一

 一九四五年八月十五日の日暮れ、妻の小枝が、古びた柱時計の懸っている茶の間の台の上に、大家内の夕飯の皿をならべながら、
「父さん、どうしましょう」
ときいた。
「電気、今夜はもういいんじゃないかしら、明るくしても――」
 茶の間のその縁側からは、南に遠く安達太郎あだたら連山が見えていた。その日は午後じゅうだまって煙草をふかしながら山ばかり眺めていた行雄が、
「さあ……」
 持ち前の決して急がない動作でふり向いた。そして、やや暫く、小枝の顔をじっと見ていたが、
「もうすこしこのまんまにして置いた方が安全じゃないか」
と云った。
「――そうかもしれないわね」
 小枝は従順に、そのまま皿を並べつづけた。
 台の端に四つになる甥の健吉を坐らせ、早めの御飯をたべさせていたひろ子は、この半分息をひそめたような、驚愕から恢復しきれずにいる弟夫婦の問答を、自分の気持にも通じるところのあるものとしてきいた。
 東北のその地方は、数日来最後の炎暑が続いていて、ひどく暑かった。粘土質の庭土は白く乾きあがって深い亀裂が入った。そして毎朝五時すぎというと紺碧のかがやく空から逆落しのうなりを立てて、大編隊の空襲があった。
 前夜も、その前の晩もそうであったように、八月十四日の夜は、十一時すぎると空襲警報が鳴り、午前四時すぎ迄、B29数百機が、幾つもの編隊となって風のない夏の夜空をすきまもなく通過した。おぼつかないラジオの報道は、目標は秋田なるが如しと放送していたが、それを信じて安心しているものは一人もなかった。富井の一家が疎開してきて住んでいる町の軍事施設や停車場が猛烈な空爆をうけたとき、空襲警報のサイレンは、第一回爆撃を蒙って数分してから、やっと鳴った始末であった。
 十四日の夜は、行雄とひろ子とがまんじりともしないで番をした。壕に近い側の雨戸は、すっかりくり開け、だまって姉弟が腰かけている縁側のむこうには、おそく出た月の光で、ゆるやかに起伏する耕地がぼんやり見えた。米軍機の通過する合間を見ては、町の警防団が情勢を連呼していた。そのなかに、一つ女の声が交って聞えた。細いとおる喉をいっぱいに張って、ひとこと、ひとこと、「てーきは」と引きのばして連呼する声を聴いていると、ひろ子は悲しさがいっぱいになった。低く靄がこめている藷畑いもばたの上をわたって、大きい池のあっちから、その女の声はとぎれとぎれにきこえた。責任感でかすかにふるえているかと思うその中年の女の声は、ひろ子に田舎町のはずれに在る侘しいトタン屋根の棲居すまいを思いやらせた。古びた蚊帳の中で汗をかきかき前後不覚に眠ってしまった何人かの子供らの入り乱れた寝相と、一人の婆さまの寝顔とが思いやられた。その家には、たしかに男手が無いのだ。
 三人の子供をつれて小枝が横になっている蚊帳をのぞくと、どんなに足音を忍ばせて近づいても必ず小枝は、
「どう? 御苦労さまね」
と、おとなしく、心配にみちた声をかけた。
「父さんもいるの? 今夜は、なんてどっさり来るんでしょう」
 いざというとき子供たちを抱え出す足許をやっと照すだけの明りが、用心深くかこわれて、小枝の枕頭に置いてある。蚊帳の青味と隈の濃いその灯かげの陰翳いんえいとで、美しい小枝の小鼻は、白い枕被いの上で嶮しくそげて見えるのであった。
 最後の編隊が、耕地の表面の土をめくり上げるような轟音をたてて通過した。そのあとは、いくら耳をすましても、もう空は森としていて、ひろ子は急に体じゅうの力がぬけてゆくのを感じた。
「――すんだらしいわね」
 もんぺ姿の小枝が蚊帳からにじり出て来て、さもうるさそうに頭をふり、頸のまわりから防空頭巾の紐をといた。行雄は、靴ばきで踏石の上に立ったまま、煙草に火をつけた。行雄は最初の一服を深く、深く、両方の頬ぺたをへこますほど長い息に吸いこんだ。
 十五日は、おそめの御飯が終るか終らないうちにサイレンが鳴った。
「小型機だよ! 小型機だよ!」
 十二歳の伸一が亢奮こうふんした眼色になって、駈けだしながら小さい健吉の頭に頭巾をのせ、壕へつれて入った。三日ばかり前この附近の飛行場と軍事施設とが終日空爆をうけたときも、来たのは小型機の大編隊であった。
「母さん、早くってば! 今のうち、今のうち!」
 小枝が病弱な上の女の児を抱いて一番奥に坐り、一家がぎっしりよりかたまっている手掘りの壕の上には夏草が繁っていた。健吉が飽きて泣きたい顔になると、ひろ子はその夏草の小さい花を採って丸い手に持たせ、即席のおはなしをきかせるのであった。この日は、三時間あまりで十一時半になると、急にぴたりと静かになった。
「変だねえ。ほんとにもういないよ」
 望遠鏡をもって、壕のてっぺんからあっちこっちの空を眺めながら、伸一がけげんそうに大声を出した。きのうまでは小型機が来たとなったらいつも西日が傾くまで、くりかえし、くりかえし襲撃されていたのであった。
「珍しいこともあるものねえ」
「昼飯でもたべにかえったんだろう。どうせ又来るさ」
 そんなことを云いながら、それでも軽いこころもちになって、ぞろぞろ壕を出た。そして、みんな茶の間へ戻って来た。
「御飯、どうなさる? 放送をきいてからにしましょうか」
 きょう、正午に重大放送があるから必ず聴くように、と予告されていたのであった。
「それでいいだろう、けさおそかったから。――姉さん、平気かい?」
「わたしは大丈夫だわ」
 伸一が、柱時計を見てラジオのスイッチ係りになった。やがて録音された天皇の声が伝えられて来た。電圧が下っていて、気力に乏しい、文句の難かしいその音声は、いかにも聴きとりにくかった。伸一は、天皇というものの声が珍しくて、よく聴こうとしきりに調節した。一番調子のいいところで、やっと文句がわかる程度である。健吉も、小枝の膝に腰かけておとなしくまばたきしている。段々進んで「ポツダム宣言を受諾せざるを得ず」という意味の文句がかすかに聞えた。ひろ子は思わず、縁側よりに居た場所から、ラジオのそばまで、にじりよって行った。耳を圧しつけるようにして聴いた。まわりくどい、すぐに分らないような形式を選んで表現されているが、これは無条件降伏の宣言である。天皇の声が絶えるとすぐ、ひろ子は、
「わかった?」と、弟夫婦を顧みた。
「無条件降伏よ」
 続けて、内閣告諭というのが放送された。そして、それも終った。一人としてものを云うものがない。ややあって一言、行雄があきれはてたように呻いた。
「――おそれいったもんだ」
 そのときになってひろ子は、周囲の寂寞せきばくにおどろいた。大気は八月の真昼の炎暑に燃え、耕地も山も無限の熱気につつまれている。が、村じゅうは、物音一つしなかった。せきとして声なし。全身に、ひろ子はそれを感じた。八月十五日の正午から午後一時まで、日本じゅうが、森閑として声をのんでいる間に、歴史はその巨大な頁を音なくめくったのであった。東北の小さい田舎町までも、暑さとともに凝固させた深い沈黙は、これ迄ひろ子個人の生活にも苦しかったひどい歴史の悶絶の瞬間でなくて、何であったろう。ひろ子は、身内がふるえるようになって来るのを制しかねた。
 健吉を抱いたまま小枝が縁側に出て、そっと涙を拭いた。云いつくせない安堵と気落ちとが、夜の間も脱ぐことのなかった、主婦らしいそのもんぺのうしろ姿にあらわれている。
 伸一が、日やけした頬をいくらか総毛立たせた顔つきで、父親の方からひろ子へと視線をうつした。
「おばちゃん、戦争がすんだの?」
「すんだよ」
「日本が敗けたの?」
「ああ。敗けた」
「無条件降伏? ほんと?」
 少年の清潔なおもてに、そのことは我が身にもかかわる屈辱と感じる表情がみなぎっているのを見ると、ひろ子はいじらしさと同時に、漠然としたおそれを感じた。伸一は正直に信じていたのだ、日本が勝つものだと。――しばらく考えていてひろ子は甥にゆっくりと云った。
「伸ちゃん、今日までね、学校でもどこでも、日本は勝つとばかりおそわったろう? おばちゃんは、随分話したいときがあったけれど、伸ちゃんは小さいから、学校できかされることと、うちできくことと、余り反対だと、どっちが本当かと思って困るだろうと思ったのさ。だから黙っていたのよ」
 戦争の十四年間、行雄の一家は、初から終りまで、惨禍のふちをそーっと廻って、最小限の打撃でさけとおして来ていた。主人の行雄が、本人にとっては何の不自由もない些細な身体上の欠点から兵役免除になっていた。それが、そういう生活のやれた決定的な理由であった。所謂いわゆる平和建設の建築技師である行雄は経済封鎖にあっていた。手元も詰りながら、一般のインフレーションの余波で何とか融通がついて、一年半ほど前から祖父が晩年を送ったその田舎の家へ一家で疎開暮しをはじめたのだった。
 戦争中、新聞の報道や大本営発表に、ひろ子が、疑問を感じる折はよくあったし、野蛮だと思ったり、悲惨に耐えがたく思ったりすることがあった。ひろ子の気質で、そのままを口に出した。行雄は、それもそうだねえと煙草をふかしている場合もあったし、時には、姉さんは何でも物を深刻にみすぎるよ。僕たちみたいのものは、結局どうする力もないんだから、聞かされるとおり黙って聞いていりゃいいんだ。そう云って、眼のうちに暗い険しい色をうかべる時もあった。戦争が進むにつれて、行雄の気分はその面がつよくなった。行雄のそういう気持からすれば、息子がきかされる話についても神経の配られるのを感じて、ひろ子はたくさんの云いたいことを黙って暮して来たのであった。
 十五日は、そのままひるから夕方になり、やがて夜になっても、村じゅうの麻痺した静けさは変らなかった。
 翌日、ひろ子は余り久しぶりで、却って身に添いかねる平和な明るさの中でもんぺをぬぎ、網走の刑務所にやられている良人の重吉へ、たよりを書きはじめた。ひろ子が小娘で、まだ祖母が生きていた時分、祖父の遺愛の机として、赤銅の水滴だの支那焼の硯屏けんびょうだのが、きちんと飾られていたその机の上には、今ここで生活している若い親子たちの賑やかでとりまとまりのない日々を反映して、伸一の空襲休暇中の学習予定の下手なプリントや、健吉が忘れて行ってしまった玉蜀黍とうもろこしの噛りかけなどがころがっている。
 ひろ子は、少し書いては手を止めて、考えこんだ。網走の高い小さい窓の中で、重吉は、きっともう戦争の終ったことを知っているだろう。十二年の間、獄中に暮しつづけて来た重吉。六月に、東京からそちらへゆく前、面会所の切り窓から「まあ半年か、長くて十ヵ月の疎開だね」と云って笑った重吉。その重吉こそ、どんな心で、このニュースをきいたであろう。ひろ子は、こみ上げて来る声なきかちどきで息苦しいばかりだった。
 この歳月の間に、ひろ子は検閲のある手紙ばかり千通あまりも書いて来た。いつか変通自在な表現と、お互のわかりあいが出来て、自然の様々な景観の物語などのうちにも、夫と妻との微妙なゆきかいがこめられるようになっているのだった。手紙をかき出して、ひろ子は、いつか習得させられた自分の気の毒なその技術を、邪魔なばかりに感じた。ひろ子は、はっきり、それこそその手紙の眼目としてききたいことがあった。たった一行それだけ書けばいいということがあった。しかし、まだ、それは書けまい。いつお帰りになるでしょう。書きたい言葉はその一行である。ほんとに、重吉はいつ帰れるだろうか。
 この十四年ほどの間に、日本の治安維持法は、ナチスの予防拘禁所のシステムまで輸入して、息つくすきも与えないものとなって来た。狭い日本に張りつめたこの重石おもしは、先頃発表されたポツダム会議の決定によれば、直ちにとりのぞかれ、粉砕されるべきものとして示されている。支配者たちは、自分たちのこんな敗北さえも、野良や工場に働く人々には、すぐのみこめないような云いまわしであらわした。そこには、何処かで、出来る丈握っている繩の端を手離すまいと腐心している陰険さがうかがわれるのであった。治安維持法を、どういうやりかたで、どんな範囲で、彼等は処理しようとするのだろうか。
 ひろ子の書く手を止めるのは、この点について、経験した者でなくては想像しにくい程の苦しい不安と警戒とであった。一言、うれしい、という率直な表現をもつことさえも、重吉への手紙の中では安心できなかった。妻であるひろ子の、打ちひろげすぎた感情が、生きるために最小限の条件を確保するためにさえ、根づよく闘わなければならない重吉の体に、見えないところでてきめんな意地わるい仕打ちとして返されて行くようなことがあってはならない。こうして綴る一行一行のうちには、身もだえのように、脈搏つ心のうねりがある。いがぐり頭になって、煉瓦色の獄衣を着て、それでも歴史の前途はいとど明るし、という眼色でいる重吉は、このうねる熱さを彼の掌のなかにうけとった時、自分たち二人が時間と距離とにへだてられつつ、結ばれて生きて来た年月を何と顧るだろう。にわかに急な斜面がひらけたような今日の感動を、重吉もぐっと、その胸でこたえている。それが、まざまざと感じとられるのであった。
 ひろ子が机に向っている障子の外は、つい一昨晩まで、夜じゅう恐怖のうちに開け放されていた縁側である。いくつもの風呂敷包。リュックサック。食糧を入れた石油カン。そういうものが、まだほっぽり出されたまんま、そこにあった。雨戸が一二枚ひき残されていて、その節穴から一筋矢のように暑い日光が薄暗がりに射し込んでいる。亀の子に細引をかけた小型の行李が、丁度その光の矢を浴びている。
 自分も重吉のいる網走へ行って暮そう。文筆上の自由職業をもっているひろ子が、そう決心したのは七月下旬のことだった。何も知らずに、巣鴨宛に書いた重吉への手紙が、網走へ本人を送致したからという役所の附箋つきで戻されて来た。粗末な紙片に、にじむインクで書かれた網走という文字を見たとき、ひろ子は、自分の生きて来た張合が、すーと、遠くへ引き離された感じがした。網走というところは、名前ばかりで知っている。そこへやられた重吉と自分との間には、狭い日本の中ながら幾山河が在る。空襲が益々苛烈になり、上陸戦の噂もあったその頃の事情で、この幾山河は、場合によっては、二人の間が何年間か全く遮断されるかもしれないという心配をもたらした。
 ひろ子は、そこで暮していた東京の弟の留守宅の始末を全速力で片づけて、ともかく東北のこの町へ来た。そして、小一里ある停車場や交通公社へ行って津軽海峡を渡る切符が買えるのを待ちながら、旅の仕度をした。
 ひろ子のいるところでさえ八月になれば、山々の色が変化した。網走には、もう秋の霧が来ているだろう。オホーツク海からの吹雪が道を塞ぐ前に、せめて北海道まで渡りたい。ひろ子は寒いところでの暮しに役立ちそうな物を選んでは、夏の西日の下で小さい行李につめた。知り合いというようなものもいないそこで、どんな生活が出来るのか見当もつかなかった。保護観察所の役人は、くりかえし、ひろ子が行った先で人と交際することを禁じた。もうその頃、海を渡る旅行は体一つでさえ困難になっていた。道具めいた何一つも持っては行けない。それでも、棲むところは網走ひとつに思いきめて、ひろ子は青森が空襲をうける度に、あら、またよ、と歎息した。青森市は焼かれ、連絡船の大半が駄目になったのであった。
 切符が手に入れば、明日にもそちらへ行くと書いた手紙を封筒に入れながら、ひろ子は、ほんとに、この行李が海をこえるのかしらと思った。東京の親切な知人が、つてのない網走へゆくときめたひろ子を思いやって、すこし離れた都会にいる或る人に、紹介をたのんでくれた。待ちかねるほどたって返事が来た。ハガキにせわしい字で、当地も昨今は空襲を蒙るようになった。知人も疎開したり死亡したりしていて御希望に添うような便宜は得にくい、御主人によくお話になり、御渡道はお見合わせになるが然るべく、という意味が書かれていた。
「御主人によくお話になり」――云いつけで、ひろ子が遠いところへ行きでもするように。――懇篤な紳士と云われる人が、身に迫った戦禍に脅えて、浅く迅く視線を動かして身辺を視ている落付かないさまが、ハガキの面に溢れていた。またそこには、一人の女としてひろ子が体にからめて運んでいる面倒な事情も、おのずから影響していると思えた。
 実の弟の家へ逗留しているというだけなのに、町の特高は、同じ頃そこへ用向で訪ねて来た客たちの関係までを、訊きただした。駐在は親切で、お客があるときも、その名と年とを書き出してくれさえすれば、すぐ応急米を渡すから、と小枝に云った。小枝はよろこんでそのとおりにした。特高が来て、どうして知っているかと思うようなつまらない名をいうとき、それはみんな、米とつながる姓名なのであった。どうでしょう! 小枝は、眉をもち上げて首をすくめた。
 それらのあれこれに拘らず、ひろ子は網走へゆこうとしているのだった。
 封筒につかう糊をとりに立ってゆくと、茶の間に、きき馴れない男の声がした。もう大分酔いのまわった高声で、
「はア、どうも、こういう超非常時ででもねえと、思い切ってこちらさアは来にくくてね」
 行雄が、それに対して、おだやかに応答している。
「何しろ、もうこうなっちゃあ、酒でも飲むほッか、手はねえです。馬鹿馬鹿しいちゃ、話にもなんねえ。いかがです一杯――わしらの酒でも、はあ満更馬鹿にしたもんじゃない、純綿でやすって――ね、旦那、一杯。つき合いちゅうもんだ」
 ひろ子は、下駄をはいて、あんずの樹の陰から台所へまわった。小枝が、一方に柴木を積み上げた土間にかがんで、茶の間のやりとりに耳を傾けながら馬鈴薯の皮をむいていた。
「お客?」
 こっくりして、小枝が困ったという表情をした。
「だれ?」
「与田の音さん」
 町の、統制会社へ出ている男であった。
 ひろ子は、小さい健吉をつれて、往還の角にある郵便局へ手紙を出しに行った。いかにも明治になっての開墾村から町に変った土地らしく、だだっぴろい街道に、きのうまでは軍用トラックとオートバイが疾走しつづけていた。きょうは、そういうものはもう一つも通らない。街道は白っぽく、埃りをため、森閑として人気なく、おしつぶされたように低い家と家との間にある胡瓜きゅうり畑や南瓜かぼちゃ畑の彼方に遠く、三春の山が眺められた。
 草道をかえって来ると、茂った杉の木かげの門から、音さんの腕に肩をからまれながら出てゆく行雄のワイシャツ姿が見えた。

 十五日から、ラジオは全国の娯楽放送を中止した。武装解除について、陸海軍人に対する告諭、予科練、各地在郷軍人に与うる訓諭、そういう放送が夜昼くりかえされた。その間に、広島と長崎とを犠牲にした原子爆弾の災害の烈しさと、そのおそろしい威力とについての解説がきこえた。銀行のとりつけを防ぐため、経済は安定であると告げる放送。食糧事情について安心せよという農林大臣の放送。これからは平和日本、文化国日本を再建せよと命じる文部大臣。ラジオが途切れる間の沈黙にも耐えないという風で、次から次へ、諭告は、ひろ子達のいる田舎の町に鳴りつづけた。どの家でも熱心に、ラジオをかけっぱなしにして聴いていた。が、聴いているそれらの顔に滲んでいるのは、云いあらわすに術のない一種の深いあてどなさと疑惑であった。今日までこれ程の思いをさせて、勝つ勝つとひっぱって来た繩を、ぷっつり切って、力の反動でうしろへひっくり返るということさえもないかのように、別な紐をつき出してさあこんどはこれを握れと云われても、人々はどういう心持がするだろう。
 半年ぶりで富井の家の電燈も煌々こうこうとついて、昔ながらのすすけた太い柱や板の間をくまなく輝かせるようになった。台所の天井に届く板戸棚の前に、大きくて丸い漬物石がいつの間にか転がっていたのが、ひょっこり目について皆を笑わせたりした。馴れない明るさは、テニス・シャツをブラウス代りに着ているひろ子に、自分の体の輪郭までをくっきり際立って感じさせた。井戸端の電燈がついたので、いつ廊下を通っても閉った雨戸のガラスから、荒れた花壇のある深夜の庭が、はっきり見えた。久しぶりの明るさは、わが家の在り古した隅々を目新しく生き返らせたが、同時に、その明るさは、幾百万の家々で、もう決して還って来ることのない一員が在ることを、どんなにくっきりと、炉ばたの座に照らし出したことだろう。強い光がパッと板の間を走ったとき、ひろ子はよろこびとともにそのことを思いやって鋭い悲哀を感じた。
 夜の明るさが、政府放送のたよりなさと拙劣さとを、ひとしおしみじみと感じさせるような雰囲気のうちに鈴木貫太郎内閣が退陣した。そして東久邇の内閣が代った。

        二

 杏の樹の下枝へ結びつけた荒繩の輪と納屋の軒下とにかけて、竿がわたしてある。ゆすぎ出した浴衣を、ひろ子は、その竿にかけている。
 納屋では小枝が、馬鈴薯の腐ったのをよりわけていた。その年は、丁度わるい時季に雨が続いて、その地方では、麦も馬鈴薯もひどく傷められた。殺虫剤を入れた噴霧器を裸の背中に背負った五兵衛が、納屋の格子へ立ちよって馬鈴薯の処理を教えていた。
 納屋の話題はいつの間にか変ったと見えて、小枝が、
「まあ、そうお! たまげたわねえ」
 土地の言葉と東京弁をまぜこぜにして、独特に愛嬌のある云いかたで感歓しているのがきこえた。
 ひろ子が、二枚めの洗濯ものを腕にかけて来て干しはじめると、
「おばちゃん」
 小枝が呼びとめた。
「連隊じゃね、何でもかんでも、持てるだけ持っていけって、わけているんですって。自動車にドラムカンのガソリンまでつけて、もらって行った人があるんですって。――凄いわねえ」
 富井の家の一郭は、開墾村の南よりの端れに近かった。連隊は、北の端にあった。五兵衛の家は、北の町角にあって、連隊には近かった。兵隊たちは、ひもじかったり、茶が飲みたかったりする時には、村じゅうどこと選りごのみなしに南の端の富井の台所のあががまちにまで入って来て、腰をかけた。そして、茶を所望したりした。しかし八月十五日以来は兵隊たちの歩く道が、きまった。連隊から、小一里はなれた市中の停車場へ通じる堤下の一本道だけを、続々と兵隊たちが通った。背中の重い荷物で体を二つに折り曲げ、気ぬけした表情の老若の兵士が、重荷で首をうしろへつられる関係上、誰も彼も上眼づかいで、のろのろと、遠くの山並は美しい旧街道を、停車場さして歩いて行った。その街道は五兵衛のところの裏からはじまっている。五兵衛一家やそのあたりのものが、おのずから敏い農民の眼で戦争の間から今日まで、どっさりのことを目撃して来たのは当然のことであった。
「牛肉や豚肉みたいなものまで、とり放題だったんですって」
 主婦らしい羨望が小枝の声に響いた。その頃、一般の家庭ではどこでも、肉類などを買うことが出来ずにいた。
 五兵衛は、小枝の報告ぶりをわきに立ってきいていたが、
「はア、たまげたね。まあ、無えつうもんはまず無えな。毛布だれ、軍靴だれ、石油、石鹸、純綿類から、全くよくもああ集めたったもんだ。民間に何一つ無えのは、あたり前だね、あれを見れば」
 それを自分の眼で見て来た驚きを、披瀝した。
「話のほかよ。奴等、背負しょえるったけ背負って帰れ、って云わっちゃもんだから、はあ、わが体さ四十五貫くくりつけて、営門を這って出た豪傑があります」
「まあ」
 小枝もひろ子も笑い出した。
「そりゃそうさね、営門さえ背負って出れば、そいだけは呉れてやるつうんだもん、一生に一遍這う位、何のこたなかッぺ」
 それにつれて五兵衛は、何か自分にもかかわりのあった滑稽なことを思い出したらしく、ハハハと、一人でひどく笑った。
「さ、畑さ行がねえば。ばっぱさに又ぼやかれるかんな」
 五兵衛が去ったあと、小枝とひろ子とは何とはなしに暫く話のつぎほを失った。
 生活は、かわりはじめていた。
 東久邇内閣は、毎日毎日、くりかえして、武器、軍需品、兵器物資を自分勝手に処分してはならない。秩序を守って、上部からの命令に従えと全国に向って放送しつづけていた。しかし、その警告が現実には却って、早いもの勝ち、今のうちにと、手あたりばったりな掠奪の刺戟となっているように見えた。
 八月十五日から二三日、全く麻痺したようになっていた小さな町が正気をとり戻したときは、もう、誰それが何をどの位せしめたそうだ、という風な噂で活況を呈した。
 ひろ子が風呂を貰いに行く農家の勘助のところでは、隠居所のようにして、二間の家を富井の門わきにもっていた。十五日の夜行ったとき、根っ子が低く燃えている夏の炉を囲んで勘助父子は褌一本、女房のおとめは腰巻一つの湯上り姿で、ぐったり首を垂れていた。けれどもこの頃では、三人の様子が変った。何とはなしに絶えず気を配り、敏捷に動き、夜になってから、重いリアカーを父子づれで杉の木の闇へ曳きこんだりすることが多くなった。それにいくらかふれるように、
「ゆうべはおそくまで御精が出たのね」
 流しのところで小枝が、そう云っても、
「はあ。なんだかしんねえが、はア……」
 おとめはあいまいに受け流したまま、いそいで井戸ばたの方へ去った。
 これらの、小さいけれども意味深い一つ一つの徴候が、ひろ子の心に感銘を与えつつ重ねられて行った。
 富井の一家のいる村は、市に併合されて町になってから、まだ間のない開墾村であった。明治政府が、大久保利通時代の開発事業の一つとして、何百町歩かの草地を開墾し、遠くの湖水から灌漑用の疏水を引いた。その事業に賛成して、町の資産家たちは「社」を組織して、資金を出した。開墾が出来たとき、「社」の連中は出資額に応じて、田地を分割した。農民は維新で疲弊した東北地方のあちらこちらから移住して来て、初めからこれらの農民の生活は小作として出発された。時代が移っても、小作が多くて、田地もちの少い村であることに変りはなくて、今日まで来たのである。
 恐ろしい戦争がすんだ。村じゅう、気がぬけたようになった。さてそのあと、ここの農民たちの心に、真先に浮んで来る考えは何だろうか。ひろ子は、関心を抑えることが出来なかった。
 八月九日、夕方のラジオで、ソヴェト同盟が日本に宣戦布告した公表があった。そのとき、五兵衛は畑がえりで富井のうちの縁側に休んでいた。迅速に占領された北朝鮮や満州などの戦略地点が報道されると、五兵衛は、野良もんぺを穿いただけの裸の体を、ぺったりとうつ伏せて縁側ごしに畳の上へ汗で黒く光る顔をおとした。
「日本も、はあ、こんで、仕舞った!」
 ニュースがすんでから、ひろ子が、自分に向って納得のため、というように云った。
「しかし、此は案外な事なのかもしれないよ。浦塩から日本まで爆撃機で三時間位でしょう。本当に潰す気なら、どうして、そっちをしないで、朝鮮や満州を抑えているのさ、ね? 始りにキッカケがいる、終るにもキッカケがいる、そんなこともあるんじゃないかしら」
「――なるほどね」
 五兵衛は頬骨の高い顔をもち上げて、渋色になった手拭で顔の汗をふいた。
「なるほどね、当っているかも知んねえ」
 その五兵衛にしろ、ポツダム宣言というものにつれて、変え得られるものとしての、自分の生活を考えていなかった。五兵衛は富井の土地をかりている。だがその土地について考えていない。
 勘助のうちでは、占領軍が、すべての農作物を徴発してしまうのではないかと、やたらに心配した。ひろ子に、くりかえし、その心配を訴えた。勘助の心配はそこに止った。勘助もよその土地を耕していた。そしてその土地について考えているようでもないのであった。
 人民の歴史が飛躍する大きいテーマの一つと感じられた題目の一つは、少くともこの界隈の農民の欲求として、その時期には把握されていなかった。そのまま種板はもう別の一枚にとりかわって、目先の物資の奪い合いに、焦点がずれて行っているのであった。
 土間で代用食の玉蜀黍の皮をむきながら、小枝はしみじみと述懐した。
「ほんとうに、この頃はどこの奥さんたちも大したものねえ。かなわないわ……」
 小枝の生れつきは、そういう意味での敏腕ではなかった。主人の行雄と云えば、戦争中、利益にありつく動きかたをする気がなかった通り、事情が急変したからと云って、急にどうという賢こげな動きかたもしなかった。富井のうちのぐるり一帯には噂話ばかり横行していて、しかも小枝たちの日常生活には、子供のゴム長靴一足現れるではなかった。律気な小枝は、子供たちのおやつの桃を買うために、夜明から自転車にのって、遠い村まで出かけていた。
 五兵衛たちの話しぶりは一種独特なものになって来た。豚肉が何貫目とか手に入ったという話。食用油を一カンずつ分配したという話。そういう事がみんな、何日か前にすんでしまったとき、さもなければ、もう申込を締切ったというような時になっていつも小枝の耳に入った。
「まあ。そんなことがあったの!」
 日やけした小枝の頬は、そうきいたとき、ほんの短い間、さっとあからんだ。その赧らみはすぐ消えた。消えたとき、小枝はもう二度とその話には戻ってゆかなかった。
 そういう小枝を見るのがひろ子には切なかった。日頃、小枝は、近所となりや村じゅうから好意をもってつき合われていた。彼女の勤勉と、人柄のよさが、生活の細々したところで、主婦としての彼女のしのぎよさになっていた。それはそうなのだけれど、そして、今でもそれにちがいないのだけれども、違いないなかに、はっきりちがいが生じて来ている。
 物資にからんでその中心地となっている連隊から、富井の家が遠いからばかりではない。五兵衛たちのぬけ目のない日暮しの才覚が縦横に走っている村人の生活の流れの筋は、富井の屋敷のぐるりを四角く囲んで、白いどくだみの花を咲かせている浅い溝まで来て、ぴたりと止っている。ひろ子は切実に、それを感じた。村の人々の生活の流れはそこまで来て一応とまった。また折れ曲って、次のどこかへ流れ込むにしろ、決して富井の内庭までびたびたと入って来ることはないのである。
 これは、小枝のせいでも、行雄のせいでもなかった。富井という家がこの土地でもって来た家としての性質が、今、はっきりと証明されている意味であった。富井の一家は、村の農民仲間ではない。中学校の教師でもなかった。その人々から見れば、富井のものが自分たちと全く一つ利害に立って暮しているとは考えられていない。そういう立場の反映であった。
 ひろ子は、いよいよ重吉のいる網走へ行きたく思った。そこで、ひろ子はたった一人むき出しの生活をしなければならない。思想犯の妻という、狭い暮しであるかもしれない。しかし、そこではひろ子はひろ子なりに、愛されても憎まれても、それはみんな自分に直接かかわることとして生きて行けるだろう。日本は変る。変る波の一つ一つを、ひろ子は重吉の妻としての我が身の立場にはっきり立って、犇々ひしひしとうけて、生きてみたかった。
 空爆で途絶していた青函連絡船は、今度は復員で一般の人をのせなくなってしまった。
 網走へもって行く筈の行李につめてあった秋の単衣ひとえをまたとり出して、ひろ子は駅までの行き来に着た。地図で見れば、小指の幅ほどの海、小さい陸地の裂けめ。眺め、眺めて、とうとうひろ子は、その陸地の裂けめの突端に立って、向う岸を見ていようという気になった。そこで待っていて、いざと乗れる船をつかまえよう。そういう気になった。焼けた青森の地に、バラックを立てて住みはじめたという親しい友達に、ひろ子は自分の計画を相談する手紙を出した。

        三

 東京港に碇泊中のミゾリー号の甲板で、無条件降伏の調印がされた。
 ラジオできいていると、その日のミゾリー号の甲板に、ペルリ提督がもって来た星条旗が飾られていたという情景も目に見えるようだった。秋らしい陽の光のとける田舎の風景に、ラジオの声は遠くまで響いた。
 村なかの街道は、どちらへ向いて歩いて行っても山並が見えた。耕地を越して公会堂の円屋根の遙か彼方に連っている山々。農家の馬小屋の間から思いもかけずに展がる目路に高い西の山々。どの山も、秋の山襞を美しく浮き立たせ、冬の近づく人間の暮しを思わせた。ひろ子は、ひとしお網走を恋うた。
 そういうある午後、富井の門の内に男の子たちが集まって大さわぎをやっていた。伸一を先頭に金鎚、薪割、棒きれを握った少年たちが、声を限りに大活動をやっている中心には、光る銀灰色に塗られた流線型の小型ボートめいた物がころがっていた。
 パーンと、反響を大きくそれを打つ音がした。
「アレ! 俺らの手、ズーンちったよ」
「駄目だてば! 吉川、ここだったら、ホレ!」
 三四人が懸声を合せて、流線型をひっくりかえした。そのはずみに、自分も裸足はだしになって大いに参加していた四つの健吉が、ころんところがされた。
「健ちゃんがころげたぞ!」
「なアに、つええなア、もう一つ、ホーラ。でっくり返すべ!」
 稚なごえをはり上げて、「健タン、健タン」と叫びながら起き上った健吉が、またもや勇ましく流線型にとりついて行った。
 それは、飛行機につけるガソリン・タンクであった。こしらえたばかりで戦争が終って、村へ燃料として分配された。銀灰色の塗料から、きつい揮発性の匂いが立った。今は街道じゅうどの家の背戸からもこの匂いがしているのであった。
 縁側に立ってその光景を見物していて、ひろ子は幾度か腹から笑った。小人間たちの嬉しそうなこと! 全く遊戯にうちこんでいる。ガソリン・タンクというものを目の前に見るだけでも一大事件である上に、それをころがし、叩き、のっかってもいい。おまけに、大人は壊してくれと頼んでいるのだ。ワッセッセ! ワッセッセ!
 ほんとうにこの懸声で、少年たちは三つのタンクをリアカーにつんで、分配所であった国民学校の庭から運びこんで来たのであった。
 戦争が終ってからの、子供たちの遊びぶりがすっかり変った。警報が鳴り出すと、どんな親友でも、又どんなに面白いことをしている最中でも、子供らは一散に家へ駈け帰ってしまった。伸一は、それを悲しがって泣き出したことがあった。
 少年たちが、心も体もとろかして、集ったり散らばったり、穴をきり開いたタンクの胴に入って大海洋上の船を想像したりしてさわいでいる光景は、ひろ子を感動させた。平和とは、人間の生活にとって何であるか。それを深く感じさせた。
 そのとき、門柱のところからすーと、片脚を自転車からおろして、郵便配達夫が、内庭へのり入れて来た。
「おばちゃーん! ハンコだって」
 寸刻をおしむような声で、伸一が叫んだ。
「どちらの? 富井の? それとも石田?」
「石田さんのハンコ」
 来たのは書留速達であった。石田の母から来ている。立ったまま、ひろ子は封を切った。母は型どおりの時候の挨拶をのべ、秋めきましたが、とひろ子の安否をたずねている。
 読んで行って、ひろ子は、思わず一二歩体を動かした。誰かに訴えようとするように、少し口をあいて顔をもたげた。広島で重吉の弟の直次が生死不明となっているのであった。
 直次は、三度目の応召で広島に入隊した。それは、七月中旬のことであった。只今となれば、いずれ内地勤務のことと存じ、という母の手紙を、ひろ子も同じかすかな安堵でよろこんで読んだ。八月四日に直次は休暇で帰って来た。そして、五日の夕刻、いそいで隊へ戻った、六日の朝、丁度朝食の時間に、広島の未曾有の爆撃があった。
 営内のトラックに三日後までいるのを見たという者があるが、詳しくは何一つ分らない。絶望としか思えませんが、せめては死に場所なりと知りたくて。――
 汗ばんでいたひろ子の体が、小刻みに顫えた。二番目の弟の進三はもう四年南方に出征したままである。四つと二つの男の児をもつ直次の妻の、つや子の卵形の若々しい顔と古風な眼ざしが迫って来て、ひろ子はますます息苦しくなった。
 小枝は、さっきから人参を貰いに出かけて留守である。少年たちの歓声は、午後の中に愈々いよいよ高まり愈々燃え生きて育ってゆくものの生命の力に溢れている。ひろ子は嗚咽おえつした。
 母のこれからの暮し、つや子と子供らの生涯、ひろ子にとって、それらは、みんな自分の生活のなかのことであった。母はどれだけかの辛棒で、重吉たちのこれまでの生活からうける打撃を持ちこたえて来た。直次が居り進三が居る。それだからこそ、重吉もひろ子も云いつくせない安心があった。
 母のこころのうちを思うと、ひろ子は、その手を頂いて額に当てたい気がした。
 籐椅子のおいてあるところ迄来て、ひろ子はそこに腰かけた。同じ籐の小さい円卓の上に母の手紙をひろげたままおいた。
 重吉は、このことについて何と考えるだろう。母は、おそらくひろ子に書いたと前後して、重吉にも手紙を出したにちがいない。
 重吉が、母の見舞にゆくようにとひろ子に云っていたのは、久しい前からのことであった。母の住んでいる所が最近特別な軍事都市になって、バスの中にさえ憲兵と書いた腕章の兵士がきっと一人はのっていた。その空気を思うと、ひろ子は行き渋っていた。この手紙を受けとってからも、猶ひろ子が網走行きに執着しているのと、そちらはやめて、母のところへ行くのと、どちらが重吉にとって、気がすむことだろう。
 しばらくして、帰って来た小枝が健吉を呼んでいる声がした。まだ土間に立ったままでいる小枝のところへ行って、ひろ子は母の手紙をわたした。
「ちょいと、読んで」
「何かあったの?」
 眼を走らせて、小枝は蒼くなった顔でひろ子を見上げた。
「おばちゃん。――どうなさる?」
「行かなけりゃ。重吉さんは、きっと私がそうすると思うだろうと思うわ」
「でも――何てことでしょう!」
 行雄も、やがて自転車で戻った。
「じゃ、切符は僕が何とか手配しましょう。姉さん、すぐ荷づくりなさいよ」
 話をきくと、行雄がそう云った。
「姉さんが歩いて行っちゃひと仕事だが、僕は自転車だから何でもないよ」
 こういう調子で、行雄がひろ子の行動にのり出してくれるのは日頃ないことであった。
「でも大丈夫かなあ? 一人で……何しろ凄いよ、今の汽車は……」
「私もそれが心配なのよ」
「仕方がないわ」
 ここの田舎へ来るうちにも、そのひどさは十分身にしみている。ひろ子は、弁当だけもって行くつもりであった。
「ここでいくら苦心したって、又どうせ東京で乗換えなけりゃならないんだもの」
「夜行でない方が安全だよ、同じことにしても……」
 東側の縁側へ行って、ひろ子は例の行李を開いた。広島のことをラジオできいたとき、ひろ子はすぐ安否をきいてやった。きょうの速達は十八日に田舎の局のスタンプがおされている。ひろ子の手紙とはゆきちがった。そして、これは二十日目についた。
 母やつや子が、直次のことを知ったのは、既に十一二日ごろのことであった。偶然、直次と同じ班の友達が、ふらりと、
「直次君、戻ってでありますか」と店先へ訪ねて来た。
「いえ、戻って居りませんが……どうでありますか」
 話はそのようにして初めて耳に入ったのであった。
 ひろ子は、行李の中のものをすっかり出して、大風呂敷へうつした。仕事の用意をすこしと、そして底の方へ喪服を入れた。
 直次が、除隊後第一回の応召のとき、母はひろ子をつれて、わざわざ讃岐の琴平へ詣った。雨が降り出した。下の土産屋で、番傘と下駄とをかり、下界から吹き上げる風に重い傘を煽られまいとして、数百段の石段を本堂まで登りつめたとき、ひろ子は脚がふるえて動けないようだった。雨にうたれながら、母はお守りを貰ったり、祈祷をさせたりした。母ばかりでなく、何十人もの男女がそのあたりを右往左往しているのであった。なかには裸足で髪の上から油紙をかぶりお百度をふんでいる若い女もあった。杉の大木の梢すれすれに寄進された幾本もの祝出征の幟旗が立ち並んでいた。武運長久を願ってのことだが、五月雨に濡れそぼり、染色を流したそれらののぼり旗は暗い木下蔭で、幽霊じみて見えた。
「直次の出征のときの旗をもって来ようかと思ったが、却ってもって来なんでよかった、のう、あんた」
 ひろ子の耳へ顔を近づけて母がそうささやいた。その母の一心に上気に上気した顔にかかるおくれ毛や眉毛に、雨のしずくが光った。
 荷物をつめかえているひろ子は、家族的な追憶にみたされた。それは厳粛で、きびしい戦争をとおして営まれる日本の庶民のつましい生活の網目にみちているのであった。
 網走へ、と思ってこの行李をつめるとき、ひろ子の胸には一筋のうたの思いがあった。選んで入れる一つ一つのきれについて、そのうたはひろ子の胸に鳴った。そのうたの思いは、このような形で現実の内容をもって来た。
 労苦に備える勇気のこもった気持で、翌日ひろ子は街道をあちこち歩いて、移動の手続きをしたり、旅行外食券に代えたりした。

        四

 運よく、その列車の中でひろ子は座席がとれた。
 その代り、坐ったと思ったらもう動けなくて、送って来た小枝に声さえかけられなかった。
 駅を出るとじき、通路にまで立っている旅客をかきわけて、
「検札をいたします」
 中年の大柄な車掌が、巻ゲートルで入って来た。
「これは二等車ですから、乗車駅から三倍の賃銀を払って頂きます」
 そういう声につれて、後部で押し問答がはじまった。押し問答の尾をひいたまま、ひろ子のところへ来た。切符を出して見せた。鉛筆で切符のうらにしるしをつけて、先へ行くかと思ったら骨っぽい指をのばして、
「それは御使用ずみか?」
と、ひろ子が手にもっていた裂地きれじづくりの紙入れをさした。その意味がすぐのみこめなくて、ひろ子は、見せた切符を挾んでおいた黄色い内側を開けたまま、
「どれかしら」
「これは御使用ずみですか」
 同じ切符入に挾んであった山の手線のまだ使ってない切符をぬきとった。そして、ぼんやりしたひろ子が、一言も云わないうちに、
「頂いておきます」そして、次の番へ移った。
 その頃、地方新聞は不正乗車の激増を大きく扱っていた。ひろ子の乗った駅から小一時間先の大きな駅では、毎日二百人以上の不正乗客があって、それは益々増加しつつあると書かれていた。この列車は、その都会が始発である。車掌は気を立てている。いかにも過労らしい、肉のつくゆとりのない肩のあたりで制服は色あせている。この車掌が、山の手線の切符に対してまで責任を負う必要があるのかないのか分らなかったが、ひろ子はむしろ車掌の癇癪に同情した。鉄道従業員たちは、機銃の恐怖の中であれだけの努力をしとおした。復員、進駐と、その後寸暇も与えられていないのであった。
 ひろ子の斜隣りで、二十歳をすこし出たばかりの海軍士官の外套を着た神経質な顔つきの男が、まだ少年の丸い顔をした部下らしい青年をつれて大荷物をもちこんでいた。それが、紙片を出して問答している。
 車掌は紙片をとり上げて、前進した。この間に、さっき後部で開始された悶着の相手が車掌に追いついて来た。
「おい、車掌さん。そんなへちがてえことを云ったって、一文だってお前の得になる訳じゃあるめえし、いいだろう? たのむぜ」
 国防服の前ボタンをすっかりあけはだけて、シャツの胸を見せている巻ゲートルは、れしい大声を出した。
「おい、車掌」
 車掌は、背中に平手うちでもくらったように素早く振り向いた。
「車掌、とは何です! はじめっから私の損得で云っているんじゃありません。鉄道省の規則がそうだから、その規則通りにしなければならないんです」
「いいじゃねえか。どうせこんな滅茶苦茶な世の中になっちまって、今更二等も、へったくれもあるもんか」
「こんな世の中になったから、なお更キチンとしなけりゃならないんです。勅語は何のために出たんです!」
 ひろ子は、乗り合わせたこの列車が、ただの列車でなかったことを知った。これは明らかに一種の潰走列車である。
 斜隣りの海軍士官がどこかへ立って行って帰って暫くすると、再び車掌が入って来た。荷物をまたぎまたぎ来て、その若い士官の横に立った。
「じゃ二百八十三円頂きます」
 大股をひらいて座席にかけたままむっとした面持で、蒼い顔の若い士官は大きい紙幣入れをひらき、新しい十円札をつかみ出すようにして車掌に渡した。その代りとして紙片がかえされた。
「これで事務が片づきましたから申しますが、さっきの雑言は、あれは、どういうわけです」
 ぎごちなく神経のこわばった若い士官は、こんな情況になることとは予想もしなかったらしく、剣相な上眼づかいで、低く何か答えた。
「生意気だ、気にくわんとおっしゃるが、私のどこに生意気な挙動がありました。不正乗車をしているのは貴方です。私は車掌として事務をとっただけじゃないですか。ひとこと罵倒でもしましたか。じき手続をして上げますと云っただけじゃありませんか」
 言葉にもつまるという激昂で、車掌は青年士官を睨まえた。士官の方も、もう一ヵ月前ならばと文字に読まれる形相で睨み上げている。その面上につばきするように車掌が云い捨てた。
「あなたのようなのが軍人だから、日本は潰れたんだ!」
 ひろ子は、どちらの顔も見ていられなかった。
 その若い士官の前には、襟章をもいだ制服の陸軍将校がかけていた。となりには、東北のどこかの大きい軍需会社が解散して、東京へ還る途中らしい国防服だが、重役風の男がいる。ひろ子の真前にいるのも陸軍の古参将校で、制服の襟章がはぎとられている。
 騒動がしずまって見渡した車室は、網棚から通路から座席の間まで詰めに詰めた大荷物で、乗っているのは男ばかりであった。何かの角度で、軍と関係があったと見える風体の男ばかりであった。女と云えば、ひろ子のほかには子供づれの細君が一人乗り合わしているきりである。
 東北の自然の間を、列車は東京に向って進行した。時々、迷彩代りに、車体へ泥をぬたくったままの列車とすれ違った。復員兵と解除になった徴用工とを満載した有蓋貨車、無蓋貨車とすれ違いながら那須の荒野にかかった。
 線路のすぐそばから灌木の茂みが乱暴にきり開かれて、木の色の生新しいバラック風の大建物が、幾棟も、幾棟も、林の方へ連っている。それらはいま無意味そのもののように、愚劣そのもののように、がらんとして九月の西日に照らされている。
「これだけだって、ちっとやそっとの無駄じゃない」
 ひろ子の向い側の中老人が呟いた。
「うけ負った奴は、さぞふんだくったんだろうなあ……」
 並んでかけている将校の視線も、その尨大な濫費物の上に止っていた。しかしその視線は空虚である。中老人は、黙りこんだ。列車は、単調に動揺し車輪の音をたてていよいよ東京へ近く進行する。
 車室にはぎっしり人間が乗っていた。けれども、互を貫くたった一つの共通な気分も興味も示されていなかった。みんながてんでんばらばらであった。めいめいが自分自分にかかずらい、急に変化した自分の利害と見とおしとにかかずらっている。
 海軍士官のとなりの重役風の人物は、事業で損をしなかった人物の円滑さで、向い側の陸軍軍人に、折々四方山よもやまばなしをしかけた。
「神田辺はのこったそうですな。これで、少しはいい本も出るもんでしょうか」
 軍人は上眼づかいで、
「さあ……」
 それぎりてんでとり合わない。話はそのまま消えてしまった。ずっと先に、白い毛糸の長靴下、しゃれた白い毛織の短ズボン、白の上衣、臙脂えんじ色のネクタイをつけ、一目して相当な地位の「南方関係」の男がいた。瀟洒しょうしゃとしたその服装と丸顔の上にある不機嫌さは冷酷できたないものの中へ自分が落ちこんだという眼つきで車内の混乱を傍観している。
 ひろ子は、七月の下旬、上野から乗って東北に向った夜行列車の光景を思い出した。混雑は名状出来ず、女は本当に悲鳴をあげた。ひろ子は、人波に圧されて押し込まれ、通路の他人の荷物の上で一夜を明した。しかし、その騒ぎは、同じ空爆を蒙る恐怖に貫かれ、事なかれと願う単純で正直なすべての旅客の希望で一致していた。
「いい月夜になったねえ。お月見にはもって来いだが、ちいと薄気味がよくないねえ」
「小山まで無事に行ったらね」
「ナニ、案ずるより生むがやすいってね」
 流行唄はやりうたを謡うものがあったりした。ひろ子のわきで、若い女と膝組みにもまれこまれた父親の好色めいた冗談を、その娘が
「いや、父さんたら。黙ってなさいってば!」
 しきりに小声でたしなめていた。煎り大豆を、わけて食べたりしてひろ子も運ばれて行った。
 今の列車では、万端が全然ちがう。ひろ子の座席の背中に肱をかけて立っている二人連の襟章なしの男たちが、聞かせたそうに、さり気なく大声に喋っていた。
「おい、山田に会ったか」
「彼奴はのこるんだろう」
「そんな筈はねえんだが――奴、要領つかいやがったな」
 何と何とで、と、ひろ子にききとれない軍用語で数えた。
「俺あ、八千円とちいとばかり貰った」
「そうなるか……フム、まあ悪かねえなア」
 東京の外郭にある駅へ来たとき、ひろ子は窓からやっと下りた。その拍子に力をかりたカーキ服の男の腕に目がとまった。その男の白い腕章には英語でミリタリ・ポリスと書かれていた。

        五

 好感をこめて、ひろ子は幾度も鮎沢の茶の間の電燈の笠を見あげた。
 網走へゆくときめて、ひろ子が焼けた東京を出発した時分は、もう東北の田舎へ向ってでも荷物の運送が出来ない状態になっていた。しかし、夜具と本だけはどうしても欲しかった。距離にすれば僅かだが、他県に属するその町に住むようになっていた篤子夫妻が、一方ならず斡旋して、ひろ子に力を添えてくれた。
 網走へは行けず、まるで方角の反対な重吉の田舎へ行かなければならなくなった。それらを知らせたいからばかりでなく、幾家族もが留守に入っている弟の家へ、悲しみにある疲れた体で急行券を買ったりするためわり込んで泊る元気がなかったのであった。
 荷物のことで、泊めて貰ったりした夜に、よく警報が鳴った。往来に近い鮎沢の家では、注意ぶかく、ガンドウのような深い遮光笠を茶の間の電燈につけていた。その息苦しい光の輪の下で食事をしたり、話したりした。
 今度来てみると、その笠に、さっぱりと器用な切り抜き模様がついて、ガンドウの裾も工夫よくつめられている。すっかり明るくなるように工夫されて、ともっている。鮎沢の夫妻は、どっちがどうと云えないほど、こういう思いつきはうまかった。手狭な家を、二人のちょっとした工夫で住心地よくして、篤子はもう何年も或る経済関係の研究所に、雄治は専門の西洋史の勉強の傍ら或る出版社に通っていた。
 電燈を明るくしてよいとなったとき、ひろ子が暮していた弟のうちでは、主人公の行雄が、おもむろに戸棚から必要な数だけ白い瀬戸の笠を出して来た。小枝がそれを拭いて、また行雄がそれをうけとってつけ代えた。遮光笠の方は、物置部屋の背負籠のわきに半ば放りこまれた。それきりであった。
 鮎沢の茶の間の笠は、そういう風には扱われてはいなかった。光をさえぎるようにこしらえられていたその笠を、夫婦で作り更えて、明るいための笠に直して使っている。
 些細なことであるけれども、最近一ヵ月余り、周囲のあらゆる事々が、外からの力で機械的に、さもなければ無意識に、ただ変えられてゆくばかりなのを見て暮していたひろ子には、鮎沢夫妻が、こう変えて行くのだ、と自分たちの方針をきめて笠一つも独創しているのが快よかった。
 八月十五日前後の東京には、田舎町にいたひろ子の知らない種々の現象が起伏し、その話もきいた。
「あの二三日で、東京中にしたらどれほどの書類をやいたんでしょう。あの風景だけは、ひろ子さんに見せておきたかったわ」
 それらの激動の日に、いたるところの歩道へ、焼け焦げた紙片が散乱した。もんぺをやめた洋装の若い女が、高い靴の踵でその紙屑の山を踏みしだいて通った。
「でも、どうなるでしょうね」
「大局的にはポツダム宣言の方向さ」
 雄治が、確信のある語調で篤子に向って云った。
「そりゃそうでしょう。うちの研究所でもね、今までがあの有様だったから、すっかり計画を立て直して、大はりきりよ。これから皆が、本当にテーマをきめてやるんですって」
 話題は重吉の弟の不幸を中心とし、やがて、又、鮎沢夫妻やひろ子自身の仕事について流れ進んだ。
 夕飯後には、近所に住んでいる二三人の友達も集って来た。
 ひろ子は、深い興味をもって友達の一人にきいた。
「山内さん、あなたのところでは、今でもやっぱり、あんなに畑をやっていらっしゃるの?」
 食糧の不足が一番の原因にはちがいなかったが、ひろ子の友人たちの中には、この数年の間に郊外や近県に移って、畑仕事を相当うちこんでやって来た人々があった。その人々の働きぶりを眺めると、集注出来るだけの仕事をうばわれている者の、人間らしい活動慾が、そこに放散されているという印象を与えられた。八月十五日の意味を、全面から理解出来るこれらの人々が、これから後も、ああいう風に畑をやっていられるものだろうか。もっと、さし迫った活動の予想や計画が、畑からこの人々を別な場所へひきよせ、集め、議論させているのではないだろうか。
「僕のところなんか、もうおしまいですよ。とても、そんなひまはなくなって来た」
「そうだろう? どこでもそうなんだ。うちの畑は、八月十五日をもって一段落だね」
「しかし僕は絶対にイモだけは確保するんだ」
 河本が、すこしずつずる眼鏡を指で鼻の上に押しあげながら、苗が何本、その収穫予想はいくら。盗まれる分を三割として、実収は凡そ六十貫。それだけは確保すると力説した。
「大したもんじゃないか」
「大したものさ!」
 河本は、それだけ甘薯を確保するについては、更にそれより意味のある計画のため、と匂わせて、それを云うのであった。
 篤子が諧謔めかして笑った。
「まあ、わたしたちのところじゃトマトをたっぷり食べられただけいいと思いましょうよ」
 人々の活溌な話しぶりの裡に、気がねをやめた多勢の声が揃う笑いの裡に、磁石の尖端がぴたりと方向を指す迄の震えのような、微妙な模索がうずいていた。ひろ子は、敏感になっている心につよくそれを感じた。誰も彼も、半月前迄自分たちに強いられていた生活は終ったことを確認している。同時に、誰もかれもの心に、まだいきなり早足に歩き出せない気もちと、計画の条件にまだ欠けたものがあることとが感じられている。ひろ子はそう思った。
「間違いのない方向はあるんだから、それで着々やって行けばいいわけなんだ――それにしてもいつ頃帰って来られるだろうな、みんなは……」
「治安維持法をいつ撤廃するか、それが問題だ」
「おそくても、今年のうちには、やらざるを得まい」
「一日も早く帰したいわ、ねえ、ひろ子さん」
 きいているひろ子は、熱い大波に体ごとさらわれるようなこころもちがした。
「あんまり云わないで……」
 ひろ子は弱々しく篤子に囁いた。十二年の生活の間に、ひろ子は、きびしく自分をしつけて来た。重吉と自分とのことで、世間並にうれしいこと、そうありたいこと、そうなったらばどんなに嬉しかろうと思える予想には、最大の用心で、うかつにうれしがらないように抵抗した。
 拘禁生活の七年目に、重吉が腸結核を患って、危篤に陥った。拘置所の医者が、ひろ子に「時間の問題です」と告げた。医者は検事局へ、入院手当させる最後の機会であることを通告した。そのことも、ひろ子は知っていた。ひろ子は、どんなに療養所を調べ、医者に相談し、費用を調達して、待っただろう。
 検事局は、拘置所の医者の注意を拒絶した。重吉が思想の立場を変えないからというのが却下の理由であった。そして、ひろ子が弁護士と一緒に検事に面会して、療養許可を求めたとき、その検事は笑って、
「どうせ石田君は、はじめっから命なんかすててかかっているんだろうから、今更あなたが心配されるにも当らんじゃないですか」と云った。
 明治時代から巣鴨の監獄と云われていた赤煉瓦の建物は、数年前にとりはらわれ、そのあとが広い草原になっていた。監獄のころには、なかに茶畑などまであったらしく、数株の茶の木がまだ残ったりしている原っぱの中のふみつけ道を辿ってゆくと、旧敷地の四分の一ぐらいのところへ退いて拘置所のコンクリート塀が四角くそびえ立っていた。新開の歩道から草原ごしにその高塀を眺めると、塀の上から白っぽい建物の棟々が見えたりして、余り異様な感じは与えない。しかし、一歩ずつその塀の根もとへ近づけば近づくほどその高さが普通でないこと、その高塀があたりまえのものでないことがわかった。高塀には人の目の高さのところに、一つ小さな切窓があけられていた。面会願の手続きがすんで、番が来るとその切窓のわきのベルを押した。すると、重い扉がのろのろと内側から開けられる。その扉の大さは人の身丈の何倍もあったし、切窓に向って佇んで待っているとき、ひろ子の体はまるで、その高塀の根に生えている雑草と同じに低く、無力なものに感じられるのであった。高塀はその高さで異常なばかりでなく、その扉が内側から開けられなければ、よしんばひろ子がその扉にもたれて失神したとしても、外からのひろ子の力では一寸たりとも開けられない性質をもって、突立っているのであった。
 重吉の腸結核がわるかった間、ひろ子は一度ならず、大扉をぴたりとしめたまま、切窓から眼とチョビ髭だけをのぞかせている看守に告げられた。
「きょうは、気分がわるいから会えないそうだぜ」
「――どんな風にわるいんでしょう」
 ひろ子は、衷心から、
「困った」
と云った。
「なーに、大丈夫だよ。まだ当分死にそうでもないや。ハハハハハ」
 それなり、むこう側から切窓はしめられた。
 ひろ子は、高壁の下から自分の体をもぎ離すのが容易でなかった。翌朝、またそこへ行ってその壁の下に立つとき、ひろ子は、ざらざらしたその壁に、きのうの自分の切ない影がまだのこっているのを見出すような思いだった。
 重吉は死ななかった。不思議に死ななかった。もう一いきの恢復という時期、ようよう壮年に入った重吉のこころに体に、癒りたい望みの充満している時期、その顔をやっと面会所の窓で見られるようになった頃、今度は裁判長が弁護士を通して、思わせぶりな提案をした。重吉は、どっさりの条件と保留と仮定とをつけ足して、万ガ[#「ガ」は小書き]一、外で療養でも出来るようになったらばと面会に来たひろ子に云った。
「いろいろ、買いものなんかもして置くがいいよ」
 どんなに重吉が、慎重をきわめた保留をつけて語ったにしろ、この一言は、ひろ子を幾晩も眠らせなかった。ひろ子には、簡単らしくそう云ったときの重吉の上体が、面会窓からぐっとはみ出して、大きく大きくなったように映った。そして、その感銘はひろ子にとって殆ど肉体的な訴えであった。
 ひろ子の期待と緊張とが支えにくいほどになったとき、重吉は、あっさり、話が不調に終ったことを告げた。
「どうも変だと思ったんだ」
 そう云って笑った。
「これまでのやりかたから見て、わかりがよすぎるようなところがあったからね。――ひろ子は心配しないでいい」
 今度も、理由は前と同じであった。重吉の思想の立場が変らないから、と。
 入院させないと云った時よりも、重吉に対するこの二度目のむごたらしさを、ひろ子は性根にしみて受けとった。重吉のおかれている条件の中で、自然の生活力とそれを保つ心の均衡で死ぬる病から恢復したとき、その恢復期の五月という季節に、七年の間重吉の青春を閉じこめて来た牢獄の窓が、さも開きそうに、さも、もうちょいとのことで開きそうに、身ぶりして見せるとは、何たる卑劣だろう。一方に、思想の立場云々をかざしながら、片手はその扉にかけて、あける気があるふりをして見せるとは。ひろ子は、自分の涙さえ、これについては流すまいと決心した。それほど憤りに燃えた。
 この時分から重吉の、しん底からの人間らしさが、やっと本当にひろ子の身と心にしみ入った。二人で暮した期間が余り短かかったのと、重吉の活動に直接加わっていなかったのとで、別れて暮すようになってからひろ子は重吉に対して、いくらか具体性のとぼしい、そのくせ子供めいた敬意をもちつづけて来た。けれども、重吉が、買いものなんかして置くがいいよ、と、おだやかに、ひろ子を惑乱させないようにと心をくばりながらつたえたとき、重吉の体は、あんなに大きくなって面会窓から溢れ出すように見えた。ひろ子の目にだけ、そう見えたのだと決して思えなかった。そこには、重吉の思いも横溢していたのであった。だのに、それがむごたらしくはぐらかされたとき、重吉はあれほど自然だった大きい横溢を収拾して、新しい事情に立った。ひろ子の心情をも支えて立った。その体温が自分の皮膚にもつたわる良人としての重吉を、この時ほどひろ子が瑞々みずみずしく、そしてひしと感じたことはなかった。妻たる自分のこの手の指、この足が重吉につながっている。互の間にひとしおの理解と献身の泉が掘りぬかれた。第二の新婚が経験された。それは、未熟なひろ子にもたらされた一つの豊かな変革であった。
 ひろ子は、十二年の歳月のうちにこういう思いを経て来ている。重吉が帰る。――もしも、もしも何かの事情でそれが実現しなかったら。もう少しというところで、何事かが重吉の身の上、或は重吉のもっている条件の上に起ったら。
 ひろ子は、生きていなければならなかった。それがいつになろうとも、重吉と暮せるときが来るまで、頑固に生きて行かなければならなかった。その失望が、自分を生きにくくするかもしれない、と思うほどの待望を、今、ひろ子は却って自分から押しのけようとするのであった。
 友人たちの話との間に、宵宮の祭りにあたったその町の夜の往来をカラコロ、カラコロと通ってゆく下駄の音が冴えて聞える。リーンとすんだ自転車のベルがけぬけてゆく。久しぶりに聴く都会の夏の夜らしい物音に、ひろ子は懐しく耳を傾けた。本棚にもたれ、団扇うちわを膝においているひろ子の心に、重吉への思い、一家の柱である息子を失った田舎の母たちの生活への思いが、絡み合って浮び、消えた。

        六

 汽車はいま、どの辺を走っているのだろう。ハンカチーフでうたたねから醒めた顔をふきながら、遠くまでゆく旅行者らしい視線で、ひろ子は窓外を見た。が、そこにある眺めには、地方色もなければ、生活らしい生活の動きもなかった。列車は丁度かなり大きい駅の出はずれを走っていて、左右とも市街の廃墟ばかりであった。平ったく、ただ一面残暑の日光にさらされている廃墟は、云いようもなく単調で、どんなに決定的な破壊の力がここに働いたかということを印象づけるのであった。列車はじきその風景をつきぬけ、こんどは、まるで無傷な自然と云う風な九月の東海道の、濃い緑の中に突入してゆくのである。
 一日に一本出る下関行下り急行が東京駅の鉄骨だけがやっとのこっている円屋根の下を出発してから、見て来た沿線の景色は、それを景色だと云えただろうか。京浜はもとより、急行列車が停るほどの市街地は、熱海をのぞいてほとんど一つあまさず廃墟であった。田舎らしい緑の耕地、山野、鉄橋の架った大きい河、それらの間を走って、旅めいた心持になる間もなく、次から次と廃墟がつづいてあらわれた。
 はじめのうち、乗客たちは、
「いや、これはひどい。東京ばかりのように思っていたが、どうして、どうして」
 のび上って眺めたりしていた。半日近くも同じような廃墟の間を走りつづけて来た今、旅客はこの反覆される光景に馴れ冷淡になってしまった。
 くたびれが出て、大変長い間眠ったような気分で目がさめたひろ子は、いくらかきまりわるい表情で、前や横で、人々が弁当をひろげはじめているのを見た。ひろ子は時計をもっていなかった。時刻の見当もつかない上、どこまで来ても窓からみる景物のくりかえしは同じだものだから一向東京から出切っていないような、ちぐはぐな目ざめ心地である。
 白絹のシャツに巻ゲートルといういでたちの岩畳な骨格の男が、ひろ子の向い側にいた。力仕事で五十過まで稼いで来たという手つきで、竹籠の中から薬ビンを出し、小さいコップに液体をついだ。そして、それを隣りの軍人にすすめている。
「ひとくち――いかがですか、メチールでないことだけは保証いたします」
 上着はぬいで、白シャツだけになっている将官は、
「いや、これはどうも。折角ですがやりませんから……」と、丁寧に辞退した。
「じゃあ――失礼いたします」
 うまそうに、その杯をのみほし、更にもう一杯のんで、食事にかかった。細々といろいろの食べものを、いくつかの包みにわけてその竹籠に入れて来ているらしいのだけれども、その反歯で日やけした、眼つきの明るく柔和な男は、決してその包みを竹籠から出して、ひけらかすような食べかたをしない。遠慮がちに、しずかにたのしんでいる。一見して土木請負業と思える万端と、少しかわって特色のある眼つきとそのとりなしとは、ひろ子の興味をひいた。軍人も、弁当をひろげた。それは竹の皮につつんだ三個の握り飯と佃煮と梅干である。若い従卒が、通路の荷物の上にもたれるようにかけていた。その従卒が水筒から茶をついだ茶碗をわたした。白い厚焼の、どこの役所でも使うものであるが、そこに二つの字が入っている、「教・総」と。陸軍で、教・総と云えば、教育総監関係しかないだろう。この軍人は、では、そういう部署の、そういう茶碗を人前でも使う位置にあるものなのだろう。今はぬがれている軍服の上着に肩章も襟章も、もがれてついていなかったことが思い出された。上着には略章のいろいろな色だけがつけられていた。剣も吊っていない。丸腰で入って来た。先着して座席をとっていた若い丸顔の従卒は、挙手の礼はしないで、ただ起立して、その席をゆずった。それらの光景を、ひろ子は東京駅の混雑の裡に思い出すことが出来るのであった。
 三個の六分づきの握り飯は、誰の目にも質素な弁当である。湯呑茶わんについている「教・総」という二つの字、それから推察されるその軍人の地位、それらは質素な弁当を当然に思わせた。
 ひろ子は三日前、東北のある町から東京まで戻った。途中若い海軍士官とのり合わせ、彼が車掌と論判し、互に辱しめ合う苦しい情景を目撃した。苦悩が剣相さとなってあらわれている蒼い顔で、その若い士官は論判の後弁当をひろげ、部下にも食えと云ってさし出した。それは、びっくりするほどぜいたくな、世間ばなれのした料理であった。ぜいたくな食いものは、周囲の乗客の注意をひき、一層その若者に反撥させた。若い士官は明らかにそれを自覚していた。が、それが何でわるい、という肩つきで、まずそうに乱暴にそれを平げて行った。
 下関近くの、重吉の故郷へ向ってこの列車にのりこんでいるひろ子は、東北から上野へ向って来たとき同様、旅客の中にほんの僅な女の一人旅であった。
 東北の中央の町から上野まで、僅か七八時間の短距離を走る列車は、混みようもひどかったし、気分もひどかった。潰走列車としか云いようがなかった。軍関係者、復員軍人、それらの大群集が、それっとばかり、矢庭に担げるだけのものをかつぎ、奪えるだけのものをかきさらって、我がちに乗りこんで来た。互に、あたり憚らず、どたんばでの利得についてしゃべり合っていた。
 三日のちがいだが、東京という首都を通過して東海道を下るこの列車は、潰走列車ではなかった。八月十五日以来の第二段の後始末のために、動いている人々、そういう感じの旅客たちであった。かきさらえるものをさらってその場を見すてようとしている人々ではなくて、この旅の行きつく果に、それぞれ日本の新しい情勢によってひきおこされた課題をもっている人たち。そういう空気であった。
 ひろ子の隣りに白い病衣をつけた傷痍軍人がのり合わせた。左脚が、太腿から切断されていた。下賜の義足が入っているという大きな木箱を、日傭人足のような男がかついで乗りこんだ。離ればなれに、病衣の人が三四人のりこんだが、看護婦も看護卒もついて来ていなかった。まだ自分の不自由さに馴れないそのひとは、自分が一つよろける毎に、や、すみません、と口に出した。この人は干パンを弁当として食べている。
 この傷痍軍人と「教・総」とは真向いであった。京大の農学部を卒業して、九州の鉱山統制会社に勤めているという壮年の片脚を失った人は、パンをかじりながら、快活に北支で負傷した当時のことや、陸軍病院一ヵ年半の生活、終戦以後の滅茶滅茶ぶりを話した。
「看護兵なんか、何も知っちゃいないんです。だから自分たちは、オイ、ヨーチン、ヨーチンてってからかったもんです」
 そう云って笑いながら、ワールド・カーレント・ニュースという英字雑誌の巻いたので丈夫な方の腿をたたいた。
「いや、どうか自信をもって生きて下さい。脚の片方ぐらいなくたって、人間は幸福になれるんだという信念で、明るく生きて下さい。決して卑下するんじゃありません。わたしもこの年までいろいろな経験をして来たが、これだけはお願いしておきます」
 そう、白絹のシャツが改って云った。
「奥さんに対してなおってもね、ひがむことは禁物です。あなたがそれに負けはじめたら、万事休しますよ。奥さんにはもちこたえられなくなります。これも経験ですが」
 それを云うのは、「教・総」ではなくて、荒削の相貌だが眼のなかには精神の動きが見えている白絹である。
 ひろ子は、こまかい紺絣のもんぺ姿で、昔の女学生用編上靴をはいている。ひろ子が、のり巻の握飯をたべ終るころ、白絹と「教・総」とはくつろいで話しあっていた。
「満州では、何の御事業でした? 軍関係ですか」
「そうです。が、なあにほんのちょいとしたことでして――」
 しかし共通な知り合いの軍人の噂が出ると、
「ふーむ。あれをお知りですか、そうでしたか」
 おのずから、自分が満州でもっていた環境を「教・総」にさとらせてゆく。白絹はそういう会話のこつを心得ていた。
「教・総」は、やがて日本皇太子史論という小冊子をとりあげた。が、実際に読んでいる間はごく短かった。視線はじき頁から離れ、上向き加減にもたげられた二分刈頭、閉じられた瞼。その卵型茶色の小心律気な老年に近い顔には、能面のように凝固した表情があらわれた。唇は、その能面の上におかれた一本の短い色のさめた糸のきれはしのようになった。内心に一つの渦があって、外界の刺戟がゆるむと、忽ち全存在がその渦巻の中心へと吸いよせられる。そういう気配が感じられた。そしてその能面の表情には、微塵みじんも明日の閃きが感じられなかった。
 名古屋を過ると、通路まで汗と塵にまみれた復員者とその荷物で溢れて来た。
 はじめ元気に冗談も云っていた片脚の傷痍軍人は、列車が次第に目的地へ近づくにつれて何となし沈みがちに落付きを失って来た。京都に妻子が疎開していた。二年ぶりで帰る体を先ずそこに休めようという計画なのであった。
「電報がうまくついていればいいんだが――」
 ひろ子をかえりみて、
「この節の電報は二日じゃあぶないでしょう」ときいた。
「よっぽど工合がよくないとね」
 東北の町から、鮎沢のうちへ打った電報は、ひろ子が到着して、次の日まで逗留している間にさえ配達されなかった。
「弱ったな。荷物さえなけりゃ何とかなるんだが」
 網棚の上の大きい義足の木箱を見上げた。
「お降りになるとき位、みんながお手つだいしますよ。駅のひとだって放っておかないんだし。――荷物は一時あずけにして、あとからとりに来ておもらいになれば」
「どうもすみません。じゃ、そうでもするか」
 頭へ一寸手をやって、神経質に笑った。
「何しろ、はじめて社会へ出たもんで――これで病院にいた間は、同じような野郎ばっかりですから、何の脚一本ぐらいっていうわけで、物凄い景気なんですが……どうも」
 すこし落付きをとり戻したように、煙草に火をつけた。
「段々案外の不自由が出て来るもんでしてね。私には五つになる坊主があるんですが、片脚ちょんぎられた体では、もうその坊主を立って抱いてやるということが出来ないんです」
 小さい息子に対して、自分のやりたい方法で可愛さが表現出来ないことを悲しんでいるこの片脚の人の言葉のかげに、ひろ子は、一層微妙に、妻への様々の思いが湧いていることを察した。ひろ子は、心からのはげましをこめて云った。
「お子さんは、坐ったまんまだって、高い高い、でもして上げれば、それこそ有頂天よ。お母さんでは、もう五つの坊やは、高い高い、出来ないんですもの」
 すこし間をおいて、重ねて、
「ほんとに、御心配なさらないことです」
と云った。
「愛情は変通自在なんですもの、本当にどうにだってなるんですもの」
 愛するということにきまった形しかないものなら、重吉とひろ子とは、どうやって十二年の間、夫婦のゆきかいを保って来られただろう。ひろ子はこの不幸な人の弱気を、うしろから押すようなこころもちでそう思った。二人の幼い息子をのこして義弟の直次に戦死された若いつや子は、形の上で断絶された愛を、これからどうやってもち越していったらいいのだろう。戦争にひき出され不具にまでされた上、愛する確信さえ失うとしたら、人の一生として、きりこまざかれかたがひどすぎる。剛毅を。剛毅を。ひろ子は、それが湧き出ずる清水ならば手にすくって、その人の口から注ぎこみたいように感じた。
 もう小一時間で京都に着くというとき、片脚の人は、ふと改った口調になって、向い側の「教・総」に云った。
「自分は、京都で下車いたしますが、一つ何か、記念になるお言葉を頂きたいと思います」
 腕組みをしていた「教・総」はそう云われた途端、ほんのりとその顔を赧らめた。それは、能面になっているときの顔とはまるでちがって、好人物らしい、はにかんだ表情があった。
「自重して暮して下さい」
 考えながらおだやかに、そう云った。
「そして、勉強する。む、勉強する。何より勉強が大切だ」
「ありがとうございます」
 列車はその時小さい丘の裾をめぐって走っていた。列車のまきおこす突風で、野草がゆられ、萩の花がなびくのが見えた。
 やがて又、片脚の人が言をついだ。
「どういうもんでしょう。こういう情勢になりましたから国体論というような本は、みんな、かくしておかなけりゃいけないもんでしょうか」
 ひろ子は、おどろきをもって、その質問をきいた。
 あのときはああいう本をかくし、今は又こういう本をかくす、という風にすぐ気がまわるほど日本人を卑屈にしたのは、何ものであるのだろう。
 質問は「教・総」にとっても思いがけなかったらしく、意外そうな顔をもたげたが、暫くして武骨に答えた。
「われわれは飽くまで国体護持に終始する」
 片脚の人は、「は」というような言葉で挨拶して、それなり黙りこんでしまった。それは片脚の人にとってほしい答えでなかったことは明かであった。そうかと云って、信念として、しかも「われわれ」の信念としてそう云われた言葉を、片脚の人は、どう押し返すことが出来たろう。同じ歴史の頁の上に顔を見合わせながら、互に扶けるどんな力もなくなったものとして、二人の間にはそれぎり言葉が途絶えた。
 全く黙りこんでしまった片脚の人は、いよいよ家族に遭う時が迫れば迫るほど、不安が胸にこみあげて来た風で、うなだれたままになってしまった。そして京都駅に列車が止ったとき、心配そうにいそがしく出迎の人をプラットフォームの上に求めながら、松葉杖を鳴らして降りて行った。大阪駅へついた。ここで、「教・総」とその若い従卒とが降りた。白絹は、わざわざ車窓から首を出して、焼けのこってはいるが、薄暗いプラットフォームを見ていた。やがてその首をひっこめて座席へ腰をおろしながら、
「大勢迎えに来ていますよ、なかなか大したものらしい。将官級ですナ」
 そして声をおとし、
「大部責任の重い地位らしくて、自決の決意を洩して居られました」
 白絹が、その軍人に対して万事ひかえめに応対していたこころもちの原因が、わかった。
「さて、ここまではいいとして、これからがことですよ、山陽線は実にひどうござんすからね、先ずおくれずに行くことはないんだから」
 ズボンのポケットから時計を出し、ゆっくり見てから、どこやら解放されたという表情で、大きく、のびのびと伸びをした。
 ひろ子の乗っている車室は電燈の故障で、大阪駅を出てからは、真暗闇のまま疾走した。
 折々通過する小駅の灯かげが暗い車内にサッとさしこむとき、混雑した荷物のでこぼこや人影が黒く浮き上った。わきの窓はこわれていてガラスがなかった。

 重吉の母の登代が暮している町は、瀬戸内海に沿って、もとは山陽線本線がずっと迂回して通っていた場所にあった。現在の本線は、その北を直線に徳山市へのびている。
 東京駅の案内所でしらべたとき、下関行急行は朝の四時すぎ岩国へつく筈であった。そこで、支線にのりかえるのが順序と教えられた。
 これまで幾度かその田舎の町へ来たとき、ひろ子は、広島でのりかえるのが習慣であった。待合所の食堂でたべた牡蠣かきの香ばしさも、名産レモンの黄色いすがすがしさも忘れていない。しかも、直次の三十四歳の生涯は広島で終らせられた。せまい町筋に大通りが多い広島市街の光景と、海に注ぎ入る河に架っている橋々も目にのこっている。
 窓ガラスも電燈もない真暗な汽車の中で、眠ったりさめたりしているうちに、ひろ子は広島でのりかえて見たい気になった。
 白絹も、広島でのりつぐのであった。
「どうです、あなたも降りられるんなら、そろそろ出ていましょうか」
 通路に寝ひろがっている人々をまたぎ、膝をついてやっと大荷物の上を越し、リュックを背につけたひろ子は出入口のドアのところまで辿りついた。洗面所の中にも、接続板の上にも、ステップにさえ外向きに腰かけて、荷物と人が、女まじりに立ったり、しゃがんだりしてうとうとしているのであった。
 夜が白みかけていた。雨降りで、濡れた灰色の外光の中に、つい近くを松林や草堤がぼんやり眠たげにすぎてゆく。
 雨は長降りになりそうな降り工合である。
 いくらか上り勾配にかかった様子で列車の速力が落ちた。そのうちスーと停ってしまった。
「妙なところで止るじゃないか」
 白絹が不安そうに顔を動かして云った。
「広島まで、もう何分ぐらいですかな」
「まだよっぽどだアな。三本松にかかったばかりだから――一時間の余あらあ」
「早く出て来すぎたかな、こりゃあ」
 がくん、と汽車は動き出した。徐行して、そろそろ普通の速力を出すかと思う時分、つよい排気の音をたてて又ズルズルそのまま止ってしまった。
「どうしたんだ、故障か。いい加減にしろよ」
 白縮のシャツの上から腹巻をした、三十がらみの男が戦闘帽を後へずらしてかぶった頭をつき出して、線路の前方を眺めた。
「三本松じゃ、汽罐車がうしろへもう一台つくんだ。いつもそうだよ」
 列車は、松の生えた低い堤の前にとまっていた。土堤どての下草が繁っている。しめっぽい小雨の中へ、二三人男がとび下りて行って小便をした。
 列車は、いつになっても動き出す様子がない。ひろ子は肩からリュックをおろして、窮屈な足もとにおいた。白絹も荷物をおろした。
 そして時計を出して見た。
「これじゃ仕様がない、もう二時間もおくれちまった」
 それに答えるものがなかった。ひろ子に半分、自分の荷物に半分、もたれかかるようにして、こわい真直な髪を真中からわけた朝鮮の若者が立ったまま眠っている。そのうしろに丸まって、腕に顔を伏せている若者も朝鮮人であった。次の車室からそこまで溢れ出している旅客は殆どみんな朝鮮の人たちである。
 となりの車室も、電燈がついていず、外界が、ぼんやり白みかけて来ているので一層車内にこもる夜の暗さが濃く深く思える。しかし、その暑苦しい暗闇の中はひどく賑やかであった。
 愉快そうに入りまじった男や女の高声がしていて、どの声も喉音や吃音のまじった朝鮮の言葉でしゃべっている。一切の世帯道具をもって、今や独立しようとしている故郷の朝鮮へ引あげてゆく人たちの群である。
 こっちの車室は、一様にくたびれ、眠たく朦朧もうろうの中に陰気にしずまりかえっている。二輌の車のつぎめに立っているひろ子に、そのちがいは、いかにもきわだって、体の両側から感じられた。朝鮮までの旅と云えば、まだまだ先が長い。気をせくことはいらない。そうにちがいないけれども、その暗闇のうちに充満している陽気さには、何とも云えないのびのび充実した生活の気分があった。この人々は、絶えず何かを食べ、絶えずしゃべり、夜なかじゅうそうして旅行して来ている横溢が感じられるのであった。つよくこころをひきつけられて、ひろ子は精力的な、乱雑ながやがやに耳を傾けた。
 薄くらがりでじっと動かないひろ子を居睡りしているものと思って、白絹が声をかけた。
「あぶないですよ、眠られると――」
「ありがとう。――大丈夫です」
 白絹が行こうとしている村は芸備沿線にあった。そこに弟の家族が住んでいた。娘のようにしている姪も二人いるのであった。
「私もまあ、運がいい方と見えてこれでどうやら無事に一段落だから、一つ弟んところへ行って少し金でもわけてやろうかと思ったりしましてね」
「本当にね、戦さで儲かったお金には、人の命がかかっているんですものね」
 ひろ子も率直なもの云いをした。
「全く、ばかみたいなもんでしたなあ、私なんか、ちょいとした工場をやっていただけなんですが、それで一年も経たないうちに、小三十万儲けたんだから。――ばかみたいなもんでした」
 白絹はちっとも皮肉でなくそうくりかえした。
 ひろ子の前にいた、これも朝鮮の男が、そのときこわばった胸をひらくように反らして、外を見上げ、ひょいと線路わきの砂利の上へおりた。
 途端にガタンとひどい揺れかたをして汽車がすこし動き出した。幾つもの声があわてて、早く乗れ、という意味だろう、朝鮮語でわめいた。とびついて、その男がのりこむと一緒に、汽車は又ゆすぶれて止って、もう動かなくなった。まわりのものが笑った。
 そのとき、隣の車室の薄ぐらい陽気な混雑の中から、少女の澄みとおった一つの声が、突然アリランの歌をうたい出した。
アリラーン
アリラーン
アリラーン    越えてゆく…………
 メロディーをゆったりと、そのメロディーにつれて体のゆれているのも目に浮ぶような我を忘れてうちこんだ声の調子でうたい出した。それにかかわりなく男女の話声は沸騰していて、間に年よりらしい咳や笑声が交る。
 うたでしかあらわされない気持のいい、よろこびの心が、暗くて臭い車内から舞い立っているように少女はアリラーンをうたっている。ひろ子は、しんを傾けてその歌をきいた。ひろ子の見ひらかれた瞳に、まだ動かない列車沿いの堤に生えている松が映った。雨の暁方の鈍い鉛色の外気の中で、松の葉が、漸く黒くほそく見わけられた。

 雨の中を、ひろ子は小走りに地下道へ馳けこんだ。広島駅でいくらか元の形をとどめてのこっているのは、その地下道だけであった。一望の焦土というのは形容ではなかった。もうそこは、ひろ子が知っていた広島市でもなければ広島駅でもなかった。駅長事務室が、引込線の貨車の中に出来ていた。なまなましい傷の上に、生活が再建されようとしているのである。駅の見当さえつかなくなって、リュックを背負ったひろ子は地下道の右側の段に突立っている少年駅手にきいた。
「これから岩国へ行く汽車は何時に出るんでしょう」
「六時四十分!」
「六時四十分?」
 ひろ子は間誤ついてききかえした。三本松で三時間も不時停車した列車は、ついたときに、七時すぎてしまっている。もう出てしまった列車を教えられるという意地わるさが想像されなかったので、ひろ子は、いぶかしそうに、
「六時四十分て――午前?」ときいた。
「六時って云えば、午前だぐらい、ばかでもわかるだろう!」
 たった十四五のその少年駅手は左腕がなかった。青服の子供らしく短い片袖が尖った肩から垂直にたれている。片腕のない少年駅手は両脚をはだけて段の上に突立ち、何もかも無くなっている駅で戸惑いながら、ひろ子のように間のぬけた質問をする旅客の一人一人に、復讐的な鋭い悪意の輝いた嘲弄で応酬しているのであった。
 壊滅しつくしている市街と駅。そして小さい鬼のような少年駅手。ひろ子は、次の汽車までそこに居たたまれない気がした。また雨の中を馳けて、まだ停っている急行へよじのぼった。
「なあんだ、又のるのかね」
「ええ、岩国まで。――お願いします」

 岩国駅で下りて、ひろ子は山裾の方を眺めた。幾条もの線路越しの彼方に遠く生木でこしらえた小屋が一つ見え、そのあたりに駅員の姿がまばらに動いている。ふりかえって、ひろ子は海岸を眺めた。きらめく瀬戸内海の碧さに向って巨大に建て連っていたもとの人絹工場、後の飛行機工場の白い建物や、陸軍燃料廠の棟々は、どこにも見えなかった。地面に大小無数の凸凹穴と、ねじ曲りへし曲げられた鉄骨屑の乱雑な堆積がそこにあった。でこぼこ穴には不潔なたまり水が腐っている。
 給水所附近にあるような脚高の板棧道にひろ子のほか数人の旅客が、次の下りを待っていた。目の前に幾台も汽罐車がひっくりかえっていた。車輪を空へ向けてすっかり腹を見せているのや、なぎ倒されたまま顛覆しているのや、焼けただれてとけた鉄骨だけのこった貨車、客車が散乱していた。一台の自動車がふっとばされて来て、妙なごたごたの間に逆立ちして突こんだまま、そこで焦げ、エナメルがむけて錆びはじめている。
 雨は小やみとなった。濡れるとも云えない軽い雨脚が、リュックにかかった。その板棧道には列車が停る側にきちんと一定の間隔をおいて、何ヵ所にも人糞が落ちていた。掃除もされず、そのまま雨に半ばとけかかっている。
 西へ、西へと来て一夜あけたとき、ひろ子の周囲にあらわれた光景のすべては仮借ないものであった。

        七

 篠笹の藪と、すこしはなれた高くない山並の間の小駅で降りて、ひろ子は、駅前のひろ場へ出た。
 右手に見なれた貨物置場がある。ダラダラと下ったところに往還が通っていて、向う角の消防ポンプ置場も、つき当りの呉服屋も、もとのままある。ひろ子は、安堵と一緒に哀愁を感じた。この前、ひろ子がこの小さい村の町に来たのは、直次に二度目の召集が来たときであった。ひろ子が駅から歩いてゆくと、ポンプ置場の前に一台、ベルの吊られた赤塗手押ポンプがひき出されていて、屈強な若い男たちがそのまわりにかたまっていた。その中に直次がいた。ひろ子を見つけて黙って笑いながらよって来た。今、そのポンプ置場のあたりも森閑として、人影もない。
 ひろ子は、人通りのない狭い往還を北に向って歩み出した。半分ガラス戸のしまった理髪店。雑貨屋。精米所。商売をしていない菓子店。旅人宿。そういう店々が両側に一並び軒を連ねている。ひろ子は人通りこそ一人もないが、見えないどこかからか、往還を歩いてゆく自分の紺絣のもんぺ、さきの丸まっちい女学生靴、リュックに目じるしの赤ビロードの布はしが結びつけてあるのまで、すっかり見られていることを感じながら歩いて行った。
 ほんの三四丁で、この往還は出はずれる。そのすこし手前に、重吉の家の土蔵が見えはじめた。土蔵の白壁がすこしはげ落ちている。
 ひろ子は、胸がつまって来た。この土蔵の前から往還へ人々と旗とがあふれて、直次の第一回の出征が見送られた。その弟の進三が、母の登代と並んで実直な若者らしい体を正面に向けて入営記念写真をとられたのもこの道の上であった。
 タバコ店を出してある方のガラスが閉めきられて、よごれた幕がひいてある。出入口のガラス戸が一枚あいているだけで、その鴨居には、「名誉の家」と木札が出されていた。
「こんにちは――いらっしゃる?」
 声をかけながら、ひろ子はそっと店の土間に入って行った。せん来たときは、石炭、豆カス、麦、炭と、俵が積みあげられていた左手の板じきは、奥までがらんと空いている。よごれた柱が幾本も見えて、大きいカンカン量りが、隅っこにおかれている。左官材料のおいてあった反対側の土間もあいていて、脚のもげかかった籐椅子が一脚そこにある。
 余り使われている様子もない事務机の端に子供帽子がのっかっている、その店の間も人気なかった。いかにも生活の湧き立つ波はひいたところという寂しさが全身に感じられた。
 ひろ子は細長い土間を仕切っている立てつけのわるい障子をあけた。そこは台所であった。土間も流しもとも片づいて、やっぱり人気がない。直次たちがよく床几にかけて賑やかに忙しく朝飯や昼飯をたべていた板張にもんぺの膝を押しつけてひろ子は奥へ声をかけた。
「みなさん、お留守なの?」
 一層声を大きく、
「こんちは」
と呼んだ。
「まア!」
 ひょこんと、まるでついそこにいたようにつや子が、前会ったときと大して変ってもいない顔を出した。
「いたの? きこえなかって?」
 それには答えず、
「まア! ように!」
 つや子は、紺ぽいスカートをひるがえして奥へかけこんだ。
「おばあちゃん! おばあちゃん! 東京から見えてですよ」
 すぐ、
「まあ、まあ」
と、心からの声をあげながら登代が出て来た。
「今ついて?」
「三時間もおくれてしまったもんで……」
「えらいのに、ほんにまア。さあさあ、お上りませ」
 ひろ子の一瞥には、母のやつれの方が著しく映った。活気横溢という日頃の表情は母の顔立ちから消えて、絣の着物の肩がすぼけて見えた。
「直次が。のうあんた、ほんにまア、何と云っていいやら」
「電報ついたでしょうか。わたし速達を頂いた翌日立って来たんだけれど……」
「まだ来ん、のう、つや子はん」
「来ちゃ居りません」
 つや子の語調はいやにきっぱりしていて、何か、そういう電報は土台うたれもしないものだと云う風にきこえた。
 ひろ子は、母やつや子と話しているうちに悲しみよりも深い寂しさを感じて来た。直次の災難が知らされてから、一ヵ月余も経ち、しかも行方も不明、生死も不明というままに、今日では母も妻であるつや子も、直次を生きていない者としてあきらめて来ている。
 驚愕し、混乱しとりとめなく心当りに問い合わせ、さめざめと悲歎する場面も与えられないまま、直次のいない干潟ひかたのようになった生活の日々がこの家にのこされた。母とつや子が小さい二人の息子対手に、商売もなく、人気もなくなった家のなかに暮していて、東京から来たひろ子を見たとき、思わずとりすがって愁歎するそういう気持の激しいはずみさえなくしている。
 若いつや子が、涙を一杯ためながらも声の調子を変えず、直次をたずね歩いた時の様子を話すのをききながら、毛穴から汗のにじみ出して来るような苦しさを覚えた。ひろ子はこの状態において、あらわれた助力者という感じでうけとられていない自分を痛切に感じたのであった。
 母も、つや子も、くりかえし、くりかえし直次がよく才覚し、よく稼ぎ、よく人に振舞い、よく儲けた手柄を話した。
「ほんに、あの位やわう(柔い)に出来た人間は、たんとないと思いませ」
 そして、登代は、
「直次がよう稼いでくれよったから、こういうことになっても、つましゅうすれば何とか子供らを大きくするだけは心配のうやれます」
と云った。しばらくして、登代はいかにも、遠く手たらんものを思い出している風で、
「もうそろそろ重吉はんも、手紙みてじゃありましょう、のう」
と云った。
「そりゃ見てでしょう。どんなにびっくりしていなさるか。早く手紙でもよこせるといいけれど。困るわねえ、ああいうところは。――意地わるい規則があったりして――」
 重吉は、治安維持法によって無期を云いわたされた。網走に移されたのはその年の六月であった。母には、巣鴨の拘置所もぐるりがすっかり焼けたので、漠然疎開のように説明してあるのであった。石田の長男である重吉のこころもちとして、父親が中風で床についたきりであった七年の間、それから直次や進三の入営、除隊、父の葬式、応召、婚礼、又出征、初孫の誕生という時々、ひろ子は出来るだけのことはして人々を満足させて来た。東京が焼け原になってしまって何一つ無くなった、ということも、殷賑いんしんだった東京と、その店々の印象を大切にもっている母には事実を疑わないまでも実感から遠いことであろう。
 ひろ子が、作家として、もう五年の間、小説さえ発表させられない境遇にいるという現実も、ここのひとたちに、もとのように頼りになる者としてでないひろ子を感じさせるであろう。
 四歳と二つの男の子たちが、紙風船と、色の塗ってない積木を畳の上にちらかして遊びはじめた。その素木の積木が、その年の九月初め日本橋の三越の玩具部に売っていた唯一の子供たちの遊び道具であった。子供たちに積木してやっているわきの座布団の上に、裾まわし分だけの紺秩父の布地と、ひろ子が母の丸帯を切って来た綾織の布地が、出しっぱなしてあった。ひろ子が東北の田舎からリュックに入れて背負って来た土産のしるしは、こんなものであった。
 五時頃、この家から国民学校に通勤している従妹のしげのが帰って来た。しげのが、白い木綿のブラウスに西日をうけながら、裏の新道を小走りにかけ下り台所口へ入って来て、ただいまと云い終るか終らないに、土間にいたつや子が、挨拶にこたえず、
しげのさん、お風呂の加減みにゃ」
と云いつけた。子供らと遊びながらひろ子は、それをきくと何となしびっくりした。障子のかげで、しげのの姿は見えない。けれども、そういうのが毎日のことになっているらしく、しげのは黙って向う座と呼ばれる小部屋へ荷物をおいてから、また裏へまわって行った。
 裏山の茂った杉の梢に、溶けるような美しい斜光がさしていた。ほど近い駅の構内で、転轍した貨車がリズミカルな響を立ててぶつかり合いながら接続されている音が、海に近い西国の小さい町の澄んだ大空をわたってきこえて来る。台所から燃木のもえる煙が匂っている。何年もの間ここへ来たとき見馴れ、ききなれているそれらの地方色にかかわらず、自分たち石田のうちのものの生活は変ってしまった。
 東京を立つ前、ひろ子は土産ものをさがして銀座の三越へ入った。がらん洞に焼けた地階のほんの一部分だけを、ベニヤ板や間に合わせのショウ・ケースで区切って、当座の売場にしてあった。紙につつんだ丈の口紅や、紙袋入りの白粉が並べられたりしている。一方の隅に、アメリカのどんな避暑地にある日本土産品店よりも貧弱な日本品陳列場が出来ていた。白樺のへぎに、粗悪な絵具で京舞妓や富士山を描いた壁飾。けばけばしい色どりで胡魔化した大扇。ショウ・ケースに納められているのは、焼けのこったどこからか集めて来た観光客向の縮緬ちりめん紙に印刷された広重の画や三つ目小僧がつづらから首を出している舌切雀のお伽草子類である。こんなものが商品と云えるのだろうかと怪しまれるような妙な金属の加工品、紐、網、安全カミソリが並べられている。光線の不充分な薄暗いベニヤ板の匂いのする売場の中に、どれ一つとしてまともでない物品のゴタゴタある店内の光景は、大都会の河岸に漂いよった生活のごみという感じを与えた。
 東京に進駐してまだ三四日しかたっていなかったアメリカ兵が、あとからあとからと、その暗い洞のような、何を売っているのか分らない店の一方の入口から、入って来ては、もう一つの口から出て行った。
 ひろ子が、一つのショウ・ケースのわきに立って眺めていると、二人づれの若いアメリカの将校が入って来た。みんなと同じに、簡単な好奇心だけであちこち見まわしているうちに、その一人が並べられている品ものを、段々仔細に注視しはじめた。何の部分品か分らない金具をとりあげてしばらく指の間でひねくりまわして調べてから頭をふって下へおいた。そこをはなれて、ひろ子が立っていた横を通りすぎながら、真摯なおどろきをあらわした低い声で、ひとこと、ひとこと明瞭につぶやいた。
「日本人は破産している」と。
 偶然きいた外国人のその短い言葉は、ひろ子の耳の底へとおった。そして、心に止った。
 一生懸命に体を平べったくし、翼をぱたぱたやってその水たまりで行水を使おうと骨折っている一羽の雀のもがきのようなものが、ここの家へついてからのひろ子の感情に生じた。直次という生活の中心をうしなった不幸は、ここの家の女ばかりの暮しから、その悲しみをたっぷり溢れさす気の張りをさえ失わせてしまっている。不幸とはそういうものだ。ひろ子は思った。ここで感情は破産させられている、と。

        八

 ひろ子が、初めてこの西国の村町に来たのは十二年前の一月初旬であった。正月の三ガ[#「ガ」は小書き]日がすぎるのを待ちかねて、ひろ子は東京を立った。その暮の二十日すぎ、重吉が検挙された。ひろ子が幾度足を運んでも、その警察の特高は重吉のための衣類の差入れをさせなかった。一九三三年の二月には小説家の小林多喜二が別の警察でではあるが拷問で殺された。その前後には、ひろ子がその名前だけをきき知っているような人々で、検挙とともに命をおとした人が幾人かあったのである。
 寒中だのに、重吉のために着物さえもさし入れさせない。その一つのことは、なかで重吉がどんな扱いをうけているかを物語っている。ひろ子は、つき返された包みをかかえて、薄暗く凍って曲りくねった警察署のコンクリート階段をゆっくり下りて来ながら、重吉が生きているかどうかさえ、不安であった。母親に対してならば、いかな警視庁も重吉が生きているかどうかということだけは、明らかにする責任を感じるだろう。そこで、ひろ子は、急に東京駅を出発したのであった。
 京都から西を知らなかったひろ子にとって、柳井線沿線の景物は、目新しく映った。内海の色、波のないその海面にさかさに投影しているおだやかな山の緑。港の船のほばしらの林立と、帆が、布幅をたてに縫い合わされていて、絵にある支那の船の帆のようなのも、すべてが物珍しく映った。石がちの土質の白っぽさも、東北とは全く異って櫛比しっぴした町々の屋根、前に見える細い街路も面白かった。二人で来ることのなかった重吉の故郷の景色として、沿線の眺めはひろ子のこころに迫った。
 石田の家のある駅にスーツ・ケース一つ下げて降りたとき、町には正月の粉雪がふっていた。ひろ子の髪や茶色の襟巻に白い雪の片がとまった。駅の名だけを重吉の親たちの手紙から覚えていたひろ子は、来て見れば、きくまでもないそこへの道を駅員にたずねた。そして、訪ねて行ったのであった。その頃重吉の家では、まだにぎやかに商売をしていた。米穀、油類、セメント、左官材料、薪、木炭、タバコ、塩。ほかに直次と進三がトラック運送に働いていて、仲仕が雇われていた。中風にかかっている父親もいくらか体の自由がきいていた。突然東京からひろ子が訪ねて来て、
「ひろ子でございます」
と挨拶したとき、重吉の親たちは、にわかにお父さん、お母さんと呼ばれる自分たちにおどろいたし、ひろ子は、母の若さにおどろいた。重吉はひろ子を妻にしてから、故郷へかえる暇なしに非合法の生活に入ったのであった。
 他人にきいてひろ子が歩いて来た往還には、時々バスが通っていた。狭い一本道路を、田舎のバスらしい権威で驀進ばくしんするから、重吉の家の店のガラス戸も、前の沢田という家の四枚のガラスも、泥はねだらけであった。低いトタンの軒すれすれに日に何度かバスは往来した。
 やがて直次が入営し、現役からかえり、更に召集されて北支にやられた。日本中で、千人針が縫われ、駅々街々で紙の小旗がふられていた。その留守に重吉の父は歿した。大正九年経済恐慌のとき破産した重吉の一家は、その頃ようよう負債整理がついて自分たちの家だけとり戻したのであった。
 進三の入営の番が来た。兄の重吉と弟の進三のいない家へ、三年目に直次が還って来て、母の見つけた嫁のつや子と婚礼をした。
 中国や満州に侵略していた日本の戦争は、その時分ますます拡大し、生活は著しく変化しはじめた。統制によって、商売は非常にむずかしくなった。大きい川に沿って、低い峠や林、田圃たんぼなどを間にはさみながらとびとびにつらなってかみしもにわけて呼ばれているその町と、さらに二里ほど行って海岸に面した田原とが、合併されて市になった。それはこれまでのように地方の発展によって膨脹して町から市になって来た市ではなく、全く軍事的な目的のために、田圃と畑が一躍市につくられた。徳山市からその新造の市まで五里の間、一本の軍用道路が貫通されることになった。その道路は軍用トラック専用のものであり、断乎たるものであり、軍人が地図の上に引いた一本の線のとおりに必ずつくられなければならないものであった。
 ひろ子が、四年前一番終りに重吉の家を訪ねたとき、母は、その新道のことを苦にしていた。
「ほん、困りじゃのう、あんた。何でも、ここの軒ぐらいの高いところへ出来るというちょる」
 新道のうっとうしさと直次の三番目の召集の不安とが、からみあって語られた。二度目に召集されて入隊し、明朝乗船という前夜、直次は急性盲腸炎にかかって、とりのこされた。
 そのとき集められた予備の一隊は、どこか南方へやられた。
 せまい往還を荒っぽく日夜突進するバス、トラック、ダットサンの交通は、根太のゆるんだ粗末な重吉の家を朝から夜中まで震動させた。二階から見える線路の上に、兵隊を満載した列車が長い間とまって、町の婦人会の女たちはその兵隊たちに茶や握り飯の接待をした。新しく出来た軍事市は、巨大な工廠を中心としていて、近隣の農村の若い男女、少年たちを総動員した。朝と夕方きまった時刻に、重吉の家の前の往来は、そういう村々からの自転車のりで一杯になった。どのバスにも赤字で憲兵と書いた腕章をつけ長サーベルに長靴の男がのっていた。どこへ行って、どこへ帰る必要があるのか。知っている者はなかったが、いつも憲兵が一人ぐらいは乗っていた。その冬、アメリカとの戦争がはじめられたのであった。
 こんど来たひろ子が、二階の東窓をあけてみると、母が苦にした軍用道路は、裏の無花果いちじくの梢に手のとどくぐらいの高さで完成されていた。溝川一つへだてて、辛うじて重吉の家はそのままのこされたが、麦畑はつぶされ、その先の田圃も埋立てられ、その畑をつくっていた一軒の家は、在ったところをずっと山際よりに引こんだ。新道は、軍人が地図の上に引いた一本の線どおり、必ず真直に、断乎として作られなければならなかった。そしてそれは、作られた。直次は必ず応召しなければならなかった。そして、それはそのとおりにされた。
 バスは、もう狭いもとの往還の上を走っていなかった。バスは、裏の新道の上も走ってはいなかった。あわただしく作られた軍用市は機能を喪失し、川に沿ったかみしもの町は、機械的に一本の道路で貫かれているだけで、麻痺に陥った。この五十戸あまりがかたまっている部落に今は新しい名がつけられている。
「後家町」
「後家町」の裏の新道を、工廠の方向から時々トラックが走った。ドラム罐をつんでいるのもあるし、材木を積んでいるのもあり、時には山の方へ疎開させた家財道具が逆もどりして来るトラックもあった。しかし、そのどれもが、直接「後家町」に縁はなかった。何故なら、最後のドサクサの間にうまいことをしてドラム罐をどこかへうつしていたり、工廠用の木材を流用する役得をせしめたりしたのは、みんな、工廠関係の男たちであったから。そういう男たちがいる限り町の名は、「後家町」と呼ばれたりはしないのであるから。
 母とつや子とが直次をいたむ口調のうちには、直次さえいたならば、時勢の激変でこぼれ出した利得を、この門口から素通りさせてはおかないものを、という思いがはっきり汲みとれた。
 石田の家は、息子三人に父親、働くものも男ばかりという生計であった。その中心に、登代が永年の借金暮しを辛棒し破産をもりかえす才覚で人々におどろかれるような勤勉な明暮れを送って来た。母の才覚、深い計量は、重吉こそ欠けていたが、いつでもそれを実現してゆく男たちの素朴な力のつよい腕や背中をもっていた。直次が亡くなり、進三は現役からひきつづいて濠北からかえされず、さりとて登代の寸法で男たちを集めて働かせる商売そのものが無くなっている現在、登代の活動を愛する生れつきは、在って甲斐ないもののようになった。
 少年時代重吉が机をおいて暮していた二階の東窓の下に、ひろ子はくたびれの出た体をよこにしていた。別棟で更に東につき出ている台所で、いきなり四歳の昭夫が、
「いらん! いらん! いらんいうたら、いらん!」
と癇声をふりたててどなっているのがきこえた。同時に、はいている大人下駄で地団太ふむ音がした。
「なにいうてるのよ、昭ちゃん。かたい云うからわうにしたんじゃないの、じら云わんとたべんさい」
 小麦と米を挽き合わせた「はったい粉」をねって、二人の子供らは時をかまわずたべていた。そのねりかたがかたい、軟かすぎると、ひろ子がついて間もなくから昭夫はあたけた。
「いらん!」
 ガチャッと何かがころがる音がした。
「昭ちゃん!」
 思わず怒ったつや子の声になった。
「どうして、お前、そう云うことをきかんの?」
 お父ちゃんに云いつけますよ、とおきまりに結んで来たとしか思えない言葉じりを、つや子はそのまま途切れさせた。溜息でもついている風であった。やがて、気力も張りもない、すてたような調子で、
「母さんはもうしらん」
 つまらなそうに歩いてどこかへゆく跫音あしおとがした。そのまま台所はひっそりした。あとには昭夫が一人で、すきなだけ板じきをちらかして、はったい粉をたべているのだろう。
 上目づかいの癖がある小さい昭夫は、食事のときも、
「くわん」
 そう云ったきり、一旦とりあげた箸を粗暴に食卓の上に投げ出した。
「どうで! 昼もようたべんと」
 登代が気づかって、顔色のよくない、きょときょとした昭夫を見た。
「治郎ちゃんを見い。ようたべちょる。さあ兄ちゃんじゃけ、昭夫もお行儀ようにせにゃ、東京のおばちゃんが、もうお土産もって来てやらんといの」
 昭夫は、ひろ子を見あげて、にやっと笑った。
「さあ、お汁かけて。ほん、美味うまそうなじゃあろが」
 昭夫は、自分の前に豆腐の澄汁をかけた、茶碗がすえられきるまでじっと見ていて、又、
「くわん!」
とくりかえした。
「いもがええ」
 それ助かった、という風に祖母と母親とが、
「何で、そんなら早うそう云わんのじゃろ」
と蠅入らずから、ふかした薯の皿をその前へ出してやるのであった。
 ひろ子が最後に来たとき、昭夫は生れて百日たったばかりの赤子だった。亡くなったお祖父ちゃんに似た色黒い面白い赤坊で、ちょこなんと抱いてとった写真を重吉のところへも送った。自分に子のないひろ子は、甥姪たちに特別な情愛を動かされ、注意をひかれるのであった。台所の蠅入らずの上に、陰膳をそなえていたときのまま直次の写真が飾られている。その写真で直次は浴衣がけで、あぐらをくんでいる。ゆったりと大きいあぐらのなかに、今よりずっと稚い頃の昭夫がまるっこく抱かれて、赤子のぽちゃぽちゃした顔に、可愛く眼、鼻、口をつけて、こっちを見ている。直次は、若い父親らしい表情で、口元をゆるめてとられているのであった。
 しんみりとその写真をみせ、父さんについて語り、昭夫の気分を落付かせてやろうと努力する根気もつや子にはないらしかった。日頃体のよわいつや子は、直次のいたときから、何かにつけ、どうせ長う生きられんのだから、と口に出した。
「間食させすぎると、きまったとき御飯たべなくなることよ。顔色のわるいのもそのせいかも知れないよ、十時と三時にきめたら?」
 この辺は、食糧が乏しくはなって来ていても、まだ食事とお八つとを規則だてられる位はたっぷりしていた。つや子は、しかし深くききしめる様子もなく、
「はア」
と答え、
「ほんに、じらばかりいうて……」
 寧ろひろ子への云いわけらしくつぶやいた。癇のきつい昭夫は、その癇を無意識のうちに鎮めてくれる男らしい人間的な圧力や生活の規律が女ばかりの暮しに欠けていることから、とめどなく荒っぽくなっているのであった。母と嫁とは、ほかに男のいない生活で左右から直次をとりかこんで暮して来た。そのように、今は癇のきつい昭夫のまわりを祖母と母とが左右からはさんで近づいては遠のき、一応口先で叱りつけては、あとで一層機嫌をとって暮している。
 横になりながらひろ子は台所の騒ぎをきいていて、中心になる男が奪われた一つの家庭の不幸と生活の破綻というものの複雑なあらわれをしみじみと感じた。戦争の災禍は、この「後家町」で石田の一家の生活の根太を洗った。じかな、むき出しな災禍の作用を現わしている。家財を焼かれた人々の損傷の深さを、ひろ子は東海道、山陽とのった汽車が西へ来るにつれて思いやった。けれども、戦争の真の恨みは、どういう人々のところにこそあるだろう。国体論はかくした方がいいでしょうかと不安げに訊いた片脚の白衣の人の瞳の底にあった。そして、「後家町」の、ここにある。日本じゅう、幾十万ヵ所かに出来た「後家町」の、無言の日々の破綻のうちにある。
 ひろ子のこめかみをすべってつめたく苦い、渋い涙が、籐製の小枕におちた。戦争犯罪人という字句をポツダム宣言の文書のうちによんだとき、ひろ子は、その表現が自分の胸にこれだけの実感をたたえて、うけとられるとは知らなかった。ひろ子は、世界の正義がこの犯罪を真にきびしく、真にゆるすことなく糺弾することを欲した。

        九

「おばあちゃん、おばあちゃん」
 そう呼んでつや子が、母に何か云っている。おばあちゃんというようなよびかたは元来、ふっくりした優しいよびかけであるはずだのに、つや子のそのよび声には、呼ばれたもののこころを誘い出す暖いはずみよりも、押しつけるかたさが響いている。
 今度来て、ひろ子はそのことに気づいた。これまでもつや子は、おばあちゃん、又、おばあちゃんと、一日じゅう細かになかなかよく母を動かした。ひろ子は、冗談めかして、つやちゃんは甘ったれてよく働かせるのね、と云ったことがあった。まだ若いから、何いうてもたよりないのでありましょう。登代は気をよく説明していた。その頃の呼びかたは、同じおばあちゃんにしても、ちゃんというところに小猫のからむような甘みがあり、母の気質にとっては、そういう絡まりも快よいのであろうと思ってきいた。
 おばあちゃんという、軟い名をこわく呼んでいるいまのつや子も、呼ばれる母の身も、ひろ子にとっては気の毒にたえなかった。
 昔、ひろ子が駒沢の方に住んでいたとき、低い竹の四つ目垣越しに隣家の菜園があって、その奥に住居の縁側が見えた。一人のおじいさんがそこに住んでいた。嫁に当るひとが、おじいちゃん何々ですよ。おじいちゃん、こうですよと、日に幾度となく呼んだ。その声は、明るい午後ひろ子が机に向っている反対側の室まで手にとるようにきこえて来た。その時分ひろ子は石榴ざくろの樹と、子供の土俵あとのある庭に向って小説を書いていた。そして、折々その声にじっと耳を傾け、あの声に愛があると云えるだろうかと思った。一日に呼ぶ度数が多ければ多いだけ、それは単調な生活の倦怠の中に抑えられた女心の苛だたしさをひろ子の心につたえたのであった。
 つや子の嫁入りの晩、ひろ子はその田舎町の料亭の座敷で、母のとなりに坐った。高島田に結び、角かくしをし、六月初旬に冬ものの黒い裾模様を長くひいて、仲人に片手をひかれた花嫁が立ちあらわれたとき、ひろ子は何とも云えない恐縮な思いがして、単衣の紋付の下に汗をかいた。角かくしの重い首をうなだれて入って来た花嫁に先立って、いくつもの箱を重ねた島台が恭々うやうやしく運ばれた。それは、花嫁からの土産であった。精一杯身を飾り、土産の品までもさし出して、見知らない石田の家の嫁になって来た若い一人の女の運命に対して、ひろ子は習慣の力のつよさというものに威怖を覚えた。
 となりの室におかれた古いレコードが高砂やを謡っている間に盃がとりかわされ、記念写真が、同じ部屋で撮された。北支から帰還して二十日ほどたったばかりだった直次は、これも冬ものの黒羽二重の紋付に仙台平の袴で、汗にまびれながらも美しい若者ぶりであった。写真をとるというとき、足が痺れて立ち上ったまま動けなくなった。ひろ子は、いそいでそこにあった椅子にかけさせた。写すときは、その椅子に花嫁がかけて、仲人であって同時に写真師でもある人がその裾の工合を直したりした。直次の婚礼の次第には生真面目さとともに田舎の町らしい一種のユーモアがあった。
 一年後、直次に二度目の召集が来た。
 その見送りにひろ子が来たとき、もう昭夫が生れていて、つや子のおかあはんが、おばあちゃんにかわっていた。話のはずみにふとつや子が、婚礼の記念写真のとき直次が動けなかったので、どうやら足が悪うなっているのではないかと思いよりました、と云って笑った。
「それどころか立派な脚があったでしょう」
 ひろ子も笑ったが、つのかくしのかげに伏ったままのようにあったつや子の睫毛まつげの下から、ほんの一刹那のそのことが見のがされていなかったのにおどろいた。花嫁の神経の働き工合が察しられた。
 ひろ子のこころもちでみると、重吉の母は、下駄のうしろを引きずって歩くつや子に、こわばった調子でおばあちゃん、おばあちゃんと呼び立てられ、二人の孫をからませられるにふさわしい人ではなかった。ものわかりのよいしゅうとめであろうとする登代の忍耐と努力。二人の子もちだというところから出る体の弱いつや子の落つきかた。
 重吉は、どう話されたら、このような生活の細部の感情までを理解するだろうか。
 窓から見ていると、治郎を紐でおんぶした母が、堤をのぼって新道へ出て行った。永年子供をおぶったりしたことのない小肥りな母の背中におんぶの形はちっともなじまず、それを見るひろ子の目を悲しませた。このこころもちを、重吉は、どう話されたら分るだろう。重吉はすべてを知らなければならない。ひろ子はそう思った。母とつや子と二人の幼い息子たちの生活のネジをまき直し、幸福をとり戻すために、重吉は必要なすべてのことを理解しなければならない。何故なら、母やつや子にいるものは、その一声によって自分たちの感情の整理までをして来た男の言葉、男のさしずである。しかし、その男がなくなったとき、女はどうしたらいいのだろう。女たちは習慣をかえなければならない。女だけでやってゆけることを学ばなければならない。しかもこの際、母とつや子が、その新しい必要を理解するために必要なさしず、言葉は重吉からしか期待されなくなっているのであるから。
 濡れているうちは、余り薄くて色らしい色も見えないインクで網走への手紙をかきながら、これから帰るのは重吉であろうか、それとも七年の歳月を前線で経ている進三であろうか、とひろ子は考えた。新聞やラジオは、八月十五日から一ヵ月たったその頃、南方の島々で、ちりぢりばらばらに武装解除をしている日本の部隊名をつたえていた。進三の部隊長が、どうか普通の分別をもった男であるように。ひろ子は切にそれを祈った。敗北の噂をきいて、食物もない山中の獣の穴へ部下を追いこむ愚かものでないように。進三は重吉とまたちがったやりかたで人によろこびを与える若者なのであった。
 母が、いつにもないそっとした様子で梯子をあがって来た。机に向っているひろ子を見て、
「おや、あんた、昼寝してじゃないの」
と云った。
「いいえ。おやすみになる? 枕出しましょうか」
「ええ、ええ」
 言葉をきって、
「縫子はんが来ておってでありますよ」
 低い声で何となしひろ子の顔色を見るように告げた。ひろ子は、奇妙な気がした。従妹の縫子は、ひろ子の東京の小さい世帯に一年半も一緒に暮したし、互に気があっていて、ひろ子がここへ来て縫子が訪ねて来るのは全くあたり前と思えるのであった。
「まあよく来たこと!」
 思わずそう云って立ち上ったとき、ひろ子は、不思議な感じを与えられた小声のしらせのことは忘れた。
 母のあとについて茶の間へ降りてみると、ガラス障子のところで、縫子が一人坐っている。もうよっぽど前から、そこにそうやっていたように、ぼんやりした所在なさをあらわした姿で坐っている。ひろ子は、また奇妙な気がした。
「どうしたの縫ちゃん。いつ頃から来ていたの」
 いぶかしそうに立ったままいきなり訊くひろ子を下から見上げるようにしながら、縫子はもち前の落付いた口調で、
「さア、小一時間も前に来たかしら」
 そして、懐しそうににっこりした。
「知らせがいったの?」
「いいえ。わたしお姉さんが来ておられることなんか、ちっとも知らなんだの。昨夜、直次さんの夢を見て、気にかかってせんないから、一寸しらせに来たら、来ておられるって……」
 縫子は、一里半歩いて、来ているのであった。
 夢で、直次がミヨシというところにいる、という話をしているのをきいた。さめたあとまで、あんまりミヨシという土地の名がはっきり聞えていて忘られないので、近所で旅行案内をかりて地図をみたら、
「不思議でありますねえ」
 縫子はしんから偶然の符合をおどろくように濃い眉を傾けてひろ子を見た。
「ほんにミヨシというところがありました。三次とかくの。芸備線で二時間ほど広島から行ったところに」
「ふーん。そんなことってあるものなのかしら。――そいで、どういうところなの、その三次みよしって……」
「病院はありますって」
「陸軍病院?」
「そうじゃないらしいけど……。もしかしたら、わたしつや子はんとつろうて行って見て来ようかと思って」
 黙って熱心にきいていた登代が、
「その三次みよしは、つや子はんがしらべに行きよった豊田村とはまるで別の方角のところじゃろ、のう」
「あれは万部線でありましょう」
「の、つや子はん、つや子はん、ちょいときてみさいの」
 ねむりかかった治郎をあぶなっかしくおんぶして、つや子が土間から上って来た。
「のう、あんたが、先度ゆきよったのは豊田村じゃのう」
「はあ」
「そのとき、本部で、三次たらいうところのこと云わなんだか」
「さあ……」
「縫子はんが夢を見たといの、つろうて、さがしに行こうかと云うてじゃよ」
 つや子は、薄すり凹んだ瞼をあげるようにして、縫子からひろ子、母へと視線をうつした。
「本部でも、云うてでありました。鳥取県の三朝みささあたりまで分散治療に送ってあるよって、個人でさがしたら、一年かかってもよう分るまいて……」
 豊田村から又二里近い山下の国民学校に移った本部の残務整理責任者は、つや子に向って、石田直次軽傷と記入されている一冊の帳簿を開いて見せた。又別のもう一冊を出してみせたら、それには、石田直次の項に、行方不明と記載されていたのであった。
 ひろ子は、雲を掴むような話をきくにつけ、自分で一度豊田に行って来ようと決心していた。きのう着いて、つや子と母との話すのをきいているうちその心がきまった。
「じゃ、いっそのこと、こうしましょうか。私は、ともかく一遍どうしても豊田村へ行って調べたいから、明日、縫ちゃん行かない? そして、三次みよしのこともよくきいて、もし手がかりがありそうなら、まわって来てしまうわ、いかが?」
「――えらい難儀じゃのう」
 母が気づかわしそうにゆっくり呟いた。
「行ってもろうたら、それにこしたことはないけれど……ほん、東京であんな目えみて、ここへ来て、ほん……」
 たよりないつや子と母との話だけを又伝えにして、直次さんについてはもう諦めていられますと、重吉に書く勇気はひろ子にないのであった。
 それとも、つや子が自身で縫子の夢にきこえた三次みよしというところを訪ねて行きたいこころもちだろうか。
「どうする? つや子さん。自分で行かなくても気がすむこと?」
「さア……」
「つや子さんの気がすむ方にしましょうよ、ね」
「……………」
「こんどは、御苦労でも、ひろ子はんに行んで貰おう、いくらかしゃんとした話もせまあじゃ、のう、つや子はん」
「はア、それがよろしうあります」
 相談がきまった。登代が、ねそびれて泣く治郎をおんぶして、駅へ切符の工面に出かけた。
 その母が帰り途にかかったと思われる頃、雨が落ちて来た。
「降って来たね、あした雨かしら、困ったこと」
 縫子も立って来て、小さいパンツの干してある低い軒先から雨脚をみていたが、
「降りよりますで――これは……」
と、土地ものらしい確信で云った。
「お母はんに、傘もっていて上げなきゃ」
「そうだわ」
 ひろ子が土間をさがしたが雨傘らしいものは見当らなかった。
「つや子さん、雨傘どこかしら」
 姿の見えないつや子をさがして呼んでいるひまに、
「その辺に、何ぞありましょう」
 縫子が、大きい膳棚の横から古い番傘を一本とり出し、それをもって迎えに出て行った。

        十

 灰色の雨雲が強い風に吹きたてられて、むら立ちながら山の峯々を南から北へ走っている。
 雲脚が迅く濃くなるたびに、トタン屋根に白いしぶきを立てて沛然はいぜんと豪雨が降りそそいだ。大ぶりの最中は、つい近くの山鼻さえ雨に煙った。どっちの道にも朝から人通りが絶えている。
 残暑にあぶられてギラついている東京の焼跡から来たひろ子に、夏の終りのこの大雨は、むしろ快よかった。いかにも、山のすぐあっちには広い海のある場所らしく、たっぷり、惜しげない、雨のふり工合がいい心持であった。
 けさ、四時すぎの汽車にのるはずであったひろ子と縫子は、一旦その時刻におきて、どうする? と相談した。電燈のついている台所の雨樋をむせぶように鳴らして、もうそのときから大降りであった。
「どうなろういの、この雨で……」
 治郎をだいて茶の間にねている母が声をかけた。
「日よりみてからのことにすることでありますよ」
 つや子も髪をかきあげながら出て来た。
「駅から二里も歩かんならんのに、この雨では、ほん、せんのうありますわ」
 おそい汽車に、と思っているうちに、十時になり正午になり、午後になって雨は一層ひどくなった。
 縫子は、ひろ子のもんぺのほころびを縫ったり、二人の子供らの腹がけをこしらえたりしてやりながらも、気にして折々雨にかすむ外を見た。
「わたし、かえってまた出直そうかと思うけれど」
「どうしてさ。汽車にものれないのにこの雨を帰れるものか、歩くの?」
「……いて、いいかしら」
「誰にわるいのさ」
「…………」
「そうあれこれ考えないものよ」
「…………」
 小声でそんな短い言葉が交されるとき、母もつや子もそのあたりにはいないのであった。石田へゆくと、挨拶を終る間もなくきっとつや子が、何時の汽車でおかえりますの? ときくんだものと親戚の若い女たちは歎いた。つや子は体が弱いせいか、その体のよわいということに気負けして暮しているせいか、直次のいるときから客ずきでなかった。人の出入りもない今、食事ごしらえも感興なく、その場のしのぎという風にされていた。
 大降りの勢はちっともゆるまず、段々夕方が迫って来た。
「どうで! ほんほん、よう降りよる! つや子はん、また停電なとせんうちに、御飯しまうことで……」
 睡眠の奥にまで雨脚がとおっているような一夜が明けた。
 きのうは大雨の裡に生々していた自然の眺めもちらばっている家々も、きょうは連日の重い雨に濡れふやけて、力なく、ぼんやり色が流れて見える。
 ひろ子が二階で、雨のふりこまない西側の窓から線路の方を見ていると、母があがって来た。ひろ子と並んで線路、その先の竹藪、山裾へと視線をやった。真面目に気づかわしげにその方角をみた。その竹藪のかげに水無瀬川の、大きい河床がかくされているのであった。
 六七年前の梅雨時分、ひろ子が来ていたとき、やはり雨がつづいた。刈りのこされた麦が、みんな黒穂にくさって、この窓から見わたすと、河床からあふれて麦畑を浸した大水が幾日も鈍く光った。黒いくさった麦の穂先だけが、その鉛色に光る水の上にそよいでいた。
「ほん、大難儀いのう。山の方で、みんな樹を伐らせよって、おまけに、根っこまで掘りおこしたから、水のとめどがないようになりよった」
「こんどは、いいあんばいにまだ、あっちの畑まで水が出ておりませんね」
「それで結構でありますよ」
 石田の家は、街道に沿って埋立てたせまい三角地の上に窮屈に建て増し、建て増しされた家であった。廊下の中に庇合ひあわいなどがあった。こんなに降ると、仏壇のおいてある戸棚の中が大もりになって、バシャバシャしぶいた。家じゅうそこここに、たらい、バケツがもち出された。昭夫と治郎とは、その盥をめぐり、バケツのまわりをかけまわっている。子供の叫び声と吹きつけられる大雨のザッ、ザザッという天地いっぱいの音をきいていると、ひろ子は子供時代を思い出した。大雨のときうちの中はいつもうす暗かった。すこしずつすかした雨戸の間から雨がふりこんで古い廊下がぬれていた。ひろ子と二人の弟たちとは、小さい三つの顔を一つずつ雨戸のすき間から覗けて、誰が一番長く雨に顔をたたかれて平気でいられるか、競争をした。それから、濡れている廊下を片足ですべった。昼間の薄ぐらさ、ひどい大雨の音。むし暑さ。それらは、稚いひろ子を興奮させ、どきつかせた。子供らのおまるのわきに、夜じゅう豆ランプがついていて、いつもぼーっと雨戸についた地震戸の棧を照していた。
 今にも消えそうで消えない電燈の下で、落付かない夕飯を終った。
 八時すぎになって、前の沢田へふるいをかえして貰いに行ったつや子が、傘をたたみながら、あわただしく入って来た。
「おばあちゃん、川がおごりよりますて」
 おこったように、登代が、
「どうしょうぞ!」
と云った。
「二十年も水がおごるようなことはありゃせんじゃったのに」
「おばあちゃん、去年から、大さわぎしよったじゃありませんか。すっかりものあげて、わたしが来てからもう二度も水がおごりよったのに……」
「どうするの? もし物をうごかすなら、今のうちの方がいいんじゃないのかしら、夜中に騒いだりするといけないから」
 母は、半信半疑の面もちでしきりに雨音に耳を傾けた。
「――いくらか、ゆりたようじゃありますまいか」
「そうかしら」
 ひろ子は、出水に遭った経験が全くなかった。二百十日の颱風で、雨戸をしめた小箱のような一人住みの家の二階がふっとびそうで眠れない思いをしたことはある。けれども、水について、ひろ子はほんとに何にも分らなかった。今の気持だけからいうと、この家にまで浸水しそうに感じられなかった。その感じにしかし、何の根拠がないことも分っている。
 母をかこんで、ひろ子、二人の若い従妹たちが坐っている裏の板じきで、つや子は一人で働き出した。
「子供らをここへねかしたままで、どうなろう」
 登代が術なさそうに立ち上った。
 子供らを一人ずつ抱いて上り、二階に一同の寝具をうつした。降りて来てみると、つや子は物も云わず細い体で一枚一枚畳をめくり上げている。つや子の口をきかない働きかたには、何か体全体で示しているきびしさがあって、特にしげのを、おどおどさせた。
 女手ばかりであげた畳を、台の上につんだ。店の間の畳を、二つの樽に板をわたした上に積みあげられた。
「おばあちゃん、その辺に油の樽があったじゃろ」
 それも片づけられた。タバコ店の方に置かれていた衣裳箱を、縫子と何度にもかいて、高いところへ移した。
 ひろ子は、あぶなっかしく床板ばかりになった敷居の上にもんぺ姿で立って、働いているうちは耳につかなかった雨音が、また一段劇しくなったのをきいていた。すると、台所の方にいたしげのがけたたましく、
「あら! おばさま!」
と叫んだ。
「どうで?」
 登代がいそぎ足でそちらに行った。
「お! はアもう水がはいりよるで!」
 流元の方からうすい電燈の光をうけながら、音も立てず少しばかり水がひたひた入りこんで来ている。それはまるでこの家へだけ、ほんのぽっちりどこかの水があふれて入って来たばかりと云いたげな何気なさである。
 ひろ子は、余りおだやかな目の前のひたひた水を、出水の騒動に結びつけてうけとりかねた。その黒く光る水をぼっと眺めていると、忽ち、小さい昭夫の下駄が浮いて流れ出した。つづいて、土間にあった下駄という下駄がみんな浮き上って流れはじめた。そして、五分経つまいと思う間に土間は脛の高さに水漬りとなった。床へつくまでには、三寸ほどゆとりがあった。
 水嵩にばかり気をとられていた四人の女が、ふと気付いたとき、雨音はさっきよりおとなしくなっていた。
 ひろ子が楽観したように、
「大体この位ですむんじゃないのかしら」
と云った。
「そうなら大助かりじゃがのう」
 それぎり、水は高まって来なかった。シャツ一枚に猿股で沢田の主人が、往来越しにざぶざぶ水をこいで土間に入って来た。
「えらいことになりよりましたのう。早、畳あげてでありましたか。それはよかった。何でも手ごうしに来ますけに、心配はいりませんで」
 この人は永年石田の前に住んでいる鍛冶やで、整備兵に行っていた二男も先頃帰って来ているのであった。
「どうでありましょうの、せきは切れよってでありますか」
「――今年はどうですこし様子がちがいよりますのう――じゃまた」
 ひろ子たちは、二階へ七輪とやかんと茶碗かごをもって上った。
「さあ、まあ一息せにゃ」
 はったい粉をかいた。
「おお、そうじゃ、燈心はどこにあったかいの」
「上の棚でありましょう」
「きっと今に停電しよるで」
 縫子が下へ行って、燈心と油と皿をもって来た。
「少し水がひきよってでありますよ」
「お母さん、横におなりませ」
 ひろ子が土地言葉で云った。
「もう大丈夫らしいから。あとは気をつけますから」
「みんなも、おやすみ……どれ」
 母は、着たままころりとしき並べた布団の端に横になった。
「ほん、ここはようない土地じゃのう」
 つや子も、スカートのまま二人の子供たちのわきに体をのばした。
 そのとき、電燈が消えた。
 縫子が見つけてもって上っていた蝋燭ろうそくに火をつけた。大きい影が、人々の横になっている枕もとの壁に映ってゆれた。帰れなくなって気の毒だけれども、縫子がいてよかった。ただ、一人の手がふえているというばかりでなく、ひろ子はこころもちの上でたすかっているところがあるのであった。
 雨はそのまま小ぶりになった。ひろ子も寝間着にかえて床の上に両脚をのばしていると、階下で水をこいで来る人の気配がし、階段の下まで来て、
「おごうはん、おごうはん。もうおよってでありますか」
 女の声がした。
「沢田のおばさんで」
 縫子が、上り口の襖をあけて顔を出した。
「おお縫子はん。水がさっきからおごりよりますで」
 その声でむっくり、母とつや子がおき上った。
「どれ、ほんに、まあ、せんないこといのう」
 つや子は、来合わせてくれた沢田の主人と息子にたのんで、一旦高いところへうつした衣裳箱を、今度は二階へあげて貰いはじめた。息も入れず、木の衣裳箱、次にトランク、それから行李、箪笥の引出しと、あげさせる。
 その手をあけさせないさしずの間に素早く、
「えろうすみませんが、ちょいと置かしてつかアせ」
と沢田の家の深く大きい壺もかき上げられた。それには麦、米、粉が入れられていた。上げられる箱やトランクを部屋のぐるりに置きながらひろ子は食糧が気になった。こうして着物ばかり保護しているが、食糧はどうなのだろう。東京で空襲があった間、市民が真先に心配し、守ったのは食糧であった。ひろ子が知っている範囲では石田の家の米味噌のおき場は前座の床であった。水が床をこせば、それらはもう安全でない。気づきが唇まで出かかった。が、ひろ子はそれをのみこんで、つや子が容赦なく指図して上げさせる衣類箱を、次から次へうけとっては積んだ。田舎では、食糧の心配がないのかもしれない。何とかなるものなのだろう。つや子が、嫁入りのときこしらえて来た衣類、直次の着ていたもの、子供らのための用意、それを濡すまいとする心理は皆にとっても自然なのだろう。
 箱をあげはじめて十分も経ったとき、益々水嵩がまして来て、階下は大騒動になった。
「それ! おごうはん、お上りませ、こけよりますで!」
 水の中へ倒れたガラスのこわれる音がした。タバコの空棚が浮き出して、ひっくりかえった。
「どうなろうかいの!」
 怒って絶望した母の声がした。こちらで箪笥が浮き出した。
 階段のあがはなにさし出した裸ローソクの揺れる光が、つい目の下まで来ている水面を照らし出した。
「ハアここまでついちょる!」
 濡れた裸体を照らされながら、沢田の主人が、血相のかわった眼元でひろ子を見上げた。その股のつけ根までが水の中にあった。
 水に追いあげられる鼠のように、次々と二人の男たちも二階へあがって来た。
「こりゃ早う避難せまあじゃ、家がこけよる」
「そんなこともなかろうけれど……」
 かみから何か大きいものが流れて来たら、この家はもつまい。土台がいかにもわるい作りであるから。
 二人の子のねている布団の裾を濡れた土足のままふんで、七人の男女がまちまちの背たけでそこにつったった。ひろ子は、西窓の雨戸をあけ、往来を見ようとして、はじめて真からの恐怖にうたれた。往来はもう無かった。雲が切れてうすら明るいような深夜の空の下に黒く濡れた沢田の家のトタン屋根のひろい斜面があり、その軒下からわずか一尺ばかりのところを、道幅いっぱいに濁流が流れていた。黒く鈍く光りながら、もりあがる勢で流れている水は音を立てない。しかも絶対に人の命を奪う深さを示しつつ下へ下へと疾く流れている。その水面にまばらな雨脚が光った。危険はそこにあった。母と小さい二人の孫とは、安全に置かれなければならない。
 ひろ子はそれを、自分の責任として感じた。
「この辺で小舟なんかつかわないんでしょうね」
「そんなもの、あらせん」
 怒ったように沢田が答えた。
「ともかく、お母さんと小さい人は家を出ましょう」
 日頃剛毅な母が、しんから辛そうに、
「どうなろうかいの。こんだけ水がおごっちょるのに、どうで渡れよう」
 すすりあげるように叫んだ。
「もうええ、もうええ。家がこけたらここで死ぬるばかりいの」
 揺れ動く蝋燭の不安定な光に照らし出された二階の雑然とした一室に恐慌が充満した。
 ひろ子は東窓から、新道の方角を見た。目のとどく限り、こちら側の水嵩は低く、新道の上はうっすり白く見えた。
「裏へ出ましょう」
 とっさに、きめた。
「梯子はどこにあるの? つや子さん」
「おばあちゃん、梯子どこかいの」
 縫子が、
「この階段はずしてかけたらええ」
と云った。箱階段でとりはずしがきいた。
「それがいい。誠さんすみませんが、梯子、裏へかかるでしょう?」
 すぐ、父子が、はしごを窓越しにかき出して、屋根へ出た。
「つやちゃん、リュックに子供たちのものとお母さんと二人の着がえ入れて」
 母の書類の入った小カバンをひろ子のリュックにつめて、それは、縫子が背負った。つや子が昭夫を、しげのが治郎をおんぶした。
「大丈夫だから、ゆっくり落付いて。――すべらないように」
 沢田の細君が先頭に立ち、次に母、つや子、しげのと、窓をこして屋根へ出た。石田の家が幾棟にもわかれて建てられていて、しかも、台所の屋根がずっと東へつき出ていたのは仕合わせであった。その屋根の端から、裏の家の薯畑へ梯子がかかった。
「お姉さん、おでませ」
 ひろ子が、屋根へ出たあと、縫子が、ローソクを消し、皆の出たあとの窓の雨戸もひいて来た。
 這う形で瓦をわたって屋根の端へ出たとき、梯子の中段まで誠がのぼって来て、畑の中にいる父親とリレーで一人一人を扶けわたした。
「一寸深うありますが、おそれずに」
 ひろ子は、裸のまま濡れて微かに筋肉が震えている若い誠の腕につかまって、泥濘に脚をおろした。畑の柔かい土が、膝までもぐった。
「お母さんは?」
「あこにおられます、上の道は水がついちょりません」
 新道の上は、あたりまえな雨の水たまりがあるばかりだった。砂利を足の裏に痛くふみながら崖に沿って寺の境内へ登って行った。
 本堂に燈明がついて、もうそこに黒い人影が群れていた。朝鮮人の家族が多かった。石田の家の先に小川が二股になった三角地帯があり、そこに朝鮮人の農家があった。登代が様子をたずねた。
「はア家もなんもありゃせん」
 それは誇張ときこえないのであった。
 みんな、濡れたものをぬいで板じきの隅に一かためにおき、誠は、縫子が手当りばったり入れて来た女ものの浴衣を体にかけて、寺でかしてくれた毛布にくるまった。

        十一

 夜なかにあんな騒ぎがあったそれを信じかねるような快晴の朝になった。
 山門から下って新道の上へ出、それを横切って短いダラダラ坂を石田の家もある一かたまりの部落の往来へ入りかかって、ひろ子は惨澹たる有様におどろいた。とっつきの家では、壁をおとされている。一夜に竹こまいばかりの家になり前の往来に水漬り泥まびれになった家財道具、衣類が乱雑にとり出されている。泥田の中からひっぱり出したような子供の派手な友禅模様のチャンチャンが放り出してあるわきに、溺死した二羽の白色レグホンが、硬直した黄色い脚をつき出してころがされている。
 三角地にあった朝鮮人の農家はほとんど家の土台まで土地が崩壊した。そこを流れる川の水量はもう減っているが、くいのようなもの、コモ、あらゆる雑物でせかれている。四五人の年とった男たちが、それのとりのけ作業をやっていた。
 雨の深夜の空明りで二階から見おろした黒い水は、あんなに滔々とうとうと沢田の軒下を走っていた。かりものの駒下駄でひろ子が歩いてゆく今朝の街道は、あの水の下から地べたがあらわれて、部落じゅうのありとあらゆる臓物が、それぞれ家の表、裏、屋根の上まで拡げられていた。太陽に照らされて部落じゅうに不潔な水蒸気が立ちこめ、穢物のとけこんだべた土の臭気が昇っている。ゆうべのあの水嵩と、けさのこの往来と、ひろ子は、不自然に低いところを歩いているような奇妙な錯覚におそわれながら、一歩ごとに見なれない障碍物がころげ出て、見なれながらふだんと全く景色のちがう往還を通って来た。
 石田の店の先に、大きな角材がひっかかって道をふさいでいた。そこへ空のドラム罐、どこからか流されて来た古床几、箱、砕けた茶ダンス、木の枝をはじめ、あらゆるごもくたが積って、自転車さえかついでやっとそこをふみ越してゆくような山が出来ていた。そこでも、巣箱ぐるみ鶏が数羽流されて来て、死んでいた。やはり体が白くて、鶏冠とさかの赤いレグホンの雌たちであった。
 部落の非常時用として木炭数十俵、薪が何百束か、配給所である石田の物置に保管されていた。薪は、夜じゅうまるでおがらにでもなっていたようにふわふわぞろぞろ物置の入口へ浮き出たまま水にひかれ、今は足の踏場もなければ、女手で直せる代ものでもなくなっている。
「こりゃ百束は流れよりましたで」
 登代が目分量で調べて云った。
「まだそこいらにひっかかっていやしませんかしら」
「なんで! いまごろまで……」
 そう云われて、ひろ子は生計のために配られている神経の迅さに思い当った。寺の本堂の掃除をして最後にひき上げたのは、母とひろ子だけであった。夜が白みかかるのを待ちかねて、まだすこしずつ降っている雨の中を沢田の一家三人も、子供を囲んでかたまって或るものは睡り、或るものはうつらうつらしている石田のみんなの横から、そっと起き出して出て行った。
 亡くなった石田の父親の写真が、額ぶちに入れて長押なげしに飾られていた。そのすこし下まで水があがった。
 しげのの同僚が手伝いに来てくれて、床下から、土間から一通りかきのけられたべた土が、忽ち背戸に盛上げられた。床板もはずして川で洗われなければならない。水を吸って化物のように重くなったすべての畳がもち出され、干されなければならなかった。米も濡れた。漬物も水の下になった。塩と味噌とは流れてしまった。永年棚の奥に煤けていた古い書類が、行李ごとしずくをたらしてもち出された。
 ひろ子は二階の窓から屋根へ出て、濡れた衣類、布類を干す役にまわった。今までどこにあったのか、いつ、何の役に立つのか、ひっそり歳月の流の底にしずんでいた一切の古布どもが、一片たりとも、びしゃびしゃに濡れて、臭くなってその存在を主張した。
 今朝は秋晴れというにふさわしい澄んだ青空の下の、部落の屋根屋根に女や男が出ていた。濡布団、衣類、何かの穀物をむしろの上にひろげたもの。往来にも部落じゅうのものが出て動いていた。みんな不機嫌で、黙って、忙しく、重いものをかついで川との間を往来しているのであった。
 午ごろ、あちこちから噂がつたわって来た。川下では家が何軒も流失した。人死もあった。トンネルが潰れて山陽線が不通となり、宮島近くの海軍療養所は崖ごと崩れて海へはまった。
「泣くにも涙も出んようじゃある!」
 母は働きながら、顔にかかるおくれ毛をかき上げてはつぶやいた。
 部落に立って、地勢を観ればこの出水の直接な原因が、軍用新道であることは明瞭だった。周防の深い山襞が、南に向って次第にゆるやかにわかれ、低まり、やがて砂の白い彎曲わんきょくした海岸となる。その手前、大きい水無瀬川の河床に沿うて東と西とに山並をひかえ、かみしもとのこの部落がある。部落の家々の屋根ほどの高さで、東の山並沿いに四五里ほどの間を軍用新道は堤防のように築かれた。従来は、山の奥から部落までの間に段々畑、田圃、沼、数限りない溝流れがあり、それは天然の水はけとなっていた。新道は、そういう細々として工合のよい自然の作用を一息に圧し潰し、朝鮮人夫のトロッコで、赤土を堤ともり上げ、砂利をぶちまいた。無計画な伐採、根っこほり、もう何年もなげやりのままの地方治水工事は、僅か数日の豪雨が山から水を押し出すのだが、高い丈夫な軍用新道が出来たおかげで、部落は何のてだてもなく、溝の底へ縦におかれたかたちになってしまった。これまでは、水無瀬川が氾濫して周囲の麦畑を水につけることはあっても、少し高みにある人家にさわりはなかった。今度は、西よりの川床が溢れるか溢れない時に、新道にせかれ、一時にどっとそこを越す奥山からの出水が、東からも全部落を洗い、水漬りにしたのであった。
 その新道の上に、石田の家では家じゅうの畳をもち出して干した。古びて貧しげな仏壇も崩れかけたまま持ち出された。杙をうちこみ、綱をはり、そこへ濡れしょぼれたものをかけた。
 部落じゅうが湯気を立てていたべた土の臭いを立てた。その日炊出しがされ、溺死した鶏が煮られた。

 登代は、昔からの顔なじみの広さと信用とで、翌日から大工をたのみ、男を数人よび集めた。登代らしい着実さで、先ず必要な便所から修繕がはじめられた。毎日、新道の上に畳が運び出され、綱に物が干され、その間に床下が清潔に洗われ、床板が洗われ、墜ちた壁土がかきのけられて、左官がよばれた。しげのや縫子が、左官屋の女房と一緒に手伝いに働いた。
 ひろ子からみれば、これらすべての手配はおどろくべき迅速さであった。母のきっぱりしたやりかたでこれらは進捗している。登代は、治郎をおぶって、重吉たちの子守をしてくれた婆さんの孫のところへ、守りをたのみに自分で行った。
 ひろ子は、二階で、愈々どっさりになって来た布類、衣類の干ものをしつづけた。しげののつましい親たちが、何年か前にこしらえてやった派手すぎる銘仙の晴着や、結婚前の縫子の四季のよそゆき。紅絹もみがにじみ、染色の流れた若い女ものは、拡げて一枚干すごとにひろ子に哀れを感じさせた。直次とつや子、子供らのものはほとんど一枚も濡れなかった。
 ひろ子が買って送った母の細かいお召の羽織がちぢみあがって黒く臭くなっている。それを軒下にほしていると、一段、一段、大儀そうな跫音をたてて母が二階へ上って来た。立ったままぐるりと、障子がはずされている両側の窓々と、その前にひろがる屋根の上とを眺めた。
「まあまあ、ようこんだけボロがあったもんじゃ」
 煙草を吸わない老年の母は、こういうときひろ子同様、いくらか手持無沙汰らしく、そこにただ坐って見まわしていたが、やがて、
「ひろ子はんも、遠方来たのにえらい目見せて、ほん気の毒でありますよ」
と云った。
「どうして? お母さん。わたしは一番役に立たないから、却ってすまないと思っているのに」
「あんたがいるけに、どんだけ心づよいかしれん」
 登代は、心に何か切ないものがあって、皆の働いている午後、こうしてひろ子一人の二階へ上って来た。二三日の間に憔悴しょうすいのあらわれた顔を新道へ向け、その長い道の上にちょこんと滑稽に干されている仏壇を眺めていたが、
「ほん、のわるいことばかりつづくのう」
 しんから気落ちした調子で、涙を浮べた。
「直次は、ああいうことになる。水はつきよる――ほん。このうちは、のええことはないようなうちになった」
 水の出た夜からきょうまで、登代もつや子も、直次がいたらば、ということはついぞ口に出さなかった。そういう歎きの間もないほど、臭い家、濡れた家財が女たちを追い立てた。疲れ切って今、西日の座敷で悲しくなっている母を、ひろ子は心から痛わしく思った。
「ほん、どうしていいやら、わたしには分らんようになった……」
「どうして? おかあさん」
 ひろ子は、おどろいて母の顔をのぞいた。
「これまでお母さんに分らないということは、一つだってなかったことよ。こんどだって、立派に、壁までもうつけはじめたじゃないの」
「つや子は、わたしのすることが気に入らんと、きつうおこりよって。おばあちゃんのように、人ばかり頼んでも、たべさせる御飯だけでもせんないいうてじゃが、男たのまいで、どう、なろうかいの。女ばかりで……」
 つや子は、そろそろとうちのものばかりで片づけて行こう、というのだった。入費もかからないように、と。しかし、実際にそれは不可能であった。つや子は、落ちた上瞼を蒼ませ、一つも笑わず、頬をひきつらせて、しげのや縫子に指図をして働き、母の意見をうけ入れなかった。子供たちが、不潔なぬれたべた土の往還や土間に、裸足で腹をむき出して遊んでいる。それを見かねて、せめて下駄をはかせて、と云っても、とり合わなかった。自分が裸足であった。直次に死なれた悲しみに重ねて起った災難を体のよわいつや子が、細い自分の二つの肩だけで担わなければならぬように思っている。つや子が良人のいない一家の主婦として自分の権威と責任とを感じれば感じるほど、母の登代が積極的な気質なのとは反対の気立てがつよくあらわれ、そこに切ない空気がかもされるのであった。
 ちょっとしたくつろぎの雰囲気も、瞼に剣の出たつや子の顔を見ると、おのずから消散した。気のつまる昼間の労働でつかれ果てた四人の老若の女が、燈心の明りでぼんやり照らされ、枕を並べて何の情趣もなく睡っている夜中、ひろ子の眼は冴え、心は重く圧せられた。
 山陽線、呉線、山陰線、どれも水害を蒙り開通の見込たたず、ひろ子は東京にかえるどころか縫子と直次の調査にゆく望みさえも失った。
 毎日一定の時刻になると、干しものだらけの部落のむこうを、線路沿いに徒歩連絡する旅客の群がバスケットを下げた子供まじりに通って行った。列車不通で、重吉への手紙もとだえた。大阪から配達される新聞も来なかったし、ラジオも水に漬って駄目になった。
 日毎に生活のしぼりがちぢまり、不自然な敏感さが生じ、ひろ子は自分まで、過労な女ばかりの心理葛藤に絡まりそうに感じた。
 沈んだこころもちで、裏に出ていたら、濡縁の下に大籠が一つ放り出してあった。濡れた反古がつまって腐りかけている。一つの封筒の上書の字が、ひろ子の目についた。それは、特徴のある大柄な重吉の筆蹟であった。石田隆吉様と、亡くなった父親宛にかかれている。二ヵ月あまり重吉からのたよりをうけとらず、こちらからの音信さえ絶たれているひろ子は、傾きかかるような親愛の思いで、丁寧に手紙をとり出して見た。原稿用紙にかかれている一通は、送金をたのんでいる文面であった。ほかの一通は、帰省をのばすことを知らしていた。三通目は、大学に入った重吉が上京して寄寓した親戚の家での生活を耐えがたく感じている書簡であった。若く、ひそかな誇りにみちている青年が、卑屈な境遇に抵抗しているその手紙の調子が、年月をへだてて読みかえしているひろ子のこころを動かした。全く金がなく、ただ青春と限りない未来とがあるだけだった二十一歳の重吉。今全く自由を喪って網走にやられている三十八歳の重吉。その重吉にのこされているのは何であろう。ひろ子は、やはりそこに限りない未来しか思うことが出来ないのであった。
 こうして古い手紙などを見るにつけ、ラジオも新聞もなく、汽車さえ通らないここに暮していることが、激しい不安に感じられて来た。八月十五日このかた、日本に新しい潮がさしはじめた。それは全国の刑務所の塀をとりまいて流れはじめていた。思想犯のためには、決して動くことの予期されなかった扉の蝶番ちょうつがいを、きしませはじめているのであった。
 縫子が、洗ものをかかえて新道から下りて来た。ひろ子がひろげているものを肩越しに見て、
「まあ」
と云った。
「きのう、わざわざのけておいたのに!」
 ひろ子は、
「いい、いい」
と、小声で、なだめるように囁いた。扉は、いつ重吉のために開かれるであろうか。それは、ひろ子にとって生々しい切迫感であった。自分よりはるかに若いつや子にとって、待つべき人は永久に失われてしまっているという意識は、ひろ子の声を喉につまらせるのであった。
 水が出て四日目に、二階での干しものは大体かたづいた。母親のセルをたたみながら、
「これであらかたすみましたのう」
 すみましたというところにアクセントのつく地方の言葉で縫子が云った。
「夕方までに、わたし帰ります」
「そうする?」
 ほんの一二泊のつもりで来た縫子は、水で足どめされたばかりか、窓をこえて逃げ出すときも荒っぽいあと片づけにも、力になりたすけてくれた。縫子をこの上はとめられなかった。
「わたしも一緒に行っちゃおうかな」
 いくらかきまりの悪そうな子供っぽい眼つきをして、ひろ子が云い出した。ひろ子にそう感じさせる日々の空気があるのであった。
「そうおしませ! それがようあります。さわ子もどんなによろこぶかしれんし」
「ね、本当に行っちゃおう」
 そんな話をしたのは午前中であった。昼飯につや子が上ってきて、干しものがとりこまれてあいている軒先の綱に目をとめた。
「はや、干しものすんででありますの」
「どうやら乾くだけは乾いたらしいわ。まだまだあとが一仕事だけれど……」
 食後休みをしているときつや子が訊いた。
「縫子はん、こんどは、えらい目にあわせて、すみませなんだのう。いつお帰ってでありますか。――もうこちらはよろしうありますから」
 ひろ子が苦笑いに笑い出した。
「もうよろしい、はあんまり正直ね」
「きょう、そろそろいにましょういの」
「ね、つや子さん、私縫子と一緒に田原へ行って来ようと思うけれど、どうかしら」
「ほん、不自由させつめて、すみませんの。田原じゃったら家もきれいし、御馳走もあってじゃから……」
「そういうわけじゃないのよ。汽車が不通でどうせ動けないからね。今のうち田原へ行って置こうと思うのよ」
「ほん、それがよろしうあります」
 全く念頭になかった家のことだの食物のことだのにふれられて、ひろ子は閉口した。ひろ子がおばたちの家で欲したのは、罪のない一つ二つの笑いだけだったのに。――
 三時頃、まだ決心しずにいるひろ子のところへ、つや子がわざわざあがって来た。そして、
「縫子はん、何時頃、おかえりますの」
 待ちかねる表情をむき出しに尋ねた。
「――田原へはおいきませんの?」
「どうしたのさ、つやちゃん。そんなにせっつかなくたっていいのに――。お母さんに伺わなくちゃきめられないわ、そうでしょう?」
 ひろ子は、まだところどころしか床板のはられていない階下へ下りて行った。戸棚の前で母に相談した。
「おいきませ、おいきませ。却ってそれがよろしうあります。ああいう気分の者じゃけ、ほん、いけんのう」
 縫子とつれ立って出がけに、つや子は台所の土間にいた。
「じゃ、行って参ります」
 こちらの廊下からひろ子が大きく声をかけたが、つや子は横顔を見せたまま返事をしなかった。

        十二

 何となし足早に小一丁ほど歩いて、段々ひろ子の気分は諧謔的になって来た。しまいに笑い出し、足どりも緩やかになって、ひろ子はユーモラスに、
「ああ、おどろいた」
と云った。
「二個の南瓜、裏道へ蹴出さる、と云う工合ね」
 ひきしめられていた神経の反動という笑いかたで、縫子も歩きながらときどき立ちどまって笑った。
「駄目よ、縫子、やめなさい。そんな笑いかたすると、体がぐにゃぐにゃして、頭痛がすることよ」
 二人は、部落にとってすべての悲しみと災害との象徴である軍用新道を歩いて行った。
 石田の家の裏あたりでは一応完成しているように見える新道は、しばらく行って部落を出はずれ、製材所の在る辺から、次第に、粗雑な工事の弱点をあらわしはじめた。バラスが十分入れられていない赭土あかつち道が、乱暴なトラックの往来で幾条も車軸がめりこむほどの深さにほじくりかえされている。新らしい切通しの左側が崩壊して、大きい立木が根こそぎ道端まですべり落ちていた。左右に切通しの石だたみを見上げてその下を通りぬけるとき、ひろ子は恐怖を感じた。地盤のゆるんだ崖にはられている高い石畳みが信用出来ないばかりでなかった。人目の届かないその山の上で、どんな工事をしかけていたのか、巨大な石柱が横に赭土の中から、宙に突出たままにされていた。
 切通しをぬけたところの谷間に、迷彩をほどこした二棟の飯場のような急ごしらえの建物が低く見えた。上の道の草堤に沿って、軍用トラックが八台、片方のタイヤを溝の中へおとして、雨ざらしのまま並べられている。
 新道の風景は、一丁ごとに荒々しく、人間ばなれして見えて来た。
 三方を低い山に囲まれた山懐の奥に、板のつき上げ窓が並んだ真新しい建物が四棟も建て捨てられてあった。立木を伐採したままの赭い地肌、真新らしいのにもう羽目がそりくりかえって、或るものは脱れている粗末な工事。西日ばかりは午後から暗くなるまでさし込むかわり、どんな夏の夕風もそこまでは決して入って来ることのなさそうな山懐に、せまい板のつき上げ窓が無数に並んで見えている光景は、通りがかりのものをさえ息苦しくした。
「あすこへ、人間を入れるつもりだったんだろうか!」
「徴用で地方から来る若い者の宿舎にするつもりでありましたろう」
「どこの?」
「そりゃ、工廠でありますよ」
 縫子は落付いた嫌悪にみちた声で答えた。
「この辺で工廠に関係ないものは一つもありません」
 それは、ありませんというより、あり得ませんという風に響くのであった。
 低く高く遠近の山を見晴らし、すがすがしい松林を眺め、四周まわりは温和な海近い山あいの自然だから、その真中に暴力的に出現している高い新道は、いかにも一路がむしゃらというこころもちを与えた。旧道は、この地域の人々が昔からその生活の必要につれておとなしく、細く、山裾をまわり、川に沿い、坂をのぼり下って踏みかため、ずっと低い地点にうねっているのであった。
「ひどいねえ」
 眺め眺めて、歩きながらひろ子は心から歎息した。
「人間の歩く道じゃあない」
 その歎息は、再び石田の家の内部をさえ、この一本の軍用道路が直線に貫いてしまったのだという悲痛な思いと結ばれた。
「ね、縫ちゃん、よくきいておくれ」
 ひろ子は悲しみにみちた眼の色で話した。
「つやちゃんはああいう人で、きっと、田原の人たちも不満足だろうと思う。きょうなんかだって普通じゃなかったわ、けれどもね、考えてみれば、あのひとは、お母さんがお選びになった人だからね、お母さんは自分で切ないたんびに、どんなにか自分の責任も感じていらっしゃるにちがいないのよ、そう思うだろう?」
「ええわかります」
「わたしはね、お母さんが辛がっていらっしゃるのを見ると、むらむらして来るのさ。あの、おばあちゃん、という声きくと、背中が強ばってしまうさ。でもね、わたしは、お母さんが辛棒していらっしゃる以上、もう決してとやかく云わないことにきめたの、わかる?」
「わたしも、おばさんが余りお気の毒で。……」
「お母さんの忍耐に敬意をはらって、もう決してかげでとやかくは云わないことにきめた。いい?」
「よろしうあります」
「つやちゃんの人生だって、ほんとに気の毒だもの。いくさなんて、何てひどいんだろう――女の神経でつやちゃんを刺戟しまい、ね?」
「ほんそうでありますのう」
 二人はだまってしばらく歩いた。永年の戦争は、この土地から、ここに生れ、ここに育った若者たちを、根こそぎよそへ運び出してしまった。その代り、見知らぬ他国から、これまでそこで生活し働いていた場所から否応いわせずひきはがされて来た男の群を、新道沿いの部落部落に氾濫させた。良人を奪われた妻たち、息子を失った母親たち、結婚しようとして相手をもち去られた娘たちは、夫々の思いで、その見知らぬ男の大群を見守った。男の群が膨脹するにつれて、物価が騰貴して行った。そして、どの男の眼にも、心の飢えが感じとられた。女たちの瞳の中に複雑な警戒の色があらわれ、同時に、どっさりの若い娘たちが、機会を失うのをおそれるようなあわただしさで、入りこんで来た男たちの妻となった。だが、そういう偶然によって男たちの妻になって行くことを考えられない娘もたまになくはなかった。縫子はその一人であった。縫子の住む界隈にのこっているのは、ほんの小娘の十七八がらみのものばかりであった。二十四五になって家にいる娘は、縫子一人とさえ云えた。兄を出征させているその縫子は、空襲の余波で瓦がみんなずりこけたわが家の屋根に登ってそれを修復した。
 新道が山の切通しを抜け切ったところに、新しい朝鮮人部落が出来ていた。長いきせるをくわえた二人の老人が、部落のはずれにしゃがんで、のんびりした声で話している。一人の方が珍しく紗の冠をつけて、黒い紐を黄麻の服の胸の前に垂らしていた。そこだけ眺めていると、いつか絵で見た京城かどこかの町はずれのような印象である。
 田を埋め、山を切って一直線にのびて来た新道は、一里余来たところで東西に走る新設の大道路と丁字形に合した。トラックのわだちの跡でほじくりかえされている泥濘の道は、ここから堂々アスファルトの大道となって、工廠のぐるりにめぐらされ夫々の門に向っているのである。が、
「これからは、道がようなりますよ」
と縫子が教えた大道路へ出て、おどろきは却って深められた。
 五年前、ひろ子が懐しく眺めてとおった山峡の三つの小さい沼はどこにもなくなって、赭むけにされた山頂に掘立小舎と官舎があり、その頂上に貯水池が、作られていた。そのすこし先に、発電所があった。そこは完全に爆破されて、廃墟になっている。道路ばたに、その発電所用らしい大きなモーターのようなものが厚いカンバス覆をかけられていくつも並べられていた。そのあたりは、右手がずっと工廠の灰草色の暗鬱な高塀だが、その高塀のところどころは崩れて、通行人の足もとまで松の樹がこけ出している。アスファルト大道と云うものの、その二十間道路の上には、どこもかしこも多量の泥が流れていて、勾配の計算が杜撰ずさんにされた証拠に、あるところでは、大水溜りがあった。
 看板ばかりが大きい下宿屋、飲食店、あとは、××工務所出張所と云った風のバラック建が、大道路に向って並んでいる。八月十五日以来、これらのあらゆる箱の中から、利慾でうごめいていた人間の姿が消えた。ひろ子たちが歩いてゆく今、それらのある窓は板を釘づけにされたまま、或る建ものは看板をかけたまま空屋となっていた。前の歩道では、四五日前の暴風雨のせいか、それとも空襲のときにそうなったのか、根っ子をむき出してプラタナスの並木が数丁に亙ってなぎ倒されていた。倒れたままプラタナスの青葉は、泥によごれながら緑の葉をしげらせていた。
 面白くない顔をした男たちが歩いて来る。一つのロータリーのところへ出て、ひろ子は思わず、
「何だろう!」
 憤りを声に出した。
「まるで、こうじゃないの」
 右手で、盤の上の駒を荒々しく刷きのける恰好をした。縫子の家は、そこからじきなのであったが、土着の住民たちの生活は、全く無視されて、横丁のどぶ端へせせこましく追いこまれている。ここでは清潔なアスファルト大通りの上は、迷彩がほどこされ、空虚に、一直線に工廠の門へ通じている。そのロータリーに、安田銀行が、目立つ角店を出していた。
「閉めてるの?」
「いいえ、やっちょります」
 つきあたりに、古鉄の紙屑籠のようになった工廠の大廃墟がそびえているのであった。
 この大通りから一歩横丁に曲ると、この十何年来ひろ子が愛着をもって時折歩いた林道、昔少年だった重吉が祭礼の列について走った村の道が、ぼろの布はじのように溝端に押しつけられてのこっていた。ガタガタになっているその町並の中でもまず目に入るのは、ガラス張りの近代風な銀行であった。それは、三和銀行であった。このせまい界隈に、いくつの銀行ができたというのだろう。工廠そのものはひしゃげた鉄屑の大集積になってしまった。しかし、これらの銀行はまだまだ生きて音も立てずにその活動をつづけている。
 ロータリーのあたりから、旧い村町が蒙った変化を観れば、空襲でこの大工廠が跡かたもなく破壊されたことなどは、むしろ、かえって整理の方向への第一段のようにさえ思われた。人々の生活の安定は、とっくにその前に壊されていた。抵抗しがたい暴力がのたうちまわり、住民の生活をはねとばし、直線の大道路をひきまわし、しかも何一つとして完成させないで、突然その狂暴な力は虚脱した。みるすべての人々を絶望させる子供だましの壮大さと、虚勢の尻切れとんぼとがあった。無意味なものとなり、空虚なさびしさを示すばかりのアスファルト二十間道路。ひっくりかえって起すもののないプラタナス並木の青葉。やたらに建物ばかり大きく建ててみたが、全部つかい切れないでその一階で不活溌に執務している郵便局。
 ここにおびただしい人間が集められ、生きていた。しかし、生活らしい生活は無かった。五月頃から
ニッポンよい国 花の国
七月八月 灰の国
九月十月 よその国
 そういううたが、街上でうたわれた。一台のバスにきっと憲兵が一人はのってはしりまわっている。その街路で、このうたが流行し、うたわれた。生活にかぶせられている愚弄と穢辱わいじょくに腹立つ感じが、人々の間に、そのうたの辛辣さが共感されたのであった。

        十三

 いかにも、熱心で向上心にみちた若い女教師がつかうらしく、その机の上は整理されていた。きちんとおかれた赤とブルーブラックのインク。硯箱、和英、英和と漢和の字書。まとめて綴られている書類。教育、心理、物象などの参考書。そのわきに少女っぽい花瓶がおかれ、白いえぞ菊の花が飾ってある。
 反対側の縁側に、脚のこわれかけた食卓があり、そこを見ると、つつましくパフや紅刷毛があって、さわ子の化粧台となっている。ととのったなかに、若々しいととのわなさがこぼれて、愛嬌となっている部屋の空気は、ひろ子のこころをやわらげ、おちつかせた。
 毎日仕事のためにつかわれ、そのために手入れされている机の居心地よさ。東京で、ひろ子が一人留守居していた弟の家のある地域は、一月下旬から空襲をうけはじめた。壕の中で食事をする生活では、机はそこにただ置かれているというばかりであった。食事をしたちゃぶ台で、茶碗を片よせて、重吉への手紙は書かれた。
 福島の田舎の家では、机はあってなかった。ひろ子は、そこにいて、毎日、北のことばかり考え、青函連絡船の恢復を待ち、網走へ、網走へ、とばかり思いつめていたから。その思いは、云わば膝の上に板一枚のせただけでも、あらわせるものだったし、更にその板を奪われても、なお書きつづけられるようなものなのであったから。
 古びてラックもはげたさわ子の机のまわりにある雰囲気は、きょうはきのうから生れ、明日はきょうの中からぬけ出てそうして続いてゆくものであるという生活の真実をそのままうけとって生きている者の単純な落付きであった。
 半歳の間、東京での生活はサイレンの音ごとに苦しく遑しく寸断されていた。どっちを向いてみてもひろ子の、内心をつらぬいて流れている未来へのつよい確信と、調和するものを見出せない苦悩があった。
 福島の暮しでは、ひろ子の明日への感覚は、船へ乗れる日を待ちかねるこころもちと不可分に結びつけられて、前のめりになったきりであった。そのひろ子を一員として営なまれている生活で、小枝のまるい、成熟した女としての眼は、明日が来ざるを得ないことを知ってはいるが、その明日の意義は彼女にとって、何であろうかときかれれば、困惑におちいる表情をただよわせていた。そこでの一家の生活は、大水に根太ごと浮いた一軒の家に似ていた。水の流れにつれて、その家は、形をくずさず、微かにまわりながら流されていた。何かにぶつかって急に崩れるまでそれはどうやらそれとしての形を保ったまま流されていた。
 家の裏を、象徴的な軍用道路につっきられ、生計も破壊された重吉の家で、明日というものはむこうから、昨日と同じようでいて違ったあれこれの心配ごとを運んで、けなげにそれに立ち向っている母とつや子の生活に押しかけて来るもののようである。
 さわ子の机の居まわりには、廃墟の堆積物の間から咲き出ている一本のたんぽぽのような風情があった。それは本当に小さい、単純な存在だけれども、その単純さの完璧は、満目の荒廃の中にあって通りがかるものを優しく感動させ、いのちあるものへの信頼をよみがえらせる。
 さわ子は、空襲のときでも、上空の音響をきいていて、母さん、きょうはここにいていいね、と云うような気立ての娘であった。おのずからの若さばかりでなく、彼女の若さには、伸びようとする一筋の押えがたいものがこめられていた。それは、知らず知らずのうちにさわ子の生きてゆく日々に一貫した生活のよろこびをそよがせているのであった。さわ子が若さの中に感じている未来というものの図どりは、どういうものか。ひろ子とそういうことを話し合ったこともなかった。この前来た頃のさわ子は、海風に腕まで日やけした短い下げ髪の女学生であった。師範の寄宿舎でおなかがすくことを話して笑いこけていた。今度来てみれば、早春の枝のようにコチンとしていたさわ子のからだは、はればれと二十一歳の愛くるしさにみちて、声も美しく深まった。浅黒い面立ちのうちにあるおとなしさと熱意とは、つつましく身だしなみのよい若い女教師の表情に、独特な味わいを与えている。
 ひろ子は、さわ子の若い女に珍しいそういう自然の故の沈厚さ、なだらかな故の威厳とでもいう雰囲気を愛した。ひろ子の精神をその底からつかんでいる近い未来への待ち望みには、希望の面にも不安の面にも、ポツダム宣言とか、刑法とか、あれこれの解釈、あれこれの条項というようなものが絡み合っていた。細かい事態の起伏、執拗な相互関係をたたみこんだものとして、明日が見えている。泳ぐ人が一つ一つのなみをのりこしながら、なお大きい海面のひろがりを全感覚の上にうけとっているように、ひろ子は、重吉が示すひろやかな展望を確信し、そこに身をすてまかせて、すべての細かい状況をしのぎ越して来た。
 さわ子が若さとともにもっている雰囲気には、ひろ子にとって必要な、精神の音楽のようなその諧音がきこえた。さわ子に感じるその調和は、従兄である重吉のもっている精神の諧音に似てもいる。
 ひろ子は、久しぶりに集注して数冊のアメリカの小説をよみ、そのノートをこしらえた。数年来、日本には、外国作品についてさえ、批評らしい批評は存在し得なかったのであった。
 ひろ子が、中庭ごしの室で、例の机に向いそろそろ五時かと思うころ、
「ただいま!」
 いかにもいそいで帰って来たというさわ子の声が、台所の土間の方で聞えた。
「お姉さんは?」
「おってじゃ」
 叔母が、おかしそうに答えている。
「どこへ、行かりょういの」
「ああ、よかった」
 しばらくして、ふだん着にきかえ、ふだん着では女教師というよりもゆったり大柄な娘らしいさわ子が、
「ただいま!」
 机のわきに膝をついた。
「御苦労さま。――どうだった?」
 すると、さわ子は、きもちよい栗色の顔をふり仰げ、
「ふ――」
と鼻声を立てて、淡白さと甘えを一緒に笑った。
「そんな工合なの? じゃまあお目出度う」
 さわ子の受持学級は、五年生であった。福島の田舎で国民学校に通っている伸一が五年生である。伸一たちは、八月十五日以後になっても、歴史や国語、地理をどう教えてよいかまだ分らないからという理由で、農事の作業ばかりやらされていた。
 農作は、さわ子の学級でもやっていて、薯のとり入れの配給をもってかえった。
「甘いけれど、貧弱なおいもでありますのう」
 姉の縫子はからかった。
「いいのは、みんな子供にやったんだもの。ほん、うれしそうじゃったよ」
 六年生になると、上級学校への内申問題があって教師の立場は複雑になった。
「私、とても、ようやれんもの。私、ほん、ほん、子供はすき。可愛うてしようがないの。ぴたっと注目して、先生のいうことをようきいているときの子供ら、涙が出るようじゃわ。父兄とは外交みたいで、子供ら教えるのと全くちがうじゃもの」
 さわ子の教えている国民学校は爆破されて、工廠が、宿舎につかっていた建物のせま苦しい食堂に五十三人もの小さくない学童がつめこまれていた。机もなく、椅子もなかった。板張の床の上にギッチリつまって坐った。ものを書く時、児童たちはつくばって、前の列の子供の尻に頭をぶつけて書かなければならなかった。
「ほん、あまりえろうて見ていられんの。三十分もたつと子供ら赤い顔して苦しうなって、よう落付いていられんのよ」
 さわ子たち若い教師は、校長に交渉し、工廠に交渉し、市にまで交渉して、保管されている床几を学童たちに使わせるように、そして、食堂の板壁をぬいて拡げ、そこを教室らしいものにするようにたのんだ。校長は工廠に責任をゆずり、工廠は、工廠所属のすべての建造物は、接収されるまでは市に移管されていると説明した。市役所へ、教員たちが行ったらば、市は大蔵省とかにその責任をゆだねられているとのことで、その大蔵省は東京にあるのであった。
 さわ子は、工夫して、時間割のやりくりをはじめた。半数の学童が算数をやるような時間に、半数は外へ出て体操や作業をするようにした。これは、教師の負担を多くすることであったが、子供らは救われた。今では、そこにつめこまれているすべての学級が、そのやりくりで運営されているのであった。
 田原ではラジオがどうやらきこえた。女ばかりの一家ではあるがみんなが、九時のニュースを大抵かかさずきいた。ある晩さわ子は読本をもって来て、ひろ子に相談した。大東京という題目で書かれた一章であった。
「こんなにいろいろ書いてあるけれど、今の東京はまるで違っちょろうと思うの。どの辺がのこっているのか、よう分らんのよ。子供らに、もう本当のこと教えなければ、すまんと思うの」
 福島にいる伸一が、丁度休業中の宿題にそこを出されていた。ひろ子は、地図を出して一九四五年のその夏、現実に在った東京を説明してやった。さわ子が、赤い麻の服を着て、姉の縫子につれられて、子供らしくむく犬のついたブックエンドを伊東屋で買って貰った頃、東京は、たしかに読本にかかれているような東京であったのだ。
 大阪からの新聞がやっと配達されるようになった。呉線まわりで運ばれた。山陽線は不通のままで、特にひろ子にとって困ったことは、広島までが山崩れ、トンネル崩壊でふさがっていることであった。
「困っちゃった。いつになったら三次みよしに行けるのかしら――私、あきらめちゃいないのよ」
「まあ、いそがんことでありますよ」
 叔母が慰めた。
「たまには、ゆうにおしませ。いつ来ても、三日と泊っておられんじゃったもの。ゆうにおしませ」
「あっちで、かまわないかしら」
 母のことが気にかかるのであった。田原の生活がしっくり感じられれば感じられるほど、ひろ子は、母もこちらに来させて、ぽってり柔かい掌でつかれた腰をなでられるような思いをさせたかった。
「今はつや子さんの妹が来ておってでありますもの、あちらもゆうにありましょうよ」
 呉線が、一部徒歩連絡で開通しはじめたことは、ひろ子を落付かなくさせた。早く、三次みよしへ行くなら行って調べて、ここを動き出したい心になった。遮断されていた鉄道地図の北のはてが、気がかりになりはじめた。
 気休めと自分でもわかっているような網走への手紙を、大アスファルト通りの郵便局から書留にした。財布を手に握って、横丁をゆっくり来た。朝の十時すぎで、ほうき草の生えた魚やの竹垣のところに、きれいな白魚が干してある。新造の銀行が、そこだけの覚醒した抜けめなさで臆面もなくごたごたした角に立っているかなたに、あかちゃけた大笊おおざるの形で、工廠の鉄骨が見晴せた。そちらから、九月も末の海の風が吹いて来た。鈍青色の工廠の塀にかこまれた海岸の松並木が焦がされているのも遠目にみえた。その浜つづきに、板三枚ほどの幅の埠頭が入江に向って突出ていた。一見釣舟の出入りするようなその埠頭へ、夜になると、そっと軍人が集った。そして、人間魚雷が発射された。夜毎、そうして発射された。搭乗した特攻隊員で還るものは決してなかったし、大洋まで行ったものさえもなかった。人間魚雷の多くは粗製で途中で爆発し、沈んだ。しかし、夜になると、数人の者が、またそこに集った。住民たちは、それらのことをすっかり知っていた。が、雨戸をしめて、何も知らなかった。何故なら、その附近は厳重に立入禁止であったし、すべては、知ってはならないことなのであったから。
 ここには人口二十万の大都市がつくられる筈であった。その架空の計画が崩れた途端、この土地に愛着をもたずに集められていた人々は、工廠官舎がまず空屋になるとともに、いそがしく退いて、三万にも足りない住民がのこった。崩されかけたまま工事中止になった崖の下、埋立てられ雑草がしげりっぱなしの田圃の真中まで延びて来て、そこでとぎれたままの大道路の横に、ちょぼちょぼとのこされた。そして、退職金をくいはじめた。
 家の前通りへ曲って来ると、道に一尾、ひろ子が名を知らない白っぽい細長い形の魚が落ちていた。その魚は、漁師の籠からでも落ちたものらしく、いきがよかった。海近い村の通りの落しものらしくて面白いと眺めていると、ひろ子を追いこして、背広に折カバンをもった男が、その落ちている魚のところへ通りがかった。その男は、すぐ落ちているものに目をとめた。立ちどまって、それを眺めた。それから、かがんで尻尾をもって魚をひろい上げ、やや離れたところに立っているひろ子に曖昧な笑い顔を向けた。
「活がよさそうだもの。持っていらっしゃれば……」
 ひろ子が笑いながらそういうと、背広の男は、黙ったままもっと高く手をあげて、魚を見た。そして、遂に決心したように、その思いがけないひろいものを下げて行った。その男よりも先にはんてん着ではだしの爺さんが一人通った。魚は、もうそこに落ちていただろう。爺さんの眼ではそれが見えなかったのだろうか。ともかく、それを発見し、ひろ子の同意をもとめて臆病に笑ってひろって行ったのは、背広を着て、夏帽子をかぶり、書類鞄をかかえた男であった。
 門口に、縫子が出ていた。ひろ子が見たのを待ちかねて、手招きをした。いそいで手招きした。
「なんなの」
「――はよ、おいでませ」

        十四

 いぶかしそうに入るひろ子の背をかかえるようにして、縫子は上り端まで一緒に来た。そこの畳の上に新聞がおいてあった。縫子は、それをひろげ、
「どうであります!」
 一つの記事を指さした。
 ひろ子は、名状出来ない衝動を感じてその記事をよんだ。ポツダム宣言によって、日本の治安維持法は近日中に撤廃され、治安維持法によって処罰されていた思想犯人はすべて釈放される、という報道なのであった。
「こりゃ、重吉さんも案外早うに帰られますで。――うれしやのう」
 手をふきながら叔母も上機嫌で台所から出て来た。
「駅にも、はア今ごろは新聞がついちょろうから、おばはんも大抵よろこんででありましょうよ」
 天真爛漫な叔母のよろこびに、ひろ子は笑顔で応えることも出来なかった。縫子が、びっくりした表情でその顔を見直したほど沈痛な口調で呟いた。
「もうすこし様子をみてからでないと、何にも云えないわね」
 立ったまま、ひろ子はくい入るように紙面に目を据えた。
「ああいうところでは世間とまるでちがった風にものごとが運ばれるんだから。……重吉さんは治安維持法一つじゃないんだもの――もり沢山な目にあわされているんだから……」
 治安維持法関係の思想犯は解放される、とはっきり語られている数行の文字は、ひろ子の心をねじりあげた。重吉の事件は、党組織の中に特高課が計画的に何年間にも亙って入れていたスパイの摘発に関していた。偶然、スパイの一人が特異体質の男で、変死した。事件の性質から、この裁判は全く復讐的なものであった。公判ではじめて内容を知ったひろ子は、支配権力の法律というものが、本来の性質である公正だの面目などをもはやかまっていられないほど、兇猛になっているのをその目で見たし、耳できいた。道理は常識が判断するのとは、全く逆につけられた。重吉に対しては、ことさら苛酷で、同一の事件、同一の立場、経歴においては却ってより軽い重吉ばかりが、数人の同志たちの中で、一人だけ無期懲役を宣告された。一個の姓名のわきに、書き並べることが出来るかぎりの罪名がつらねられた。ひろ子には、その一つ一つが、重吉の躯をしばって一足ごとに重い響を立てる鉄の鎖の環の数として、その重みとして感じられた。事実をとりあげて、社会生活の歴史の中におこった一つの現実としてみれば、そこに何一つ犯罪らしいことは行われていなかった。政治的なたたかいの方法において卑劣であり、非道義的な腐敗を示したのは、スパイと、それを飼い、計画を与えた権力者たちの行動であった。人生に経験は浅いかもしれないが、それだけ無私に社会の不合理を改善しようと熱中する若者たちの試みは、歴史の当然の足どりであるものを罪人にするそもそもが、ひろ子には、納得しかねた。
 この理不尽な法律が、有罪とすれば、たとえば重吉の母にしろ、やはりそれはわるいこと、こわいことと考えずにはいられなくて、そのなげきを和らげ、息子への信頼と希望をたもたせるために、ひろ子はこれまで十何年もの間、どんなに数々の言葉と心づくしを重ねて来ただろう。
 今、治維法関係の思想犯は解放するという記事をよんで、ひろ子は自分にとって最後の、そしてもっとも耐えるに難い苛責がここに在ることを感じた。ポツダム宣言が受諾されたばかりのとき、ひろ子は、簡明率直な歓喜にうたれた。ふるえる思いで、このニュースをうけとった重吉の心のうちを思いやり、いつ帰れるか、いつ帰るだろう、網走へ迎えに行って、一緒に海をわたって帰って来て見たい。そう思いつめた。
 時がたち、一ヵ月もすると、第一、ポツダム宣言を実行するにしては余りいかがわしい政府が居すわりつづける事に懐疑をもちはじめた。本当に、治安維持法は廃止され得るのだろうか。いつ? どのようにして? 永年苦しめられている日本のあらゆる進歩的な人々が、同じ感じをもった。そして、渇望のあらわれた数千万の目で、前途を見守っていたのである。
 治安維持法という壁の、どこの扉があく、ということが明らかになった瞬間、ひろ子は、火焔のうちに救い出されず、のこされそうになっている我子を呼ぶ母親の気持になった。重吉は? 重吉は? みんな出て来る。だが、重吉は?
 しかし、ひろ子は狂乱する相手を目前にもたなかった。重吉の、かえがたく、いとしい命を滅ぼそうとしている焔は、誰の目にもその危険をまざまざ示す焔の色としては映っていないのである。
 ひろ子は、その新聞を手にもったまま、のろのろと、いつもの机の前へ戻った。叔母も縫子も気の毒げに黙って、ちりぢりにわかれた。
 小一時間ほどして、
「縫ちゃん、いる?」
 坐ったところから呼ぶひろ子の声がした。
「はい、はい。何ぞ用でありますか」
「すまないけれど郵便局まで行って貰えるかしら」
 二つの書留速達と赤インクで書いた封筒を出した。
「ともかく塚本さんと永田さんに、頼もうと思うの。様子によっては永田さんにあっち迄行って貰って、いい加減なことを、されないようにしなくちゃね。そう思うでしょう?」
 塚本さんというのは、一家のみんなも親密な重吉の幼ななじみの親友であった。永田さんは弁護士で、永年煩雑な事務的な仕事をたゆまず取りはからってくれた。これらの人々に、ひろ子は、新聞記事のことをかき、重吉に対しては具体的にどう取りはからわれようとしているのか、調べて貰うように依頼した。永田さんには、御判断によって網走に行って下さる必要があるなら、即刻、塚本氏から旅費をうけとって出発して欲しいと書いた。自分が、どういう理由にしろ東京にいない間のとっさの用のために、いくらかの金が用意してあった。
 縫子は、すぐ出かけた。
 ひろ子は、自分がここにいて、目下の事情の中で、しのこされていることはないだろうかと思いめぐらした。重吉の予審と公判の行われていた数年の間、法律を知らないひろ子は、誰でもが持ち合わせている常識と小説をかくものの自然な洞察、想像力、構成の能力とでもいうようなものだけをたよりに、判断し、行動して来た。いくつもの粗忽そこつをし、手ちがいをし、重吉に不便をかけた。

 八畳の室に、ひろ子一人がねていた。二三日で十月になるのに、ここでは蚊帳がいった。おそい月が出た。大名竹の黒い影がガラス越しに縁側の障子にさしている。
 昔、田端に、天然自笑軒という茶料理があった。そこの中庭の白壁に、酔余に大観が描いたという竹の墨絵があった。
 自笑軒で、芥川龍之介の年忌の句会が毎年もよおされた。重吉が、はじめて発表した労作は、芥川龍之介の文学とその死とが語る日本の知識人の一つの歴史的転換についての究明であった。
 ひろ子が、重吉のその論文の出ている雑誌を読んだのは、遠い外国の質素なホテルのテーブルの上であった。その時分のひろ子は、どんな気持で暮していただろう。そのようにして名だけを知った重吉が、こんなにとけこんで自分の生涯にない合わされて来ようと、思ってもいたろうか。重吉自身、若々しい精根をきざみこんでそれらの論文をかいていたとき、僅か三年後に牢獄の生活がはじまり、やがて無期懲役というような宣告が与えられようと、想像もしなかったであろう。
 だが、もしかしたら、重吉は、あらゆる可能に向って用意されたこころもちで生きて働き、ひろ子を妻としていたとも思える。
 かすかな風で葉のそよぐ大名竹の影絵を眺めながら、枕の上で大きく眼をあいているひろ子に、四月下旬の昼ごろの日光に照し出されたほこりっぽい公判廷の光景がよみがえって来た。
 判決言渡しが予定されていたその日、午前十時頃から東京は小型機の編隊におどかされた。定刻までに裁判所へ行っていた永田さんから、中止の電話がかかった。ひろ子は、持てあつかっていた鉄兜を肩からおろし、もんぺをはきかえた。そのうち、空襲警報が警戒警報にかわった。すると、またベルが鳴って、裁判所では、急に開廷することにきめたからいそいで来るようにと知らせて来た。
「何と意地わるなんでしょう。家族が間に合わないと知れているのに――」
「私の方で出来るだけ時間をはかっていますから、ともかく早くおいで下さい」
 ひろ子の住居から裁判所までは一時間かかった。歩いて、それから都電にのって、また歩いて、その間にかかる時間は、ちぢめようにもほかにてだてはないのであった。ひろ子は、本当に息をきらして、裁判所の三階にある公判廷に入って行った。
 開廷されていて、ほそおもての裁判長が何かを読み上げていた。最前列に重吉がかけていた。いつもは離れたところにいる二人の看守が、きょうは左右について同じベンチにいる。ひろ子は、永田さんのうしろにかけた。ガランとした公判廷にいるのは、それぎりの人数であった。
 裁判長が読み上げているのは、判決言渡しの理由をのべた文章であった。きいていて、ひろ子は、奇怪な気がした。数年にわたる予審や公判は何のために行われたのであったろう。重吉や同志たちが事理をつくし、客観的状況を明らかにして抗争した事件の本質や、現象の内容は、その文章の中では、十二年前に書かれた一方的な告訴の理由とほとんど変更されていなかった。わずかにあくどい形容詞がとりのぞかれ、故意に計画的に行われた殺傷のように説明されていた部分が、偶発の事実として認められているばかりであった。重吉の努力や陳述がどうであろうと、よしんばそれがどんなに条理のとおったものであろうとも、この事件はこちらとしてこう扱うときめているのだ。そう云う頑固さが文章にみちている。
 ひろ子は、それを素朴としりながら、あらたに驚歎を感じた。仮にも大学を卒業し一個の良人であり父親でもある五十がらみの男が、こうも非条理の文章を読みあげ、それを妻子に見せられた姿であろうか、と。
 裁判長は、理由をよみ終った。主文と、区切って、声を高め、無期懲役に処す、と読んだ。つづけてすぐ事務的に、この判決に不服ならば一週間以内に控訴するように、と早口に云い添えて、裁判所関係のものは一斉に並んだ椅子から立ち上った。重吉も立った。ひろ子は、自分の知らないうちに起立して、こちらをふりかえった永田さんの実直な色白い顔がひどく紅潮しているのを見た。
 裁判長を先頭にして、一同ぞろぞろ控室に入って行く。その間に、重吉がふりかえってひろ子を見て、笑った。それはいつもの重吉の笑いかたであった。快活に、口元をゆるめその唇の隅にすこし皮肉な皺をよせ、それは重吉のいつもの笑顔であった。それに誘われて、ひろ子も笑顔になった。が、ひろ子の笑顔は一瞬だけのものであった。ひろ子は、つかつかとベンチをよけて、重吉に近づいた。左右からはさんでいる看守は、せき立てるように歩きかけている。ひろ子の身ごなしとその顔つきが、全体で示している感情を重吉はうけとり、理解し、それを鎮めるような、もう一つの笑顔をした。そして、弁護士へともひろ子へともとれる云いかたで、
「じゃ、あさって、又」
と云い、大きな手錠のはめられている手で編笠を頭へのっけて出て行った。その日は、土曜日であった。
 そのとき、ひろ子はどんな眼色になっていただろう。それは見えなかったけれども、正直な永田さんの顔が、あんなにもぱっと赤くなったのと、重吉が、永年の病気と日光不足の生活とで、滑らかな蒼い顔をしながら、黒く柔かく、しかも屈することのない眼ざしで、ほとんど滑稽を感じているような笑顔をしたのとは、生涯忘れることはないだろう。
 その重吉の眼と笑顔とが、その夜更け、大名竹の影のうつっている広い秋の蚊帳のなかにあった。白い覆いのかけられた小さい枕のところにあり、ひろ子の二つのてのひらの間にあった。重吉のまだ短く刈られていない髪は、すこし長く額の上に乱れかかって、それをかきあげるとき、指に軽かった。その髪に、ひろ子の指がふれてから、何年が過ぎたことだろう。
 無慚むざん、という言葉がある。そして、無慚な事実、というものもある。もし、今度、治安維持法撤廃によって思想犯が解放されるとき、重吉やその同志が、ほかに罪名をつけられているのを理由に出獄させられないとしたら、それは、無慚である。無慚すぎる。
 無慚すぎるそのことを、決してあり得ないことだと考えられない権力の発動のしかたの無慚さこそ、無慚そのものではなかろうか。
 重吉にひかれ、あこがれる情感のふかいはげしい濤のうねりと、無慚な権力の重さにあらがう思いとで、ひろ子は、もえる床の上におき上った。
 これまで十二年の間、面会に行った五分か十分の間、重吉の顔の上に混乱や苦悩があらわれていたことは一遍もなかった。その顔をうちみれば、ひろ子は苦しさを忘れるすがすがしさがあった。腸結核をわずらって、やっと接見室まで出て来た夏の日、重吉は、椅子にちゃんとかけている体の力さえまだ無かった。ねまきを着て、ずり落ちたように椅子にもたれこんでいる重吉の髪がすっかり脱けおちて、テーブル一つをへだてたひろ子のところから見ると、生え際がポーとすいて見えた。それは、絵にかく幽霊の髪の生えかたそっくりであった。ああ、これはお化けの絵にある髪だ。ひろ子は目を見開いてそれを見つめた。そんなに、死にかかったとき、重吉は、やはりひろ子の救いとなる笑顔をもっていた。そして、その笑顔をみれば、おのずからそれにこたえて、ひろ子の丸い顔も、いつしか爽やかな、さざなみのようなこころがうつった。
 けれども、ひろ子は、時々自分にどんな夜があるかを知っていた。おのずから、重吉にもそういう夜が、或はそういう永い昼間があることを感じていた。様々な夜と昼をとおして、自分たちが不思議な一艘の船であることを感じて来た。夜と昼とは、あてどもなく繰りかえされる海の波のようなものではなく、進む船にとってはそこにあと戻りすることのない時間の経過があり、歴史の推移があるのであった。
 月が西にまわって、蚊帳の上に大名竹の影が少し移った。どこか遠くの山よりで、故郷へかえる朝鮮人の酒盛りがあり、かすかに謡う声や手拍子の音が風に運ばれて来た。

        十五

 重吉のうちへ来たとき、リュックを背負って、女学生靴をはいたひろ子は、やせて、色も黒くやつれていた。
 田原へ来て、笑うこともふえて、ひろ子はいくらか、ふくよかになった。朝起きて、鏡を見て、
「ほら、又すこし美人になった」
と冗談を云った。
 しかし、今眠られない夜がはじまった。ひろ子は、眠った夜については、話したが、その夜々が眠りを失ったとき、決して誰にも訴えなかった。眠れない夜をもたないで生きて来ている人々というものが此の世の中にあるだろうか。まして、戦争がはじまってから。――ましてや、戦争は終ったが、幾百万のかえらぬ人々があって、その母や妻たちが、すっかり相貌の変じた彼女たちの人生について、不安をもって思いめぐらしているとき。――
 重吉が獄中生活をはじめた初めの間、ひろ子と同じ立場の留守の妻たちは、少くなかった。思想犯の妻たちは、良人の入れられている拘置所の待合室でいつの間にか知り合い、事件について話し合い、互に元気を与え合った。
 数年たつうちに、待合室に来る女たちの顔ぶれが変化した。次第に、思想犯の妻や母の姿がまばらになった。その変化は、日本の侵略戦争の進度に応じるものであった。そしてだんだん贅沢な身なりをして、傲然としながら動きのない瞳をした商人の妻たちがふえた。
 思想犯の妻として、留守暮しをするひろ子のやや特殊であった妻としての生活は、いつともなく極めて微妙な相似性で、日本じゅうの、数千数百万の妻たちの思いと共通なものとなりはじめた。その妻たちの良人は、みんな外からの力で、いや応なし軍隊に入れられた。どこに進むのか本人にさえ知らされない輸送船につめられて、海峡をこえたり、太平洋をわたって赤道を通ったりさせられた。重吉を、うちからつれて行った力も、それと全く同じ強権であった。自分ののせられた自動車の行先について、説明を与えるものはいなかった。銃を与えられ、背嚢を負わされてそれらの良人たちは運ばれた。重吉は鉄の手錠をかけられ、編笠をかぶせられ、そして運ばれた。自分の意志や希望で行先が選べないことも同じであったし、行ったら自由に帰れないことも本当にそっくりそのままであった。思うままの心もちを披瀝ひれきし、話したい日常の経験についてあからさまな手紙をかくことが許されないことも、そっくりそのままである。そこには、素人に分らない規則があった。外界から遮断された独特の官僚主義と情実。不正腐敗のあることも同じであった。つよく生きぬくものしか、まともに生きにくい。その境遇の荒々しさも同様である。
 自分たちの心痛さえ思うようには伝えられず、その能力が与えられていようと、いなかろうと、妻が一家の支柱とならざるを得ない事情を、ひろ子は自分ばかりか日本じゅうの妻たちの上に発見したのであった。
 ひろ子が小説に描きたいと思う女のこころもちは、いわば日本のあらゆる女性の感情のテーマとなって来たのであった。
 ところが、たった一点、ひろ子の小説が、どうしても禁止されなければならないわけがあった。ひろ子の人間として、女としての訴えが真実であり、その表現が万人の女性のものであればあるほど、禁止されなければならない理由があった。それは、ひろ子が、天皇と愛国心と幸福の建設のためにと称して行われている戦争に対して、信頼できないこころをもっている女であるということであった。侵略戦争と民衆生活の上に加えられる破壊に対して抵抗している思想犯の妻である、ということであった。
 ひろ子の文学が、最も真実に恋愛を失った若い娘たち、生活の柱を失った妻たちのものとなろうとしたとき、ひろ子が書くあらゆるものは発表を許されなくなった。ひろ子のすべての熱意、すべての表現の欲望は、ひたすら重吉への手紙へばかり注ぎつくされた。
 そういう明暮になってみて、ひろ子は、自分が一人の妻として、今の日本にあふれている数千万の妻たち愛人たちよりも、むしろ幸福な者であることを痛感した。ひろ子は、重吉の居どころをはっきり知っていることが出来た。規則が許す範囲の面会が出来た。未決のうちは、自分で心をくばった衣類をきせておくことが出来た。そして、何よりも重大なことは、ひろ子には手紙が書けることであった。重吉もひろ子に手紙の書けることであった。
 数万の妻たちの条件はそれとはちがっていた。彼女たちの良人は何処にいるのだろう。妻たちにそれさえはっきりとは知ることが出来なかった。今来たこの手紙をよんでいる、この瞬間、良人のいのちは果して安全であるかどうか。誰が知っていよう。
 その心配に焦点さえ与えられない。絶対なそのへだたりの感覚さえ、遙かにぼやかされてしまっているはかない別離。ひろ子はその現実のむごたらしさを想うと耐えがたかった。そして、たとえその妻たちの留守居はまだ二三年であり、或は四五年であり、自分の独りぐらしは十余年であるにしろ、ひろ子は自身の苦痛において謙遜になった。
 何かの意味で眠れない夜々をもたない女は、日本にいないのであった。

 四日ばかりたった日、ひろ子をひとしお衝き動かす記事が出た。外人記者が府中刑務所の一部にこしらえられているナチスまがいの予防拘禁所へ行って、徳田球一、志賀義雄その他の思想犯と対談したニュースである。
 ひろ子は、くりかえし、くりかえし、その記事をよんだ。冷静な報道のかげに、はやまり高まっている獄中の人々の鼓動が脈うっていた。大なる精力をもってほとばしる談話。殺されなかった人間性の奔流が感じられた。鉄格子の際の際までひしめき出てその間から外を見、待っている人間の群がある。その眼の光がある。ひろ子は、涙が流れて、とどまらなかった。
 たしかにこれらの人々の声は、きこえはじめた。――だが、あの一つの声は? そして、遠くにあるあの眼は?
 縫子が、となりの座敷で、ひっそりと縫物をしていた。うしろに、叔母の古風な大箪笥が置かれて、側面に、ひなびたかけ鏡がかかっている。ひろ子は立って行って、涙のおさまった自分の顔をつくづくとその上に眺めた。そして、縫子に声をかけた。
「ねえ、縫ちゃん」
「なんでありますか」
「どうも、この調子だと、わたしは一番綺麗でいたいとき、一番みっともなくなってしまいそうだわ」
「あら」
「だってそうじゃないの。もし、かりに重吉さんが帰るときまったら――かりに、そうときまったらよ」
 ひろ子は、その仮定をしつこく繰返した。
「わたしは歩いたって東京へゆくわ。そうでなくたって、もうこの四五日で大分あやしくなってしまったんだもの――へこたれねえ」縫子は、年かさの娘のものわかりのよさで優しく力づけた。
「心配はいりませんよ。汽車もそろそろ通じているし――大丈夫でありますよ」

 十月六日、例によって正午近く新聞がくばられた。縫子と叔母とは、ドーナッツを御馳走すると云って、台所の七輪のところにいた。
 ひろ子は新聞をもって来て机の前へ坐った。見出しを先ずたどって行って、紙面の中ごろへかかったとき、ひろ子の顔つきが突然変った。そこに思想犯解放の予告が示されていた。連合軍の命令によって十月十日までに解放さるべき思想犯の氏名が列記されている。(府中)と拘置されている地名の上に、先日外人記者とインタービューした徳田球一の名が筆頭に明記されている。ひろ子の視線はつき刺さる矢のように、それに続くたくさんの姓名の上を飛んだ。石田重吉(網走)と出ている。出ている。出ている。網走、石田重吉と出た。これで、重吉は帰る、ひとりでに呼び声となった。
「縫ちゃん! 縫ちゃん!」
 廊下の途中で、手をふきふき来る縫子の腕をつかみしめた。
「縫ちゃん、これ見て!」
「おお! 出ちょる、出ちょる!」
「さあ、もうたしかよ」
 ひろ子は、
「ああ、たすかった」
 心からうめいて、目に涙を浮べながら笑顔になった。声をききつけて、白い粉にまびれた手のまま、叔母もかけて来た。
「どうでありますか? 出ちょってでありますか」
「ほれ、こんに」
 縫子がその記事をさした。
「どれ、どれ」
 さし出された新聞を、都合のよいところまでもう一遍はなして叔母は読んだ。
「ほんに。こんどは確実でありますよ」
「私、こうしてはいられない」
 ひろ子は、にわかに困ったような、たよりなげな表情になった。
「十日までというから、仮に八日か九日網走を出るとして、東京に着くのは十三、四日でしょう。すぐ立たなくちゃ」
「福島へよってでありますまいか」
 一時に、いろいろの可能が考えられ話し出された。そのどれもが、西から帰って行くひろ子と行きちがいそうに思えるのであった。
「ともかく東京まで帰りましょう」
 最後に決心して、ひろ子が云った。
「東京に、連絡事務所が出来たらしいし」
 重吉が依頼していた弁護士の一人の事務所が連絡所として発表されているのであった。
「はあ、すぐ駅へおかえりませ。今夜の汽車にでも乗れたら乗ることが。のう、あんた」
「じゃあ、ドーナッツ、持たせましょう。もうそれどころでないわ」
「それ、それ」
 さわ子によろしくを言伝るのがやっとで、ひろ子は又縫子とつれ立って、家を出た。
 来たときのとおりの道を、今度はこちらから歩いてゆく。ひろ子は、自分がどんなに物も云わず、出来るだけの速力を出し、むきになって歩いているか心付かなかった。ときどき縫子が、
「もうちとゆうに行きましょうか」
と、歩調をゆるめた。ひろ子は、それを従妹が自分の脚の速さを気がねするのだと、とった。
「大丈夫よ、この位」
「ここまで来れば、三分の一は来よりましたよ」
 しばらく進んで、来るときも通った切通しにかかったとき、縫子は、
「もうあと四十分ばかりでありますのう」
と云った。
「一足一足、歩くのって、何て手間のかかることだろう!」
 一足の幅の小ささと道のりの長さとを、ひろ子は苦しく対照して感じるのであった。同じ道を往きに通ったとき、ひろ子は一つ一つとこまかに周囲を眺め、自分たちの歩いている新道の、無慈悲な直線がその左右に展開している生活破壊に目をとめた。今、同じ道の上を逆行してゆくひろ子に、近い田畑、飯場、つらなり重った西国の山々は、まるで一様の緑色にとけ流れて感じられた。ひたすら歩いているひろ子の足は、思う三分の一もはかどらないのに、正面にすわった眼の左右を、遠近の景色は青く流れて、うしろへ、うしろへと速く通過してゆく感じなのであった。
 部落の入りかかりの小山の頂上に、多賀さんという社がある。その石段わきの崖が、この間の大雨と出水とで、大きな地すべりをおこしていた。部落の男の子たちが、そこへかたまって、サンダワラを尻の下に敷いて、ウォータ・シュートのように辷りっこをしている。昭夫がそこに混って遊んでいた。癇のきつい浅黒い顔に大亢奮を燃えたたせて、ドタリと下へすべりついたとたん、昭夫の目に、通りがかっているひろ子と縫子は入りようもない。
「まあ、あの泥!」
 縫子は、笑ってちょっと立ち止った。この昭夫の姿を見、そこからもう新道の下に見えはじめた屋根屋根を眺めたとき、ひろ子は我を忘れて前のめりになっていた感情のはやりから、急にひき戻された。この屋根屋根は、「後家町」の屋根屋根であった。決して還ることのない人々への悲しさと壊れた生活の思いのなまなましい屋根屋根である。今まで吹きつける火焔のようにはばかりなくほとばしっていた自分の熱中が、この屋根屋根の下から動きようもなく暮す女たちにとって、どう感じられるであろうか。ひろ子は、自分から正気を失わせそうな歓喜と期待、勇躍の輝やかしさに対して、萎縮した。これらの悲しい妻に対して、もっともしのぎやすい形でこの歓びを表現するのが、ひろ子の義務ではないだろうか。
「お姉さん、どうして? 疲れてでありますか? あんまりいそいで歩かれたけ」
 本当にくたびれの出た顔つきで、ひろ子はゆっくり裏から石田の土間に入って行った。裏座敷にだけ畳が入っていた。店の間は、まだ床板も入れてない。
 声をききつけて、行く前には無かった下見窓が明るく一つ切りひらかれた戸棚の前から母が出て来た。
「どうも御苦労さまでした。随分きれいになったこと!」
 ひろ子は、挨拶した。
「お母さん、けさの新聞を御覧になりましたか?」
「重吉が帰りよりますのう。早う、田原へ知らさにゃと云っとったところいの。電話は通ぜんし……はよ戻ってよかった」
「あれに十日迄とあったでしょう。きょう立ってやっと位でしょうね」
「それいの――でも、どうにありましょう。一人で戻らりょかのう、あんた」
 そのことをひろ子も気にかけた。十二年とりこめられて暮した病身の重吉が、一人で網走から、あの恐ろしい汽車にかきのってどうせ食べるものもろくに持たされず帰って来ることを思うと、いたいたしかった。
「東京から誰かに行って貰うにしろ、何しろ今のことで、どうせ間に合いっこなし。何とかなさるでしょう。そう思うしか方法がない。――お金は十分おもちです」
「そやったら、まあ、ええわの」
 そこへつや子が、治郎を抱いて表から入って来た。土間の床几に縫子と並んでかけているひろ子を見て、受け口の口許をほころばした。
「新聞見てでありましょう? ほん、よろしうありましたのう。おめでとうございます」
「よかったわねえ。みんなのために、本当によかったわ、ありがとう」
 つや子はもうはだしではなく、下駄をはいて、やつれながらもいくらか安堵した様子であった。
「おばあちゃん、切符何とかせにゃいけますまい」
「それ、それ。一寸駅へいって来よう」
 母は、駅長にあって、重吉が解放される事情を話し、特別許可で八日にはじめて開通する呉線まわりの列車の切符を一枚とってくれた。万一の場合を考えて、ひろ子はその切符を、青森までのに頼んだ。七日が呉進駐で、列車の運転は禁止されているのであった。
「仕様がない。まあ、あした一日お待ちませ」
 登代は、満足そうに微笑んだ。
「駅長はんも、永年御苦労様なことじゃあったとお祝い云うてでありましたよ」
 重吉という名が、母にとってよろこびをもたらすものでなくなってから、幾何かの歳月がすぎたろう。世間の沢山の人同様、母は恐ろしい虚偽の報道に辱しめ苦しめられ、正義のない正義の法律によっておびやかされつづけて来たのであった。
「ほん、お父はんをきょうまで生かしておきたかったのう」
 夕飯のあと、母はしみじみ述懐した。
「田原の叔父さあも、どんなによろこうでかしれんのに。直次は、兄さんが戻ったらほん大切にして暮さすのに、といつも云うちょった、のう、つや子はん」
「ほん、よう、そう云うとでありましたのう」
「ひろ子はん、あんた、こんど重吉が戻ったら、もうどこにも行かさんことでありますよ」
 云いつけるように真心こめて云った。
「ここにおいませ。何年でもここに二人でおいませ。あなたは二階で小説かいて、重吉は市役所へなりつとめりゃ退屈せんわいの。水こそつきよるが、この田舎もようありますよ」
 十余年も牢やでがんばった重吉を、今度こそ市役所へつとめさせるという考えは、云い出した母親自身さえ、笑い出すおかしみに溢れていた。そして、情愛にあふれている。
 つや子が、こういう笑声の中にも一座し、明日の弁当、途中の用意と、縫子と二人で世話をやいてくれることを、ひろ子はいじらしく思った。力相応の平穏な暮しの中でなら、こわくも、おそろしくもならない若い弱いつや子が、しばしば、体力的にも生活の重荷を感じて、何か近よりにくいひとになる。しかも、それをさけることは出来ない境遇の現実である。ひろ子はそこに、つや子の哀れを感じた。
 母と二人きりになったとき、ひろ子は母の膝に手をかけて、
「お母さん」
と云った。
「お母さんのお心を思うと、わたしは、何とも云えないの。何てひどい物々交換でしょう。ね、お母さんは、大切な一人の息子とひきかえに、やっと一人の息子をとりかえしなさったのよ。何てことでしょう」
「ほんにのう」
 母は、深い息をついた。そして、遠い山の頂の松を眺めながら、
「――進三がまだのこっちょる」
 やさしい愛着にみちた母親の声でつぶやいた。
「あれのおるところに、食べるものはあってのじゃろうか……」

        十六

 目じるしにビロードの小切れを結びつけられたリュックが、再び頭の上の網棚にのっている。そのリュックの中には、お握りの弁当があり、丈夫な二つの紙袋があり、中ぐらいの大さの丸罐も一つ入っていた。紙袋の一つは万一の用心のための米であった。もう一つの紙袋には、挽きたてのハッタイ粉が入っていた。重吉からの手紙の中で、故郷のハッタイ粉をなつかしんで話していたのが思い出された。第一に、それを食べさせたい。じかにそれをつや子に云いかねて、ひろ子は縫子にそっとささやいた。縫子は、自分の思いつきとして、麦をほうじ、もち米を加え、みんなで挽いたのであった。丸罐には、白砂糖が入っていた。直次の友達が、重吉の帰りをきいて、祝いにくれた。そして、一足の靴も入っていた。進三が中支にいたとき買って送ったのを、重吉のために、母がくれた。それらが、網棚のリュックのなかみである。
 ひろ子は、来たときのままのなりで、紺絣のモンペをつけ、さきの丸まっちい女学生靴をはき、東に向って進む座席にかけていた。
 こういう事情になってみれば、ひろ子が網走へ行けなかったということも、あながち不便ばかりではなかった。そして、東京の弟の家が焼けのこっていることも、重吉とひろ子にとっての大きな仕合わせと云えた。その家は、北側の垣根一重むこうまで焼けて、浅い庭木越しには何里とその先に続く焼野原であった。水道が出ないにしろ、まるっきりガスが出ないにしろ、そこには、住むところがある。二人で、住むところがある。何と馴れない、痛いように新鮮な感じだろう――二人で暮す、という言葉は。ひろ子が重吉の妻になって、一つ家に住んだのは、二ヵ月足らずであった。その二ヵ月足らずの、いそがしい、出入りの多い朝夕を送った小さな細長い二階家は、今残っている弟の家から西北数丁のところにあった。そこは焼けてしまった。
 一人暮しの永い年月の間に、ひろ子は、巣をかけてはそれをこわされ、又巣をかけては、それを持ち切れないような目に会わされて、幾度か引越しをした。それらの屋根の小さい家々も一九四五年の春から夏までの間にみんな焼けてしまった。重吉は、おそらく小さなふろしき包み一つを下げて帰って来るだろう。世間ばなれのした和服を着て、下駄さえも重吉はもっていないのだからおそらく公判につかった草履をはいて。ひろ子にあるものは、困難な時々に売って大分内容の変ってしまった本棚と机とふとんと、それから、もし家をもつときは、と思って、網走行の荷物にそえて集めておいたいくらかの世帯道具と。ろくな家財さえない。
 しかし、ひろ子には、自分たちに何にもない、ということが、いわば、最もあることの逆現象のような気がした。それでこそ、自分たちとしては自然であると思えた。これらの十余年の二人の生活を思えば、そこに何があり得たろう。今、解放がある。それでつきている。
 ひろ子は、何も考えず、しかも無限に去来する思いの上にただよいながら、のっていた。車輪がレールの接続をこすたびに、カッ、カッと規則正しく、なめらかな響で鳴っている。それは進んでいる証拠である。確実にひろ子の渇望に向ってはしっているしるしである。
 ところが、午後四時頃になって車内に不安な噂がつたわって来た。呉まで来る間にも、まだ出水の被害がのこっていて、大分おくれたその列車はおそらく須波より先へは行くまい、というのである。須波とその次の三原駅の間に大鉄橋があり、それがおちているのだがまだ恢復の見込がついていないというのであった。
「弱ったなあ。――その何とかいうところから次の駅まで、何里ぐらいあるんでしょうな」
「半里ぐらいなもんでしょう」
「何時頃つくでしょう、この分じゃ大分おくれますなあ」
「本来は六時すぎの筈だが、わるくすると九時になりますね」
 雨が降りはじめた。ひろ子は、その噂をきいたとき、単純に考えた。どうせ、みんな徒歩連絡をするのだろう。重吉の家の窓から眺めた人々の歩きぶりを思い浮べた。その列について自分も歩いて、三原という駅で夜明しでもしよう。
 弱った、とくりかえして、雨が降り次第に暗くなる窓外をしきりに見ている前の席の男が、
「奥さん、あなた、どうされます?」
 ひろ子に向ってきいた。
「さア、私は、その三原という駅まで歩いて、ベンチへでもねようと思って居ますけれど……」
「そんなことが出来るもんですか!」
 とんでもないこととして、否定した。
「どんだけの人間がたまっているかしれんのに、第一、ベンチなんかあるものですか。あなた、どうされます?」
 ひろ子と並んでかけている男に言葉をかけた。
「さあ――どうにかなりましょう。私は、仕事の関係で、この辺はよく往復していますから」
 なるたけ、煩雑になりそうなことにかかわるまいとする調子で答えた。あから顔の、快活なところと弱気なところとが不思議にまじりあっている小柄な男は、須波が近づくにつれ、困却を示した。
「須波やったら、私の知っている家もあるし、多分そこで、宿やの世話をしてくれまっしゃろ。奥さん、わるいことは云わんから、一緒にその家へよって見ませんか」
 熱心なすすめかたには、本当に、三原の駅でとまることなんか思いもよらないという状況がうかがわれた。一人旅をしているひろ子への親切とか、好奇心とかよりも、何かもっとその身に切迫した熱心さをあらわしている。
「その家も駅からすぐのところやさかい、もしお気に入らなんだら、駅へじき行かれます。若い男がいるさかえ、送らします」
 徐行、徐行して、須波の駅へ列車が入り、どやどやと不満な旅客の大群がそれぞれの大荷物を背負ったり、さげたりして真暗な雨の車外に溢れ出したとき、ひろ子は、自分に道づれの出来ていたことをうれしく思った。
 須波の駅は真暗闇で、たった一つ駅夫のもって歩くカンテラが、妙な高いところで小さい光の輪をつくっている。駅員が道の案内をするでもなければ、道しるべになる提灯がつけてあるでもない。雨の暗い駅にたった一つのそのにぶい光は乗客が影を重ねてこぼれ出た露天ホームまでは届かず、たちまち混乱がおこった。
「どっち行くんや!」
「見えへんじゃないか」
「こっちだ、こっちだ!」
「千代ちゃーん! 千代ちゃーん!」
 あわてた女の叫び声が雨の暗闇をつんざいた。
 ひろ子は、暗くて足もとが全く見えない中を滑りながら、人々が我がちに登ってゆく右手の崖の横木へ足をかけた。つれの男が、
「大丈夫ですか? わかりますか?」
 ひろ子によりすがった。
「眼の見えんものは、こいうことになると実に困ります。――ここでいいんでしょうか」
 法外に足かけの幅の遠い滑るだんだんをやっと崖上へ出た。そこは、人家の裏の細道らしく、小流れの音が片側にきこえた。雨にうたれながら荷物を背負った人々は、真暗闇の中に、びしゃびしゃ泥濘ぬかるみの音を響かせ、
「こっちか?」
「まっすぐだ!」
「てんで見えやしねえ」
 不機嫌に時々よびかわし、雨傘をさしたひろ子とつれとを追い越した。徒歩連絡らしい列は、どこにも出来ていなかった。足のはやい、力のつよい男たちが、自分たちだけでぐんぐん先へ行った。ひろ子のつれとなった男は、緑内障あおそこひで、ほとんど両眼の視力が失われているのであった。
 それをきいてひろ子にはその快活そうでひどく気弱な男のとりなしの万端が諒解された。ひろ子は脚がよわい。その男には視力がない。その二人が、それぞれの目的で、須波と三原の間の、雨の夜道を歩こうとしているのであった。壮年にかかわらず視力の弱い男が、一種の勘で、丈夫でないひろ子を道づれとして見つけたことを、面白くも思えた。
 月夜ならばそれが桜の樹だとわかりそうな並木のある堤のような道も、アスファルトで舗装されている広い大通りも通って行く道はみんな暗かった。ひどい降りになった雨と、びしゃびしゃ通る素性の知れない夜の歩行者とに向って、人家の雨戸は用心ぶかくとざされていた。すきま洩れる明りばかりが、時々繁い雨脚とぬれて光る道とを照した。
 ひろ子は、一度ならずトラックがこしらえた深い穴ぼこの水たまりにはまった。
「ひどい水たまりですよ」
「や、すみません」
 道路の半分ばかりが、くずれているようなところもあった。
「そっち側は駄目ですよ、まるっきり崩れているから」
「――目のよう見えんというのは、ほんに難儀なものです、いちいち、ひとに云うてもおれんし……おかげさんで大助りします」
 そんな工合に雨の中をひろ子とその道づれとは歩いて、一つの長い橋をわたった。何年か前、呉線まわりで東京へ帰ったことがあった。そのとき、呉のさきに、長い鉄橋があり、そこを通る汽車の窓から、同じ長さでむこうにかけられている橋の直線的な眺めが、大変美しかったおぼえがある。その長い美しい橋は河口にかけられていた。海は遠くなかった。吹き降りの雨を傘にうけかねて、上体を前かがみに、リュックを背負った二人がわたるのはその橋で、鉄橋がここで落ちているのであった。
 やっと三原の町へ入った。どこもかしこも町のそとと同じように暗い。四辻で、つれが、雨傘からしずくを垂らしながら立ち止った。
「えらいすんませんが、右手に活動小屋が見えませんやろか」
「ああ、それらしいものがあります」
「白いような建物でしょうか」
 すかしてみて、ひろ子は、
「そうらしいわ。――アーチみたいなものがついていますよ」
と云った。
「じゃいよいよ来ました。ついそこです。こっちだったと思うが……」
 うろ覚えの街角の一つを、さぐるように先立ってまがった。ガラスから灯のもれているところを見つけて、つれは、番地と姓名を云ってたずねた。
「ああ、そうでしたか。すんませんでした――こっちです」
 さらに露路に入った。関西風な表格子のはまった人家が左右に建てこんでいる。急にバシャバシャと水がひろ子の女学生靴へ入った。その露路一帯、くるぶしほどの深さに浸水していた。水かさが一歩ごとにますようでこの先へ行くのは不安になったとき、つれの男は、一つの狭い入口の前で止った。
「多分ここでしょう……村川みきと書いてありませんか?」
「――標札あるのかしら。――暗くて見えませんよ」
「いや、ここでしょう」
 確信ありげに声をかけて、土間に入ったつれの男を認めて、
「まあ! 支店長はん」
 五十がらみの単衣をきた女が、一目で見とおせる次の間の茶箪笥の前から、とりいそいで立って来た。
「どうおしやして……今頃……でも、まあ御無事で……お珍しい。さアさアお上りやしておくれやす」
「さあ、どうか奥さん、ちっとも御遠慮はいりませんから」
 一間に三間ほどのその土間までは水が入って来ていなかった。直接ひろ子に向っては用心ぶかく口を利かず、目はしだけを働かしている細君に向って、つれは、道づれとしてひろ子をひき合わせ、泊ったことのあるらしい旅館の名を云って世話をたのんだ。
「何しろ、みんな、ここのところ歩きやはりましょう、六時ごろにはどこももう満員どすわ」
 濡れしおたれて、きしむ靴をやっとぬぎ、もんぺをぬぎ、今晩はここに泊めて貰うことになった。支店長、支店長と云って、女は、その男の靴下を干し、ぬれたシャツを土間の竿にかけた。が、ひろ子に向っては、雨水のたれるもんぺを、そこの竿にかけろ、と云うこともしない。寧ろつれの男が、ひろ子に向って、主婦の云うべきことを云った。
 それは二間だけの家であった。永年のつましさと世間ていに対する神経とが入るなり感じられる様子であった。話のはこび工合から、ひろ子はつれの男を、月掛無尽会社か何かそういう種類の会社の支店長であり、女はその部下の女集金人と判断した。工場へ出ているという二十四五の息子も帰って来た。女手一本でどうやら嫁入りさせたばかりという娘の噂が出た。
 ひろ子は、急用で東京へ是非ともかえらなければならない者として自分を紹介した。質素ななりをして、札びらを切るような風もないひろ子に対して、浮世しのぎに肉のつく暇もなかったらしい細君が冷淡なのを、ひろ子は、当然なことと思った。須波、三原間の徒歩連絡がはじまってから三原の町には毎日一万から二万の旅客が停滞した。空襲をうけなかった三原の町は、呉やそのほか大きい町々の買出し場所であった。その上、水が出てからは毎晩、一人二人ひとを泊めていない家はないとのことだった。そうきけば、須波の駅から崖をよじのぼって人家の裏道へ出たとき、いち早くくりのこされた雨戸から洩れる燈火に黒く群れ、頻りに家内の女と交渉している復員兵たちがあった。

 一番の汽車に間に合うように三原の駅へ来て、ひろ子は、ともかく昨夜女集金人の家に泊れたことをよろこんだ。小さい田舎の駅でしかない三原は、構内の広場から往来まで旅客で溢れ、まだ降りつづいている早朝の雨の中に、泥濘をこねかえしている。ひろ子が、そこで夜明しが出来るだろうと思っていた駅の待合室の中は、ぎっしり詰った人々が立っているさえようようの有様であった。ベンチなどは、群集と荷物の下に埋められて、ひとわたり見まわすひろ子の目にさえ入らなかった。乗りこんだ列車は構内の群集のすさまじさの割に案外すいていた。昨夜十一時すぎに三原を発車する予定だった列車が、とうとう動かず今朝までそこにいたのであった。四人一組の復員兵たちが、飯盒はんごうで炊いた飯を、はしゃぎながら食べていた。
 ひろ子は、まだ濡れて重いもんぺをぬいで窓のわきの物かけ金具にかけ、ズクズクの女学生靴もぬいで、座席の上に坐った。
「大分ぬれましたね、どこまでです?」
 兵士のひとりがたずねた。
「東京までかえるんですが――この汽車、動くのかしら」
「さあ、そいつあ、神様ばかりが御存じだ」
 洋酒の名も知っていてダンスもするという顔立ちに無精髭の生えたその兵士が、襟元をはだけたなりで皮肉に笑った。
「何しろ、ゆうべ動いた筈のところが御覧のとおりなんですからね――やれ、やれ、人間万事しんぼうが大切さ」
 ところが、思いがけず定刻の六時半に、その列車は三原駅を出た。
「出ましたよ!」
 支店長は、しんからうれしそうな笑顔になって上体をのり出した。
「これでよろし。――大分運のええ方や。――これでよし、と」
 彼は大阪まで帰りつけばよいのであった。安心して、座席へもたれこみ、素人目では異常の分らない両眼をとじた。
 ひろ子のこころは一途に東京に向っていた。その途中でおこって来るいろいろなこと、たとえば昨夜、見も知らない女集金人のうちへ泊めて貰ったというようなことも、大して苦にならなかった。ひろ子が一途なこころもちだから、そうであるばかりでなくその頃の日本にまともな旅行というものが無かったのであった。
 列車が岡山にさしかかる前後から、沿線の風景はただごとではなくなって来た。徐行しはじめた列車の左右は広大な浸水地帯であった。既に何日間も動かない水の下になっている田圃から、一粒の実もはらんでいない稲が、白穂となって悲しく突たっていた。白穂は水面に立って、すすきのように風にそよぎ、細雨に空しくゆれている。水の中に、農家が点在して見えた。それらの農家と農家との間には、小舟ででも通行するしかない水の深さに見えた。少し山よりの高みでは、重吉の家でもそうだったように家のめぐりに、ありとあらゆるべた土まびれの家財が運び出されていた。運び出されたままきょうの雨に濡れている。
 物音一つしなかった。一望濁水に浸されて人影のない風物は、住民の絶望の深さを語った。
 両手をしぼるように握り合わせ、窓外の景色から目を離せずにいるひろ子をのせて、列車は一時不時停車をし、それからは最徐行で進んだ。線路が全く水の下になってしまっているのであった。
 進行する列車の車輪の下から、大きい水しぶきがあがった。ほとばしる水の音は、不安に殺している苦しい息を一時に吐き出すようなボボッ、ボボボという機関車の乱れた排気音に交った。
 どうにか姫路駅まで辿りついた。緊張している乗客たちは、窓から首を出してプラットフォームを通りがかる駅員に、先の模様を訊いていた。ところへ、もうこれから先へは行けないそうだという噂が前部からつたわって来た。みんな立ち上って、騒然となった。その車の外を、若い駅員が、ちっとも親切気のない無関心な声で、
「みんな出て下さい。この列車は先へ行きませんよウ」
 片手で帽子をうしろへずらしながら呼んで通りすぎかけた。すると、ひろ子の向い側の座席にいた四十がらみの痩せぎすの男が、さっと立って、
「おい君! 君!」
 思いがけず野太い、人を服従させつけている者の調子で窓ごしにその駅員をよびとめた。
「そんな誠意のない物の云いかたがあるか! みんな長い旅行で難儀しているんじゃないか。――中へ入って来、そして、説明したまえ」
 あちこちから賛成の声が起った。暗いプラットフォームの屋根の下に停っている上、すべての乗客がざわついて立ち上っているためなお薄暗い車内に、その駅員が入って来た。そして、改めて、
「この列車は、水害のため、姫路止りであります。どなたもお降り下さい」
と告げた。乗客たちが駅員をとりまいた。が、結局、姫路の先の水害故障というのはいつ恢復するのか、どこの地点が故障なのかさえもはっきりしなかった。
「仕様がない、降りましょう」
 背広も、合外套も渋い好みで、スーツ・ケースと大きいボール箱を下げたその男が、今度は新しい道づれに加った。
 雨でよごれたプラットフォームに、覆布をかけた郵便行嚢の高い山がいくつも出来ている。ひろ子が、田原の家で、網走から解放されようとしている重吉のために書いた速達も手紙も、恐らくは、みんなこの湿っぽくて陰気な、いつ発送されるか見とおしもない郵便物の山につっこまれているのだろう。
 プラットフォームは大体もとのままであった。が、駅舎から全市街の大半が焼かれていた。眼のわるい支店長、ひろ子、新らしい道伴れ、三人は、人群にまじって荒板づくりの仮事務所の前に立った。姫路駅では正確な故障箇所の告知板さえ出してなかった。いつ恢復する見込なのか。そんなことを知る必要もないという駅員の態度である。
「君たち、商売なのにそんなだらしないことってあるものか。鉄道電話は何のためにあるんだ」
「電話なんてあらへんよ、焼けしもうて。――」
 頓馬! というような眼付をして、新しい道づれをジロジロ眺めながら若い駅員は平然と答えた。
「もうとっくに、電信不通や!」
 これでも文句があるか、というように答えて、雨の降っている地べたへ煙草の吸殼を投げすてた。
「――鉄道ラジオ一つないんだから……。外へ出ましょう、こうしていたってきりがない」
 新しい伴れが、警察に宿屋を斡旋させようと提案した。数百人の旅客が、白鷺城跡の見える駅前の仮小舎にかたまって途方にくれた。
 焼跡の大通りを、大分歩いて市庁の建物のあるところへ出た。ジープや大型トラックが、雨水をしぶかせて、城下町の通りを疾駆している。M・P本部の玄関で若い白ヘルメットが、金色の長い睫毛を伏せるようにして日本のヒメジの十月の雨脚を眺めていた。
 三人は警察の大玄関をのぼって行った。背の高い新しい伴れは、「案内」と英語の札が出ているところへ斜に片肱をかけて、用件を話し出した。年輩の巡査が、
「さあ、どうも……お気の毒さまですが、何しろ日に何万という旅客のことでして……」
 うしろを向いて、同僚と何かうち合わせ、いやあすこは、もう入れまい、というような話をした。多くの旅館は、昨今慰安所になっているのだった。
「ひとつ、何とか御配慮願いたいもんですな……」
 片肱をかけて話している伴れは、チョッキのポケットから巻煙草入れを出し、一本ぬいてゆっくり火をつけた。それはいかにも、相手にも、さア一本、と出すことになれている者らしい素ぶりである。全体が酒場の脚高椅子のわきに立っている身ごなしである。ひろ子は、すこしはなれた床の上にリュックをおろしてそれを眺め、好奇心を動かされた。几帳面で、渋ごのみの服装と、その男のどこやら伝法な裏の裏まで知っているとりなしとは不調和なようで、調和している。何を商売とする男なのだろう。
 案内係との交渉が、望みうすなのを見ると、赧ら顔の支店長は、小柄な体を心配そうに動かしながら、誰にともなく、
「この辺に、第一建物会社の事務所ありませんやろか」
と云った。
「もとは、ここのついねきにあったんですが……」
「第一建物会社?」
「その会社やったら、元のところに仮事務所建てています」
 若い女の事務員が、人だすけの出来ることを自分も愉快に思う明るい善良な声で口を挾んだ。
「元のところにありますか!」
 いかにも助かった、という風にききかえした。
「第一建物ですやろ?」
「そうです」
「そやったら、ほんと。元のところです」
「開けてまっしゃろか」
「ええ、事務はとっておられますわ」
 支店長は、あわてて、
「ありがたい、ありがたい」
 リュックを背負いあげた。
「あなたがた、ここ動かんと待っとって下さい。事務所さえあったら、きっと宿ぐらいなんとかさせますから……ここ動かんと待っとって下さい」
 案内係は、没義道もぎどうにつっぱねないが、積極的な助力は出来かねた。
 じき、支店長が戻って来た。
「お待たせしました。さあ、事務所へ行きましょう。大丈夫です、宿は何とかなります」
 警察から七八間先の並びに、第一建物会社と大きい看板をかかげたバラックがあった。
 奇妙な組み合わせの三人の道づれが、一列になって入ってゆき、狭い机と床几の間で、姫路支店長というのに挨拶した。
「石田と申します、思いがけず大変御厄介になりまして……」
「いやいや、わたしの方が、どんだけお世話になったかしれません」
 眼の不自由なその人は、広島辺の、同じ会社の支店長をしているのであった。
 案内の若い者につれられて、三人は白鷺城のほりについて、人通りのない雨の道を、旧城下町へ入って行った。白鷺城は、遠目に見る天守閣の姿が空に浮きたって美しく、往復の汽車から眺めて通るひろ子の目にのこった。古い濠の水は青みどろに覆われていた。濠端の古い柳が、しずかに雨にもまれている。一つの橋をわたった。河に添った横通りの方に水が出ていて、女が番傘をさし、高く裾をかかげて、ザブ、ザブあちら向きに通ってゆく。一行は、水の出ていない方の通りを真直にゆき、二つばかり角を折れて、狭い通りにある一軒のしもたやの土間に入った。
 土間まで入ってみれば、上り端の畳に衝立があったりして、人を泊める家らしい。通りすがりの外見では、それらしい様子がうかがわれず荒廃のあらわれたなみの家なのであった。先着した三人の若い復員兵が、濡れた皮革の匂いをさせながら、上り口いっぱいになって靴をぬぎかけている。
 ひろ子らのとおされたのは裏二階の六畳であった。日頃は家族の誰か若い女の室となっているらしかった。友禅メリンスの覆いのかかった鏡台があった。その上に白粉の箱が出したままである。古びた三尺の縁側の外は手摺で、そこに迫って裏の篠笹山が見上げられた。番小屋のようなものが、輪郭の柔かなその頂に建てられている。
 狭い裏梯子から、風呂場やかわやに行くようになっていた。その裏梯子に雨洩りがしていたし厠への廊下は、しぶきをとばして雨が落ちかかっている。階下には、様々の年齢の多勢の家族が格別客に気がねするでもなく暮しているらしかった。
 姫路という町の、破れ屋のようになった宿やに泊る端目になったことに、興をもってひろ子はあたりを眺めた。その日は、十月九日であった。きょうあたり網走の刑務所を出たとしても、重吉が四五日かかって東京へ着くまでには、まさか自分も帰りついていられるであろう。その安心が一つあった。東北本線は、山陽線とちがって、被害をうけていない、それも、ひろ子を安堵させた。リュックの中には一升五合ばかり米がある。これがまた更にひろ子の気を楽にさせるのであった。
 次々とこんな故障を征服して、一歩一歩、東京へ向って近づいてゆく。そのことは、却って、ひろ子の心を鎮める作用があった。網走から重吉も一人で、不便にあいながら、その困難を克服しながら東京へ向って来ている。二人は東京の家で逢う。ひろ子は平静にその瞬間を想うことが出来なかった。平静にそれまでの一日一日を待ちこすことも出来にくかった。もし、汽車が一夜ですーっと自分を東京まで運んでしまったとしたら、ひろ子は、重吉が来る迄の時間を、どうして過したらよかったろう。じっとしていられず青森まで出かけ、さて、そこでゆきちがったりしたら。――
 新しい故障、新しい道づれ。それらは、ひろ子の精神を、当面の必要のために落付かせ、ひきしめた。一つ一つ、こういう段どりを重ねて、東京。そして重吉というひろ子にとっての絶頂に達する。一つ一つ過程の曲折を、入念に力いっぱいに経てゆくこと、それこそひろ子にとって、十余年の忍耐のうち、身も心も傾けつくしてうたおうとする歓びのうたに、ふさわしい序曲の展開と感じられるのであった。
 ひろ子の一行が案内された当座しずまっていた隣室が、自然な騒々しさをとり戻した。隣室には、裏の縁側まで荷物をひろげて、朝鮮から復員した五人の兵士たちが降りこめられていた。もう一室、表側の室の復員兵たちと、ゆき来していて、なかに一人おっつぁん、おっつぁんと皆から呼ばれる、高声の慷慨家が交っていた。
 ひろ子らがつくと間もなく、割烹かっぽう服のかみさんが上って来た。宿帳をつけるでもなかった。
「ほんに、屋根の下にいるだけましと思っていただきます。御布団も何も疎開してしもうて、久しゅう廃業しとりますのに、皆さん、難儀なさかい、とめるだけ泊めえ、おっしゃりまして――」
 三人分の米を出しあい、かみさんはそれをもっておりて行った。新しい道づれの持っていた大きいボール箱には、ひろ子の口に珍しい松茸がつまっていた。
「きょう中に大阪へつく予定だったんで、米をもっていません、すみませんが……あした何とかしますから……」
 岡山から乗ったその男の松だけが、お菜になって出た。
 膳が運ばれたとき、新しいつれは、
「どうです、一口」
 そう云いながら立って床の間のスーツ・ケースをあけた。
「一口って――あるんですか」
 支店長が、きらいでもなさそうに、そっちを見た。
「ありますとも。――私は、人の機嫌をとる商売でしてね」
 アルコールの壜を出した。それを注いで水をわった。
「案外いいですよ、さっぱりして」
 支店長は、うたがわしそうに小コップをとりあげ、日本酒ののみかたで、チビリと流し込んだ。
「何や……こう……えろうカーッとしますなあ」
「そうですか、馴れるといいもんだがな」
 一方は、ブランデーをのむように、パッと口の中へあけるようにのんだ。
「――奥さんいかがです」
「私は無調法なんです、本当に駄目」
 新しい道づれは、名を云えば大抵のものは知っているらしい大阪のキャバレーの持ち主であった。ひろ子は、文楽以外に大阪をよく知らず、そのキャバレーがどんなに大規模なのかも知らなかった。慶大かどこかを出たその男は、惰勢とか卑俗とかいう字句をつかって自分の商売を客観的に、時には自嘲的に語りながら、やはりとことんのところではそれにひかれ、そういう面での敏腕をたのしんでもいるらしかった。
 表の三畳間に、一人永逗留の女客がいた。ひろ子は、そのひとの布団に入れて貰って、朝まで熟睡した。
 部屋へ帰って見て、ひろ子は思わず笑い出した。
 一枚のきたない掛布団をしき、二人の男が、行儀よく並んで仰向いて、パチパチ天井を見ている。上に一枚かかっているのも薄い掛布団だが、それは二人にかかるように横にしてあった。小柄な支店長の方はまだよかった。けれども、背のぐっと高いキャバレーの主人のやせた両脛は、白いズボン下を見せて殆んどむき出しになっていた。
「お寒かったでしょう、それじゃあ」
「いや、なに」
 そういうものの、二人ながらそれぞれに閉口していることは一目瞭然であった。
 又米を出しあって朝飯をして貰った。終ると男二人は前後して、降ったりやんだりの雨の中を駅まで様子みに行った。
 一人になった部屋でひろ子は、くつろいだ。そして、きょうは十月十日だ、と思った。無期懲役だった重吉は自分の前にひらかれる扉の間を、どんな思いで通るだろう。自由になって、初めて踏む土は、重吉の草履の底からどんな工合にその心臓へ伝わることだろう。小一年監禁生活をさせられて急に外へ出たとき地べたが足の裏になじまなかった異様な感じを、ひろ子は思いおこした。そして、看守というとものつかない一から十までの行動もその伸び伸びさが特別な感じであった。すべては重吉にとって新しく、世間そのものが十余年そこから生活を遮断されていた重吉にとっては新しいのだ。ひろ子には、その亢奮と、自覚するよりも大きい重吉の疲労とが、手にとるようにわかった。いのちに漲り、危険な疲れを潜め、而も一点曇りなき頭をあげて、重吉は東京へ帰って来る。
 ――帰って来る重吉は、ひろ子のところへ帰ってくる。――それにちがいないのだけれど――ひろ子は隣室の退屈した兵士たちが、代る代る裏廊下へ出て、空模様を見ては天候に悪態をついているのをききながら考えるのであった。ひろ子が、東京へ、重吉のところへと帰ってゆくこころもちとは、どこかちがうところがあり、その相異は決定的な相異であると思えた。今東京への途中にいてひろ子の念頭にあるのは重吉ばかりであった。重吉のことだけ思いつめて行動していれば、ひろ子にとって必要な生活の諸部面は、それにつれて拓けひろがって来た。重吉は、東京へ、ひろ子のところへと、いそぐ跫音がきこえるように帰りつつあるにしても、ひろ子は自分の存在が、重吉がそれに向って帰って来つつあるもの全体の中の核の一つとでも云うようなものであると考えた。
 これまでの十幾年の生活を思ってみれば、それは明かだった。ひろ子は、重吉というものなしに、自分のその間の生きかたを考えることは不可能であった。しかし、重吉はひろ子というものがいようといなかろうと、本質において、決してちがった生きようをする人間ではなかった。ひろ子は、これまでの平坦ならざる長い月日の間に、一度ならずそれを痛感した。
 例えば七年前、ひろ子はプロレタリア文学運動に参加したという理由で、起訴された。三年の懲役、五年の執行猶予が言い渡された。そのとき、ひろ子は文学にある階級性を最後まで主張しきれなかった。重吉は、自分の公判準備のとき、ひろ子に関する書類をすっかり読んだ。そして不自由な手紙の中で、数通に亙ってその批評をした。ひろ子が、どの点では譲歩しすぎている、どの点では、健気けなげに理性を防衛しようと努力している、と。そのとき、ひろ子は学んだ。ひろ子にとって最小限だったそれらの譲歩は、重吉としてみれば、妻としてのひろ子に寛容し得る最も大きい限度に近いものであったのだ、ということを。
 ひろ子に対する重吉の寛容、堪忍づよさは、ひろ子なしではやってゆけない重吉だからそうなのではなかった。全くその反対であった。重吉はひろ子なしでもやってゆけるが、ひろ子のまともな生きかたにとって重吉は不可欠である。それを重吉が知りつくしているからのことである。そして、ひろ子との関係をそのように血肉のものとして理解しているのは、重吉の愛によるのであった。
 隣室の兵たいは、あーあ、と退屈のやりどころない伸びをして、
「チェッ! 底ぬけでやがら」
 舌うちした。
「きょうも、涙の雨がふる、か」
「冗談じゃねえよ。あの思いで遙々朝鮮くんだりから還って来てよ、内地へついてっと出来るかと思いゃ、大阪を目の前に見て足どめだ。二日だぜ、もう!」
 むきになって云っているおっさんの声をききながら、ひろ子は、熱心に思いつづけた。ひろ子が、きょうこんなよろこびで二人の暮しを想うことが出来る、その可能を、あのとき、この折と、根気づよく導き出しながら困難な永い歳月を通って来たのは、何のおかげによるのだろう。それほどひろ子の愛は常に深いおもんぱかりに充ち、一本だちで、歴史の発展を見ぬいたものであったろうか。知らないうちに重吉が手をとって、いくつかの暗礁をこさせて来てくれていた。
 ひろ子は、東京ではじめて重吉にあうとき、自分として第一に云うべき言葉は、彼の永年の辛苦に対する心からのねぎらいと、同じ心からの感謝であると思った。二人でここまで生きて来られたことに対して。
 いきなり隣の部屋で、バタンと畳にぶっ倒れる音がした。
「大阪じゃ、家族の居どころさえわかっちゃいねえ。――俺あ、戦争には愛想もくそもつきはてたぞ」
「…………」
「どうだ無理かよ。――無理じゃあるめえ」
「うん」
「貴様らあ、まだ若いからいいさ。俺あじき五十だぜ、考えてみろ。ぶっ殺されたってもう二度と戦争なんぞへ出てやるもんか」
「もう戦争は、しねえことになったんだとよ」
「ふん」
 そうなったのが、おそすぎるのをさも軽蔑するように、おっさんは鼻であしらった。
 考え耽り、或は隣室の話声に耳をかし、ひろ子が時のたつのを忘れていたところへ第一建物会社の若い者が、使に来た。キャバレーの主人は、岡山までの汽車があるうち逆行することにしたから、スーツ・ケースをわたしてくれ。松だけは、のこしておくからよいように、というのであった。
 その使いが去って、ひろ子は荒れた宿にまた一人のこった。障子をあけて手摺ごしに見ていると、裏の篠笹山に、薄すり日が照って来て、どこか見えない屋根のあっちで、鳶が舞いながら澄んだ声で鳴くのがきこえた。うすら日に白く光る両脚が段々まばらになり、鳶は高く舞い鳴き、そのまま晴れるのかと思う間もなく風立って、篠笹山にさーっと音を立てて雨がかかって来る。その眺めには、変化があった。
 肌寒くなって、ひろ子はリュックから羽織を出してセルに重ねた。そこへ、素早い道づれにおき去られた支店長が、失望の表情で帰って来た。
「困ったことになりましたな、どうも」
 入るなり云った。
「今のところ恢復の見込みは全然ないんだそうです。明石から先はいいんだそうだが、そこまでが駄目なんです。もとだったら徹夜をかけて四五日で直したところを、今は何しろ人を動かす米がない、酒がない、資材がないので、まるで見とおしも立たんそうです――弱りましたなあ」
 支店長は大阪府下の家族のところから電報が来て帰る途中なのであった。広島へ引かえすにしても、岡山までの汽車さえ、キャバレー主人の乗ったのが最後で不通になってしまった。
「明石まで何とかしてゆけばいいんですね」
「そうどす、明朝トラックを心配して貰うことにしました。もし何やったら、おとなりの兵たいさんがたをのせて上げてもよろしいから。――そのトラックが、果して明石まで行けるやどうやしら。加古川辺が大浸水だそうです」
 いよいよとなれば、途中で泊りながら明石まで歩くしかないとなった。それにしても天候が不安定であった。晴れたり降ったりしていた雨は夜に入って、本降りになって来た。その中を、昼間の若い者が支店長宅からと云って迎えに来た。
「おさしつかえなかったら、今晩はお泊りやすようにということであります」
 ともかく、と云って伴れが出て行ってしばらくすると、停電になった。真暗闇で坐っている耳に、裏の篠笹山をそよがして横なぐりの豪雨が降りかかるのがきこえ、はげしくガラス戸が鳴った。部屋の中に雨洩りがはじまった。畳におちる滴の重い柔かい音がする。ややしばらくして、階段をのぼって来る影法師を大きくうしろの壁に写しながら、かみさんが燈明皿をもって来た。そして、どの部屋へもいくらか間接の明りが行くように、廊下の本箱の上にそれをおいた。ひろ子の部屋の雨もりに、大盥がもちこまれた。
 ひろ子は、また昨夜の女客の室へ入れてもらった。同じ布団の中で自分の鼻に馴れない化粧料の匂いを感じながらうとうとしかけると、この天井からも雨がもりはじめた。
「まあ、どないしましょう! 眠られしやへんわ」
「大丈夫よ。この雨では、伴れの方、帰らないでしょうから自分のところへ行きますから。そっち側へずっとよって、布団の端を折ればおねられになりますよ」
「そうどっしゃろか」
「すこしなんですもの、まだ……」
 横なぐりの豪雨はいくらかしずまった。が、大盥にしたたる雨洩りは、暗い室の中で繁くきこえている。ひろ子は、足さぐりで畳のしめっていない床の間よりの一隅を見つけた。廊下に出してあった布団をもって来て、そこにのべた。
 ほかの部屋では、早い宵の口から眠れもせず、廊下に向った唐紙をあけて燈明の灯の暗い明るみの中に寝そべりながら喋っている。やがて、隣室の復員兵の一人が唄をうたいはじめた。おそらく頭の下に両手をかって仰向き、膝立てした脚を重ねて、朝鮮の兵舎の草原でもそうやって唄ったのだろう。今雨もりのする、列車不通の姫路の宿の暗がりで、その男は、次から次へと、いろいろの唄をうたった。レコード覚えの流行唄ではなくて、何々音頭、何々甚句という種類の唄である。
 廊下の燈明の、弱い黄色い光が襖の立て合わせから、ひろ子の布団の裾にさしこんでいる。たいして声がいいというのではなかったが、唄に心をいれて唄っているその気分が、聴くものをうるさがらせず、ひきつけた。おっつぁんがときどき、陽気に景気づけようとして、手拍子を入れたり、口三味線で合の手をいれたりしている。佐渡おけさのときは、五人の一行がみんなで唄った。
「――これに替歌があるんだぜ、知ってるかい」
 そう云って、また、その男が一人で、別のうたを唄った。一時間の上、そうやってうたっていた。兵隊らしい猥褻わいせつなうたはひとつも出なかった。ひろ子は、うたの終らないうちに眠ってしまった。

        十七

 きょうこそ、どうしてもここを出発する。そう思って、ひろ子は十一日の七時前に床をはなれ、布団を片づけた。二階の廊下から見ると、豪雨の翌朝らしい秋空が、あおく篠笹山の上に輝いた。しかし、空模様は不安で、西の方には煤色の雲がよどんでいる。
「さあ、きょうは出かけるぞ」
 隣室の一行も、金具の音を立てて荷物のしまつを始めている。
「おい、早く飯にしてくれるように、おばさんに云って来い」
 顔洗いのついでに、ひろ子は、東京までの弁当も勘定に入れた分量の米をもって下りた。入口から細長く土間のつづいた関西風の台所に、宿の嫁さんと娘とが素人めいたとりなしで働いている。小さなかまどで、小さな釜で、一行ずつの飯を別々にたいているのであった。
 けさ、出発することを話し、食事も早くするようにたのんで、ひろ子は室に戻った。そして、リュックの中を整理しているところへ、支店長が、艶のいい顔色で帰って来た。
「やあ、どうも、昨夜は失礼しました。私はおかげさんで、立派な夜具にねかせてもらってぐっすり眠って大助りしましたが……」
 まだそこに置かれている大盥に目をとめた。
「こんなに洩ったんですか」
「ええ。夜じゅう、電燈なしだったし。あっちへ泊っていらして、却ってこちらもよかったわ。ところで、トラック、どういう工合です?」
「ああ、トラック」
 なぜか、支店長はかすかにあわてた。
「我々が店まで行けば、すぐ何とかすることになっています」
「じゃあ、早く御飯たべなくちゃ」
「ああ、私はもうすんで来たですよ」
「それじゃ、なお大変だわ。下じゃ、一部屋ずつの御飯を別々にたいている始末なんですから……」
 台所へ下りて見た。五つばかりの孫娘がおき出して、甘えながら何かせびっている。野菜売りの女が来ている。その土間の隅で、ひろ子の分の飯はやっとふきはじめたところである。
「御飯が出来るまでに、すっかり仕度してしまいましょう」
 三十分ばかりすると、若い者が、支店長の荷物とひろ子のリュックとを自転車にのせて店まで運んだ。
 ひろ子は自分で、炊き上った飯を釜ごと二階へもち上った。急いで、食べ、あつい飯を二つの茶碗の間でころがし丸めて、握り飯をこしらえた。
 勘定をはらって、雨こそあがったが、まだ十分晴天にもなり切っていない往来へ出た。橋の手前の横通りの出水はもうひいていた。白鷺城の濠に沿ってた大通りは、今朝も森閑として、長雨に洗い出されたかたい小石がちのひろい路が、清潔に寂しく通っている。
 第一建物の店で、トラックの心配が出来るというのも、明石の手前が通れないというのなら現実性のないことである。結局、十一時に姫路を出て加古川までゆく汽車にのることとなった。
 加古川から明石まで歩くとすれば七里あった。
「どうです、奥さんに七里歩けますか」
「七里はとても駄目ですね。――けれどもね、あなたは大阪までだから、明石まで七里、元気を出して一日にお歩けなさるでしょう。先へ行って下すって本当に結構です。おかげさまでどんなにかたすかったのですもの」
 列車がひどくおくれているのに気をもみ、しきりに線路の前方をのぞきながら、善良な支店長は、更に一層明石までの道のりが、ひろ子に歩けそうもないことを苦にした。
「折角、愉快に道づれになってもろうて、途中で妙なことせたら、寝ざめ悪うてかないませんよ」
「そういう風にお思いにならないでいいのよ。折角気もちよく道づれになったんだから、これから先は私の足相応に、あなたはあなたの足の力で、お帰りになっていいんですよ。全くそうよ。愉快な道づれが、しまいにお互の荷厄介になるのは、こういうとき、つまらない遠慮でやりかたを間違えるからですよ」

 加古川の駅でみんな汽車からおろされた。不安な顔つきを揃えて改札口を流れ出た旅客の群は駅前の広場にトラックが二台待機しているのを見て、歓声をあげた。
「まあ、よかったこと!」
 ひろ子も、しんからうれしかった。明石まで一人で歩くということは、云うよりもはるかに辛いことなのであった。
 二台ともマル通のトラックで、加古川の青年たちが、旅客整理に出ていた。三列で十人。三十人一組一台のトラックに割当てて、二円ずつの料金をあつめた。秩序のあるそのやりかたも、皆を満足させた。
「のこった方は、すぐひきかえしでお送りします」
 ひろ子らは、二台目のトラックにのった。加古川の駅前は、船が通るほどの浸水だったと姫路にはつたわっている。それほど水の出た気配もない古い宿場町をぬけて、トラックは左右に明るく展望のある一本の国道へ出た。これで、明石まで行けるのかと、料金のやすさを怪訝けげんに思い浮べているとき、トラックは、急に速力をおとして、畑の横に停った。
「どなたも、このトラックはここまでです。先はまた別に連絡があります」
「なーんだ」
 がっかりして云うものがある。
「何丁ぐらい歩くのかね」
「二三町です、橋が一つ落ちているだけなんですから」
 先の連絡におくれまいとして、旅客たちは我がちにいそいで歩きはじめた。小さいが、流れの急な川のところで、石橋が落ちていた。棒杙と、横板、俵などで、あぶなっかしく一時の足がかりが出来ている。一区ぎりずつ区切って、こちらからゆくものが渡り、あちらからの通行人がわたる仕組みにしてある。郵便配達が、赤塗の自転車をかついで、用心しながら、こちらへこして来た。ジープが二台むこう側に止って、車と車との間で声高に喋りながら、種々様々の風体をし、しかもどれ一つとしてまとまった服装をしているもののない日本人が、ありとあらゆる荷物をかついで、落ちた橋をぎごちなくわたって往復している光景を眺めている。
 次のトラック連絡は、やや混乱して、四人一列のところだの、三人一列のところだのが出来た。整理員が、ここでは不馴れなのであった。
 ひろ子は、踏台としておかれている空箱からトラックの床に片膝をつき、やっと這い上った。街道のこのあたりへかかると、ぽつぽつ遠い路を歩いて来たらしい人の群にすれちがいはじめた。ひろ子が、立って揺られているすぐ前に、運転手台の屋根にむこう向きに並んで、ぴったりより添って立っている若い一組があった。女は、ふわふわと髪の房をたらし、軽い水色の絹糸のスウェターに、踵の高い、旅行向きでないエナメル靴をはいている。無帽の青年の方は、新しい秋の背広で、二人でおもやいらしいスーツ・ケースを足許においていた。いかにもあやうげな一組ではあるけれど、若い二人は、大勢かたまった人群の真中で、全く自分たちきりのこころもちでいる。向い風がひどく、青年は自分の上衣をぬいで女の肩にかけてやった。娘は片手で、喉の前にその上着を抑え、青年は娘の腰に腕をまわし、二人きりの世界のようにがんこに前方だけ見て揺れてゆく。ひろ子は、トラックの上で小さいふくさを出し、髪の毛が吹きちらされる頭を結えた。
 このトラック道中は僅か十分足らずで、道路崩壊のためにまた途切れた。二里たっぷり歩かなければ、次の連絡がない。そう分って、旅客たちは不機嫌になった。
「あれっくらい、二日もありゃ直せちまうじゃないか、馬鹿馬鹿しい。土台、不親切だ。乗せるときにゃ、まるで先のことを教えないで、乗せときやがって」
 それはひろ子も同感した。先のことを決してあるとおりみんなに知らせない。おさきまっくらのまま、目前の一寸きざみで釣ってひっぱってゆく。この街道のトラック連絡がそうであるどころか、到るところの役所、軍隊、監獄、すべてが同じやりかたでやられている。日本人は、この日本流のやりかたで、各自の運命のどたんばまでひきずられて来たのであった。ひろ子は、心に憤りを感じた。
 支店長は、父子づれの荷車挽きをつらまえ、一ケ十円ずつで荷物を載せさせた。土地のものが徒歩連絡者の荷運びに稼いでいるのであった。
 姫路をはなれれば離れるほど、空は本極りの秋晴れとなった。彼等が後にして来た姫路あたりにだけ、特別しまりのない雨袋が天にかかっていたのかと思う快晴になった。一筋の国道はゆるやかな勾配で上り、また下って秋の日に輝やき、歩いてゆく男たちの白シャツをその道の上に目立たせた。土埃は雨に洗い流され、影はくっきりと濃く、かたい道路の上にある。
 ひろ子は、女学生靴をはいた自分の歩幅のぎりぎりで歩いた。
「奥さん、その荷車のうしろへつらまって歩く方がいいですよ。――はなすと、ズッとおくれてしまいますぜ」
 明石が近くなると思うにつれ、従って彼の家が間近くなるにつれ、支店長は熱心にひろ子を督励した。荷物をのせた一かたまりの人々が、その一台の荷車のぐるりを囲んで歩いた。そういう群が、前にもうしろにも、やって来る。あっちからこちらへ来る通行人は益々殖え、そこにも、ひろ子のように荷車を中心とするかたまりが歩いているのである。
「日に、よっぽどの稼ぎだろうなあ、この塩梅だと」
 鉢巻をした荷車ひきは、格別汗もかかず、ゆるい下りで足早になりながら、用心ぶかく、
「さあな」
と云った。
「なんせ、こんだけの人数が歩くんだからね……」
 体力に合わせては速く、大股に日向を歩きすぎて、ひろ子は胸が苦しくなって来た。もうついて歩けないと思ったとき、荷車ひきは、街道ばたへよって行って、そこへ梶をおろした。幾台もの荷車がとまって、人がたかり、荷の上げおろしをしていた。半丁ほど先に、トラックを待っている長いひろがった列があった。
「ここまでなんか」
 意外そうに支店長がきいた。
「あこからトラックが出る」
「そうか、なるほどね、これが『三里』だったか」
 実際に歩いたのは一里あるかなしの距離であった。しかし、ひろ子にとっては、それが半里だろうと、三里だろうと、もうそれより先は歩かないでいい、というのがありがたかった。
「さあ、もうこんどのったら明石までバタバタせんでええのやから楽です」
 ここでトラックを待っている列は、妙な列で、一つもしまりがなかった。七人も八人も一列に押し並んでいるところがあるかと思うと、三四人パラパラと荷物の上にしゃがんで梨をかじったりしている。数台のトラックが真面目に往復しなければ、さばけそうもない人数であった。だが、人々は道端にもう一時間以上、そうやって只待っているのであった。
 時々、むこうから復員兵を満載した大型トラックが疾走して来た。ぎっしりつまって四角く突立ってのっている若い兵士たちは、道ばたにだらしなく動くあてのない列をつくって待っているひろ子らの群とすれちがうとき、ワーと賑やかに声をあげ、通過して行った。そういうトラックはどれもが、おしげなくスピードを出しているのであった。忽ち小さくなってゆく後かげを見送りながら、
「チェッ!」
 羨望と嫉妬で舌うちする男があった。
「――あいつら、みんな朝鮮人なんだぜ」
 朝鮮の若者たちは、戦争の間志願という名目で、軍務を強制された。志願しない若者の親たちは投獄されたりした。そういう話はひろ子もきいていた。今、彼等のトラックが、どうしてフール・スピードではしらずにいられよう! この秋晴れの日に。その故郷へ向う日本の道の上を。
 午後の影が、斜めに街道の上に落ちはじめた。トラックはまだ来ない。それなのに、見ているとずっとむこうの方で停って、そこから人をのせ、そのまま折返してしまうトラックなどがある。そういう無秩序全体の中に、何かさっぱりしないものがあった。だらしがないというばかりでなく、阪神地方の大都市周辺らしい、何かさっぱりしないものがある。しかも、根気づよく列をつくっている数百人の旅客たちは、トラックが何故こんなにおくれているのか、一つの理由も知ることが出来ずにいるのであった。
 支店長が、腕時計をみては、大阪から支線へのりかえる時間を気にしはじめた。九時半までに大阪駅へつかなければ、きょう、ここまで辿りついたことが意味をなさなかった。
「待っていても、どうもきりがなさそうですな。あなた、すんませんが、私の荷物をおたのみしますぜ」
 列をはなれて支店長が、荷馬車のたまっている後方へ行った。そのとき、ひろ子は、街道の上に異様な列を発見した。それは、顔も土気色、服も青土色の、小人の一隊であった。まるで、地べたから湧いて出たように、ひろ子らの横にあらわれたその小人の一隊は、どれも十二三から十四五どまりの少年たちである。頭をこす大荷物を細い背中にくくりつけて、太い綱をへこんだ子供の胸元でぶっちがえ、重さにひしがれて、両腕をチンパンジーのように垂らして体の前でゆすぶりながら、本当によち、よち、歩いて来る。どうして、こんな体不相応な大荷物を皆が皆かついでいるのだろう。明らかにこの土気色の小人群は、その荷物を背負って明石から何里かの道をここまで歩いてやって来たのだ。困憊こんぱいが、同じようにやつれ、同じように瞳のどろんとした子供の顔に漲っている、見るも薄気味わるいこの小人たちが、その上みんな揃って軍服を着せられている、そのことは、トラックを待っている人群を愕かした。
「なんだい、こりゃ!」
 わざわざ列をはなれてそばへよってゆく男たちもあった。
 すると、白開襟シャツに国防色のズボン、巻ゲートルの三十がらみの大柄の男が、あっち向きにひろ子のついわきに佇んでいたのが、不意に、大声をあげて、板でも叩くように二言三言まるで意味のわからないことを叫んだ。そして、手にもっている竹のステッキをあげて、一人一人と土色の小人の背中の荷をたたいた。荷をたたかれた泥きのこのような小人は、鞭を感じた驢馬の仔のように歩調をはやめ、ほとんど駈け出したそうにした。が、途方もない荷は彼等の足に重しを加えている。小人らはチンパンジーの腕を一層ふりたくり、首だけを前にのばし、その伸した垢だらけの細頸に太くうねうねと静脈のふくれ出ているのがひろ子の目にとまった。
 数百、千余の視線が、このおそろしい小人の一隊の上に注がれた。あとからあとから同じような二列縦隊がつづいた。やっと列が行きすぎたとき、
「――少年兵だ」
 一言そう呟く声がした。
 ひろ子は、体が震え出すような気がした。少年兵。――少年兵。どうぞ一人も途中で死ぬことがないように。
 爽やかな午後の街道を暫く暗くして小人群が通りすぎたとき、支店長は、全くその光景には心付かなかったらしく、交渉に亢奮した顔色で列に戻って来た。
「奥さん、早うおいで。馬車がでけましたよ。これで明石まで行きましょう、さ!」
 リュックをかたげてひろ子も小走りに後方へ行った。もうあらかた荷物や人が積まれている。ひろ子は、車輪の軸に靴をかけ、ようようよじのぼって箱のようなものの上へ腰をおろした。六十前後の母親と若い娘が、並んでかけた。支配人は、荷車の前部へのった。
「のれましたか、折角ここまで来て落ちたらあきまへんで!」
 ともかく乗りもの、動いてゆけるものを捕えて、機嫌のよくなった人達がみんな笑った。
 人と荷物をもりあげて、荷馬車はのろのろ動き出し、ちっとも変化のない列のわきを通った。
「ほう、見い! これやもの、トラックは来ん筈じゃ」
 五六丁行った先に、おそらく二倍も三倍もの料金をはらう人たちだろう、一団のかたまりがあって、今、小型トラックが来て、その人たちを運ぼうとしているところなのであった。
「列に待っとったら、夜になりよるで」
 一日の稼ぎである幾往復かをしてその荷馬車は、帰り車であった。馬は首をたれ、折々尻尾で蠅を追いのんきな運びで進んだ。徒歩でゆく馬子は、それをせかせる気もちもない。ゆっくり六時までには明石につける。人々は、すっかりそれで安堵しているのであった。
 姫路を出てから、一日じゅうトラックをよじのぼり、這い下り、荷車にすがっていそいで歩いたひろ子は子供のように疲れた両脚をぶら下げて、荷馬車にゆられて行った。
 国道の両側に、すき透るような秋の西日に照らされてのびやかな播州平野がひろがっていた。遠く西に六甲あたりかと思われる山並が浮んでいる。空に軽い白雲が綺麗に漂っていて、荷馬車にゆられながらそれを眺めているひろ子の心をしずめた。
 こういう秋の午後、思いもかけない播州平野の国道を、荷馬車にのって、かたりことりと東へ向って道中する。重吉に向って、進んでゆく。ひろ子には、その時代おくれののろささえ快適に感じられた。ひろ子が住みなれている関東平野、東北本線で見なれている那須野あたりの原野とちがって、播州の平野には、独特の抑揚があった。一面耕されているし、耕されている畑土は柔かく軽そうで、それは遠望する阪神の山々の嶺が、高く鋭いのにかかわらず、どこか軽々と夕空に聳えている、その風光と調和している。ところどころにキラリと閃く浅い湖のような水面もある。
 その荷馬車に荷物だけのせて、自分たちは国道を歩いて来る二人の若者があった。背広の上衣をぬいで腕にかけ、なれて来たら、口笛をふきながら歩いている。
 二人とも元気な、歯の美しい若者同士である。ちょいちょい冗談を云い合って笑う。彼等の言葉は朝鮮の言葉であった。ひろ子が、この旅の往き来で見かけた朝鮮人たちは、すべて西へ西へ、海峡へ海峡へ、と動いていた。だがこの若者たちは、東へ向っている。
 若者たちにはうれしいことが行手に待っているらしく、殆どはしゃぐ仔犬のようにふざけたり追っかけっこのようなことをしたりして、あいだには歌をうたい、しかし車からは離れずついて来る。
 微風にかれる秋陽は、播州の山々と、畑、小さい町とそこの樹木を金色にとかし、荷馬車は、かたり、ことりと一筋の国道の上を、目的地に向って、動いてゆく。かた、ことと鳴る轍の音は不思議に若者たちの陽気さと調和した。そしてひろ子の心に充ち溢れる様々の思いに節を合わせた。この国道を、こうして運ばれることは、一生のうちに、もう二度とはないことであろう。今すぎてゆく小さな町の生垣。明石の松林の彼方に赤錆て立っている大工場の廃墟。それらをひろ子は消されない感銘をもって眺めた。日本じゅうが、こうして動きつつある。ひろ子は痛切にそのことを感じるのであった。

底本:「宮本百合子全集 第六巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十巻」河出書房
   1952(昭和27)年6月発行
初出:第1〜11節「新日本文学」
   1946(昭和21)年3月創刊号(第1節)
            4月第二号(第2〜5節)
            10月第五号(第6〜11節)
   第16・17節「潮流」(「国道」と題して発表)
   1947(昭和22)年1月号
   第1〜17節「播州平野」河出書房
   1947(昭和22)年4月
※「B29」の「29」は縦中横。
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年6月25日作成
2003年7月5日修正
青空文庫作成ファイル:
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