近世快人伝

 筆者の記憶に残っている変った人物を挙げよ……という当代一流の尖端雑誌新青年子の註文である。もちろん新青年の事だから、郵便切手に残るような英傑の立志談でもあるまいし、神経衰弱式な忠臣孝子の列伝でもあるまいと思って、なるべく若い人達のお手本になりそうにない、処世方針の参考になんか絶対になりっこない奇人快人の露店をひらく事にした。
 とはいえ、何しろ相手が了簡りょうけんのわからない奇人快人揃いの事だからウッカリした事を発表したら何をされるかわからない。新青年子もコッチがなぐられるような事は書かないでくれという但書ただしがきを附けたものであるが、これは但書を附ける方が無理だ。奇行が相手の天性なら、それを書きたいのがこっちの生れ付きだから是非もない。サイドカーと広告球アドバルンを衝突させたがる人間の多い世の中である。お互いに運の尽きと諦めるさ。
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 ナアーンダ。奇人快人というから、どんな珍物が出て来るかと思ったら頭山とうやま先生が出て来た。第一あんまり有名過ぎるじゃないか。あんなのを奇人快人の店に並べる手はない。明治史の裡面に蟠踞ばんきょする浪人界の巨頭じゃないか。維新後の政界の力石ちからいしじゃないか。歴代内閣の総理大臣で、この先生にジロリとにらまれて縮み上らなかった者は一人も居ない偉人じゃないか……とか何とか文句を云う者が大多数であろう。
 ……しからん。頭山先生を雑誌のさらし物にするとは不埒ふらちな奴じゃ。頭山先生は現代の聖人、昭和維新の原動力だ。そんな無礼な奴は絞め上げるがヨカ……とか何とか腕まくりをして来る黒切符組もないとは限らないが、まあまあ待ったり。話せばわかる。
 筆者のお眼にかかった頭山先生は、御自身で、御自身を現代の聖人とも、昭和維新の原動力とも、何とも思って御座らぬ。「俺は若い時分にチットばかり、漢学を習うたダケで、世間の奴のように、骨を折って修養なぞした事はない。一向ツマラヌ芸無し猿じゃ」と自分でも云うて御座る。それでいて西郷隆盛の所謂いわゆる生命いのちも要らず、名も要らず、金も官位も要らぬ九州浪人や、好漢安永氏の所謂「頭山先生の命令とあれば火の柱にでも登る」というニトロ・グリセリン性の青年連に尻を押されて、新興日本の尻を押し通して御座った……しかも一寸一刻も、寝ても醒めても押し外した事はなかった。日本民族をして日清、日露の国難を押し通させて、今は又、昭和維新の熱病にかかりかけている日本を、そのまんま、一九三五年の非常時の火の雨の中に押し出そうとして御座る。……ように見えるが、その実、御自身ではドウ思って御座るかわからない。ただ相も変らぬ芸無し猿、天才的な平凡児として持って生まれた天性を、あたりはばからず発揮しつくしながら悠々たる好々爺こうこうやとして、今日こんにちまで生き残って御座る。老幼賢愚の隔意なく胸襟きょうきんを開いて平々凡々に茶をすすり、談笑して御座る。そこが筆者の眼に古今無双の奇人兼、快人と見えたのだから仕方がない。世間の所謂快人傑士が、その足下あしもとにも寄り付けない奇行快動ぶりに、測り知られぬ平々凡々な先生の、人間性の偉大さを感じて、この八十幾歳の好々爺が心から好きになってしまったのだから致し方がない。そうして是非とも現代のハイカラ諸君に、このお爺さんを紹介して、諸君の神経衰弱を一挙に吹飛ばしてみたくなったのだから止むを得ない。
 元来、頭山先生が、この新青年に、きょうが日まで顔を出さないのが間違っている。それも頭山先生が時代遅れのせいではない。かえって新青年誌の方が頭山老人の思想よりも立ち遅れている事を筆者は確信しているのだから是非もない。ここに先生の許しを得て、逸話を御披露する。
 頭山満とうやまみつる翁の逸話といったら恐らく、浜の真砂まさごの数限りもあるまい。頭山満翁はさながらに逸話を作りに生まれて来たようなもので、その奇行快動ぶりといったら天下周知の事実と云っても憚らない位である。
 しかし仔細に点検して来ると、その鬼神も端倪たんげいすべからざる痛快的逸話の中にも牢乎ろうことして動かすべからざる翁一流の信念、天性の一貫しているところを明白に認める事が出来る。
 すなわち翁の行動には智力を用いた形跡がない。何でも行きなりバッタリの無造作、無鉄砲をもって押通して行くところに、翁の真面目しんめんもくが溢るるばかりに流露している。そうしてその真面目が、日常茶飯事に対しては意表に出づる逸話となり、国事に触れては鉄壁を砕く狂瀾怒濤となって行くもののようである。
 じゃすんにしてへびを呑む。翁が十歳ばかりの年の冬に家人から十銭玉を一個握らせられて、蒟蒻こんにゃく買いにられた。その頃の蒟蒻は一個二厘、三厘の時代であったから、定めし十個か二十個買って来いという家人の註文であったろう。
 ところが十幾歳の頭山満は蒟蒻屋の店先に立つと黙って十銭玉を一個投出したので、店の主人は驚いた。
「これだけミンナ蒟蒻をば買いなさるとな」
 翁は簡単にうなずいた。
 蒟蒻屋の主人は蒟蒻を山のように数えて、翁の前に持って来た。
「容れ物をば出しなさい」
 翁はやはりだまって襟元えりもとくつろげた。ここへ入れよという風に、うつむいて見せた。そうして主人が驚いて見ているうちに、氷よりも冷たい蒟蒻の山を懐中ふところに掴み込んで、悠々とうちへ帰った。
 頭山翁は終生をこの無造作と放胆振りでもって押通している。
「俺は無器用な奴じゃがのう。しかし、その無器用な御蔭で、天下の形勢の図星だけは見外みはずさぬようになっとる」云々。
「しかしこの頃俺に書画、骨董こっとうや、刀剣の鑑定を持込んで来るには閉口しとる。一番わからん奴の処へ見せに来る訳じゃからの。ハハハハ」

 グロの方ではコンナ傑作がある。
 大阪に菊地なにがしという市長が居たことがある。仲々の遣手やりてでシッカリ者という評判であったが、これに頭山先生が、何かの用を頼むべく会いに行った事がある。同伴者は先生の親友で、のちの玄洋社長の進藤喜平太氏であったというが、市長官舎の応接室に通されて待てども待てども菊地市長が現われて来ない。天下の豪傑、頭山満が来たというので、才物の菊地市長尊大ぶって、羽根づくろいをするために待たせたものらしいという後人こうじんの下馬評である。
 ちょうどその時に頭山先生は、腹の中でサナダ虫を湧かして、下剤を飲んでいたので、そいつが利いたと見えて待っているうちに尻の穴がムズムズして来た。そこで頭山先生懐中ふところから股倉へ手を突込んで探ってみると、何かしら柔らかいものがブラリと下っている。つまんで引っぱってみると、すぐにプツリと切れてしまった。股倉から手を出してみるといかにも名前の通りに白い、平べったい、サナダひもみたいなものが一寸ばかりブラブラしている。
 見ると目の前に、見事な金蒔絵まきえをした桐の丸胴の火鉢があったので、頭山先生その丸胴のふちくだんのサナダ虫を横たえた。進藤喜平太氏も不審に思って覗いてみたが、何やらわからないので知らん顔をしていたという。
 そのうちに又、頭山先生のお尻の穴がムズムズして来たので、又手を突込んで引っぱると、今度は二寸ばかりの奴が切れ離れて来たヤツを、やはり眼の前の火鉢の縁へ、前の一片ひときれと並べておいた。察するに頭山先生いい退屈しのぎを見付けたつもりであったろう。悠々と股倉へ手を突込んでは一寸、又二寸とサナダ虫の断片を取出して、火鉢の縁へ並べ初めた。
 誰でも知っている通りサナダ虫は一じょうも二丈もある上に、短かい節々のつながりが非常に切れ易いので、全部を引出し終るにはナカナカ時間がかかる。とうとう火鉢の周囲まわりへ二まわり半ほど並べたところへ、やっとの事、御大将の菊地市長が出て来た。黒羽二重はぶたえ五つ紋に仙台平せんだいひらか何かの風采堂々と、二人を眼下に見下して、
「ヤア。お待たせしました」
 と云いながら真正面の座布団に坐り込んだが、火鉢の縁へ手を載せたトタンにヒイヤリとしたので、ちょっと驚いたらしくてのひらを見ると、白い柔らかい、平べったい、豆腐の破片みたようなものが手の平へ二三枚ヘバリ付いている。嗅いでみると異様なたまらない臭いがする。菊地市長いよいよ驚いたらしく背後うしろをかえりみて女中を呼んだ。
「オイオイ。この火鉢の縁の……コ……コレは何だ」
 女中が真青に面喰った。ちょっと見たところ、正体がわからないし、自分が並べたおぼえがないので、返事に窮していると頭山先生が静かに口を開いた。
「それは僕の尻から出たサナダ虫をば並べたとたい」
 菊地市長は「ウワアッ」と叫んでふすまの蔭に転がり込んで行ったが、それっ切り出て来なかった。
 二人は仕方なしに市長官舎を辞したが、門を出ると間もなく正直者の進藤喜平太氏が、
「折角会えたのに惜しい事をした」
 とつぶやいた。頭山先生は又も股倉へ手を突込みながら、
「フフン。あいつは詰らん奴じゃ」

 まだある。
 これは少々グロを通り越しているが、頭山翁の真面目を百パーセントに発揮している話だから紹介する。頭山翁が玄洋社をひっさげて、筑豊の炭田の争奪戦をやらせている頃、福岡随一の大料理屋常盤ときわ館で、偶然にも玄洋社壮士連の大宴会と、反対派の壮士連の大宴会が、大広間の襖一枚を隔ててぶつかり合った。
 何がさて明治もまだ中途半端はんぱ頃の血腥ちなまぐさい時代の事とて、何かと騒動初まらねばよいがと、仲居なかい芸妓げいぎ連中が心も空にサービスをやっているうちに果せるかな始まった。
 あいへだての襖が一斉に、どちらからともなく蹴開けひらかれて、敷居越しに白刃しらはが入り乱れ、遂には二つの大広間をブッ通した大殺陣が展開されて行った。
 大広間に置き並べられた百蝋燭ろうそくの燭台が、次から次にブッ倒れて行った。
 そうして最後に、床の間の正面に端座している頭山満の左右に並んだ二つの燭台だけが消え残っていた。これは広間一面に血の雨を降らせ合っている殺陣連中が、敵も味方も目がくらんでいながらに、そうした頭山満の端然たる威風に近づくとハッと気が付いて遠ざかったからであった。
 その頭山満の左右と背後の安全地帯に逃げ損ねた芸者仲居が、小さくなって固まり合って、生きた空もなくなっていた。しかし頭山翁は格別変った気色けしきもなく、活動のスクリーンでも見てるような態度で、眼前めのまえの殺陣を眺めまわしていたが、そのうちにフト自分のそばに一人の舞妓がヒレ伏しているのに気が付くと、片手でその背中を撫でながら耳に口を寄せた。
「オイ。今夜俺と一緒に寝るか」
 これは頭山翁お気に入りの仲居、筑紫お常婆さんの実話である。この婆さんもまた、一通りならぬ変り物で、ミジンも作り飾りのない性格であったから、機会があったら別に紹介したいと思う。
 この婆さんが黙って死んだのでホッと安心して御座る北九州の名士諸君が多い事と思うが、しかしまだまだ御安心が出来ませぬぞ。この婆さんから筆者がドンナ話を聞いているか知れたものではないのだから……。

 頭山翁のノンセンス振りと来たら又一段と非凡離れがしている。つまるところは聖人以外の誰にでも出来る平々凡々振りであるが、その平々凡々振りが又なかなか容易に真似られないのだから不思議である。頭山翁の恐ろしさと偉大さは、その平々凡々なノンセンス振りの中に在ると云ってもいい位である。
 嘗て頭山翁が持っていた、北海道の某炭坑が七十五万円で売れた事がある。
 これを聞いた全日本の頭山翁の崇拝者連中、喜ぶまいことか、吾も吾もと押寄せて、当時霊南坂にあったかの頭山邸は夜も昼も押すな押すなの満員状態を呈した。下では幾流れとなく板を並べた上に食器を並べて、避難民式に雲集うんしゅうした書生や壮士が入代いりかわ立代たちかわり飯を喰うので毎日毎日戦争のような騒動である。また階上の翁の部屋では天下のインチキ名士連が翁を取巻いて借銭の後始末、寄附、運動費、記念碑建立、社会事業、満蒙問題なぞ、あらゆる鹿爪しかつめらしい問題をひっさげて、厚顔無恥に翁へ持ちかける。
 翁はそんな連中に対して面会謝絶をしないのみか、どんな事を頼まれてもいやとは云わない。黙々として話を聞き終るとかねならば金、印形いんぎょうなら印形をしてやってミジンも躊躇ちゅうちょしない。市役所へハキダメの物でも渡すように瞬く間に七十五万円を費消してしまった。残るものは借金取りの催促と、雲集した書生壮士ばかりになってしまった。
 それでも、まだ印形や金を借りに来るものがある。しかも以前に、二度と来られないようなインチキで翁を引っかけて行った人間が、シャアシャアと又遣って来るのである。それでも翁は何も云わずに無理算段をした金を遣り、印形を貸す。翁の一家は、そのために、七十五万円の富豪から一躍、明日あすの米も無い窮迫に陥ってしまったが、それでも避難民張りの米喰虫は雲集するばかり……。
 或る人が見かねて、
「これはイカン。何とかしてコンナ恥知らずの連中をい出さねば、先生の御一家は野タレ死にをしますぞ」
 と忠告した。翁はニコニコと笑って疎髯そぜんを撫でた。
「まあそう、急いで逐い出さんでもええ。喰う物が無くなったらどこかへ行くじゃろ」

 今一つノンセンス。翁と同郷の福岡に的野半助まとのはんすけという愉快な代議士君が居た。(別人とも聞いているが)この代議士君……頭山先生は人物が出来とるから禅学をやったらキット成功する……というので翁を掴まえ、禅学を説き立てた。翁は黙ってウンウンとうなずきながら聞いていたが、とうとうこの愉快な代議士君に引っぱり出されて鎌倉の円覚寺に釈宗演和尚しゃくそうえんおしょうを訪う事になった。
 釈宗演和尚は人も知る禅風練達の英僧、且つ雄弁家で的野代議士の崇拝の的であった。さるほどに宗演老師は天下の豪傑頭山翁の来訪を喜んで、禅学に就いて弁ずる事良久ややしばしおもむろに翁に問うていわく、
「あんたは前にも禅学を志された事がありますかな」
 翁曰く、
「ウム。在る。しかし素人じゃ」
「ハハア。誰に就いて御修業なされましたかな」
 翁そばに小さくなっている背広服の的野代議士をかえりみて、
「ナニ。コイツに習うただけじゃ」
 釈宗演和尚唖然。

 ツイこの間新聞を賑わした法政大学の騒動の時、教授の一人である山崎楽堂がくどう氏が喜多文子きたふみこ五段の紹介か何かで単身、頭山翁を渋谷の自宅に訪問した。山崎楽堂氏は現代能評界に於ける一方の大御所で、単純率直、達弁の士である。
 湯から上って来た頭山翁は、翁の居間にチョコンと坐っている楽堂君を見ると突立ったまま云った。
「君一人か」
「ハイ」
 と答えつつ楽堂君は簡単に一礼した。翁はこの時既に法政騒動の成行なりゆきと、楽堂氏の性格に関する概念を掴んでいたらしい事を、この簡単な問答の中から推測し得べき理由がある。
 それから楽堂君が持って生まれた快弁熱語を以て滔々とうとうと法政騒動の真相を披瀝ひれきすると、黙々として聞いていた翁は、やがて膝の前に拡げられた法政騒動渦中の諸教授の連名に眼を落した。
「ウーム。あんまり複雑で、ワシにはよくわからんがのう。この教授の中で正しい事を主張しよる奴の頭の上に丸を附けてくれんか」
 楽堂君ちょっと呆れたが命令通りに自分の味方の諸教授連の頭の上に丸を附けて見せると翁はニコニコと笑顔を見せた。
「フーム。正しい奴の方が、不正な奴よりもズット多いじゃないか」
「ハイ」
 翁はマジマジと楽堂君の顔を見た。
「フフ。意気地いくじがないのう。人数にんずの多い方が負けよるのか」
 楽堂君は返事に窮した。こう端的に子供アシライにされようとは思わなかったので、眼をパチパチさせていると翁は一層ニコニコし出した。
「ウムウム。まあええから、そげな騒動しよる連中を皆一緒にここへ連れて来なさい。わしが聞き役になってやるけに、両方で議論してみなさい。わしが正しい方に加勢してやる」
 山崎楽堂氏は大喜びで帰ってこの旨を全教授に通告した。しかし折角の翁の心入れも、楽堂氏と反対側の諸教授の不出席によってオジャンとなったという。法政騒動裏面史の一席……。

 どうしてコンナ巨大な平凡児が日本に出現したかという……つまり頭山満の立志伝を書けと云われると筆者も少々困る。頭山満翁には、元来立志伝なるものがない。古往今来、あらゆる英雄豪傑は皆、えらい者になろうと志を立ててから、その志に向って勇往邁進まいしんしたに相違ない。つまるところ志を立てなければえらい者になれない訳であるが、頭山翁の生涯を見ると、その志なるものを立てた形跡がない。従ってその立志伝なるものの書きようがないから困るのだ。
 勿論、頭山翁は若い時代に、維新後の日本が、西洋文化に心酔した結果、日に月に唯物的に腐敗堕落して行く状況を見て、これではいけないぐらいの事は考えたかも知れないが、それを救うためには自分がず大人物にならなければとか、実社会に有力な人物にならなければとか、又は大衆の人気を集めなければとか、人格者として尊敬されなければ……とかいったようなセセコマしい志を立てた形跡はミジンもない。持って生れた平々凡々式で、万事ありのまんまの手掴みで片付けて来ている。そこが頭山翁の古来ありふれた人傑と違っている点で、その平々凡々式の行き方が又、筆者をして頭山翁を好きにならしめた第一の条件になっているらしいのだ。
 事実、頭山翁を平凡人なりと断定されて腹を立てる取巻きの非凡人諸君の中には、頭山翁が超特級の非凡人でなければ差支える連中が多いようである。頭山翁の爪の垢をせんじて第一にませてやりたい人間は、頭山翁を取巻くそんな非凡人諸君に外ならないのだ。
 維新後、天下の大勢を牛耳って、新政府の政治と、新興日本の利権とを併せて壟断ろうだんしようと試みた者は、所謂、薩長土肥の藩閥諸公であった。その藩閥政治の弊害を打破るべく今の議会政治が提唱され初めたものであるが、そもそもその薩長土肥の諸藩士が、王政維新、倒幕の時運に参劃さんかくし、天下の形勢を定めた中に、九州の大藩筑前の黒田藩ばかりが何故に除外されて来たのか。筑前藩には人物が居なかったのか。もしくは居るとしても、天下を憂い、国を想う志士の気骨きこつが筑前人には欠けていたのかというと、ナカナカそうでない。事実はその正反対で、恐らく日本広しといえども北九州の青年ほど天性、国家社会をうれうる気風を持っている者はあるまいと思われる。そうした事実は、明治、大正、昭和の歴史に出て来る暗殺犯人が大抵、福岡県人である実例を見ても容易に首肯出来るであろう。
 維新前の黒田藩には、西郷南洲、高杉晋作に比肩すべき大人物がジャンジャン居た。流石さすがの薩州も一時は筑前藩の鼻息ばかりをうかがっていた位である。有名な野村望東尼ぼうとうにを仲介として西郷、高杉の諸豪は勿論、その他の各藩の英傑が盛んに筑前藩と交渉した形勢は、筆者の幼少の時に屡々しばしば、祖父母から語って聞かされた事である。但しそれ等筑前藩の諸英傑が、何故に維新以後、音もにおいもなくこの地上から消え失せてしまったかという、その根元の理由に考え及ぶと、筆者も筆を投じて暗然たらざるを得ないものがある。
 筆者の祖先は代々黒田藩のろくんでいた者だから黒田様の事はあまり云いたくない。しかし何故に維新後に筑前閥が出来なかったか……という真相を明らかにするためには、どうしてもの二つの事実を挙げなければならぬ事を遺憾とする。
一、当時の藩公が優柔不断であった事。
二、黒田藩士が上下を問わず人情にあつく、従って藩公に対する忠志が、他藩の藩士以上に潔白であった事。
 ところでここで今一つ、了解しておいてもらわねばならぬ事は、昔の各藩の藩士が日本の国体を知らなかった……換言すれば昔の武士というものは、自分の藩主以外に主君というものは認識していなかった事である。
 これは誠にしからぬ事で、今の人には到底考えられない、同時にあまり知られていない大きな事実で、同時に時節柄、御同様まことに不愉快な史実ででもあり得るのであるが、しかしこの史実を認識しないで明治維新の歴史を読んでいると飛んでもない錯覚に陥る事がある。すくなくとも王政維新なる標語を各藩に徹底させるのが、どうして、あんなに骨が折れたのかと不思議の感に打たれるので、黒田藩では特にこうした傾向が甚しかった事が窺われるようである。
 そこへ藩公が優柔不断と来ているからたまらない。佐幕派が盛んになると勤王派の全部に腹を切らせる。そのうちに勤王派が盛り返すと今度は佐幕派の全部を誅戮ちゅうりくする。そうすると藩士が又、揃いも揃った正直者ばかりで、逃げも隠れもせずにハイハイと腹を切る……といった調子で、最初から一方にきめておけば、どちらかの人物の半分だけは救われたろうに、藩論が変るごとに行き戻りに引っかかってバタバタと死んで行ったのだからたまらない。とうとう黒田藩の眼星めぼしい人物は、殆んど一人も居なくなってしまった。たまたま脱藩して生野いくのの銀山で旗を挙げた平野次郎ぐらいが目っけもの……という情ない状態に陥った。
 しかし世の中は何が仕合わせになるか、わからない。こうした事情で明治政府から筑前閥がノックアウトされたという事が、そののちに於ける頭山満、平岡浩太郎、杉山茂丸、内田良平等々の所謂、福岡浪人の濶歩かっぽの原因となり、歴代内閣の脅威となって新興日本の気勢を、背後から鞭撻しはじめた。……何も、それが日本のために仕合せであったに相違ないと断定する訳ではない。随分迷惑な筋もあったに違いないが、しかしそうした浪人の存在が、西洋文化崇拝の、唯物功利主義の、義理も、人情も、血も、涙も、良心も無い、厚顔無恥の個人主義一点張りで成功した所謂、資本家、支配階級の悩みの種となり、不言不語のうちに日本人特有の生命いのちも要らず名も要らず、かねも官位も要らぬていの清浄潔白な忠君愛国思想を天下に普及、浸潤せしめた功績は大いに認めなければならぬであろう。
 従って歴史に現われない歴史の原動力として、福岡人を中心とする所謂九州浪人の名を史上に記念しておく必要がないとは言えないであろう。

 勿論浪人といえども生きた血の通う人間である。家族もあれば睾丸きんたまもある。生命いのちかねも官位も要らないとか何とか強情を張るにしても、そんな場面にぶつかる迄に何とかして喰い繋いで生きて行かなければならない。いわんやその命を捧げた乾児こぶんどもが、先生とか、親分とかいって蝟集いしゅうして、たよりすがって来るに於てをやである。浪人生活の悩みは実にかかってこの一点に存すると云っても過言でない。
 だから……という訳でもあるまいが、彼等浪人生活者の中にはいつもその浪人式の圧迫力を利用して何かの利権をあさっている者が多い。しかしその漁り得た利権を散じて、何等か浪人的立場に立脚した国家的事業に邁進するならばともかく、一旦、この利権を掴むと、今まで骨身にコタエた浪人生活から転向をして、フッツリと大言壮語を止め、門戸を閉して面会謝絶を開業する者が珍らしくない。又はこれを資本として何等かの政権利権に接近し、ついこの間まで攻撃罵倒していた、唯物功利主義者のお台所に出入しゅつにゅうして、不純な栄華に膨れ返っている者も居る。もっとも、そんなのは浪人の中でも、第一流に属する部類で、それ以下の軽輩浪人に到っては、浪人と名づくるのも恥かしいヨタモンとなり、ギャングとなり、又は、高等乞食と化しつつ、自分の良心は棚に上げて他人の良心の欠陥を攻撃し、頼まれもせぬのに天下国家、社会民衆の事を思うているのは自分一人のような事を云って、放蕩無頼の限りをつくし、親兄弟を泣かせている者も居る。生命いのちが惜しくて名誉が欲しくて、かねや職業が、げつくほど欲しい浪人が滔々として天下に満ち満ちている状態である。

 その中に吾が頭山満翁は超然として、一依旧様いちいきゅうよう、金銭、名誉なんどは勿論の事、持って生れた忠君愛国の一念以外のものは、数限りもない乾分こぶん、崇拝者、又は頭山満の沽券こけんと雖も、往来の古草鞋わらじぐらいにしか考えていないらしい。いな現在の頭山満翁は既に浪人界の巨頭なぞいう俗な敬称を超越している。そこいらにイクラでも居る好々爺ぐらいにしか自分自身を考えていないらしい。
 嘗て筆者は数寄屋橋の何とか治療の病院に通う翁の自動車に同乗させてもらったことがある。その時に筆者は卒然として問うた。
「どこか、お悪いのですか」
「ウム。修繕そそくりよるとたい。何かの役に立つかも知れんと思うて……」
 その語気に含まれた老人らしい謙遜さは、今でも天籟てんらいの如く筆者の耳に残っている。

 以下は筆者が直接翁から聞いた話である。
「世の中で一番恐ろしいものはかかあに正直者じゃ。いつでも本気じゃけにのう」
「四五十年も前の事じゃった。友達の宮川太一郎が遣って来て、俺に弁護士になれと忠告しおった。これからは権利義務の世の中になって来るけに、法律を勉強して弁護士になれと云うのじゃ。その後、宮川は牛乳屋をやっておったが、まだ元気で居るかのう。俺に弁護士になれと云うた奴は彼奴あいつ一人じゃ」
 又或時傍の骨格逞しい眼付きの凄い老人に筆者を引合わせて曰く、
「この男は加波山かばさん事件の生残りじゃ。今でも、え荷物(国事犯的仕事。もしくは暗殺相手の意)があれば直ぐに引っ担いで行く男じゃ」

「西郷南洲の旧宅を訪うたところが、川口雪蓬せつほうという有名な八釜やかまし屋のおやじが居った。ドケナ(如何なる)名士が来ても頭ゴナシに叱り飛ばして追い返すという話じゃったが、俺は南洲の遺愛の机の上に在る大塩平八郎の洗心洞※(「答+りっとう」、第4水準2-3-29)せんしんどうさつきを引っ掴んで懐中ふところに入れて来た。それは南洲が自身で朱筆を入れた珍らしいものじゃったが、そのおやじが鬼のようになって飛びかかって来る奴を、グッと睨み付けてサッサと持って来た。それから俺は日本廻国をはじめて越後まで行くうちに、とうとうその本を読み終ったので、叮嚀ていねいに礼を云うて送り返しておいたが、ちょっと面白い本じゃったよ」

 これ程の豪傑、頭山満氏がタッタ一つ屁古垂へこたれた話が残っているから面白い。
 その日本漫遊の途次、越後路まで来ると行けども行けども人家の無い一本道にさしかかった。同伴者がペコペコに腹が減っていたのだから無論、大食漢の頭山満氏も空腹を感じていたに相違ないのであるが、何しろ飯屋は愚か、百姓家すら見当らないので、皆空腹を抱えながら日の暮れ方まで歩き続けた。
 そのうちに、やっと一軒の汚ない茶屋が路傍みちばたに在るのを発見したので、一行は大喜びで腰をかけて、何よりも先に飯を命じた。ちょうど頭山満氏が第一パイ目の飯を喰い終るか終らない頃、その茶屋の赤ん坊が、頭山満氏のお膳の上の副食物を眼がけて這いかかって来るうちに、すこしばかり立上ったと思うと、お膳の横に夥しい粘液を垂れ流し、その上に坐って泣き出した。
 それと見た茶屋の女房が、直ぐに走り上って来て、何かペチャクチャ云い訳をしながら、自分の前垂れを外して、その赤ん坊の尻を拭い上げて、その粘液の全部を前垂れにグシャグシャと包んで上り口から投げ棄てると、そのまま臭気芬々たる右手を頭山満氏の前に差出した。
「ヘイ。あなた、お給仕しましょう。もう一杯……」
 頭山満氏黙々としてはしを置いた。
「モウえ。お茶……」

 頭山翁の逸話は数限りもない。別に一冊の書物になっている位だからここにはあまり人の知らないものばかりを選んで書いた。あんまり書き続けているうちに、諸君の神経衰弱が全癒なおり過ぎてはかえって有害だからこの辺で大略する。
 次は現代に於ける快人中の快人、杉山茂丸翁に触れて見よう。
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 杉山茂丸しげまるなる人物が現代の政界にドレ位の勢力を持っているか、筆者は正直のところ、全然知らない。どんな経歴を以て、如何なる体験を潜りつつ、あの物すごい智力と、不屈不撓ふくつふとうの意力とを養い得て来たかというような事すら知らない。恐らく世間でも知っている人はあるまいと思われるので、筆者が知っているのは、そこに評価の不可能な彼……杉山茂丸の真面目しんめんもくがスタートしている事と、同時に、そうであるにもかかわらず、その古今の名探偵以上の智力と、魅力とをもって、政界の裡面を縦横ムジンに馳けまわり、馳け悩まして行く、その怪活躍ぶりが今日こんにちまで、頭山満翁と同様に、新青年誌上に紹介されないのは嘘だという事を知っているのみである。

 杉山茂丸は福岡藩の儒者の長男として生れた。そうして維新改革後、父母と共に先祖伝来の知行所に引込み、そこで自ら田を作り、くわや下駄を製作し、又は父から授かった漢学を父の子弟に講義し、小学校の先生もつとめた事もあるという。その他の智識としては馬琴ばきん為永ためながの小説や経国美談、浮城うきしろ物語を愛読し、ルッソーの民約篇とかを多少かじっただけである。中村正直まさなお訳の西国立志篇を読んだか読まぬかはまだ聞いた事がないが、いずれにしても杉山茂丸事、其日庵主きじつあんしゅの智情意をやしなった精彩が、右に述べたような漢学と通りと、馬琴、為永、経国美談、浮城物語、西国立志篇程度のもので、これに、後年になって学んだ義太夫の造詣ぞうけいと、聞き噛り式に学んだ禅語の情解的智識を加えたら、彼の精神生活の由来するところを掴むのは、さまで骨の折れる仕事ではあるまい。勿論彼の先天的に持って生まれた智力と、勇気は別問題にしての話である。

 明治と共に生れ、明治と共に老いて来た彼は明治維新の封建制度破壊以後、滔々とうとうとして転変推移する、百色ひゃくいろ眼鏡式の時勢を見てじっとしておれなくなった。このままに放任しておいたら日本は将来、どうなるか知れぬ。支那から朝鮮、日本という順に西洋に取られてしまうかも知れぬと思ったという。その時代の西洋各国の強さ、殊に英国や露西亜ロシアの強さと来たら、とても現代の青年の想像の及ぶところでなかったのだから……。
 杉山茂丸はここに於て決然としてった。頑固一徹な、明治二十年頃まで丁髷ちょんまげを戴いて、民百姓は勿論、朝野の名士を眼下に見下していた漢学者の父、杉山三郎平灌園かんえんを説き伏せて隠居させ、一切の世事に関与する事を断念させて自身に家督を相続し、一身上の自由行動の権利を獲得すると同時に、赤手空拳、メクラ滅法の火の玉のようになって実社会に飛出したのが、彼自身の話によると十六歳の時だったというから驚く。大学を卒業してもまだウジウジしていたり、親から月給を貰ってスイートホームを作ったりしている連中とは無論、比較にならない火の玉小僧であった。
 その頃、彼の郷里、福岡で、豪傑ゴッコをする者は当然、一人残らず頭山満の率ゆる玄洋社の団中に編入されなければならなかった。だから彼も必然的に頭山満とまじわりを結んで、濛々たる関羽髯かんうひげを表道具として、玄洋社の事業に参劃し、炭坑の争奪戦に兵站へいたんの苦労を引受けたり、有名な品川弥二郎の選挙大干渉に反抗して壮士を指揮したりした。それが彼の二十歳から二十四五歳前後の事であったろうか。
 しかし彼は他の玄洋社の諸豪傑連といささせんを異にしていた。その頃の玄洋社の梁山泊りょうざんぱく連は皆、頭山満を首領とし偶像として崇拝していた。頭山満が左の肩を揚げて歩けば、玄洋社の小使まで左の肩を怒らして町を行く。頭山満が兵児帯へこおびを掴めば皆同じ処を掴む……といった調子であったが、杉山茂丸だけはソンナ真似を決してしなかった。否、むしろ玄洋社のこうした気風に対して異端的な考えをさえ抱いていたらしい事が、玄洋社を飛出してから以後の彼の活躍ぶりによってうかがわれる。

 彼は玄洋社の旧式な、親分乾分こぶん式の活躍、又は郷党的な勢力を以て、為政者、議会等を圧迫脅威しつつ、政界の動向を指導して行く遣口やりくちを、手ぬるしと見たか、時代おくれと見たか、その辺の事はわからない。しかし、たしかにモット近代的な、又は実際的な方法手段をもって、独力で日本をリードしようと試みて来た人間である事は事実である。
 事実、彼には乾児こぶんらしい乾児は一人も居ない。乾児らしいものが近付いて来る者はあっても、彼の懐中ふところから何か甘い汁を吸おうと思って接近して来る者が大部分で、彼の人格を敬慕するというよりも、彼の智恵と胆力を利用しようとする世間師の部類に属する者が多く、それ等の煮ても焼いても喰えない連中を巧みに使いこなして自分の仕事に利用する。そうして利用するだけ利用して最早もはや使い手がないとなると弊履へいりの如く棄ててかえりみないところに、彼の腕前のスゴサが常に発揮されて行くのである。嘗て筆者は彼からコンナ話を聞いた。
「福沢桃介という男が四五年前に、福岡市の電車を布設するために俺に接近して来たことがある。俺は彼に利用される振りをして、彼のかねを数万円使い棄てて見せたら、彼奴きゃつめ、驚いたと見えて、フッツリ来なくなってしまった。ところが、この頃又ヒョッコリ来はじめたところを見ると、何喰わぬ顔をして俺に仇討あだうちをしに来ているらしいから面白いじゃないか。だから俺も一つ何喰わぬ顔をして彼奴にあだを討たれてやるんだ。そうして今度は前よりもウンと彼奴の金を使ってやるんだ。事によると彼奴めが俺にあだを討ちおおせた時が身代限りをしている時かも知れぬから見ておれ」
 ちなみに彼……杉山其日庵主は、こうした喰うか喰われるか式の相手に対して最も多くの興味を持つ事を生涯の誇りとし楽しみとしている。そうして未だ嘗て喰われた事がないことを彼に対して野心を抱く人々の参考として附記しておく。

 話がすこし脱線したが、其日庵主は玄洋社を離脱してから海外貿易に着眼し、上海シャンハイ香港ホンコンあたりを馳けまわってつぶさに辛酸をめた。
 その上海や香港で彼は何を見たか。
 その頃は支那に於ける欧米列強の国権拡張時代であった。従って彼、杉山茂丸は、その上海や香港に於て、東洋人の霊と肉を搾取しつつ鬱積し、醗酵し、糜爛びらんし、毒化しつつ在る強烈な西洋文化のカクテルの中に、所謂白禍はっかの害毒の最も惨烈なものを看取したに違いない。資本主義文化が体現するところの、虚無思想、唯物思想の機構の中に、血も涙も無い無良心な、獣性丸出しの優勝劣敗哲学と、功利道徳の行き止まり状態を発見したに違いない。そうして王政維新後、滔々たる西洋崇拝熱と共に鵜呑うのみにされて来た、こうした舶来の思想に侵犯され、毒化されて行きつつ在る日本の前途を見て、逸早いちはやく寒毛樹立したに違いない。
 当時の藩閥と、政党者流の行き方は、正にこの西洋流の優勝劣敗哲学、唯物一点張りの黄金崇拝式功利道徳の顕現であった。外国の政治組織を日本の政体の理想とし、権利義務式の功利道徳、法律的理論をもって日本の国体を論じ合いつつ上下共に怪しまなかった時代であった。
 その中に、藩閥にも属せず、政党の真似もしない玄洋社の一派は、依然として頭山満を中心として九州の北隅にわだかまりつつ、依然として旧式の親分乾分こぶん、友情、郷党関係の下に、国体擁護、国粋保存の精神を格守しつつ、日に日に欧化し、堕落して行く藩閥と政党を横目ににらんで、これを脅威し、戦慄せしめつつ、無けなしのぜにを掻き集めては朝鮮、満蒙等の大陸的工作に憂身うきみやつして来た。
 その中に政党屋流にも堕せず、玄洋社流にも共鳴しなかった彼、杉山其日庵主は、単身孤往こおう、明治後半期の政界の裡面にグングンと深入りして行った。
「玄洋社一流の真正直に国粋的なイデオロギーでは駄目だ。将来の日本は毛唐と同じような唯物功利主義一点張りの社会を現出するにきまっている。そうした血も涙も無い惨毒そのもののような社会の思潮に、在来の仁義道徳『正直のこうべに神宿る』式のイデオロギーで対抗して行こうとするのは、西洋流の化学薬品に漢法の振出し薬を以て対抗して行くようなものだ。その無敵の唯物功利道徳に対して、それ以上の権謀術数と、それ以上の惨毒な怪線を放射して、その惨毒を克服して行けるものは天下に俺一人しか居ない筈だ。だから俺は、俺一人で……ホントウに俺一人で闘って行かねばならぬ。俺みたいな人間はほかに居る筈がないと同時に、俺みたいな真似は他人にさせてはならないのだ。だから俺は、どこまでも……どこまでも俺一人で行くのだ」
 彼は若いうちに、そう悟り切ってしまったらしい。そうして今日までもこうした悟りを以て生涯を一貫して行く覚悟らしく見える。

 それからのちの彼は実際、目的のために手段を選まなかった。そうして乾児こぶんらしい乾児を一人も近づけないまま、万事タッタ一人の智恵と才覚でもって着々として成功して来た。
 彼はソレ以来いつも右のポケットに二三人の百万長者を忍ばせていた。そうして左のポケットにはその時代時代の政界の大立物を二三人か四五人忍ばせつつ、彼一流の活躍を続けて来た。「俺の道楽は政治だ」と口癖のように彼は云い続けて来たのであるが、しかし彼が果して、どんな政治を道楽にして来たか、知っている者は一人も居ない。同時に彼の左右のポケットに入れられている財界、政界の巨頭連が、どうして彼のポケットに転がり込んで来たか……もしくは転がり込ませられて来たか、知っているものは一人も居ないようである。そうして唯驚いて、感心して、彼の事を怪物怪物と評判して、彼のためにチンドン屋たるべく利用されているようである。

 事実、彼は現代に於ける最高度の宣伝上手である。彼に説明させると日清日露の両戦争の裡面の消息が手に取る如くわかると同時に、その両戦役が、彼の指先の加減一つで火蓋を切られた事が首肯されて来る。世人はだから彼を綽名あだなして法螺丸ほらまるという。しかし一旦、彼に接して、彼の生活に深入りしてみると、その両戦役前後に於ける朝野の巨頭連は皆、彼の深交があった事がわかる。事あるごとに彼に呼び付けられて、お説教を喰って引退っていた事が、事実上に証明されて来る。そこで、イヨイヨホントウに心の底から驚いて、彼に何等かの御利益を祈願すべく、お賽銭さいせんふところにして参詣して来る実業家が何人居るかわからない。そうして彼が絶対にお賽銭を取らない神様である事がわかるにつれてイヨイヨ崇拝敬慕の念を高める事になって来る。
 そんな人間にはイクラ云って聞かせる者が居てもわからない。
「君は法螺丸の法螺に引っかかっているのだ。そんな朝野の名士連は、皆、法螺丸に一身上の秘密や弱点を握られているか又は、彼等自身が法螺丸の巧妙、精密を極めた話術に魅せられて、法螺丸にそれだけの実力があるものと信じさせられているのだ。彼が古今無双のシャーロック・ホームズであると同時に、前代未聞のアルセーヌ・ルパンである事を君は知らないのだ。彼はそんな調子で現代日本の政界財界に、あらゆる機会を利用して法螺のから小切手を濫発らんぱつしている。その空小切手を掴んだ連中は、その空小切手を潰されちゃ堪らないもんだから、寄ってたかってその空小切手を裏書きすべく余儀なくされているのだ。福沢桃介が法螺丸にシテヤラレた話だって、眉唾まゆつばものかも知れないんだよ」
 と狐を落すようにテーブルをたたいても、
「イヤ。たしかに法螺丸はえらいと思うね。それだけの空小切手を廻すだけでも、並の人間には出来ない事じゃないか」
 といったような事になってしまう。

 事実、法螺丸の法螺は、大隈重信の法螺とは段違いのところがある。少くとも大隈重信の法螺は、百科辞典の範疇をでないのに対して、法螺丸の法螺はたしかに百科辞典を超越した一種の洒落気しゃれけと魔力とを兼ね備えている。たとえば医学博士を掴まえて医術の講釈をこころみ、禅宗坊主を向うに廻わして禅学の弊害を説教する。三井物産の重役が来ると不景気の救済策を授け、外務大臣が来ると軍部の実力を説いて感心させ、軍部の首脳部と会談すると外交の妙諦を説法して頭を掻かせる。皆、彼、法螺丸一流の悪魔のような理解力と、記憶力を基礎として、彼一流の座談の妙諦を駆使した、所謂、巧妙な空小切手であるのみならず、三時間でも五時間でもタッタ一人で喋舌しゃべっておいて、そんな連中が帰ると直ぐに、あとから訪問して待っていた客に、
「イヤ。どうもお待たせしました。彼奴きゃつが来ると長尻でね。僕の所を煩悶解決所と心得て一人で喋舌って帰るのでね」
 なぞとズバズバやるので、相当気の強い連中でもグラグラと参ってしまう。法螺丸の法螺がイヨイヨ後光がさして来る事になる。

 次に、法螺丸の法螺の実例を列挙してみる。
 医学博士を掴まえていわく、
「医者という商売は、商売とは云えませんね。何より先に脈を手に取る瞬間から、こいつを殺してやろうとは思っていない。たしかに助けてやろうと思っているのだから、商売とは云い条、全然、商売気を離れている。人のつらさえ見れば儲けてやろうと思っている奴ばかり多い世の中にタッタ一つ絶対に信用出来るのはお医者様ですね」
 と来るから大抵の医学博士は感心してしまう。すっかり喜んでしまって、自分の苦心談や、研究の内容なぞをドン底まで喋舌ってしまう。法螺丸は又、そいつを地獄耳の中に細大洩らさずレコードしておいて、ほかの医学博士に応用する。
独逸ドイツの医学も底が見えて来ましたね。たとえばインシュリンの研究なんか……」
 なぞと引っかぶせて来るから肝を潰してしまう。その肝の潰れた博士を選んで法螺丸は、政界の有力者の処へ腎臓病のお見舞に差し遣わすのだから深刻である。
 禅宗坊主が寄附を頼みに来ると法螺丸曰く、
「禅宗は仏教のエキスみたいなものですな。面壁九年といって、釈迦一代の説法、各宗の精髄どころを達磨だるまという蒸溜器ランビキれてせんじて、煎じて、煎じ詰める事九年、液体だか気体だかわからない。マッチで火をけるとボーッと燃えてしまって、アトカタも残らない。最極上のアルコールみたいな宗旨が出来上った。ところで、それは先ず結構としても、その最極上のアルコールをアラキのまま大衆に飲ませようとするからたまらない。大抵の奴は眼をわして引っくり返ってしまう。それから中毒を起して世間の役に立たなくなる。物を言いかけても十分間ぐらい人の顔をジイッと見たきり返事をしないような禅宗カブレの唐変木とうへんぼくが出来上る。又は浮世三りん、自分以外の人間はミンナ影法師ぐらいにしか見えない。義理人情を超越してしまうから他人の物も自分のものも区別が付かない。女も、酒も、金も、職業も要らない。その代り縦の物を横にもしない。電車に乗せるたんびに終点まで行ってしまうような健康な精神病者や痴呆患者が出来上る。そんな禅宗病患者がえたら日本は運の尽きだと思いますよ。私も考えますから、貴方がたもよく考えて下さい」
 といったような事を云われると、相手も宗教の問答に来たのじゃない。寄附を頼みに来た弱味があるのだからが悪い。「かつ」とも何とも云わずに帰ってしまう。

 潰れかかった銀行屋さんが来て、救いを求めると、法螺丸は背中を撫でてやらんばかりにして慰める。曰く、
「そんなに心配しているとその心配で銀行が潰れてしまうよ。百円紙幣が銀行を経営しているのじゃない。人間が百円紙幣を使って銀行をやっているんだから、人間さえシッカリしておれば、潰れる気づかいはないもんだよ。かねが無くなると同時に銀行が潰れるように思うのは、世間を知らないで算盤そろばんばっかりはじいている人間特有の錯覚なんだよ。ウンと頑張り給え。世間は広いんだ。人間万事、気で持って行くんだ。金なんか気持ちの家来みたいなもんだ。コンナ話がある聞き給え。二百万や三百万の金はでもなくなる話だ。
 日清戦争以前の事だったが、支那の横暴を憎み、露西亜ロシアの東方経略を警戒した玄洋社の連中が、生命いのち知らずの若い連中を満蒙のに放って、恐支病と恐露病に陥っている日本の腰抜け政府を激励し、止むを得なければ玄洋社の力で戦争の火蓋を切ってやろうというので、寄るとさわると腕を撫でたり四股を踏んだりしたもんだが、生憎あいにくな事に金が一文も無い。むろん頭山満も貧乏の天井を打っている時分だ。俺にも相談だけはしてくれたが、三月みつきしばり三割天引という東京切ってのスゴイ高利貸連を片端かたっぱしから泣かせて、
かくばかりたふしても武蔵野の
  原には尽きぬ黄金草こがねぐさかな
 なんてやってた時代だから満蒙経営どころか、わが家賃を払うのすら勿体ない非常時なんだ。
 そこへ誰が聞いて来たか、ドエライ話が転がり込んで来たもんだ。その頃まだ元気で居た日本一の正直物、大井憲太郎という爺さんが、眼の色を変えて担ぎ込んだ話のようにも思うが、とにかくこんな話だ。……その頃まで北海道の砂金といったらカリフォルニヤの向う張る勢いで、しかも夕張川の上流の各支流の源泉附近は到る処、砂金ならざるなしという評判で、全国の成金病患者がワンワンと押しかけていたものだ。……ところが不思議な事に、その砂金が、本流の夕張川の下流に在る名前は忘れたが一つの大きな滝を段階として、その下流には一粒の砂金も見当らない。つまるところ、その滝壺の底にはイザナギ、イザナミのみこと以来、沈澱している砂金が、計算してみると四百億円ぐらいは在るらしい……というのだ。エライ事を考えたもんだ。
 これには流石さすがの頭山満もチョイト本気になったらしい。俺も貧すれば鈍するでスッカリ共鳴してしまって技師を派遣する費用の調達を引受ける事になった。つまりその滝の横に運河を掘ってその滝の上流をき止めて、滝壺の水を掻き干して、底の方に溜まっている四百億円の砂金をスコップで貨車へ積み込もうという曠古こうこの大事業だ。その費用を調達のために俺は白真剣しらしんけんになって東奔西走したものだ。その頃雇っていた抱えくるまの車夫に、もしこの事業に成功した暁には、貴様に米俵一杯の砂金を遣ると云ったもんだから、に受けた俥夫しゃふの奴め真夏の炎天をキチガイのように走りまわったものだが、一方にこの話が玄洋社の連中に伝わった時の壮士連の活気付きようと来たら、それこそ前代未聞の壮観だったね。四百億円あれば、朝鮮、支那、満洲、手につばきして取るべしと云うのだ。アトは宜しくお願いしますというのでつるを離れた矢のように、手弁当でビュービューと満洲へ飛んで行く。到る処に根を下し、羽根を拡げて、日本内地から来る四百億円を待っている……という勇敢さだ。そのうちに俺の軍資金調達が不可能になって、この話はオジャンになった。一番残念がったのは俺の俥屋くるまやだったが、満洲に根を下した豪傑連は、そんな事はわからない。一秒もジッとしておれない連中だからグングンと活躍を続けて行く。日清日露の両戦役に彼等の活躍がドレ位助けになったかわからない。現在の満洲国の独立は夕張川の四百億円の御蔭と云ってもいい位だ。否、玄洋社連の四百億円の夢が、満洲に於て現実化されたと云ってもいいだろう。世の中というものは、そんなものだ。シッカリさえしておれば恐ろしい事はない。気を大きく持って時節を待ち給え。四百億円というと大戦後の独逸を、カイゼルもヒンデンブルグもヒトラーもコミにして丸ごと買える金額だからね。それ位の夢は時々見ていないと早死にをするよ。ハハハハ」
 可哀相にスッカリ気まりが悪くなった銀行家は、法螺丸の俥引くるまひきにも劣るというミジメな烙印をされて、スゴスゴと帰って行く。
 デモクラシーと社会主義の華やかなりし頃、法螺丸の処に居る秘書役みたいな書生さんが、或る時雑誌を買って来て、その中に書いてあるサンジカリズムの項を、先生の法螺丸氏に読んで聞かせた。するとそのあくる日のこと、東京市長をやっていた親友の後藤新平氏が遣って来たので、法螺丸は早速引っ捉えて講釈を始めた。
 法螺丸「貴公はこの頃仏蘭西フランスで勃興しているサンジカリズムの運動を知っているか」
 後藤新平「何じゃいサンジカリズムというのは……」
 法螺丸「これを知らんで東京市長はつとまらんぞ。今の社会主義やデモクラシーなんぞよりも数層倍恐ろしい破壊思想じゃ」
 後藤新平「ふうむ。そんな恐ろしい思想があるかのう。話してみい」
 法螺丸「心得たり」
 というので、昨日きのう聞いたばかりのホヤホヤのサンジカリズムの話を、その雑誌丸出しの内容に輪をかけたケレンやヨタ交りに、面白おかしく講釈すること約二時間、流石さすがの後藤新平氏も言句も出ずに傾聴すると「シンペイ」するなとも何とも云わずに、大急ぎで帰って行った。アトに昨日雑誌を読んで聞かせた書生さんが手に汗を握ったままオロオロしているのに気が付いた法螺丸、ハッとするにはしたらしいが、何喰わぬ顔で、
「面白いだろう。後藤新平というのは存外正直もんじゃよ」

 そもそも杉山法螺丸が、どこからこれ程の神通力を得て来たか。生馬いきうまの眼を抜き、生猿いきざるの皮をぎ、生きたライオンの歯を抜くていの神変不可思議の術を如何なる修養によって会得して来たか。
 請う先ず彼の青年に説くところを聞け。
竹片たけぎれで水をタタクと泡が出る。その泡が水の表面をフワリフワリと回転して、無常の風に会って又もとの水と空気にフッと立ち帰るまでのお慰みが所謂人生という奴だ。それ以上に深く考える奴がすなわち精神病者か、白痴で、そこまで考え付かない奴が所謂オッチョコチョイの蛆虫うじむし野郎だ。この修養が出来れば地蔵様でも閻魔えんま大王でも手玉に取れるんだ。人生はそう深く考えるもんじゃない。あんまり深く考えると、人生の行き止まりは三原山と華厳の滝以外になくなるんだ。三十歳まで大学に通ってベースボールをやる必要なんか無論ないよ」
「其日庵という俺の雅号の由来を知っているかい。これは俺の処世の秘訣なんだから、少々惜しいが説明して聞かせる。論語の中で会参は日に三度みたびおのれをかえりみると云った。基督キリストは一日の苦労は一日にて足れりと云ったが、俺は耶蘇やそ教ではないが其日暮そのひぐらしが一番性に合っているようだね。……まず……朝起きると匆々から飯を喰う隙もないくらいジャンジャン訪問客が遣って来る。一番多いのが就職口と高利貸で、親のすねを噛じって野球をやったり、女給の尻を嗅ぎまわったり、豆腐屋の喇叭ラッパみたいな歌を唄ったりした功労によって卒業免状という奴を一枚貰うと、そいつをオデコの中央に貼り付けて就職の権利でも授かった気で諸官庁会社を押しまわる。親爺おやじまた親爺で、せがれを育てるのと債券を買うのと同じ事に心得ているんだから遣り切れない。そこで就職出来ないとなると世の中が悪いと云って俺の処へ訴えに来る。俺が世の中じゃなし、知った限りではないんだが、そんな連中もたしかに世の中の一部分で、所謂大衆に相違ないんだから仕方なしに俺の責任みたような顔をして文句を聞いてやるんだ。高利貸は又高利貸で、勝手に俺の印形いんぎょうを信用して、手前一存の条件を附けて貸しやがった連中だ。中には一面識もない奴の借銭も混っているんだが、俺が議会に命じて作らせた法律というものを楯に取って来るから仕方ない。日歩ひぶ五銭ぐらいを呉れるつもりで会ってやるんだ。その次が大臣病患者、政権利権の脾胃虚病ひいきょやみ、人格屋の私生児の後始末、名家名門の次男三男の女出入りの尻拭い、ボテレン芸者の身上相談、鼻垂れ小僧と寝小便娘の橋渡しに到るまで、アラユル社会の難物ばかりが、ハキダメみたいに杉山博士の診察、投薬を仰ぎに来る。しかもどの患者もどの患者も方々の名医の処を持ってまわって、コジラかした上にもコジラかした救うべからざる鼻ポンや骨がらみばかりがウヨウヨたかって来るんだからかなわない。
 もっともそういうこっちもおかみに鑑札を願っている専門医じゃないのだから、診察料や薬礼は一切取らない。その代りに万一助からなくたって責任は無い。殺すつもりで生かしたり、生かすつもりで殺したりする事も珍らしくないんだが、毛頭怨まれる筋はないんだから呑気な商売だ。ともかくも会ってやって、ともかくも病状を聞いてやる。金が有れば払ってやる。面識がある奴には紹介してやる。信用があれば小切手でも何でも書いてやる。それでも方法の附かない難物は、考えておいてやるから明日来いと云って一先ひとまず追っ払っておく。むろん明日来たって明後日あさって来たって成算の立ちっこない難物ばかりだが、アトは野となれ山となれだ。その日一日を送りさえすればいいのだから、他人の迷惑になろうが、あとになって大事件になることが、わかり切っていようが構わない。盲目滅法めくらめっぽうに押しまくってその日一日を暮らす。それから妻子つまこや書生の御機嫌取りだが、これも生きている利子と思えば何でもない。好きな小説本か何か読んで何も考えずに寝てしまう。
 サテ翌る朝になったと見えて雀の声がする。パッチリと眼を開くとサア今日こそは大変な日だぞ。昨日きのうの尻は勿論の事、一昨日おととい再昨日さきおととい……昨年、一昨年の尻が一時に固まって来る日だぞと覚悟して待っているとサア来るわ来るわ。あらん限りのヨタや出鱈目でたらめを並べたり、恩人を裏切ったり、正直者をだましたりした方法でもって押し送って来た過去の罪業が、一時にときの声をあげて押しかけて来る。貴様が教えた通りにしゃべったら議会の空気が悪化して解散になりそうになった。万一解散になったら俺は一文も運動費が無いとあれほど云っておいたではないか、という代議士や、貴方のお世話で娘を嫁に遣ったら相手は梅毒の第三期だったと大声をあげて泣く母親や、先生から貰った小切手は銀行で支払いませんというのや、貴方の紹介状に限って大臣は会わないと云います。其日庵の紹介にはりだという話です。お蔭で会社が潰れて二百名の職工が路頭に迷いますというのや、貴方の乾分の弁護士の御蔭で三年の懲役が五年になりました。そのお礼を申上げに来ましたという紋々もんもん倶利迦羅くりからなんどが、眼の色を変えて三等急行の改札口みたいに押かけて来る。地獄に俺みたいな仏様が居るか居ないか知らないが、居るとしたら読むお経は一行も無いね。空気が在るから仕方なしに生きている。生きているから腹が減るのは止むを得ないという連中ばかりが、元来持って行き処のない尻を俺の処へ持って来るんだ。まあまあ待ったり、君等は自分の用事さえ済めば、アトは俺が死んでも構わない了簡りょうけんだろう。自分の尻を他人に拭いてもらう奴を小児こどもといい、自分の垂れ物を自分で片付ける奴を大人という。君は元来大人なのか小供なのか。前をまくって見せろ……とか何とか云って追っ払ってしまうが、その手の利かない奴は、仕方がないから前に倍した手酷い手段で押し片付けて行く。明日の事は考えない。きょうさえ片付けばいいという方針だから、何を持って来たって驚かないんだ。
 もっともこの頃は年をったせいか、人に会うのと、字を書くのが大儀になった。心臓にコタエて息が切れたり脈が結滞けったいしたりするから、面会と字書きを御免蒙っている。一方から云うと、そんな自分の尻を持て余しているような連中の尻をイクラ拭いてやったって相手は当り前だと心得ている。俺に尻を拭いてもらうのを楽しみにイクラでも不始末を仕出かす事になる。結局、そんな世話を続行するのは日本亡国の原因を作るようなものだとつくづくこの頃思い当ったせいでもあるんだがね」

 こうして縷述るじゅつして来ると彼の法螺の底力は殆んど底止ていしするところを知らない。
「自ら王将を以て任ずる奴は天下に掃き棄てる程居る。金将たり、銀将たり、飛車角、桂香を以て自ら任じつつ飯喰い種にして行く者が滔々として皆しかりであるが、その飯喰い種を皆棄てて、将棋盤の外にいて将棋を指している奴は、なかなか居るものでない。だから世間の事が行き詰まるんだ。あぶなくて見ていられなくなるんだ」
 という、頭山満以上の超凡超聖的彼自身の自負的心境を、そっくりそのまま認めてやらなければならなくなって来るのであるが、彼とても人間である。時と場合によっては平凡人以下の血もあり涙もあるばかりでない。彼の手に合わない人物も多少は出現して来るのだから面白い。
 頭山満曰く、
「杉山みたような頭の人間が又と二人居るものでない。彼奴きゃつは玄洋社と別行動をって来た人間じゃが、この間久し振りに合うた時には俺の事を頭山先生と云いおった。ところがその次に会うた時は『頭山さん』とさん付けにして一段格を落しおったから、感心して見ていると、三度目に会うた時は頭山君と云うて又一段調子を下げおった。今に俺を呼び棄ての小僧扱いにしおるじゃろうと思うて楽しみにして待っとる」
 これは杉山法螺丸の一番痛いところに軽く触れた言葉で、実に評し得て妙と云うよりほかはない。
 又或る時、杉山法螺丸が何かのお礼の意味か何かで、頭山満に千円以上もする銘刀を一口ひとふり贈った事がある。無論、飛切り上等の拵附こしらえつきで、刀剣道楽の大立物其日庵主が大自慢のシロモノであったが、そののち、法螺丸が頭山満を訪問して、
「どうだ。あの刀は気に入ったか」
 と云うと頭山満ニッコリして曰く、
「うむ。あれはええ刀じゃった。質屋に持って行ったら三十円貸したぞ。又あったら持って来てくれい」
 其日庵主もこれには少々驚いたらしい。帰って来て曰く、
「モウ頭山に物は遣らぬ。あいつの伜に遣った方がええ」

 法螺丸には男の児が一人しか居ない。これが親仁おやじとは大違いの不肖の子で、
「俺みたいな人間になる事はならぬぞ」
 という訓戒を文字通りに固く守って、托鉢坊主になったり、謡曲の師匠になったり又は三文文士になったりして文字通りに路頭に迷いそうなので、親仁も呆れて、感心な奴だと賞めながら月給を支給している。
「俺の伜は実に呆れた奴だ。小説を出版してくれと云うから読んでやると、最初の一二行読むうちに、何の事やらわからなくなる。のような事ばかりを一生懸命に書き立てているのでウンザリしてしまう。たまたま俺にわかりそうな処を読んでみるとツイこの間、ヒドク叱り付けてやった俺の云い草をチャント記憶おぼえていやがって、そっくりその通りを小説の中味に採用していやがるのには呆れ返った。娘を売って喰う親は居るが、親を売って喰う伜が居るもんじゃない。一生涯あの伜だけは叱らない事にきめた」
 ちなみに、その伜の筆名ペンネームは夢野久作という。親父の法螺丸が山のように借銭を残して死んでやろうと思っているとは夢にも知らずに、九州の香椎かしいの山奥で、妻子五人を抱えて天然を楽しんでいる。焼野の雉子きぎす、夜の鶴。この愚息なぞも法螺丸にとっては、頭山満と肩を並べる程度の苦手かも知れない。
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 前掲の頭山、杉山両氏が、あまりにも有名なのに反して、両氏の親友で両氏以上の快人であった故奈良原いたる翁があまりにも有名でないのは悲しい事実である。のみならず同翁の死後といえども、同翁の生涯を誹謗ひぼうし、侮蔑する人々がすくなくないのは、更に更に情ない事実である。
 奈良原到翁はその極端な清廉潔白と、過激に近い直情径行が世にれられず、明治以後の現金主義な社会の生存競争場裡に忘却されて、窮死きゅうしした志士である。つまり戦国時代と同様に滅亡した英雄の歴史は悪態あしざまに書かれる。劣敗者の死屍しかばねは土足にかけられ、つばきせられても致方いたしかたがないように考えられているようであるが、しかし斯様かような人情の反覆の流行している現代は恥ずべき現代ではあるまいか。
 これは筆者が故奈良原翁と特別に懇意であったから云うのではない。又は筆者の偏屈から云うのでもない。
 志士としては成功、不成功なぞは徹頭徹尾問題にしていなかった翁の、徹底的に清廉、明快であった生涯に対して、今すこし幅広い寛容と、今すこし人間味の深い同情心とをもって、敬意を払い得る人の在りや無しやを問いたいために云うのである。
 その真黒く、物凄く輝く眼光は常に鉄壁をも貫く正義観念を凝視していた。その怒った鼻。一文字にギューと締った唇。殺気を横たえた太い眉。その間に凝結、※(「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1-89-18)ほうはくしている凄愴せいそうの気魄はさながらに鉄と火と血の中を突破して来た志士の生涯の断面そのものであった。青黒い地獄色の皮膚、前額に乱れかかった縮れ毛。よろいの仮面に似た黄褐色の怒髭どし乱髯らんぜん。それ等に直面して、その黒い瞳に凝視されたならば、如何なる天魔鬼神でも一縮ひとちぢみに縮み上ったであろう。いわんやその老いて益々筋骨隆々たる、精悍せいかんそのもののような巨躯に、一刀をひっさげて出迎えられたならば、如何なる無法者といえども、手足が突張って動けなくなったであろう。どうかした人間だったら、その翁の真黒い直視に会った瞬間に「斬られたッ」という錯覚を起して引っくり返ったかも知れない。
 事実、玄洋社の乱暴者の中ではこの奈良原翁ぐらい人を斬った人間は少かったであろう。そうしてその死骸を平気で蹴飛ばしてまたたき一つせずに立去り得る人間は殆んど居なかったであろう。奈良原到翁の風貌には、そうした冴え切った凄絶な性格が、ありのままに露出していた。微塵みじんでも正義にそむく奴は容赦なくタタキ斬り蹴飛ばして行く人という感じに、一眼ひとめで打たれてしまうのであった。
 この奈良原翁の徹底した正義観念と、その戦慄に価する実行力が、世人の嫌忌を買ったのではあるまいか。そうしてその刀折れ矢尽きて現社会から敗退して行った翁の末路を見てホッとした連中が「それ見ろ。いい気味だ」といったような意味から、卑怯な嘲罵を翁の生涯に対して送ったのではあるまいか。
 実際……筆者は物心付いてから今日まで、これほどの怖い、物すごい風采をした人物に出会った事がない。同時に又、如何なる意味に於ても、これ程に時代離れのした性格に接した事は、未だかつて一度もないのである。
 そうだ。奈良原翁は時代を間違えて生れた英傑の一人なのだ。翁にしてもし、元亀天正の昔に生をけていたならば、たしかに天下を聳動しょうどうしていたであろう。如何なる権威にも屈せず、如何なる勢力をも眼中にかない英傑児の名を、青史に垂れていたであろう。
 こうした事実は、奈良原翁と対等に膝を交えて談笑し、且つ、交際し得た人物が、前記頭山、杉山両氏のほかには、あまり居なかった。それ以外に奈良原翁の人格を云為うんいするものは皆、痩犬の遠吠えに過ぎなかった事実を見ても、容易に想像出来るであろう。

 明治もまだ若かりし頃、福岡市外(現在は市内)住吉の人参畑にんじんばたけという処に、高場乱子たかばらんこ女史の漢学塾があった。塾の名前は忘れたが、タカが女の学問塾と思って軽侮すると大間違い、頭山満を初め後年、明治史の裏面に血と爆弾の異臭をコビリ付かせた玄洋社の諸豪傑は皆、この高場乱子女史と名乗る変り者の婆さんの門下であったというのだから恐ろしい。の忍辱慈悲の法衣の袖に高杉晋作や、西郷隆盛の頭を撫で慈しんだ野村望東尼ぼうとうにとは事変り、この婆さん、女の癖に元陽と名乗り、男髪おとこがみの総髪に結び、馬乗袴うまのりばかまに人斬庖刀を横たえて馬に乗り、生命いのち知らずの門下を従えて福岡市内を横行したというのだから、デートリッヒやターキーがすべったの、女学生のキミ・ボクが転んだのそうろうといったって断然ダンチの時代遅れである。時は血腥ちなまぐさい維新時代である。おまけに皺苦茶の婆さんだからたまらない。
 わが奈良原到少年はその腕白盛りをこの尖端婆さんの鞭撻下にヒレ伏して暮した。そのほか当時の福岡でも持て余され気味の豪傑青少年は皆この人参畑に預けられて、このシュル・モダン婆さんの時世に対するかがりびの如き観察眼と、その達人的な威光の前にタタキ伏せられたものだという。
 その当時の記憶を奈良原到翁に語らしめよ。
「人参畑の婆さんの処にゴロゴロしている書生どもは皆、順繰りに掃除や、飯爨めしたきや、買物のお使いに遣られた。しかし自分わしはまだ子供で飯がけんじゃったけにイツモ走り使いにいまわされたものじゃったが、その当時から婆さんの門下というと、福岡の町は皆ビクビクして恐ろしがっておった。
 自分わしの同門に松浦おろかという少年が居った。こいつは学問は一向出来でけん奴じゃったが、名前の通り愚直一点張りで、勤王の大義だけはチャント心得ておった。この松浦愚と自分わしは大の仲好しで、二人で醤油買いに行くのに、わざと二本の太い荒縄でたるを釣下げて、その二本の縄の端を左右に長々と二人で引っぱって樽をブランブランさせながら往来一パイになって行くと往来の町人でも肥料車こえぐるまでも皆、恐ろしがって片わきに小さくなって行く。なかなか面白いので二人とも醤油買いを一つの楽しみにしていた。
 或る時、その醤油買いの帰りに博多の櫛田神社の前を通ると、社内に一パイ人だかりがしている。何事かと思って覗いてみると勿体らしい衣冠束帯をした櫛田神社の宮司が、拝殿の上に立って長いひげを撫でながら演説をしている。その頃は演説というと、芝居や見世物よりも珍しがって、演説の出来る人間を非常に尊敬しておった時代じゃけに、早速二人とも見物を押しかけて一番前に出て傾聴した。ところがその髯神主の演説にいわく、
『……諸君……王政維新以来、敬神の思想が地を払って来たことは実にこの通りである。真に慨嘆に堪えない現状と云わなければならぬ。……諸君……牢記ろうきして忘るる勿れ。神様というものは常に吾が○○以上に尊敬せねばならぬものである。その実例は日本外史をひもといてみれば直ぐにわかる事である。遠く元弘三年の昔、九州随一の勤王家菊池武時は、逆臣北条探題、少弐しょうに大友等三千の大軍を一戦に蹴散けちらかさんと、手勢百五十騎をひっさげて、この櫛田神社の社前を横切った。ところがこの戦いは菊池軍に不利であることを示し給う神慮のために、武時の乗馬が鳥居の前でにわかに四足を突張って後退し始めた。すると焦燥あせりに焦燥っている菊池武時は憤然として馬上のまま弓に鏑矢かぶらやつがえた。
「この神様は牛か馬か。皇室のために決戦に行く俺の心がわからんのか。
武士もののふのうわ矢のかぶら一すぢに
   思ひ切るとは神は知らずや」
 と吟ずるや否や神殿の扉に発矢はっしとばかり二本の矢を射かけた。トタンに馬が馳け出したのでそのまま戦場に向ったが、もしこの時に武時が馬から降りて、神前に幸運を祈ったならば、彼は戦いに勝ったであろうものを、斯様かような無礼を働らいて神慮を無視したために勤王の義兵でありながら一敗地にまみれた……』
 衣冠束帯の神主が得意然とここまで喋舌しゃべって来た時に、自分わしと松浦愚の二人はドッチが先か忘れたが神殿に躍り上っていた。アッと云う間もなく二人で髭神主を殴り倒おし蹴倒おす。松浦が片手に提げていた醤油樽で、神主の脳天を食らわせたので、可愛そうに髭神主が醤油の海の中にウームと伸びてしまった。……この賽銭さいせん乞食の奴、神様の広告のために途方もない事をかす。皇室あっての神様ではないか。そういう貴様が神威をけがし、国体を誤る国賊ではないか……というたような気持であったと思うが、二人ともまだ十四か五ぐらいの腕白盛りで、そのような気の利いた事を云い切らんじゃった。ただ、
『この畜生。ばちを当てるなら当ててみよ』
 とれた醤油樽を御神殿に投込んで人参畑へ帰って来たが、帰ってからこの話をすると、それは賞められたものじゃったぞ。大将の婆さんが涙を流して『ようしなさった。感心感心』と二人の手を押戴おしいただいて見せるので、塾の連中が皆、金鵄きんし勲章でも貰うたように俺達の手柄を羨ましがったものじゃったぞ。ハハハハハ」

 人参畑の婆さんがいつまで存命して御座ったか一寸ちょっと調査しかねているが、とにもかくにも、こうした人参畑の豪傑青少年連は、そののち健児社という結社を組織して、天下の形勢を睥睨へいげいする事になった。これがのちの玄洋社の前身であったが、天下の形勢を憂慮する余り、近所界隈の畑や鶏舎を荒し、犬猫の影を絶ち、営所の堀のがまを捕って来て、臓腑を往来に撒布するなぞ、乱暴狼藉到らざるなく、健児社の連中といえば、大人でも首を縮める程の無敵な勢力を持っていたものであった。
 その中でも乱暴者の急先鋒は我が奈良原少年で、仲間から黒旋風李逵こくせんぷうりき綽名あだなを頂戴していた。奈良原到が飯爨めしたき当番に当ると、塾の連中が長幼を問わず揃って早起をした……というのは、飯の準備が出来上るまで寝床に潜っていると、到少年がブスブス燃えている薪を掴んで来て、寝ている奴の懐中に突込むからであった。しかもその燃えさしを懐中に突込まれたまま、燃えてしまうまで黙って奈良原少年の顔をマジリマジリと見ていたのが塾の中にタッタ一人頭山満少年であった。そうして奈良原少年が消えた薪を引くと同時に起上って奈良原少年を取って伏せて謝罪あやまらせたので、それ以来二人は無二の親友になったものだという。
 ちょうどその頃が西南戦争の直前であった。維新後に於ける物情の最も騒然たる時代であった。

 既掲、頭山、杉山の項にも述べた通り、筑前藩の志士は維新の鴻業こうぎょう後、筑前閥を作る事が出来なかった。従って不平士族の数は他地方にまさるとも劣らなかった筈である。
 そんな連中は有為果敢の材を抱きながら官途に就く事が出来ず鬱勃たる壮志を抱いたまま明治政府を掌握している薩長土肥の横暴振り、名利の争奪振りを横目に睨んでいた。尊王攘夷を標榜して徳川を倒しておきながら、サテ政権を握ると同時に攘夷どころか、国体どころか、一も西洋二も西洋と夷敵いてき紅毛人の前にペコペコして洋服を着、洋食をくらって、アラン限りブルジョア根性を発揮し、屈辱的条約をドシドシ結びながら、恬然てんぜんとして徳川十五代将軍と肩を並べている大官連の厚顔無恥振りにまなじりを決していた。そのうちに福岡にも鎮台が設けられて、町人百姓に洋服を着せた兵隊が雲集し、チャルメラじみた喇叭ラッパを鳴らして干鰯ほしいわしの行列じみた調練が始まった。
 その頃、士族のした連の成れの果は皆、警官(邏卒らそつ、部長、警部等)に採用されていたものであったが、この羅卒(今の巡査)連中が皆鎮台兵とりが合わなかった。……俺達のような腹からの士族と同じように、町人百姓が戦争の役に立つものか……といったような一種の階級意識から、犬と猿のように仲が悪く、毎日毎日福岡市内の到る処で、鎮台兵と衝突していたものであるが、しかも、そうした不平士族の連中の中には西郷隆盛の征韓論の成立を一日千秋の思いで仰望していたものが少くなかった。祖先伝来の一党をひっさげて西郷さんのお伴をして、この不愉快な日本を離れて士族の王国を作りに行かねばならぬ。武士の生涯は武を以て一貫せねばならぬ。町人や百姓と伍して食物をあさり合わねばならぬ、犬猫同然の国民平等の世界に、一日でも我慢が出来でくるか……とか何とか云って鼻の頭をコスリ上げている。
 そこへ征韓論が破れて、西郷さんが帰国したというのだから一大事である。

 その頃、筑前志士の先輩に、越智おち彦四郎、武部小四郎、今村百八郎、宮崎車之助くるまのすけ、武井忍助なぞいう血気盛んな諸豪傑が居た。そんな連中と健児社の箱田六輔ろくすけ氏等が落合って大事を密議している席上に、奈良原到以下十四五をかしらくらいの少年連が十六名ズラリと列席していたというのだから、その当時の密議なるものが如何に荒っぽいものであったかがわかる。密議の目的というのは薩摩の西郷さんに呼応する挙兵の時機の問題であったが、その謀議の最中に奈良原到少年が、突如として動議を提出した。
「時機なぞはいつでも宜しい。とりあえず福岡鎮台をタタキ潰せばえのでしょう。そうすれば藩内の不平士族が一時いちどきに武器をって集まって来ましょう」
 席上諸先輩の注視が期せずして奈良原少年に集まった。少年は臆面もなく云った。
「私どもはイツモお城の石垣を登って御本丸のむくの実を喰いに行きますので、あの中の案内なら、親のうちよりも良う知っております。私どもにランプの石油を一カンと火薬を下さい。私ども十六人が、皆、頭から石油を浴びて、左右のたもとに火薬を入れたまま石垣を登って番兵の眼をかすめ、兵営や火薬庫に忍込しのびこみます。そうして蘭法附木マッチで袂に火を放って走りまわりましたならば、そこここから火事になりましょう。火薬庫も破裂しましょう。その時に上の橋と下の橋から斬り込んでおいでになったならば、土百姓や町人の兵隊共は一たまりもありますまい」
 これを聞いた少年連は皆、手をって奈良原の意見に賛成した。口々に、
「遣って下さい遣って下さい」
 と連呼して詰め寄ったので並居る諸先輩は一人残らず泣かされたという。その中にも武部小四郎氏は、静かに涙を払って少年連を諫止かんしした。
「その志はかたじけないが、日本の前途はまだ暗澹たるものがある。万一吾々が失敗したならば貴公あんた達が、吾々の後跟あとを継いでこの皇国廓清かくせいの任に当らねばならぬ。また万一吾々が成功して天下を執る段になっても、吾々が今の薩長土肥のような醜い政権利権の奴隷になるかならぬかという事は、ほかならぬ貴公あんた達に監視してもらわねばならぬ。間違うても今死ぬ事はなりませぬぞ」
 今度は少年連がシクシク泣出した。皆、武部先生のために死にたいのが本望であったらしいが結局、小供たちは黙って引込んでおれというので折角の謀議から逐退おいしりぞけられてしまった。

 かくして武部小四郎の乱、宮崎車之助の乱等が相次いで起り、相次いで潰滅し去った訳であるが、後から伝えられているところに依ると、これ等の諸先輩の挙兵が皆、鎮台と、警察に先手を打たれて一敗地にまみれた原因は、皆奈良原少年の失策に起因していた。奈良原少年一流の急進的な激語が破鐘われがねのように大きいのでその家を取巻く密偵の耳に筒抜けに聞えたに違いないという事になった。それ以来「奈良原の奴は密議に加えられない」という事になって同志の人は事あるごとに奈良原少年を敬遠したというのだから痛快である。しかも前記の乱の鎮定後明治政府に対して功績を挙ぐるに汲々たる県当局では、残酷にも健児社に居残っている少年連をことごと引捉ひっとらえて投獄した。一味徒党の名前を云えというので、年端としはも行かぬ連中に、夜となく昼となく極烈な拷問をかけたというのだから、呆れた位では追付かない話である。
 その当時の事を後年の奈良原翁は筆者に追懐して聞かせた。
「現在(大正三年頃)玄洋社長をやっとる進藤喜平太は、その当時まあだ紅顔の美少年で、女のように静かな、温柔おとなしい男じゃったが、イザとなるとコレ位、底強い、頼もしい男はなかった。熊本県の壮士と玄洋社の壮士とが博多東中洲の青柳あおやぎの二階で懇親会を開いた時に、熊本の壮士の首領でなにがしという名高い強い男が、頭山の前に腰を卸して無理酒をいようとした。頭山は一滴もイカンので黙って頭を左右に振るばかりであったが、そこを附け込んだ首領のなにがしがなおも、無理に杯を押付ける。双方の壮士が互い違いに坐っているので互いに肩臂かたひじを張って睨み合ったまま、誰も腰を上げ得ずにいる時に、進藤がツカツカと立上って、その首領某の襟首を背後から引掴むと、杯盤の並んだ上を一気に梯子段の処まで引摺って来て、向う向きに突き落した。そのあとを見返りもせずにニコニコと笑いながら引返して来て『サア皆。飲み直そう』と云うた時には大分青くなっておった奴が居たようであったが、その進藤と、頭山満と自分わしと三人は並んで県庁の裏の獄舎ごくやで木馬責めにかけられた。背中の三角になった木馬にまたがらせられて腰に荒縄を結び、その荒縄に一つずつ、漬物石を結び付けてダンダン数をやすのであったが、頭山も進藤も実に強かった。石の数を一つでも余計にブラ下げるのが競争のようになって、あらん限り強情を張ったものであった。三人とも腰から下は血のズボンを穿いたようになっているのを頭山は珍らしそうにキョロキョロ見まわしている。進藤も石が一つ殖える度毎ごとに嬉しそうに眼を細くしてニコニコして見せるので、意地にも顔を歪める訳に行かん。どうかした拍子に進藤に向って『コラッ。貴様のつらが歪んどるぞ』と冷やかしてやると進藤の奴、天井を仰いで『アハアハアハアハ』と高笑いしおったが、後から考えるとソウいう自分わしの方が弱かったのかも知れんて、ハハハ。とにかく頭山は勿論、進藤という奴もドレ位強い奴かわからんと思うた。役人どもも呆れておったらしい。
 それから今一つ感心な事がある。
 獄舎ごくやにいる間には副食物に時々魚類さかなが付く。……というても飯の上に鰯の煮たのが並んでいる位の事じゃったが、そのたんびに頭山ははしの先で上の方の飯を、その鰯と一所いっしょに払いけて、鼻に押当てて嗅いでみる。そうしてイヨイヨなまぐさくないとこまで来てから喰う。尋常に喰うても足らぬ処へ、平生大飯くらいの頭山が妙な事をすると思うて理由を聞いてみると、きょうは死んだ母親何とかの日に当るけに精進をしよるというのじゃ。それを聞いてから自分わしはイツモ飯となると頭山の横に座ったものじゃがのう。ハハハ」
 進藤喜平太翁も、その時分の事を筆者に述懐した事がある。
「拷問ちうたて、痛いだけの事で何でもなかったが、酒が飲めんのには降参した。飲みとうて飲みとうてならぬところへ、ちょうど虎烈剌コレラ流行はやってなあ。獄卒がこれを消毒まよけのために雪隠せついんれと云うて酢をれたけに、それを我慢して飲んだものじゃ。むろん米の酢じゃけに飲むとどことなくポーッと酔うたような気持になるのでなあ……まことに面目ない、浅ましい話じゃったが、奈良原が、あのつら付きでシカメて酢を飲みよるところはナカナカ奇観じゃったよ。奈良原は酒を飲むといつも酔狂をしおったが、酢では酔興が出来んので残念じゃと云うておった」
 同じ健児社の同志で運よく年少のために捕えられなかった宮川太一郎(今の政友代議士、宮川一貫氏の父君)氏が、同志に与うべく牛肉の煮たのを獄舎に持って行き、門衛の看守に拒まれたので鉄門の間に足を突込んで、死を決して駄々だだね始め、終日看守を手古摺てこずらせた揚句あげく、やっと目的を達すると、その翌日からドシドシ肉を運び始めて大いに当局を弱らせたのもこの時の事であったという。
 そのうちに西南の戦雲が、いよいよ濃厚になって来たので、県当局でも万一をおもんぱかったのであろう、頭山、奈良原を初め、健児社の一味をことごとく兵営の中の営倉に送り込むべく獄舎から鎖に繋いで引出した。その時は健児社の健児一同、当然斬られるものと覚悟したらしく、互いに顔を見合わせてニッコリ笑ったという事であるが、同じ時に奈良原少年と同じ鎖に繋がれる仲よしの松浦愚少年が、護送の途中でこんな事を云い出した。
「オイ。奈良原。今度こそ斬られるぞ」
「ウン。斬るつもりらしいのう」
「武士というものは死ぬる時に辞世チュウものをみはせんか」
「ウン。詠んだ方が立派じゃろう。のみならず同志の励みになるものじゃそうな」
「貴公は皆の中で一番学問が出来でけとるけに、さぞいくつも詠む事じゃろうのう」
「ウム。今その辞世を作りよるところじゃが」
「俺にも一つ作ってくれんか。親友の好誼よしみに一つけてくれい。何も詠まんで死ぬと体裁が悪いけになあ。貴公が作ってくれた辞世なら意味はわからんでも信用出来るけになあ。一つ上等のヤツを頒けてくれい。是非頼むぞ」
 流石さすがの豪傑、奈良原少年も、この時には松浦少年の無学さが可哀そうなような可笑おかしいようで、胸が一パイになって、暫くの間返事が出来なかったという。

 一方に盟主、武部小四郎は事敗れるや否や巧みに追捕の網をくぐって逃れた。香椎かしいなぞでは泊っている宿へイキナリ踏込まれたので、すぐに脇差を取って懐中に突込み、裏口に在ったざるを拾って海岸に出て、汐干狩の連中に紛れ込むなぞという際どい落付を見せて、とうとう大分まで逃げ延びた。ここまで来れば大丈夫。モウ一足で目指す薩摩の国境という処まで来ていたが、そこで思いもかけぬ福岡の健児社の少年連が無法にも投獄拷問されているという事実を風聞すると天を仰いで浩嘆こうたんした。万事休すというのでただちきびすを返した。幾重いくえにも張廻はりまわしてある厳重を極めた警戒網を次から次に大手を振って突破して、一直線に福岡県庁に自首して出た時には、全県下の警察が舌を捲いて震駭しんがいしたという。そこで武部小四郎は一切が自分の一存で決定した事である。健児社の連中は一人も謀議に参与していない事を明弁し、やはり兵営内に在る別棟の獄舎に繋がれた。
 健児社の連中は、広い営庭の遥か向うの獄舎に武部先生が繋がれている事をどこからともなく聞き知った。多分獄吏の中の誰かが、健気けなげな少年連の態度に心を動かして同情していたのであろう。武部先生が、わざわざ大分から引返して来て、ばくに就かれた前後の事情を聞き伝えると同時に「事敗れてのちに天下の成行なりゆきを監視する責任は、お前達少年の双肩に在るのだぞ」と訓戒された、その精神を実現せしむべく武部先生が、死を決して自分達を救いに御座ったものである事を皆、無言のうちに察知したのであった。
 その翌日から、同じ獄舎に繋がれている少年連は、朝眼が醒めると直ぐに、その方向に向って礼拝した。「先生。お早よう御座います」と口の中で云っていたが、そのうちに武部先生が一切の罪を負って斬られさっしゃる……俺達はお蔭で助かる……という事実がハッキリとわかると、流石さすがに眠る者が一人もなくなった。毎日毎晩、今か今かとその時機を待っているうちに或る朝の事、霜の真白い、月の白い営庭の向うの獄舎へ提灯が近付いてゴトゴト人声がし始めたので、素破すわこそと皆蹶起けっきして正座し、その方向に向って両手を支えた。メソメソと泣出した少年も居た。
 そのうちに四五人の人影が固まって向うの獄舎から出て来て広場の真中あたりまで来たと思うと、その中でも武部先生らしい一人がピッタリと立佇まって四方を見まわした。少年連のいる獄舎の位置を心探しにしている様子であったが、忽ち雄獅子のえるような颯爽さっそうたる声で、天も響けと絶叫した。
「行くぞオォ――オオオ――」
 健児社の健児十六名。思わず獄舎の床に平伏ひれふして顔を上げ得なかった。オイオイ声を立てて泣出した者も在ったという。
「あれが先生の声の聞き納めじゃったが、今でも骨の髄まで泌み透っていて、忘れようにも忘れられん。あの声は今日こんにちまで自分わし臓腑はらわたの腐り止めになっている。貧乏というものは辛労きついもので、妻子が飢え死によるのを見ると気に入らん奴の世話にでもなりとうなるものじゃ。藩閥の犬畜生にでも頭を下げに行かねば遣り切れんようになるものじゃが、そげな時に、あの月と霜に冴え渡った爽快な声を思い出すと、はらわたがグルグルグルとデングリ返って来る。何もかも要らん『行くぞオ』という気もちになる。貧乏が愉快になって来る。先生……先生と思うてなあ……」
 と云ううちに奈良原翁の巨大な両眼から、熱い涙がポタポタとこぼれ落ちるのを筆者は見た。
 奈良原到少年のはらわたは、武部先生の「行くぞオーオ」を聞いて以来、死ぬが死ぬまで腐らなかった。

 月明の霜朝に、自分等に代って断頭場に向った大先輩、武部小四郎先生の壮烈を極めた大音声だいおんじょう
「行くぞオーオ」
 を聞いて以来、奈良原到少年のはらわたは死ぬが死ぬまで腐らなかった。
 その後、天下の国士を以て任ずる玄洋社の連中は、普通の人民と同様に衣食のために駈廻らず、同時に五斗米に膝を屈しないために、自給自足の生活をすべく、豪傑知事安場保和やすばやすかずから福岡市の対岸にあたる向い浜(今の西戸崎とざき附近)の松原の官林を貰って薪を作り、福岡地方に売却し始めた。奈良原到少年もむろん一行に参加して薪採たきぎとりの事業に参加して粉骨砕身していたが、その後、安場知事の人格を色々考えてみると、どうも玄洋社を尊敬していないようである。かえって生活のかてを与えて慰撫しているつもりらしく見えたので、或夜、奈良原到はコッソリと起上って誰にも告げずに山のように積んである薪の束の間に、枯松葉を突込んで火を放ち、ことごとく焼棄してしまった。つまり天下の政治を云為うんいする結社が区々たる知事風情ふぜいの恩義をこうむるなぞいう事は面白くないという気持であったらしいが、対岸の福岡市では時ならぬ海上の炬火かがりびを望んで相当騒いだらしい。馳付はせつけた同志の連中も、手を拍って快哉を叫んでいる奈良原少年の真赤な顔を見て唖然となった。一人として火を消し得る者が無かったという。
 こうした奈良原少年の精神こそ、玄洋社精神の精髄で、黒田武士の所謂いわゆる、葉隠れ魂のあらわれでなければならぬ。玄洋社の連中は何をするかわからぬという恐怖観念が、明治、大正、昭和の政界、時局を通じて暗々のうちに人心を威圧しているのもこの辺に端を発してるのではなかろうか。

 そのうちに四国の土佐で、板垣退助という男が、自由民権という事を叫び出して、なかなか盛んにやりおるらしい。明治政府でもこれを重大視しているらしい……という風評が玄洋社に伝わった。
 その当時の玄洋社員は筆者の覚束おぼつかない又聞きの記憶によると頭山満が大将株で奈良原到、進藤喜平太、大原義剛ぎごう月成勲つきなりいさお、宮川太一郎なぞいう多士済々たるものがあったが、この風聞に就いて種々凝議した結果、とにも角にも頭山と奈良原に行って様子を見てもらおうではないかという事になった。
 その当時の評議の内容を伝え聞いていた福岡の故老は語る。
「大体、玄洋社というものは、土佐の板垣が議論の合う者同志で作っておった愛国社なんぞと違うて、主義も主張も何もない。今の世の中のように玄洋社精神なぞいうものを仰々しく宣言する必要もない。ただ何となしに気が合うて、死生を共にしようというだけでそこに生命いのち知らずの連中が、黙って集まり合うたというだけで、そこに燃えさかっている火のような精神は文句にも云えず、筆にも書けない。いや文句以上、筆以上の壮観で、烈々宇内うだいを焼きつくす概があった。頭山が遣るというなら俺も遣ろう。奈良原が死ぬというなら俺も死のう。要らぬ生命いのちならイクラでも在る。貴様も来い。お前も来い。……という純粋な精神的の共産主義者の一団とも形容すべきものであった。それじゃけに、愛国社の連中は一度ひとたび、時を得て議論が違うて来ると、外国の社会主義者連中と同じこと直ぐに離れ離れになる。もっとも今の政党は主義主張が合うても利害が違うと仲間割れするので、今一段下等なワケじゃが、玄洋社となると理窟なしに集まっとるのじゃけに日本の国体と同じことじゃ。利害得失、主義主張なぞがイクラ違うても、お互いに相許しとる気持は一つじゃけに議論しながら決して離れん。玄洋社は潰れても玄洋社精神は今日こんにちまで生きておって、国家のために益々さかんに活躍しおるのじゃ。そげなワケじゃけに、その当時の玄洋社で一口に自由民権と聞いても理窟のわかる奴は一人も居らんじゃった。それじゃけに、ともかくもこの二人に板垣の演説を聞いてもろうて、国のためにならぬと思うたならば二人で板垣をタタキ潰してもらおう。もし又、万一、二人が国のためになると思うたならば玄洋社が総出で板垣に加勢してやろう。ナアニ二人が行けば大丈夫。口先ばっかりの土佐ッポオをタタキ潰して帰って来る位、何でもないじゃろう」
 といったような極めて荒っぽい決議で、旅費を工面して二人を旅立たせた……というのであるが何がさて、無双の無頓着主義の頭山満と人を殺すことをとも思わぬ無敵の乱暴者、奈良原到という、代表的な玄洋社式がつながって旅行するのだから、途中は弥次喜多どころでない。天魔鬼神も倒退たいとう三千里に及ぶ奇談を到る処に捲起して行ったらしい。
 当時の事を尋ねても頭山満翁も奈良原翁もただ苦笑するのみであまり多くを語らなかったが、それでも辛うじて洩れ聞いた、差支えない部類に属するらしい話だけでも、ナカナカ凡俗の想像を超越しているのが多い。
 二人とも或る意味での無学文盲で、日本の地理なぞ無論、知らない。四国がドッチの方角に在るかハッキリ知らないまんまに、それでも人に頭を下げて尋ねる事が二人とも嫌いなまんまに不思議と四国に渡って来たような事だったので、途中で無茶苦茶に道に迷ったのは当然の結果であった。
「オイオイ百姓。高知という処はドッチの方角に当るのか」
「コッチの方角やなモシ」
「ウン。そうか」
 と云うなりグングンその方角に行く。野でも山でも構わない式だからたまらない。玄洋社代表は迷わなくても道の方が迷ってしまう。そのうちに或る深山の谷間を通ったら福岡地方で珍重する忍草しのぶぐさが、左右の崖に夥しく密生しているのを発見したので、奈良原到が先ず足を止めた。
「オイ。頭山。忍草しのぶが在るぞ。採って行こう」
「ウム。オヤジが喜ぶじゃろう」
 というので道を迷っているのも忘れて盛んに※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしり始めたが、そのうちに日が暮れて来たので気が付いてみると、荷車が一台や二台では運び切れぬ位、採り溜めていた。
「オイ。頭山。これはトテモ持って行けんぞ」
「ウム。チッと多過ぎるのう、帰りに持って行こう」
 それから又行くと今度は山道七里ばかりの間人家が一軒も無い処へ来たので、流石さすがの玄洋社代表も腹が減って大いに弱った。ところへ思いがけなく向うからざるを前後にかついだ卵売りに出会ったので呼止めて、二人で卵を買ってすすり始めたが、卵というものはイクラ空腹でも左程沢山に啜れるものでない。十個ばかり啜るうちに、二人とも硫黄臭いゲップを出すようになると、卵売りは大いに儲けるつもりで、道傍みちばたの枯松葉を集めて焼卵を作り、二人にすすめたので又食慾を新にした二人は、したたかに喰べた。
 ところでそこまでは先ず好都合であったがアトが散々であった。そこからまだ半道も行かぬうちに二人は忽ち鶏卵中毒を起し、猛烈な腹痛と共に代る代る道傍にかがみ始めたので、道が一向にはかどらない。しかし強情我慢の名を惜しむ二人はここでヘタバッてなるものかと歯を噛みしめて、互いに先陣を争って行くうちに、やっと人家近い処へ来たので二人とも通りかかった小川で尻を洗い、宿屋に着くには着いたが、あまりの息苦しさに、ボーオとなって腰をかけながら肩で呼吸いきをしているところへ宿屋の女中が、
「イラッシャイマセ。どうぞお二階へお上りなされませ」
 と云った時には階子段を見上げてホッとタメ息をいたという。
 それからその翌日の事。二人とも朝ッパラからヘトヘトに疲れていたので、宿屋からすすめられるままに馬に乗ったら、その馬を引いた馬士まごが、途中の宿場で居酒屋に這入った。するとその馬が一緒に居酒屋へ這入ろうとしたので乗っていた頭山が面喰らったらしい。慌てて居酒屋の軒先に掴まって両足で馬の胴を締め上げて入れまいと争ったが、とうとう馬の方が勝って頭山が軒先にブラ下った。その時の恰好の可笑おかしかったこと……と奈良原翁が筆者に語って大笑いした事がある。
 そのうちに高知市に近付くと眼の前に大きな山が迫って来て高知市はその真向いの山向うに在る。道路はその山の根方をグルリとまわって行くのであるが、その山を越えて一直線に行けば三分の一ぐらいの道程みちのりに過ぎない……と聞いた二人の心に又しても曲る事を好まぬ黒田武士の葉隠れ魂……もしくは玄洋社魂みたいなものがムズムズして来た。期せずして二人とも一直線に山を登り始めたが、その山が又、案外嶮岨けんそな絶壁だらけの山で、道なぞは無論無い。殆んど生命いのちがけの冒険続きでヘトヘトになって向うへ降りたが、後から考えると、たとえ四里でも五里でも山の根方をまわった方が早かったように思った……という。やはり奈良原翁の笑い話であった。
 そうした玄洋社代表が二人、そうした辛苦艱難しんくかんなんを経てヤッと高知市に到着すると、板垣派から非常な歓迎を受けた。現下の時局に処する玄洋社一派の主義主張について色々な質問を受けたり議論を吹っかけられたりしたが、頭山満はもとより一言も口を利かないし、奈良原到も、今度はこっちから理窟を云いに来たのではない、諸君の理窟を聞きに来ただけじゃ……と睨み返して天晴れ玄洋社代表の貫禄を示したのでイヨイヨ尊敬を受けたらしい。
 それから二代表は毎日毎日演説会場に出席して黙々として板垣一派の演説を静聴した。そうして何日目であったかの夕方になって二人が宿屋の便所か何かで出会うと、頭山満は静かに奈良原到をかえりみて微笑した。
「……どうや……」
「ウム。よさそうじゃのう。此奴こやつどもの方針は……国体にはさわらんと思うがのう、今の藩閥政府の方が国体には害があると思うがのう」
「やってみるかのう……」
「ウム。遣るがよかろう」
 と云って奈良原到は思わず腕を撫でたという。実は奈良原としてはブチコワシ仕事の方が望ましかった。土佐の板垣一派の仕事を木葉微塵こっぱみじんにして帰るべく腕によりをかけて来たものであったが、それでは持って生れた彼一流の正義観が承知しなかった。
「演説はともかく、板垣という男の至誠には動かされたよ、この男の云う事なら間違うてもよい。加勢してやろうという気になった」
 と後年の奈良原到翁は述懐した。
 玄洋社が板垣の民権論に加勢するに決した事がわかると当時の藩閥政府はイヨイヨ震駭しんがいした。玄洋社と愛国社に向って現今の共産党以上の苛烈な圧迫を加えたものであったが、これに対して愛国社が言論に、玄洋社が腕力に堂々と相並んで如何に眼醒めざましい反抗を試みたかは天下周知の事実だからここには喋々ちょうちょうしない事にする。
「結局。自由民権のあらわれである自治政治と議会政治は、板垣の赤誠せきせいを裏切って日本を腐敗堕落させた。日本人は自治権を持つ資格のない程に下等な民族であることを現実の通りに暴露したに過ぎなかったが、これに反して板垣の人格はイヨイヨ光って来るばかりである。昨日きのう、久し振りに板垣と会うて来たが昔の通りに立派な男で、手を握り合うて喜んでくれた。耳が遠くなって困ると云いおったがワシが持って生れた破鐘声われがねごえで話すと、よくわかるよくわかるとうなずいておった。今のような世の中になったのはつまるところ、自由民権議論もよくわからず、日本人の素質もよく考えないままに、板垣の人物ばっかりを信用しておった頭山とワシの罪じゃないかと思うとる」

 ところでこの辺までは先ず奈良原到の得意の世界であった。
 幸いにして議会が開設されるにはされたが、その当初は選挙といっても全然暴力選挙のダイナマイト・ドン時代で、選挙運動者は皆、水盃の生命いのちがけであった。すこしばかりの左翼や右翼のテロが暴露しても満天下の新聞紙が青くなって震え出すような現代とは雲泥の差があったので、従って奈良原到一流のモノスゴイ睨みが到る処に、活躍の価値を発見したものであったが、それからのち、日本政界の腐敗堕落が甚しくなるに連れて、換言すれば天下が泰平になるに連れて、好漢、奈良原到も次第に不遇の地位に墜ちて来た。
 しかもその不遇たるや尋常一様の不遇ではなかった。遂には玄洋社一派とさえ相容れなくなった位、極度に徹底した正義観念――もしくは病的に近い潔癖にわざわいされた御蔭で、奈良原到翁は殆んど食うや喰わずの惨澹たる一生を終ったのであった。
 それから後の奈良原到翁の経歴は世間の感情から非常に遠ざかっていたし、筆者も詳しくは聞いていないのであるが大略のような簡単なものであったらしい。
 明治二十年頃(?)福岡市須崎すさき台場だいばに在る須崎監獄の典獄(刑務所長)となり、妻帯後間もなく解職し、爾後、数年閑居、日清戦役後、台湾の巡査となって生蕃せいばん討伐に従事した。それから内地へ帰来後、夫人を喪い、数人の子女を親戚故旧に托し、ひとり、福岡市外千代町ちよまち役場に出仕していたが、その後辞職して自分の娘の婚嫁先である北海道、札幌、橋本某氏の農園の番人となり、閑日月を送る事十三年、大正元年、桂内閣の時、頭山満、杉山茂丸の依嘱を受けて憲政擁護運動のため九州に下り、玄洋社の二階に起居し、のち、大正六七年頃、対州たいしゅうの親戚某氏の処で病死した。享年七十……幾歳であったか、実は筆者も詳しく知らない。
 その遺児の長男、奈良原牛之介うしのすけというのが又、親の血を受けていたらしい。天下無敵の快男児で、乱暴者ばかり扱いれている内田良平、杉山茂丸も持て余した程の喧嘩の専門家であった。その乱暴者を、極めて温柔おとなしい文学青年の筆者と同列に可愛がったのが筆者の母親で、痛快な、男らしい意味では筆者よりも数十層倍、深刻な印象を、負けん気な母親の頭にタタキ込んでいる筈であるが、この男の伝記は後日の機会まで廻避して、ここには前記、失意後の乱暴オヤジ、奈良原到翁の逸話を二三摘出してこの稿を結ぶ事にする。

 奈良原翁は少年時代に高場乱子、武部小四郎等から受けた所謂、黒田武士の葉隠れ魂、悪く云えば馬鹿を通り越しても満足せぬ意地張いじばり根性がドン底まで強かった。気に入らない奴は片端かたっぱしからガミつける。処嫌わずタタキつける。評議の席などで酔っ払った奈良原到が、眼を据えて睨みまわすと、いい加減な調子のいい事を云っている有志連中は皆青くなって、座が白けてしまったという。そんな連中が奈良原の貧乏な事をよく知っていて、時世おくれの廃物だとか、玄洋社のつらよごしとか何とか、在る事無い事デマを飛ばして排斥したので、奈良原到は愈々いよいよ不遇に陥ったものらしい。
 しかし後年の奈良原到翁には、別にそんな連中を怨んだような語気はなかった。多分、新時代の有志とか、代議士とかいうものは一列一体に太平の世に湧いた蛆虫うじむしぐらいにしか思っていなかったのであろう。一依旧様、権門にびず、時世におもねらず、喰えなければ喰えないままで、乞食以下の生活に甘んじ、喰う物が無くなっても人に頭を下げない。妻子を引連れて福岡の城外練兵場へ出て、タンポポの根なぞを掘って来て露命を繋いでいたというのだから驚く。御本人に聞いてみると、
「ナニ、タンポポの根というても別に喰い方というてはない。かないが塩でで、持って来よったようじゃが最初のうちは香気が高くてナカナカ美味おいしいものじゃよ。新牛蒡ごぼうのようなものじゃ。しかし二三日も喰いよると子供等が飽いて、ほかのものを喰いたがるのには困ったよ。ハッハッハッ」
 と笑っているところはまるで飢饉の実話以上……ここいらは首陽山にわらびを採った聖人の兄弟以上に買ってやらなければならぬと思う。別に周の世を悲しむといったような派手なメアテが在った訳ではなかったし、聖人でも何でもない。憐れな妻子が道伴みちづれだったのだから尚更なおさらである。
 その時代の事であったろうと思うが、筆者の母親の生家に不幸のあった時のこと、仏に旧交のあった奈良原到が、どこから借りて来たものか上下チグハグの紋服にはかまを穿いて悔みに来た。
「ほんの心持だけ……」
 と皆に挨拶をして香奠こうでんと書いた白紙しらかみの包みを仏前に供えうやうやしく礼拝して帰ったので皆顔を見合わせた。一体あの貧乏人がイクラ包んで来たのだろう……というので打寄って開いてみると中には何も這入っていなかった。正真正銘の白紙だけだったので皆抱腹絶倒した。
 しかし心ある二三の人は涙を浮べて感心した。
「奈良原到は流石さすがに黒田武士じゃ、普通の奴なら貧乏を恥じて、挨拶にも来ぬところじゃが……」

 生存している老看守某の話によると、奈良原到の須崎典獄時代には、囚人の奈良原を恐るる事、想像の外であったという。ドンナに兇猛な囚人でも、奈良原典獄が佩剣はいけんを押えて、
「その縄を解け。こっちへ連れて来い」
 と云って睨み付けると、今にも斬られそうな殺気に打たれたらしい。眼を白くして縮み上ったという。
 或る夜のこと、死刑にする筈の四人の囚人が、破獄したという通知が来たので、奈良原典獄は直ぐに駈付けて手配をさせた。そうして自身は制服のままお台場の突角とっかくに立って海上を見渡していると、やや暫くしてから足下の石垣をゾロゾロい登って来る者が居る。よく見ると、それがタッタ今破獄したばかりの四人の囚人たちで、海水にズブ濡れのまま到翁の足下にひれ伏して三拝九拝しているのであった。
 後から取調べたところによると、その囚人はトテも兇暴、無残な連中で、看守をタタキ倒して破獄ののち、お台場の下に浮かべてある夥しい材木の蔭に潜んで追捕の手を遣り過し、程近い潮場の下の釣船を奪って逃げるつもりであったが、そのうちに四人の中の一人が、
「……オイ……石垣の上に立って御座るのがドウヤラ典獄さんらしいぞ」
 と云うと皆、恐ろしさに手足の力が抜けて浮いていられなくなった。歯の根がガチガチ鳴り出して、眼がポオとなってウッカリすると波にさらわれそうになって来たので四人がだんだん近寄って来て……これはイカン。こんな事ではドウにもならんから、破獄を諦らめよう。一思いに奈良原さんの前に出て行って斬られた方がええ……という事に相談がきまると、不思議にも急に腰がシャンとなって、身内が温まって、勇気が出て来た。吾おくれじと石垣を匐登はいのぼって来た……という話であった。これなぞは囚人特有の一種の英雄崇拝主義の極端なあらわれの一つに相違ないので、奈良原到の異常な性格を端的に反映した好逸話でなければならぬ。
「その頃の囚人の気合は今と違うておったように思うなあ」
 とかつて奈良原翁は酒を飲み飲み筆者に述懐した。
「ワシは長巻直ながまきなおしの古刀を一本持っておった。二尺チョッと位と思われる長さのもので、典獄時代から洋剣サアベルに仕込んでおったが良う切れたなあ。腕でも太股でも手ごたえが変らん位で、首を切るとチャプリンと奇妙な音がして血がピューと噴水のように吹出しながらたおれる。ああ斬れた……と思う位で水も溜まらぬというが全くその通りであった。その癖刀身は非常に柔らかくて鉛か飴のような感がした。台湾の激戦の最中に生蕃の持っている棒なぞを斬ると帰って来てからさやに納まらん事があったが、それでも一晩、床の間に釣り下げておくと翌る朝は自然と真直まっすぐになっておった。生蕃征伐に行った時、大勢の生蕃を珠数じゅずつなぎに生捕って山又山を越えて連れて帰る途中で、面倒臭くなると斬ってしまう事が度々であった。あの時ぐらい首を斬った事はなかったが、ワシの刀は一度もがないまま始終切味が変らんじゃった。
 生蕃という奴は学者の話によると、日本人の先祖という事じゃが、ワシもつくづくそう思うたなあ。生蕃が先祖なら恥かしいドコロではない。日本人の先祖にしては勿体ない位、立派な奴どもじゃ。彼奴きゃつ等は、戦争に負けた時が、死んだ時という覚悟を女子供のはしくれまでもチャンと持っているので、生きたまま捕虜にされると何とのう不愉快な、理窟のわからんようなつら付きをしておった。彼奴等は白旗を揚げて降参するなどいう毛唐流の武士道を全く知らぬらしいので、息の根の止まるまで喰い付いて来よったのには閉口したよ。そいつを抵抗出来ぬように縛り上げて珠数つなぎにして帰ると、日本人は賢い。首にして持って帰るのが重たいためにこうするらしい。俺達は自分の首を運ぶ人夫に使われているのだ……と云うておったそうじゃが、これにはワシも赤面したのう。途中で山道の谷合いに望んだ処に来ると、ここで斬るのじゃないかという面付つらつきで、先に立っている奴が白い歯をき出して冷笑しいしい、チラリチラリとワシの顔を振り返りおったのには顔負けがしたよ。そんな奴はイクラ助けても帰順する奴じゃないけに、総督府の費用を節約するために、ワシの一存で片端かたっぱしから斬りすてる事にしておった。今の日本人の先祖にしてはチッと立派過ぎはせんかのうハッハッハッハッ」

 日本に帰って千代町の役場に奉職している時は毎月五円の月給(巡査の月給二円五十銭、警部が三円時代)を貰っていたが、その殆んど全部が酒代さかてになっていた事は云う迄もない。今は故人になった前の福岡市の名市長、佐藤平太郎氏は神戸署の一巡査の身で、外人の治外法権制度に憤慨し、神戸居留地域を離るる一間ばかりの処で、人力車夫に暴行して逃げて行く外人を斬って棄て、天下を騒がした豪傑であるが、氏は語る。
「巡査をめて故郷に帰り、久し振りに昔の面小手めんこて友達の奈良原を千代町の寓居に訪うてみると、落ちぶれたにも落ちぶれないにも四畳半といえば、四畳半、三方の壁の破れから先は天下の千畳敷に続いている。そのまぐさを積んだような畳の中央にしらみに埋まったまま悠々と一升徳利を傾けている奈良原を発見した時には、流石さすがの僕も胸が詰ったよ。僕も相当、落ちぶれたおぼえはあるが、奈良原の落ちぶれようには負けた。アンマリきたないので上りかねているのを無理に引っぱり上げた奈良原は大喜びだ。
『久し振りだ。丁度いいところだから一杯飲め。まずそのさかなつまめ』という。見ると禿げちょろけた椀の蓋に手前が川で掴んで来たらしい一すんぐらいの小蝦こえびが二匹乗っかっている。『遠慮なく喰え』という志は有難いが、それを肴に奈良原が一升の酒を飲むのかと思うと涙がこぼれた。一匹の小蝦が咽喉のどを通らないのを無理に冷酒ひやざけで流し込んで『これが土産だ』と云ってその時の僕の全財産、二十銭を置いて来た」云々。
 そうした貧乏のさなかに大変な事が起った。奈良原翁が病気になったのだ。
 何だか酒が美味おいしくない。飯が砂を噛むようで、頭がフラフラして死にそうな気がするので、千代町役場からその月の俸給を一円借りて近所の医者の処へ行った。一円出して診察を請うて薬を貰ったが、
「どうです。助かりますか」
 と問うてみると若い医者が首をひねった。
「どうも非道ひどい肺炎ですから、絶対に安静にして寝ておいでなさい。御親戚の方か何かに附添っておもらいなさい」
 奈良原翁は、こうした言葉を「もう助からない」意味と取って非常に感謝した。
 ……俺はイヨイヨ死ぬんだ。奈良原到がコレ以上に他人に迷惑をかけず、コレ以上に世道人心の腐敗堕落を見ないで死ぬるとは何たる幸福ぞ。よしよし。一つ大いに祝賀の意を表して、愉快に死んでやろう……。
 奈良原翁は、その足で今一度役場に立寄って町長に面会した。
「オイ。町長。イヨイヨ俺も死ぬ時が来たぞ」
「ヘエッ。何か戦争でも始まりますか」
「アハハ。心配するな。今医者が俺を肺炎で死ぬと診断しおった。そこでこれは相談じゃが、香奠と思うて今月の俸給の残りの四円を貸してくれんか」
「ヘエヘエ。それはモウ……」
 というので四円の金を握ると今度は酒屋へ行って、酒を一樽買って引栓ひきせんを附けて例の四畳半へ届けさした。
 その樽と相前後して帰宅した奈良原翁は、軒先の雨垂落あまだれおちの白い砂を掻集めて飯茶碗へ入れ、一本の線香を立て樽と並べて寝床の枕元に置いた。それから大きな汁椀に酒を引いて、夜具の中でガブリガブリやっているうちにステキないい心持になった。ハハア。こんな心持なら死ぬのも悪くないな……なぞと思い思い朝鮮征伐の夢か何かを見ているうちに前後不覚になってしまった。
 そのうちにチューチューという雀の声が聞えたので奈良原翁はフッと気が付いた。ハハア。極楽に来たな。極楽にも雀が居るかな……なぞと考えて又もウトウトしているうちに、今度は博多湾の方向に当ってボオ――ボオ――という蒸気船の笛が鳴ったので奈良原翁はムックリと起上って眼をこすった。見ると、誰が暴れたのかわからないが昨夜の大きな酒樽が引っくり返って、栓が抜けている横に、汁椀が踏潰ふみつぶされている。通夜つやの連中に飲ましてやるつもりで、残しておいた酒は一滴も残らず破れ畳が吸い込んで、そこいら一面、真赤になって酔払っている。
 その樽と、枕を左右に蹴飛ばした奈良原翁は、蹌々踉々そうそうろうろうとして昨日きのうの医者の玄関に立った。診察中の医者の首筋を、例の剛力でギューと掴んで大喝した。
「この藪医者。貴様のお蔭で俺は死損しにそこのうたぞ。地獄か極楽へ行くつもりで、香奠を皆飲んでしもうた人間が、この世に生き返ったらドウすればええのじゃ」
 度を失った医者はポケットから昨日の皺苦茶の一円札を出して三拝九拝した。
「……ど……どうぞ御勘弁を、息の根が止まります」
「馬鹿……その一円は昨日きのうの診察料じゃ。それを取返しに来るような奈良原到と思うか。見損なうにも程があるぞ」
「どうぞどうぞ。お助けお助け」
「助けてやる代りに今日の診察料を負けろ。そうして今一遍、よく診察し直せ。今度見損うたなら斬ってしまうぞ」
 ちなみにその診察の結果は全快、間違いなし。健康申分もうしぶんなし。長生き疑いなしというものであった。

 大正元年頃であった。桂内閣の憲政擁護運動のために、北海道の山奥から引っぱり出された奈良原到翁は、上京すると直ぐに旧友頭山満翁を当時の寓居の霊南坂に訪れた。
 互いに死生を共にし合った往年の英傑児同志が、一方は天下の頭山翁となり、一方は名もなき草叢裡そうそうり窮措大きゅうそだい翁となり果てたまま悠々久濶きゅうかつじょする。相共に憐れむ双鬟そうかんの霜といったような劇的シインが期待されていたが、実際は大違いであった。両翁が席を同じゅうして顔を見合せてみると、双方ともジロリと顔を見交してアゴを一つシャクリ上げた切り一言も言葉を交さなかった。知らぬ者が見たら、銀座裏でギャング同志がスレ違った程度の手軽い挨拶に過ぎなかったが、しかし、その内容は雲泥の違いで、両翁とも互いに、往年の死生を超越して気魄が、老いて益々さかんなるものが在るのを一瞥のうちに看取し合って、意を強うし合っているらしい。その崇高とも、厳粛とも形容の出来ない気分が、席上に※(「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1-89-18)ほうはくして来たので皆思わずえりを正したという。
 それから入代いりかわり立代り来る頭山翁の訪客を、奈良原翁はジロリジロリと見迎え、見送っていたが、やがて床の間に置いてある大きな硯石すずりいしに注目し、訪客の切れ目に初めて口を開いた。
「オイ。頭山。アレは何や」
 頭山翁は、その硯をかえりみて微笑した。
「ウム。あれは俺が字を書いてやる硯タイ」
 奈良原翁は、それから間もなく頭山翁に見送られて玄関を辞去したが、門前の広い通りを黙って二三町行くと、不意に立止ってからすの飛んで行く夕空を仰いだ。タッタ一人で呵然かぜんとして大笑した。
「頭山が字を書く……アハハハ。頭山が字を書く。アハハ。頭山が書を頼まれる世の中になってはモウイカン、世の中はオシマイじゃワハハハハハハハ……」
 そこいらに遊んでいる子供等が皆、ビックリして家の中へ逃込んだ。

 奈良原翁が晴れの九州入をする時に、当時二十五か六で、文学青年から禅宗坊主に転向していたばかりの筆者は、思いがけなく到翁の侍従役を仰付おおせつけられて、共々に新橋駅(今の汐留駅)に来た。翁は旧友から貰ったという竹製のカンカン帽に、手織木綿縞もめんじまの羽織着流し、青竹の杖、素足に古い泥ダラケの桐下駄きりげた、筆者は五リン刈の坊主頭に略法衣りゃくほうえ、素足に新しい麻裏という扮装である。荷物も何も無い気楽さに直ぐに切符売場へ行って、博多までの二等切符を買って来ると、三等待合室の中央に立って待っている到翁が眼早く青切符を見咎みとがめてサッと顔色を変えた。
「それは中等の切符じゃないかな」
 その頃から十四五年ぜんまでは二等の事を中等と云った。従って一等の白切符を上等と称し、三等の赤切符を下等と呼んだ。
「はい。昔の中等です。御老体にコタえると不可いけませんから……」
「馬鹿ッ」
 という大喝が下等待合室を、地雷火のように驚かした。
「馬鹿ッ。アンタは、まだ若いのに何という不心得な人かいな。吾々のような人間が、国家に何の功労があれば中等に乗るかいな。下等でも勿体ない位じゃ。戻いて来なさい。馬鹿ナッ」
 と云ううちに青竹の杖が、今にも筆者の坊主頭に飛んで来そうな身構えをした。……飛んでもない国士のお供を仰付けられた……と思い思い大勢の下等客の視線を浴びながら、買換えに出て行った時の、筆者の器量の悪かったこと……。
 それから予定の通り下等の急行列車に乗込むと、又驚いた。
 ちょうど二人分の席がいていたので、窓際の席を翁にすすめると翁は青竹の杖を突張って動かない。
「イヤイヤ。アンタ窓の処へ行きなさい。わしは年寄で、夜中に何度も小便に行かねばならぬけにウルサイ」
 どちらがウルサイのかわからない。云うがままに窓の前に席を取ると又々驚いた。
 筆者に尻を向けて、ドッコイショと中央の通路向きに腰をおろした翁は、たもとから一本の新しい日本蝋燭ろうそくを出して、マッチで火をけた。何をするのかと思うと、その蝋涙ろうるいを中央の通路のマン中にポタポタと垂らしてシッカリとオッ立てた。驚いて見ているうちに、今度は腰から煤竹筒すすだけづつの汚ない煙草入を出して、その蝋燭の火で美味おいしそうに何服も何服も刻煙草きざみたばこを吸うのであったが、まだ発車していないので、荷物なんかを抱えて通抜けようとする奴なんかが在ると、翁が殺人狂じみた物凄い眼を上げて、ジロジロと睨むので、一人残らず引返して出て行く。痛快にも傍若無人にもお話にならない。見るに見かねた筆者が、
「マッチならコチラに在りますよ」
 と云ううちに煙草を吸い終った翁は、蝋燭の火を蝋涙と一緒に振切って、古新聞紙に包んで袂に入れた。蝋涙を引っかけられた向側の席の人が慌ててマントのそでを揉んでいたが、翁は見向きもしなかった。
「マッチや線香で吸うと煙草が美味おいしゅうない。燃え火で吸うのが一番美味おいしいけになあ」
 奈良原翁の味覚が、そこまで発達している事に気附かなかった筆者は全く痛み入ってしまった。この塩梅あんばいでは列車に放火して煙草を吸いかねないかも知れない。
「北海道の山奥で雪に埋れていると酒と煙草が楽しみでなあ。炉の火で吸う煙草の味は又格別じゃ。もっとも煙草は滅多に切れぬが酒はよく切れたので閉口した。万止むを得ん時には砂糖湯を飲んだなあ。アルコールも砂糖も化学で分析してみると同じ炭素じゃけになあ」
 筆者はイヨイヨ全く痛み入ってしまった。同時にそこまで考える程に苦しんだ翁が気の毒にもなった。

 国府津こうづに着いてから正宗の瓶と、弁当を一個買って翁に献上すると、流石さすがに翁の機嫌が上等になって来た。同時に翁の地声がダンダン潤おいを帯びて来て、眼の光りが次第に爛々炯々らんらんけいけいと輝き出したので、向い合って坐っていた二人が気味が悪くなったらしい。箱根を越えないうちにソコソコと荷物を片付けて、前部の車へ引移ってしまったので、翁は悠々と足を伸ばした。世の中は何がしあわせになるかわからない。筆者もノウノウと両脚を踏伸ばして居ねむりの準備を整える事が出来た。その二人の脚の間へ翁が又、弁当箱の蓋にオッ立てた蝋燭の火を置いたので、筆者は又、油断が出来なくなった。
 翁は一服すると飯を喰い喰い語り出した。
「北海道の山の中では冬になると仕様がないけに毎日毎日聖書を読んだものじゃが、え本じゃのう聖書は……アンタは読んだ事があるかの……」
「あります……馬太マタイ伝と約翰ヨハネ伝の初めの方ぐらいのものです」
「わしは全部、数十回読んだのう。今の若い者は皆、聖書を読むがええ。あれ位、面白い本はない」
「第一高等学校では百人居る中で恋愛小説を読む者が五十人、聖書を読む者が五人、仏教の本を読む者が二人、論語を読む者が一人居ればいい方だそうです」
「恋愛小説を読む奴は直ぐに実行するじゃろう。ところが聖書を読む奴で断食をする奴は一匹も居るまい」
「アハハ。それあそうです。ナカナカ貴方は通人ですなあ」
「ワシは通人じゃない。頭山や杉山はワシよりも遥かに通人じゃ。恋愛小説なぞいうものは見向きもせぬのに読んだ奴等が足下にも及ばぬ大通人じゃよ」
「アハハ。これあ驚いた」
「キリストはえらい奴じゃのう。あの腐敗、堕落したユダヤ人の中で、あれだけの思い切った事をズバリズバリ云いよったところが豪い。人るれば人を斬り、馬るれば馬を斬るじゃ、日本に生れても高山彦九郎ぐらいのネウチはある男じゃ」
「イエス様と彦九郎を一所いっしょにしちゃ耶蘇やそ教信者がおこりやしませんか」
「ナアニ。ソレ位のところじゃよ。彦九郎ぐらいの気概を持った奴が、猶太ユダヤのような下等な国に生れれば基督キリスト以上に高潔な修業が出来るかも知れん。日本は国体が立派じゃけに、よほど豪い奴でないと光らん」
「そんなもんですかねえ」
「そうとも……日本の基督教は皆間違うとる。どんな宗教でも日本の国体に捲込まれると去勢されるらしい。愛とか何とか云うて睾丸きんたまの無いような奴が大勢寄集まって、涙をボロボロこぼしおるが、本家の耶蘇はチャンと睾丸きんたまを持っておった。猶太でも羅馬ロウマでも屁とも思わぬ爆弾演説を平気でやりつづけて来たのじゃから恐らく世界一、喧嘩腰の強い男じゃろう。日本の耶蘇教信者は殴られても泣笑いをしてペコペコしている。まるで宿引きか男めかけのような奴ばっかりじゃ。耶蘇教は日本まで渡って来るうちに印度インド洋かどこかで睾丸きんたまを落いて来たらしいな」
「アハハハハ。基督の十字架像に大きな睾丸きんたまを書添えておく必要がありますな」
「その通りじゃ。元来、西洋人が日本へ耶蘇教を持込んだのは日本人を去勢する目的じゃった。それじゃけに本家本元の耶蘇からして去勢して来たものじゃ。徳川初期の耶蘇教禁止令は、日本人の睾丸きんたま、保存令じゃという事を忘れちゃイカン」
 筆者はイヨイヨ驚いた。下等列車のうちで殺人英傑、奈良原到翁から基督教と睾丸きんたまの講釈を聞くという事は、一生の思い出と気が付いたのでスッカリ眼が冴えてしまった。
 奈良原到翁の逸話はまだイクラでもある。筆者自身が酔うた翁に抜刀でおっかけられた話。その刀をアトで翁から拝領した話など数限かずかぎりもないが、右の通、翁の性格を最適切にあらわしているものだけを挙げてアトは略する。
 ちなみに奈良原翁は嘗て明治流血史というものを書いて出版した事があるという。これはこの頃聞いた初耳の話であるが、一度見たいものである。
 次は江戸ッ子のお手本、花川戸助六はなかわどすけろく幡随院長兵衛ばんずいいんちょうべえに対照してヒケを取らない博多ッ子のお手本、故、篠崎仁三郎にさぶろう君を御紹介する。
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 ……縮屋ちぢみや新助じゃねえが江戸っ子が何でえ。徳川三百年の御治世がドウしたというんだ。はばかんながら博多の港は、世界中で一番古いんだぞ。埃及エジプト歴山港アレキサンドリアよりもズット古いんだ。神世の昔××××様のお声がかりの港なんだから、いつから初まったか解かれねえくれえだ。ツイこの頃まで生きていた太田道灌どうかんのお声がかりなんてえシミッタレた町たあ段式が違うんだ。
 勿体もったいなくも日本文化のイロハのイの字は、九州から初まったんだ。アイヌやコロボックルの昔から九州は日本文化の日下開山ひのしたかいざんなんだ。八幡様や太閤様の朝鮮征伐、から天竺てんじくの交通のカナメ処になって、外国をピリピリさせていた名所旧跡は、みんな博多を中心まんなかにして取囲んでいるんだ。唐津、名護屋なごや怡土いと城、太宰府、水城みずき宇美うみ筥崎はこざき多々羅たたら宗像むなかた、葦屋、志賀島しかのしま残島のこのしま、玄海島、日本海海戦の沖の島なんて見ろ、屈辱外交の旧跡なんて薬にしたくもないから豪気だろう。伊豆の下田の黒船以来、横浜、浦賀、霞が関なんて毛唐に頭ア下げっ放しの名所旧跡ばっかりに取巻かれている東京なんかザマア見やがれだ。
 もう一ペン云ってみようか。江戸ッ子が何でえ。博多には博多ッ子が居るのを知らねえか。名物の博多織までシャンとしているのが見えねえか。博多小女郎の心意気なんか江戸ッ子にゃあわかるめえ。
 日増しの魚や野菜を喰っている江戸ッ子たあ臓腑はらわたが違うんだ。玄海の荒海を正面に控えて「襟垢えりあかの附かぬ風」に吹きさらされた哥兄あんちゃんだ。天下の城のしゃちほこの代りに、満蒙露西亜ロシアの夕焼雲を横目ににらんで生れたんだ。下水どぶの親方の隅田川に並んでいるのは糞船くそぶねばっかりだろう。那珂なか川の白砂では博多織を漂白さらすんだぞ畜生……。
 芸妓げいしゃを露払いにする神田のお祭りが何だ。博多の山笠舁やまがさかきは電信柱を突きたおすんだぞ。飛鳥あすか山の花見ぐらいに驚くな。博多の松囃子ドンタクを見ろ。町中が一軒残らず商売を休んで御馳走を並べて、全市が仮装行列ドンタクをやるんだ。男という男が女に化けて、女という女が男に化けて飲み放題の踊り放題の無礼講が三日も続くんだぞ。謝肉祭カーニバルの上を行くんだ。巡査や兵隊までが仮装ドンタク間違まちげえられる位、大あばれに暴れるんだぞ。そんな馬鹿騒ぎの出来る町が日本中のどこに在るか探してみろ。それでいて間違いなんか一つもないんだ。翌る日になると酔うた影も見せずにキチンと商売を初めるんだ。絹ずくめの振袖でも十両仕立ての袢纏はんてんでもタッタ一度で泥ダラケにして惜しい顔もせずに着棄て脱ぎ棄てだ。三味線知らぬ男が無ければ、赤い扇持たぬ娘も無い。博多は日本中の諸芸の都だ。町人のお手本の居る処だぞ。来るなら来い。臓腑はらわたで来い。大竹を打割って締込みにして来い……。

       ×          ×          ×

 ここに紹介する博多児はかたっこの標本、篠崎仁三郎君は、博多大浜おおはまの魚市場でも随一の大株、湊屋みなとやの大将である。近年まで生きていた評判男であるが正に名僧仙崖せんがい、名娼明月めいげつと共に博多の誇りとするに足る不世出の博多ッ子の標本と云ってよかろう。但、博多語が日本の標準語でないために、その洒脱な言葉癖をスケッチしてピントを合わせる事が出来ないのが、千秋の遺憾である。
 同君の経歴や、戸籍に関する調査は面倒臭いから一切ヌキにして、イキナリ同君の真面目しんめんもくに接しよう。

 筆者が九州日報の記者時代、同君を博多旧魚市場に訪問して「博多ッ子の本領」なる話題について質問した時の事である。短躯肥満、童顔豊頬にして眉間に小豆あずき大のいぼいんしたミナト屋の大将は快然として鉢巻を取りつつ、魚鱗うろこの散乱した糶台ばんだい胡座あぐらを掻き直した。競場せりばで鍛い上げた胴間どうま声を揺すって湊屋一流の怪長広舌を揮い始めた。
「ヘエ。貴方あなたは新聞記者さん……ヘエ。結構な御商売だすなあ。社会の木魚タタキ。無冠の太夫……私共のような学問の無いものにゃ勤まりまっせん。この間も店の小僧に『キネマ・ファンたあ何の事かいなア』て聞かれましたけに、西洋の長唄の先生の事じゃろうて教えておきましたれア違いますそうで。キネマ・ファンちう者は日本にも居るそうで。私は又、杵屋きねや勘五郎が風邪引いたかと思うておりましたが……アハハハ。
 魚市場の商売ナンテいうものは学問があっちゃ出来まっせん。早よう云うてみたなら詐欺インチキ盗人ぬすと混血児あいのこだすなあ。商売の中でも一番商売らしい商売かも知れませんが……。
 第一、生魚しなものをば持って来る漁師が、漁獲高とれだかを数えて持って来る者は一人も居りまっせん。沖で引っかかったさばなら鯖、小鯛こだいなら小鯛をば、穫れたられただけ船に積んでエッサアエッサアと市場の下へ漕ぎ付けます。アトは見張りの若い者か何か一人残って、櫓櫂ろかいを引上げてそこいらの縄暖簾なわのれんに飲みげに行きます。
 その舟の中の魚を数え上げるのは市場の若い者で、両手で五匹ぐらいずつ一掴みにして……ええ。シトシトシト。フタフタ。ミスミス。ヨスヨスヨスと云いおるうちに、三匹か五匹ぐらいはチャンと余計に数えております。永年数え慣れておりますケン十人見張っておりましても同じ事で、しめて千とか一万とかになった時には、二割から三割ぐらい余分に取込んでおります。
 そいつを私が糶台ばんだいに並べて、
『うわアリャリャリャ。拳々けんけん安かア安かア安かア。両拳りゃんこ両拳両拳。うわアリァリァ安か安か安か』
 とるうちに肩を組んで寄って来た売子の魚屋やつが十コン一円二十銭で落いたとします。その落いた魚屋やつの襟印を見て帳面に『一円五十銭……茂兵衛』とか何とか私共一流の走書きに附込んだやつさらうように引っ担いで走り出て行きます。払いの悪い奴なら一円七十銭にも八十銭にも附けておきますので、後で帳面を覗きに来ても一円三十銭やら二円五十銭やら読み分ける事は出来まっせん。学問のある人の書くような読み易い字で、帳面をば附けたなら私共の商売は上ったりで……。つまり何分なんぶかの口銭こうせんを取った上に、数える時に儲ける。帳面に附ける時に又輪をかける。独博奕ひとりばくち雁木鑢がんぎやすりという奴で行き戻り引っかかるのがこの市場商売の正体で、それでもノホホンで通って行くところが沽券こけんと申しますか、顔と申しますか。しかもその詐欺インチキ盗人ぬすっとつけ景気のお蔭で、品物がドンドンさばけて行きますので、地道に行きよったら生物なまものは腐ってしまいます。世の中チウものは不思議なもんだす。

 ……ヘエ。博多児はかたっこの資格チウても別段に困難むずかしい資格は要りません。懲役に行かずに飯喰いよれあ、それでえ訳で……もっともこれが又、博多児の資格の中でも一番困難しい資格で御座います。ほかの資格は何でもない事で……個条書にしたなら四ツか五つ位も御座いましょうか。
 ◇第一個条が、十六歳にならぬうちに柳町の花魁おいらんを買うこと――
 ◇第二個条が、身代構わずに博奕を打つ事――
 ◇第三個条が、生命いのち構わずに山笠やまかつぐ事――
 ◇第四個条が、出会い放題に××する事――
 ◇第五個条が、死ぬまでふくを喰う事――
 ◇第六個条が……まあコレ位に負けといて下さい。芸者を連れて松囃子ドンタクに出る事ぐらいにしといて下さい。もっともこれは私共の若い時代じぶんの事で、今は若い者が学校に行きますお蔭で皆、賢明りこうになりましたけに、そげな馬鹿はアトカタもうなりました。その代り人間が信用悪つきあいにくうなりましたが。
 ……ヘエ。私がその資格を通ったかと仰言おっしゃるのですか。これはしからん。通ったにも通らぬにも甲の上ダラケの優等生で……ヘエ。
 十五になって高等小学校を出ると直ぐに紺飛白こんがすりの筒ッポを着て、母様かかさん臍繰へそくりをば仏壇の引出から掴み出いて、柳町へ走って行きましたが、可愛がられましたなあ。『ちん哥兄あんちゃんちん哥兄あんちゃん』ち云うと息の止まる程、花魁に抱き締められましたなあ。ハハハ。帰りがけに真鍮の指環いびがねをば一個ひとつ花魁から貰いましたが、その嬉しさというものは生れて初めてで御座いました。日本一の色男になったつもりでうちへ帰っても胸がドキドキして眼の中があっつうなります。そこで上りかまちに腰をかけて懐中ふっくらからその貰うた指環をば出いて、てのひら中央まんなかへ乗せて、タメツ、スガメツ引っくりかやいておりますと、背後うしろからヌキ足さし足、覗いて見た親父おやじが、大きな拳骨で私の頭をゴツウ――ンと一つらわせました。その拍子に大切だいじな指環がどこかへ飛んでてしまいました。
 私は土間へ引っくり返ってワンワン泣き出しました。何をいうにも今年十五の色男だすケに根っから他愛どたまがありませぬ。そこへ奥から母親かかさんが出て来まして、
何事なんごと、泣きよるとナ』
 と心配して聞きましたから、
指環いびがねうなったあ。ウワア――』
 と一層、高音たかねを揚げて精一パいに泣出しますと、母親は私の坊主頭を撫でながら、
『ヨカヨカ。指環ぐらい其中いんまうちゃる』
 と慰めてくれました。私は腹立ち紛れに、
『アンタに買うてもろうたチャ詰まらん』
 と怒鳴ってメチャメチャに泣出しましたが、あん時はダイブ失恋しておりましたナア。

 ふくも、ずいぶん喰いましたなあ。
 私の口から云うのも何で御座いますが、親父は市場でも相当顔の利いた禿頭はげで御座いましただけに、その頃はまだ警察からめられておりましたフクを平気で自宅うち副食物ごさいにしておりました。まあだ乳離れしたバッカリの私の口へ、雄精しらこなぞを箸で挟んで入れてくれますので母親がビックリして、
『馬鹿な事ばしなさんな。年端としはも行かん児供こども中毒あたって死んだならどうしなさるな』
 と押止めますと、親父は眼をいて母親はは怒鳴がみ付けたそうです。
『……甘いこと云うな。ふくをば喰いらんような奴は、博多の町では育ち能らんぞ。今から慣らしておかにゃ、詰まらんぞ。中毒あたって死ぬなら今のうちじゃないか』
 そげな調子で、いつから喰い初めたか判然わかりませんが、ふくでは随分、無茶をやりました。
 最初は一番毒の少ないカナトウ鰒をば喰いましたが、だんだん免疫なれて来ますと虎鰒、北枕ナンチいうものを喰わんとフク喰うたような気持になりまっせん。北枕なぞを喰うた後で、外へ出て太陽光ひなたに当ると、眼がうてフラフラと足が止まらぬ位シビレます。その気持のえ事というものは……。
 それでもダンダンと毒に免疫なれて来ると見えて、後日しまいには何とものうなって来ます。北枕を喰うた奴も一町内に三人や五人は居るような事でトント自慢になりまっせんケニ、一番恐ろしいナメラという奴を喰うてみました。
 ナメラというのは小さい鰒で、全身ごたいが真黒でヌラッとした見るからに気味きびの悪い恰好をしておりますが大抵の鰒好ふくくいが『鰒は洗いよう一つで中毒あたらん。しかしナメラだけはそう行かん』と申します。そうかと思うと沖から来る漁夫りょうしなぞは『甘い事云いなさんな。ナメラが最極上いっち利く』と云う者も居ります。
 そこで私共の放蕩あくたれ仲間が三四人申合わせてそのナメラを丸のままブツ切りにして味噌汁に打込んで一杯る事にしましたが、それでも最初はヤッパリ生命いのちが惜しいので、そのナメラの味噌汁をば浜外れの蒲鉾小舎かまぼこごやに寝ている非人に遣ってみました。
『ホラ……余りもんば遣るぞ』
 と云うて蒲鉾小舎の入口にいて在る面桶めんつうに半分ばかり入れてやりましたので、非人はシキリに押頂いておりましたが、暫くしてから行ってみますと、喰うたと見えて面桶が無い。本人もまだ生きて煙草を吸うている様子です。そこで安心して皆で喰べましたが、美味うもう御座いましたなあ。ソレは……トテモえ気持に酒が廻わってしまいました。
 それから帰りしなにその非人の処を通りかかりましたが、酔うたマギレの上機嫌で、
『最前の味噌チリ喰うたか』
 と尋ねてみますと老人としよりいざりの非人が入口に這い出して来てペコペコ拝み上げました。
『ヘイヘイ。ありがとう様で御座ります。アナタ方も召上りましたか』
 とただれたをショボショボさせました。
『ウン。喰うた。トテモ美味うまかったぞ』
 と正直に答えますと、暫く私どもの顔を見上げておりました非人は、先刻さいぜん、呉れてやった味噌チリの面桶めんつうむしろの蔭から取出しました。
『ヘイ。それなら私も頂戴いただきまっしょう』
 とモウ一ペン面桶を拝み上げてツルツル喰い始めたのには驚きました。非人で試験ためしてみるつもりが、正反対ひっちゃらこっちに非人から試験された訳で……。
 これはマア一つ話ですがそげな来歴わけで、後日しまいにはそのナメラでも満足たんのうせんようになって、そのナメラの中でも一番、毒の強い赤肝を雁皮がんぴのように薄く切ります。それから大きな褌盥へこだらい極上井戸水まつばらみずを一パイ張りまして、その中でその赤肝の薄切せんまいぎりを両手で丸めて揉みますと、盥一面に山のごと泡が浮きます。まるで洗濯石鹸あらいしゃぼんを揉むようで……その水を汲み換え汲み換え泡の影がうなるまで揉みました奴の三杯酢をさかなにして一杯飲もうモノナラその美味うまさというものは天上界だすなあ。喰い残りを掃溜へ捨てた奴を、とりが拾いますとコロリコロリ死んでしまいますがなあ。
 ……ヘエ。私は四度死んで四度とも生き返りました。四度目にはもう絶望つまらんちいうて棺桶へ入れられかけた事もあります。私の兄貴分の大惣だいそうナンチいう奴は棺の中でお経を聞きながらビックリして、ウウ――ンと声を揚げて助かりました位で……イエイエ。作りごとじゃ御座いまっせん。この理窟ばっかりは大学の博士はかせさんでもわからん。ヘエ。西洋の小説にもそのような話がある……墓の下から生上いきあがった……ヘエ。それは小説だっしょうが、これは小説と違います。正直正銘シラ真剣のお話で……。

 御承知か知りませんが、鰒に中毒あたると何もかも痲痺しびれてしもうて、一番しまい間際がけ聴覚みみだけが生き残ります。
 最初、くち周囲ぐるりがムズ痒いような気持で、サテはちっと中毒ったかナ……と思ううちに指の尖端さきから不自由になって来ます。立とうにも腰が抜けているし、物云おうにも声が出ん。そのうちに眼がボウ――ッとなって来て、これは大変おおごとが出来たと思うた時にはモウ横に寝ているやら、座っているやら自分でも判然わからんようになっております。ただ左右りょうほうの耳だけがハッキリ聞こえておりますので、それをタヨリに部屋の中の動静ようすを考えておりますところへ、聞慣れた近所の連中の声がガヤガヤと聞こえて来ます。気の早い連中で、モウ棺箱をいない込んで来ている模様です。
『馬鹿共が。又三人も死んでケツカル。ほかに喰う品物もんが無いじゃあるまいし』
『知らぬ菌蕈なば喰うて死んだ奴と鰒喰うて死んだ奴が一番、みっともないナア』
駐在所ちゅうざいにゃ届けといたか』
『ウン。警察では又かチウて笑いよった。いま警察から医師いしゃが来て診察するち云いよった』
『診察するチウて脈の上った人間はドウなるもんかい』
『棺の中へ入れとけ。ドッチにしても形式かたばっかりの診察じゃろうケニ』
『蓋だけせずに置けや。親兄弟が会いげに来るケニ……』
『親兄弟も喜ぼうバイ、此輩こやつどもが死んだと聞いたならホッとしよろう』
『可哀相に……泣いてやる奴も居らんか……電信柱の蝉ばっかりか。ヤ……ドッコイショ……』
『重たいナア。死んだ奴は……』
『結構な死態しにようタイ。了簡きしょくバイ。鰒に喰われよる夢でも見よろう』
『ハハハ。鰒の方が中毒あたろうバイ』
『しかしこの死態ざまをば情婦いろおなごい見せたナラ、大概の奴が愛想あいそ尽かすばい。眼球めんたまをばデングリがやいて、鼻汁はな垂れカブって、涎流よだくっとる面相つらあドウかいナ』
『アハハハ。腐った鰒に似とる。因果覿面てきめんバイ』
『オイオイ。ここは湊屋の仁三郎が長うなっとる。誰か両脚あしの方ば抱えやい』
『待て待て。その仁三郎は待て。今俺が胸のとこをばあたって見たれあ、まだどことのうぬくごとある。まあだ生きとるかも知れん』
『ナニ。生きとるかも知れん。馬鹿け。見てんやい。眼球ア白うなっとるし、睾丸きんたまも真黒う固まっとる。浅蜊あさり貝の腐ったゴト口開けとるばドウするケエ』
『まあまあ。そう云うな。一人息子じゃけに、念入れとこう』
 この時ぐらい親の恩を有難いと思うた事は御座いません。親というものが無かったならこの時に私は、ほかの連中と一所に棺箱はこへ入れられて、それなりけりの千秋楽になっておりました訳で……。
『その通りその通り。助けてくれい助けてくれい』
 と呼ぼうにも叫ぼうにも声は出ず、手も合わせられませぬ。耳を澄まして運を天に任かせておるその恐ろしさ。エレベータの中で借金取りに出会うたようなもので……ヘエ……。
 それでもお蔭様で生きあがりますと又、現金なもので、折角、思い知った親の恩も何も忘れて博奕は打つ……××はする……。

 ……ヘエ。その××ですか。これはどうも商売の奥の手で、この手を使わぬ奴は人気が立たず。魚類さかなが売れません。まあ云うてみればこの奥の手を持たん奴は魚売の仲間かずに這入らんようなもので……ヘヘヘ。
 その頃、私はまあだ問屋とんや糶台ばんだいに座らせられません。禿頭はげ親爺おやじがピンピンして頑張っておりましたので……その親父おやじが引いてくれた魚類さかな荷籠めご天秤棒ぼおこを突込んで、母親かかさんが洗濯してくれた袢纏はんてん一枚、草鞋わらじ一足、赤褌あかべこ一本で、雨風を蹴破けやぶってワアッと飛出します。どこの町でも魚類売さかなうりは行商人あきないにん花形役者はながたで……早乙女あんにゃんが採った早苗なえのように頭の天頂てっぺん手拭てのごいをチョット捲き付けて、
『ウワ――イ。ナマカイランソ(鰯の事)、ウワ――アアイイ……』
 と横筋違よこすじかい往来おおかんば突抜けて行きます。号外と同じ事で、この触声おらびごえの調子一つで売れ工合が違いますし、情婦おなごの出来工合が違いますケニ一生懸命の死物狂いで青天井を向いておらびます。そこが若い者のネウチで……。
 しかも呼込まれる先々が大抵レコが留守だすケニ間違いの起り放題で、又、間違うてやりますと片身かたみの約束のさばが一本で売れたりします。おかげでレコも帰って来てから美味うまいものが喰えるという一挙両得になるワケで……。
 それでも五六軒も大持てに持てて高価たかい魚がアラカタ片付く頃になりますと、もうヘトヘトになって、息が切れて、走ろうにも腰がフラ付きます。太陽てんとう様が黄色きんなく見えて、生汗なまあせが背中を流れて、ツクツク魚売人さかなうりの商売が情無なさけのうなります。何の因果でこげな人間に生れ付いたか知らん。孫子の代まで生物なまものは売らせまいと思い思いからになった荷籠めごを担いで帰って来ます。
 それでも若いうちは有難いもので、その晩一寝入りしますと又、翌る朝は何とのう生魚さかなを売りに行きとうなります。

 バクチは親父おやじが生きとるうちは遣りませんでしたが、死ぬると一気に通夜の晩から初めまして、三年経たぬうちに身代をスッテンテレスコにしてしまいました。それを苦に病んで母親も死ぬる……というような事で、親不孝者の標本おてほんは私で御座います。ヘイ。
 今では身寄タヨリが在りませぬので、イクラ働いても張合いが御座いまっせん。それでも世界中が親類と思うて、西洋人いじんの世話までしてみましたが、誰でもかねの話だけが親類で、他事あと途中みち擦違すれちごうても知らん顔です。
『道楽はイクラしても構わん。貴様ぬしが儲けて貴様ぬしが遊ぶ事じゃケニ文句は云わんが、赤の他人でも親類になる……見ず知らずの他人の娘でも蹴倒けたおす金の威光だけは見覚えておけよ』
 というのが死んだ親父の口癖で御座いましたが、全くその通りの懸価かけねなしで、五十幾歳いくつのこの年になって、ようようの事、世間が見えて来ましたがチット遅う御座いましたナア。人間万事身から出た錆と思うて……親不孝の申訳もうしわけと思うて、誰でも彼でも親切にしてやる片手間には、イツモ親父の石塔に頭を下げておりますが、お蔭で恩知らずや義理知らずに出会うても格別腹も立ちまっせん。両親の墓に線香を上げるとスウーッとしてしまいます。
 バクチの失敗談しくじりばなしですか。バクチの方はアンマリ面白い事は御座いまっせんばい。資金かねに詰まって友達の生胆いきぎもを売って大間違いを仕出かしたのを幕切ちょんにして、立派にやめてしまいましたが、考えてみると私輩わたしどもの一生は南京花火のようなもので……シュシュシュシュポンポンポン……ウワアーイというただけの話で……。
 ……ヘエ……その生胆売りの話ですか。どうも困りますなあ。アンマリ立派な話じゃ御座いませんので……あの時のような遣切せつない事はありまっせんじゃった。今まで誰にも云わずにおりましたが……懲役に遣られるかも知れませんので……。決して悪気でした事では御座いませんじゃったが、人間の生胆きも枕草紙かよいは警察が八釜やかましゅう御座いますケニなあ……。
 もっとも友達の生胆を売ったチウたて、ビックリする程の事じゃ御座いません。生胆の廃物利用をやって見た迄の事だす。前のバクチの一件の続きですが……私が二十三か四かの年の十二月の末じゃったと思いますケニ、明治二十年前後の事だしつろうか。
 前にも申しました通りバクチは親父の生きとるうち大幅おおぴらで遣れませんでしたが、死ぬると一気に通夜の晩から枕経まくらきょうの代りに松切坊主まつきりぼうずを初めましたので、三年経たぬうちに身代がガラ崩れのビケになってしもうた。それを苦にした母親が瘠せ細って死ぬる。折角来てくれた女房までもが見損のうたといて着のみ着のままで逃げてしもうた。その二十三か四の年の暮が仙崖さんの絵の通り『サルの年祝うた』になってしもうた。
 借金で首がまわらぬと申しますが、あの味わいバッカリは借金した者でないと理解わかりまっせん。博多の町中、行く先々、右も左もしらみの卵生み付けたゴト不義理な借銭ばっかり。真正面の青天井に見当を附けて兵隊ちんだいさん式にオチニオチニと歩まぬと、虱の卵を生み附けられた顔がイクラでも眼に付きます。その虱の卵が一つ一つに孵化われて、利が利を生みよる事を考えると、トテモ博多の町に居られた沙汰では御座いませぬ。こげな事にかけますと私はドウモ気の小さい方と見えまして……ヘイ。
 私の女郎買とバクチの先達せんだつ大和屋惣兵衛やまとやそうべえ、又の名を大惣だいそうという男が居りました。最前チョットお話ししました棺の中でお経を聞いてビックリした豪傑で、お寺の天井に居る羅漢様と生き写しの面相つらようで、商売の古道具屋に座って、煙草を吸うておりますうち蜘蛛くもが間違えて巣を掛けよるのを知らずにおったという大胆者おちつきもんで御座います。
 平生ふだんから私の事をドウ考えているか判然わかりませんでしたが、イヨイヨ押詰まった師走しわすの二十日頃にこの男の処へ身の上相談に行きますと、相変らずすすけ返ったつらで古道具の中に座っておりましたが、私の顔をジイッと見ながら、黙って左のを出せと申します。何を云うかわからん、気味きびの悪いところがこの男のネウチで、くわ煙管ぎせるのまま私のてのひらを見ておりましたが、
『これはナカナカ運のいい手相じゃ。長崎へ行けばキット運が開けると手筋に書いてある』
 と云います。私は呆れました。
『馬鹿け。長崎へ行く旅費がある位なら貴様の処へ相談に来はせぬ』
『まあ待て。そこが貴様の運のええところじゃ。運気のお神様は貴様の来るのを待って御座った』
 と云ううちにチョット出て行きますと、瞬く間に五十両の金を作って来たのには驚きました。
『実は俺も生れてから四十五年、ここへ坐っったが、イヨイヨこのうちへ居ると四十六の年が取れん位、借金の下積したづみになっとる。ちょうど女房と子供が、実家さと餅搗もちつきの加勢にとるけに、この店をば慾しがっとる奴の処へて委任状と引換えに五十両貰うて来た。ついでに俺のバクチの弟子で女房のおととに当るチットばかり耳の遠い常吉つんしゅうという奴も、長崎へ行きたがっとるけに、今寄って誘うて来た。三人連れで長崎へて一旗揚げてみよう。異人相手の古道具ふるものは儲かる理窟を知っとるけに、大船に乗った気でいて来い』
 と云います。日本一アブナイ運の神様ですが、迷うておりました私は大喜びで、そこへボンヤリ這入って来た、今の話のツン州という若者わかてと三人で久し振りに前祝を一パイ遣って、夜汽車に乗って長崎へ来ました。

 ところで途中、湯町にも武雄(いずれも女の居る温泉場)にも引っかからず長崎へ着いて、稲佐いなさという処の木賃宿へ着いた迄は上出来でしたが、その頃の五十両というと今の五百円ぐらいには掛合いましたもので、三人とも長崎見物の途中から丸山の遊廓に引っかかって、チョットのつもりがツイ長くなり、毎日毎日チャンチャンチャンチャンと花魁船おいらんぶねを流しているうちに五十両の金が、溝鼠すいどうねずみのように逃げ散らかってしもうた。仕方なしにモトの木賃宿に帰って来ると泣面なきつらに蜂という文句通りに、大惣が大熱を出いて、煎餅布団をハネけハネけ苦しがる。今で云う急性肺炎じゃったろうと人は云いますが、お医者に見せるぜになぞ一文も在りませんけに、濡手拭ぬれてのごいで冷やいてやるばっかり。そのうちに大惣がクタビレて来たらしく、気味きびの悪いくらい静かになって来た。半分開いた眼が硝子ビイドロのゴト光って、頬ベタが古新聞のゴト折れ曲って、唇の周囲ぐるりが青黒うって、水を遣っても口を塞ぎます。洗濯板のようになった肋骨あばらぼね露出こっくりだいてヒョックリヒョックリと呼吸いきをするアンバイが、どうやら尋常事ただごとじゃないように思われて来ました。
 そのうちに夜が更けて二時か三時頃になります。背後うしろ山手やまのてでお寺の鐘が、陰に籠ってゴオオ――ンンと来ますと、私は、もうイカンと思いました。スヤスヤ寝入っとる大惣を揺り起いて耳に口を寄せました。
『……大惣……大惣……』
 大惣が返事の代りに私の顔をジイット見ます。
『貴様はモウ詰まらんぞ』
 何度も何度も大惣が合点合点しました。涙を一パイ溜めております。
『……イロイロ……セワニ……ナッタ……』
『ウム。そげな事あドウデモよかバッテン、イッソ死ぬなら俺へ形見ば遣らんか』
 大惣は寝たまま天井をジイッと見した。
『……シネバ……シネバ……何モイラン……何デモ遣ルガ……何モナイゾ……』
『ホンナ事に呉れるか』
『……ウム。オレモ……ダイ……大惣じゃ』
『よし、それなら云おう。貴様が死んだなら済まんが、貴様の生胆きもば呉れんか』
 大惣が天井を見たままニンガリと物凄く笑いました。
『ウム。ヤル。臓腑ひゃくひろデモ……睾丸きんたまデモ……ナンデモ遣ル。シネバ……イラン』
『よしっ。貰うたぞ。今……生胆きもの買手をば連れて来るケニ、貴様あ今にも死ぬゴトうんうん呻唸うめきよれや』
 大惣が今一度、物凄くニンガリしながら合点合点しました。私は直ぐに木賃宿を飛出しました。
 その頃は長崎に、支那人の生胆いきぎも買いがよく居りました。福岡アタリの火葬場にもよくウロウロしおりましたそうで……真夜中でも何でも六神丸の看板を見当てにしてタタキ起しますと、大抵手真似で話が通じましたもので、私は日本語のすこし出来る支那人チャンチャンを引っぱって木賃宿へ帰って来ました。
 その支那人チャンチャン体温計ねつはかり聴診器みみラッパを持って来ておりました。私とツン州と二人で感心して見ております前で、約束通りにウンウン呻吟うめきよる大惣の脈を取って、念入りに診察しますと病人の枕元で談判を初めました。
『この病人は明日あした正午ひる頃までしかたん。死骸を蒲団に包んで私のうちに担いで来なさい。高価たかく買います。私の店はこの頃開いた店じゃケニ高い。ほかのうちは皆安い。死骸の片付けも皆して上げます。頭毛かみげも首の骨もチャント取って上げます。生胆きものほかに胃腸いぶくろにつながっている小さい青い袋を附けて下されば七円五十銭。それがぬくうちに持って来なされば十二円五十銭……』
 支那チャンチャン坊主は掛値を云うものと思いましたケニ、思い切って大きく吹っかけました。
『イカンイカン。二十五円二十五円。一文も負からん。ほかの処へ持って行く。ほかに知っとる店がイクラでも在る』
『それなら十五円……』
『ペケペケ。絶対たくさんペケある。二十五円二十五円。アンタは帰れ。モウ話しせん』
 私は支那人の足下を見てしまいました。魚市場の伜だすけに物は云わせません。支那人チャンチャン坊主は未練そうに立上りかけました。
『そんなら十七円五十銭……ぬくいうち……』
『ウーム……』
 と私は腕を組んで考えました。ここいらが支那人チャンチャンの本音かなと思うておりますところへ、横から大惣が蒼白い手を伸べて私の着物の袖を引っぱりました。
『……ヤスイヤスイ……ウルナウルナ……』
『わたし。最早もう帰ります。十八円……いけませんか』
『ペケ……ペケ……オレノ……キモハ……フトイゾ……ペケペケ……』
『ええ。要らん事云うな。大惣……黙って呻吟うめきよれ』
『ウンウン。ウンウン。水ヲクレイ』
『ホラ。遣るぞ。末期まつごの水ぞ。唐人さんドウかいな。もう死によるが。早よう話をばきめんとほかの処へ持って行くがナ』
 とうとう支那人が負けて二十円で手を打ちまして、ほかの処へ持って行かぬように、五円の手附を置いて帰りました。
『ヤレヤレ。クタビレタ』
『ウンウン……ウンウン……スマンスマン……』
『モウ呻吟うめかんでもヨカ。御苦労御苦労。こちの方がヨッポド済まん。ところで済まんついでにチョット待っとれ。骨休めするケニ』
 私はその五円札を一枚持って飛出いて、近所の酒屋から土瓶に二杯、酒を買うて、木賃宿から味噌を一皿貰うて来ました。何しろ暫く飢渇かわいておったところですから、骨休めというので、ツン公と二人で燗もせぬ酒をグビリグビリやっております、とその横で大惣がウンウン唸り出しました。又、私の袖を引きますので五月蠅せからしい奴と思うて振向きますと、大惣の奴、熱で黒くなった舌をめずりまわしております。
『……オレ……モ……一パイ……ノム……』
『途方もない事をば云うな。馬鹿……その大病で酒を飲むチウ奴があるか。即死しまえてしまうぞ』
 大惣の落ちくぼんだ眼の色が変りました。涙をズウウと流しながら歯ぎしりをして半分起き上ろうとします。
『ソノ……サケハ……オレノ……キモノ……テツケジャ……。オレモ……ノム……ケンリ……ケンリガ……アル……』
 私は胸が一パイになりました。
『アハハハハ。これは謝罪あやまった。俺が悪かった悪かった。よしよし。わかったわかった。寝とれ寝とれ。サア飲め。ウント飲め。末期の水の代りに腹一パイ飲め……』
 そんな状態わけで、病人と介抱人が日本一の神様みたようになってグーグー眠ってしまいましたが、その中に大惣の声で……、
『オイオイ。湊屋。起きんか。モウ正午ひる過ぎぞ』
 と云うて私を揺り起しますので、ビックリして跳ね起きますと……ナント……大惣が起きて、私どもの枕元に座っております。神霊ごしんの上がったようなポカンとしたつらをしております。
『ウワア。貴様……起きとるとや』
『ウン。気持きしょくのええけに起きてみた』
『何や。……全快なおったとや』
『ウン。今、小便にて来たが、ちいっとばっかしフラフラするダケじゃ。全快ようなったらしい』
『ウワア……それは大変事おおごと出来でけとる。いま全快ようなっちゃイカン』
『イカンち云うたてチャ俺が困る』
『コッチも困るじゃないか。貴様の生胆きもの手附の金をばモウ崩いてしもうとる』
『何でもええ。貴様に任せる。生胆きもの要るなら遣る』
『馬鹿……今、貴様の生胆きもを取れあ、俺が懲役に行くだけじゃないか……おいツン州……大変事おおごとの出来たぞ』
『……芽出度めでたい……』
くらわせるぞ畜生。芽出度過ぎて運の尽きとるじゃないか』
『ドウすれあえかいな』
『仕様はない。逃げよう。支那人チャンチャンが来て五円戻せチュータてちゃ、あの五円札は酒屋から取戻されん。そんならチいうて大惣の病気をば今一度、非道ひどうなす訳には尚更行かん……よしよし……俺が一つ談判して来てやろう』
 それから木賃宿のオヤジに談判しますと、宿賃は要らん。大病人に死なれちゃタマラン。早よう出てくれいと云います。
 コッチは得たり賢しです。直ぐにヒョロヒョロの大惣をツン州の背中へ帯で十文字に結び付けて、外へ出ましたが、別段、どこへ行くという当ても御座いません。そのうちにフト稲佐の山奥へ、私の知っている禅宗坊主が居る事を思い出しまして、昨夜ゆんべの鐘の音は、もしやソイツの寺じゃないか知らんと気が付きました。何ともハヤ心細い、タヨリにならぬ空頼みをアテにして、足に任せて行くうちに、何しろ十二月も三十日か三十一日という押詰まっての事で、ピューピュー風に吹かれた大病人上りの大惣が寒がります。哀れなお話で、今にも凍え死にそうな色になって『寒い寒い』と云いますので、タッタ一枚着ておりました私の褞袍どてらを上から引っかぶせて、紅褌あかべこ一貫で先に立って、霜柱だらけの山蔭をお寺の方へ行きますと、暫く行くうちに、大惣は元来の大男で、ツン州の力が足らぬと見えて、十文字に縛った帯が太股ももどうに喰い込んで痛いと大惣が云い出しました。
 私はトウトウ腹が立ってしまいました。裸体はだかのままガタガタ震えながら大惣を呶鳴がみ付けました。
『太平楽くな。ええ。このケダモノが……何かあ。貴様がしにさえすれあ二十円取れる。市役所へ五十銭附けて届けれあ葬式は片付く。アトは丸山にて貴様の狃除なじみをば喜ばしょうと思うに、要らん事に全快ようなったりして俺達をば非道ひどい眼に合わせる。捕らぬ狸の皮算用。夜中三天のコッケコーコーたあ貴様ぬしが事タイ。それでも友達甲斐に連れて来てやれあ、ヤレ寒いとか、太股ももどうの痛いとか、太平楽ばっかり祈り上げ奉る。この石垣の下に捨てて行くぞ……エエこの胆泥棒きもぬすと……』
『ウ――ム。棄てるなら……助けると思うて……酒屋の前へ棄ててくれい。昨夜ゆうべ釣銭つるをば四円二十銭置いててくれい』
『ウハッ……知っとったか。外道げどうサレ』
 そんな事で向うの禅宗寺へ逃込みますと、有難いことにその和尚という奴が、博多の聖福寺しょうふくじから出た奴で、私たちの友達ですケニなかなか人物が出来でけております。
『ワハハハ。それは芽出度めでたい。人間そこまでてみん事には、世の中はわからん。よろしい引受けた。その支那人なら私も知ってる。ウチの寺へ石塔を建てて、その細工賃を一年ばかり石屋へ引っかけて、拙僧わしに迷惑をかけとる奴じゃ。ええ気味きびじゃええ気味じゃ。文句附けに来たら私が出てネジて上げる。心配せずに一杯飲みない。オイ。了念了念。昨夜ゆんべ般若湯はんにゃとうの残りがあろう。ソレソレ。それとあのギスケ煮(博多名産、小魚の煮干にぼし)の鑵を、ここへ持って来なさい』
 というたような事でホッと一息しました。その寺で大惣に養生をさせまして、それから三人で平戸の塩鯨の取引を初めましたのが運の開け初めで、長崎を根拠ねじろにして博多や下関へドンドン荷を廻わすようになりましたが、その資本もとでというたなら、大惣の生胆いきぎも一つで御座いました。人間、酒と女さえ止めれば、誰でも成功するものと見えますナア。ハハハハ……」

 湊屋仁三郎の逸話は、この程度のものならまだまだ無限に在る。仁三郎の一生涯を通ずる日常茶飯が皆、是々的このてで、一言一行、一挙手一投足、ことごとく人間味に徹底し、世間味を突抜けている。哲学に迷い、イデオロギイに中毒して、神経衰弱を生命いのちの綱にしている現代の青年が、百年考えても実践出来ない人生の千山万岳をサッサと踏破り、飄々乎ひょうひょうことして徹底して行くのだから手が附けられない。もしそれ百尺竿頭かんとう、百歩を進めた超凡越聖ちょうぼんおっしょう絶学ぜつがく無造作裡むぞうさりに、かみは神仏のあご蹴放けはなし、しもは聖賢の鼻毛を数えるに到っては天魔、鬼神も跣足はだしで逃げ出し、軒の鬼瓦も腹を抱えて転がり落ちるであろう。……こうした湊屋仁三郎一流の痛快な消息のドン底を把握し、神経衰弱の無限の乱麻を一刀両断しようと思うならば請う、刮目かつもくして次回を読め!

 諸君は博多二輪加にわかの名を御存じであろう。御覧にならない方々のためにチョッと知ったか振りを御披露申上げておくが、博多二輪加の本領というものは、東京の茶番狂言や、大阪二輪加なぞと根本的に仕組みの違ったもので、一切の舞台装置や、台本なぞいう面倒なものの御厄介にならない。普通在来の着のみ着のままに、半面めかつらをかけて舞台に上るなり、行きなり放題の出会い頭にアッと云わせたり、ドッと笑わせたりするのがこのニワカ芸術の本来の面目である(註曰――現在では台本や装置、扮装にって、単に普通の喜劇を、博多言葉に演ずる程度にまで堕落してしまっている)。だから本来の博多仁輪加では、その出演者同志がお互いに、人生、人情、世態に通暁徹底していなければいけない。お互いに舞台上の演出効果――蔭の花を持たせ合って、かさず舞台気分を高潮させ合い、共同一致のファインプレイを演出し合うだけの虚心坦懐さがなければ仁輪加の花は咲かない。この生活苦と、仁義、公儀の八釜やかましい憂世うきよを三分五厘に洒落しゃれ飛ばし、かみは国政の不満から、しも閨中けいちゅう悶々事もんもんじに到るまで、他愛もなく笑い散らして死中に活あり、活中死あり、枯木に花を咲かせ、死馬に放屁せしむるていの活策略の縦横無礙むげなものがなくては、博多仁輪加の軽妙さが生きて来ないのである。
 湊屋の大将こと、篠崎仁三郎は、その日常の生活がことごとくノベツまくなしの二輪加の連鎖であった。浮世三分五厘、本来無一物の洒々落々しゃしゃらくらくを到る処に脱胎だったい、現前しつつ、文字通りに行きなりバッタリの一生を終った絶学、無方の快道人であった。古今東西の如何なる聖賢、英傑といえども、一個のミナト屋のオヤジに出会ったら最後、鼻毛を読まれるか、顎骨あごぼね蹴放けはなされるかしない者は居ないであろう。試みにす。看よ。
 前回の通り、親友の生胆いきぎも資本もとでにして、長崎の鯨取引に成功した湊屋仁三郎は、生れ故郷の博多に錦を? 飾り、漁類問屋をやっているうちに、日露戦争にぶっつかり、奇貨おくべしというので大倉喜八郎の牛缶にならって、軍需品としての魚の缶詰製造を思い立ったが、慣れない商売の悲しさ、缶の製造業者に資本を喰われて、忽ち大失敗の大失脚。スッテンテンの無一物となった三十八年の十一月の末、裾縫すそぬいの切れた浴衣一枚で朝鮮に逃げ渡り釜山ふざん漁業組合本部に親友林駒生こまお氏を訪れた。林駒生氏は本伝第二回に紹介した杉山茂丸氏の末弟で、令兄とは雲泥、霄壌しょうじょうただならざる正直一本槍の愚直漢として、歴代総督のお気に入り、御引立を蒙っていた統監府の前技師であった。はその直話である。
「ヨオ。仁三郎か。よく来た……と云いたいが何というザマだ。この寒いのに浴衣一枚とは……」
「ウム。おらあ途方もない幽霊に附纏われた御蔭で、この通りスッテンテンに落ぶれて来た。何とかしてくれい」
「フウン。幽霊……貴様の事ならイズレ女の幽霊か、かねの幽霊じゃろ」
「違う。金や女の幽霊なら、お茶の子サイサイれ切っとるが、今度の奴は特別あつらえの日本の水雷艇みたような奴じゃ。流石さすがのバルチック艦隊も振放しかねて浦塩うらじおのドックに這入り損のうとる。その執拗しつこい事というものは……」
「フウン。そんなに執拗い幽霊か」
「執拗いにも何も話にならん。トテモ安閑として内地にはられん」
「一体何の幽霊かいね」
「缶詰の幽霊たい。ほかの幽霊と違うて缶詰の幽霊じゃけに、いつまでも腐らん。その執拗い事というものは……呆れた……」
 愚直な林氏はここに於て怫然ふつぜん色をした。
「一体貴様は俺をヒヤカシに来たのか。それとも助けてもらいに来たのか」
「正真正銘、真剣に助けてもらいに来たのじゃないか。これ見い。この寒空に浴衣のお尻がバルチック艦隊……睾丸のロゼスト・ウイスキー閣下が、白旗の蔭で一縮みになっとる。どうかして浦塩更紗うらじおさらさのドックに入れてもらおうと思うて……」
「馬鹿……大概にしろ。この忙しい事務所に来て、仁輪加を初める奴があるか……」

 しかし篠崎仁三郎はどこへ行ってもこの調子であった。魚市場の若い連中が何かの原因でストライキを起して、幹部連中が持てあましている場面でも湊屋仁三郎が出て行くと一ペンに大笑いになって片付いた。
「貴様は○○のような奴じゃ。撫でれば撫でる程、イキリ立って来る。見っともない」
 結局、彼にとっては人間万事が仁輪加の材料でしかなかった。事窮すれば窮するほど上等の仁輪加が出来るだけの事であった。彼は洒々落々の博多児はかたっこ生粋きっすい、仁輪加精神の権化であった。
 太閤様を笑わせ、千利休を泣かせるのは曾呂利そろり新左衛門に任す。白刃上に独楽こまを舞わせ、扇のかなめに噴水を立てるのは天一天勝てんいちてんかつに委す。木仏、金仏を抱腹させ、石地蔵を絶倒させるに到っては正に湊屋仁三郎の日常茶飯事おてのものであった。更にす。看よ。

 やはり湊屋仁三郎が一文無し時代の事。連日の時化しけで商売は出来ず、仕様ことなしに、いつも仲好しの相棒と二人で、博多大浜の居酒屋へ飛込んだ。無けなしのぜにをハタキ集めてやっと五合ます一パイの酒を引いたが、サテ、酒肴さかなを買う銭が無い。向うの暗い棚の上には、章魚たこの丸煮や、蒲鉾の皿が行列している。鼻の先の天井裏からは荒縄で縛った生鰤ぶり半身かたみが、森閑とブラ下っているが、無い袖は振られぬ理窟で、五合桝を中に置いて涙ぐましく顔を見交しているところへ天なる哉、小雨の降る居酒屋の表口に合羽かっぱ包みの荷をおろした一人の棕梠箒売しゅろぼうきうりが在る。
 元来この棕梠箒売という人種は、日本中、どこへ行っても他国たびの者が多い。従ってどことなく言葉癖が違っている上に、根性のヒネクレた人間が珍らしくない。仁輪加なんか無論わかりそうにないノッソリした奴が多いのであるが、その中でも代表的と見える色の黒い、逞ましそうな奴が、骰子さいの目に切った生鰤ぶり脂肉あぶらにく生姜しょうが醤油に漬けた奴を、山盛にした小丼を大切そうに片手に持って、
「ええ。御免なはれ」
 と這入って来た。唖然として見惚みとれている仁三郎とその相棒を尻目にかけ、くだんの小丼を仁三郎の背後のバンコに置き、颯爽さっそうとして奥へ這入り、店の親爺おやじを捉まえて商売物の棕梠箒で棕梠ハタキを押付けて酒代にすべく談判を始めた。ところがその居酒屋の親爺なる人物が又、人気の荒い大浜界隈でも名打ての因業いんごうおやじでナカナカそんな甘手あまて元手喰式さやくい慣用手段いんちきに乗るおやじでない。ヤッサ、モッサと話が片付かぬうちに二人は、代る代る手を出して背後うしろの小丼の中味をつまんだ。
「ハハン。この家のおっさんのガッチリして御座るのには呆れた。両方儲かる話が、わからんチウタラ打出の小槌でたたいてもぜぜの出んアタマや……ハハン。買うて下はらぬ位なら他の店へ行くわい」
 とか何とか棄科白すてぜりふで、大手を振って棕梠箒売が引返して来た時には、小丼の中にはモウ濁った醤油と、生姜の粉が、底の方に淀んでいるだけであった。
 箒売は土間の真中に突立ったまま唖然となって、上機嫌の二人を眺めておった……が、やがてガラリと血相を変えると、知らん顔をして指をめている仁三郎に喰ってかかった。
「……アンタ等は……ダ……誰に断って、このさかなをば、つまみなさったカイナ」
 湊屋がゲラゲラ笑い出した。
「アハハ、途方もない美味うまか鰤じゃったなあ。ホーキに御馳走様じゃった。まず一杯差そうと云いたいところじゃが、赤桝ますの中はこの通り、逆様さかさまにしても一しずくも落ちて来んスッカラカン……アハハハハ。スマンスマン……」
 真青になって腕を捲くった箒売が、怒髪天をいた。
「済まんで済むか。切肉きりみを戻せッ」
 仁三郎は柔道の免許取りであっただけにチットも驚かなかった。
「イヤ、悪かった。猫に干鰯ほしかでツイ卑しい根性出いたのが悪かった」
「この外道等……訳のわからん文句を云うな。ヌスット……」
「イヤ。悪かった悪かった。冗談云うて悪かった。博多の人間もんなら仁輪加で笑うて片付くが、他国たびの人なら腹の立つのも無理はない。悪かった悪かった。ウチまで来なさい。返済まどうてやるけに。ナア。この通り謝罪ことわり云うけに……」
 元来が温厚な仁三郎は、見ず知らずの箒売の前に鉢巻を取って平あやまりに謝罪あやまった。
「貴様のうちまで行く用はない。金が欲しさに云いよるのじゃないぞ。今喰うた切肉きりみを元の通りにして返せて云いよるとぞ」
 押が強くて執念深いのが箒売の特色である。その中でも特別あつらえの奴と見えて、相手は二人と見てもひるまなかった。因縁を附けてイタブリにかかる気配であった。
他国たび人間もんと思って軽蔑するか。一人と思うて侮るか。サア鰤をば返せ。返されんチ云うなら二人とも警察まで来い。サア来い」
「まあ待ちなさい。チャンと話は附ける。ブリな事をば云いなさんな」
「又仁輪加を云う。何がブリかい。その仁輪加を警察へ来て云うて見い。サア来い」
 湊屋の相棒は市場名物の短気者であった。
「ええ。面倒な。鰤さえ返せば文句はないか」
 と云ううちに、店の天井からブラ下っていた鰤の半身かたみを引卸して、片手ナグリに箒売を土間へタタキ倒した。
「持ってせれ外道サレエ。市場おおはまの人間を見損のうたか」
 箒屋は剣幕に呑まれたらしい。鰤の半身かたみも、持って来た丼もそのままに起上たちあがって、棕梠箒の荷を担いで逃げて行く奴を、追い縋った相棒が引ずり倒してポカポカと殴り付けた。商売物の箒が泥ダラケになってしまった。
 その間に湊屋は黙って鰤の半身かたみを拾ってモトの天井の釘へブラ下げるのを、居酒屋の因業おやじが奥から見ていたらしい。イキナリ飛出して来て仁三郎の前に立ちはだかった。
「その鰤は商売あきない物ばい。黙って手をかけたからには、そのままには受取れん」
 仁三郎は返事をしないままその鰤の半身かたみをクフンクフンと嗅いでみた。
親爺とっさん、悪い事は云わん。この鰤は腐っとるばい。こげな品物もんば下げておくと、喰うたお客の頭の毛が抜けるばい」
「要らん世話たい。腐っておろうがおるまいがこっちの品物じゃろうが、ぜにを払え銭を……」
「ナニ。貴様もこの鰤が喰いたいか」
 帰って来た相棒が割込んで来たのを仁三郎が慌てて押止めた。
「まあまあそう因業な事をば云いなさんな。折角の喧嘩が又ブリ返すたい」
「その禿頭はげあたまをタタキ割るぞ畜生」
「止めとけ止めとけ。タタキ割っても何にもならん。腐ったブリが忘れガタミじゃ詰らん」
 この洒落がわかったらしい。親爺が、眼をグルグルさしたまま黙って引込んだ。
 二人は連立って店を出た。
「ああ、久しブリで美味うまかった」
「俺もチイッと飲み足らんと思うておったれあ、今の喧嘩でポオッとして来た。二合ぶりぐらいあったぞ、箒売のアタマが……オット今の丼をば忘れて来た」
「馬鹿な。置いとけ置いとけ。ショウガなかろう」
 飄逸、洒脱、繊塵せんじんを止めず、風去って山河秋色深し。更にす。看よ。

 仁三郎の友人に水野某という青物問屋の主人があった。その又二人の友人で又木某という他県人の青物仲買人があった。その又木某は身寄タヨリのない全くの独身者ひとりもので、兼てから湊屋仁三郎と水野某を保証人として何千円かの生命保険に加入していた。又木いわく、
「俺は篠崎にも水野にも一方ひとかたならぬ世話になった。俺のうちは代々胃癌で死ぬけに、俺も死ぬかも知れぬ。それで万一俺が死んだなら一つ頼むけに俺の葬式をしてくれい。ナア」
 涙もろい二人は喜んで証書に印判をしたものであった。もとより無学文盲の二人の事とて、法律の事なんか全く知らず、盲判めくらばんも同然で金額なども全然忘れたまま仲よく交際していた。
 ところがどうした天道様の配り合わせか、間もなくその又木が四十五歳を一期として胃癌で死んだ。お蔭で思いがけない巨額の金が、二人のふところに転がり込んだので二人は少なからず面喰った。
「何でも構わぬ。約束は約束じゃ。出来るだけ賑やかに葬式をしてやれ」
 というので立派な石塔を建てた上に永代回向えこう料まで納めてしまったが、それでも余った相当の金額を持ってソンナところは無暗むやみに義理固い篠崎、水野の両保証人が、又木の本籍地へ乗込んだ。色々身よりを探しまわって又木の後を立てるべく苦心したが、その又木のアトがどうしてもわからない。そこで……これでは詰まらん博多へ帰ろう。又木の菩提追福のためにこのかねを潔く女共へ呉れてしまおう……というので仕事の休みついでに柳町に押上り、あらん限りの太平楽を並べて瞬く間に残金を成仏させて帰った。そうして帰ると直ぐに二人で一パイ飲んだ。
「ああ清々した。しかし水野、保険というものはええものじゃねえ」
「ウン。こげな有難いもんたあ知らんじゃった。感心した。又誰か保険に加入はいらんかな」
「おお。そういえばあの角屋の青柳喜平はまあだ三十四五にしかならんのに豚のごとブクブク肥えとる。百四五十きん位あるけに息が苦しいとこの間自分で云いよった。あの男なら四十位になると中風ちゅうきでコロッと死ぬかも知れんぜ」
「うむ。アイツの親爺おやじも中気で死んどる。彼奴あいつは保険向きに生れとる事をば、自分でも知らずにいるに違いない」
「貴様は何でも勧め上手じゃケニ一つて教えてやい」
「ウン。よかろう。う。今から行て来う。善は急げ……」
「今度は又木の三倍ぐらい掛けてやい」
「ウン。飲みながら待っとれ。帰りに今少まちっと、さかなば提げて来るけに……」
 青柳喜平というのは当時から福岡の青物問屋でも一番の老舗しにせ双水執流そうすいしつりゅうという昔風の柔道の家元で、武徳会の範士という、仁三郎には不似合いな八釜やかましい肩書附の親友であった。現、角屋の三右衛門氏の養父、現画伯、青柳喜兵衛あおやなぎきべい氏の実父。若くして禅学に達し、聖福寺しょうふくじ東瀛とうえい禅師、建仁寺の黙雷和尚もくらいおしょうに参し、お土産に宝満山の石羅漢の包みをひっさげて行って京都の俥屋くるまやと、建仁寺内を驚かした。日露戦争の時の如き、福岡聯隊の依頼に応じて、露西亜ロシア俘虜ふりょの中でも一番強力な暴れ者を猫の前の鼠の如くならしめたという怪力、怪術無双の変り者で、筆者ともかなり心安かったので自然この話を同氏の直話として洩れ聞いた訳である。
 喜平氏は親友湊屋仁三郎の使者つかいとして同業の水野が、白足袋などを穿いて改まって来たので、何事か知らんと思って座敷に上げた。ちょうど時分がよかったので午餐ごさんまで出して一本けた。
 水野は遠慮なく厄介になりながら熱心に説去ときさ説来とききたったが、聞き終った青柳喜平氏は米搗杵こめつききねみたいな巨大な腕を胸の上に組んだ。
「ウムウム。成る程成る程。よう解かった。如何にも貴様の云う通り人間は老少不定ふじょう。いつ死ぬるかわからん。俺の親父おやじも中気で死んどるけに血統すじを引いた俺も中気でポックリ死なんとは限らん。実はこの頃、肥り過ぎて子供相手に柔術やわらが取れんので困っとる。技術わざに乗ってやれんでのう」
「ウン。それじゃけに今のうちに保険に入れと……」
「まあ待て待て。それは良う解かっとる。這入らんとは云わん」
「有難い。流石さすがは青柳……」
「チョチョチョッと待て……周章うろたえるな。そこでタッタ一つ解らん事がある」
「何が解らんかい。これ位わかり易い話はなかろう」
「さあ。それが解からんテヤ。つまりその俺がポックリ死んだなら、取れた保険の金は貴様達二人が貰われるように、証文をば書いておけと云いよるのじゃろう」
「その通りその通り。貴様は話がようわかる」
「そんならその保険に掛ける金は、誰が掛けるとかいネエ。貴様達が掛けるか……」
「馬鹿云え。知れた事。貴様の保険じゃけに、貴様が掛けるにきまっとるじゃないか」
「……馬鹿ッ……帰れッ……」
 青柳に大喝された水野は、上り口から飛降りて、下駄を提げたまま二三町無我夢中で走った。その白足袋を宙に舞わして逃げて行った恰好が、今思い出しても可笑おかしいと青柳喜平氏は筆者に語った。
しからん親友もあればあるものです。私が肥っているのを見て煮て喰いとうなって保険のなべに這入れとすすめに来る奴です。彼奴等あいつらの無学文盲にも呆れました」
 吉報を待ってチビリチビリやっていた仁三郎は、門口から悄然しょうぜんと何か提げて這入って来た水野を見てビックリした。
「どうしたとや。何をば提げて来たとや」
 水野は黙って下駄を出して見せた。頭を掻きながらタメ息をいた。
「詰まらん。青柳は知っとる」
 篠崎もソレとわかって長大息した。
「そうか。知っとっちゃ詰まらん」
 末後の一句、甚だ無造作。本来無一物。尻喰けつくらえ観音である。こうなると人格も技養もない。日面仏。月面仏。達磨だるまさん。ちょとコチ向かしゃんせである。更にす。看よ。

 前述の朝鮮、漁業組合長、林駒生氏は朝鮮第一の漁業通であり且、水産狂である。いやしくも事水産に関する話となると、身分の高下、時の古今、洋の東西を問わない。尽くタッタ一人で説明役にまわって滔々とうとう数時間、乃至ないし、数十日間に亘り、絶対に他人に口を入れさせないので、歴代の統監、農林、商工の各大臣、一人としてけむに捲かれざるなく、最少限、朝鮮沿海に関する問題については、視察に来る内地の役人を尽く馳け悩まして、一毫も容喙ようかいの余地なからしめた。或る材木商の如きは、同氏に話込まれたために新義州の材木に手附を打ち損ね、数万円の損害を受けたという程の雄弁家である。
 その林駒生氏が嘗てこれも座談の名士として聞えた長兄、杉山茂丸氏と福岡市吉塚三角在みすみざい、中島徳松氏の別荘に会し、久濶きゅうかつじょし、夕食の膳に就いた。同席のお歴々には故八代大将、前九大教授武谷医学博士、福岡随一の無鉄砲有志、古賀壮兵衛氏、現釜山ふざん日報主筆、篠崎昇之助氏、その他、水茶屋みずぢゃや券番けんばんの馬賊五人組芸者として天下に勇名を轟かしたおえん、お浜、お秋、お楽、等々その中心の正座が勿体なくも枢密院顧問、八代大将閣下であっただけに極めて厳粛なはしの上げおろしで、話題は八代閣下の松葉の食料法を武谷博士、林駒生氏が固くなって謹聴し、記者として列席していた筆者がシキリにノートを取っている……といった場面であったように思う。
 ところへ表のドアがガラリと開いて、湊屋の仁三郎が這入って来た。春雨に濡れた問屋張といやばりの傘を畳んで、提げて来た中鯛を五六匹土間に投出したスタイルは、まことに板に附いたもので、浴衣の尻を七三に端折はしおった素跣足すはだしである。親友の林駒生氏が振返って声をかけた。
「おお。湊屋じゃないか。この寒いのに風邪を引くぞ」
 湊屋は頬冠ほおかむりを取って手を振った。
「イカンイカン。これは医学博士でも知らん。自動車に乗る人間には尚更わからん。日本人一流、長生きの法たい」
「今その長生き話が出とるところじゃ。貴公の流儀を一つ説明してみい」
「説明もヘッタクレもあれあせん。雨の降る日に傘さいて跣足はだしで歩きまわれば、それで結構……そこで『オオ寒む』とか何とか云うてこの中鯛で一杯飲んでみなさい。明日あした死んでも思い残す事あない」
「アハハハ。賛成賛成」
 武谷博士が妙な顔をした。けだし、同博士は同大学切っての謹厳剛直の士で、何事に限らず科学的に説明の出来ないものは一毫も相容れない性分であったので、八代大将の松葉喰いの話で少々おかんむりを曲げて御座るところへ、湊屋一流の無学文盲論が舞込んで来たのでまさか議論の相手にもならず、ますます御機嫌が傾いた次第であった。しかし湊屋仁三郎は博士であろうが元帥げんすいであろうが驚ろかなかった。サッサと裏へ廻って足を洗って上って来た。
「ヘエ。皆さん。今晩は……今台所の婆さんに洗わせよる、昨夜ゆんべまで玄海沖で泳ぎよった魚じゃけに、洗いに作らせといた」
「ちょうど今長生きの話が出とるところじゃったが、ええところへ来た。貴公なんぞは長生きの大将と思うが……そんな気持ちはせんか」
 と杉山茂丸氏が水を向けた。
「ハハハ。人間はアンマリ長生きせん方がえと思いますなあ。人間一代山は見えとる。長生きしようなんて考えるだけで寿命が縮まるなあ。八代さん。美味うまい酒をば飲むだけ飲うで、若い女子こどもは抱くだけ抱いて、それでも生きとれあ仕様がない。又、明日あしたの魚はるだけの話たい……なあ武谷先生……」
 八代閣下と武谷博士がグウとも云えないまま苦々しい顔になった。社交家の杉山茂丸氏がかさず話題を転じた。鍋の中でグツグツ煮えている鯨のスキ焼の一片を挟み上げて令弟、林駒生技師に提示した。
「オイ。駒生。この肉は鯨の全体でドコの肉に当るのかね」
 サア事だ。林水産狂技師の得意の話題に触れたのだ。油紙に火が附いた以上の雄弁の大光焔がどうして燃上らずにおられよう。八代大将の松葉も、湊屋仁三郎の短命術も太陽の前の星の如くに光を失わずにはおられなかった。
「そもそも鯨というものは」……というのでがい一咳。先ず明治二十年代の郡司大尉の露領沿海州荒しから始まって、肥後の五島列島から慶南、忠清、咸竟かんきょう南北道、図們江ツーメンキャン、沿海州、樺太からふと、千島、オホーツク海、白令ベーリング海、アリュウシャン群島に到る暖流、寒流の温度百余個所をノート無しでスラスラと列挙し、そこに浮游する褐藻かっそう緑藻りょくそうの分布、回游魚の習性を根拠とする鯨群の遊弋ゆうよく方向に及び、日本の新旧漁法をスカンジナビヤ半島の様式に比較し、各種の鯨の肉、骨、臓器、油の用途、価格、販路、英領加奈陀カナダとの競争状態といったような各項に亘って無慮、数千万語、手を挙げ眉をばして熱弁する事、約二時間半、夕食が終って、電燈がいてもまだ結論が附かない。やっと二度目のお茶が出てから、
「今の鯨の肉は、鯨の尾の附根に当る処で、肉の層がアーチ型になっている処です。鯨肉の中でも極上飛切とびきりの処で、小鳥や牛肉でも追付かない無上の珍味だったのです」
 という結論が附いた。しかし残念な事にこの時には流石さすがに謹厳剛直の国家的代表者、八代大将閣下も、武谷広博士も完全に伸びてしまっていた。勿論、二人とも最初は林技師の蘊蓄うんちくの物凄いのに仰天して膝を乗出して傾聴していたものであったが林技師大得意のスカンジナビヤ半島談あたりからポツポツ退屈し初めたらしく、二人ともアンマリ欠伸あくびを噛み殺して来たためにスッカリ涙ぐんでしまっていた。令兄の杉山茂丸氏の如きは、そのズッと以前から後悔のほぞを噛んでいたらしい。警告の意味で、故意と声を立てて大きな欠伸あくびを連発していたが、それでも白浪を蹴って進む林技師の雄弁丸が、どうしてもSOSの長短波に感じないので、とうとう精も気魄きはくも尽き果てたらしく、ゴリゴリと巨大なイビキを掻き始めた。それを笑うまいとしている芸者連が、必死にハンカチで口を押えている始末……。
 しかし林技師の雄弁丸は物ともせずにグングンスチームを上げて行った。俄然がぜんとして英領加奈陀カナダの缶詰業に火が移った。続いて露領沿海のタラバ蟹に延焼し、加察加カムサッカの鮭、にしん宛然さながら燎原りょうげんの火の如く、又は蘇国ソヴェートの空軍の如く、無辺際の青空に天翔あまかける形勢を示したが、その途端、何気なく差した湊屋の盃を受けて唇に当てたのが運の尽き、一瞬のうちに全局面を、無学文盲の親友にさらわれてしまった。
「フウム。これは感心した。日本中で鯨の事を本格に知っとるもんなら私一人かと思っておったが、アンタもいくらか知っとるなあ」
「失敬な事を云うな仁三郎。林駒生はこれでも総督府の技師だ。事、水産に関する限り、知らんという事は只の一つも無いのが職分だぞ。そのために中佐相当官の待遇を……」
「ふむ。わかったわかった。それなら聴くがアンタは鯨の新婚旅行をば、見なさった事があるかいな」
「ナニ。鯨の新婚旅行……」
 芸妓げいしゃ連中が一斉に爆笑した。八代、武谷両聖人が今更のように眼をパチクリして湊屋の顔を凝視しているところへ、いびきを掻き止めた令兄杉山茂丸氏がムクムクと起上って、赤い眼をコスリコスリ、
「ハハア。新婚旅行……誰が……」
 と云ったので今一度、爆笑が起った。
 林水産技師は憮然として投出した。
「……そんなものは……見ん……元来鯨は……」
「それ見なさい。知るまいが。イヤ。それは大椿事おおごとですばい。鯨の新婚旅行チュータラ……」
 と仁三郎が間髪を容れず引取った。
「イヤ。トテモ大椿事おおごとですばい。アンタ方は知りなさるまいが、鯨はアレで魚じゃない。獣類けだものですばい」
「ウム。それはソノ鯨は元来哺乳類……」
「まあ待ちなさい。それじゃけに鯨は人間と同じこと、三々九度でも新婚旅行でも何でもする。私ゃ大事な研究と思うたけに、実地について見物して来た。しかも生命いのちがけで……」
「アラ。まあ。アンタ見て来なさったと……」
「お前たちに見せてやりたかったなあ。その仲のえ事というものは……お前たちは人間に生れながら新婚旅行なんてした事あるめえ」
「アラ。済まんなあ。新婚旅行なら毎晩の事じゃが」
「アハハ。きなはれ。阿呆あほらしい」
「阿呆らしいどころじゃない。権兵衛が種蒔きなら俺でも踊るが、鯨のタネ蒔きバッカリは真似が出来ん。これも学問研究の一つと思うて、生命いのちがけでにきへ寄って見たが、その情愛の深いことというもんなア……あの通りのノッペラボーの姿しとるばってん、その色気のある事チュタラなあ。ちょっとこげな風に(以下仁三郎懐手ふところでをして鯨の身振り)」
「アハハハハ……」「イヒヒヒ」
「オイ仁三郎……大概にせんかコラ……」
「海の上じゃけに構わん。牡も牝もよだれを流いて……」
「アラッ。まあ。鯨が涎をば流すかいな……」
「流すにも何にもハンボン・エッキスちうて欝紺色うこんいろのネバネバした涎をば多量したたかに流す」
「……まあ。イヤラシイ。呆れた」
「ハンボン・エキス……ハハア。リウマチの薬と違いますか」
 と武谷博士が大真面目で質問した。
「違います……そのハンボン・エキスのくさい事というたなら鼻毛が立枯れする位で、それを工合良うビール瓶に詰めて、長崎の仏蘭西フランス人に売りますと、一本一万円ぐらいに売れますなあ。つまり世界第一等の色気の深い香水の材料たねになります訳で、今の林君の話のスカン何とかチュウ処の鯨よりも日本の鯨の新婚旅行の涎の方が何層倍、濃厚みごいそうで……」
「オイオイ仁三郎……ヨタもいい加減にしろ」
 林技師がタマリかねて口を出した。
「ヨタでも座頭唄でもない。仏蘭西の香水は世界一じゃろうが」
「……そ……それはそうだが……」
「それ見なさい。それは秘密に鯨の涎をば使いよるげに世界一たい。自分の知らん事あ、何でも嘘言ソラゴトと思いなさんな」
「……フーム。何だか怪しいな」
「怪しいにも何も、私は、そのヨダレが欲しさに生命いのちがけでモートル船に乗っていて行きましたが、そのうちに又、世界中で私一人しか知らん奇妙な魚類さかなをば見付けました」
「フーン。そんな魚がるかな」
「居るか居らんか、私も呆れました。鯨の新婚旅行に跟随ついて行く馬鹿者が私一人じゃないのです。ちょうど大きなさめのような恰好で、鯨の若夫婦のアトになりサキになり、どうしても離れません。鯨の二匹が、私の船を恐れて水にくぐっても、その青白い鮫の姿を目当てに行けば金輪際、見のがしません」
「ウーム。妙な奴が居るものだな」
「アトから古い漁師に聞いてみましたら、それは珍らしいものを見なさった。それはやっぱり鮫の仲間で、鯨の新婚旅行には附き物のマクラうおチウさかなで……」
「馬鹿。モウ止めろ。何を云い出すやら……」
「イイエ。決して嘘は云いまっせん。生命いのちがけで見て来たのですから。これからがモノスゴイので……私はそのマクラ魚を見た時に感心しました。流石さすがに鯨はケダモノだけあって何でも人間と同じこと……と思って、なおも一心になっていて行くうちに夜になると鯨の新夫婦がなみの上で寝ます。青海原の星天井で山のような浪また浪の中ですけにうがすなあ……四海浪しかいなみ、静かにてエー……という歌はここの事ばいと思いましたなあ。しかし何をいうにもあの通りのノッペラボー同志ですけに浪の上では、思う通りに夫婦の語らいが出来でけまっせん。そこで最初さいぜんからいて来たマクラ魚が、直ぐに気を利かいて枕になってやる……」
「アハハハハ。馬鹿馬鹿しい」
「アハアハアハアハ。ああ苦しい。モウその話やめてエッ」
「イヤ。笑いごとじゃありません。鮫というさかなは俗に鮫肌と申しまして、うろこすべらんように出来ておりますけに、海の上の枕としては誠におあつらえ向きです。しかし何をいうにも何十ひろという巨大おおきな奴が、四方行止まりのない荒浪あらうみの上で、アタリ憚からずに夫婦の語らいをするのですから、そこいら中は危なくて近寄れません。大抵の蒸気船や水雷艇ぐらいは跳ね散らかされてしまう。岸近くであったら大海嘯おおつなみが起ります。その恐ろしさというものは、まったくの生命いのちがけで、月明りをタヨリに、神仏かみほとけ御名おんなを唱えながら見ておりましたが……」
「……ああ……ああ……もうソノ話やめて……あたしゃ……あたしゃ死ぬるッ……」
「それから夫婦とも波の上で長うなって夜を明かしますと又、勇ましく潮を吹いて、鰯の群をいかけ逐いかけサムカッタの方へ旅立って行きます」
「サムカッタじゃない。カムサッカだろう」
「あっ。そうそう。何でも寒い処と思いました。ヒョットすると鯨の若夫婦が云うたのかも知れません。ネエちょいと……昨夜ゆんべはカムサッカねえ……とか何とか……」
「馬鹿にするな」
「そこで感心するのは今のマクラ魚です。若夫婦の新婚の夜が明けますとコイツが忽ち大活躍を始めますので、若夫婦の身のまわりにザラザラした身体からだをコスリ付けて、スッカリ大掃除をしながら、アトからいて行きます、つまるところこのマクラ魚という奴は鯨の新婚旅行が専門に生れ付いた魚で、枕になってやったりあとの掃除をしてやったりしながら、カムサッカでもベンガラ海でもアネサン島のはてまでも、トコいとやせぬという……新婚旅行のお供がシンカラ好きな魚らしいですなあ」
 爆笑。又爆笑。狂笑。又死笑。皆、頭を抱え、畳の上を這いまわって笑い転げた。流石さすがの謹厳な八代大将も総義歯いればをハメ直しハメ直し鼻汁はなと涙を拭い敢えず、苦り切ってシキリに汗を拭いていた武谷博士も、とうとう落城してニヤリとしたのが運の尽き。しまいにはアンマリ笑い過ぎて眼鏡の玉の片方をなくする始末。そのうちにタッタ一人林技師が如何にも不満そうにグビリグビリと手酌でやっているのを見た人の悪い令兄が、
「オイ。駒生。何とか註釈を入れんか」
 と嘲弄したが、林技師が額の生汗なまあせを拭いて坐り直した。
「ハイ。註釈の限りではありません」
 と云ったので満座又絶倒……。

 かくして篠崎仁三郎の名は、次第次第に博多ッ子の代表として、花川戸の助六や、一心太助の江戸ッ子に於けるソレよりも遥かにユーモラスな、禅味、俳味を帯びた意味で高まって行った。
 どんな紛争事件もめごとでも仁三郎が呼ばれて行くと間違いなく大笑いに終らせる。しかも女出入り。金銭出入かねでいり。縄張りの顔立てなぞに到るまで、決して相手を高飛車にキメ附けるような侠客きょうかく式の肌合いを見せない。そうかといって下手したてに出て御機嫌を取ったり、ヨタを飛ばして煙に巻いたりするような小細工もしない。いつもザックバランの対等の資格で割り込んで行って、睨み合い同志の情をつくさせ、義をつくさせて、相互の気分にユトリを作らせ、お互い同志が自分の馬鹿にウスウス気付いたところを見計みはからってワッと笑わせて、万事OKの博多二輪加にして行く手腕に至っては、制電せいでんの機、無縫むほうの術、トテモ人間わざとは思えなかった。通夜の晩などに湊屋が来ると、棺の中の仏様までも腹を抱えるという位で、博多魚市場の押しも押されもせぬ大親分として、使っても使っても使い切れぬかねが、二三万も溜まっていようかという身分になった。そうして篠崎仁三郎の一生はイトも朗らかに笑い送られて行ったのであった。

 しかも天の配剤というものは誠に、どこまで行き届くものかわからないようである。その篠崎仁三郎の一生が、あまりにも朗らかであり過ぎたために、その五十幾歳を一期として死んで行く間際に当って一抹の哀愁の場面が点綴てんてつされることになったのはコトワリセメて是非もない次第であった。
 しかもその悲哀たるや尋常一様の悲哀でなかった。笑うには笑われず、泣くにはアマリに非凡過ぎる……といったような、実に篠崎仁三郎一流のユーモラスな最期を遂げたのであった。それは地上、如何なる凡人、又は非凡人の最期にも類例のない……同時に如何なる喜悲劇、諷刺劇の脚本の中にも発見出来ない、セキスピアもバナードショオも背後に撞着どうちゃく倒退とうたい三千里せしむるに足るていの痛快無比の喜悲劇の場面を、生地きじで行った珍最期であった。
…註曰…篠崎仁三郎氏の晩年には、他人ばかりの寄合世帯で一家を作っていたために、色々と複雑な事情が身辺にまつわり附いていたが、ここにはそのような事情の一切を省略し、それ等の中心問題となっていた事実のみを記載するつもりである…。
 篠崎仁三郎氏が五十四の年の春であったか……腎臓病にかかって動きが取れなくなった。そこで自然商売の方も店員任せにして自宅で床に就いていたが、平常へいぜいでさえ肥っていたのに、素晴らしく腫れ上ってまるで、洪水おおみずで流れて来たみたような色と形になってしまった。まぶたなんか腫れ塞がってしまって、どこに眼があるのかわからない位で、そのままグングン重態に陥って行った。
 枕頭に集まる者は湊屋の生前の親友であった魚市場と青物市場の連中ばかりで、一人残らず無学文盲の親方おやぶん連中であったが、それでも真情だけは並外れている博多ッ子の生粋きっすいが顔を揃えていた。最早もはや湯も水も咽喉のどに通らなくなって、この塩梅あんばいではアト十日と持つまい……という医師の宣告を聞くと、一同の代表みたような親友中の親友、青柳喜平氏が二十四かんの巨躯を押し出し、篠崎仁三郎氏の耳に口を附けた。
「……オイ仁三郎……貴様はホンナ事に女房と思う女も、が後嗣と思う子供も無いとや……」
 篠崎仁三郎は生前、妻子の事なんか一度も口にした事がなかった。しかし長崎に居た頃一人の情婦みたような女があってソレに女の児を一人生ませているという噂を、皆、聞いていたので、それをたしかめるために青柳喜平氏がこう聞いたのであった。
 湊屋仁三郎は仰臥したまま黙ってうなずいた。やっと眼をすこしばかり開いて、布団のすその方の箪笥たんすの上の小箪笥を腫れぼったい指で指すので、その中を探してみると手紙が一パイ詰まっている。それが皆、長崎から来た女文字の手紙ばかりで、金釘流の年増らしいのは母親の筆跡であろう。若い女学生らしいペン字は娘の文章らしかった。焼野やけの雉子きぎす夜の鶴……為替の受取なぞがチラチラ混っている。そこで一同の中から二人の代表が選まれて、その手紙の主を長崎へ迎いに行く事になった。
 その手紙の主は仁三郎が長崎に居る時分に関係していた浮気稼業の女であったが、なかなか手堅い女で、仁三郎と別れたのちに、天主教の信仰に熱中し、仕送って来たかねで一人の娘を女学校に通わせて卒業させていたものであった。
 湊屋仁三郎の余命がモウ幾何いくばくもない。だからタッタ一人の血のキレとして残っている娘にアトを継がせたいために迎えに来たと二人の代表が説明すると、彼女は娘と手を執り合って泣き出したので、二人の代表が覚悟の前ながら相当貰い泣きさせられた。しかしここに困ることには天主教の教理として、母親と父親が神様の御前で正式の結婚式を挙げていない限り、娘と親子の名乗りをさせる訳に行かない事になっている。しかもそのような事態ではトテモ結婚式を挙げる訳に行くまいが……耶蘇やそ教の苅萱道心かるかやどうしんみたような事になりはしないか、という母親の懸念であったが、そこは大掴みな豪傑代表が二人も揃っていたので、大請合いに請合って、首尾よく母子おやこ二人を連れて博多に戻って来た。直ぐに福岡市大名町に在る赤煉瓦の天主教会へ代表二人で乗込んでこの今様苅萱道心問題を解消さすべく談判を試みる事になったが、そこへ出て来た宣教師のジョリーさんという仏蘭西フランス人が、日本人以上に日本語がよくわかる上に、日本人以上にすいを利かせる人だったので助かった代表二人の喜びと安心は非常なものがあったという。

 その時の談判の結果、いよいよ結婚式の当日になると、湊屋の病床を中心にして上座に、新婦と娘、天主教会員、花輪なぞ……下座には着慣れぬ紋付袴の市場連中がメジロ押しに並んだ。が、流石さすがに盛装した新婦と娘は、変り果てた夫であり父である仁三郎の姿を見てシクシクと泣いてばかりいた。
 そこへ宣教師の正装をしたジョリーさんを先に立てた和洋人の黒服が四五人ばかり、銀色の十字架を胸にびてゾロゾロと乗込んで来たので、居住居いずまいを崩していた羽織袴連中は、今更のように眼をそばだてて坐り直した。
 式は型の如く運んだ。ジョリーさんが羅馬ローマ綴で書いた式文みたようなものを読み上げる時には皆起立させられたが、モウ足がしびれて立てない者も居た。
吾等のウワアルエールアヌオ……兄弟がキヨダイガ……神様のクワミイサアマヌオ……思召にオボスイメスイニ……よりましてイヨルイモアシテイ……」
 というのを、一同は英語かと思って聞いていたという。以下引続いて儀式の模様を、済んだあとからの彼等の帰り途の批評に聞いてみる。
「耶蘇教の婚礼なんてナンチいう、フウタラ、ヌルイ(風多羅ふうたらぬるい? 自烈度じれったいの意)モンや」
「そうじゃない。あれあ大病人の祝言じゃけに、病気にさわらんごと、ソロオッと遣ってくれたとたい。毛唐人なあ気の利いとるケニ」
「一番、最初に読んだは何じゃったろうかいね」
「あれあ神主がいう高天たかまが原たい。高天が原に神づまりしますかむろぎ、かむろぎのみこと――オ……」
「うむ。そういえば声が似とる。成る程わからん事をばいうと思うた」
「ところでそのあとからアイツ共がうとうた歌は何かいね。オオチニ風琴鳴らいて……」
「花嫁御のお化粧の広告じゃなかったかねえ。雪よりも白くせよなあ……てクタビレたような歌じゃったが……」
「ウム。俺あ西洋洗濯の宣伝かと思うた」
「立てて云うけにおらあ立って聞きおったら、気の遠うなってグラグラして来た。一時間も立っとったならおらあ仁三郎より先に天国へ登っとる」
「うむ。長かったのう。あの歌をば聞きおるうちに俺あ、悲あしゅう、情のうなった。この間死んだかかあが、真夜中になると眠ったなりにアゲナ調子で長い長い屁をばきよったが」
「死んだ嬶よりもおらあ、あれを聴きよるうちに仁三郎がクタビレて死にあしめえかと思うてヒヤヒヤした。歌が済んでからミンナ坐った時にゃホッとした」
「あのあとの御祈祷は面白かったね」
「ウム。面白いといえば面白い。馬鹿らしいといえば馬鹿らしい。(以下声色こわいろ)ああら、我等の兄弟よ! 神様の思召おぼしめしに依りまして、チンプンカンプン様の顎タンを結ばれました事は――越中褌えっちゅうべこのアテが外れた時と全く全く同じように、ありがたい、尊い、勿体もったいない、嬉しい嬉しい御恵みで――ありや――す……アーメン。と来たね」
「ようよう、うまいうまい貴様、魚屋よりもキリシタンの坊主になれ、どれ位人が助かるか判らん。あの異人の坊主の云う事を聞きよる内におらあ死にたいような気持になったもんじゃが、今の貴様の御祈祷を聞いたりゃ、スウーとしてヤタラに目出度めでとうなった。あーら目出度めでたや五十六億七千万歳。鶴亀鶴亀」
「あの黒い鬚をやいた奴は日本人じゃろうか」
「うん、あれがあの女のキリシタンの亭主らしい」
「あいつが篠崎の耳に口ば附けてあなたはこの婦人を愛しますかと云うた時には、俺は死ぬほどおかしかったぞ」
「うん。おらもマチットで我慢しとった屁をば屁放へひり出すところじゃった。あん時ばっかりは……」
「花嫁御も娘御も泣きござったなあ――」
「そらあ悲しかろう。いくら連れ添うても十日とたん婿どんじゃけんになあ。太閤記の十段目ぐらいの話じゃなか」
「仁三郎が黙って合点合点する内に、夫婦で指輪いびがねば、取り換えたが、あの時も、可笑おかしかったぞ」
「うん。仁三郎の指は、平生でも大きい上に、腫れ上っとるけに指輪いびがねも三十五円も出いて○○の鉢巻位の奴をば作っとる。それに花嫁御の分はまた、並外れて小さいけに取り換えてもアパアパどころじゃない。俺あ、それば見て考えよると可笑おかしゅうて可笑おかしゅうてビッショリ汗かいた」
「誰か知らんが、その後の御詠歌のところで大きな声でアクビしたぞ」
「あれは俺たい。あの御詠歌の文句ばっかりは判らんじゃった。恵比須えべす様が味噌漉みそこしでテンプラをば、すくうて天井へ上げようとした。死ぬる迄可愛がろうとしたバッテン天婦羅てんぷらが天井へ行かんちうて逃げた……なんて聞けば聞く程馬鹿らしいけに俺がそうっとアクビしたところがそいつが寝ている篠崎に伝染うつって、これもそうっとアクビしたけに、おらい事したと思うた。病人もさぞアクビしたかったろうと思うてな――」
「何時間かかったろうかい」
「俺あ時計バッカリ見よった、二時間と五分かかったが、その最後しまいの五分間の長かった事。停車場で一時間汽車ば待っとる位長かった」
「うん。なんにせい珍らしいものば見た」
「仁三郎も途方もないかかアば持ったのう」
「仁三郎はやっぱりよう考えとるバイ。達者な内にあげな嬶アばもろうて、あげな歌バッカリ毎日毎晩歌わにゃならんちうたなら俺でも考える」
「第一魚市場の魚が腐る」
「アハハハッ……人間でも腐る。俺は聞きよる内に腰から下の方が在るか無いか判らんごとなった、生命いのちにゃかえられんけに引っくり返ってやろうかと何遍思うたか知れん」
「俺は袴の下に枕を敷いとったが、あのオチニの風琴の音をば聞きよる内に、自分の首が段々細うなって、水飴みずあめのごとダラアと前に落ちようとするけに、元の肩の上へ引き戻し引き戻ししよったらそのうちに済んだけに、思わずアーメンと云うたら、よだれがダラダラと袴へ落ちた、まあだ変な気持がする」
「ああ非道ひどい目に遭うた。どこかで一杯飲み直そうじゃないや」
「ウアイー賛成! 賛成! 助かりや助かりや、有難や有難や、勿体なや、サンタ・マリア……一丁テレスコ天上界。八百屋の人参、牛蒡ごぼうえ――」
「踊るな馬鹿!」
「アーメン、ソーメン、トコロテン。スッテンテレツク天狗てんぐめんか。アハハハハ。鶴亀鶴亀」
 以て当時の光景を察すべしである。
 しかも、こうした儀式が済んだのち牧師等が引上げると、一座が急にシーンとなった。後には可憐な母親と娘が仁三郎の枕許に坐ってシクシクと泣くばかりになった。
 その時に湊屋仁三郎は、ホンの少しばかり腫れぼったい目を開いて、左右を見た。下座に居流れていた市場連中を見て、泣くようにシカめた顔で笑って見せた。
「何チウ妙なモンヤ」
 一同が腹をかかえて笑い転げたというが、そうしたサ中にも仁三郎一流のヒョウキンな批判を忘れないところが正に古今独歩と云うべきであろう。
 ところが話は、未だ済んでいない。仁三郎の珍最期はこれからである。しかも、仁三郎が完全に呼吸いきを引取ったアトの事で、御本尊の仁三郎のお陀仏自身にすら思い付かない……しかも仁三郎一流の専売特許式珍劇がオッ初まって、オール博多の人口に膾炙かいしゃする事になったのだから痛快中の痛快事である。

 その仁三郎が係医かかりいの予言の通り結婚後キッチリ十日目に死んだ。
 もちろんその時には、何の変哲もなかった。一同が眼をしばたたいて快人篠崎仁三郎の一代を惜しんだだけの事であったがここに困った事には、一旦、天主教に入った以上、葬式もやはり、大名町の赤煉瓦の中で執行せなければならぬというので、市場連中は相当ウンザリさせられたものらしい。
 然し仕方がない。何にしろ博多ッ子の中の博多ッ子、湊屋仁三郎の葬式じゃけに、一ツ思い切って立派にしてやれというので、生魚、青物両市場の大問屋全部が懸命の力瘤ちからこぶを入れた。
「相手がアーメンと思うと、いくら力瘤を入れても、入れ甲斐がないような気がして、チーット力瘤を入れ過ぎたようです、とうとう大椿事おおごとになりましてなあ――」
 とその時の有志の一人が語った。

 当日は予想以上の盛会であった。
「仁三郎さんが、ヤソ教で葬式されさっしゃるげな、天国へ行かっしゃるげなけに、死んでも亦と会われんかも知れん」
 というので、知るも知らぬも集って来た結果会衆は会堂に溢れ会堂を取り囲み、往来に溢れるという素敵な人気であった。
 同時に、その時の葬式が亦、師父ジョリーさんの全幅を傾けて計画した天主教本格の盛大、長時間のものであったらしい。但し今度は会堂の中が椅子席だったので、重立った連中は、大部分脚のシビレを助かったというが、それでも中央の通路に突立っていた者は二三人引くり返ったくらい盛大荘重なものがあったという。
 そのうちに正午から夕方迄かかって、やっと葬式が済んだので会衆一同は、思わずホッと溜息をした。その音が、ゴーッと堂内に溢れて、急行列車の音に似ていたというが、マサカそれ程でもなかったろう。
 そこへ棺担ぎが出て来て棺桶に太い棒を通した。そのまま、市営の火葬場へ持って行こうとすると、一番前の椅子に腰をかけていた市場の親友二三人が何事かタマリかねたらしく立ち上って馳けよった。
「……チョ……一寸ちょっと待ちなさい。こげな葬式で仁三郎が成仏出来るもんじゃない。ふうたらぬるい。もう辛棒が出来ん。カンニン袋のが切れた。一寸貸しなさい。私達が担いでやるけに……オイみんな来い、ついでに前の花輪をば、二ツ三ツ借りて来い」
 魚市場だけに乱暴者が揃っていたからたまらない。得たりや応といううちにテンデに羽織をぬいで棺桶を担ぎ上げた。牧師連中が青い目をグリつかせている前で花輪を二ツ三ツ引ったくるとその勢で群衆を押し分けて、
「ウアーイ。ワッショイ、ワッショイ」
 と表の往来へ走り出した、生魚さかな陸上あげるのと、おんなじ呼吸でどこを当てともなくエッサエッサと走り出したので消防組と市場の体験のある者以外は皆バタバタと落伍してアトにはイキのいいピンピンした連中ばかりが残ってしまった。
 そこで、ヤッと棺桶が立ち止った。
「オーイ、みんな揃うたかーア」
あとから二三人走って来よーる」
「ああ草臥くたぶれた。恐ろしい糞袋くそぶくろの重たい仏様じゃね――。向うの酒屋で一杯やろうか」
「オッと来たり、その棺桶は門口へおろいとけ。上から花輪をば、のせかけとけあ、おくれた奴の目印になろう。盗む者はあるめえ」
 一同はその居酒屋へなだれ込んで、テンデにコップや桝を傾けてグイグイと景気を付けた。
「サアサアみんな手を貸せ手を貸せ。ヨーイシャンシャン、ヨーイ、シャンシャンウアーイ」
 と一本入れた一同は、又もや棺桶を担ぎ上げて、人通りを押分け始めた。すると上機嫌で先棒を担いでいた湊屋の若い奴が向う鉢巻で長持唄を歌い始めた。
「アーエー女郎は博多の――え――柳町ちゃ――エエ」
「柳町へいこうえ」
「馬鹿! 仏様担いで柳町へ行きゃあ花魁おいらんの顔見ん内に懲役に行くぞ」
「ああ、そうか」
「とりあえずお寺へ行こうお寺へ行こう」
「仁三郎は何宗かい」
「仁三郎が宗旨を構うかいか」
「そんなら成丈なるたけ景気のええお寺へ行こう」
「あッ。向うで太鼓をばたたきよる。あすこが良かろう」
「よし来た。行け行け。アーリャアーリャアーリャ。馬じゃ馬じゃ馬じゃ馬じゃい」
「エート。モシモシ和尚おしょうさんえ和尚さんえ。一寸すみませんがア……お葬式の色直しイ。裏を返せばエー」
「いらん事云うな、俺が談判して来る」
 博多蓮池はすいけ町○○寺の和尚はさばけた坊主であったらしい。
「どうも後口あとくちが悪うて悪うてまあだムカムカします。一ツ景気のえいところで一ツコキつけて、つかあさい」
 という交渉を心よく引受けた。すぐに中僧小僧をかり集めて本堂の正面に棺を据え、香をいて朗かに合唱し始めた。
我昔所造諸悪業がしゃくしょぞうしょあくごう――一切我今皆懺悔いっさいがこんかいざんげエエ――」
 まだ面喰っている小僧が棒を取り上げて勢よくブッ附けた。
「グワ――アアアンンン……」
 一同グッタリと頭を下げた。
「あッ。あああ……これで、ようよう元手もと取った」

底本:「夢野久作全集11」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年12月3日第1刷発行
底本の親本:「近世快人伝」黒白書房
   1935(昭和10)年12月20日発行
初出:「新青年」
   1935(昭和10)年4月号〜10月号
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2006年7月26日作成
2011年4月9日修正
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