一

 大きな実験用テーブルの上には、大小無数の試験管、ガラス棒のつっこまれたままのビーカア。フラスコ。大さの順に並んだふたつきのガラス容器などがのせられている。何という名か、そして何に使われるものかわからないガラスのくねった長いパイプが上の棚から下っている。透明なかげを投げあっているガラスどもの上に、十月下旬の午後の光線がさしていた。武蔵野の雑木林のなかに建てられている研究所は自然の深い静寂にかこまれていて、実験室の中には微かにガスの燃える音がしていた。一隅の凹んだところで、何かの薬物が煮られているのであった。
 ドアに近い実験用テーブルの端に、小さい電気コンロがのっていた。その上に、金網のきれぱしが置かれ、薄く切ったさつまいもが載せられている。まわりに、茶のみ茶碗、鮭カンの半分以上からになったの、手製のパンなどが、ひろげられている。
 静かな、すみとおった空気の中に、いもの焼ける匂いが微かに漂いはじめた。
「そろそろやけて来たらしいね」
「……もうすこうしね」
「そっちの、こげやしないか」
「そうかしら」
 実験用テーブルの端へもたれのある布張椅子をひきよせて、いものやけるのをのぞいているのは、重吉であった。親しい友達がもって来てくれた柄の大きすぎるホームスパンの古服を着て、ひろ子が彼の故郷からリュックに入れて背負って来た靴をはいて、いものやけるのを見ている。無期懲役で網走にやられていた重吉は、十二年ぶりで、十月十日に解放された。いが栗に刈られた重吉の髪は、まだ殆どのびていない。
 ひろ子は、元禄袖の羽織に、茶紬ちゃつむぎのもんぺをはいて、実験用の丸椅子にかけ、コンロの世話をやいていた。
「さあ、もうこれはよくってよ」
「――あまいねえ。ひろ子もたべて御覧」
「網走においもはあったこと?」
「あっちは、じゃがいもだ。農園刑務所だからね、囚人たちでつくっているんだ」
「あなたなんか和裁工でも、じゃがいもぐらいは、たっぷりあがれたの?」
「東京よりはよかったさ。――巣鴨のおしまい頃はひどかったなあ……これっぽっちの飯なんだから。二くち三くちで、もう終りさ」
 重吉は網走で、独居囚の労役として、和裁工であった。囚人たちが使ってぼろになったチョッキ、足袋たび、作業用手套てぶくろを糸と針とで修繕する仕事であった。朝の食事が終ると、夕飯が配られる迄、その間に僅かの休みが与えられるだけで、やかましい課程がきめられていた。日曜大祭日は、その労役が免除された。そういう日に、重吉たちは、限られた本をよむことが出来た。そのかわりに、その日は食事の量が減らされた。本のよめる日は必ず空腹でなければならなかった。労役免除の日は食餌を減らして、囚人たちが休日をたのしみすぎないようにする。それが、監獄法による善導の方法と考えられているのである。
 焼けたいもをとって、ひろ子もたべた。
「あら、本当に、このおいもは、特別おいしいわ」
「そうだろう?」
 おそい朝飯をすましてすぐ家を出かけ、この研究所に勤めている友達に、重吉の健康診断をしてもらいに来た。重吉とひろ子は、鮭のカンヅメとパンとをもって来た。友人の吉岡がおいもをあてがっておいて、室を出て行った。妻子を疎開させたから、研究所に寝泊りして自炊している吉岡は、自分が実験用の生きものにでもなっているように、隣室のベッドの下に泥だらけのものだの大根だのを押しこんで暮しているのであった。
「吉岡君、なかなかおそいね」
「送別会なんでしょう?――三十分や一時間かかるわ」
 白い上っぱりをはおった助手がドアをノックして入って来た。片隅で煮えている液体の状態を調べてから出て行った。その薬液は、きまった時間をおいて、慎重に観察されながら煮られなければならないものらしかった。
 礼儀正しく助手のひとが入って来て、自分の任務を果して出てゆくとき、ひろ子は、そのつど、ぼんやりしたはにかみを感じた。実験用テーブルの端におとなしくかたまって、たのしそうに、言葉すくなくいもの薄ぎれをやいている自分たち二人。それは、十月の明るい光線にガラスどもが光っている実験室の薬品くさい内部の光景として何でもないその一部分であるような、さりとて助手のひとが毎日見なれているあたりまえの情景であるとも云えなさそうな、はにかみを感じるのであった。
 いもがやけてから、ひろ子は、片隅の水道から水をくんで来て、やかんを電気コンロにかけた。一室に、生活にも必要なすべてがそろっている化学実験室のつくりは、ひろ子の興味をそそった。ひろ子は実験用テーブルをぐるりとまわって、仔細に千差万別の形をし、はり紙をつけられ、一見無雑作に、しかも極めて意味のある秩序をもって整理されているびんや試験管の林立を眺めた。
 重吉は、そうやって大テーブルのまわりを珍しそうにまわっているひろ子につれて、視線をうつした。そして、ひろ子がひとまわりして、もとの円い木椅子に戻って来たとき、重吉は、
「二人でいると、ちっとも退屈じゃないねえ」
 そう云った。
 ひろ子は、重吉の顔を見た。重吉の眼は柔かく、睫毛まつげに美しいかげりがある。ひろ子は、思わずまだ立ったままでいた自分の位置で借り着の重吉の大きい肩に手をおいた。重吉が感じたままを云った素朴な表現は、今二人でこうしていると何とはなしのたのしさにつれ、彼の十二年の獄中生活はどんなに単調な、変化のない時間の連続であったかということを、まざまざとひろ子に告げたのであった。
「でも不思議ねえ、わたしたち一人で暮していなけりゃならなかったとき、退屈だとは思ってなかったでしょう」
「そりゃそうだ」
「わたしなんか寂しいということさえよくわからなかったぐらいだったわ」
 ひろ子の眼の裡を深く眺めて、やがて重吉が何か云おうとしたとき、
「やあ、どうも大変失礼しました」
 眉根の太い、小柄な吉岡が戻って来た。
「ここで養成された看護婦さんの巣立ちだもんだから、どうも手間どって」
 実験用テーブルの上の、つつましいピクニックのあとを見まわした。
「いもはどうでした。案外うまかったでしょう?」
「あまくて珍しかったですよ」
「そりゃよかった、あれは我々の農園産ですよ、職員がみんなで作ったんです」
 戦争が進んで、研究所員の生活不安がつのって来たとき、研究を継続するためにも吉岡たちが先頭にたって、広大な敷地のなかに農園をはじめたのであった。
「――よかったら拝見しましょうか」
「ええ」
 重吉は椅子から立ち上った。そして、すぐその場で背広の上着をぬいでしまった。
「診察はあっちなんじゃないのかしら――」
「ええ。レントゲンがあっちだから……」
「別の部屋へいらっしゃるのよ。――どうなさる?」
 ひろ子は重吉を見あげた。
「わたしも行きましょうか」
「いいよ、いいよ」
 気まりわるいような表情で、重吉はことわった。
「大丈夫さ、来なくたって……」
 重吉のことわる気分は、ひろ子につたわった。重吉は、自分の病気について、九年の間、只の一度も信頼出来る診断というものをうけることが出来なかった。刑務所の医者は、思想犯の患者を診るときには、その前にきまって附添の看守に向って念を押した。「どうだ、これは転向しているかね」と。だから重吉は、自分の努力で病勢を納めて来ているものの、本当には拘置所でわずらうようになった結核がどの程度のものなのか、正確に知らないも同然であった。もし余りよくなかったとき、いきなりその場でひろ子までを切なくさせたくない。ひとりでにその不安から重吉はことわるのだろう。
「じゃ、ここで待っているわ、どうぞごゆっくり」
 小柄な吉岡が、白い診察着の裾をひらひらさせ、スリッパアをならして長い廊下を出て行った。早でまわしに上着をぬいでいた重吉が、いくらか靴を曳き気味に、大きい、ゆっくりした歩調でそのわきを行く。
 ひろ子は、研究所の長廊下を段々遠ざかってゆく重吉の後をドアの前に佇んで永いこと見送っていた。
 重吉の、あの歩きつき。一歩一歩とゆっくり大きく、いくらか体を左右にゆする歩きつき。肩がゆすれるのは重吉だけの癖であった。けれども、ああいう足の運びかた、それはすべての独居囚がもっている歩きつきと云えた。日ごろ、足元の軽いひろ子でさえ、編笠をかぶり、編笠の内側に出ている編めのジャカ、ジャカに髪の根を気持わるくひきつられながら、女看守につきそわれて歩いたときは、やっぱりああいう工合に、のろく、重く、一歩一歩と歩いた。編笠が視線を遮って、うるさく陰気だからばかりではない。彼等がそういう歩きつきになるのは出来るだけ長く監房の外に出ている時間をもちたいという、我知らぬ渇望からであった。きまった通路を、きまった場所へ、きまった目的のために、きまった時間内にしか歩かせられない。一本の通路の、どっち側を歩くかということさえ歩く人間の気まかせにはさせられない歩行の間、特に独房にいるものは、自分の一歩、一歩を体じゅうで味い、歩くという珍しい大きい変化を神経の隅々にまで感受しようとする。本人たちが自覚しているよりも深いその欲望から、彼等はみんな外の世界にない独特ののろく重い足どりになって来るのであった。
 あの歩きつきで、細かい紺絣のあわせの着物と羽織とをきて、帽子のないいが栗頭に、前年の冬はいていたひろ子の手縫いの草色足袋をはき、外食券食堂で買った飯を新聞紙にぶちまけたのをたべたべ、重吉は一人で網走から東京まで帰って来た。同じ東北本線を、重吉は四ヵ月前、北海道弁の二人の看守の間にはさまれ、手錠をかけられ、青い作業服、地下足袋に、自分のトランクを背負って北へ向って行った。空腹で、看守がくれる煎大豆をたべて、水をのんだための下痢に苦しみながら手錠ははずされずに行った。十月十四日、十二年ぶりに東京の街をひとりで歩くことになった重吉は、一面の焼原で迷い、ひろ子が住んでいる弟の家のぐるりを二時間も迷ってやっと玄関に辿りついた。その朝、重吉は上野へついて真直に、昔、自分とひろ子とがはじめて一緒に暮した小さな二階家があった町の方角へと歩いた。二階家は上野から来て坂の上にある国民学校の建物が目じるしであった。出迎えに会えなかったその朝、自分のうちへ、ひろ子のいるところへ帰るという重吉の感情の中心に、くっきり浮んだのが小さい昔の家の入口の情景であったということを、ひろ子は感動なしに聴けなかった。
 たった二ヵ月足らずを二人で暮したその家から、十二年の間に一人でひろ子が移った家は、幾軒あったろう。移るたびに、ひろ子は細かく周囲の風景も描き、間どりを話し、スケッチの絵ハガキさえ重吉に送った。それらをみんな重吉はよく知っている筈であった。勿論、今、ひろ子が住んでいる弟の家も。町名、番地、隣組番号さえ重吉は知っている。その家に両親が暮していたとき、重吉も来たことさえある。だが、焼野原となった東京で、かえって来た重吉の心に、めじるしとして感じられたのは、昔の二階家であった。その家は、ひろ子の弟の家の北側が垣根一重のところまで焼けたとき、焼けて跡かた無くなっていた。
 自由になって、まだ十日余りしかたたない重吉のとりなし万端に、ひろ子のこころを動かしてやまないものがあった。
 十四日の朝、二人がやっと口をきけるようになったとき、重吉はひろ子に、
「どうだろう」
と相談した。
「みんなに一応挨拶した方がいいだろう?」
 その一つの家に、焼け出された知人の一家をはじめ三家族が暮していた。その知人と、裏の美術家が、十三日の夜十二時頃まで上野駅の出口の改札に立って、もしか重吉が来るかと待っていたひろ子の道づれをしてくれたりした。
「それは、その方がいいわ」
「紹介しておくれ」
 玄関わきの客室に、知人一家は暮している。ひろ子は、そこへ行って、
「昨晩はありがとうございました」
と云った。
「あんなにしてわざわざ来て頂いたりしたときには来なくて、わたしが待ちくたびれて腰ぬけになったら、かえって。――石田です」
 うしろに立っていた重吉を紹介した。重吉は、まだ帰って来た時のままのなりで、かさだかにそこの畳へ手をついて挨拶をした。
「石田です。――どうも永い留守の間はいろいろお世話様になりました」
 それは決して、ただ時間の上で永い留守をしていたという挨拶ではなかった。二度と還ることはなかったかもしれなかった者、生活の外におかれていたものが、今帰った、良人として妻のところへ、社会生活のごたごたの中へ戻って来た、その挨拶であった。戦争の中から、妻のところへ生きてかえることの出来た男たちも、何人か、こういう挨拶のしかたをしたことだろう。わきに膝をついて重吉の挨拶を見ていたひろ子は、のどにせきあげて来て、やっときこえるような声で、
「じゃ、また、のちほど、ね」
 重吉を立たせた。二つの手を独房の畳の上へは決してつかなかった重吉。そのために、例外のようにひどい判決をうけた重吉。その重吉が、急に世間並のしきたりの中に戻って来て、それをこんなに素直にうけとり、世話になるより、世話になられているという関係の知人にまで真心をもって、不器用に挨拶している。人の一生のうちにざらにある瞬間として感じてすぎることはひろ子にとっては不可能であった。
 今、吉岡が、じゃあ拝見しましょうか、と云ったとき、重吉はいきなり背広の上着をぬいでしまった。それも、重吉がただ熱心に診て貰おうと思っていたからのこと。それだけに重吉のいくらかとんちんかんなその動作のこころを解釈するこころもちがしなかった。
 吉岡純介は、重吉というよりは寧ろひろ子の親友の一人であった。結核専門で、そのためにひろ子は何度も重吉の体について相談して来た。一九四二年の夏、東京は六十八年ぶりとかの酷暑であった。前年の十二月九日、真珠湾攻撃の翌朝、そういう戦争に協力することを欲していない者と見られていた数百人の人々の一人として、ひろ子も捕えられ、珍しい暑い夏を、巣鴨の拘置所で暮した。皮膚の弱いひろ子は、全く通風のない、びっしょり汗にぬれた肌も浴衣もかわくということのない監房の生活で、毛穴一つ一つに、こまかい赤い汗もが出来た。医者は、その汗もに歯みがき粉をつけておけと、云った。しまいに掌、足のうら、唇のまわりだけのこして、全身がゆで小豆の中におっこちた人形のようになった。そして、監房の中で昏倒こんとうし、昏睡状態で家へ運ばれた。
 二日ほどして意識が恢復しはじめた。最初の短い覚醒の瞬間、ひろ子は奇体な、うれしいものを見た。それは、自分に向って心から笑っている吉岡の顔であった。吉岡が、特徴的に太い眉根をうごかして、浅黒い顔に白い歯を見せて笑いかけている。その顔が、丁度アヒルの卵ぐらいの大さに見えた。そんなに小さく、そんなに遠いところにあるのに、それは吉岡にまがうかたなく、実に鮮明に、美しく見えた。ひろ子は、うれしさに声をたてて笑った。拘置所の中で段々足もとがふらつき、耳が苦しく遠くなって来たとき、ひろ子はどんなに、ここに吉岡さえ来てくれたら、と思ったろう。その吉岡の顔が見えた。ほんとうにうれしい。――だが――再びくらくなる意識のうす明りの中で、ひろ子は全力をつくして考えた。――これは夢だ。どうせ夢にきまっている。うれしがったりしてはいけない。吉岡さんなんかいる筈はないんだもの……。
 そこからどの位時間が経ったのか、二度目にまた吉岡の顔が見えた。そのときは、もうあたりまえの大さになっていた。そして、
「どうです、吉岡ですよ。わかりますか」
 そういう声もきこえた。眼の水晶体が熱と血液の毒素のためにむくんで、ひどく凸レンズになっていたために、そんなに吉岡の顔も小さく見えたのであった。
 ひろ子は、死んだ自分が又生きられたことを、吉岡の骨折りときりはなして考えることが出来なかった。重吉はそのいきさつを知っていた。重吉の病気を吉岡に診せたがっているひろ子の気持も度々つたえられていた。
 十月十四日に帰って来たとき、重吉は決して健康人の顔色でなかった。それでも、昼飯をたべると、すぐ迎えに来ていた友人たちと遠い郊外へ出かけた。そこでは、もう活動が準備されていた。夕方おそくなって、そして、又道を間違えてひどく迷って疲れて帰って来た重吉に、ひろ子は、
「健康診断しましょうよ、ね。健康診断をちゃんとしなければ絶対に駄目よ」
 心痛に眉をよせて力説した。
「吉岡さんに診て貰いましょう。それからでなくちゃ、わたしたち、どう暮したらいいのか分らないみたいで……わかるでしょう?」
「そうしよう」
 それにつけても思いおこすという風で重吉は、
「――木暮の奴……」
と云った。木暮は、一九四四年頃どこかの刑務所から転任して巣鴨へ来た監獄医であった。病監での日常事で意見が衝突した重吉について、精神異状者という書類を裁判所へ出した。
「わたしはね、こんどこそ、本当にあなたを生かしたいと思って診てくれる人に診せたいの、いいでしょう?」
 十二年の間、重吉は彼を積極的に生かそうとする意志が一つもない環境の中で、猩紅熱しょうこうねつから腸結核、チフスと患って、死と抵抗して来た。今度は、どうだろう、と、重吉の無言の格闘を遠まきに見まもられている裡で、死なずに生きて出て来た。吉岡に診ましょうと云われて、いきなり上着をぬいだ重吉が、ひろ子には犇々ひしひしとわかった。重吉はかえって来てから、自分が感じている善戦し責任を果した満足と歓喜とを、彼におとらない程度まで実感し、慶賀にみたされているいくつかの心があることを日ごとに発見しつつある。それは妻であるひろ子ばかりのことではなかった。歴史の野蛮な留金がはずされて、くりひろげられた世代の欲求のうちに、重吉の感じる共感が響いているのであった。あるときに、ひろ子を殆ど涙ぐませるのは、その共感に応える重吉の態度の諄朴じゅんぼくさと、普通にない世馴れなさであった。重吉の挙止には、ひそめられている限りない歓喜と初々しさと、万事につき、見当のつかないところがまじりあっていた。それらすべては青年から壮年へと送られた重吉の獄中の十二年が、彼の人間らしい瑞々みずみずしさにとって、どんなに乾いたものであり、胃袋と同じくいつもひもじいものであったかを知らした。しかも、重吉はそれらについては何とも自分から話さない。十月十日に府中刑務所から解放された重吉の同志たちが、すぐ郊外に集団生活をはじめていた。そこへ重吉につれられて行って、ひろ子は、昔会ったことのあった婦人活動家の一人にめぐり会った。そのひとから獄中で死んだ幾人かの人々の話をきいた。宮城刑務所にいた市川正一が、すっかり歯をわるくしたのに治療をうけられず、麦飯を指でこねつぶして食べていた。そうして生きようと努力していた。が、最後には僅か九貫目の体重になって死んだ。戸坂潤は、栄養失調から全身疥癬かいせんに苦しめられて命をおとした。ひろ子は、これらの話をきいたとき泣いた。重吉と自分とに与えられた愉悦に対して謙遜になった。これらの人々はどんなに生きたかったであろうか、と。
 ひろ子は、実験用テーブルの前の円椅子から立ち上った。水道のところへ行って、自分たちの使った茶のみと、そこに漬けてあった二つ三つの皿小鉢を洗った。わきの窓から、建物だけ出来てまだ内部設備がされていない別の一棟が眺められた。その棟の空虚な窓々は、秋の午後に寂しく見えた。
 ――しかし、思えば、感動深く厳粛なこのたびの治安維持法の撤廃と思想犯の解放につれても、故意か偶然か、ひろ子などには判断のつかない混同が行われていた。今度出獄したすべてのものが治安維持法の尊敬すべき犠牲者、英雄のように新聞やラジオで語り、語られているのであったが、その中に、元来が積極的な戦争強行論者で、その点が当時として反政府的であったために拘禁されていたというような人物までがまじっていた。その男が多弁に「民主的」に、権力を非難し野蛮なる法律を攻撃しているのであった。

 話しながら廊下をこちらへ来る吉岡の声がした。重吉が、手さぐりで結んだネクタイを横っちょに曲げた明るい顔でドアをあけた。
「いかが?」
「案外だった」
「そんなによくなっていたの?」
「いい塩梅に病竈びょうそうがどれも小さかったんですね」
 吉岡が煙草に火をつけながら云った。
「大体みんなかたまっていますよ。この分なら、無理さえしなければ大丈夫と云えますね」
「石田に無理さえしなけりゃと、云うのが抑々そもそも無理らしいわ。――でも、よかったことねえ。ありがとう」
 ひろ子は、椅子の背にかかっていた上着をとって重吉にきいた。
「お着にならないの?」
「もう一遍行くんだ――そうでしょう?」
「肺尖のところが、どうもよく見えなかったんです、丁度鎖骨の下だもんだから。ついでに、見直しておいた方がいいでしょう。血管がそこでいくらか太くなっているから、先の方に全然何もないって筈はないんですがね」
 肺尖のところは、二度目にも骨に遮られてよく映らなかった。吉岡は、
「石田さんは、自分の体についちゃもう専門家なわけだから大丈夫でしょうが、何しろ、ちゃんと証人が立っているんですからね」
 肺尖部の血管のふくれが何を意味し、何を警告しているかを説明した。そして、
「まあ三月に一度は必ずしらべられるんですな」
と命じた。

        二

 秋の夕暮のかすかなもやが立ちのぼりはじめた雑木林の間の小径こみちを、重吉とひろ子とは駅まで歩いた。どっちからともなく手をつなぎあって、ゆっくりと歩いた。
「お疲れにならない?」
「そうでもないよ」
「来てよかったわねえ」
「見当がついたからね」
 乗りものの様子がわからなかったりするからばかりでなく、ひろ子は重吉が帰ってから、出かけるときは大抵一緒に出た。研究所へ来る郊外電車は、時間のせいか思ったよりすいていて重吉は吊革につかまりながら窓外をはしりすぎる森や畑の景色を飽きずにじっと眺めていた。何の拘束もうけず、どこへでも歩き、そうして田舎の景色の間を進み、ひろ子もついてそこに来ている。このあたりまえさが、自分たちにとってあたりまえなことになったという異常なめずらしさ。来る電車の中で、ひろびろとした田野の眺望の間を駛りながら、この感じがつよく重吉の胸に湧いたらしかった。重吉は、あたりにのり合わせている人々の視線を心づかないように並んで立っていたひろ子の肩に手をおいた。そして低い声で、
「あるくのも、一緒でいいねえ」
と云った。ひろ子は、微に上気して重吉を見た。重吉は、あたりの乗客たちを全く見ていなかった。しかし、ひろ子を見ているのでもなかった。視線は窓の外を駛りすぎる外景に吸いよせられている。重吉の手と重吉の声とは、もしかしたら重吉が心づかないうちに、こうして生活はとりかえされた、という抑えがたい感銘を表現したのかもしれなかった。
 夕闇の林間道をあるきながら、重吉は、
「今ごろ、電車、どうだろう」
と云った。
「こみかた?」
「来たとき位ならいいね」
「ひどいと思うわ、時間がよくないんですもの」
 その駅にどっさりの乗客が待っているというのではなかったが、灯をつけて走って来た電車は満員だった。
「どうなさる?」
 列に立っている重吉の背中を押すようにしながらひろ子があわてて相談した。
「おいや? あとだと、一時間待つのよ」
 重吉は、黙って一寸躊躇ちゅうちょした。
「のってしまいましょう、あんまりおそくなるわ」
 そう云いながら、ひろ子は自分の体ごと重吉を車内におしこんだ。重吉は、ほかの乗客の足をふむまいとして無理な姿勢で立って、発車するとき、ひどくよろけた。こむ乗物の中で、粗暴な群集にも乗ものそのものにもまだ馴れない重吉が、大きな体をおとなしく小づかれたり、押しつけられたりするのを見るのは辛かった。重吉は、自分が痛感する荒っぽさをひろ子の身にそえて、乗物がこむと、しきりにひろ子をかばった。今もそれで、二人のあがきが却ってわるかった。
「ね、わたしはいいのよ、ここでうまく立っているのよ」
 池袋で、長い列につながって省線の切符を買い、乗りかえた。思いがけず、一つ空席があった。ひろ子は、無理に重吉をかけさせた。
「今は、あなたの方がくたびれやすいのよ」
 揉まれた重吉の顔に疲労があらわれている。
「腹がすいて来たね」
 重吉は、ひろ子を見上げて苦笑した。
「もう?――でも、おそいこともおそいわね」
「こんどは、夜の弁当ももって来ようよ」
「そうね」
 暫くだまっていたが、やがて重吉が、
「ひろ子」
と呼んだ。
「なあに?」
 つり革へ手の先だけをのこして、ひろ子は重吉に顔を近づけた。
「『一塊の土』という小説があったろう?」
「あるわ」
 芥川龍之介の作品としては、自然主義風なものとして人々に記憶されている作品であった。
「覚えているかい」
「あらましは覚えているつもりだけれど……何故?」
 宵のこんだ電車の中で、何故『一塊の土』が思い出されたのだろう。
「あれは、後家の女主人公が、うんと働いて稼ぐけれども、それで自分もはたも不幸になってゆく話だったろう?」
「そうだわ」
 ちょっと黙って、重吉は、ごく普通な調子で座席からひろ子を見ながら、
「ひろ子に、なんだか後家のがんばりみたいなところが出来ているんじゃないか」
と云った。
 余り思いがけなくて、ひろ子は、眼を見ひらいて重吉を見つめた。
「わたしに?――」
 後家のがんばり。……後家のがんばり。……その辛辣さがこたえて、ひろ子の目さきがぼーっと涙でかすんだ。ふるえそうになる声をやっと平らかに、ひろ子は重吉に聞いた。
「あなたに対して、わたしにそういうところがあるとお感じになるの?」
「僕に対してというわけじゃないさ。――一般にね」
「いろんなやりかたで?」
「まあそうだね」
 たとえば、きょう自分たちがこうやって研究所へ出かけ、ひろ子とすれば重吉が帰って来ているからこそと思うたっぷりした一日をすごした。その間に、自分はどんな後家のがんばりを示したのだろう。愉しそうにしていた重吉が、何のはずみでそれを感じたのだろう。せわしく朝からのことを思いかえして見ても、ひろ子には重吉にそれを云い出させたきっかけを自分からとらえることは出来なかった。しかも、後家のがんばり、という言葉にふくめられているものは、バカと云われたより、だらしなしと云われるよりひろ子にとって苦痛であった。人生のずれたところへ力瘤ちからこぶを入れて、わきめもふらない女の哀れな憎々しさ。それが、この自分にあるのだろうか。帰って半月もたたない重吉からこんな電車の中で、それを云われなければならないのだろうか。こらえても、涙があふれた。涙をこぼしながら、ひろ子は、大きいリュックを背負った男にうしろからぎゅうぎゅう押されていた。
「――どうした?」
 つり革にさがっている方の元禄袖で、重吉から半ば顔をかくすようにして黙りこんでしまったひろ子を重吉は見上げた。
「しょげたのかい?」
 ひろ子は合点をした。
「しょげることはないさ」
「……あんなに、貞女と烈婦には決してなるまいと思って暮して来たのに――」
 ひろ子は、このとき重吉のとなりにかけている中年男が自分たち二人の言葉のやりとりに関心をもってきいているのを知った。同時に、自分が、涙っぽくしかこの話にふれられない今の感情のひよわさを自覚した。それにしても、どうして、よりによって重吉は、この混雑の中でこんな話をしはじめたのだろう。ひろ子は、気をとり直し、元禄袖のかげから顔を出して、重吉の耳のそばへささやいた。
「ここは、あんまり話しいい場所じゃないわ。そうでしょう? 降りてから。ね……」
「――そうか」
 重吉は、ひろ子の気もちや周囲の状況が、はじめてわかったという風に、無邪気におかしそうに笑った。
「でも、どうして急におっしゃるの?」
「どうしてってことはないが、考えたからさ――どうせほかにすることがないんだからこんなとき話しといた方がいいだろう?」
「大抵の人は、こんなところでは話し出さないと思うわ」
 ひろ子は、小さくほほえんだ。
「それに……いまはあなたもわたしも、おなかがすいているでしょう? わたしはどうしても、これになってしまうからね」
 ひろ子は、指さきで頬っぺたを涙がころがりおちる形をしてみせた。
 西へ向って真直に二本、アスファルト通がとおっている。左右は、おそろしく高い切り通しの石だたみで、二つの崖をつなぐ鉄の陸橋が、宵空に太く黒く近代都市らしい輪郭を浮き出させている。この高台は、昔東京の海がずっと深く浅草附近まで入りこんでいたそれより昔、武蔵野の突端をなして、海へきっ立っていた古い地層である。
 低地にひろがった尾久方面も、高台も、今は一面の焼け野原となっていた。アスファルトの道ばたには、半分焦げのこった電柱だの、焼け垂れたままの電線、火熱でとけて又かたまったアスファルトのひきつれなどがあった。焼トタンのうずたかい暗い道の上で、通行人は互に近づく黒い影を目じるしにしてよけあってとおっていた。
「――暗いねえ」
 ゆっくりした足どりをなおおそくして、重吉がおどろいたように云った。
「大丈夫かい?」
「大丈夫よ。暗いけれどこっちの道は案外いいのよ」
「それにしても――こんなところを、ひろ子一人でなんか歩いちゃ駄目だ」
 二人で歩ける今、重吉が、一人でなんか歩くなと云ってくれるこの夜道を、ひろ子はこれまで幾度ひとりで通らなければならなかったろう。リュックを背負い、もんぺにはいた靴をふみしめ、つよく振る手で薄気味わるさを追っぱらうように力んで、通った。自分のその姿が、はっきりひろ子の心に浮んだ。その姿を仔細に追ってゆくと、そこには電車の中で重吉が不意に云い出した批評につながる自分の在ることが、ひろ子自身にもさとられるような気がするのであった。
「さっき電車の中でしかけた話ね、覚えていらっしゃる?」
 ひろ子が訊いた。
「後家のがんばり、かい?」
 二人が話しやめたその位置で、重吉は、はっきりと又その表現をとりあげた。
「わたしには、ね。どうしてああ急におっしゃったのか、きっかけが見つからないのよ。さっきから考えているけれど。……でも、きっとそういうところが出来ているんでしょうね」
 たとえば同じ夜の道を、こうして二人で歩いている。その歩きぶりも心持も、一人で出来るだけ早くといそいで歩いているときと、どんなにちがうことだろう。ひろ子はそれも一つの例として話した。
「自分でどこをどうがんばっているのかわからないところが、つまりくせものね」
「心配しなくてもいいんだ。ただ、これまでひろ子は、云わば一人ぼっちでがんばって来たんだから、どうしても、そういうところも出来たのさ。又それだからこそ、もったというようなところもあるんだし。――しかし、もう条件が変ったんだからね……そうだろう?」
「ほんとねえ」
 うれしい方へ条件が変って僅か半月ばかりのこの頃。それにくらべて条件が変るとすれば、より悪くしか変りようのなかったこれまでの十数年間。
「なんて云っていいか分らないようだわ。一層、一層、あなたの細君であろうとして、そのために、そんながんばりが身につくなんて、……」
「ああいう時代だったんだから無理もないさ。どっちを見ても崩れていて生活の基準がなくなった中で、いわばそれを自分から押しやることで、どうやら自分を真直にもって来たというところもあるんだから」
 話しながら二人がのぼりかかっていた大きい勾配の坂の中途で重吉が立ちどまった。そしてひろ子に訊いた。
「この坂は、どの坂だろう」
「――どの坂って?」
「もとの家へゆくのに、いつも通った坂があったろう? あれはどの坂かい?」
「ああ、あれは、この坂よ」
「これっぽっちの狭い坂だった、あれかい? ごちゃごちゃ店なんか並んだ……」
「そうなのよ。すっかり変っちゃったでしょう。あの頃はまだずっと急だったしね」
「そうか!」
 さも合点がいったように、
「それでやっとわかった」
 重吉は又歩き出した。
「帰って来た日、むこうの角から入ってこの坂まで来たんだよ、多分この見当だと思うのに、坂の様子がまるっきりちがうもんだからそれで又すっかり迷っちゃったんだ」
 ひろ子たちが今住んでいる弟の家は、その坂をのぼって少し行った焼けのこりの一郭にあった。十月十四日の朝、網走から上野へついた重吉は、十三年前ひろ子とはじめて持った家を目当にさがして来て、三時間もその辺をぐるぐる迷ったのであった。
 おそい夕飯をすましてから、重吉は、ひろ子が重吉の家からもらって来ていたはったい粉をたべている。もとは客間に使われていた洋風板じきの室に食卓を入れて、食事にもお客用にも使って二人は暮しているのであった。
 格別、彼のために新調されたのでもない座布団の上にあぐらをくんで、うまがって、はったい粉をたべている重吉を、ひろ子は、飽かず眺める、という字のままのこころもちで見まもった。
 今夜に限らず重吉と一緒に食卓に向っているとき、ひろ子の心にはいつも真新しい感動があった。こんなに自然な男である重吉。簡単な、いもの煮たのさえ美味おいしがって、友達と一緒に妻と一緒にたべることを愉快がる重吉。自然なままの人間に、こわらしい罪名をつけて、たった四畳の室へ何しに十二年もの間、押しこんで暮させたのか。そこにどんなよりどころがあったのか。権力だからそれが出来たというならば、その不条理が不審でたまらないのであった。
「もういいの?」
「ああ、もういい」
「――さっきの話――あの、がんばりのことだけれど、よく云って下すったわね」
 重吉は、ちょっと改まった視線でひろ子を見ていたが、
「でも、さっきひろ子は泣いたんだろう」
 いくらか、からかい気味に云った。
「それは泣いたわ。泣けるのがあたりまえよ。そうじゃないの。だから、よく云って下すったというのよ。これから、何でもあなたの気がついたことはみんな云って頂戴ね。これは本当のお願いよ」
 手紙ばかりで暮した年月は、それらの手紙がどんなに正直であったにしろ、整理されたものであるにちがいなかった。その意味では、ひろ子が重吉に示す生活感情も計らぬきれいごととなっているとも思えた。
「わたしは、何でもよそゆきでなく自分があるとおりにするからね。いやだとお思いになることがあったら、どんなにべそをかいてもいいから、云って頂戴。腹の中で、ひろ子というのはこういうんだな、なんかと思わないでね」
「いつか、そう思ったことがあったかい?」
「これまではなかったわ。段々いそがしくおなりになるでしょう? こんな話をゆっくりしていられなくなるのは見えているのよ。ですから、それまでに、痛棒はたっぷりほしいのよ」
「よし。わかった」
 ひろ子は、重吉がかけている深い古い肱かけ椅子の足許に足台をひきよせてその上にかけ、鼠がかじった米袋の穴をつくろっていた。小切れを当てて上から縫っている手許を見おろしていた重吉が、
「つぎは、裏からあてるもんだよ」
と云った。いかにも、それだけは確実だ、という云いかたで、ひろ子は思わず笑い出した。
「どうしてそんなこと知っていらっしゃるの」
「和裁工だったんだぜ。ひろ子といえども、裁縫で五円八十銭稼いだことはなかろう」
 重吉は、
「僕がやってやろう、見ていてごらん、うまいんだから」
 袋をとって、ひっくりかえして、内側からつぎきれを当てて、縫い出した。つかみ針で、左手の拇指と人さし指のはらでおさえた布の方へ針をぶつけてゆくようなぎごちない手つきで、しかし一針一針と縫ってゆく。はじめ笑って見ていた口元がかすかに震えて来て、ひろ子は深く唇をかんだ。口許を力ませるような表情で、濃い睫毛を伏せ、針を運んでいる重吉のうしろに、ひろ子はまざまざと牢獄の高い小さい窓を見た。そこに鉄格子がはまっていて、雲しか見えず、オホーツク海をわたって吹く風の音しかきこえない高窓を見た。その下に体の大きい重吉がはげた赭土色あかつちいろの獄衣を着て、いがぐり頭で、終日そうやって縫っている。重吉の生きている精神にかけかまいなく、それが規則だからと、朝ごとに彼に向ってぶちこまれるボロ。どんな物音も立たない、機械的な、それだから無限につづいてゆく、惨酷さ。まるで、感傷がなく、ユーモアをもって縫っている重吉が、最後の糸どめをするのをひろ子は待ちかねた。そして、
「見せて」
 手にとりあげて、それを見た。針めがそろっている。ひとつびとつは不器用な針目だが、それは律気にそろっている。そろった針目は、ひろ子の目に、重吉が坐らされていた板じきの上の薄べりの目とも映った。
「うまいだろう?」
「うますぎるわ、でもね、わたしはもう一生あなたには針はもって頂きたくないわ」
 ひろ子は立って行って硯箱すずりばこをもって来た。
「これはこうしておくの」
 その日の日づけをかいて、和裁工石田重吉記念作品と、つぎきれの上に書きつけた。
 さきへ二階へあがって、ゆっくり床をのべながらひろ子は、朝からのことを思いかえした。すべてのことが、重吉に云われた後家のがんばりを中心に思いめぐらされるのであったが、並んだ二つのふし床を丁寧にこしらえて行くうちに、ひろ子の心に、次第に深まるおどろきがあった。ひろ子にとって、ずばりと後家のがんばりを警告してくれるのが、良人である重吉よりほかにない実際だとすれば、本当に後家になった日本の数百万の妻たちには、誰が親身にそのことを云ってくれるのだろう。一生懸命に暮せばこそ身につきもするそういう女のがんばりについてその一途さにねうちがあるからこそ、一方のひずみとして現れるがんばりは、もっとひろやかで聰くより柔和なものに高められなければならないのだと、誰が、良人のいない、暮しのきつい後家たちに向って云ってくれるのだろう。そして、がんばらずに生きられる条件を見出してくれるのだろう。それを思うと、自分をこめて、ひろ子の眼ににじむ涙があった。
 床の上に立って着換えをする重吉に、寝間着の紐をわたしながら、ひろ子は、愛称のようにゆっくりと、
「石田さん」
 重吉の姓をよんだ。
「わたしは、あなたから後家のがんばりを云われるのだと思うと、本当の後家さんにすまないように思うわ。知っていらっしゃる? つやちゃんだって後家さんなのよ」
 重吉の弟の直次は、広島で戦死したのであった。

        三

 遠い郊外へ出勤する重吉の外出が、段々規則的になり、来客が益々ふえ、隠されていた歴史の水底から一つの動きが、渦巻きながらその秋の日本の社会の表面に上昇しはじめて来た。十月十日に解放された徳田・志賀の名で発表されたパンフレット型の「赤旗」は重吉がかえって間もなく出版され、広い範囲での話題となっていた。其を読むほどの人々は、様々な期待、要求、満足、不満足に、おのずからこの十数年間濃くされて来た個人個人の気質や生きこしかたの色と匂いを絡み合わせて、其について語っていた。忙しくなってゆく迅さは、重吉が市中の混雑や、つっけんどんな乗物の出入りに馴れるよりも急速であった。永年長い道を歩いたことのなかった重吉は、怪訝けげんそうに、
「変だねえ、どうしてこんなところが痛いんだろう」
 靴下をぬいで、ずきずきうずく踵をおさえた。
「やっぱり疲れるんだろうか」
「そうですとも! あれだけの間に、わたしたちが会って話の出来た時間が、一体どの位あったとお思いになる? たった百八九十時間ぐらいよ、まる八日ないのよ。ですもの……およそわかるわ、一日にどんなに少ししか歩かなかったか……」
 前の晩、おそくまでお客があって、その朝、ひろ子は、起きぬけからすこしあわてた。重吉は、入念に新聞をよみ、紙を出して何かノートを書きつけ、その間には荒れている庭を眺めて、
「あの樽、何か埋めていたのかい」
 掘りだしたまま、まだまきの樹の下にころがされている空樽に目をとめたりした。西日のさす側の枝から見事に紅葉しかけているかえでが秋の朝風にすがすがしかった。
 弁当を包んでいると、置時計を見た重吉が、俄に、
「ひろ子、あの時計あっているかい」
と云った。
「あっていると思うわ」
「ラジオかけて御覧」
 丁度中間で、いくらダイアルをまわしても聴えて来る音楽もなかった。重吉は、いそいで紙片をまとめて身支度にとりかかった。ひろ子は、急にとりいそいだ気になって、
「一寸待って。わたし、まだなんだから」
 もう一つ自分の弁当をつめた。その日は、ひろ子も同じ方角に出かけなければならないのであった。一緒に出かけようとばかりせき立って、ひろ子が食卓のまわりでのぼせていると、重吉が、
「ひろ子、ここが駄目だよ」
 ぶらぶらしてはまらないカフス・ボタンの袖口をつき出した。洋服を着はじめてから日のたたない重吉には、あちこちで止めたり、しめたりするボタンやネクタイが苦手で、支度にはいつも閉口した。シャツのカフスがどう間違えて縫ったものか特別せまくて普通にボタンをとめてからでは手をとおしにくかった。
 ひろ子は、友人の贈物である綺麗な細工のボタンを、粗末なシャツのカフスにとめた。うしろの衿ボタンも妙になってカラーがさか立っている。重吉は自分のまわりを動くひろ子の頭越しに時計を見ながら、いかにも当惑したように、
「時間がないな」
と云った。
「九時半までに必ず行かなけりゃならなかったんだ」
「まあ! あすこまで二時間かかるでしょう。困ったわ。それなら、はっきり云っておいて下さればよかったのに。――いつも通りかと思った」
 なおあわててひろ子は、半分ふざけ、半分は本気で重吉の大きい体をつかまえ、少し荒っぽく、
「――こっちを向いて」
 カラーをつけ、
「こんどはこっち」
 これを前でとめネクタイをしめさせた。
「自分でカフス・ボタンもつけられないなんて、わるい御亭主の見本なのよ」
 重吉は迷惑げに、あちこちまわされて、支度が終ると、すぐ出て行った。上りぐちで、
「おいてきぼりになっちゃった!」
 そう云いながらひろ子が、重吉の帰る時間をきいた。
「何時ごろ? いつも頃?」
 これも貰いもののハンティングのつばを、一寸ひき下げるようにして、重吉は無言のまま大股に竹垣の角をまわって見えなくなって行った。ひろ子は、暫くそこに佇んだまま、むかごの葉がゆれている竹垣の角を眺めていた。重吉は、口をきかずに出て行った。意識した手荒さでまわした重吉の体の厚みが、手のひらに不自然に印象されて、それはひろ子のこころもちをかげらせた。
 自分の用事がすんで、ひろ子が帰ったのは五時すぎであった。御飯をたくことと、おつゆのだしをとっておくことだけをいつも頼む合い世帯のおとよに、
「ただいま。――石田、かえりました?」
 ききながら、ひろ子は上り口を入った。
「まだですよ」
「そう。――」
だしは七輪にかけてありますから……どなたかお客さまです」
 がらんとした室に、ひろ子の又従弟またいとこに当る青年がひとりで坐っていた。樺太の製紙会社につとめている父親や、引上げて来た母親、子供たちの様子をきいたりして夕飯のしたくが終ったとき、敷石の上を来る重吉の靴音がきこえた。
 ひろ子は、上り口へかけて出て行った。
「おかえりなさい」
 重吉は黙って、踵と踵をこすり合わせるようなやりかたで靴をぬぎすてて上り、ハンティングを、そこの帽子かけにかけた。いつもの重吉は、書類入の鞄から帽子から、ひどくくたびれたときには、その場で窮屈な上着までひろ子の腕へぬぎかけるのであった。
「けさはよっぽどおくれて?」
「一時間ばかりおくれた」
 青年のいる室へ入って、重吉は、簡単に挨拶すると、そこに来ている雑誌の封をあけて目をとおしはじめた。
「お着かえにならないの」
「…………」
 重吉は、洋服のまま、どうしたのか、ひるの弁当があまっていたのを鞄から出して、先ずそれをたべはじめた。
「どうして?――こっち上ればいいのに」
「いいんだ」
 つとめて、ひろ子は若い又従弟と口をきいて食事をすませた。重吉は、すぐ、
「あがるよ」
 鞄をもって、二階へ登って行った。とりのこされたひろ子は体じゅうがよじれるように苦しくなった。
 行ってみると、重吉はぬいだシャツや服を机の上につみ上げて、そのよこのところに本をのせて見ていた。ひろ子は、みんなどけてそれを衣紋竿えもんざおにつるした。
「――ね、どうなすったの?」
「どうもしない」
「いいえ。こんなのあたりまえじゃないわ……いつものようじゃないわ。ね、どうして?」
 重吉は椅子の上で顔を横に向け、ひろ子を見ないようにしている姿勢のまま、
「どうもしない。きょうから、何でもみんな自分ですることにきめたんだ」
と云った。
「…………」
「すっかり、考え直したんだ。何の気なく、してくれるとおりして貰っていたんだが。俺も甘えていたんだ。――わるい亭主の見本だと思われているとは思わなかった」
 冗談よりほかの意味はありようもなく云った言葉が、重吉をそんなにきずつけたことが、ひろ子をおそれさせた。
「御免なさい。わたしふざけて云ったのに――」
「――しかし、ひろ子はしんではおそらくそう感じているところがあったんだ。……世間には良人のことは何でもよろこんでする細君もあるんだろうが。――自分のことを自分でするのはあたり前なんだから、もうすっかり自分でする――監獄じゃそうしてやって来たんだ」
 ひろ子は、思わず重吉の両肩をつかまえた。
「変よ、監獄じゃ、なんて! それは変よ!」
 涙をあふらしながら、ひろ子は恐怖をもって感じた。どういう複雑な動機からか、ともかく重吉は、ひろ子が想像出来るよりも遙かに深い幻滅のようなものを、二人の生活について感じたのだ、ということを。ひろ子は絶望感からそのまま立っていられなくなった。前の畳へ崩れこんで重吉の膝の上に頭を落した。
「考えて頂戴。あなたのことはあなたがなさい、というような心持で、どうして十何年が、やって来られたのよ」
 ひろ子がそんな石のような女で、身のまわりのことにも今後一切手をかりまいと思いきめたなら、その重吉にとって、ひろ子の示す愛着は、どんな真実の意味があり得よう。二人の自然な愛情はなくて、重吉が決して惑溺わくできすることのない女の寧ろ主我刻薄な甘えと、ひろ子がそれについて自卑ばかりを感じるような欲情があるというのだろうか。
「あんまり平凡すぎる!」
 ひろ子は、激しく泣きだしながら頭をふった。
「わたしは、いや! こんなの、いや! あんまり平凡だ」
 それにしても、ひろ子には分らなかった。重吉が、こんなに永年の間、互に暮して来たあげく、突然、云ってみれば、今瞼からうろこが落ちた、という風にそれほど深い幻滅を発見したというのは、どういう理由があるのだろう。重吉もひろ子も、劣らず自然なままの生れつきであったから、一方で離反して、一方で繋がれてゆくというようなゆがんだ人工の夫婦暮しは出来なかった。真実重吉の幻滅がとりかえせないものならば、それはひろ子にとっても、これからの生活は成り立たないということなのであった。
 ひろ子は泣きながら、泣いている自分の頭が重吉の膝の上にあること、重吉はそうして泣くひろ子を、自分から離そうとしていないことを、とりすがる一本の綱のように鋭く感じた。ひろ子のこの苦痛の深さに、一心に暮した十二年の歳月が折りたたまって投影しているとおり、重吉の索漠たる思いにも、同じ長い年月に亙って生活して来た彼のひどい環境の照りかえしが決してないと、どうして云えよう。
 閃く稲妻のようにひろ子の心を一つの思い当りが走った。それが、泣きれたひろ子の精神の渾沌こんとんを一条の光となって射とおした。ひろ子は、重吉の手をとって、
「ね、云ってもいい?」
ときいた。
「いいさ」
「わたしが、あなたの気もちを傷けたのは本当にわるかったわ。どうか許して頂戴。――そしてね、あなたは、あんなに永い間牢屋に暮していらしたでしょう? あすこには、決して、あなたに対する絶対の支持というものは存在しなかったのよ。いつだって、二重の、いつでも逃げ腰の親切か、さもなければはぐらかししかなかったのよ。そうでしょう?」
「…………」
「絶対の支持、ということがわかる? その幅の中で、どんなに憎まれ口をきいたにしても、馬鹿をしたにしても、それでも、なお絶対の支持であるという、そういう絶対の支持がわかる?」
 ひろ子は泣き泣き云った。
「ひろ子の支持は、そういう絶対の支持だということがわかる?」
 永い間沈黙していた後、重吉は、はじめて顔を向けて、正面からひろ子を見た。ああ、やっと重吉にとってひろ子は再び見るに耐えるものになった。ひろ子は、両手の間に顔を挾んだ。
「ね、わかる?」
「――絶対の支持なら、どうしてあんなことを云うのかい」
「わるい御亭主の見本?」
「そうさ」
「あら、だって母親だって自分の可愛い児に云うわ、わるい児の見本ですよ、ぐらい……」
「そういう調子じゃなかった」
 ひろ子は、じっと重吉の顔をみつめた。苦しく、重く閉されていた重吉の表情はほぐれはじめて、二つの眼の裡にはいつもの重吉の精気のこもった艶が甦っている。ひろ子は、うれしさで、とんぼがえりを打ちたいようだった。
「生きかえって来た、生きかえって来た」
 ひろ子は、小さい声で早口に囁いた。
「なにが?」
「――わたしたちが……」
 重吉は、やっとわかったがまだ怪訝だという風に、
「しかし、ひろ子の調子に、そんなユーモラスなところはなかったぜ」
と云った。
「そうだったこと?――」
 ひろ子は、恐縮しながら、いたずらっぽく承認した。
「そこが、つまりあなたのおっしゃるがんばりの情けなさなのね、きっと。――でも、もうすこしの御辛棒よ、じき無くなってよ」
 重吉を励しでもするように云った。
「あなただって相当強襲なんですもの」
 こわい、絶壁をやっと通過したときのように、ひろ子は体じゅう軟かに力ぬけがした。ひろ子は、重吉の膝を撫でた。
「一日じゅう、あんないやな気持で仕事していらしたの、わるかったわねえ」
「そうでもないさ」
 率直に重吉は云った。
「家の近くへ来るにつれて、だんだんいやな気持になったんだ」
「そりゃそうね、ああ思えば、もう本質的に家なんてどこにもないんですもの」
 うちがない、ということは、ひろ子にどっさりのことを思わせた。十月十日に解放された重吉の同志たちの主だった人々は、殆どみんな妻をもたず、従ってうちをもっていなかった。うちも妻も、闘争の永い過程にいろいろな形でこわされ、とられた。人間らしさを極限まではぎとられた。その痛苦から屈従させようと試みられた。ひろ子にしろ、つかまる度に、女の看守長にまで云われることは、重吉の妻になっているな、ということだった。一層軟かく重吉の膝に頭を埋めながら、ひろ子は、
「げんまん」
 重吉に向って小指をさし出した。
「二度ともう憎らしいことは云わないから、あなたも約束して。さっきのようなことは云いっこなし」
 自分たちの生活を毒し、あわよくば其をこわす力は、決して無くなっていない。ひろ子は身をひきしめてそのことを思った。正面から攻撃しなくなったとき、それは、嘗て打撃を加えたその痕跡から、そのひずみから、なお襲いかかって来る。ひろ子は、頬をもたせている重吉の左の膝の上の方を考え沈みながら撫でた。そこに、着物の上からもかすかにわかる肉のへこみがあった。大腿のところに、木刀か竹刀かで、内出血して、筋肉の組織がこわされるまでなぐり叩いて重吉を拷問した丁度その幅に肉が凹んでいて、今も決して癒らずのこっているのであった。

        四

 腰かける高いテーブルで、重吉が書きものをしていた。その下に低い机をすえて、ひろ子が、その清書をやっていた。
「何だか足のさきがつめたいな」
 重吉が、日ざしは暖かいのに、という風に南の縁側の日向を眺めながら云った。十一月に入ったばかりの穏やかな昼すぎであった。
「ほんとなら今頃菊の花がきれいなのにね」
 毛布を重吉の足にかけながらひろ子が云った。
「この辺は花やもすっかり焼けちまったのよ」
 焼跡にかこまれたその界隈かいわいは、初冬のしずけさも明るさも例年とはちがったひろさで感じられた。夜になると、田端の汽車の汽笛が、つい間近にきこえて来た。
「久しぶりで、たっぷり炭をおこしてあげたいけれど、あんまりのぞみがないわ」
「いいさ。寒けりゃいくらでも着られるだけ結構なもんだ」
 ペンをもったなり口を利いていた重吉は、又つづきを書きはじめた。長い年月、ほんとうに温く、人間らしくあついものを食べることもなく暮して来た重吉は、今のところ、何でもあつくして、それからたべるのが気に入った。揚げたての精進あげまで、
「やくと、なおうまいね」
 電熱のコンロにあぶってたべた。
「あつくしようよ」
 おつゆでも、お茶でも、生活の愉しさは湯気とともに、というように、あつくするのであった。ひろ子には、そういう重吉の特別な嗜好が実感された。さっき、コンロに湯わかしをかけたとき、
「たしかに俺はこの頃茶がすきになったね」
 重吉が、自分を珍しがるように云った。
「もとは、ちっとも美味うまいなんと思わなかったが……」
「この頃はみんなそうなのよ。ほかに何にもないんですもの。お茶の出しがらの葉っぱ、ね。あれを、はじめの時分は馬の餌に集めていたけれど、あとでは人間もたべろ、と云ったわ」
「僕はなかでくったよ、腹がすいてすいてたまらないんだ」
 暫く仕事をしつづけて、ひろ子によみとれない箇所が出て来た。
「これ、何処へつづくのかしら」
 下から消しの多い草稿をさし上げて見せた。
「ポツダム宣言の趣旨に立脚して……その次」
 行を目で追って、
「ここだ」
 重吉は、もっているペンで大きいバッテンをつけて見せた。
「今後、最も厳重に――」
「そこまでとぶの? 八艘はっそうとびね」
 二人は又無言になった。写し役のひろ子の方に段々ゆとりが出来て来た。晩の支度に階下へおりたり、お茶をいれたりしながら、仕事をつづけ、重吉は、わきでひろ子がそういう風に時々立ったりすることがまるで気にならないらしく、ゆったりとかまえ、しかも集注して、消したり書いたり根よく働いている。
 頬杖をついて、ひろ子はその雰囲気にとけこんだ。こんなに楽な、しかもしっとり重く実った穀物の穂をゆするようにたっぷり充実した仕事のこころもちを、経験したことがあったろうか。襖のあいている奥の三畳へ視線をやって、ひろ子は暫くっとそっちを眺めていた。北側の三畳の障子に明るく午後の日ざしがたまっていて、その壁よりに、一台の折りたたみ寝台が片づけてあった。三つに折りたたまれて錯綜して見える寝台の鉄の横金やところどころ錆びたニッケル色のスプリングがひろ子のいるところからよく見える。重吉がいた網走へ行こうとしてこの家を出てゆくとき、ひろ子はその寝台を折りたたんでその隅に片づけた。それなりそこで、きょうまでうっすり埃をかぶっている。重吉がそれを見つけて、
「便利なものがあるじゃないか。一寸休むとき使おうよ」
 そういったときも、ひろ子は、すぐそれをもち出す気になれなかった。
 この一人用の寝台の金具を見るとき、ひろ子がきまって思い出す一つの情景がある。それは東に一間のれんじ窓があって、西へよった南は廊下なしの手摺りつきになった浅い六畳の二階座敷である。れんじ窓よりにこの寝台が置かれて、上に水色格子のタオルのかけものがひろげてあり、薄べったい枕がのせられてある。入ったばかりの右側は大きい書物机で、その机と寝台との間には、僅か二畳ばかりの畳の空きがある。その茶色の古畳の上にも、ベッドの上にも机の上にも、竹すだれでさえぎりきれない午後の西日が夕方まで暑気に燃えていた。その座敷は、目には見えないほこりが焦げる匂いがしていた。救いようなく空気は乾燥していた。そして、西日は実にまぶしかった。
 それは、ひろ子が四年間暮した目白の家の二階であった。二階はその一室しかなくて、ひろ子は、片手にタオルを握ったなり、乾いた空気に喘ぐような思いで仕事をした。
 その座敷のそとに物干がついていた。物干に、かなり大きい風知草の鉢が置かれてある。それは一九四一年の真夏のことであった。その年の一月から、ひろ子の文筆上の仕事は封鎖されて、生活は苦しかった。巣鴨にいた重吉は、ひろ子が一人で無理な生活の形を保とうと焦慮していることに賛成していなかった。弟の行雄の一家と一緒に暮すがよいという考えであった。けれども、ひろ子は、抵抗する心もちなしにそういう生活に移れなかった。二十年も別に暮して来た旧い家へ、今そこに住んでいる人々の心もちからみれば、必要からよりも我から求めた苦労をしていると思われている条件のひろ子が、収入がなくなって戻ってゆく。それは耐えがたかった。姉さん来ればいいのにと行雄も云っているのに行かないのは、体裁をかまっているひろ子の俗っぽさだ。そう重吉の手紙にかかれていた。
 三年前にも一年と数ヵ月、書くものの発表が禁止された。しかしそのときは、ひろ子一人ではなかった。近い友人たち何人かが同じ事情におかれた。その頃は、まだ文学者一般に、そういう処置に対して憤る感情が生きていて、ひろ子の苦しさも一人ぎりのものではなかった。それについて話す対手があったのであった。
 三年たった四一年には、ぐるりの有様が一変していた。作品の発表を「禁止されるような作家」と、そうでない作家との間には、治安維持法という鉄条網のはられた、うちこえがたい空虚地帯が出来ていた。更に、一方には中国、満州と前線を活躍する作家たちの気分と経済のインフレーション活況があって、ひろ子の立場は、まるで孤独な河岸の石垣が、自分を洗って流れ走ってゆく膨んだ水の圧力に堪えているような状態だった。
 経済上苦しいばかりか、心が息づめられた。その窒息しかかっている思いを、重吉に告げたところで、どうなろう。重吉に面会する数分の間、本当にその間だけひろ子は晴れやかになって笑えた。重吉も晴々して喋るひろ子を見て、愉快になった。だが巣鴨を出ると、よってゆけるような友達の家は遠すぎたりして、行雄のところへ行き、自分の内面とかかわりようもない声と動きにみちた暮しの様を見ると、ひろ子は、せめてまだあの家がるうちに、という風に気をせいて目白へ帰るのであった。
 それにしても、何と二階の座敷は暑くて、乾きあがっていただろう! 仕事の封じられた大きい机は、何と嵩ばって、艶がなくなっていただろう。
 或る晩、ひろ子は、心のもってゆき場がなくなって、駅前の通りへふらりと出て行った。よしず張りの植木屋があって、歩道に風知草の鉢が並んでいた。たっぷり水をうたれ、露のたまった細葉を青々と電燈下にしげらせている風知草の鉢は、異常にひろ子をよろこばせた。どうしてもそれが欲しくなった。ひろ子は、亢奮した気持でその鉢を買い、夜おそく店をしまってから運んで来て貰って、物干においた。
 洗濯物をどっさり干しつらねるというような落付いた日暮しを失っていたひろ子は、がらんとした物干に置かれた、その風知草に、数日の間、熱心に水をやった。けれども、益々苦しさが激しく、しず心が失われてゆくにつれ、哀れな風知草までが苦しい夏の乾きあがった生活にまきこまれて行った。風知草はいつの間にか、枯れ葉を見せはじめた。ひろ子は、けわしい眼づかいでそれを見ていた。が、水はもうやらなかった。
 あの夏、たとえば、どんなに一人暮しの食事をして暮していたのか、今になってひろ子には思い出せもしなかった。思い出すのは、却って、省線の巣鴨駅に咲いていた萩の花枝である。省線の電車が、っと風をきって通過したとき、あおりで堤に咲きつらなっていた萩の花房が瞬間大ゆれに揺れて乱れた。病的になっていたひろ子の神経は、その萩の花の大きいゆれをわが魂の大ゆれのようにはっと感じた。自分のこうとする心がそこにあらわされたように感じた。
 そういう夜と昼、ひろ子がて、起き出たのが、あの寝台であった。寝台をみると、乾きあがって、心のやり場もなかった四一年の夏がそこにまざまざとうかび上るのであった。
 寝台を買ったのは三五年の初夏であった。或る早朝、ひろ子がたった一人そのベッドに寝ていた二階の屏風越しに、ソフト帽の頭がのぞいた。それは、ひろ子をつれてゆくために、風呂場の戸をこじあけて侵入した特高の男であった。
 風知草の鉢は、ひろ子が友人にゆずって出たその家の物干で、すっかり乾からび、やがて棄てられたのだが、ひろ子の記憶に刻みつけられているもう一つの風知草があった。その風知草は、小ぢんまりした鉢植で、巣鴨の拘置所の女区第十房の窓の前におかれていた。出来るかぎりぴったりと窓に近づけて置いてあるのに、風知草の細い葉のさきさえもそよがなかった。いつみても、どんなに待っていても、夜中でさえもその風知草の葉が動くということはなかった。夏は、六十八年ぶりという暑熱で、温室のように傾斜したガラス屋根の建物を蒸し、焙りこげつかせていたのに。――
 ひろ子は思い出にせき上げた。総て、すべてのこういうことを、どうして重吉に話しきれるだろう。重吉が帰って、こうして、ひろ子の息づきはゆるやかになり、自分を崩すまいとする緊張から解放されて、はじめて、自分のこれまでの辛さや、それに耐えている女がはために与えるこわらしさを見ることが出来た。ひろ子をよく知っていて、つき合いの間には入りくんだいきさつもあった或る作家が、短篇の中に気質のちがう姉妹を扱っていたことがあった。情感に生きる妹娘が所謂いわゆる身もちもいい、しっかりものの姉について「そりゃ姉さんは親類じゅうの褒めものなんだから」という意味を云うくだりがあった。第三者にはまるで、ひろ子にかかわりない一つの物語としてあらわされた会話であったが、ひろ子は、その作者がその作者のもちまえの声で、ひろ子に向って其を云っている響を感じたことがあった。そのとき、ひろ子は、その本を手にもって、永い間、その数行の文字を見つめていた。そのときひろ子の胸に湧いた云いつくせない感情は、口で話せるものだろうか。
 ひろ子は立ちあがって、書いている重吉の肩へ手をやった。
「――どうした」
「小説をかかして」
 ひろ子は重吉のあいている方の手をとった。
「ね、小説がかけるように働かして。――お願いだから……」
 亢奮こうふんしているひろ子の顔つきを見て、重吉はおかしみをこめた好意の笑顔になった。
「鎮まれ、しずまれ」
 ペンをもっている指先で、ひろ子のおでこをまじないのようにぐりぐりした。
「それを云っているのは、俺の方だよ。かんちがえをしないでくれ」
 その時分、そろそろ新しい文学の団体も出来かかりはじめていた。十数年前にも一緒に仕事をしていたような評論家、詩人、作家などが、また集って、口かせのはずされた日本の心の声をあげようとしているのであった。

        五

 ひろ子は、行手の道の上にゆるやかな角度で視線をおとしながら歩いていた。おろしていくらもたたないのに、粗末な下駄は前がわれて、あぶなっかしかった。低い丘の起伏の間をぬっているその道は、土ほこりが深くてぽくぽくのなかにごろた石がどっさりころがっている。左手は、色づきはじめた灌木におおわれた浅い谷間になっていた。
 ひろ子の歩きつきに、何となしおとなしいようなねんごろなような様子があるのは、下駄がわれかかっているからばかりではなかった。歩いているその道が、よその道路を通る事務的なこころもちとはちがった気持をひろ子にもたせていた。その気持は、ずっと昔、小石川のある道をあるくとき、ひろ子の気分に湧いたものと何処やら似ていた。その道に重吉が住んでいた。ひた向きにその一点しか目ざしていないのに、外からはどこへゆくか一応分らないようにして歩いている。おもしろいその気持に似たところがあり、しかも、この道の上では、おのずとべつのはにかみもあった。その秋、自立会への道と云えば、普通の田舎道ではなかった。自立会を十月十日に解放された共産党員たちの住んでいるところと知っているほどの人々は、そこへゆく道、その道を行き交う人の通りに特別な思いをはらった。配給所へゆくのと同じ心でそこを通る人はなかった。よかれあしかれ、自分の生活と関係のある新しい動力の発源地をそこに感じ、そこの様子を知ろうとして、淋しいガード下から曲って丘をめぐるその一本道へ出た。そこを歩くひろ子は、あんまり行く先がはっきりしているのと、いそいそしている自分があらわなのとを、はにかんでいるのであった。
 行手の木立の間に、それらしい新しい建物が見えるところへ来た。すると、左手の草むらのうしろから、
「ひろ子さん」
 大きい声で呼ぶ女の声がした。ひろ子は、道の上に立ちどまって見まわした。
「ここです、お待ちしていたの、御弁当をたべながら――」
 あわてて立つ拍子にとりまとめた紙包を、まだ胸の前にたくしこみながら、小さい男の子をつれた瀬川牧子が、高い草の間から歩いて出て来た。
「まあ。――どうして? まち伏せ?」
 牧子は数年このかた埼玉の町に住んでいて、滅多に会うことも出来なかった。
「思いがけないところから現れたのねえ」
「よかったわ、うまくつかまえられて」
 上機嫌で牧子は男の児に、
「純ちゃん、これがおまくのおばちゃんよ、覚えている?」
と云った。三つぐらいの純吉が遊びに来たとき、ひろ子はその子と小さい枕をぶつけ合って遊んだ。それが大変気に入って、おまくのおばちゃんという名をもらったのであった。
「きょう、こちらへいらっしゃるとお友達から又聞きいたしましてね。お家までとてもゆけないし、こっちなら電車が国分寺まで来るから、思い切って出て来たの、よかったわ、お会い出来て」
 ほかに通る人のない道を、二人の女は五つの児の足幅にそって歩いて行った。
「元気らしいわね――」
 ひろ子は、牧子にはその意味のわかる笑いかたで、
「牧子さんだって、もう元気だわ。ねえ」
と云った。
 その初夏、空襲の間に会ったとき、牧子はやつれて不安な眼つきをしていた。埼玉でもその町は安全と云えず、食糧の事情もむずかしかった。牧子の不安は、そういう日常だのに、そこの会社づとめをしている瀬川泰二が、戦争も最後の段階にさしかかっていると云って、しきりに何か考え、牧子の知らない時間をよそで過して夜更けて帰るようになって来た。牧子は、
「もし又あんなことになったら、私たちの生活は今度こそどうなるのかしらと思って……」
 野良日にやけて、雀斑そばかすが見えるようになった顔を沈痛にふせた。
「瀬川はそれでいいかもしれないけれども――」
 瀬川夫婦の友人に玉井志朗という男があった。大学が同期で、学内運動の先頭に立っていた秀才であり、万事目に立つ男だったのが、つかまった。これ迄、何年間ものがれていたのが不思議であった。つかまって、拘置所に入れられて、少くとも五年か七年帰れまいと本人さえ云っていたのに、急に出た。その男の伯父が、前法相であった。入れかわりに、玉井のぐるりの友人は、一人のこさず被害をうけた。その前、一年半の実刑までを受けて出て来た瀬川は、ただ工場へつとめて、やっとヤスリを使い覚えたというばかりだのに、つかまえられたばかりか予防拘禁所に三年も置かれた。大した理由はなくてお気の毒だ、と云いながら、三年置いた。牧子は瀬川の母、その姉、良人とまるで立場のちがう妹夫婦という錯雑した家族の間で、子供を育てながら精一杯の努力でやりくりして、瀬川の出て来るのを待った。瀬川は、前の冬にかえって、埼玉のそこへ勤めはじめていたのであった。
 そのときも、ひろ子と牧子とは焼跡の通りを並んで歩きながら話していた。
「あなたの苦労は見ているから、いい加減が云えないわ。――でもね、牧子さん、どう? あのいい眼つきをした若い瀬川さんが、俺はもう女房孝行だけして子を育てることにきめたよと云って、段々張がなくなって、じじむさい男になって行くのをうれしがって見ていられること?」
 牧子は、
「――そうねえ」
 心から吐息といきをついた。瀬川の生きかたを理解し、瀬川の性格の美しさがわかっていても、くりかえし、くりかえし執拗に生活を破壊されることに牧子は殆ど耐えがたくなって来ていたのであった。
「年末になると、わたし段々おなかが重くなるし、そうすると又暫くお会い出来ないから、きょうこそと思って……」
 牧子は、いかにも心の祝いをあらわすように、
「これをおばちゃんに上げましょうね」
 袋のよこにさし出ていた白い小菊の花束をくれた。
「いいにおい。――うれしいわ、丁度石田がねているから」
「病気がおわるいの?」
「足なのよ。痛くて歩けなくなったの。たださえくたびれるのに、よく方角を間違えて、途方もなく歩いたりするんですもの」
 道が二股にわかれて、一方の草堤に自立会と明瞭に書いて矢じるしをつけた立札が立っていた。ひろ子たちの前の方を、背広の男が一人ゆっくり歩いていた。遠くからその立札に目をつけているのが、うしろつきでわかった。あの人も行くのかしら。そう思って見ていると、その男は立札のところで歩調をゆるめ、自立会という三つの字を改めてとっくりたしかめるように見て、それなり来た道をまっすぐ雑木林の方へおりて行った。
 太いタイアの跡が柔かい土にめりこんでついている。草道はそこから自立会の建物についてうねり、入口の前に通じた。
 建物の横手に大型トラックが来ていて、手拭で頭をくるりと包んだジャムパー姿の若い人が三四人で、トラックの上から床几しょうぎをおろしているところであった。
 床几は、粗末ではあるがどれも真新しく木の香がした。真新しいのは、その床几ばかりでなかった。自立会という建物そのものが、出来たばかりというよりまだ半出来の真新しさで、広い畑から敷地を区切っているあらい竹垣のうちには、ついきのうまでこっぱが散らばり、おが屑が匂っていたような様子がある。思想犯として刑期を終った出獄者を、そのあとまでもかためて住わせて思想善導をしようとして、本願寺が、この建物をこしらえた。国分寺の駅からよっぽど奥へ入った畑と丘の間の隔離された一郭として、これをこしらえた。十月十日、出獄した同志たちは、治安維持法撤廃によって解体する予防拘禁所から、すぐ生活に必要な寝具、日用品、食糧、家具などをトラックにつみこんで、ここへ引越して来た。
 重吉が網走からもってかえって来た人絹の古い風呂敷包みの中には、日の丸のついた石鹸バコ、ライオンはみがきの紙袋、よれよれになった鉄道地図、そして、一まとめに大事にくくった書類が入っていた。その束の中に、一通の電報があった。デタラスグカエレイエノヨウイモアル。同志二人の連名である。丁寧にたたんで使いのこりの封緘ふうかんの間にはさまれているその電報を見たとき、ひろ子は、それを監獄で読んだときの重吉の思いを、そのまま、わが胸に感じた。網走へ。宮城へ。この電報はうたれた。その「イエ」は、この自立会のことであった。
 壁が乾きたての小アパートという風なその二階建の建物は、ひろい農地のまんなかにポツンとたって秋日和に照らされている。門と玄関口との間が広場で、その一方に足場をほぐした丸太や板がつみ重ねてあった。それによりかかったりして、十五六人の女のひとたちがかたまっていた。まちまちの服装で、だれもかれも大きい袋持参で子供づれのひとも多い。子供たちは母のまわりをはなれないようにしながら、その辺で遊んでおり、赤ちゃんを洋装の上におんぶした若い母が、集って何か笑っている。一年生の遠足でもあるのをそこで待ちあわせている姉や母たちというその場の空気である。牧子は、
「大分お集りだこと……」
 小声になって、自分と子供はひろ子からはなれるようにした。
「わたしは、ただあなたにお目にかかりたくて来たんですから、皆さんとは別なんです。――お待ちしておりますわ」
「何にも大してむずかしい集りじゃないらしいことよ。かまわないじゃないの、いらっしゃいよ」
 ひろ子は、きょうの女のひと達の集りは、これから何か仕事をしてゆく人々の顔あわせのような意味のものとして、重吉から伝えられていた。
「――石田さんでしょう?」
 赤ちゃんおぶっている若いひとと話していた一人がひろ子によって来た。
「もう眼はよくおなりになったんですか」
 ひろ子が熱射病で一時視力を失っていたことを知っていて、きいてくれる人があり、又逆にひろ子の方から、
「まあ、来ていたの」
と、足早によってゆく若い人々もあった。
 服装がばらばらなとおり、めいめいの生活もめいめいの小道の上に営まれて来ているのだけれども、きょうは、そのめいめいが、どこかでつかまっていて離さなかった一本の綱を、公然と手繰たぐりあってここに顔を合わせた、そういう、一種のつつましさと心はずみの混った雰囲気が材木置場のまわり、婦人たちの間にただよっていた。何かのはじまりという期待と、同時に見当のつかなさもその顔々にあって、それは、玄関口の敷居や階段につけられた土足のあとの一つ一つがまだ目新しい自立会の生活全体の新しさと、全く調和している。
 日向をさけて、建物のひさしの下によって佇みながら、ひろ子は、この女のひとたちの集っている光景を美しいと思って眺めた。そこにはいろんな顔をした子供たちがいる。その母たち一つ一つの顔には生きて来た経歴が表情となって刻み出ており、しかも、このひとときの共通な信頼にくつろぎ、秋の日向にかたまっている。目に見えない旗日があった。ひろ子は、この広場の上を、いまおだやかにことなく過ぎてゆく時の流れの深みを、感動なしに感じることが出来なかった。
「どうしたんでしょう……もうそろそろ二時ですよ」
 腕時計を見た一人がつぶやいた。集りは一時から開かれる予定であった。
「きいて来ましょうか」
 建物の中へその人が入って行った。そして髯を生やした小柄な男と一緒に現れた。その髯をつけたひとは、ちょっと片手を腰に当てる恰好で、
「徳田さんは今地方から来た人と会議中ですから、それがすんだらすぐはじめます。すみませんがもう少し待って下さい」
 もう一遍、
「会議がすめば、つづいてすぐやりますから」
とくりかえした。よく響く声のたちで、眼や額の皮膚は清げなそのひとが、どういうわけか小柄な体にすこしあかっぽい大髯をつけて、年のわからないような威風あたりを払っている様子にはユーモアがあった。拘置所では世間並に髪を生やしておくのにさえ蓄髪願という書類を出さなければならなかった。こんな大きい髯をもっているために、この同志はどんな書類を書き、人間は自分の髯については、それをのばしても刈っても自由な権利をもっているのだということについて、がんばって来たのだろう。人権に関する最初の戦利品というようなその髯をみて、ひろ子は微笑をおさえることが出来なかった。
 髯の同志がきょうの世話役らしく、暫くすると階段の下から、
「みんな、集って下さい」
 また響きのいい声で呼んだ。牧子と子供とが、どうしようかしら、という風にひろ子のわきに立って躊躇しているのに目をとめた。
「あなたも来て下さい。遠慮なんかいりゃしない」
 一同は二階の一室の三方へ詰って坐った。建物のはずれの室で二方に大きい窓が開いた床の間つきの六畳であった。二三人の男のひとたちが、床の間のかまちに腰かけて、三尺の入口のふみこみのところだけ、すこしすきがのこされた。
「あ、ようござんす。それはまたそれで、あとからやりますから……」
 ござんす、というところがいく分鼻にかかるなまりを響かせながら、坐っているみんなに挨拶するようにして徳田球一が入って来た。一方の窓を背にして置かれていた小机の前に坐った。
「どうも今日はお忙しいところをすみませんでした」
 女のひとたちは、そろって行儀よくお辞儀をした。又そろって頭をあげて、黙ったまま眼にちからを入れた表情で、カーキ色の国防服めいたものを着ている、はげ上った、精悍せいかんな風貌を見つめた。
「わたしは、外国へやられたり、牢屋へ入ったりばかりしていて、これまでに結婚生活をしたのは、たった七ヵ月ぐらいのもんでした。だから、御婦人の生活をよく知っているとは云えないかもしれないが、見ていると、実に日本の婦人の生活は過労です。気の毒にたえないほど疲れはてた状態だと思うんだが、どうですか」
 赤ちゃんを背中から膝の上にだきとり、さもなければ牧子のように一人わきに坐らせて、もう一人はおなかの中で今育てているというようなひとも幾人か加っている一同は、全く云われるとおりという面持で応えた。
「日本の男は婦人たちをもっと、しんから可愛がらなくちゃいかんと思うんです。婦人の生活が、もっと合理的になるように、過労しないですむように、大いに努力して、改善して行かなくちゃならない」
 そして、日本の社会の歴史の中で婦人がおかれて来た事情と、民主主義というものの、三つの段階と、それぞれの段階での婦人の立場が説明された。
 婦人ばかりがぎっしりつまった狭い室だが、開けはなされた二つの大窓から流通する光線と大気とは、すがすがしくて、秋の午後の清潔なぬくもりが室じゅうにとけている。窓からは遠く森や丘のつらなった外景と、その上の空が見えていて、風景は骨組の大きい一人物の肖像のバックをなした。深くはげ上ったかたい前頭。熱中して性急に話すにつれて、その主張をききての心の中へ刺しこもうとするように動き出す右の手と人さし指の独特な表情。引きしまって、ぼやついたところのない音声と、南方風なきれの大きいまなじり。話につれて閃く白眼。その顔のすべての曲線がつよく、緊張していた。博い引例や、自在な諷刺で雄弁であり、折々非常に無邪気に破顔すると大きい口元はまきあがり、鼻柱もキューと弓なりに張っている。ひろ子は自分が美術家であったら、この、独特な、がっちりと動的に出来上った人物をどういう手法であらわすだろうと思った。一番ふさわしいのは、永年かかって、漆で塗りかためた乾漆であると思えた。顔全体が赧みがかった茶色で、眦を黒々と、白眼を冴えて鼻は大きく、そこにどんな雨がふりそそごうと、その雨は粒々になって鼻のさきや顎、額からころがりおちてしまって、ちっともしんはぬれもくさりもしない乾漆のつよさ。同時に、そとからの様々な意志に向っても屡々それをはじき返すだろうような一徹さ。それはだぶついていつも曖昧さを漂わせている日本の名士づらに鋭く対照する面構えである。
 この指導者が、縦横無尽という風に、ときに悪態さえ交えながら、しかも、婦人たちの本能的なつつしみには自然のいたわりをもっていて、荒っぽく、しかも淡白な話ぶりをもっていることに、注意をひかれた。この人の悪口は、火の中から出したばっかりのかなごてのようだ。あつくて、ジリッとし、やけどをさせ、また消毒力ももっている。その味は、雨の滴もころがり落ちてしみこめない漆ぬりの風貌全体と、一致していた。
 この人物をとり囲んで坐っている婦人たちは、何とぼんやりと軟かく、婦人たち、という一般性の中に自分たちの肉体と個性とをとかしこんでいるだろう。それにしても、一つ一つの顔は、人生の一つ一つを物語っており、婦人の様々な必要、希望、苦痛そのものの生きた姿として、そこにつめかけ坐っている。
「坊や、いい子でしょう、おとなに、お話きいてましょうね」
 もじつく子供にそう云って、その小さい肩へ片手をかけて、母たちは熱心に傾聴している。自分で自分を解決してゆこうと欲している。そういう熱意があふれ感じられた。
 ひろ子は、さっき建物のそとで待っているときにうけたと同じような感動を、一座の光景から感じた。婦人の集会でこれまでただ一度もこんなに公然と、しかも新しい社会の建設にともなう婦人の将来を話し合う場所はなかった。
 説明が終ってから、婦人の側からの発言が求められた。一座をみわたせば、そこに坐っているほどの女のひとたちは、みんな十分会合に馴れていると思えた。落付きのいい坐り工合が、それを語っていた。しかし、自分から発言する人はいなかった。そこに、すべての婦人が苦しく、ちりぢりばらばらにさせられて凌いで来た十数年の月日がてりかえされた。中国地方から来ていた一人のひとが、その地方の婦人の事情を報告した。ひろ子が名ざされて、一九三二年から以後の婦人の生活や文化の状況を短くまとめて話した。居合わせている婦人たちは、ひろ子が知っているよりもっと細部についてわかっている。けれども、十八年、監獄におかれた人は、それについて知っていて知っていないだろう。ひろ子は、そのことをことわって簡単に話した。
 段々座がくつろいで、いくつもの声が物を云いはじめた。二十歳をすこし出たばかりぐらいのふっくりとして愛らしい人と、速記をやってもう仕事をたすけている二十四五のひととが、臨時の書記にきめられた。数人のひとが、又この次日をきめて集るということになった。婦人に関係する綱領がつくられる仕事があった。
「長井さん、あなたが引こんでいるってことはないわ、出なさいよ」
「ええ。――そうも思うんだけれどもね、……」
 かたまって話し合いながら階段をおりてゆく婦人たちは、主に、十月十日にかえった良人と一緒に、ここに住んでいる人たちであった。
 会合がすむとすぐ下の炊事場で、これらの人たちが分担している活動がはじまった。台の下やその他の隅々はまだ真新しいコンクリート床で、みんながきまって盛に往来するところだけ泥あとのついた炊事場で、ポンプをくみ上げる音、薪をわる音がおこった。
 夕闇の濃くなったそとへ出ようとする玄関口の受付に、電燈がともっていた。そこにかたまっている若い人々の群の中から、つとはなれて、ひろ子の前に来て立った人があった。その顔は笑っている。瞬間、とまどったひろ子は、目を据えてみて、
「まあ、ようこそ!」
 覚えず片手をさし出した。太平洋戦争がはじまる前まで、新交響楽団の定期演奏会は前売切符を会員に送った。その時分にひろ子もよくききにゆき、山沼というその青年も、大抵ききに来ていた。音楽をきいた帰りに、お茶をのみに歩いたりしても、山沼は、或る種の若い人のするような話しぶりをせず、いつも落付いた科学者であった。山沼に会ったのは古くて、ひろ子の友達の長男と同級のよしみで、落ちあったのが縁であった。こういう青年も、今はこの場所に来ている。しかも、受付にかたまって、若い人々の中にいたときの空気でみれば、山沼はおそらく、ひろ子などよりはるかにここに近く暮しはじめている様子だった。
「何年ぶりでしょう。――お元気でいいわね」
「石田さん、体どうですか」
 山沼は、やはり、もとの通りやさしく、しかし必要なことしか云わなかった。
「じゃあ、また」
「お元気で。よろしく」
 ひろ子は、待っていた牧子と一緒になった。純吉は、暗いし眠いし歩けなくなって、牧子におんぶされている。
「失礼ですがあの方、よく御存じですか?」
 しめりはじめた草むらが匂う道を歩きながら牧子がきいた。
「よくって云えるかどうかしらないけれど――なあぜ?」
「たしか、瀬川の御友達のかただったと思うんですけれど……わたしは御存じないんです」
 きょうが目には見えない女と子供のひとつの旗日であったように、誰の目にも見えないカドリールの輪がある。そうひろ子は思った。古風なカドリールの音楽につれて、手から手へ繋がりあって、送られて、まわって、又新しい手につながれて動いてゆく、見えない仲間のカドリールがあるという陽気な気がした。
「ここは、まるでノアの箱舟ね」
 ひろ子が、笑って云った。
「何でも一応あるのね、あんなに大きい髯まであったわ。気がついたでしょう?」
「ほんと」
 眠って軟くまるまる純吉をゆりあげながら牧子も笑った。そして、二人は明るいとき通ったほこりの深いゴロタ石の道を駅に向った。先へゆく一団の中に懐中電燈をもっている人があって、その蒼い光のすじが、ときどき前方の木立の幹や草堤の一部をパッと照らし出した。

        六

 重吉の左脚の筋炎は、一週間ほどして段々納まりはじめた。日当りのいい八畳に臥ている重吉の湿布をとりかえながら、
「こんどの足いたは、可哀想だったけれど、わるいばかりでもなかったわねえ」
 ひろ子が、云った。
「こんなにして、昼間、しずかに臥ていらっしゃると、しんから休まるでしょう?」
「たしかに、そういうところはあるね」
「世話するものがついていて、すこし工合をわるくして臥ているというようなきもちなんか、あなたとしてこんどがはじめてなのねえ」
 そういうことのほかに、幾日も外出しないで重吉がうちにいるということは、ひろ子にとっていろいろの意味をもたらした。
 自立会へ行った翌々日、卓の上に飾っていた牧子からの白い小菊の水をとりかえていると、臥ている重吉が、彼の公判に関係のある古い書類を出すように云った。
「在るんだろう?」
「それはとってあるわ」
 そう云いながら、余りしまいこんでいて、その紙ばさみがなかなか見つからなかった。ベッドのしまってある奥の小部屋で、いくつもの包みの紐をといて見ているうちに、必要な書類が出るより先に、一つの大型ハトロン封筒が出た。裏に、文学報国会と紫のゴム印が捺されてある。封筒の中にはひろ子の小説をうつした原稿が入っていた。
 見つかった書類と一緒に、ひろ子はその封筒をもち出した。そして、重吉の仕事が一段落ついたとき、
「こういうものが出たわ」
 その封筒を見せた。
 裏をかえしてみて、重吉は、
「文学報国会とあるじゃないか、何だい」
と云った。
「なかを見てよ」
「その日の雪」という題と名だけはひろ子の自筆でかかれている三十枚ほどの小説を、重吉は怪訝そうに、ところどころよんだ。
「誰かに写させたのかい?」
「文学報国会で、戦争中、作品集を出す計画があったんです。そのとき、わたしも会員だったから、作品一篇自選しておくれと云って来たの。それを送ったら、都合によってお返しするとかえして来たのよ」
「ひろ子が自分から送ったのか」
「ええ」
「わざわざ写させてか?」
「そうなの」
 重吉は、口元に一種の表情をうかべて、少し念入りにその原稿を見直した。
「婦人雑誌に、何だか中途半端な小説をいくつか書いていたときがあった、あの一つだね」
「そうなの」
 原稿を床のそとの畳へ放り出すように置いた。
「ほかの人達もみんな出したのか」
「そうでしょうと思うわ」
「そして、その本は出たのかね」
「どうなのかしら――わたしは見たことないけれど……」
 重吉はしばらく黙って、ひろ子の顔をまじまじと見つめた。ひろ子も、その重吉の二つの眼が、ふだんとちがって濃い睫毛に黒くふちとられた四角い二つのまなことなって自分の上にあるのを見ていた。
「ひろ子、覚えているかい? 俺が、文学報国会なんてものは脱退しろ、とあんなに云ったとき、何てがんばったか。――あなたには外の様子が分らないからって、がんばったんだぜ」
 そのときのいやさが忘られないように、重吉はひろ子の口真似をして云った。
「そうなのよ。だから、わたし、この封筒もお目にかける気になったの」
「わからないことがあるもんか――ちゃんとわかっていたじゃないか。――会費を送るのはやめたかい?」
「やめたわ。それは大抵の人がやめたでしょう」
 もと文芸家協会として組織されていたものが、団体ぐるみ文学報国会というものになって、会員の一人だったひろ子も自然そこにひっくるめられていた。
 またしばらく黙っていたのち、重吉がいかにも笑止千万という顔つきで、
「この小説、もしもさきでことわって来なかったら、ひろ子はのせていいと思ったのかい」
「のせたい、と思ったのじゃあないのよ。のせた方がいいだろう、そう思ったのね。あの時分……」
 そのことが話したくて、ひろ子は、その封筒も重吉の前に持ち出したのであった。戦争が進み、情報局がすべての文化統制を行って、文学者やその作品をすっかり軍用に統一しはじめた頃、ひろ子たち一群の作家は、不安な状況に陥った。一九四一年の一月から、ひろ子ははっきり作品発表を禁止されて、それからは却って、立場も心もちもきっちり定った。生活万端いかにも苦しいけれども、自分は自分なり、と落付くところがあった。それまでの一年間ばかりはすべてが不安定で、ひろ子は、自分だけが、例えば文学報国会を脱退することで、一層くっきりと目立って孤立することがこわかった。防空壕にたった一人で入っているより多勢といたいこころもちがあった。文学の分野でも、情報局の形をとった軍部の兇悪な襲撃を、たった一人で、我ここに在りという風に、受けとめる豪気がひろ子にはなかった。みんなのいるところに出来るだけ自分も近くいたいという人恋しさがあった。けれども、重吉が、笑止千万という表情でひろ子を見るとおり、ひろ子のそんなこころもちは、書くものを御用に立てない以上、役人にとっても笑止千万なことであったろう。その頃文学報国会の役人は、もう文学者ではなくて、役人どころか情報局の軍人が入って来ていた。
「あのころ、ひろ子が、つべこべ云うのが、不思議でたまらなかった。実にはっきりしているんだもの。どうして、自分の亭主の頸に繩をかけているものを一緒んなってひっぱるようなことをするんだろうかと思った」
「私もそう思うわ。だから、あなたは、よくああいう風におだやかに云っていらっしゃれたとびっくりするの」
 面会のとき、文学報国会を脱退するしないの話が出た時、重吉は、おだやかにそのことを云い、ただ、おどろくばかりの根気づよさで、それをくりかえした。きょうも。あしたも。又その次に会ったときも。ひろ子が、遂に云いわけや口実をこねくりまわす余地がなくなる迄くりかえした。
「わたしが、本当にすっきりしたのは、あなたの公判をずうっと一緒にやって行って、それが終ったときだっと思います。――手紙にも書いたわねえ」
「うん」
「前から、いつも云っていたでしょう? 自分という船の自分のコースがしっかり出来たら、どんなにいい気持でしょうって。岸沿いに、岸の灯にひきよせられたり、そうかと思うとなみに押しのけられたりしていないで、水の深い沖を自分のコースに従って堂々進行する船になりたいって。――あなたの公判がすんで、江波土に行ったことがあったでしょう。あのとき、はっきりわかったのよ、自分がいつの間にかもう沖へ出たことが。自分のコースというものはもう辿られていたことが分ったの。……だから、わかるでしょう? 私がどんなにあなたの力漕りきそうをありがたく思ったか」
 ひろ子の妹が、疎開して、夷隅川のそばの障子も畳もない小屋に菰垂こもだれの姫というような暮しをしていた。ひろ子はそこで、潮の香をかぎ、鯨油ランプの光にてらされる夜、濤の音をきき、豆の花と松の若芽の伸びを見ながら、井戸ばたでよごれた皿などを洗って数日くらした。その数日は、それまでの数年間のくらしの精髄が若松のかおりをこめた丸い露の玉に凝って、ひろ子の心情にしたたりおちるような日々であった。
「――チェホフが、おくさんのクニッペルにやった手紙およみになった?」
 ひろ子は、封筒の中へ、原稿をしまいながら、重吉にきいた。
「今おぼえていないな」
「チェホフは、しゃんとした人だったのねえ、クニッペルに、芸術家としてお前自身の線を出せ、自分の線を発見しろ、とくりかえし云っているのよ。――でも、私はつくづく思ったわ。クニッペルにはおそらく特色とか個性とかいう位にしかうけとられなかったでしょうと。――ある芸術家の線なんて、全く歴史的だわ、ねえ。線としてまとまる要素なんかほんとに複雑だわ。しかし、まとまるためには微妙きわまる媒介体がいるのよ。それは、理窟じゃないわ、ただの理窟じゃないわ。実に人間らしい情理が一つになったものだわ――そうでしょう?」
 重吉の床のわきで羽織のほころびをつくろいながら、ひろ子はそんなことを熱心に話した。もう重吉は、つぎは俺がしてやると云わず、よみかけの書物を枕のわきに伏せながら、仰向きにねていた。

        七

 十日ほど重吉が引こもっていたうちに、丘と丘の間にある自立会に向って、四方から流れよって来ていた力が、渦になって、そろそろと仕事の中心を、市内へ押し移しはじめた。
 ある朝、出がけに、重吉はひろ子に一枚の紙きれをわたした。
「こんど事務所がそこになるんだよ、きょう、昼ごろ、弁当とどけて貰えるだろうか」
「この新しい方へ?」
「ああ」
「いいわ」
 紙きれには鉛筆であっさり地図がかかれていた。元電気熔接学校というところが赤旗編輯局へんしゅうきょくと示されている。
「この地図頂いておいていいの? あなたは大丈夫?」
「大丈夫だ。代々木の駅からすぐだよ、二本目の道を来ると、左側だ」
 時間をはからって、ひろ子は弁当包みをもって代々木駅に降りた。ごくたまに乗換のとき、しかもひろ子の記憶では、のりまちがえて間誤付きながら乗りかえるようなとき、二三度のぼりおりしただけの代々木駅の前に立って、地図のいう二本めの道をさがしたが、はっきり見当がつかなかった。やや暫く立っていて、ひろ子にはそれが二本めと思えたアスファルトのひろい道を左へ歩き出した。じきだというのに、左側にそれらしい建物もなくて、人家らしいものはなくなり、ガードと、神宮外苑の一部が見えはじめた。ひろ子は、心細くなってリアカーを曳いた男と立ち話をしていたエプロン姿のお神さんに、電気熔接学校と云って訊いてみた。そこのガードをくぐって左へ出ると、ロータリーと交番があって、そこを又左へとおそわった。その辺はすっかりやけ原で、左手にいくらか焼けのこった町筋がある。そちらへ辿ってゆくと、右手にコンクリートの小ぶりな二階建が見えはじめた。重吉は左側だと云った。だのに、右側にあるのがそれらしい。半信半疑に近よったら、長方形の紙に、赤旗編輯局とはり出されて、両開きのガラス戸の入口がしまっていた。
 赤旗編輯局。――ひろ子は、その字がよめる距離から入口のドアをあけるまで、くりかえしくりかえし、その五字を心に反覆した。これまで、日本ではただの一遍も通行人に読まれたことのなかった表札であった。赤旗という新聞を知っているものも、その編輯局と印刷局が、どういうところにあるのかは知っていなかった。人々が十数年前、どこか市内の土蔵の地下室にその印刷所があったことを知ったときは、スパイによってその場所があばかれ、当時活動していた重吉たちすべてに、事実とちがう誹謗の告発がされた時であった。ひろ子の文学上の友人で、その頃、印刷所関係の仕事をしていた詩人があった。このひとは、十一年後の十月十日に解放された。重吉たちはもとより、とりわけその友達が、こうして大きく貼り出されている表札をよんだとき、涙は彼のさりげない笑いの裡にきらめいただろうと、思いやった。一枚の赤旗のために、それをもって女がつかまれば、陰毛をやかれるような拷問を受けた。それを知っていて、女は、やはり赤旗をもって歩きもしたのであった。
 ひろ子は、これまで開けたことのなかった大きな箱のふたでもとるように、丁寧にそっと入口のガラス戸を押して入った。入ったばかりの右手に受付のようなところがあって、つき当りは、薄暗いガランとした広土間であった。土間には太い柱がたっている。
 ひろ子は、その辺に誰もいないので、コトリ、コトリ下駄の音をさせながら、左手の階段を二階へのぼって行った。元は活動小屋だったのを、学校に直したというその建物は荒れていた。二階の壁の上塗りははげ落ち、きずだらけで随分きたなかった。妙な建てかたで、数の少い外窓の内側が窮屈な廊下になっていて、その中に広間があった。階段口の右手に、狭い小室が一つある。
 ひろ子は、荒れてきたない廊下のところに立って、重吉はどこにいるかしら、と思った。建物じゅうにまだ人はごく少ししかいないらしかった。永い間人気なく、しめこまれていた埃と湿気のにおう広間の一隅で、その日の午後から開かれる解放運動犠牲者追悼会のために、演壇に下げる下げビラを書いている人たちが四五人働いているかぎりだった。重吉はそこには見当らなかった。すると、階下から二人づれの若い男が、足音を揃えるように登って来て、ひろ子を一寸見て、わきを通りぬけ、右手つき当りのドアの中へ入った。そこには人がいるらしい。しかし、ひろ子は、どうしても、ずけずけ入って行って、内部を知らない室のドアをあける気がしなかった。
 ひろ子が小さかったとき、建築家であった父が、八重洲町の古い煉瓦のビルディングの中に事務所をもっていた。その事務所を、ひろ子はどんなに尊敬し、憧れ、好奇心を動かされたろう。ジリンと入口のベルを手前にひっぱって鳴らすと、爺さんの小使いが出て来た。そして、父のデスクのわきに案内された。事務所は、どこもアラビア糊のような匂いがした。ひろ子は父にことわり、その許しが出ないと、半地下室で青写真が水槽に浮いている素晴らしいみものさえ、勝手に見にはゆかなかった。
 日本ではじめての日の目を見るようになった赤旗編輯局のきたない壁も、古くさくてごたついた間どりも、埃くささも、ひろ子の心にとっては、昔父の事務所で感じたこころもちに似た思いを誘うのであった。ひろ子は、感動のあふれた、子供っぽい顔をして、廊下に立ったままでいた。
 廊下のつき当りが、どこかへ曲っているらしく、そっちから不意に重吉が出て来た。ひろ子は、思わずよって行った。そして、
「きたないけれど――いいわ」
と云った。重吉は笑った。
「こっちへ来るといい」
 つき当りのドアの中は、この建物全体と同じようにまだがらんとしていた。むき出しの床に、粗末な板テーブルと床几とが二列ほどに置かれていた。一方の床几に見知らない人が黒い外套の襟の上から、やせたボンノクボを見せてあちら向きにかけていた。つき当りの板テーブルに、重吉よりはおくれて宮城から出獄した仲間の一人がいた。公判廷でみたときよりももっとやせて、一層角のついた正八角形という顔の感じである。ひろ子は、その手を執って挨拶した。さっきの男二人は、入れちがいに出てゆき、重吉が、
「弁当もって来たかい」
ときいた。
「御一緒にたべたら?」
「僕はあるんです」
 そのひとは、握り飯を出した。重吉とひろ子は弁当箱をあけ、いわしのやいたのを三人でわけて板テーブルの上で食事をはじめた。まだ湯をわかす設備もなかった。
 そして、食べているところへ、一人新聞記者が入って来た。その記者は重吉とうち合わせてあった用向きについて事務的に話してから、煙草に火をつけ、世間話をはじめた。
「この間うちから僕は徳田さんにも会ったし、志賀さんにも会えたんですが、袴田里見さんていうのは、一体どんな人です? どうにも会えないで残念なんだが」
 ひろ子は、ひどく面白がった眼つきで重吉を見た。重吉はおかしそうに笑っていたが、一寸となりを見てから、
「すぐ近くにいますよ」
と云った。
「え? じゃきょう会えますね」
「ここにいるのが、同志袴田です」
 記者の真向いで鰯をかじっていたひとが、
「やあ」
と、笑い出した。
「どうも――これは……」
 記者は、今更床几から立上るのも不自然で間誤付きながら、片脚をそろりと床几の下へかくすようにした。
「ほかの政党だと、幹部連のえばりかたがちがうから、どこにいたって入ってさえ行けば一目でわかるんですが、どうも共産党の人は……失礼しました」
 名刺を出して、頭を下げた。
 格別用談もなくてその記者が去り、やがて黒外套の見知らない人も出て行った。二人きりになったとき、重吉が、出ていたノートを書類鞄にしまいながら、
「ひろ子、来たついでに経歴書、出してゆくか」
と云った。
「経歴書って――」
 突然な気がして、ひろ子は躊躇した。経歴書を出すということは、正式に組織上の手続きをするという意味であろう。
「それは、わたしとしては当然なことだけれど……」
 ひろ子には、今、直ぐ、ここで、という用意がなかった。二つの仕事が両側から一時に迫って感じられた。文学の仕事と、ひろ子が女であるということから自然おこって来る婦人関係の仕事と。その頃、ひろ子には、あとの方の用事が多かった。書くものも、所謂啓蒙風のものばかりの結果になっていた。
 重吉は、いくらか促すように、
「――今、みんなの経歴をあつめているんだ」
と云った。
「――仕事、どういう風になるのかしら。それが分らなくて」
 ひろ子が短い啓蒙的なものをかくたびに、重吉は、仕事を整理しろ、と云っていた。そんなことで、いつ小説が書けるか、と云っていた。文化の各方面で、それぞれ本当の専門家が生れなければならないことは痛感されていた。昔のプロレタリア文化運動とそれにしたがった人々の仕事ぶりの推移をみれば、それはすべての人にうなずける必要なのであった。小説はいつ書くのか、と、とがめるように云う時さえある重吉の考えは、経歴書とどういう角度で結び合わされているのだろう。拒絶する理由はどこにもなかった。それはひろ子にとって、ひろ子が石田の妻であることに等しく自然な本質に立っている。が……
「今すぐ書けなければ、あとでもいいんだ」
 そこへ、又見知らない黒外套の人が戻って来た。ひろ子は、十分話し合えず、すまない、いやな心持でその話はうち切った。

 八時すぎて夕飯が終ったとき、ひろ子から再びその話をとりあげた。
「きょう、もしかしたら、あれを書くようにと思っておよびになったの?」
「そういうわけでもなかった。――どうせ来たんだからと思っただけさ」
 ひろ子は、洗いものはあとまわしにして、昼間自分の心に湧いた躊躇について説明した。
「仕事のことが、その点ではっきりわかれば、わたしは勿論いやというわけはないんです」
「そんなことは、ひろ子自身の仕事ぶりで、何が一番適当したことか客観的に証明してゆけばいいんだ」
「そういう風にやって行っていいなら、ほんとに、うれしいわ」
「だってそれが当然だろう」
「そうだと思うわ。でもね、それが当然だと思われているときいたら、どんなにいろんな人がよろこぶかわからないと思ってよ――何となしに心配していると思うわ。場ちがいのことで、自分の専門が、分らないようになるんじゃないかと心配している人が少くないんだと思うんです……」
 重吉は、自身が文学の仕事から政治の分野に移って行った時代の、非合法の激しい日々を深く思いかえす風だった。
「もとの弾圧や苦労がひどすぎたから、今でもまだおじけづいているところもあるんだね」
「その点だけを一方的に誇張して知ったかぶりをするのが見識だと思っている妙な連中もあるし……治安維持法というものがなかったみたいに云う人があるわ。それがどんなことをやったから、ああなったのか考える必要もないみたいにいう人もあるわ」
 しばらく黙っていて、重吉は、
「だが、いまの、一番ふさわしい仕事をしていい、ということは、作家なら作家としての日常に、歴史的な責任を求めないということじゃあないんだよ」
 ひろ子の理解を補おうとするようにつけ加えた。
「それは、わかるわ。求められるというわけのことじゃないんですもの、土台――自分が求めて、その門に到った、ということなんだもの……」
「文化関係の人は概してこだわるね」
 ひろ子の場合をこめて、更にひろ子の知らない、いくつかの例を、心のうちで調べるように重吉が云った。
「――やっぱり生活や仕事のやりかたが個人的なせいかしれないね。……夫婦なんかの場合、ギャップはうめられなくなるからね」
 最後のひとことを、ひろ子は瞳を大きくしてきいた。重吉がそれを云ったということではなく、一番しまいに、ひろ子が自分で自分のこころもちをきめたのち、はじめて重吉はそれを云った。そのことが、ひろ子のきもに銘じたのであった。

 十二月はじめに、はじめての大会がもたれることになった。赤旗編輯局という表札と同様に衆目の前でもたれる大会として、それは最初のことであったが、歴史の中では第四回目に当った。
 いろいろの大衆的集会も活気にみちてもたれていて、一九四五年の冬は、日本の民主主義の無邪気な発足の姿であった。
 木枯こがらしの吹く午後おそく、ひろ子は、前後左右ぎっしり職場の若い婦人たちで埋った講堂で、ニュース映画を観ていた。それは「君たちは話すことが出来る」と云う題であった。十月十日に、同志たちが解放される前後を中心として、治安維持法と、その非道な所業、その法律の撤廃を描いた映画であった。山本宣治を殺して出来た治安維持法が、小林多喜二を虐殺し、渡辺政之輔その他たくさんの人々を犠牲とした。小林多喜二が命を失ったときの顔が大うつしにされたとき、ひろ子は総毛だって涙をためた。ひろ子は、この顔を自分の眼で見た。小林のおかあさんは、この息子の顔の上に身をなげふせて、優しく優しくこめかみの傷を撫でながら、どんなに泣いたろう。あんちゃん、どげにきつかったろうなあ、そう云って撫でては泣いた。
 その治安維持法によって獄につながれている人々の、生活ぶりが、薄暗いのぞき穴をとおしてうつされた。やがて、この悪法は撤廃されることになって、画面に一つの力づよい手が現れて、特高と書いた塗札をひきむしった。検事局思想部の掛札も、もぎとって床にすてられた。画面にふたたび、府中刑務所のいかめしい正門が見えて来た。遂にこの扉の開かれる日が来ました、という言葉とともに、しずかに、ひろく一杯に刑務所の大門が開いた。急にカメラの角度がかわって、ひろ子たちの方へのしかかって来るように、その門の中からスクラムを組み、旗をかざし、解放された同志たちを先頭にした大部隊が進行して来た。真中に徳田、並んで志賀、その他ひろ子の顔も見分けられない幾人かの人たちが、笑い、挨拶の手を高くふりながらこちらに向って進行して来た。隊伍の足なみは段々精力的に高まって来て、ある角では出獄した同志たちが、肩車ではこばれる姿が見えた。或るところでは、体をうしろに反らせた駈足となり、幾本もの旗は列をとりまいてひらめき、わっしょ、わっしょという地鳴りのような声々とザッザッ、ザッザッと規則正しくふみしめる靴音は津波のように迫って、やがてその蜒々えんえんたる列伍は、歴史的な時間の彼方に次第次第と遠のいて行った。幾千人もの鼓動とともにはき出される、そのわっしょ、わっしょという力のこもった声と、ザッザッ、ザッザッという地ひびきとは、ひろ子を泣かせて、涙を抑えかねた。まわりでもこのとき泣いている人がどっさりあった。涙で頬をぬらしながら、なお、その身内をせき上げるような熱い轟きを追って画面に見入っているひろ子の心の視野に、丁度その隊伍の消え去ろうとするかなたから、二重映しになって一人の和服姿の男が、風呂敷包みを下げ、草履ばきでこちらに向って歩いて来るのが見えるような気がした。こちらに向って歩いて来る人物はぼっつりとたった一人である。しかし、その透明な体の影をつらぬいて、なおわっしょ、わっしょという、ときの声が響いており、ザッザッ、ザッザッという地ひびきはとどろいている。透明な影のように画面から歩み出し、しかし、くっきりと着ている紺絣までも見える人物は、出獄したばかりのイガグリで、笑っていてそれは重吉であった。重吉は一人で歩いている。「君たちは話すことが出来る」と、今は工場の広庭でかたまって話している人々の間を、重吉は歩いて来る。「君たちは話すことが出来る」円く集って話している女のひとたちのよこを、重吉は歩いて来る。ひろ子は、見ている画面が益々幾重にもなって、きのう見て来た代々木の事務所の入口に、かかげられていた横看板の字が、そこに浮んで来るように思えた。すこしくずした太い字で、日本共産党とかかれている。それは、いかにも大きい板をこしらえたどこかの土木業の誰かが勢こんで筆をふるったという風な文字で、肉太で、べろべろして、ちっとも立派ではなかった。しかし、その大看板が車よせの庇の上で、うららかな冬日を満面にうけているところは、粗野だが真情のある大きな髭男がよろこび笑っているような印象を与えた。通りから見あげて、ひとりでに口元がくずれ、昔の女が笑いをころすときしたようにひろ子は、元禄袖のたもとで口をおさえた。その玄関の中では、きのう、もう多勢の人たちが働いていた。重吉たちのように、のびかかったおもしろい髪で働いている人が少くなかった。まるで短かった重吉のイガグリは、ひろ子がさわると、ごく若い栗のいがのような弾力と柔かさで掌にこたえるように伸びて来ていた。そういう髪の人々が、いそがしそうにその建物を出たり入ったりしながら、第四回の、大会の準備をすすめていた。

底本:「宮本百合子全集 第六巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十巻」河出書房
   1952(昭和27)年6月発行
初出:「文芸春秋」
   1946(昭和21)年9〜11月号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年6月25日作成
2007年7月239日修正
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