病院横町の殺人犯

 千八百〇十〇年の春から夏に掛けてパリイに滞留してゐた時、己はオオギユスト・ドユパンと云ふ人と知合になつた。まだ年の若いこの男は良家の子である。その家柄は貴族と云つても好い程である。然るに度々不運な目に逢つて、ひどく貧乏になつた。その為めに意志が全く挫けてしまつて、自分で努力して生計の恢復を謀らうともしなくなつた。幸に債権者共が好意で父の遺産の一部を残して置いてくれたので、この男はその利足でけちな暮しをしてゐる。贅沢と云つては書物を買つて読む位のものである。この位の贅沢をするのはパリイではむづかしくはない。
 己が始てこの男に逢つたのは、モンマルトル町の小さい本屋の店であつた。偶然己とこの男とが同じ珍書を捜してゐたのである。その時心易くなつて、その後度々逢つた。一体フランス人は正直に身の上話をするものだが、この男も自分の家族の話を己に聞かせた。それを己はひどく面白く思つた。それに己はこの男の博覧に驚いた。又この男の空想が如何にも豊富で、一種天稟てんりんの威力を持つてゐるので、己の霊はそれに引き入れられるやうであつた。丁度その頃己は或る目的の為めにパリイに滞留してゐたので、かう云ふ男と交際するのは、その目的を遂げるにひどく都合が好いと思つた。その心持を己は打ち明けた。そこでとう/\己がパリイに滞留してゐる間、この男が一しよに住つてくれることになつた。二人の中では己の方が比較的融通が利くので、家賃は己が払ふことにして妙な家を借りた。それはフオオブウル・サン・ジエルマンの片隅の寂しい所にある雨風にさらされて見苦しくなつて、次第に荒れて行くばかりの家である。なんでもこの家に就いては、或る迷信が伝へられてゐるのださうだつたが、我々は別にそれを穿鑿もしなかつた。二人はこの家を借りて、丁度その頃の陰気な二人の心持に適するやうに内部の装飾を施した。
 若しその頃二人がこの家の中でしてゐた生活が世間に知れたら、二人は狂人と看做みなされたかも知れない。勿論危険な狂人と思はれはしなかつただらう。二人は誰をもこの家に寄せ付けずにゐた。己なんぞは種々の知合があつたのに、この住家を秘して告げなかつた。ドユパンの方ではもう数年来パリイで人に交際せずにゐたのである。そんな風で二人は外から、邪魔を受けずに暮した。
 己の友達には変な癖があつた。どうも癖とでも云ふより外はない。それは夜が好きなのである。己は次第に友達に馴染んで来て、種々の癖を受け続いで、とう/\夜が好きになつた。然るに夜と云ふ黒い神様はいつもゐてはくれぬので、これがゐなくなると工夫して昼を夜にした。我々は夜が明けても窓の鎧戸を開けずに、香料を交ぜて製した蝋燭を二三本焚いてゐる。その蝋燭が怪談染みた微な光を放つのである。この明りの下で我々はわざと夢見心地になつて、読んだり書いたり話したりする。その内本当の夜になつたことが時計で知れる。それから二人は手を引き合つて往来へ出て、歩きながら昼間の話の続きをする。又夜更よふけまで所々をうろついて珍らしい光明面と闇黒面とを味ふのである。パリイのやうな大都会にはこの両面があつて、吾々のやうな局外の観察者には無限の興味を感ぜさせるのである。
 かう云ふ場合にドユパンは不思議な分析的技能を発揮して己を驚かすことがある。友達はこの技能を発揮して、自分で愉快を感じてゐる。人が誰も見聞してくれなくても好いのである。友達はこの心持を己に打ち明けてゐる。或る時友達は己に笑ひながら云つた。「世間の人は大抵胸に窓を開けてゐて、僕にその中を覗かせてくれるのだね」と云つた。そしてその証拠として、丁度その時己の考へてゐた事をすつかりてゝ己を驚かした。
 この技能を働かせてゐる時の友達の様子は冷澹で、うはのそらになつてゐるやうで、その目はなんの表情もなく空を見てゐる。その声は不断テノル調であるのにこの時はヂスカント調になつてゐる。ちよいと聞くと浮かれてゐるのかと思はれるが、その言語が如何にも明晰で、その思想が如何にも沈着で、決して浮かれてゐるのでないことが分かる。己は友達のさう云ふ様子を見る度に、古代の哲学にある一にん二霊説を思ひ出さずにはゐられない。どうも創造的性質のドユパンと分析的性質のドユパンとがあるやうなのが、己には面白く思はれた。
 かう云つたからと云つて、己が何か秘密をあばかうとするだらうだの、小説を書くだらうだのと思ふのは間違である。このフランス人に就いて己の話すのは簡単な事実に過ぎない。その事実は過度に働いてゐる、事に依つたら病的な悟性の作用かも知れない。当時のこの人の観察の為方は次の例を以て人に理解させるのが最も適当であらう。
 或る晩のことであつた。我々二人はパレエ・ロアイアルの附近の長い、汚い町を、ぶら/\歩いてゐた。二人とも何か考へ込んでゐたので、十五分間程一ごんも物を言はずにゐた。突然ドユパンが云つた。
「実際あいつは馬鹿に小さい男で、どうしても寄席に出た方が柄に合つてゐるね。」
「無論さうさ。」
 己は覚えずこの返事をした。余り深く考へ込んでゐたので、己は最初この問答をなんの不思議もないやうに思つた。併しこの問答は己の黙つて考へてゐることの続きになつてゐる。
 己はそれに気が付いたので、びつくりせずにはゐられなかつた。己は真面目に云つた。
「おい。ドユパン。あんまり不思議ぢやないか。正直に言ふが、今の話は実際君の口から出て僕の耳に這入つたのだか、どうだかと疑はずにはゐられないね。僕の腹の中で考へてゐたことをどうして君は知つたのだ。君には全く僕が誰の事を思つてゐたと云ふのが分かつたのかい。」己はかう云つてドユパンが真にその人が誰だと云ふことをてたのだか、たしかめて見ようと思つた。
「無論シヤンチリイの事さ。なぜ君話を途中で止めたのだい。さつき君はあいつが余り小柄だから、悲壮劇の役を勤めるのは無理だと思つてゐたぢやないか。」
 実際己はさう思つてゐた。シヤンチリイと云ふのは元サン・ドニイ町の靴屋で、それが俳優になつてゐるのである。そいつが此間クレビリヨンの作クセルクセスの主人公を勤めた。そして非常な悪評を受けたのである。
 己は云つた。「どうぞ君僕に言つて聞かせてくれ給へ。一体どんな方法で僕の心が読めるのだい。若しさう云ふ法があるものなら、それを聞かせてくれ給へ。」ことばではかう云つたが、己の不審はとても詞で言ひ現されない程であつた。
 友達は云つた。「君、あの果物屋を見て、それから靴屋のシヤンチリイがクセルクセスだとか、その外古代劇に出て来る英雄の役に不適当だと云ふことを考へたのだらう。」
「果物屋だつて。どんな果物屋だい。僕にはまるで心当がないが。」
「それ。さつきの町の曲角で君につ付かつた男さ。さうさね。十五分ばかり前だつたかな。」
 かう云はれて己は思ひ出した。成程己がC町セエまちから今立つてゐる抜道に曲り掛かつた時、林檎を盛つた大籠を頭に載せた男が己に打つ付かつて、己は倒れさうになつたのだ。併しそれとシヤンチリイとの間にどんな連絡があるか、己にはまだ分からない。
 併しドユパンは決して※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそつきではなかつた。己に説明して聞かせたところはかうである。「そんなら君に言つて聞かせよう。君に得心の行くやうに思想の連鎖を逆に手繰つて見よう。まづ君の考へ込んでゐる時、僕が突然声を掛けた、あの時を起点として、あれから逆に戻るのだね。そしてあの果物屋の打つ付かつた時まで帰り着けば好いわけだね。この連鎖の主な廉々かど/\は一、シヤンチリイ二、オリヨン三、ドクトル・ニコルス四、エピクロス五、立体幾何学六、敷石七、果物屋とかう云ふ順序だよ。」
 思想が転変して或る帰着点に到達する順序を逆に考へて見ると云ふ事は、随分誰でも遣つて見る事である。さう云ふ事は随分面白い。始て遣つて見た人は、その連鎖の始と終とを並べて見て、その二つが非常に懸隔してゐるのに驚くだらう。己は友達の話を聞いて非常に驚いた。それが事実であつたからである。
 友達はかう云つた。「もし僕の記憶が誤つてゐなかつたら、君と僕とはC町から曲る前に馬の話をしてゐたね。それ切り物を言はなくなつたのだ。それから角を曲つてこの抜道に出るとたんに、林檎を盛つた大籠を頭に載せた果物屋が駈けて来て、君に打つ付かつた。その時君は往来に敷く敷石の積んであるのに足を蹈み掛けた。その石がぐら付くと、君はすべつて少し足を挫いた。その時君は腹を立てゝ、何か口の内でつぶやいて、積んである石を一目見て、それから黙つて歩き出した。僕は別段君に注意してゐたわけでもないが、どうもこの頃物を観察するのが癖になつてゐるもんだから為方しかたがない。そこで見てゐると、君は下を向いて歩いてゐる。そして腹立たしげに敷石の穴や隙間を見てゐる。そこで君が敷石の事を考へてゐると云ふことが分かつたのだね。するとラマルチン町の所に来た。あそこには試験的に肋状あばらなりに切つて噛み合せるやうにした石が敷いてあつた。それを見た時、君の顔色が晴やかになつて、君は口の内で何やら言つた。君の唇を見ると、その詞が『ステレオメトリイ』と云ふ詞らしかつた。立体幾何学だね。あの敷石を見てそんな名を付けるのは、随分大袈裟だつたには相違ないよ。君はその詞を口にした跡で、直ぐに『アトオム』と云ふ事を考へた。元子だね。極微ごくみだね。それから哲学者エピクロスの教義を思ひ出した。ところが此間君と哲学談をした時、お互にかう云ふことを言つたね。あの君子風のグレシア人は空想で説を立てたのだが、近世コスモゴニイの研究が出来てから、天体の発展が分かつて来て、エピクロスの説いた事が事実的に証明せられたと云つたね。そこで君がエピクロスの教義を思ひ出したからには、君はそれと同時に、多分オリヨン星の霧を仰向いて見るだらうと、僕は考へた。君は果して仰向いて天を見た。そこで僕の推測の当つたのが分かつた。ところできのふあのミユゼエと云ふ雑誌に俳優シヤンチリイを嘲つた諷刺的批評が出たね。あの批評の中にシヤンチリイが靴屋を止めて舞台に出た時、名を変へたことを冷かしてラテンの詩句が引いてあつた。Perdidit antiquum litera prima sonum と云ふのだね。この詩句に就いては、僕が前に君に話した事がある。僕の云つたのは、この詩句はオリヨン星の事を指したもので、オリヨンの古い名はユリヨンだつたと云つたね。この説明はその時の事情から推すと、君が忘れずにゐるものと考へられるのだね。そこで君はどうしてもオリヨン星を見ると同時に、俳優シヤンチリイの事を思ひ出さずにはゐられないと、僕は考へたね。この推察が当つたと云ふことは、そのとたんに君の唇に現れた微笑で証明することが出来たのだ。君はあの時靴屋上がりのシヤンチリイが劇評家にひどく退治られたのを思ひ出したのだね。それまで君は背中を円くして歩いてゐたところが、丁度その時君は背中を真つ直ぐにして元気好く歩き出した。そこで僕は察したね。君はシヤンチリイが小男だと云ふ事を考へたのだと察したね。丁度その時僕は君に声を掛けたのだ。そしてあいつは小柄だ、寄席にでも出るより外為方がないと云つたのさ。」
 ドユパンの観察法がどんなものだと云ふ事は大体この一例で分かるだらう。
 この事があつてから暫く立つた後である。我々二人は一しよにガゼツト・デ・トリビユノオ新聞を読んでゐた。そしてふいと左の記事に目が留まつた。
「驚歎すべき殺人事件。昨夜三時頃サン・ロツキユウス区の住民はやゝ久しく連続して聞えたる恐しき叫声に夢を破られたり。その叫声は病院横町の一家屋の第四層にて発したるものゝ如くなりき。その家はレスパネエ夫人とその娘との二人の住所なり。最初尋常の手段にて表口より入らんとせしに、戸締の為め入ること能はずして、多少の時間を経過し、隣家のもの八九人と憲兵二人とは、遂に鉄の棒を以て戸を破りて屋内に入ることを得たり。そのひまに叫声はみたり。最初の梯子を駆け上がる時、人々は二人若くは数人の荒々しき声にて何事をか言ひ争ふを聞けり。その声は家の上層にて発したるものゝ如くなりき。第二の梯子に達せし時は、その声も又止み、屋内には何等の物音も聞えざりき。人々は手分けをなし、各室を捜索せり。第四層屋の背後うしろなる大部屋は内より戸を鎖しあるを以て、更にその戸を破壊したり。これに入りたる人々はその惨状を見て恐怖し且つ錯愕さくがくしたり。
 室内の状況は狼藉を極めたり。家具は総て破壊し、所々に投げ散らしあり。一の寝台の敷布団を引き出し、室の中央に放棄したるを見る。一の椅子の上に血まぶれの剃刀あり。カミン炉の上に血の着きたる白髪二三束あり。髪は頗る長く、暴力にて引き抜きたるものと見えたり。床の上にナポレオン銀貨四箇、黄玉くわうぎよくを嵌めたる耳環一箇、銀の大匙三箇、アルジエリイ合金の小匙三箇の外、金貨四千フランを二袋に入れたるものあり。卓の抽斗ひきだし抜き出しありて、手を着けたるものと見ゆれども、猶許多きよたの物件の残りをるを見る。鉄製小金庫一箇、敷布団の下にあり。(寝台ねだいの下にはあらず。)金庫は開きありて、鍵はぢやうの孔に差したる儘なり。金庫内には古き手紙若干と余り重要とも見えざる書類とあるのみ。
 女主人レスパネエ夫人の行方は最初不明なりき。既にして人々はカミン炉の上に多量のすゝあるを見て、試に炉中を検せしに、人の想像にも及ばざる程の残酷なる事実を発見せり。女主人の娘の屍体さかさまに炉の煙突に押し込みありしことこれなり。頭を下にして、非常なる暴力を以て狭き煙突内に押し込みたるなり。体には猶温みありき。皮膚を検するに許多の擦傷すりきずあり。多くは強ひて煙突に押し込みし時生じたるものなるべく、その一部分は引き出す時生じたらんも知るべからず。顔には引き掻きたる如き深き傷あり。前頸部には指尖にて圧したる如き深き痕あり。又暗紫色なる斑あり。これ等は絞殺したるにはあらずやと想像せしむ。
 人々は屋内所々を精密に捜索せしに、前記の他には別に発見する所なきを以て屋後なる中庭に出たり。中庭は石を敷き詰めあり。この中庭に女主人の屍体ありき。前頸部より非常に深く切り込みたる創あり。僅にうなじの皮少許せうきよにて首と胴と連りゐたる故、屍体をもたぐる時、首は胴より離れたり。首もその他の体部も甚しく損傷しあり。就中なかんづく胴と手足とは、殆ど人の遺骸とは認められざる程変形せり。
 右の恐るべき殺人犯は何者の所為しよゐなるか、余等の探知したる限にては、その筋に於て未だ何等の手掛かりをも得ざるものゝ如し。」
 翌日の新聞には、この残酷なる犯罪に関したる記事の続稿を載せたり。その文に曰く。
「病院横町の悲劇。古来未曾有みそうの惨事たる本件に関し、審問を受けたる者数人あり。何人の告条も本件に光明を投射するに足らずと雖、左に一々これを列記せんとす。
 ポオリイヌ・ドユブウルは洗濯を業とする婦人なるが、次の申立をなせり。本人はレスパネエ夫人及その娘と相知ること三年に及べり。これレスパネエ家の洗濯物を引受けゐたるが為めなり。老婦人と娘とは平生仲好く暮し、互に鄭重に取扱ひゐたり。洗濯代は滞なく潤沢に払ひくれたり。生活費は如何なる財源より出でたるか知らず。風聞に依れば、夫人は巫女みこを業とし、人の為めに禍福を占ひ、その謝金を貯へたりと云ふ。本人は洗濯物を受け取りに往き、又返しに往きし時、来客ありしを見たることなし。母子が全く奉公人を使ひをらざりしことは確実なり。家屋には第四層の外、何処いづこにも家財を備へあらざりしものゝ如し。
 ピエエル・モロオは煙草商なり。その申立次の如し。本人は殆ど四年前より少量の刻煙草及嗅煙草をレスパネエ夫人に売却しをれり。本人は近隣にて生れしものにて未曾つて住所を離れたることなし。レスパネエ家の母子は彼屍体を発見したる家に移住してより六年余になれり。彼家屋には初め宝石商の住めるありて、その人は上層の諸室を種々の貸借人に貸しゐたり。元来家屋はレスパネエ夫人の所有なりしに、宝石商これを借り受けをり、濫に上層を他人に又貸ししたる故、夫人はその所為に慊焉けんえんたるものあり。終に自ら屋内に移り来て、それより上層を何人にも貸すことなかりき。老夫人は子供らしくなりゐたり。本人は前後六年の間にレスパネエ家の娘に五六回会見せり。母子とも社交を避けゐたり。世評に依れば財産家なりしものゝ如し。本人は隣家の人の口より老夫人が巫女みこなりしことを聞きしが信ぜざりき。老夫人の家に出入する人は殆ど絶無にて、母子の外出するを見掛けし外には、門番の男の顔を一二回見たると、医師の出入するを八九回見たるとを記憶するのみ。
 その外近隣の人数人の申立あれども皆大同小異なりき。人の全く出入せざる家なれば、母子に親族の現存せるものありや否やを知るものなし。家の前側ぜんそくの窓は曾つて開きありたることなし。中庭に向ひたる窓はいつも閉ぢありて、只第四層の奥の広間の窓のみ開きありき。家は堅牢なる建築にて未だ古びをらず。
 イジドオル・ミユゼエと云ふ憲兵卒の申立は次の如し。本人は午前三時頃レスパネエ家に呼ばれたり。戸口に到着せし時には、二三十人の人屋内に押し入らんとしてひしめきゐたり。本人は已むことを得ず銃剣を用ゐて扉を開きたり。鉄棒を用ゐしにあらず。扉は観音開にて、おとしの如きもの上下ともになかりしゆゑ銃剣にて開くことは容易なりき。叫声は扉を開くまで聞えたりしが、開き終りし時突然止みたり。叫声は一人なりや数人なりや明かならざりしが、必死になりて発せしものゝ如くなりき。高声を長く引きたり。いそがはしげに短く発したる声にはあらざりき。本人は戸口にありし数人と共に梯子を登りたり。第一の梯子を登り終りし時、二人の声を聞き分くることを得たり。二人は声高に物を争ふものゝ如くなりき。一人の声はあららかにそつけなく聞えたり。今一人の声は一種異様なる鋭き声なりき。前の人の詞は一二語を辨別することを得たるが、その人はフランス人なりしものゝ如し。無論女子にはあらざりき。外道げだうと叫び、馬鹿と叫びしを辨別したるなり。後の人は外国人なりしが如し。男女の別明かならず。何国の語とも決し難けれども、恐くはスパニア語なりしならんか。本人の申し立てたる室内の状況は余等が昨日の紙上に記したるところと異ることなし。
 アンリイ・ドユワルは隣家の飾職にして、主に銀細工をなせり。その申立次の如し。本人は屋内に最初に入りたる中の一人なり。初めの状況は憲兵卒ミユゼエの申立に同じ。屋内に入りたる数人は、内より扉を鎖したり。これ深更なるに拘らず多数の人、戸口に集りゐてみ入らんとしたればなり。本人は彼異様に鋭き声を発せし人をイタリア人ならんと思へり。本人の推測するところにては、その人のフランス人にあらざりしことは確実なるが如し。たしかに男子の声なりとも云ひ難けれども、婦人の声とは思はれずと云へり。発音に依りてイタリア語ならんと推測したれども、本人はイタリア語を解せざるゆゑ、何事を言ひしか分からざりきと云へり。本人は平生二人の女子と親しく交り、詞を交しゝ事あるゆゑ、彼の鋭き声の母子の声にあらざる事は疑を容れずと云へり。
 オオデンハイメルは飲食店の主人にして、その申立次の如し。本人は法廷より召喚せられしものにあらず。陳述の為め自ら進んで法廷に出向きたるものなり。本人はフランス語を善くせざるゆゑ通訳に由りて申し立てたり。本人はアムステルダムに生れしものなり。本人は彼屋内にて叫声の起りたる時町を通り掛かりしものなり。叫声の聞えしは数分間と覚ゆ。恐くは十分間位なりしならん。高声を長く引きたるものにて、気味悪く、神経を震盪するが如き響なりき。本人は屋内に入りたる数人の中なり。屋内の事に関する申立は前数人とほゞ同じけれども、只一箇条相違せり。本人の推測するところに依れば、彼の鋭き声は男の声にて、たしかにフランス人なりきと覚ゆと云へり。但し何事を言ひしか明かならず。忙はしげなる高声にて調子不揃なりき。激怒若しくは恐怖に由りて調子を高めたるものゝ如く聞きされたり。前には鋭き声と云ひしが、鋭しと云ふ形容は当らざるやも知れずと云へり。今一人のそつけなき声は度々外道と呼び、畜生と呼び、こらと呼びしを記憶すと云へり。
 ジユウル・ミニオオは銀行業者にして、ドロレエヌ町なるミニオオ父子商会の名前主なり。老ミニオオの方なり。その申立次の如し。レスパネエ夫人は若干の財産ありて、これを商会に預托せしは八年前なりき。時々じゞ別に小口預をなしし事あるのみにて、最初に預けし元金もときんをば曾つて引き出したることなし。然るに変事ありし三日前に、夫人自身にて商会に来り、四千フランを引き出だしたり。この金額は金貨にて払ひ渡すことゝし、使を以て居宅に送り届けたりと云ふ。
 アアドルフ・ルボンはミニオオ父子商会の雇人にて、その申立次の如し。本人は前記の日正午頃四千フランの金貨を二袋に入れ、それを持ちて、レスパネエ夫人に随ひ、その居宅に往きたり。戸口の戸を開きし時、娘出でて一袋を受け取りしゆゑ、今一袋は老夫人の手に渡したり。渡し終りて暇乞し、直ちに家を出でたり。街上にては何人にも邂逅せざりき。病院横町は狭き町にて人通少し云々。
 ヰリアム・バアドと称する裁縫職の申立次の如し。本人は最初に戸口より入りし数人の中なり。イギリス生にて二年以来パリイに住せり。屋内に入りたる後、本人は他の二三人と共に、先に立ちて梯子を登りたり。その時物争ものあらそひするが如き二人の声を聞きたり。そつけなき声の主はフランス人なりと思へり。詞は種々聞き取りしが、多くは忘れたり。只畜生と云ひ、外道と云ひしことだけは、度々明かに聞きしゆゑ忘れず。或る瞬間には数人争闘せるものゝ如くなりき。床を掻くが如く摩るが如き響を聞きたり。彼の異様なる声はそつけなき男の声より高く聞えたり。本人の考にては、異様の声の主は断じてイギリス人にあらざりきと覚ゆ。或はドイツ人なりしかと思はる。尤も本人はドイツ語を解せず。男女いづれか不明なれども、或は女子なりしやも知れずと云へり。
 上記の証人中再び呼び出されたるもの四人の申立に依れば、レスパネエ家の娘の屍体を発見せし室の戸は、人々のその前に至りし時、内より鎖しありきと云ふ。室内は闃然げきぜんとして、人の呻吟する声その他の物音を聞かざりき。扉をこじ開けたる時は何人もあらざりき。窓は前側のものも後側のものも鎖して内より鑰を卸しありたり。二室の界の戸は鎖しありたれども、鑰は卸しあらざりき。前房より廊下に出づる口の戸は鎖して鑰を卸し、鍵を内側に插しありき。第四層の廊下の衝当に小部屋あり。いへの前面に向へり。この室の戸は大きく開きありたり。この室には古びたる寝台、行李等を多く蔵しあり。その品々は一々運び出して、綿密に取調べられたり。その他屋内は隅々まで検査を経ざる所なし。彼の煙突も念の為め十分に掃除せしめられたり。この家屋は四層立にしてその上に屋根裏の数室あり。屋根裏の室より屋根に出づる口には上下うへしたに開閉する扉あり。この扉は釘着になしありて、数年来開きしことなきものゝ如くなりき。最初に物争の声を聞きし瞬間より、レスパネエ家の娘の屍体を発見せし室の戸をこじ開けし時に至るまでの時間の長短は数人の申立一致せず。或は三分間位なりきと云ひ、或は又少くも五分間なりきと云へり。彼室の扉を開くことはさ程容易にはあらざりしものゝ如し。
 アルフオンゾ・ガルシオは葬儀屋営業者にして、病院横町に住せり。このスパニア人の申立次の如し。本人は最初に屋内に入りし数人の中なり。然るに梯子をば登らざりき。これ平生神経質なるがゆゑに、惨状を見て興奮せんことを恐れしがゆゑなり。物争をなす人の声は聞えたり。そつけなき声は男子にてフランス人なりきと思はる。その語をば聞き取ること能はざりき。鋭き声の主はイギリス人なりしこと確実なりと云へり。本人はイギリス語を解せざれども、発音に由りて判断したりと云ふ。
 アルベルトオ・モンタニは菓子商なり。その申立次の如し。本人は最初に梯子を登りし一人なり。疑はしき二人の声を聞けり。そつけなき声はフランス人なりきと思はる。数語をばたしかに聞き取りたり。鋭き声の方は一語をも解せざりき。この声の主は不揃なる調子にて早口に饒舌しやべりたり。或はロシア人なりしかと云へり。その他前記数人の申立に符合せり。本人はイタリア人にて、ロシア人と対話せしことなしと云ふ。
 再び呼び出されたる証人数人の申立に依れば、第四層屋の諸室のカミン炉は皆甚だ狭くして、人の逃れ出づべき容積を有せずと云へり。然れども屋内の煙突は皆尋常煙突掃除人の使用するが如き円筒形の煤刷毛を以て上下とも十分に掃除せられたり。屋内には裏梯子なきを以て、人々の表梯子より登る間に、何人も階上より逃れ去りし筈なし。煙突内にねぢ込みありし娘の屍体は、如何にも無理にねぢ込みしものと見え、これを引き出すには四五人の男力を合せてわづかに出すことを得たり。
 ポオル・ドユマアは屍体検案の為め召喚せられし医師なり。その申立次の如し。本人の呼び出されしは払暁なりき。二人の屍体は娘の屍体を発見せし室の藁布団の上に置かれたりき。娘は擦過創及挫傷の為めに甚しく変形しゐたり。この損傷は煙突に押し込み、又引き出したる為めに生ぜしならん。喉頭は全く圧砕しありたり。あごの直下に数箇の爪痕さうこん及暗紫色の斑点ありき。これ指にて強く圧したるが為めに生ぜしものならん。顔は腫脹しゆちやうせる為め甚しき醜形を呈せり。両眼球は眼※(「穴かんむり/果」、第3水準1-89-51)より突出しゐたり。舌は半ばみ切りありたり。上腹部に大いなる挫傷あり。恐くは膝頭にて圧したるものならん。本人の断定に依れば、レスパネエ家の娘は未詳の数人の絞殺するところとなりしならんと云ふ。母の屍体も又甚しく損傷せられたり。右上肢いうじやうし及右下肢のあらゆる骨は多少挫折せられたり。左脛骨さけいこつ左胸さきようの諸肋骨は粉砕せられたり。その他全身に挫傷及皮下出血多く、一見恐るべき状態を示せり。此の如き損傷を来したるを見れば、膂力りよりよくある男子ありて、手に棍棒、鉄棒、椅子等の如き大いなる、重き、鈍き器を取り、それにて打撃したるものと推測せらる。如何なる武器を以てすとも、女子の力にては此の如き加害をなすこと能はざるべし。母の首は検案の際全く躯幹より切り放し且つ挫滅しありたり。頸を切るには極めて鋭き器を以てしたるならん。或は剃刀なりしかと云へり。
 アレクサンドル・エチアンヌは外科医にして、ドユマアと共に屍体の検案を命ぜられし助手なり。この医師は総てドユマアの証言を是認し、又その断定に同意を表せり。
 以上の外証人として出廷せし人数は少からざれども、特殊なる事実は発見せられざりき。仮に本事件を殺人犯なりとせんも、古来パリイ市中に於て此の如く事体暗黒にして、細部分までも不可思議なる殺人犯を出したることなし。今に至るまで警察は何等の手掛かりをも有せずと云ふ。これ此の如き刑事問題にありては殆ど前例なき事実なりとす。又警察以外の方面より見るに、これ亦この恐怖すべき出来事に対して説明の片影かたかげをだに捉へ得たるものなし。」
 新聞の夕刊には、聖ロツキユウス町ではまだ人心が洶々きよう/\としてゐると云ふ事、犯罪の場所を再応綿密に調べたり、続いて証人を呼び出して審問したりしたが、いづれも得る所がなかつたと云ふ事などが出てゐる。その次に又銀行の小使アアドルフ・ルボンが逮捕せられたと云ふ事が書き添へてあつた。前に新聞に出た申立の外に、別段嫌疑のかどはないのに未決檻に入れられたのである。
 この事件の経過にドユパンはひどく興味を持つてゐるらしく見えた。少くもこの男の挙動を見て、己はさう云ふ推定を下すことが出来たのである。かう云ふ場合の常として、ドユパンはこの事件の事を毫も口にしない。やつとルボンが縛られたと云ふ記事を読んだ時になつて、ドユパンは纔に口を開いて、己にどう思ふと云つた。
 己の意見は当時パリイの市民が一般に懐抱してゐた意見と同じである。この事件は到底解釈すべからざる秘密たる事を免れない。下手人の行方を捜し出す手段は所詮あるまいと云ふのである。
 ドユパンは己の返事を聞いた上で云つた。「どうせ証人の申立なんぞは浅薄なもので、それに由つて捜索の手段を見出すことは出来ないよ。パリイの警察は敏活だと世間で褒められてゐるが、あれは狡猾だと云ふに過ぎないね。何か捜さうとする時には、その刹那々々の思付で手段を極る。その外には手段がないのだ。大抵どうすると云ふ方針の数が極まつてゐて、何事をもそれに当て嵌める。だからどうかするとちつとも実際に適合しない方針を取ることになる。笑話に或人が寝衣ねまきを着て音楽を聞いた事があつたので、その後音楽の好く聞えない時には、その寝衣を出させて着て見ると云ふことがある。パリイの警察もどうかするとこれと同じやうな滑稽を遣るのだね。成程既往に溯つて見ると、パリイの警察が好結果を得たことも沢山あるよ。だがそれは只念を入れて忍耐して捜し出したか、又は八方に手を出して捜し出したかの二つに過ぎない。この二つが駄目になると、警察はどんなに骨を折つても成功することが出来ないのだ。あのヰドツクなんぞは物を考へ当てること即ち射物しやぶつがひどく上手で、忍耐してそれを追躡つゐせふして往くのだ。ところがあいつの思量はなんの素養もないのだから、考へ外れが沢山ある。そしてその間違つた方角に例の忍耐を以て固著してゐるのだから溜まらない。それにあいつは対象物を目の傍に持つて来て視る流義だから、或る一二点を如何にも鋭く見るが、全体を達観することが出来ない。兎角物を余り深く見ようとするとさうなるのだ。ところがいつでも井戸の中さへ覗けば真理が得られると云ふものではないからね。僕なんぞは反対に考へてゐる。あらゆる重大な発見は大抵浅い所にあるのだね。人はその真理を谷間に求めたがるが、それよりか寧ろ山の頂に求めた方が好いのだ。この関係は天体を観察する方法を見ても分かる。人がどんな間違をするか、その間違が何から起るかと云ふことが、天体の例で説明すると分かるのだ。星なんぞを見るのに、それを注視しないで、ざつと横目で見るのが好い。さうすると星が目の網膜の外囲部に映る。そこは中心部よりも微弱な光線を知覚するに適してゐる。そこで星の形もその光も一番はつきり分かる。それを注視すれば注視するほど星の光は濁つて来る。無論注視した時の方が、目に受ける光線は量は多いが、それを感ずることが鈍いから無駄になる。それに反して横目でちよいと見ると、少い量の光線に対する感受性が鋭敏なので却て好く見える。それと同じ道理で深くえぐつた捜索法は人の思量を鈍らせて混雑させる。金星位な星だつてぢかにぢつと見詰めてゐると、とう/\天の何処にもゐなくなつてしまふよ。そこであの殺人事件だがね。あれに就いて考案を立てるには、まづ我々ばかりの手で特別な捜索をしなくてはならないね。そいつが随分面白からうと思ふよ。」
 ドユパンがかう云つた時、あのいまはしい犯罪の形跡を尋ねるのが面白からうと云ふのを、己は随分異様に感じた。併し黙つてゐた。友達は語を継いだ。
「それにあのルボンと云ふ男には、僕は一度世話になつた事がある。だからあいつを救つて遣るのは、僕の為めには報恩になるのだ。兎に角君と一しよに犯罪の場所を実検しようぢやないか。幸僕はヂエ警視を知つてゐるからあそこへ往つて見るだけの許可を得るのは造作はないよ。」
 友達はかう云つて直ぐにそれだけの手続を実行した。そこで我々二人は早速病院横町へ出向いた。この横町はリシユリヨオ町と聖ロツキユウス町とを連接した狭い道で、パリイの横町の中で、一番貧乏臭い横町の一つである。我々の住んでゐる所から聖ロツキユウス町迄の距離は大ぶあるので、我々が病院横町に到着したのは午後遅くなつてからである。犯罪のあつた家は容易に見付かつた。それは大勢の人がその向側の人道に集まつてゐて、なんの意味もなく、物珍らしげに鎖された窓を見詰めてゐたからである。家はパリイの普通の建築で、中央に歩道があつて、その横手に引戸の付いた窓がある。そこが門番のゐる所である。我々は直ぐに目当の家に這入らずに、まづその前を通り抜けて横町に曲つて、家の背後うしろに出た。その間ドユパンは目当の家は勿論、その近隣の家々をも綿密に見てゐた。己はそれを無駄な事のやうに思つた。
 それから我々は再び家の裏口に戻つて、ベルを鳴らして警察の認可証を見せた。番をしてゐた役人が、我々を家の中へ入れた。我々は梯子を登つて、例のレスパネエ家の娘の死骸があつたと云ふ室に這入つた。そこに今は母親の死骸も一しよに置いてあるのである。己の目に這入つたのはガゼツト・デ・トリビユノオ新聞に書いてあつたやうなことだけである。ドユパンは何もかも綿密に検査した。二人の女の体をも見た。それから残の部屋々々を歩いて見て、とう/\中庭に出た。その間憲兵が一人我々に離れずにどこまでも付いて来た。ドユパンの検査は日の暮れるまで掛かつた。役人に暇乞をして帰道に掛かつてから、ドユパンは或る新聞の発送所に立ち寄つた。
 ドユパンと云ふ男が妙な癖のある男だと云ふことは、己はもう話した筈だ。だから己は何事も友達の勝手にさせて置く。その晩にはなぜだか知らぬがドユパンは病院横町の殺人事件の話をわざと避けてしないやうにしてゐた。それから翌日の午頃になつてドユパンは突然己に言つた。「君はあのいまはしい場所で、何か特別な事に気が付きはしなかつたかね。」
 その「特別な」と云ふ詞の調子が己には妙に聞えて、なぜだか知らぬが、己はぞつとした。己は云つた。「いや。どうも特別な事は僕には発見せられなかつたね。僕の気の付いたのは、大抵新聞に書いてあつた位の事だね。」
 友達は云つた。「どうも僕の考へたところでは、ガゼツトなんぞはあの事件の非常に気味の悪い方面に、まるで気が付いてゐないのだね。だが新聞紙の下らない意見なんぞは度外視するとしよう。僕の考では人が解釈すべからざる秘密だと思つてゐるかどが、却てその秘密をあばき易くするわけになるのだね。あの事件の行はれた周囲の状況は、捜索すべき区域を極狭く、はつきりと限つてくれるから、僕は都合が好いと思ふ。なぜ警察がまご/\してゐるかと思ふと、あの場合に人を殺すだけの動機はよしや推測することが出来るとしても、なぜあれ程惨酷な殺しざまをしなくてはならなかつたかと云ふ動機がどうしても見付からないからだ。娘の殺されてゐた部屋に誰もゐなかつたと云ふ事実、それから梯子を登つて行つた人と擦れ違はずに、人間があの家から逃げ出す筈がないと云ふ推測、この二つのものと、多くの人の聞いたと云ふ争論の声とを結び付けることはどうしても出来ない。そこで警察は途方にくれてゐる。それからあの部屋が極端に荒されてあつたと云ふ事や、娘の死骸が頭を下にして煙突にねぢ込んであつたと云ふ事や、母親の死骸に恐しい創が付けてあつたと云ふ事や、その外僕が今更繰り返すまでもない若干の事実が、評判の警察官の鋭敏を横道に引き込んで、警察官は全然観察力を失はされてしまつた。その横道に引き入れられたと云ふのは外でもない。これは極粗笨そほんな、ありふれた誤謬だね。即ち単に尋常でない事と深い秘密とを混同するのだね。ところが目の開いたものから見ると、その尋常でないと云ふ事柄が却て真理のちまたを教へる栞になるのだね。かう云ふ場合に捜索をするには、「どう云ふ事が行はれたか」と云ふよりは寧ろ「行はれた事の中で、どれだけが前例のない事か」と云ふところに着眼しなくては行けない。いづれ僕はこの謎を容易に解いて見せる。いや、もう解いてゐると云つても好い。ところがその容易なところと、警察なんぞの目で解釈すべからざるものと認るところと一致してゐるのだね。」
 この詞を聞いた時、己は呆れて詞もなく友達の顔を見詰めてゐた。
 かう言ひ掛けて友達は入口の戸を顧た。それから語を継いだ。「実は僕は今客を待つてゐる。その客と云ふのは多分下手人ではあるまいが、少くもあの血腥い事件に或る関係を有してゐる人物なのだ。僕の推察では、その男は犯罪の最も重大な部分に対する責任は持つてゐないだらう。大抵僕の推理は適中する積りだ。僕の謎を解く手段は、今来る客を基礎にしてゐるのだから、これが適中しなくてはならないのだ。もうそろ/\来さうなものだと思ふが。それはどうかすると来ないかも知れない。併し先づ僕は来る方だと思ふ。そこで来たらそいつを逃さないやうにしなくてはならない。見給へ。こゝに拳銃が二つある。君も僕も打つ事は知つてゐる。これが用に立つかも知れないのだよ。」
 己はその拳銃を手に取つたが、なんの為めにさうしたのだか分からなかつた。又友達の言つてゐる事も、十分腑に落ちなかつた。ドユパンは構はずに饒舌り続けてゐる。それが独語ひとりごとのやうな調子である。こんな時の友達の様子が、余所に気を取られたやうな、不思議な様子だと云ふ事は、己は前に話した筈だ。友達は己を相手に物を言つてゐるのに、その格別大声でもない声が、なんだか余程遠い所にゐる人を相手にして物を言つてゐるやうな一種の調子になつてゐる。その目はなんの表情もなく向うの壁を見詰めてゐるのである。
「あの梯子を登つて行く人達が聞いたと云ふ、喧嘩をしてゐたものゝ声が女親子の声でないと云ふ事は、証人の申立で証明せられてゐると云つても好からう。さうして見るとお婆あさんが娘を殺して置いて自殺しただらうと云ふ推察は、頭から問題にならない。こんな事を言ふのは余計な事だが、順序を正して話す為めに、僕は言つて置くのだ。お婆あさんには娘の死骸を煙突の中へ押し込む腕力もあるまいし、又お婆あさんの体の創を見ても、自分で付けられる創でないことは分かる。さうして見ると第三者の下手人がなくてはならない。この下手人は単独でないことが、例の物争をした声で分かる。まあ、新聞の中であの声のことを言つてゐる申立を読み返して見給へ。一々皆読んで見なくても好い。目立つたところを繰り返して見れば好い。そこで君には何か特別な事が目に留まりはしないかね。」
 己は簡単に答へた。それはそつけない声をしたのがフランス人で男だと云ふには、殆ど異論がないのに、今一つの鋭い声を出したものに就いては証人毎に変つた判断をしてゐると云ふ点だと答へたのである。
「君の云ふのは証言其ものであつて、その目立つのが何物だと云ふことにはなつてゐない。さうして見ると君にはその特別なところが分からないらしいが、たしかに特別なところがあるのだよ。君の云ふ通りどの証人も所謂いはゆるそつけない声に就いては異論がなかつた。ところが所謂鋭い声となると区々まち/\なことを云つてゐる。イタリア人だとか、イギリス人だとか、スパニア人だとか、フランス人だとか云ふが、要するにその申立をした人が自国の人でなくて、外国の人だと思つたのだ。仮令たとへばフランス人の云ふにはあれは、多分スパニア人であつただらう、若し自分にスパニア語が分かつたら、何を言つたか、一言や二言は分かつたに違ひないと云ふ。又フランス語を知らないので、通訳を以て申し立てたオランダ人は、その鋭い声をフランス人だらうと云ふ。ドイツ語の分からないイギリス人はドイツ語だらうと云ふ。イギリス語の分からないスパニア人は、発音から推測してイギリス人だらうと云ふ。ロシア人の談話を聞いたことのないイタリア人はロシア語だらうと云ふ。イタリア語の分からない、今一人のフランス人はイタリア語だらうと云ふ。これも発音から推測したのだ。さうして見ると所謂鋭い声は余程異常な、不思議な声だつたに相違ない。詰まりヨオロツパ中のどの国の人も自国ではそんな声を聞いた事がないのだ。そこで君はその声の主をアジア人かアフリカ人かであつたかも知れないと云ふだらう。まづさう云ふ人種はパリイには余り多く見掛けない。それは兎も角も僕は君に証人共の申立の中で、三人の言つた事に注意して貰ひたい。一人はその声が叫ぶやうであつて鋭いと云ふのも当らないかも知れないと云つてゐた。跡の二人はせはしく不整調に饒舌しやべつたと云つてゐる。どの証人も言語や言語らしい音調を聞き分けたものがない。これだけの説明をしたところで、君はその中からどれだけの判断を下すか知らないが、僕は証人共の説明した声の性質から、この問題の研究に一定の方針を立てるだけの根拠を見出したと断言することを憚らない。僕は僕の推理が唯一の正しいものだと思ふ。そしてその推理から或る嫌疑が出て来るのだ。僕はその嫌疑に本づいて、あの部屋を見るにも特別な点に注意したのだ。」
「まあ、お互に今あの部屋に這入つたと想像して見給へ。そこで何を捜したら好いだらう。どうしても下手人の逃げた道と、どうして逃げたと云ふ手段とが先に立たなくてはならないね。そこで君だつて僕だつて奇怪不思議な事、超自然の事があるとは信ぜない。これは無論の話だね。そこでレスパネエ夫人と娘とは決して怪物に殺されたのではないとすると、その下手人は血もあり肉もあるもので、それが逃げるには、自然の道に由つて逃げなくてはならない。ところでどうして逃げたゞらう。まづ片端からあらゆる逃道を数へて見よう。大勢の人が梯子を登つて行く時、下手人の仲間は、あの娘の死骸のあつた室かその隣室かにゐたに相違ない。して見るとこの二つの室から外へ通ずる道を考へて見れば好いわけだ。警察では床板や壁や天井まで目を着けて板なんぞを剥いで探つて見たらしい。だから秘密な出口なぞの人の目に付かずにしまつたものゝないことは分かる。ところが僕は役人共の目に信頼することが出来ないから、自分の目で見直した。二つの室から廊下へ通ずる二つの戸口があるが、その戸は締めてあつたのだ。戸のぢやうには内から鍵が插し込んであつた。そこでカミン炉はどうだ。炉の中を見ると、火床の上八尺乃至十尺位の所までは通常の広さになつてゐる。併しそれから上は細くなつてゐて、猫でも少し大きいのは通られない。これだけ考へて見ると、残つてゐる逃道は窓の外にはない。そこで前面の室の窓から逃げようと云つたつて、それは往来に集つてゐた大勢の人に見られるから出来ない。下手人はどうしても中庭に向いた室の窓から逃げたとしなくてはならない。この断案は精密な研究から得来つたものであつて見れば、あの窓からは逃げられさうもないと云ふやうな浅薄な反対を受けても、それでこの断案を飜すわけには行かない。そこでこの不可能らしく見えてゐる事が可能だと云ふことを証明しなくてばならぬ段取になるのだ。」
「あの室には窓が二つある。その一つの窓の側には家具なんぞは置いてない。窓は全形が見えてゐる。今一つの窓の下部は重くろしい寝台の頭の方で見えなくなつてゐる。全形の見える分の窓は密閉してあつた。僕の往くまでにもその戸を下から押し上げて開けようとしたものがあつたのだが、どうしても開かなかつたのだ。その窓の枠の左側には可なり大きい錐孔が揉んであつて、それに一本の釘が殆ど頭まで打ち込んである。今一つの窓を検査して見ると、やはり同じやうな釘が同じやうに打ち込んである。この窓の戸も下から押し上げようとしたつて上がらない。それだけのことは警察の役人も遣つて見て、そこで下手人が窓から逃げた筈がないと決定した。だから役人共はその釘を抜いて窓を開けて見る必要を認めなかつたのだ。」
「ところが僕は今少し立ち入つた研究をした。なぜと云ふに彼の不可能らしい事を可能にするには、この窓の研究を以てするより外に道がないからだ。」
「僕はこの場合に結論から逆に考へて見た。下手人はこの二つの窓の内、どれかから逃げたに相違ない。逃げたとすれば、その窓を内から締めることは出来なかつた筈だ。警察の役人共もこれだけのことは考へたが、そこで行き止まつた。成程窓は締めてあつた。併しどうかして一旦開いた後に、ひとりでに締つたかも知れない。この断案は動かすべからざるものだ。僕は全形の見えてゐる窓に往つて釘を抜いて見た。釘は少し力を入れて引つ張ると抜けたが、窓の戸を押し上げることは、どうしても出来なかつた。そこでこれはどこかに撥条はじきが隠れてゐるだらうと思つた。釘だけの事を考へると、如何にも不思議らしく見えても、撥条があるとすると、解決の道が付くのだ。暫く綿密に捜してゐるうちに、果して隠れた撥条が見付かつた。そこでその撥条を押して見た。僕はまづそれだけで満足して、窓の戸を押し上げては見なかつた。僕は釘を插し込んで置いて、注意して窓の工合を見た。仮に人がこの窓から逃げて外からその戸を締めたとすると、撥条は締まるだらうが、釘は插さらない。それは簡単な道理で、この道理が僕の研究の区域を一層狭めてくれたことになる。即ち下手人は今一つの窓から逃げたに相違ないのだ。」
「そこで二つの窓を較べて見るのに、全く同じ形をしてゐる。撥条も同じであらう。すると釘にはどこかに違つたところがなくてはならない。僕は寝台の藁布団の上に上がつて、寝台の頭の方の蔭になつた所を締密に捜した。手を寝台の向うに廻して探るうちに、果して撥条が手に障つた。僕はそれを押して見た。撥条の構造は全く前の窓と同じであつた。そこで僕は釘を見た。その大きさは前の窓の釘と同じで、やはり殆ど釘の頭まで打ち込んである。君はこゝ迄話すと、僕が失望しただらうと思ふかも知れないが、それは僕の推理の工夫を領解しないのだ。猟師の詞で言ふと僕は決して血蹤はかりを見損なつたのではない。又血蹤を尋ねて行く途中で僕は少しもまご付いたのではない。僕の推理をして来た思想の連鎖は一節毎に正確なのだ。僕は秘密を究竟のところまで追尋つゐじんして来てゐる。どうしても釘に曰くがなくてはならない。見たところでは釘の形は前の窓の釘と同じだ。併しどうしてもどこかが違つてゐなくてはならない。なぜと云ふに外観が同じだと云ふ位なことで、僕の正確な思想の連鎖は断たれないからだ。」
「そこで僕は釘に手を掛けた。すると釘は折れてゐて、頭に二分五厘許の柄が付いて、ぽろりと抜けて、己の指の間に残つた。柄のそれ以下の部分は錐の揉孔の中に嵌つてゐる。この釘の折れたのは余程久しい前でなくてはならぬ。なぜと云ふに折目が※(「金+肅」、第3水準1-93-39)びてゐるからだ。多分釘は槌で打ち込む時折れたのだらう。折れながら打ち込まれて、頭の痕を窓枠の下の方に印するまで這入つたのだらう。己は又その釘の頭を元の通りに錐の孔に嵌めて見た。しつくり嵌つて、折れた釘とは見えない。それから己は撥条はじきを押して窓の戸を二三寸押し上げて見た。窓の戸はすうつと上がる。釘の頭だけが付いて上がる。千を放すと窓の戸は下りてしまふ。釘の頭は依然としてゐる。」
「さうして見ると謎がこゝまでは解けたと云ふものだ。下手人は寝台の置いてある側の窓から逃げたのだ。逃げた跡で窓はひとりでに締まつたのだらう。又窓の外の開戸は逃げた奴がはずみで締まるやうに撥ね返して置いたかも知れぬ。兎に角内の戸は撥条が利いて跡が旨く締まつてゐたのだ。その締まつてゐたのを警察は釘の為めだと思つて、それから先を研究しなかつたのだね。」
「そこで下手人は窓から出たには相違ないが、出てからどうして下りたかが疑問だ。己は家の外廻を廻つて見た時、そこに気を付けて見た。丁度あの窓から五尺五寸許の距離に避雷針から地面へ引いた針金を支へる棒が立つてゐる。併し外から這入るとすると、この棒を登つて往つて、窓に手を掛けることは出来ない。況んや窓から這入ることは出来る筈がない。ところがあの家の第四層の窓の外枠はこの土地でフエルラアドと云ふ構造になつてゐるのに、己は気が付いた。この種類の窓枠は、近頃殆ど造るものがない。リヨンやボルドオの古家でよく見る窓枠なのだ。この構造の窓では、外側の戸は普通の観音開の戸と違つて、寧ろ室の入口の戸に似てゐる。只その下の半分に横に桟が打つてあるか、又は透かしになつた格子が取り付けてある。どつちにしても手で掴むには都合が好く出来てゐる。そこであの家のあの窓の外枠だが、あれは幅が少くも三尺五寸位ある。我々が家を裏から見た時、外の戸は半分開いてゐた。即ち壁の面と直角を形づくつてゐたのだ。多分警察の奴等も家の裏側を検査したには相違ない。併しあのフエルラアドの幅の広いのに気が付かなかつたか、それとも気が付いてもそれを利用するものがあらうと云ふところまで考へなかつたか、二つの内どつちかだ。要するにこんな所から逃げられる筈がないと、太早計たいさうけいに極めてしまつたので、この辺は好い加減に見過ごしたのだ。ところが己はあの窓を外から見た時、外の戸をぴつたり壁まで開くと、針金を支へた枠から二尺の距離に外の窓枠があつて、手が届くと云ふことに気が付いた。さうして見るとこゝに非常に軽捷な然も大胆な奴がゐて、あの棒からあの窓枠に飛び付かうとすれば、飛び付かれると云ふことが、己には分かつた。さう云ふ奴が棒を攀ぢ登つて行つて、壁へ付いてゐた外の窓枠の桟にしつかり掴かまつて、今まで手を絡んでゐた棒を放して、足で壁を踏まへて、体を窓枠にぶら下がらせて撥ね返すと窓の外の戸が締まる。その時窓が開いてゐれば、そいつは窓から室内へ飛び込むことが出来るのだ。」
「そこで君に注意して貰ひたいのは、そんな冒険な事を旨く為遂しとげるには、そいつが非常な軽捷な奴でなくてはならぬと云ふ点だ。僕の説明するのはさう云ふ軽業が不可能でないと云ふのが一つで、それからこれを為遂げるのは、非常に軽捷な奴でなくてはならぬと云ふのが二つだ。かう二段に分けて僕の説明を聞き取つて貰はなくてはならないのだね。」
「この説明を聞いたところで、君には多分不得心なかどがあるだらう。それは窓から這入つて行く奴が非常に軽捷でなくてはならぬと云ふ半面には、そんな軽捷な働を要求する為事を為遂るのは困難だらうと疑はなくてはならぬと云ふことがあるからだ。刑事の役人共も大抵さう云ふ考方をするが、それは理性の歩んで行くべき正当な道筋でないのだ。僕なんぞは只真理を目掛けて、一直線に進んで行く。この場合に僕が君に対してしてゐる説明は、その非常な軽捷な体と、例の不思議な、鋭い、又は叫ぶやうな声とを連係させて考へて貰はうとするにあるのだ。あの証人共が区々まち/\な聞き取りやうをした、詞に組み立てられてゐなかつた声と連係させるのだね。」
 これまで聞いた時、僕はドユパンの説明が、不確ながら、どうやらぼんやり分かり掛かつたやうな気がした。今少しで分かりさうになつて、まだ分からないと云ふ点に到着した。好く忘れた事を思ひ出さうとする時、誰にもそんな経験があるものだが、今少しで思ひ出されさうで、やはり思ひ出されないのだ。友達は語を継いだ。
「僕はあの窓の話をしてゐるうちに、窓を逃道として考へることを止めて、入口として考へることにした。併し僕は這入るにも出るにも、あの窓を使つたものだと考へてゐるから、それで差支へないのだ。そこであの室内の状況を思ひ出して見てくれ給へ。箪笥の抽斗ひきだしは引き出して、中が掻き廻してあつて、何か取つたものらしいが、まだ、跡に品物は沢山残つてゐたと云ふことだつたね。僕が考へると、これは随分不思議な、又馬鹿げた判断だ。跡に残つてゐたと云ふ衣類その外の品物が、抽斗にあつた品物の全部だつたかも知れないぢやないか。レスパネエ夫人と娘とは、世間と交際をした事もない。外へもめつたに出ない。さうして見ると衣類なんぞは沢山いらない筈だ。それに残つてゐる衣類は、その親子の女の身分としては極上等の衣類だとしなくてはならない。若し賊が衣類を取つたとすると、好い物を残して置く筈がない。又皆取らずに置く筈がない。その外金貨四千フランもそつくりあつたと云ふぢやないか。まさか金貨や上等の衣類を残して置いて、不断着を背負つて逃げはすまいぢやないか。然も残つてゐた金貨は夫人がミニオオ銀行から引き出して来た金の全額で、それが袋に入れたまゝ床の上にあつたのだ。警察のやつらは銀行の関係者の証言を土台にして、金を目当の殺人犯だと狙ひを付けてゐるらしいが、僕の説明をこゝまで聞いた以上は、君はそんな見当違ひの所に殺人犯の動機があらうなんぞと思はないことにして貰ひたい。世間には前の出来事と後の出来事となんの関係もない事が幾らもある。金を受け取つて、それからその受け取つた人が三日目に殺されたと云ふより、もつと関係がありさうで関係のない事が沢山ある。兎角練習の足りない人の思想は偶然と云ふ石につまづき易い。それは恐然きようぜんの法則、プロバビリチイの法則と云ふものを知らないからだ。あらゆる学科にあの法則で得た発明が沢山あるのだ。三日前に金を受け取つて殺されたとしても、その金が紛失してゐたなら、金と殺人犯との間に偶然以上の関係があるものとも見られよう。さう云ふ場合には殺人犯の動機を金に求めても好からう。併し今の場合で金を動機だとするには、その下手人を非常なぐづだとしなくてはならない。馬鹿だとしなくてはならない。さうしなくては動機と金とを一しよになげうつたわけになるのだからね。」
「そこで我々は先づこれまで研究して得た重要な箇条をしつかり捕捉してゐる事とするのだね。即ち不思議な声と、それから非常な敏捷な体との二つだ。それからその外にはこれと云ふ動機が全然欠けてゐると云ふ事実をも忘れてはならない。そこで我々はあの殺された女達の創のことを考へて見よう。」
「一人の女は素手で絞め殺して、死骸をさかさに煖炉の中にねぢ込んであつた。どうもこれは普通の殺し方ではないね。殊に死骸の隠し方が不思議だ。そんな風に死骸を煖炉の中にねぢ込むと云ふことは、どうも人間の所為としては受け取れない。如何に人の性を失つた極悪人のした事としても受け取れない。その上女の体を狭い所へねぢ込んで、それを引き出すのに数人の力を合せて、やつと引き出されるやうにしたには、不思議な力がなくてはならないのだね。」
「その外非常な力のある奴の為業しわざだと云証拠がまだある。煖炉の縁の上にあつた髪の毛だね。白髪の毛が幾束も根こじに引き抜いてあつたのだ。仮令たとへ二十本か三十本でも人の髪の毛を一しよに頭から引き抜かうと云ふには、どれだけの力がいるか、考へて見給へ。君も僕といつしよにあの髪を見たのだからね。あの髪の根には頭の皮がちぎれて食つ付いてゐたつけね。何千本と云ふ髪の毛を一掴にして、皮の付いて来るやうに抜いた力は大したものではないか。それからお婆あさんの吭の切りやうだね。吭を切つたゞけなら好いが、頭が胴から切り放してあつた。然もそれが剃刀で遣つたらしいのだね。それだけだつて人間らしくない粗暴な為業だ。その外夫人の体の挫傷も下手人の力の非常に強い証拠になる。ドユマアと云ふ医者と、エチアンヌと云ふ助手とが、鈍い器で付けた創だと云つたが、如何にもその通りで、その鈍い器は、僕の考では、あの中庭に敷いてある敷石だ。警察の奴等がそこに気の付かなかつたのは、例の窓枠に気の付かなかつたのと同じわけだ。内から釘が插してあると云ふだけを見て、それから先は考へずに置くと云ふ流義だね。」
「これまで話した事と、その外室内がひどく荒してあつたと云ふ事とを考へ合せて見れば、次の事実が分かるのだ。非常に軽捷だと云ふ事、一人の力とは思はれない程の力があると云ふ事、人間らしくない粗暴な事をすると云ふ事、意味のない荒しやうをすると云ふ事、これを合せて見ると、残酷の中に人間離れのした異様な挙動があるのだ。そこへ誰の耳にも外国人らしく聞えて、詞としては聞き取られない声を考へ合せて見るのだね。そこで君はどう判断する。どう云ふ考が君には浮んで来る。」
 ドユパンにこの問を出された時、己は骨にこたへるやうな気味悪さを感じた。そして云つた。
「気違だらうか。どこか近い所にある精神病院を脱け出した躁狂患者だらうか。」
「さうさ。君の判断も一部分から見れば無理ではない。併し躁狂の猛烈な発作の時だつて、そんな不思議な声は出さない。狂人だつてどこかの国の人間だから、どんなに切れ切れにどなつても、声が詞にはなつてゐる。そこで僕は君に見せるものがあるのだ。これを見給へ。気違だつて人間だから、こんな毛が生えてゐはしない。」かう云つて友達は手の平に載せた毛を見せた。「これはレスパネエ夫人が握り固めてゐた拳の中にあつた毛だよ。君はこれをなんの毛だと思ふ。」
 己はいよ/\気味が悪くなつて云つた。「成程、それは不思議な毛だね。人間の毛ではないね。」
「さうさ。僕だつて人間の毛だと云つてはゐないぢやないか。併し僕の考を話すより前に、君にこの図が見て貰ひたい。これは僕があの時鉛筆で写して置いたのだ。証人共が紫色になつてゐる痕だと云つたり、ドユマアやエチアンヌが皮下出血の斑点だと云つたりした、あのレスパネエの娘の頸の指痕だよ。」かう云つて友達は卓の上にその紙を拡げた。「この痕で見ると、一掴にしつかり掴んだもので、指が少しもすべらなかつたことが分かる。一度掴んだ手は、娘さんが死んでしまふまで放さなかつたのだ。ところで君の右の手を拡げてこの指の痕に当てがつて見給へ。」
 己は出来るだけ指の股を拡げて、図の上に当てがつて見たが、合はない。
「ところでまだ君のその手が今の場合に合はないだけでは、正碓な判断が出来ぬかも知れない。なぜと云ふにその紙は平な卓の上に拡げてある。人間の頸は円筒形になつてゐる。こゝに円い木の切がある。大抵大きさも人間の頸位だ。これにその紙を巻いて手を当てゝ見給へ。」
 己は友達の云ふ通りにして、又手を当てゝ見たが、やはり合はない。この時己は云つた。
「どうもこれは人間の手ではないね。」
「よし。それならこゝにあるこの文章を読んで見給へ。」かう云つて友達の出したのは、キユヰエエの著書で、東印度諸島に産する、暗褐色の毛をした猩々しやう/″\の解剖学的記述である。初の方には体の大きい事、非常に軽捷で力の強い事、ひどく粗暴な事、好んで人真似をする事などが書いてあつて、それから体の解剖になつて、手の指の説明がある。己はそれを読んでしまつて云つた。
「成程、この手の指の説明は、君の取つた図に符合するね。どうも猩々より外にはこの図にあるやうな指痕を付けることは出来まい。それに君の取つて来たこの毛の褐色な色合もキユヰエエの書いてゐる通りだ。さうして見ると人殺をしたのは猩々であつたのだらう。併しまだ僕には十分飲み籠めないことがあるね。証人の聞いた声は二人以上で、中にフランス人がゐたと云ふのだからね。」
「成程、それは君の云ふ通りだ。君も覚えてゐるか知らないが、証人の中で大勢が聞き取つたフランス語の中に『畜生』と云ふ語があつた。あれを証人の一人が相手を叱るやうな調子だつたと云つてゐる。たしかモンタニと云ふ菓子商の申立だつたね。僕はあれに本づいて解決を試みようと思ふのだ。僕はかう思ふ。あの殺人犯の現場を見てゐたフランス人がある。併しその男はあの血腥い事件の一々の部分に対する責任を持つてはゐないかも知れない。多分責任を持つてはゐないだらうと云つても好からう。そこでこんな想像が出来る。その男は猩々を飼つてゐたところが、それが逃げた。そこで追つ掛けてあの家まで来たが、あんな残酷なことをしてしまふまで、そいつを掴まへることが出来なかつた。その間けだものは自由行動を取つてゐたと云ふのだね。これは只の想像で、僕にだつてきつとさうだとは思はれないから、人に同じ想像を強ひることは出来ない。併し僕は兎に角ゆうべあの家を見た帰途にル・モンド新聞社に寄つて広告を出させて置いた。あの新聞は海員の機関で、読者には水夫が多いのだよ。そこでさう云ふフランス人がゐるとして、そいつが直接に血腥い事に関係してゐたら、名告なのつて出はすまいが、さうでないと名告つて出るだらうと思ふのだ。」
 かう云つてドユパンは己にけふのル・モンド新聞の広告欄を見せた。かう云ふ広告がしてある。
「猩々一頭、右は大いなる黄褐色のものにして、ボルネオ島に産したるものゝ如し。本月○○日(この所に殺人事件のありし翌日の日附あり)朝ボア・ド・ブウロニユに於て捕獲す。この動物はマルタ航海会社の汽船の乗組水夫が飼養しゐたるものなることを聞けり。同人は左の家宅に来り、動物の状態を説明し、捕獲並に飼養の入費を支辨するときは、動物を受け取ることを得べし。フオオブウル・サン・ジエルマン町○番地第三層屋。」
 己はドユパンに問うた。「マルタ航海会社と云ふのはどうして分かつたのだね。」
「それは僕も実際知らないのだ。少くもたしかには知らないのだ。併しこの紐の切を見てくれ給へ。これはきれの様子と油染みた所とから見ると、水夫が辮髪べんぱつを縛る紐らしい。それにこの結玉を見給へ。これは水夫でなくては出来ない結方だ。それにこの結方をするのは、まづマルタ航海会社の水夫らしい。僕はあの避雷針の針金を支へた棒の下でこれを拾つて、そしてどうしても殺された女達の物でないと思つたのだ。この紐が水夫になつてゐるフランス人の物で、その水夫がマルタ航海会社に使はれてゐるかどうだか、それはたしかには分からないが、兎に角僕はさう判断して広告をして見たのだ。間違つたつて、この広告は誰にも迷惑を掛けるおそれはないからね。仮に猩々を逃がした男がゐるとして、その男がマルタ航海会社の水夫でなかつたら、其男は僕が何か聞き違へたものだと思ふだけの事だ。若し又僕の推測が当つたとすると、大いに、こつちの利益になる。なぜと云ふにそれだけの事が分かつてゐると思ふと、その男がこゝまで出向いて来るのに来易いのだ。無論その男は自分で人を殺さないまでも、殺人事件に関係してゐるのだから、広告の場所へ猩々を受け取りに来るには躊躇せずにはゐられない。まあ、こんな風に考へるだらう。己は罪を犯してゐない。己は貧乏だ。あの猩々は随分金になる代物で、己の身分から見れば一廉ひとかどの財産だ。それを余計な心配をしてなくさないでも好い。どうにかして取り戻したいものだ。広告で見ると猩々を生捕つたのがボア・ド・ブウロニユだと云ふ事だ。さうして見ると人を殺した場所からは大分距離がある。それに智慧のない動物があれ程のことをしようとは誰だつて容易には考へ付くまい。警察もまるで見当が付いてゐないらしい。よしや動物の為業だと分かつたところで、己が現場を知つてゐると云ふことを証明するのがむづかしからう。広告で見ると動物を生捕つた人は己を知つてゐて、己が猩々の持主だと認めてゐる。己の身の上に就いてどれだけの事を知つてゐるのだか知らぬが、己の物だと分かつてゐる猩々を、あれ程の高価の物なのに、わざと受け取りに行かなかつたら、却て嫌疑が己に掛かるかも知れない。兎に角あの猩々や己の事に就いて、世間が穿鑿をし出すと面倒だ。それよりか素直に猩々を受け取つて来てしつかり閉ぢ籠めて置いて、あの血腥い事件の上に草が生えるまで待つに限る。まあ、こんな風に考へるだらうと思ふよ。」
 ドユパンがこゝまで話した時、梯子を登つて来る足音がした。
「君、その拳銃を持つてくれ給へ。併し僕が合図をするまで出して見せては行けないよ。」ドユパンがかう云つた。
 家の第一層の門口は開いてゐたので、来た人はベルを鳴らさずに這入つて、第三層まで梯子を登つて来た。それから我々のゐる室の外の廊下に来て、暫く立ち留まつてゐた。その内又梯子を下りる足音がした。ドユパンは忙しげに戸口へ出ようとした。その時足音は又梯子を登つて来るやうに聞えた。今度は猶予せずに戸の外まで来て戸を叩いた。
「お這入りなさい」と暢気らしい大声でドユパンがどなつた。
 這入つて来た男は水夫らしい。丈が高く、力がありさうで、全身の筋肉が好く発育してゐる。どんな悪魔にも恐れさうにない大胆な顔附をしてゐるが、意地が悪さうには見えない。顔はひどく日に焼けてゐて、鼻から下は八字髭と頬髯とで全く掩はれてゐる。手に大きいかしの木の杖を衝いてゐる外には、別に武器は持つてゐない。不細工な辞儀をして、純粋なパリイ人の調子で「今晩は」と云つた。
「まあ、掛け給へ。君は猩々の一件で来たのだね。実に立派な代物だ。随分も高いのだらうね。大した物を持つてゐるぢやないか。わたしは羨しくてならないね。あれで幾つ位になつてゐるのだらう。」ドユパンはこんな調子で話し掛けた。
 水夫は太い息をした。やれ/\余計な心配をしたが、この調子なら安心だと思つたらしい。そしてゆつくりした詞で云つた。「さうですね。わたしも好くは知りませんが、精々四歳か五歳位でせう。こゝに置いてありますか。」
「いや、どうもこの家にはあれを入れて置くやうな場所がないからね。ぢき側のドユブウル町の貸厩かしうまやに預けてあるから、あすの朝取りに往つて下さい。君が持主だと云ふ証明は十分出来るでせうね。」
「それは出来ます。」
「どうもあゝ云ふ代物を君に返すのは、惜しいやうな気がするね。」ドユパンはかう云つた。
 水夫は答へた。「それはお骨折をして下すつただけのお礼はしなくてはなりません。大した事は出来ませんが。」
 ドユパンは云つた。「成程。そこで、まあ、わたしに考へさせて貰はなくては。幾ら貰つたものかね。わたしの方からいづれ幾らと切り出さなくてはなるまいが、それより先に君に聞きたいことがある。君、あの病院横町の人殺事件をこゝですつかり話して聞かせてくれ給へ。」
 ドユパンはこの詞の後の半分を小声でゆつくり言つて、しづかに立つて戸口に往つてぢやうを卸して、鍵を隠しに入れた。それから内隠しに手を入れて拳銃を出して、落ち着き払つてそれを卓の上に置いた。
 水夫の顔は忽ち真つ赤になつた。水に溺れさうになつた人の顔のやうな表情である。さうして跳り上がつて槲の木の杖を持つて身構をした。併しそれはほんの一瞬間で、水夫は忽ち又死人のやうな蒼い顔になつて、身を震はせながら椅子に腰を卸した。己は側で見てゐて、しんから気の毒になつた。
 その時ドユパンは優しい声で言つた。「君、何もそんなに心配しなくても好いよ。我々は君をどうもしようと思つてゐるのではない。フランスの一男子として君に誓つても好い。僕だつてあの病院横町の犯罪が君の責任だとは思つてゐない。併し君があの事件に関係してゐると云ふことだけは分かつてゐるのだ。僕の広告を見ても分かるだらうが、僕がどれだけの事を知つてゐて、又これから先探らうと思へばどれだけの事を探る手段を持つてゐると云ふ想像は君にも付くだらう。まあ、砕いて話せばかうだね。君は何も悪い事をしたのではない。又させたのでもない。君はあの場合に物を取らうと思へば取られたのだが、それを取らなかつた。だから何も君が隠し立てをする必要がない。併し君の知つてゐるだけの事は言はないではならないのだ。あの事件の為めに無実の罪を蒙つて牢屋に這入つてゐる人があるのだからね。」
 ドユパンがこれだけの事を言つてゐるうちに、水夫は余程気色を恢復したが、この室に這入つて来た時の勇気はもう無かつた。水夫は暫くして云つた。
「いや。わたしの知つてゐるだけの事は話しませう。併しあなたがそれを半分でも本当だと思つて下されば結構なのです。わたし自分でさへ※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)のやうに思はれるのですからね。その癖あの事件はわたしの知つた事ではないのです。まあ、首に掛かるかも知れないが、実際の所を話しませう。」
 水夫の話は大略かうである。水夫は近頃東印度群島へ往つた。その時ボルネオに上陸して仲間と一しよに山に這入つた。そして今一人の男に手伝つて貰つて、猩々を生捕つた。その男は死んだ。そこで猩々は自分一人の所有になつた。猩々は中々馴れないので帰途には随分困つた。併しとう/\パリイへ連れて戻つた。水夫は船にゐた時足を怪我をして、それを直す為めに医者の所へ通はなくてはならぬので、猩々を部屋に閉ぢ籠めて置いて、足の創が直つてから売らうと思つてゐた。さてあの殺人事件のあつた夜の事である。否、払暁の事である。水夫は仲間の会があつて、それに出席して払暁に帰つて来た。すると猩々が閉ぢ籠めてあつた室から脱け出して、寝部屋に来てゐた。そして鏡の前に坐つて、顔に石鹸のあぶくを一ぱい付けて、手に剃刀を持つて、髭を剃る真似をしてゐた。多分水夫が顔を剃つた時、鑰前の孔から覗いて見てゐて、その真似をするのだらう。気の荒い、力のある動物の手に剃刀を取られてゐるので、水夫はどうしようかと暫く思案した。これまで猩々がれ出すと、鞭でおどすことにしてゐたので、今度も鞭を出した。猩々は鞭を見るや否や、直ぐに戸口から走り出て梯子を駆け下りた。それから第一層屋の窓が開いてゐたのを見て、往来へ飛び出した。水夫は一しよう懸命に追つ掛けた。猩々は剃刀を持つたまゝ、少し逃げては立ち留まつて、振り返つて見て、水夫を揶揄からかふやうにして、追ひ付きさうになると、又逃げた。こんな風で余程長い間追つて行つた。午前三時の事だから、人の往来ゆきゝはない。そのうち病院横町の裏へ来ると、一軒の家の高い窓から明りのさしてゐるのが、猩々の目に付いた。それがレスパネエ夫人の住んでゐた第四層屋の窓であつた。猩々は窓の下へ駆け寄つた。そして避雷針の針金を支へた棒を見付けて、それに登つた。そして壁にぴつたり付くやうに開いてゐた窓の外の戸の桟に掴かまつて、室内の寝台の上に飛び込んだ。それが一分間とは掛からなかつた。猩々は室に這入る時、外の戸を背後うしろへ撥ねたので、外の戸は又開いた。水夫は安心したやうな、又気に掛かるやうな心持がした。なぜ安心したかと云ふに、猩々は同じ棒を伝つて下りて来るより外はないから自分でわなに掛かつたやうなもので、もう掴まへられさうだと思つたからである。なぜ気に掛かるやうに思つたかと云ふに、あの窓の中で何か悪い事をしでかすかも知れぬと思つたからである。その気に掛かるところから、水夫は決心して猩々の跡から附いて登つて、窓を覗いて見ようとした。水夫の事だから、棒に攀ぢ登るのは造作もなかつた。併し窓の高さまで登つて見ると、それから先へは往かれなかつた。窓は左手にあつて、大ぶ離れてゐる。体を曲げて覗いて見なくては、室内が見えない。やつと覗いて見た時、水夫はびつくりして、今少しで手を放して落ちるところであつた。この時救を求める恐しい声が、病院横町の人の眠を破つたのである。レスパネエ夫人と娘とは寝衣ねまき一つになつて、例の鉄の金庫を室の真ん中に引き出して、その中の書類か何かを整理してゐたらしい。金庫は開けてあつて、中の物が床の上に出してあつた。多分二人の女は窓の方を背にして坐つてゐたのだらう。なぜと云ふに、猩々の飛び込んだ時から、叫声のした時まで大ぶ暇があるからである。二人はその間気が付かずにゐたものと見える。窓の外の戸を撥ね返した音は聞えた筈だが、親子は風にあふられたのだとでも思つてゐたのだらう。水夫が窓から覗いた時には、猩々はレスパネエ夫人の白髪を左の手で掴んで、右の手で剃刀を顔の前に持つて行つて上げたり下げたりしてゐた。床屋が人の顔を剃る真似でもしてゐるやうに見えた。夫人の髪を掴んだのは、多分夫人が髪をとかしてゐたので、猩々がそれに手を出したのだらう。娘は床に倒れてゐた。気を失つてゐたらしい。猩々は最初いたづらをする積りであつたのに、夫人が叫びながら振り放さうとするので、獣もそれに抗抵するうちに気が荒くなつたらしい。猩々は力一ぱい剃刀でのどを切つた。頭が殆ど胴から離れさうになる程切つた。猩々は血を見たので、いよ/\気が荒くなつた。そして目を光らせ、歯を剥き出して、倒れてゐた娘に飛び掛かつて、右の手の平で吭を締めて、息の絶えるまで放さなかつた。そのとたんに猩々のきよろ付く目が窓を見ると、そこには恐怖の余りに蒼くなつた主人の水夫の顔が見えた。その時猩々の激怒は変じて恐怖となつた。主人は自分を威す鞭の持主だからであらう。そこで猩々は自分のした血腥い為事の痕跡を隠さうと思つて、室内を走り廻つて、道具をこはしたり、寝台の藁布団を引き出したりした。それから娘の死骸を煖炉の中へ無理にねぢ込んで、夫人の死骸を窓から外へ投げ出した。丁度猩々が夫人の死骸を窓へ持ち出した時、水夫はひどく驚いて夢中で棒をすべり下りて逃げ出した。そして急いで宿に帰つて、猩々の行方には構はずにゐたと云ふのである。
     ――――――――――――
 この水夫の話に附け加へる事は格別ない。レスパネエ夫人の家に駆け着けた人々が、梯子を登りながら聞いた声は、猩々の叫声と、窓からどなつた水夫の声とであつた。猩々は人々が外から部屋の戸を破る時窓へ逃げて来て、外へ飛び出して跡の戸を撥ね返したものと見える。
 猩々は後に水夫の手に戻つて、水夫はそれをジヤルダン・デ・プラントへ高い値段に売つた。
 それより前に、ドユパンが水夫の話を書き取つて、それに説明書を添へて、警視庁へ出したので、ルボンは放免せられた。警視総監はドユパンに屈伏しながら、心中不平に堪へないので、人間は職分外の事に手を出すのは好くないなどとつぶやいてゐた。併しドユパンはそれに構はずに、こんな事を言つてゐた。「なんとでも勝手に云ふが好い。あれは自分が捜索を為遂げなかつたので、自分で自分に分疏いひわけをしてゐるのだ。併し兎に角己はあの男の繩張内の為事で、あの男に勝つて遣つた。どうもあの男にあの謎が解けなかつたのは無理もない。あれは狡猾なだけで、深く物を考へるたちではないからだ。あゝ云ふ男の智識には頭があつて胴がない。精々頭と肩とだけしかない。大口魚たらの様なものだ。併し兎に角あれでも人に敏捷だと評判せられるだけがえらいよ。あんな評判を取る人間は、ルソオの所謂 De nier ce qui est, et d'expliquer ce qui n'est pas(Nouvelle H※(アキュートアクセント付きE小文字)loise)と云ふ秘訣を心待てゐるのだ。自分がどんな人間だと云ふことを隠して、自分のさうでない人間に見せてゐるのだね。」

此小説のはじめにはサア・トオマス・ブラウンの語を「モツトオ」にして書いてある。それから分析的精神作用と云ふものに就いて、議論らしい事が大ぶ書いてある。それを訳者は除けてしまつた。原文で六ペエジ以上もある論文のやうな文章を、新小説の読者に読ませたら、途中で驚いて跡を読まずに止めるだらうと思つたからである。そんな勝手な削除なんぞをしては、原作者に済まぬと云ふ人があるかも知れない。併し人が読みさして読まずにしまふのも、原作者のために愉快ではあるまい。一体「病院横町の殺人犯」は世界に名高いポオの世界に名高い小説だが、今の読者には向かぬかも知れない。近頃こつちではこんな小説を高等探偵小説と名付けることになつてゐる。高等探偵小説だの高等講談だのと名を附けて、こつちの批評家は流行以外の作を侮辱する権利を有してゐるのださうだ。して見ると、読者に読んで貰ふのも、矢張原作者を侮辱するに当るかも知れない。若しさうなら、訳者は謹んで原作者に謝罪することとしよう。

底本:「鴎外選集 第15巻」岩波書店
   1980(昭和55)年1月22日第1刷発行
初出:「新小説 一八ノ六」
   1913(大正2)年6月1日
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2009年1月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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