江戸川乱歩氏に「久作論」を頼んだから、私はそれに対する「乱歩論」を書けという註文が猟奇社から来ました。
 私はとりあえずドキンとしましたが、あとから直ぐに「これは書けない」と思いました。
 乱歩氏は私の未見の恩人の一人なのです。
 乱歩氏はズット前に、私が生れて初めて書いた懸賞探偵小説を闇から闇に葬るべく、思う存分にコキおろされました。又、一昨年、私が或る老婦人の手記を中心にした創作を書いた時には口を極めて賞讃されました。もっとも後者はつまるところ、その手記を私に提供した老婦人の手柄になった訳ですけれども、いずれにしても縁もゆかりもない一素人の投稿作品を、あんなにまで徹底的に読んであんなにまで真剣に批判して下すった同氏の、芸術家としてのたとえようのない、清い高い「熱」によって、私がどんなにまで鞭撻べんたつされ、勇気付けられ、指導されたか……という事は、私自身にも想像が及ばないでいるのです。
 そのような恩人の作品を公開的に批評する事が、どうして私に出来ましょう。
 さもなくとも乱歩氏は当代、探偵小説界の大先輩で居られるのに、これに対する私は後進も後進……一介の愛読者に過ぎない程度の者です。そのような立場の者です。たとい頼まれたにしても公々然と名前を出して、大先輩と取り組み合うというような非常識な事が、どうして出来ましょう。世間の物笑いの種になる事が、わかり切っているではありませぬか。
 そればかりではありません。元来、私は、中学を末席で出ただけの無学な者で、文壇の傾向とか、芸術の批判とかいうような理屈ばった事には頭を突込む資格のない……ただ色々なものを勝手に読んだり、書いたりするのが楽しみというだけの野生的な利己主義者らしいのです。批評の標準も持たなければ、説明の形式や術語もわからないのです。ですから他人の作品をドウ思っているにしても、それを筆にするという事は出来るだけ差し控えねばならぬ。結局、自分の恥をさらすに過ぎない……という事が、すぐに考えられるではありませんか。
 しかも、そうした私の立場や、乱歩氏との関係を充分に承知していながら「乱歩論」を書けという猟奇社の注文は、とりも直さず文筆上の重刑でなくて何でしょう。……精神的な火渡り刑でなくて何でありましょう。
 乱歩氏が「久作論」を書かれるのは何でもないにしても、私の方はナカナカそうは行きませぬ。「売名」「軽薄」「増長」のそしりを免れない事は明白で、猟奇社はつまるところ面白半分に、横綱とトリテキを組み合わせようとしているのじゃないか知らん……猟奇的な悪趣味から、私を引っぱり出そうと試みているのじゃないか知らん……というような一種の遠慮とヒガミを兼ねたような反撥感から、私はいつまでも返事を出さずにおいたのでした。猟奇の編輯者には相済まぬ事ながら、わざと黙殺を希望していたのでした。
 ところが最近に猟奇社から再度の催促状を受け取って、ジット眺めておりますと、又、何となく気が変わって来ました。以上述べて来ましたような私の態度が、何となく卑怯なもののように感じられて来ました。先輩の機嫌を窺うと同時に、自分の世間的立場をきずつけまいとするような当世思想にとらわれていた私の考えが、アリアリと見え透いて来たように思いました。そうしてそれが云うに云われず不愉快になって来たのでした。
 乱歩氏は全くの見ず知らずの私の作品に対して、何等の顧慮も気兼きがねもなしに、一個人としての飽く迄も清い、高い好意を寄せられたのです。心から「シッカリれ」と云って下すったのです。しかも、そうした乱歩氏の先輩らしくもない……大家らしくもない……ホントウの涙ぐましい御好意に対して、私は一度も赤裸々の私をお眼にかけた事がないのです。タッタ一度、自分の作品に対する同氏の批難を、取りつくろい勝ちに承認した手紙を差出した記憶があるだけで、同氏の作品を公けに評した事なぞは神かけてないのです。
 勿論これは恩誼おんぎある先輩に対する気兼ねからでもあり、同時に自分の無学から来るヒケメからでもあったのですが、しかし他人は知らず江戸川乱歩氏のそうした恩誼に対して、私がそのような世間的の甲羅や着物をむっているという事は、かえっていけない事ではあるまいか。むしろこれを機会に、そんなものをカナグリ棄てて、同氏に対する私のホントウの感想を、出来るだけ明白に披瀝したならば、それが私としてドンナニ不徳な、僭越な所業となるにせよ……又は、全然誰にも問題にされないにせよ……結局するところ、そうした先輩の高潔な恩誼に対するセメテモの感謝の表現になりはしまいか……否……そうした方法に従って、作り飾らぬ自己を先輩の前に投げ出す事が、こうした文筆上の恩誼に対する、唯一無上の正しい感謝のしかたではないかしらん……。
 ……こう考え付きますと私は、急に勇気が出て来ました。そうして何でも構わない……猟奇社の計略にかかっても……逆上したと思われても構わないから、今まで思っていた通りの事を、遠慮なく書いてみようという気になりました。
 或は、これは、私の腹の中に溜まっている乱歩氏の深い印象が、書きたい衝動となって現われたもので、私としては一種の軽挙と見るべきものかも知れませぬ。又、このような私的な考えから出た投稿をするという事は、本誌の読者に対しては勿論のこと、乱歩氏に対しても済まない事になりはしないか……というような事も考えられます。しかし、このような機会以外に、私が自由な「乱歩論」を書き得る場合は、将来、滅多に来ないような気がしましたから、一つは書かして頂く考えになったのです。同時に、おなじ書くにしても、当らず触らずの八百長式のものしか書けない位ならば、私は結局、駄目な人間だ……とも思いましたので、かように行きなり放題に筆を進める気になったのです。
 前置きが大層長くなりましたが、これも私の「乱歩論」の重要な一部です。
 どうぞ深くとがめずに読んで下さい。

       ◇

 私は、乱歩氏の作品の全部を通読している訳ではありませぬ、ただ好きなものを繰り返し繰り返し読んでいるだけで、発表された年代や順序なぞは、調べてみようと思った事もありませぬ。これは乱歩氏の作品に限らず、ほかの小説でも同様で、調べること嫌いの私は「猟奇」とか「探偵」とかいう名目すらも、ツイこの五六年前までは、赤の他人の名前と同様に、通りすがりに記憶しているくらいの事でした。
 その後に私は、友達の処に在る雑誌の中で、偶然に乱歩氏の「心理試験」を読んだのですが、興味に釣られて一気に読まされたにもかかわらず、その内容に対しては、一種の失望を禁じ得ませんでした。
「日本人は直ぐに西洋人の真似をするのだナ」
 と思いながら「エドガー、アラン、ポー」「エドガワ、ランポ」と心の中で繰り返して、何とも云えない物足りなさを感じた事を、今でもハッキリと記憶しています。
 それから矢張り同氏の作にかかる「D坂の殺人」「二銭銅貨」なぞを、作者の力に引き付けられて次から次に読みは読みながら、構想や行文の苦心が一つ残らず西洋人の模倣に見えて仕様がありませんでしたので、巻をおおうと同時に、二度と読む気がしなくなったものでした。そうして、
「江戸川乱歩は要するにエドガア、アラン、ポーに対するエドガワ、ランポにすぎないのかナ」
 なぞと思い思いした事でした。

 ところが、私のこうした乱歩氏に対する失望感は、同氏の「白昼夢」を読むと同時に、あとかたもなく引っくり返ってしまったのでした。
 それは古本屋の店頭にゴミクタのように投げ出されてあった、表紙も奥もないボロボロの数十頁でしたが、その中に「江戸川乱歩」の署名がありましたので、私は又かと思いました。そうして読むともなく読んで行きますと、今度は「チョットいいなあ」と思いましたので、その汚ない数十頁を、たしか二銭か三銭ばかりで買いました。
 それから山の中の一軒屋の寝床の中に落ち付いて、今一度繰り返して読んでみたのですが、そのうちに、私はスッカリ昂奮させられて、眠られなくなってしまいました。
 私はズット前に或る処で、改葬に立ち会った事がありますが、その時に出て来た屍体の白い腐肉、褐色の血? 死水に浮く脂肪? のかがやき、太陽の黄色い臭気なぞ……それは今思い出してもウンザリして唾を吐きたくなる位ですが、そうした太陽の下のタマラナイ感じの数々を、私はソックリそのまま「白昼夢」の中に発見したのです。しかも、私にとっては一カタマリの不快感に過ぎないそのような印象を乱歩氏は細かに、やわらかに分解し、象徴化し、詩化し、小説化し得る人である事を、私はふるえ上るほど、うなずかせられたのです。
 ……白昼の人通りの中で、天日に顔をさらしながら、ダラシなく涙を流す中年男……うす暗いところで開け放しにされている水道の栓……ドラッグの人形の奇妙な形と光り……その中にまじったぶ毛だらけの実物標本……そのようなものが力なくつながり合い、重なり合いながら描き出す白昼夢の交響楽……事実以上のこころの真実……虚偽以上の自然の虚偽……その純な、日本風な、ヤルセのない魅力に、私はスッカリ強直させられてしまいました。
 ……日本でもコンナ小説が生み出され得るのか……この種の小説で純日本式の気分を取り扱ったものとしては谷崎潤一郎のものを読んだ記憶があるだけであるが、これは又、全然、別世界を作った純真、純美なものではないか……と思うと、感激とも感謝とも形容の出来ない、タマラナイ読後感に囚われて、眼を大きく大きく見開きながら、いつまでもいつまでも同じクラ闇を凝視させられた事でした。
 私は、こうして初めて乱歩氏の偉大さを知ったのでした。硝子ガラス窓が深夜にワナワナとふるえるようなポーのペンに対して、眼のたまが白昼にトロトロと流れ落ちるような乱歩氏の筆が対立している事を初めて知ったのでした。
 ポーが地上に残したモノスゴイ薬品のにおいに対して、乱歩氏が生み出すオドロオドロしい黒砂糖の風味が存在している事を、生れて初めて教えられたのでした。
 私はソレ以来、江戸川乱歩というペンネームの安っぽさを、忘れてしまったのでした。そうして、それと同時に……かどうかわかりませんが……日本人のこうした種類の作品を、いつの間にか軽蔑しないようになっていたのでした。
 大変に失礼な引例のしかたですが、正直のところ、小酒井不木氏の「恋愛曲線」を読んで、乱歩氏とは違った感じの「美の戦慄……戦慄の美」が日本にもう一つ存在する事を知ったのは、たしかに、それから後の事でした。甲賀三郎氏の「従弟の死」を読んで、純日本式の「良心の遊戯のモノスゴサ」がズンズン開拓されつつある事を知ったのも、それから後の事でした。羽志主水氏の「監獄部屋」に両手を握り合わせ、城昌幸氏の「神ぞ知ろしす」に襟を正し、渡辺温氏の「可愛相な姉」に素敵を叫けび、小舟勝二氏の「或る百貨店員の話」に頭を下げ得るアタマになる事が出来ましたのも、やはり、それ以来の事に相違ないと思われるのです。
 そうしてソレ以来、私は乱歩氏の幾多の作品を読んで、或はその脚色に失望し、又はその作風の執拗さに幾度となく反感をそそられながらも、その全体を通じての、氏、独特の筆力と、持ち味の魅力に引きずられながら、ある時は、その一と息の長さに「トテモかなわぬ」と歎息させられたり、又は「成る程、そんな方向からも見られるものかナア」と首肯させられたりしつつ「やはり、こんなものは乱歩氏でなくては……」と時折りに思い思い今日に到ったものでした。

「陰獣」では、その読者を引っかけて、引きずり込んで行く、新らしい蜘蛛の糸のような底深い筆のネバリと、飜弄自在なトリックに恐れ入りつつ、その脚色の末尾のドンデン返しの一節に到って「牛鍋」の中から「牛の毛」を発見させられた程度の残念さを、シミジミ味わせられた事でした。
「人間椅子」では、あの主人公の性格をもう一息、突込んで脚色してもらいたいと思いながらも、椅子というものの不可思議な感じを、あそこまでエグリ付けられた氏の大手腕に、羨ましいまで感心させられてしまいました。
「赤い部屋」では、その前置きの材料を集められたハタラキと、その配列と、トリック、脚色を、あそこまで洗練し、有機化しつつ、最後に茶化してしまわれた大器量に対して、思わず「満点」を叫ばせられました。
「踊る一寸法師」では、その材料のステキサと、ノロノロと推移するリズムの詩的?なモノスゴサに、それらの出来事のワザトラシサをハッキリと気付きながらも、喜んで魅惑されて行きました。
「屋根裏の散歩者」では、おしまいにあのキザな、あらずもがなの素人探偵が出て来て、下らなく威張り散らしたために、スッカリ打ち壊されたように思いましたが、しかし、殺人行為までの前半の興味は、私をかなり夢中にしてしまいました。その中でも、被害者が毒を飲まされてから息を引き取る迄の手みじかな、平気な描写は、描写ではない真実の光景として、覗いている節穴の形と一所に、今でも私の眼にみついております。
 これに反して「パノラマ島奇譚」では、ほとんど初めからおしまいまでスッカリ失望させられてしまいました。前半の作者の苦心や、後半の作者の気持ちよさが、どこまでもアクドク受け取られただけで、私としての収穫は、コンクリートの柱から引き出された女の髪の毛一本だけと云ってもよいのでした。
 けれども最近に「蟲」を読みました時には、乱歩氏の頭脳のスゴサに徹底的にハネ飛ばされてしまった感じがしました。
 もっとも「蟲」の主人公が殺人を遂行する迄の筋道は何となく冗長なようで、あまり感心しませんでした。しかもその冗長さは、乱歩氏独特の気味のわるいネバリを持ったものでなくて、幾分固くるしいような感じのものでした。
 それから今一つその終末に、主人公が屍体に爪と頭を打ち込むところで、何となく「余計な真似」というような感じがしました。これが乱歩氏の特徴で、同時に弱点に相違ない。「悪夢」の結末ではこうした頭の余力?が全体を悪夢として裏書きすべく、スバラシク成功しているが、「蟲」や「陰獣」では却って失敗に帰している。これは多くの作者に共通した迷いの種かも知れぬが……又読者の好みや、玩味の程度にも依る事であろうが……と思いました。
 ……とはいえあの「蟲」の主人公が、女優の屍体を土蔵の中からトウトウ取り出し得ずに、変テコになってヘタバッてしまう迄の極度にあられもない気分の変幻を、あんなに平気で扱い去った筆力の凄まじさには「鬼か人か」と叫びたいくらい、いらせられてしまいました。私の寡読のせいかも知れませぬが、あのような描写を見せられた事は、今までに一度もなかった事を、私は躊躇ちゅうちょせずにお答えする事が出来ます。
 まだこの外にも乱歩氏の作品は色々読んでおります。評させて頂きたい事も山々ありますが、一々こんな風に書いて行くと大変ですから略させて頂きます。

 以上……私は自分勝手な理由の下に、あまりにも大胆に、乱歩氏を冒涜して来ました。全く未見の先輩、且つ恩人である乱歩氏に対する私の、私的な感じを、あまりにも無遠慮に述べ立ててしまいました。
 これが「猟奇」の読書諸賢に対して、どのような感じをあたえるか……そうして、それがどのような天罰、もしくは人罰となって報いられて来るか……というような事を、私は出来るだけ考えずに書いて来ました。或はこれは人知れず、心の中で思うべき種類の感想で、徳義上、社交上、発表を許されない程度のものかも知れない……と思いましたが、文壇の儀礼を体験した事のない私は、そんな事も問題にしまいと思って……眼をつぶって……自分の一切を棚に上げて……手加減なしにグングン書いて来ました。
 これだけ書くために、精神的な意味で生命いのちがけの思いをしている事をお察し願って、すべてを許して頂けますれば、私の面目これに過ぐるものはありませぬ。

底本:「夢野久作全集11」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年12月3日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:mineko
2001年4月23日公開
2006年2月26日修正
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