立てず、立てつけの悪い木ぶすまをあけて、ぴたりと閉めた。
窖から姿を消したお初、危なかしい吊梯子を、スルスルと見事な足さばきで上ってしまうと、諸手で、うんと突ッ張って、揚げ蓋をあげて、庫裡へ出ると、そこに、ぼんやりと行灯がともし放しになっている。
――このまま、黙って逃げるのも業腹だねえ――
眺めまわすと、カラカラに、墨のかすがこびりついた硯と、ちび筆がはいっている木箱が棚に載っているのが目についた。
それを下ろして、湯沸しの水を硯にたらして、ちび筆を、うつくしい前歯で噛んだが、ふところ紙に、金釘流ながら、スラスラと書き下ろした文句――
お坊さん、左様なら、おまえさんが、島にしんぼうできなかったとおなじこと、あたくしも、あなぐら住居は、いや、いや、いや。のんびりと、手足をのばしてから、ゆっくりこのしかえしは致しますよ。とかく助平が男という男のたまにきず。 かしく。
そう紙を結んで、ポイと投げると、あの災難の晩、自分が穿いて来た、綺麗な鼻緒の駒下駄が、麗々しく、ごみだらけな床の間に飾ってあるのを持ち出して、突ッかけて、初冬の月が、どこかで淡く冷たい影を投げている荒れ庭を横切りはじめた。門はあっても、扉もない、出入自在な寺域は、いつか、彼女のあとになった。
――ホウ、ホウ、ホウ!
と、梟が、高く黒い梢で鳴いて、それだけでも淋しい谷中の深更け――あまつさえ、狐が通っているのであろう――
――ケン、ケン、ケンケン!
そんな鳴きごえが、はらわたに沁みとおるように聴えて来るのだ。
けれども、お初は、一向、淋しそうな顔もせず、杜の間の小径をいそぎながら、だんだんに形相を変えていた。
美しいが、怖ろしい目つきだ。そして、唇が、ぐっと引き歪んだ。
――さあ、雪之丞さん、闇の親分、これからおいらは、キビキビと行ってのけるよ。ふ、ふ、黒門町のお初ともあろうものを、あんな助平坊主に預けた程のうすぼんやりが、さぞ見ッともない吼えづらを描くのだろうねえ。
お初は、杜かげ道をいそぎながら、二、三度、小さな咳をしたが、
――ちくしょう! お蔭で風邪まで引いてしまったよ、憎らしいねえ、あいつ等は――何にしても、二日と、あのままにして置けない奴等だ。思いがけなくはたから飛び出して来やがった闇太郎、まず、一ばんに意趣返しをしなけりゃあならないが、早速、手配して在家をさぐらせ、お役人へ密告してやろうかしら? それにしても、あの闇の親分と、雪さんと、どうして一たい知り合っていたのだろう? いくら考えて見ても分りはしない、まさか雪さんが、泥棒の一味をしているとも見えないしさ。
雪之丞、闇太郎の、奇妙な関係について、いかにお初が目から鼻へ抜ける女でも、こればかりは見当もつかないらしかった。
――なあに、あの二人が、どんな間柄だって、かまうことはありゃあしないよ。二人が兄弟も只ならず、懇意だということを、岡ッ引きに告げてやりゃあ、雪さんだって、安穏にいられるわけがないんだ――
と、呟いたが、また、考えて、
――早まっちゃあ、駄目だよ、初ちゃん、うっかりそんなことをしたところで、もし、雪さんに、あたくしは一々、贔屓のお客の身の上を、しらべておるひまはござりませぬ――そのお人が、どんな素姓か、ちっとも存じませんので――何しろ、多く御贔屓をいただいて、そのお蔭で立ってゆく商売ですからと――あの、可愛らしい口ぶりで、申し立てられてしまったら、それまでじゃあないか――仕返しは、やっぱし、雪さんは雪さん、闇の親分は闇の親分、別々に手ひどい目に合わせてやる外はない――だが、ねえ、お初ちゃん、お前は、こんな目に会いながら、まだまだ雪さんに、あの雪之丞の奴に未練を持っているのではないかい? 無いって! 意気地なし! まだ色気たっぷりなのじゃあないか? なぜと言って、あの窖の中で、おめえは、何ど繰り返して言っていたのだ? ここを抜け出すことが出来たら、雪さんが狙う敵の中で、第一ばんの大物、三斎隠居の屋敷に駆け込んで、何もかも、聴き知っただけ、あらい浚いぶちまけてやると、そう心に誓ったじゃないかね! それなのに、今になって、ああしたら、こうしたら――なぞと、迷っているこたあありゃあしない。しっかりおしよ、黒門町の姐御!
お初は、イヤというほど、自分の頬ぺたを撲ってやりたいようないらいらしさを感じて来た。
――ほんとうだよ、女一匹というものは、しかけた恋が叶えばよし、叶わぬときは、相手の咽喉笛を食い切ってやるのが掟なんだな。
――ケン、ケン、コンコン!
淡月が、冷たく冷たく射しかける夜の杜の、木立のふかみで、淋しく、凄い、狐の泣きごえだ。
お初は、寒そうに、肩口をふるわしたが、
――そうだとも、お初、おめえは、わが身を捨てても、この恨みを晴らさなけりゃあならないのだ。わが身を怖がっていちゃあならないのだ。自分で自分を、地獄のどん底にほうり込む気になって、その人をも抱き込んでいかなけりゃあならないのだ。この世で叶わぬ恋の夢を、針の山のぼりの道中で、晴らさなけりゃあならないのだ。お前はこれからどうあっても、この皺苦茶の扮装のままで、三斎屋敷に駆け込まなけりゃあ駄目なのだよ。
お初は、今度こそ決心を固めた。いつか、彼女は谷中の杜を通り抜けていた。
お初は、寺町を抜け出すと、通りかかった空かごを、もう呼び止めていた。
「かご屋さん、松枝町まで大急ぎだよ。急病人があるんだから――」
かご屋は、淋しいところで、不意に絵から抜け出たような、凄味のある美女から呼びかけられて、びっくりしたように、足を踏み止めたが、すぐに、トンと下ろして、
「へえ、お乗んなせえ」
息杖を突っ張って、かき上げた先棒の吐く息がいかにも、冬らしく白い。
お初は、背中を、うしろに凭して、男のような腕組だ。目をつぶると、まぶたの奥に、恋しい顔――恋しいが憎らしい顔、恨みの顔、どうあっても、赦してはやれぬ顔――さまざまに二人の顔が、ちらちら映って来る。
――ねえ、お初、お前は、出来るだけ手ッ取り早く、仕返しをして、さっぱりした気持になんな。
今度こそ、やりそくないのないように支度をして、三斎屋敷へ、本職の方で改めて乗り込むくらいな気組がなけりゃあいけないんだ――今夜は、あの三斎隠居とかいういけ好かない奴をどうしても味方に抱かなきゃあ駄目だけれど――
お初が、自分にいい聴かせているうちに、すでに、もう目あての場所に近づいていた。
自身番の前まで来ると、お尋ね者の癖に、元気のいい声で、
「かご屋さん、御苦労さま――」
足から、器用に下りながら、
「取ってお置きな」
小銭を、荒びた掌に落してやって、乾いた下駄の響きを立てて、つと、横町に曲る。これを真直ぐゆけば、三斎の角屋敷の横に出るのだ。
コロコロと、小走りに、うつむき加減にいそいでゆくと、これまで見た事のない、真新しい板塀がある。
――おや、何だろう? この家は?
足がおのずと止まると、表つきは武術道場らしい武者窓を持った建て方だ。
――なあんだ、やっとうの、稽古場か。
呟いて、行きすぎようとするときだった――三斎屋敷の方角から、一人の武家が、月光に、長い影を落してやって来たが、擦れ違いざまに――
「お、そなたは――」
お初も、足を止めて、
「おや――あなたは――」
二人は、薄い月の光で、顔を見合せた。お初も、武家も、ハッと何か、思いあたることがあったに相違ない。
「あのときは、暗がりで、はっきりお顔は見えませんでしたけれど――もしや、こないだ、山ノ宿の田圃で、危ういところを、お助け下されたお方では――」
お初が、口を切った。
相手は、うなずいて、
「おお、拙者も、たしかに一度逢ったすがたと思うたが、では、あの時の――」
相手は、少し渋りながら答えた。
して見れば、この男は、山ノ宿で、雪之丞が、お初を仕止めようとしたとき、邪魔にはいった、門倉平馬か、その伴れに相違ない――彼等としては、雪之丞に、みにくいおくれを取ったのを、この女に見られている筈なので、何となく、拙い気持がしているのであろう。
「あの節は、何とお礼を申してよろしゅうございますやら――」
お初は、しおらしく、手を下げた。と、いうのは、この男、たしかに、三斎屋敷を辞して来たところらしいので、何かの時の便宜と考えたからだ。
お初が、この男、三斎屋敷から出て来たに相違ない――と、見て取ったのは、さすがに達眼だ。
彼女を、月あかりに見下ろして立つのは、言うまでもなく、三斎お抱え同然の、門倉平馬――お初が、見馴れぬ新建てがあると、目を止めたのは、彼の道場で、一松斎の門に、後足で砂をかけてから、隠居に頼んで、持地内に建てて貰ったばかりの、新居なのだ。
「いや、あの時は、相手が女子と侮ったところ、計らんや、女装変形の怪しき奴、なかなかに手ごわく、手捕りに致そうとしたため、思わず取り逃したが、いずれに致せ、そなたに別条もなく仕合せだった」
平馬は、そういいわけじみていったが、これも雪之丞には、奇怪な憎悪を燃やす身、相手が、あの場合の模様で見ると、彼と敵対の地位に立っているとしか思われぬので、この女にここで親しみを結んだなら、何かと役に立つこともあろうと、彼は彼で、考えないわけにいかない。
「それにしても、お女中、そなたも、どこぞ、この辺にお住居か?」
「いいえ、あたくしは、黒門町の方におりますが、今夜は、ちと、人をたずねます用があっての戻りみち――」
「戻りとあらば、もはや、御用ずみでござろうが?」
「は――はい」
お初、そう答える外にない――彼女の此宵の計画は、どんな相手にも、歯から外へは出せないのだ。
「ならば、袖擦り合うも、他生の縁、況して、あれ程の御縁もあること、拙宅へ、ちょいと、お立ち寄り願われないか? 伺いたいこともござるで――」
「と、申して、こんな夜中――」
「いや、お構いさえなくば、拙者の方は、何でもござらぬ。住居と申すも、つい、そこの道場――夜分は、内弟子が一人、老僕一人の、からきし殺風景な男世帯、御遠慮はない」
と、顎で差す、新築――お初は、いなまずに、
「まあ、この御道場がお宅なのでございますか――それならば、この間のお礼も、しみじみと申し上げとうございますから、お供をいたしましょう」
「御承引で、辱ない。では、こうまいられい」
お初は、平馬のあとに跟いた。導かれながら、彼女は、思い出さずにはいられない――道場が、まだ建てかけで、板構えのあったころその物蔭で、三斎屋敷闖入を決心、がに股のちび助、吉公に打ちあけて、諫めるのを振り切って、忍び込んだのだったが、その晩、あの雪之丞に見咎められ、それがきっかけで、思わぬ成りゆきになったことを――
平馬が、道場、脇玄関の戸を、引きあけて、
「戻ったぞ」
と、いうと、妙に角張った顔の内弟子が、寝ぼけごえで、すぐ次の部屋から出て来て、
「お帰りなされまし」
と、無器用に、手を突いたが、うしろに、すんなりたたずんだ、お初をみとめて、いぶかしげだ。
「お客人をおともした」
と平馬は、いかめしく言って、
「客間に灯を入れろ」
その客間というのが、まだ壁の匂いがツンツン香る、床に掛物もかけてない、がらんとした、寒む寒むしい十二畳だった。
木口こそ真新しいが、殺風景な客間に導かれたお初、皺ばんだ着物をいくらか苦にして、すんなりと坐ったが、相手は、そんな細かしいところまで気のつく男でもなさそうだ。
なぜなら、道場主の目は、なりふりよりも、まず、真っすぐに、こちらの顔にばかり注がれて、しかも異常な輝きを、白目勝ちの、殺気のようなものをいつも感じられる瞳に宿しているのだ。
――ふ、ふん、こいつもやっぱし、男かい? 駄目の皮を被った仲間なんだね? それならそれで役に立とうよ。
お初が、一目見て、そんな風に心に呟いていると、主が、
「まだ、はっきり名乗りもいたさなんだが、拙者は、門倉平馬と申して、いささか、武芸を嗜むもの――して、そなたは?」
と、膝に手を、ぎごちなく言った。
灯の下で見るお初の、思うに増した、すばらしい容色に、五体が硬まったかのようであった。
「わたくしは、黒門町の方で、後家ぐらしを立てております、初と申しますもの――お見知り置きを――」
「はて、お一人棲みでござるか?」
と、怪訝な顔。
「ほ、ほ、ほ、あたくしのようなもの、構ってくれ手が、あるはずはございませんし――」
平馬は、黙った。こうした問題にこれ以上触れてゆくことは、武士の面目に関わると思ったのかも知れない。
「それにしても、いつぞやは、危いところであったな――」
と、思い出したように、ジロリと見て、
「一たい、何ぜにあのようなわけ合いになったのでござるか?」
「詰らぬことからでござりますよ――」
お初は、もじもじするように、俯むいて、
「おはずかしいお話でございますけれど、あたくし達のような、からだが暇で、その癖、楽なくらしをしていますものは、どうかすると、間違いを仕出かし勝ちで――」
後家が、役者に、思いをかけての、痴話喧嘩が、昂じたもの――とでも、いったように、お初はいいまわした。
「うむ、世間は知らぬ――ことさら、女子衆はな――外面如菩薩、内心如夜叉――という、諺がござるに――」
平馬が、嫉みさえ、あらわに出して言う。
――ほ、ほ、ほ、外面如菩薩は、つい、お前さんの前にもいるよ。
と、お初は、ここで、[#「ここで、」はママ]限りなく嘲って、口ではしおらしく、
「ほんとうに、あとでは思い当りましたけれど――」
そして、打って返すように、見返して、
「でもあの節、あなたさまも、あの者と前からお知り合のようにも見うけましたが――」
平馬の眉根は、憎みで、毛虫がうごめくように寄せ合わされた。
「お、お、多少、存じ寄っている奴で――あやつ、本体を、御存知あるまいが、なかなか油断のならぬ食わせもの――」
「まあ、そこまでは、存じませぬが――一たい食わせものと申して、どのような――」
お初が、訊き返すと、平馬は、薄手の唇を、ビリビリと憤りっぽく痙攣させて、
「あやつは、ばけ物でござる――何を考え、何を致そうとしているか、是非に見抜いてやらねばならぬ奴じゃ」
「お初どのとやら、そなたは、一時、あの河原者の容色に、迷われたとかいうことだが、女子の身で、あやつのような化性のものに近づけば、いずれ、魂を蕩され、生き血を吸われ、碌なことはあろうはずがない――」
と、平馬は、憎々しげに、雪之丞を罵倒しつづけて、
「現に、あやつのお蔭で、御大家の、秘蔵の息女まで、とんだ身の上になられ、いやもう、大騒動が出来いたしたる位だ」
「え? あの雪之丞のために、いず方さまの御息女が、そんな目にお逢いなされたと申すのでござりますか?」
お初は、耳をそばだてる。
「お屋敷の名は申さぬが、その御息女、やんごとなき方にお仕え申しておるうち、雪之丞の甘言にたぶらかされ、只今のところはお行方知れず、おん里方としては、御主人方にはすまぬ儀となり、八方、御当惑――拙者どもも、お案じ申し上げておるのだが、未だに、いずくに身を隠されたか、皆目、あてがない――」
平馬は、雪之丞呪わしさのあまり、三斎屋敷の秘事を――浪路失踪について、その一端を洩らしたものの、さすが、屋敷名を出すことはしなかった。
が、お初は、ちゃんと思い当るわけがある。彼女が、雪之丞とはじめて奇怪な邂逅をしたのは、三斎屋敷の、裏庭の闇の中ではなかったか――そして、しかも、その折、雪之丞は、奥まった離れの一間にいたに相違ないのだ。
そして、今の平馬の言葉で聴けば、行方を晦ましたという当の娘は、極めて身分の高い人に、かしずいている女性だという――
三斎の娘の浪路こそ、公方に仕えて、大奥随一の寵をほしいままにしているということは、どこの誰でも知っている。
その上、お初は、いつぞや、役者宿に忍んで、思わず、雪之丞と師匠菊之丞との、ひそひそばなしを立ち聴きしてしまったとき、あの美しい女形が、浪路に対して、どのような籠絡の繊手を伸ばしつつあるかをさえ耳にしているのである。
万に一つ、間違いのないところを、お初は、まるで、女うらないでもあるように、いって退けた。
「その雪之丞にだまされなすったというお方は、土部さまの、御息女さまではございませんか?」
「えッ! それをどうして?」
平馬は、顔いろが変るほど、驚かされて叫んだ。
「知っているのは、当りまえではありませんか?」
と、お初は笑って、
「おはずかしいけれど、あたくしも、一度は、あの男に、迷わされた身でございますもの――あの晩の騒ぎにしろ、実は、そのように薄情にするなら、御息女のことを、世間にいいふらす――と、あたくしが、焼餅が昂じて申したのがきっかけで、あんな馬鹿らしいことになったのでございました」
「おお、左様か」
と、平馬は、いくらかホッとしたように、
「拙者は又、この事が、早くも世間に洩れているのかと、びっくりいたした。実は、大奥の方へは、まだ、浪路さま、おからだ本復せず――と、そう申し上げてあるので、土部家としては、どうしても、一日も早くあのお方を、探し出して、お城へお戻しせねば、とんだことに相なるのじゃ。なにしろ、御息女は、御寵愛が激しかったので、中老方の嫉妬も多いゆえ、これが曝われたら、大事にもなろうというもの――」
美女は、とかく、相手の異性から、秘密を打ち明けさせるような、一種の魅力を持っているものだ。
門倉平馬は、一道場のあるじに過ぎぬが、世に聴えた権臣土部家の機密に預かるばかりか、柳営大奥の秘事にさえ通じているということを、お初の前で披瀝して、相手から尊敬を買いたいような衝動に駆られたかのように、今は、つつしみを忘れて、しゃべりつづけるのだった。
「只さえ、どうにかして、浪路さまを現在の御境涯から蹴落し、君寵を奪おうと、日頃から狙いに狙っている女性たちの耳に、この真相が達した破目には、まるで蜂の巣を、突付きこわしたような騒動が起るは必定――しかも、それが、大奥だけに止まる話であればまだしもじゃが、第一、三斎さま、駿河守さまの、御威勢も、言わば、浪路さまの御寵遇が、預かって力がある筋もござるし、このおふた方の権威が、又、世間の嫉みを買うているわけゆえ、結局、どこまで煩いがからまってゆくか、見当もつかぬ――それで、さすがの御隠居も、あらわにはお出しにならぬ、大分、御心配の御容子だが――」
「でも、妙でござんすねえ――」
と、お初が、いぶかしげに、
「雪之丞のために、姿をおかくしになったとしたら、あの者を責め問うたなら、お行方は、すぐにおわかりになるでござりましょうに――」
「ところが、それが、あの化性もの奴の不敵なところだ」
と、門倉平馬は三白眼の白目を、剥きだすようにして、
「あれは、悉く御隠居の御信用を得ている上、実にきっぱりと、申しわけをいたしておる――いかにも、浪路さまより、身に余る仰せをうけたこともござりますが、当方は、河原者、人まじわりもつつしまねばならぬ身、ことさら芸道大切に、これまでとて、女性の肌にもふれておりませぬで、その御懇情だけは、平にお忘れ下さるよう、申し上げたことでござります。その上、御息女さまの、御他行さきより、お招きをうけたこともござりましたが、来月興行の稽古等にていそがわしく、おことわりいたしました。して、その後はふっと、おたよりもいただきませぬ――と、憎いことに表面は申しわけが立ったのだ。なぜなら、拙者はじめ、あらゆる手を伸ばして雪之丞の、挙動を探って見たが、いかにも、彼めの申す通り、隠れ忍んで、御息女に逢うている容子もない。実証がつかめぬ――御隠居は何しろ、日頃から、雪之丞御贔屓――あの者は、どこまでも芸道専一のもの――いかにも、浪路のたわけた言葉を、突きはなしたに相違あるまい。浪路にすれば、雪之丞に想いを寄せる位であれば、日頃より大奥のくらしが、呪わしゅうなっておったのでもあろう――まず、手をつくして、隠れ家を探す外はない――と、こう申されるだけだ。たった一個所、以前の乳母が怪しいで、これも嚇しもし、すかしもしたが、どこまでも存ぜぬ知らぬで、その口ぶりにも怪しいふしもなく、今は、全然、捜索の方途も失っている始末――」
「土部さまと申せば、老中さまより、御権威があるようにまで、いわれているお方、そうしたお方にも、御心配というものはあるものでございましょうかね――」
と、お初は、いって、しかし、信ぜられぬというように首を振って、
「でも、雪之丞が、お行方を知らないなぞというのは、あたくしには、のみこめませんけれど――」
「変ですことねえ――雪之丞が、浪路さまとかのお行方を、すこしも知らない? あたくしには、どうものみこめない――」
お初は、そんな風に繰返して、
「あの人がそれを知らない訳がないようにしか思われませんけれど――御隠居さまの勢力で、あいつをぐんぐん責めて見たらよさそうなものですのに――」
彼女は、美しい唇を歪めるようにして、
「素ッ裸にして、ふんじばり上げて、ピシリピシリひッぱたいて、海老責めにしつづけたら、白状するにきまっていますよ」
「ところが、それも出来かねるわけがあるのよ――何しろ、この事が、世間に漏れたら、恐ろしいことになるので、どこまでも、穏便、穏便――と、いうわけじゃ」
「いいえ、あんな河原者の一人や二人、責め殺したって――」
お初は、さも、憎々しげに、そんな風に言いながら、今口にした、自分の言葉から、あの艶やかな雪之丞が、真白な肉体を剥き出しにされて、鞭で打たれ、縄で絞め上げられているありさまを想像すると、その光景がまざまざと目に浮かんで来て、一種異様な、官能的な刺戟が全身を浸し、変態的な愉悦にさえ駆られて、狂奮が、胸の血をわくわくと沸き立たせるのを感じるのだった。
お初の、そうした変態的な気持が、彼女の表情を、この瞬間、妙に魅惑に充ちたものにしたに相違ない――
門倉平馬は、息をつめたようにして、三白眼の瞳をギラギラとかがやかしながら、からだを硬ばらせた。
「ねえ、先生から申し上げて、あいつを、ぐんぐん責めておやりなさいよ――あたしもその時には、見せていただいて、鬱憤が晴らしたいものです――」
お初は、しつッこい口調で言ったが、平馬はそれには答えずに、じっと、上目づかいで、お初を、睨むようにみつめつづけていたが、モゾリとした語韻で、
「ま、雪之丞ずれのことはどうでもいい――」
そして、唾をゴクリと呑むようにして、
「ときに、そなたは、うけたまわれば、お独り身じゃそうなが――」
「はい、不しあわせな身の上でござんして、良人に死にわかれましてから、もう長らく、淋しく暮しております――」
お初、心の中で、嗤っている。
――よくまあ、口が裂けないもんだねえ。自分ながら、出鱈目ばかりいっているのには呆れてしまう。
「それはそれは、しかしそなたほどの美しさを、ようまあ、世間がそのままにして置くものじゃ――よほど、操の堅固なお人と見えるのう」
と、諛うように、平馬はいって、
「拙者も、御覧の通りの男世帯、渋茶ひとつ上げるにも、無器用な弟子どもの手というわけ、折角立ち寄ってくれられたにお構いも出来ぬ――が、酒ならある。実はこれから、くつろいで、寝酒をと思うたところだが、寒さしのぎ、ひと口つき合ってまいられぬか?」
――ふうむ、こいつ、変な気持を起しやがったな――男ッて奴あ、どいつもこいつも何てのろ助ばかりなんだろう――島抜け法印は、谷中の寺にいるばかりじゃあねえ、ここにもいたよ――二本差しなだけで、この男も、あのいが栗とちっとも違やしない。
口では、
「でも、もう大そう遅うござんすし――」
と、しおらしい。
「はじめて上りましたお屋敷で――」
「夜が更けたと申して、拙者に於いては、毛頭かまわぬ――ときどき、晩酌が長引き出すと、夜を徹して飲むことがある位だ。だが、お初どの、そなたの方に――」
と、意味ありげな微笑を、ニタリと送って、平馬――
「そなたの方にひどう差し支えることがあらば――誰か、是非とも逢わねばならぬ人でも待っておッて――」
「ま」
と、お初は仰山そうに、
「そのようなこと、ござんすはずが――さきほども申したと存じますが、こんなお婆さんになってしまっては、かまってくれるものとてありませぬ」
「その癖、役者ぐるいも、しようというのかな?」
平馬は、ひとからみからんだ。
お初は、横顔を見せながら投げやりに笑い出した。
「ホ、ホ、ホ、あたしだって、木ぶつ金ぶつじゃあござんせんし、たまには、なまごころも出て来ますゆえ――」
「御亭主をなくされて、気楽に日を送っているからだなら、まあ、拙者とつき合ってまいってもよかろうな――」
ポンポンと、手を鳴らして、門弟を呼ぶのを、
「だって、お家の方々が、これから長居をしては、何とお思いになりますやら――」
「酒じゃよ――早う」
と、平馬は、膝を突いた弟子に言って、
「なにが、構うことが――家内でもあれば兎に角――もっとも、そなたほどの女子を一目見た男は、あった家内も、じきに去りとうなるかも知れぬが――」
――ふん、またしても、いや味ッたらしい――
――でも、こんな奴こそ、馬鹿と鋏は何とやらで、また便利なときもあるかも知れないから、まあ、ちょっと、釣っておいてやろうか――
お初は、そう思案をきめて、
「じゃあ、折角のことですから、お相手させていただきましょうかしら?」
「うむ、そういたしてくれ、かたじけない――お願い申すよ、何せこの荒くれた世帯、たまには自家の中にも、花が咲いてくれなければ――」
門弟が運んで来た、酒肴――といっても、どんぶりに、つくだ煮をほうり込んだのに銚子――
――まあ、今夜は、何て貧乏たらしいお膳ばかり見なければならないのだろうね――さっきが、古寺の酒もりで、今度が、道場の御馳走――
お初は、鼻の先を皺めたが、それをかくして、
「御門弟さん、お燗は、そこでつけますから、小出しのお徳利に鉄瓶を貸して下さいましな。その方が、御面倒が無くってようござんしょうから――」
「なにから何まで、よく気がつくな、いやそれが女子――女子のいない家は、荒れ野のようなものと、昔からいうが、もっともだ」
「先生は、なぜ御妻帯なさらないのでございます? へえ、お酌――」
平馬は、楽しげに、杯をうけて、
「なぜと申して、拙者も、これまでは、武芸修業に、心魂を打ち込んで暮していたでな――ところがやはり男よ、このごろは、どうも不自由な気ばかりしてならぬ。そなたにも酌をいたそう――」
奇妙な酒宴が、此処でもはじまった。
お初はいわば、心底からの悪性おんなだ。長二郎泥棒と、余儀ない破目で引き離されてから、雪之丞に心酔する熱情復活の日が来るまで、つまらぬ男たちには目もくれたくなかったのだが、しかし、その本質においては、極めて執拗で、残忍な悦楽の世界に、激しい思慕を感じていたのだ。
――あり来たりの色恋をしたってつまらないよ、そんなこたあ、素人の箱入さんか、極くましなところで、意気がった櫓下の羽織衆にでもまかしておくんだね。おいらなんぞを、生きるか死ぬかと、のぼせ上らせる奴はまああるまいが、それが目の前に出て来る日までじっとしているのさ。そのかわり、一度惚れたら――
恋が叶えば、地獄極楽も一緒に見ようし、叶わねば、相手を生きながら刀葉林へも追い上げねば置くまい――と、いうようなことを、いつも考えていたのだ。
ところで、今、彼女は、そうした恐ろしい恋の相手に、雪之丞を見出した。恋は蹴散らされた。ではどこまでも、その薄情男を苦しめ虐げ、生き皮剥いでやらねばならぬ。
そして、彼女は、雪之丞が、畢生の大願としている、例の復讐の望みを聴き知ったのを幸い彼の計画の一切を、曝露して、存分に辛い目を見せてやらねばならないと、決心したのであったが、しかし、この門倉平馬という、これも、雪之丞に、恐怖すべき害心を抱いているに相違ない人物が、たった今、自分の色香にうつつを抜かしているのを見ると、また、別の考えが起って来た。
――この男は、こないだ、田圃の出合いでは、雪さんに、ひどい目にあわされたが、あれは不意のことだし、人数も少なかったからだろう――こいつを、おだてて、存分に陣立てをさせ、あの雪さんと噛み合わしたら、ちょいと面白いお芝居になるかも知れない。なにも、敵討ちの邪魔をしたいばかりが、おいらの望みでもない――あの美い男の雪さんと、この角張った剣術使いを血みどろに戦わせて、高見の見物は、ちっと、胸のすくことかも知れないよ。
お初の慾望は、平馬の、淫れ心に充ちた目つきに唆られたように、浅間しい、歪み、穢されたものになって来た。
――どうせ、雪さんに意趣がえしをするなら、おいらの目の前で、一寸だめし、五分だめしに逢って、のた打ちまわるところを、この目で見てやりたい――一件を三斎隠居に訴えるようなことをしたら、あの人は、おいらの知らない間に、引っくくられて、誰も知らない場所で、始末をつけられてしまうだろう。それじゃあ、おいらには、面白くもうれしくもありはしない。
お初は、気が、がらりと変ってしまった。彼女の瞳は、新たに胸に萌した、異常な願望に、度強くギラギラと輝き出した。
猫撫でごえで、
「お杯をさし上げて、失礼でござんせんければ――」
「失礼も何もあるものか――いや美婦の紅唇にふれた猪口のふち――これにまさるうれしいものはござるまいて――」
勤番ざむらいの、お世辞のような、気障けたっぷりのことを云って、杯をうける平馬は、お初のけものじみた慾念に燃える瞳に刺戟されて、顔中の筋肉を、妙に硬ばらせた。
「拙者、今夜は、いかなる幸運か――吉祥天女が天下ったような気がして、とんと、気もそぞろになり申すよ。は、は、は、は、は」
笑いが笑いにならない――情慾が全身を硬直させてしまっているのだ。
お初は、門倉平馬の表情に、異常な狂奮が漲って来るのを見ると、いいしお時だと思って、
「ねえ、門倉先生、あたし、ちょいと思いついたことがあるのですけれど――」
「何でござるな?」
杯を手にして、眇めたような目で、じっと見る。
「雪之丞のことですけれど――」
雪之丞――と、いう名が出ると、平馬の目いろが変るのだ。
「ウム、あのばけ物のことで、何か――」
「実は、あたくしに取っては、土部さまのお娘御のことなぞは、どうでもいいのですけれど、あの男を、あのままにほうッて置くわけにはいかない気がしてならないんです」
「ふむ、まだ、未練が残ってならぬと、申すのかな?」
毒々しくいいかけるのを、お初は軽く笑殺して、
「まあ、先生も、剣術には明るいかも知れないけど、女ごころはおわかりになりませんのねえ――江戸の女というものは、自分の望みを――折角掛てやった想いを、無慈悲に突っ刎ねるような男に、いつまでもでれでれしちゃあいないのですよ。そのあべこべに、その男を、さんざッぱら、ひどい目に逢わしてやらなけりゃあ、辛抱がなりません。それで、ちっとばかし、お願いが出来たわけなの」
言葉つきも、親しみが加わり、遠慮が無くなった。
それが、平馬には、うれしくてならぬ。見る見る活気づいて、
「ほう、雪之丞を、どうしようというのだな? 何か名案があるかな?」
「あの男を、どこかへしょびき出すか、それとも、途中で生け捕るかして、きゅうきゅうむごい目を見せてやりたいのです」
「それ真剣か?」
「真剣ですとも――本気ですとも――」
「ふうむ」
と、平馬は、腕を組んで、
「女というものの執念は、怖ろしいものだなあ」
「ほ、ほ、ほ、何を感ずっておいでなのさ――そんな事は、今更言うまでもありゃあしない。女という生きものに取っては、いとしいいとしいと、思うこころが、先きの出方で、いつでも憎い憎いに変るんですよ。だから、先生なんぞも、その立派な男前で、あんまり女をいたずらして歩くと、しまいには、飛んだことになりますよ。ほ、ほ、ほ、ほ」
お初が、冷たい凄い笑いを浴びせかけた。
平馬は、顎のあたりに手をやって、
「拙者なぞ、そなたほどの女子に、せめて、毛程でも、怨むなり、憎むなりして貰いたいものじゃ」
「そんな空世辞よりも、先生、あなただって、雪之丞を、あのままにして置いていいのですか――あんな寒い田圃中で、ぶちたおされてさ」
平馬は、お初を、白い目で見て、その目を反らして、
「いや、断じて、あのままには免し置けん――とは、思っているが――」
「じゃあ、やっぱし先生も、あんな女の腐ったような男が、そんなに怖ろしくッてならないのですか?」
お初は、嘲けりを露骨に出す。
「何を馬鹿な! あの時は油断があったればこそ――」
「それなら、なぜ、手を出さないんです、よう、先生」
お初は、皮肉に、鼻声を出して、物ねだりをするように繰り返した。
「わたしが、殺されかけたあの男、あなたが、いかに油断とは言え、あんな恥辱を取ったあの男を、いつまで、あのまま放って置くのですよう、先生」
飲めば青くなる方の平馬は、お初の言葉に、目を釣るようにして、
「拙者だとて、あやつを、あのままに放って置く気はない。いずれ、手痛い目を見せてやる所存でいたが、そなたが、そう言うなら今晩、これからでも、乗り込んで、素ッ首を叩き斬ってやる」
と、肩をいからせると、お初が嘲笑って、
「それだから、厭さ。すぐ、そんな風に木ッ片に火が点いたようになるのは、猪武者というものですよ。ほんとうに、雪之丞に、意趣返しをなさるおつもりなら、ちゃんと、陣立てをなすっていらっしゃい」
「陣立て?」
「ええ、あなたが、向う鉢巻で、飛びかかって行ったって、あの手並じゃあ、ちっとばかし、持てあましましょうよ。こないだの、おつれのお武家さんだって、怨みはあるでしょうし、ほかにも仲のいい方がいるでしょう。その方々をかたらって、今度こそ、引ッくくんなさいましよ。一息に、斬り殺したりしてしまっては、面白くないから、ふんじばって、誰も知らないところへ連れて行って、うんと責めてやろうじゃアありませんか――」
お初の目は、ギラギラと輝き出した。彼女は叶わぬ恋人を、あらん限りの愛撫で、よろこばせてやるかわりに、この世からなる地獄の責苦を浴びせかけてやる外はない破目になった。そして、どこまでも、その慾望を突き貫かなければ、我慢がならないのだった。
「そうか、用心に若くはなしだな、なあに、覚悟さえすれば、拙者一人で大丈夫だが――」
と、平馬が言うのを、
「そりゃあ、思い切って、叩き斬るなら、うまくいけば、先生にも出来ましょうよ。でも、それじゃアつまらない――生殺し、なぶり殺しにしてやらなければ――あたしだって、日ごろの恨みだから、短刀のきっ先きで、ちくりと位、やッてやりたいもの――」
「ほう、そなたがな?」
と、さすがに、平馬、びっくりした目でみつめる。
「そうじゃありませんか――男と女の仲というものは、惚れるか殺すかですよ」
「怖ろしいな」
「怖ろしゅうござんすとも――あなただって、今こそ、あたしをそんな目で見ているけれど、もし、一度何してから、途中で逃げ出そうとでもして御覧なさい。そのときには、思い当りますよ。ほ、ほ、ほ、ほ」
「いや、拙者、そなたに殺されるなら殺されても本望じゃ」
「まあ、それはそれとして、じゃあ、明日の晩、あたしが、必ず、あの人を、柳ばしの方角まで引き出します――その途中、どこか淋しいところへ張っていて、盗んで下さい。連れていく場所も見立てて置きますから――」
「そんなことが出来るかな?」
「出来ますとも――」
「では、それで話はきまった――ときに、お初どの、今宵は、更けたから、ここで、泊ってまいってくれまいか――な、お初どの」
平馬の、手が伸びて、お初の肩にふれた。
手を取って引き寄せようとする平馬から、お初は軽く擦り抜けて、
「さあ、あたしも、こんなに遅く外を歩くのは厭ですけれど、でも、雪之丞のことを考えると、ムラムラして、とてものんびり御厄介になれませんし、それに、お宅で泊めていただいたら、明日、御門弟衆多勢の目にふれると、先生に御迷惑になると思いますから、今夜は、寒さを辛抱して、黒門町へ帰りましょうよ――そして――」
と、色っぽく、しなさえして、
「そして、雪之丞へ、お互に意趣がえしをしてしまったら、ゆッくり、川向うへでも行って、静かなところで、お目にかかりたいものですねえ――向うじまの田舎料理が、大そう評判ですから――」
「左様か、なるほど、道場内は、何かと窮屈で、落ちついて話も出来ぬな」
と、平馬はいって、それでも、残り惜しそうに――
「何なら、今夜、これから出かけようか――静かな晩だから、左まで寒うもあるまい」
「まあ、楽しみは後からといいますゆえ、今のおはなしの雪之丞の方を、始末してしまった方がようござんす。それじゃあ、こうしましょう――あたしはこれから家にかえって、今夜の中に何かうまい思案をして、明日芝居が刎ねる前このお道場まで、手順をお知らせするように屹度します。どうぞ、こちらでも、御同勢を集めて置いて下さいましな――いつ、何どきでも押し出せるようにね――わかりました?」
お初は、そういって、猪口のしずくを切ってカチリと膳に伏せる。
「その方は、承知いたしたが、もう帰られるか?」
まだまだ未練がましい平馬に、ニッコリと、微笑だけのこして、お初は立ち上った。
「かごでも――」
と、玄関で、言ったが、
「いいえ、かえって、歩く方が勝手ですから――」
お初は、道場の門外へ出て、それからは、もう何も考えずに、小走りに夜道をいそぐ。
彼女はしかし、このまま、まっすぐに黒門町へ帰れはしないからだ――すでに、谷中鉄心庵で、島抜け法印を寝こかしてくれたことが、ばれてしまっているかも知れない。
――あの坊主、あしたまで、ぐうぐう眠っていてくれればいいが、あいつだって、悪党だ――ことによったら、もう目をさまして、騒ぎ出しているかも知れぬ。そうすれば、闇太郎のことだもの、おいらのからだを、ほうり出して置くはずがない。
どこへ行ったものか――と、考えるまでも無く、お初は、所々に隠れ家を持っている。
彼女の足の爪先は、池の端、錦袋円の裏路地に、
――おん仕立物――
と、小さい札を出した小家を差していそぐ。
仕立屋の格子先に立つと、雨戸がしまってもうすっかり寝しずまっているようだが、コツ、コツと、軽く叩いて、
「お杉ちゃん、もう、寝んね?」
ゴトリと、何か物音がして、
「どなた! お銭ちゃん?」
と、中年増の声――いくらか寝むたげである。
「いいえ、あたし、黒門町――」
「まあ、姐さん!」
いそいで、入口に近よる気配がする。
お杉という、三十足らずのぽってり者、寝巻の裾から、紅いものをこぼして、あわただしげに入口の戸を開けて、のぞいて、
「まあ、思いがけない! さあ、早く、おはいんなすって――」
「すまなかったね――遅いのに起して――」
はいって、土間に脱ぎ捨てる駒下駄――それを、お杉は下駄箱にしまう。
「はばかりさまだね、下駄をいじらせて――」
「いいえ、ね――だって、姐さん危ないんじゃないの?」
お杉は、行灯の灯を掻き立てながらいう。
「どうしてさ?」
「でも、吉さんはじめ、お身内の人たちが、姐さんの行方が、出たッきりわからなくなったが、どうしたのだろう? 何でも、闇の親分に誘われて、大きな仕事を目論んだらしいというので、そッちで訊いて見ると、解らぬという――それで、大騒ぎをしているようだから、てッきり、引ッかかって、抜けておいでなのだろうと思ッてさ」
と、お杉は、明るくした灯で、お初をみつめた。
お初は、お杉の紅勝ちの友ぜん模様の寝床の枕元にあった、朱羅宇のきせるを取り上げて、うまそうに、一服して、長火鉢のふちで、ポンと叩いて、いくらか苦笑した。
「そうかい? じゃあ、留守にしたので、方々へ御迷惑をかけたわけだね――なあに、そんな筋じゃあなかったのさ――と、言って決して、無事というわけでもなかったのさ。おいらにも似合わねえドジをふんでね、少しばかり馬鹿を見た。へえ、闇の奴、心あたりがねえと言ったッてかい? まあ見ておいで――あの野郎だって、その中、只は置かねえから――」
と、二ふく目を、やけに、煙を吹いた。
「まあ、そんなら闇の親分と、何か仕事のことで出入りでもあったの?」
と、お杉は、茶筒から喜撰を、急須に移しながら。
お初はうなずくでもなく、
「いいえね、あの野郎を、使った奴があるのさ――あの野郎をあやつッて、人をとんだ苦しい目にあわせた奴が――」
「まあ、あれ程の人をあやつるとなると、誰だろう? 大物に相違ないが――」
「思いもかけない奴さ――おまはんには、見当もつかないだろうよ」
「仕事のことで?」
鉄瓶の湯が、まだ熱いので、すぐに、うまい茶がはいった。
お初は、フウフウと、軽く吹いて、一口、飲んで、
「でもないのさ――兎に角、お茶はおいしいね。今夜は、つまらない相手に強いられてばかりいたので、やけに干いてならないよ。もう一杯――」
「それにしても、気になりますねえ――一たい、どうなすったのさ?」
「まあ、いいよ、あとでわかることだから――とにかく、今夜は、うちへは帰れないからだ――ゆっくり寝かしておくれな――話はあととして、お前さんも、寝ておくれ」
きゅッきゅッと、帯や、下じめを解いて、着物をぬいで、丸めて投げると、下には、目のさめるような匹田ぞめの長じゅばん――そのまま、
「お寝間のはしを汚しますッてさ。ほ、ほ、ほ」
と、冗談をいって、お杉の床にもぐり込んでしまった。
世の中が、凶作よ、不作よと、騒々しいためばかりとも思われぬが、このごろずッと不入りつづき、毎月、蓋があけられるどころの話ではなく、やっと開けても、桟敷に何組、土間に幾十人と、舞台から頭がかぞえられるようなありさまで、十日と持たずに千秋楽になってしまうのが、癖のようになっていた中村座、上方から招いた菊之丞一行が加入しての、懸命の働きが功を奏して、珍しく、その月がもう日が無くなっても、押すな押すなの大入り続きなのだ。
いうまでもなく、菊之丞一行中の、雪之丞の、天から授かったような美色、これまでの役者に見られなかった品の良さ、一挙手、一投足につきまとっている不思議な妖気――と、いったようなものが、この成功の八分を齎したのは、誰にも判っていた。
師匠菊之丞の得意は勿論、最初は、
――何しろ上方の、それも緞帳から成り上った器用役者、あざとくって、けれん沢山で見ちゃあいられねえ――
とか、
――ま、見たところは、美しいですが、とんと場違いで、近海の鯛に馴れた舌には、ちと頂けませんな。
とか、尤もらしい顔をして、蔭口を吐いていた、いわゆる、通人の連中も、いつとはなしに軟化してしまって、昨日の舌の根を、今日は、どう乾かしたものか、
――いやもう、かの役、至極絶妙、極上々吉、歌舞伎道、創まっての逸品とでも申しましょうか。
――あれの舞台をじっと見ているてえと、どうもおたげえに、江戸ッ子の泥ッくささが、小ッ恥かしくってならなくなるから妙だ。あれに付き合っている、座つきの役者たちは、みんなピチピチした連中なはずなんだが、あれと並ぶと、残念ながら、月とすッぽん――たまげやしたねえ。
――何とかして、あの役者を、足止めして、今は若い身を病気で引っ込んでいる、江戸一の立役者と、並べて眺めたいものだな。
なぞと、打ってかえした評判が、渦を巻きはじめる。
それで、目先の利いた中村座の関係者は、師弟を口説いて、現在の滝夜叉譚を、打てるだけ打って、おっかぶせて、師走狂言「忠臣蔵――初春まで、同じ顔ぶれで持ち越して、最近の興行界に、記録を残して見たい――」
と、いうような筋を運んだが、その実は、師匠の菊之丞も、そのほかの弟子も要らぬ。ただ雪之丞一人だけを、未来永劫、江戸に取ってしまいたいという肚なのだ。
座方も、贔屓も、肚は合った。
日ごろは、芸界になぞ、縁どおい一般世界までが、こうなると、煽られたように、
――雪之丞とかが、御当地に居付くだろうか――ッて? 当り木だよ。公方さまのお膝元じゃあないか。日本中の結構なもの、立派なもの、みんな大江戸にあつまるのが、天下の定法なんだ。
――へ、へ、へ、その中には、お前さんのように、結構で、立派で、何とも見ッともなくって、正面に見られねえ馬づらもまじってはいるが――
――人を! いい加減にしねえと胴突くぜ!
と、いった工合で、雪之丞、人気を振り捨て兼ねて、却って迷惑げに見えたが、しかし、師弟とも、肚では、
――大敵多勢を持つ身に、用意の月日をあたえて下さること、一に神仏の御利益――
と、涙が出るほどうれしいのだ。
雪之丞畢生の大願は、これまでの経過から言えば、徐々に確実に運んでゆけば、必ず十分な成果を挙げることが出来ると信じられるのだった。
もはや、土部三斎に対する、第一段の復讐工作は、完了したと言ってもいいではないか?
公方の寵愛をほしいままにして父兄栄達の原動力をなしていると言われる、浪路の存在は、大奥から消えてしまった。そして、浪路が、公方の熱愛を振り捨てて、姿を隠してしまったとなれば、三斎一家に対する柳営の気持が、どんなに変って来るかは、言うまでもないことである。
世の中の辛酸も、道理も理解することの出来ぬ、公方というような、最大特権階級の我儘者の、愛憎が、どのように変化の甚だしいものであるかは説明を待たない。
この不幸をきっかけにして、土部三斎や、横山、浜川と言ったような、奸佞暴慾な武士たちは、だんだんに、雪之丞の計略の罠に陥ちてゆくであろう。
父親の見世の、子飼いの手代の癖に、当の主人を死地におとしいれた、長崎屋三郎兵衛はどうだ?
雪之丞が、孤軒老師の訓えのままに投げた、恐ろしい暗示によって動いた、長い間、悪謀をともにして来た、言わば親友の広海屋の詐略のために、ふたたび起つあたわぬ打撃をうけてしまった。
して、長崎屋は、あの豺狼に似た根性を以て、当然、ごく最近、今度はあべこべに広海屋に噛みつくであろう。
――現世の栄華を、いのちよりも、魂よりも貴く思う人達から、まず、一ばん大切なものを奪い取って、零落の淵に沈ませ、恥辱をあたえ、さんざんに苦しみ悩ませてから、必殺の刃で、一思いに一命を絶ってやってこそほんとうの復讐なのだ。一どきに殺してしまうには、あの人達の罪業は、あまりに深い――
そう思っている雪之丞、師走興行に、忠臣蔵が、出るということを聴いて、これも天の配剤なのだろうと考えた。
――赤穂の義士方も、あれだけの辛抱があればこそ、残すなく望みを遂げた。わしも、構えて、あわてまいぞ。
あわてたなら、一人二人を仆すことが出来ても、五人の敵を、剰さず亡ぼすことは不可能であろう。
そんな覚悟で、もう、あと三日で、千秋楽という舞台を踏んで、楽屋に戻ると、「田圃」と、署名した文が届けられていた。今夜、急用で打合せしたいことがあるゆえ、遅く、旅宿をたずねる――と、いう意味のことを、知らせていた。
――田圃――
と、いえば、浅草の闇太郎に相違なかった。
が、その処を読みおわらないうちに、男衆がはいって来て、膝を突くと、
「親方、広海屋さんから――と、いって、お迎えのかごが待っておりますが――」
広海屋と聴いて、雪之丞の心は緊張した。その後、長崎屋との争論は、どんなことになったであろう――自分が投げてやった、毒菓子に、ガブリとむしゃぶりついた二人の男の成りゆきが聴きたかった。
闇太郎の文もあり、いつもならそう手軽くうけ引きはしなかったのだろうに。
「広海屋さんは、どこにおいでなのだろう?」
「柳ばしの、ろ半で、おまちなそうでございます」
それなら、ろ半とやらで、ほんの短い間、広海屋と逢って、それから、闇太郎の、急用というのを聴くために、宿へ戻って遅くはないであろう――と、雪之丞は、そんな風に考えたので、舞台化粧をザッと落して、着類をあらためると、迎えのかごというのに、躊躇なく身を委せた。
かごと一緒に、使いに来た男は、小柄な、はしっこそうな若者だった。乗物の脇に引き添って、
「かごの衆、おまち兼ねだから、いそいでくれよ」
「合点だ」
雪之丞は、かごに揺られながら、今夜、広海屋がどんな土産話を聴かせるであろうかを、楽しんでいる。
彼の想像では、広海屋は、あのように、きっぱりと長崎屋と手切れをした以上は、思い切って圧迫を加えたであろうし、長崎屋は長崎屋で、自棄になって、どんな非常手段でも取って、対抗しようとするであろう――
――現に、江戸の、お米の値段は、このごろめっきり下ったそうな――長崎屋一味の店前に、石つぶてを投げる者さえあるというはなし――長崎屋も、黙ってはいまい。あの長虫のような執拗さで、広海屋に噛みついてゆくであろうが、それを相手がどう受けるか――
二頭の猛獣が、四ツに組んでお互のからだに牙を突き入れたときこそ、雪之丞が、今度こそ秘めた破邪の剣を下すべきときなのだ。
――一あし一あし、わしは目あてに近づいてゆく。
はっきりと、勝利を予想して、彼の胸は躍るのだ。
そうしたことを考えている間に、かごは、どこまで来たであろうか? もう大分、長いこと乗っているのに、柳ばしに着いた容子もない。
ふと、気がつくと、かごかきの足音が違っている。草鞋が土を踏んでいるひびきではない。
――おや、橋を渡っているが――それも、長い橋を――
雪之丞は、いぶかしさを感じた。
耳をすまして、少し考え込んだが、
「かご屋さん、これは、柳ばしへゆくのではないの?」
「へえ、それが模様換えになったので――」
と、かご脇に引き添って、駆けていた若ものが、何でも無げに答えた。
「模様換えというと――」
雪之丞、かすかな不安を覚えたものの、
「わたしは、柳ばしのろ半とか、聴いていたが――」
「いいえ、柳ばしのろ半の出店が、深川にありますんでね――へえ」
かごは、いつか、橋を渡り切って、かまわず、急いで行く。
川風が、荒っぽく、垂れの外に吹きすぎるのをきって走ってゆく。
やがて、傾斜を下りて、人気はなれたあたりへ出たらしかった。
すると、とある曲り角を、曲ったと思うと、そこで、二、三人の足音が、乗物にまつわって来た。
――はて?
はじめて、雪之丞は、一種の殺気が、自分を押しつつむのを感じた。
――早まったかな? わしには、敵がないわけではなかった。
敵を敵をと、狙う身、あべこべに狙うものがあることをとかく、忘れがちになるのは当然だった。
――ふうむ、先きの奴をまぜて、一人、二人、三人、四人、付いたな。気息の使い方で見ると、一通り、武芸の心得もある奴らしいが――
雪之丞は、とにかく、何かしら、陥し穴のようなものに、落ち込んでしまったと、ハッキリ思い知った上は、気を強めて、難場を切り抜けるだけの心支度をする外はないのだった。
――いつもいつも、一松斎先生や、孤軒先生から伺っていた通り、敵を知り、おのれを知らねば、闘争に勝つことは出来ぬ。まず以って直接に自分にまつわっている人々が、どこまでの用意をして置くかを調べて、それによって、背後の立て物を見抜くが第一――
四人も、ここまで出張っていて、なお、手を出さず、ひそまり返って、乗物の進むにまかせているので、想察すれば、このかごの行く先きにこそ、この人達をあやつり使っている大物が、待っているとしか思われなかった。
――やはり、三斎隠居であろうか? 浪路どのの失踪が、わしの細工と見て取って、糾明するつもりでもあるのであろうか? どうも、そうは思われぬが――隠居は、わしをまだまだ信じ切ッている。不思議な、非理なわけだが、わしほどの芸を持ったものに、女を奪って隠すような、いやしい私心は無いものと信じ切っている。どうしても、わしには、この四人の人形をあやつる糸が、三斎の手の中から伸びているものとは考えられない。三斎でないと、して見れば、何ものだろう?
雪之丞の頭の中では、突嗟にこうした懸念が、火花を散らして渦を巻いた。
――まさか、わし程のものの出迎え役を引きうける奴ばら、いかに未熟でも、途中でかごから抜けさせるような能なし猿ばかりではあるまい。が――
と、雪之丞は、いつもの凄まじい沈着を失わずに、臆せぬ口調で、だしぬけにいいかけた。
「かご脇の方々――いずれまで、お連れを願わねばならぬのでござりますか? ちと揺られくたびれましたが――」
しいんと、黙りこくって、答えるものがない。
――相当の心構えだな。
雪之丞は、敵が、挑みに応じて、荒ら立って来るのを望んだ。そこに、彼はたやすく活路を見いだし、左まで精力を費すこと無しに、身の自由を得られることを信じるのだった。
しかし、案外、相手が静粛を保っているので、追っかけて、
「お許しなされずとも、当方より、乗物を捨てまするぞ!」
グッと、身を斜めに、かごに、重みをかけて、今にも、やわ作りの乗物を、踏み抜こうやに見せかけたが、相手は、なおも、応わなかった。
雪之丞は、まざまざと、四本の刀の切ッさきが、垂れの外で、自分を目がけて、差しつけられているのを感知した。
――こやつ等、左までの心得のある者どもでは無いであろう――うしろで、糸を引く者が、わしの力を、十分に知っていて、大事に大事を取らせていると見える――
と、考えたとき、パアッと、明るみが、彼の胸を射し渡した。
――おッ! そうだ! 門倉だ! 平馬だ! あの人こそ、わしの肉を喰らいたいとまで思っている随一人だ。
雪之丞の目に、あの無月の夜の、山ノ宿田圃路の一件がうかんで来るのだった。
――そうか、やはり門倉平馬の細工だったのか? それで、広海屋の名を使ったのも読めた。
と、雪之丞は、胸に呟いた。
彼は、まだ、軽業お初が――あの強烈暴虐な執念の女鬼が、鉄心庵から、島抜け法印を盛りつぶして、抜け出し、ふたたび浮世に舞い戻って、怖ろしい計画を立てていることに就いては、何等の報告も受けていなかったので、表面の敵を、只、平馬一人とかぞえているのだった。
――それなら、面白い。
と、大胆不敵な、この女装の剣者は、独り言つ。
――日頃から、邪智ぶかい平馬、一度ならず後れを取ったことゆえ、今度は、多勢の手をかりて、わしをこの世から、あの世の闇に送ってしまおうとするのであろう――恐らくは、江戸で聴えた、若手の剣客が、こぞってあの男の味方をしているかも知れない。では、一つ関東風の、鋭い切っ先きというものを、今夜は充分に賞翫して見ようか?
雪之丞は、人間がこの世に生れ出た以上、どんな成りゆきで、強敵を向うにまわさねばならぬかを、知りすぎるほど知っている。そして、剣技と、士魂とを、一松斎や孤軒から訓しえこまれて、その敵が、多ければ多いほど、心を逞ましくすべきだということを覚悟している。一個の男子に取って、いわば、敵は多いほどよかった。そういう場合にだけ、人間の精神力、能力――一切の力は、限りなく発揮されるはずなのだ。
勿論、雪之丞とても、人、今夜、これから自らが瀕むべき危険を想像すると、一種の胸さわぎのようなものは感じるのだ。
しかし、彼は、古来の、秀抜な剣士の、遺して行った歴史に力づけられずにはいなかった。
すべての剣聖は、言いのこしていた。
――百人の敵も、一度に、彼等の力を、一人の我れに注ぐことは出来ぬ。百の力は、結局、一と一との比で、自分に向って来るのだ。恐れることはない。一人一人、それを倒せ。何でもないことだ。
そして、そうした言葉を言い残している古人達は、みんな、実際に於いて、決闘上の、大場面を――大傑作を演じて見せているのだった。
雪之丞は、自分に言った。
――門倉平馬の力で、まとめられるほどの敵が、何百人あろうと、それに打ち負かされるようでは、わしの悲願が、成し遂げられようか? わしの敵どもは、もっともっと力の強い人達だ。
タ、タ、タ、タ――
と、小刻みに、そういううちにも、かごかきの足どりは進んでゆく。
雪之丞は、乗物の四囲に、鋭い刀尖が、青い星の光りを宿しながら、つきつけられているのを感じている。
――抜ければ抜けられる。
と、彼は思う。
彼が、かごの中で、激しく身じろぎしたとき、ぐうっと、通して来る刃は、多くて四本――その四本の刀尖の交叉する一点を中心に四ツの空間があるのだった。彼ほどの身のさばきのすばやい人間に取っては、その空間は、あまりに大きすぎる位の安全地帯。
そして、その安全地帯に、一度身を置いた次の瞬間には、彼の全身は、乗物の外に飛び出してしまっているだろう。
が、彼は、動かなかった。騒がずに、平馬の目の前に、この身を運んでゆかせたかったのだ。
雪之丞を載せたかごは、なおもそうそうと、夜の北風が吹く、田圃みちを進んでゆく。
雪之丞は、心の用意が済んだので、水のように澄み切った気持で背をもたせたまま、目を半眼に閉じて、揺られるままに身を任せている。
やがて、かごかきの足どりが、少しゆるんで、ゆるやかな傾斜にかかったようだ。
どこかで、微かに人ごえがしている。
――いよいよ、来たな!
と、雪之丞は半眼にしていた目をパチリと開けた。
人ごえが、やんで、しいんとしたが間もなく、かごわきで、
「止まれ、下ろせ」
と、錆た声が――
その命令で、乗物が、とんと下りる。
「珍客、召し連れ申したが、いかがいたしましょうか?」
と、同じこえが、云った。
「御苦労、御苦労」
案にたがわず、門倉平馬の声音だ。
それが、いくらか、高みから聴えるところを見ると、大きな家の、縁端での挨拶らしかった。
「そこに、珍客のための、席も設けてある。それに、招じるがよいであろう」
「しからば――」
と、錆ごえが答えて、
「おのおの、御用意――」
と、言ったと思うと、サッと、急に、かごの垂れが上げられる。
「河原者、雪之丞、出い!」
錆声が、野太く叫んだ。
雪之丞は、すさまじい刀尖が、左右から突きつけられているのを見た。そして、次ぎに、そこが古寺の荒れ庭で、鈍い灯火に、照らされたあたりに、荒ごもが一枚布かれているのを見た。
が、まだ、縁の上に、いかなる人々が並んでいるのか、見ることが出来ない。
「出い! 雪之丞!」
と、命令が、ふたたび叫ばれた。
「ほ、ほ、ほ、ほ!」
と、美しい、朗かにさえひびく声で、雪之丞は笑った。
「これは、まあ、とんだ御念の入った、御案内ぶり――」
そして、冷たい調子で、
「わたくしは、まだ、わが手で、自分の履きものを、揃えたことがありませぬ。かご屋、はき物を――」
「何をつべこべ!」
と、刀尖をつきつけている青年武士が、上擦った調子で嚇した。
「たわ言を並べおるうちに、首が飛ぶぞ。それが怖ろしくば、早う出い!」
「ほ、ほ、首が飛ぶは、怖ろしいに相違ありませぬが、はだしにては、下に下りられませぬ」
「黙れ! 出い!」
「こなたの申すこと、おきき入れなくば、わたくしも、おいいつけを、おことわりいたすばかり――決して、この乗りものの外へ、手向いなしには出ませぬ!」
雪之丞は、相変らず、笑みさえふくめた声でいった。
若侍は、怒った。
「おのれ、血迷うたか! 嚇しではないぞ――この刃は――」
「さようでござりましょうとも――立派なお武家が、役者風情をお連れなさるのに、よほど怖うのうては、これ程のお支度はなされますまい」
落着き払った、雪之丞の嘲笑に憤怒を煽り立てられたように、青年の一人が、
「おのれッ! いわせて置けば!」
と、押えかけて、ぐッと、刀を突ッかけて来るのを、かわして、
「ほ、ほ、これはまた、性急な方!」
と、笑って見せて、その手首を、やんわりと、握りしめた雪之丞、ぐいと、引きつけて、狼狽てて、身を退こうとする相手の力に、きかせるように、スルリと、かごから出てしまったので、たとえ、出しなを斬ってしまおうと、企んでいたとて、きっかけを失われてしまったのだ。
「聴いたにまさる、しぶとい奴だ! さあそれへ坐れ!」
ほかの若僧たち、太刀の切ッさきで、追うように、荒薦に坐らせようとする。
「これは、御丁寧すぎる、おもてなし――」
にんまりと、花のような唇を綻ばして、まるで、舞台にいるときにも似たしとやかさで、くの字なりに居くずれて、片手を突いて、じっと、見上げた目の行く先、鈍い燭の灯に照らされた、縁の上――
思い設けたとおり、そこに、威を張って、肩をそびやかし、三白眼を、光らせて控えているのが、門倉平馬――別に、雪之丞をおどろかすには足りない。
左右に、五人ばかり、これも、いくらか鍛錬は積んでいるに相違ない、面ずれというのに、小鬢、小額を、抜け上らせた、連中が、敵意と、好奇心とに、目を剥くようにして押し並んでいる。
その中には、いつぞや、山ノ宿の出逢いで、呆気なく、当て仆された、あの浅草の武術家もいるに相違なかった。
「雪、びっくりいたしたか?」
平馬は、皺枯れた、毒々しい調子を浴びせて来た。
雪之丞は、相変らず、焦立ちも見せず、含笑って、
「最初は、ちょいとばかり、気に病みましたが、どうせ、気がつかずにはいませなんだ――矢を射かけられれば、射手の在りかはわかりますからねえ」
むしろ、旧友に、なんの害意も持ち合わせず、めぐり合ったときででもあるような、しずかな答。
その語調に、はじめて、この不思議な存在を認識したであろう武術者たちの目がおに、ありありと、驚異のいろがうかぶ。
彼等は、平馬から、雪之丞の本質について、聴かされてはいても、その美しさ、その妖しさ、その悠揚さ、その鋭尖さを、目に見、耳に知り、五体に感知するのは今が最初で、しかも、相当の修業者であるとすれば、相手の一身に、みじん、隙も退け目もないのは、一瞥で判ったであろう。
驚異ばかりか、恐怖さえ、漂うように見えた。
平馬は、のしかかるように、
「今宵こそ、雪、生きて、この場を、立ち去れると思うと違うぞ」
「ほんとうに、凄いようなところですこと」
と、女装の若ものは答えた。
「よくもまあ、お江戸に、こうした荒れ果てたお寺もあるものでござりますね――もっとも、川向う、お構いうちではありますまいけれど――相馬の古御所の、舞台よりもっと物さびしいすさまじい景色――今度いずれ、こういう背景で、何か演て見とうござります」
彼は、笑みつづけていた。
雪之丞の自若とした容子に、驚歎の目をみはっていた一人が、傍の、肩の尖った男にいいかけた。
「なるほど、間柄、貴公から、雪之丞という奴、とんだばけ物と承っていたが、これは又、途方もない白徒だ」
間柄助次郎――これが浅草鳥越の道場持で、こないだ、安目に踏んで、手痛いあしらいを受けた人物だ。
――憎々しげに、雪之丞を睨め下ろしたまま、
「いや、あの時は、拙者も門倉うじも、少し食べ酔いすぎていたからよ。今夜こそは、先日の恨みがある。拙者の手で、皮肉の破れるほど、打ち据えてやらなければ――」
「間柄うじ、そう思したら、遠慮のう、手を下されたがいいぞ」
と、平馬がいった。
「おお、許すとありゃ――」
と、助次郎、今夜も、かなり酔いがまわっているように見えたが、縁側から、沓脱ぎに揃えてあった、庭下駄を突っかけて下りると大股に、雪之丞の側に歩み近づいて、
「これ、河原者!」
と、鉄扇を突きつけて、
「その方、身分ちがいの身を以て、生意気に、剣技を誇るなぞ、奇怪至極だ。今宵は、江戸剣者一同の名誉のため、さんざんな目に逢わせて、御府内に姿を現さぬようにいたしつかわすぞ」
そう、濁った声で、嚇したが、次の瞬間、
「えい! 鉄扇を受けて見ろ」
と叫びながら、真向から額を狙って打ってかかった。
が、
「これは理不尽な――」
と、やさしい声が、答えたと思ったとき、助次郎の、右の利き腕がぐっとつかまれて、仰向けざまに引き据えられていた。
「あぶない、御冗談を――御冗談とは存じておっても、当方にも、手足がござりますゆえ、どこに当るかわかりませぬ――いい程になされた方が――」
と、冷たくいって、平馬を仰いで、
「只今、うけたまわれば、わたくしが、御当地におりますことは、御歴々の御名誉を傷なうものとか――なぜでござりましょう? わたくしは、御存知の通り、剣を握る力があるなぞと、他人に明したこともござりませぬが――」
「はは」
と、平馬が、艶の悪い唇で笑って、
「貴さま、先夜にいたせ、懐剣を抜いて、かよわい婦女子に、危害を加えようとしていたではないか? それが剣技を汚すものでなくて何だ?」
「かよわき女性とは、あの折の女子のことでござりますか? あの者は、あり来たりの女ではありませぬ。底には底があることで――が、お言いわけは致しますまい――あれが、気に入らなんだと思召しなら、どうぞ、御歴々御一統にて、この雪之丞を御随意に――何分、朝の早い渡世をいたします身、あまり手間ひま取ってはおられませぬゆえ――」
雪之丞は、助次郎の二の腕を、ぐっと、指をまわして、掴み緊めて置いて、突きはなす。
掴まれた腕が、痺れたか、つきはなされて助次郎、あわてて、よろよろと身を退いた。
「御成敗となら、早うお手をお下しなされませ――但し、雪之丞、生き物でござりますゆえ、お手向いはいたしますぞ」
「それ、おのおの!」
平馬が、並居る仲間を、顎で縁側から追い下ろすようにした。
平馬に駆り集められて、面白半分、雪之丞折檻の役割を、買って来た剣術使いたち、
「かやつ、御存分に――」
と、主人に唆かされて、いずれも、大刀を引き寄せると、足袋はだしで、庭上に飛び下りた。
一人、二人、三人――五人の同勢だ。
その連中の先頭に立った間柄助次郎、いつぞやの恨みもあり、今また速まって不覚をとった不面目をそそごうとあせる。――
近づくのを、物の数でもなげに、笑みをふくんで眺めている雪之丞の前に、立ちはだかると、
「こりゃ、生れぞくない――今、門倉うじ仰せの通り、汚らわしい身を以って、剣法をもてあそぶ奴、生けては、この場を立たせぬのだ。覚悟するがいいぞ」
「ま」
と、雪之丞は、女のように、紅唇の間から、白い前歯をチラリとさせて、
「なるほど、生れぞくないと、おっしゃるとおり、男ながら、女のように装うている、役者風情のわたくしに、立派な剣者のあなたがお負けなされては、他の聴えもいかが、お腹立ちも尤もながら、勝つものは、いつも勝ち、負けるものは、いつも敗れるが、術の道――生けて、立たせぬと仰せられても、立つ、立たぬは、わたくしの自由と思いますが――」
「おのれ、いわせて置けば!」
さすがに、刀に手はかけなかったが、掴み直した、南蛮鉄の鉄扇、一尺五寸もあるのを、振り上げさまに、
「えい!」
と打ち込んで来る。
「おたわむれを!」
と、雪之丞、なまめかしく居くずれたまま、上体を、ほんの少しかわしたのだが、見当がちがった助次郎、タ、タ、タ、たたらを踏んで、よろめいて来るのを、サッと、白い手を閃かして、小腕を打つと、脆くも、取り落す鉄扇――
しずかに拾って、雪之丞、膝の上でまさぐったが、
「だから、何度おかかりになっても、同じことだと申し上げておりますのに――」
「ううむ」
憤怒と屈辱とに、ドス赤くなって、たまらず刀柄に手をかけて、鯉口を切ろうとする――仲間の剣客も、そのうしろに、今は、いつでも抜き放とう気勢――
そして、当の、雪之丞の背後、左右には、すでに、抜き身の若侍が四人、退路をふさいでいるのだ。
これをしも、袋のねずみといわずして、何であろう。
たった一人、縁側に居のこった平馬、白目を、ギラギラと、すさまじく光らせて笑った。
「雪、虚勢は廃せ。なあ、貴さまと、拙者、あの一剋の一松斎の門では、一つ鍋の飯を食うたことがあるのだ。肉をくらっても、あきたらぬ奴と思ってはいても、そうして、逃げ場を失い、天にも地にも、途方に暮れるのを見ると、あわれになる。どうじゃ? もうこれまでの生利きな気性を捨てて、拙者に詫びを入れ、酒席の酌でもいたすというなら、御一統に、拙者から、いのち乞いを願ってもつかわすぞ。どうじゃ?」
「それはまた、御親切な――わたくしも事は好みませんが、お詫びというて、何を詫びたらいいのでありますえ?」
雪之丞、刀葉林に坐して、まるで平馬と差し向かいで、世間ばなしでもしている台詞だ。
「何を詫びたらよいか? ――と、訊くのか?」
と、平馬は、馬鹿にした調子で、
「一たいに、貴さまが、江戸で舞台を踏むのなぞ、見るのも厭じゃ――まずこれまで、お目をけがしましてと、言って、役者をやめて、拙者の道場の下男にでもなれ――それから、従って、一松斎へ、貴さまも、縁切り状をつけねばならぬ――」
平馬は、自分の烏滸のこころに引きくらべて、雪之丞が、現在、平気をよそおってはいながらも、内心では生きた気持もないものと信じ、さんざんになぶってから、残忍なしおきに逢わせてやろうと企らんでいるのだ。
雪之丞は、茶ばなしでもしているような、心易げな語韻で、
「それは困りましたね」
と、小首をかしげるようにしたが、
「わたしが役者になったのは、身すぎ世すぎのためで、つまりは、どなたかさまの下男になって、水を汲んだり、庭を掃いたりするのが、厭だったためでございます。それはもう、堅気衆から御覧になったら、草履をつかもうと、天びんをかつごうと、河原者と一くちに、いわれる渡世をするよりも、いくらいいかわからないと思召すでしょうが、人は顔かたちの違うように、心持もちがっております。わたくしが、好きでえらんだなりわい、どなたが、何とおっしゃっても、止めるわけにはゆきかねます。むずかしいことは存じませぬが、古から、匹夫も、こころざしは奪うべからず――とか、ほ、ほ、ほ、生意気なことと、お笑いなされましょうが、わたしが、役者が、やめられぬのは、あなたさまが、お武家がおやめになれぬのと、同じわけ――」
「なに、何と申す? では、拙者の剣法を、貴さま自身にひきくらべて、匹夫のこころざし――と申すのか! おのれ、無礼な!」
平馬、相手が、おどしに乗らぬので、業を煮やして、いら立って来た。
「ま、お腹立ちなされますな、ただ、たとえでございますよ」
「こりゃ、おのおの」
と、おのが武威を穢されでもしたように、怺え性をなくして、平馬は叫んだ。
「むかしのよしみにて、おのおのから、いのち乞いをしてつかわそうと、これまで申すに、重ね重ね雑言を吐く奴――もはや、止めませぬ。さ、御存分に、撲って、蹴って、最後は、膾にしておやり下さい」
雪之丞は、いっそのこと、早く始末をつけてしまいたいのだ。宿には、闇太郎を待たせてあるし、用をすまして眠りたい。
――揃っておいでなさい。鉄扇一本で、おのおの方も、寝ませて上げますから――
ニッコリ笑って、誘うように、からだ中に隙を見せたが、相手の五人武者――いずれも、敵を見る目ぐらいは持っているし、現在、軽はずみに、突ッかかって行った間柄助次郎の、失敗を目に見たことだから、先を切ッて、飛びかかってゆくものもない。
平馬は、わざと、平然たる態度をよそおおうとして、くわえていた銀煙管の吸口を、噛みつぶすばかり、ギリギリと、噛んで、雪之丞の退路を絶とうと、背後に押し並ばせた、おのが門弟どもに、あたるように、
「貴さまたち、何を愚図愚図、それ、引ッ包んで、かまわぬ、斬れ!」
これは、生兵法中の生兵法の手合、その中の瘋癲者が、師匠に煽られて、
「えい!」
と、だしぬけに斜めうしろから、斬りつけて来た。
背後から、閃き落ちる白刃――鉄壁みじんと、斬りつけて来るのを、振向きもせず、体を少しばかり捻った雪之丞、相手がかわされて、空を斬りながら、つンのめって、蔽いかぶさるようになった所を、その若者の袴腰に左手をかけて、軽く突くと、
「アッ!」
と、あわてふためいた叫びを上げて、たたらを踏んで、前に並んだ五人武者の方へ、よろけて行く。
と、隙間あらせまじと、右と、左から、
「やッ!」
「とう!」
と、殆ど同時に、無鉄砲に振り下ろして来たが、いつ、雪之丞の手の鉄扇が働いたか、二人の敵、一人は眉間を、一人は鳩尾を、グッと衝かれて、う、うんと、あおのけざまに、弓反りになって、ズーンとぶっ倒れる。
雪之丞は、その瞬間、もう、荒薦の上に、なまめかしく居崩れてはいなかった。
いつ突っ立ったか、五人武者をまともに引きうけて、スラリと、右入身に、鉄扇を中段に、星の瞳をきらめかして、澄んだ、しかし激しい語調で、
「武芸の師と、自ら言われる方々が、それだけ押し並んで、子供ばかりを挨拶に出されるとは何ごと? 折角のお招き、雪之丞、お太刀すじが賞翫いたしとうござります。いざ!」
臆せぬ挑戦だった。
間柄は、五人の中央で、ギリギリと、聴えるほど奥歯を噛んだが、たった今の、あの不ざまな負け目を、一同に、まざまざと見られているのだから、こうまで言われては引っ込んではいられない。
「ばけ物! 思い知れ!」
ギラリと、抜いた、幅広、部厚の太刀を、ぐうッと、上段に引き上げて、鉄棒のように硬く長いからだを、ずいずいと進めて来た。
と、同時に、あとの四人、いずれも、抜き連れた刀に、赤黒い灯火を宿させて、間柄助次郎の手にあまったら、ほんとうに、即座に斬り伏せようという気勢――もはや、弄び嘲けって悪謔をほしいままにしようなぞという、いたずら気は毛頭なかった。
――大敵だ! なるほど、門倉や間柄から聴かされていた通り、こやつまざまざと、わが目で見ねば信じ難いほどの業師――油断すれば、こちらが危うい。その上、もし討ち洩らして、やみやみ逃れられでもしたら、もはや、剣の師として、江戸で標札が上げられぬことにもなろう――どうしても、斬ッてしまわねば――
個人としては、雪之丞に、何の恩怨もない彼等だが、不届きな芸人を、さんざんに、剣の先きでもてあそんだ末、試し斬りも自由という、平馬の面白おかしい誘引に乗って、ここまで来てしまった彼等、いのち賭けの仕事と、はじめて思い知って、みんな、唇の色が変った。
だが、それだけ、殺気が充実して、すべての面上、必殺の凄味があふれる。
それを見のがす雪之丞ではない。しかし、却って、やっとのことで、張合いが出て来たというように、
「おお、いよいよ、御一同、抜かれましたな――が、辻斬りで、年寄り子供を斬るとは、ちがって、お手向いいたす敵手となると、お気おくれがなさるようで――」
花はずかしい美青年の唇の、どこからこんな冷罵が出るかと、思われるようだ。
が、一同、む、むと、気合をためているばかりだ。
「間柄、殺っておしまいなさい!」
その時、縁側から、平馬の、狂犬を咬しかけるような声――
間柄助次郎、そのひと声に、刺輪で蹴られた悍馬のように、もう、前後の見境もなく、
「だあッ!」
と、濁った呶号を発つと一緒に、躍り上ったと見えたが、上段に振りかぶっていた一刀を、雪之丞の真向から叩きつけて来た。
翻すかと見えた雪之丞、居なりで、鉄扇で、ガッと受け止めたが、一尺五寸にも充たぬ扇が長刀の如く伸びたかのように、ジリジリと、助次郎の刀に捲きついて、
――ピーン――
と、怪しい響きを立てたと思うと、相州物の大業ものが、不思議にも、鍔から八、九寸のところで、ゴキリと折れてしまった。
すわやと、おどろいて、退ろうとする助次郎の肩先に、
「御免!」
と、激しい打ちがはいる。
「む、ううむ」
助次郎は、肩口を抑えて、よろよろとよろめいて、しゃがんでしまった。
雪之丞の、この太刀折りの手練は、ほかの四人の剣者、見たことも、聴いたこともない。しかもそれが刹那の成りゆきで、助次郎、敗れたと見たら、すぐに斬り込もうと考えていた約束が違った。
けれども、その儘には差し置けない。
「行くぞう!」
と、右手の一人、グ、グ、グと、荒潮のように、押しつけて来て、
「おうッ!」
と、唸りざま、中段の刀を、からだごと突ッかける。
開いて、空をつかせた雪之丞の、構えが直らぬ間に、もう一人、
「とうッ!」
と、折り敷くように、胴を薙いで来るのを、ジーンと弾き返して、利き腕に、一撃、腕が折れたか、その場に腰をついてしまったのを見向きもせず、突き損じて、のめりかけた奴が、
「えい!」
と、大袈裟に斬って来たのを、肩先一寸で、かわして、
「む」
と、詰めた気合で、心臓に、鉄扇の尖が、真ッ直ぐにはいる。
残された二人、
「やッ!」
「や、やあッ!」
正面と、横合から、合打ちを覚悟のように、斬りかかったが、雪之丞は、その二本の刃が、触れ合わないうちに、どう潜ったか、潜り抜けて、ズン、ガッと、たった二打ち、一人は、後頭部を、一人は背を、打ち割られ、突き破られて、重なり合うように悶絶してしまった。
雪之丞は、しずかに、いつもの微笑の目を、縁側に、さすがに、坐ってもいられず、虚勢を失って、青ざめて、立ち上った平馬に送って、
「門倉さま、まいられるか? まいられねばなりますまい?」
平馬が、
「悪魔メ!」
と、股立ちを取って、刀を掴んだまま、庭上に飛び下りようとしたとき、
「門倉さん、お前さんまで、ぶッたおされるにも及びますまいよ」
破れ障子の蔭から、そう、艶妓っぽい声をかけて、赤茶けた灯影が照す縁側に、すらりとした立姿を現した女があった。
五人の友輩、幾人かの弟子どもを、刀を抜かず打ち倒した雪之丞の、あまりに昂然たる意気に、気圧されはしたが、退きもならず、勇気を振い起し、髪の毛を逆立てて、庭上に刎ね下りようとした平馬を艶っぽく押し止めて、縁側に、スラリとした姿を現した一人の女性――
その姿を仰いだとき、さすがの雪之丞の紅唇から、
――アッ!
と、驚きの声がほとばしろうとした。
洗い髪にして、縞物の裾を長目に、素足を見せて、黒繻子の帯を引ッかけ結びにした、横櫛の女、いうまでもなく、軽業お初だ。
闇太郎の手で、殺しこそはせぬが、谷中の鉄心庵という古寺に、慥かに身の自由を失わせて、監禁しているという、そのお初が、何ごとぞ、今、雪之丞の前に、而も、門倉平馬の一味女頭目らしく、悠然として出現したのである。
瞠目した雪之丞を、お初、ふところ手で、柱に凭れかかるようにしたまま、冷たく笑って眺め下ろした。
「どうだい? 女形、驚いたかい? ふふ、鳩が豆鉄砲を食ったような、きょとんとした顔をしてサ――いい流行児が、日本一の人気者が、何て馬鹿らしい顔をして見せるのサ?」
そして、大刀を抜いて、立膝になっている平馬に、
「御覧なさいよ。先生がお手をお出しなさるにゃ及ばない――どこかの両性児みたいな人は、あんまり仰天したので、そのまま石になってしまおうとしていますよ」
雪之丞は、不思議にも、これまでにない、ある戦慄に似たものを感じた。
――不思議だ。闇の親分ほどの人が、念を入れた手配を潜って、ぬけぬけとわしに顔を見せるとは! しかも、門倉平馬と、さも一味一体らしく――
その上、お初が、こちらの力量を、知りすぎるほど知っている癖に、仲間の多くはすでに戦闘力を失い、残っているのは平馬一人、その平馬が、いかに阿修羅のように荒れたとて、敵ではないにきまっているのに、さも、尚恃むところありげに、怯れも見せず佇む姿には、必勝を期するものの自信がありありと見えるのだった。
――一たい、どうしたというのであろう? お初は、わしに勝ったと信じている――あの気持は、どこから来ているのか?
当然、雪之丞は、お初をかくも勢いづけている、背後の力というようなものを、想像して見ずにはいられない。それは、平馬一味というような存在に比べて、格段大きな、力強い威力でなければならぬ。
では、あの女、とうとう淫らな慾念の叶わぬ恨みを、わしの秘密を敵方に売って、世に浅間しい方法で晴そうとするものに違いない――と、して見れば、この古寺の物影には、土部一派、横山、浜川の手の者が、あまた隠されているのでもあろうか? 油断はならぬ――
と、屹と、唇を噛んで思わず、お初を睨め上げる。
「何とかおいいよ――雪之丞さん」
と、お初は、ふところ手のままで、流し目のような視線に、嘲笑を罩めて投げかけるのだ。
「お前さんは、あたしほどの者を、小指の先きであしらったと思っておいでらしいが、どっこい、問屋は、そうは卸しはしないよ。これでも江戸で、いくらか知られた女ですからね。さあ、何とか、挨拶ぐらいしたらいいじゃあないか」
お初の、むしろ、べったりと、ねばッこく響くがゆえに、一そう薄気味悪い言葉は、なおもつづく。
「実はねえ、お前さんのやり方が、あんまりいまいましいから、ついした事から知り合いになったこの門倉さんに力をかりて、始末をつけて貰おうと思ったのだが、この剣術の先生が、折角集めてくれたのが、そこにころがっているお人たち――やっぱし、門倉さんには、お前さんは荷が勝ちすぎた相手だとわかったので、とうとうあたしが、顔を見せなければならないことになったのだがね――」
お初が、べらべらと、しゃべり立てているうちに、平馬、妙な顔つきになって来た。それも尤も、かなり手ひどいコキ下ろし方なのだ。
たまらなくなった風で、
「いや、かかる斗の輩、何が怖い――今夜こそ、拙者、是非とも――」
と、惚れたお初から蔑まれて、じっとしていられない平馬、縁側から飛び下りようとするのを、激しく恥じしめるように、お初が、また止めた。
「お止しよ、門倉さん、ふふ、いろ男は、金と力が無いからって、何もはずかしいことはありはしないやね。わざわざ、お前さんが立ち向って、また、いつぞやのように、当身でも食って、のけぞってしまったら、それこそ御念が入りすぎるよ。まあ、雪之丞のことは、わたしにまかせてお置きなさいよ」
「じゃというて、このままに、こやつを帰すことは――」
「だれも、この人を、ここから逃がすとはいっていませんよ」
「しかし、一味一党、無念や、おくれを取ってしまった今、拙者が出なんだら――」
と、平馬は、青ざめて、油汗を額にうかべて、
「とはいえ、そなたはかよわい女――とても、あやつを、押し伏せることは叶わぬ」
「ほ、ほ、ほ、ほ、なるほど、あたしは弱いさ――腕も力もない筈なのさ。だけれど、ねえ門倉さん、お前さんより、いくらか智慧はあるのかも知れないよ」
と嘲笑って、
「それに比べると、さすがに、雪さんだ。あの人は、何か、心に感じたね――ここに集まっていた、でくの坊のような先生方とは、ちょっと変ったところのある女だと、今になって思い当った風だねえ? ねえ門倉さん、雪さんの容子を御覧なさい。彼の人は、これまで白刃にかこまれても、びくともしずに坐っていたが、あたしが出て来てから、すっかり容子が変ったでしょう――あの人は、もう坐っている心のゆとりなんぞありはしない――あの人は、ちっとも油断も隙も見せなくなった。大方、あたしが、よっぽど力強い味方をうしろに連れているとでも感づいたのでしょう――全く、それに違いないのさ。いかに、武芸、才智にすぐれた雪さんだって、あたしの手が――」
と、ふところ手にしたのを、乳のあたりでちょいと動かして見せて、
「この手が、ちょいと動いてごらん、お前さんのいのちは、はばかりながら無いのだよ――そのときには、さすがに雪さんも、あたしのいうままになる外はないのさ」
平馬、お初の昂然たる気焔を聴いて、今更のように度胆を抜かれている。
――では、この女、何者を、助勢として別にかくしているのであろう――手をあげて合図をすればわれわれより腕の立つ連中が、いずくからか現れて来もするのか!
平馬は、きょろきょろ、光りの届かぬ植込みの影の、暗がりなぞを見まわすようにするのであった。
「ときに、雪さん、どうだね? あたしが、今夜、何か言い出したら、今度こそ、うんと言ってくれますかい」
お初の舌鋒は、ふたたび、雪之丞に、鋭く注がれはじめた。
「今夜こそ、おまはんに負けました――と、あたしの前で手をついて、何でも云うままになりますかい? それを聴きたいものですね」
雪之丞は、心耳をすましている。が、彼の感覚には、何も怪しい気配は感じられぬ。目の前に傷つきうめいている人々の外には、手に立つほどの敵がひそんでいる容子もない。
――女狐よりも狡い奴――どうせ、狡猾な手段で、囚われの家を抜け出して来たに相違ないが、今も今、口先の嚇しにかけて、心を擾させ、何か良からぬ計略をめぐらそうとしているに相違ない。
雪之丞は、明るげに笑って、
「世の中からは、卑しい俳優と、さげすまれてはいるものの、魂では、いかなるもののふにも、負れは取らじと思うているわたし、いつ逢うても、汚らわしいことばかり口にするそなたの言葉を聴いて、耳が洗い度い――とにかく、わたしも用の多い身、折角の招きながら、あしらえが気に入らぬゆえ、この場を立ち去りますぞ。門倉どのにも、いずれ又――」
ツと、立ち上ろうとしたとき、ふところ手をしていた、お初の右手の肘が少しばかり動いて、はだけられた襟のあわいから、キラリと、黒く光るものがのぞいた。
冷たげな、小さい、丸い一ツ目――
――銃口だ!
さすがに、雪之丞が、ハッとしたとき、お初は、赤勝ち友禅の長襦袢の腕がからむ、白い袖を、ふところから襟にくぐらせて、はばかりもなくずいと突き出した。
その手の中に、軽くつかまれた、ドス黒い武器――
「わかりましたか? これはついこのごろ、紅毛から渡って来た元込め銃――一発、ドンと射つと、それっきり、又込めなければ、つづけて射てぬ、あの古ッくさい、不自由な鉄砲とはちがうのだよ。曳金を曳きさえすれば、つづけ射ちに打てるのです。それに、これでも、このお初は、軽業小屋にいたおかげで、狙った的ははずさないのさ! 御府内の銃ばらいは、御禁制だが、ここは川向う、しかも小梅のはずれ、おとがめもあるまいから、どれ、ひとつ、久しぶりで、腕だめしを見せましょうか――そうさねえ、雪さん、ついお前さんのうしろの、何の木だか、細い幹、あの木の地上から五尺ばかりに見えている、枝を払ったあとの瘤、あそこへ中て見ましょうね――」
雪之丞はじめ、平馬も、手負いも、お初の能弁に魅されたように目をみはって、じっと、手元と的を見比べる。
お初は、小さな武器を、掌に躍らすようにして、持ち直すと、裾を乱し、緋いいろをこぼして佇んだまま、片肌ぬぎの無造作さで、短銃を掴んだ手を、前に出して、片目を押さえて、狙いをつける。
「いいかい? 射って見せますよ」
たのしげにいって、曳金にかけた細い指に、かそかに力を加える。
と、だしぬけに、
――ズーン――
と、いう、あまり高からぬ、が不気味なひびき――銃口から赤い火がパッとほとばしって、青白い煙が交ったと思ったが、的に集まった、目という目が、一どきに驚愕の色を漲らした。
薄暗さの中にかすかに見える、木瘤、小さな瘤の真ン中に、たしかにプスリと弾丸が突き刺さったのだ。
「ね、どう? ちょいと、あざやかな技倆でしょう? 門倉さん、それからみなさん方――」
と、お初は、得意げに笑って、
「ことさら、雪さん、この隠し芸には、幾らかびっくりしたでしょうね? どう?」
と、いったときいつか、彼女は短銃を、じーっと雪之丞その人に狙いをつけているのだった。
「いつもいつも、いやに落ちつき払ってさ、高慢ちきに取りすまして、天下で、わたしほど、武術も、芸も、すぐれたものはあるまいと、いわんばかりの顔をしておいでの、雪之丞さん、わちきは、刃ものを取っては、おまはんの敵であろうはずはないけれど、今夜は別だと思ってるのですよ。なぜッて、わちきの掌の中には、こんな魔ものが宿っているのですものねえ――ふ、ふ、紅ッ毛で、天狗鼻の、ちん毛唐という人達も、いい道具を発明してくれたものさ」
と、嘲けったが、急に、乱暴な、ぞんざいな、下卑切ッた口調になって、
「ええ、おい、何とか返事をおしよ。腰が抜けたような顔をして、ぼんやり坐っていないでさ。この短銃はね、決して、舞台の小道具じゃあないのだよ。この曳金に、お初ちゃんの細い細い、ほ、ほ、白魚のような指がさわりゃあ、この可愛らしい銃口から、小ちゃい小ちゃい、小豆つぶのような弾丸が飛び出して、まあ、蝋で作ったといおうか、珠玉をみがいたようだと言おうか、何とも言われず美しい、おまえさんの、その額の真ん中に、ボーンと食い込んでゆくのだよ。ほ、ほ、口惜しそうに、そんなに怖い顔をしたって、駄目の皮さ。たとえ、おまはんが、天狗昇、飛び切りの術を心得ていたって、ここからそこまでは五間もある。飛びついて来る途中で、一度当ったが最後、はがねの板でも抜こうという、鉄砲玉が、おむかえにいくのだからね――雪さん、そんなへッぴり腰をして、鉄扇なんど振りまわすのは、やめたらどうだい? ええ、こう、そんな物は、捨てしまえと、言っているのに!」
紅い唇を、食い反らすようにお初は罵り続けた。
雪之丞は、しかし、別に、恐怖に度を失った容子はない。
彼はしずかに考える。
――なるほど、お初の申すとおりじゃ。こちらから、飛びかかって行ったところで、あの弾丸が迎えに来れば、途中で射ち仆されてしまうにきまっている。闇夜のつぶては避けようがあっても、まともに狙われた鉄砲では、どうしようもない。つねづね師から鉄砲で狙われたら、一がいに敵対しようとせず、策を以て対する外はないとうけたまわっていた――ここのことだ。
雪之丞は、どんなときも失わぬ、心の余裕を保っていた。
――それに、若し、あの女がわしをすぐに射ち殺すつもりなら、四の五の並べず、射ちかけて来るはずだ。それを、あんなにべらべらと、しゃべり立てているところを見ると、今、この場で、殺す気はないのであろう。
いやいや、一時にいのちを取るには、あまりに憎らしい奴と、思い詰めているのであろう。鉄砲をつきつけて、さんざんに嚇したり罵ったり、あらゆる残忍な笞を加えたあとで、殺そうとでもいうのだろう。そこをうまくあやつらねばならぬ――今こそ、大事な場合なのだ。
雪之丞は、鉄扇を、ポーンと闇に投げて、その場に膝を突いた。
「なるほど、飛道具にあらがうすべはない。持ちあわさぬ。お言やるとおりにするほかはありますまい」
闇太郎、例の堅気な牙彫の職人らしい扮装、落ちつき払った容子で、雪之丞の宿の一間に、女がたの戻りを待っているのだが、もう顔を見せそうなものだと思いはじめてから、四半、半、一――なかなか、帰って来る模様がないので、何となく落着かなくなって来た。
それも、単に、逢いたいとか、話しがしたいとかで、尋ねて来た彼ではない。今日昼すぎになって一日一度は、見まわることにしている、鉄心庵――そこを覗いて見ると、何と、おどろいたことには庵中に人気は絶えてなく、窖の揚蓋も、あけッぱなしになっていて、さては、しまった、島抜け法印、見込んでまかせといたお初の色香にまよって、駆け落ちをしたのかと唇を噛んだが、よく調べると、首欠け阿弥陀仏の前に、置手紙が載っていて――
親分、すまぬ、大切な預りもの、ちょいと気をゆるしたひまに、姿が無く、このままにては、生きて、男同士、お目にかかれぬ仕儀、これより草の根を分けてなりと、お初をたずねださねばならぬゆえ、二つあって足りぬ首をしばらくおかり申し、行方をたずねに出かけ申し候、おわびは、たずね出しての上、いかんとも究命に逢い申すべく候。
と、書きのこした、いが栗坊主の、ざんげの文だ。――やっぱし、無理だったのだ。法印は、すばしッこく智慧のまわる方ではねえ。お初といえば女狐よりも狡い奴――だまされたと見えるが、みんな、俺の罪だ!
闇太郎、地団駄が踏みたいのを、やッと押えて、すぐに、気のきいた仲間、若い者を集めて八方、お初踪跡の捜索に出してやったものの、夜になっても、消息が知れぬので、何よりも、雪之丞に頼み甲斐のなかったのを、今更わびても始まらぬが、善後策を相談し、身辺の警戒を忠告するためと、この旅宿屋に駆けつけて来たわけだった。
闇太郎、まちにまったが、老年宵ッ張りの師匠の菊之丞さえ、もう床についてしまったというのに、いつになっても、雪之丞が戻らぬので、気にもなり、いら立たしくもなって来た。
――もしや、もう、お初の奴が、何か小細工をやりはじめたのじゃあねえか知ら? いかに素早い奴でも昨夜の今日では、意趣がえしの法もつくめえが――
もっとも、お客と、ちょいと付き合って、じきに戻ると、男衆を通じてことづてもあったことだ――もう少し、辛抱して見ようと、心を強いて落ちつけて見もしたが、自分が待っているということを、忘れるような相手ではないので、あまりに時刻が経つと、気が気でなくなるばかり――
階下の小部屋に泊っている男衆を呼んで、呼ばれた先きは、どこだ? ――と、たずねると、客は広海屋で、茶屋は、柳ばしのろ半だという答――
「じゃあ、まち切れねえから、こっちからろ半へ出かけて見ましょう――入れちがいになったら若親方に、寝ずに待っているように言って下さい――すぐ引っかえして来ますから――ぜひに今夜中、話して置きたいことがあるのでしてネ」
彼は、男衆にそう頼んで、辻かごで、柳ばしへ急がせて行った。
初冬ながらも、涸れもせず、恒にかわらぬ、漫々たる夜の大川を、見渡す、料亭ろ半の門を潜って、今夜は、広海屋の一座は、顔をも姿をも見せぬ――と、いうことを、帳場からハッキリと聴いたとき、闇太郎は、今迄の胸さわぎを、まさかと抑えていたのが、現実となって、思わず、
「やっぱし行りゃあがったな!」
と、呻いて、奥歯を噛んでしまった。
いかに、江戸の隅から隅まで、闇夜も真昼のように見とおす心眼を持った闇太郎にしろ、ろ半を出て、河岸に突っ立った刹那、
――ウーム!
と、吐息が出てしまった。
計りに計って、軽業お初が、雪之丞を陥穽にあざむき入れたとしたなら、事は重大だ。その上、長い時間を費しながら、あれだけの技倆を持った雪之丞が、斬り抜けて、戻って来ぬので見れば、お初の掘った穴の深さも暗さも、十分に了解出来る。
闇太郎は、日ごろ感じたことのない戦慄さえ覚えた。背すじを、川風よりも寒いものが、ゾーッと走った。
――あま! たくみやがったな! それにちげえねえ――
闇太郎は、黒い川水のおもてに、蛇体になって、口から火を吐きながら泳いでいる、執念の女鬼が、こちらに、嘲けりのろいを投げつけているような気がした。
が、彼は、憤って、誓うように、低い怒号を叩きつけた。
――負けるものか! 畜生! あまッ子風情に!
彼は、一種独特の思索の綾いとを、たぐり寄せて見ようとした。
闇の水を睨んでいたが、しかし、結局、うかんで来るのは、白い、美しい、仇ッぽい女の、嘲笑の顔だけで、その女が、どの方角を差して動いたか、どんな手段を取って、雪之丞を陥れたかは、判然しない。
――だが、あまた手下を集めての仕事としたら、高が知れたものだのに――あいつは、いかに狡狐でも、女の身で、立派な仲間も子分も持っていねえ、またどんな同類が、百人あつまったところで、雪之丞に敵いッこはねえのだが――して見ると、いよいよ、雪之丞の大敵の方へ内通しやがったか!
闇太郎は、そうした場合の、雪之丞の胸の中を思うと、腸が千切れそうだ。
――折角、十何年、一心不乱に、父御、母御、一家一門のかたきが討ちてえばっかりに、肝胆を砕き、苦艱をかさねて来たあの人が、いよいよという瀬戸際に、つまりもしねえ女泥棒風情の、恋のうらみから、底を割られ、剣の山に追い上げられたら――それこそ、死んでも死に切れめえ! もし、そんなことがあったら、此の世に、神も仏もねえというもんだ。畜生! 万一、そんな場合にゃあ、この闇太郎、あの友達の恨みをついで、百倍千倍にして、仕けえしをしてやるから――この大江戸を火の海にだってしてやるから――
闇太郎は、沸き立つ憤怒にわけのわからぬことを、叫び立てそうになって、辛うじて自分を抑えた。
――馬鹿! 貴さまが、あわてふためく時じゃあねえ――心をしずめて、何とかひとつ方便をめぐらさねえことにゃあ――
しかし、うまい考えも、頓には出ずに、両国広小路の方へうつむき勝ちにやって来ると、フッと、向うに一群の人数――十人ばかり、いそがしげな捕物勢らしい。
闇太郎、棒立ちになってみつめた。
闇太郎、一たん、立ち止ったが、ためらわず、来かかる一隊――二人の同心に指揮された、白鉢巻、手ッ甲、脚絆、素わらじの、すでに物々しく十手を掴んだ捕物どもの方へ、怖れ気もなく近づいてゆく。
堅気をきわめた、縞物ぞっき、髪のかたちさえ直しているから、どこから見ても、これが、本体は江戸切っての怪賊と、見抜くほどのものが、あの中には、まじっていないと、とうに悟ってしまったのだ。
うつむき勝ちの、用ありげな足どり、通りすがろうとすると、向うは、橋詰めにさしかかりそうになったので、捕ものは川向うか、あらためて、同心から、みんなに訓示というわけだ。
「おい、いよいよ、いつ出ッくわすかも知れねえぞ」
と、鉄火な口調で、
「先きに出してある、竹町の半次や、子分どもから、橋を渡りゃあ、知らせがあるはずだ。お杉を締めて聴き出したところじゃあ、あいつと一緒に、今夜おさむれえがたんといる模様だ。どうせ、やくざ浪人、すぐ抜いて来るだろうが、そいつらあ、いい加減に、どこまでも、お初に、ぐッと引ッついて、逃がしちゃあいけねえぜ」
――お初! お杉!
同心の唇から漏れた、その名ほど、闇太郎をびっくりさせたものがあるであろうか!
さすがに、棒立ちになろうとしたが、じきにいつもの彼に帰って、捕物隊が、かたまって、こっちに目が無いのを幸いに、ぴたりと、つい其所の天水桶に吸いついてしまうと、夜の蝙蝠が、のぞいて見てもわからぬ程だ。
――じゃあ、あま、今日、古寺を抜けたうれしさに、のこのこ市中を歩きまわって、こいつ等に嗅ぎつけられたのだな。ふん、唐変木の、薄野呂のこいつ等だって、馬鹿にすりゃあ、とんだ目を見るものさ。だが、それにしても、こりゃあ、思いがけねえことが、耳にへえった、こいつ等のあとを慕えば、十に八、九、お初の奴のいどころが知れるだろう。そこには、必ず雪之丞が苦しめられているのだ――さむれえを仲間にしたというからにゃあ、こいつあ、いよいよ大事になった――何にしても、あいつ等のあとを跟けて――
闇太郎、羽織をぬいで、ふところに、頭に手拭をのせ、裾を割って、片ぱしょりにすると、急に、いつもの、身軽をきわめた姿となる。
同心の、指揮で、駆けゆく一隊――一てえ、どけえ、いきゃあがるんだ?
彼等が、両国ばしの、中ほどまで、渡りすごしたのを見ると、サッと、天水桶をはなれて、ヒラリと飛び、夜の鳥のよう――もう、捕物隊のついうしろに引ッついてしまった。
橋を渡りつめたところで、どこからか、飛び出して来た、一人の男――目明しの子分体――
「旦那、やっぱし小梅の方角ですぜ」
「小梅たあ、一てえ、とんだはずれへ行きゃあがった――浪人ものを連れて、押し込みを働こうてえわけか――」
「さあ、あっしゃあ、まだ、どんづまりまでは突きとめていねえんで――業平ばしから先きのことは、親分や、作太が、嗅いでまわっているはずです」
「遅れちゃあ、いけねえ、いそげ!」
同心一行、先きをいそいで、うしろに目がない。闇太郎の尾行は、楽々だ。
軽業お初が、浪人組を引率して川向うに姿を消したという聴き込みに、検察当局にこそ、その目的が判明しなかったが、闇太郎にはあまりに明らかすぎるほど呑みこめるのだ。
それゆえこそ、彼は矢も楯もたまらない。一刻一秒を争わずにはいられぬ。
――ここまで来て、どうして雪之丞を、敵の手に渡せるか? たとえ今夜、このおれの姿がばれて召し捕られることになっても、友達だけは助け出さねばならぬ。おっと、また、諜者の奴が、出て来たぞ。今度は何をいやがるのか?
淋しい淋しい、夜の流れ――業平橋とは、名こそ美しけれ、野路をつないで架った橋の袂で黒い影が待ちうけていて、
「旦那、たしかに、お初をはじめ浪人ものは、この橋を越したには相違ねえんです。ですが、うちの親分はじめ、一生懸命嗅いでいるものの、ここから先きは、見当がつきません――この近所にゃあ、奴等が、荒っぽい腕をそろえて、乗りこまなけりゃあならねえほどの、豪家もなし、さりとて、生半可の家へ押し込むに、それほど人数をそろえるわけもねえでしょう? 実は旦那がたがいらしってから、いつもの勘で、考えていただきてえと思いやして――」
「何だ! 何をまごまごしていやがったのだ」
と、同心の一人が哮った。
「小半も、さきに出張っていやあがって、今までそこらをウロウロしているたあ、あきれかえった奴だ! それで、竹町の親分づらが出来るのか? そんなことなら、申し上げて、十手を取り上げてやるからそう思え!」
「ほんに、驚き入った野呂間だな! 竹町も、焼きが、まわったの」
と、今一人もつぶやいたが、
「しかし、この場で、腹を立てていてもはじまらぬ、これ、貴さま達の中で、この辺の地理に明るい奴はないか! 金持という金持の屋敷を知っているものはねえか――」
「へえ、あッしは、つい、この近所の生れでして――」
と、名乗って出る、同心手付の捕り方が、何やらしゃべり出そうとするのを、もう、闇太郎は、聴いていない。
――ようし、これから先きは、この俺が、立派に嗅ぎ出して見せてやるぞ。何が、あいつ等金持の蔵を狙うか? 奴等は荒れ屋敷、荒れ寺を目あてにして、今夜の陣を張っているのだ。もうこの橋を渡ったと、見当がつけばこっちのもの――
役人たちが、土地を知っているという捕り手を案内に、バラバラと、駆け去ったあとで、橋を渡り切って、うしろを見送った闇太郎――
――ぺッ、間抜めえ! どこへでも消えていきゃあがれ! あばよ! と、嗤って、冷たい夜風が、こうこうと、淋しく溢れる堤に立って、薄雲に下弦の月は隠れているが、どんよりとした空の下に、森々と眠っている村落を見晴るかす。
それから、その堤根を、ましらのような素早やさで、南へ駆ける闇太郎の、目あてとするのは、これから五、六町行ったあたりに、住持が女犯でさらし物になってから、住むものもなく大破した、泰仁寺という寺があるのを思い出したからだ。彼は去年の冬ざれ、例の野見と洒落たときに、その寺の境内で、休んだことを思い出した。キーンと感じた勘を、闇太郎は疑わぬ。駆けろ! 駆けろ! 大丈夫、間に合うぞ!
女犯廃寺の泰仁寺――
その荒れ森や、黒い甍は、やがて闇太郎の鋭い目の前に、どんよりして来た、初冬の夜空の下に見えた。
闇太郎は、立ち止って、じっと耳をすますようにして、その耳を地に伏せるようにする――こう、こう、こう――と、淋しい夜風の漂う底に、やがて、何を聴き出したか、ニーッと、白い前歯が現れる。
――ふうむ、どうだ、自慢じゃあねえが、江戸御府内の隅から隅まで、闇の中で見とおすと、人に言われるこのおいらだ――目ばかりじゃあねえ、耳もやっぱり、順風耳だぞ――この夜ふけに、あの阿魔でもなくッて、荒れ寺の中から、金切ごえを聴かせる奴があるか――な、あの、かすかなかすかな物の気配――ありゃあ夜禽の声でもねえ、物ずきが、胡弓を弾いている音いろでもねえ、女のこえだぜ――ふ、ふ、やっぱしあのおしゃべりおんなが、何かしゃべっていやあがるんだ。
気軽になって、もう、はっきりと、目的成就の一歩手前まで来たように、声さえ出して笑おうとしたのだったが、その瞬間、
「あッ!」
と、仰天したように、大きく叫んで、ほとんど、地を蹴って飛び上った。
鋭い彼の耳の鼓膜に、ズーンという、さまで高くはないが、不気味なひびきが伝わったのだ。声に出して、
「あッ、ありゃあたしかに銃おとだ! はばかりもなく夜中の鉄砲! こいつは大変だ! こうしちゃあいられぬ!」
と、叫ぶと、タッと、両の股のあたりを、平手で叩くと、それこそ、鉄砲玉のように、闇太郎は、泰仁寺の、寺域めがけて駆け出した。
闇太郎は、明るい光の下で見たら、このとき紙のようにも青ざめていたであろう! 夜の銃声――物ずきに射つものがあるはずではない――たしかに、きっぱり、物のいのちを絶とうと決心した者だけが、敢てする業なのだ。
――雪之丞いかに、強くっても、鉄砲玉は避けられめえ! し、しまったことをしたな! 雪! 無事でいてくれ! 頼んだぞ! 今、すぐに、おれが助けに行くんだぞ!
打ッつかりそうになった、崩れかけた高い土塀、パッと、地を蹴るようにすると、いつか、寺の裏手の杜の中へ――落ち積った枯葉の上に飛び下りて、ちょいと止って、全身を耳に、呼吸を詰めたが、まるで肉食獣の足裏を持っているかのように、カサというひびきも立てず、杜の右手の墓地を潜って鐘楼の方へ近づいてゆく。
そして、鐘楼の石垣にとりついて、前庭の方へ目をやったとき、彼は、覚えず、抑え切れず、
「あッ! しめた!」
と、わめきそうになって、声を呑んだ。
その刹那の、闇太郎のうれしさ! 見よ、二十間あまり離れた、本堂の縁先、鈍い、紅い、おぼろな光りに照らされて、あの、なつかしい、心の友が、相もかわらず落ちつきを失わず、しっとりと荒菰の上に座っているのだ。
――ふうむ、じゃあ、あの銃音は、おどかしのためだったのか? おどかしだとすれば、ああしてじっとしているからには、いのち取りの弾丸にやられるはずはねえ。
と、見つめていると、何やら、女の声が、嘲けるように聴えたと思うと、ひらりと、本堂の高縁から、飛び下りた人の影!
――よッ! お初の奴だ! しかも、短銃を持ちゃあがって!
闇太郎は、息を呑んだ。
白い脛もあらわに、褄を蹴りみだして、沓脱に跳ね下りると、庭下駄を、素あしに突っかけて、短銃を片手に、雪之丞の前に歩み寄るお初――闇太郎は、俄かに咲き出した毒の花のようなすがたを、呪いに充たされて、みつめ続けた。
――畜生! いけねえ魔物を掌に握っていやあがる――あれせえなけりゃあ、糞! こうしちゃあ見ていねえのだが――
荒蓆の上に、坐っている雪之丞は、しかし、じっとりと、身じろぎもせず、お初を、澄んだ目で迎えているようだ。
「ねえ、雪さん!」
甲高な、お初の声が、鐘楼の、蔭の闇太郎の耳まで筒抜けにひびいて来る。
「おまえさんへの、あたしの怨みは、ことごとしく並べるまでもないよ――だけれど、ねえ、あたしだって、これで、やっぱし只のおんなさ。一度、惚れたおまえさんを、穽穴に追い落して、生き地獄の苦しみに逢わせようとまで、憎み切るには、随分、手間ひまがかかったよ。おまえさんの秘しごとを、あたしがちゃんと掴んでいることは、おまえさんがようく知っている。でも、今だって、それを歯の外に出しちゃあいないのだ。今夜、こんなことになったのは、おまえさんが、あの生け憎らしい、野郎なんぞを使って、あたしをひどい目に逢わせようとしたからさ――あの、闇の野郎なんぞを!」
闇太郎、突然、自分の名が出たので、首をすくめて、小さく舌打ちをした。
――ちょッ! 闇の野郎だって! 生け憎らしい野郎だって! きびしいことをいやあがって!
「雪さん、おまえさんは、あの野郎が、今、江戸で、どんな羽振りを利かせているか、ようく知っていなさるはずだ。あたしにゃあ目の上の瘤さ――それを知って、あの狐野郎をつかって、あたしをあんな古寺なんぞの穴ぐらへ押し込めるとは、あんまりじゃあないかねえ――だから、今夜、あたしは、わざわざ、同じような、古寺をえらんで、おまえさんをお招き申したのだよ。それも、お礼ごころに、あそこよりか、もっと淋しい、もっと怖ろしい、女犯でさらし物になって、舌を噛んで死んだ坊主や、坊主にだまされて、怨み死にに死んだ女たちの幽霊が、丑満すぎには屹度出て来るというこの寺をさ――ここの須弥壇の下の隠し穴は、女たちを絞め殺して、生き埋にほうり込んだあととかで、そりゃあ、陰気で鬱陶しい所だが、おまえさんほどの美しい男が、そのあだすがたではいって行ったら、御殿女中のしいたけたぼ、切髪のごけさんといった、坊主に生き血を啜られた挙句、くびり殺された女たちの怨霊が、さぞ、うつつを抜かすだろうよ――ふ、ふ、このお初ちゃんほどの女を振りとおした雪さんでも、相手が幽霊じゃあ振り切れまいね。その、真白い頬ぺたを噛み切られたり、くびすじを食い切られたり、からだ中を嘗めまわされて、狂い死にに死んでやったら、幽霊たちがそれこそ大よろこびでござんしょうよ。ほ、ほ、ほ、ほ。あたしのお礼は気に入りましたかい? 芝居がかりで、面白いと、感心してくれますかい? 太夫さん! 親方さん! ええ大坂表、大江戸切っての、人気者の女がたさん! おまえさんが、怨霊どもに奪られたら、天下の御ひいきの御婦人がたは、ずいぶんがっかりするだろうねえ――さあ、あたしにばかりしゃべらせていないで、雪之丞さん、何とかお言いな。浮世での、台詞の言いおさめになるのだろうから――」
お初の毒舌は、雪之丞へよりも、闇太郎の癇癪に、ぴんぴんと響いて来るのであった。
さんざ、毒舌を弄しつくしたお初は、ますます雪之丞に迫り近づいて、掌にもてあそぶ短銃を、ひけらかすようにして見せながら、
「さあ、技倆自慢のおまえさん、何とか、すばらしいところを見せたらどう? 気合の術から、白刃とり、お芝居や講釈で、評判だけを聴いている、武芸の奥義を、あらん限り知っているような、おまえさんじゃあないか――高々、この弱むしおんなの、手の中のいたずら物が怖いといって、そんなにすくんでしまわなくったっていいよ。大方、さすが、人をそらさぬ人気渡世――わざと怖ろしがって見せているのであろうが――ほ、ほ、ほ――これだけいっても、飛びついて来ないので見ると、ほんとうに怖気をふるっているのかねえ――」
――雪之丞、何だってあんなにじっとしているんだろう?
と、闇太郎は、はがゆく呟いた。
――日ごろのあの男にも似合わねえが――もっとも、武芸という奴は、出来れば出来るほど、用心深いというから、荒立つことをして、毛を吹いて傷を求めるより、あとでしずかに手だてを凝らそうとしているのかも知れねえが――ええ! じれッてえなあ、こんなことなら、この俺も、どこかで短銃を盗んで来るんだッけ――これでも、二本差していた昔は、銃っぱらいじゃあ、ひけを取らねえ男だった――
お初の方では、細い、白魚にも似た人さし指を、曳金にチカリと掛けて、ちょいと雪之丞に狙いをつけながら、犠牲をじゃらす雌豹のように、
「どうでしょうねえ、太夫さん、親方さん、今、そこで、十八番の所作ごとを演って見て下さいと頼んだら、否やをおっしゃるでしょうかねえ? でも、鳴物もうたもないから、いけないというかしら――じゃあ、あたしの足の指に、つい泥が着いてしまったから、拭いて下さいと頼んだら、首を横におふんなさるでしょうかねえ? いいえ、あたしは、そんな失礼なことは言いません――あたしと一緒に、どうぞ、座敷へ上って下さいな。さっきから言うとおり、須弥壇の下に、設けの陥穽が、お前さんを待って、口を開けていますからね――なあに、怖いことはない。急に、いのちを取るように、慈悲深く出来ている穴じゃあない――息も出来れば、手足も伸ばせる――お上のお手入れがあったとき、ゴロゴロしていた白骨も、かたづけてしまったから綺麗なものさ。さあ、あたしが、入口まで、連れて行って上げるから、こうおいでなさいよ――ほ、ほ、ほ――こないだの意趣晴しに、じき上の本堂で、ちょいと一口飲って、娑婆というものが、どんなに楽しいかというところを、見せつけて上げましょうね? ふ、ふ、ここにいなさる門倉さん、武術にかけては、おまはんに敵わないかも知れないが、これでなかなか情があって、どこかのお人のように、木仏金仏石ぼとけというのじゃあないのですよ。今夜はひとつ、みっちり仲のいいところを、見せつけて上げますかね――」
お初は、冷たく笑ったが、急に意地悪い悪どさで、
「さあ、おしゃべりはするだけした。雪さん、起って頂戴――御案内をしますから――」
銃口が、ぐっと、雪之丞に、突きつけられる。
無言に立ち上る雪之丞――
「歩くんだよ。生れぞくない――」
憎々しく浴びせかけて、お初は行手を顎で示した。
お初の持った短銃の銃口に追われるように、しんなりしたうしろ姿を見せて、縁側に上ってゆく雪之丞――
お初がふりかえって、門倉平馬が、啣えぎせるでいるのに、皮肉な、苦い言葉――
「ねえ、門倉さん、煙を輪に吹いて、ぼんやりしていないでさ。そこらに、ゴロゴロころがっている、河岸のまぐろの生きの悪いような先生方を、もう一度、息を吹っ返させてやったらどんなものだね――それでもみんな道場へかえりゃあ、先生だろうから。ほ、ほ、ほ、門弟衆に、見せてやりたいわね」
平馬は、唇をゆがめるようにして、煙を吐くと、荒っぽく、ぽんと雁首を灰吹きに叩きつけて、立ち上って、庭に下りようとする。
闇太郎、その方には、目もくれない、物蔭を放れると、本堂の裏手にまわって行ったが、あらび果てている戸じまり、別に工夫を要するでもなく、雨戸を外して、すうと、影のように中にはいる。
ジャリジャリと、塵埃が、一めんな廊下を、つたわってゆくと、お初の、例の、ねばっこいような、色気と皮肉とが、ちゃんぽんになっている声が、
「雪さん、さあ、今が娑婆と、お別れですよ。おまえさんの子分か友だちか知れねえが、あの闇太郎の薄野呂のように、あたまこそ丸めておれ、生ぐさものが一日も、無くッちゃあ生きていられねえような、あんな和尚を番になんぞ、つけて置きはしないけれど、だから、却って、一生、おまえさんの目はおてんとさまを見られないのさ。生じッか番人もいない、穴ぐらの中で、話相手は、おばけや怨霊、とどのつまりは、生きながら、可愛らしい鼠やいたちに、生血を吸われ、生き肉をかじられておさらばさ。ちっとばかし凄いねえ――ふん、この場になっておまえさんは、いやに落ちついて、すましかえっているんだね? 何という意地ッ張りだろう?」
お初は、少し思わくが、はずれているに相違なかった。
どんな性根の雪之丞にしろ、何しろ大願を抱く身、いざ、いのちの問題となれば、哀訴もし、懇願もして、どうにかして、生きのびさせて貰おうと、あがきまわるに違いない――それを眺めて、存分に、せせら笑ってやろうともくろんでいたのが、相手が、落ちつき払っているので、計画、画餅では物たりない。
何よりも、彼女としては、雪之丞が、もがきにもがき、もだえにもだえて、最後は、感情や官能で、媚びて来たとき、自分が、どんな態度に出るだろうかと、それを想像することが、不思議な、変態的な歓びでもあり、期待でもあったのだ。
――そんなとき、あたしに、あの人を、どこまでも突っ刎ねてしまうことが出来るだろうか? とりすがって、どんなことでもしようというのを、穴ぐらに、蹴落すことが出来るだろうか? あたしは、してやるつもりだけれど、ことによったら、あの人の、涙ぐんだ目でも見たら、こっちの気持がくたくたになってしまうかも知れない――あたしは、そのときの自分が見たいのだ。
そんな、悪どい妄念まで抱いていたのに、雪之丞は、殆ど、一世一代の重大な危機にのぞんでいるという自覚さえないように、ただ彼女のいうままに、動いているだけだ。お初は、歯がみした。
「雪さん、あたしのいったり、したりしていることは、冗談じゃあないのだよ」
闇太郎のような強敵が、つい障子外まで、忍び寄っているとは、さすがのお初も気がつかず、当のその人の耳があるのにお構いなしで、いら立たしさまぎれに、
「どうも、雪さん、あたしという女が、田圃の親分や、島抜け法印みたいな、業さらしでなくってお気の毒さま――じゃあ、まあ、しばらく、穴ッぱいりをしておいでなさいよ――じきに、あたしが、来て見るからね――それまでに、その大切な、美しい、やさしい顔を、おねずさんに噛じられない用心をなすった方がようござんすよ――さあ、おはいり――」
ガラガラと、引き戸になっている、陥穽への入口が、あいたらしく、やがて、顧みられぬ女のやけ腹な、おこりッぽい調子で、
「さあ、下りなと言ったら、下りないか! 愚図々々していると、お初ちゃん、気が短いよ、上方ものとは違うんだ。どてっぱらへ、ドーンと一発ぶち込むよ――ふ、ふ、一度惚れた女だなんぞと思って、甘ったれッこなしにしてさ――下りなよ、雪之丞――」
雪之丞は、何と観念したか――手向いは、大けがの元と、胸をさすったのであろう――梯子か、それとも綱か、それをつたわって、地下室へ下りて行った容子――
「大人しくしているんだよ、御府内御朱引の中とはちがうんだよ――じたばたすると、火をかけて遠慮なく、古寺ぐるみ、焼き殺すから――」
と、おどして置いて、ガラガラピシャリと、下り口の戸を閉めると、ガチャガチャと金物のひびきをさせたのは、錠を下ろしたのであろう――
「ふ、ふ、可愛さあまって、憎さが百倍ッてネ、これで、胸がせいせいした」
と、捨鉢につぶやいたお初、門倉たちがいる方へ、出て行ったが、相変らずのキンキンした調子で、
「さあ、これから、勝祝いに酒盛りと出かけますかね――皆さん、ごくろうさま――でも、あんまり、手もなくたおされてしまったので、見物の仕甲斐がありませんでしたよ。ほ、ほ、ほ、それでも、あたしのために、気まで失って下すったのだから、お礼を申します――ことに、鳥越の先生なぞ、二度まで、生き死の思いをなすったのですからねえ――まあ、ほ、ほ、ほ、みなさん、おつむを布でしばったりして、大そうな御容体ですこと――」
かまわず、毒のある言葉と笑いを浴びせかけて、
「さあ、これから飲みあかしましょう。お礼ごころに、お酌をして上げます――」
「雪めが、ぶちこまれた穴の上――本堂で酒盛りは、一しおうまいだろう」
と、門倉平馬の、野太い声。
「駄目ですわ、行って見たら、ごみだらけで、坐れたものじゃありません――この座敷が、このお寺では一ばんさ。おい、重詰や、樽を、おだしよ――吉」
と、連れて来た乾児に、命じるお初だ。
――へえん。
と、嘲笑うのは、本堂障子外の暗い廊下に立つ闇太郎――
――田圃や島抜けのような、のろ間でなくって――業さらしでなくってお気の毒だって? はばかりさまさ――まあ、一ぱいやってから、雪之丞をからかいに来て見るがいい――きもッ玉がでんぐりがえって、腰を抜かさずにはいられめえから――は、は、は、やっぱし、女さかしゅうして、牛うり損うだなあ――大人しく、万引でもしていりゃあいいに、あばずれ奴!
座敷の方で、酒宴のにぎわいが陽気らしくはじまったころ、闇太郎は、いつか、荒れ障子を開けてもう、真暗な、本堂の中にはいっていた。
だが、夜と、暗がりが世界のような彼、足元にも、手元にも、迷うことではない。まるで、明るみの中を歩くように、雑多にころがっている、仏具や、金仏の間を、巧みに趾先さぐりに通り抜けて、近づいたのが、須弥壇の前――抹香臭さ、かび臭さが鼻を撲つ。
おぼろかな気配のうちに、さすがに荘厳味を感じさせて、高く立っている如来像には見向きもせず、壇下を、手さぐりで、一探り、早くも、台の前かざりの、浮き彫りの、篏め込みの板を、触れて見て、彼は、それが、引戸になっているのを悟った。
――ははあ、これだな、お初の奴が、ガラガラと開けたのは――つまり、ここから壇の下に潜ると、陥穽になるわけなのだ。
お初は、遠慮する必要がないから、出入の秘し戸を、思い切って開けることが出来たのだが、こちらはそうはいかない――闇太郎は、油断のある男ではない上に、今夜は、つい鼻のさきに、目も耳もはしっこい、敵を控えている身だった。
大事を取って、息をととのえて、指先を、秘し戸にかけると、いつか錠がはずれて、スッ、スッと、小刻みに開いてゆく。
お初の場合には、あんなに軋んだ引き戸が、闇太郎の、用心深い手にかかると、まるで丹念に油をくれた溝を走るかのように、辷るようにひらかれたのだ。
闇太郎は、うまうま、おのが姿を、須弥壇の下に蔵すと、元の通りに閉めて、さて、心耳をすます。
今度こそ真の闇――床下から湧き上って来る毒気が、息を詰らせるばかりで、この中に押し込められた、雪之丞、どこにどうなりゆいたのであろう? いき差しも聴えない。
――ふうむ、俺が、もぐって来たのを、俺と知らずに、静息の法で、在り所を隠したな!
静息の法というのは、人、近づくと知れば、相手の、呼気、吸気と、あるか無きかの息を合せて、物の気配を相殺させ、その間に容子をうかがって、避けるか、戦うかの判断を加えるための、秘密の術のひとつ――
その間に、闇太郎は、切り穴が、板張りに開いているのを探り当てたが、案の定、そこから一本の綱が、下におろされている――
――ふん、綱をたぐり上げても置かねえところを見ると、お初の奴、勝ち誇りゃあがったな――どうするか見ていろ――
闇太郎は、切り穴の中に、首を突き入れるようにして、かすかなかすかな咳ばらいを、一つした。
と、殆んど、間を置かず、ひどく深い穴の底でも、同じような咳ばらいがする。これがこんな場合それといわずに、自分の本体を、知らせ合う法で、咳ばらいには、めいめいの特長があるから、ほんのかすかな、小さな、低いひびきでも、お互に、ははあ――近づいて来たのは、誰だな? 何人だなということが呑み込めるわけだ。
闇太郎が、綱の一たんを掴んで軽くゆさぶった。
――この綱にすがって、上って来い。
と、すすめたのだ。
すると、たちまち、その綱が、ビーンと緊張して、スルスルと、上って来る者があるのが、闇太郎の指に感じられる。
上り口まで来たところで、手を腕にかけて、引き上げてやる。
「太夫、わびはあとだ。さあ、先きへ戻りな」
と、雪之丞が板張に立ったとき、闇太郎は囁いた。
須弥壇下の闇の中――
手と手を取り合ったが、雪之丞、闇太郎、多言の場合でない――
「外へ――早く! 宿へ戻るがいい」
「かたじけない」
外の気配を、じっと、うかがった雪之丞、ふたたび、引き戸をあけて、つい、一瞬に、すがたは、もう、消え失せる。
本堂にたたずんで、コソリと、杉葉が、たった一度、裏庭でかすかに鳴るのを聴いた、闇太郎、
――ウム、これでよし――
と、心の目で、雪之丞が、もはや、寺後の杜を抜けて、塀さえ越してしまったのを、見届けてつぶやいたが、
――それにしても、俺にゃあ、このままじゃあ、帰えられねえ――お初の奴に、ちょッぴり礼を言わねえことにゃあ――
スウッと、本堂を、物の影のように抜けると、いつか、庭へ下りて、さも遠くから、たった今、駆けつけて来たかのような息をし、妙に掠めた、低い調子で――
「吉ッつぁん――黒門町の、もしや吉さんというお人が、このお寺に来てはいやあしませんかね?」
庫裡の、上りがまちに、腰を下ろして、いずれ、悪徒らしいかごかきを相手に、これも寒さ凌ぎの、冷酒をかぶっていた、がに股の吉が――
「たれだ? 俺の名を云うなあ――」
と、不気味そうに、びっくりしたような、
「手めえは何だ?」
どこから、出し抜けにあらわれたか、突如として、暗がりの庭にはいって来た男を見て叫んだ。
相手は、そんなことには、頓着なく、
「おお、お前が吉ッつぁん――安心しやした。さっき、池の端を駆け出して、川向うまで、一足飛び――大てい、この辺だろうと、お杉の姐御が言うものだから、見当はつけて来たが、若し一あし違えになったら大変だと思って――」
さも、安心したらしい、しかし、意味ありげな口上――、吉は、立って来て、手拭を盗ッとかぶり、尻をはしょって、空脛を出した男を、闇を透してみつめるように、
「じゃあ、おめえは、池の端の、お杉姐御のところから、来たって言うのだな――一あし違えたあ、妙な文句だが――」
「いやもう、今夜という今夜は、面くらってしめえやしたよ。お杉姐御も、かわいそうに、お番所さ」
「えッ! お杉さんが、番所へ引かれた?」
と、吉の声が、つッぱしる。
「へえ、なあに、ゆうべ、黒門町のお初さんの宿をしたのが、判ったというのでネ――奴等あお初姐御が、浪人衆をかたらって、川向うへ来たということで、ちゃあんと知っていやあがって――」
「何だと! じゃあ、奴等が、川のこっちへ出張ろうッてえのか?」
吉は、せかせかしくいって、
「奴等に知れるわけが、あるはずがねえが――」
「あッしにゃあ、詳しいわけはわかりません――だが、お杉さんが、引かれる真際に、役人に薬を使って、着物を着更えながら、紅筆で、あっしに書きのこして行ったんですよ。お初さんが、川向うの泰仁寺へ行ったはずだ――吉ッつぁんが跟いているから、駆けつけて、知らせろッてネ――小女が、その手紙をあッしの穴へ持って来てくれたんです。それを読むと足を空にかけ出して来たんですが――」
二度三度、顔を合せているがに股の吉、相当、目はしの鋭い男だが、闇太郎の、ひょいとしたいきでガラリ調子を変えて見せる、不可思議な技術と、擬声の巧みさとに、すっかり相手を見そくなってしまった。
もっとも、それを、責めるわけにはいかないのだ――闇太郎の、この種の技巧は、江戸切ッての目明し、岡ッ引の、心眼をさえ、何度、くらまして来ているか、わからないのだから――
「そんなわけで、黒門町の姐御に、是非とも、一刻も早くこのことをお耳に入れなけりゃあ、お杉さんにあッしが済まねえ――吉ッつぁん、姐御、この寺にいるなら、早速知らせて上げておくんなせえ」
「いうにゃ及ぶだ――お杉さんはまさか口は割るめえが、浪人衆の方の門人か何かが、行く先を知っていて、しゃべってしまえばそれッきりだ」
と、前庭を、書院座敷の方へ駆け出す吉のあとから、闇太郎は、ぬからず跟いて行った。
「姐御! 酒盛なんぞ、暢気らしくやッている場合じゃあありませんぜ!」
吉が、庭先から叫ぶと、
「何だい! 仰山らしい! 何がどうしたって言うんだい!」
と、きめつけるような、お初の声。
「今、池の端から人が駆けつけて、手入れがあって、お杉さんが、番所へ引かれたというのですよ」
「何だって、お杉が!」
さすがに、お初の語韻に、驚きがまじる。
「姐御が、立ち廻ったのが、ばれたんだそうですよ」
「ふうむ?」
「それで、若し、どうかした拍子で、川向うへ来たことが知れたら、一騒動、とにかく、容子を知らせろと、頼まれて、お杉さんの懇意な人が、飛んで来てくれたのですが――」
「では、役人に、今夜のことが知れたというのか?」
と、門倉平馬が、臆病風に誘われたようにいう。
「お杉さんは、何もいいはしますめえが、あそこには、雇婆あもいるし、――万一、底が割れたら、もうじき奴等が押しつけて来るものと思わなけりゃあ――」
吉が、そう答えたとき、お初はもう、すっと立ち上っていた。
立ちながら――
「平馬さん、奴等が近づいていると、あたしの武器じゃあ、音がして悪い――あんたの手を借りなけりゃあ――」
お初、吉の言葉に動顛させられて、今は、雪之丞に対する複雑な気持をじっと、持ち怺えることさえ出来なくなり、一思いに、殺害してしまおうと、決心したものと見えた。
「心得た」
相手が、穴ぐらの中で、自由を失っているのであれば、大して手向いも出来るものではない――と、考えたらしく、平馬は言下に大刀を掴んで突ッ立った。
「あたしが、鉄砲でおどかしているうちに、ズバリと殺っておくんなさいよ――本堂へ引き出すからさ――」
――ケッ、ケッ、ケッ!
と、闇太郎は、声を呑んで嗤わざるを得ない。
――ざまあ見ろ、須弥壇下へくぐって見ろ、雪之丞にゃあ、いつだって、この闇太郎が着いているんだ。馬鹿あめ!
怪賊は闇の中で、ニヤリと白い歯を現して、本堂の方をのぞき込んだ。
一度、雪之丞に打ち倒されて、半死半生の目に合された、剣客や、門弟たち、さすがに不死身で絶気のあとでは、第一の妙薬と、大杯を傾けていたのが、これ等もドヤドヤと立ち上って、お初、平馬のあとを、本堂の方へ跟いてゆく。
それを、錆た燭台の裸蝋燭のあかりで、ニヤニヤしながら眺めていた闇太郎、やがて、奥で――
「おや! これは不思議だ!」
と、お初の甲高な、いくらか取りみだしたような声がして、
「だれか、もっと大きな蝋燭を持って来ておくれよ」
「どうしたのだ! 姿が見えぬのか?」
と、平馬のハッとしたような叫び。
「いいんですよ、その手燭では、あかりが届かないんだから――隅々までわかるように、向うの百目蝋燭を持っておいでなさいよ」
お初の声の下から、平馬の門弟の一人が、座敷へ来て、燭台から、百目蝋燭を火のついたまま、抜いて掴んでゆく。
が、どんな灯りも無駄だ。
「まあ! あいつ、どうしたのだろう? 厳重に錠を下して置いたのに!」
お初が、さすがに、絶叫した。
――へん、外からあけて、抜け出さして、また、ちゃあんと、しまりをして置いたんだ。
と、闇太郎は、赤い舌さえ出して、嘲って、
――もっともっとびっくりしやあがれ!
平馬の声が、
「どれ、拙者に蝋燭を――どんな、隠れ穴があるのかも知れぬ――下りて、見てまいる――」
「お気をつけなさいよ――隠れていたらあぶないから――」
「なあに、こうしてまいれば――」
抜き身の刀を提げて、綱をつたわって下りてゆくつもりらしい。
門倉平馬、惚れたお初の目の前で、何とかして勇気を示し、いつぞや以来の、不信用を取りかえしたいのであろう――自分だけは、今夜同伴の剣士たちとは、ちっとはちがったものだということを示したいのであろう。
平馬が、穴の底に着いたと思うころ、闇太郎、突然、バラバラと、縁端に走り寄って、大きな透る声で叫んだ。
「ざまあ見ろ! お初、手前ッちが、このおれさまに張り合えるかい! とんちきめ、尋ねる人は、もうとッくに楽々と、蒲団の中で楽寝をしていらあ――あばよ!」
「やッ! ちくしょう、うぬあ何だ!」
と、がに股の吉、びっくりして、闇太郎に掴みかかるのを、突きとばして、尻餅をつく上へ、あびせかけるように、
「三下! 引ッ込んでやがれ! 馬鹿、俺がわからねえか!」
「あッ、お前は、闇の――」
「うるせえ!」
と、一喝して、
「手めえに恨みはねえ、早く亡けろ! 役人が来るなあ、ほんとうだぜ!」
タッと、一跳躍して、暗がりの庭を、突ッ切って、塀を刎ね越えようとしたとき、
――ズーン! と、いう銃の音――つい側の庭石に中って、火花が散った。
「間抜けめ!」
と、塀外へ下りたとき、
「卑怯だぞ! てめえ、密告したんだな!」
と、憤怒を投げつけるお初の声がひびいた。
闇太郎の、思い掛けない救いの手で、急には逃れ出ることが出来ないかも知れぬと、覚悟している真暗な陥穽から、やすやすと抜け出すことの出来た雪之丞、その翌日、舞台から見渡した土間の一隅に、さも呪わしげな目つきをして、めっきり青ざめてさえ見えるお初が、どこぞの内儀らしい扮装でまじっているのを見出しても、別に、気にも止めはしなかった。
彼は、自信を得ていたのだ。
わしが、一生、一念を賭けた大望、そなたなぞが、身から出た執着の悪念で、どのように呪って見たとて、どうにもなるものではないぞ。神、ほとけが、さまざまなめぐみの手を差し伸べて下されて、わしをあらゆる難儀から救うて下さるのじゃ。
雪之丞の、昨夜の、生き死の難儀に対する恐怖すべき追憶なぞは、どこにも残っていないような態度で、自由濶達に、演技をつづけているのを、じっとみつめて、唇を噛んでいるお初の胸の中は、さてどんなものであろう?
彼女は、いきどおりに燃えて、三斎隠居一味に、彼の秘密を告げ口する決心が、ますますかたまってゆくのであろうか?
と、ばかりは言えなかった。
彼女は、美しく、たわやかで、その中に限りない凛々しさをほの見せている雪之丞の舞台すがたに、食い入るような瞳を投げつづけながら、罵り、もがき、もだえているのだ。
――意気地なし、甲斐性なし! 何という、しッこしの無いおいらなんだ! なぜ、あの小生意気な、上方ものを、あのままにほうって置くのだ? ああやって、昨夜の今日、平気なかおで人を馬鹿にするように、舞台を踏みつづけているあいつを、どう始末をする気にもならないのだ? お初、おめえは、この場から駈けつけて、申し上げます――あなたさまの、おいのちを狙っている奴が、ついそこにおります――と、言いつけることが、なぜ出来ないのだ? お初、おめえは、馬鹿か、阿呆か?
だけれども、彼女には、それが出来ぬ。雪之丞の、五体から発散する、微妙精美な光の糸のようなものに、ますます縛呪されてしまって、身じろぎが出来ないのだ。
――うう、くやしいッ!
と、お初は、わが身をつかみしめる。
――どうして、あいつの、あの色香や、あの心意気を、蹴飛ばすことが出来ないのだ! 畜生ッ!
呪えども、憎めども、彼女が、不思議な恋の蠱じの環を、どうしても抜けることが出来ぬうちに、大喜利も幕になった。
しおしおと、引かれた幕をみつめて、出てゆかねばならぬお初――
雪之丞は、雪之丞で、楽屋に戻る――この興行も大入りの中に、明日が千秋楽――十日ほど休んで、新しい狂言の蓋が、あけられる予定だ。
さまざまな思いが、湧き乱れて来る胸をしずめて、鏡台の前に坐って、おしろいを軽く落していると、外から飛び込んで来た男衆の一人が、だれにいうともなく……
「いや、おそろしいことだ! 浅草から下谷へかけて、大変な騒ぎですが?」
「何、大変な騒ぎ?」
と、居合せた若い役者が、
「一たい、何がはじまったのですね?」
「何でも、日本ばしの方で、ぶちこわしが始まったとかで、あぶれものたちが、血相を変えて走っているのですよ」
――ぶちこわしが、はじまったといって、あぶれたものたちが、町を走っている――
この言葉を耳にしたとき、雪之丞には、ハッと、思い当るものがあった、つい昨日、今日、彼は聴いているのだ。
――日本橋、通三丁目の米屋が、打っこわされるそうじゃあねえか――あんまり高値を、ボリやあがったからだ。ざまあ見ろ!
――うん、おれッちも、暇がありゃあ、一さわぎ、さわいで来てえがなあ。
そんなことを、道具方が、並べているのだった。
通三丁目の、米屋というのは、長崎屋三郎兵衛が、仲間と組んで、出している米穀問屋、つまり、この二、三年の、関東、東北の不作状態を見込んで、上方西国から高い米を廻し、暴利をむさぼって、恒、日ごろから、市民の恨みを買っていたのだ。
しかし、市民たちは、これまでこの大問屋が、殆ど唯一の配給の元だったので、いわば、咽喉を絞められているかたち、直接に反抗手段を取ることも出来なかった。
が、今は、まっさきに、広海屋が、数艘の大船の舳艫をあい接させて、西の貯蔵米をまわしはじめたのを切ッかけに、富裕の商人がこの流儀を学んで、市民の心を得ようと企てたので、急に米価は墜落し、江戸の民衆は、久しぶりで、たッぷりと鼓腹することが出来たのだった。
こうなると、長崎屋たちが、今更、値を下げて見たとて、恨みが晴れるものではない。
――やッつけろ! あの大問屋をやッつけろ! こんなに安い米が食えたのに、あいつ等が、それを食わせなかったのだ!
――ぶちこわせ! ぶちこわせ! 悪どい奴等を根だやしにしろ!
――やッつけろ! やッつけろ!
いつの世でも、リイダーはある。それに盲従する暴民はある――今や、彼等は、これまでの憤怒を晴らす、当然の機会を得たように、めいめいに起ち上った。
それに、裏長屋の軒並から――大江戸の隅の隅のどぶという、溝の近所から、急に発生き出した、毒虫のように、雲霞のように飛び出して来た。
男も、女も、老いたるも、稚なきものも――
みんなが、みんな、何か、桝や笊のようなものをつかんで、振り立てて、冬の宵の口を、大通りを目ざして、駆け出すのであった。
――どれほどでも、蔵にあるだけ奪ってやれ!
――これまで、高値で買わせられただけの損を、今夜一度に取りかえせ!
この騒ぎは、昨夜も、小さく起ったのであったが、検察の当局も見て見ぬふりをしたのであった。彼等とても、お蔭で、扶持米を切り替えるのに、大分損をしているのだから、恨みは、民衆と同じであった。
長崎屋たちが、取締りを求めても、
「いや、当方では、言うまでもなく、十分に警戒する。騒ぎは今夜だけであろう。が、めいめいに、十分に気をつけるように――何しろ江戸には、何百万とない貧民がいるので、こちらの手でも、そう完全に押し伏せるわけにいかない」
こんなたよりない答えがあるだけだった。
大問屋すじでは、びくびくして、今夜、夜が深まるのを迎えていたが、案の定、第二夜の騒擾は昨夜に輪をかけたものだった。
薄暗い横町という横町から、貧しげな男女が、わめき立てながら押し寄せて来た。
――米をくれ、米をくれ、米をくれえ!
そうした市民どもの、荒くれたぶちこわしさわぎが、楽屋の雪之丞の耳に、今、あらためてはいったのだった。
彼はさらに――と、思い当ると、躊躇もなく、男衆にいいかけた。
「その押し入れの、下積みのつづらの中に、目立たない糸織縞の着物がありますから、黒繻子の帯を添えて出して見て下さい」
そして、着ていた舞台着の、帯紐を解きはじめた。
「え? 糸織りの縞物を? 何になさるんで!」
男衆は、異様な、のみこめぬというような目つきをした。
「何でもいいから、出して見て下さいよ」
質素な縞の着物に、黒繻子の帯、何か役の都合で、必要もあるかと用意してある自前の衣裳――町家のかみさんにでも扮するときしか、用のないものだ。
重ねて言われて、男衆が、それを、取り出すと、雪之丞は、手早く着更えて、手拭いを吹きながしに冠ると、褄をちょいとはしょって見て、姿見にうつしたが、
「すっかり、江戸前のかみさんでしょう?」
「ほんとうになあ――ちょいとしたとりなしで、かわるものだ」
と、男衆の一人は感心したようにつぶやいて、
「で、そんな扮装をなすって、どうするおつもりで?」
雪之丞は微笑した。
「まあ、黙っていて下さいよ。今夜、これから、この姿でおたずねして、ある方を、びっくりさせるつもりなのだから――」
そして、彼の姿は、唖然たる、弟子や男衆の前を、すぐに消えてしまった。
楽屋番のじいさんさえ、雪之丞の、簡単な変装を見やぶることが出来ないようであった。どこの女房が楽屋へ来ていたのかという表情で、ちらりと見たッきり、二度と目もくれない。
雪之丞は、ありあわせた、尻切れ草履を穿いたまま、寒風が、黒く吹いている通りへ出て、少し行って、辻かごで、日本橋近所まで来て、乗りものを捨てた。
もう、このあたりまでくると、町家の大戸という大戸は、ぴったりと閉されていて、軒下に、小僧や手代が、軒行灯のおぼろな光の下に三人、五人たたずんで、近所の人達と、妙にひそめたような声で、話し合っている。
「ほんとうに、物騒千万なことで――あの人達が、うらみのある米屋ばかり、狙っていてくれればいいが、とばっちりが、こっちまで飛んで来てはやり切れません」
「まあ、多分大丈夫と思いますがね――物産屋の長崎屋とやらは、大そう狡猾な人だそうで、米商いにまで手をのばし、一息に大もうけをしようとしたのでしょうが、こうなっては滅茶滅茶ですね」
「ほんとうに――上方出のあきんどは、目先きが大そうするどいようですが、今度は味噌をつけましたね」
そして、だが、聴け!
行手に当って、真黒な潮騒のような、何とも言えずすさまじいわめき声が、地を這うようにひびいているのだ。
雪之丞は、その方角を指していそいで行った。
逢う男女は、みんな走っている。目をきらめかしている。人波が前方で押し返し押し返し、こんなことを叫び立てていた。
「火の用心を忘れるな! 火を出さねえようにぶちこわせ! 手向ったら、半殺しにしろ!」
片褄をはしょって、吹き流しの手拭を銜えるように、暴動市民の群から少しはなれて佇んだ雪之丞――
じっと、みつめる目の前では、市民どもが、かがんでは小石を拾い、拾っては、十間間口、大戸前の表の戸を、すっかり下ろして、灯という灯を、ことごとく消してしまった、米問屋に向って、バラバラと投うりつけ、すさまじい憎悪の叫喚をつづけている。
「出ろやい! 長崎屋! 人鬼! 生血吸い! 出ろやい!」
「手めえに、ひと言いってやらねえことにゃあ、ここをどくおれッちじゃあねえぞ!」
すると、一人の指導者格が、煮しめたような手拭を、すっとこ冠り、素肌の片肌脱ぎ、棒千切れを、采配のように振り立てて、
「やい! みんな! うしろへまわれ! 石をほうっていても仕方がねえ! うしろの米庫をたたきこわせ! 米庫は板がこいに、屋根がしてあるだけだ――たたきこわして、ふんだんに頂戴しろ! 長崎屋さんは、今まで儲けたお礼に、おめえたちに、いくらでも、拾っていけっておっしゃってるぜ!」
「わあい! 米庫だ! 米庫だ! 米を貰え! 米を貰え!」
叫び、わめきつつ、指導者の棒千切れのゆび示すままに、群集は、建ちつづいた、蔵の方へ走ってゆく。
しかも、その群集を制するものが、殆どないのだ。
「騒ぐな! 退け! 騒ぐな! 退け!」
と、御用提灯を振り立てて、同心どもに率いられた下役が、棒を突き立てているが、その人々は、群集とは、かなり距離がへだっている。彼等も亦、心の中では、このぶちこわしを、無理もないことと、思っているに相違ない。
雪之丞は、群集とは反対に、問屋の内部を覗こうと、右にまわって行った。家内に、何となしに、いい争うような声が聞えるように思われたのだ。
右手の、隣家の土蔵との庇間から、すべり入って、暗がりを、境の板塀を刎ね越すと、奥庭――この辺によくある、大店の空家を買って、そのまま、米問屋をはじめたわけなので、なかなか凝った茶庭になっていたが、大きな木斛の木かげから、じっと見ると、奥座敷では、今は浅間しく取り乱した、長崎屋が、着物の前もはだからせて、立ち上って、何か大ごえで騒ぐのを、左右から、二人の番頭が取りすがるように、前には、雪之丞、見覚えの武家が、立ちふさがっているのが見える。
武家は、長崎以来、長崎屋等と、悪因縁を持つ、浜川平之進にまぎれもなかった。
「もう滅茶滅茶だ! 滅茶滅茶だ! 畜生! 役人さえ、あぶれ者の味方なのだ――見ろ! 聴け! 空地に建てならべた米庫を、あいつ等は荒しているのだ。大手をふって盗みをはたらいているのだ――それなのに止めようとするものがない。見世の手代、小僧、みんな逃げて行って、誰も防ぐものはない――ああ、滅茶滅茶だ! これというのも、みんな、あの広海屋の畜生のなせるわざ――あいつを、取り殺す! 食い殺す! さあ、放せ! おれはこれから竜閑町の、あいつの家へ行って来る――あいつの咽喉ぶえを食い破ってやる――」
燭台の赤茶けた燭の火を宿す、血ばしった目つきの怖ろしさ――それを鎮めようと、浜川が、
「ま、下にいなされ! そう狂っては、却ってお身の不為――あぶれ者の目にも触れなば、いのちがござらぬぞ」
哮り狂う長崎屋の形相は、いよいよ物すごく歪むばかりだ。
「いえいえ浜川さん、おはなし下さい。わしはもう、腹にも、肝にも据えかねた。あの憎らしい広海屋を目の前に、いってやる――呪ってやる――肉を食らってやる――そうせずには置かれませぬ。元――元をただせば、わしの助けがあったればこそ、傾いた広海屋が、松浦屋を破滅させて、独り栄えることが出来たのだ――それは、浜川さん、あなたがよく知っているはずではないか――さ、はなして下さい、遣って下さい」
「わかっている――貴公のいうことはわかっている」
と、以前に長崎代官をつとめて、これも暴富を積み、お役御免を願って、閑職につき、裕福に暮している旗本、三郎兵衛の前に、立ちふさがって、
「だが、商人の戦いは、そう荒立ってもどうもならぬ――口惜しかったら、やはり、商いの道で、打ちひしいでやるがいい――ま、下に――」
「何とおっしゃる! 浜川さん! じゃあ、そなたも、あッち側なのだね! 広海屋の仲間になってしまっているのだね!」
と、長崎屋、歯を噛んで、浜川旗本を睨みつめ、
「商人は、商いで戦えと! それを、こうまで、ふみにじられた、わしに言うのか! わしにどこに、商いで戦える力が残っている? 十何年の月日をかけて、一生懸命働いて来た黄金という黄金、江戸に見世を移すに使った上、短い一生、出来得るだけ富をふやそうと、さまざまな方角へ資本を下ろし、その上、今度こそ、最後の決戦と、手を出した米商いに――伸るか反るかの大事な場合と、知り抜いた広海屋にハメられたのだ。うしろから突き落されたので、もはや起き上る力もない――それを知らぬ、あなたか? 浜川さん、あなたにしても、長崎以来、わしのためにも、利を得ていられるお人ではありませぬか――それを、広海屋ばかりを身贔屓して――」
物蔭に、窺う雪之丞、長崎屋の、血の涙のくり言を、苦い微笑で聴きながら、老師孤軒先生の、先見に、今更感動を禁じ得ぬのだ。
――何もかも、老師のおおせられた通りだ。広海屋、長崎屋、商いの道で自滅する。噛み合って共だおれになろうとのお言葉――長崎屋は、もはや、あのざま!
そのとき屋敷のうらの空地の、俄か立ての米庫の方で、わあッと起る、民衆の喊のこえ――さえぎるもののない彼等は、今や、戸前という戸前を破壊して、存分に米穀を掴み出しているに相違ない。
「あれあれ! あの、あぶれどもたちの大騒ぎ! あれを、わしに、じっと聴いていられるか――」
と、三郎兵衛は、左右の袖にすがっている手代どもを、振り切って、浜川の方へ、突ッかかるように、
「出して下され! 邪魔立てなさると、おぬしとて、許しはせぬぞ!」
ふところに、手を突ッ込んだと思うと、キラリとひらめく匕首――
「あッ、あぶない!」
と、たじろぐ浜川――
「長崎屋、気ばし狂ったか!」
「狂おうとも――気も、こころも――」
匕首をひらめかして、三郎兵衛、人々を威嚇しながら、雪之丞が身をかくしている裏庭に跳ね下り、そのまま、非常門から、暗い巷路に駆け出してしまったのだった。
雪之丞の姿は、咄嗟に、塀を越えて、長崎屋のあとを追う。
動顛したのは、浜川はじめ手代たちだ。
「あぶない! ほうって置いたら大変だ!」
「浜川さま! どうかなされて!」
と、叫ぶ家人たち。
浜川はうなずいて、
「仕方のない奴だ。ああ取り乱してはどうにもならぬ。よし、拙者、あとを慕って、間違いのないように致そう」
「どうぞ、お願いいたします」
「あまりその方たちが、騒ぎ立てると、却って気が立つ――拙者にまかせて置け」
浜川平之進、大刀を、ぐっと腰に帯びると、そのまま、これも非常門から出たが、敢て[#「敢て」は底本では「敢えて」]、三郎兵衛をじかに追おうとはしない。
「かご屋!」
と、巷路を通りすがった、辻かごを呼び止めて、
「急用だ――竜閑町まで行け!」
立派やかな侍、いい客と思ったので、かごが、すぐに矢のように走り出す。
狡いのは、長崎屋三郎兵衛であった。彼は塀外に出ると、すぐには広海屋の住居を差して駆け出そうとはせずに、物影に身を潜めてしまったのだ。
こんな場合でも、日ごろの悪どい知恵がはたらいて、必ず迫って来るに[#「迫って来るに」はママ]きまっている人達を撒いたあとで、何か、怖ろしい行動に移ろうとするものに相違ない。
雪之丞は、影のように、ぴったりと、彼にくいついている。
とは、流石に知らぬ、長崎屋、浜川が、露地を出て、かごに乗ったのを見ると、ニタリと、白い歯をあらわして、闇に笑って、
「ふうむ、広海屋に先ばしりをして、告げ事をしようというのだな! おのれ、にくい奴だ!」
――だが、何の!
と、いうように、忽ち、ぐるりと、尻をはしょると、目あての、竜閑町を差して、これは細い抜け道から、抜け道を、夜のけもののようなすばやさで、走り出した。
なるほど、辻かごが、どんなにいそいでも、抜け裏から抜け裏を、駆け抜けたら、この方が、早いにきまっているのだ。
――どうするつもりか?
雪之丞、小褄も、ちらほらと、踏み乱して、軒下から軒下、露地から露地を、目の前を翔りゆく、黒い影をひた慕いに慕う。
とうとう出たのは、掘割を、前にひかえた、立派な角店、――総檜の土蔵づくり、金看板を夜中ながらわざと下ろさず、堂々と威を張っているのが、いわずと知れた広海屋の本店だ。
その前まで来て、白く光る目で、あたりを見まわすようにした長崎屋――
「そうら、見ろ、こっちが早かった!」
もう一度、じろりと眺めて、見つけた天水桶――黒く、太ぶりなのが、二ツ並んだ間に、犬のように潜ぐり込んだ。
雪之丞の背すじを、ぞうッとした戦慄が走った。
――こりゃ、浜川が、あぶない!
若し、広海屋に、すぐにあばれ込むつもりであれば、身を忍ばせる必要はないであろう。待ちかまえて、何かするつもりに相違なかった。
彼は、河岸に積まれた、空箱でもあろう、うずたかい物に身を貼りつけた。
と、聴け!
「ホイ、ホイ!」
と、かなたの闇から近づく辻かごだ。
――いよいよ、浜川が、着いたな。
と、雪之丞の、冷厳な瞳が、闇を貫いて、広海屋の店前をみつめたとき、飛ぶように駆けつづけて来た辻かご――
「ホイ! ホイ! ホイッ!」
と、先棒、後棒、足が止まって、タンと立つ息杖、しずかに乗りものが、下におろされる。
「旦那さま、お約束のところまで――」
と、先棒が、汗をぬぐって、いいかけたとき、突然、天水桶の間から、ぬっと魔物のように現れて、ふところに、右手を――恐らく、匕首の柄をつかみしめているのであろう――つかつかと、かごに歩み寄った長崎屋――
その、髷がゆがみ、鬢はみだれ胸元もあらわなすがたに、びっくりして、かごかきが――
「わりゃあ、何だ? 気ちげえか――」
息杖を取りなおすひまもない――キラリと、白く、冷たく光る短い刃が、鼻先きにつき出されたので、
「わああッ!」
と、後、先、そろって、大の男が、しかもからだ中、文身を散らしているのが、一どきに、五間も飛び退いてしまう。
そのさわぎに――
「何じゃ?」
と、聴きとがめたが、まさか、まだ、三郎兵衛が、先き潜りをしているとは、思わぬ浜川平之進、左に刀を抱いて、
「下りる――穿きものを――」
と、垂れを自分で上げかけたとき、
「へ、お穿きもの――」
妙に、掠れた、笑うような、ばけ物ごえで言った三郎兵衛、かごに引ッついて屈む。
かごにはさんであった雪駄が、揃えられているのへ、足をのせて、やがて、上半身が外へ、出かかったその刹那、
「おのれ! 片割れ!」
ぐうッと、抱きすくめるようにして、切ッ先きを、脇腹に、突ッ込んだに相違ない。
「わあッわあッ」
と、叫んだが、平之進、引く息を、一つ大きくして、
「う、う、う、う――」
と、叫びが、呻きに変って、地面にのめる。
「人殺しだあ!」
と、駆けゆくかご舁。
平気な三郎兵衛――
――トン、トン、トン、トン!
と、大戸を叩いて、
「お願いだ! あけてくれ!」
――トン、トン、トン!
「松枝町からまいッた! 広海屋! あけてくれ!」
いつか、平之進の、頭巾を奪って、顔だけ包んで、臆病窓のところへ、わざとその頭を近づけて置いて、武士らしい作りごえ――
「おい、広海屋! 急用じゃ! 松枝町じゃ――」
松枝町とは、勿論、土部三斎屋敷を言っているのだ。
相変らず、狡い手口――
中では、寝入りばなを起こされたらしく、やがて、案の定、大戸の臆病窓が開いて、寝とぼけたこえが――
「どなたさま?」
「松枝町というが、聴えぬか? 主人に急用で、お文を持ってまいった」
「松枝町さま――それはそれは」
じきに、大戸が開くようだ。
――行りなされ、お行りなされ! どんなことでも、おぬしの望むままに、お行りなされ!
広海屋、見世うちへはいろうと、開けられた大戸の潜り、腰をかがめてもぐりこむ長崎屋の、異様なすがたを見返って、雪之丞が、そう呟いたとき、かかり合いになるのを怖れたか、かごかき達は、浜川の死骸はそのまま、かごを引っ浚って、またたく間に飛んで行ってしまったが、こちらは、まんまと、手代をあざむきおおせた三郎兵衛、中にはいると、すぐにまた、血みどろの短刀で、何か行ったに相違ない――
飛鳥のように、広海屋軒下に近づいて、耳をすました雪之丞は、つい、その土間で、突然――
「うおッ! う、う、う」
と、いう、かすかな、押しつぶされたような、うめきを、又も聴いてしまった。
戸をあけてやった手代、薄くらがりで、相手を何ものとも見分けぬ暇に、もはや、匕首の一突きを背中に受けて、高く叫ぶことさえならず、そのまま、どたりと、倒れてしまったものと見えた。
それなり、しいんと、ひそまりかえった家内――
大方、三郎兵衛の音ずれを聴きつけたのは、見世番の手代でほかの店のものは、寝入りばな――これまでの一切に、気がつかず、つい、そこで、同僚が殺害されたのも知らず、ぐっすりと、寝込んでしまっているのであろう。
――これで、二人目!
と、雪之丞は、心にかぞえた。
三郎兵衛、何を行ろうとするのであろう? 広海屋のいのちを狙うに相違ないが、まさか、易々と、あの剛腹な男を殺すことは出来まい。
彼は、しかし、三郎兵衛が、成し遂げえぬことを今夜自分でやりおおせようとはしなかった。三郎兵衛、広海屋――この二人は、孤軒老師が予言したとおり、十中八、九は、ガッと組み合ったまま、いのちの尽きるまで、噛み合い、食らい合うであろう。
――どっちが強いか――おぬし達、二匹の狼――弱い方から、死ぬがいい――
じっと、いつまでも、聴きすます、雪之丞――
と、かなり長い時が経って、一たい、どうしてしまったかと、心にいぶかしみが湧き出したころ、だしぬけに、奥の方で――
「火事だあ!」
と、いう、叫び!
「火事だあ! 起きろ!」
と、けわしい声が、つづいて起って、急に、しいんとしたしずけさが、一どきに破れたと思うと、まだ、火は見えぬが、物の爆ぜ焼けるひびきが、ピチピチ、ギシギシと、いうように、雪之丞の耳を掠めた。
――点けたな! 火を!
「油樽に気をつけろ! 油樽に燃えつきそうだ」
と、あわただしい声々。
広海屋は、その頃、紅毛油を盛んに売り出していた。橄欖という果の実、木の皮をしぼって作ったという、香いのよい、味のいい、すばらしい油――富みたるものは、それを皮膚のくすりとして塗りもすれば、料理にも使って、こよない自慢にしているのだ。
その貴重な油樽が、見世奥に積んであったのへ、長崎屋、いみじくも、火を点したものと見えた。
たちまち、ズーンという、樽の爆ける音。もう、駄目だ! ぼうぼうと激しい炎が唸りを立てて、猛火が、家内を一ぱいにきらめかすのが見えるのだった。
放けたな! 火を! 点したな! 火を! ほ、ほ、ほ!
さすがに、雪之丞、家内から洩れる炎のいろ、爆ぜ燃えるひびきを感じとると、胸が躍った。その業火は、いよいよ彼の一生の悲願が成就する、幸先を祝った篝火のようにも思われるのだ。
退って、例の河岸の空荷を積んだ物影に立って、なおも、成りゆきをみつめていると、だしぬけに、横手の塀を、ムクムクと、乗り越えて来る、黒い人影――
瞳を定めると、人を殺し、火を放って、しかもうまく、現場の混雑に乗じて、逃げおおせた長崎屋三郎兵衛の、浅間しい狂いすがただ。
その三郎兵衛、ふところに、妙なかたまりのようなものを、しっかと抱いたまま、一さんに、河岸まで来た。雪之丞の近くで、立ち止まって、その抱きしめたものを、両手でかざすようにしたが、
「ほ! こりゃどうじゃ! 死んだかな? 死にはすまい? たった今まで、おぎゃおぎゃいっていたんだ――おい、目をさませ! 赤んぼめ!」
ハッとして、雪之丞は、目をみはった。思いがけなや、何と、それは、やッと当歳か、それとも生れて年を重ねたばかりのむつき児なのだ。
三郎兵衛は、ようやくにして、屋根廂のあわいから、赤黒い火焔の渦を吐き出しはじめた広海屋の方をも、突如として起ったあたりの騒擾をも、見向きもせず、
「ふ、ふ、ふ、あの馬鹿乳母め――火事と聴いて、動顛しくさって、店の者と間違ったか、このおれの手に、広海屋が六十の声を聴いて、やっと出来た一つぶ種――あの若い後妻に生ませた大事な赤児を、うまうま渡して行きゃあがった。広海屋を殺れなかったのは、残念だが、これは、いいものが手にはいったわい――と、思って、盗んで来たが、死なせてしまっては仕方がない――」
と、独り言――ここまでは大分正気らしかったが、やがて、また、異常な笑いを笑って、
「ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ! これ赤児! きさまは、やっぱり、あの後妻の、間男の子でもなかったな――似ているぞ、広海屋に――あの与平の奴に――おや、何だって、友だちでも、仲間でも、商いの道は別だって――商人は、商いの道で戦うのだって? 長崎屋、つぶれて消えろ――だって? よくもいったな! が、まあ見ろ、おぬしの家も店も、そうら、あの通りの大火事だ! ヒ、ヒ、ヒ、あれをよく見ながら、畜生! おのれ、冥途へゆけ!」
気を失っている赤んぼの、咽喉を絞めかける三郎兵衛――
雪之丞は、思わず、それへ飛び出して、長崎屋の腕の中から、あわれな、肉のかたまりを引ッたくった。
「おや! 貴さまは何だ! 乳母か? 乳母が取りかえしに来やがったか?」
と、血走った目で、掴みかかろうとする三郎兵衛を、雪之丞はなだめるような微笑で、
「まあ、心を落ちつけて、あの火の燃えている方を御覧なされ! それ、あそこへ、お前があんなにさがしている、広海屋のあるじが逃げてゆく――赤児なぞに、かかわっている時ではあるまい――それ、あそこへゆくのが、わからぬか!」
片手で、指さして見せる、火事場の方角、三郎兵衛は、口をあけて、
「どれ、どれ、どこに?」
と、呟きながら、フラフラと、その方へ歩み出すのだった。
もはや、炎々と燃え熾って来た広海屋の大屋台――そのほむらの明るさは、既に、そこら中人の顔、眉毛の数までがわかるほどだ。ごく近い、火の見では、激しい摺り半鐘のひびき!
雪之丞は、今にも、咽喉笛に、爪を立てられて、いのちを落そうとした広海屋の、老いの初児というのを、長崎屋三郎兵衛の手から事なくうばい取ったが、あとの、成りゆきを見さだめるために、いつまでも、この河岸に佇んでいることが出来ない。怪しげなすがたが、何ものかの疑いをまねくかも知れないのだ。
彼は、ぐったりとした赤んぼをふところに、抱き締めるようにして、わが体熱に温めながら濠端添いに、一切の騒擾からとおいところまで逃れて来て、さて、捨石の上に腰を下ろした。
ふところの赤児は、ますます、冷え切ッてゆく。が、どこにか、いのちの種の火は、辛うじて、残っているのが、感じられはするのだ。
膝に載せて、星あかりに、じっとみつめると、この愛らしい、ふっくらと肥えた嬰児のいずくに、親どもの、あの剛腹な、ふてぶてしいものが見出せるであろう!
武術の活――それを、そのままソッと、指さきが、絶気している子どもの、鳩尾に当てられる。かすかに、その先きに力がはいると、ピリピリと、小さい、和らかいからだが、神経的にうごめいた。
そして、しばしばと、まぶたがうごいて、
「――ぎゃあ、ぎゃあ! ぎゃあ! ぎゃあ!」
と、息を吹っかえすと、すぐにもう、むずかり泣きだ。
「誰がよ誰がよ」
雪之丞は、あやして見た。ぎゃあぎゃあと、反りかえるのを、思わず、ソッと頬ずりしてやったが、この刹那、彼の内心に、激しい争闘が行われているのは、美しい眉目の歪みでも知れるのだった。
――どのように、愛しげに見えても、かたきの片割れだ!
と、いう思念と、
――いいえ、かたきの片われにしろ、かくも無心な、いじらしい赤児を――
どうして、憎み苦しめられようかという感情と、相打ちつづけているに相違ない。
が、彼は、泣き止んで、やさしい、むちむちした手を出して、顎のあたりを、つかんだり、なでたりしている赤児に気がつくと、もう、複雑な、あらゆる気持から解放されることが出来た。
――広海屋へ、返そうにも、今夜は仕方がない――どのみち、今のところは、わしがあずかって、あとで何とかしてやる外はないであろ。
両手に、ふたたび、抱き上げて、
「ほいよ、ほいよ、だれが泣かした! わるい奴のう――さ、わしと一緒に、あたたかいふしどにまいりましょうの、泣くでない、泣くでない――」
揺り上げ、揺り下げしながら、雪之丞は、歩き出した。
長崎屋や広海屋――また、長崎屋の狂刃に仆れた、浜川平之進に対する追憶さえ、このやわらかい小さな生もののためには、忘れさせられてしまうのだった。
彼は、かごを拾って、赤児に頬ずりをしてやりながら、山ノ宿のわが宿をさして急がせた。
広海屋を焼く業火は、まだ、後方遠く赤黒く夜空をこがしているのであった。
扨も、暴富を積んで宝が恒に身の仇、いつ何どき、いかなる禍いが身に及ぶかと、絶えず畏怖心から離れられぬ広海屋の主人は、居住坐臥、一刻一寸も警戒を忘れることは出来なかったので、とりわけ夜の居間や寝室は、念に念を入れたいかめしい用心ぶりだった。
彼と妻女との部屋は、店と、文庫蔵との間の、七間ばかりの別棟で、廊下で四方に連絡されているのだったが、樫の部厚な板戸で仕切った上に、荒目な格子、その内に木襖、更に、普通の唐紙や障子が入れてあるという工合で、更に、寝室の地袋戸棚の中には、地下へ下りる道が出来ていて、それが、裏庭に通じるような仕組になっていた。
そうした要害を、あらかじめ知りながら、憤怒のあまり、夜よ中に、広海屋の屋形に飛び込んで行った長崎屋が、易々と憎い相手に行き合って、恨みの匕首を、肥え肉づいた横腹に、突き込むことが出来なかったのは無理もないが、しかし、何分、紅毛油の大樽に、わざわざ火を点されたこと、火の手の廻り方が存外に早かったので、
「火事だあ! 火事だ!」
と、叫ぶ店の者どもの大声に、寝入りばなを目をさまして、パッと刎ね起きたときは、夫婦とも、尋常では、幾重の締りを潜って、逃げおおせることは出来ないのを知ったのだった。
「まあ! どうしましょう! 八方が、すっかり火になってしまったようですが――」
と、おろおろごえで、取りすがる女房の、顔には血の気もなかったが、さすが、主人は驚愕の中にも沈着さを失わず、
「落ち着け、落ち着け! こんなときは落ち着きが何よりだ――日ごろから、そなたにだけに知らせてある地下道――今夜のような場合のためだ」
そう云いさま、広海屋は、寝巻の上にどてらを羽織って、脚のすじの抜けたような妻女を引ッかかえるようにしたまま、地袋にくぐり入って、秘密のバネを押して床板を刎ね上げると、真暗の中を、ゆるやかな傾斜を辷るように、真直に辿りはじめた。
恐らく、そのときには、さすが広海屋ほどの狡猾な人間も、まだ失火の原因については知らなかったろう――知らぬも道理、店の次の棟に、大勢寝ていた若者たちさえ、魔物のようにはいって来て、たった一人目ざめて大戸を開けた手代を刺し殺し、主人夫婦に接近しがたいと知るとすぐに目にはいった油樽に火を入れた、三郎兵衛の姿に気がつくものはなかったのだ。現に主人たちの密室から、廊下を隔てた一間に、うない児を抱き寝していた乳母さえ、前後をいかに忘失したとはいえ、当の長崎屋に、この一家に取っては、何ものにも変えがたい一人息子の赤児を渡してしまっている位ではないか!
そんなわけで、広海屋は、闇を辿りつつも、まだ、心のどこかで高をくくっていた。
――なアに、総檜、五百坪の普請とはいえ、店の一棟二棟、焼け落ちたとて、何を驚くことがあろう。うしろに建ち並んだ、蔵の中には、江戸中の、いかなる大名高家、町人一統が、どんな注文をよこそうとも、すぐ間に合うだけの材料は積んであるのだ。その十棟の土蔵は、コテを取っては、日本一といわれる左官が塗ったもの、どんな猛火も怖れることではない――
「さあ、しっかりせい! そなたも広海屋ほどのものの女房――高が、火事ぐらいに、身ぶるいをしてどうするのだ。そら、もう抜け道もおしまいだ。外へ出れば、明るすぎる程あかるくなろう――しっかりせい!」
そう女房をはげましつつ、地下道のどんづまりまで来て手さぐりで、揚げ蓋を起す枢機をまさぐるのだった。
地下道の揚げ蓋を刎ね上げて、縋り合いながら、裏庭、築山蔭に出た広海屋夫婦。二人とも、その瞬間、瞳を射るあまりに猛烈な焔の色に、思わず目を蔽うた。
見よ! 眼前に聳えた広海屋本店の、巌丈堅固な大厦は、すでに一めんに火が廻って、吹き立って来た北風に煽られた火焔は、天井を焼き抜き、廂を匐い上って、今しも、さしもの大厦の棟が、すさまじい轟音ともろともに、がらがらと焼け落ちつつあるのだった。
「あれもう、屋の棟が!」
と、又しても、泣き叫ぼうとする妻女。
「ええ! 泣くなというに! 高の知れた小家一軒、そなたがそんなに惜しく思わば、明日が日に百軒でも建てて見しょう! 見るがいい――あのいろは庫――まだ『る』の十一戸前だが、あの通り立派に建ち並んでいる。それなのに、何が――つまらぬ小店、どうせ建て直さねば手狭になったところ、却っていい折の火事だと思えばいいのだ」
広海屋は、妻女を抱き寄せるように、裏庭のはずれ、河岸に近い方角に、黒く輝いてつづいた土蔵を指し示す。
ガチガチと、歯の根も合わぬながらに、女房も、いくらか落ちついて、広海屋の指先の示すあたりに眺め入って、やっと泣き止んだころ、主人夫婦のすがたを見かけた手代、小僧、出入りの職人どもが、畳、屏風、火鉢なぞを、運んで来る。
「何とも、申し上げようのないことで――」
「火の用心、念には念を入れておりましたが――」
なぞと、自分たちの失策でもない――と、いうこころを、言外に匂わせて、口々に言うので、広海屋は、苦わらいで止めて、
「よいよい、店だけで、焼け止まる模様、幸い、横手は河岸だし、隣は間あいがある。一軒焼けで、近所に迷惑をかけねば、それが何より――」
と、さすがに大腹中らしく言って、
「それよりも、これが震えている。早う、温かい着る物と、湯なり、茶なり持って来てくれるがよい」
妻女は、和らかもののどてらなぞを、誰かが運んで来て、着せかけると、いくらか人心地がついたようであったが、ふと、急に思い出したらしく、あたりを見まわすようにして、
「坊はどうしましたでしょう! 坊が、見えませぬが――」
「おおそう云えば、庫前の座敷に寝ていたはずの乳母――誰ぞ、そこらで、すがたを見なんだか――」
と、広海屋が、訊ねる。
「わたくしが、火焔のひびきにびっくりして、目をさまし、大声で火事よ、火事よ――と、叫び立てているうちに、乳母どのが、坊さまをお抱きして、廊下を駆け出したのはたしかに見ましたが――」
と、手代の一人。
「そうか――それはよかった」
まず、焼き殺されぬということが、わかったので、広海屋が、ホッとしたようにいう。
「火には捲かれずとも、こんな寒さに、屋外をうろうろしていたら、大事な坊やに、風を引かせてしまいます――誰か、早く、さがして来て――」
と、妻女は、なおも、気もそぞろに、
「女中たちは、どこにいるのやら――女たちの、立ち退き場所へ行ったなら、坊も乳母も見つかるでしょう――早う、行って見て下さらぬか!」
母親は、きょろきょろと、あたりを見まわしながら、いかに広海屋がなだめても、しずまろうともせぬ。
「坊やを早く! 坊やはどこへ行ったのだろう! ねえ、早く連れて来て下さいよ!」
その不安を唆り立てるように、赤児と乳母を探しに行った小僧出入りも、なかなか戻っては来ない。
とうとう、主人までが、落ちつかなくなってしまった。
「一たい、抱き乳母はどうしたのだ? 誰か、ほかを探して見ぬか?」
と、伸び上っていったところへ、手代ども女中の一団が、これも、気も狂おしげに、何やら叫び立てている年増おんなを、手を曳き、袂を取って近づいて来る。
見れば、乳母のお種、髪も褄も乱れがちに、こんなことを口走っているのだ。
「お坊ちゃまあ! お坊ちゃまを、あたしから取ったのは誰だろう! あたしがお抱きしていたのではあぶないといって、取って行ったのは誰だろう! お坊ちゃまあ! お坊ちゃまあ!」
「一たい、この始末はどうしたのか?」
と、さすがの、広海屋、わが一人むすこ、世取りのうない児のこと、サッと、顔いろが変って訊ねた。
手代の一人が、
「何ともはや、妙なはなしでござります。お種どのの申しますには、煙に捲かれて、廊下まで来ると、ゆき会った一人の男――あぶないゆえ、お坊ちゃまを渡すがよい――と、無理に、お種どのから奪い取るようにして、そのまま、お坊ちゃまを抱いて、どこかへ行った――と申しますので――」
「その相手が、誰とも見当がつかぬというのか? 覚えていないというのか?」
と、広海屋が、焦ら立たしげに――
手代は、笑止げに、
「それが、何分、動顛した折――男とのみしか、覚えてはおらぬと申します」
「と、いっても、うちの中に、他人さまが、はいって来ているはずはなし――火事が大きくなってからは知らぬこと――あのときなら、店の者たちばかりの筈だ。さあ、急いで、探して見ろ! 店の者で、誰か、見えないものはいないか!」
広海屋は、真赤な火の手のひかりをうけながら、青ざめて叫んだ。
――ことによったら、一つぶ種――救おうとした者と一緒に、炎に捲き込まれてしまったのかも知れぬ。
と、いう予想に、胸もつぶれるばかりである。
母親は、広海屋の袖をつかんで、
「ごらんなさい、申さぬことか! このごろ坊やが夜泣きをして、考え事に邪魔だというて、あたし達の寝間から遠ざけ、乳母と一緒に、庫前なぞへ寝かしたから、こんなことになりました。万一、坊やが、火に焼かれて死にでもしたら、あたしは、恨みます。お前をうらみますぞえ――お前が、何もかも悪いのじゃ――坊やが、若しもいなくなってしまったら、どうしよう! どうしよう!」
――うわあ! うわあ!
と、とりみだして、泣き叫ぶ内儀のすがたは、いじらしさの限りだ。
「ま、落ちつけ! 居ないはずはない! これ、みんな、火事なぞどうでもいい! 坊を探してくれ、坊を抱いて見えなくなった男を探してくれ!」
広海屋は、とりすがる女房を、突きはなしも兼ねて、呼びつづけるのだった。
広海屋、その人までが、わが子の失踪に、平生の落ちつきをなくして、何やら、荒々しく、癇癪ごえで叫び立てているのだ。暗い予感が当って、ことによれば、二度と可愛い顔が、見られなくなったかも知れぬと知った、内儀、もはや、真正の気違いだ。
彼女は、立ち上って、髪をふりみだし、目をいからせて、これも気も狂わんばかりの、乳母を目がけて、つかみかかるようにして行くのだ。
「これ、お種! あの子をどこへやった! 坊やをどこへやった! 誰に渡した! お種、さ、言っておくれ! 早く言っておくれ! さては、お前、日ごろ、あんなに目をかけていたのを忘れて、坊やを、火の中へ置き逃げして来たのだな! 焼き殺してしまったのだな!」
と、むしゃぶりつこうとすると、相手の乳母、これも気がうわ擦ってしまって、主か他人か、見境もなくしたと見えて、あべこべに噛みつくように、
「おお! お前さんか! 坊ちゃまを盗んで行ったのは! 食べてしまったのは! さあ、坊ちゃまを返せ! 坊ちゃまを返してくれ! おのれ! 返さぬか」
と、飛びついて、噛みつこうとする。
それを引き分けるに、懸命な女中たち。
「わあん! わあん!」
「ひい、ひい、ひい!」
と、引き分けられて、泣きわめく、女房、乳母!
主人は主人で怒号している。
「早う捜し出せ! 早う、坊を捜し出せ! えい! 火の中へなり水の中へなり飛び込んで探し出せ! 手ぬるい奴等だ――貴さまたちが、出来ぬなら、わしが行る! どっ、放せ!」
鳶の者、手代たちが、しっかと抱きしめていても、それを擦り抜けて、今や、炎々と燃えさかっている、火の中をめがけて突進しようと狂いもがく。
こうした、凄惨な光景を、小高い築山の、灌木の蔭から、じっとみつめて、にたりにたり、白い歯をあらわして、笑っているのが、いつの間にか、ふたたび、広海屋の屋敷うちに忍び入って来た、長崎屋だ。
火事と、赤児の行方不明とに、自分の方を注意するものなぞあろうはずがないと安心してか、からだを半分以上のり出して、真紅な火光を、すさまじく引き歪んだ顔に受けて、いわば赤鬼の形相――声に出して、嘲りつぶやいている。
「は、は、は、ざまを見ろ! 広海屋が、あばれおるわ! 女房が狂いおるわ! 気の毒だな! 可哀そうだな! おぬしのように、鬼よりも、けものよりも、情も、涙もない奴も、友だちを売って、破滅させ、おのれ一人高見の見物する奴も、やっぱし子供は可愛いか? は、は、は、ほ、ほ、ほ、わめきおるわ! あばれおるわ! もっともっと、さわげ! 狂え! もっともっと、苦しめ! もがけ! 泣け! 畜生! まだまだ泣き足りぬわ! もだえ足りぬわ! は、は、は、ざまを見ろ!」
彼自身は、まるで、狂気もしておらぬように、冷厳な審判者でもあるように、みつめつづけて、額を叩いてよろこんでいる。
「へ、へ、へ、どんなに騒ごうとあの赤児が、帰って来るものか――このおれが、盗み取って、とっくに、賽の河原の婆さんの使に渡してしまってあるのだ。へ、へ、へ、なんと、広海屋、こたえたか――胸に、胆に、たましいにこたえたか! ひ、ひ、ひ、へ、へ、へ、――ざまあ見ろ!」
嘲り、蔑み、憎み、呪い、目を剥き出し、歯を現し、片手の指を、獲物を掴もうとするけだもののように鉤なりに、曲げ、片手に、浜川平之進の血しおで染んだ短刀を握り締めた、長崎屋、相手に気取られようが、気取られまいが、そんなことは少しもかまわず、今は、大ごえに、ゲラゲラと、不気味な笑いをひびかせるのだ。
「黄金のためには、どんな友だちに、どんな煮湯を呑まそうと平気な広海屋――黄金の力さえあれば、人間、買うことは、何でも出来ると、高を括っている広海屋――へん、どれほど、黄金を積んだとて、可愛い子はかえらぬぞ! この長崎屋、ちゃんと、奪衣婆の手に渡してしまったのじゃ! ふ、ふ、ふ、あの子が生れたときには、有頂天によろこんで、これで、広海屋万代だなぞと、大盤ぶるまいをしおッたな! あれからたったまる一年、へ、へ、へ、もうそなたに子なし、もとの杢阿弥――思い知ったか、この長崎屋、仇をうければ、仇をかえさずには置かぬ男じゃぞ!」
広海屋夫婦の、狂態が、つのればつのるほど、いよいよ面白さ、うれしさ、小気味よさに堪えかねて来る長崎屋、とうとう、いつか築山の蔭から、すッかりすがたをあらわしてしまったのは愚か、血ぬられた短刀を振りまわしながら、だんだんに近づいてゆく。
はじめて、彼の狂笑に、気がついた一人の手代、ホッとばかり、目をみはって、
「おのれ! 何者だ!」
と、大声にとがめる。
夫婦をかこんだ一同の目が、一ように三郎兵衛にそそがれる。
しかし、一目では、何人にも、それが長崎屋だと、わかろうはずがない。散らし髪同然に、鬢髪は乱れ、目は洞ろに、顔は歪み、着物の前はすっかりはだかって、何ともかとも言いあらわしようの無い体たらくなのだ。
「何奴だ! 手めえは?」
と、気早やな鳶の者が一人、この気味の悪い闖入者の方へ飛んで行ったが、手にした匕首――しかも血みどろなのを眺めると、
「わあッ!」
と、叫んで、あとじさりをして、
「貴さまあ、人を殺して来たな!」
「ふ、ふ、ふ、ふ――おのれ等に用はない――広海屋に逢いに来たのだ――」
三郎兵衛の、皺枯れた声――
番頭が、広海屋を、押しへだてるように、
「旦那、あっちへまいりましょう――血のついた短刀を、あの変な奴は持っているようで――あぶのうございます」
「それでは、浜川の旦那を殺ったのはあいつだな――」
と、一人が、口走ると、
「ナニ、浜川さまがどうなされた?」
と、狂奮の中にも、広海屋が訊ねる。
「実は、火事の揚句が、坊ちゃまのこともあり、申し上げずに置きましたが、つい、店の前に浜川平之進さまが、何ものかに、脇腹を刺されて、お果てなされておいでになりましたので――」
「何だと! 浜川さまが! うちの前で! そりゃ又、何ということだ!」
と、叫んだ、広海屋の前に、フラフラと近づいて来た三郎兵衛――
「広海屋、そのわけか? あいつが、おぬしに、忠義立てをしようとしたからよ」
「誰だ! お前は?」
と、広海屋は、日ごろの面影をすっかりなくした、三郎兵衛をみつめて目をった。
「ハ、ハ、ハ、広海屋――それから、手代衆、これだけ大きな篝火を焚いてやっても、家庫を焔にしてやっても、この明るさでも、わしが判らぬか? わしが誰だか、わからぬか?」
と、長崎屋は、歪み曲った顔を突き出すようにして、
「さてさて、明きめくら、このわしが、わからぬかといったら!」
ぐっと、差しつけるようにした、その形相のすさまじさ!
広海屋は、飛びしさるようにして、
「おッ! おのれは、長崎屋!」
「ほんに、長崎屋の旦那じゃ――こりゃ、又、どうしたこと!」
と、手代、小僧も、あっ気に取られる。
広海屋は、恐怖の声をふりしぼって、
「さては、おのれ、浜川さまを手にかけた上、この家に、火を放けたも、われだな!」
「う、ふ、ふ、いかにも、おれじゃ、長崎屋じゃ――な、わかったか? 業を積みおって、今更何を! ふ、ふ、ふ――わしが、人を殺したれば、どうじゃというのだ? 火を放ければ、どうじゃというのだ? それよりも、いのちよりも家庫よりも、おぬしには、もっと大事そうな、あの、やにッこい生きもの――一つぶ種――あれが、ほしゅうはないかい? これ広海屋、ほしゅうはないかい?」
と、嘲り叫ぶ。
「おのれ、憎さも憎し――それ、みんな、こやつをからめ取って、さんざんに打った上、お役人に突き出せ!」
広海屋が、おめくのを、妻女が、泣きながら、押しとどめて、
「まあ、あなた、しずまって下さいまし、みんなも手出しはなりませぬぞ」
と、いって、長崎屋の前に、地べたにひざまずいて、
「これ、長崎屋さま、三郎兵衛さま――どんな恨みが、主にはあるかも知れねど、赤子には、罪というてあるはずはなし、どうぞ、お腹が癒えるよう、わたしの身を存分になされて、あの子だけは返して下さるよう――お返し下さるよう――」
「は、は、は、その御愁歎は、ごもッともごもッとも」
と、芝居がかりで、三郎兵衛は、あざみ笑って、
「さりながら、聴かれよ、御内儀、あれも敵の片われ、どうも、お言葉にしたがうわけにはなりませぬ」
「でも、一体、あの子を、どうなされて?」
若しや、やはり、たずさえている匕首で、咽喉ぶえを切り割かれてしまったのではないか――と、内儀は、必死の想いでたずねる。
「どうなされたと言って、たった今も言うとおり、通り合せた賽の河原の奪衣婆に、渡してつかわしたほどに、今ごろは小石を積んで、あそんでいるにちがいない」
と、三郎兵衛は、けろりと答える。
「それなら、そなた、手にかけたのでは、ありませぬな?」
「つかみ殺そうとしたなれど、ほしいというて、奪衣婆がねだったゆえ、つい、河岸でくれてやった」
「これ、みなの衆――どうやら、長崎屋どののいうことは、ほんとうらしい。さあ、早う、手わけをして、この人から子供を受け取った人を、さがして来て! どんな礼でもその人にしましょうほどに――」
妻女が足ずりしてわめくさまは、ことわりせめて道理に見えた。
広海屋内儀は、主人と、長崎屋との間柄が、現在どのように悪化していようと、三郎兵衛が今はもう火つけ、人殺しの大罪人となっていようと、また、哀れや宿業の報いるところ、狂人となり果ててしまっていようと、そんなことを考えて見るひまはない。
ただ、大地に跪き、額で地べたを叩き、遂には、血の匕首を持っている三郎兵衛の、物すごい表情に怖れもせず、裾をすら掴んで哀願しつづけるのだ。
「長崎屋どの! 三郎兵衛どの! この広海屋一家に対して、どのようなお恨みを持っておいでかは知りませぬが、あの子には罪はない! あの子が、悪さをする筈がない! あの子をお返しなすって下さいまし、家も惜しくはありませぬ! この、わたしが、殺されようと、助かろうと、それもかまいませぬ! あの子だけを、お返し下さいまし!」
「は、は、は! 泣きおるわ! わめきおるわ! うらみがあったら、そこにおる広海屋に言え! 亭主に言え!」
と、こんな言葉だけは、すじが立つことをいって、長崎屋は、ふたたび、ゲラゲラ笑いになって、目をあげて、闇空を焦す炎が、大波のように、渦巻き、崩れ、盛り上り、なびき伏し、万態の変化の妙をつくしつつ、果しもなく、金砂子を八方に撒き散らすのを眺めながら、
「ほほう、ほほう、黄金の粉が、空一めんにひろがって行くぞ! 広海屋、見ろ、おぬし一代の栄華、贅沢――日本一の見物じゃぞ! すばらしいのう! これを見ながら一ぱいはどうじゃ! 酒を持って来い! は、は、酒肴の用意をととのえろ! ほほう! ほほう! 何ともいえぬ眺めじゃなあ」
「おのれ、何をぬかすぞ! それ、この人殺し、火つけの罪人、早う、お役人を呼んで――」
と、番頭の一人が、手代どもにいうのを、フッと、何か、思い当ったような広海屋、狂奮の中にも、キラリと、狡く目をはたらかせて、
「待った! お役人衆に、このことを、お知らせするのは、まあ、待った!」
「じゃと、申して、みすみす、この科人を――」
「待てと言ったら!」
と、止めて広海屋は、手鉤を持った出入りの鳶に、
「おぬし達、この長崎屋を、くくり上げて、ソッと、土蔵の中へ、入れて置いてほしい」
「でも、お役人のお叱りをうけては――」
「よいと申したら――気が昂ぶっているによって、落ちついてから、わしが、必ず自首させる――さあ、あまり、人目に立たぬうち――」
広海屋はセカセカしくいった。
と、いうのは、長崎屋を、このまま、検察当局の手に渡したなら、長崎以来のもろもろの悪事をべらべらと、しゃべり立てるは必定、それこそ、わが身の上の一大事と、ひそかに監禁して、誰知らぬ間に始末をつける考えが起きたからだ。
鳶の者は、そう聴くと、これは、悧巧な江戸ッ子流――三郎兵衛の側に近づいて、鉢巻を外して、
「こいつは、お見それいたしやした。長崎屋の旦那でごぜえますね。あっしは、鳶の、八と申しやすが、どうも、大した御機嫌さんで――」
いなせに、腰低く、べらべらと並べ立てて近づく鳶の者、片手に、こぶしを固めて、いざと言わば、張り倒そうとしているのだが、気の上ずった、心の狂った長崎屋には、それが、気取れない。
釣り込まれたように、血まみれの短刀を持った手をぶらりと下げたまま、額を突き出すようにして、
「おや、おまえさんは? とんと、見馴れない人だが――」
と、うっとり言う。
若者は追従笑いをして、
「それは旦那、あっし達は、吹けば飛ぶ、どぶ浚い、あなたさんは江戸で名高い大商人、あッしの方では、そりゃあもう、御存知申上げておりますんで――」
と、いって、ますます近づいて、さすが、大胆者、長崎屋の短刀を持った方の手の二の腕を、やんわり、いつか、つかんでしまって、
「ねえ旦那、今夜はお騒々しいことで、さぞ、お疲れになりましたろう――さあ、あちらで、御休息の用意がしてありやすから、お供を申しやしょう」
妙なもので、狂暴な、けだもののようでもあれば、また、無邪気な子供のようでもある、俄か気違い、たちまち、
「おお、そうか? なるほど、咽喉もかわいたし、足もくたびれた。じゃあ、一つ、御造作になろうかな?」
と、曳かれるままに、立ち並んだ、いろは蔵の方へ歩き出す。
その三郎兵衛が、たしかに、塗り込めの中に、封じ込まれたとまで、血走った目で見届けた広海屋与平――
「ざまを見ろ! 人殺し! 火放け! かどわかし!」
と、噛みしめた歯の間から、うめくように叫んだが、
「よいか、みんな、あいつを蔵から出すことではないぞ! 坊やがかえるまで、あいつを出すことじゃあない――いいえ、坊やがかえっても、あいつだけは、あそこから外へ出してはならぬ。このわしが、成敗してやる。何という人鬼だ!」
「わああ! かなしいのう! かなしいのう! わああ! わああ!」
と、いまだに、地にまろび伏して、泣きわめく女房――
広海屋は、そのあわれなすがたを、今は、腹立たしげに、睨めつけて、足をあげて、蹴とばしもしかねぬ形相――
「うるさい! そなたが、わめかずとも、わしの心まで、狂いみだれてしまいそうじゃ――坊の行方は知っての通り、多くの人たちに頼んで、探し求めているではないか――殺されていない限り、天にかけり、地に潜っても、かならず、見つけ出さずには置かぬのじゃ。そなたが、泣いたとて、何になる。泣きやめ! 泣きやめ! 泣きやみおらぬか!」
「じゃと申して、かなしいのう! かなしいのう! これを泣かずにいられる、お前こそ、鬼じゃ、鬼じゃ! かなしいのう!」
広海屋は奥歯を、ギリギリと噛みつづけていた。
さすがの猛火も、油樽がはじけて、油が行き渡っていたせいか、却って、速かに大きな店づくりを焼きつくして、そして、だんだん、下火になって行った。
広海屋は、ガクガクと、全身を悪寒に震わせずにはいられなかった。何かしら、自分達、長崎以来の一味徒党の上に、恐ろしい破滅悲惨の運命が迫って来ているように感じられはじめたのである。
こちらは、広海屋いろは庫の、どん尻の、河岸沿いの一棟の二階に投げ上げられた、長崎屋三郎兵衛――
「これ、若い衆、約束の、酒は持って来ぬか? 茶はどうじゃ? 咽喉がひりつく。声が苦しい――これ、何か、飲みものを、早う持って来い持って来い!」
と、呼べど、叫けべど、返事もなく、もとより塗り籠めの中、火事場の騒ぎさえ、ひびいても来ず、しんかんと、ひそまり返っているままに、わめきつれて、いつか、睡魔が、うとうとと襲って来て、そのうちに、我れ知らず、眠ってしまえば、狂も、不狂も、おなじ夢の境。
だが、その夢の中でさえ、もはや、ただ美しい、ただ優しい、ほんのりとした幻は漂うては来ぬ。それは、遠い遠い、少年の日に、置き忘れてしまった。情なや、六欲煩悩の囚人である身は、やはり、現も少しも変らず、恐ろしい。激しい不安や恐怖の餌じきにならずにはいられぬのだ。
彼は、見た――こんな夢を。
おのが放け火の、すさまじい炎の渦に、押し捲かれそうになって、逃げに逃げて、やっと辿りついた崖の上、目の下は、鰐も棲みそうな血潮の流れで、それが、フツフツと沸きたぎっているから、追う火先きをのがれるために、それに飛び込むこともならぬ。
が、どうにも、背すじが焦げつきそうになる、苦しまぎれ、ざぶんと躍り込んだ、熱い流れ――ぬらぬらと、五体にぬめりつき、目口にはいろうとする血潮を、やっと吹きのけて、対岸に上ると、足の裏を、突き刺すばかり尖った、小石原――その小石原の果てに、こちらに、背を見せて、小さな子供――それが、その尖った小石を、杉なりに積み上げては、揺りくずされ、積み上げては、揺り崩され、それでも何か、消え消えに、うたっては、積み重ねている。
歌うを聴けば、儚なげに――
こん、こん、小石は
罪のいし。
つん、つん、積った
罪とがの
数だけは積まねば
ならぬ石。
永劫のつきせぬ
この責苦、
こん、こん、小石は罪のいし。
何となく、可哀そうになって、つい、うしろに近づいて、何かいいかけようとすると、子供の方で振り返ってニーッと笑ったが、その顔が、盗んで、遣り捨てにした、広海屋の赤んぼう――罪のいし。
つん、つん、積った
罪とがの
数だけは積まねば
ならぬ石。
永劫のつきせぬ
この責苦、
こん、こん、小石は罪のいし。
――やあ、おのれ! 迷い出て、恨みをいうか!
と、睨めつけようとした途端、その子供の顔面が、急に、妙に歪んで、ぐたぐたと、伸び皺ばんだと思うと、浅間しく、ねじくれた、黄色い老人の顔――
――見たような? どこかで、いつか? 遠い昔――
と、考えをまとめかけた刹那、思いがけなく、その顔が、もぐもぐと、土気いろの唇をうごかして、
――久しいのう、三郎兵衛――
と、いいかけたようだ。
長崎屋、そのとき、ハッと思い当って、両手で顔を蔽くそうと、もがいたが、手足が緊縛されて、それさえならぬ。
赤ん坊の顔と思ったのが、見る見る変って、伸び歪んで、世にも苦痛に充ちた老人のそれとなった、その夢裡の変化が、両手で面を蔽くして、恐怖に五体がすくみ、声を出すことも出来ぬ長崎屋を、嘲けるが如く、追いかけて、呟くのだった。
「わからぬかな? 忘れたかな? このわしの顔を――」
ぐっと、顎を突き出すようにして、
「いかに忘れっぽいそなたでも、まさか、わしを忘れもしまいがな?」
「わ、わすれはせぬ――わすれはしませぬ――あなたは、もとの――」
言い訳をせねばならぬような気がして、長崎屋、ここまで言いかけて、舌が硬ばってしまった。
「もとの? もとの、何じゃ? わしは、そなたの、もとの、何じゃ?」
「も、もとの、御主人でござります」
と、やっとの思いで、三郎兵衛は、答えて、逃げ出そうとしたが、膝がしらの力が抜けて、動かれぬ。
「もとの主人? うむ、覚えていたか? して、その名は、何と言うた? 忘れたかな?」
「いえ、いえ、何で忘れましょう――あなたは、松浦屋の旦那さま」
「ひ、ひ、ひ、なるほど、思い出したな? よくぞ思い出しおったな? その松浦屋、そなたの手引きで、奸しまの人々の陥穽に陥り、生きながら、怨念の鬼となり、冥府に下って、小やみもなく、修羅の炎に焼かれての、この苦しみ――おのれ、この怨み、やわか、晴らさで置こうや! 三郎兵衛、おのれ、いで、魂を引ッ掴んで、焦熱地獄へ――」
と、いい表わし難い、鬼とも、夜叉とも、たとえようのない異形を見せて、長い鉤爪を伸ばして、つかみかかろうとするのを、
「わあッ! おたすけ!」
と、突き退けようとして、身じろぎのならぬ哀しさに、大声をあげた、その拍子に、やっと、目が醒めた、長崎屋だ。
油汗が、顔をも、肌をも、水を浴びたように湿らして、髪の毛さえ逆立って、醒めて、かえって、夢の中よりも怖ろしく、気味わるく、今にも、旧の主人の怨霊に、取り殺されでもするかのように、
「もう、駄目だ! あの方が、姿をあらわして、お責めになるようではもう駄目だ! 怖わや、怖わや!」
と、叫びながら、どうにかして、この蔵二階から、のがれだそうとあせりもがいて、部屋を、ぐるぐると走りまわりはじめた。
壁に突き当る、壁を押す、戸に打ッつかる、戸を蹴り飛ばす、窓を見つける、鉄網、鉄格子を拳でなぐる――が、どうして、それが壊れるものか! 開くものか! いたずらに、手の生爪、足の指先を傷けて、だらだらと、血がしたたるのを見るばかり。
「怖わや! 怖わや! わしは、一人ではおられぬ。身の毛がよだつ! おおい、広海屋どのう! 浜川どのう! 横山どのう! 土部さまあ! 土部三斎さまあ! わしばかり、こんな恐ろしい目に逢うわけがない。わしを助けてくれ! お助け下され! 松浦屋どのが、わしを責めます――わしを噛みます――引き裂きます! 早う助けてえ、みなの衆、同じ悪事をして来ながら、わしばかりを怨ませようとは! ああ、堪えがたや、怖ろしや!」
わめき立てて、部屋中をのた打ちまわる、長崎屋、やがて生死も知らず、気を失ってしまうのだった。
そこで、生きながら、鬼に化したような、長崎屋三郎兵衛から、河岸の暗まぎれに、広海屋の赤ん坊を受け取った、雪之丞は、どうしたろう?
彼は、三郎兵衛が、赤子の咽喉に、手をかけて、掴み殺さんばかりの有さまを見て、われ知らず、狂い果てた相手を撫して、敵の子をわが手に抱き取りはしたものの、そして、西も東もしらない、頑是なく、いたいけなこのむつきの子供に、罪も怨みもないと、ハッキリ自分にいい聴かせはしたものの、さりとて、そのまま、広海屋一家の手に戻してやる気にはなれなかった。
かごで、わが宿を差して戻りながら、赤ん坊を抱きしめて、乳母のふところと思っているのか、スヤスヤと、眠りはじめた、ふッくらした寝がおに見入りつつ、彼は、詫びるように、心につぶやいたのだ。
――坊や、堪忍おし――ほんとうは、このまま、お前を、おふくろさんの胸に、かえして上げるのがよいのかも知れぬ。けれども、それは、わしには、出来ないのだ。お前には、すまないと思うけど、お前の親御の、広海屋に、どうしても、この世で、怨みをかえさねば、死なれぬ身――その広海屋に、苦しい、悲しい想いをさせるには、お前をあずかって置かねばならぬ。お前の親御は、わしに取っては、仇なのだ、敵なのだ。わしの父母の家をつぶし、辱しめをあたえ、狂い死にをさせたほどの人なのだ。お前も、そういう人の子に生れたが因果――そのかわり、わしは、いのちに代えても、お前に、辛い目は見せぬ。あたたかく、大切に育ててやる――わしの遣り方を大きくなって考えてくれれば、お前もうなずいてくれるだろう――そうじゃ、そうじゃ、いつまでも、わしのいうままに、スヤスヤと、ねんねしておいで。わしも、心が責めるが、しかし、お前を、このまま、ふた親の側へは、どうも返せぬ。
赤子を、責道具に使うことの、よしあしがいっていられる場合ではないのであった。
さて、宿に着くと、出迎えた女たちは、まず、雪之丞のいつに変った身なりに驚かされた――どこの長屋のおかみさんかと思われるすがたに、びっくりした。それから、ふところに抱いている、赤ん坊に好奇の目をみはった。
――若親方は、ことによると、ほんとうに女子で、こんなかわいい赤ちゃんが、あったのかしら?
なぞと、口の中にいって見た者さえあった。
内儀がいぶかしんで、たずねると、ニッコリと、さり気なく、雪之丞は笑って、
「ほ、ほ、ほ、さぞびっくりなされましたろうが、実は、今夜、米屋のぶちこわしとやらがあると承り、物ずきに、現場を見とうなり、わざと、こうしたなりをして、駆けつけましたが、いやもう恐ろしい大騒ぎ、胆も身に添わぬ気がしましたので、すぐに、戻ろうとしますと、道ばたに、捨子――寒さに、泣くこえが、あわれでなりませぬで、拾い上げてまいりました。ね、かわいい子でござりましょう」
「まあ、では捨子で――こんなに、やわらかい寝巻を着せていながら、どうしたわけで、道ばたなぞへ――まあ、ほんとうにかわいらしい――抱かせて下さいましな」
子無しゆえに、一そう子煩悩らしい内儀が、手をさしのべて抱き取ると、赤子は、夢を破られて、むずかって、おぎゃおぎゃ泣き出すのだった。
雪之丞は、内儀に、乳母の世話をたのんでホッとした。
――わたしは嫌われてしまった! わたしはあざむかれていた! いのち懸けの恋――燃えつきる恋――万人の女が、夢みながら、思い切ってそこまでは誰もつきつめぬ恋――親も、家も、わが身もすべて捧げた恋――恥かしい恋――苦しい恋――わたしの恋は、蹂み躪られてしまった! あのお方に取って、魂を焼き焦すほどのわたしの想いは、何でもなかったのだ。あのお方の、舞台の芸と姿とを見て、気まぐれに、どこかの後家どのや、浮気なうかれ女や、はしたない町のむすめが、ほんの一夜、ふた夜、ねむられぬ枕の上で描いて見る、まぼろしの恋よりも、もっともっと儚ない、つまらない、いやしい恋としか、あのお方は思っては下さらなかったのだ――わたしはいきる甲斐がない――わたしは、明日のお日さまを仰ぐ力がない――
わが乳で育てた、家柄の貴い一少婦の、世にも激しく、世にも哀れな思いつめた望みを果させる為には、いかなる難儀をも忍ぼうとする、忠実な乳母と、乳兄弟に当る、正直で素直な伜とで、あらゆる困難を凌いで、見つけてくれた、繁昌な音羽護国寺門前通りのにぎわいから、あまり離れていぬ癖に、ここは、又、常緑の森と、枯茅の草場にかこまれた、目白台のかたほとりの隠れ家に、人目をしのび、世を忍ぶ、公方の寵姫、権門土部三斎のむすめ浪路に、冬の長夜を、せめては、小間に風情を添えようと、乳母がととのえてくれた、朱塗り行灯の、ほのかな灯かげをみつめながら、夜毎に小袖の袖袂を、湿らさずにはいられない。
が、彼女には一生一期のおもいをして、恋のためには、柳営の権威を冒し、生死の禁断を破り、父兄の死命を制するほどの大事になるに相違ないという予覚も物かは、その人ゆえに、御殿もわが家も捨てて、身を隠したということを、はっきりと知りながら、そっと忍んで、訪ねてくれることは愚か、なつかしい文一つ、ことづけてよこそうともせぬ雪之丞を、うらみごとも、責めることも出来ないのだった。
――わたしは忘れられた、捨てられた。あのお方は、やっぱし世の常の芸の人で、いのちがけの女の恋なぞは、おわかりにならないのだ。いいえ、女の一人、百人、自分のためにこがれ死にに死んだとて、わが身の罪と、歎くことなぞはしていられないお人なのだ。芸ばかりがいのちの、氷よりも冷たい胸のお人だったのだ――
と、そう、思いあきらめようとしながら、しかし、どこか、胸の底の方では、
――いいえ、わたしは、わが儘だから、あの方の、深い深い、わたしたちには解らない、おこころづかいをお察しすることが出来ないのかも知れない。何か、それには仔細があって、今当分は、わざと遠お遠おとなされた方が、のちのちのためによいとおもわれての事かも知れない――あのお方には世間がある、芸がある――それを、一途に、女気で、おうらみしたら、何というわけのわからない女と、おさげすみをうけるかも知れない――いかに何だと言うて、これほどまでに、かたくかたく言葉を契ってくだされた雪之丞どの、これほどわたしの想いを、草鞋とやらを穿き捨てるように、投げ捨てておしまいになる道理がない――じッとじッと忍んでいましょう――そのうちに、この月の芝居もすんだなら、世間を忍んで、必ず、おたずね下さるに相違ない――わたしは、待ちます! じっとじっと、しずかにして――
と、そんな方に、自ら慰めて見ずにはいられない彼女でもあった。
こうも呪い、ああも、自ら撫め、日を、夜を、垂れ籠めて、たった一人小むすめを相手に、せめてもの慰みは、新版芝居錦絵、中村座当り狂言の雪之丞の姿絵、三枚つづきの「滝夜叉」に、その人をしのぶ事だけの浪路だった。
あの晩、吹きつづけた凩が、しいんと、吹きやんで、天地が、寒夜の静もりに沈んでゆくような晩だったが、相変らず、錦絵をならべて、小むすめに、絵ときをしてやったあとで、菓子箪笥から、紅い干菓子を、紙に分けてやって、
「千世、おあがり」
と、すすめてやって、どこか、若衆がおの愛らしい横がおをみつめて、何を思ったか、ぼうと、いくらか、頬をうすく染めた浪路――
「ねえ、千世、たのみがあるのだけれど――」
八丈柄の着物に、紅い帯をした小むすめは、女あるじをみつめた。
「何でござります?」
「いいえね、格別、六かしいことではないのだよ――わたしと二人、夫婦ごっこをしてあそんでおくれな――いいでしょう?」
「めおとごっこ?」
めおと――と、いう言葉が、十五の少女にも、ある恥かしさを、感じさせたと見えて、これも顔を紅くした。
「ほ、ほ、何でもないの――只、わたしの言うことに、あいあいと、返事をしてくれれば、それでいいのだから――してくれるわねえ――あそんでくれるわねえ――何でも好きな御褒美をそなたの――ほしいものを上げるから」
こむすめはうなずいた――千世は、いつもいつも淋しげな、はかなげな浪路を、どうにかして、慰めてやりたいと、若いこころにも、思っていたのだった。
「でも、うまく出来ますかしら?」
「出来ますとも――」
頼りない身には、主も、家来もなかった。浪路は、まるで、親友に対するように、千世に頼んだ。
「出来るから、今、いうとおり、わたしの言葉に、あいあいと、そういってくれるのですよ」
「はい」
「では、はじめます――いいこと? 何でも、出来るだけ、男らしく、だけど、やさしく返事をしてくれるのですよ――お前が、旦那さまなのだから――」
そう言って、浪路は、小むすめの肩に、藤いろの小袖の袂をかけて、抱き寄せるようにして、
「まあ、そなたは、こんなに長う、お目にかからなんだわたしを、可哀そうとは、お思いになりませなんだのかえ? 雪どの、さ、何とか、返事をしてたも――」
と、熱くささやいて、そして、自分の言葉に、酔い溺れるかのように、もたれかかったが、千世は身をすくめたまま、答えられぬ。
「駄目ではないの、千世!」
と、浪路は夢をさまされたように、おこりっぽくいったが、また、機嫌をとるように、
「さ、何とか、返事をして――」
「あいあい」
「あれ、あきれた千世――わたしが恨んでいるのに、あいあいでは――」
「でも、あいあいと、いえとおっしゃいましたから――」
「さあ、言ってくれるのですよ――千世、ね、こう言ってくれるのですよ――いいえ、決して、あのときのことを、忘れはしませぬ――と、そう言っておくれなさいな。ね、千世」
千世は、女あるじの、柔かな腕の中に抱きしめられて、ますます紅くなりながら、それでも、
「はい、では、申します――いいえ、決して、あのときのことを、忘れはいたしませぬ」
「それなのに、なぜ、いつまでも、お顔を見せてはくれなかったの? わたしは、うらみつづけにうらんでいました」
又しても、千世が、口ごもってしまったとき、外で、
「御免下さりませ」
千世がホッとしたように女主の、脇をすり抜けて、入口の方へゆく。小家なので、音ずれて来た人のこえは、よく判ったが、それは、乳母の伜の、甚太郎――正直、まっとう、主すじのためにはいのちまでも、いつでも投げ出そうとしているような気立てだ。
通されると、閾の外に、小さくなって、節くれ立った手を突いて、オドオドと、辞儀を申し述べる。
「もう、わたくしも、おふくろも、毎日、毎晩、御機嫌をうかがわなければならないのでござりまするが、何分とも、松枝町のお屋敷の方が、絶えず、目をつけて、おいでなされますので、うっかり、こちらへ足を向けましたら、一大事と、つつしまねばなりませぬので――」
「では、まだ、松枝町では、おまえたち母子を、うたがっているのかえ?」
「はい、お行方をかくされましてから、何度も何度も、お呼びだし、おどしつ、すかしつのお尋ねでござりましたが、口を割りませなんだで、どうやら、御嫌疑も晴れたようでござりますが、それでもまだ、油断がならず、ときどき、不思議な風体のものが、うちの近所を、うろうろいたしておりますので――」
「それは、さぞ、気色のわるいことであろう――みんな、わたしの罪、お気の毒でなりませぬ」
「いえいえ、左様なことはござりませぬが――実は、今晩、人目を忍んで、上りましたのは――」
と、いいかけて、甚太郎は口ごもる。
「え! 何か、特別な、用事ばし出来まして?」
と、浪路がみつめる。
「はい、おふくろが申しますには、お屋敷の方は、あなた様が、お家出をあそばしてから、それはもう、言語道断の御難儀、お城からは、毎日のように、御使者で、行方をお責め問い――御隠居さまも、とんと、御当惑――一日のばしに、お申しわけをなされていたのでござりますが、娘の我儘をそのまま上意をないがしろに致すは不届至極と――これは、うけたまわったまま、失礼をかえりみず申し上げるのでございまするが、いやもうことごとく御立腹――御隠居さまの御不首尾は勿論、殿さま――駿河守さままで、御遠慮申さねばならぬおん仕儀――この分にては、折角の上さまお覚えも、あるいは、さんざんに相成るのではあるまいか――と、御一統、御心痛の御容子――出来ますことなら、あなたさまに、おかんがえ直しが願えたなら、八方、よろしかろう――と、おふくろも、泣いて申しますので――」
「で、わたしにそれをいいに来てくれたといやるのか?」
と、浪路が、鋭く遮るようにいった。
「まあ、では、乳母も、そなたも、この浪路に、どうあってももう一度、うちへ戻れと、こういうのだね?」
と、浪路は、甚太郎の、朴実な顔を、憤りッぽくみつめていった。
素直な男は、あわてた。
「いいえ、どうつかまつりまして、あなたさまに、戻れの帰れのと、そのような、失礼なことを、どうして申し上げられましょう。ただ、いかにも、お屋敷の、お父ぎみさま、お兄ぎみさまの、御当惑がお気の毒でなりませぬゆえ、お城をおさがりあそばすにいたせ、一応は、お顔をお見せなされまして大目晴れて、お暇を願うことにいたしたら、八方、美しくおおさまりになるであろう――と、そのように、母親も、いい暮しているものでござりますから――」
「まあ、その乳母までが、それでは、わたしのあのような頼みをも、打明けばなしをも、裏切って、お城や、お父上の、味方についてしまったものと見える――それも、道理といえば道理――わたしは今日、世をしのび、お前方の情でかくまって貰っている身、何の権威もなくなってしまっているし、その上、わたしのいうままにしていたら、あとで、きびしいお咎めもあろうかと、案じるにも、無理はない。今更、お前たちがわたしを、この家に置くのを、迷惑とお言いなら、いかにも、尤もゆえ、早速、ここを立ち去りましょう――」
浪路は、美しい顔を、青ざめさせて、唇を、血の出るほど、噛みしめるのであった。
甚太郎は、ますます弱り切って、
「めッそうな! われわれ親子が、あなたさまを、おかくまい申すのを、迷惑の何のと、何でそのような罰あたりなことを思いましょう。あなたさまのお為めなれば、いのちも何もいりはせぬと、とうから言いくらしているおふくろが、それではあんまり可哀そうでござります。どうぞ、もう、そのようなこと、フッと、おっしゃらずと下さいませ」
「でも、お前がたは、どうでも、わたしに松枝町に戻れと申すではないか?」
「いやいや、もし、そうなされたなら、御一家さまもさぞおよろこび――と、存じ上げたまでの、差し出口でござりましょう」
「それにしても、あんまり思いやりのない言葉――一たい乳母は、このわたしが、二度と、生きて、あのいやないやな、公方さまのお顔を見る気があると思うているのであろうか? わたしは、そのような破目になったら、いつでも、いのちを捨ててしまう。この咽喉に、懐剣の切ッ先きをつき刺してしまう。いや、舌を噛み切っても死んでしまう――もう、お父上、お兄上のおためには、浪路は、若い若い、清らかな清らかな一身を、すっかり牲にささげて、あのいとわしい貴いお方のお側に、あまりに長う辛抱をしすぎました。これからは、たとえ殺されようと、八ツ裂きにされようと、火あぶり、しばり首、はりつけの刑に処せられようと、もはや、自分のためにばかり生きて行く決心――このわたしの、激しい、悲しい、たった一つの望みを、甚太郎、そなたすらもわかってはくれぬのか?」
怨じて、じっと注いで来る、美しき人の目を、相手は、どうそらしていいか、わからぬもののように――
「そうおっしゃられますると、わたくしめは、申しわけなさに、それこそ、首でも吊る外はござりませぬ。そこまでのお言葉なれば、おふくろにいたせ、わたくしは勿論、今後とも、もうくどう御諫言めかしいことは申し上げますまい――」
と、いい切る外はないのであった。
浪路は、詫び入る甚太郎の言葉が、耳にはいらぬように、
「いかに、おな子の身は弱いというたとて、どこまでもどこまでも一家、一門のために、牲に生き、牲に死ぬほかはないと言やるのか? 乳母や、そなたまで、わたしを公方のもとに追い戻そうとたくもうとは、何という、頼み甲斐のない――」
と、言いかけて、哀しみの涙か、くやし泣きか、ハラハラと、青白い頬を、湿らすのだった。
甚太郎は、ますます恐縮して、
「なかなかもちまして、そのような、悪気から申し上げましたでは、さらさらござりませぬ。一々、ごもっとものお言葉、おふくろにも、立ち戻りまして、申し聴け、おわびに向わせましょうほどに、お気持を、お直し下されまして――わたくしどもは、くりかえし申し上げますとおり、あなたさまのお為めのみを、はばかりながらお案じ申しているばかりでござります――」
すると、それを、聴きすましていた浪路、急に、フッと、涙の顔をあげたが、
「ほんとうに、甚太郎、そなたは、わたしを、あわれと思うていてくりゃるか?」
目を反らさずに、甚太郎、
「申すまでもござりませぬ――たとえば、松枝町さまが、御恩人とは申せ、そなたさまには、恐れ入ったおはなしなれど、乳をさし上げた母親――わたくしはその伜――おん家よりも、そなたさまこそ、くらべようなく大切と、存じ上げておりますので――」
「それならば、わたしの、生き死にの望み――生れて、たった一つの望みを、どうともして、叶わせてくりょうと、日ごろから、念じていてたもっても、よさそうなものと思いますが――」
浪路は、いくらか、怨じ顔に、
「実はたった今も、叶わぬ想いに、胸を噛まれて、うら若い千世を相手に、くりごとを言うていたところ――のう、甚太郎、おもはゆい願いなれど、かくまでの、わたしの苦労を察してくれたなら、どうにもして、此の世で、今一度、かのお人に、逢わせてくれるよう、はからっては貰われぬか?」
ほんに、いかに、主従同然な仲とはいえ、女性の口から、このことをいい出すのは、さぞ苦しいことであったであろう。甚太郎にもそれはよくわかるのだった。
「はい」
と、切なそうに、彼はうなずいて、
「それはもう、わたくしも、あの後、何度となく、人目にかくれて、かのお人のお宿まで、出向きましたなれど、いつも、あいにくお留守のあとばかり――」
「いいえ、大方、わたしよりの使と察し、間のものが、取りつがぬものでもあろう――あのお人は、なかなかに心のゆき渡った方でありますゆえ、なまじ逢うては、わたしにあきらめの心がつくまいとわざとさけておいでのことと思えど、このままでは、わたしは、もう、生きつづけてゆけぬ気がします――いのちの火が、燃えつきてしまうような気がします。ねえ、わたしをあわれと思って、乳母と二人力をあわせ、何ともして、逢瀬をつくってはたもるまいか?」
浪路は思い入った調子で、
「もし、そなたが、いとわねば、わたしみずから、身をやつしてなりと、かのお人の宿元まで、忍んでゆきたいと思うのだけれど――」
と、いっているうちに、狂恋の情が抑えられなくなったように、
「甚太郎、明日といわず、今夜これから、案内してはくれぬであろうか?」
浪路の狂熱は、遂げられぬおのが願望について、くり言をしているうちに、ますます煽られて来るのであった。
彼女は、もう、どうにもおのれを抑えることが出来なくなったように見えた。
「ねえ、わたしを、宿屋の入口まで、案内してたも――わたしはどうあッても、雪どのに逢いたい。逢わねば、もはや、生きる気もない。のう、甚太郎、あわれと思わば、何とかしてたもれ――のう、甚太郎――そなたと、わたしとは、言わば、乳兄妹ではないか――そして、わたしのためなら、どんなことでもしてくれると、たった今、言ってくれたではないか――」
甚太郎は、とんだ破目になったというように、うつむいて、膝に載せた、わが手の指をみつめるようにしたまま、頓には答えることも出来ない。
浪路は、あせりにあせって、
「それとも厭と、お言いか? 厭とおいやるなら、強いては頼まぬ――広いとて、江戸の中なら、わたし一人でも、よも、尋ねあたらぬことはあるまい」
きッと、睨めすえるようにして、言い放つ、浪路の目つきに触れると、甚太郎は、竦然と、肌が、粟立つのをすらおぼえるのだ――
――おお、何という恐ろしい、女子の執念であるのだろう? まことや、むかし、清姫は、蛇ともなり、口から炎を吐いて、日高川の荒波を渡ったとか――このお方を、このまま、すげなく突き放したならば、あられもなく、夜ふけの道を、さまよい出すに相違ない――お美しい目に、あの奇しい光り、これは、尋常のことではない。
「のう、甚太郎、どうしてくりゃるつもりじゃ? 厭なら、厭と言や――頼みはせぬぞえ」
柳眉は引き釣り、紅唇はゆがんで、生え際の毛が、ざわざわと逆立つようにさえおもわれるのだった。
――詮方ないことだ。では、今夜これから、せめて、もう一度、雪之丞どのをたずね、かくまで焦れあがいておいでの、ありさまなぞ打ち明け、足をはこんで貰うことにしよう。万一、雪之丞どのが拒みもしなば、そのときこそ、たとえ、腕ずくにてでも、ここまで連れてまいる外はない。
甚太郎は、雪之丞の、秘剣秘術を知る由もないゆえ、力立てをしても、浪路との逢瀬をつくってやらずばなるまいと思うのだった。
そこで、決心して――
「わかりました。では、今宵こそ、この甚太郎、雪之丞どのに、どうしてもお目にかかり、是非ともお供をしてまいるでござりましょう――どうぞ、あてにして、おまちなされて下さりませ」
が、浪路は、荒々しく頭を振った。
「いえいえ、それは、無駄なこと!」
と、彼女はいきどおろしげに、
「雪どのは、もはや、決して、わたしに逢うまいと、思い定めておいでに相違ない。それゆえ、そなたが、口を酸くして、すすめてくれようと、よも、ここまで、足を向けようといたすはずがない――わたしには、よくわかる――そなたが、心をつくしてくれようとの気持はかたじけないが、おなじことであれば、わたしを、案内してたも――わたしが、是非に逢う。逢うて、訊きたいことを、きっぱり聴かねばならぬ。さ、夜があまり更けぬうち、道しるべをしてたも」
彼女はそう言うと、千世を呼んで、鏡台を運ばせなぞするのであった。
この隠れ家に住むようになってから、勿論、髪も、衣類も、町家風俗、されば、夜あるきをしようとも、さらさら、だれの怪しみをも買わないであろう。
浪路は、上に似げない性急さで、髪をかきつけ、顔を直すと、立ち上って、
「さ、甚太郎、案内しや――大方山ノ宿と聴いた。そこまで出て、かごをやとわば、更けぬうちに着くであろう――千世、留守居を、ようしていやれ」
甚太郎もはや、思い止まらせることも出来ず、力なく、
「さらば、お供をば致しましょう」
ところが、隠れ家の、さびしい灯の下で、かかる場景が展開されつつあったとき、この、町並みからかけはなれた、隠宅むきの小家の、生け垣の外を、さきほどから、黒頭巾、黒羽織、茶じまの袴に雪駄穿きの、中年をすぎたようなからだつきの武家が一人、さっきから、足音をしのんで、ゆきつもどりつ、家内の容子を聴きすまそうとしていたのであった。
もとより暗い森かげ、人通りもないから、この武家のすがたに目をつけるものもなく、何の邪魔もなく、うかがいつづける事が出来たわけだ。
この黒衣の人物は何者だろう?
土部三斎と、長崎以来、これも深い欲得ずくの関係を結んでしまった、こないだ、広海屋火事の晩非業に倒れた浜川平之進と、相役をつとめて、賄賂不浄財を取り蓄め、今は隠居を願って、楽々と世を送っている、横山五助その人なのだった。
横山五助は、今でも土部家の言わば、相談役のようなことをつとめていたが、浪路の失踪以来、彼女の行方不明が公になったら、単に、三斎、駿河守の一身上の大問題となるばかりでなく、それがきっかけになって、昔の悪業が、天日の下に、曝し出されることになろうも知れぬという懸念から、どうあっても、彼女を探ね出し、穏便にすむうちに、大奥へ送りかえさねばならぬと、いみじくも決心している一人であった。
何分、この男、長崎代官所で幅を利かせていたころから、目から鼻へ抜ける才智と、ころんでも只は起きぬ狡獪さとで鳴らした人間だけあって、現在は、浮世ばなれた、暢気らしい日を送っていてもなかなかどうして、油断も隙もある男ではない。
これが、浪路の失踪の裏には、何としても、乳母一族が存在して力になっているに相違ない――さもなくば、世間知らずの彼女に、世にかくれつづけていられるはずがないと見て取ってしまっていたのだ。
一たん、そう思い込めば、たやすく、その考えを捨てる五助ではなかった。
――どうでも、乳母一家があやしい、三斎どのは、すっかり信じ切っておられる乳母や伜だが、その悪堅いところが、却って、わざをする。浪路どのに頼まれて、一たん、うけあった以上、死のうと生きようと、便宜をはかろうとするに相違ない。拙者は、あくまで、あの一家を、怪しく思う。拙者は、目を放すことではないぞ。じっとじっと、辛抱して、目をつけているうちには、彼等は、何かしッぽを出すに相違ない。そのときには、この拙者が、ぎゅッとその尾をつかんでやる。そして浪路どのの行方をつき止めてやる。
そうした横山五助が、黒覆面に顔をかくして、乳母の家のまわりを警戒していた折も折、今夜、甚太郎が、さも人の目をはばかるように出かけたのだからたまらない――彼の尾行は、とうとう成功してしまったのだった。
その横山五助、どうにかして、浪路の行方を突き止め、土部家へ戻そうとして、たった今まで、心を砕き、この小家をとうとう発見したのであったが、人間の慾念というものは、奇しいものだ。日ごろ、ずッと眠りとおしているのが、どんなきッかけから、呼びさまされて、急にムクムクと、頭をもたげて来るかわからない。
小家のまわりを、警戒しながら、ちらちらと、かすかに洩れて来る美しいこえを聴いているうちに――そして、甚太郎との物語が、なかなか尽きそうもないので、いらだたしい気持を押えかねているうちに、ふッと、
――浪路どの、どんな暮しをしているのか? 大奥で過していた身が、こんな乏しげな家で――
と、思って、裏手にまわって、閉め忘れたらしい小窓に、灯火がほんのりさしているのを見つけ、はしたなく、隙見をしたのが、因果だった。
怨じやつれた、美女が、恰度そのとき、おくれ毛もそのままに、雪之丞に対する熱い恋を、甚太郎に、掻きくどいているところだったのである。
その風情が、何とも言われず、艶で、仇めいて、横山五助、生れてはじめて接する魅惑的な光景であった。
彼の中年すぎの、汚らわしい情熱が、彼自身、思いも設けず掻き立てられた。
――なるほど、美しい! なまめかしい! 今までは、これほどの娘とは思わなかった!
ゾーッと、身ぶるいが通りすぎた。
そして、その刹那から、どうにかして、浪路に、ぐッと密接したい欲望が、ムラムラと湧き上ったのだ。
彼は、隙見をしながら、急に、口じゅうに、唾がたまるのを感じた。五体が、燃え上って来た。
――なあに、こうなって見りゃあ、拙者に近よれぬ浪路どのでもないのだ。
ギョロリと、目を光らせて、彼は、心につぶやいたが、当の浪路の瞳が、こちらに、ちらりと送られたような気がしたので、ハッとして、窓をはなれた。
彼は、たった今、もりもりと盛り上って来て、胸一ぱいに蔓りはじめた想念を、もっとハッキリ追って見ようとして、ふたたび、暗い小路に戻って、ゆきつもどりつしはじめた。
妻に死なれて、まる三年、異性からすっかり遠ざかっていた彼の煩悩は、暗がりの中で、ますます燃え上るばかりだった。
――あの娘は、案の定、あの女がたに迷って、そのために、公方の威光も、親の慈悲も、毛ほどにも思わず、家出をしたのだ。あの娘は、あの女がたに死ぬほど焦れているのだが、それが、何だ? 拙者が、一睨みすれば、鷲につかまれた、小雀ではないか? おどしに掛けさえすれば、どんな言葉でも、拙者のいうことなら、受け容れる外にあるまい――さもなくば、恋も、夢もそれまで、公方の許に帰ってゆく外にないのだから――
五助は、一度、胸の底にふすぶり立った、欲情の火を、大きくならぬうちに消してしまおうとは試みなかった。只、ひたむきに、その炎が、全身を焼くにまかせた。
――よし、どうしても、拙者、あの娘をあのままには置けぬ。これまでの浪路ではない。世の中に自分から投げ出しているあの娘だ。
そう独り言ちたとき、彼は立ちすくんだ。浪路のかくれ家の入口の戸が開く音がして、二ツの人影が、黒く、闇の中にあらわれたのだった。
隠れ家を出た二ツの人影は、いうまでもなく、浪路、甚太郎だ。
「この辺は何分、町すじからはなれておりますので、かごは、音羽の通りへ出ませんでは――」
と、甚太郎、
「ええ、何でもありませぬ。一里が二里、思い立ったら、歩けぬことはありますまい」
浪路は答える。
二人の足が向くのは、護国寺前通り――参詣の善男善女、僧坊の大衆を目あてに、にぎわしく立ち並んだ町家が、今は、盛り場の観をさえなして、会席、茶屋なぞが、軒を接しているのみではなく、小さいながら定小屋もあって、軽業、奇芸の見世物まで、夜も人足を吸い寄せているのであった。
横山五助、二人の会話を、小耳にはさむと、
――うむ、あの通りへ出られてしまっては!
と、呟いて、瞳に、暗いほのおをふすぼらせる。
と、同時に、狂おしい昂奮が、この中年武士の追蹤の足を早めさせた。
チャラチャラと、雪駄の裏金が、鳴るのをすら、ききはばからせない。
その足音に、ふりかえったのは甚太郎だ。まさか、五助が、ここまで跟けて来ているとは、思いもかけなかったろうが、闇の夜道なり、人家は途切れた野中なり、ハッと思った風で、道案内に、先きへ立っていたのが、浪路を囲うように、うしろへまわって、
「おいそぎ下すって――」
と、低く、不安気に囁く。
少しゆくと、まだ、腰高障子に灯かげが映っている、居酒屋のような小店があるのだ。
浪路も、小走りになる。
が、横山五助、もはや、情欲に前後の思慮を失しているのだから、殆ど、駆けるように近づいて、
「待ちなさい! これ、お待ちなさい!」
と、迫った調子で、喘ぐ。
甚太郎、聴き覚えのある声なので、足がすくんだ。
浪路失踪以来、何度か、母親と彼とを威迫すべく訪れた、横山五助だということは、次の刹那に、すぐに思い出せたのであろう。
浪路は、かまわず、走ろうとしたが、無駄だ――はっきりと、彼女の名を、呼びかけられてしまった。
「浪路どの! 拙者だ! おまちなさい!」
――おお、横山どのだ!
悪い人に、悪いところでと、くやまれたが、しかし、立ち止まらぬわけにはいかない。
チャラチャラと、近づいた横山五助、闇をすかして、二人を、睨め据えるようにしたが、
「甚太郎、貴さま、不届きな奴だな! よくも、拙者ども、また、お屋敷をあざむいたな!」
皺枯れた語韻で、まず、嚇しが来た。
「は――」
何とか、言いのがれようとして、甚太郎はどもった。
「お屋敷御高恩を忘れ、何たることだ! 浪路どのお留守のための御迷惑が、わからぬか!」
五助は、いかめしく言って、いつか、二人の行手をふさいでしまっていた。
甚太郎は、口をもがもがとやるだけだった。
だが、恐怖と困惑とに、茫然自失してしまった甚太郎に、横山五助はいつまでもかかり合ってはいなかった。
彼の、闇にきらめく、狂奮の瞳は、浪路に向けて、食い入るように注がれるのだ。
夜の深みにうなだれた、白い、萎れかかった花のような立すがたの――襟あしの、横がおの、何という悩ましさ、艶めかしさ――五助の魂は、おののかずにはいられぬ。
――めっきり美しさが増したわい。公方のおもいものであったときには、言わば、ただ綺麗な作り花にすぎなんだようにしか思われなかったが、今夜の、この仇っぽさ! 恋が、この女の美しさを、百倍にもしたのだ――それにしても、浅間しい、河原者風情のために、身を焦し、心を焼くとは!
浪路の胸が、五体が、雪之丞を慕う想いに、燃え立っているのだと思い知ると、五助は、嫉ましさを感じるよりも先に、激しい望みに渾身、この真冬に、熱汗に濡れただようばかりだ。
――河原者を慕う不所存な女子を、拙者がわが物にしたとて、何が不都合であろう! どうせ、汚れてしまっているか、遠からず汚れてしまうか、いずれかにきまっているのだ。
「浪路どの!」
と、いくらかもつれた舌で、五助が呼びかけて、
「が、そなたの気持が、まん更、わからぬ拙者でもござりませぬぞ、それにしても、なぜ、子供のときから、いわば伯父姪のようにも親しんで来た、拙者どもに、心の中を打ちあけては下さらなんだ――残念だ」
――何を、この方は、おいやるやら!
と、浪路は、今は魂が据って来て、心につぶやく。
――この方々こそ、父上にすすめて、自分達の栄華を遂げるために、ひとを、公方への、人身御供に上げたのではないか!
「いずれにせよ、そなたの御決心が、どのようなものか、密々、拙者うけたまわりたい、その上にて御相談にも乗りたく――」
五助は、そんなことを、出鱈目に言いながら、心の中では、さまざまな妄想を描いている。
――どうしたものか? 今宵、この女子を、これから、どこへ連れて行ったものか? 思いを果すに便利な家に、ともなって行かねばならない――その場所を、心の中で、探して見る。
――そうだ! 丸木の寮なら――あそこなら、どんなに、この女がわめこうと大丈夫――
連れて行く方法は、いくらでもあった。彼は、大刀を横たえているのだ。切っ先きを突きつけたら、何でもない――その寮というのは、廻船問屋の別荘で、大川端、浜町河岸の淋しいあたり――一方は川浪、三方は広やかな庭――丸木屋とは、長崎以来の、これも、深い因縁の仲だ。いかなる秘事も、洩れっこなし――
邪魔なのは、この伴れの甚太郎、ただ一人――何と、言いこしらえて、この者を突っぱなそうか、なにとか、よい思案は――
――待て、この場は追い払おうとも、この者、浪路がこよい限り又も行方を失うたら、持って生れた正直一途から、どのようなことを、土部家へ訴え出ぬとも限らぬ――かまえて、融通の利く男でない。はしッこい奴なら、利得で、手なずけることも出来るが――
五助は、こんな風に考えて、急に闇の中で恐ろしい表情になった。
ギラギラと、すさまじく、瞳をきらめかした、横山五助、にわかに棒立ちに突っ立って、唇を噛むと、上目を使うようにして、甚太郎をみつめたが、皺枯れた調子で、
「甚太郎、ちと話があるが、あの物蔭まで――」
顎で、指したあたりに、茅萱が小径の方へ、枯れながらなびいていた。
甚太郎は、
「へい」
と、腰をかがめる。
びくびくと、只、恐縮し切っていた彼、頼むようにいわれて、ホッとしたらしい。
「甚太郎に、ちと、命じることがあって、あれにて、談合いたしますが、お逃げになろうとしても無駄でござるぞ」
ジロリと、一瞥を、浪路に呉れて、先きに立つ五助。しおしおと、甚太郎が、ついて行く。
浪路は、何を、横山は、甚太郎に話し込もうとするのであろう? ――が、事実、逃げても駄目だ。男の足には、すぐに追いつかれる――それよりも、言うままに、待っていて、あとで、泣きついて見よう。あの男に、腹立たせてしまっては、大変だ――そんな風に思って、よんどころなしに、寒々と、肩をせばめてたたずむのだ。
こちらは、五助、どんより曇って、月もない、杜下径、茅萱のなびいた、蔭につれ込むと、小声になって、
「甚太郎――話と申すはな――」
正直な男、
「は、何でござりまするで――」
と、前屈みに、身を寄せた瞬間!
――シュッ!
と、いうような、かすかな音がしたのは、抜き討ちの一刀が、鞘ばしった響き――
――ピュウッ!
と、刃風が立って、ズーンと、この無辜の庶民の、肩さきから、大袈裟に、斬り裂いた。
「うーむ!」
と、いうような、定かならぬうめきが、聴えたようであったが、闇を掴むかの如く、犠牲者の両手が、伸びて、痙き攣ッて、やがて、全身を突っ張ったまま、ドタリと斜めうしろに仆れた。
血を浴びぬように、五助が、切ッ先の加減をして、突き仆したのだ。
「あーッ!」
浪路は、物蔭の、異様な気配に、ハッとして、つぎの刹那、思い当って、思わず叫んだ。そして、逃げようとして、膝がしらの力が失われて、よろよろと、その場に跪いてしまいそうになったとき、血刀を、提げたままの五助が、駈け寄って、左手で、抱き止めるようにした。
「おはなしなされて、お、は、なし――」
と、叫ぼうとするのを、
「お騒ぎでない。かの者、不忠、不所存きわまるによって、誅戮いたしたまででござる。そなたを、どういたそう? 何で、危害を加えましょう? ま、落ちつきなさい」
「お、は、な、し――」
浪路は、無宙に、身をもがいた。
無宙ではあったが、女性の本能が、彼女にある切羽つまったものを感じさせたのだ。彼女は、血刀を提げた男性の、腕の中に抱かれて、何もかも、奥深い秘密を察知したのだ。
「お、は、な、し――」
「これほど申すに――」
と、五助の声が、荒っぽく喘いだ。
横山五助が、心の中の暗い願望を、それと口に出さぬうち、早くも、感づいた浪路は、放して――放して――と、腕の中にもがいたが、相手は、いっかな放さぬ。
ますます、却って、抱き擁める手に、力がはいるばかり――
「なにも、そのように、怖ろしがるには及ばぬ――かやつを、斬って退けたのは、むしろ、浪路どのそなたのためじゃ。そなたがこころを持ち直し、貴い格式にもどられたとき、うるそう噂をいたそうはこの輩、それゆえ、斬ってつかわしたばかり――何で、拙者、そなたに危害を加えよう――それよりも――」
と、いいかけて、乾ついた咽喉を、咳ばらいをして、
「な、この五助、是非とも、そなたと、たった二人、人知れず、相談することがある――そなたの胸の中も、よううけたまわって、悪しいようにははからぬ。拙者の行くところまで、これから、同道してたもるであろうな?」
「は、はなして――」
と、浪路は、抱き締められながら、骨太な腕の圧迫や、毒々しい体熱のぬくもりに、言うばかりない嫌悪を感じて、相手の言葉が、耳にも入らず、悶えた。
「お放しなされて――わたしは、行かねばならぬところが――」
「は、は、は――例の、雪之丞とか申す、女がたの許へであろう――それもよかろう――親も、家も栄華も捨てて、それほどに思い込んだ男の許へ、決して、まいッてならぬとは申さぬ――が、まず、拙者の話を聴いてからになされたい。決して悪い話ではない。お為めになることだ」
「いいえ、わたくしは、是非とも、まいらなければ――」
「なりませぬと申すに!」
と、五助が、やわらかな肉体との接触に、毒血が沸き立ったように、
「浪路どの、子供だ子供だと思ううちにいつか、恋にも狂うようになられたを見ての、拙者、これまでのそなたと、考えられなくなった。――浪路どの、悪しゅうはせぬほどに――」
ああ、いとわしい、顎ひげが、少し伸びた顎が、窶れた頬に触れるのだ。
浪路は、わめこうとする――もはや、わが身の上を考えて、じっとしてはいられないのだ。
その口に、かかえた手の、手先を押し当てた五助――
「ええ! おしずまりなさい――どうしても、拙者の望みを叶えてもらわねばならぬ。ど、どうせ、河原者風情に、汚されてしまうみさおだ! 浪路どの、拙者、洒落に、物をいっているのではござらぬぞ」
――わ、う、う、う!
と、出ぬ声を出そうと、あせり切った浪路――
――おのれ、不所存な! 子供のころから、さも小父のようにも物をいいおりながら、畜生道に、堕ちたか、おのれ――
いつか帯の間をワナワナとふるえる手がさぐる。
帯の間には、肌身はなさぬまもり刀――その体温を宿した柄を、ぎゅっとつかみ締めると、もう一度、身をもだえて、
「う、う、う、おはなし――なさらぬと――」
「は、は、は、悪あがきは止めになされ。横山五助、やさしゅうして貰えば、あとでかならず恩がえしはいたしますぞ」
白く、やさしく、しかし、憤怒と嫌悪とにワナワナと震える手に、われを忘れて、短刀の柄を、つかみしめた浪路とも知らず、横山五助、なおも、しつッこく、顎ひげののびた頬を、擦りつけるようにしながら、
「のう、悪しゅうはせぬ――悪しゅうはせぬに依って、拙者にも、やさしい言葉をかけて下され――わるく、おあがきなら、止むを得ぬ――このまま、この場より、松枝町のお屋敷にお供するまでじゃ――な、お屋敷に戻られてしまえば、今度こそ、座敷牢。さもなくば、大奥へ、ふたたび、追いやられねばならぬおからだでござるぞ――な、そこを、ようわきまえて――拙者、くだくだしゅうは言わぬ。そなたが、これまでに大人になったとは、知らなんだ――」
抱きしめてはなさず、かきくどくのを、浪路は、振り放そうと、なおも身をもんで、やっと、口を押えた手から自由になると、
「横山さま! わたくし、どうしても、いそいでゆかねばならぬところが――いずれ、また、後の日に――」
「ふ、ふ、の、後の日に――とは、あまりな言葉――そなたは、その役者のもとへゆかば、今度こそもろ共に、かけ落ちもいたしてしまわれよう――いっかな、放せぬ! さあ、拙者とともに――騒がば、お屋敷へお供する外、ござらぬぞ!」
「では、どうあっても、おはなし下さらぬのでござりますか!」
浪路は、声まで、青ざめているようであった。
が、相手は、せせら笑って、
「放さぬとも! 放しませぬとも! さ、こうまいられ!」
引きずって行こうとした、その刹那、どう浪路の片手が動いたか、匕首の、鍔まで、心元を、ぐうッと突ッこまれた五助――
「わああ!」
と、わめいて、女を突きはなし、よろよろと、よろめいて、しばし怺えたが、急に、ガクリと膝を突いてしまった。
「う、う、う」
と、血刀を捨てた手で、胸を抱いて、
「わ、ああ! よくも――おのれ――」
どうにかして、立ち上って、飛びかかろうとするらしかったが、それが出来ない。
片手を、土に、もがき苦しんで、つづいて、ぐたりとつんのめッてしまった。
浪路は、血に染んだ懐剣をにぎりしめたまま、棒立ちに、見下ろしていた。
もはや、うめきも、ブツブツと、血が湧く音にまぎれてしまった。
闇は、血のいろを見せない。が、生ぐさい匂いが、プーンと、ただよいはじめた。
――わたしは、人を殺してしまった。
と、考えたが、悔いも起らぬ。
――けだもののような人――何という浅間しい――
当然だ――と、いう気持になっていたが、歯の根も合わず、ガチガチと、上下の顎が、打ッつかって、立っていられぬように、脚部が力を失った。
彼女は、血まみれの守り刀を、投げ捨てたかったけれど、指が、柄に食いついてしまってはなれない。
それを、指を一本一本折るようにして、やっと放して、藪の中に、投げ込んだが、突然、おそわれるような気持になって、バラバラと駆け出した。
いつか灯が消え、戸も閉った居酒屋の前を駆け抜けるころ、彼女の息ざしは、絶え絶えに喘いでいた。
横山五助の、最後のうめきが、まだ耳に残っている浪路、気も上擦って、闇の小径を、それぞ音羽の通りと思われる方角を指して、ひた駆けに駆けつづけたが、息ははずむ、動悸は高ぶる、脚のすじは、痙き攣ッて、今はもう、一あしも進めなくなるのを、やッとのことで、町家の並んだ、夜更けの巷路まで出ると、
――ウ、ウ、ウ、ワン、ワン!
と、突然、吠えついた犬――
人こそ殺したれ、かよわい女気の、小犬が怖さに、また、やぶけそうな心臓を、袂で押えて急いだが、小犬はどこまでもと、吠え慕って、やがて、それが、二匹になり、三匹になる。いずれも、寝しずまった、小家の軒下に眠っていたのが、仲間の小犬が――
――血くさいぞ! 怪しい奴だぞ!
と、わめくので、目をさまして、
――おお、いかにも血が匂う! 奇怪な女めだ!
――のがしてはならぬぞ! 吼えろ吼えろ、人間の役人とやらが、見つけるまで、吼えろ吼えろ。
とでも、いい合って、うるさく、まつわって来るものであろう。
浪路は、今は、髷の根も抜けた――後れ毛は、ほつれかかった。褄先が乱れて、穿いていたものも失くしてしまった。
犬どもならずとも、行き合うほどのもの、怪しみの目をらずにはいないであろう。
果して、かなたから、空かごをさし合って、どこぞで、一ぱいきこしめして、一ぱい機嫌らしいかごかきどもが、来かかったのが、
「おッ! 美女が、犬に追われているらしいぜ――」
と、先棒が、いって、足を止めると、
「なに、美女が犬に――おッ、なるほど――犬だって、美女は好きだあな」
と、答えて、
「おい、ねえさん、駆けちゃあ駄目だ、逃げちゃあ駄目だ! どこまでも追っかける。先棒、犬を散らしてやろうぜ」
空かごを投げ出して、後棒が、息杖をふりかざして、飛んで来て、
「しッ! しッ! 畜生! なぐるぞ! ぶち殺すぞ!」
と、三、四匹の、野良犬を追ッぱらって、立ちすくんだ浪路に目をつけて、
「ところで、ねえさん、この夜更けに、おひろいじゃあ、犬も跟きやすぜ――どこまでか知れねえがおやすくめえりやしょう、おのんなせえな」
と、言うところを、先棒も近づいて、
「犬を散らして上げた御礼というのじゃあねえが、どうだ、安く、御乗んなすって――」
「まあ、穿ものもなにもねえじゃあありませんか――」
と、後棒。
「へ、へ、へ、この夜更けに、夫婦喧嘩と出なすって、飛び出して来やしたのかい? 犬も食わねえというに、あいつ等あ、馬鹿に食い意地の張った犬どもと見える――へ、へ、へ、どっちみち、お里へなり、いろ男のところへなり、おいでになるところでげしょう――へ、へ、へ、そのなりで、夜みちを歩いたら、自身番が、只はとおしゃせんぜ――へ、へ、へ――おのんなすって」
浪路も、いくらか気がしずまると、どうせ指してゆく、浅草山ノ宿とかまで、歩いて行けるものでもないと思った。
「はい、のせて、貰いましょう」
「おい、ねえさんが、乗ってくださるとよ」
と、先棒、
「どちらまででござんすね?」
垂れを下ろそうとしながら訊く。
「浅草、山ノ宿とやらまで――」
「へえ――」
先棒が、にやりと笑ったが、
「とやらまで――だとよ、さあ、いそごうぜ」
顎をしゃくったが、その顎の長さ――この寒気に、尻ッ切れ半纒一枚、二の腕から、胸から、太股一めん、青黒い渦のようなものが見えるのは、定めて雲竜の文身でもしているらしく、白目がぎょろついている男だ。
うなずいて、
「どれ、その、とやらまで――一ッ走りか?」
肩を入れた後棒は、ほり物は無いが、頬ッぺたに、傷のあとのある、異様な面相。
二人は、もう二度と目と目を見かわす必要もなく、お互に、これから先の行動を、以心伝心、のみこみ合ってしまったのだ。
まさか、たった今、人を殺して来た娘と知れば盗んで逃げようともしなかったであろうが、何分にも、人も寝しずまった真夜中、夜目にも、白い花が咲き出したような、しかも、それが、取りみだし切ッているうつくしいすがたを見たので、持って生れた棒組根性、このままには、見のがせぬと思ったらしい。
何分にも、浪路も、重なる不仕合せ、このかごが、町かごで、提灯にちゃんと店の名でもはいっていたのならよかったが、仕事がえりに、一ぱいやった上りの、内藤新宿の雲助ども、街道すじでも、相当に悪い名を売った奴等につかまったのが因果だ。
この一挺のかご、走りは走りだしたものの、先棒の趾先は、いつまでも、浅草の方角を指してはいないのだ。東南に、急ぐべきを、あべこべに、西北へ、
――ホラショ!
――ホイヨ!
と、走りつづける。
どこをどう駈け抜けたか、淋しい組屋敷がつづいている、牛込のとッぱずれのだらだら坂を、とうにすぎて、ここは、星かげも鄙びている抜弁天に近い田圃中――一軒家があって、不思議にも、赤茶けたあんどんに、お泊り宿――
お泊り宿は名ばかり、小ばくちの宿をやったり、兇状持、お尋ね者なぞの、隠れ家になったりしている、お目こぼれの悪の巣で、お三婆という、新宿の、やり手上りの侘住居だ。
そのいぶせき軒下に、かごが、とんと下りて、
「おまちどおさん」
後棒、先棒、ぎょろりとした目を見交して、冷たく笑った。
パラリと、上げた垂れ――のぞき見た浪路が――
「ここは?」
「ここは、山ノ宿――」
「では、この辺に、大坂下り雪どのの――中村座の雪之丞どのの宿があらばと――たずねてたも――」
浪路が、一生懸命な調子でいう。
「ナニ、雪之丞の? へえ、あの名うて艶事師の? いえ、なに、これが恰度、その、雪之丞さんの、宿屋でごぜえますよ。へ、へ、へ」
先棒が、つかんだ手拭で、ちょいと、額を拭くようにして答えた。
「出なせえよ、ねえさん、さあ、ここが山ノ宿、たずねるお人のお宿――」
と、一人がいって、垂れの中の、白い顔をのぞき込んでいるうちに、後棒が、どんどんと、お三が宿の、入口の雨戸を叩いて、
「ばあさん、お客さまだ――早いとこ、あけてくれ」
ドン、ドン、ドン――と、手ひどいひびきに、中から、まだ、寝ついてはいなかったらしく、
「おい、今あけるッたら、荒っぽくされちゃあ、曝れた戸に、ひびがはいってしまわあな!」
と、皺枯れた調子。
ゴトリとあいて、
「おや、丑さんだね?」
「うむ、それから、為だ」
「おそいね?」
と、のぞき出した半白半黒、それをおばこに結ったのが、ばらばらに乱れて、細長く萎びた、疎ら歯の婆さん――その顔が提灯の灯に、おぼろに照されて、ばけ物じみている。
「して、お客ッてえのは?」
「さあ、ねえさん、出なせえったら――」
と、後棒――さては、悪い雲助に、かどわかされた――と今更、思い知った浪路、逃れるにも逃れるすべもなく、かごの中に、小さく身をそぼめ、しっかと、細い手で、枠につかまっている、その白い手を、つかもうとして、
「さあ、こんな寒いところにいねえで、うちの中へおはいんなせえよ――な、わるいようにはしねえんだ――ねえさん――出なせえよ」
「後棒、何を、やにッこいことをいっているんだ!」
と、先棒が、これに手荒く、ズカズカと寄って来て、
「これ、娘、出ろッたら出るんだ! 夜よ中、町中を、気ちげえ見てえななりで、ほっつきあるいているから、折角、ここまで連れて来てやったんじゃあねえか? あッたけえ、火の側に寄せてやろうというんじゃあねえか? 出ろ! 山ノ宿も、糞もあるものか?」
後棒が、猫撫で声で、
「さあ、兄貴が、あんなにおこるじゃあねえか――騒いで見たってここは、こんな田ん圃中、どうなるもんだ。痛え目を見るだけよ――な、出なせえ――さあ、出してやるぜ」
「あれ――」
と、かじかまるのを、肩から襟へ、ゴツゴツした手で、抱きすくめて、引きずり出して、
「これ、あばれるな! 脛が出らあな! 白いもの、赤いもの、ちらちらするなあ、おれ達にゃあ目の毒だ」
「ふ、ふ、ふ、ふ」
と、婆さん、疎らな歯を、剥き出して笑って、
「丑さん、為さんと来ちゃあ、すごいね。おお、おお、いいお子だこと――美しいこと――婆は、六十何年生きたけれど、こんな美しいむすめの子を、見たことがござんせんよ。ひ、ひ、ひ、さあ、どうぞ、お娘御、おはいり――火も、熾っている――お茶もある――こんなあばらやへ、ようこそ――ひ、ひ、ひ」
浪路は、もだえ狂ったが、何分にも、さっき、あれ程の惑乱のあとで、身も萎え萎えと、今は、抵抗の力もない。
引きずりこまれてしまった、赤茶けた畳の、見るもいぶせき一軒家の中。
ことによったら、返り血さえ浴びたまままだ干かず、血しおの匂いも移っていよう、殺人の美女を行灯の灯かげに近く眺めながら、髪の艶やかさ、頬の白さ、まつ毛の長さ、居くずれたすがたのしおらしさに、目を奪われ、魂を盗まれた、二人の破落戸、一人の慾婆、そうした秘密を嗅ぎ分けることも、見わけることも出来ず、めいめいの煩悩、慾念に、涎も流さんばかりの浅間しさだ。
「何だねえ、丑さんも、為さんも、こんなおうつくしい女をさっきのような、野太い声で、おどかしたりしてさ」
と、お三婆さんは、妙にねばっこい調子で、気褄を取るようにいって、
「なあに、お前さん、この人達は、見かけこそ荒っぽいが、気立はなかなかやさしい方でね――ひ、ひ、ひ、やさしいというよりのろい方でね、ひ、ひ、ひ」
「のろいッて――人を!」
と、丑が、苦ッぽく笑って、
「婆さん、べらべらしゃべっていずと、一本つけな」
「あいよ、わかったよ、ねえさんだって、寒いわな。熱いところを、早速つけるがね。それにしてもまあ、こんなお子を、どこから拾って来たのだね」
「なあに、犬に吼えられていたのさ」
と、為が、
「はだしで、髷をくずして、夜みちで、犬に吼えられているのを見ちゃあ、日ごろの侠気で捨てちゃあ置けねえ」
「ひ、ひ、ひ、いつものおとこ気でね――結構な性分、さぞ、後生がいいこったろうね――まあ、何と言っても、ここへつれて来てくれたのは、結構なことだ。ねえさんも安心だし、あたしもうれしいし――どっこいさ。早速、熱いお銚子をね――」
立ち上って、台どころで、ガタガタはじめる婆。
乳母が、かくれて棲むにいいように、町家風俗をさせた浪路、ちょいと見には、町むすめとしか思われないが、丑が、顔をかくした袂をつかんで、
「これ、おむす、いい加減に観念しねえか!」
と、引っぱりよせようとするのを振り切って、
「放しゃ! 下郎!」
と、いったその調子は、たしかに、彼等をおどろかせたに相違なかった。
「ナニ、放しゃ! 下郎――だって!」
と、わが耳をうたがうように、丑は叫んだが、あッ気にとられたような顔をした為と、思わず顔を見合せて、
「こいつ、何をいやがるんだ!」
「兄貴」
と、為の目には、絶望のいろがうかんで、がっかりしたように、
「こいつあ、見そこなったぜ、気ちげえだぜ! え、兄貴!」
「なるほど、さっき、役者の名をしきりと言っていやがったが、芝居ぐるいから、ほんものの、気ちげえになっているのか――」
と、丑も、思いちがえて、そんなことをつぶやいて、うなずいたが、妙な笑いで、すさまじく顔を歪めて、
「気ちげえだって、為、いいじゃあねえか――てめえ、気ちげえをいろにでも持って、手を焼いたことでもあるのか?」
「馬鹿いえ」
「そんなら、おたげえには、七十五日生きのびるって初物だぜ。けえって、おもしれえや」
「そりゃあ、そうだとも、気ちげえだって普通の女だって、恋に狂えば紙一重――どうせ、おら達だって、食い酔や、気ちげえだでなあ――へ、へ、へ」
と、相棒も、いやしく笑って、
「気ちげえの、普賢菩薩なら、正気のすべたと、比べものにゃあならねえ。ふ、ふ、ふ。こいつあ馬鹿におもしろくなったぞ。ねえさん、さあ、炉の榾火に、おあたんなせえと言ったら――」
と、しつッこく手を取るのを、又も、引ッぱずして、浪路は、
「無礼もの! 退れと言うたら!」
つと、立ち上るのを、引きすえるあらくれ男たち、
「へ、へ、へ、おひいさま、まあ、そう、お腹を立てねえで――」
「ええ、かしましい! わが身を何と思う――」
ぐっと、二人を睨めすえた瞳は、呪いといかりとに、どす赤くいぶる。
が、もし、この目の光りが語る真の意味を、読み取るものがあったとすれば、慄然として、肌えに粟を生ぜずにはいられなかったであろう。
二人の雲助は、最初から、狂女と思いあやまってしまっているのだが、今、この刹那、浪路はたしかに正気を失ってしまっているのだ。正気の女性が、かくもすさまじく、かくも乱らがわしい瞳の色を見せるはずがないのである。
「そちたちも、わが身の手にかけて貰いたいかや! あの、憎らしい横山のように――」
彼女のうめきの怖ろしさ!
だが、あぶれものたちは、世にもまれな美女の色香に、酔い悶えて、言葉をはっきり聴きとることもしない。
「ひ、ひ、ひ――手にかけてくれるとおっしゃるのかね! こいつあたまらねえ――早く、手にかけて貰れえてえ――ひ、ひ、ひ、こいつあたまらねえ――」
と、為がしなだれかかろうとしたとき、婆さんが、燗酒を、自分も傾けながら、
「まあ、そんなに荒っぽくしなさんな――ねえさんは、上ずっているだけだあね――落ち着けば、正気になるかもしれねえ――」
と、制して、
「それより、もっと、ぐんぐんお飲りよ、楽しみは、ゆっくりあとにした方がたのしみだ。どうせあとで売物、壊しちゃあ駄目だ」
「いいや、そんなにしちゃあいられねえ――なあ、為」
と、丑――こやつ、欲情に目が据って来ている。
「そうともそうとも。婆さん、おめえ、只、飲んでいりゃあいいんだ。さあねえさん、あっちへいこう」
為と丑、相手がもがけばとて、叫ぼうとて、ためろう奴ではない――二人、左右から取りついて、腕をつかみ、胸を抱き、
「放せ! 無礼もの!」
と、叶わぬ身に、身悶える浪路を、奥の方へ、引きずって行こうとするその折だった。
二人が、浪路をかついで潜ろうとする、汚れ切ったのれんのかなたで、
「やかましい! 蛆むしめら!」
と、ドス太い声。
「何だ、わりゃあ!」
と、丑が目を剥く。
婆さんが、立ひざで、
「坊さん、わるいところで、目を醒したね」
否もうと、叫ぼうと、手とり足とり、木賃宿の奥の一間の暗がりに、美しき浪路をかつぎ入れようと、荒立って、のれん口へかかった、丑、為の雲助、突如として、鼻の先で、野太い声が、そうきめつけたので、少なからずたじろいだが、利かぬ気の丑、
「おッ! どいつだ! どいつが、ひとの咎め立てなんぞしやがるんだ!」
「わしじゃ! わしが訊いているのだ」
と、ぬッと突き出された、いが栗あたま――眉太く、どんぐり目、口大きく、肩幅は、為、丑二人を合せても敵うまい――六尺ゆたかの大坊主――素布子の、襟のはだかったところから、胸毛がザワザワと伸びたの迄が見える。
「う、うぬたあ、何だ!」
と、為が、たじろいで叫んだとき、気早の拳固を突き出して、
「どけ! 糞坊主、この界隈で、知らねえもののねえ、おれ達のすることに、ケチをつけやがると、腰ッ骨を叩き折るぞ! おれさまたちのなさること、九拝三拝、数珠をつまぐって、拝見していろ」
「ふ、ふ、ふ、ふ」
と、坊主は、大きな鼻の孔から、暴しのような息を吐き出したが、それが微笑なのだ。
「大した勢いだの? だが、兄いたち、まあ、夜よ中の、じたばたさわぎだけは止めて貰おうかい。何をしてもおらあ知らねえ――が、野ッ原もねえじゃなし、おれの寝ている部屋へ連れこまれちゃあこまるんだ。わかったか」
「何を!」
どんなものにも、したいことを妨げられるのが、一世一代の誇りを傷つけられるかのように思い込んで、いのち懸けになるのが、雲助、がえんの根性だ。
「この野郎――」
浪路を、為にあずけて、撲ってかかったが、振り上げたこぶしがとどかぬうち、手首を逆につかまれて、
「あ、い、て、て、て!」
「どうだ――かかるか――こう、雲助、この腕は、こうやりゃあ、おッぺしょれてしまうぞ!」
「い、て、て、て!」
と、丑はおめいたが、あやまりはせず、
「為、助けねえか――この坊主、叩き斬ッてしめえ――」
「よし、承知の助だ!」
ぐったりと、気を失ってしまっている浪路を、投げ出すように下に置くと、為、きょろきょろ見まわしたが、台所にはしり込んで、何か光るものをつかんで飛んでかえって、
「坊主!」
と、振りかぶったのが、出刃庖丁――だが、駄目だ。
大坊主は、丑のからだを楯にして、為の方へ突きつけるように、
「ふ、ふ、ふ、この友だちが斬りてえか――さあ、斬って見せろ! これ、斬って見せねえか! おい、雲! 斬れッたら、こいつを斬れ! 斬らねえと、貴さまの素ッ首を引き抜くぞ!」
あべこべに、為は脅かされて、振り上げた出刃庖丁の下しようもない。
そのありさまを冷たく笑って、欠け歯をむき出して、茶碗ざけを、ぐびりぐびりやっていたお三婆――ニヤリとして、
「これ、島抜けの! 許しておやりよ、そいつらは、それでなかなか気のいいやっこさん達なんだよ――丑さん、為さん、あやまっておしまいよ。不向きな相手だ」
――島抜けの――
と、お三婆は、呼びかけた。
では、今、のれん口からあらわれて、雲助二人を突きのけ、ひねり仆した、この巨大漢、いがぐり坊主――鉄心庵の、淋しい夜ふけ、闇太郎から預かった、女賊お初にたぶらかされ、盛りつぶされて取りにがした、かの、法印であるに相違ないのだ。
そうだ――まぎれもなく、これぞ、島抜け法印だった。いまさらおのが愚かさ、淫らさのために打ち負かされたことを恥じ、もがいて、どうしても屹度、おのが手に、お初を生きながら取りもどし、闇太郎の前に引きずってゆかねばと、誓いの手紙をのこし、姿をかくした彼の、その後の成行きこそ、あわれと言えば哀れだった。
お初どもの巣という巣、立ちまわり先という立ちまわり先、あまさず、姿をやつして探ね廻って見ているが、彼女の消息は絶えて聴えぬ。
何でも、川向うの荒れ寺で、何かたくらんでいるところを、役向きに乗りこまれ、すんでに危うかったとは聴き知ったが、勿論素早いお初、まんまと捕ものの網の目を潜って、行方知れず――
これだけのことを探り出したのが、あれから今日までの、やっと、収穫だ。
闇太郎は、相変らず、浅草田圃に、象牙を彫っているようだ。一、二度、そっとのぞいて見たが、さすがに声もかけそびれて、戻ってしまった。
して、今夜、さまよいの果てが、お三婆の宿の近くまで来たので、一夜のやどりを求めて、はからず、寝耳をさまされたこの始末なのだ。
「ねえ、法印、そッとして置いてやっておくれよ。折角二人して、いい玉を、わたくしのところへ連れて来てくれたのだからさ」
お三婆に、重ねていわれて、法印、ちょいと、仕置きの手をためらったところを、さては、この坊主、婆さんに、何か弱い尻でもあって、手出しが出来ないものとでも見まちがったか、丑――
「何の、この坊主、邪魔立てひろげやがって――」
と、わめくと、振りはらって、歯をかんで、又も、打ちかかってゆく。
為も、しがみついた。
「あれさ! 家の中であばれちゃあ、戸障子が、こわれるじゃあないか!」
と、お三婆は、立ちさわぎかけたが、その心配には及ばなかった。
「は、は、虫けらめ!」
と、法印、ニヤリとしたと思うと、左右から、撲りかかる二人の雲助の、耳たぶを両手で、ぐっとつかんだと思うと、
――ガツン!
と、思い切った、鉢合せ――
目から火が出たような気がしたが、脳髄がジーンと、打ち割れもしたように覚えて、そのまま、二人とも、グタリと、つぶれてしまった。
「死んだかい?」
と、眉をひそめるお三婆。
「なあに、死にあしねえよ――が、どこまでも、性懲りのねえ奴等だ――」
島抜け法印は、そう呟くと、面倒そうに、二人の雲助の帯際をつかんで、左右にひッさげて、のッしのッしと、出口まで歩いて、
「婆さん、戸をあけてくれ」
お三が、おずおずあけた戸のあわいから、――ズーン! とほうり出して、唾を吐きとばした。
「おととい、来い」
美しい娘を、折角連れ込んで来てくれた、言わば、福の神のようにも思われる、丑、為、二人を、島抜け法印、襟髪つかんでほうり出すのを見たとき、お三婆は、物すごい目つきをした。
彼女みずから膂力があれば、法印のうしろからむしゃぶりついて肩先にも噛みつきたいと思ったようであったが、案外、雲助どもが、手足が利かず、たちまち敗亡して、
「い、てて! 畜生! くそ坊主! 覚えていろ!」
「やい! 今度あったら、生かしちゃあ、置かねえぞ!」
と、わめきながら、軒下に捨ててあったかごを拾って、いのちからがら逃げ去ったのを見ると、急に、阿諛追従のわらいで、薄気味わるく、歯の抜けた口ばたをゆがめるのだった。
「え、へ、へ、へ――まあ、法印さん、おまはんの強さというもなあ、うわさに聴いていたようなものじゃあないね――何とも、おどろき入りましたよ。あの、丑、為ときちゃあ、内藤新宿でも、狂犬のようにいやがられている連中、それを、何とまあ、二人一度に征討して、外へほッぽり出してしまったのだから、おまはんの、底ぢからは、程が知れないね――ところで、法印さん――」
と、茶碗を突きつけて、
「ま、息つぎに、一ぱいいかが?」
こやつ昔はいずれ、宿場でも叩いた上りか、年にも似合わぬ色ッぽい声でいって、銚子を取り上げる。
法印は突ッ立ったまま、手を振った。
「おらあ、酒はのまねえよ」
「えッ! おまえさんが、お酒を呑まぬ? まあ、ほ、ほ、ほ――法印、桝からでなくては、呑まぬのかい?」
「いや、やめたんだ?」
と、モゾリと答える。
「おまえが、お酒をやめたッて!」
と、心から、びっくりした顔。
「ほんとうだよ、正真とも!」
と、法印は、いくらか力無げに、
「おらあ、酒を呑みゃあ、きッと、やりそくなう――いや、もう、大した間違えをやらかしたんだ。それで、般若湯はおことわりにしたのよ。だから、呑まねえ」
「へえ、そりゃあ又――」
と、お三婆は、持った銚子で、自分の杯に充して、
「じゃあ、あたしは手酌でいただくがね――それはそれとして、法印さん、このお三婆のことは、あの奴等をあつかうようにはなさるまいね?」
「あの奴等をあつかうようにとは?」
「丑や、為は、屋外へ、うっちゃられたが?」
「だって、あいつ等あ、雲助じゃあねえか? おめえは、この宿屋の主人だ――どうして、おれが、あんなことをするはずがあるものか?」
「まあ、うれしい!」
と、お三、とん狂な調子で、叫んで、
「それでこそ、さすが立派なお人だというものだよ。悪党も、大きくなりゃあ、仁義を知らなけりゃあね――」
「悪党?」
「わるかったかね?」
と、婆は、ますます、薄気味わるく笑って、
「なあ、いろいろ相談がある――すわっておくんなさいよ。ねえ、法印さん――あたしだって、こんなときには、なかなかいい智恵が出るのだよ」
「お酒を、やめておしまいになったというなら、法印さん――何か甘いもので、お茶でもいれましょうね――まあ、お坐んなさいったらさ」
婆さんは、くりかえした。
「うむ、だが、あの娘御を、あのまま、ころがして置いたのでは――」
と、島抜け法印、ぐったりと、のれん口にうつぶしのままに仆れている、砕かれた花のような浪路の方をかえりみた。
「いいえ、大丈夫でございますよ、この婆あが、おあずかりした以上はね――」
と、お三は、また、疎らな歯を剥き出して、ニタリとしたが、手早く、火鉢の熾火をかき立てて、
「さあ、お湯も沸ちますから、坐っておくんなさいよ――御相談があるんだからさ」
坊主は、坐った。
お三婆は、ぐっと、顔を突き出すようにして、
「ねえ、法印さん、この婆さんを、忘れちゃあいけませんよ――なるほど、あの雲助たちが、かつぎ込んで来て、おッぱらわれたには、相違ないが、この宿の家の中での出来ごとなのだからね――それだけは、忘れずにおくんなさいよ」
「何をいっておるのやら、わしには、よくわからぬが――」
と、モゾリと、法印がいう。
「まあ、莨でも上って――ソラ、お茶もはいりました」
婆さん、皺びた両手で、茶と、煙管をすすめて、じっと、みつめて、
「おまえさん、とぼけたり、はぐらかしたり、しッこなしにしておくれよ」
「別に、はぐらかしも、とぼけもしやあしねえ――」
法印、煙草はことわって、ガブリと茶を呑んで、
「何を考えているのだね? 婆さんは?」
「ひ、ひ、ひ、ひ」
と、例の笑いを、笑った老婆、
「いかにおまえさんが、御法体の、上人さまでも、こんな宝を、折角手に入れて、そのままになさるはずがないと思うのですがね――お前さんだって、島抜けの何のとまで綽名を持った、お人じゃものな――ひ、ひ、ひ、ひ」
「ふうむ、この女子のことを、いっていなさるのかな?」
と、法印、浪路に目を送る。
「そうともさ、あの女子のことさ――」
と、婆さんは、酒くさい息を吐いて、
「あれほどの宝を、見す見す、手もふれず置く法もあるまいがね」
「なあに、わしは、あの女子から、家ところを訊きただして、連れ戻ってやるつもりなだけよ」
と、法印が手短に答える。
「何ですって! 坊さん! あの女を、連れ戻してしまうんですって?」
婆さんは、噛みつくように、
「へえ、そりゃあ、おまはんの気持も読めないわけではないさ。見たところ、豪家の一人むすめッて風俗さ――連れて行ってやりゃあ、まあ、包み金にはありつくだろうが、それでこのあたしはどうなるんですえ?」
濁った目を見すえて、
「このお三は、どうなるんですよう?」
「いや、わしは、礼物を、あてにしているわけではない――ゆきがかりゆえ、面倒見てやろうと思うばかり――」
お三婆は、どうしても、法印の本心がわからぬというように、
「ねえ、島抜けの――まさか、おまはん、本気で、うちへ連れてもどすの何のといっているのではあるまいね――若し、そんな後生気を出したのなら、大馬鹿ものだ」
「どうしてな?」
「どうしてといって、おまはんは、自分が、ソレ、天下のお訊ね者ではないか――娘がいなくなった、どこへ行った、大変だ――と、わめき立てているところへ、この女を連れて、のっそりと、あらわれて見なさいよ。町内の岡ッ引き、目明し、待っていた――で、お礼を頂戴するどころか、お縄を頂戴してしまいますよ。それよりもサ、まあ、今夜は、落ちついて、あたしと二人で、前祝いを一ぱいやッて、明日になったら、この婆さんにおまかせなさい――屹度、うまく、この玉の始末をして、しばらくぶりで、光ったものの山わけが出来るようにしますから――さあ、断ったお酒でもあろうが、約束かために一ぱい――」
「いいや、婆さん、おれは、本気でこの娘をとどけてやる気なんだよ。雲助の手から奪い上げて、自分のふところをぬくめようとするような、そんな半ちくな悪事は、これまでして来たことのねえおれなのだ」
「おや、大そう、意気なことをおっしゃるねえ」
と、婆さんは、唇を食いそらした。
「それじゃあ、おまえさんは、どうあっても、この娘を、この家から攫っていこうというのかい?」
「攫うも攫わねえも、大たい、婆さんと何のかかわりもねえこった」
「ふうん、えらそうに――ようし、覚えておいで――」
どこまで、図太いお三婆だか、そういうと、つと、立ち上ったが、裏戸に行って、水口の雨戸を開けようとする。
ガタガタやっているうしろから、法印が、
「婆さん、何をはじめたのだ?」
「勝手にさせておくれ。あたしはつい、そこまで行って、島抜けの法印さんというえらいお方が泊っているということを、知らせたい人があるのだから――」
「ほう、岡ッ引きへな! は、は、じゃあ、何だな、婆さん、このおれが後生気が出ているようだから、おどしにかけても、いのちを取るようなことはねえ――と、高をくくったのだな! ふ、ふ、ふ、いうまでもなく、いのちも取らねえ、なぐりもしねえ――だが、おれは、思い立ったことは何でも行るのだ。そして、邪魔になるものがありゃあ、それを取ッぱらうんだ!」
と、言いさま、ぐっと、婆さんの肩をつかむ。
「あれ! 何をするのさ! 手を出すかい!」
「手も足も出しゃあしねえ――ちょいとの間、じっとしていて貰えばいいのだ」
「およしよ! あれ! どろぼうだよう!」
と、叫び立てるのも、一さいかまわず、ぐっと引き寄せると、腰の手拭を取って荒々しく猿ぐつわ。
「手荒くしたくはねえが、婆さんがさわぐから――あとで、自由になれたら、訴えるもよし、訴人もよしだ。まあ、しばらく、じっとしていて貰えてえ」
両手両足を、くくし上げて、大戸棚の中にころがし込んで、両手を塵を払うように叩いて、
「わからねえ婆さんだ。息が苦しいだろうによ」
お三婆を、ぐるぐる巻きの猿ぐつわ、押入れに、突き込んでしまった島抜け法印、耳をかたむけるようにしたが、
「まず、これで、ねずみの外には人の邪魔立てするものもない」
と、つぶやいて、のれん口の、赤茶けた畳の上に、ぐったりと、手足を伸べ、裾を乱して、気絶している浪路に近づくと、行灯を引き寄せて、じっとのぞき込んで、口に出して、
「ほうほう、これは、うつくしい――あでやかだ、落ちのこった髪飾り、途方もない上ものだ。こんな女の子がよる夜中、江戸の裏町をあるいていれば、今の雲助ならずとも、そのまま黙って通そうとは思われぬ。不用心不用心――とかく、つつしむべきは、色の道――南無阿弥陀仏――」
と、殊勝げに言って見て、
「それにしても、早う呼び生け、また、あぶれ者が、取って返さぬうち、無事に家まで送り届けてやらねばならぬ」
近づいて、抱きおこそうとするが、その手つきは、まるで、砕けやすい陶物か、散りかけた花をでも取り上げようとするかのように、あぶなげだ。
――これ、うっかり触って、細い骨でも折るまいぞ。
と、自分にいいきかせているように、何度かためらったが、やっとのことで、抱き上げて、膝の上に、ぐたりともたれかかる、仰向きの美女の、鳩尾に、荒くれた太い指を、ソッと当てたようだった。
その、ソッと当てたと思った手の力が、相手に、どれほどひびいたか、
「う、うッ!」
と、うめいて、身をもだえるようにして、目が、薄く開く。
「お女中! 気がついたかな?」
すぐ、鼻の先きに、突き出されている、大きな大きな鬚ッ面――
娘は、何と見たであろう! 見る見る大きくいたが、二度目のおどろきに、又しても、気を失ってしまいそうだ。
「これ! びっくりしちゃあいけねえよ、おれが、たすけてやったのだ。雲すけも、お三婆も、おれが征討してやったのだ。これ、お女中、水なぞ飲むか? 安心しなせえ、おらあ、こんな荒くれ坊主だが、悪いこたあしねえよ――」
島抜け法印、一生懸命だ。
「おらあ、おめえさんを呼び生けてやったのだ。安心しねえよ――決して、わるいようにはしねえのだ――さあ、けえるうちはどこだ? また悪者が来ねえうち、届けてやる――行きてえところはどこなのだ? 早よういわッし! お女中!」
この法印の、一心の深切、やっとのことで通じたか、浪路は、いくらかわれに帰った風で、相手の抱きしめから自由になろうとする。
「おお、坐りてえか? 坐んなせえ、大丈夫かな」
浪路を、畳に下ろして、のぞき込んで、
「さあ出かけよう――歩けねえなら、おれがしょって行ってやる――どこへ行きてえのか? ここにいちゃあ、ためにならねえ――」
「あの方のところへ――雪どののところへ――山ノ宿――」
と、かすかに浪路が、いったがまだ、気が乱れていると見えて、フラフラと立ち上って、
「あれ、放しゃ! 汚らわしい!」
「仕方がねえな――」
と、法印、困じ果ててつぶやいて、
「兎に角、その山ノ宿へ送ってやろう」
ここは、浅草山ノ宿、雪之丞が宿の一間、冬の夜を、火桶をかこんで、美しい女がたと、ひそひそと物語っているのは、堅気一方、職人にしても、じみすぎる位の扮装をした象牙彫師の闇太郎――
「どッち道、いよいよ、枝葉の方は、おのずと枯れて来たわけだね」
と、闇太郎が、いっている。
「浜川の奴は、抜きも合わしねえで、何ものとも知れぬものに、殺されたというので、これは、土部の一味が、骨を折ったにも拘らず、多分、伜まで、取りつぶしになるだろうという事さ。いかにのん気な老中以下の役人どもとて、大凡、浜川たちのして来たことに、気がついているらしく、これを機会に、絶家させるのだろうといっているがね――」
「それにしても、広海屋が焼けている最中、塀を越して忍び込んだ、浜川殺しの当の長崎屋――一たい、どうしてしまったのでござんしょうね?」
と、雪之丞、気にかかるように、伏目になる。
「そいつが、おめえに頼まれてから、手を代え品を代え、探って見ているのだが、どうにも、見当がつかねえのさ」
と、小首をかしげるようにした大賊。
「おお方、おれのかんげえじゃあ、広海屋の悪だくみで、火の中に投げ込まれたか、それとも、ひょッとしたら、河岸から舟に載せられて、海へ突き流されたか――たった一ツ、生き残っているとすれば、倉庫に閉じこめられているものか? この方も、そのうちにゃあ、調べ上げてしまうがね――」
「どうぞ、お願いいたします」
と、雪之丞は会釈したが、
「それにしても、おっしゃるとおり、だんだん枝葉が枯れてゆきませば、大根を絶つのも難くはないと思いますれど――一がいに、根をねらい、末々を討つことかなわねば、これまでの苦心もと存じ、怺えている苦しさも、長いものでござりました」
「おお、これで残っているのは、武家で土部をのぞけば、横山ばかり」
と、闇太郎が、口をはさむ。
この二人、その横山五助、時も今夜、あの恋に狂った浪路のために、一息に殺されてしまったとは知る由もない。
「それもおッつけ――」
と、雪之丞、含笑ったが、その笑いが凄い。
「だが、やっぱし、油断がならぬのは、あのお初の奴と、門倉平馬だ――お初は、おめえが、今でも諦め切れねえから、感づいている大望についちゃあ、平馬にも洩らしてはいめえが、でも、あいつ、おめえを殺すか恋を叶えるか、二つに一つと、思いつめているんだから、油断はならねえ」
雪之丞は、白い顔を伏せる。
彼は、因果を感ぜざるを得ぬ――敵の娘の浪路の、いのちかけての狂恋――おたずねものの女賊の必死の恋――いずれも、あわれはあわれだが、どうにもならぬ成行きだ。
と、屋外で、深夜、暁闇のしずけさを破って、
――ドン、ドン、ドン、ドン!
と、旅宿の雨戸が鳴る。
ハッと、身を起し、耳をすました闇太郎、みじん、油断のならぬ身の上だ。
――ドン、ドン、ドン、ドン!
「何だ? 今時分?」
大賊は、囁いて、階下の容子に耳をそばだてた。
立ち上って、階下をのぞき下ろすように、耳をかたむけた闇太郎――
「何だって! 妙なことを言っているようだぞ」
と、つぶやいた。
つぶやいたも道理――まだ、起き出さぬ家人を、目ざまそうと、
――ドン、ドン、ドン、ドン――
無遠慮に雨戸を打ち叩きながら、太いこえが、呼ばわっているのだ。
「このおうちに、大坂役者が、泊ってはいないかな! 大坂役者、雪之丞――」
闇太郎は、振り返って、
「何かと思ったら、おめえをたずねて来たものがあるらしいぞ――おめえの名を言っているが――」
「いまごろ、何人が?」
「そら、言っているだろう――聴くがいい」
外のこえは、つづいている――
「大坂役者の雪之丞どの、用のあるものが来たのだ――」
「おッ! なるほど、たしかに、わたしに――」
と、雪之丞の、美しい眉がひそむ。
「待っていなせえ。おれが、のぞいて来てやろう」
深夜の、雨戸の音――もしや、自分をいつ何どき襲って来るかもわからぬ、怖ろしい敵の手が、迫ったのではないかと、渡世柄、ハッと、心を引きしめたらしい闇太郎、そうでないとわかると、すぐに階下へ出て、やがて、はしごを表口の方へ下りて行った容子だ。
寝入りばなの家人は、まだ、起き出さぬらしい。
雪之丞も、おのずと、聴き耳が立つ。
階下のこえ、闇太郎が出て行ったので、低くなったので、ハッキリとしなくなったが、気になるので、雪之丞、はしごの下り口まで出て行った。
すると、屋外の、太いこえが――
「――でね、どうあっても、その、雪之丞という人に、今夜中にあわなけりゃあ、生きるの、死ぬのと、いうわけなので、おいらあ、ただ親切で、ここまでつれて来たのだが――」
「で、その女子という人のお名前は、おところは?」
と、闇太郎、すっかり職人になって、丁寧な口をきいている。
「そいつがわからねえんでね――実あ、おれの方も、途方に暮れていますのさ」
と、屋外。
闇太郎が、嗤うように、
「困りますねえ――そんな方を、よるよ中引ッぱッておいでなすっちゃあ――こちらは、役者渡世、そんなお人にかかわり合っていては、夜の目もろくろく合えませんよ。へい」
「何だって! じゃあ、おいらが、そのかわいそうな女子を、連れて来たのが、迷惑だっていうのかね!」
「まあ、そんなものでございます」
闇太郎が、こんなに言うのも、冗談沙汰ではないので――雪之丞にも、お初という、今は大敵のようなものがいる。その方から、どんないたずらを、仕掛けて来ないともわからないのだ。
屋外の声は怒った。
「何だと! 迷惑だと! 人でなし! てめえが、かわいそうな女のすがたを一目見たら――おい、てめえ、当人か、番頭か!」
と、わめくと、闇太郎、そのとき、
「おや、おめえの声にゃあ、聴きおぼえがあるようだが――」
――たしかに聴き覚えのある声だ――
と、闇太郎が、思わず、そうつぶやいたとき、戸外の相手も、ギクリとしたもののように叫んだ。
「ああ、そういやあ、おまえさんの声にも、覚えがあるが――」
「誰だ? 名乗れ」
「おッ!」
と、外の男は、わめいた。
「こいつあいけねえ! おまはんは!」
逃げ足が立った容子!
闇太郎もハッキリと、今こそ思い出して、ガラリと、遠慮なく、雨戸をあけると飛び出して、
「おめえは、法印! 何で逃げる――」
島抜け法印、まるで思いも懸けぬところで闇太郎に再会したので、尻尾をつかまえられている相手――怖い相手――お初を捕え得ぬうちは、顔の合わせられぬ相手――逃げようとして、足が動かず、立ちすくみになってしまったところを、闇太郎の、すばやい手が、グッと、腕をつかんだ。
「何で逃げる――法印!」
「親、親分、許しておくんなせえ!」
と、法印、白い息を吹き散らして、しどろもどろだ。
「貴さまあ、何だな、法印、あの女ッ子の――お初の奴の手引きをして、不細工に、夜よなか、この宿屋まで、引ッぱって来やがったのだな?」
と、闇太郎の声は刺すようだ。
「あの女、手をかえ、品をかえやがって、さもしおらしい娘ッ子が、恋に狂って飛び込んで来たもののように装いやがったのだな! 馬鹿め!」
「冗、冗談じゃあねえ――親分――おらあ、あれから、あの女ッ子の行方をさがして、どうにかしておめえに詫びが入れてえと、夜の目も寝ずに、寒い寒い江戸の町を、それも、このおれが、大ッぴらにゃああるけねえおれが、ほッつきまわっている気持を知ってくれたら、おめえは、そんなにまで、いわねえだろうに――親分、そりゃあ、全く、思いちげえだ」
と、島抜け法印、泣かんばかりのオロオロ声だ。
「いいや、そんな泣きごとで、胡魔化そうとしたって駄目だ――思いもかけねえこの宿屋に、ちっとは骨のあるこの俺が居合せたんで胆を抜かれて、いい加減な出たら目で、人をだまそうとしやがるんだ――法印、悪どすぎるから俺の方でもゆるさねえぞ!」
「い、ち、ち――」
と、法印の盤台づらが、闇の中で歪むのだった。
「そんなに、腕をつかまねえでも、逃げやあしねえ、ゆるめてくれ――」
「弱虫め! ちっとも力なんぞ入れてやしねえ――その弱虫が、何でまた、あんな女ッ子とグルになって、おいらほどのものに煮湯を呑ませようとしやがったのだ! して、連れて来た、お初は、どこにいるんだ?」
「お初じゃあねえよ――親分――お初なんかじゃあねえのだ――ふとしたことから、雲助に、ひでえ目に逢っている娘を助けて見ると、そいつが、この辺の宿屋に泊っている、上方下りの雪之丞という、役者に惚れて、何でも、気が狂っているらしいのよ。あんまり可哀そうだし、けえる家もねえようなので、よんどころなく軒別に、宿屋を叩いて、その雪之丞を探しているんだ。お初なんかじゃあありゃあしねえよ」
法印は、一生懸命にしゃべり立てた。
思わぬところで、顔と顔とを見合せた、闇太郎と島抜け法印、宿屋の軒下の暗がりに、声はいくらか潜めながらも性急な、隙のない会話のやりとりだ。
「ふうむ、役者をたずねて、雲助にかどわかされた、あわれな娘をたすけたというのは、なかなか後生気が出たものだが、一てえ、その娘の身許は、何ものなのだ?」
「そいつが、何しろすっかり気が昂ぶって、取り止めもねえことばかりいっているので――大した高慢な口を利くだけで、わけがわからねえ――」
と、法印は、しょげて、
「何でも、舞台を見て気がふれた、芝居気ちげえに相違ねえ――人にさんざ苦労をかけながら、早う雪どのの、ありかを探してたも――早う逢わせや――と、来るんだよ」
「へええ――」
と、闇太郎は、笑いそうになったが、急に何を思い当ったのか、六かしげに眉を寄せて、
「して、その娘は、どこにいるんだ」
「あすこの横町にかごを置いて、おれが方々、宿屋を叩いているわけさ」
「どれ、一目、その娘をのぞいてやろう」
「親分がか?」
「うむ、まん更心当りがねえでもねえのよ。まあ、逢って見ねえことにゃあ――」
闇太郎は、三斎隠居のまなむすめ、大奥で飛ぶ鳥を落すといわれた浪路が、すがたをかくしてしまったことを知っている――その失踪の原因についても、雪之丞から打ち明けられている。
彼としては、恋に狂い、恋に生き、恋に死のうとして、一身を牲にしてはばからぬ、その浪路という娘の、激しい執着の心根を、あわれなものに思わぬことはなかったのだ。
同時に、どこまでも雪之丞が、彼女の愛を、払いのけて行かねばならぬ、胸の中をも察して、思いやりの腕組を、何度したかわからぬのだった。
――若し、法印が、救った、高慢な口を利くむすめが、浪路とやらであったなら!
その時には、どうしたものか、まだ、咄嗟の場合、闇太郎にも決心はついていない。しかし、このまま知らぬかおで、突ッぱなすこともならない気がした。
「親分が、肩いれをしてくれるとなりゃあ、おいらあ、安心だ――大船へ乗った気になれる――さあ来て下せえ――あすこの軒下にいるのだから――」
法印は、闇太郎の、手を取らんばかりにして、物蔭につれてゆく。
かごが一挺――
法印が、近づいて、バラリと垂れを投げるように上げると、その中に、ぐったりとうつむいていた砕けかけた花のような、白い顔が、ハッとしたように、急に上って、
「お! 雪どののありか、わかったかや!」
「これだ、親分」
「うむ」
闇太郎は、のぞいて見て、つと離れると、
「法印、この娘にゃあ、おれがちょいとゆかりがあるんだ――あとで判る――一時、このおれに、あずけてくれ」
「えッ! 親分に、ゆかりのある女! これがか?」
と、法印は、呆気に取られた。
「うむ、まかせてくれ――なるほど、あわれな身の上の女なんだ」
闇太郎はもう一度、かごの中をのぞき込んだ。
「お娘御、お前さんのたずねる人は、あっしが、よく知っていますがね、今のところ、ちょいと、逢ってはならねえことになっています――そりゃあ、芝居をのぞけば、何でもねえのだが、お前さんも、人に顔を見られちゃあいけねえからだだろう――屹度、このあっしが、一度は逢わせて上げますから、今夜だけ、辛抱しちゃあおくんなさるめえか? ねえ、お娘御? 何分、夜更けだし――」
浪路は、かごの中から、強い目つきで、闇太郎をみつめたが、大分、気が落ちついて来ているようだった。
「そなたのいやる言葉は、うそのないひびきがあるように思われます――屹度、うけ合ってたもるのう――でも、あまり長う待ってはいられぬような――何となく、もういのちの火がつきかけて来てしまっているように思われてならぬゆえ――」
と、それこそ、消えがての、ともしびよりも果敢なげな風情でいった。
闇太郎は、わざと、笑って見せて、
「冗談いっちゃあいけませんよ。その若さで、いのちの火が消えるのなんのと――そんな、馬鹿なことを――」
と、いって、
「じゃあ、法印、このお人を、一あし先きに、おれのうちへ連れて行っておいちゃあくれめえか――おれの細工場へよ――」
「あい、じゃあ、田圃へ、連れて行くが、おまはん、すぐに、あとから来るかね?」
と、法印は、かよわい女一人をあずかっているのが、心許なげだ――見かけによらぬ気の弱い奴。
「行くとも、すぐ、用をすまして行く。お娘御、狭くッて、きたねえが、あッしのうちで、ゆっくり手足をのべて、おいでなせえ」
かごの垂れを下げて、
「法印、そんなら、人目に立たねえように、たのんだぜ」
「あいよ」
淋しい、提灯の灯火を見せて、遠のいて行くかごを見送って、闇太郎暗然として呟いた。
――おれにゃあ、どうも、あの娘ッ子は、憎めねえ気がしてならねえ、妙なめぐり合わせで、わが産みの親を、かたきと思うものとも知らず、いのちがけで惚れてしまった、あの子に、何のとががあろう――あわれな女だ。どうにかして、たった一夜でも、みょうとにしてやりてえが、それもならぬか――浮き世だなあ――
闇太郎に言わせれば、彼自身もほんの行きずりの邂逅が縁となって、こんなにまで打ち込まねばならなくなった雪之丞だ――まして浪路は、夢多き一少婦、身分も、境涯も、この恋のために忘れてしまったのも無理からぬことと思われ、そして同情の念を起さずにはいられないのであろう。
宿屋に戻って行くと、二階の雨戸が、細目に開けられていたのがピタリとしまった。
――太夫も、気がついていたらしいな。
二階へ上って、雪之丞の、白い顔と合うと、
「何ともどうも、あわれな人と逢って来たぜ」
「御面倒ばかりかけまして――」
と、雪之丞も暗くいった。
「いいや、そんなこたあどうでも――だが、どうも、こう見えておれという奴は、気が弱くっていけねえのよ。は、は、は」
笑いにまぎらして、闇太郎が、
「鬼の目に、涙ッて奴なんだろうな」
二人は顔を見合せるのを怖れるように見えた。
「まあ、仕方がねえや――不運だなあ、あの女一人に限ったことじゃあねえんだ――だがなあ、雪さん」
と、闇太郎は、思い込んだような調子で、
「お前のからだがあいたあとで、たった一度でも、ゆっくり逢ってやってはくれるだろうなあ――それだけは、約束して置いてもれえてえのだが――」
「おたがいに、いのちがありましたなら――」
と、雪之丞は、かすかに言った。
彼の魂としても、感じ易く、わななき易い――そして、これまで、押え押えて来て、一ぺんも、激しく攪き立てられたことがないにもせよ、青春の、熱い血しおは、心臓に漲っているのだ。
――あのお人は、境涯のためにどんなに汚されているにしても、わるい方ではなかった。わたしを思ってくれるこころに、まじり気はなかった。
雪之丞の、胸も淋しい。
闇太郎は、急に、語調を、ガラリと変えた。
「は、は、は、とんだ幕が、一幕はさまってしまった。それじゃあ、又、あいましょうぜ。もう、風は、得手だ。潮は、一ぺえに充ちている――思い切って、帆をあげて、突っぱしりなせえよ。蔭ながら、じっとみつめているぜ」
「ありがとう。今度こそ、立派に大詰めまで叩き込んでつとめて御覧に入れましょう」
と、雪之丞も、強いたほほえみで答えた。
すんなりと、送って出た雪之丞を、あとにのこして、闇太郎、さも律儀な職人らしく、寒夜に、肩をすくめるようにして、出て行った。
部屋に戻ると、一間はなれた部屋の、菊之丞の、皺枯れた咽喉が軽く咳くのがきこえて、ポンと、灰ふきの音――
「おや、お師匠さま、お目がさめてでござりますか?」
「おお、たった今、醒めたところ――」
と、しずかに答えて、
「何やら、人が見えたようであったな――あの牙彫りの親方のほかに――」
ハッと、赧くなって、雪之丞――
「はい――」
「まず、これへ、はいるがいい」
かすかにき捨ての、香の匂うたしなみのいい、師匠の寝間にはいると、菊之丞、紫の滝縞の丹前を、ふわりと羽織って、床の上に坐っていたが、
「たずねて来たのは、女子衆の使でもあったようだが――」
絶えず、愛弟子の上に、心をくばる、老芸人の心耳に狂いはない。
「は――はい」
と、雪之丞はうなだれて、
「不仕合せなお人が、たずねてまいったように見えましたが――」
「わしはな、何も、そなたの胸に、やさしい波がうごいたとて、それを、責めるのではありませぬぞ――が、女子のことが出れば、わしは、そなたの母御の、かなしい御最期のものがたりを、思い出さずにはいられないのじゃ。そなたの母御が、松浦屋どの御零落に際して、あの土部三斎どののために、どのような虐げをうけられて、御自害をなされたか――」
菊之丞の声は、掠れた。が、彼は語らねばなるまい――愛弟子の魂に、僅かでも弱まりがあらわれたのを見た瞬間には――
思いがけぬとき、菊之丞が語り出した、なつかしい母親の、長崎表での、悲惨な最期の物語――
その限りもなく、暗く、いたましい追憶を、今更、思いださせようと強いるのは、浪路の身の上があまりに哀れに、かなしく、それゆえ、彼女に対するおもいやりから、ほんの少しでも、雪之丞の復讐心に、弛緩が来てはならぬとの、懸念からであるには相違なかった。
しかし、母親の死に方は、あまりに怖ろしかった。
「のう、わしが、事あたらしゅう、いうまでもないことじゃが――」
と、老いたる師匠は、煙管を捨てて、
「悪党ばらの、甘言奸謀の牲となった、松浦屋どのの、御不運のはじめが、密輸出入の露見――それと見ると、あの人々は、これまで、おだて上げ、唆り立てていたのとうら腹に、おのが身の、身じん幕をまたたく間につけ、父御にのみ、罪を被せたばかりか、お取調べの間の御入牢中をいい機会に日ごろから、そなたの母御の容色に、目をつけていた、土部三斎――浪路どのの父御が、そなたの母御を屋敷に招いて、さまざまうまいことを並べた末、操を任せなば、父御の罪科を、何ともいいこしらえて、のがれ得させようとの強面――そのときの、母御のおくるしみ、お歎きは、いかばかりであったろうぞ! 三斎の意をうけた同類が、どのように、母御をおびやかし、おどかしつづけたかも、思うてもあまりがある――とうとう、長崎一の縹緻よし、港随一の貞女とうたわれていた母御は、あたら、まだ成女ざかりを、われとわが身を殺してしまわれたのじゃ――な、雪之丞、それを忘れはいたされまいな?」
「は――い――」
と、雪之丞は、とろけた鉛が、五臓六腑を、焼きただらせるばかりの苦しみを、じっと押し怺えながら、
「おぼえておりまする――母親の、あのむごたらしい死にざまを、子供ごころに、ただ怖ろしゅうながめました晩のことは、ありありと胸にうかびまする」
「そうであろ、いかに頑是ないころであったにいたせ、生みの母御の、知死期の苦しみを、ひしと身にこたえなかったはずがない――かの三斎どのこそ、父御を陥れたのみではなく、母御を手にかけたも同然のお人じゃ――」
と、菊之丞は、きびしく言ったが、ふと太い息をして、
「とは申すものの、あの浪路どのに、何の罪もないのは、わしとても、よう知っている。あわれは、あわれじゃ――が、これが、宿業――因果――と、申すもの。せめて、敵討ちを遂げる日までは、かの人の父親を、仇と思うそなただということを知らせずにすませるのが情でもあろうが――」
そう言った菊之丞、自分も、限りない淋しさ、はかなさに打たれたものか、
「いや、はなしが、沈んで来た。そなたも眠うないならば、その棚に、御贔屓よりいただいた、保命酒がありました。あれなぞ、汲みかわして、しばし語り合おうぞえ。幸い、芝居も休みであれば――」
雪之丞、涙をおさえて、茶棚からとり下ろす、酒罎、杯――
――いよいよ大事の迫った今日お師匠さまと、こうしてお杯をいただくも、これが限りになろうとも知れぬ。
甘い、とろりとした杯をしずかに傾けながら、言葉少なく語り明していると、ふと、階下で、又しても、荒々しく、戸を叩く音。
深更、暁明、二度目の、音ないの響きに、今度は、宿屋の、不寝番も、うたたねから目を醒されたのであろう――
臆病窓があく音がして、何か小さい、囁きがしたが、やがて階段を上って来る足音――
「おお、どうやら、そなたのところへ、また人らしいが――」
と、雪之丞を見て、いった、菊之丞のこえを耳にしたか、若い衆が、
「若親方、起きておいでですか?」
「はい。起きておりますが――」
と、雪之丞が答えると、障子の外で、
「浅草田圃から、急の用で来たという方が、お見えで――」
もう、来訪者は、何人か、二人にはわかった。
「ここでも、いいだろう」
と、菊之丞が言った。
「では、どうぞ、これへ――」
雪之丞の言葉に立ち去る若い衆――すぐに、入口の戸が開いて、上って来たのが、廊下で、
「若親方、わしだが――」
闇太郎の声だ。
雪之丞が、障子をあけて迎え入れる。
闇太郎と菊之丞――名乗り合ったことはないが、以心伝心、雪之丞を中心にしてもうとうに、其の底まで読み合っている。
「親方、御免なせえ」
と暁明の客は、菊之丞に、ちょいと、頭を下げると、
「雪さん、あの人は、いのちが覚束ねえ――」
と、ひと言。
「えッ! いのちが!」
と、さすがに、美しい女形の面上に、驚きのいろがうかぶ。
「うむ、いままで、張り詰めていた気持の糸が、もうやり切れなくなって、切れかけちまったようにおれにゃあ見えるのだが――」
闇太郎は、低い、すごい調子で、
「なにしろ、人一人、あの人は、今夜殺して来ているのだ」
菊之丞も、息を詰めた。
雪之丞は、
「ま! 人を――」
と、叫びかけて、声を呑む。
「うむ、あれから、田圃のうちへ連れて行って、無理に、横にならせると、すぐに、大熱で、うわ言だ――そのうわ言が、只の台詞じゃあねえ――」
と、闇太郎は、いつもの快活さをすっかり失くして、
「途切れ途切れに言うのを聴くと、あの人は、隠れ家を、横山五助に見つかって、つけ廻され、うるさくいい寄られるので、カッとなり、突き殺して来たらしいのだ。そういわれて、気がつくと、右の袖裏、襦袢の袖に、真黒な血しぶきのあとがある――たしかに、横山を手にかけて来たものにちげえねえのさ」
雪之丞の頬は、紙よりも青ざめた。彼には頓には返事も出来ぬ。
何という、怖ろしい輪廻だろう――彼が自分みずから手を下さぬのに、若し闇太郎の言葉が真実とすれば、二人の仇敵は、すでに他人の刃でいのちを落してしまったのだ。
長崎屋に刺された浜川。
浪路に突き殺された横山。
――そなたの怨念が、人に乗りうつッての仕業なのだ。
と、老師匠の、じっとみつめる目が、言っているように思われた。
人間、怨執のきわまるところ、わが手を下さずして、おのずと、仇敵を亡ぼすことすら出来るという、この怖ろしい実例を、さまざまと耳にして、雪之丞はもとより、師匠菊之丞、肌えに粟を生じ、髪の毛も逆立つ思いで、見えざる加護者に対して手を合せないわけにはいかない。
雪之丞は、さも、こころよげな、亡き父、亡き母の、乾いた笑いが、修羅の炎の中から聴えて来るような気がして、涙が流れて来た。
「あッしも、全くびっくりしやしたよ」
と、闇太郎は、菊之丞を眺めて、
「まあ、あのやさしい細い手で、横山五助のような荒武者を、一突きで、突き殺せるたあ、だれにだって、思いもよらねえこッてすからな」
「うむ、なにごとも、み旨でござりましょう」
と、菊之丞が、うなだれていう。
と、闇太郎が、語調をかえて、
「で、そんなわけだから、どうも、あの娘のいのちが、おいらにゃあ、気になってならねえのさ。人間、とても及びもつかねえことを仕遂げると、そのあとじゃあ、命脈がつづかねえこともある――な、だからよ、雪さん、ちょいとでいい、あの人の枕元にすわって、さぞ辛かったろうなあ――と、たったひと言、言ってやった方が、いいだろうと思うんだが――」
雪之丞も、かあいそうだ、あわれだ、このままに捨て殺しには出来ない気がする――けれども、彼は、師匠から、つい、今し方、言われたばかりだ。心弱くては、この復讐の大事を成し遂げられぬであろうことを――そして、まだ、まだ、大敵は、残っているのだ――土部三斎は、立派に栄えをつづけているのだ。
返事をしかねていると、師匠が、襦袢の袖口を、そッと目にやったが、
「そういうわけなら、雪之丞、行って見て来てやるがいいと思うが――」
「は、では、まいッても――」
「うむ、浪路どのとやらは、あまりに可哀そうだ――わしもな、長い浮世を見て来たが、こんなに涙が出たことはこれまで覚えがない――」
「お師匠さんのお許しが出たら、雪さん、すぐに行ってやってくんなよ――そりゃあ、よろこぶぜ。あの人にゃあ、この世で、おめえだけしか用がねえんだ――おめえが顔せえ見せてやりゃあ、よろこんで、地獄へでも、血の池へでも、下りて行くだろうよ」
闇太郎は、もう、膝を立てて、
「支度も何もいらねえ、そのままで――かごは、拾って来た」
「では、お師匠さま、行ってまいりまする」
と、雪之丞は、手をつかえて、愁然と立ち上がる。
門口から、すぐに、かごに乗る、雪之丞、かごに引き添って、片褄を、ぐっとはしょって、走りだす、闇太郎、
「おい、若い衆たち、いそぐんだぜ。生き死にの病人が待っているんだ!」
「合点だ!」
またたく間に、山ノ宿から走せつけた、田圃の小家――
かごが着くと、肩をすくめるように、出迎えた法印――
闇太郎、いつになく囁くように、
「どうだ、病人は?」
しお垂れ切った顔をして、出迎えた法印を眺めて、闇太郎が、
「ど、どうした? 病人は?」
「それが、だんだん、もう、高い声も出さなくなってしまったんだ――おらあ、いつ息でも引き取るかと、一人で、心ぺえで、おっかなくってならなかったよ」
「おっかねえッて! 何をいってやがるんだ――さあ、雪さん、お上り」
男手で、それでも、温かい臥床に、横にしてやった、浪路、髷も、鬢も、崩れに崩れて、蝋のように、透きとおるばかり、血の気を失い、灯かげに背いて、目をつぶっていたが、どうやら、なるほどもう、死相を呈してしまったらしく、げっそりと、頬も顎も削けていた。
「なあ、かわいそうじゃねえか――公方さまの、寵姫とも言われたひとがよ――」
闇太郎は歎息した。
雪之丞は、そう言われると、まるで、手を下さずに、このひとを殺して行くような気がして、何とも言えぬ罪科を感じないではいられぬのだ。
「でも、この人は、言っているんだぜ。おめえに逢って、ほんとうの色恋ッてものを知ったのだからかなしいけれど、満足だって――もう、命脈が、たえかけていることもちゃあんと知っていなさるんだ――さあ、雪さん、何とか、言ってやんねえな――医者を呼ぶより、薬より、それが一ばんだ――生きけえるものなら、おめえの一声で生きけえる――なあ、何とか言ってやれよ!」
闇太郎しきりに気をもんでいる。
雪之丞は、背けたかおを、のぞき込むようにして、
「浪路さま! 浪路さま! わたくしでござりますぞ! 浪路さま!」
それこそ、このまま、灰白く、凍って行ってしまいそうにも見えた、まぶたが、かすかに動いた。ある痙攣のようなものが、窶れ果てた美女の口元をただよって、そして、やっとのことで、いくらか目が開けられた。
雪之丞は、顔を近々と、迫ったこえで、
「浪路さま! 浪さま! 雪之丞で、ござりますぞ! おわかりになって下さりませ!」
「いいえ」
と、いうように、彼女は、死色を呈しながら、かぶりをふるようにした――出来るなら、近づけられた顔を、遠のけたがっているようである。
「どうなされたのでござります! しっかりなされませ」
かぼそい、聴えるか聴えない程のこえで、生気を失いつくした美女はいった。
「わたくしは、人殺し――どうぞ側におよりにならずに――」
闇太郎も、法印も、むこうを向くようにして、拳固で、目を引っこすっていた――苦労を積んだ男たちだから、恋に狂い、恋に死ぬおんなの、世にもあわれな気持は十分にわかるに相違なかった。
「わたくしに、寄らずに――ね――」
雪之丞は、浪路の、細い細い手くびをにぎった――
「いいえ、このお手で、人を殺しなされたとて、わたくしが何でいといましょう――それもこれも、わたくしが、おさせ申したことですもの――」
「じゃ――人殺しでも、いいと、お言やるのか?」
やっとの努力で、彼女はいっていくらか微笑のようなものを、土気いろの唇にうかべるのであった。
「あなたが、どんなことをなされましても、何で、わたくしが、さげすんだり、厭ったりいたしましょう」
握らせた手を、じっと握り締める力もなく、ただ、精一ぱい、思い一ぱい、瞳をさだめて、みつめていたいという、努力だけが、関の山のように思われる、浪路を、雪之丞は、わッと泣いてやりたい気持を、無理に押し怺えて、やさしく見返してやるのだった。
「ねえ、浪路さま、しっかりあそばして、快くなって下されませ――な、その中に、屹度、楽しい日もまいりましょうほどに――」
彼は、こうした言葉が、とてもこの世ではかなわぬ夢を語っているのだとしか思われない。そしていつわりを口にせねばならぬ自分を、責めずにはいられぬ。けれども、彼自身の魂の奥底を、そのとき流れている真情に嘘はないのだった。
――そうだ! 来世で、わしたちは仏合せになれるかも知れぬ――未来というものがあるならば、そして、父さまも、母さまも、先きの世では、このひとと、したしくすることを、許してくださりもしよう。
「雪――雪どの――」
浪路の口元が、そう動いて、凹んだ目には、涙が一ぱいにあふれかけていた。
「わたしは、早う、失せとうてならぬ――死んでしまえば、魂とやらのみのこるという――そうしたら、いつもいつもそなたと一緒にいられるほどに――」
そう言ってしまうと、もう、精魂もつき果ててしまったように、彼女は、目をつぶった――涙が、見栄もなく、目尻から流れて、雪之丞の手先をやっと握っていた指が、異様に痙攣しはじめた。
「あッ! いけねえ」
と、法印が、あわてたようにいった。
「医者を! どこからか! 医者を見つけて来なければ――」
立ちさわごうとするのを、闇太郎が、低く、沈痛に制した。
「止せ――」
「だって――」
「止せってことよ! このひとのいのちは、太夫に呼びもどすことが出来なけりゃあ、誰にだって、呼び返すことは出来ねえのだ――」
彼は、涙が頬を洗うにまかせていた。
「それに、なあ、この世ってもなあ、だれに取っても、そんなに無理に、生きのびることもねえものじゃあねえか――生き伸びたって、苦しいばかりよ――な、法印、そうじゃあねえか――」
「うむ、そう言やあ、そうだな?」
と、島抜けが、うめくように呟いて、うなずいた。
「かあいそうなお人なんだ――だから、たった今だけでも、しずかに、やすやすと眠らせて上げてえと、おらあ、思うのだよ」
そうだ――闇太郎こそ、この権門に生れて、父兄の欲望の餌となり、うわべだけの華麗さに充たされながら、煩わしく、暗く、かなしい半生を送らねばならなかった美少婦の、真実の心の悩みを知っていたのであった。
彼は、安息しようとするものの眠りを、妨げるのを恐れるように、うつむいて、じっと膝の上をみつめてしまった。
雪之丞は、衰えゆく女の手を握り締めてやっていた――細ッそりした、やさしい手先が、だんだんに、冷えてゆくようであった。
どこかで、もう、三番鶏が、孤独そうに、時を告げていた。
かぼそいからだと、細い神経で、あらゆる苦難を急激に経験し、人、一人をすら手に殺けて、今は活力を失いつくさねばならなくなった浪路は、恋人に、指先を握られたままで、最後の断末魔と戦うかのように、荒々しい息ざしを洩らすのだったが、やがて、その、呼吸すら、だんだんにしずかになってゆくのであった。
島抜けの法印は、くわしく、浪路の身の上を知らないに相違なかったが、いわば、因縁のあさからぬものがあるにはあったのだろう――なぜなら、この荒法師の、心やりがあったればこそ、たとい、最期の際にしろ、彼女は、雪之丞に、一目だけでも逢うことが出来、その抱擁の中に、いのちを落せたのだった。
だからこそ、彼の、どんぐり目からも、滝のように、荒々しい涙がたぎり落ちた。
闇太郎は、唇を噛みしめていた。うつむけた顔は、一めんに、湿れて、熱いものが、あとからあとから、きちんと並べて坐った膝の上に、ぼとりぼとりと落ちつづけた。
雪之丞が、叫んだ。
「浪路さま!」
そして、声を落して、
「浪さま――これ、今一度、お返事を――」
だが、返事はなかった。しずかに、燃えつきた、美しい、細い灯光のようにも、彼女のいのちの火は、燃えつきてしまったのだ。
闇太郎が涙を、邪慳に、振り落すようにして、
「いけねえか? 駄目か?」
雪之丞は、顔をそむけるようにして、うなずいた。
法印が、立って行って、茶碗に水を汲んで来た。
「さあ、口をしめしてやんねえ」
雪之丞は、ふところ紙のはしを、水でひたして、浪路の、土気いろの唇をぬらした。
闇太郎と、法印も、同じようにした。
「不思議な縁だったなあ――おれたちもよ」
と、闇太郎が、つぶやいた。
「おらあ、可哀そうでならねえ――」
と、法印が、声を呑んで、
「死ぬめえによ、たったさっきよ、あんな雲助なんぞに、いじめられて――こんな、綺麗なひとが生きるにゃあ、この世の中は、あんまり荒っぽいんだなあ――」
そうかも知れぬ。この世の中が、ある人々に取って、あまりに、生き難く出来ていることは、いなみがたいのかも知れぬ。
たしなみのある、言わば、風雅な職人でもある闇太郎は、香炉に、良い匂いのする練香をくべた。
さみしい香りが、かすかにかすかに、部屋に立ちこめて来た。
人々は、黙り込んだ。
が、間もなく、闇太郎が、
「ところでと、このほとけの始末だが――」
ためいきをして、
「枕許で、すぐに言うことではないか知れぬが、このまま、土に入れてしまうわけにも、いかねえような気がするが――」
雪之丞は、闇太郎をちらりと見たが、答えなかった。
「このほとけだって、もとのままのからだなら、公方さまに、手を取られて死んだ人だ――それに、いかに何でも、三斎が鬼でも、蛇でも、親子だからな――どうしたもんだろう? なあ、太夫――」
若くして、悲しく逝った、浪路にして見れば、一たん、そこから遁れて来た、松枝町の三斎屋敷になき骸を持ちかえされて、仰々しく、おごそかな葬りの式を挙げられようより、いのちを賭けた雪之丞の、やさしい手に手を握られながら、うれしく呼吸を引き取ったこの小家から、誰にも知らさず、そっと墓地へ送られてしまった方が、百倍もよろこばしいものであったには違いない。
けれども、残された人々にして見れば、それは出来なかった。第一、闇太郎には、この小家に、いかなる人物が住みついているかということを、世間の人に知られてはならなかった。
一日、引っ込んで、仕事場にばかりいる、変人の象牙彫りと、どこまでも、思い込ませて置きたいのだし、島抜けの法印は、当分の間、人前に、顔を曝せたものではない。
雪之丞が、浪路の最期の床に侍していてやった、なぞということが知れたら、それこそ大問題なのだ。
「ほとけは、気に染まねえか知れぬが、こいつは、一ばん、この俺の手で、三斎のところへ、連れて行ってやる外はあるまい」
闇太郎は、しばしして、モゾリと言った。
雪之丞は、答えなかったが、それよりほか、仕方なさそうに思われる。
闇太郎は、ふと、屹ッとした目で、女がたを見た――悲哀に閉ざされた横がおを、強く見た。
「太夫、なるたけ長く、枕元にいてやった方が、いいにはいいだろうが、やがて、夜が明けると、人目に立つぜ」
雪之丞は、ハッとしたようだった。
あまりに、浪路の散り際のはかなさに、物ごころがついてから、強く激しく抱き締めて来た、たもちつづけて来た、復讐の執着さえこの刹那、淡びはてようとしていたのだった。
闇太郎、それを見て、ぐさりと匕首を突きつけたものに相違ない。
「はい」
と、彼は、涙を払って、かたちをあらためて、闇太郎を見返した。
「では、もはや、おいとまいたしましょう」
と、言って、なき骸に、一礼すると、法印に、
「あなたさまには、何から何まで、お世話をかけまして――」
「ううん、何でもねえ――やっぱし、おいらも坊主のうちだったのかも知れねえよ。この女が、こんなことになって見りゃあ、最後を始末するのが、おいらの役だったのだろうよ。あ、は、は」
法印は、わざと笑った。
「なあ、雪さん、このほとけは、たしかにおいらが、あずかった。そしてな、大方、ほとけも、悪く思わねえように、何とかはからってやる。安心しな」
と、闇太郎。
「どうぞ、何分にも――」
雪之丞は、闇太郎のはからいで少しはなれたところに待っていたかごに、身をゆだねた。
――あわれなあわれな、人ではあった。
と、彼は萎れる花のようにうなだれる。
――不運な、不運な人ではあった。なぜ、敵同士のわしのことが、そんなに恋しかったのか?
が、それゆえこそ、浪路が、大奥まで捨て、父三斎に限りない苦痛をあたえたのだと思うと、今更輪廻の怖ろしさを、たのもしく思って、亡き父母の怨念に、手を合せずにはいられない。
翌日、浪路の、北枕の亡骸の側に、法印を居残らせて、どこへか出て行った闇太郎、道具屋の小僧らしいのに、大きな箱のようなものを、大風呂敷で、背負わせて戻って来たが、ひろげて見ると、中から出たのは、丹塗りに、高蒔絵で波模様を現した、立派やかな、唐櫃だった。
丁度、人、一人、屈んではいれようかという、ずッしりした品物――
法印が、目を丸くして、
「すばらしい物だなあ――一てえ、何にするんで? 兄貴」
「まあ、黙っていろッてえことよ――とにかく、この櫃を浪路さんの部屋へはこんでくれ」
そして、死床の側に据えると、蓋を刎ねて、
「さあ、この中へ、ほとけを入れるんだ、手を貸せ」
「あ、そうか、棺桶がわりか――」
法印、命じられるままに、やっと、死後硬直が、解けかかったばかりの、浪路のからだを、重たそうに抱き上げて、そッと、櫃の中に坐らせる。
「おッ! 丁度いい、すっぽりと、あつれえ向きだ――」
と、闇太郎が、言って、
「浪路さん窮屈だろうが、ちょいとの間、辛抱してくんなせえよ。じき、楽になれるのだから――」
蓋をして、錠を下してしまうと、別に、鼠いろの頭巾に同じ布子、仕立て下ろしたのを取り出して、
「法印、このサッパリしたのに着けえて、櫃をしょッて、おれと一緒に来てくんな」
「一たい、この死骸を、どこへかつぎ込もうというのだね?」
「いわずと知れた、親のうちへよ――公方さまのお伽ぎをしたという人を、こんなあばら家から、とむれえも出せねえじゃあねえか――」
「よし来た――少し、重いが、背負って行こう――」
「まだ、すこし早いや――日が暮れてからの仕事にしねえと、おいらは大丈夫だが、おめえはブマだ――島抜けが通っているなんて、善悪ねえ岡ッ引きの目にでも触れちゃあならねえ――」
「大きにな」
悲しい、鬱陶しいことがあったあとなので、景気直しに、一口やって、ほのぼのとすると、もう、冬の日は、とっぷり暮れかける。
「いいころだ――出かけよう」
萌黄の風呂敷に、櫃をつつんで高々と背負った、一見寺男の、法印をしたがえて、闇太郎は、職人すがた、田圃のかくれ家を出て、さして行くのは、松枝町の、三斎屋敷。
隠宅ながら、見識ばった門番が迂散くさそうにするのに、二分にぎらせて、玄関にかかると、この関門は、なかなかむずかしい。
「いかなるものかは知れぬが、御隠居さまは、このごろ、ずうっと、御病気、お引きこもり――かまえて、来客をお受けなさらぬ。早う、かえりましょう」
「ところが、あッしの顔を、一目ごらんになりゃあ、御病人も屹度、よくなるんで――それにこの男にかつがせてまいった品を、どうしても、じきじきお渡ししなけりゃあなりませんし、そこを、どうか――」
「いかに申しても、お取り次ぎ、出来ぬと申すに! 帰れ!」
「へえ、不思議なことをおっしゃるものだね?」
と、闇太郎、玄関ざむらいに、
「折角、御隠居さまの御病気に、かならずきき目のあるものを、持って来たというあッしを、かたくなに木戸をつくたあ、こいつあ変妙だ。いやしくも、家来眷属というものは、旦那の身に、すこしでもためになることと聴きゃあ、百里をとおしとしねえのが作法――それを、どこまでも、突っ張るなんて――」
「何と申そうと、姓名、町ところも名乗らぬ奴、お取りつぎは出来ぬぞ! 帰れ! 帰らぬか!」
玄関の若ざむらいは、いつぞや門倉平馬とともども、たずねて来た人間と、知る由もないので、ますます怪しんで引ッぱなす。
「おさむらいさん、お前さんも、融通の利かねえお人だね――こうして、表から、是非とも、お目にかかりたいと、へえッて来るからには、まとまった用事があるものにきまっている。見ねえ、この男がしょッているこの大きな箱――御注文の品なのだよ、御隠居さん御注文の――おい、法印」
と、島抜けを、闇太郎は見返って、
「その、この家に取っちゃあ、大事な品を、玄関へ置いて、てめえは帰ってしまえ!」
「よし来た」
法印は、一刻も早く、こんな場所は立ち去ってしまいたいのだ。大ごとになって、身許がばれては彼として、それッ切りだ。
荷を下ろそうとすると、
「こりゃこりゃ、左様な品、お玄関へ!」
と、さむらいが、さえぎったが、闇太郎、突きのけて、
「これ! この品へ、指でも差すと、この屋敷の家来として、腹を切らねばならぬぞ!」
「何を、申すにことをかいて――これ、持ち帰れ!」
さわぎは激しいので、詰所から二、三人、どやどやと、家来どもが出て来る。その中で、年輩のが、
「青井うじ――何じゃ、かしましい――御隠居さま、お引きこもり中に――」
「こやつが、こんな荷をかつぎ込みまして、どうしても、御隠居に拝謁をと、いいはりますので――」
じっと、見て老臣が――
「ふうむ、こりゃ、この荷は、何であるな?」
闇太郎、急に、小腰をかがめて、
「へ、へ、へ」
と、笑って、
「あなたは、話がおわかりになるようでごぜえますね――ちょいとお耳を拝借――」
「ふうむ」
老臣が、闇太郎の目つき、顔つきに、何ものかを認めたか、式台に下りて来る。
「お耳を」
そして、低く、
「御当家で、鐘、太鼓で、お探しになっているかけげえのねえものが、ござんしょう?」
「うむ」
キラリと、老臣の目が光る。
「それについて、是非とも、御隠居さまに――御隠居さまに、闇が来たと、おっしゃって下せえ」
「ナニ、闇――」
「申し上げればわかりますよ」
老臣は、しぶりながらも、家中へはいって行った。闇太郎は、あたりを眺めまわすように、
「ふん、やっぱし、年は取らせてえな――ね、お若い方々、ごらんなせえ、あのお人はじきにむくれ出しはしねえよ、ちゃあんと用を足して下さるよ――」
そういって、式台にしゃがんだが、そのときには、もう、島抜け法印のすがたは、無かった。
「ほ! 法印の奴、すばしっこいな」
闇太郎、殆ど、押ッ取り刀で、取りかこんで、睨め下ろしている若侍たちの中で、平気で腰をさぐって、莨入を取りだすと、
「済まねえな。火を貸して下せえな」
「何をこやつ!」
先程から、威光を損なわれたように、じりじりしていた家来が、いきり立ったとき、脇玄関の方から、廻って来た、一人の人影。
闇太郎と、目を合せると、
「やッ! 貴さまは!」
と、鋭く叫ぶ。
「これは、門倉さんでしたね? 平馬さんでしたね――ひさしぶりだね」
闇太郎は、立ちはだかった。黒小袖に、同じ紋付、いかめしげな男を見上げて微笑した。
この人物、まぎれもなく、門倉平馬――闇太郎とは小梅廃寺での出会い以来、敵味方に対立してしまっていた。
「こりゃ、おのれ、こないだは、ようも煮え湯を呑ませたな!」
と、ぐっと目を剥いた平馬、
「おのおの方、こやつ何か、ゆすりがましいことでもいうてまいったのでござろう。お手を下すには及ばぬ――拙者が――」
立ちかかって、襟髪をつかもうとすると、
「これ、平馬さん、この俺に、指でもふれると、御隠居から御勘気だぞ――見ろ、大事な品物を、御前にとどけに来ているのだ」
「何だ! この函は?」
平馬が、大きな風呂敷包に、手をかけかけたとき、さっき、奥にはいった老臣が戻って来て、狽てたように、
「これ、門倉、何をなさる!」
思いがけない一声に、
「はッ!」
と、平馬が、すくんで、
「夜陰怪しからぬ者がまいって、お玄関をさわがしております様子ゆえ――」
「心添いはうれしいが、貴公、お出になるところでもない」
老臣は、ぴしりといって、ふくれる平馬には見向きもせず、
「その方、伺ったことを、御隠居さまに申上げたところ、とにかく逢うてとらせようとの思召し――お庭先きにまわれ!」
「へえ、庭先きへね――へ、へ、へ」
と、闇太郎は笑って、
「この前とは、大分、もてなしぶりが違うが、その中に、御隠居の方で、屹度、この俺を、お座敷へ上げることになるよ。ときに、若い人達――」
と、家来どもを眺めて、
「この函は、この屋敷に取って大切のお品だ。粗末のねえよう、あとから持って来てくれ」
渋ったが、老臣が、
「いうままに、致しつかわすがよい。さあ、こちらへ来い」
と、闇太郎を伴れて、玄関から、庭木戸を潜って、奥庭に面した座敷の、廊下外に導いた。
庭上に突ッ立った闇太郎、奥を見込んで例の調子で、ベラベラとやっている。
「いい気なものだぜ、御隠居も――あんなに猫撫ごえで、いつぞやは大事にしてくれたのに、今夜は打首にでもする積りか、庭先へまわれは、おどろいたな――おッとッと、そんなにその函を手荒くあつかっちゃあならねえぜ。御隠居が、中を御覧になったら、その荷物は、たちまち奥広間に、大切に持ち込まれるにきまっているんだから――」
やがて、小姓達の少年が二人、厚い錦の褥と、莨盆を縁側にもたらしたと思うと、鞘形綸子の寝巻に、紺羅紗の羽織を羽織った三斎、なるほど、めっきり窶れを見せて出て来た。
「闇、久しぶりであったな!」
「へえ、お久しぶりでごぜえます。お変りもなくってと申し上げてえが、何だか、どこかおからだがいけねえそうで――実は、ちょいとそのことを伺ったもんですから、夜分ながら出向きやした。お目にかからせていただいて、ありがとう存じます」
「ふん、それについて、何か見舞の品を持って来てくれたそうだが、大分大ぶりな荷物だの?」
と、浪路が失踪してから、絶えざる不安懊悩におびえつづけていながらも、いつもの好奇癖で、闇太郎が、何か売り込みものを持って来たと取ると、すぐに、もう内容が見たくてたまらない三斎だった。
「へえ、ちと、かさばっておりますが、まあ、御覧下すったら、ずい分およろこびだろうと思いますんで――」
と、闇太郎が言う。
三斎が、側の若ざむらいたちに、
「これ、荷物を開けろ」
と、言いつけると、闇太郎が、
「いけねえよ、それに手をかけちゃあ、大事な品ものだ。あッしが自分で蓋を払いますが、御隠居、人ばらいをお願い申してえんで――」
「ナニ、人払い?」
と、三斎は、いぶかしげな目つきをした。
「なにか秘密の品か?」
「まあ、そんなもので――」
三斎の顎がうごくと、若ざむらいや小姓たちは、退いた。
「さあ、人目もない」
「御隠居」
と、闇太郎は、じろりと三斎老人を見上げて、いくらか、こえの調子が変って、
「人間、いつ、どんなものが手にはいらねえともかぎらねえんで――中身を御覧になって、びっくりなさらぬようおねげえいたしますぜ」
三斎の目口は、好奇の昂奮にわななき、物ほしげな微笑がただよった。
「闇、わしもこれで、六十年、天下の珍物を採集するに骨を折ってまいった。わしの蒐集品はまあ、どんな貴顕の宝蔵にも劣りはせぬつもりだ。大ていの品では、わしをおどろかすことは出来まいよ」
闇太郎はうなずいて、
「それはそうでしょうとも――御隠居さんの御宝蔵は、まだ拝見はしておりませんが、大凡の見当はついているんで――なかなか品えらみに、あっしも骨を折ったつもりですよ」
そう言いながら、縁側に置かれた、大きな風呂しき包の方へ近づいて、結び目をおもむろに解きはじめるのだった。
闇太郎、浪路のなき骸を入れた唐櫃の蓋に手をかけたが、三斎隠居を見て、
「さあ、御隠居、立ち寄って、御覧が、願げえてえんで――」
「おお、大分、前口上のある品、定めて、目をおどろかす珍物であろうな?」
ツと、立って、太いのべ金の長ぎせるを手にしたまま、縁側、唐櫃の側に寄る。
「さあ、蓋を払いますが、どうぞ、お目をお止めになって――」
闇太郎、そう言って、ギギと、蝶つがいをきしらせて、蓋を開けると、一足、あとにさがって、例にない、つつしんだ調子で、
「御覧じ下さいまし」
「ふうむ――」
と、三斎は、美い香の匂いが、ぷうんと立ちのぼる、函をのぞき込む。
中身は何か? それを蔽うているのは、美しい、女の着物だ。
「は、は、燻きこめた香の匂いは、ゆかしいな」
持っていた、延べのきせる――それをのべて、雁首で、蔽いを、少しかかげるようにしたと、思うと、ギョッとしたように、目をみはった、三斎隠居――
「おッ! これは!」
グッと、闇太郎を睨んで、
「闇、これは何じゃ! うなだれて、髪のみ見えて、面体はわからぬが、たしかに、死骸と見えるが――か、かようなものを何ゆえなれば! こりゃ、そのままには捨て置かぬぞ!」
「御隠居さま」
と、闇太郎のこえは沈んだ。
「御隠居さま、まず、とっくりと、お目をお止めなすって――だれの死骸だか――どなたさまの、おなきがらだか、御覧なすって下せえまし」
三斎隠居は、青ざめた。思い当ったことがあるかのように、身をこわばらせて、丁度唐櫃のそばにかがやいている大燭台の光りをたよりに、もう一度、見込んだが――
「あッ! これは! これは、浪! 浪路ではないか――」
さすがに、声が、つッ走しって、その場にヘタヘタとすわってしまいそうな身を、やっと、ぐっと踏み止めて、
「これは、浪路だな!」
今は、汚れをいとうひまもなく、延べのきせるを投げ捨てて、掛け衣をつかんで、投げ捨てると、両手で、死骸の首を抱き上げるように――
「まぎれもない、浪路! ま、何で、このような、浅間しいことに――」
と、うめいたが、闇太郎を、食い入るような目で、グッとねめつけて、
「申せ! いかなれば、この品を、手には入れたぞ! 申せ! 申しわけ暗いにおいては、きさま、その場は立たせぬ」
「御隠居さま、やっぱし世の中は、廻り合せというようなものがござんすねえ――このお方さまと、あっしとは、何のゆかりもねえお方――そのお方が、たった昨夜、息を引き取るつい前に、あっしと行き合ったのでござんすが、あなたさんの御縁の方とわかって見りゃあ、見すごしもならず、死に水は、このいやしい手で取ってさし上げましたよ――御臨終は、おしずかで、死んでゆきなされるのを却ってよろこんでおいでだったようで、あの分では未来は極楽――そこは、御安心なすって下せえまし――」
三斎隠居は、この闇太郎の物語が、耳に入るか入らぬか、ただ、ジーッとわが子のなきがらを、みつめつづけるのみだった。
「ど、どういたして、又、このなきがらが、きさまに運ばれて、わが家にかえることになったか――闇、くわしゅう、申せ!」
三斎、パタリと、唐櫃の蓋をとざして、叫ぶ。
「だから、何もかも、只、浅からぬ因縁だと言っているじゃあありませんか――何でも話を聴くと、どこかに隠れているうちに、横山五助とかいう、お屋敷出入りの悪ざむらいにつけまわされ、操を守るために、その男を、突ッ殺したとかいうことで――」
闇太郎が、そこまで言うと、三斎が、
「えッ! 横山を、むすめが――」
「へえ、よっぽど、しつッこくしたらしいんでごぜえますよ。浪路さまも、堪忍がしかねたと見えますね――何しろ、そこまで決心なさるにゃあ、なみなみのことじゃあなかったでしょう――おかわいそうに――それと言うのも、ねえ、御隠居、おまえさんが、わが子の心を汲むことを知らねえで、わが身の出世のために、お城へなんぞ上げたからですぜ――」
「む、む」
と、隠居はうめいて、
「して、むすめは、どこに隠れていたのじゃな? やはり、雪之丞にかくまわれて――」
「とんだお間違いでごぜえます。雪之丞は浪路さまから、何度呼び出しをうけても、義理をお屋敷へ立て抜いて、お言葉にしたがわなかった容子で――」
「では、むすめは、いのちを賭けて恋いした、雪之丞に、逢わずに死んだというわけか――」
と、さすが、わが子のあわれさに、暗然として、三斎がつぶやいた。
「ですが、そこには、神もほとけも、ねえわけじゃあござんせん――浪路さまは、あっしの小家で、御臨終になるときに、雪之丞に、手を把られているような、夢を見ていたようでごぜえますよ」
闇太郎は、こう言いつくろって、
「何でも、未来はかならず一緒とか、言っておいでのようでした」
「で、その最期の際は、わしのことは、この父親のことは、何も申してはいなかったか?」
隠居は、だんだんに流れて来る涙を、どうすることも出来ずにたずねた。
「それを訊かれるのが、一ち、あっしにゃあつれえんで――」
と、闇太郎は、わざとらしくもなく、目を反らして、
「何でも、父御、兄御の方々にはうらみのひとつもおっしゃりたいようでしたが、そこは、おたしなみで、何の御遺言もござんせんでしたよ」
「う、うむ」
と、隠居は腕を組む。
闇太郎は、膝を立てて、
「じゃあ、たしかに、この唐櫃は、おとどけ致しやしたから、あッしは戻していただきますが、まあ早く、縁側から、お仏間へおうつしになった方が――」
「おお、闇、貴さまには、はからず世話になったのう」
と、隠居は目を上げて、
「実は、この死骸が、他人の手に落ち、公へ届け出しもいたされたら、当家として、とんだことになったところ――公儀からのおとがめも、おかげにて、事なく済むであろう。きさまには、礼もしたい。まず、客間に通って休息するよう――」
辞し去ろうとする闇太郎を、三斎老人は強いて引き止めて、
「いかに何でも、この唐櫃を届けてくれた仁を、このまま返すことは、わしには出来ぬことだ、それは、ようわかっていよう――さ、ずっと通るがよい――これ、誰か?」
と、手を拍つと、あらわれた二人の小姓に、
「客仁を、座敷に通し、酒飯の馳走をいたすように――まだ聴きたいこともある」
二人の小姓が、闇太郎を庭口から、離れめいた、小間の方へ、無理に導くのだ。
闇太郎は、振り切れずに、広からぬ瀟洒な部屋に坐る。
そこは、一切、茶がかった造りで、床の掛ものは、沈南蘋の花鳥、花生けは、宋窯の水の垂れるような青磁、磬が掛っていたが、その幅が二尺あまりもあって、そのいずれを見ても、闇太郎の鑑識眼では、上乗無類、値打の程も底知れぬものだ。
娘のなきがらを一目見て、前後を失った三斎は、世にもあわれな一老父にすぎなかったが、この部屋の豪奢さを眺めると、闇太郎、たちまち又、暴富に対する憎悪を感ぜざるを得ぬ。
――ふん、じじいめ! 若し、雪之丞の仕けえしということがなけりゃあ、この屋敷から、大よそ目ぼしいものは、このおれさまが、みんな抜き取らずには置かねえのだ。あの仕事の邪魔になってはと、遠慮しているが、癪だなあ、この贅沢は――
唇を食いそらすようにしていると、いかなる美女も羞じらう容色の振袖小姓が、酒肴を運んで来て酌を取る。
「どれ、じゃあ、折角の御馳走だ。一ぺえいただこうか?」
と、やけ気味で、闇太郎は杯を取り上げる。
そのころ、件の縁側の唐櫃は、丁寧に、老臣等の手に依って、浪路の居間へと担つぎ込まれた。
浪路には、兄に当る、当主駿河守の許へも急使が飛ぶ。腹心の老女どもが、三斎から耳うちをされて、顔いろを失しながらも、錦繍のしとねを、いそいで延べて、驚愕と恐怖とに、ブルブルと震えながら、美しく若い女あるじの死体を窮屈な函から出して、そのしとねに横たえるのであった。
三斎老人は娘の枕元に坐って、暫く、何か考え込んでいたが、やがて、ふッと、思い出したように立ち上って、わが居間に戻ると小姓に、
「門倉が、まいッていたようだが――」
「はい。溜りの間に、おいでになりまする」
「呼べ」
「は」
間もなく、門倉平馬、これも、思いもよらない椿事が、いつか耳にはいったものと見えて、顔色が変っているのが、閾外に手を突いて、
「召されましたか?」
「うむ、近う」
老人は、唇を、への字に引きしめて、六かしげに言った。
「平馬、異なことになった」
うなずくように、頭を下げる。
「で、そのあと始末じゃが――」
と、三斎はいつならず、重たい口ぶりで、
「この事が、他に急に洩れては、当家として困るすじがある。じゃによって頼みたいことがある――まそッと近う」
「わかったな! 善悪無い口をふさいでくれるよう、よきに頼むぞ」
と、三斎隠居は、苦みを嘗めるような口つきをしていって、門倉平馬を、ジッと見て、
「但し、仕損ずるにおいては、恥辱の上塗り――貴さま、二度と出入りを許されぬばかりか、きびしい目に逢うであろうぞ」
「ハッ、委細、わかりましてござりまする」
「のみならず、このことを知るもの、かの者のみでは無いと思う。用意をおこたらず、十分に手当して、根だやしにいたせ」
「ハッ、よくわかりましてござりまする」
「行け!」
隠居はそう言って、かたわらの蒔絵の手箱から、取り出した、紫ふくさの包みを、投げるように渡した。
ズシリ――と、重たい黄金――
押しいただいた平馬、――闇太郎の技倆は、すでに知ったことではあり、高の知れた仕事に、これは過分の前褒美と、胸をとどろかして、御前を辞して出る。
こちらは闇太郎――
小姓の酌で、遠慮もなく、飲っているところへ、侍が、眼も綾な、錦をかけた三方をささげてはいって来た。
「御隠居さま、お目にかかるべきところ、何かと取り込み、今晩はこれにてお引取りを願うなれど、これは寸志、おおさめ下されるように――とのこと――」
と、前に、三方を置いて、
「おおさめなさい――」
と、帛紗を取る。
下には、杉なりに積んだ、二十五両包が五つ――
「ほう、これは、立派なお引き出ものでござりますが、今晩のところは、こいつをいただいては、心にすみませぬ」
と、闇太郎は、突っかえして、
「御隠居さんに、そう言って下さい。いずれ何かいただきたいものがあれば、改めて、いい時刻にひとりでうかがって、黙っていただいてけえるから――と、ね。は、は、は、そうおっしゃって下さりゃあ、わかるんです。どうも、おとり込みのところを、とんだお邪魔をいたしやした」
持っていた杯をガラリと捨てた闇太郎、あっけに取られている侍をあとにのこして、まるで自分のうちを歩くような勝手なかたちで、脇玄関に出ると、揃えてあった下駄を突ッかけて、そのまま、屋敷の外へ出てしまった。
――ふ、ふん、さすがの三斎もおどろいていやがった――いかに悪党でも、むすめの死げえをだしぬけに見りゃあ、びっくりするに無理はない。ところで、この機会に、雪之丞に、この屋敷に乗り込ませて、ばたばたと、事をすませてしまった方が、いいと思うがな! いかに悪徒の隠居だって、天運が尽きたのを知れば、思い切りよく往生するかも知れねえ――
彼の足は、山ノ宿の、雪之丞旅宿の方を向いて進むのだ。
そのあとを跟けているのは、師匠門倉平馬から、闇太郎の行方を、つき止めるように命じられている、悪がしこそうな、二人のさむらい――ぐっと、間を置いて、ブラリブラリと、歩いてゆく。
さすがに、闇太郎、心に思うことがあるので、うしろに、目が無かった。跟けられるとは知らずに例の暢気そうなふところ手、のめりの駒下駄をならしてゆくのだった。
何も知らぬ闇太郎、山ノ宿、雪之丞旅宿の門をくぐると、見知り越しになっている店番の若い衆に――
「若親方はいねえかね? 雪之丞さんは――」
「おッ! 親方――」
若い衆はいつも切ればなれのいい、象牙彫りの親方と思うので、目顔で、歓迎の意を表して、何もかくさず、
「生憎でござんしたねえ、若親方は、ついさき程、どこへかお出かけになりましたが――こないだ火事に逢った、お贔屓さんへ、見舞にゆくとか。大師匠に話しておいでのようでしたよ」
「おお、そうかい――じゃあ、また来ますよ」
のれんを分けて出て、闇太郎、暗がりにたたずんだが――
――こないだ焼けた贔屓といやあ広海屋にきまっているが、さては、いよいよ、三斎屋敷に乗り込むまえに、あっちを荒ごなしにかけようとするのだな。
と、こころにつぶやいて、
――よし、のぞいて見よう。
海運橋の、広海屋までは、かなりあわいがあるから、辻かごを呼ぶ。
いつともなく、また跟けはじめていた二人ざむらい――これも亦、かごを小手まねぎして、
「こりゃ、あれへまいる乗りものを、見えがくれに追うのじゃ――とまればとまり、進めば、すすむ――よいか?」
「へえ、あのかごをね? 何でもござんせん。やりましょう」
「うまくやれ、酒手をつかわすぞ」
闇太郎は、広海屋の間近まで来ると、かごを捨てる。
二人も降りる。
闇太郎の方は、心耳すませば、軒下に立つ家の中のことは、心の瞳に、ありありと映り、柱の干割れるのまで、きこえて来るという男だ。
広海屋の、仮宅の前にたたずんだが、
――変だぞ!
と、小くびが、かたむいて、
――何も聴えねえ――それに、表が、こんなにきびしく閉っているところを見りゃあ、なみのやり方で、訪ねて来たわけじゃあねえな――
うすらわらいが、唇にうかんだが、それから、軒下をはなれて、店に沿って、ぐっと河岸にまわると、塀になる。
その塀の下を、しずかにあるいているうちに、何を感じたか、足が、ぴたりと大地に吸いついて、
――やッ! 何か気配がする。
片手が、土塀に触れたか、触れぬかに、全身が、すうと軽く舞い上って、もはや、塀の上――上でちょいと、前後を見たと思うと、音もなく、ふわりと、向う側へ――
塀の曲り角に、この容子をうかがっていた二人ざむらい――
「貴公! 早かごで、この趣きを先生へ! 拙者は、のこって、あとを見張る!」
と、一人が言う。
「かしこまった。その間に動き出すようであったら、貴公、ゆく先きをつき止めたまえ!」
と、言いのこした今一人、韋駄天ばしりで駆け出すと、河岸で、かごを拾って、
「いそげ! 松枝町まで、一息にいそげ!」
かごは、矢のように走り出した。
跟け人は、いかにもせよ、闇太郎は、広海屋、焼け残りの、倉つづき――その一ばん端の土蔵の方を目がけて、まるで、足裏に毛の無い、夜のけもののように、ツウ、ツウと、伝わってゆく。
そして、入口の土扉が、僅かの隙を見せて開いているのを見出すと、ためらわず、ツイと押してはいって、しめっぽい埃くさい、闇の中を、二階への階段を上って行った。
二階の奥の、金網窓の中に、たよりない赤茶けた灯火がさしていて、そこから、人ごえが洩れているのだ。
窓口まで、走り寄って見て、闇太郎、何を見出したか、さすがのつわものが、目いろを変えて、
――! アッ! あれは!
と、叫び出しそうになって、狽てて口をおさえた。
奥部屋の、異国物産が、うずたかく積まれた中に、闇太郎が見つけたものは何であったろう。
そこには、見るかげもなく、痩せ衰えた、長崎屋三郎兵衛が、敵味方同然になってしまった、この広海屋の主人与平と、こともあろうに、お互にすがりつくよう、取り付き合って、恐怖に充ち、苦痛に歪められた表情で、目の前に立つ、一人の男をみつめているのだ。
二人のからだは、遠くからわかるほど、ガタガタと戦慄し、ときどき、
「おおッ!」
「ううッ!」
と、いうような叫びさえ、咽喉の奥から洩れて来る。
二人の目がそそがれるあたりに立った人影は、年のころ、五十あまり、鬢髪はそそげ、肩先は削げおとろえ、指先が鉤のように曲った、亡霊にも似た男――
「おのれ! 三郎兵衛、ようも、子飼いの恩を忘れ、土部奉行や、浜川、横山、これなる広海屋と腹を合せ、わが松浦屋を亡ぼしたな――ようもようも、むつきの上から拾い上げ、手塩にかけて育てたわしの恩を忘れ、編笠一蓋、累代の家から追い出したな! おのれ、そのうらみを、やわか、やわか、忘れようか!」
と、一足、すすめば、
「うわあ! おゆるし下され、おゆるし下され、わたくしがわるうござりました」
と、長崎屋は、広海屋にすがりつきながら、手を蔽う。
「いっかな許さぬぞ!」
と、乾き、しわがれた、怖ろしい声がつづく。
「何をゆるされよう! 恋しい妻は、おぬしの手引きにて、土部屋敷にいざなわれ、くるしめにくるしめられ、舌を噛んで、死んだのじゃ――舌を噛んで――舌を噛んで死ぬ、痛さ、つらさ――どうあったろう、のう、三郎兵衛――おぬしの、今のくるしみは、物のかずではないわ――これ、三郎兵衛、おぼえたか!」
一足、すすめ、またしりぞく、此の世のものとも思われぬ、浅間しい怨念のすがた。
「いいえいいえ、あれはみんな、わたくしの罪のみではござりませぬ――こ、ここにいる広海屋――采配は、みんなこやつが、振りましたので――」
「なにをいうか、長崎屋――あれあれれ、あの怖ろしい面相――」
広海屋は、怨みをのべるものを、指さして、顔を蔽うた。
「三郎兵衛が申すまでもなく、広海屋どの――そなたには、また、いうにいわれぬ、お世話になったものでござりますな――」
と、怨霊に似た、黒い影は、うめくようにいう。
「土地でしにせの松浦屋、いかにそれが目のかたきじゃとて、甘い口でわしを引き寄せ、もろともに密輸出入――御奉行が承知の上のことゆえと、いやがるわしに、あきないをさせ、どたん場で、わが身は口をぬぐい、わし一人を、闕所投獄――して、只今では、この大江戸で、大きな顔しての大商人――さぞ楽しゅうござろうな、のう広海屋どのう――」
怪しげな手つきで、相手の首を引ッつかむかのごとく近づくので、広海屋は、たましいも、身にそわぬように、
「あ、ああ! 怖ろしい! 怖ろしい! わしにはわからぬ――信ぜられぬ――たしかにみまかれたはずの松浦屋どのが――ああ! 怖ろしい――」
「ヒ、ヒ、ヒ、ヒ」
と、黒い影が、笑って、
「わかりませぬか! 信じられませぬか! 与平どの――この顔をじーッとごらんなされ、おみつめなされ――牢屋から出されて、裏屋ずまい、狂うてくらしましたゆえ、さぞおもかげもちがったであろうが、これが、だれか、そなたにわからぬはずがない――のう、ようく、この顔を、御覧なされや!」
「あッ! ゆるして下され、松浦屋どの、清左衛門どの! わしがわるかった。が、わしばかり、わるかったではない。第一に、悪謀をすすめたのは、これなる三郎兵衛――」
「又しても、わしをいうか! 広海屋!」
と、長崎屋は、火災後、この一室に監禁されて、骨ばかりになった両手をのばして、広海屋につかみかかる。
「あたりまえじゃ。貴さまゆえ、このわしの迷惑――気違い、失せろ!」
と、広海屋も、いつもの落ちつきも、狡猾さも失って、歯がみをして、相手の咽喉にしがみつく。
二人は、お互の首を絞め合ったまま、ごろごろと、床を転げて、苦しげなうめきをあげつづける。
「おおッ!」
「うわあッ!」
「う、う、う、う!」
「む、む、む、む」
それをこころよげに見おろしている、黒い影――
「は、は、は、何とまあ、二人とも、いさましいことのう――たがいに、咽喉をつかみしめた手先をばはなすまいぞ――ぐっと、ぐっと、絞めるがよい――おお、いさましいのう――」
と、言ったが、
「この松浦屋を、くるしめた人々の中で、端役をつとめた浜川どの、横山どのは、めいめいに、楽々と、もはやこの世をいとま乞いして、地獄の旅をつづけておいでじゃぞ――それに比べて、これまで生きのこった二人、さ、もっと、もっと、苦しめ合い、憎み合い、浅間しさの限りをつくすがよい。ほ、ほ、ほ、まあ、何と、江戸名うての、広海屋、長崎屋――二軒の旦那衆が、狂犬のようなつかみあい、食いつき合い――おもしろいのう! いさましいのう! ほ、ほ、ほ、ほ!」
のぞいている闇太郎、身の毛がよだって、背すじが寒くなった。
全く、おぼろかな金網行灯の光りに、朦朧と照された中で、二匹の夜の獣のようなものが、互に、両手で首を絞め合って、歯を剥き出し、うめき立てている、その有様ほど凄惨なものはなかった。
闇太郎ほどの、大胆もの、それさえ顔をそむけずにはいられないのに、二人の争闘を、じっと見おろしながら、さもこころよげに、笑いつづけている、この黒い影は何ものだろう?
「ほ、ほ、ほ――とうとう、狼が噛み合いをはじめましたね!」
その声は、もはや、怨霊じみたものではなかった。美しい、女のような、韻きの深い声であった。
「もうお二人が、お互に絞め合った、その手の力は、尽未来緩みませぬぞ! お二人はそのまま御一緒に、遠い、暗い旅にお立ちなさりませ! ほ、ほ、ほ、まあ、そのようにお目を剥きになって――油汗を流されて――お歯を噛み鳴らして、お苦しゅうござりますか――お二人とも――あれ、お息が、すっかり詰まって、咽喉笛から、血が流れ出して来ました。お二人の手は、血だらけでござりますよ――お苦しゅうござりますか? お互に、もっともっと、ぐいぐいお絞めつけになれば、つい、じきにお楽になりますよ。そう、そうもっともっと――もっともっと、きつくあそばせ――ぐいぐいと、お絞めあそばせ。ほ、ほ、ほ――お二人とも、お目が、飛び出しておしまいになりましたね。あれ、お口から血が――もっともっと、指にお力をお入れなさいと申しますに――ほ、ほ、ほ――お二人とも、案外お弱いのねえ――ほ、ほ、ほ――とうとう、身うごきもなさいませんのね――お鼻やお口から、血あぶくが、吹き出すだけで――」
と、いいつづけた、黒い影――格闘する二人が、互に、咽喉首をつかみ合って、指先を肉に突ッ込んだまま身をこわばらせてしまったのを、しばしがあいだ、じっと見つめていたが、やがて、もはや呼吸もとまり、断末魔の痙攣もしずまったのを見ると、ぐっと側に寄って、睨めおろして、
「覚えたか! 広海屋、長崎屋――人間の一心は、かならずあとを曳いて、思いを晴らす――松浦屋清左衛門が怨念は、一子雪太郎に乗りうつり、変化自在の術をふるい、今こそここに手を下さず、二人がいのちを断ったのじゃ、わからぬか、この顔が――かくいうこそ、雪太郎が後身、女形雪之丞――見えぬ目を更にみひらき、この顔を見るがよい」
サッと、垂らした髪の毛を、うしろにさばいて、まとっていた灰黒い布を脱ぎすてると、見よ、そこに現れたのは、天下一の美男とうたわれる、中村雪之丞にまがいもなかった。
が、すでに魂魄を地獄の闇に投げ入れてしまった二人の悪徒、そのおもかげを見わけることが出来たかどうか?
もし見かけ得たならば、因果の報いるところのすさまじいのに、いまさら驚かずにはいられなかったろう。
雪之丞は、二人の死骸を照らす、金網あんどんの灯を消した。
そして、真の闇の中を、三郎兵衛監禁の部屋をぬけいで、そのまま、はしご段を下りて行こうとするのだった。
と、その闇の中から、声があって、
「おい、太夫、待ってくれ」
「え!」
と、さすがにギクリとしたようだったが、
「ああ、親分でござんすね?」
土蔵二階の、湿っぽい廊下――内部には浅間しい二ツの亡きがらが、お互の喉笛を、掴み合ってころげている、その窓の外で、雪之丞は、思いがけなく闇太郎を発見して、はずかしそうにいうのだった。
「まあ、では、親分、只今のさまを、そこから御覧になっていたので、ござりますか?」
「おお、おれは今夜、かわいそうな人を、生みの家へ届けてやって来たのだが、何しろ先きも、名だたる猛者、ことによると、これがきっかけで、こっちの秘密を、ハッと推量するかも知れぬ。そうなると、おめえの仕事も、むずかしくなるによって、この機会をはずさず、三斎屋敷に乗り込んで、始末をつけてしまった方がいいだろう――と、そういおうと思って、山ノ宿をたずねたのだ。そうするとおめえさんが、こっちへ出て来たようだとのこと――やって来て見ると、何がな秘密がありそうな匂いが、この蔵でしたものだから、つい癖が出て、へえり込んで、思わぬ場面を見たわけなのさ」
闇太郎は洒然としていったが、
「それにしても、さすがのおらも今のを見ちゃあ、少しばかり肌が寒くなったよ」
雪之丞はいいわけをするように、
「わたしも、何も、こんな仕儀になろうとは思わず来たのでござんす。只、あの後、どう考えて見ても、長崎屋は、この屋敷の中に、おし込められているに相違ないと思い、今夜、ソッと忍び込み、蔵から蔵をしらべて見ますと、この内部でかすかな人ごえ――のぞいて見れば、案の定、長崎屋は日の目も見られず閉じこめられ、恰度そこへ、広海屋が、家人の寝しずまった頃を見はからって、嘲弄にまいったところ――二人の会話を立ち聴けば、いやもう、汚れはてた、浅ましいことばかり――ことさら、長崎表の昔が、口に上り、お互に罪をなすりつけ合ううち、しかも、わたしの目の前で、天が言わせるような言葉ばかり――それを聴いていますうちに、ふと、思いついて、日頃の渡世がら、髪をみだして顔を怖くし、ありあわせた黒い布を身にまとい、おぼろげな灯火の光の中にすがたをあらわし、さんざんおどしてつかわしましただけ――しかし、かようなことになろうとまでは、思いもかけぬことでござりました」
「いや、因縁だな、応報だな」
と、闇太郎は、陰気くさくいったが、急にガラリと語調をかえて、
「そりゃあ、もう、悪事を働いた奴が、満足に畳の上で死ねねえのはあたりめえだ、浜川、横山、広海屋、長崎屋――おめえが狙うほどの奴が、手も下さねえのに、ひとりでに、他人の手で亡びて行ったのも、悪人の運勢が、尽きてしまった時が来たのだ。この分じゃあ、一ばんの強敵、三斎隠居だって、怖れるこたあねえ――一気に、どしどし成敗してやるがいい」
「はい、明夜は、あのあわれなお人のお身の上に、何か変事があったよし、駆けつけてまいったという口実で、たずねてまいるつもりでございます」
「それがいい、それがいい」
と、闇太郎はうなずいたが、
「しかし、用心はどんなにしても損はねえ――早まらず、しっかりさっし」
二人は、土蔵を出た。
しずかに、星の光が降って、天地はすっかり死の沈黙――二人は塀に近づいた。そして同時に手が壁にかかって、飛び越えの体構えになる。
雪之丞、闇太郎、二人とも身は羽根よりも軽いことゆえ、片手が、壁にかかったと思うと、まるで釣り上げられるように、フワリと、土蔵の上に体が浮く。
闇太郎の目が鋭く、あたりを見まわして、さて、向う側に跳ね下りると、つづいて、雪之丞が、ひらりと飛ぶ。
振りかえると、土蔵の屋根に、暁によろこぶには、早い、夜がらす、黒い影が二羽――
「早い奴だの! 黒い鳥め!」
闇太郎はつぶやいて、肩を並べるように、河岸を歩いて、さしかかる屋敷はずれ、曲ろうとしたその刹那だった。
真黒な、野獣のようなのが、
――タッ!
と、飛びついて来たと思うと、闇太郎の真向めがけて、
「えい!」
と、斬りかかる、すごい白刃。
「プッ!」
と、口をすぼめて、かわした闇太郎、かがみ腰に、ふところへ右手を、
「妙なものが出て来たぜ」
「一ツ、二ツ、三ツ、五ツ、七ツ――沢山影が見えますが、怖うございますこと」
ちっとも怖くない風で、そう答えた雪之丞、ぐっと、裾をかかげたとき、どこかに身をひそめていたか、うしろから、
「とう!」
と、肩先へ来る。
スッと、わずかかわした雪之丞の雪白の手が、右に動いたと思うと、
――ズーン!
と、地ひびきを打って、前に飛ぶ人つぶて。
雪之丞、闇太郎、二人の背中がぴったりと合せられて、八方から、いつでも来いの構えになる。
それをめぐって、十本あまりの、抜きつれた刃が、低く低く、地を匍って来る毒蛇の舌のように、チラチラと、ひらめきながら、一瞬一瞬、迫って来る。
が、雪之丞、闇太郎、ほんとうの敵は、その一群の中にはいないのを知っているのだ。これ等の十本あまりの剣には、必死、必殺の剣気がみなぎってはいない。
むしろ、何ものかの命令で、おっかなびっくり、押しつけて来るものに相違ないのだ。
二人は知っている。
――どこか、見えないあたりに、だれかがいる――この刺客隊の頭はほかにいる――それにしても何で、二人を付け狙うのか?
三斎だ! 土部一族だ! そして、その土部一族に使われて、暗殺を引き受けるのは、言うまでもなく、門倉平馬――小梅以来の敵手であろう。
十本あまりの毒刃は、ズ、ズ、ズと、趾先ですり寄る刺客たちと一緒に、二人の前後に押し迫る。それが、二間に足らぬところまで来ると、おのずと止って、シーンとした静寂――死の沈黙。
「ふ、ふ、意気地なしめ! ドラ猫だって、獲ものを見りゃあとびかかるぜ! やって来ねえか? おい!」
闇太郎が、冷たく笑った。
「遠慮せずに、斬って来い! 今夜はこっちも容赦しねえぞ。少し癇が立っているのだから――」
と、それに、そそられたように、一条の白光が、群れの中ほどでひらめいて、黒衣の一人が、ピュッと、大刀を振り込んで来るのだった。
「なア、太夫、遠慮はいらねえよ、今夜こそ、毒虫を征討しようぜ」
「あい。わかりました」
うなずき合った、雪之丞、闇太郎――二人の手のうちに、今は、ギラリと小さく白く光る匕首――
その匕首のきらめきに、吸いつけられたように、よって来るのが飛んで火に入る虫のような、門倉平馬部下の剣士たちだ。
「たっ!」
「とう!」
と、四方から隙間もなく斬ってかかるので、こちらの二人も、いつか背がはなれて、自由なかけ引き。
引きつけて、突き、退がりながら、斬り揮う短刀に無駄がなく、またたく間に、その場に倒れてしまわぬものは、いのちからがら逃げのびて、河岸にへたばって、呻いている。
「さあ、出て来い。隠れん坊は、もう沢山だぞ!」
闇太郎は意気軒昂、てっきり、そこに伏せ勢があると認めた、河岸小屋の方へ呼びかけた。
のそりとそこから出て来たのは、黒覆面、黒衣ながら、からだの恰好で、一目に、平馬とわかる男――左右に二人の部下をつれている。
闇太郎は、しつこく斬って来る若侍をあしらいながら、
「太夫、おいらにゃ、平馬は苦手だ。矜羯羅制迦――二人の方はおれがやるから、心棒は、おめえが、おっぺしょってくれ」
雪之丞は、身近くのこった最後の一人を、わずらわしげに、突き伏せて、目をあげて、平馬を、見ると、
「おお、門倉さま、おひさしぶり」
「ふうむ。死にいそぎをしたがる奴――」
と、平馬はうめいて、
「一度、二度、三度――よいほどにして置いたが、今夜、闇太郎と一緒にいたは、貴さまの不運――いかにも、息の根を止めてやるぞ」
「同門のゆかりこそあれ、うらみはないと思うていましたが、ことごとに、敵にまわる門倉さま、こちらももう辛抱ならぬ――今宵は遠慮いたしませぬぞ!」
手ごわい相手とわかっているゆえ、二人の部下も、闇太郎の方へ手を分けようとはせぬ。
真中に門倉平馬――少し先行して、二人の弟子、大刀を抜きつらねて、押し並んで迫って来る。
敵手を片づけてしまった闇太郎、匕首の血を拭い清めて、別に呼吸も切らしていない。三人を引きうけて、匕首をぐうっと引きつけてかまえた雪之丞のうしろから、
「よッ! 花村屋あ!」
と、声をかけたが、
「いい型だなあ、御見物衆が、おいでにならねえのが残念だ」
が、二人の弟子を前に並べた門倉平馬の、覆面のあいだから洩れる眼光は、刺し貫くようだ。今夜こそ、彼は雪之丞を仕止めねば――闇太郎を斬らねばならぬ。一人は、自分に取って憎悪の的、一人は、三斎から斬れといわれた当の敵手だ。
雪之丞は、引きつけていた匕首を、サッと揚げた。そこに隙が出来たと見たか、も一人の弟子、ダッと、躍り込んで、薙いで来る。
かわしたと見ると、もう、匕首の切ッ先きが、相手の首すじへ――
大向うを気取った闇太郎、いい気そうに声はかけているが、胸の中は不安におののいている。
――門倉って奴あ、おいらにゃ歯が立たねえが――雪なら大丈夫だろうが、何しろ狡い奴だ! どんな卑怯な手を使うかわからねえ――
ジーッと、みつめていると、雪之丞の方は門弟一人を斬って落して、息もはずまさず、次ぎのかかりを待っている。
が、二人目は出られない。
――やッ!
と、鈍い気合――これでは、敵に迫れないのだ。
雪之丞、ズーッと、匕首を揚げて、爪先立ちになる。
「退け!」
と、平馬、奥歯を噛んで、門人を押しのけるように、ギラリと、大剣を上段に引き上げて、
「雪、今夜はのがさぬぞ!」
「十分に――」
さすがに、雪之丞のうしろすがたに、サーッと、凄味が添わる。
「う、うむ」
と、平馬の息が、引きしまって、上段が、正眼に下ったが、
「やあッ!」
と、誘って大刀をきらめかす。
ジーッと、動かぬ雪之丞。
闇太郎が、焦れて、
「太夫、やっちめえ――夜があけるぜ!」
と、言ったのは、あべこべに、平馬を煽ったのだ。
平馬の切っ先きが、案の定、動揺した。
「や、やあッ!」
「とう!」
二人の気合が、一どきに、物すごく、空でカチ合って、重ねて、
「たッ!」
と迫った叫びが、平馬の咽喉をほとばしったと思うと、二尺五寸の刀と八寸あまりの刃が、微妙にからみ合って、赤い火花を、チリチリと、細かく照したが、いつか二人のからだが、入れかわって、ジリジリと押しつけ合う。
と、持って生れた、平馬の根性だ――その刹那、やり損なったと、気がついたのだ。
たッた今まで、敵意に燃えていたが、思い当ると、自分は今夜、闇太郎を斬りに出ただけだ。だのに、強敵に打ッつかって、今更、これは身の上だ――
ハッと、おびえが来たに相違ない。
――退くなら今だ!
と、いう気配――雪之丞に、いつ通じたか、冷たい微笑がうかんで、ツ、ツと、付いて行ったと思ったが、
「御免!」
ビュッと、匕首が斜めに飛ぶと、平馬の頬先へ――
タラリと、流れる血――
――もう駄目だ、逃げられぬ。
と、思い知ったに相違ない平馬、窮鼠、猫を噛もうと、
――ガ――ッ!
と、大刀を突くと見せて、胴に来る。
雪之丞の全身が、飛び立つ鳥のよう、
「えい!」
烈虎の気合――うしろにいた闇太郎さえ、ズーンと、恐怖が、背すじを走るのをおぼえたが、
「うおッ!」
と、いううめきが荒っぽく平馬の咽喉を洩れた。
門倉平馬の、咽喉の奥から、雪之丞の匕首の一閃と同時に、
「うわあ!」
と、いう、知死期のうめきが洩れて、やがて、上半身がうしろにのけぞったと思うと、腰がくだけて、ドタリと横ざまに朽木のように仆れたが、それと間髪をいれず、今一人の、生きのこりが、われにもなく、磁鉄に吸われたように振り込んで来る。
雪之丞は、かわしもせず、ビュウンと、大刀を、匕首の鍔ぎわで刎ね返して置いて、胸元を一突き――蹴返して、スッと、片入身に立って、あたりを見まわした。
もはや、立ち向って来る者もない。冴えた腕に、処理されたこととて、いずれも、一突き、一薙ぎで、そのまま、うんともすうとも息を吹くものもない。
「やっぱし、千両役者だなあ!」
と、闇太郎は、太い息をついて近づいた。
「これだけの騒ぎに、返り血も浴びねえというのだから驚いたもんだなあ――」
「これで、まあ、長いこと、つきまとった、毒蛇のようなものを、始末をつけてしまいましたが――親分」
と、雪之丞、なだらかな呼吸で、闇太郎をかえりみて、
「もう、残ってはおりませぬか――」
「おいらが斬ったのは、フヨフヨしていたが、それも大てい片づいたようだ。おまはんの刃にかかった奴は、ぎゅうも、すうもなくまいッているよ」
「では、人目にかからぬうち、引きとるとしましょうか――」
「おお、一刻も早く逃げようぜ」
血なまぐさい、生ぬるい風がただよう河岸を、いかつい影と、やさしい姿が、肩を並べるようにして立ち去った。
みちみち、闇太郎が、
「何にしろ、このいきで、ずんずん突ッ込んで行くことだ。あしたはかまわねえから、三斎屋敷に乗り込みねえよ――なあに、万事、スラスラ片づくにきまっている」
「何分相手は、土部一族、強敵に相違ありませぬが、一生をかけての仕事、かならずやりとげて、御覧に入れましょう」
「うむ、その決心なら大丈夫だ」
と、闇太郎ははげますようにいったが、ふと、しんみりした調子になって、
「ところで、おいらは、自分のことを、ふッと思い出したんだが、不思議なもので、おまはんと懇意に成ってから、妙に、盗ッとごころがなくなったような気がするのだ。自分ながら、変てこでならねえのだが――」
雪之丞は、黙していた。
「これまでは、夜道ばかりじゃねえ、まっぴる間でも、外をあるいていて、屋敷、やかたが目につくと、すぐに黄金の匂いが鼻に来て仕方がなかったものだ。それが、このごろは、まるで気がつかず通りすぎてしまって、あとで、オヤと思うようになったのさ――こんな風じゃあ、商べえは上ったりだ――思い切って、転業でもしてしまわなけりゃあなるめえよ」
「まあ、親分、それを、本気でいって下さるのですか?」
と、雪之丞は、うれしげに、手を取らんばかり、
「それが、ほんとうなら、どんなにうれしいか知れませぬ」
「ウム、おまはんも、よろこんでくれるに相違ねえと思っていたが、しかし、やっぱし、さびしい気がしてなあ」
闇太郎は、はかなそうに、白い前歯をあらわして笑った。
浪路の、亡きがらが、闇太郎の手で、思いもよらず屋敷へはこび込まれた、その翌日、三斎も、当主の駿河守も、さすがに驚き呆れてどのような形式で、喪を発したらいいかと、その方法に悩み尽しているところへ、急に先ぶれがあって、大目付添田飛騨守の出ばりが告げられる。
大目付の出張――三斎、駿河守相顧みて顔いろを変えざるを得ない。
取りあえず、駿河守、衣類をあらためて待つところへ、馬上で乗りつけて来た、添田大目付――清廉剛直な性で、まだ三十を幾つも越さず、この大役をうけたまわっている人物、出迎えの土部父子に軽く会釈をすると、
「役儀なれば、上席御免、且、言葉をあらためますぞ」
と、むずと、上座に押し直ると、白扇を膝に、父子を見下ろして、
「土部駿河守、父三斎、隠居の身を以ってお政治向に口入、よろず我儘のふるまいなきに非ざる趣、上聞を達し、屹度、おとがめもあるべきところ、永年御懇旨の思召しもあり、駿河守の役儀召上げ、甲府勤番仰せつけらるることと相成った。右申し達しましたぞ」
――さては、浪路が大奥を出て失踪の身となっている間に、政敵が手をのばして、営中の勢力を根こそぎにしてしまったものだな。
と、察した父子――しかし、今更、何と言いわけをするすべもない。
「恐れ入り奉る」
と、お受けをして、立ち戻ろうとする大目付の袖をひかえて、
「お役儀、おすみなされたのちは、別間にておくつろぎを――」
と、馳走した上、音物を贈って、さまざま君前を申しなだめて貰いもし、また、営中の形勢をも問い訊そうとしたのだが、飛騨守は、袂を払って、
「いや、なお、御用多繁――それに、何かお館うちにも取り込みがある容子、これにて御免を蒙る」
と、立ち戻ってしまう。
三斎父子は、そこで、茫然たるばかりだ。異常な裏面的関係で、勢威を張り、利得をむさぼっていただけに、一朝、土台がゆるげば、もはやそれまで、積み重ねた瓦が崩れるように、ガラガラと滅亡してゆく外はないのだ。
土部家を、助けようためには、たった一ツ、法がのこっていぬではない――それは、三斎が、ふくみ状に、一切の罪をわびて自殺し、公方の哀憐を求めれば、或は、伜だけは、不名誉からすくわれるかも知れぬが、それが出来る三斎ではない。狡智で、一生を、楽々と送ることばかり考えて来た人間だ。
「伜、まだ、狽てるには及ばぬぞ――老中、若年寄、わしと、親類同然にまじわったこともある人々じゃ――何とか、手立てが残っておらぬでもあるまい」
冬の日が、わびしく夕ざれて、夜になって、仏間の方では、枕経のこえが、うら淋しく断続している。
今は、父子、死んだ浪路より、わが身の上と、いそいそと談合にふけっているうちに、宵もすぎたが、すると、家来が来て、中村座の雪之丞が、久々にて、機嫌うかがいのため、参館したことを知らせるのだった。
「ナニ、雪之丞が――」
と、三斎は眉をよせたが、さすが、娘が死ぬ程恋した相手と思えば、すげなくも出来なかったか、
「通せ」
いつも通される奥まった離れにしずかに坐って、三斎隠居の出を待つ雪之丞の心は、水のように澄みかえっている。
ここまで押しつけて来て、彼は、何を思い悩み、案じ煩う必要があるのだろう――天意が、力を貸してくれたというか、神仏が見そなわしたというか、いのちがけで抱いて来た復讐の大望は、彼が、こうしたいと思う以上に、先方から動いて来て、父母が呪った悪人たち五人のうちの四人は、もはや生の断崖のかなたに蹴落されてしまったのだ。
しかも、その死に方の、どれもこれもが、雪之丞自身で手を下したより、百倍も浅間しくみじめな、けだものじみた最期を遂げねばならなかった。
そして、残っているのは、この土部三斎一人。
――今夜だ。
と、雪之丞は、喪の家の、不思議な沈黙と、侘しい香の匂いとを、かすかに感じながら、こころに呟く。
――この家のあるじは、わたしというものが、どんな人間かそれを知らねばならぬ。それを知ったなら、あるじは生きてはいまい。人間の怨念、執着というものが、どれほど激しく勁いものかを知ったなら、恐ろしさに生きつづける気はしなくなるであろう。それとも、さすがは、悪の統領だったお人、わたしに刃向って見ようとするであろうか?
雪之丞は好みの、雪投げの寒牡丹の衣裳に、女よりもなよやかな身をつつんで、つつましく坐ったまま、不敵な微笑を、美しい紅い口元にうかべた。
すると、気配がして、振袖小姓がはいって来て、あるじのために褥なぞととのえた。
かすかなしわぶき。三斎隠居の姿があらわれた。
隠居は、めっきり窶れている。が、彼は、相変らず、不敵なほほえみを絶たなかった。
ひれ伏す雪之丞をながめて、
「ようこそ太夫――初下りの顔見世興行も、首尾よう大入りつづきであったよしで、目出たいな」
それには、雪之丞は、答えなかった。平伏したまま、なかなか面をあげぬ。
「雪之丞、おもてをあげなさい。何も、そううやうやしゅう致すにも及ばぬことじゃ」
雪之丞は、顔をあげたが、その頬が涙にぬれているように見える。
三斎は、その涙を見つけて、
「お、太夫、泣いているな?」
「は、御無礼、おゆるし下さりませ――つい、さまざま、思い出しまして――」
「思い出したとは? 何を?」
「わたくしめが、顔見世狂言にまねかれて御当地にまいり、中村座に出ましたはじめ、御一門さまの御見物をいただき、天にも昇る気がいたしましたが、あのおり、おさじきにお並びなされました方々が、御隠居さまをのぞきまいらせ、ことごとく、もはやこの世においであそばさぬことを思いますると、つい、泣けてまいりまして――」
「なんと、雪之丞、しからば、その方、浪路めの不幸をも存じておるとな!」
と、三斎、屹ッとする。
「それを知らずに何といたしましょう――あまりの恐れ多さに、おぼし召しには背きましたなれど――あれまで、お情をたまわりましたお方のことでござりますもの――」
雪之丞は、もはや、三斎の視線を恐れずに答えた。
雪之丞は、言葉をつづける。
「それにいたしましても、御息女さまをはじめ、浜川、横山おふた方、広海屋、長崎屋のお二人――引きつづいての御最期は、何ということでござりましょう。わたくしには、因縁ごとのように思われまして、空怖ろしゅうてなりませぬ」
三斎は、フッと、何か気がついたように眉をひそめた。
「ふん、浪路のことは別として、世に秘められた、浜川、横山の非業の最期、さては、このわしへさえ、たったさっき、知らせがあったばかりの、広海屋、長崎屋の不思議な死に様――それを、そなたは何ゆえに知ったぞ?」
と、いかつい目つきになったも無理はない。
雪之丞は、容をあらためた。もはや、彼の目に涙は無かった。
「はい、実は、このわたくし、浜川、横山おふた方をはじめ、広海屋どの、長崎屋どのにも、昔より深いえにしがある身でござります。それゆえ、あの方々のお身の上は、いつも、何から何まで響いてまいりますので――」
「ふうむ」
と、三斎はうなった。
「最初から、そなたの身には、いぶかしいことが、まつわっているようわしには思われていた。そのたけたすがたに似もやらぬ、武芸のたしなみといい、何とはなしに感じられる、身のまわりの妖気――浪路が、一目見て、いのちもと思い込んだにも、奇しさがある――さては、切支丹ばてれんの術をも学んだものか!」
雪之丞の紅唇が、冷たくほころびた。
「わたくしは、天下の御法を守るということでは、自分でもたぐいないものと存じます。とうに手を下して恨みを晴らすべき人々をさえ、刃にもかけず、じっとながめているわたくし、何で、切支丹の御禁制なぞ破りましょうや!」
「ナニ、奇怪な言葉のはしばし――手を下して恨みを晴らすべきものをも、討たずに忍んでいると言うのか? そなたは敵持ちか? これ、雪之丞」
と、三斎隠居は、相手の冷殺とした鬼気に打たれたようにしてみつめていたが、
「逢うたはじめより、何とはなしに、誰ぞに、おもかげが似寄ったように思われる太夫――一たい、そなたはどこの生れぞや?」
「御隠居さま――いいえ、そのかみの長崎奉行、土部駿河守さま――わたくしのおもばせに、それではお見覚えがおありあそばすのでござりましょうか?」
雪之丞、少し、身を斜めにするようにじっと相手の面体に、冴えた目を据えた。
「うむ――たしかに、誰ぞ、似た顔を見たような――」
三斎は、ますます魅入られたもののように瞳を凝らす。
しかも、だんだん、その表情に恐怖と不安とが添わって来て、やがて、
「おお、そうじゃ! たしかに、かの者に!」
と、叫んだが、自分を押えはげますように、
「いやいや、そのようなことがあるはずがない――馬鹿らしい妄想だ。雪之丞、何でもないのだ。わしは少し頭が疲れていると見えるぞ」
雪之丞は、三斎を勁い目でみつめたまま、しかし口元の冷たい笑いを絶たなかった。
「長いようで、短い一生――短いようで、長い一生――いろいろなことが、この世では、あるものでござります。わたくしも、こうして、御身分高い、あなたさま方に、お目通りが叶うことが、この世であろうなぞとは――」
「う、うむ」
と、三斎隠居は、だんだん青ざめながらうなりつづけるのだった。
「う、うむ――わしの目に狂いのあることはない――わしの目が、どんな珠玉、錦繍の、まがい、本物を間違えたことはない――たしかに、見覚えのある顔だ――目だ――唇だ――すがただ」
「ほ、ほ、ほ、そんなにお見つめあそばして、お恥かしゅうござります」
と、雪之丞は、紅い口に銀扇を押しあてて笑ったが、
「一たい、どこのどなたさまに、わたくしが、お似申しているのでござりましょう?」
「それが、思い出せぬ――いまいましいほど、どこかにこだわりがあって、思い出せぬ」
と、三斎隠居は、物に憑かれたように、みつめつづけるのだった。
「では、わたくしが、ほんの心あたりを申し上げて見ましょうか――」
雪之丞は、いよいよ冷たく笑って、
「わたくしの方も、思いだせるようで思いだせませぬが、この身もおさないころ、長崎に生い立ったこともござりますゆえ――」
「えッ! そちが、太夫が、長崎で!」
と、三斎、叫んだと同時に、顔いろが、青葉のように化った。
「はい、長崎で、育ったものでござりますが、これ、土部の御隠居――」
雪之丞は、そう凄然たるこえで呼びかけると、深くうつむいて、しばし荒い息をしたが、サッと、振り上げた顔――
「土部の御隠居――この面かげ、今はハッキリと、お思い当りましょう!」
「わあッ!」
と、いうように、悲鳴に似たものを揚げて、三斎、のけぞるばかり――
「や、や! そなたは、長崎松浦屋の――」
「はい、わたくしのこの顔に、母親のおもざしが、いくらかのこっておりましょうか――」
と、突きつけたその顔には、恒より老け窶れた衰えがすわり、目隈が青く、唇が歪んで世にもすさまじい、三十おんなの恨みの表情が、一めんに漲っている。
「な、これなら、お思い出しになりましたろうがな――」
土部三斎、駿河守の昔から、剛腹一方、怖れも懸念も知らずに押し上って来た人物だが、それが何たること――片手を畳に、片手を前に突き出して、腰さえ畳に落ちつかない。
「そ、そのようなことが、あるはずがあるものか――」
と、わなないて、
「決してない――そのようなことは断じてない――」
「どのような、不思議なことも、この世にないことはござりませぬぞ、御隠居さま――」
と、ぐうっと、乗り出して、
「御隠居さま、さ、ハッキリと、思い出しなされませ――わたくしの母のおもかげを――どうぞ、御隠居さま!」
「じゃと、いうて、わしは、何もそなたの亡き母を、責め殺したわけではない――」
と、三斎老人は、もがいた。
「わしは、そなたの母御が、好きであったのだ――どうにもして、わがものにしたかったのだ――それは、いいことではなかった――わるいことであった――が、わしが、そなたの母御を、忘れかねたのは、ほんとのことじゃ――いつわりではない――」
「母は、父親の女房だったのでござります――それを、言うことを聴きさえすれば、松浦屋を、つなぎとめるの、つぶすのと、くるしめ、いじめ――とうとう、あわれな母は、舌を噛んで、こう舌を噛んで亡せたのでござりますぞ――」
「ゆ、ゆるしてくれ、雪之丞――ゆるしてくれ! ああ、今ぞ思い当ったぞ――この一ヵ月に、思いもよらず、長崎以来一党の滅亡――さては、そなたの呪いであったのだな――」
三斎隠居は、部屋の隅に、追いつめられたようになって、目を両手でふさごうとする。
「ま! ごらんなさりませ――母は、こうして、われとわが舌を噛んで、果てたのでござりますぞ」
雪之丞、紅い美しい舌の先きを歯の間に、ぐっと噛みしめるようにする。
三斎は、狂おしげに、
「やめてくれ! やめぬか! う、う、う、息苦しい! 息づまる!」
と、胸のあたりを、かきむしるように、
「苦しい! 胸が! や、やぶけそうだ!」
激しい、心身の動揺のあとで、この夜更け、人無き一間で、雪之丞から、まざまざと、昔の罪科を並べられた三斎、恐怖の牲となって、ために、心臓に強烈な衝撃をうけて、もはや、生き直る力もない。
「むうむ!」
と、一こえ、物すごくうめくと、そのまま、居すくみに、絶息してしまった。
雪之丞は、片膝を立てて、ぐっと、睨めつづけていたが、やがて、立ち上って、
「土部どの、これにて、この世の怨みは消えましたぞ!」
と、手を合せる。
と、同時に、老人のからだは、ばたりと前につくばってしまったのだった。
雪之丞、何気なく、廊下に出ようとしたのは、もはや用なき館、今夜の混雑にまぎれて、忍び出てしまおうとしたのであろう。
すると、この三斎常住のはなれと、例の宝ぐらをつなぐ、暗い、冷たい渡りで、女のこえ――
「すごいねえ、太夫!」
ハッとして見返ると、なんと、そこに、紫いろの、お高祖頭巾、滝じまの小袖、小脇に何やら角い包をかかえるようにして、佇んでいたのが、軽わざのお初だ。
「ほんとうに、おどろいた事ばかりだよ。なるほど、こうした大望を持っていた、おまえを、あり来たりの役者のようにあつかおうとしたあたしは、けちだったねえ――へまをやったねえ――江戸の女泥棒は、わからねえと、おかしかったろうねえ――」
と、いって、淋しげになって、
「こんなところを見せてしまっちゃあ、なおさら、この上いろ恋でもあるまい。さっぱりあきらめますから、これからさきは仕合せに――」
雪之丞は、小膝をかがめて、そのまま、廊下へ出てしまった。
土部三斎を、密室の中で自滅させてしまった雪之丞、これで、思いのこすこともない――まず、第一に、師匠菊之丞に――それから、脇田一松斎、孤軒老師をもたずねて、永年の、かげになりひなたになっての恩顧を謝し、とにもかくにも、今後の身のふり方を定めようと、松枝町の屋敷から、わが宿にかごをいそがせようとしたが、途中まで来て、フッと、胸に来たのが、昨夜の闇太郎のわびしげな述懐や、うしろすがた――
――そうじゃ、三人の恩人は恩人、わたしのために、いのちを的にしてくれた闇さん、今夜の首尾を、あの人に、お話しせねば、心がすまぬ――
恰度、奥山に近いところまで、かごが来ていたので、
「かごの衆――」
「へえ」
「途中、ブラブラ歩きたいゆえ、ここで下ろして貰いたい。これで一口――」
と、酒手を渡して、下りて、さして行く、裏田圃――
もはや、闇太郎の隠れ家は、かしこと、指さされるあたりまで来て、雪之丞の足はハタと止り、目は見すえられた!
「おッ、あれは!」
まごうかたなき、闇太郎住居とおぼしき小家を、星ぞらの下、提灯の火が幾つかちらばるように囲んで、黒い人影が、右往左往している。
雪之丞の胸は、早鐘を打ッた。
「あれは、たしかに捕方! さては闇さんを捕りに向うたか――」
と、口に出して、叫んだが、
「あのように、改心した――もはや盗みはする気がないと、あれまで決心した今日の日になって!」
雪之丞、ぐっと、唇を噛むと、小褄をかかげて、息をととのえて、闇の中を、ひた走りに駈け出した。
捕方勢に、気づかれぬ間に、近づいて、耳をすますと、捕頭が、部下を環にあつめて、
「さて、いよいよかかるぞ! 江戸ではじめての、神出鬼没といわれた闇太郎、かく、隠れ家をたしかめ、たしかに潜みおるを知った上は、捕りにがしたら、お上の御威光に傷がつく――よいか、しっかりやれ! どじを踏むと、八丁堀の息のかかる、御朱引内で、十手は持たせねえぞ! いいか!」
「わかりやした」
と、目明しの親分らしいのが、うなずく。
「それ!」
と、同心が、振った十手、バラバラと、捕手たちが、小家をかこんで、表にまわったのが、トントンと、雨戸をたたいて、
「もし、そこの休亭から、使いにめえりやしたが、御懇意のお人が、ぜひ、このふみを届けてくれとのことでござんすが――」
「ナニ、休亭のお客からふみだと! よる夜中ごくろうだな――その戸の隙から、ほうり込んで行ってくれ」
闇太郎の、落ちつき払ったこえ――その語韻を聴きすまして、身を忍ばせた雪之丞、いくらか、ホッとする。
――おお、あれなら、もう知っている、さすがは闇さん、立派なものだねえ。
すると、突然、裏手の水口にまわっていた五人ばかりの捕方、肩をそろえて、やくざな戸に、どんと打ッつかると、バタリとはずれた引戸――それをふみこえて、
「闇太郎、御用だ!」
「御用だ!」
と、飛び込んでゆく。
ダーッと、踏み込んで行った捕方たち、――それを、肩すかしで、かわしたように、家内から飛び出して来た、黒い人影――
――あ? 闇の親分だ。
雪之丞、じっとみつめて、立木の蔭でつぶやいたが、
――あれ、また、まつわる捕手――いっそ、一思いに、匕首で、斬っぱらってしまったら、よさそうなものなのに――
雪之丞が、間遠に見て、歯を噛んでいるうちに、又もや、斬り抜けた闇太郎、結句、またも、多勢にかこまれて、身じろぎに、不自由を覚えて来た容子――
――相手は多い! 早う、親分お逃れになって――
が、見る見る、ひしひしと取り巻いて来る同心、捕方――
――なぜ、いつまでも、抜かないのだろう。親分は――若し、つかまってしまったら、どうなさるおつもりなのだろう。
見るに見かねて、雪之丞、歯を噛むと、帯の間の懐剣を、ギラリと引き抜いて、立木の蔭を飛び出すと、タ、タ、タと、近づいて、
「御免!」
と、一声、額にかざした紫電のひらめき――
「親分、お逃げなさい!」
と、呼びかけるなり、突くと見せて斬る。斬ると見せて突く。
「助勢が出たぞう! 気をつけろ!」
「親分、おのがれなさい! あとは、わたしが引きうけますほどに――」
「それよりも、おまはんの仕事、しすましたか?」
と、闇太郎が、だしぬけの雪之丞の出現にもかかわらず、驚きもせずに叫んだ。
雪之丞はうなずいて、
「かたじけのうござんす――こよいで、みんな、すみました」
「それはいい――では、このおれにも、心のこりは何もない。さあ来い! 目明しども!」
「親分、悪い! 早う消えて下さらねば――」
「逃げるなら一緒に逃げよう。雪さんどこまでも――」
「あい。そうしましょうか!」
闇太郎、雪之丞、匕首を高くかざしたから、近づく相手が、たやすくかかろうはずがない。
浅草田圃から、いつか、吉原土手を、南につたわって、二人ちりぢりに、見えなくなってしまった。
朝になると、雪之丞は、もう、昨夜のことは、忘れ果てたように、何のこだわりもなく、師匠、菊之丞の前にすわっていた。
菊之丞はしみじみと、愛弟子の顔をながめて、
「して、そなたは、まだ、舞台をつとめる気かや?」
「はい、いつまでも、お側にいて舞台の芸でも、御満足を得たいものと思っておりますが――」
「それなれば、師走狂言の、顔世、勘平、見ごとつとめて見なされよ」
「はい。出来ますかぎりは、つとめさせていただきましょう」
雪之丞が、このときほど、心たのしげに、役の話をするのを見たことはなかった。
さて、それから、幾日か経って今日は、中村座、師走狂言、忠臣蔵通し芝居の初日だ。
――初日ながら総幕出揃い、仕落しなく演じ申すべく候えば、何とぞにぎにぎしく云々。
と、かねて撒かれた散らしで、吸い寄せられた江戸の好劇家たち、滝夜叉であれほど売った雪之丞が、初役、色事師として勘平というのを、どんな風に仕こなすだろうと、暗いうちから、いやもうはち切れるほどの大入りだ。
その見物の中には、向う正面の、例のつんぼ桟敷というのに頑張った、五十左右の立派やかな武芸者と見える人物と、白髪白髯の瓢亭たる老人が、一しんに、舞台に見入っているのが見られたが、これが脇田一松斎と、孤軒老人――
雪之丞の技芸に、すっかり魂を吸われた男女が、道行きぶりの華やかさに、うっとりと見とれているとき、
「今度の、あの者の仕事は、わしどもが力を添えねば、仕遂げえぬかと思いましたが、案外スラスラと――」
と、孤軒老人が、
「あれも、なかなか人間も出来て来ましたの」
「はい、拙者も、何かの折は、一肩入れねばと、思い設けていましたが、さすが、おさない折より老師の御教訓――やはり、ほんとうの修業が出来ておりますと、どんな大事も、一人立ちで仕上げますな。まずは感心しました」
「それに何よりなのは、かの者、どこまでも、役者で生き抜こうとすることじゃな。何を致しても一生――芸道も、奥が知れぬものであろうゆえ、やりかけたわざを、つとめて行くが一ばん――」
「あれは、内気で、しおらしいところがありますからな」
二人は、小さな猪口を、さしつおさえつ、さも楽しげに献酬しながら、演技に見惚れるのだった。
道行きが、にぎやかなとったりがからんで、幕になって、当の雪之丞、楽屋にもどると、そこに待っている男衆の中に、何と、闇太郎がすっかり芝居者になって、にこにこしていた。
「親方、来ていますぜ」
「どなた? お二人の方たち?」
と、床山に鬘をはずさせながらたずねると、
「いんえ、あれでさ――あの軽業がさ――あの女も、大そうすまして、ちんとして、淋しそうでしたよ」
「ほう、それは気がつかなかったが――」
雪之丞とて、お初の、うら淋しさがわからぬではない――が、いつまでも、盗みの道から抜け出ることの出来ない彼女は、その道を行くほかしかたがないであろう。けれども、闇太郎は別だ。彼は、この興行がすめば、名残りを惜しみつつも、この大江戸から、ふたたび、坂地へと戻るであろう雪之丞の供をして、西へと上って行く男だ。
――あッしも江戸ッ子だ。故郷は捨てにくいが、おまえさんのいなさるところなら、どこへでも行く気になりましたよ。
と、あの危急の晩、雪之丞にすすめられて、しおらしく手を突いた彼だったのである。
この物語は茲に了る。が、悲しい後話をつたえて置かねばならぬのは、かほど秀れた性格の持主雪之丞は、麗質を天にそねまれてか、後五年、京坂贔屓の熱涙を浴びながら、芳魂を天に帰したことである。あまりに一心に望んだ仕事を果したあとでは、人間は長く生き難いものと見えるのだ。
(終り)
底本『大衆文学大系12』一九七二年三月 講談社刊
底本『大衆文学大系12』一九七二年三月 講談社刊