上

 地の底の遠い遠い所から透きとおるような陰気な声が震え起って、斜坑しゃこうの上り口まで這上はいあがって来た。
「……ほとけ……さまあああ……イイ……ヨオオオイイ……旧坑口ぞおおお……イイイ……ヨオオオ……イイ……イイ……」
 その声が耳に止まった福太郎はフト足をめて、背後うしろ闇黒やみを振り返った。
 それはズット以前から、この炭坑地方に残っている奇妙な風習であった。
 坑内で死んだ者があると、その死骸は決してその場で僧侶や遺族の手に渡さない。そこに駈け付けた仲間の者の数人が担架やトロッコにき載せて、わしなく行ったり来たりする炭車の間を縫いながらユックリユックリした足取りで坑口まで運び出して来るのであるが、その途中で、曲り角や要所要所の前を通過すると、そのたんびに側に付いている連中の中の一人が、出来るだけ高い声で、ハッキリとその場所の名前を呼んで、死人に云い聞かせてゆく。そうして長い時間をかけて坑口まで運び出すと、医局に持ち込んで検屍を受けてから、初めて僧侶や、身よりの者の手に引渡すのであった。
 炭坑マブの中で死んだ者はそこに魂を残すものである。いつまでもそこに仕事をしかけたまま倒れているつもりで、自分の身体からだが外に運び出された事を知らないでいる。だから他の者がその仕事場キリハ作業しごとをしに行くと、その魂が腹を立てて邪魔ワザをする事がある。通り風や、青い火や、幽霊になって現われて、鶴嘴つるはし尖端さきを掴んだり、安全燈ラムプを消したり、爆発ハッパ不発ボヤにしたりする。モット非道ひどい時には硬炭ボタを落して殺すことさえあるので、そんな事の無いように運び出されて行く道筋を、死骸によっく云い聞かせて、あとに思いを残させないようにする……というのがこうした習慣の起原おこりだそうで、年が年中暗黒の底に埋れている坑夫達にとっては、いかにも道理至極であり、涙ぐましい儀式のように考えられているのであった。
 今運び出されているのは旧坑口に近い保存炭柱はしら仕事場キリハに掛っていた勇夫いさおという、若い坑夫の死骸であった。むろん福太郎の配下うけもちではなかったが、目端めはしの利くシッカリ者だったのに、思いがけなく落盤に打たれてズタズタに粉砕されたという話を、福太郎はタッタ今、通りすがりの坑夫から聞かされていた。又、呼んでいる声は吉三郎きちさぶろうという年輩の坑夫であったが、この男はかつて一度、この山で大爆発があった際に、坑底で吹き飛ばされて死んだつもりでいたのが、間もなく息を吹き返してみると、いつの間にか太陽のカンカン照っている草原に運び出されて、医者の介抱を受けている事がわかったので、ビックリしてモウ一度気絶したことがあった。だからそれ以来、一層深くこの迷信にとらわれたものらしく、死人があるたんびに駈け付けると、仕事をそっちけにして、こうした呼び役を引き受けたので、仲間からはアノヨの吉と呼ばれているのであった。
 吉三郎の声は普通よりもズッと甲高くて、女のように透きとおっていたのみならず、ズタズタになった死体の耳に口を寄せて、シンカラ死人の魂に呼びかけるべく一生懸命の声を絞っているので、そこいらの坊さんの声なぞよりもはるかに徹底した……無限の暗黒を含む大地の底を、冥途あのよの奥の奥までも泌み透して行くような、何ともいえない物悲しい反響を起しつつ、遠くなったり近くなったりして震えて来るのであった。
「……ここはアアア……ポンプ座ぞオオオ……イヨオオオ……イイイ……イイイイ……イイ……」
 その声に聞き入っていた福太郎は、やがて何かしらゾ――ッと身ぶるいをしてそこいらを見まわした。吉三郎のすき透った遠い遠い呼び声を聞くにつれて、前後左右の暗黒の中に凝然じっとしている者の一切合財が、一つ一つに自分の生命いのちを呪い縮めよう呪い縮めようとして押しかかって来るような気はいが感じられて来たので……。
 福太郎は元来こんなに神経過敏な男ではなかった。工業学校を出てからおよそ三年の間、この炭坑で正直一途に小頭こがしらの仕事を勤めて来たお蔭で、今では地の底の暗黒にスッカリ慣れ切って、自分の生れ故郷みたような懐かし味をさえ感じていたばかりでなく、生れ付き頭が悪いせいか、かなり危険な目に会っても無神経と同様で、滅多に感傷的な気持になった事はないのであった。
 ところが去年の暮近くになって女房というものを持ってからというものは、何となく身体からだの工合が変テコになって、シンが弱ったように思われて来るに連れて、色んなつまらない事が気にかかり始めたのを、頭の悪いなりにウスウス意識していた。ことにこの時は一番方ばんかたから二番方まで、十八時間ブッ通しの仕事を押付けられて、特別に疲れていたせいであったろう。頭が妙に冴えて来て、何ともいえない気味の悪さが、上下左右の闇の中から自分に迫って来るように思われて仕様がなくなったのであった。
 ……俺も遠からず、あんげなタヨリない声で呼ばれる事になりはせんか……。
 ……ツイ今しがた仕繰夫しくり(坑内の大工)の源次を載せて、眼の前の斜坑口しゃこうぐちを上って行った六時の交代前の炭車トロッコ索条ロープでもれて逆行ひっかえして来はせんか……。
 ……それとも頭の上の硬炭ボタが今にも落て来はせんか……。
 といったようなイヤな予感に次から次に襲われ始めると同時に、それが疑いもない事実のように思われ出して、吾知らず安全燈ラムプの薄明りの中に立ちすくんでしまったのであった。
 すると、そうした不吉な予感の渦巻の中心に何よりも先に浮かんだのは、女房のおさくの白い顔であった。
 お作というのは福太郎よりも四ツ五ツ年上であったが、まだ何も知らなかった好人物おひとよしの福太郎に、初めてにんげんの道を教えたお蔭で、今では福太郎から天にも地にも懸け換えのないタッタ一人の女神様のように思われている女であった……だからその母親か姉さんのようになつかしい……又はスバラシイ妖精ばけものではないかと思われるくらい婀娜あだっぽいお作の白々と襟化粧えりげしょうをした丸顔が、モウ二度と会われない幽霊か何ぞのようにニコニコと笑いながら、ツイ鼻の先の暗黒くらやみの中に浮かみ現われた時に、福太郎は思わずヨロヨロと前にノメリ出しそうになった。そうして初めてお作に会った時からの色々ないわく因縁の数々を思い出しながら、今更のようにホッと溜息をするのであった。
 お作は元来福太郎の方から思いかけた女ではなかった。ちょうど福太郎がこの山に来た時分に、下の町の饂飩うどん屋に住み込んだ流れ渡りの白ゆもじで、その丸ボチャの極度に肉感的な身体からだつきと、持って生れた押しの太さとで、色々な男を手玉に取って来たものであったが、その中でも仕繰夫しくり指導係サキヤマをやっているチャンチャンの源次という独身ひとりものの中年男が、仲間から笑われる位打ち込んで、有らん限り入揚いれあげたのを、お作は絞られるだけ絞り上げた揚句あげくにアッサリと突放して見向きもしなくなった。……というのはこれが縁というものであったろうか、その頃から時々饂飩を喰いに来るだけで、酒なぞ一度も飲んだ事のない福太郎のオズオズした坊ちゃんじみた風付ふうつきに、お作の方から人知れず打ち込んでいたものらしい。去年の冬の初めに饂飩屋から暇を取るとそのまま、貯金の通帳と一緒に、福太郎の自炊している小頭こがしら用の納屋に転がり込んで、無理からの押掛おしかけ女房になってしまったのであった。
 その時には流石さすがに鈍感な福太郎もすくなからず面喰らわせられた。何もかも心得ているお作の前にかしこまって、赤ん坊のようにオドオドするばかりであったが、それでもどうしていいか解からないまま五日十日と経って行くうちに、福太郎はいつの間にか、お作の白い顔を見に帰るべく仕事の仕上きりあげを急ぐようになっていた。毎朝起きて見ると、自炊時代と打って変ってうちの中がサッパリと片付いている枕元に、キチンと食事の用意が出来ているのが、勿体ないくらい嬉しかったばかりでなく、夕方疲れてトボトボとうなだれて帰って来る坑夫納屋の薄暗がりの中に、自分の家だけがアカアカとラムプがいているのを見ると、有り難いとも何とも云いようのない思いで胸が一パイになって、涙が出そうになる位であった。しかもそれと同時に翌る朝四時から起きて、一番方の炭坑入りをしなければならぬ事を思い出すと、タマラナイ不愉快な気持に満たされて、又も力なくうなだれさせられる福太郎であった。
 こうして単純な福太郎の心は、物の半月も経たないうちにグングンと地底の暗黒から引き離されて行った。そうしてこんな炭山やまの中には珍らしいお作の柔かい、可愛らしい両掌りょうての中に、日一日と小さく小さく丸め込まれて行くのであったが、それにつれて又福太郎は、そうしたお作との仲が、炭坑やま中の大評判になっている事実を毎日のように聞かされて、寄るとさわると冷やかし相手にされなければならなかったのには、少からず弱らされたものであった。しかもそんな冷かし話のうちでも、「源次に怨まれているぞ」という言葉を特に真面目になって云い聞かせられるのが、好人物の福太郎にとっては何よりの苦手であった。
「源次という男は仕事にかけると三丁下りの癖に、口先ばっかりのどこまで柔媚やわいかわからん腹黒男はらぐろぞ。彼奴あやつは元来詐欺賭博いかさま入獄いろあげして来た男だけに、することなす事インチキずくめじゃが、そいつに楯突たてついた奴は、いつの間にかあなの中で、彼奴あいつの手にかかって消え失せるちう話ぞ。彼奴あいつがソレ位の卑怯な事をしかねん奴ちう事は誰でも知っとる。彼奴あいつに違いないと云いよる者も居るには居るが、なにせい暗闇の中で、特別念入りにりよると見えて、証拠が一つも残っとらん。第一彼奴あいつは水道鼠のごとスバシコイ上に、坑長の台所に取り入っとるもんじゃけんトウトウ一度も問題にならずに済んで来とるが、用心せんとイカンてや。ドゲナ仕返しをするか解からんけになあ。元来お作どんの貯金ちうのがハシタの一銭まで源次の入れ揚げた金ちう話じゃけんのう!」
 と親切な朋輩連中からシミジミ意見をされた事が一度や二度ではなかったが、そんな話を聞かされるたんびに頭の悪い福太郎はオドオドと困惑して心配するばかりで、ドンナ風に用心をしたらいいか見当が付かないので困ってしまった。
「……そげに云うたて俺が知った事じゃなかろうもん」
 と涙ぐんで赤面したり、
「源次はそげな悪い人間じゃろうかなあ……」
 とため息しいしい、夢を見るような眼付をして見せたりしたので、折角せっかく親切に忠告してくれる連中もツイ張合抜けがしてしまう場合が多かった。
 しかし問題はそれだけでは済まなかった。福太郎は自分が源次に怨まれている原因が、単にお作に関係した事ばかりではない。それ以外にもモット重大な、深刻な理由があることを、それからのちも繰り返し繰り返し聞かされなければならなかった。
 ……というのはほかでもなかった。
 福太郎は元来何につけても頭の働きが遅鈍のろい割に、妙に小手先の器用な性質で、その中でも大工道具イジリが三度の飯よりも好きであった。工業学校へ這入る時でも、最初建築の方を志望していたのを、死んだ両親に云い聞かせられて、不承不承に不得手ふえてな採鉱の方に廻ったお蔭で、ヤット炭坑から学資を出してもらう事が出来たのであったが、それでもチョイチョイ小遣を溜めては買い集めた大工道具の一式を今でもチャント納屋の押入に仕舞い込んでいる位で、どんなに疲れている時でも、頼まれさえすれば直ぐに、その箱を担いで出かけるという風であった。だから坑内の仕繰しくりの仕事なぞも、本職の源次よりかズット見込みが良い上に、馬鹿念を入れるので、出来上りがガッチリしていて評判がなかなかよかった。現にタッタ今くぐって来た炭坑の大動脈ともいうべき斜坑の入口なぞも、去年の夏頃に源次が一度手を入れたものであったが、間もなくその源次が風邪を引いて寝ているうちに、いつの間にか天井の重圧おもみで鴨居が下って来て、炭車トロッコの縁とスレスレになっていたので、知らないで乗って来た坑夫の頭が二ツも暗闇の中でブッ飛んでしまった。そこで取り敢ず福太郎が頼まれて指導者サキヤマになって手を入れた結果、ヤット炭車トロッコの縁から一尺許りの高さに喰止めたものであったが、その時に、源次が材料を盗んでい加減な仕事をしてさえいなければ、モウ二尺位上の方へ押上げられるであろう事が、立会っていた役員連中の眼にもハッキリと解ったのであった。
 こうした福太郎の晴れがましい仕事ぶりが、炭坑中に知れ渡らない筈はなかった。……と同時に本職の源次から怨まれない筈はないのであった。
 源次はこうして、ホンの駈出しの青二才に、仕事の上で大きな恥を掻かされた上に、入揚げた女まで取られてしまったのだから、何とかして復讐しかえしをしなければ引込みの付かない形になってしまっているのであったが、しかしそこがチャンチャン坊主と云われた源次の特徴であったろうか、それとも源次がみんなの思っているよりもズット怜悧りこうな人間であったせいであろうか。気の早い炭坑連中からイクラ冷笑ひやかされても、腰抜け扱いされても、源次は知らん顔をしていたばかりでなく、かえってそれからのちというものは、福太郎に出会うたんびにヒョコヒョコと頭を下げて、抜目なく機嫌を取ろう機嫌を取ろうとする素振りを見せ始めたのであった。
 すると又そうした源次の態度が眼に付いて来るにつれて、他の者はなおの事、源次の気持を疑うようになった。……今に見てろ、源次が遣るぞ。福太郎とお作に何か仕かけるぞ……といったような炭坑地方特有の、一種の残忍さを含んだ興味を持って見るようになったものであるが、しかもそのさ中にカンジンの福太郎夫婦だけは、そんな事を一向に問題にもしていない模様だったので、一層、皆の者の目をみはらせたのであった。お人好しの福太郎は源次に対しても、他の者と同様に何のコダワリもないニコニコ顔を見せる一方に、お作は又お作で、
「あの腰抜けの源次に何が出来ようかい」
 と云わぬ半分の大ザッパな調子でタカをくくっているらしかった。今までの白ゆもじを燃え立つような赤ゆもじに改良したり、饂飩うどん屋にいた時分の通りの真白な襟化粧を復活させたりするばかりでなく、その襟化粧と赤ゆもじで毎日毎日福太郎の帰りを途中まで出迎えに行き始める。一方には坑長の住宅の新築祝いに手伝いに行ってから以来このかた、若い二度目の奥さんに取り入って、あだかも源次の勢力に対抗するかのようにチョイチョイ御機嫌伺いに行っては、坑長の着古しの襯衣シャツや古靴なぞを福太郎に貰って来てやったりなぞ、これ見よがしに福太郎を大切にかけて見せたので、炭坑中の取沙汰はイヨイヨ緊張して行くばかりであった。
 福太郎は斜坑の入口で、自分の手にげた安全燈ラムプの光りの中に突立ったまま、そんな取沙汰や思い出の数々を、次から次に思い出すともなく思い出していた。しかもそのうちでも源次に関係した事ばっかりは今の今まで……自分のせいじゃない……といったような気もちから一度も気にかけた事はないのであったが、この時に限ってアリアリと眼の前に浮かみ出て来るお作の白い顔と一緒に、そんな忠告をしてくれた連中の眼付きや口付きを思い出してみると、そんな評判や取沙汰が妙に事実らしく考えられて来るのであった。
 その当の相手の源次は、タッタ今上って行った十台ばかりの炭車トロッコの真中あたりの新しい空函あきばこの中に、低い天井の岩壁から反射する薄明りの中を、頭を打たない用心らしく、背中を丸くして突伏したまま揺られて行った。着ている印半纏しるしばんてんの背印は平常いつもカネ[#「┐」を全角大とした、屋号を示す記号、312-16]サとは違っていたけれども、その半纏の腋の下の破れ目から見えた軍隊用の青い筋の這入った襯衣シャツと、光るほど刈り込んだ五分刈頭の恰好が、源次のうしろ姿に間違いないのであった。しかもソンナ風に頭を抱えて小さくなった源次のうしろ姿を今一度、お作の白い顔と並べて思い出した福太郎は、怖ろしいというよりもむしろ、何だか済まないような……源次に怨まれるのは当然あたりまえのような気がして仕様がなくなった。源次の姿を吸い込んで行った斜坑の暗黒くらやみに向って、人知れずソッと頭を下げてみたいようなタヨリない気持にさえなったのであった。
 しかし福太郎は間もなくそんな思出や、感傷的な気持の一切合財が、クラ暗の中で冴え返って行く自分の神経作用でしかないようにも思われて来たので、そんな馬鹿げた妄想の全部を打切るべく頭を強く左右に振った。するとその拍子に左手に提げている安全燈ラムプの光りがクルクルと廻転するに連れて、今度は眼の前の岩壁の凸凹でこぼこが、どこやら痩せこけた源次の顔に似ているように思われて来た。しかも誰かに打ち殺された無念の形相ぎょうそうか何ぞのように、ジッと眼をしかめていて、一文字に噛み締めている岩の唇の間から流れしたたる水滴が、血でも吐いているかのように陰惨な黒光りをしているのに気が付いた。
 ところが、その黒い水のしたたりを見ると福太郎は又、別の事を思い出させられて、われ知らず身ぶるいをさせられたのであった。
 その岩の間から洩れる水滴が、奇怪にも摂氏六十度ぐらいの温度を保っている事を、福太郎はズット前から聞いて知っていた。それはその岩の割目の、奥の奥の深い処に在る炭層の隙間に、この間の大爆発の名残りの火が燃えていて、その水の通過する地盤をあたためているせいである……しかも炭坑側ではそれを手の附けようがないままにったらかして、構わずに坑夫を入れているのであるが、そのうちにだんだんとその火熱が高くなって来る一方に坑内の瓦斯ガスが充満して来たら、又も必然的に爆発するであろう事が今からチャンと解り切っていた。だからこの炭坑やま這入はいるのは、それこそホントウの生命いのちがけでなければならなかったのであるが、しかしそうした事実を知っているのは極く少数の幹部以外には、その相談をぬすみ聞いた仕繰夫しくりの源次だけであった。ところがそうした秘密がいつの間にか源次の口からコッソリとお作の耳に洩れ込んでいたのを、福太郎が又コッソリとお作から寝物語に聞かされていたので、
「インマのうちに他の炭坑へ住み換えようか。それとも町へ出てウドン屋でも始めようじゃないか」
 とその時にお作が云ったのに対して、シンカラ首肯うなずいてみせた事を、福太郎は今一度ハッキリと思い出させられた。そうして今日限り二度とコンナ危険な処へは這入れない……といったような突詰めた気持に囚われながらオズオズと前後左右を見まわしたのであった。
書写部屋ささべや(事務所)ぞオオ……イイイヨオオ……イイヨ……オオイイイ……」
 という呼び声がツイ鼻の先の声のように……と……又も遠い遠い冥途あのよからの声のように、福太郎の耳朶みみたぼに這い寄って来た。
 その声に追い立てられるように福太郎は腰を屈めながら、斜坑の底の三十度近くの急斜面を十四五間ほどスタスタと登って行った。そうして斜坑が少しばかり右に曲線を描いて、真西に向っている処まで来てチョット腰を伸ばしかけた。
 ……その時であった。
 福太郎はツイ鼻の先のうるしのような空間に真紅の火花がタラタラと流れるのを見た。それを見た一瞬間に福太郎は、
「彼岸の中日ちゅうにちになると真赤な夕日が斜坑の真正面まむこうに沈むぞい。南無なむ南無南無……」
 と云って聞かせた老坑夫の顔を思い出したようにも思ったが、間もなく轟然たる大音響が前後左右に起って、息苦しい土煙に全身が包まれたように思うと、そのまま気が遠くなった。
 ……何もかもわからなくなってしまった。

       中

「福太郎が命拾いをしたちうケ」
小頭こがしらどんがエライ事でしたなあ」
 なぞと口々に挨拶をしながら表口から這入って来る者……。
「どうしてマア助かんなさったとかいな」
土金神どこんじんさんのお助けじゃろうかなあ」
 と見舞を云う男や女の群で、二室ふたましかない福太郎の納屋が一パイになってしまった。
 そのまん中に頭を白い布片きれで巻いた、浴衣一貫の福太郎がボンヤリと坐っていたが、スッカリ気抜けしたような恰好で、何を尋ねられても返事が出来ないままヒョコヒョコと頭を下げているばかりであった。
 福太郎は実際のところ、自分がどうして死に損なったのか判らなかった。頭の頂上てっぺんにチクチク痛んでいる小さな打ちきずが、いつ、どこで、どうして出来たのかイクラ考えても思い出し得ないのであった。
 集って来た連中の話によると、福太郎は千五百尺の斜坑を、一直線に逆行して来た四台の炭車トロッコが折重なって脱線をした上から、巨大おおき硬炭ボタが落ちかかって作った僅かな隙間に挟み込まれたもので、顔中を血だらけにして、両眼をカッと見開いたまま、硬炭ボタの平面の下に坐っていたそうである。しかもそれが丁度六時の交代前の出来事だったので、山中を震撼ゆるがす大音響を聞くと同時に、三十間ばかり離れた人道の方から入坑はいりかけていた二番方の坑夫たちが、スワ大変とばかり何十人となく駈付けて来た。それにあとから寄り集まった大勢の野次馬が加わって、油売り半分の面白半分といった調子で、ワイワイ騒ぎ立てたので、狭い坑道の中が芋を洗うようにゴッタ返したが、そのうちに、浮上った炭車トロッコの車輪の下から、思いがけない安全燈ラムプの光りと一緒に、古靴を穿いた福太郎の片足が発見されたのでイヨイヨ大騒ぎになったものだという。それからヤット駈付けた仕繰夫しくりの源次が先に立って硬炭ボタ炭車トロッコの代りに坑木の支柱を入れながら、総掛りで福太郎を掘出してみると、まだ息があるというのでそのまま、程近い福太郎の納屋に担ぎ込んで、ラムプをともして応急手当をしているうちに、幸運にも福太郎は頭の上に小さな裂傷きずを受けただけで、間もなく正気を回復した。そうして取巻いている人々の顔を吃驚びっくりした眼で見まわすと、ムックリと起上って、眼の前に坐っている仕繰夫しくりの源次に、
「ここはどこじゃろか」
 と尋ねたのであった。
 みんなはこれを見て思わず「ワーッ」と声を上げた。表口に折重なって、福太郎の容態ようすを心配していた連中も、その声を聞いてホーッと安心の溜息をしたのであったが、そのうちの二三人が早くもゲラゲラ笑い出しながら、
「どこじゃろかい。お前のうちじゃないか」
 と云って聞かせたけれども、福太郎はまだ腑に落ちないらしく、そういう朋輩連中の顔をマジリマジリと見まわしていた。そのうちに付き添っていたお作が濡れ手拭で、汗と、血と、泥と、吹っかけられた水に汚れた顔を拭いて遣りながら、メソメソと嬉泣うれしなきをし始めたが、それでも福太郎はまだキョトンとした瞳をラムプの光りに据えていたので、背後うしろの方に居た誰かが腹を抱えて笑い出しながら、
「まあだ解らんけえ。おいアノヨの吉公。チョットここへ来て呼んでやらんけえ。われうちだぞオオオ……イヨオオオイ……イイ……という風にナ……」
 と吉三郎の声色を使ったので、皆はどっと吹出してしまった。しかしそれでも福太郎はまだ腑に落ちない顔で口真似をするかのように、
「……アノヨ……アノヨ……」
 と呟いたので皆は死ぬほど笑い転げさせられたという。
 一方に炭坑の事務所から駈付けた人事係長や人事係、棹取さおとり、又は坑内の現場係なぞいう連中が、ホンノ一通り立会って現場げんじょうを調査したのであったが、その報告に依ると福太郎は帰りを急いだものらしく、迂回した人道を行かずに、禁を犯して斜坑の方へ足を入れた。しかも六時の交代前の十台の炭車トロッコが、まだ斜坑を上り切ってしまわないうちに跡を追うようにして、着炭場(斜坑口)から徒歩でのぼり始めたものであったが、折悪しくその第七番目の鰐口わにぐちに刺さっていた鉄棒ピンが、ドウした途端はずみか六番目の炭車トロッコ連結機ケッチンかんからはずれたので、四台の炭車トロッコが繋がり合ったまま逆行して来て、丁度、福太郎が足を踏掛けていた曲線カーブの処で、折重なって脱線顛覆したもので、さもなければ福太郎は、側圧で狭くなった坑道の中で、メチャメチャに粉砕されていた筈であったという。
 しかし元来、坑道に敷いてある炭車トロッコの軌条は、非常に粗末な凸凹でこぼこした物なので、連結機ケッチン鉄棒ピンが折れたり外れたり、又は索条ワイヤロープが、結目トックリの附根かられたりする事は余り珍らしくないのであった。ことに最近斜坑の入口で二人の坑夫が遭難してからというもの、危険をおそれて炭車トロッコに乗る事を厳禁されていたので、その炭車トロッコに誰かが乗っていて、福太郎があがって来るのを見かけて故意にケッチンのピンを抜いたろう……なぞいう事は誰一人想像し得る者がなかった。又カンジンの御本尊の福太郎も、烈しい打撃を受けた後の事とて、その炭車トロッコに誰が乗っていたか……なぞいう事はキレイに忘れてしまっていたばかりでなく、自分が何のために、どうして斜坑を歩いていたかすら判然はっきりと思い出せなくなっていたので、ヤット気が落ち付いて皆の話が耳に止まるようになると、一も二もなく皆の云う通りの事実を信じて、驚いて、呆れて、茫然となっているばかりであった。
 そんな状態であったから結局、出来事の原因は解らないずくめになってしまって、福太郎の遭難も自業自得といったような事で、万事が平々凡々に解決してしまった。そのあと他所よそから帰って来た炭坑医も、福太郎の疵があんまり軽いのを見て笑い笑い帰って行った位の事だったので、集っていた連中もスッカリ軽い気持になって、ただ無闇むやみと福太郎の運のいいのに驚くばかりであった。そうして揚句あげくの果は、
「おめえがあんまり可愛がり過ぎるけんで、福太郎どんが帰りを急ぐとぞい」
 とお作がみんなから冷やかされる事になったが、流石さすがに海千山千のお作もこの時ばかりは受太刀うけだちどころか、返事も出来ないまま真赤になって裏口から逃げ出して行った位であった。
 しかしお作はそれでも余程嬉しかったらしい。その足で飯場はんばから酒を二升ばかりげて来て、取りあえずひやのまま茶碗を添えて皆の前に出した。すると又、それに連れて済まないというので、手に手に五合なり一升なり提げて来る者が出て来る。自宅うちの惣菜や、乾物ひものの残りを持込んで、七輪を起す女連おんなづれも居るという訳で、何やや片付いた十一時過になると福太郎の狭い納屋の中が、時ならぬ酒宴さかもりの場面に変って行った。
「小頭どん一つお祝いに……」
「オイ。福ちゃん。あやかるで」
生命いのちの方もじゃが、ま一つの方もなあ。アハハハ……」
 といったような賑やかな挨拶がみるみるへやの中を明るくした。それに連れて後から後から福太郎に盃を持って来る者が多かったが、そのうちでも最前から何くれとなく世話を焼いていた仕繰夫しくりの源次が、特別に執拗しつこく盃を差し付けたので、元来がイケナイ性質たちの福太郎は逃げるのに困ってしまった。
「おらあ酒は飲み切らん飲み切らん」
 の一点張りで押しけても、
「今日ばっかりは別ですばい」
 と源次が妙に改まってナカナカ後に退きそうにない。そこへお作が横合いから割込んで、
「福さんはなあ。親譲りの癖でなあ。酒が這入ると気が荒うなるけん、一口も飲む事はならんチウテ遺言されて御座るげなけになあ。どうぞ源次さん悪う思わんでなあ」
 と散々にあやまったのでヤット源次だけは盃を引いたが、他の者は、その源次へ面当つらあてか何ぞのように、無理やりにお作を押しけてしまった。
「いかんいかん。源公が承知しても俺が承知せん。酒を飲んで気の違う人間は福太郎ばっかりじゃなかろう。親代りの俺が付いとるけに心配すんな」
 とか何とかわめき立てながら、口を割るようにして、日陽ひなた臭いなおし酒を含ませたので、福太郎は見る見る顔が破裂しそうになるくらい真赤になってしまった。平生ふだんから無口なのがイヨイヨ意気地が無くなって盃を逃げ逃げ後退あとしざりをして行くうちに、部屋の隅の押入の半分いたふすまの前に横倒しになって、涙ぐんだ眼をマジリマジリと開いたり閉じたりしながら、手を合わせて盃を拝むようになった。
 すると集まった連中は、これで御本尊が酔い倒れたものと思って満足したらしい。盃を押しつけに来る者がヤット無くなって、後は各自めいめい勝手に差しつ差されつする。その中にお作がタッタ一人の人気者になって、手取り足取りまん中に引っぱり出されて、八方から盃を差されたり、お酌をさせられたりしていたが、そのうちにいつの間にかお作自身が酔っ払ってしまったらしい。白い脂切あぶらぎった腕を肩までマクリ上げると、黄色い声で相手構わず愛嬌を振り撒きはじめた。
「サア持って来なさい。茶碗でもどんぶりでも何でもよか」
「アハハハ。お作どんが景気付いたぞい」
「今いたからすがモウ笑ろた。ハハハハ」
「ええこの口腐れ。一杯差しなさらんか」
「ようし。そんならこのコップで行こうで」
「まア……イヤラッサナア……冷たい盃や受けんチウタラ」
「ヨウヨウ。久し振りのお作どんじゃい。若い亭主持ってもなかなか衰弱めげんなあ」
「メゲルものかえ。五人や十人……若かりゃ若いほどよか」
「アハハハハ。なんち云うて赤いゆもじがためかい」
「知りまっせん。大方せがれと娘のためだっしょ」
「ウワア。こらあ堪らん。福太郎はどこさたかい」
押入おしこみの前で死んだごとなって寝とる」
「アハハ。成る程。死んどる死んどる。ウデだこごとなって死んどる。酒で死ぬ奴あどじょうばっかりションガイナと来た」
「トロッコの下で死ぬよりよかろ」
「お作どんの下ならなおよかろ」
「ワハハハハ」
「おい。みんな手を借せ手を借せ。はやせはやせ」
 と云ううちにみんなは、コップを抱えたお作の周囲まわりをドヤドヤと取巻いた。そうしてかつて、ウドン屋でお作をはやした時の通りに、手拍子をって納屋節を唄い出した。
「白い湯もじを島田にわせエ
赤いゆもじを買わせた奴はア
どこのドンジョの何奴どんやつかア
ドンヤツドンヤツどんやつかア
ウワア――アアア――」
「ようし……」
 とお作は唄が終るか終らぬかに、コップの冷酒をグイと飲み干して立ち上った。
「そんげにあたしば冷やかしなさるなら、妾もイッチョ若うなりまっしょ」
 と云ううちに、そこに落ちていた誰かの手拭を拾って姉さんかぶりにした。それから手早く前褄まえづまを取って、問題の赤ゆもじを高々とマクリ出したので、皆一斉に鯨波ときのこえを上げて喝采した。
「……道行き道行き……」
 と叫んだ者が二三人あったが、その連中を睨みまわしながらお作は、白い腕を伸ばしてラムプの芯をすすの出るほど大きくした。
「源次さん。仕繰しくりの源次さん……アラ……源次さんはどこい行きなさったとかいな」
 その声が終るか終らないかにモウ一度、割れむばかりの喝采が納屋を揺がしたが、今度は忽ち打切ったようにピッタリと静まり返った。
 皆はこの時お作が、饂飩うどん屋時代に得意にしていた道行踊りを踊ろうとしている事を、アラカタ察しているにはいた。併し真逆まさかに問題の黒星になっている源次を相手にして踊ろうとは思わなかったのであった。皮肉といおうか大胆といおうか。一度は思わず喝采をしたものの、流石さすがの荒くれ男共もこうしたお作のズバリとした思付きに、スッカリ荒胆あらぎもられてしまって、その次の瞬間には、水を打ったようにシンとしてしまったのであった。今にも血の雨が降りそうなハッとした予感に打たれて……。
 しかしお作は平気の平左であった。その中央まんなかに突立って、アカアカとした洋燈ラムプの光りのうちにトロンとしたを据えながら、ウソウソと隅の方の暗い所を覗きまわった。
「……源次さん。出て来なさらんか。マンザラ妾と他人じゃなかろうが」
 皆はイヨイヨ固唾かたずを飲んで鎮まりかえった。その中で誰か一人、クスリと笑った者があったが、それがかえってへやの中の静けさを一層モノスゴク冴え返らせた。
「……いやらッサなあ。タッタ今、そこに御座ったとじゃが。小便に行かっしゃったとじゃろか」
 と呟やきながらお作はチョイト表の方の暗がりを振り返った。すると皆も釣り込まれたように、お作と一緒の方向を振り返ったが、外の方には源次らしい咳払いすら聞こえなかった。
 仕繰夫しくりの源次は、そうした皆の視線とは正反対の方向に、小さくなって隠れていたのであった。へやの奥の押入の前に立てた、新聞ばりの屏風の蔭に、コッソリとうずくまり込みながら、眼の前で、苦しそうに肩で呼吸いきしている福太郎の顔を、一心に見守っていた。ツイ今先刻さっきまで、真赤になっていたその顔が、次第次第に青褪めて、眼を見開いた行き倒れのように、気味の悪い、ゲッソリとした表情に変って行くのを、驚き怪しみながら見とれているのであった。

       下

 福太郎は最前から、押入の前に横たおしになったまま、割れるような頭を、両手でシッカリと抱えていた。思わず飲まされ過ぎた直し酒に、スッカリ参ってしまって、暫くの間は呼吸いきが出来ないくらい胸が苦しくなっていた。耳の附け根を通る太い血管の鳴る音が、ゾッキリゾッキリと剃刀かみそりで削るように聞こえて、眠ろうにも眠られず、起きようにも起きられない苦しさのうちに、ツイゾ今まで思い出した事もない、子供の時分の記憶の断片が、思いがけない野原となったり、まぶしい夕焼けの空となったり、又はなつかしい父親の横顔になったり、母親の背面うしろ姿になったりして、切れ切れのままハッキリと、入れ代り立ち代り浮かみあらわれて来るのを、まぶたの内側にシッカリと閉じ込めながら、凝然じっと我慢していたのであった。
 ところがその悪酔いが次第に醒めかかって、呼吸が楽になって来るに連れて福太郎は、自分の眼の球の奥底に在る脳髄の中心が、カラカラに干乾ひからびて行くような痛みを感じ初めた。それに連れて何となく、瞼が重たくなったような……背筋がゾクゾクするような気持になって来たので、吾ともなくウスウスと眼を開いてみると、その眼の球の五寸ばかり前に坐っている、誰かの背中の薄暗がりを透して、今までとは丸で違った、何とも形容の出来ない気味の悪い幻影まぼろしが、アリアリと見えはじめているのに気が付いたのであった。そうしてその幻影まぼろしが、福太郎にとって全く、意外千万な、深刻、悽愴せいそうを極めた光景を描きあらわしつつ、西洋物のフィルムのようにヒッソリと、音もなく移りかわって行くのを、福太郎はさながら催眠術にかけられた人間のような奇妙な気持ちで、ピッタリと凝視させられているのであった。
 ……その幻影まぼろしの最初に見え出したのは、赤茶気た安全燈ラムプの光りに照し出された岩壁の一部分であった。
 それは最前、斜坑の入口で、福太郎が遭難するチョット前に、立止って見ていた通りの物凄い岩壁の凸凹でこぼこを、半分麻痺した福太郎の脳髄が今一度アリアリと描き現わしたところの、深刻な記憶の再現に外ならなかった。さながらに痩せこけた源次の死面しにがおのように、ジッと眼を閉じて、歯を喰い締めたまま永遠に凝固している無念の形相ぎょうそうであった……が……しかしその一文字に結んでいる唇の間から洩れ出す、黒い血のような水滴のシタタリ落ちる速度は、現実世界のソレとは全く違っていた。
 それはやはり、福太郎の麻痺した脳髄の作用に支配されているらしく、高速度活動写真機で撮った銃弾の動きと同様にユックリユックリした、何ともいえない、モノスゴイ滴たり方であった。
 最初その黒い水滴が、横一文字の岩の唇の片隅からムックリとふくれ上ると、その膨れた表面が直ぐに、福太郎の手に提げている安全燈ラムプの光りをとらえて、キラキラと黄金色こがねいろに反射した。そうして虫の這うよりもモット、ユックリと……殆んど止まっているか、動いているかわからない位の速度で、唇の下の方へい降りて行く。そうして唇の下縁したふちの深い、痛々しい陰影の前まで来ると、そこでちょっと停滞して、次第次第にまんまるい水滴の形にふくれ上って行くと同時に、仄暗ほのぐら安全燈ラムプの光りを白々と、小さく、鋭く反射し初める。そうして完全なマン円い水滴の形になると、さながら、空中に浮いた満月のように、ゆるやかに廻転しながら、垂直の空間をしずかに、しずかに、下へ下へと降り初める。その速度が次第に早くなって、やがて坑道の左右に掘った浅い溝の陰影の中に、一際ひときわ強い七色スペクトル光を放ちながら、依然として満月のように廻転しつつ、ゆっくりゆっくりと沈み込んで行く……と思うとそのあとから追っかけるように、またも一粒の真黒い、マン円い水滴が岩の唇を離れて、しずかに輝やきながら空間に懸かっている。
 ……そのモノスゴサ……気味わるさ……。
 福太郎の両眼は、いつの間にか真白になるほどき出されていた。その唇はダラリと垂れ開いて、その奥にグルリと捲き上った舌の尖端には、はらわたの底から湧き上って来る不可思議な戦慄が微かにおののきふるえていた。
 その時にお作がアノヨの吉と一緒に踊り出した。道行を喝采するドヨメキが納屋の中一パイに爆発した。
 それを聞くと源次は、思わずハッとしたように、屏風の蔭から部屋の中をさし覗いたが、そのまま又も引付けられるように福太郎の顔を振り向いて半身を傾けた。赤黄色いラムプの片明りの中に刻一刻と蒼白く、痛々しく引攣ひきつれて行く福太郎の顔面表情を、息を殺して、胸をドキドキさせながら凝視していた。
「……此奴こいつはホントウに死によるのじゃないか知らん、……頭の疵が案外深いのを、医者が見損のうとるのじゃないか知らん……死んでくれるとええが……」
 と思い続けながら……。
 しかし福太郎はむろん、源次のそうした思惑に気付く筈はなかった。いや、そんな気持ちで緊張し切っている源次の顔が、ツイ鼻の先にノシかかっている事すら知らないまま、なおも自分の脳髄が作る眼の前の暗黒の核心を凝視しつつ、底知れぬ戦慄を我慢しいしい、全身をこわばらせているのであった。
 その福太郎の眼の前には、やや暫くの間、おなじ暗黒くらやみの光景が連続していた。しかしその暗黒の中に時々、安全燈ラムプの網目を洩れる金茶色の光りがゆるやかにしたり、又静かに消え失せたりするところをみると、それは福太郎が斜坑の上り口から三十度の斜面へ歩み出した時の記憶の一片が再現したものに違いなかった。そのほのかな光線に照し出された岩の角々は皆、福太郎の見慣れたものばかりであったから……。
 けれども、やがてその金茶色の光りが全く消え失せて、又、もとの暗黒に変ったと思うと間もなく、その暗黒くらやみのはるかはるか向うに、赤い光りがチラリと見えた。
 それは福太郎が、炭車トロッコと落盤の間に挟まれる前にチラリと見た赤い光りの印象が再現したものであった。しかもその時は坑口こうぐちに沈む夕日の光りではないかと思っただけに、ホントウは何の光りか解らないまま忘れてしまっていたのであったが、現在眼の前に、その刹那の印象が繰返して現われて来たのを見ると、その光りの正体が判然わかり過ぎる位アリアリとわかったのであった。
 それは連絡を失った四函の炭車トロッコの車輪が、一台八百斤宛きんずつの重量と、千五百尺の長距離と、三十度近くの急傾斜に駈り立てられて逆行しつつ、三十マイル内外の急速度で軌条を摩擦して来る火花の光りに外ならなかった。しかもその車輪の廻転して来る速度は、依然として福太郎の半分麻痺した脳髄の作用に影響されていて、高速度映画と同様にノロノロした、虫の這うような緩やかな速度に変化していたために、それを凝視している福太郎に対して、何ともいえないモノスゴイ恐怖感と、圧迫感とを与えつつ接近して来るのであった。
 その炭車トロッコの左右十六個の車輪の一つ一つには、軌条から湧き出す無数の火花が、赤い蛇のようにじれ、波打ちつつ巻付いていた。そうして炭車トロッコの左右に迫っている岩壁のひだを、走馬燈まわりどうろのようにユラユラと照しあらわしつつ、厳そかに廻転して来るのであったが、やがてその火の車の行列が、次から次に福太郎の眼の前の曲線カーブの継ぎ目の上に乗りかかって来ると、第一の炭車トロッコが、波打った軌条に押上げられて、心持こころもち速度を緩めつつ半分傾きながら通過した。するとその後から押しかかって来た第二の炭車トロッコが、先頭の炭車トロッコに押戻されて、くうを探るかいこのように頭を持上げたが、そのまま前後の炭車トロッコと一緒にユラユラと空中に浮き上って、低い天井と、向う側の岩壁を突崩つきくずし突崩し福太郎に迫り近付いて来た。そうして中腰になったまま固くなっている福太郎の胸の上に、濡れた粉炭の堆積をドッサリと投掛けて、一堪ひとたまりもなく尻餅を突かせると、その眼の高さの空間を、歪み曲った四ツの炭車トロッコが繋がり合ったまま、魔法の箱のようにフワリフワリと一週して、やがて不等辺三角形に折れ曲った一つの空間を作りつつ、福太郎の身体からだを保護するかのように徐々しずしずと地面へ降りて来た。それに連れて半分粉炭こなずみに埋もれた福太郎の安全燈ラムプが、ポツリポツリと青い光りを放ちつつ、消えもやらずに揺らめいたのであった。
 けれどもその安全燈ラムプの光りは、やがて又、赤いすすっぽい色に変るうちに、次第次第に真暗くなって消え失せてしまったかと思われた。それはこの時福太郎の頭の上から、夥しい石の粉が、黒い綿雪のようにダンダラ模様に重なり合って、フワリフワリと降り始めたからであった。そうしてその黒い綿雪が、福太郎の腰の近くまで降り積って来るうちに、いつの間にか小降りになって、やがてヒッソリと降り止んだと思うと、今度はその後から、天井裏に隠れていた何千貫かわからない巨大おおき硬炭ボタの盤が、鉄工場の器械のようにジワジワと天降あまくだって来て、次第次第に速度を増しつつ、福太郎の頭の上に近付いて来るのが見えた。そうしてやがてその硬炭ボタの平面が、福太郎の前後を取巻く三つの炭車トロッコに乗りかかると、分厚い朝鮮松の板をジワリジワリと折り砕きながらピッタリと停止した……と思うとそのあとから、又も夥しい土の滝が、炭車トロッコの外側に流れ落ちて来たのであろう。山形に浮上った車台の下から、濛々もうもうとした土煙がゆるゆると渦巻きながら這込み始めて、安全燈ラムプの光りをスッカリ見えなくしてしまったのであった。
 その時に福太郎はチョット気絶して眼を閉じたように思った。けれどもそれは現実世界でいう一瞬間と殆んど同じ程度に感じられた一瞬間で、その次の瞬間に意識を恢復した時に福太郎はヒリヒリと痛む眼を一パイに見開いて、唇をアーンと開いたまま、落盤に蓋をされた炭車トロッコの空隙に、消えもやらぬ安全燈ラムプの光りに照し出されている、自分自身を発見したのであった。同時に、その今までになく明るく見える安全燈ラムプ光明ひかり越しに、自分の左右の肩の上から、まつげを伝って這い降りてくる、深紅の血のひもをウットリと透かして見たのであったが、それが福太郎の眼には何ともいえない美しい、ありがたい気持のものに見えた。しかもその真紅の紐が、無数のゴミを含んでブルブルと震えながら固まりかけているところを見ると、福太郎が気絶したと思った一瞬間は、その実かなり長い時間であったに相違ないが、それでもまだ救いの手は炭車トロッコ周囲まわりに近付いていなかったらしく、そこいら中が森閑しんかんとして息の通わない死の世界のように見えていた。そうしてその中に封じ籠められている福太郎は、自分自身がさながらに生きた彫刻か木乃伊ミイラにでもなったような気持で、何等の感情も神経も動かし得ないまま、いつまでもいつまでも眼をみはり、顎をこわばらせているばかりであった。
 ところがそうした福太郎の眼の前の、死んだような空間が、次第に黄色く明るくなったり、又青白く、薄暗くなったりしつつ、無限の時空をヒッソリと押し流して行ったと思う頃、一方の車輪を空に浮かした右手の炭車トロッコの下から、何やら黒い陰影が二つばかりモゾリモゾリと動き出して来るのが見えた。そうしてそれがやがてかにのように醜い、シャチコ張った人間の両手に見えて来ると、その次にはその両手の間から塵埃ごみだらけになった五分刈の頭が、黒い太陽のように静かにゆるぎ現われて来るのであった。
 その両手と頭は、炭車トロッコの下で静かに左右に移動しながら、一生懸命に藻掻もがいているようであった。そうしてようようの事で青い筋の這入った軍隊のシャツの袖口とカネ[#「┐」を全角大とした、屋号を示す記号、331-6]サの印を入れた半纏はんてんの背中が半分ばかり現われると、そのままソロソロと伸び上るようにしてり返りながら、半分土に埋もれた福太郎の鼻の先に顔をさし付けたのであった。
 それは源次の引攣ひきつり歪んだ顔であった。汗と土にまみれた……。
 福太郎はしかし身動きは愚か、眼の球一つ動かす事が出来なかった。自分が死んでいるのか生きているのかすら判断出来ないような超自然的な恐怖に閉じこめられつつ、全身が氷のようにギリギリと引締まって来るのを感じているばかりであった。
 その福太郎の凝固した瞳を、源次はジイッと見入りながら、暫くの間、福太郎と同様に眉一つ動かさずにいた。それからその汗と泥にまみれた赤黒い顔じゅうに、老人のようなしわをジワジワと浮上らせて、泣くような笑うような表情を続けていたが、やがて歪んだ、薄い唇の間から、黄色い歯を一パイにき出すと、たまらなく気持よさそうなニヤニヤした笑いを顔一面に引拡げて行った。そうしてサモ憎々しそうに……同時に如何にも愉快そうに顎を突出しながら、何か云い出したのであった。
 その言葉は全く声の無い言葉であったばかりでなく、非常にユックリした速度で唇が波打ったために、全然、意味を成さない顔面の動きとしか見えなかった。それでも、福太郎にはその言葉の意味が不思議にハッキリと読めたのであった。
「……わかったか……おれは……源次ぞ……わかったか……アハ……アハ……アハ……」
 福太郎はその時にちょっと首肯うなずきたいような気持になった。しかし依然として全身が硬直しているために、またたき一つ出来なかった。
「……アハ……アハ……わかったか……貴様は……俺に恥掻かせた……ろうが……俺がどげな……人間か知らずに……アハ……」
「……………」
「……それじゃけに……それじゃけに……」
 と云いさして源次は、眼を真白く剥出むきだしたまま、ユックリと唇を噛んで、けもののようにみっともなく流れ出るよだれをゴックリと飲み込んだ。それを見ると福太郎も真似をするかのように唾液つばを飲み込みかけたが、下顎が石のようにこわばっていて、舌の尖端さきを動かすことすら出来なかった。
「……それじゃけに……それじゃけに……」
 と源次は又もあえぐように唇を動かした。
「……それじゃけに……引導をば……わたいてくれたとぞ……貴様を……ころいたとは……このオレサマぞ……アハ……アハ……」
「……………」
「……お作は……モウ……俺の物ぞ……あの世から見とれ……俺がお作を……ドウするか……」
「……………」
「……ああハアハア……ザマを……見い……」
 そう云ううちに源次は今一度唇をムックリと閉じた。それから左右の白眼を、魚のようにギラギラ光らせると、泥まみれの両頬をプーッと風船ゴムのように膨らまして、炭のまじりの灰色のたんを舌の尖端さきでネットリと唇の前に押出した。そうしてプーッと吹き散る唾液つばの霧と一緒に、福太郎の顔の真正面から吹き付けた。
 その刹那に福太郎は思わず瞬を一つした……ように思ったが……それに連れて全身がにわかに堪らなくゾクゾクし始めて、頭の痛みが割れんばかりに高まって来たので、又も両眼を力一パイ見開きながら、モウ一度鼻の先に在る源次の顔をグッと睨み付けた。すると又、それと殆んど同時に福太郎は、自分を凝視している源次のイガ栗頭の背景となっていた、岩の凸凹でこぼこが跡型もなく消え失せて、その代りにラムプにアカアカと照らされた自分のうちの新しい松板天井が見えているのに気が付いた。そうしてその憎しみに充ち満ちた源次の顔の上下左右から、ラムプの逆光線を同じように受けた男女の顔が幾個いくつも幾個も重なり現われて、心配そうに自分の顔を見守っている視線をハッキリと認めたのであった。
 ……その瞬間であった。
 ただならぬ人声のドヨメキが自分の周囲に起ったので、福太郎はハッと吾に返った。
 見ると眼の前にはカネ[#「┐」を全角大とした、屋号を示す記号、334-2]サの半纏を着た源次が俯伏せになっていて、ザクロのように打ちられたイガ栗頭の横腹から、シミジミと泌み出す鮮血の流れが、ラムプの光りを吸取りながらズンズンと畳の上にい拡がっているのであった。
 左右を見廻すと近くに居た連中はみんな、八方へ飛退とびのいた姿勢のまま真青な顔を引釣らして福太郎の顔を見上げていたが、中には二三人、顔や手足に血飛沫ちしぶきを浴びている者も居た。
 福太郎は茫然となったままやや暫らくの間そんな光景を見廻していたが、やがてその源次の枕元に立ちはだかっている自分自身の姿を、不思議そうに振り返った。
 見ると両腕はもとより、白い浴衣の胸から肩へかけてベットリと返り血を浴びていて、顔にも一面に飛沫しぶきが掛っているらしい気もちがした。そうしてその右手には、いつの間に取出したものか、背後うしろの押入の大工道具のうちでも一番大切だいじにしている「山吉やまきち」製の大鉄鎚おおかなづちをシッカリと握り締めていたが、その青黒い鉄の尖端からは黒い血のしずくが二三本、海藻うみものようにブラ下っているのであった。
 そんな光景を見るともなく見まわしているうちに福太郎は、ヤット自分が仕出かした事が判然わかったように思った。そうして何のためにコンナ事をしたのか考えようとこころみたが、どうしても前後を思い出す事が出来ないので、今一度部屋の中をキョロキョロと見まわした。その時にラムプの向う側からバタバタと走り出て来たお作が、殆んど福太郎にっ突かるようにピッタリすがり付いたと思うと、酔いも何も醒め果てた乱れ髪を撫で上げながら、半泣きの声を振り絞った。
「……アンタ――ッ……どうしたとかいなア――ッ……」
 すると、それに誘い出されたように五六人の男がドカドカと福太郎の周囲まわりに駈け寄って来て、手に手に腕や肩を捉えた。
「どうしたんかッ」
「どうしたんかッ」
「どうしたんかッ」
 しかし福太郎は返事が出来なかった。現在眼の前にブッ倒れている源次の頭でさえも、自分が砕いたものかどうか、ハッキリと考え得なかった。そうしてその代りにタッタ今まで感じていた割れるような頭の痛みと、タマラない全身の悪寒戦慄ぞくぞくが、あとかたもなく消え失せてしまって、何ともいえない気持のいい浮き浮きした酒の酔い心地が、モウ一度ムンムンと全身によみがえって来るのを感じたので、吾知らずウットリとなって、血だらけの鉄鎚かなづちを畳の上に取落して汚れた両手でお作を引寄せながら天井を仰いだ。
「……ハハハ……どうもしとらん……アハハハハハハ……」

底本:「夢野久作全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年9月24日第1刷発行
底本の親本:「冗談に殺す」春陽堂
   1933(昭和8)年5月15日発行
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2005年8月20日作成
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