「アヤカシの鼓」当選後の所感を書けとのことですが、只今のところ私のあたまは諸大家の御評を拝してすっかりたたきつけられていまして、いくらか残っていた自画自讃みたような気もちまでもパンクしてしまったばかりのところなので、所感なぞいう気もちにはとてもなれません。ですからここには只、私が執筆中知らず知らずに陥っていた錯覚がどんな風にこの一篇に影響しているかという原因についての告白みたようなものを述べまして、一つは選をなすった方の御苦心の万一に酬い、且つは私の心に消え残っている妄執を打ち消すよすがともさして頂きたいと思います。
 震災後の或る年の秋でした。ある地方で私の師であるAという人の「俊寛」の能がありまして、私も地謡じうたいの末席として招集されましたので、私は職業の方を二日ばかり休むことにしました。
 その能の前日のこと、A先生は同地の旅館の一室で私たちに俊寛の面を出して見せて、「震災でよごれたから手入れにったらこんなに白く塗りかえてしまった。弱く見え過ぎて困っているんだが……」と云いました。「ヘエ」と云いながら私は手をいて黙って見ておりますとうしろからその地方の富豪でBという人が、「C未亡人の処に素敵な俊寛の面がある」と耳打ちをしました。そこに居る人々の中で私だけがC未亡人に面識があることをB氏は知っていたらしいのです。私は誰にも云わずに只一人でC未亡人を訪れて、「突然でまことに何ですが、御秘蔵の俊寛の面を拝見さして頂けますまいか」と頼みました。すると未亡人は暗い顔になりまして、「それはお気の毒様ですが今はこちらに御座いません。或る方が東京へ持って行かれまして、どうしてもお返しになりませんので」と答えました。私はその時に、その「ある方」というのが、亡くなられた御主人C氏の謡曲の先生で、某流のD氏であることを直覚しました。同時にC未亡人の好意を感謝しておいとまをしましたが、実はガッカリしてしまいました。もしその「俊寛」が良い面で、明日の能に対するA先生の不安を一掃することが出来たら……という私の期待がスッカリ裏切られたからであります。
 私はC夫人のうちを出ると、夕日のさす町を歩きながらいろんな事を考えさせられました。もしその面が、或る深い因縁から来た執着でD氏の手に持って行かれたものとしたら、それをC夫人のために取り返すにはどうしたらいいであろう。又もしDさんが若い美しい婦人であるとして、A先生の内弟子のE君か誰かをお使いに立てて取り返しに遣ったら什麼どんなことになるであろう。それとも又その面が此間こないだの震災で焼失していたらどうであろう。もしくはその面だけが焼け残ってD氏が白骨となっていたら……なぞとそれからそれへ妄想をつづけて、何だか纏まったものになりそうに思われた時に私はあぶなく転びそうになりました。見るといつの間にかゴロゴロした砂利道へ這入はいっています。その途端とたんに私はゆうべ紅茶に浮かされて寝られなかったことを思い出しまして、これは頭がだいぶ疲れているなと気が付きましたからそのまま諦めてしまいました。そうして能が済んで本職に帰ると、このことも全く忘れていました。
 それから久しい間った今年の正月の末に、私は義弟のF学士の処に一晩泊りました。FのうちはFの母と姉と、私の妹であるFの妻と、Fの若い妹二人という家庭でしたが、老母と姉とを除いた全部がとても探偵小説好きで、「トリック」だの「ウイット」だの「アリバイ」だのと、中学卒業程度の私にはわかりかねる術語を使ってすごい話ばかりしているのです。その晩もそんな話をきかされながら紅茶に浮かされて夜をかしているうちに、フト俊寛の面のことを思い出しました。そうして何だか筋がまとまったように思いましたから、ほかで読んだことのようにして話してきかせますと、F学士は飛び上って、「そいは面白い。兄さんの創作に違いない。新青年の募集に応じたらどうです」と大騒ぎをしてすすめます。妹たちはもう一等当選にきめておごる約束までするのです。
 私は考えました。もう締切りまでにはないし、職業は三通りもあるし、とてもと思いましたが、少々勢づけられていた上に、コソコソと物を書くことが好きなので筆を執ろうとしますと、第一に能面では説明に苦しむ処や筋が面白くなくなるところがある事に気が付きました。鼓でも似たものですが、いくらか楽なのでその方にして、「焼けあとの二つの死骸」を最初に持って来て又十枚ばかり書きますと、とても骨が折れて筋が運べない上に、あとの説明が私の力ではどうしてもダラケそうに思われます。そのうちにもう頭が疲れて、坐っている足が痛くなりましたので、「何でもいい、とにかく出して見よう」という気になって、最初の思い付き通りに因縁話から書き直し初めました。
 そのうちに風邪で寝たり何かして案外早く出来上りましたから、二度ばかり読み返すとすぐに妻に渡して、これを博文館のこれこれへこんな風にして出しておけと云ったまま仕事に出かけました。そうして二日経って帰って来て、妻に「出したか」とききますと、「ヘエ。送りました。あれは何ですか」とあまり気の乗らない尋ね方をします。「読んだのか」「ヘエ」「面白かったか」「ヘエ……何だかわかりませんけど、あんな気味のわるいことが本当にあるものでしょうか」「どうだか知らん。返送料は入れたか」「ヘエ」こうした気のない会話のうちに、私は妻の表情のうちから失望に価する多くの点を見出しました。こんな方面にあまり趣味を持たない、何気もないものの受けた感じが一番公平なものだということを私は兼ねてから聞いています。しかしすくなくとも「あれが当選したら」位の挨拶はするだろうと予期していたのに、まるで懸賞募集に応じたものかどうかすら知らない程度の無表情さで、あとは留守中の報告に移りました。私はウンザリしました。そうしてあの一篇は単純な読み物としても落第ではないかと心配し初めました。「何故あの事実をもっと突込んで研究して見なかったろう。たとい興味は薄らいでも真実味はきっと深まったに違いなかったろうに」という後悔をその後二三度繰り返したように思います。
 ところがこの一週間ばかり旅行して昨十日夜に帰って来ますと、私の机の上に森下氏のお手紙と新青年の六月増大号と、「アヤカシノゴセイコウヲシュクス○トシ○タミ○フミ○チヨ」という岡山発の電報がほかの手紙とゴッチャになって乗っています。電報は義弟のF学士と妹たちで、高知の病院に赴任の途中岡山で新青年を見て打ったものに違いありません。私はまだ何も見ないうちにヒヤリとさせられました。
 それから諸大家の御批評を読み初めましたが、間もなく私は又この篇を書くに就いて飛んでもない了簡違いをやっていることに気が付きました。しかもそれは実に滑稽な、面目ない種類のものでした。すなわち「或るうちの秘蔵の芸術品を一眼見たいために或る芸術家が一生を棒に振ってしまった。そうしてその芸術家が死のきわに考えて見ると、そのために受けた苦しみは現実の社会に何の益もない。夢の中でもがいて眼がさめたら汗をかいていた位の価値しかないものであった」というのが最初の私の妄想の興味の中心でした。それを探偵小説好きのF学士におだてられた結果、探偵物として価値あるもののように思い込んで書いていたので、つまるところ私は探偵小説を書く気分で普通の読み物を書いていた……極端に云えば知らず知らずとはいえ探偵小説を冒涜していたということを自覚しました。
 それから私はも一度初めに帰って評を読み直して行きました。すると諸氏の批難の大部分は皆こうした、私の錯覚から出た弱点を指されてあるので、私はまるで仮装した犯罪者が数名の名探偵につけまわされているような切なさを感じました。同時に折角賞讃して頂いたお言葉や、探偵小説として採用された原因等の大部分が私の思い設けていたところとは大変に違っていた――云わばそんな価値のあるものが偶然にあの一篇の中に落ち込んでいたに過ぎないことを知りました。
 私はそれが更に山本氏のお作、「窓」までも一気に読みえました。そうして眼を閉じて見ますと、探偵小説の本来はかくあるべきもの――そうしてかく六ヶむずかしいものであるということをまざまざと印象づけられまして、いよいよかぶといでしまいました。「新青年」に載っているいろんな創作が、表面は何の苦もなく面白く読まれていながら、実はなかなか容易ならぬものだ。この種のものは読むにも書くにも、普通のものよりずっと深い強い処に興味の焦点を置かなければならぬものだ……ということをもその時に初めて思い知ったことでした。(知名の人に関係がありますので文中の固有名詞を符号にしたことを御諒恕願います)

底本:「夢野久作全集11」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年12月3日第1刷発行
初出:「新青年 第七巻第十二号」
   1926(大正15)年10月
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2006年5月3日作成
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