魚玄機ぎょげんきが人を殺して獄に下った。風説はたちまち長安人士の間に流伝せられて、一人として事の意表に出でたのに驚かぬものはなかった。
 とうには道教が盛であった。それは道士等どうしらが王室の姓であるのを奇貨として、老子を先祖だと言いし、老君に仕うること宗廟そうびょうに仕うるがごとくならしめたためである。天宝以来西の京の長安には太清宮たいせいきゅうがあり、東の京の洛陽らくようには太微宮たいびきゅうがあった。そのほか都会ごとに紫極宮しきょくきゅうがあって、どこでも日を定めて厳かな祭が行われるのであった。長安には太清宮のしも許多いくたの楼観がある。道教に観があるのは、仏教に寺があるのと同じ事で、寺には僧侶そうりょり、観には道士が居る。その観の一つを咸宜観かんぎかんと云って女道士じょどうし魚玄機はそこに住んでいたのである。
 玄機は久しく美人を以て聞えていた。趙痩ちょうそうと云わむよりは、むしろ楊肥ようひと云うべき女である。それが女道士になっているから、脂粉の顔色を※(「さんずい+宛」、第4水準2-78-67)けがすを嫌っていたかと云うと、そうではない。平生よそおいこらかたちかざっていたのである。獄に下った時は懿宗いそう咸通かんつう九年で、玄機はあたかも二十六歳になっていた。
 玄機が長安人士の間に知られていたのは、独り美人として知られていたのみではない。この女は詩をくした。詩が唐の代に最も隆盛であったことは言を待たない。隴西ろうせい李白りはく襄陽じょうよう杜甫とほが出て、天下の能事を尽した後に太原たいげん白居易はくきょいいで起って、古今の人情を曲尽きょくじんし、長恨歌ちょうこんか琵琶行びわこうは戸ごとにそらんぜられた。白居易の亡くなった宣宗せんそう大中たいちゅう元年に、玄機はまだ五歳の女児であったが、ひどく怜悧れいりで、白居易は勿論もちろん、それと名をひとしゅうしていた元微之げんびしの詩をも、多く暗記して、その数は古今体を通じて数十篇に及んでいた。十三歳の時玄機は始て七言絶句を作った。それから十五歳の時には、もう魚家の少女の詩と云うものが好事者こうずしゃの間に写し伝えられることがあったのである。
 そう云う美しい女詩人が人を殺して獄に下ったのだから、当時世間の視聴を聳動しょうどうしたのも無理はない。

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 魚玄機の生れた家は、長安の大道から横に曲がって行く小さい街にあった。所謂いわゆる狭邪きょうしゃの地でどの家にも歌女かじょを養っている。魚家もその倡家しょうかの一つである。玄機が詩を学びたいと言い出した時、両親が快く諾して、隣街の窮措大きゅうそだいを家に招いて、平仄ひょうそくや押韻の法を教えさせたのは、他日この子を揺金樹ようきんじゅにしようと云う願があったからである。
 大中十一年の春であった。魚家の数人が度々ある旗亭きていから呼ばれた。客は宰相令狐綯れいことうの家の公子で令狐※れいこかく[#「さんずい+高」、195-7]と云う人である。貴公子仲間の斐誠ひせいがいつも一しょに来る。それに今一人の相伴があって、この人は温姓おんせいで、令狐や斐に鍾馗しょうき々々と呼ばれている。公子二人は美服しているのに、温は独り汚れあかついたきぬを着ていて、兎角とかく公子等に頤使いしせられるので、妓等は初め僮僕どうぼくではないかと思った。しかるに酒たけなわに耳熱して来ると、温鍾馗は二公子を白眼にて、叱咤しった怒号する。それから妓に琴を弾かせ、笛を吹かせて歌い出す。かつて聞いたことのない、美しいことばを朗かな声で歌うのに、その音調が好く整っていて、しろうとは思われぬ程である。鍾馗の諢名あだなのある于思※(「目+于」、第3水準1-88-76)うさいかんもくの温が、二人の白面郎に侮られるのを見て、嘲謔ちょうぎゃくの目標にしていた妓等は、この時温のそばに一人寄り二人寄って、とうとう温を囲んで傾聴した。この時から妓等は温と親しくなった。温は妓の琴を借りて弾いたり、笛を借りて吹いたりする。吹弾すいたんの技も妓等の及ぶ所ではない。
 妓等が魚家に帰って、しきりに温のうわさをするので、玄機がそれを聞いて師匠にしている措大に話すと、その男が驚いて云った。「温鍾馗と云うのは、恐らくは太原の温岐おんきの事だろう。またの名は※(「竹かんむり/均」、第3水準1-89-63)ていいんあざな飛卿ひけいである。挙場にあって八たび手をこまぬけば八韻の詩が成るので、温八叉おんはっしゃと云う諢名もある。鍾馗と云うのは、容貌ようぼうが醜怪だから言うのだ。当今の詩人では李商隠りしょういんを除いて、あの人の右に出るものはない。この二人に段成式だんせいしきを加えて三名家と云っているが、段はやや劣っている」と云った。
 それを聞いてからは、妓等が令狐の筵会えんかいから帰るごとに、玄機が温の事を問う。妓等もまた温にう毎に玄機の事を語るようになった。そしてとうとうある日温が魚家に訪ねて来た。美しい少女が詩を作ると云う話に、好奇心を起したのである。
 温と玄機とが対面した。温の目に映じた玄機はまさに開かむとする牡丹ぼたんの花のような少女である。温は貴公子連と遊んではいるが、もう年は四十に達して、鍾馗の名にそむかぬ容貌をしている。開成の初に妻を迎えて、家には玄機とほとんど同年になる憲と云う子がいる。
 玄機はえりを正してうやうやしく温を迎えた。初め妓等に接するが如き態度を以て接しようとした温は、覚えずかたちを改めた。さて語を交えて見て、温は直に玄機が尋常の女でないことを知った。何故なぜと云うに、この花の如き十五歳の少女には、ちと嬌羞きょうしゅうの色もなく、その口吻こうふんは男子に似ていたからである。
 温は云った。「けいの詩を善くすることを聞いた。近業があるなら見せて下さい」と云った。
 玄機は答えた。「は不幸にしていまだ良師を得ません。どうして近業の言うに足るものがありましょう。今伯楽はくらくの一顧を得て、※(「足へん+是」、第4水準2-89-42)ほんていして千里を致すの思があります。願わくは題を課してお試み下さい」と云ったのである。
 温は微笑を禁じ得なかった。この少女が良驥りょうきを以て自ら比するのは、いかにもふさわしくないように感じたからである。
 玄機はって筆墨を温の前に置いた。温は率然「江辺柳」の三字を書して示した。玄機がしばらく考えて占出せんしゅつした詩はこうである。
賦得江辺柳
翠色連荒岸すゐしよくくわうがんにつらなり。 烟姿入遠楼えんしゑんろうにいる
影鋪秋水面かげはしうすゐのおもてにのべ。 花落釣人頭はなはつりびとのかうべにおつ
根老蔵魚窟ねはおいてぎよくつかくれ。 枝低繋客舟えだはひくくきやくしうつながる
蕭々風雨夜せうせうたりふううのよ。 驚夢復添愁ゆめよりさめてまたうれひをそふ
 温は一しょうしてしと称した。温はこれまで七たび挙場に入った。そしてつねに堂々たる男子が苦索して一句を成し得ないのを見た。彼輩かのはいは皆遠くこの少女に及ばぬのである。
 此を始として温は度々魚家を訪ねた。二人の間には詩筒しとう往反おうへん織るが如くになった。

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 温は大中元年に、三十歳で太原たいげんから出て、始て進士のに応じた。自己の詩文はしょく一寸をもやさぬうちに成ったので、隣席のものが呻吟しんぎんするのを見て、これに手をしてった。その後挙場に入る毎に七八人のために詩文を作る。その中には及第するものがある。ただ温のみはいつまでも及第しない。
 これに反して場外の名は京師けいしに騒いで、大中四年に宰相になった令狐綯も、温を引見して度々筵席に列せしめた。ある日席上で綯が一の故事を問うた。それは荘子そうしに出ている事であった。温が直ちに答えたのはいが、そのことばすこぶる不謹慎であった。「それは南華に出ております。余り僻書へきしょではございません。相公しょうこう※(「燮」の「又」に代えて「火」、第3水準1-87-67)しょうりいとまには、時々読書をもなさるがよろしゅうございましょう」と云ったのである。
 また宣宗が菩薩蛮ぼさつばんの詞を愛するので、綯が填詞てんししてたてまつった。実は温に代作させて口止をして置いたのである。然るに温は酔ってその事を人に漏した。その上かつて「中書堂内坐将軍ちゆうしよだうないしやうぐんをざせしむ」と云ったことがある。綯が無学なのをそしったのである。
 温の名はついに宣宗にも聞えた。それはある時宣宗が一句を得て対を挙人中に求めると、温は宣宗の「金歩揺きんほよう」に対するに「玉条脱ぎよくじようだつ」を以てして、帝に激賞せられたのである。然るに宣宗は微行をする癖があって、温の名をってから間もなく、旗亭で温に邂逅かいこうした。温は帝の顔を識らぬので、暫く語を交えているうちに傲慢ごうまん無礼の言をなした。
 既にして挙場では、沈詢ちんじゅんが知挙になってから、温を別席に居らせて、隣に空席を置くことになった。詩名はいよいよ高く、帝も宰相もその才を愛しながら、その人をいやしんだ。※(「端のつくり+頁」、第3水準1-93-93)ちょうせんの妻になっている温の姉などは、弟のために要路に懇請したが、何の甲斐かいもなかった。

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 温の友に李億りおくと云う素封家があった。年は温より十ばかりも少くてすこぶ詞賦しふを解していた。
 咸通かんつう元年の春であった。久しく襄陽じょうように往っていた温が長安にかえったので、李がその寓居ぐうきょを訪ねた。襄陽では、温は刺史しし徐商じょしょうもとで小吏になって、やや久しく勤めていたが、つい厭倦えんけんを生じてめたのである。
 温の机の上に玄機の詩稿があった。李はそれを見て歎称たんしょうした。そしてどんな女かと云った。温は三年前から詩を教えている、花の如き少女だと告げた。それを聞くと、李はくわしく魚家のあるまちを問うて、何か思うことありげに、急いで座を起った。
 李は温の所を辞して、ただちに魚家にって、玄機をれて側室にしようと云った。玄機の両親はへいの厚いのに動された。
 玄機はいでて李と相見た。今年はもう十八歳になっている。その容貌の美しさは、温の初て逢った時の比ではない。李もまた白皙はくせき美丈夫びじょうふである。李は切に請い、玄機は必ずしも拒まぬので、約束は即時に成就して、数日の後に、李は玄機を城外の林亭りんていに迎え入れた。
 この時李はにわかに発した願が遽に※(「りっしんべん+(はこがまえ<夾)」、第3水準1-84-56)かなったように思った。しかしそこに意外の障礙しょうがいが生じた。それは李が身を以て、ちかづこうとすれば、玄機は回避して、強いてせまれば号泣するのである。林亭は李がゆうべに望をいだいて往き、あしたに興を失って還るのところとなった。
 李は玄機が不具ではないかと疑って見た。しかしもしそうなら、初にへいしりぞけたはずである。李は玄機に嫌われているとも思うことが出来ない。玄機は泣く時に、一旦いったん避けた身を李にもたせ掛けてさも苦痛に堪えぬらしく泣くのである。
 李はしばしば催してかつて遂げぬ欲望のために、徒らに精神を銷磨しょうまして、行住座臥こうじゅうざがの間、恍惚こうこつとして失する所あるが如くになった。
 李には妻がある。妻は夫の動作が常に異なるのを見て、その去住に意を注いだ。そして僮僕どうぼくくらわしめて、玄機の林亭にいることを知った。夫妻は反目した。ある日岳父が婿むこの家に来て李を面責し、李は遂に玄機をうことを誓った。
 李は林亭に往って、玄機に魚家に帰ることを勧めた。しかし魚は聴かなかった。縦令たとい二親ふたおやは寛仮するにしても、女伴じょはんあなどりを受けるに堪えないと云うのである。そこで李はかねて交っていた道士趙錬師ちょうれんし請待しょうだいして、玄機の身の上を託した。玄機が咸宜観に入って女道士になったのは、こうした因縁である。

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 玄機は才智にけた女であった。その詩には人に優れた剪裁せんさいたくみがあった。温を師として詩を学ぶことになってからは、一面には典籍の渉猟に努力し、一面には字句の錘錬ついれんに苦心して、ほとんど寝食を忘れる程であった。それと同時に詩名を求める念がようやく増長した。
 李に聘せられる前の事である。ある日玄機は崇真観しゅうしんかんに往って、南楼に状元じょうげん以下の進士等が名を題したのを見て、慨然として詩をした。
遊崇真観南楼しゆうしんくわんのなんろうにあそび覩新及第題名処しんきふだいのなをだいせしところをみる
雲峯満目放春晴うんぽうまんもくしゆんせいをはなち。 歴々銀鈎指下生れきれきたるぎんこうかせいをさす
自恨羅衣掩詩句みづからうらむらいのしくをおほふを。 挙頭空羨榜中名かうべをあげてむなしくばうちゆうのなをうらやむ
 玄機が女子の形骸けいがいを以て、男子の心情を有していたことは、この詩を見ても推知することが出来る。しかしその形骸が女子であるから、吉士きっしおもうの情がないことはない。ただそれは蔓草つるくさが木の幹にまとい附こうとするような心であって、房帷ぼういの欲ではない。玄機は彼があったから、李の聘に応じたのである。これがなかったから、林亭の夜は索莫さくばくであったのである。
 既にして玄機は咸宜観に入った。李が別に臨んで、衣食に窮せぬだけの財をおくったので、玄機は安んじて観内で暮らすことが出来た。趙が道書を授けると、玄機は喜んでこれを読んだ。この女のためにはけいを講じ史を読むのは、家常の茶飯であるから、道家の言がかえってその新をい奇を求める心をよろこばしめたのである。
 当時道家には中気真術と云うものを行うならいがあった。毎月朔望さくぼうの二度、予め三日のものいみをして、所謂いわゆる四目四鼻孔云々うんぬんの法を修するのである。玄機は※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがるべからざる規律のもとにこれを修すること一年余にして忽然こつぜん悟入する所があった。玄機は真に女子になって、李の林亭にいた日に知らなかった事を知った。これが咸通二年の春の事である。

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 玄機は共に修行する女道士中のやや文字ある一人と親しくなって、これと寝食を同じゅうし、これに心胸を披瀝ひれきした。この女は名を采蘋さいひんと云った。ある日玄機が采蘋に書いてった詩がある。
贈隣女りんぢよにおくる
羞日遮羅袖ひをさけてらしうもてさへぎる。   愁春懶起粧はるをうれひてきしやうするにものうし
易求無価宝もとめやすきはあたひなきたから。   難得有心郎えがたきはこゝろあるらう
枕上潜垂涙ちんじやうひそかになみだをながし。   花間暗断腸くわかんひそかにはらわたをたつ
自能窺宋玉みづからよくそうぎよくをうかゞふ。   何必恨王昌なんぞかならずしもわうしやうをうらまん
 采蘋は体が小くて軽率であった。それに年が十六で、もう十九になっている玄機よりはわかいので、始終沈重ちんちょうな玄機に制馭せいぎょせられていた。そして二人で争うと、いつも采蘋が負けて泣いた。そう云う事は日毎にあった。しかし二人はただちにまた和睦わぼくする。女道士仲間では、こう云う風に親しくするのを対食と名づけて、かたわらから揶揄やゆする。それにはせんともまじっているのである。
 秋になって采蘋はたちまち失踪しっそうした。それは趙の所で塑像を造っていた旅の工人が、いとまを告げて去ったのと同時であった。前に対食をあざけった女等が、趙に玄機の寂しがっていることを話すと、趙は笑って「蘋也飄蕩ひんやへうたう※(「くさかんむり/惠」、第3水準1-91-24)也幽独けいやいうどく」と云った。玄機はあざなを幼微と云い、また※(「くさかんむり/惠」、第3水準1-91-24)けいらんとも云ったからである。

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 趙は修法の時に規律を以て束縛するばかりで、楼観の出入などを厳にすることはなかった。玄機の所へは、詩名が次第に高くなったために、書をもとめに来る人が多かった。そう云う人は玄機に金を遣ることもある。物を遣ることもある。中には玄機の美しいことを聞いて、名を索書にりてうものもある。ある士人は酒を携えて来て玄機に飲ませようとすると、玄機は僮僕どうぼくを呼んで、その人を門外にい出させたそうである。
 然るに采蘋が失踪した後、玄機の態度は一変して、やや文字を識る士人が来て詩をい書を求めると、それをとどめて茶を供し、笑語※(「日/咎」、第3水準1-85-32)しょうごひかげを移すことがある。一たび※(「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1-86-31)かんたいせられたものは、友をいざなって再び来る。玄機がかくを好むと云う風聞は、いくばくもなくして長安人士の間に伝わった。もう酒を載せて尋ねても、逐われるおそれはなくなったのである。
 これに反していたずらに美人の名に誘われて、目に丁字ていじなしと云うやからが来ると、玄機はごうも仮借せずに、これに侮辱を加えて逐い出してしまう。熟客じゅっかくと共に来た無学の貴介子弟きかいしていなどは、さいわいにして謾罵まんばを免れることが出来ても、坐客があるいは句をつらねあるいは曲を度する間にあって、みずかて欠然たる処から、独りひそかに席を逃れて帰るのである。

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 客と共に謔浪ぎゃくろうした玄機は、客の散じた後に、怏々おうおうとして楽まない。夜が更けても眠らずに、目に涙をたたえている。そう云う夜旅中の温に寄せる詩を作ったことがある。
寄飛卿ひけいによす
※砌乱蛩鳴かいぜいらんきようなき[#「土へん+皆」、205-11]。 庭柯烟露清ていかえんろきよし
月中隣楽響げつちゆうりんがくひゞき。 楼上遠山明ろうじやうゑんざんあきらかなり
珍簟涼風到ちんてんにりやうふういたり。 瑶琴寄恨生えうきんにきこんうまる
※(「禾+(尤/山)」、第3水準1-47-84)君懶書札けいくんしよさつにものうし。 底物慰秋情なにごとぞしうじやうをなぐさめん
 玄機は詩筒を発した後、日夜温の書のきたるのを待った。さて日を経て温の書が来ると、玄機は失望したように見えた。これは温の書の罪ではない。玄機は求むる所のものがあって、自らその何物なるかを知らぬのである。
 ある夜玄機は例の如く、ともしびもとに眉をひそめて沈思していたが、ようやく不安になって席を起ち、あちこち室内を歩いて、机の上の物を取っては、またすぐに放下しなどしていた。やや久しゅうして後、玄機は紙をべて詩を書いた。それは楽人陳某ちんぼうに寄せる詩であった。陳某は十日ばかり前に、二三人の貴公子と共にただ一度玄機の所に来たのである。体格が雄偉で、面貌めんぼうの柔和な少年で、多く語らずに、始終微笑を帯びて玄機の挙止を凝視していた。年は玄機よりわかいのである。
感懐寄人かんくわいひとによす
恨寄朱絃上うらみをしゆげんのうへによせ。 含情意不任じやうをふくめどもいまかせず。 早知雲雨会はやくもしるうんうのくわいするを
未起※(「くさかんむり/惠」、第3水準1-91-24)蘭心いまだおこさずけいらんのこゝろ。 灼々桃兼李しやく/\たるもゝとすもゝ。 無妨国士尋こくしのたづぬるをさまたぐるなし
蒼々松与桂さう/\たるまつとかつら。 仍羨世人欽なほうらやむよのひとのあふぐを。 月色庭階浄げつしよくていかいにきよく
歌声竹院深かせいちくゐんにふかし。 門前紅葉地もんぜんこうえふのち。 不掃待知音はらはずちいんをまつ
 陳は翌日詩を得て、ただちに咸宜観に来た。玄機は人をしりぞけて引見し、僮僕に客を謝することを命じた。玄機の書斎からはただかすかに低語の声が聞えるのみであった。初夜を過ぎて陳は辞し去った。これからは陳は姓名を通ぜずに玄機の書斎に入ることになり、玄機は陳を迎える度に客を謝することになった。

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 陳の玄機をうことがしきりなので、客は多くしりぞけられるようになった。書をもとめるものは、ただ金を贈って書を得るだけで、満足しなくてはならぬことになったのである。
 一月ばかり後に、玄機は僮僕にいとまって、老婢ろうひ一人を使うことにした。この醜悪な、いつも不機嫌なおうなはほとんど人に物を言うこともないので、観内の状況は世間に知られることが少く、玄機と陳とは余り人に煩聒はんかつせられずにいることが出来た。
 陳は時々旅行することがある。玄機はそう云う時にも客を迎えずに、籠居ろうきょして多く詩を作り、それを温に送って政を乞うた。温はこの詩を受けて読む毎に、語中に閨人けいじん柔情じゅうじょうが漸く多く、道家の逸思がほとんど無いのを見て、いぶかしげに首を傾けた。玄機が李のしょうになって、いくばくもなく李と別れ、咸宜観に入って女道士になった顛末てんまつは、ことごとく李の口から温の耳に入っていたのである。

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 七年程の月日が無事に立った。その時夢にも想わぬ災害が玄機の身の上に起って来た。
 咸通八年の暮に、陳が旅行をした。玄機は跡に残って寂しく時を送った。そのころ温に寄せた詩の中に、「満庭木葉愁風起まんていのこのはしうふうおこり透幌紗窓惜月沈くわうしやのまどをとほしつきのしづむををしむ」と云う、例に無い悽惨せいさんな句がある。
 九年の初春に、まだ陳が帰らぬうちに、老婢が死んだ。親戚しんせきたのむべきものもない媼は、かねて棺材まで準備していたので、玄機は送葬の事を計らって遣った。その跡へ緑翹りょくぎょうと云う十八歳の婢が来た。顔は美しくはないが、聡慧そうけい媚態びたいがあった。
 陳が長安に帰って咸宜観に来たのは、艶陽三月の天であった。玄機がこれを迎える情は、渇した人が泉に臨むようであった。暫らくは陳がほとんど虚日のないように来た。その間に玄機は、度々陳が緑翹を揶揄やゆするのを見た。しかし玄機は初め意に介せなかった。なぜと云うに、玄機の目中には女子としての緑翹はないと云ってい位であったからである。
 玄機は今年二十六歳になっている。眉目びもく端正な顔が、迫りるべからざる程の気高い美しさを具えて、あらたに浴を出た時には、琥珀色こはくいろの光を放っている。豊かな肌はきずのない玉のようである。緑翹は額の低い、おとがいの短い※(「けものへん+渦のつくり」、第3水準1-87-77)かしに似た顔で、手足は粗大である。えりや肘はいつも垢膩こうじけがれている。玄機に緑翹を忌む心のなかったのは無理もない。
 そのうち三人の関係が少しく紛糾して来た。これまでは玄機の挙措が意に満たぬ時、陳は寡言になったり、または全く口をつぐんでいたりしたのに、今は陳がそう云う時、多く緑翹と語った。その上そう云う時の陳のことばきわめて温和である。玄機はそれを聞く度に胸を刺されるように感じた。
 ある日玄機は女道士仲間に招かれて、某の楼観に往った。書斎を出る時、緑翹にその観の名を教えて置いたのである。さて夕方になって帰ると、緑翹がかどに出迎えて云った。「お留守に陳さんがおいでなさいました。お出になった先を申しましたら、そうかと云ってお帰なさいました」と云った。
 玄機は色を変じた。これまで留守の間に陳の来たことは度々あるが、いつも陳は書斎に入って待っていた。それに今日は程近い所にいるのを知っていて、待たずに帰ったと云う。玄機は陳と緑翹との間に何等かの秘密があるらしく感じたのである。
 玄機は黙って書斎に入って、暫くして沈思していた。猜疑さいぎは次第に深くなり、忿恨ふんこんは次第に盛んになった。門に迎えた緑翹の顔に、常に無い侮蔑ぶべつの色が見えたようにも思われて来る。温言を以て緑翹をすかす陳の声が歴々として耳に響くようにも思われて来る。
 そこへ緑翹がともしびに火を点じて持って来た。何気なく見える女の顔を、玄機は甚だしく陰険なように看取した。玄機は突然起って扉にじょうを下した。そしてふるう声で詰問しはじめた。女はただ「存じません、存じません」と云った。玄機にはそれが甚しく狡獪こうかいなように感ぜられた。玄機は床の上にひざまずいている女を押し倒した。女はおそれて目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはっている。「なぜ白状しないか」と叫んで玄機は女ののどやくした。女はただ手足をもがいている。玄機が手を放して見ると、女は死んでいた。

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 玄機の緑翹を殺したことは、やや久しく発覚せずにいた。殺した翌日陳の来た時には、玄機は陳が緑翹の事を問うだろうと予期していた。しかし陳は問わなかった。玄機がとうとう「あの緑翹がゆうべからいなくなりましたが」と云って陳の顔色をうかがうと、陳は「そうかい」と云っただけで、別に意に介せぬらしく見えた。玄機は前夜のうちに観の背後うしろに土を取った穴のある処へ、緑翹のかばねを抱いて往って、穴の中へ推しおとして、上から土を掛けて置いたのである。
 玄機は「生ける秘密」のために、数年前から客を謝していた。然るに今は「死せる秘密」のためにおそれいだいて、もし客を謝したら、緑翹の踪跡そうせきを尋ねるものが、観内に目をけはすまいかと思った。そこでせつに会見を求めるものがあると、強いて拒まぬことにした。
 初夏の頃に、ある日二三人の客があった。その中の一人が涼を求めて観の背後に出ると、土を取った跡らしい穴の底に新しい土がまっていて、その上に緑色に光るはえが群がり集まっていた。その人はただなんとなくいぶかしく思って、深い思慮をも費さずに、これを自己の従者に語った。従者はまたこれを兄に語った。兄は府の衙卒がそつを勤めているものである。この卒は数年前に、陳が払暁に咸宜観から出るのを認めたことがある。そこで奇貨くべしとなして、玄機をおびやかして金をようとしたが、玄機は笑って顧みなかった。卒はそれから玄機を怨んでいた。今弟のことばを聞いて、小婢しょうひの失踪したのと、土穴に腥羶せいせんの気があるのとの間に、何等かの関係があるように思った。そして同班の卒数人と共に、※(「金+插のつくり」、第3水準1-93-28)すきを持って咸宜観に突入して、穴の底を掘った。緑翹の屍は一尺に足らぬ土の下に埋まっていたのである。
 京兆けいちょういん温璋おんしょうは衙卒の訴にもとづいて魚玄機を逮捕させた。玄機はごう弁疏べんそすることなくして罪に服した。楽人陳某は鞠問きくもんを受けたが、情を知らざるものとしてゆるされた。
 李億をはじめとして、かつて玄機を識っていた朝野の人士は、皆その才を惜んで救おうとした。ただ温岐一人は方城の吏になって、遠く京師けいしを離れていたので、玄機がために力を致すことが出来なかった。
 京兆の尹は、事が余りにあらわになったので、法をげることが出来なくなった。立秋の頃に至って、つい懿宗いそうに上奏して、玄機をざんに処した。

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 玄機の刑せられたのを哀むものは多かったが、最も深く心を傷めたものは、方城にいる温岐であった。
 玄機が刑せられる二年前に、温は流離して揚州ようしゅうに往っていた。揚州は大中十三年に宰相をめた令狐綯が刺史ししになっている地である。温は綯が自己を知っていながら用いなかったのを怨んで名刺をも出さずにいるうちに、ある夜妓院ぎいんに酔って虞候ぐこうに撃たれ、おもてきずを負い前歯を折られたので、怒ってこれを訴えた。綯が温と虞候とを対決させると、虞候は盛んに温の※(「さんずい+于」、第3水準1-86-49)おこうを陳述して、自己は無罪と判決せられた。事は京師に聞えた。温は自ら長安に入って、要路に上書して分疏ぶんそした。この時徐商と楊収ようしゅうとが宰相に列していて、徐は温を庇護したが楊が聴かずに、温を方城に遣って吏務に服せしめたのである。その制辞せいじは「孔門以徳行為先こうもんはとくかうをもつてさきとなし文章為末ぶんしやうをすゑとなす爾既徳行無取なんぢすでにとくかうのとるなし文章何以称焉ぶんしやうなんぞもつてしようせられんや徒負不羈之才いたづらにふきのさいをおふ罕有適時之用てきじのようあることまれなり」と云うのであった。温は後に隋県ずいけんうつされて死んだ。子の憲も弟の庭皓ていこうも、咸通中に官にぬきんでられたが、庭皓は※(「广+龍」、第3水準1-94-86)※(「員+力」、第3水準1-14-71)ほうくんの乱に、徐州で殺された。玄機が斬られてから三月の後の事である。
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    参照

     其一 魚玄機
三水小牘       南部新書
太平広記       北夢瑣言ほくむさげん
続談助        唐才子伝
唐詩紀事       全唐詩(姓名下小伝)
全唐詩話       唐女郎魚玄機詩
     其二 温飛卿
旧唐書        漁隠叢話ぎょいんそうわ
新唐書        北夢瑣言
全唐詩話       桐薪どうしん
唐詩紀事       玉泉子
六一詩話       南部新書
滄浪そうろう詩話       握蘭集あくらんしゆう
彦周げんしゆう詩話       金筌集きんせんしゆう
三山老人語録     漢南真稿
雪浪斎せつろうさい日記      温飛卿詩集
(大正四年四月)

底本:「森鴎外全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年10月24日第1刷発行
入力:清角克由
校正:ちはる
2001年3月6日公開
2006年4月27日修正
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