近日、友人徳永柳洲君は画を、予等夫妻は詩歌を以て滞欧中の所感を写した「欧羅巴」一冊を合作しようと計画して居る。其れは同期に欧洲に遊んだ画家と詩人の記念であるのみならず、互に「海のあなた」の恋しさを紛らさうとする手ずさびである。
併し、此「巴里より」一冊は其様な意味から世に出だすのではない。
予は明治四十四年十一月八日に横浜から郵船会社の熱田丸に乗つて海路を取り、予の妻は翌年五月五日に東京を立つてシベリヤ鉄道に由り、共に前後して欧洲に向つた。
予等は旅中の見聞記を毎月幾回か東京朝日新聞に寄せねばならぬ義務があつた。猶晶子は雑誌婦人画報などに寄稿する前約があつた。そして新聞雑誌の性質上、予等の通信は予め「通俗的に」と云ふ制限を受けて居た。
予の欧洲に赴いた目的は、日本の空気から遊離して、気楽に、且つ真面目に、暫らくでも文明人の生活に親むことの外に何もなかつた。実に筆を執つて皮相の観察を書くことなどは少からぬ苦痛なのである。自然予等は通信の義務を懈ることが多かつた。
今ここに、書肆から望まれるに其等の見聞記を集めて読み返して見ると、すべて卒爾に書いた杜撰無用の文字のみであるのに赤面する。初めから一冊の書とする予期があつたのなら、少しは読者の興味を刺激するに足る経験や観察を書き洩さずに置いたものを。
何れの地の記事も蕪雑であるが、伊太利の紀行中、羅馬に就ては数回に亘る記事を一括して新聞社へ送つた筈であつたのに、其郵便が日本へ着かずに仕舞つた。ナポリ、ポンペイ等の記事も同様である。其等の郵便を予自身に郵便局へ赴いて差立てなかつたのが過失であつた。人気の悪るいナポリの宿の下部に托した為めに故意に紛失された[#「された」は底本では「さされた」]のであつた。さりとて今更記憶を辿つて書き足す気にもならない。此書の為に益々不備を憾むばかりである。
予と船を同じうして欧洲に遊び、予より一年遅れて帰つた徳永柳洲君が、在欧中の画稿から諸種の面白い材題を撰んで此書の挿画と装幀とに割愛せられたのはかたじけない。柳洲君の才筆を添へ得て初めて此書を世に出だす意義を生じたやうに思ふ。
予等は主として巴里に留つて居た。従つて此書にも巴里の記事が多い。「巴里より」と題した所以である。
大正三年五月
※田丸[#「執/れんが」、U+24360、1-5]から上陸した十余人の旅客は三井物産支店長の厚意で五台の馬車に分乗し、小崎用度課長の案内で見物して廻つた。上海へ来て初めてガタ馬車以外の馬車に乗つた人も少くない。勿論僕も其一人だ。南京路、四馬路などの繁華雑沓は銀座日本橋の大通を眺めて居た心持と大分に違ふ。コンクリイトで堅めた大通を柔かに走る馬車の乗心地が第一に好い。護謨輪は少しも音を立てず、聴く物は唯馬の蹄音ばかりである。自動車、馬車、力車、一輪車、電車、あらゆる種類の車と、あらゆる人種を交へた通行人とが絡繹としながら些の衝突も生じないのを見ると、神田の須田町や駿河台下でうろうろして電車に胆を冷すのはまだ余程呑気だと思ふ。
十字路毎に巡査が立つて電車の旗振の代りと通行人の警戒とに当つて居る。旗を振るのでなく、赤い鉢巻をした、背の高い、目の光つた印度人の巡査が直立して無言の儘静かに片手を上る許りだ。日本の巡査も交番を撤廃して斯う云ふ具合に使用したいものである。支那商店の軒頭からは色色の革命旗を街上へ長い竿を横へて掲げて居る。間に合せに出した白旗もあるが、二つ巴に五色で九曜の星を取巻かせたり、「我漢復振」などと大書したりしたものもある。申報の号外を子供が売つて歩く。併し自然に中立地帯をなして居る土地だけに格別革命軍の影響は少い。東京での騒ぎの方が余程大きい様である。
南京路から静安寺路へ出て張園と愚園とを観た。評判程の名園でも何でも無く、殆ど荒廃に属して居て、つくね芋の様な入為的の庭石が目障りになる許りだ。愚園の方は小さな浅草の花屋敷で、動物の外に一寸法師や象皮病で片手が五十封度の重量のある男の見世物などがあり、勧工場や「随意小酌」と貼出した酒亭もある。滿谷君外三人の画家が象鼻を上げた様な奇態な形の瓦楼の一角を写生し終るのを待つて一緒に郊外に出たが、何処までも路幅の濶い、そして黄ばんだ白楊の並木の続いて居るのが愉快であつた。
あちこちの畑の中に死人の棺をむき出しにして幾個も捨ててある。聞けば死者があると占者がどの方角のどの地へ埋めよと命ずる儘に、誰の所有地であらうと構はず棺を持つて来て据ゑて置く。そして三年の後に土を着せる。土地の所有者は其れを拒む事が出来ない習慣であると云ふ。道理で見渡す限り点点として、どの畑にも草に掩はれた土饅頭が並んで居る。此分では天下の田は尽く墓となり相であるが、何れも無名卑民の墓であるから十年二十年の後には大抵畑主が鍬に掛けて崩して仕舞つて格別苦情も出ないのだと云ふ。其れにしても不経済と不衛生とを兼ねた野蛮な埋葬法である。
李鴻章の廟を観ようと思つて郊外へ出たが、廟は南洋大学堂の学生から成る革命軍の健児の屯営に使用せられ、武装した学生が門を守つて居て入る事を謝絶した。車上から伸上つて覗くとクルツプ会社から寄贈したと云ふ李鴻章の銅像の手に白い革命旗を握らせ、其前に祭壇の様な物が設けてあつた。自分には其れが児戯の如くに見えて何の感動も起らず冷然として一瞥し去る外は無かつた。一体今度の革命軍と云ふものは内外人の心が北京の政治に厭き果たと云ふ都合のよい機運に会したので意外の勢力となりつつある様であるが、実力を云へば西南戦争に於ける鹿児島の私学校の生徒の如き者が各地に騒ぎ立つて居るのに過ぎないと想はれる。漢口の松村領事が居留民を引上させたのは大早計であつたと云ふ批難が上海では行はれて居る。松村君が自分の夫人だけを留めて置くに就ての岡焼ばかりでは無いらしい。
馬車を四馬路に返して杏花楼で上海一の支那料理の饗応を受けたが、五十品からの珍味は余りに饒きに過ぎて太半以上喉を通らず、健啖家の某某二君も避易の様子であつた。自分は※[#「執/れんが」、U+24360、5-13]い二杯の老酒に酔つて更に諸友と馬車を駆り、日本人の多く住む米租界の呉淞路を過ぎ、北四川路の新公園を観、白石六三郎氏の別墅六三園に小憩した。白石氏は長崎の人で上海第一の日本酒楼六三亭の主人であるが、居留邦民中の任侠家として名高い。六三園は純粋の日本式庭園で、諏訪明神の祠があり、地蔵の石像があり、茶亭が設けられ、温室には各種の花が培養せられて居た。
帰途日本ホテル豊陽館の前で馬車を捨て、此処で一行は二隊に別れて随意行動を取ることにしたが、もう日が暮れて居た。自分と徳永外三君とは領事館に西田書記生を訪うたが不在であつた。南京路へ出て徳永君の訪うた某歯科医も不在であつた。十時に物産会社から特に出して呉れるランチに乗る迄には四時間以上もあるので、四馬路の方へ掛けて雑沓の中をぶらぶらと彷徨き廻つたが容易に時間は経たない。今一度日本人の住んで居る方へ行かうと決したが、其れが失策の第一であつた。反対の方角へ引返したけれど、行けども行けども昼間歩いた街へは出ない。路を問はうにも燐寸を自来火と呼ぶことを知つた以外に支那語を心得た者は無かつた。やつと英語の解る巡査に出会つた頃は二十町ばかりも違つた方何へ行き過ぎて居た。後戻りをして某と云ふ怪しげな日本料理屋を見つけて漬物で茶漬を喫し終つた時は九時であつた。埠頭へ来てランチに乗つた頃雨が降り出した。十時を打つても滿谷君等の一行は帰つて来ない。猩猩党は何処かで飲み倒れて仕舞つたのであらう。※[#「執/れんが」、U+24360、7-4]田丸の濡れた舷梯を上つて空虚な室に一人寝巻に着更へた時はぐつたりと労れて居た。枕頭に武田工学士からの招待状が届いて居た。武田木兄君が此処の領事館に在職して居たのは意外である。(十一月十五日)
欧洲航路の船に横浜神戸から乗合せた者は大抵香港へ着く前に話題が尽きて仕舞ふ。碁や将棋は嗜好が無い者には興味を惹かないし、トランプは日本人に取つてさまで面白い物で無い。甲板球戯は我我に最も好く時間を費させ且つ運動にもなるが、昼間に限られた遊戯であつて其れも倦き易い日本人には二時間以上続け得ない様である。我我は何がな夜間の就寝までの時間を費す娯楽を欲して居る。或晩近江医学士が偶然専門である婦人科の話を諧謔交りに述べ出すと奇怪な質問が続出して互に頤を解いた。支那、馬来、瓜哇あたりの売春婦の通を話した人もあつた。蓄音機が持出されて僕に初めて呂昇を聴かせて呉れた夜もあつた。航海中は笑はされるのが何より好い。真面目な話は禁物である。之は日本人の体質にも習慣にも由るのであらうが、読書などに凝ると後で船暈を感ずる原因に成り易い。
香港に着く前夜に、「第一回※[#「執/れんが」、U+24360、9-1]田演芸会」が一二等客と船員とに由て船尾甲板で催された。一等室の女給仕が三味線を把つて引き、端唄、手踊、茶番、仮色、剣舞、手品などの続出した中で、徳永の鼻糞まろめ、長谷川の歌沢、三好のハモニカ、近江の追分などが我我二等客の選手の優なるものであつた。徳永と長谷川はウイスキイで元気を附けたらしく意外に平気な様子で遣つたが、近江の処女然と顔を赤くして居たのは愛嬌であつた。滿谷、小林、三浦、僕等の如き隠し芸を持たない者は却て観客となる幸を得た。牧野事務員が富樫に扮して滑稽勧進帳を演じて居る頃わが※[#「執/れんが」、U+24360、9-7]田丸は香港の港口に着いて居た。港内に於ける一日の碇泊料六百円を節約する為め今夜は港外に仮泊するのである。
翌朝六時に船は港口に入り、暹羅の戴冠式に列せられる伏見若宮殿下の一行を載せて伊吹、淀の二艦と広東から来た警備艦宇治の碇泊して居る間を過ぎ、維新前馬関砲撃に参加した英艦テイマア号が武装を解いて白く塗られ記念品として繋留してあるのを左弦に見つつ港内の中央に碇着した。三井物産のランチに乗つて上陸しようとする時僕は香港電信局からの通知を受取つた。日本から上海を経て転送された電報が届いて居るから、墨国銀三弗十五銭を持参して受取れと云ふのである。僕は神戸や門司で五六通の電報を接手したが此処まで追送して呉るのは其等の祝電では無さ相だ。家庭に病人でも出来たか、子供が大怪我でもしたか、婦人と子供許りを残して来た家庭に何か不吉な危難でも生じたかと、平生から余り呑気でない神経質の男は俄に心配で[#「心配で」は底本では「心配で」]ならなかつた。多分此処から帰国せねばならない運命が来たのだらうと人知れず決心して兎も角も電報受領方を永島事務長に依頼し、直に披いて見て至急を要する事なら電話を三井物産の支店へ掛けて呉と云ひ残して諸君と一緒にランチに乗つた。
※[#濁点付き井、11-4]クトリヤ・ピンクは湾に臨んで屹立し、其山脈は左右に伸びて山腹と山下とに横長い市街を擁して居る。後に南支那大陸の九竜半島を控へて居る所は馬関海峡の観があるが、ピンクの屹立して居る光景は島原の温泉が岳を聯想するのであつた。埠頭は五階家が同じ格好の屋根を揃へて一線に列んだのを遠望すると、大きな灰色の下駄箱を並べた様に醜かつたが、近づいて見ると其れ程不快な色でも無かつた。桟橋へ上つて東洋汽船会社の前あたりへ来ると、一本線の電車や二頭の牛を附けた撒水車や、赤い地に真鍮粉の梨地をした力車などが先づ目を引いた。チエスタア・ロオドの三井物産の支店を訪はうとして横の小路へ入つた時、白い若くは水色の五階建が稍斜めに両側を劃つた間から浅い藤紫の色をした朝のピンクの一片が見えたのは快かつた。
三井物産の支店長が附けて呉れた社員に案内せられて山の手の街を二町程行つてケエブルカアに乗つた。三十度から四十五度の大傾斜六千尺を一条の鉄索に引かれて我我の車は疾走しつつ昇る。両崖には幹の白い枝から数尺の鬚を垂れた榕樹や、紅蜀葵に似た花を一年中つけて居ると云ふ樹や、紫色をした昼顔の一種五瓜竜などが目に入る。崖腹にある二箇所の停車場には赤布を頭に巻いた印度巡査が黙つて白い眼を光らせながら突立つて居る。山上の幾処に建てられた洋人の家屋のとりどりに塗料の異ふのが車体の移ると共に見えなくなるのは活動写真の様である。七分間で最終の停車場に下車し、香港ホテルの門前に出て支那人の舁く長い竹の柄の撓ふ轎椅子に乗つた。轎夫は皆跣足である。山上の路は総てコンクリイトで固められて居る。石を敷いた所もある。例へば[#「例へば」は底本では「例へば」]箱根の新道をコンクリイトで固めた様なものだ。
七十余年前この地が英領となる迄は禿山であつたのを、東洋と※[#「執/れんが」、U+24360、13-2]帯地方との有らゆる植物を移して現に見渡す様な蒼蒼たる秀麗な山地とし、一方には上海に次ぐ繁華な都会を建設したのである。東区の山の如きは恰も岡山の操山を見る様な風に翠色を呈して居るが、其れが皆二十年前に移植した松だと云ふ。対岸の支那領に属する地は赭色をした自然の儘の禿山であるのに香港側は全く人為で飾られた山だ。人間が自然を改造し得た偉観を見ると肩身の広くなる心地がする。
測候所を過ぎて絶頂の信号所に達した。其処にはナポレオン帽を被つてカアキイ色の服を着けた英国の陸兵が五六人望遠鏡を手にして立番をして居る。郵便船が入る度に号砲を打つのである。湾内の水は草色の氈を敷き詰めた如く、大小幾百の船は玩具の様に可愛い。概して鳥瞰的に見る都会や港湾は美でないが、此処のは反対に美しい。足下には層をなして市街の屋根が斜めに重なり、対岸には珠江の河口を抱いた半島が弓形に展開し、其間に瓢を割いた様な形で香港湾が藍を湛へて居る。振返ると背面の入江は幾百の支那ジヤンクを浮べて浅黄色に曇つたのが前面の忙しげな光景と異つて文人画の様な平静を感ぜしめる。画家達が要塞地だから画を描いては悪からうと問ふと、番兵は画を描くのは構はないが草木の花を摘むなと答へた。自然を愛すると云ふ日本人に却つて是丈の植物を保護する心掛は無い様である。
再びケエブルカアに乗つて山を降り、香港公園で椰子類其他の珍奇な※[#「執/れんが」、U+24360、14-5]帯植物を観、日本倶楽部で午餐を喫してから車に乗つて東区の福谿の方を観て廻つた。回回教の寺院で白衣の尼の列を珍しがり、共同墓地に入つて大理石の墓の多いのに驚き、其処でバクレツと云ふ樹の梔の様な花の匂の高いのを嗅ぎ、愉園に入つて蒸す様な眩しい※[#「執/れんが」、U+24360、14-9]帯花卉の鉢植の間の卓に椅り、二本のライチ樹の蔭の籐椅子を占領して居る支那婦人の一団を眺めながら、珈琲を取つて案内者某君の香港談を聞いた。
香港の今日の温度は六十四度である。人は猶夏服を着て居る。歩けば汗が出る。海から吹く風の涼しいのが嬉しい。此地に住んで居る支那人は平素は四十万であるが、本国の革命騒ぎ以来広東や遠く蘇州杭州あたりから来た避難民を合せて今は五十四五万に達して居る相だ。広東が独立して以来俄に断髪者が殖えたので剪髪店が大繁昌である。其店頭の旗に「漢興剪髪」などと大書して居る。日本人の在住者は醜業婦を加へて纔に一千足らずである。広東へは対岸の九竜停車場から汽車に乗れば四時間で達せられ、澳門へは汽船で二時間の航程だから、有名な賭場見物に行かないかと勧める人もあつたが、自分は少し腸を痛めて居るので辞した。
更に力車に乗つて引返し、西区の支那街を一周して買物をしながら埠頭へ出たが途中で画家の柚木君の車が衝突して菓子屋の舁いで居た荷を滅茶滅茶にし、車夫と菓子屋との大立廻りが初まり、荷揚場の苦力や弥次馬に取巻かれて車上の柚木君が青くなつたのは早速船内で発行する「※[#「執/れんが」、U+24360、16-2]田パツク」第二集の好材料となるであらうが、一時は自分等も驚いて車を下りた程であつた。夜に入つて船の上から観る香港の灯火は、全山を水晶宮とし其れに五彩の珠玉を綴つたとも謂ふべき壮観であつた。また両岸の灯台からは終夜探海灯で海上を照して居た。碇泊中の船舶では二万噸のマンチユリアの灯火が最も光彩を放つて居た。サンパンに乗つた支那娼婦謂ゆる「水妹」が薄暗い灯火を点けて湾内を徘徊して居た。夜更けて帰つて来た某君の話に由ると日本の公娼を抱へた家は二十戸以上もあると云ふ。
今日牧野事務員に託してマルセイユ迄行く仲間丈甲板用の籐の寝椅子を買つて貰つたが、一個一円五十銭づつとは廉い事である。気掛りであつた電報は却つて「スベテアンシンセヨ、アキ」と妻から寄越した物であつた。こんな事で安心料三円十五銭を香港の電信局へ支払つた人間は永久僕一人であらう。(十一月二十日)
快い北東の季節風に吹かれ、御納戸色の絹を展べた様な静平な海面を過ぎながら、十一月二十五日の朝蘭領のアノムバ島を左舷に見た。香港を発して以来毎日一二回の驟雨があるので想像して居たよりも涼しい。人人は食堂や喫煙室に入つて明朝新嘉坡から出す手紙を認めるのに忙しく、何時の間にか細君の名を互に知つて仕舞つて居るので三浦工学士のペンを走らせて居る後から「たま子さんに宜しく」などと声を掛る者もある。昨日は美味い最中が出来たが今日の茶の時間には温かい饅頭が作られた。晩餐には事務長から一同浴衣掛で宜しいと云ふ許しが出る。食卓に就て見ると今夜は日本食が特に調理せられ、鱧の味噌汁、鮪の刺身、鯛の煮附、蛸と瓜の酢の物、沢庵と奈良漬、何れも冷蔵庫から出された故国の珍味である。日本酒の盃を挙げて明朝上陸する三吉、吉田外三氏と互に健康を祝し合ふ。道づれに別れるのは何となく淋しい。※[#「執/れんが」、U+24360、18-3]田丸記念会を数年後東京に開かうと云ふので会員簿に互に自署し、其れが蒟蒻版に刷られて直に配附せられた。原籍を知つて話し合ふと土居中尉の夫人が僕の妻の縁者である事が解つて奇遇に驚いた。夫人は一歳の赤ん坊を伴れて馬来に護謨栽培をやつて居る良人の許へ健気にも初めて旅行するのである。船はもう宵の内に新嘉坡へ着いて居た。
翌朝は殆ど赤道直下である程あつて早天から酷暑の感がする。僕一人先づ目覚めて船甲板を徘徊して居ると、水平線上の曙紅は乾いた朱色を染め、他の三方には薄墨色を重ねた幾層の横雲の上に早くも橙色や白金色の雲の峰が肩を張り、暁の明星は強い金色を檣の横に放つて居る。渺茫たる海面に鱶が列を為して現はれたかと思つたのは三浬先の埠頭から二挺櫓を一人で前向に押して漕ぐ馬来人の小舟の縦列で、彼等は見る中にわが船を取囲んで仕舞つた。何の小舟にも赤い帽と赤い腰巻及び白い目と白い歯が光つて居る。中に一片の丸木船に杓子の様な短い櫂を取つて乗つて居る丸裸の黒奴が趺坐をかき乍ら縦横に舟を乗廻して頻りに手真似で銭を海中に投げよと云ふ。起きて来た連中が一銭銅貨を投げる振をすると彼は頭を振つて応じない。五銭白銅以上を要求するのである。白銅の持合が無いので一人が十銭銀貨を投入れると、彼は黒い大きな体を斜に海中に跳らせて銀貨が未だ波の間を舞つて居る瞬間に其れを捉へて上つて来る。ベツクリンの絵の中の怪物の心地がした。土地柄として沼にも川にも沿岸の海にも鰐が棲んで居て、一寸端艇が顛覆しても乗組人は一人も揚つて来ないのが普通なのに、此銭拾ひ丈が鰐や鱶の害に遇はないのは一つの不思議となつて居ると云ふことだ。
海上から望んだ新嘉坡は香港上海に比して遥に風致に富んで居る。ゴシツクの層楼の多いのは早く出来た市街丈に保守的な英国風が余計に保存されて居るのかも知れない。一般に馬来全島が非常な低地であつて最高の山が纔に海抜五百十九尺しか無いのだから、山と云つても都て丘陵の様なものであるが、其れに箒を立てた様な椰子類の植物が繁茂して居るのは遠くから観ても山の形が日本とは全く異ふ。市街に向つて右のタンジヨン・カトンの岬に伸びた一帯の大椰子林[#ルビの「だいやしりん」は底本では「たいやしりん」]は新来の旅客の目を先づ驚かすものである。又対岸の蘭領のリオ島外諸島が遠近に由つて明るい緑と濃い藍とを際立たせ乍ら屏風の如く披いて居るのも蛮土とは想はれない。湾内の小波は大魚の鱗の様に日光を反射して白くきらきらと光つて居る。
市街は概ね二階建である。人口は支那人が二十五万、馬来人が七万、ヒンヅ種の印度人が之に次ぐ。何処へ行つても支那人の普及と彼等の商業上の実力の豊富なのとには感歎せざるを得ない。経済上の実権は支那人の外に猶アルメニヤ人とアラビヤ人とが握つて居て英独人も其等には敵し難い。市内の目ぼしい家屋の過半は此二人種の所有である。此地には一切営業上の課税が無く、唯だ家屋税を家主より徴収せられる丈である割に家賃は廉い。間口七間奥行十五間の二階家が一箇月八九十円である。三井物産会社の支店などは可なり大きい立派な建物であるが百五十円の家賃だ相である。
僕等は馬車を駆つて見物して廻つたが、途上の所見を少し並べて云ふと、土の色が概して印度黄若くは輝紅を呈し、其れが雨水に溶解すれば美しい橙黄色の水溜が出来る。驟雨が来れば涼しいが、大抵三四十分で霽れて仕舞ふと赫と真昼の日光が直射する。海上から来た我等は二三町の路すら歩く勇気が無いのに、馬来人や支那人は平気で傘もささずに跣足の儘歩いて居る。一体に土地に住んで居る者は西洋人でも雨の外は傘をささない。家造りが大抵歩廊を備へて居るから其下を歩めば日光や驟雨が避けられる。馬来人やヒンヅ人が黒光のする体に黄巾赤帽を戴き、赤味の勝つた腰巻を纒つて居る風采は、極※[#「執/れんが」、U+24360、21-13]の気候と、朱の色をした土と、常に新緑と嫩紅とを絶たない※[#「執/れんが」、U+24360、21-13]帯植物とに調和して中中悪くない。
此処の人力車は大抵二人乗で、其が日本出来の金ぴか模様のある物である。馬車も多いが自動車の多数な事は上海に倍して居る。電車は香港と同じく一本電線を用ひて居る。荷車は二頭の牛に挽かせる物と定つて居るらしいが、牝牛はヒンヅ教でシ神の権化である所から絶対に使役しない。牡牛をも大切にする風があつて、其角を絵具で染め又は金属で被うて居るのを見受けた。又牝牛の糞を幸福の呪に額へ塗つて居るヒンヅ人にも沢山出会つた。ヒンヅ教の一寺院を訪うて見たが、屋上にも堂前にも牝牛の像を祀ること恰も天神様の前の如く、牛糞を塗つた四五人の僧は牛皮の靴を穿いて居る僕等を拒んで堂内に入れ無かつた。
海上から見えて居たタンジヨン・カトンの大椰子林へ馬車を駆つて行つた。之は天然林でなく幾区画にも分れて所有主を異にする植林である。凡て壮年期の椰子許りで、其間に近年護謨栽培※[#「執/れんが」、U+24360、12-12]の流行する影響から若木の護謨樹を植ゑた所もある。亭亭と大毛槍を立てた如くに直立し又は斜に交錯して十丈以上の高さに達して居る椰子林を颯爽たる驟雨に車窓を打たれ乍ら、五台の馬車が赤い土の水烟を馬蹄の音高く蹴立てて縦断するのは、覚えず「好い気持だ」と叫ばざるを得なかつた。柄に無い聞書をするが、椰子が成長して実を結ぶまでには七八年を要し、他の※[#「執/れんが」、U+24360、23-3]帯植物と同じく常に開花し常に結実するので、一樹が一年に平均八十個の実を産し、一個の卸値段を三銭として毎年二円四十銭の収入が一本の榔子から揚がる筈である。椰子油、椰子水、椰子酒の採収を初め、其他椰子の用途は頗る多いらしい。
椰子林の中の観海旅館に少憩して海に近い廻廊で珈琲を喫し乍ら涼を入れた。ホテルの淡紅色の建物が周囲と好く調和して居た。頭上の屋根裏に這つて居る名物の守宮がクク、ククと日本の雨蛙の様に鳴くのはクラリネツトを聞く趣があつた。日本の守宮と違つて人を咬む恐れは無いが、飲料が好きなので飲みさした牛乳や珈琲を天井から落ちて来て吸ふ事が常にある相だ。守宮は市の場末の家にも沢山に這つて居る。今夜三井物産の社宅に泊つて前年日本の貴賓の寝られたと云ふ二つの寝台へ得意になつて横たわつた小林と三浦は、終夜この守宮に鳴かれて好い気持がしなかつたと後で話して[#「話して」は底本では「話し」]居た。牛鳴をすると云ふ痛快な蛙も沢山に居る相だが僕等は聞かなかつた。
新嘉坡を過る旅客が必ず行つて観る価値のあるのは博物館と大植物園とだ。博物館の規模は東京のに比べて小さいが、馬来、印度、南洋諸島等の動植物、古噐物、風俗資料の彙類は可なりに豊富で、陳列法も親切に出来て居る。南洋の家屋に日本の神社の氷木や鰹木と同一の物を附し、水害を避ける為めに床下を高くしたのなどを初め、祭具、武噐、食噐等に我国の上古と吻合する所の少くないのを観て僕の考古学的嗜好は頻に刺戟せられた。※[#「執/れんが」、U+24360、24-7]帯の蝶や蛾が日本の其れと全く異つて多種多様の絢爛な色彩に富んで居るのは目が覚める様である。其他全身が美しい翡翠色をして細やかに甚だしく長い青蛇、支那人が二人掛りで容易に撲殺し好んで其肉を喰ふと云ふ馬来の大蛇バイソン、蝨斯科の虫で身長二寸五分許り、※[#濁点付き井、24-10]オロンの形と色とをしたカラビデエ、同じく群青色をして柏の葉を竪に二枚重ねた如き擬態を有し、葉茎、葉脈等を明かに示せるピリイムシセ、又緑赤色をして南天の葉を四枚横に並べた様な擬態を現して居るクロマリイ等は此通信を書く時の記憶に鮮かに残つて居る。
植物園は如何にも大規模に※[#「執/れんが」、U+24360、25-1]帯植物の有らゆる種類を集めて居て、東京の植物園などは之に比べると不親切極まると云つてよい。少しは日本の温室で見受る物もある様だが概して初対面の物が多く、同じ蘭科でも種類が無数なのである。花卉も面白いけれど、一体に※[#「執/れんが」、U+24360、25-4]帯植物は幹と葉の姿勢や色彩が奇抜に出来て居る。葉も花も多肉性と鞏靱性に富み、色彩が濃厚鮮明である。四季の区別が無くて不断に開花、結実、発芽、落葉を続けて居る。季候のせいで発育の旺盛である胡瓜とか朝顔とかは、五六日で発芽し半月で花と実を持つ相である。日本では尺に満たない金星草が幅二尺高さ一丈に達して居る。五六丈の幹の上に芭蕉に似た葉を扇形に三十五六葉も並べて直立して居る扇椰子、滴る様な血紅色をした椰子竹の一種、紅蜀葵の様な花を榎の様な大木に一ぱい附けて、芝生の上へ円形に其花を落すサンバ樹などの蔭を踏むと、極楽鳥と云ふ類の美しい鳥が※[#「執/れんが」、U+24360、25-11]帯に棲んで居るのも不思議でない気がする。序に云ふが博物館も植物園も観覧料を取らない。
其れから植物園附近のエコノミツク・ガアデンに入つて護謨林を見た。此処の栽培法や採収法は以前模範的と称せられたさうだが今は既に旧式に属して居る。新式のは馬来半島のジヨホオルへ行けば観られると云ふ事だ。樹幹にはどれにも左右から矢の羽形に斜めに小刀で欠刻を附け、更に中央に溝として一線が引いてある。左右の欠刻から沁み出る護謨液が中央に集つて落ちるのを採収夫が硝子の小杯に受けて廻るのである。採収は未明から午前六時迄に終らねばならないと云ふ事だ。僕等も試みに小刀を取つて欠刻を附けて見ると直に牛乳の様な液が滴り、其れが端から凝結する。手に取つて両指で引いて見ると、既に弾力性を持つて居て伸縮する。
近年護謨林※[#「執/れんが」、U+24360、26-8]の昂騰した頂上には当地の雑貨商中川某が百七十エエカアの林を三十六万円に売つたのを第一として二三万乃至六七万円の奇利を博した者があつて、護謨の価も一ポンド十四五円まで暴騰したが、現今では其反動で二円に下落して居る相だ。併し着実な其道の人の批判では仮ひ一円に下つても会社経営では四五割、個人経営では六七割の利益は確かだと云つて居る。現にジヨホオルで護謨林を経営して居る日本人は三井の二万五千エエカア、三五公司(阿久澤等)の二千町歩を首とし、二三百エエカアの小経営者は数十人に上り、一便船毎に護謨業関係者の日本から来る者が三四人を下らない有様だ。栽培後六年で採収期に達するのであるから是等経営者の成否は猶前途を待たねば断じ難い。
ジヨホオルでの護謨栽培は一年の借地料が一エエカア五十銭だ。先づ山地の密林を伐り開いて無数の大木を焼棄するのに費用が要る。此焼棄が容易で無い。其れから地ならしをして植附を終るまでの人夫其他費用一切が百エエカアに就て千円乃至二千円を要し、監督者の家屋の建築に千円乃至二千円を要する。以上は創業費だ。次いで三年間の草取に使用する人夫の賃金が一万五千円乃至二万円、之は継続費だ。其れで二万円乃至二万五千円の資本が無くては百エエカアの植林は出来ないと云ふ事に現在は相場が[#「相場が」は底本では「相場が」]極つて居る。
護謨の苗木は十八尺四方の中に一本を植ゑる。採収は六年後からだが草取は三年間でよい。肥料は少しも要しないでよく発育する相だ。採収は六箇月すれば六箇月休止せねばならない。一本の樹から一日に凡そ一ポンドの採収が出来ると云ふのが真実なら大した利益のある筈である。人夫には馬来人と支那人を使用して居る。彼等は甚だ勤勉で一日の賃金(食事は自弁)が六十銭である。護謨林経営者の窃に憂ひて居る事は近き将来に人夫の不足する事であるが、或人は一年後に濠洲の真珠業が廃滅するに際し日本へ帰る該地の人夫一万人を此地で喰ひ止める事が出来ると云つて楽観して居る。
新嘉坡へ輸入する石炭の総額は一年に六千万頓だが、此半額は日本炭と撫順炭で占め、他の半額は濠洲炭、英国のカアジフ、ボルネオ炭等である、近頃蘭領の某島で新嘉坡と競争して石炭の集合地を彼に奪はうとする計画がある。当地では石炭の出入に桟橋費一噸につき三十五銭取られる如き費用を要するのを彼に於ては一切省略しようとするのだ相である。
護謨林を出て馬車に乗り、案内者となつて呉れた三井物産の支店員から、故長谷川二葉亭君の遺骸を此地で荼毘して追悼会を開いた時の話を聞き乍ら、前年護謨林に従事して居た長田秋濤氏夫妻が住んで居たと云ふ林間の瀟洒たる一屋を過り、高地にある三井物産支店長の社宅の楼上で日本食の饗応を受けた。刺身皿の鮪は此海で取れたのだと云ふ。卓上に印度式の旋風布を吊し、其綱の一端を隣室から少年の黒奴が断えず引いて涼を起すのは贅沢な仕掛である。市街の夜景を見て歩きたいと思つたが、最終の小蒸汽が午後四時に出る外、その後は一切出さないと云ふ窮屈な規定を憤慨しつつ本船に帰つた。最も夜間に小舟を傭へない事も無いが、土人の船頭には脅迫的な行為があつて危険だと忠告せられて断念した。
翌二十八日は午前十時に諸友と再び上陸し、数隊に分れて案内者無しに歩いた。滿谷、長谷川、徳永、近江、柚木、志貴、酢屋、僕の八人は何の目的も無く電車の終点まで乗つて下車し、引返して偶然博物館の前に出て、滿谷等は其附近を写生し、徳永、志貴、近江、酢屋と僕とは加特力教会の経営に成る当地の模範小学を参観した。生徒は男子許りだが、小学科を七年、其上に二年の商科を通じて凡そ一千人を教育して居る。教師は英人と印度人、生徒は洋人を除いて雑多の人種を交へて居る。生徒は大抵跣足だ。併し感服した事には教授の用語に一切英語を用ひ、小学の一年生がナシヨナル読本第二の程度の物を習つて居る。商科の生徒に長崎生れの木田と云ふ日本少年が一人居て三年前に教会から此処へ送られたと云つて居たが、寄宿舎に許り居るので日本語を忘れたらしく会話に困つては英語で答へるのであつた。
神戸から同船して来た津田の店を訪うて料らず馬来街[#ルビの「マレイ・ストリイト」は底本では「マレイス・トリイト」]の遊女街に出た。同じ様な公娼の街は四箇所あるが之が第一に盛だと津田が語つた。凡て同じ形に建てられた間口二間の二階造りで青く塗つた鉄の格子の入つた階下に一個の卓を据ゑ、籐椅子に凭つた独逸、露西亜の娼婦が疲労と暑さとで死んだ者の如く青ざめて沈黙して居る。日本娼婦は浴衣に細帯、又は半襦袢一枚の下に馬来人のする印度更紗の赤い腰巻をして、同じ卓に凭つて花牌を弄んで居る者、編物をして居る者、大阪版の一休諸国物語を読んで居る者、何れを見ても天草産の唐茄子面をした獰猛な怪物許りである。洋娼等は頻りに僕等の一行を呼掛けたが、日本娼婦は流石に同国人に対して羞恥を感じるらしく何れも伏目になつて居るのが物憐れで、之が夜に入れば猿芝居の猿の如く、友禅縮緬の真赤な襦袢一枚にこてこてとした厚化粧と花簪に奇怪至極の装飾を凝し、洋人、馬来人、印度人に対して辣腕を振ふものとは思はれなかつた。
日本娼婦の数は坡港許りで現に六百四五十人(此外に洋妾となつて居る女は百人もある相だ。)あると云ふから、印度、濠洲、南洋諸島へ掛けては六七千人にも上るのである。彼等は坡港を「都」と称し、其他を「田舎」と称して恰も東京から千葉や埼玉へ出掛ける位の心持で便船毎に其等の遠国へ往復する。昔の倭寇の意気は彼等に由つて継承されて居ると云つて好からう。
内地に居る日本人は海外の醜業婦と云へば一概に憂目を見、又堕落して居る者の様に考へるが其れは全く反対の観察である。彼等の生活の贅沢な事は到底内地の芸娼妓の想像も及ばない所だ。彼等の装飾品を供給する為に日本の雑貨店の多数が何れ位海外で富を造つて居るか。彼等の三度の食事が何れ位美味に飽いて居るか。又彼等の愛国、愛郷、孝悌の情操が何れ丈根強くて年年祖国を富ませて居る事が如何に大きいか。上海、香港、新嘉坡、何れの日本居留民中にあつても公共的の事業に物質上の基礎となつて居る者は常に彼等では無いか。識者にして是等の実情に通じたならば、貧乏な日本の現状で実生活と懸け離れた骨董道徳を楯にけちけちする事の非を悟り、内地に於て売れ口の無い女をどしどし輸出向として海外に出だす事の国益である事を主張するであらう。
日本娼婦の稼ぎ高は全く抱主と折半で、衣類を除いた外食物其他一切の雑費は抱主の負担であり、此外内地と異つて纒頭の所得が多いと云ふ事だ。一人に就て一箇月の所得を尠くも五十円と見積り、その半額を衣服に費すとしても二十五円の貯金をする事は容易である。横浜や神戸、大阪あたりから渡来した女は情夫の為に浮ぶ瀬の無い境遇に堕ちる者が多いが、長崎県の女は意志が堅くて、情夫はあつても物質上の損害を被る事が少く、四五年も居れば大抵二三千円の貯金を郷里に送る相である。(十一月廿八日)
臙脂の中に濃い橄欖を鮮かに交へた珍しい曙光を浴びた我船は徐徐とマラツカ海峡の西の出口ペナン島の港に入つた。名物男のガイドでシイ・※[#濁点付き井、33-5]イ・ホテルの客引を兼ねた馬来人メラメデインが鈴木鼓村に酷似した風采をして見物を勧めに来る。「此男忠実にして信用すべき案内者なり」と云ふ様な証明や「但し見掛によらぬ辣腕ありと見え彼が妻は西洋人なり」と冷かしたものや、山内愚仙が描いて与へた彼の顔の写生や、文部省の留学生某の彼を推讃した拙い歌やで一ぱいに成つた厚い手帳を出して見せ、莞爾として得意相である。
彼に託して馬車数台を傭ひ市外一里の官山にある極楽寺に遊んだ。途中は一面の大椰子林で、其奥へ折折消えて行く電車や、床下の高い椰子の葉を葺いた素樸な田舎の社がぽつんと林の中に立つて居るのなどが気に入つた。何処へ行つても道路は好いが、鉄輪の響くのと石灰質の白い土から反射する日光の強いのに閉口する。極楽寺は光緒十二年に建てた支那の寺院で、山層を利用して幾段にも堂舎を築き上げ、巨額の建築費を要したもの丈に規模は大きいが、中に安置した釈迦、観音、四天は布袋の巨像と共に美術的の価値は乏しい。唯だ一体に清潔なのと観望に富んで居るのとが遊客を喜ばせる。永代供養を捧げる富家の信者が在住支那人中に多いと見えて何れの堂にも朱蝋燭の明と香煙とを絶たない。茶の接待、水浴室の設備なども鄭重である。茶亭には花卉の鉢を陳べ乃木東郷両大将の記念自署などが扁額として掛つて居た。或堂で見た緬甸風の弥陀三尊の半裸像は一見して横山大観の「灯籠流し」の女の粉本と成つたものらしかつた。最高楼から先刻通つて来た大椰子林を越えて市街、港内、対岸の島を眼下に収め、左右両翼を披いた山の樹間に洋人のホテルや住宅の隠見するのを眺め乍ら、卓を囲んで涼を納れた。
案内者のメラデイイン爺が望む儘に滿谷等は彼を写生し、三浦工学士と僕とは彼の手帳へ証明を与へてやつた。頻りに渇を覚えたが危険を恐れて一切飲料を取らず、寺僧が施本として呉れた羅状元の「醒世歌」を手にして山を下つた。四人の画家連は写生の為に林中に留り、小林近江等は瀑布と植物園とへ廻り、僕と三浦等は市内を一週して先に帰船した。馬車料は一台三円案内者へは一人二十銭宛を与へた。此港では釣が出来ると云ふので甲板の上から牛肉を餌にして糸を垂れる連中がある。三浦は黒鯛に似た形の、暗紫色に黄味を帯びた二尺許の無名魚や「小判冠り」を釣つて大得意である。
翌朝早く起きて舷に凭つて居ると、数艘の小船に分乗して昨夜出掛けた下級船員の大部分が日本娼婦に見送られ乍ら続続帰つて来る。須臾にして異様な莫斯綸友染と天草言葉とが我船に満ちた。正午に碇を抜く迄彼等は別を惜むのである。(十二月一日)
ペナンから印度人の甲板旅客が殖えた。稼ぎ儲めて帰る労働者だが、細君や娘は耳、鼻、首、腕、手足の指まで黄金づくめ宝石づくめの装飾で燦燦して居る。大した金目だ。彼等回回教徒の習慣として他人種の煮炊した物は食はない、炭薪携帯で唯だ水の給与を船から受ける丈、而して自炊した食物を大皿に盛つて右の手で掴んで食ふ。一切箸を用ひない。食指大に動くと云ふ語は彼等に適切である。食ひ終つた指は洗ふ代りに綺麗に舐めて仕舞ふ。贅沢な連中は食後に青い椰子の実を鉈で割いて核の中の水を吸ふ。レモンの様な味で一個の実に三四合入つて居る。彼等は左の手を不潔な場合の手と定め、食事用の右の手を尊重して居る。
僕はペナンを出帆してから郵船会社の厚意で一等室へ移して貰つたが、幸ひ相客が無いので広い涼しい部屋を一人で占領する事となつた。一等船客には千頭、宮坂などと云ふ海軍大尉が乗つて居る。気の置け相にない連中だが、まだ馴染が浅いので食堂で顔を合す許り、僕は相変らず二等室へ出掛けて日を暮して居る。スマトラを左舷の遥彼方に望んで印度洋に掛つたが、予期して居た程の暑さも無く、浪らしい浪にも遇はない。夜などは室内に毛布を掛けて寝て少し涼し過ぎる位である。雨季で夕立の多い加減もあらうが、此様な好都合づくめの航海は珍らしいと船員が驚いて居る。
新嘉坡から乗つた印度の労働者が名の解らない急病に罹つた。言語が通じないので船医が見計らひで薬を飲ませたが、黒い顔に白い目を据ゑ白い歯を出して黙つて苦痛を忍んだ儘死んで仕舞つた。同国人に遺言に頼む気色も無かつた。制規の時間を置いて翌朝暗い内に水葬に附した。臨終に計つた※[#「執/れんが」、U+24360、39-5]が三十九度あつたと云ふので肺ペストでは無かつたかと俄に気に仕出す連中がある外、死者に対して格別同情する者も無かつた。
コロムボに入港する晩僕は船長の許しを得て船橋に立つて居た。十哩前から見えたコロムボ市街の灯火は美しかつた。月が照り乍ら涼しい雨が降つて居た。世界一と云はれる大きな防波堤が左右に伸びて、灯台の回光機は五秒毎に明るくなる。港外で一寸停船すると小蒸汽で遣つて来た英人の水先案内が上つて来て、軽い挨拶を交換するや否や船長に代つて号令し初めた。航海日誌を書く船員が端から其号令を書き留める。偉大な体格の、腹の突き出た諾威人の船長は両手を組んだ儘前方を見て動かない。麦藁帽を冠つた優形の水先案内は軽快に船橋を左右へ断えず歩んで下瞰し乍ら響のよい声で号令する。船は狭い港口を徐徐と入つて港内に碇泊して居る多くの汽船の間を縫つて行く。此二三十分間に僕は初めて高級船員の威厳と興味とを感じた。
其晩の八時から二等室で日本人の酢屋と英人のカアタアと両人の為に僕等の仲間で心許りの送別会を開いた。酢屋は横浜の貿易商で孟買とカルカツタとに十年前から店を持つて居る。孟買と聞くと僕等の門外漢には大分に日本商人の勢力が及んで相に想はれるが、三井物産と郵船会社との支店を除いて個人の経営する商店と云へば酢屋丈だ相である。夫を酢屋は憤慨して居る。一己の利益から云へば競争者の無い方が好い様な物の、印度の本土一般に亘つて日本絹の販路は無限である。日本商人の為に同業の競争者の多数に起る事を望むと言つて居る。其方面の事情を委しく聞きたい人は横浜市元浜町三丁目の酢屋定七君の本店に問合されるが好い。氏は三箇月毎に日本へ往復して居る。「スヤ」と云ふ姓は印度人の最も嫌ふ「豚」の印度語と似て居るので、印度の店は別所と云ふ従弟の姓を用ひて居る相である。
カアタアは一二等客の西洋人を通じて最も教育ある最も品格の高い老人である。本国ではエスペラント語の会の副会頭をして居る相だ。日本贔屓の男で、十七年前に一度日本へ来たが、今度も六十歳を越えた老人の身を気遣つて娘が見合せよと云つたに拘らず出掛けたと云つて居る。林檎の様に赤い顔をして大きな煙管を啣へて離さず、よく食ひ、よく語り、よく運動する元気のいい爺さんである。近年細君に死なれてからは各国で職に就いて居る子供の処へ遊んで廻るのを楽みとして居る。此処から船を乗替へて南阿のトランスバアルに居る末子の許を訪ふのだ相だ。而して到る処でエスペラントの普及を計るのだと言つて其方の印刷物を沢山荷物として携へて居る。世界を家とし老いて益壮なカアタア君は僕等の理想的老人だと告げたら、彼はエエス、エエスと云つて喜んで居た。彼は日本酒に酔ひ乍ら卓上演説をなし、又明快な声で長篇の詩を朗詠した。
一等室に怪しい外国婦人が二三人乗つて居る。一人の英国婦人は全体が余りに大作りで妖怪的な感を禁じ難いが、顔丈見れば一寸美人である。此※[#「執/れんが」、U+24360、43-1]田丸が此前日本へ帰る時にペナンで同行の情夫を棄てて窃に上陸し去つた女だ相であるが、今度は一人で香港から乗りペナン迄の間に早くも某外人を捕獲して仕舞つたとの評判である。劇しいヒステリイ症の女で前の航海には船医が大分悩まされたと話して居る。其女が今夜突然また此処から上海へ引返すと言出した。事務長が理由を問ふと、先に棄てた情夫が俄に恋しくなつて矢も楯も堪まらないのだと言ふ。
コロムボの防波堤の大規模にも驚くが、其れに曾て一千万円を投じた英人の遠大な経営に更に驚く。防波堤が無かつたら直ちに印度洋の荒海に面したコロムボは決して今日の如く多数の大船を引寄せ得る良港とは成らなかつたであらう。其れに何れの英領へ行つても感じる事であるが、陸上の道路の立派な事も驚かれる。英人が先づ運輸通商の便を計つて新領土の民心を収めようとする遣口は兎角武断の荒事に偏する日本の新領土経営と比べて大変な相違である。
錫崙の土も新嘉坡と同じく赤く、雨水が溜れば朱の色となるのは美しい。驟雨を衝いて力車に乗り市内を見物して廻つたが、椰子は勿論、大きな榕樹、菩提樹、パパイヤ樹、爪哇竹などの多いのが眼に附く。柏に似た葉のボオビイス・アウスが到る処に明るい緑の若葉を着けて居るのも快い。赤い粗末な瓦屋根も天然と調和して見える。其れに支那人の勢力がペナン限で此処まで及んで居ない所から不潔と悪臭とに満ちた支那人街を全く見ないのが好い。流石に黒奴の本国丈に黒奴が威張つて居る。又黒奴にサアやナイトの爵位、立法議会の選挙権などを与へて或程度まで威張らせて置く英人の度量が大きいと言はねば成らない。
併し英国政府も印度人の教育を高め過ぎた事を近頃少し後悔して、徒弟学校、工業学校の様な方面の教育に人心を向けようとして居るが既に時機が遅いらしい。元来瞑想的な事に長けた印度人だから哲学や法律の理解が好く、自由思想は日本の学生よりも概して徹底して居るので段段英政府の施設が面倒に成つて来た相だ。革命的の思想も此地は然程で無いが印度本土には可なり盛だと云ふ事で、新聞は支那の革命戦争の記事を小さく纔二三行で済ませて居る。昨今は英帝が印度皇帝としての戴冠式を挙げる為に孟買に行幸して居られるが、革命党が何か仕出かしはしまいかと半年前から非常な警戒だ相である。併し頭許りで手の疎い国民である上に英政府が多年の巧妙な経営に馴致されて居るのだから、支那の革命党の様な実行の危険は永久に起るまいと想はれる。
印度人と一口に云つてもヒンヅ、タメル、マホメダン、波斯人、錫崙土人其他種種に分れて居る。彼等の間で富んだ者と云へば直に一億円以上の財産を有つた者を意味する程富豪が多い。三浦工学士の友人の弟の臼井清三と云ふ青年が、柔術の教師として招聘されて居るサラムと云ふ一家などはコロムボで第二流の富豪だと云ふが、椰子林の収入丈でも毎月一万円を越える相だ。三浦と僕は臼井が船へ伴れて来たサラムの一人息子と語つたが、家が古い基督教徒で英国の教育を施して居る丈に流暢な英語で元気よく政治や文学を話すのは十七歳許りの少年の思想及び態度とは思はれなかつた。一般に南国人は早熟なのであらう。
サラムの息子は一箇月も僕等に滞留する暇があるなら田舎へ象狩と鰐狩とに同行したいと云つて居た。本年の象狩には一百頭の象を柵内に追込む事が出来た程の大猟であつた相だ。象一頭の価格は六千円して居るから大した獲物である。
一二等客の日本人は船の永島事務長を加へてクツクの案内で仏牙寺のあると云ふキヤンデイへ汽車旅行をした。四人の画家と三浦と僕とは加はらなかつた。キヤンデイは昔の錫崙王の都で、峨峨たる石山に取囲まれた要害の地丈に最後迄英軍に反抗した古戦場だ。英軍が気長に洞道を切り開いたので漸く陥落したのである。昔罪人を石山の絶頂から生き乍ら棄てた断崖も名所として遺つて居る相だ。釈迦の歯の真物は異教徒に焼かれて今のは象牙で偽作した物だと聞いた。先年暹羅から日本へ贈つて来た仏牙も大方此類であらう。
コロムボで名高い釈迦仏陀寺を訪ふたが、近年スマンガラ僧正の歿後は僧堂の清規も振はないらしく、大勢の黄袈裟を着けた修行僧は集まつて居るが、寺内の不潔に呆れる外は無かつた。聞けば僧正の歿後悪僧によつて纔[#ルビの「わづ」は底本では 「わづか」]か二百金で一俗人の手に売渡されたのだと云ふ。釈迦堂其他を開扉して呉れたが美術的の価値の無い俗悪を極めた物許りであつた。僧正の遺品だと云はれる経巻が鼠糞に委せられて居た。僕の長兄も律宗の僧であると告げたら寺僧は無造作に其経巻の貝多羅葉数枚を引きちぎつて呉れた。庭内の老菩提樹には神聖の樹として香花を捧げ、又日本の奉納手拭の如き小切を枝に結び附けて冥福を祈る信者が断えない。参籠堂とも言ふべき所には緬甸から来て印度の仏跡を巡拝する中流以上の老若男女の大連が逗留して居て、中に日本の処女かと想はれる美人が多く混つて居た。大樹の蔭に淡黄色の僧堂と鬱金の袈裟を巻きつけた跣足の僧、この緑と黄との諧調は同行の画家のカンバスに収められた。(十二月八日)
コロムボを立つてから数日の間海水は猶九十度の温を持つて居た。十日目にアラビヤと亜弗利加が稍近く見え初める様に成つて夜間は毛布を重ねて寝る必要があつた。午前四時頃シナイ山らしい山を右舷に望んだ其日の夕暮に蘇西の運河へ這入つた。見渡す限りセピヤ色の砂丘が連続し、蘇西の市街や運河の其処此処にある信号所の附近を除いては全く一草一木も生えて居ない。埃及の空に落ちる日の色は紫褐色を漲らして居た。隅田川の半分も無い運河の幅は、屡八千噸の※[#「執/れんが」、U+24360、49-12]田丸を擱砂させ、其度に御納戸色の水が濁つた。河底が饂飩粉の様に柔かいし船の速力も三分の一に減ぜられて居るので擱砂しても故障は無い。唯だ行き合ふ船がある場合に信号所の命ずる儘に何れかが一方の岸へ繋留させられ其度に四五十分を費す。運の好い時には他の船ばかりを避けさせてずんずん通過する事が出来る相である。行き合ふ時双方の船客が帽やハンカチイフを振り互に健康を祝つて叫び交す。又信号所の附近にある人家の楼上から女子供が「ボン、ヴオアイヤアヂユ」などと仏蘭西語で呼び掛る。夜が更けるに従つて秋めいた星月夜となつたが、河筋を伝つて北から吹く風が今日俄に取出した冬服を徹して寒い。寥廓たる万古の沙漠を左右にして寝て居るのかと思ふと、此沙漠の中から予言者が起つたり、行き暮れた旅客に謎を投げると云ふスフインクスの伝説が生じたりするのも自然らしい事の様に感ぜられた。
翌朝はポオト・サイドに着き、出帆までに纔に余された二時間を利用して港に上つた。コロムボ以来十三日目に土を踏むのである。蘇西の河口の洲の上に建てられた此市街は狭い乍らも欧洲の入口丈に余程東洋の諸港と異つた感がした。どの酒舗にも茶店にも早天から客が詰め掛けて居る。髪を長くした伊太利人の楽師がマンドリンとギタルを合奏するのを聴き乍ら、店頭の卓に凭つて麦藁でレモン・カアツシユを呑気に吸ふ客があるかと思ふと、酒舗の奥の一隅では目を赤くして麦酒を傾け乍ら前夜から博奕を引続き闘はして居る一団がある。官衙の掲示も商店の看板も英仏埃及の三語で書かれて居る。清国の革命騒ぎも此処では最早問題に成らない代りに伊土の戦争が適切な問題に成つて居る。土耳其人に聞けば伊太利が結局は負ると云ひ、伊太利人に聞けば其れと反対な事を云つて居る。カイロまで行く遑の無い旅客の為に埃及土産を売る商店が幾軒もある。僕等は埃及模様の粗樸な趣のある布を数枚買つた。絵葉書屋へ入ると奥まつた薄暗い一室へ客を連れ込んで極端な怪しい写真を売附けようとするので驚いて逃げ出した。此処のアラビヤ族の黒奴は馬来や印度のに比して一層毒毒しい紫黒色をして居て、肉も血も骨までも茄子の色を持つて居相に想はれる。わが船が着くや否や集まつて来た石炭船から幾百の黒奴が歯まで黒く成つて現はれ、曇つた空の下に列を作つて入交り石炭を積み初めた時は鬼の世界へ来たかと恐ろしく感ぜられた。地中海から吹く北風に石炭の埃が煙の様に渦を巻いて少時の間に美しい白塗の※[#「執/れんが」、U+24360、54-1]田丸も真黒に成つて居た。出帆時間が来た。地中海に面した港の口に運河の設計者レセツプスが地図を手にして突立つて居る銅像を左舷に見ながら愈欧洲に一歩踏み入る旅客となつた。(十二月廿三日)
地中海に入つて初めて逆風に遇い、浪の為に一時間五浬の速力を損失する日が二日程つづいた。艫の方の友人は大抵僕の室へ来て船暈を逃れて居た。伊太利のメシナ海峡を夜半に通過する事に成つたのでエトナ山もブルカノ島も遠望が出来なかつたが、夜明にストロンボリイ島の噴火丈を近く眺めた。糢糊たる暁色の中に藍鼠色をした円錐形の小さい島の姿が美しかつた。山麓に点点たる白い物は雪であらうと云つて居たが、望遠鏡で望むと人家であつた。噴煙は噴き出る端から雲と成つて薄いオレンヂ色に染まつて居た。
船が一日遅れたのでマルセエユの聖誕祭を観ることの出来ないのを洋人の乗客は残念がつた。船中のクリスマスは相応に立派な飾り付が出来たが、二等室は動揺がひどいので日本人の大部分は食卓に就かなかつた。一等室の食卓では西洋人も予等も互に三鞭の盃を挙げて祝合つた。此日の午後一時にサルヂニアとコルシカの海峡を通つた。コルシカ島の禿げた石山が汐煙の中に白く隠見して居たのはいい感じであつた。米国の一宣教師は十二歳の息子に奈破侖の話を聞かせて居た。翌日の朝マルセエユに着いた。砲台のある湾口の島に並んで有名なシヤトウ・ド・デイツフの牢獄の島が白く曇つて居た。市街の向つて右の石山の上にはノオトル・ダムの尖塔と黄金の女神像とが聳えて居る。大洋に向つて石垣の一横線を築いた新港の規模の偉大な事はコロムボの築港などの及ぶ所で無いと想はれる。港内の左右には幾十の荷揚場が列り、殊に陸に沿うた左の方には天井を硝子張にした堅牢な倉庫が無数に並んで居る。閘門が数箇所に設けられて其上に架した鉄橋は汽船の通過する度に縦に開く仕掛に成つて居る。併し此新港も最う新しくは無い。※[#「執/れんが」、U+24360、56-6]田丸以上の大きな船を自由に繋ぐ事の困難なのを想ふと旧式に属するらしい。船の進行に伴れて可愛い十三四の二人の娘が緋の色の裳を円く揚げながら、母親らしい女の弾くマンドリンに合せてマルセイユウズの曲を舞つて甲板の上の旅客に銭を乞うて居る。其れを観て初めて仏蘭西へ来た気がした。
お寺や博物館を見物する為にマルセイユに二日滞在する事にして、夜は永島事務長と牧野会計とをジユネエブ・ホテルに招待し、一二等船客の日本人相寄つて心許りの別宴を催した。一人三分間の卓上演説に何も話す事の無い僕は三度お辞儀をした。此処から猶英国まで続航する日本人は五人である。三井の小林君はビスケエ湾が荒れると聞いて僕等と一緒に汽車で行く事に改めた。
其晩は葡萄酒に酔つて船へ帰つて寝た。翌朝は春雨の様な小雨が降つて居る。此様に温かいのは異例だと此地に七八年案内者をして居る杉山と云ふ日本人が話して居た。マルセイユは港として盛ではあるが、市街は甚だしく穢い。道路の悪い上に大通から少し横町へ入れば糞便が溝を成して居る。博物館は休日であつたけれど、守衛に特に乞うたら直ぐに入れて呉れた。シヤンヌのマルセイユを描いた二枚の壁画、古い所でペルヂノやリユウバンスの作品が目を惹いた。巴里のペエル・ラシエエズの墓地にあるバルトロメの「死」の塑像の模作もあつた。植物園の黄昏に松や芒を眺めてバンクに憩うた時は日本の晩秋のうら寒い淋しさを誰も感ぜずに居られなかつた。
今日の午前に近江は一人でミユンヘンへ立つた。僕等の巴里へ行く五人に倫敦へ行く小林を加へて午後八時にマルセエユを立つ時、今夜遅く伯林に赴く三浦財部の二学士を始め久しく船中の生活を共にした永島事務長や牧野会計が停車場へ見送りに来て呉れた。日本語許を使つて居た世界から愈々別れるのであると思ふと横浜を離れる時よりも淋しかつた。発車の間際に牧野の音頭で「しやん、しやん、しやん」と三度手打をしてプラツト・フォオムの群衆を驚かせた。車中には正月の用にと云つて※[#「執/れんが」、U+24360、58-2]田丸から大きな「数の子」の樽を積んで呉れた。(十二月二十八日)
巴里へ着いてから四日目の朝だ。オテル・スフロウの二階で近いスルボン大学の鐘を聞き乍ら病院に居る様な気持で白い寝台の上から窓を眺めた。陰鬱な冬曇りが続く。巴里全市は並木も家も薄墨色の情調に満ちて居る。正午前に石井柏亭が来た。此間停車場へ小林萬吾と一緒に迎へに来て呉れた時も既に感じた事であつたが、揉上をよい程に短く剃り上げて見違へる程色の白い美しい男に成つて居る。小脇に挟んだ英国の一雑誌には頼まれて寄稿した柏亭自身の論文や絵が巻頭に載つて居る。其論文は最近日本の芸術に就て大分に気焔を吐いたものであつた。相応の確な研究と一種の突つ込んだ直覚とから得た断案を率直に語る此人の芸術批評は面白い。相変らず話の中で折折吃るのも有り余る感想が一時に出口に集まつて戸惑ひする様で却て頓挫の快感を与へる。
リユウ・デ・ゼコルの通りへ出て大学前の伊太利亜料理で午餐を済ませた後、地下電車に乗つてユウゴオの旧宅をプラス・デ・スチル街に訪うた。旧宅は十八世紀の建築だと云ふ一廓の中に在つて、屋上に三色旗が飜つて居る。故文豪が一八三三年から一八四八年まで住んだ家だ。ユウゴオを記念する小博物館として大抵の遺作、遺品、故人の著作に挿んだ絵の下絵、著作の広告に用ひた絵、其他故人に関係ある雑多の物が陳列されて居る。故人の大理石像の前に「シエキスピアの家より」としてユウゴオの今年の誕生日に英国から贈つて来た花環が青枯れた儘捧げられて居た。文豪の旧宅が互に贈答をする習慣も奥ゆかしい。ユウゴオの手沢の存する一卓の上に故人の用ひた鵞筆と銅のインキ壺を始め、友人であつたラマルチン、アレキサンダア・ヂユウマ、ヂヨウヂ・サン三人の筆や墨壺が載せてあつた。
ユウゴオの描いた絵の多いのに驚いた。ロマンチツクな物ばかりではあるが、確な写実が根柢と成つて居る。故人の狂※[#「執/れんが」、U+24360、60-11]と沈毅と凝り性とが其等にも窺はれた。東洋趣味の珍らしがられた時代に故人も支那の漆噐の色や模様などから暗示を得て自身の意匠で作らせた一室がある。サル・ジヤポネエ(日本室)と名づけられて居るが、実は少しの日本趣味も無く、全く支那趣味ばかりである。其室の鏡の枠の模様には一茎の蔓に全く故人の空想から出来た奇抜な雑多の花と葉と実とが生じて居た。壁には大きな向日葵の花の中から黒牛が頭を出して居る絵もあつた。其等のユウゴオの「夢の華」が毫も不自然で無い許か、空想の天地に自適して如何にも楽し相である偉人の心境が流露して居る様に思はれた。柏亭と僕とは番人の婆さんから絵葉書を買つて其家を出た。
夜は柏亭、滿谷、徳永外二人とギニヨル座の芝居を観に行つた。除夜とは云へ巴里人には此月から最う正月の芝居である。芝居のはねるのは元日の午前一時前になるので、十二時を越すと観客は互に「おめでたう」を交換して居た。よい席は予約があつて僕等は後の方に分れて坐らざるを得なかつた。此座の出し物には凄い物が多いと聞いて居たが、材料を支那に取つた「紅雀」二幕と「鬼を見て来た男」一幕は不気味な物である代りに「妖惑する女」や「隅の部屋」の様な大甘な喜劇を取合せて気分の平衡を計つてあつた。すべてが新作である。中にも「紅雀」は青い被ひを着せた紅雀の籠が何事かの象徴であるらしく終始観客の心を引附け、支那の貴人の家の静かな男女の挙止応対が全く沈鬱な気分を舞台に漲らせた。何時の間にか前の幕で紅雀の紛失して居たのは隣人の盗んだのである事を主人自ら後の幕で静かに問ひ詰め、突然その隣人の喉に蛇の如く弁髪を巻き附けて締め乍ら、隣人が「それは自分だ」と二声自白する間に両方の顳を悠然と一刀づつ刺す。主人の妻が「あツ、あツ」と夜天に鳴く五位鷺の様な声をして驚き倒れる機会に鳥籠が顛倒かへると、籠の中から隣人と不義をした妾の生首が現はれて幕に成つた。支那人の残忍な気持が我我日本人の解して居るよりも徹底して表現されて居るやうに想はれた。婦人の観客が上衣を脱いで肉色の勝つた胴衣の美しいのを誇りかに見せるのは大阪風に似て居る。外へ出ると何の酒場も珈琲店も徹宵して除夜を送る客で満ちて居た。(一月四日)
此頃の巴里はよく深い霧が降る。倫敦の霧は陰鬱だと聞くが、冬曇の続く巴里では却つて此霧が変化を添へて好い。ゴシツクの塔が中断せられて意外な所で尖を見せたり、高い屋根の並ぶ大路が地下鉄道の洞の様に見えたりするのも霧のせいだ。偶太陽を仰ぐ日があつても終日霧の中でモネの絵にある様な力の弱い血紅色をした小さい太陽を仰ぐ許、東京の様なからりと晴れて冴えた冬空を僕は未だ見ない。併しながら風が少しも吹かず、一体に空気が湿つぽく落着いて居て、夕方から後、街に灯が点くと、霧を透す温かい脂色の光が凡ての物に陽気な而も奥深い陰影を与へ、華奢な男女も忙しない車馬も一切が潮染の様な濡色をして其中に動く。何となく「海の底にある賑やかな都」と云つた風の感がする。
グラン・ブルアルを初め、目ぼしい大通を歩いて人道から人道へ越すときの危険なさ。地方から東京へ初めて出た人が須田町の踏切でうろうろするのは巴里に比べると未だ余程呑気である。前後左右から引きも切らずに来る雑多な車の刹那の隙を狙つて全身の血を注意に緊張させ、悠揚とした早足に半越て中間にある電灯の立つた石畳を一先づ足溜としてほつと一息つき、更に隙を縫うて向ひの人道へ駆け上り又ほつと一息つく気持は然は云へ痛快だ。だが又セエヌ河へ出て見ると、一週間前から洪水で通船が止つた騒ぎであるに関らず、水に浸つた繋船場の河岸の其処彼処で黒い山高帽の群が朝早くから長い竿を取つて釣をして居る。近づいて見ると女も幾人か混つて釣つて居る。石垣の上に涯も無く本箱を載せた、僕が其処を通る度に何時も馬場孤蝶君と一緒に覗き込まないのを遺憾に思ふ名物の古本屋の前には最うぞろぞろと人だかりがして居る。一所の本屋の主人である、肥太つた体へこてこてと着込んだ婆さんが僕をつかまへて「新しいロスタンの脚本なんかよりユウゴオ物をお読みなさい」などと勧めるのを観ると、身内の筋が悉く弛んですつと胸が開く様な暢達な気持を覚える。斯う云ふ緩急二面の生活を同時に味はつて居るのが巴里人なのであらう。
一週間ほど前の夜、僕が最う寝巻に着更へて居ると扉をこつこつ遣る人がある。誰かと思つたら大谷繞石君だ。「倫敦を今朝立つて来た。巴里に二泊してマルセエユから船で日本へ帰る積だ」と云ふ。繞石君に逢はうとは思ひ掛けなかつたので、扉を開けて這入つて来たのも、少時話した後で曲つた梯子段を寒い夜更に降りて行つたのも芝居の人物の出入りの様な気がしてならなかつた。呆気ない別れが其時は当然の事の様に想はれて格別何の感じも無かつたが、後になつて考へると何だか淋しい。二人で何を話したかも覚えず、唯繞石君の暫く散髪をしないらしい頭と莞爾して居た顔とが目に残つて居る許りである。
昨夜は柏亭とゲエテ街のカジノ・ド・モンパルナスと云ふ寄席へ行つた。巴里東部の場末に近い所だから此街の附近には労働者が沢山住んで居る。どの横町も灰色の夜陰に閉ぢられて灯影が少く、ゴルキイの「夜の宿」の様な物凄さを感じないでもない。其中で活動写真、寄席、酒場、喫茶店などの軒を並べて居るゲエテ街丈が地獄の色の様な火明に赤く煙つて居た。従つて寄席の客の大半は労働者で帽や白襯衣を着ない連中が多く、大向から舞台の歌に合せて口笛を吹いたり足踏をしたりする仲間もあつた。演じた物には道化た踊や流行唄や曲芸などが多かつた。若い女の犬使ひが三匹の黒犬を寝室に入れ、終始無言で犬と一緒に夜食の卓に就いたり、灯を消して裸に成つて寝たりしたのは一寸凄い気持を与へたが、盗人が忍んで来て犬に吠えられ短銃を乱発して防ぎながら終に咬殺されて仕舞ふのは、其れが見せ場である丈俗悪な結果であつた。寄席が散ねて少時は街一ぱいになつて歩く汚れた服の労働者の群に混つて帰つた。(一月十五日)
今は其季節で無いに関らず、いろんな絵の展覧会が各所に催されるのは嬉しい。新しい其等の会を毎日一箇所づつ観て廻つても不足しない様である。此間美術商として名高いドユラン・リユイル氏がその蔵幅を毎火曜日の午後に公開するのを其私宅へ観に行つた。客室を初め多くの室を食堂から寝室まで其日に限り開放して陳列室に供し、各室にフロツクコオトを着た係員を置くと云ふ行き届いた設備がしてある。幾百と云ふ蔵幅は大抵モネ、ピサロオ、セザンヌ、シスレエ、ドガア、ルノワアル等近代名家の作家の作品で満ちて居る。何れも其等印象派の画家がまだ名を成さない時代に買ひ集めたものが多いらしく、リユイル氏が愛蔵して売品としない物許りである。
一昨日は巴里の好事家が大勢寄つて二月の中頃までルウヴル博物館の傍で公開する装飾美術展覧会を訪うたが、二百五十室もあるので到底一箇月掛かつても観尽せるもので無かつた。中にモロオ氏が一人で出品した十余室の絵画は凡て前に挙げた印象派名家の初期の作許でリユイル氏の蔵幅と併せて此派の発達した経過を研究するのに甚だ有益を感じた。シスレエが珍らしく屋内の人物を描いた「鍛冶屋」や、マネが最初に物議を惹き起した「草の上の昼飯」などもあつた。又幾室かに亘つて歌麿の版画が陳列せられて居るのを観て、斯んなに多数の歌麿が巴里に愛蔵せられて居るかと先づ驚かされた。おまけに日本に居ては僕達に観る機会の無い逸品が多かつた。聞けば去年は清長の展覧会があつて沢山な出品であつた相だが、此秋あたりには広重の展覧会が催されるだらうと云ふ事だ。一体に巴里人の趣味が一方に雷同して傾く事なく思ひ思ひに自分の素性の同感する所を択んで自由に其れを研究し楽んで行く風の盛なのが面白い。例へば此装飾美術展覧会へ来て観ても然うだ。伊太利、西班牙、印度、埃及、支那、日本のどの室にも縦覧客が満ちて居る。自国を過重して異邦を毛嫌ひしたり、新しい作品に許り趨つて前代を蔑視すると云ふ風が無い。歌麿の室で一一絵の線を虫眼鏡で観て廻る※[#「執/れんが」、U+24360、70-8]心家があるかと思へば、工人を伴れて来てルネツサンス前の伊太利の古い寝台の寸法を取らせて自家用に模造させようとする紳士があるのを見受ける。劇でも同じ事、国立劇場で政府が保護して常に前代の傑作を演じさせて居るのは勿論、外の劇場でも旧い物と新作とを断えず交替に演じて居る。新作物が大入を占めるからと云つて余り続けて打つと、見識ある劇評家や識者から抗議が出て一般人に反省を促すと云ふ風だ。是でこそ深沈な研究と遍き同情との上に立脚して動揺の無い確かな最新の芸術が沸き出るのだと頷かれる。
浮世絵の鑑賞許りで無く、いろんな方面に日本贔屓の好事家が多いらしい。或未亡人などは日本の物事と云へば何でも愛着して、同じ仲間の婦人と竹刀を執つて撃剣をしたり御経を読んだりなんかする相だ。又日本の粗末な器物や米醤油の様な食料品を売る家も巴里に幾軒かあるのを見受る。併し其等の好事家が何処まで深く日本を領解して居るかと想像すると甚だ怪しい。此間ガウチエと云ふ人が新しく書いた「ル・ジヤポン」と云ふ薄片な本を、アカデミイの一員ジヤン・エカアルの推称した序文に絆されて読んで見たが、「支那の始皇帝の侍医であつた徐福が童男童女六百人を伴れて行つて日本の文明を開いた」と斯う云ふ調子で凡てが書かれて居たのでがつかりした。
滿谷と柚木が当分ロウランスのアトリエへ通ふ事になつて昨日その同学生との顔繋ぎの式があつた。新入生が一人三十フラン宛の酒代を出して饗応するのである。「カフエエへ」と云ふ塾監の声を聞いて今迄絵を稽古して居た五十余人の同学生が「オオ、ラ、ラ」と一斉に叫き立ち、各自分の椅子を片足に掛けてアトリエの前のリユウ・ド・ドラゴンの通に引ずり出し、裸で立つて居た三人のモデル女が服を着る遑も無く、外套を引掛けた儘で学生に胴上をせられ、通りの真中に据ゑた椅子の上に卸されると、忽ち五十の椅子が其れを円形に囲んで歌ひ初めた。向ひ側が直行き附けのカフエエに成つて居る。之が為に幾台かの自動車が少時交通を遮られる騒ぎであつた。一同がカフエエの二階へ繰込むと新入生に対する道化まじりの祝辞を述べる者、踊る者、歌ふ者、芝居の真似をする者、凡て無邪気な遊戯の限を尽して杯を挙げたが、二時間後には大風の過ぎた如く静まり返つて再び皆アトリエの中に絵筆を執つて居た。(一月十六日)
パンテオンの側のオテル・スフロウに泊つてから一箇月近く経つた。此宿は最初和田英作君などの洋画界の先輩が泊つて居た縁故で巴里へ来る日本人は今でも大抵一先ず此処へ落ち着く。其頃のスフロウは随分きたない宿だつたと聞くが、今は電灯やスチイムの設備も出来て居る。併し持主が二度も変つたので宿の者に以前諸君の遺した記念になる話を知つて居る者も無い。一緒に泊込んだ滿谷君等の四人はもう既に画室や下宿を見附けて引越して仕舞つた。僕も梅原君の世話でモンマルトルの方に下宿は見附かつて居るが、会話の稽古に行くミツセル夫人の下宿が近いのと、喫茶店に気に入つた家があるのとでまだ越さずに居る。
ミツセル夫人と云へば其れがオテル・スフロオの初代の主人の細君だ。割合に教育のある、品の善い、親切な婆さんで、二十年間に世話をした日本人の写真を出して見せては自分の育てた子供の話をする様に得意相である。和田英作君の留学時代の若若しい写真と近頃のとを比べて「斯んなに変つたか」と問ふ。肥満つた赤顔の主人は御人好で、にこにこし乍ら僕が行く度に外套を脱がせたり着せたりする。「うちの細君は英語も出来るし、日本人に教へつけても居るから語学には便利だ」とか「兵隊に成つて居る長男を見て呉れ」とか云つて自慢する。才走つた人づきあひの好い細君は「併し日本から詩人として巴里へ来たのはお前さんが初めてだ」などとお世辞を言ふ。日本人がいろんな物を遺して行つたり、わざわざ日本から送つて呉れたりするので日本品の小さな陳列場が出来ると云つて夫婦は喜んで居る。
僕が毎日の様に行くのはリユクサンブル公園と、其処の美術館とだ。一葉をも着けない冬枯の、黒ずんだ幹の行儀よく並んだ橡樹の蔭を朝踏む気持は身が緊る様だ。帽も上衣も裳も黒つぽい所へ、何処か緋や純白や草色を一寸取合せて強い調色を見せた冬服の巴里婦人が樹蔭を行き交ふのも面白い。子供が池に帆のある船を浮かべたり、独楽や輪を廻して遊んだりするのはナシヨナル読本の中の景色だ。子供の服装は近頃ル・マタン紙の婦人欄の記者が批難した通り「何等らの熟慮を経ない、唯だ華美に過ぎた複雑な装飾」に流れて、見た目に一応美しくはあるが、其れが衛生的でも教育的でも無いのは、日本の中流以上の娘の子の晴着と稍趣が似て居る。子供が軽快に遊戯する為めの服装で無く、母親が子供を自分の玩具にしたり他人に見せ附けたりする為にこてこてと着飾らせるのである。娘の子の裳も円く踊子の様に披いたので無くて、大人の女の服装と同じく日本の衣物の様に細く狭く直立したのが流行つて居る。日本の七八歳迄の娘が被る円く張金が入つて上に斜にリボンの掛つた帽は、巴里へ来て見ると却て大学生の正帽であつて、子供には見掛けない。猶何かの儀式の外そんな正帽なんか平生に被る大学生は居ない様である。(一月二十一日)
土曜の午後から日曜へかけては殊にどの公園にも人出が多い。飛行機の本国だけに自製の飛行機の模型を試験的に飛ばせに来る研究家も少くない。二三人は必ず男女の画家が写生に来て居る。ベンチに凭掛つて昼日中居眠をして居る立派な服装の細君もある。伴れて来た五六匹の犬が裾の所で戯れて居るなどは呑気だ。犬を婦人が可愛がることは子供を可愛がる以上とも云ひたい位だ。犬には寒さを防ぐ為に大抵物が着せてある。腰から以下を二分刈にし上半身の毛を長く伸ばして獅子の形にした犬などは憎さげだ。夫婦づれで乳母車を押して来るのもある。乳母車は大抵長い外套を着て頭から裾迄大幅のリボンを二筋垂れた一定の服装の褓母が押して居る。車の中の赤ん坊は水色か何かの毛布に埋まつて全く人形の様だ。此寒空に外へ出してよく病気に成らない物だと思ふが、東京の様に乾風が吹かないせいもあらう。又巴里の様に日当りの悪い構造の建築では室内に子供を置く事が却て病気を惹起し易からう。併し一体に巴里人は十五歳以下の子供を屋外に出さない。夜間は勿論昼間でも巴里の市中に子供を見る事は至つて少い。見掛るのは小学校の往復の時間位なものである。其れで土曜から日曜の両親や監督者の暇な日に一時に公園へ伴れて出る。と云つて幾つかの大公園に遊んで居る子供は巴里市内の子供の総数から云へば千分の一にも当るまい。ル・マタンの記者が口を極めて子供を公園へ出し屋外の空気に触れさせよと勧告して居るのは道理である。巴里の母親は余に自分の遊楽に耽つて子供の自由を顧みないと記者は言つて居る。
パンテオンは羅馬の其れに擬して仏蘭西の偉人を国葬する寺だ。ロダンの作で有名な「思想家」が入口の正面の空地に円い屋根、円い柱の大伽藍を背負ふ様に少し屈んで、膝の上の片肱に思慮と意志との堅実相な顔を載せて居る。堂内の数数の壁画の中で何時見ても飽かないのはシヤンヌの作だ。僧が斧で斬られた自分の首を攫んで居るボンナアの壁画は思ひ切つて寒い色が目を引く不気味な物である。案内者に導かれて地下の墓洞へ下りて行くと、龕毎に学者政治家達の石棺が花環に飾られて蔵まつて居る。案内者が名と小伝とを高らかに云つて呉れる中で、僕の耳にはルツソオ、ヴオルテエル、ユウゴオなどの文学者の名が強く響く。三四年前反対派の大騒ぎがあつて改葬されたゾラの棺はユウゴオと同じ龕の中に向合せに据ゑられて居る。
僕は夕飯後によく有名な「リラの庭」と云ふラタン区のキヤツフエエへ行く。僕より一月早く来て巴里の珈琲店通に成つて仕舞つた九里四郎が初め伴れて行つて呉れたのだ。其処は以前から詩人や画家がよく集る所で、謂ゆる「自由な女」などは殆ど来ない。品の好い変り者計りが集つて杯を前に据ゑ乍ら原稿を書いたり、坐談をしたり双六や骨牌を静かに弄んだりする。大学生も田舎臭くない気の利いた連中が同窓の女大学生と伴れ立つて遣つて来る。若い詩人仲間の保護者を以て任じ、偶には詩の一つも作ると云つた風の貴婦人も其若い仲間に取巻かれ乍ら長閑に話して居る。(一月二十三日)
石井柏亭が一月二十三日に西班牙から北部伊太利への旅行に出掛けた。其二三日前七八人寄つて送別の積りで夕飯を一緒にした帰りに、徳永、九里、川島、僕の四人でチユイルリイ公園に沿うた氷宮へ氷滑りを観に行つた。設備は巴里に幾つもある舞踏場と似て居るが、人造の氷で踊場を池の様に張詰めて其上で入場者が自由に踊り狂ふ所が異ふ。之は巴里に一箇所しか無いから昼夜とも賑はつて居る。場内には教師が幾人も居て滑り慣れない者に手を執つて教へる。僕等が行つた時は肥つた一人の貴婦人と浅黒い顔の猶太人とが危なつかしい腰附で徐徐と人込の中を教師の手に縋つて歩いて居た。併し見渡した所大抵熟練した連中許りで然う見苦しい素人は居ないやうだ。舞踏場で踊る事が既に贅沢な遊びであるのに、危険の伴ふ氷の上で自在に踊るのは二重の愉快であらう。其上に婦人は流行の新装を見せびらかす楽みもある。十分間の休憩を置いて管絃楽が始まる度に下手な連中は引込んで、四方の観棚の卓を離れて出る一双宛の人間が入乱れ乍ら素晴しい速度で目も彩に踊つて廻るのは、美しい虫の大群を虫眼鏡で眺めて居るかと思ふ程の奇観だ。踊る事の出来ない国から来た僕等は鈍い動物が人間を観る様に二階から黙つて珈琲を喫んで見下して居た。入場者は男より女の方が多い。女同志で幾組も踊つて居る。お母さんと娘とで踊つてる組もある。一人紫紺の薄手な盛衣を着て白い胸飾をした、細りと瀟洒なひどく姿の好い女が折折踊場に出ては相手を求めずに単独で踊の群を縫ひながら縦横に駈け廻る。其女が現れると妙に場内が引緊り、引込むと流星の過ぎ去つた後の様に物足らなかつた。余り僕等が注視するので其女も気が附いたらしく、後には僕等の下を通る度にわざわざ見上げて微笑んで居た。此処で木曜日には特別に舞踏の巧い連中許が踊る。其れで平生の入場料は三フラン(一円二十銭)だが、其晩に限つて六フラン取る事に成つて居る。帰途に大陸ホテルの前を過ぎると丁度今の季節に流行る大夜会の退散らしく、盛装した貴婦人の群が続続と自動車や馬車に乗る所であつた。ホテルの門前を警衛する騎兵の銀の冑が霜夜の大通に輝き、馬の吐く気息が白く這つて居た。(一月二十五日)
僕はパンテオンの側から河を越して反対に巴里の北に当るモンマルトルへ引越して来た。パンテオン附近と異つて学者や学生風の人間は少しも見当らず、画家(殊に漫画家)や俳優や諸種の芸人が多く住んで居る。名高い遊楽の街だけにタバランとかムウラン・ルウジユとか云ふ有名な踊場を初め、贅沢な飲食店や酒場や喫茶店が多い。派手な遊楽の女謂ゆるモンマルトワアルの本場であるのは言ふまでもない。昼日中また夜を徹して暁まで僕の下宿の附近には音楽と歌が聞えると云ふ風である。初めて越して来た日に重いトランクを女中のマリイと二人で三階へ引上げる時は泣き出したくなつた。日本の十畳敷許りの所に赤い絨氈を敷き詰めて、淡紅い羽蒲団の掛つた二人寝の大きな寝台を据ゑ、幾つかの額と二つの大きな鏡の懸つた可なり立派な部屋だが、半月程暖炉を焚かなかつたので寒さが僕をがたがたと慄はせた。石炭を燻べても燻べても容易に温まらない部屋の中で僕はしみじみと東京の家を恋しいと思つて居た。併し夜になつて初めて家族と一緒に食卓に就いた時は、何だか僕の好きな大阪の家庭で食事をする様な親しさを感じて少し心が落着いた。下宿人は多勢居るが家族と一緒に食事をするのは僕の外に四人の美しい娘だけだ。此家の細君が余程変つて居て間があればピアノに向ふか、でなくば踊の真似をして高い声で歌つて居る。食事の間にも肉刀で食卓を叩き乍ら歌つたり、年下の亭主の首を抱へて頬擦りをしたり、目を剥いて怒る真似をしたりするので、家の内は常に笑を断たない。其れに下宿人の娘の一人も剽軽者で細君に調子を合せて歌ひ、何かと冗談を言合ひ乍ら其末が直ぐ二人共歌の調子に成る。美男の亭主は何時でも「然うだ、然うだ」と言つて莞爾して居る。フツフウ、ユウユウと云ふ流行唄の二つの間投詞を取つて名づけた二匹の小犬が居て食卓の下で我我の足に突当り乍らうろうろする。膝へ駆上つても来る。其度にきやつきやと笑ふので小犬等も亦食卓を賑す一つに成つて居る。楽天的な滑稽けた家庭だ。之が純巴里人の性格の一種を示して居るのであらう。或友人から巴里人は倹素だから家庭へ入るのは不愉快だと聞かされて居たが、一概に然うでも無さ相である。食事なども並の料理店で食ふより旨く、又何時も「充分だ」と断らねば成らぬ程潤沢だ。驚くのは巴里の女は概して然うなんであらうが、細君や例の下宿人の娘等がよく酒を飲む事である。シトロンでも煽る調子で食事毎に葡萄酒や茴香酒を飲む。そして夜ぶかしをするので、大抵午後一時頃に起きる。僕は此女連中の化粧する所を興味を以て観て居るが、いろんな白粉を顔から胸や背中へ掛けて塗り、目の上下にはパステルの絵具のやうな形をした紫、黒、群青さまざまの顔料を塗るのは、随分思ひ切つた厚化粧だが、仕上を見ると大分に容色を上げて居る。男らしい洒落な性格の細君の他の一面には怖ろしく優しい所があつて、越して来て五日目に風を引いて僕が寝て居ると、毎夜午前二時頃に橙を入れたアメリンカンと云ふ※[#「執/れんが」、U+24360、84-3]い酒や玉子焼などを拵へて見舞に来て呉れたりする。僕は伊太利へ旅行するまで此家庭に居ようと思ふ。宿は 21. Bis, Rue Victor Mass にあるが、宿の主人の名はLouis Pirolleyである。(二月二日)
二月の最初の土曜日だ。ロオランスの教へに来る画室を参観に行かうと徳永に約束がしてあつたので珍らしく早起をした。其晩には薄い初雪が降つた程朝から寒い日であつた。暖炉の火が灰がちな下に昨夜の名残の紅玉の様な明りを美しく保つては居るが、少しも暖[#ルビの「あたゝか」は底本では「あたゝ」]く無いので寝巻の儘楊枝を遣つて居た手を休めて火箸で掻廻すと、昨夜の儘の盛高な形をして居た火は夢を見て居た塚の中の骨の様に脆く崩れて刹那に皆薄白い灰に成つて仕舞つた。生中いぢくらずに置けば美しい火の色丈でも見られたものを、下手に詩に為た許に本の面白い感情が失はれたのと同じ様な失望を感じた。女中のマリイの汲んで置いて呉れた水が顔や手先を針の様に刺す。今朝は急ぐので剃刀を当てることを止めて服を着ようとすると新しいコルへ前の釦が容易に入らない。窓から射す薄暗い明りの中で厭な姿が二つの大きな鏡へ映る。「大将、だいぶ弱つて居るぢや無いか」と僕の心の中の道化役の一つがひよつこりと現れて一言の白を投げた限引込んで仕舞ふ。「フム、フム」と黒幕の中で鷹揚に鼻の先の軽い一笑を演じる一つの心が其れに次ぐ。後は気の乗らない沈黙。其間にいて居た首と手とは漸とのことで釦を入れ終つた。洋服を着て仕舞へば、時計、手帳、蟇口、手巾、地図、辞書、万年筆と、平生持歩く七つ道具は彼の棚と此卓とに一定して置かれてあるので、二分と掛らないで上衣、下袴、外套の衣嚢へ各所を得て収められて仕舞つた。部屋に錠を下して置いて暗い階段を三つ下る。入口を出て台所の硝子戸をコツコツ遣つて見たが未だマリイは起きて居ない。※[#「執/れんが」、U+24360、86-3]い珈琲と牛乳とを啜つて行く事は出来なかつた。口を堅く閉ぢて鼻で深呼吸をしながら門を出た。南北地下電車では往復八銭の切符を呉れた。車中は男女の労働者で一杯に成つて居る。女は大抵帽を被つて居ない。未だ東京で三年前に買つた儘のを被つて居る僕の帽も此連中の垢染みた鳥打帽や亀裂れた山高帽に比べれば謙遜する必要は無かつた。序に日本人は平気で鳥打帽を被るが、巴里では専ら労働者の被るものである。シテエ・フワルギエエルの十四番地へ来ると徳永は最う起きて居た。「早く遣つて来ましたね、君。」「でも七時半だよ。」「ゆうべ長谷川君と遅く迄話し込んだので僕は朝寝をして仕舞つた。衣替をする間待つて居て呉れ給へ。」「滿谷は起きてるか知ら。彼処で待つて居よう。向には煖炉も消えてないだらうから。」「では然うして呉れ給へ。ゆうべ隣のKが何うしたのか帰つて来ない。知つてる独逸人の紹介で俳優なんかの来る宴会へ出掛けたのだが。尤も昨日銭が届いたからね。」「併しあの男は堅相ぢやないか。」僕は三階を下りて近所の滿谷の画室を叩いた。僕の声を聞いて直に右隣の画室から柚木が顔を出した。「寒いぢや無いか。」「寒いね。滿谷さんは寝てるかも知れん。まあ僕ン所へ入り給へ。君の病気は最う好いかね。」「難有う。※[#「執/れんが」、U+24360、87-3]は高かつたが一寸した風邪だつたんだね。ゆうべから起きたよ。大きな物を描き出したね、此方は長谷川かい。随分凄さうなモデルだね。」「長谷川君と二人で遣つてるんだが、実際其通り目の下のどす黒い女でね、よく喋るんだ。」滿谷が起きた様だから行つて見ると小豆色の寝巻の儘で黒い土耳其帽を被つた滿谷は「ゆうべ汲んで置くのを忘れたら、今朝水道が凍つて水が出ない」と云つて水瓶を手にした儘煖炉の前に立つて居た。「病気は何うだい。」「四五日で癒つて仕舞つた。」「さう早起なんかして盛返しはしないかい。」「大丈夫だ、今日は徳永が君達の行つてる画室を観せると云つたから六時に起きたよ。」「そいつは行けなかつたね、徳永が知らないんだ。先生が来て批評する日は参観は許さないんだ。併し一寸行つて先生の来る迄に帰り給へ。」「然うかね。然うしよう。」此間滿谷が和田三造の所へ行くと来合せて居たモデルに和田が「イレエ、モンペエル」と言つた相だが、滿谷の今朝の寝起姿を見ると僕も「此人はおれの父親だ」と一寸言つて見たく成つた。
滿谷、徳永、柚木、長谷川の四人と一緒に出掛けた。長谷川丈はマチスの弟子分だと云つてよいン・ドンゲンの画室へ通ふのである。ドンゲンの事は去年サロン・ドオトンヌの批評の中で柏亭君が日本へ紹介したらうと想ふ。近頃巴里では斯う云ふ新しい[#「新しい」は底本では「新しいふ」]画家の画室へ通ふ青年画家が月毎に殖えて行く相だ。尤も長谷川は斯う言つて居る。「ドンゲンが新しいから通ふのぢや無い、又ドンゲンに心酔する程ドンゲンの絵が解つて居るのでもない。東京から巴里へ来る画かきが皆同じ老大家の所許へ集るのも気が利かないと思つて少し変つた人の所へ出掛ける迄だ。」と言つて居る。南北地下電車に乗つた。ロオランスの出るジユリヤンの画室の前にある珈琲店で皆※[#「執/れんが」、U+24360、89-13]い珈琲と麺麭とを取つて廉い朝飯を腰も掛けずに済せた。
画室の入口の扉を押すと月謝を納める所がある。狭い、穢い、薄暗い冷たい所だ。以前東京の神田あたりにあつた英漢数に国語簿記何んでも教へる随意科の私立学校を聯想せずには居られなかつた。も一つ扉を抽くと階下は外の先生の出る画室で、朝の生徒が三十人程一人の男のモデルの裸を囲んで画架を立てて居る。引返して二階へ上つた。其処がロオランスの画室だ。同じく朝の組の生徒が二十四五人痩せた裸のモデル女を囲んで黙つて一所懸命に木炭をきしらせて居る。滿谷等が入学の日に大騒ぎをした呑気な連中だとは全く思はれない。早速一緒に行つた諸君も画架に向ひ始めた。四方の壁には天井に沿うて競技に一等賞を得た生徒の絵が掛つて居る。日本人では古い所で中林不折、鹿子木孟郎諸君のが一枚づつ、近頃で安井の絵が三枚何れも目に着く。ロオランス翁の来ると云ふ十時にならぬ前にジユリアンを出て、オデオン座の廊で書物や雑誌を買ひ、リユクサンブル公園をぶらぶら横断して小林萬吾君の画室へ来た。叩くと、主人は扉を細目に開けて、
「やあ、今モデルが裸になつてる所だ。」
「仕事をしてるんですね。用は無いんだ。帰らう。」
「帰らなくてもいい。遊んで行き給へな。僕は勝手に最う少時仕事をするから、日本の新聞も来て居るよ。」
「それぢやあモデルには僕も画かきだと云つて置いて呉れ給へ。」と云つて僕は内へ入つた。小林は裸を描き乍ら話した。
「ルンプが急に独逸へ帰つたよ。君に宜しくと云つて、其れから写真代の取替とか割前とかを君に渡して呉れつて預けて行つたよ。」
「帰るとは云つて居たが俄に立つたんだね。伴れて居たロオゼンベルグと云ふ女は何うしたかしら。情婦の様でも情婦で無い様でも思はれたね。」
「僕は其女をよく知らなかつた。」
「ルンプは伯林でエミイル・オオリツクの所で一緒に絵を習つた相弟子だと云つて居たが、描いた絵は見なかつたけれど、なんでも伯林の女子美術学校を卒業したと云ふので、絹物の繍の図案のオリヂナルに富んで居た。下図は作らずに頭から布へ打附に繍を遣つて居たよ。巴里でも其意匠を仕立屋へ売つて喰つてたらしい。頻りに日本に[#「日本に」は底本では「日本」]行きたがつて居た。一寸見識もある変つた女らしかつた。」
「ふん、そんな女だつたかね。ルンプも君此秋は復日本へ往くと云つてたよ。」
「僕にも然う云つた。何でもルンプの考へでは此秋に仏蘭西と独逸とが確に戦争すると云ふんだ。先生、兵隊だから召集を逃げる為に東洋へ往くと云つてた。親父の銭許り遣つても居られないから、丁度此頃巴里の美術商が二三人組合つて革命騒動のどさくさ紛れに北京へ行つて支那の古い美術品を廉く買ひたい、其顧問に成つて呉れと頼んで居るのを機会に、一万円の旅費を出させて行かうと今相談して居る、と話してた。急に立つたのは其でも纒まつたのかも知れない。」斯んな話をして居る内に小林は絵を描き休めてモデルを帰した。其れから近所で麺麭と塩豚とを買つて来て午飯を食ひ初めた。
「今日は日本飯で無いね。」
「うん、僕が麺麭を食ふと言ふのは実際珍らしい。此画室へ来て今日が初めてだ。夜分には例の土曜日に遣る日本飯の会が僕ン所であるんで和田、町田、大住なんて連中が集まる。晩に御馳走があるから昼は淡泊済まして置くんだ。」
僕は買物を小林君に預けて置いて、以前から一度入つて見ようと思つてた、通りを一つ隔てた直ぐ前のモンパルナスの大墓地の門へ入つた。バウドレエルの墓が最初に解つた。墓碑には詩人の半身像を、墓の上には詩人の臨終の臥像を刻し、臥像の台石に小さく詩人の名と生歿の年月とを記した丈で、外には何も書いて無い。墓地の大きな路の一つの突当りにあるのでよく人の目に着く墓だ。墓碑には青い蘿[#ルビの「かづら」は底本では「かつら」]が這上つて居た。マウパツサンの墓が見附からないので広い墓地を彷徨いて探して居ると、瑠璃紺の皺だらけのマントウを被つた老人の墓番が一人通つたので呼留めて問うた。墓番は思つたよりも老人で、酒の臭ひをさせて居る。
「あなたは支那人かね、日本人かね。」
「僕は日本人。」
「日本はいい美しい国だ。わたしは以前歩兵でね、横浜、それから江戸へ行つた。二月滞在して居た。」
「それは珍らしい。幾年前。」
「四十年前。いや、もつと前。あなたは日本の大使の墓をも訪ひますかね。」
僕は老人に導かれて千八百八十八年に巴里で歿くなつた全権大使ナホノブ、サメジマ君の墓を料らずも一拝した。マウパツサンの墓の上には桃葉衛矛と狗骨とを植ゑ、後の碑には名のみを太く書き、碑の前には開いた書物の形をした鋳銅の上に生歿の年だけを記したものが据ゑてあつた。狗骨は珊瑚珠の様な赤い実を着けて居た。僕は手帳の上へ老人に記念として名を書かせた。「エス・ブリゲデイエ」と署名して僕に幾度も声を出して読ませた。少し酔ぱらつて居る老墓守は「一九一二年三月三日」と書くべき所を「一月三日」と書いて平気で居た。
「お前さん、もう一人よい詩人の墓を訪はうと思はないかね。」
「誰だね。」
「ル・コント・ド・リイル。名高い詩人。」
「おお、ル・コント・ド・リイル。僕はその墓が此処にあることを忘れて居た。シル、ヴウ、プレエ。」
老人は得意になつて案内して呉れた。其れはマウパツサンの墓から遠くは無かつた。墓の上にはリラを植ゑ、後の円い蝋石の碑の上には詩人の半身像が据ゑてあつた。また像を掩うて今は落葉して居る一樹の長春藤が枝を垂れて居た。ブリゲデイエ君に礼を云つて酒手を遣らうとしたが中中頭を振つて受けない。西洋人としては珍らしい男である。強ひて老人の衣嚢へ押込んで置いて早足に墓を出た。門を出る時一度振返つて見たら、よろよろして墓の奥へ入[#ルビの「はひ」は底本では「はい」]つて行く後姿が石碑の間へ影の如く消えた。古い仏蘭西の歩兵よ、老いた墓守よ、僕に取つてお前は今から墓へ入つたも同じだ。もう再び会ふ日は無いであらう。(二月五日)
二月に成つたら一層寒くなる筈の巴里が今年は何うした調子外れか好い天気が続いて僕の部屋などは煖炉を焚かなくつてもいい様に成つた。少し街を歩けば外套が脱ぎたくなる程の温かさだ。斯うなると何処か郊外へ出掛て思ふ存分日光に浴し新しい空気を吸つて、一月以上陰気な巴里の冬空と薄暗い下宿の部屋とに圧へられて居た気持を忘れたい。約束をして置いたら寝坊の九里が遠方のカンパン・プルミエのアトリエから朝早く遺つて来た。案内をして呉れる梅原は朝飯を食つて居るのか、お化粧に暇が居るのか容易に近所の家の七階に[#「七階に」は底本では「七階」]ある頂辺の画室から降りて来ない。サン・ラザアルの停車場から汽車に乗つたのは十時であつた。セエヌの下流は蛇が曲線を描いて走る形に紆廻つて居るので、汽車が真直に其曲線を突切つて三度河を渡るとサン・ゼルマンの街に着いた。巴里から此処へは四十分で達せられる。土地の感じは京都から伏見へ行くのと似て居る。昔の城や王政時代の離宮の跡などがある。旧い街丈に何処か落着いて光沢消しをした様な雅な趣が漂うてる。
停車場の前には御者台に鞭を樹てて御者帽を被つた御者が手綱を控へて居る品の好い客待の箱馬車が十五六台静かに並んで居た。直ぐ左手に昔の城を少し手入して其れに用ひた博物館がある。之は仏蘭西唯一の考古学的遺物の多い博物館として名高いものだ相だが、其れを観るのは再遊の時に譲つて僕等は街の中を何と云ふ当も無く縦横に歩いて廻つた。割合に多い骨董商の店を覗いて立止りもした。小学校の土塀の崩れから田舎の小娘の遊んで居る群を眺めもした。此街の人は我我外国人に対して少しも不思議相な顔をせず、格別振返つて見る者も無い。巴里の場末の人間が妙な目附で覗き込んだり「あれは支那人か」なんて後で噂したりするのに比べて大変に気持がよい。一方の街外れへ来たら次第に坂路に成つた。セエヌが其処にも流れて居るのだらうと云つて降りて行つたが、河は無くて果知らぬ丘陵の間に野菜畑が続き、散らばつた百姓家の庭で鶏が鳴いて居た。仏蘭西の野は大体に霜が少いから草が何処にも青んで居る。白楊やマロニエの冬木立に交つて最う芽立の用意に梢の赤ばんで居る木もあつた。とある矮い石垣の上に腰を掛けた九里は大きな煙管を啣へて快さ相に燐寸を擦つた。
腹が減つたので異つた路を登つて街へ引返したが、黒塗の大きな木靴を引ずつて敷石の上に音をさせ乍ら悠然と歩く肥つた老人が土地で一流の料理屋「アンリイ四世楼」を教へて呉れた。此サン・ゼルマンは一体に高い丘陵の上にある街だが、僕達が昼の食事をした其レスタウランは街外れにある名高い「サン・ゼルマンの森」を背にし、十七世紀にル・ノオル王が切り平させたと云ふ横長い岡の上の一隅に建てられて、直下に浅黄色のセエヌを瞰下し、ペツク其他の小さい田舎の村を隔てて巴里の大市街を二里の彼方に見渡して居る。食堂では泊り客の英国人の大家族と、馬に乗つて来たらしい山高帽を被つた四人の仏蘭西婦人と僕等との三組が食事をした。飲んだ葡萄酒は千八百八十幾年かの物であつた。
巴里やセエヌや平原を眺め乍ら二十町もある例の横長い岡の上を気永に歩き切つて、其れから名高い森の中へ入つて行つた。黒ずんだマロニエの木立に白樺がまじつて居て落葉の中に所所水溜が木の影を映して居る。縦横に交叉して居る大きな路は時時馬車の地響を挙げ乍ら、其先は深い自然林の中に消えて仕舞ふ。折折木靴を穿いた田舎人が通る。細君と娘とを伴れて散歩して居る陸軍士官にも遇つた。九里と僕とは梅原から巴里の芝居の話を聞き乍ら歩いた。又何か冗談を言合つては晴やかに笑ふ事が出来た。先に横長い岡を歩いてる時うつかり僕が「気持のいい海岸へ来たね」と言つて笑はれ、森の木がどれも青い粉の様な苔を附けて居るのを「鶯餠の木だ」と言つて又笑はれた。九里は又マロニエの幹を長い棒麺麭[#「棒麺麭」は底本では「棒麭麺」]、梢の枝振を箒、白樺を「砂糖漬の木」などと言つた。而して三人が歩き乍ら、
森の、野の上の、海岸の、
巴里とセエヌを見下すサン・ゼルマン、
鶯餠の、長い長棒麺麭[#「長棒麺麭」は底本では「長棒麭麭」]の幹の、
さうして箒のマロニエ、其れに交つた砂糖漬の白樺の棒縞。
斯んな物を綴り合せて笑つた。後から思へばたわいも無いが、之が、郊外を歩く伸びりした僕達の気分を其刹那によく現して居た。(二月八日)
若手の戯曲作者として近年巴里の俗衆に人気のあるガストン・アルマン・カイアエ君と、巴里唯一の芸術新聞コメデイアの記者で常に直截鋭利な議論を書く有名な若手の劇評家エミイル・マス君との間に決闘沙汰が持上つて、その決闘が二月十六日の午前十一時からプランス公園の自転車稽古場の庭で行はれた。事件の原因は略して言ふと、カイアエ君の作つた「プリム・ロオズ」と云ふ平凡な脚本が俗衆の人気に投じたので、去年の冬以来引続き国立劇場のコメデイ・フランセエズ座で毎週に三四回も演じて其度毎に大入を占めて居る。マス君は其れを十数回に亘つて攻撃した。マス君の論旨は、政府の保護の下に設けられて居るコメデイ・フランセエズ座は普通の劇場と異ひ、他の美術品を博物館で国家が保存する如く昔の天才の作つた芝居を保存する国立の博物館である。勿論新しい作者の戯曲を選択して世間に紹介する事も国立劇場の目的の一部であるが、其れは他の劇場の多数が争うて新作を紹介する今日に国立劇場が積極的に力を用ふべき所で無い。新作の価値の定まるのは時を要する。急いで博物館へ蔵めるには当らないと云ふのである。「プリム・ロオズ」の様な循俗的な脚本が毎夜の様に演ぜられて比較的第二流の俳優が登場し、名優ムネ・シユリイやル・バルヂイなどの[#「ル・バルヂイなどの」は底本では「ルバルヂイなどの」]得意とするコルネエユ、ラシイヌ、モリエエルなどの鉅匠の作を演ずる日が削減されるのは遺憾なことであるから、マス君の議論は真に発言の時を得たものであつた。単に「プリム・ロオズ」の作者に向つて許りで無く、芸術以外の情実に制せられる国立劇場の諸役員と芸術上の鑑識を堕落せしめつつある多数の巴里人とに向つて反省を促したのがマス君の諭旨であつた。カイアエ君もマス君も人気のある文人であり且問題の関係する所が大きい丈に、マス君の議論が巴里人の視聴を惹いて何事か起らねば止まない気勢が予知せられた。果然二月十三日の晩フランセエズ座の見物席に腰を掛けて居たマス君の後から肩を軽く叩いた一人の男がある。其男と共に廊へ出たマス君は数語を交換した後で非紳士的な腕力の一撃を受けた。其男はカイアエ君であつた。
両君が決闘するに到る迄の経過は以上の如くであるが、決闘沙汰の伝はるに従つて周囲の騒ぎが大きくなり、之れに対する名士の批評が多く新聞紙上に発表された。識者の同情は概してマス君に傾いて居てマス君の議論に正面から反対する様な批評は一つもない。巴里の批評家の団体はマス君の議論を正理の擁護だと非公式に認め、フランセエズ座の名優某は匿名の下に「カイアエ氏の十三日の夜の行為は神聖なるモリエエルの家(国立劇場)を涜したものだ」と述べ、また芸術専門の大新聞紙コメデイアの社長デス・グランヂユ氏は「マス君の議論は批評家としての権威の下になされたものだ。此位の道理は肉屋の番頭にも解ることだ」と云つてカイアエ君を揶揄した。カイアエ君は又仲介者を立てて此社長の文章を詰問して取消を請求したが、社長は応ぜざるのみか却て仲介者を説服した。仲介者はカイアエ君に手紙を送り「貴下が不名誉なりとせらるる所は我等の最早立入るべからざる所に候」と云つて其任を辞した。カ君は更に社長へ直接手紙を与へて取消を求めたが社長は其手紙に添へて「貴意には応じ難い。此上は如何様の御相手をも辞するもので無い」と言ひ切つた。カ君は社長とも決闘沙汰に訴へざるを得ない形勢になつた。其処へマス君との決闘の日が来た。
決闘の模様を少し書かう。相手が互に巴里ツ子同士、流行ツ児同士であり、其れが右様の事情の下に行ふ決闘であり、其上当日の決闘振が非常に壮烈であつたので、翌朝の新聞は何れも決闘場の写真を挿んで種種と激賞の辞を並べて居る。
大抵決闘場は関係者以外へ秘密にして置くものだが、巴里人の注目して居る決闘丈に其場所を嗅附けて二十三人の新聞記者、二十七人の写真師、五人の活動写真師が押寄せた。此通り多数の見物人を集めた決闘は近頃稀有な事だ相である。決闘場に立入る事を拒絶せられた写真師等は何うして空しく引取るものか、早速近所の喫茶店から長い梯子を奪ふ様に持出して自転車稽古場の亜鉛屋根へ沢山の写真機を据ゑて仕舞つた。
戦士は各二人の立会人と一人の外科医と五六の親友とを従へて到着した。武器としては双方長い剣を択んだ。立会人等は協議の上二回迄の対戦を承認した。決闘場の土地の検案が済まされ、両者の剣が砥がれた。戦士は向ひ合つた。カイアエ君は偉大な体格をして態度の沈着な男、之に反してマス君は日本で言へば正宗白鳥君の様に優形な小作りの男で、一見神経質な、動作の軽捷な文人である。但し白鳥君には髭が無いけれどマス君には後へ撥ねた頤髭がある。見物人には一撃の下にマス君が敗られ相に危まれたが、併しマス君は見掛に寄らず最後まで勇敢に戦つて立派に名誉を恢復した。
「行け、両君」と叫ぶ第一回の指揮者ランナウ君の声が沈黙を破つた。剣と剣とは半曇つた二月の空に屡相触れて鳴つた。間隙の無い見事な対戦に観る人の心は胸苦しい迄緊張した。マス君は屡真直な鋭い剣を送つたが、偶其れを避け外したカ君の右腕から血が流れた。可なり深い負傷であるに拘らずカ君は戦闘を続けた。何うした機会かカ君の剣が中程から折れて敵手の上に飛んだ。其刹那人人は鋒尖が必定マス君の腹部を突通したと信じた。中止の号令が下つた。併し[#底本では「併し」は「併人」]折れて電光の如く跳つた鋒尖はマス君の袴を列しく割いたに過ぎなかつた。人人は奇蹟の様に感じてホツと気息をついた。
カ君は新しい剣を執つた。今度はドルシエエル君の指揮の下に第二回の決戦が開かれ、互に巧妙な突撃と迅速な回避とを交換して第一回にも優る猛烈な戦闘を続けて居る中、マス君は右腕に二回迄敵刄を受けた。「止まれ」の声と共に決闘は終つた。医師は急いで両君に繃帯を施し、立会人等は官衙へ差出す始末書を認めて署名した。併しカイアエ君とマス君とは此決闘に由つて満足するを肯じない。其れで和睦の握手を交換する事なく武装を解くに到らずして各自動車に乗つて別れて仕舞つた。
若し之に続いてカ君とコメデイアの社長との決闘が行はれ、凡てにカ君が抑遜の態度を示さず、フランセエズ座が此問題の騒ぎの中にも猶「プリム・ロオズ」を演じて居る如き執拗を改めないなら、批評家対戯曲作者及び国立劇場役員の葛藤は益渦巻が大きくなるであらう。マス君は決闘のあつた翌朝の新聞にも国立劇場に与ふる論文を公にして「新作の劇はスフインクスである。永久の傑作であるか何うかを容易く決し難い物に一週三四回も国立劇場を使用する事は無法だ。又国立劇場は私利を営む性質の芝居で無い。役員及び俳優が純正な戯曲に対する尊敬を忘れる場合に其れと抗論する為に政府は劇場監督を置いて居る筈だ」と云つて正面から攻撃の鉾を劇場の監督に向けて居る。(二月十八日)
待ち焦れて居た二月二十日の謝肉祭、その前後五日に亘つて面白かつた巴里の無礼講の節会も済んで仕舞つた。可なり謹厳な東洋の家庭に育つて青白い生真面目と寂しい渋面との外に桃色の「笑」のある世界を知らなかつた僕が、毎夜グラン・ブルアルの大通の人浪に交つて若い巴里の女から「愛らしい日本人」斯んな掛声とコンフエツチの花の雪とを断えず浴びせられて、初の程こそ専ら受身で居たが、段段攻勢に転ぜざるを得ない気分に成つて大きなコンフエツチの赤い袋を小腋に抱へ乍ら相応に巴里の美人へ敬意を表して歩いたのは、若返つたと云ふより生れ変つたと云はうか、満三十九年間(一寸欧羅巴風に数へて)全く経験しなかつた無邪気な遊びであつた。女装をした男や男装の女の多いのは勿論、頗る振つた仮装行列や道化が沢山に出た。男女の大学生が東洋諸国の風俗に扮して歩いて居るのも見受けた。其中に日本の陣羽織を着て日本刀を吊した若い女大学生と話して歩いて頻に笑つて居たのは和田垣博士であつた。全身をアラビヤ人風に塗つて大きな作り鼻の中へ電灯を点けた二人の男が相抱いて舞踏し乍ら巧に人込の中を縫つて早足に行き過ぐるのは喝采を博して居た。天下晴れての無礼講だけに見知らぬ女を抱きかかへて厭がるのも構はず頬摺をして歩く男も多い。若い男かと見るとシルクハツトを被つた生真面目な顔附の白髪の紳士も混つて居る。又孫の一人も有らうと想はれる老夫人が済ました顔をし乍ら若い男と見ればコンフエツチを振撒いて行く。僕にも或婆さんが振撒いたから追掛けて行つて襟元へどつさり入れて遣ると「メルシイ」と礼を言はれた。巴里人の事だから無論多少の酒を飲んで居るに関らず日本の花見に見受ける様な乱酔者は全く無い。従つて執拗く悪巫戯をする者が無く、警察事故も生じない。巡査や憲兵までがコンフエツチの攻撃に遇つて莞爾して居る。僕は梅原、九里の二人と伴立つて歩いたが、行きちがひざまに僕の頬つぺたへ頗る野蛮なコンフエツチの投げ方をする者があるから、振返つて応戦しようと思ふと其れは滿谷、徳永、柚木などの日本人であつた。毎夜珈琲店に夜更かしをして帰つて寝巻に着替へようとする度、襯衣の下から迄コンフエツチがほろほろと飜れて部屋中に五色の花を降らせた。併し巴里で第一に盛な祭は三月のミカレエムだと云ふ。其頃は女の服装が一変するから色彩の点からも華やかな節会であらう。(二月二十七日)
ユウゴオの百十回の誕生日(二月廿六日)の晩、文豪の遺作「楽める王」がコメデイ・フランセエズで演ぜられ、ムネ・シユリイのサン・リエ、女優ゼニアのブランシユ、シルンの茶坊主ツリブレ、フヌウのフランソア一世と云ふ、仏蘭西現代の劇壇で全く申分の無い役割であつた。今夜の観客には学者、芸術家、政治家が多数を占め、中には其若盛の日からユウゴオの讃美者であつたらしい白髪の貴婦人連も交つて居た。幕間にサロンや廊を逍遥する群衆の中に平生と異つて時代遅れの服装や帽が際立つて多く目に着くのは、然う云ふ点に案外無頓着な学者芸術家の気質を自然に現して居た。
最後に文豪に対する荘厳な礼讃式が行はれた。ユウゴオの誕生日に国立劇場で之を行ふのは千九百二年以来の事ださうだが、今年のクロヌマンには舞台の中央に据ゑたユウゴオの彫像の向つて右に女優ヱベエル、パウル・ムネ、シルン、女優ドユツサン、女優ゼニア、左には女優ララ、フワルコニエ、フヌウ、ムネ・シユリイと云ふ順で並び、背後には今夜の芝居の五幕を通じて登場した俳優の凡てが控へて居た。式長はムネ・シユリイである。ヱベエル、ララの二女優が文豪を讃歎する二篇の詩を交代に歌つて満場総立の拍手の中に式が終つた。
廊へ出て預けた外套を受取つて居ると、同じく見物に来て居たドリル君が梅原の肩を叩いて「一寸ムネ・シユリイに会つて行かないか」と云ふ。ドリル君はポルト・サン・マルタン座に居る知名な壮年俳優で、ムネ・シユリイの弟子分丈に悲劇を得意とし、近日此国立劇場へ選ばれて入ると云ふ評判のある男だ。梅原と僕とはドリル君の後に従いて楽屋へ入つて行つた。
悲劇役者としてタルマ以後の天才と称せられる老優の楽屋が案外狭くして質素なのに先づ驚いた。纔に六畳と二畳とに過ぎない部屋は三面の鏡、二脚の椅子、芝居の衣裳、鬘、小道具、其から青枯れた沢山の花環とで埋まつて居る。ムネ・シユリイはドリルの細君と若い女弟子のジヤンヌ・ルミイとに世話せられて着替をして居る所であつた。ドリルが紹介すると、老優は上着を着終るのも待たず白襯衣の上へ袴を穿いた儘、ロダンの彫像が動き出した様な悠然した老躯を進めて、嵐の海の様に白い大きな二つの僻ら目で見下しながら、赤い大理石のやうな頬と白い頤髯との間に温かい高雅な微笑を湛へて僕等と握手をした。老優の大きな手は僕の手よりも※[#「執/れんが」、U+24360、112-12]かつた。
ドリルは梅原が優の※[#「執/れんが」、U+24360、113-2]心な崇拝者であることを告げて、優の扮する「エジプ王」の如きは三十回以上も見物して居ると語つた。ムネ・シユリイは傍に立て掛けてあるエジプ王の持つ黄金の杖やエルナニの剣などを手づから取つて僕等に見せ、日本でユウゴオ物を演じるかと問うた。梅原が近頃エジプ王を訳したが其れに優の型を書加へて日本へ紹介する積り[#「積り」は底本では「積」]だと言ふと、ムネ・シユリイは喜んで「型の解らない所があつたら自分に聴いて呉れ」と言つた。又名優タルマの持物であつた外套用の大きな釦を見せて「之は自分に気持がよいからエジプ王に扮する場合に何時も用ひて居る」と語り、其れから「今日一つタルマの遺物を買つたが」と云つてムネ・シユリイ自身も、ドリル夫婦も、女優も、今一人楽屋に来て居た若い女画家も一緒に成つて少時探して居たが、其れは置所を忘れて見附からなかつた。
ムネ・シユリイは「何か淡白した夜食を一緒に取らう」と言出した。出口の階段を降る時以前は此処にタルマの彫像を据ゑてあつたが、ムネ・シユリイが昔国立劇場へ入る事になつて初めて宣誓式の為に此処へ遣つて来た時何うした機会かタルマの像が動いた。其れが感激に満ちたムネ・シユリイの若若しい心にはナポレオン一世時代の名優が自分に挨拶をした様に思はれた。之を聞伝へた世人はタルマ自身に匹敵する悲劇役者が国立劇場へ加はつたのを故人の霊が喜んだのであらうと評判した。此有名な話をドンリルが僕等に語ると、ムネ・シユリイは微笑んで「然うだ、全くタルマがボン、ジユウルと言つて頷いた様に感ぜられた」と云つた。
芝居前のキヤツフエ・ド・ラ・レジヤンスは俳優と芝居帰の客とで一ぱいであつた。ムネ・シユリイは其左に梅原を右に僕を坐らせた。前には三人の女、僕の隣にはドリルが坐つた。女優のルミイ嬢が隣の部屋に見える大理石の卓に赤い紐を巻いたのを僕等に示して「あれがタルマの用ひた食卓です。」と云ふと、ドリルが「今にムネ・シユリイの此食卓もあの様に飾られるのだ」と云ふ。此家はナポレオンが最も好んで食事をしに来た家だと云ふ様な話も出た。其処へシルンが細君と入つて来た。又女優のゼニアが良人の伯爵に手を執られて入つて来た。皆ムネ・シユリイに挨拶をして通つて行く。ドリルがシルンに声を掛けて「あなたの今夜の出来は結構でした」と言ふと、シルンは「馬鹿を云つてはいかん。そんな御世辞を言つて呉れるな。舞台で稽古をする暇が無かつたので自分の宅でほんの型丈の稽古をした。其れで全く今晩は物に成つて居なかつた」と云つた。
ムネ・シユリイの選んだ夕食の種類が一寸変つて居た。「アツセ・アングレエズ」、「サラド・ルツス」其れからサンドヰツチを油で揚げた様な物で名が解らないから仮に梅原が名を附けた「サンドヰツチ・ムネ・シユリイ」に「タルト」と云ふ菓子。酒は麦酒の外に「シヤルト・リユウズ」、「コアント・ロオ」、「チユリツプ・セリ」の三種。ムネ・シユリイは孫にでも対する様に皆の杯へ一一楽し相に手づから酒を注いだ。
話しが画に移つてムネ・シユリイは梅原に「自分の肖像を描いては何うだ」と云つた。ドリルが「先年瑞西のベルンの旅先で偶然マネの絵の掘出物をして纔四十フランで買つて来たが、或手筋の人に望まれて三万四千フランで手放した」と云ふ様な事を話す。ムネ・シユリイは「自分にもそんなのを見附けて呉れ」と云つて笑つた。ドリルは又「仏蘭西の南部の例へばツウルウズ辺へ行くと現代の老大家の絵を掘出す事が多い。ルノワアルの絵を八千フランで買つた事もある。ロオランなどの作も多い」などと話した。
話が服装の上に移つた。ムネ・シユリイは「女は未だ好いが、欧羅巴の男の今日の服装は実にきたない。日本の男でも欧洲の服を真似て着るのは賛成が出来ない」と言つた。其時あちらの隅の方に居た紳士で象皮病か何かで頤と喉とが瘤で繋がつた男が僕等の横を通つて帰つて行つた。女達は目を下に伏せて戦く様な身振をした。「今の病人の見苦しいのを御覧に成りましたか」とドリルの細君が問ふと、ムネ・シユリイは「いや御蔭で見なかつた。自分はそんな穢ない物は大嫌ひだ。」
ムネ・シユリイは又ユウゴオに就ていろいろ話した。文豪の大食家であつた事などをも話した。或晩ユウゴオの宅へ芝居の関係者が招かれ、故人になつた名優モオンが主人の右に、ムネ・シユリイが左に坐つて居た。或劇場監督の事に就て議論のある晩でムネ・シユリイは黙つて聴いて居たが、食事の終ひ際にユウゴオが「君はデイレクツウルと云ふ職を何と考へるか」と訊ねたので、「自分は非常に厄介な職業だと思ふ」と答へた。すると、ユウゴオは「君の厭味は尤もだ」と言ひ乍ら前の大きなトマトを取つて一口に頬張り二三度もごもごさせた儘嚥下して仕舞つたのは今でも目に見える様だと云ふ。夜が更けたので次第に客は帰つて行つた。ムネ・シユリイを囲む僕等の一卓丈は益話が蕭やかに進んだ。ムネ・シユリイは幾度も煙草を取つて皆に勧めた。巴里に着いて以来煙草を吸はなく成つた僕は燐寸を擦る役をしてムネ・シユリイや女達に点けて遣つて居た。
ムネ・シユリイは「おお今夜は好い記念を持つて来て居た」と云つて、有名な皺だらけのフロツクコオトの内衣嚢から一通の手紙を取出した。ユウゴオが王党の一人として流謫せられて居た英仏海峡の島からムネ・シユリイに寄せた物である。其れをドリルが朗読した。文豪の作「マリオン・ド・ロルム」を巴里で舞台に上すに就て作者の注文を述べ、又口を極めてムネ・シユリイの技倆を賞讃し、配所に在る身は巴里に帰つて親しく其劇を観る事の出来ないのを悲しむと言つてある。其日附は千八百七十三年一月十日で、ムネ・シユリイの三十三歳の春に受取つた手紙であつた。
ユウゴオの「リユイ・ブラス」をムネ・シユリイが[#「ムネ・シユリイが」は底本では「ムネシユリイが」]演じる相談の時に文豪は自分の前で朗読して見て呉れと云つた。ムネ・シユリイの朗読を最初の中は全く沈黙して聴いて居たが、三幕目の中程、皇后ドナが「なぜ君は神様の様にそんなに偉大に、そんなに怖ろしく見えるのでせう」と云ふと、リユイ・ブラスが「其れは自分が君を恋慕ふからだ。それは自分が凡ての嫉妬を感じてるからだ」云云と云ふ好い長台詞[#ルビの「ながぜりふ」は底本では「ながせりふ」]の段に成つて、ユウゴオは[#「ユウゴオは」は底本では「ユオゴオは」]初め「其れは自分が君を恋慕ふからだ」を「もつと高く言へ」と言ふ。三四回読み直したが未だ気に入らないで「もつと、もつと高く」と云ふ。ムネ・シユリイは「然う初めの出ばかりを弥囂しく言はないで、姑く待つて、次の句を皆言はせて下さい。然うしたら何か貴下が発見なさるでせう」と云つて読み続けた所が、果してユウゴオが[#「ユウゴオが」は底本では「ユオゴオが」]感服して呉れた。以前フレデリツク・ルメエトルが演じた時其処の調子が冷やかに低くて作者の※[#「執/れんが」、U+24360、120-1]烈な気持ちが出なかつたのをユウゴオは記憶して居て、其段を自分に巧く遣らせやうと思つて其様に気にしたらしいとムネ・シユリイは話した。「併しルメトルは立派な俳優であつた」と云ひ、其死んだ時に、今のアカデミシヤンである詩人ジヤン・リシユパンが未だ其頃は人の目に立つ若若しい美男で、自作の挽詩を棺前で読んだが、会葬者の中に居たユウゴオが其詩を褒めたので、自分は其場でリシユパンを文豪に紹介したなどとも語つた。
広いキヤツフエの中に僕等の組しか話して居ない事に気が付いて帰り支度をした時は翌日の午前四時前であつた。戸口を出掛に「うつかり話が面白かつたので遅くなつて済まない」と謙遜なムネ・シユリイは送つて出た主人に挨拶した。主人は外套を着せ掛け乍ら「貴下には何んな事があつても苦情は申しません」と言つて居た。老優はルミイ嬢と自動車に乗つた。あとの僕等と女画家とはドリル夫婦の自動車に相乗してモンマルトルへ帰つた。文豪の誕生日の一夜を想ひ掛けなく斯様に面白く過ごしたのは栄誉である。而うして此日は僕の誕生日でもあつた。(二月二十八日)
昨日巴里の郊外で十九歳の女流飛行家シユザンヌ・ベルナァル嬢が飛行機から落ちて死んだ。飛行機※[#「執/れんが」、U+24360、121-4]の最も盛な此国では平均して毎月二人の男の飛行家が横死を遂げる比例になつて居るが、女飛行家の死んだのは去年六月のドニイ夫人を始めとして之が二度目である。嬢は飛行機に対する非常な※[#「執/れんが」、U+24360、121-6]心家で専ら其方の研究の為にトロイと言ふ田舎から上つて来て、丁度ドニイ夫人の亡くなつた月から飛行機に乗り初めたのであつた。岩石の上に落ちたので顔や額が滅茶滅茶に裂けた。序に女の飛行家は未だ巴里に十人程しか無い。但し飛行機に同乗して遊ぶ女は無数である。
此間某新聞が男の髭に対する女の感想を知名な女優から聞いて発表したが、大抵無用な物だと云ふ意見に一致して居た。其理由は接吻に不便だと云ふのが主で、装飾としても野蛮時代の遺風であり、又寧ろ之あるが為に男を醜くして居ると云ふのである。中には保存して置いても可いが、も少し香料でも余計に附けて手入れを好くして欲しい。一般に仏蘭西の男の髭は悪い臭がすると云ふ答もあつた。
春になつたので女の装飾が大分変り出した。縁の狭い頭巾帽が止つて縁の広い円帽に移つて行く。日本の兜を模した帽の形も最う流行遅れとなつて、横に高価な極楽鳥の羽を附けた物や、鳩の羽を色色に染めたのを附けた物などが盛に行はれる。併し是等は従来から有つた型で今年の新流行と云ふ物は未だ出ない様だ。併し明日にも屹度帽子屋が新形を拵へて知名な女優に贈り夫を被つた姿を写真に撮せて貰つて一般に流行らせる事であらう。
マタン紙上で今年の流行服の予想を各女優から聞いて公にして居る。日本の「キモノ」から影響せられて細くなつた裳の形は未だ当分広くなるまい。其れで裳には改良の余地が一寸見付からないが、盛装の裾に幾段も襞を附けたり、又其裾に異つた切目を附けたりするので一生面を開くであらう。而して白又は金茶が流行の色となるのであらう。これが多数の予想である。何れ四月の各雑誌に流行服の写真が幾種も公にせられ、其れを見て米国の贅沢女が電報で註文し、仮縫を身に合せ旁巴里見物に続続遣つて来ると云ふ段取である。
僕は折折スルボン大学を覗きに行くが、東京の帝国大学の講師をして居た事のある、而して神道に関する書物を去年巴里で著したルボンと云ふ博士が日本の神話と文学史とを講じて居る。平凡な講座だから男の聴衆は全く無いが、五六人の女大学生が何時でも※[#「執/れんが」、U+24360、123-9]心に筆記をして居るのを見受ける。
此間一年に幾度か催す日本人の会合のパンテオン会が和田三造の幹事で行はれた。僕はコメデイ・フランセエズ座へユウゴオの「エルナニ」を観に行つたので欠席したが、和田垣博士初め三十幾人の出席者があつて色色の隠し芸が出たと云ふ事だ。現に巴里に在留する日本人は百名近くあつて、其内大使館で何か催す場合に招待を受ける資格のある者が六十人位ある。其外の四十人には日英博覧会に遣つて来て帰りはぐれた芸妓や相撲なども混じつて居ると云ふ事だが、其連中は何処に何をして居るのか頓と僕らの目には触れない。此二月まで巴里から汽車で五時間かかるツウルに居た和田垣博士の話に、ツウルへ日本の芸妓が来て居ると或人が云ふので、潯陽江上の女では無いが異国へ流れ渡つて居る女に逢ふのも奇遇だと考へて、一寸朝の時間に会ひたいと云はせると、女は待つて居るから来て呉れよと云ふ返事だ。物好きに出掛けて見ると其れは此律賓の女であつた相だ。日本人だと云はないと景気がよくないので日本人で通して居るのであらう。現にモンマルトルの或寄席に出て居る支那人の曲芸師の一座なども日本人だと称して居る。
僕は此前の日曜に倫敦から来た二人の友人と一緒に、一時間で往復のできるルサイユへ見物に行つた。瀟洒とした仏蘭西ルネツサンス式の、大理石づくめの宮殿の立派さと、自然林の中に池と噴水を満たした庭園の大規模とに、ルイ十四世時代の栄華を驚歎せずに居られ無かつた。宮殿は博物館になつて居て各時代の戦争画を多く蔵めて居る。但し画としては殆ど価値のない物だ。最上層の明るい一室では美しい女王達の肖像画に並んでバウドレエル、シヤトウブリヤンなどの文人の肖像画もあつた。池の辺を逍遥して古い石像の欠けたのなどを木立の中に仰ぎ、又林の中に分入つて淡紅の大理石を畳んだ仏蘭西建築の最も醇化されたトリアノンの柱廊に倚り掛り、皇后ジヨセフインに別れた奈破翁一世や、前の夫人に死別れたモリエエルが常に此処へ来て楽まぬ心を慰めたと云ふ話をし乍ら、少時柔かい春の初めの入日に照されて居た。(三月十一日)
マロニエの木立が一斉に嫩かい若葉を着けたので、巴里の空の瑠璃色の澄渡つたのに対し全市の空気が明るい緑に一変した。之が欧洲の春なのであらうが僕等には冬から直ぐに初夏が来た気がする。どの公園へ行つても木蔭にチユウリツプが咲いて居る。立木の花は甚だ尠い、純白の八重桜に連翹と梨位のものである。東洋の様な鶯は啼かないが、メルルと云ふ鳩の形をした鶯の一種が好い節廻しで啼く。一日、ペエエル・ラセエズの大墓地へ入つて行つたら、文豪ミユツセの墓に一株の柳が青んで文豪の彫像を掩うた其枝にメルルが啼いて居た。立寄つて碑面を読むと「わが死なば墓には植ゑよ、ひと本のしだれ柳を。わが為にその這ふ影の、軽やかに優しからまし」といふ文豪の遺作が刻してあつた。モリエエルとラ・フオンテエヌの墓が並んで居る。聞けば最初に此墓へ葬られたのがモリエエルであつたと云ふ。画家のコロオやフルギエエルの墓なども目に附いた。
好い天気が続くので下宿の窓から眺めて居ると、彼方此方の家で大掃除が始り色色の洗濯物が干される。寝台の藁蒲団までが日に当てられる。一体に巴里の女の掃除好きな事は京都の女と似て居る。或日僕が夜に入つて帰つて見ると僕の乱雑にして置いた部屋が見違へる程整理せられて居た。留守中に主婦のブランシユが女中を指揮して大掃除をして呉れたのであつた。僕は日本に居て自分で手を下す外誰にも書斎の物の位置を替へさせ無かつた程の疳性だのに、此主婦の大掃除の仕方は全然僕の気に入つて仕舞つた。僕自ら整理に取掛つても是以上には出来ないと思はれた。併し困る事には不潔と云ふ事の感じが大分に日本人と異つた点がある。仏蘭西人の多数が便所へ行つて手を洗はないのは何よりも驚かれる。尤も手洗所の設備が次第に普及して行くやうだから衛生的に新しい習慣が生じつつあることは十分に想像せられる。其れから主婦や女中が洗濯するのを見ると食器を洗ふ流しの石で汚れ物を揉んで居る。其れから大きな瓦斯竈の上へ綱を渡して其洗濯物が干される。下では色色の煮物の鍋が口を開いて湯気を立てて居る。上の綱から女の襯衣や猿股の雫が滴らないとは誰が保証しやう。
僕の隣の部屋へ一月前から移つて来たピエルと云ふ青年は地方官の息子だが、女の為に巴里の大学を中途で止して親父の仕送で遊んで居る男だ。直ぐ近所にある有名なモニコと云ふ酒場の若い踊子を落籍せて[#「落籍せて」は底本では「落藉せて」]細君にして居る。僕は近頃此若夫婦と一緒に食卓に就くが、文学好なピエルはいろんな文学者の逸話などを聞かせて呉れる。又春に成つたので瑞西のジユネエブ湖畔に隠居して居る下宿の主婦の老母が娘の家へ遊びに来て滞在して居る。亡くなつた良人が辞書などを著した学者であつた丈に婆さんも中中文学好で、僕の為にいろんな古い田舎の俗謡などを聞かせて呉る。此婆さんが滞在中寝て居る部屋を見せて貰つたが、下宿の一番頂辺にある謂ゆる屋根裏で、二畳敷程の所に寝台も据ゑてあれば洗面の道具も揃つて居る。矮い天井に只一つ小さな硝子窓があつて寝ながら手を延せば開閉が出来る。昼は其窓から日光が直射し、雨の晩などは直ぐ顔の上へ音を立てて降り掛る様で眠られない相である。主婦に聞くと一箇月の部屋代が僅か一フランだと云ふ。四十銭で兎に角巴里に一箇月寝泊りが出来る部屋があるかと想へば僕等の貧乏な旅客には難有い気がした。
此婆さんを下宿の主人夫婦が大切にする事は日本の美しいと云はれる家庭でも余り見受けない程である。三度の食事が婆さんが来た為に一度増して午後五時頃に簡単な淡泊した食事が婆さんに出る。其れに招伴をする者は主婦と、特別に下宿人の中から僕一人が選ばれる。主婦は毎日早起をして天気さへ好ければ婆さんを馬車や自動車に乗せて散歩に伴れて行く。芝居へも度度一緒に行く。ルサイユなどの郊外の遊覧地へ巴里から写真師を伴れて行つて婆さんと二人で好きな場所で写真を撮らせて来たりなんかする。平生から快濶な主婦が母親が来たので一層はしやいで居る。婆さんの前では小娘の様に嬉し相な顔附をして物言も甘えたやうな調子である。そして一日に幾度となく額や手に接吻を交換して居る。欧洲に孝道が無いなどと云つた日本の学者を笑はずに居られない。(四月十二日)
四月に入つて俄に雪が降つた程寒い変調な朝があつた。僕は其から喉を脹して発※[#「執/れんが」、U+24360、130-3]して居たのを押してアンデパンダンの絵の展覧会を観に行つたりなんかした。春の人出を見にブロオニユの森へ自動車を駆りもした。幾つかの大きな雑貨店へ入つて女が春着の買物をする雑沓をも観た。其れでとうとう四日目の晩から寝込んで仕舞つた。※[#「執/れんが」、U+24360、130-6]が高い。女中のマリイに町医者を喚ばせたが、余り信用の置けない医者で、喉を焼く代りに臀部へ皮下注射をして帰つて行つた。其医者の処方で幾種かの薬を買はせて飲んで居たが※[#「執/れんが」、U+24360、130-9]は降らない。医学士大久保榮君が一昨年此処の病院で腸窒扶斯で亡くなつたことや、此処で亡くなつた日本人の遺骨が数日前ペエル・ラセエズの墓の棚の上に置かれてあつたのを見たことやを聯想して、一人卑怯未練な顔附をして居ると、梅原君が尋ねて来て驚いて色色と世話をして呉れる。早速医者を取換へようと云ふので同君の親しくして居るル・ゴフさんを迎へに行つて呉れた。日本大使館へも十五年来出入し、日本赤十字社の特別社員にも推薦されて居る医者である。ル・ゴフさんは[#「ル・ゴフさんは」は底本では「ル・ゴフさんば」]度度来て呉れた。「ツウジガアリマスカ」などと少しの日本語が出来る。此人は梅毒とリウマチスとの治療が得意なので其家へは男女の梅毒患者が多く行くと聞いて、神経の昂つて居る僕は喉を焼いて貰ふ度に其器械が無気味でならなかつた。其れから日本で喉を焼けば直ぐ含嗽をするのだが、此医者はぐつと嚥下して仕舞へ、然うすると薬が喉の奥へ善く浸込むからと云ふ。随分悪辣な治療法である。
ル・ゴフさんの処方で病気が癒つたので再びアンデパンダンの絵を観に行つた。セエヌ河の下流の左岸の空地に細長い粗末な仮屋を建てて千七百点からの出品が陳べてある。会の名の示す如く飽く迄放縦な展覧会で、三十フランさへ添へて出せば何人でも三点の出品が出来、三点を超過する毎に三十フランを増して出品すれば幾点でも採用される。選択も無ければ審査も授賞も無い。黒人も素人も玉石混淆である。絵が主であるけれど、彫塑や其他の工芸美術品も対等の取扱を受けて毫も会自身に価値を定めようとする所が無く、全く観衆の批評に一任して居る。絵の取材に概して東洋(日本をも含む)諸国や南洋の風俗自然が多いのは此会ばかりで無く、立体派、後期印象派、未来派は勿論、一般に此国の絵に共通した近頃の一特色であらう。アンデパンダンと云へば怪物の様な奇体な絵が多い様に想はれるが、実際は純正な絵が多く、純正なおとなしい絵が土台に成つて奇抜な新画を作らうとして居る。拙い画家も上手な画家も皆自分の心の赴く儘に筆を動かして真面目に自分の世界を作り上げることを楽んで居る。自分達の生生した生活を発揮する事が如何にも著しく楽し相である。恐らく彼等の間に所謂天才は少いであらう。併し彼等は僕等と同じ呼吸をして居る生生しい現代人である。其自由を通り越して悪平等に流れた陳列法も甚だ痛快で、何と云ふことも無く僕等を昂奮させて呉れる。其れから二度目に来て観たら売約済の札が沢山下つて居た。其れが必ずしも場中で何人にも気に入る佳作と云ふでも無い。巴里人が絵を鑑賞するにも一概に他人の意見に雷同することなく独自の鑑識を信ずる事の厚いのに感服した。
日本でも何とか云ふ男が文部省の去年の展覧会の絵に墨を塗つたが、巴里でも此間或二三の画家の催して居る小展覧会へ夜間に忍入つて或婦人の肖像を抹殺した者がある。之は審査員に対する遺恨と云ふ様な事で無く、其画がよくよく気に入らなかつた為だと云ふ。悪戯の主は未だ捕らない。(四月十四日)
オデオン座で新しく演じて居るパウル・アンテルムの新作劇「日本の誉」はその芸術的価値は兎も角、目先が異つて居るので大入を続けて居る。筋は忠臣蔵を大分穿き違へて、否わざわざ曲解して仕組んだものだ。鹽谷判官が「大阪侯」高師直が「仙台侯」由良之助が「彌五郎」と作替へられ、仙台侯が大阪侯に託して「頼信」と云ふ一流の画家に帝へ献上する扇の絵を描かせると、大阪侯の家来の吉良(九太夫)が其画家への礼金を着服して偽筆の扇を主君に差出す。大阪侯は其扇を宮廷で仙台侯に渡す。其場へ頼信が来合せて之は自分の筆で無いと云ふ。両侯が争ふ。大阪侯が激[#ルビの「げき」は底本では「はげ」]して仙台侯に斬り附けると云ふのが序幕で、次には大阪侯の切腹、其れから仇打の相談が済むと力彌に当る彌五郎の息子が敵の仙台侯に仕へて居て仇打を父に思ひ止まれと忠告したり、彌五郎の娘と恋をして居る大阪侯方の或武士が仇打に加らうか結婚しようかと煩悶したり、又彌五郎の茶屋遊びの場などがあつて、最後に仙台侯の邸に打入り武人の面目を保たせて侯に切腹をさせる。其処へ帝が白い高張提灯を二つ点けた衛士を前駆にして行幸になり、四十七士の国法を犯した罪を赦し各の忠義を御褒めに成ると云ふ筋である。(四月十五日)
国立劇場コメデイ・フランセエズの舞台へ近頃初めて上され現に一週三度も演じて居る韻文劇「モリエエルの家庭」は文芸院学士マウリス・ドンネエ氏が文豪の伝記から脚色した五幕六場の新作で、モリエエルと第二の夫人アルマンとの恋を具体化し、アルマンの乱行に対する文豪の煩悶を主として描かうとした為、却て偉大なモリエエルの他の雑多な性格、例へば其冷静な哲学者的な方面、其剛愎執拗な方面等を没了し、必ずしもモリエエルと限らず何の芸術家を仮り来つて主人公としても差支の無い様な憾みはあるが、第一の夫人マドレエヌの聡明貞淑な性格が善く活躍して居るのと、部分部分に作者の才気の見えるデリカアな所が多いのと、舞台面が一寸異つて居るのとで、昨冬来俗衆の間に評判のよいプリム・ロオズの様な単調な感を与へず、相応に芸術上の効果を備へて居る。諸新聞の批評も概して悪くない。甘い物には違ないが、之なら日本に移しても「不如帰」で廉価な涙を流させるより功徳の多い事だと思ふから一寸簡単に僕の観た所を紹介しよう。
初の幕は文豪の書斎である。モリエエルは机に向つて脚本「良人学校」に筆を着けて居る。其処へ小娘のアルマンが入つて来る。四十歳を越した文豪の心は予て愛くるしい此小娘に動かされて居て二人の間にデリカアな話が交換される。其処へ第一の夫人である女優マドレエヌが現れてアルマンを叱り飛して其部屋へ追遣る。マドレエヌは良人の原稿を読み乍ら「貴方の心は近頃大変に若やいで来た。其は解つて居る。年寄つた自分に飽が来て、あのアルマンに移つて行くのでせう。あんな年の違つた女と結婚するのは決して貴方の幸ひでない。屹度貴方を苦める日がある。其れから、あのアルマンを今日まで自分の妹だと言つて居たが、実は自分の伴子です。義理の間にせよ父子で結婚は許されないでせう」と云ふと、モリエエルは苦悶し乍ら「是非結婚する事を許して呉れ」と云ふ。次の幕はルサイユの宮廷の大節会で仮装した幾多の諸侯と貴婦人が華麗な園内の其処彼処に舞踏の団を作つて遊び狂つて居る。此眩しい様な豪奢な光景の中へ盛装したモリエエルの第二の夫人アルマンも加はつて居て、其ブリヤントな容姿が水際立つて衆目を惹き附ける。モリエエルと結婚して既に十余年を経た後なのである。美しい一人の青年の諸侯に口説かれて木陰で接吻をする。其を偶然来掛つたモリエエルが瞥見した。恋に落ちた若い男女は林の奥へ逃げた。
次の場は同じく、ルサイユの宮庭内にある劇場の楽屋で、王室附俳優の部屋が左右に設けられ、右手にモリエエル夫婦の部屋と先妻マドレエヌの部屋とが並び、扉には各俳優の名が白墨で記されて居る。夜更である。宮庭の宴会から細君の手を執つて帰つて来たモリエエルの顔は蒼醒めて居る。薄暗い楽屋の板間で突然アルマンの手に縋る男がある。アルマンが「此処に居るのはわたしの良人です」と云ふ一語に驚いて其男は逃げ去つた。又他の若い諸侯がアルマンに懸想して忍び寄つたのである。モリエエルは年若な妻に対する誘惑の多い事を感じて人知れず煩悶する。細君に向つて其れとなく「自重せよ、良人の愛を反省せよ」と云ふ。歓楽を追ふ若い細君の心は良人の忠告も上の空に聞流し、はては「何事もわたしの自由だ」などと云ふ。モリエエルは堪まり兼ねて「今日の園遊会での密会は何のざまだ」と云ふ。二人は言ひ争ふ。細君は怒つて先に部屋へ入つて仕舞ふ。隣の部屋から先の夫人のマドレエヌが手燭を執つて現はれ一人残つたモリエエルを慰める。
三幕目は又モリエエルの家である。文豪は久しい間病気に悩んで居る。細君のアルマンは病床を訪はうともせず常に外出がちで、一人下廻りの女優カトリヌが親切に介抱して居る。モリエエルは彼れや是やで気を腐らし脚本「厭世家」に渋渋筆を着けて居る。医者が来て牛乳を飲めと勧める。牛乳嫌ひのモリエエルは飲まうとしない。先の細君のマドレエヌが自分の部屋から出て来て「モリエエルよ、貴方の天才を等閑にして下さるな。貴方の詩才は笑の神だ。世界は其れに楽まされる。貴方の天職を沮喪させては成らない」と云ふ。之に励まされて強ひて牛乳を口にする。マドレエヌが退くと部下の女優の一人ブリイが訪ねて来て病気見舞を言ふ。ブリイの御世辞が巧いのでモリエエルは何時にない機嫌を善くして「お前を見るのは嬉しい。其処へお掛け。お互に芝居を打つて歩いて面白い夜もあつた。併し今の自分は非常に煩悶を持つて居る。何事も大目に見て居なければ成らない」と云ふ。少時して、ブリイは今度の芝居の役不足を述べる。実は其れが為に訪ねて来たのであつた。モリエエルが毅然として其希望を容れないので初めの御世辞に似ず悪体を吐いて帰つて行く。モリエエルは机上の稿本を攫んで足下に抛ち長大息して長椅子に倒れる。
四幕目は又前のルサイユ宮廷の劇場の楽屋で、右手に舞台を半据ゑ、扉の開閉に今演じて居るモリエエルの作の「詐偽漢」の舞台の人物が見える仕掛に成つて居る。幕が明くと登場時間を待つ俳優がモリエエル夫人を取巻いて居る。いろんな諸侯が楽屋へ来て美しい夫人に媚を呈して行く。七十近い老文豪コルネエユ迄が出て来る。舞台から青年俳優のバロンが下りて来ると、入れ替りに他の俳優が登場し、楽屋は夫人とバロン二人きりに成る。予てバロンに意を寄せて居る夫人はバロンを口説いて「お前は確かな接吻をわたしから受取つたか」などと云ふ。二人は相抱く。其時舞台から下りて来たモリエエルは愕然として是を眺めた。其処へ引続いて他の俳優が多勢舞台から下りて来た。二人の男女は急いで他の室へ隠れて仕舞つた。幕間に成つたので老文豪コルネエユが再び楽屋へ入つて来たが、モリエエルが何時になく不興な顔附をして冷淡な応答をするので、コルネエユは自分がモリエエル夫人に懸想して居る事に就てモリエエルが煩問して居るのだと解釈してモリエエルの前に懺悔をする。モリエエルに取つては其れも亦悲痛の種である。而して「いや其為では無い」と云つたが、バロンと我妻との関係を言ふには忍び無かつた。
最後の幕もまたモリエエルの家であるが、舞台は先妻マドレエヌの病室に成つて居る。寝台の上のマドレエヌは肺患で死に瀕して居る。モリエエルが見舞に来て話の序に細君の乱行に就て歎息する。モリエエルが部屋へ退くと、女中代の女優カトリヌとアルマンが生んだ十歳になるモリエエルの娘マダウとが入つて来る。マドレエヌは「マダウさん、よい物を祖母さんが上げよう」と云つて人形を与へる。マダウは「父さんに見せる」と云つて出て行く。其処へアルマンが外から帰つて来て自分の部屋の方へ行き過ぎようとするのを、マドレエヌが呼止めて「あゝ好い夕日が窓から射す。少し今日は気分も好いから話も出来る。お前そこへお掛け」と云ふ。アルマンが「何か御本でも読みませうか」と云ふと「いや、書物はよしませう。其れよりカトリヌに命ひつけて、あの幾つかの箱からわたしの衣類を出して其処等へ陳べて御呉れ」と云ふ。寝台、卓、椅子の上へ掛けて沢山の古い舞台着が並べられ、其れを明るい夕日が照す。マドレエヌは一一嬉しさうに眺めて追懐に耽つてゐる。アルマンが「可笑しな母さんだこと。こんな物を眺めて、流行遅れの襤褸ばかしぢやありませんか」と云ふと、マドレエヌは目に涙を浮べて「何を云ふ、アルマン。わたしは是等の衣裳を眺めると、わたしの若い時、またモリエエルの若い時、其モリエエルの傑作を幾百度と無くモリエエルと一所に舞台の上で演じた楽しい日が憶ひ出される。モリエエルは一作毎に世界の人を喜ばせ、而うして世界の偉大なる詩人と成つた。アルマン、お前さんは何だ、其偉大なる天才の妻であると云ふ光栄を忘れはしまいね。お前さんはモリエエルを領解して居るかい。お前さんの近頃の行為は、あれでモリエエル夫人として恥しくは無いかね」と畳みかけて詰る。茲にアルマンは飜然として夢から覚めた。此時モリエエルが入つて来た。アルマンは良人の胸に泣き倒れて今日迄の不貞を懺悔した。モリエエルは感激して左の手に妻を抱へ、右の手にマドエレヌの手を執つて泣いた。娘のマダウが元気よく駆け来て「パパア、ママン、晩御飯が出来ました」と云ふので幕が下りる。此最後の幕で泣かされる観客が多い。実際僕なども目の潤んだ一人である。或評家は胡麻塩頭のアカデミシヤンが是丈涙つぽい戯曲を書いた事は近頃の成功だと半冷笑的ではあるが讃めて居る。惜しいことにはジオルジユ・グランと云ふ俳優が世話物に掛けてこそ一流だが、今度始めて斯う云ふ時代物に手を着けたので、其モリエエルは未成品だと云ふ外は無い。一体に伊井蓉峰の様に軽く動く人でモリエエルの様な大人物に扮するには不向である、マドレエヌに扮したベルテセルニイ夫人、アルマンに扮したルコント夫人、コルネエユに扮したパウル・ムネは申分の無い出来である。(四月十五日)
巴里にも随分田舎らしい方面が少くない。リユナ・パアクや魔術街が其れだ。リユナ・パアクはブロオニユの森の側にある見世物小屋だが、前を通る丈でまだ入つて見ない。
魔術街と云へば、セエヌの左岸のアルマの橋を渡つた街角にある大規模な見世物小屋だ。冬の間は休んで居たが四月から開場したのである。夜毎に盛んな電灯装飾を施して客を呼ぶので、未だ川風が薄ら寒いに拘はらず物見だかい巴里の中流以下の市民が押掛けて何の遊技館も大繁昌である、中に一寸痛快に感じるのは、棚に沢山の皿や鉢を立て並べて其れを客に重い毬を投げさせて思ふ存分壊させる趣向の店だ。看板に「沢山道具をお壊しなさい、其が貴君のお幸福」と書いてある。如何にも破壊を好む気早な仏蘭西人の気に入り相な遊戯だ。店には壊れた陶器が山を為し、壊される端から店の女が莞爾して新しい皿や鉢を棚に並べて居る。或晩和田垣博士と僕とで取替へ取替へ片端から一品も余さず壊して見たが、僕の様な癇癪持には真に便利なそして安価で胸の透く遊戯だと思つた。一回分の毬を六個盆に載せたのが日本貨の弐拾銭である。
此魔術街の一部に新しく日本街が出来た。永年欧米を廻つて居る櫛曵と云ふ日本人の興行師が経営してる相だ。春日風の朱塗門を入ると、日本画に漢詩や狂歌の賛のある万灯が客を中央の池へ導く。池を繞るのは粗末な幾軒かの日本建築の喫茶店、芸妓の手踊、越後獅子を初め、錦絵、小間物、日光細工、楽焼、饅頭屋、易者などの店である。四方の書割には富士山や日本の田舎を現し、松や桜の間に大仏やお社なども出来て居る。白昼に観ては殺風景だが夜の灯の明で観る景色は一寸日本らしい幻覚を起させる。関係して居る日本人は四十人近い。中には女が十人程居る。大抵日英博覧会から引続き欧洲に居残つてる連中だが、此春日本から巴里へ直接出掛けて来た女なども混つて居る。或一人の女は東京の実践女学校に居た者で先生の御講演を聴いた事があると和田垣博士に話して居た。又一人馬場吉野と云ふ愛くるしい十二歳の娘が居る。倫敦で生れて英国の小学校で育つた丈に達者に英語を話す。此日本街に加はつて日本画を描いたり日本陶器を売つたりして居る真面目な両親の愛嬢である。日本語は英語程に話せないらしく、東京を「トオ、キ、ヨ」と発音するのが却て僕達には嬉しく感ぜられた。日本に居て想像すると欧洲三界へ斯んな風にして出稼ぎして居る男女は大抵自堕落な人間の様だが、実際は反対に極めて真面目な量見を持て働いて居る者が多い。少くとも此日本街の日本人に就て僕は然う断言する事が出来る。
此連中は雑多な人間の寄合で純粋の興行師は案外に少く、巳を得ず此仲間に身を寄せて居るものの、何がな一芸を修めて日本へ帰りたいと心掛けて居る者が多い相である。女優の見習ひをしたいと云つて居る女などもある。併し一時の腰掛に斯う云ふ興行をして居る連中としては、唯通りすがりに何んな事をしてなりとも金儲けさへすれば好いと云ふ様な薄情な態度が無いのは感心だ。彼等は自分の力の可能を尽して兎も角も祖国の趣味を欧洲人に紹介しようと勉めて居る。試みに此日本街に入つて見るなら、彼等の微力で以て善く是丈の日本品を取寄せ、不自由な材料を以て巧に日本風の設備を為し得た事だと誰も感じるであらう。之に附けても僕は日本大使館の無風流を歎かざるを得ない。大使代理の安達君は甚だ精勤家で会ふ度に忙し相であるが、祖国の芸術学問を欧洲人に紹介すると云ふ様な精神的方面に対しては余りに等閑に附せられて居る。大使館の応接室を覗いた者は誰も其書架に飾られた内外書籍の貧弱に驚くであらう。殊に何時も冷汗をかくのは大小の客間の日本的装飾が内地の田舎芝居の書割にも見る事の出来ない程乱雑と俗悪とを極めて居る事である。場所もあらうに巴里の真中へ東洋の一等国を代表して斯様な非美術的装飾を見せびらかすのは国辱も甚だしい。勿論之は安達君の所為では毫も無い、日本の外務省の心掛が悪いのである。僕は十五万円も費したと云ふ大使館の客間に全く失望して居るが、却て微力な中から是丈或種の調和的な日本趣味を具体し得た日本街を感心だと思ふ。惜しい事には女達の衣裳が拙い。其品の悪いメリンス友染を取巻いて珍らしげに仏蘭西婦人が眺めて居るのを見ると冷汗の出る気がする。(四月十八日)
欧洲人の喜ぶ五月第一日を僕も面白く暮したいと思つて居たら、独逸の留学を終つて日本へ帰る長野軍医正が立寄つたので、昼間は一緒に医科大学を訪ふやら、パスツウルの研究所を観るやら、眼科医学の泰斗として名高いランドルト教授父子の私宅を驚かすやら、大分見当ちがひの案内に忙しかつたが、夜は梅原の所へオデオン座から寄越した招待状で梅原、ロオド・ピサロオ、マウリス・アスランの三人の画家と忠臣蔵を飜案した新劇「日本の誉」を観に行つた。此ロオド・ピサロオ君は有名な風景画家故ピサロオ氏の息子で温厚な青年画家である。芝居は噂の如く今夜も大入であつた。僕等と向ひ合つた観棚に小林萬吾、和田三造外二人の日本人も来て居た。僕が勧めて置いたので長野軍医正の顔も土間の方に見えて居た。
僕は前に此「日本の誉」を変な物だと報じて置いたが、其れは忠臣蔵の飜案だと思へばこそ僕等日本人に其支離滅裂な点が目障になる物の、全く忠臣蔵の原作を知らない仏蘭西人が観れば非常に珍らしいエキゾテイツクの味に富んだ物に違ない。又忠臣蔵に関係の無い別個の新作だとして考へれば筋も可なり通つて居る。殊に舞台面の装置、背景、光線の使用等が巧く出来て居るし、役者の扮装も、初の幕から義士が討入の晩の装束をして居たり、左袵に着て居たりする間違は多いにしても、大体に配色が巧であるから見た眼の感じが快い。東京で演じる飜訳劇と云ふ物も西洋人が観たら定めて可笑しな物であらうから、日本の習慣に通じない仏蘭西人の演じる物として是丈に調つて居れば先づ褒めて置かずば成るまい。中にも茶屋場の彌五郎(実は由良之助)は好い出来であつた。日本では九太夫が縁の下に居るのを、此芝居では反対に彌五郎の乱酔を吉良(実は九太夫)が二階から観て居るのである。
何が最も好くないかと云ふと音楽に東京で広目屋が遣るブカブカ調に似た物を用ひた事だ。先年貞奴が巴里へ来た時に用ひた楽譜から採つたと云ふ事だが、大阪侯(実は判官)切腹の場で其陽気な調子を奏するのだから僕等日本人には堪らない。其れに切腹の場に立会ふ立烏帽子を着た二人の勅使が「勅使旗」を前に樹てさせて臨場し、草鞋穿の儘上段の間に趺坐を掻き、背後に二人の小姓が各二本の刀を両手に攫んで捧げた形には思はず梅原と二人で吹出して仕舞つた。稽古の時に和田垣博士が切腹の場で笛を用ひる様に注意せられたのであつたが、舞台監督のアントワンが笛の音を聞くと縮み上る程嫌ひだと云ふので見合せに成つたのだ相だ。
腹切の形も最初は真中へ棒差に突込んで直ぐ後へ倒れるのであつたが、最後の稽古の日に徳永柳洲が教へて遣つたので何うにか見られる様に成つた。併し俯伏すのは形が悪いと云つて前へズツと乗出して腹這に成つて仕舞ふのであるが、其れが又新しい味のある形になつて居て、決して変でなかつた。其外最敬礼の場合に皆が度度腹這に成る。勅使に対しても大阪侯の夫人侍女家臣等が腹這に成るのを始め、大詰の仇討の場へ日の丸の提灯を先に立て乍ら帝の行幸がある時にも舞台の人間は一切寝るのである。舞台監督の意向は日本の習慣などは何うでも可い、唯欧洲に無い野蛮趣味と新しい形とを出して観せたいのらしい。
観客は幕毎に大喝采をする。切腹の場では女客の目に手巾が当てられるのも少く無かつた。四幕目にキニゼイと云ふ妙な名の若侍が彌五郎の娘である許嫁の愛情に絆されて、今宵に迫る仇打の首途に随分思ひ切つて非武人的に未練な所を見せる。其処へ多勢の義士が誘ひに来て散散に辱めた上飽迄も躊躇して居るキニゼイに告別して行つて仕舞ふと、キニゼイ先生も終に決心して許嫁を突除け同志の後を追つて行く。其れから大詰に仇方に仕へて居る彌五郎の息子野助(実は力彌)が主人の為に父と戦ひ一刀に斬られる所がある。是等も変つて居るので観客に大受である。想ふに英国で書かれた「ムスメ」此国で既に演じて居る「バツタアフライ」と並んで当分欧洲の俗衆に歓迎せられる日本劇は此「日本の誉」であらう。併し僕の尤も感服する事は巴里の一流の劇評家が之に対して大袈裟な批評を試みない事である。
芝居の後はピサロオ君の発議でモンマルトルに引返し、或賑かな酒場で朝の三時近くまで話して居た。キヤバレエには伊太利人の音楽や踊子の踊があり、又気取つた風をした即興詩人が二三人も居て当意即妙の新作を歌ふ。其れから客と美しい女連との踊が暁方まで続くのである。(五月二日)
ル・バルヂイ氏は仏蘭西一の喜劇役者だが、硬骨な氏は去年の春舞台監督と衝突して即座に辞職を申出で、多勢の名士の仲裁も其効なく、昔女優サラ・ベルナアルが[#「サラ・ベルナアルが」は底本では「サラベル・ナアルが」]奮然辞職した以来の大悶着を惹起して居た。愈辞職と決したので此十七日に氏の御名残狂言がコメデイ・フランセエズ座で催され、氏の得意の物を一幕宛出し、ムネ・シユリイ其他の名優が一座する筈である。三週間前から切符を売出したが、平生の十倍に当る価格の切符が僕が五日目に出掛けた時大抵売切れて居たので其盛な人気が解る。当日の総収入は一切ル氏に贈る定めなので、他の俳優は全く無報酬で一座し、凡ての費用は劇場の負担である。
ル氏は未だ五十四五歳だから此後を何うするかと云ふ事は巴里人の間に興味ある問題となつた。氏に対してコメデイ・フランセエズ座から予て捧げて居る劇場株は十八万円ある。氏が辞職と共に俳優を廃めて仕舞へば永久此恩給に浴する事が出来るが、他の劇場へ出れば十八万円は一切没収される規定なのである。然るに氏は飽迄も芸術の人として進みたいのであるから、其等には頓着せず、ポルト・サン・マルタン座へ首席俳優として入る事に決めて仕舞つた。国立劇場の方でも氏の多年の功労に対し全く従来の持株を取上げる具合にも行かないから、結局は幾分を他の名義で贈呈する事になるであらう。其れから姑く適当な役者を欠いて居たので上場せずに居たロスタンの「シラノ・ド・ベルジユラツク」を、ル・バルヂイ氏のシラノで演ずるであらう、其れが大変な適り役であらうと評判されて居る。(五月四日)
サロンが新旧とも開かれて居る。未だ二度しか行つて見ないし、其れに点数が両方で一万に近い事であり、加之に仏蘭西人許りで無く春の見物に来た世界のお客様がうようよしてゐる中で忙しく一瞥して歩くのだから確な評判も出来ないが、斯う量が多ければ概して普通の作物許りになるのは勿論だ。其れに巴里へ来てから僕の目も贅沢に成つて居るだらうから、自然之はと特に感服する絵は少い様だ。其中でアマン・ジヤン氏の「地水火風」セカリエ・ベリユウス氏の「踊子」などが目を惹くのを思ふと矢張群を抜いて居るのであらう。
同時に個人の絵が幾つも初まつて居るので中中忙しい。※[#濁点付き井、156-8]ヤアル氏は若手の中の流行子で一作毎に技巧の変化を見せ過ぎる嫌ひはあるが、浮調子で無く、全体に内から燃える豊かな同情に融合つた強い色調で葡萄酒の窖に入つて居る様な甘い温かな感を人に与へる。人間を描く巴里の青年画家の中で僕の今日迄に最も感服したのは此人である。又新しく印度内地の旅行から帰つて来たベナアル氏の印度土産の絵が目下大変な人気を集めて居る。異国の風情を好む近年の流行心理に投じた為もあるが、欧洲人にして此画家程印度人を領解した人は無いと云ふ諸新聞の推讃も決して諛辞で無い。氏は多く河辺に下り立つて聖水に浴する印度婦人に興味を持ち、其れに就いて幾多の面白い作を成就して居る。開会以来半月も経たぬ間に七分まで売約済に成つて仕舞つた。
又此月は仕合せな事に二人の老大家の新作に接することが出来る。ルノワアル翁は既に其新作許りをジユラン・リユイルの店の数室に陳べて居るが、何よりも先づ老いて益精力の壮なのに驚く。僕には未だ翁の近年の作の妙味が十分会得せられないが飽迄も若若しい此翁の心境は例の真夏の花を嗅ぐ様な豊艶多肉な女を倦む色もなく描いて居る。姑く画を廃して庭作りを楽んで居ると云ふ噂のあつたモネ翁が此二十七日から其新作を見せて呉れる事になつたのは嬉しい。又多年眼を病んで居るドガ翁も近頃は折折絵筆を取る相である。まだマチスの絵を見る機会がない。
欧洲へ来て未だ日の浅い僕の観察に大した自信も無い事ながら、従来日本に居て新帰朝者の報告で聞いて居たのと実際と大分相違のあるらしいのに事に触れて気が附く。例へば避姙が盛だと云つても其れは仏蘭西全体の事では無く、巴里其他の都会に主として行はれる事実である。如何にも一生涯子を産まない女が巴里に多い。産むにしても大抵一人の子に限られ二人の子を育てて居るのは甚だ稀である。併し少し田舎へ行けば三人以上の子供のある家は決して珍らしく無い。僕の知つて居る或田舎の婆さんなどは十七人の子を産んで十人丈育つて居る。是等は特例であらうが、兎に角避姙は都会生活の複雑な事情から由来するので簡素な地方生活には其必要が無い。然れば之を以て直に人口の減少を論じ仏蘭西の衰頽を唱へるのは杞憂であつて、設ひ都会人の出産数は減少しても常に地方人が之を補充するから都会の人口は寧ろ加はるとも減る事は無い訳である。又仏蘭西全体に一時人口の減少する事実があるにしても其れが永久に続くとは断ぜられず、殊に人口の減少が頓て国家の萎靡を招く原因だとは思はれ無い。現に仏蘭西の富は年毎に増して行くし、学問芸術に就いてはロダンの彫刻、マスネエの音楽、ポアンカレエの科学、ルノワアル、モネ、セザンヌ、ゴツホ、ゴオガン、マチス等の絵画、ルハアレンの詩、ベルグソンの哲学、キユウリイ夫妻のラジウム発見に至るまで常に世界文明の先頭に立つて居る。衣食足つて深沈大勇な思索研究に耽つた為め、或は表面的な士気に聊か弛緩の姿を示したかも知らぬが、其れは一時の事であつて、光栄あるラテン文明の歴史に根ざした国民の実質は衰へる由も無く、独逸近年の外圧に奮起して尚武の気風は頓に揚がつて居る。今春の議会に海軍拡張案を提出した政府が頻に日本を例に引いて反対党の気勢を挫いたのは目覚しい現象であつた。
日本では近年何事にも官営が流行し、其れが必ずしも国庫の収入を増す結果に成つて居ないらしいが、民衆の利益を主として万事を経営する仏蘭西政府の遣り口を見ると、民業として利益あり官営として損失のある性質の物は勿論民営に任す方針を取つて居る。斯う云ふ事に就ても従来欧洲を視察して帰る日本の官人の報告が粗漏だと思ふ。例へば日本の逓信省は去年あたりから東京市内の小包制度に繁雑な拡張を実施し、米俵から洋傘弁当に到る迄迅速に配達する事に成つたが、之が為に何れ丈市内労働者の仕事を奪つたか知れない。其割に逓信省の収入が殖えたかと云ふと、其れには係員や配達夫を増したであらうし、一時にせよ其等の品物を受入れる場所の設備も要したであらう、而して配達料はと云へば麻布の奥から本郷の奥まで米一俵を配達するにも一人の配達夫と一輛の車とを要し乍ら纔に四銭か六銭である以上、決して大した実益は無いに違ない。巴里の市内小包は何うかと云ふと東京の様に迅速な配達制度は無く唯一日に三回配達する普通小包丈である。其外に至急を要する物は各自の家の使用人に持たせて遣るか、使ひ歩きを業とする者に託する。郵便局で受入れる普通小包は直接に郵便局が配達するので無く、逓信省は之を或会社へ一手に委託して配達させて居る。会社は逓信省へ一年纔に七千六百フラン(三百十四円)の請負料を納める丈で其他の小包料は一切会社の所得である。巴里の小包は一日平均七千個だと云ふから、之を若し郵便局で配達するとすれば係員の多くを要し事務の繁雑な割に利する所は少いが、会社の方では唯一人の社長が機敏に差図し市内二十幾箇所の出張所に百五十人の係員、八十人の配達夫、十人の補助配達夫を使用する丈で事が捗取つて行くから民業として立派な収益を得て居る。僕は日本と比較して此国の逓信省の賢さを歎称せずに居られない。
日本の役所は一体に無用な記録が好きで、郵便局の何の口を覗いても大きな幾冊かの帳簿の番人が控へて居るが、巴里で為替を組んでも小包を出しても、小さく三枚に切れる用紙で事が済み、一枚は受取証、一枚は為替券若くは小包に貼附ける物、後に郵便局に残る小さな一枚が正本の大帳簿に相当する物である。斯う云ふ事に簡潔なのが何れ丈便利で且つ経済的だか知れない。僕は学校の卒業証書と云つても好さ相な立派な大きい為替用紙を思出して日本人の無用な贅沢に呆れる。(五月十日)
東京の音楽学校を卒業した音楽家で併せて近年欧洲の飛行機界に名を知られた飛行機家である「男爵シゲノ」が、其創意に成つた滋野式飛行機若鳥号を携へ遠からず巴里を立つて日本へ帰る筈だ。氏は去年の今頃飛行機から[#「飛行機から」は底本では「飛行機かち」]落ちて軽傷を負うたが、其一週年とでも云ふ訳か近頃少し背部が痛むと云つて居る。其れで飛行は試みないが矢張毎日イツシイ・レ・ムリアウにある飛行場へ出掛けて行く。和田垣博士と僕とが氏の出立前に其飛行場へ一度案内して貰ふ約束をして置いたので一昨日の午後風の無さ相な空を見込んで氏の下宿を尋ねると、下宿の主人が氏はパンテオンの横町の自動車を預ける会社へ行つたと云ふ。二町足らずの近い処にある会社へ直ぐ跡を追つて行くと、滋野君は半月前に買つた新しい自動車を会社の入口に引出して頻に掃除して居た。華族様に似合はない器用な男で、何時の間にか自動車の練習所を卒業して巴里市庁からの免状をも取つて居る。
二人でリユクサンブル公園の裏の下宿へ和田垣博士を誘ひに寄ると、博士はフレデリツク・ノエル・ヌエ君と云ふ巴里の青年詩人を相手に仏蘭西語の稽古をして居られる処であつた。僕はヌエ君の新しい処女詩集に就てヌエ君と語つた。詩はまだ感得主義を脱して居ないが、ひどく純粋な所がある。甚だ孝心深い男で、巴里の下宿の屋根裏に住んで語学教師や其外の内職で自活し乍ら毎週二度田舎の母親を訪ふのを楽みにして居る。ヌエ君と下宿の門で別れて三人は自動車に乗つた。有名な髑髏洞の前まで来て其筋向ひの珈琲店で一寸憩まうと滋野君が云つた。同じく飛行場を観たいと云ふ或お嬢さんを其処で待合す約束に成つて居た。麦酒を飲んで居ると約束の午後四時に其お嬢さんが遣つて来た。併し今日は俄に差支が起つて行かれない、只其断りに来たのだと言ふ。目附の憂鬱な、首筋の細りとした、小柄な女である。其帰つて行つた後で「お嬢さんと云ふ言葉は勿体なからう」と云ふと、滋野は笑つて「もとは帽子に附ける造花を内職にして居た物堅い家のお嬢さんだが、近頃は少し怪しいお嬢さんに成掛けて居る。併し何となく雨に打たれた様な女であるのが好いぢやないか」と云ふ。博士曰く、「油絵に描く女だね。」
東京の路の様で無く、目まぐるしい程自動車や其他雑多な車の行交ふ巴里の大道を巧に縫つて自動車を駆る滋野君の手腕は感服すべき物であつた。巴里の城門を出るのに税関吏が尺度を以て自動車の貯へて居る揮発油の分量を調べた。之は市内と田舎とで揮発油の価格が違つて居るから、若し帰途に其れ以上の分量を持つて居れば課税するのである。飛行場は東京の青山練兵場に少し広い位の場処で、大小二十幾所の格納庫が其れを取巻いて居る。猶之と同じ飛行練習場が巴里の近郊丈に十箇所から有ると聞いて如何に飛行機の研究が盛であるかが想はれる。飛行場は一切陸軍省に属して居るから出入の人を騎馬の憲兵が誰何する。
どの格納庫にも幾つかの飛行機が納められて居て一一様式が異つて居る。墜落して壊れたのもある。不備な所を修繕して居るのもある。飛行場は陸軍省に属して居ても、官営万能※[#「執/れんが」、U+24360、166-3]に罹つて居る日本と違つて格納庫も其れに納めてある飛行機も総て私人の所有である。此処は一番古い飛行練習場丈に何の格納庫も飛行機史上に逸し難い最初の面白い記録を持つて居る。滋野君は其等を語り乍ら一一飛行機の特色を説明して呉れた。ナ※[#濁点付き井、166-6]ガツシヨン・アリエンヌに属する格納庫に両三日前発動機の装置の改善を終つた滋野君の若鳥号が納められて居る。全部鋼鉄で出来て居る事が一見して他と異つて居る。其外細部に亘つた特色は数月の後之が日本へ持帰られた時明瞭となるであらう。重量は三百キロ、馬力は六十である。ナ※[#濁点付き井、166-9]ガツシヨン・アリエンヌの飛行家長ルシヤン・ドユマアゼル君が僕等より先に来て、風さへ凪いだならば今日此若鳥の修繕後第一回の飛行を試みやうとして居た。此ドユマアゼル君は十四歳位の時から毎日飛行機に乗つて居るので巴里屈指の飛行家であるが、年齢が足らなかつたので政府から免状を得て以来未だ二箇月にしか成らない。漸く十八歳二箇月なのである。
午後五時前に十許りの飛行機が引出されたが、風が強いので皆地を這つて発動機の具合を試したり、滑走試験を続けたりして居る。其が砂煙を蹴立てるので広い場内が真白に曇つて仕舞つた。ドユマアゼル君は断念して帰つて行つた。僕達は場外へ出て少時珈琲店で憩んだ。和田垣博士の駄洒落が沢山に出た。「巴里に多い物は尽し」を並べて種種の頭韻を冠つた句などが出来る。其内に二隻の飛行機が風を侵して飛び初めたので僕達は場内に引返した。僕は巴里へ来て頭の上を飛ぶ飛行機は度度見て居るが、地を離れたり着陸したりする光景を観るのは今日初めてである。其れが飄然として如何にも容易い。どの飛行機にも飛行家以外に物好な男女の見物が乗つて居る。和田垣博士も僕も自然と気が昂つて乗つて見たく成つた。飛行機から落ちると云ふ事は最早万一の不幸に属して居る。万一の不幸を気にして居たら土の上も踏めない訣だ。自動車に轢かれて死ぬる事もあるのである。乗るなら頼んで見ようと滋野が云つたけれど今日は其外に飛ぶ飛行機が無かつた。其処へ飛行機を専門に写す写真師が自転車で遣つて来たのを呼止めて、記念の為に若鳥号を引出させて其前で三人が撮影した。
滋野の話に由ると、修繕前の若鳥号に屡乗つて飛行を試験して居た飛行家にナルヂニイと云ふ伊太利人が居た。其男は仏蘭西政府の飛行免状を取つて居る巧者な飛行家であるが、伊太利人であり乍ら土耳其軍へ数隻の飛行機を取次いで売つたと云ふので本国政府から仏蘭西政府へ取押へ方を請求して来た。其れで仏蘭西政府は本人に退去命令を下すと、ナルヂニイは「宜しい」と云つて、即日ドユペル・ドユツサンと云ふ単葉式五十馬力の飛行機に乗つて、巴里の郊外※[#濁点付き井、169-3]ロン・グブレエから英国のロンドンへ「雲を霞」とお手の物で飛んで仕舞つたのは人人を一寸痛快がらせた。未だ十日前の事だ相である。
今日あたりから倫敦のデリイ・メエル新聞社が三十万円を提供して英国の各州へ数隻の飛行機を飛ばせ、最早飛行の可能は議論の余地が無い、唯実際の飛行を示して国民の飛行機※[#「執/れんが」、U+24360、169-11]を盛んにしようと企てて居るが、其飛行家は総て仏国から招聘した。斯様な話を自動車の上でしながら帰途はセエヌ河の右岸に沿ふて夜の灯の美しい巴里の街へ入つた。オペラの前の通りのレスタウラン・ユニルセルで美味い夕飯を済ませて両君と別れたのは十時前であつた。(五月十七日)
浦潮斯徳を出た水曜日の列車は一つの貨車と食堂と三つの客車とで成立つて居た。私の乗つたのは最後の車で、二人詰の端の室であるから幅は五尺足らずであつた。乗合の客はない。硝子窓が二つ附いて居る。浦潮斯徳に駐在して居る東京朝日新聞社の通信員八十島氏から贈られた果物の籠、リモナアデの壜、寿司の箱、こんな物が室の一隅に置いてあつた。手荷物は高い高い上の金網の上に皆載せられてあつた。浦潮斯徳の勧工場で買つて来た桃色の箱に入つた百本入の巻煙草と、西伯利亜の木で造られた煙草入とが机の上に置いてある。是等が黄色な灯で照されて居るのを私は云ひ知れない不安と恐怖の目で見て居るのであつた。終ひには両手で顔を覆ふてしまつた。ふと目が覚めて時計を見ると八時過であつたから私は戸を開けて廊下へ出た。四つ目の室に斎藤氏が居る。其前へ行くと氏が見附けて直ぐ出て来た。食事が未だ済まないと云ふと、食べないで居ると身体が余計に疲れるからと云つて、よろよろと歩く私を伴れて氏は一度済して帰つた食堂へ復行つた。機関車に近いので此処[#ルビの「ここ」は底本では「こしよ」]は一層揺れが烈しいやうである。スウプとシチウとに一寸口を附けた丈で私は逃げるやうにして帰つて来た。其間に寝台がもう出来て居た。十二時頃に留つた駅で錠を下してあつた戸が外から長い鍵で開けられた響を耳元で聞いて私は驚いて起き上つた。支那の国境へ来たのであるらしい[#「あるらしい」は底本では「あるあしい」]。入つて来たのは列車に乗込んだ役人と、支那に雇はれて居る英人の税関吏とである。荷物は彼れと是れかと云つて、見た儘手を附けないで行つた。三時半頃から明るくなり掛けて四時には全く夜が明けてしまつた。五時過に顔を洗ひに行くと、白い疎ら髭のある英人が一人廊下に腰を掛けて居た。ずつと向うの方には朝鮮人も起きて来て外を見て居るやうであつた。斎藤氏は朝寝坊をしたと云つて、八時過に食堂へ行くのを誘ひに来た。パンと珈琲だけの朝飯に一人前に払ふのが五十銭である。午後の二時に哈爾賓へ着いた。ブラツト・フオオムに立つて居た日本人は私の為に出て居てくれた軍司氏であつた。電報が来たと云つて斎藤氏が持つて来た。「西伯利亜の景色お気に入りしと思ふ」と云ふ大連の平野万里さんから寄越したものであつた。伊藤公の狙撃されたと云ふ場処に立つて、其日眼前に見た話を軍司氏の語るのを聞いた。「此汽車は私のために香木を焚いて行く」こんな返電を大連へ打つた。石炭を使はないで薪を用ひるのは次の国境迄だ相である。どの駅でも恐い顔の蒙古犬や厳しいコサツク兵や疲れた風の支那人やが皆私の姿を訝し相に見て居た。夕方に広い沼の枯蘆が金の様に光つた中に、数も知れない程水鳥の居る処を通つた。白樺の小い林などを時時見るやうになつた。三日目の朝に復国境の駅で旅行券や手荷物を調べられた。午後に私の室へ一人の相客が入つて来た。服の上に粗い格子縞の大きい四角な肩掛をした純露西亜風の醜い女である。良人は外の処に乗つて居るらしい。大抵廊下へ出て其処で夫婦が話をして居るやうであつた。晩餐後に私が少し眠くなつてうとうとして居る間に其婦人は降りてしまつた。十時過に寝台を作らせて入ると直ぐ外から戸を開けられて相客が来たやうであつた。私は見ないで顔を覆ふた儘で居た。小さい子供の泣声や咳をする声などが夜中に度度したので、上の寝台へ来たのは子持の婦人らしいと思つて居た。
二人になると昨日迄のやうに早く起きて寝台を仕舞はせたりする勝手も今朝は出来ないなどと思つて、目が覚めてから床の中でぢつとして居ると、前の鏡へ上の客が映つた。寝て居ると思つて居た人が坐つて居る。白い切れを髪の上に掛けて、色の白い児を抱いて居る気高い美しい女である。マリヤがふと現はれた様な思ひもしないではない。化粧室へ行つて顔を洗つて来て髪を結つて着物を着更へても、二度寝をした上の客はまだ起きさうにない。私は書物を持つて廊下へ出た。汽車は渓川に添つて走つて居るのであつた。箱根の山を西へ出た処のやうな気がする。雪が降つて来た。食堂から帰つてもまだ私の室の戸は閉められてあつた。九時過[#ルビの「すぎ」は底本では「す」]にそつと寄つて戸から覗くと桃色の寝衣を着た二十四五の婦人が腰を掛けて金髪を梳いて居た。夜明の光で見た通りの美しい人である。長春から来て哈爾賓で後へ二つ繋がれた客車の人をも交ぜて三十人余りの女の中で此婦人が出色の人である。昼前にはもうどの男の室でも其噂がされて居たらしい。此若い露西亜婦人は令嬢が百日咳のやうな気味である為め冷たい空気の入らないやうにと部屋の戸にも廊下の端の戸にも気を配つて居た。晩餐の卓に就いて居た時、動き出さうとする汽車を目懸けて四羽の雁の足を両手で持つて走つて来る男があつた。再び汽車が止まると食堂のボオイが降りて其雁を買つた。珍らし相に左の窓際の客が皆立つて見るのを、「何ですか」と日本語で問ふた貴婦人があつた。斎藤氏は英語で其人と話をして居た。それは私を女優かと聞いたと云ふ紳士の令嬢である。私の同室の人は夜になると母も子も烈しく咳をする。四日目にはバイカル湖が見える筈であると云つて誰も外の景色の変るのを楽しみにして居るやうであつたが、やつと二時頃に白い湖の半面が見え出した。汀に近い処は未だ皆氷つて居る。少し遠い青味を帯びた処は氷の解けて居る処であるらしい。また白い処があつて其向ふに水色の山が見える。幅の広くない処と見えて山際の家の形が見様に由つて見えない事もない。一間程の波が立つた儘で氷つて居るのも二三里の間続いた景色であつた。鏡の様に氷が解けて光つた処には魚が居るらしく、船に乗つて釣をして居る人もあつた。此様風な渚も長く見て居る中にはもう珍らしく無くなつて東海道の興津辺を通る様な心持になつて居た。六時に着く筈のイルクウツクで一時間停車して乗替を済ませたのは十一時過ぎであつた。前の晩には金碧の眩い汽車だと思つたが朝になつて見ると昨日迄のよりは余程古い。窓も真中に一つあるだけである。莫斯科まで後がもう五晩あると思つて溜息を吐いたり、昨日も一昨日も出したのに又子供達に出す葉書を書いたりして居た。六日目に同室の婦人は後方の尼様の様な女の居る室に空席が出来たと云つて移つて行つた。汽車は玉の様な色をした白樺の林の間許りを走つて居る。稀には牛や馬の多く放たれた草原も少しはある。牛乳とか玉子とか草花の束ねたのとかを停車場毎に女が売りに来る。私の机の上にも古い鑵に水を入れて差された鈴蘭の花があつた。乗客係が来て莫斯科から連絡する巴里迄の二等車の寝台が売切れたから一等許りのノオルド・エキスプレスに乗つては何うかと云つた。八十円増して出せば好いと云ふのである。露貨は其様に持たない、仏貨を交ぜたら有るかも知れぬと、云ふと其でも好いと云ふ。兎に角八十円を出して仕舞ふと、後は途中の食費と小遣が十円も残るや残らずになるのである。心細い話だと思つて私は考へたが、二等の寝台車を待つために幾日莫斯科に滞在せねば成らぬか知れない様な事も堪へられないと思つて、結局仏貨で三十九円六十銭出してノオルドの寝台券を買つた。後四十円は莫斯科で一等の切符と換る時に出すのだと云ふ事である。男の席はあると云ふので斎藤氏は二等車の寝台券を買つた。
川は二三町の幅のあるのも一間二間の小流れも皆氷つて居る。積つた雪も其処だけ解けずにあるから、盛上つて痩せた人の静脈の様である。七日目にまた一人の露西亜女が私の室の客になつた。快活な風でよく話を仕懸ける人である。ウラルを越えていよいよ欧羅巴へ入つた。山の色も草木の色も目に見えて濃い色彩を帯びて来た。此辺では停車する毎にプラツト・フオオムの売店へ宝石を買ひに降りる女が大勢ある。私も其店へ一度行つて見た。紫水晶の指の触れ心地の好い程の大きさのを幾何かと聞くと五十円だと云つた。ロオズ・トツパアス、エメラルドなどが皮の袋の中からざらざらと音を立てて出されるのは、穀類の様な気持がする。夜の駅駅に点る黄な灯の色をしたトツパアスもあつた。某駅から巴里の良人と莫斯科の石田氏とへ電報を出した。動揺の烈しい汽車も馴れては此以外に自身の世界が無い様な気がして、朝は森に啼いて居る小鳥の声も長閑に聞くのである。ボオル大河の上で初めて飛んで居る燕を見た。木の間に湖が見えて其廻りを囲んだ村などが画の様である。露西亜字で書いた駅の名は固より私に読まれない。曇色の建物の中に寺の屋根が金に輝いて居るのが悲しい心持を起させる。十六日の夜になつた。翌朝が待遠でならない。何時に起さうかとボオイが聞くので、六時に着くなら五時で好いと云つた。起される迄もない事であると心では可笑しく思つて居た。同室の人は是も頼んであつたボオイに起されて夜明の四時頃に降りて行つた。莫斯科のグルクスの停車場には朝鮮人の朴氏が来て居て呉れた。電報で頼んで置いたから領事館に来て居た私宛の手紙を持つて居た。此処からビレスト停車場へ行つて其処で乗替をするのである。切符の増金は二十五円五十五銭で好いと云ふ事である。聞いたのよりも十五円程少いのを気にしながら朴氏と馬車に乗つて街へ出た。道路は東京より悪い様な処もある。浦潮斯徳程ではないが馬車から落ち相な気がしないでもない。ブラゴウエスチエンスキイ寺院の暗い中に灯の幽に点つた石の廊下を踏んで、本堂の鉄の扉の間から遠い処の血の色で隈取られた様な壁画を透かして眺めた。モスコオ河の上に脅かす様に建てられた冬宮も旅の女の心には唯哀を誘ふ一つの物として見るに過ぎない。白い宮殿の三層目の左から二つ目の窓掛が人気のあるらしく動いて居た。宗教画に彩どられた高い門を潜つて賑な街へ出た。朴氏は勧工場へ私を伴れて行つたが、私は汽車賃が何れ又追加される様な気がして莫斯科の記念の品も買ふ気にはなれなかつた。領事館は十時でないと人が来て居ないと云ふので、私は花岡、石田二氏への言伝[#ルビの「ことづて」は底本では「ことづで」]を朴氏に頼んで復汽車に乗つた。椅子が一つあつて室毎に化粧室が備はつて居るだけで、欧羅巴で最も贅沢だと云はれるノオルドの汽車も其程有難い物とも思はれない。十一時前に発車した。ボオイが来て明日アレキサンドロウでもう三円三十五銭払へと云つた。未だ追加を後から多くされるのではないかと云つたが、巴里迄それで好いのだと云ふのであつた。食堂のボオイが各室へ注文を聞きに廻るのが私に丈は何とも云はない。食べたくもなく思ひながら時間に食堂へ出て見ると、席が無くてやつと田舎女らしいけばけばしい首飾りをした厭な黒い服の婦人の隣で椅子を与へられた。ボオイの顔附が不愉快である。私は昨日迄の汽車を懐しく思はずには居られなかつた。
晩餐の時は初に私を女優かと問うた英国の老紳士の隣へ坐つた。日本語をよく話す人である。明治六年から三十八年間横浜に居る人だ相である。汽車賃はもう十円位追加されるだらうと其人が云つた。今夜初めて私は上の寝台で寝た。日本に居る頃から心配して居たワルシヤワの乗替は十八日の午前十一時頃に無事に済んだのであるが、ボオイが来てもう二十八円出さなければ成らないと云はれた時私は胸を轟かした。三円三十五銭はもうワルシヤワの手前で払つたのである。莫斯科で朴氏にした礼と馬車代とを使つた後で、仏貨や独逸の銭を交ぜても二十五円足らずより持合せがない。間違ではないかと云つて見たが何うしても二十八円要ると云ふ。不愉快な思ひをして食堂へ出る事はしないでも好いから其れは食べない事にするとしても、何うも巴里迄は行けさうにない。かうなると何処で降ろされるかも知れないと思ふので少しでも遠い距離に伴れて行かれたい心で汽車の走るのが嬉しい。考へ抜いた揚句今夜私は伯林で降りるとボオイに云つたが不可ないと云ふ。何うしても伯林で降りるのだと云つても頑として不可ないと云ふ。荷物の関税の関係などの事でさう云ふのである。私は伯林の松下旅館で一晩泊つて翌日普通の二等車にさへ乗れば楽に巴里へ着かれると思ふのであるが、其れが出来ない事なら何うすれば好いかと、向ふ任せの気にもなれないで胸を痛めて居た。もうアレキサンドロウに来て居るのである。ふと目を上げると窓の外のプラツト・フオオムを横浜の英人が運動に歩いて居る。倫敦行の汽車は別のかと思つて居たのであるが、前と後になつて居る丈で未だ両方繋がつて居る事に此時初めて気が附いた。私は其人の傍へ下りて行つて伯林で降りる事をもう一度交渉して見て下さいと頼んだ。紳士は直ぐ来て呉れてボオイにさう云つて呉れたが矢張駄目だと云ふ。一日位は好いではないかと云つても好くないと云ふ。私が途方に暮れて居るのを見て紳士は私に、あなたが金の事で心配するのなら何程でも私が出して上ると云つて呉れた。二十円もあれば好いでせうと云つて私を自身の室へ伴れて行つて二人の令嬢に紹介した。私は思ひ掛けない事に遇つて感極まつて涙が零れた。用意に三十円もお持ちなさいと云つて露貨で出して呉れた。此人の名はマウリス・レツセル氏である。露西亜の役人が旅行券を返しに来たが、令嬢が「ヨサノ」と云つて私のも受取つて呉れた。私は今日は昼も夜も何も食べなかつた。独逸の国境でボオイは私を伴れて行つて十五円程の増切符を買はせた。マウリス氏は此時も其影を見て又何か事が起つたかと降りて来て呉れた。税関吏は鞄の中は見なかつた。私が心配しながら通つた波蘭から掛けて独逸の野は赤い八重桜の盛りであつた。一重のはもう皆散つた後である。藤の花蔭に長い籐椅子に倚つて居る白衣の独逸婦人などを美しく思つて過ぎた。伯林へ着く前に私は寝台を作らせて寝た。十九日の朝仏蘭西の国境で汽車賃を十円追加された。ボオイの独逸人が物柔かな仏人に代つて初めて私は悠やかな気分になつた。茶とパンを室へ運ばして食べた。昨日から余程神経衰弱が甚だしくなつて居るので、少し大きな街、大きな停車場を見ると何とも知れない圧迫を感じるので、私は成るべく外を見ない様にして居た。窓掛の間から野生の雛芥子の燃える様な緋の色が見える。四時と云ふのに一分の違ひも無しに巴里の北の停車場に着いた。プラツト・フオオムには良人の外に二人の日本画家と二人の巴里人とが私を待つて居て呉れた。(五月十九日)
麦と葡萄で青白んだ平野の面に赤と紫の美しい線を彩どるのは、野生の雛罌粟と矢車草とが総ての畦路と路傍とを埋めて咲いて居るのである。其間に褐色の屋根や白い壁を擡げて田舎家が散らばり、雨上りの濁つた沼の畔には白斑の黄牛が仔牛を伴れて草を食み、遠方の村村の上に聳えた古い寺院の繊細な尖塔が、白楊のひよろ長い、橡の円形な木立と一緒に次第に矮く地平の彼方へ沈んで行く。斯う云ふ仏蘭西田園の景色を急行列車の窓で好い天気の日に眺め乍ら、巴里より二時間半でジヤン・ダルクの生地として名高いオルレアン街に達し、更に三十分の後ロアルとセエルの両河に挟まれたツウル市に着いた。旅館までは遠くないから歩かうと、案内役である元気の好い和田垣博士が鞄を提げて先に停車場を出られる。晶子と二人前の旅支度を収めた大きな信玄袋を携へた僕は、尠からず閉口し乍ら五町程汗に成つて歩いて来た。日本服の上に花の附いた帽を被て面紗を掩ふた晶子の異様な姿に路路人だかりがする、西班女だなどと評して居る者もある。旅館の主婦のナイエル夫人が出迎へて最う会ふ事の出来ないと想つて居た博士の再来に驚喜の声を放つた。博士は「日本人は約束を守る誠実な国民だ。も一度来ると云へば屹度此通りに来る。加之に二人の詩人を伴れて来た。殊に日本婦人がツウルへ来た事は之が始めであらう」と言はれる。
博士も僕等も部屋を定めて置いてから夕飯迄の時間を利用して見物に出掛けた。歴史上幾多の事蹟を留めた旧い街丈あつて一体に嫻雅の趣に満ちた物静な土地である。葡萄酒と絹物との産地だから富裕な事は勿論であるが、商業地としてよりも沈着いた遊覧地としての感の方が深い。女の服装なども巴里の流行に影響せられて居乍ら何処となく昔からの趣味の正しい伝統を保存して、けばけばしく生な所が無いのに直ぐ気が附く。何よりも先づ此地の代表的な物は山城の宇治に於ける宇治川と鳳鳳堂との如く、ロアル河の明媚な景勝と市街の上に崛起して居るカテドラルの物寂びた十三世紀の古塔とである。ロアル河の沿岸には数里に亘つて幾多の古城があつて、一城の探勝にも半日を費す丈けの価値は十分だと聞いたが、僕等は別荘地に成つて居る対岸の山の手を望んで架せられたツウルの大石橋が水に落した倒影を眺めた丈でも姑くは目を転ずる事が出来なかつた。橋の上に立つて緑野の中へ涯知らず白く烟つて行く下流を見渡した時、ルサイユ宮の運河などは児戯だと思つた。上流の方には京都の下加茂の森に好く似た中島があつて木立の中に質素な別荘家が赤い屋根を幾つも見せて居る。両岸には二階造に成つた洗濯船が幾艘か繋がれて白い洗濯物が飜つて居た。渚に蹲んで洗ひ物をして居る女もあつた。向ひの岸へ渡つて並木路づたひに上流へ歩み乍ら市街の方を眺めた時、薄黒くなつた古塔の険しい二つの尖に桃色の温かい夕日が当つて居た。吹く風も無いのに白楊の花が数知らず綿の様に何処からか降つて来るのも長閑であつた。
中島の鉄の吊橋を渡つて再びツウルの街の方へ引返すと、路は頓てカテドラルの古塔の前へ出た。塔から折折石が欠けて落ちる危険があるので、下の方に頑丈な桟敷を設けて落ちる石を受ける様にしてある。堂内はゴシツク式建築の大寺院の例に漏れず薄暗い中に現世と掛離れた幽静を感ぜしめ、幾つかの窓の瑠璃の地に五色を彩つた色硝子が天国を覗く様に気高く美しい。未だ巴里のノオトル・ダムを観る暇の無かつた晶子は之に見恍れて居る。周囲の礼拝室に静かに黙祷に耽つて居る五六人の女が居た。響くものは僕等の靴と草履の音丈である。一室にルイ十一世の夭折した二人の子を合葬した大理石の棺が据ゑてあつた。棺の上に刻まれた其小さな王子と王女との寝像の痛いけなのに晶子は東京に残して来た子供等を思ひ泛べて目を潤ませて居るらしい。以前此寺の僧院であつた隣の建築物はツウル市の博物館に成つて居る。博物館の前は小さな広場で、文豪が屡此地に遊んだ縁故から「エミル・ゾラの広場」と云ふ名を負うて居る。又此地に生れた文人で今も非常な尊敬を郷人から受けて居るバルザツクは其少年の日に此古塔の下や広場の木立の中で常に遊んで居たと云ふ事である。ナイエル婦人の旅館は此広場の外れにあつて、僕の部屋に当られた二階の窓を其処の木立の明るい緑が照して居た。
和田垣博士は去年の夏から今年の三月まで此地で読書して居たので旧知の家が多い。近日巴里を去られる博士は其等の人人へ告別の為に忙しい中から特に此再遊を企てられたのであつた。僕等は博士のお供をして彼方此方を訪問した。詩人ベランゼが住んで居た縁故で記念の名を負うた「ベランゼの並木路」に臨んだ煙草屋は博士が七箇月間煙草を買はれた店で快濶な主人夫婦が面白いと云ふので今度も態態立寄つて煙草を買はれた。主人夫婦と博士との立話が尽きない内に午後七時の夕飯の時が来た。急いで旅館へ帰ると、二人の英国婦人に二人の加奈陀青年、二人の子供を伴れた一人の英国婦人、其れに主婦と、ヴウヴレエ市の学校で独逸語の教師をして居て春の休暇で帰つて来た一人息子とが既に食卓に就いて居た。瀟洒として美味い夕飯であつた。ツウルの野菜料理と云へば土地の人が酒の味と共に誇る所だ相である。総ての外国人に対して日本人に好感情を持たしめようと力められる博士は、相変らず食卓の談話に英独仏の三国語を使ひ分けて有らゆる愛嬌を振撤かれた。食後ナイエル夫人は亡夫の肖像を掛けた一室へ僕等三人を延いてカンキナ酒の小さな杯を勧め、自身はピヤノに向いて二三の小歌を好い声で歌つた。顔に小皺は寄つて居るが、色の白い、目の晴やかに大きい、伯爵夫人と言つても好い程の品のある女である。博士も何か謡曲の一節を謡はれた。
「夜の街を見ませう」と僕が云つたら、「多い珈琲店の中で気に入つたのが五軒ばかしある。家毎に特色が著しい。其れを片端から短時間宛訪ねようぢや無いか」と博士の言はれる儘に旅館を出たのは九時であつた。初めに入つたキヤツフエ・ド・※[#濁点付き井、189-8]ルは音楽が秀れて居ると云ふ事だが僕等には其程よく解らない。唯老人の楽長が伴れて居る一人娘の大琴を弾く姿の繊りとして水を眺めたニムフの様なのを美しいと思つた。肩章も肋骨も赤い青年士官が土曜日の晩丈に沢山来て静かに骨牌を闘して居た。此処でも博士と再会の握手をする土地の紳士が二三人あつた。次に遊んだキヤツフエ・ド・コンメルスの隅の一卓を囲んで居ると、僕等より遅れて入つて来た一人の女が彼方此方を姑く見廻して居たが、ついと寄つて来て僕等に会釈をし乍ら立つて晶子の日本服を眺めて居る。衣裳の好みや身体の科が此種類の女としては水際だつて品の好い物優しい所がある。今度欧洲へ来られてから未だ一度も斯う云ふ場所で女に応対せられた事は無いと自称せられる博士が珍しく口を切つて「其処へ掛け給へ、君」と言はれた。女に「何を飲むか」と僕が問ふと「茶を」と云つた。女は普通の女で無くて近頃此街の寄席で折折踊る踊子であつた。無邪気な若い女で僕等の問ふ儘に色色の事を話した。思はず此女と語り更かしたので三番目のグラン・キヤツフエを訪うた時は十二時近くであつた。此珈琲店の建築は最も古雅に出来て居た。主人夫婦は朴訥な老人で去年和田垣博士と知つて以来大の日本贔屓に成つて居る。主人は頻りに僕に向つてツウルの言葉の美しい事を話した。昔の貴人の用ひた正しい和いだ仏蘭西語は独り此地に丈行はれて居て、農夫も馬丁も俚語を用ひないのが特色だ相である。博士が巴里へ寄らずに日本から直ぐ此土地へ来られたのも語学に関する其理由からであつた。話込んで居る内に客は皆帰つて僕等と主人夫婦と丈が残り、どの給仕人も先に寝て仕舞つた。あと二軒を見残して旅館へ帰つたのは午前二時であつた。僕は飲み慣れない強い酒を色色飲んだので却て頭が冴えて容易に寝附かれなかつた。少し昏昏したかと思ふとカテドラルの古塔の日曜の朝の鐘が枕の上へ響き渡つた。
翌朝は馬車を駆つて市の南門を出で、セエル河を渡つて郊外のサンタ・ルタン村に遊んだ。柔かに打霞んだ新緑の木立は到る処にコロオやピサロオの風景画を展開した。木蔭には野生の雛罌粟其他の草花が丈高く咲乱れて、山鳩の群が馬蹄の音にも驚かずに下りて居る。フツクと云ふ家は何となく東京の王子の扇屋を聯想させる田舎の料理屋である。僕等は朝からヴウヴレエ酒を一壜倒して仕舞つた。巴里で飲むなら一壜八フランも取られる三鞭質の美味い酒だが、此処では産地が近くて税が軽いから纔に二フラン五十の散財で快い気持に酔ひ乍ら、更に村外れまで徒歩を試みた。晶子は葡萄畑の畦を繞つて色色の草花を摘んで歩いた。百姓家の庭は薔薇の花と桜実との真盛である。日曜の鐘を聞いて白いレエスの帽を被つた田舎娘が幾人も聖書を手にし乍ら坂路を伏目勝に御寺へ急ぐ姿も野趣に富んで居た。帰りには十分間に一度通る単線の電車に乗つて市内へ引返して来た。終点で下りると其処の並木路の端に文人バルザツクの銅像が立つて居た。
午後は美術商を営んで居るピニヨレ夫人の一人娘エジツが植物園や公園へ僕等を案内して呉れた。勿論ピニヨレ夫人も和田垣博士の旧識であるが、エジツは曾て博士の滞在中英語を教へて貰つた弟子である。十四歳だと云ふが背丈は十七八にも見える。お母さんのピニヨレは何時も白い紗で髪から首筋を包んで居てラフワエルの描いた聖母像を想はしめる優しい面立の女だが、娘はお母さん程美しくは無いけれど気立は更に一層素直であるらしい。帰途に芝居の前の其家へ寄ると、ピニヨレ夫人は僕等にカンキナ酒を注いで出し乍ら「今夜お差支が無いなら山荘の方へ馬車で御案内したい」と云ふ。一度山荘へ遊んだことのある博士は、其れが山腹の自然石を切り開いた大巌窟である事を僕等に語つて是非見て置けと言はれる。其れで馬車代丈は僕等三人で負担する事に決めて同行を約した。
晩餐を旅館で済ました後ピニヨレ夫人の門から馬車に乗つたのは夜の八時半であつた。ツウルの大石橋を渡つて岸に沿ふて稍久しく上流の方へ駆けさせた。川風の寒い晩で薄着をして来た僕と晶子とは身を慄はせずに居られなかつた。宵闇の木蔭を縫つて山路へ差掛つた。夫人は絶えず「左へ駆れ、左へ」と馭者に命じた。何だか「即興詩人」の中の賊の山塞へ伴はれる様な気がした。山荘の扉の前は一面にひよろ長い草が生ひ茂つて星明りに透せば其が皆花を着けて居る。夫人は草花を分けて扉の錠を放ち乍ら「今年に成つて一度しか来ないものだから」と云つた。
早速幾本かの蝋燭が各室に点けられて大洞窟の闇を破つた。客室も寝室も倉も炊事場も総て自然の巌石を刳抜き、其を劃つた壁も附属した暖炉や棚なども全く据附の巌石で出来て居る。二百年前に作つたと云ふが何の室も未だ煤びずに白く鑿の痕が光つて居る。何より寒い今夜の御馳走は火が先だとエジツが倉から小柴を抱へて出て炉を焚きつける。其上へ博士が長い丸太を引ずり出して載せられる。僕は蕪形の大きな鞴子で其を煽いで居た。其内に夫人は石卓へ持参の料理を並べて夜食の用意をする。夫人が水を汲みに行くエジツに附いて行つて呉れと云ふので、僕は蝋燭を執つて一段下の洞窟の奥へ降りて行つた。エジツが薄気味悪がるのも道理、昼さへ光の射さぬ闇の底に更に深い泉が湧いて居る。其れを轆轤仕掛の釣瓶で汲むのである。エジツが縄を弛め乍ら耳をぢつと澄して「それ、釣瓶が今水に着きました」と静に言ふ時、底の底で幽に紙の触れる様な音がした。釣瓶が重いので僕も手を添へて巻上げた。
食卓の上へエジツが洞窟の前の雛罌粟を摘んで来て皿に泛べた。其れを囲んで軽い冷肉と菓子とを肴にボルドオとヴウヴレエとの杯を挙げ乍ら、話は仏蘭西の風俗から東洋の美術に及んだ。博士は興に乗つて「大江山」を謡はれた。女学校へ行く外に音楽教師の許へ通つてるエジツは数篇の詩を歌ひ、又尼寺で習つたと云ふ宗教的なお伽噺を一つ述べた。最後に夫人も僕等も思ひ思ひに立つて踊り廻つた。洞窟の石壁に映る其影を面白がつて椅子に凭つて居たのは晶子であつた。十二時に迎への馬車が来た。夫人が跡片附をして居る間洞窟の前に出て見渡すと、何時の間にか月がさして、練絹を延べた様なロアル河は直ぐ前に白く、其れを隔てたツウルの街は唯停車場の灯火を一段際やかに残した丈で、外は墨を塗つた様に黒く静に眠つて居る。博士は山の何処かで、糸を引く様な虫が啼くと云はれたが僕には聞えなかつた。(六月六日)
僕等の下宿して居るモンマルトル附近には「死んだ鼠」だの「黒猫」だのと云ふ不気味な名や、「虚無の酒場」だの「地獄の酒場」だの、「暗殺の酒場」だのと云ふ不穏な酒場が多い中に「暗殺の酒場」は最も平民的な文学者と此界隈に沢山住んで居る漫画家連中とが風采も構はずに毎夜集つて無礼講で夜明しをする処として有名である。モンマルトルの中心と云はれる大通は十二時を越えて不夜城の明るさを増すと云ふ巴里唯一の遊楽街だが、此酒場のあるのは大通から四町程入込んだ高地で、昼間さへ余り人通が無いのだから、未だ宵の口だのに最う深夜の感がする程灯火も人気も少い。殊に巴里で名高い古い街の一つに数へられて居る丈昔の煤びた建物が多いので一層どす暗く、其酒場まで登つて行く間の曲り紆つた石畳の坂路の不気味さと云つたらない。何うかすると夜間に此界隈へ大通から一歩迷ひ込んだ旅客の一人や二人が其儘生死不明になつて仕舞ふ例もあると云ふ。併し其れは昔のことに違ひない。今の巴里は何処へ行つても全くそんな危険は無い。
「暗殺の酒場」へ初めて来た人は事毎に驚く。第一前に述べた来る路の淋しさと物凄さとに驚かされて居る処へ、四百年以上経て居ると云ふ古い建物の酒場が、石と土とを混ぜて築き上げた粗末な壁の二室しかない平家で、老主人夫婦と一人の給仕女との三人の家族の住む方は土地の傾斜の儘に建てられて薄暗い窖の様に成つて居るし、客の席に当てた一室は纔十畳敷程の広さで、冬になれば頑固な石の暖炉へ今でも荒木を投げ込むので何処を眺めても煤光に穢く光つてゐる中へ、正面に両手と両足を縛られた男の大きな塑像が之も煤と塵とに汚れて哀し相に痩せこけた顔を垂れ乍ら天井からぶら下る。四方の壁には昔から此処で飲んだ幾多の漫画家の奇怪千万な席描が縦横に貼られ、傷だらけの薄穢い荒木の卓の幾つと粗末な麦藁の台の椅子の二十許りとが土間に散らばつて居る。
其処へ入つて来る客は何うかすると労働者と間違へる様な服装の連中が多い。其れは大抵画家である。文学者の側には髪や髭に手入をして居る者もあるが、画家は概ね其等のことに無頓着な風をして居る。名物男の老主人フレデリツクは断えず酒臭い気息をして客毎に話して居る。言葉が極めて横柄で客に向いて「あなた」とは云はずに「お前たち」と云ふ。白髪頭に縁の垂れた黒い帽を被て紅い毛糸のぶくぶくした襯衣に汚れた青黒い天鵞絨の洋袴を穿き、大きな木靴を引ずつて、又してもギタルを弾乍ら「聴きなさい、お前たち、南仏蘭西の田舎の麦刈唄を一つ。」と云ふ様な事を命令的に云つて、老嗄れた好い声で楽し相に歌ふ。其少し藪睨みな白い大きな目が赤い紙で包んだ電灯の下で光るのは不気味だが、其好い声を聴き、垂下つた胡麻塩髭の素直なのを見れば、此処へ来る者の凡てが「我父」と云つて我儘な老爺に懐くのも無理は無い。
一昨日の晩晶子を伴れて画家の江内と一緒に僕が行つた時は、土曜の夜丈あつて九時過ぎに最う客が一ぱいに成つて居た。後から来た客は皆立つて居る。画家連中と来て居るモデル女の幾人は席が無いので若い画家の膝を択んで腰を掛ける程の大入である。夫婦づれの画家や姉妹を伴れた詩人達も居た。此処の定めは注文した酒の杯と引換に銭を払ふので、洋袴の衣嚢から取出す銅銭の音が断えず狭い室の話声に混つて響くのも外と異つて居る。老爺は日本服を着けた晶子の来たのを喜んで、早速ギタルの調子を合せてルレエヌの短詩を三つ続けざまに歌つた。其れから僕の万年筆をひつたくる様にして、晶子の小さな手帳へ自画像と酒場の別名と自分の名とを書いた。又「わたしは日本の人が好き。わたしは又酒が好き。飲みなさい、飲みなさい。でも、わたしは酒を飲まない者はみんな好かない」と出たらめの短い詩を書いた。酒場の別名は「兎の酒場」と云ふので入口の壁の上に一匹の兎が描かれて居る。去年老爺の一人息子が此客室で風来の労働者の客に勘定の間違から拳銃で殺されて以来、気丈な老爺も「暗殺」と云ふ詞を忌んで別名の方許りを用ゐようとして居るのだが、昔から知られた「暗殺の酒場」の方が矢張通りが好いらしい。
夜が更けるに従つて沢山の人が続続歌つた。自作の新しい詩を歌つた詩人が二人、対話風の文章で何処かの芝居の批評をした物を朗読した文人が一人あつた。其度に老爺が満室の客に注意を与へて演じる人を紹介する。と、今迄思ひ思ひに談笑して居た客が老人も若い者も忽ち静粛になつて傾聴し、其れが終る度に日本の手打の様に一二三の掛声で拍手する。斯う云ふ場合に一人も酔つぱらひらしい者の出ないのは敬服である。夜明がたまで斯んな風で遊び明す習慣だが、晶子が室内に濛濛として出場を失つて居る煙草の煙に頭痛を感じると云ふので十二時少し過ぎに帰つて来た。(六月十七日)
巴里の良人の許へ着いて、何と云ふ事なしに一ヶ月程を送つて仕舞つた。東京に居た自分、殊に出立前三月程の間の忙しかつた自分に比べると、今の自分は余りに暇があるので夢の様な気がする。自分の手に一日でも筆の持たれない日があらうとは想像もしなかつたのに、此処へ来てからは全く生活の有様が急変した。其れが気楽かと云ふと反対に何だか心細い様な不安な感が姶終附いて廻る。好きな匂の高い煙草も仕事の間に飲んだ時と、外出の帰りに買つて来て、する事のない閑さに飲むのとは味が違ふ。新しい習慣に従ふことを久しい間の惰性が姑く拒むらしい。其れに自分が日本を立つたのは、唯だ良人と別れて居ることの堪へ難い為めであつた。良人が欧洲へ来たのとは大分に心持が異ふ。欧洲の土を踏んだからと云つて、自分には胸を躍らす余裕がない。ひたすら良人に逢ひたいと云ふ望で張詰めた心が自分を巴里へ齎した。而して自分は妻としての愛情を満足させたと同時に母として悲哀をいよいよ痛切に感じる身と成つた。日本に残した七人の子供が又しても気に掛る。自分が良人の後を追うて欧洲へ旅行するに就いては幾多の気苦労を重ねた。子供を残して行くと云ふ事は勿論その気苦労の一つであつた。其れが為め特に良人の妹を地方から来て貰つて留守を任せた。子供等は叔母さんに直ぐ馴染んで仕舞つた。叔母さんからの手紙は断えず子供等の無事な様子を報じて来る。手紙を読む度にほつと胸を安めながら矢張り忘れることの出来ないのは子供の上である。
巴里の街を歩いて居ると、よく帽に金筋の入つた小学生に出会ふ。其れが上の二人の男の子の行つて居る暁星小学の制帽と全く同じなので直ぐ自分の子供等を思ふ種になる。ルウヴルの美術館でリユブラン夫人の描いた自画像の前に立つても其抱いて居る娘が、自分の六歳になる娘の七瀬に似て居るので思はず目が潤む。自分はなぜ斯う気弱く成つたのかと、日本を立つ前の気の張つて居たのに比べて我ながら別人の心地がする。
四月の半であつた。里に預けて置いた三番目の娘が少し病気して帰つて来た。附いてる里親の愛に溺れ易いのを制する為めに看護婦を迎へたりして其児に家内中が大騒ぎをして居る中へ、四歳になる三男の麟が又突然発※[#「執/れんが」、U+24360、204-3]した。叔母さんも女中達も手が塞がつて居るので書斎の自分の机の傍へ麟を寝かせて自分が物を書きながら看護して居た。温厚しい性質の麟は一歳違ひの其妹よりも※[#「執/れんが」、U+24360、204-5]の高い病人で居ながら、覗く度に自分に笑顔を作つて見せるのであつた。而して無口な子が時時片言交りに一つより知らぬ讃美歌の「夕日は隠れて路は遥けし。我主よ、今宵も共にいまして、寂しき此身を育み給へ。」と云ふのを歌ふのが物哀れでならなかつた。自分はそんな事を思ひ出しながら歩くので、巴里の文明に就いては良人が面白がつて居る半分の感興も未だ惹かない。過去半年に良人を懐ふ為に痩せ細つた自分は、欧洲へ来て更に母として衰へるのであらうとさへ想はれる。
日本服を着て巴里の街を歩くと何処へ行つても見世物の様に人の目が自分に集る。日本服を少しく変へて作つたロオヴは、グラン・ブルアルの「サダヤツコ」と云ふ名の店や、巴里の三越と云つてよい大きなマガザンのルウヴルの三階などに陳べられて居るので、然まで珍しくも無いであらうが、白足袋を穿いて草履で歩く足附が野蛮に見えるらしい。自分は芝居へ行くか、特別な人を訪問する時かの外は成るべく洋服を着るやうにして居る。併し未だコルセに慣れないので、洋服を着る事が一つの苦痛である。でも大きな帽を着ることの出来るのは自分が久しい間の望みが達した様に嬉しい気がする。髪を何時でも剥き出しにする習慣がどれ丈日本の女をみすぼらしくして居るか知れない。大津絵の藤娘が被て居る市女笠の様な物でも大分に女の姿を引立たして居ると自分は思ふのである。丸髷や島田に結つて帽の代りに髪の形を美しく見せる様になつて居る場合に帽は却て不調和であるけれども、束髪姿には何うも帽の様な上から掩ふ物が必要であるらしい。自分は今帽を着る楽みが七分で窮屈なコルセをして洋服を着て居ると云つて好い。
モルマントルと云ふのは、山の様に高くなつた巴里の北の方にある一部の街で、踊場や珈琲店、酒場などの多い、巴里人の夜明し遊びをしに来る所と成つて居るのである。十二時にならないと店を開けない贅沢な料理屋も其処此処にある。芝居帰りの正装で上中流の男女が夜食を食べに来るのだ相である。夜が更けるに随つて坂を上つて来る自動車や馬車の数が多くなつて行く。そんな処に近い※[#濁点付き井、206-9]クトル・マツセ町の下宿住居が、東京にも見られない程静かな清清した処だとは自分も来る迄は想像しなかつたのである。通りに大きな鉄の門があつて、一直線に広い石の路次がある。夜はその片側に灯が一つ点る。路次の上には何階建てかの表の家があることは云ふ迄もない。突当りは奥の家の門で横に薄青く塗つた木製の低い四角な戸のあるのが自分達の下宿の入口である。同じ青色を塗つた金網が花壇に廻らされて居る。横が石の道で、左手の窓際にも木や草花が植つて居る。欄干の附いた石段が二つある。此二つの上り口の間が半円形に突き出て居て、右と左の曲り目に二つの窓が一階毎に附けられてある。自分の居るのはこの半円の間の三層目に当るのである。内方からは左になる窓の向うには庭のアカシヤが枝を伸して居る。木の先は未だ一丈許りも上に聳えて居るのである。下を眺めると雛罌粟や撫子や野菊や矢車草の花の中には青い腰掛が二つ置かれて居る。けれども自分を京都の下加茂辺りに住んで居る気分にさせるのは、それは隣の木深い庭で、二十本に余るマロニエの木の梢の高低が底の知れない深い海の様にも見える。一番向うにある大きいマロニエは其背景になつて居る窓の少い倉庫の様な七階の家よりも未だ勝れて高い。木の下は青い芝生で、中に砂の白い道が一筋ある。薔薇の這つた門や陶器の大きい植木鉢に植ゑられた一丈位の柘榴や桜の木の並べられてあるのも見える。其家の前は裏の通なのであるが、夜更にでもならなければ車の音などは聞えて来ない。この隣と自分の居る家との間には平家になつた此処の食堂があるのであるが、高い処からは目障りにもならない。右の窓から青い木が見える。そして向ふの方に蔦の附いた趣のある壁が見える。メルルと云つて日本の杜鵑と鶯の間の様な声をする小鳥が夜明には来て啼くが、五時になると最早雀の啼き声と代つて仕舞ふ。白いレエスの掛つた窓を開けると、何時も何処にあるのか知らないが白楊の花の綿が飛んで来る。
ああ巴里の大寺院ノオトル・ダム。
年経しカテドラルの姿は
いと厳かに、古けれど、
その鐘楼の鐘こそは
万代に腐らぬ金銅の質を有ちて、
混沌の蔓の最先にわななく
青き神秘の花として開き、
チン、カン、チン、カンと鳴る音は
爽かに清める、
劇しき、力強き、
併せて新しき匂ひを
「時」の動脈に注しながら、
「時」の血を火の如く逸ませ、
洪水の如く跳らせ、
常に朝の如く若返らせ、
はた、休む間なく進ましむ。
その響につれて
塔の上より降る鳥の群あり、
人は恐らく、そを
森の梢より風に散る
秋の木の葉と見ん。
我は馬車、自動車、オムニブスの込合ふ
サン・ミツセルの橋に立ちつつ、
端なく我胸に砕け入る
黄金の太陽の片と見て戦けり。
その刹那、わが目に映る巴里の明るさ、
否、全宇宙の明るさ。
そは目眩めく光明遍照の大海にして、
微塵もまた玉の如く光りながら波打ち、
我も人も
皆輝く魚として泳ぎ行きぬ。
ロダン翁
[#ルビの「をう」は底本では「おう」]牧場にある様な粗末な木戸を押して入ると中門の前まで真直に一町程細い路の両側に繁つたマロニエの木立が続く。其木蔭の涼しいので生き返つた心地がした。中門に突当つて右に簡略な亜鉛葺の木造の小屋があつて、覗くと中央に作り掛けた大きな塑像が据ゑられて居る。後で聞けば倫敦から依頼された画家ウイツスラアの記念だ相だ。卓や棚の上にも大小の製作が十許り載つて居る。十五畳敷程の広さだ。其重な製作室は巴里にあるとしても、之がロダン翁程の大家の製作室かと驚く外は無い。中に頬を少し腫した若い弟子が一人仕事をして居たので、其弟子に来意を告げると、翁は今朝巴里へ行かれたと云ふ。予め訪問日を照会しないで突然出掛けたのだから面会の出来ない事のあるのは覚悟して来た。無駄足をしても可い、唯だ大芸術家の家の木立を眺めた丈でも満足だと思つて居るのであつた。
弟子が「お待ち下さい、ロダン夫人には面会が出来るかも知れません。又先生が巴里から今日何時に帰られるかをも夫人に伺つて見ませう」と云つて、赤い煉瓦家の母屋の方へ行つて呉れた。弟子は直ぐ出て来て「夫人が取乱した風をして居て失礼ですけれど一寸門前で御挨拶をすると申されますから御待ち下さい」と云つた。銀髪のロダン夫人が白茶色にダンテルを配つた寛かな一種のロオブを着て玄関の石階を降りて来られた。何時か写真版で見た事のあるロダン翁の製作の夫人の像其儘の鬢の膨ませ様だと思つた。背丈の細りと高い肉附の彫刻的に締つた中高な顔の老婦人である。ロダン夫人は晶子と手を握り乍ら、調子の低い清んだ声で、「よくまあ遠方のあなた方が来て下さいました。併し生憎主人が留守で、又主人から命令も無いものですから内へ御通し致して御話する事の出来ないのを残念に思ひます」と云はれた。晶子は三越で買つて来た白地に香の図と菊とを染めた友禅と、京都の茅野蕭蕭君に託して買つて貰つた舞扇の一対とを夫人に捧げた。僕が「今から巴里へ引返したら先生に御目に掛る事が出来ませうか」と云つたら、「其れなら五時迄にオテル・ド・※[#濁点付き井、215-4]ロンへお行きなさい、今日は夜会に招かれて居るから宅への帰りは遅くなるでせう」と夫人は云つて、弟子を呼んで「巴里の地図でロダンの製作室のある街をよくお教へするがよい」と云はれた。「停車場までの路が今日は暑いので日本のキモノを着たマダム・ヨサノの徒歩は苦しからう」と夫人が云はれる。僕が「帰途はセエヌの岸へ出て小蒸気で上らうと思ひます」と云つたら、夫人は「岸までは猶更遠い。少し御待ちなさい、ロダンの馬車に馬を附けさせて送らせませう」と云つて直ぐ馭者を呼んで命ぜられた。辞退したが聞かれないので恐縮して待つて居ると、夫人は庭から紅と薄黄との薔薇を摘んで来て「二三日前の風と雨で花が皆傷んで仕舞ひました。之でも庭中での一番立派な花を切つた積ですが斯んなに見所がありません」と云つて晶子の手に取らせ、そして「ロダンの承諾を得て其内御招待を致しますから必ず今一度入らつしやい」と云はれた。
馬車の上は涼しかつた。ロダン先生の馬車に乗るのは名誉だと云つて皆の心は跳つた。併し馬車は随分質素な一頭立で、張つた羅紗の処処擦れ切れたのが目に附く。平気で之に朝晩乗つて停車場まで往復する老芸術家の曠達を面白いと思つた。セエヌ河を渡つてムウドンの繋船場まで行くには二十四五町あつた。偉人と云ふ者は親の偉大な様な者である。僕達は遽に子供らしくなつてロダン翁の庭の薔薇を馬車の上で嗅ぎ合ふのであつた。
馬車を下りると折好く小蒸汽が来た。初夏のセエヌ河の明るい水の上を青嵐に吹かれて巴里へ入つた。アレキサンダア三世橋の側から陸に上つて橋詰で自動車に乗つた。オテル・ド・※[#濁点付き井、216-10]ロンの鉄門を押して入ると、石を敷き詰めた広い中庭が高い鉄柵で七分三分に劃られ、柵を透して見える古い層楼の正面の石廊へ夕日の斜めに射した光景が物寂びて居た。右へ延びた方の廊の端に門番の女が住んで居て翁の製作室が右手の階下にあることを教へて呉れた。僕達は薔薇の花の絡んで居る鉄柵の小門を潜つて中庭を経て階下の室の鈴を押した。出て来た下部が僕達の顔を見て「ロダン先生に面会を求めるのは東洋の骨董品でも売りに来たのか」と云つた。失敬な事を云ふ奴だと思つたが、翁に会ひたいと云ふ願で逸んで居る心には腹も立たなかつた。晶子は東京の有島生馬君から貰つて来た紹介状に皆の名刺を添へて下部に渡した。
此オテル・ド・※[#濁点付き井、217-10]ロンの古い歴史的建築物を保存する為に、政府は此春議会の協賛を経て之を買取つて仕舞ひ、同時に此層楼に借宅して居た人人を凡て立退かせたが、ロダン翁丈は多年此処で製作し慣れて気に合つた家であり、又何かと老芸術家の心に思ひ出も深い家であるから立退く事を肯ぜずに今日まで住んで居る。其れが為め翁と政府との間に紛紜が起つて居るのを某某の名士等が調停に入つたと云ふ新聞記事が十日計り前に出た。結局何うなる事か知らないが、如何にも僧院に似た様な此古い物寂びた建築から出て行く事を翁の厭がるのは無理も無いなどと小声で話して待つて居ると、下部が「入れ」と云つて次の一室の扉を開けた。其処に肥大な体の、髪も髭も銀を染めたロダン翁が立迎へて、鼻眼鏡を掛けた目と色艶のよい盛高な二つの頬とに物皆を赤子の様に愛する偉人の微笑を湛へ乍ら、最初に晶子の手を握つて「おお夫人」と言はれた。翁と僕等とを取巻くのは翁の偉大な芸術が生んだ大理石像の一群であつた。
翁は更に次の室の扉を手づから開けて僕達を導かれた。其処は翁の書斎と客室とを兼ねた室で、翁の机の前には同じく翁の製作が沢山並んで居た。机に凭つて何か書いて居た婦人が立つて挨拶をし乍ら幾つかの椅子を配置した。翁は晶子を強ひて第一の椅子に着かせ、自身は書棚を背にして其次の大きな肱掛椅子に着かれた。僕と曙村とが最後の二つの椅子に掛けたので、翁と僕との間の空いた椅子へ翁は其婦人を坐らせた。其時翁が「公爵夫人」と喚ばれたので貴婦人だと気附いたが、胴衣も袴も質素な物を着けて居た。併し品の好い一寸見には三十二三と想はれるが、凝と向へば小皺の寄つた、若作りの婦人である。仏蘭西語の調子の変な所を思ふと英国の貴婦人で、ロダン翁の弟子として翁の身の廻りの世話をして居るのだらうと後で曙村が云つた。
主客五人は翁の机に対し半円形を作つて語つた。翁は鼠色のアルパカの軽い背広の上衣に黒い袴を穿き、レジヨン・ドノオル(勲一等)の赤い略章を襟に附けて居た。太い曲つた煙管を左の手に持ち、少し耳が遠いらしく、顔を前に出して物を言つたり聞いたりせられる度に、右の頬に垂れた眼鏡の紐が悠やかに揺れた。翁は終始偉大な微笑を以て語られた。
翁は晶子が有島君から託されて持つて来た雑誌「白樺」を公爵夫人と一緒に繰拡げて「おお、此処に」と言ひ乍ら、白樺社へ寄せられた翁の製作の写真を見て有島君の健康を問はれ、又其社の催した翁の製作其他の展覧会の模様を問はれた。僕等は新聞雑誌の記事で知つて居る丈の事を述べて、先生の製作が初めて東方へ贈られた事に就て日本の青年の感激が尋常でなかつたことを告げた。
翁は「自分の弟子で若くて歿した日本人を知つて居るか」と問はれたので、僕等は生前に交際しなかつたが其遺作を屡観た事を告げると、翁は「彼は自分の許へ度度来たのでは無かつたが、彼は善く自分の製作を観て自分の芸術の精神を領解した。仏蘭西人よりもより善く領解した。そして、自分の芸術を模倣せずに彼自らの芸術を発見した。彼の死は彼の不幸のみで無い」と云つて惜まれた。併し翁は其弟子の名が日本語である為に思ひ出される事が困難であつたと見えて「彼の名を書いて置いて欲しい」と望まれたから、曙村は「モリエ・ヲギハラ」と書いた。僕等は故荻原守衛君に対する翁の激賞を聞いて僕等日本人全体の光栄の如く感じた。
其処に幾人かの工人が鋳上つた翁の製作の何かの銅像を運んで来たので、翁は一寸立つて扉口の方へ行かれた。其暇に僕は公爵夫人に「ロダン先生が此家から追立てられて居る事件は何う成りましたか」と問ふと、夫人は「先生は結局お出に成らねばなりますまい。併し其代りに政府は先生の製作を買つて此家をロダンの博物館と致す積でせう」と云つた。
再び椅子に着かれた翁は「あなた方は今日を選んでよく訪ねて来た。明日から自分は旅行する所であつた」と云はれ、晶子が捧げた「新訳源氏物語」や僕の捧げた古版の浮世絵と自著の詩集などを開き乍ら、日本の文学美術に就て何くれと問はれた。「日本人に仏蘭西語を解してる人の多い様に遠からず日本語を解する仏蘭西人が沢山に出来て、自分の知りたいと思つて居る日本の芸術を紹介して呉れる事を望んで居る」と云ひ、歌麿の絵を眺めて「彫塑の行方と似た行方をして居る」と評し、又荻原君に対する批評を繰返して「彼の製作には運動があつた。生生して居た」と云はれた。
「あなた方に議るが」と云つて、翁は更に「自分のデツサンの多くを送つて日本で展覧会を開きたいと思ふが、何う云ふ人達が日本で斡旋の労を取つて呉れるか。何う云ふ場所で陳列されるか。陳列の場所の広さに由つては製作をも少しは送りたい。其れから東京以外にも開くべき都会があるか」と問ひ、「此前里昂で自分のデツサンの会を開いたが効果が面白くなかつた。仏蘭西人には自分のデツサンが解り兼ねたのであつた。併し自分の信ずる所では、日本人は自分のデツサンの趣味を最も善く解して呉れる国民であらうと思ふ」と云はれた。
僕は其れに答へて「日本人が先生のデツサンを最も善く解するか否かは疑問ですが、先生のデツサンを※[#「執/れんが」、U+24360、222-5]心に歓迎する[#「歓迎する」は底本では「歓迎す」]事は保証して宜しい。又唯今確には申しにくいが、日本に於て位地ある美術家は勿論、白樺、三田文学、早稲田文学と云ふ様な文学雑誌社や、僕等の通信して居る朝日新聞の如き大新聞社が必ず喜んで斡旋の労を取りませう。東京以外では京都大阪の両都会で開くでせう。場所も適当な宮殿か択ばれるでせう」と云つた。翁は「本野大使と自分とは友人であつた」と云つて「日本政府も世話をして呉れるだらうか」と問はれるから、僕は「勿論でせう」と答へた。翁の厚意と※[#「執/れんが」、U+24360、223-3]心とに対して感激し、又話の中にうつかり日本人を代表して居る気にも成つたので、僕等は力めて威勢の好い応答をして仕舞つた。
翁は翁自身が旅行から帰られ、又僕等夫婦が英国から帰るのを待つて、日を期して僕等をベル・※[#濁点付き井、223-6]ユウの荘に招待し、翁の製作を観せる序に猶デツサンの展覧会に就て細かな協議をしようと云はれ、其れから話は日本の芸術に移つた。僕が森鴎外先生が曾て翁を主人公とした小説を書かれた事を告げたら、翁は鴎外先生の経歴を問ひ、然うして先生の筆に上つた事を喜んで其一本を見たいと云はれたので、僕は日本から取寄せて捧呈することを約した。公爵夫人は翁の製作に上つた日本女優花子の噂をした。翁は僕等の帰るに臨んで三葉の自身の写真に署名して贈られ、而して扉口に立つて一一僕等の手を握られた。(六月十九日)
僕は雑誌「メルキユル・ド・フランス」の主筆をして居るアルフレツド・レツト君から疾くにモオリス・メテルランクとエミル・ルアレンとアンリイ・ド・レニエの三詩宗への紹介状を貰つて置き乍ら事に紛れて訪問を怠つて居る中に、新聞を見ると最うルアレン氏は旅に出て仕舞つた。メテルランク氏は今年になつて巴里に来ない。レニエ氏も何時夏季の旅行に出掛けるか知れないし、其処へ僕達夫婦が小林萬吾石井柏亭両君と一緒に英国へ遊ぶ日も三四日の後に迫つたので、俄に思立つて昨日晶子と松岡曙村を誘つてボアツシエエル街二十四番地にレニエ氏を訪うた。トロカデロとアルマとの間にある品の好い山の手ではあるが、随分車馬の往来の劇しい、一寸東京で言へば内幸町と言つた風の感じのする街で、詩人の住み相に思はれない処である。
門番の教へて呉れた儘第二階へ昇つて直ぐ左の突当りの扉のある鈴を押すと、髪を綺麗に梳分けた白い夏服の下部が出て来た。予め訪問日を問合さず突然に来た事を謝して取次を頼んで居ると、細やかな姿の少し白髪のある四十五六歳の婦人が、薄鼠色の服を着て黄金の総の下つた小さな手提革包を持ち乍ら、何処か病身らしい歩み振をして昇つて来たが、僕達に軽い会釈を無言でして物静かに扉の奥へ入つて行つた。一見して其が外から帰つて来たレニエ夫人であると想像された。下部は二三度書斎らしい室の扉を叩く様であつたが、引返して来て、主人は何か御仕事を成さつてるらしいから、一応手紙で面会日を御照会に成つては何うかと言ふ。三四日後に倫敦へ立つので遺憾乍ら其隙が無い。では秋に成つて再び訪問する事にしようと僕等が云つて辞さうとしたら、下部は一寸お待ちなさいと云つて、奥へ入つて前よりも強く扉を叩いた。今度は出て来て明日の午前十一時半に主人が御面会すると申しますと言つた。
それで今日約束の時間に訪ねて行くと直ぐ大通へ面した客室へ案内せられた。室内の飾附は此家の外見のけばけばしいのに似ず、高雅な中に淡い沈鬱な所のある調和を示して居た。美術品の数多い中に、日本の古い金蒔絵の雛道具や、歌がるたの昔の箱入や、壽の字を中に書いた堆朱の杯などがあつた。大通から光を受ける三つの大きな窓には、淡紅色を上下に附けた薄緑の掛を皆まで引絞らずに好い形に垂らし、硝子は凡て大形な花模様のレエスで掩はれて居るので、薄い陰影で刷られた露はで無い明りが繁つたアカシヤの樹蔭にでも居る様な幽静の感を与へた。詩人は此室で創作の筆を執ると見えて古風な黒塗のきやしやな机が一つ窓近く据ゑられてあつた。
暫く待つて居ると、髪も髭も灰色をした、細面な、血色の好いレニエ氏が入つて来た。「支那流の髭」と評判される程あつて垂れた髭である。其髭がよく氏の温厚を示して居る。氏は五十歳を幾つも越えないであらう。肉附の締つた、細やかな、背丈の高い体に瀟洒とした紺の背広を着て、調子の低い而して脆相な程美しい言葉で愛想よく語つた。かねて写真で見たやうな片眼鏡は掛けて居ない。コイヅミヤクモやロテイの書いた物を読まない前から自分も東洋に憧憬れて居た。十年前米国に遊んで桑港まで行つた時、もすこしで太平洋の汽船に乗る所であつたが果さなかつた。併しシベリヤ鉄道に由つて何時か一度遊びたいと思つて居ると語つた。氏は又日本の詩壇が数年前から仏蘭西の象徴派と接触した事を聞いて、其れは必ず経過すべき自然の推移だと云つた。僕は日本誌壇の近状を簡短に告げて、氏の作物を読む者の尠からぬ事を述べ、最近に森鴎外氏が氏の小説を紹介せられた事などを話した。
氏は近年、ルアレン氏が戯曲に筆を着け出した如く頻りに小説を公にして居る。氏は最近の著述を揃へて僕に贈る事を約し、僕達が仏蘭西に滞在する間出来る丈の便宜を計らうと云はれた。晶子はレエニ夫人に日本の扇や友禅を捧げた。夫人も亦有名な詩人である。氏は夫人が近年病気勝である事を話して、他日晶子を招待して夫人に引合さうと云はれた。僕達は再会を楽んで氏の家を辞した。而して今夜此稿を書いて居ると、氏の手紙が届いて、早速僕等夫婦の為に書かれた女詩人ノアイユ公爵夫人其他への紹介状が同封せられてあつた。(六月十八日)
×
汽車で露西亜や独逸を過ぎて巴里へ来ると、先づ目に着くのは仏蘭西の男も女もきやしやな体をして其姿の意気な事である。勿論一人一人を仔細に観るなら各の身分や趣味が異ふ儘に優劣はあらうが、概して瀟洒と都雅であることは他国人の及ぶ所で無からう。仏蘭西の女と云へば、其れが余りに容易く目に附くので、どの珈琲店にも、どの酒場にも、どの路上にも徘徊する多数の遊女が代表して居る様に一寸思はれるけれど、自分は矢張コメデイ・フランセエズの様な一流の劇場の客間に夜会服の裾を引いて歩く貴婦人を標準として、其れに中流の生活をして居る素人の婦人の大多数を合せて仏蘭西の女の趣味を考へたい。目の周囲にいろんな隈を取つたりする遊女の厚化粧は決して此国の誇る趣味ではない。自分は劇場や画の展覧会の中、森を散歩する自動車や馬車の上に、睡蓮の精とも云ひたい様な、細りとした肉附の豊かな、肌に光があつて、物ごしの生生とした、気韻の高い美人を沢山見る度に、ほれぼれと我を忘れて見送つて居る。而うして、其等の貴婦人の趣味が中流婦人乃至それ以下の一般の婦人の間にまで影響して居ると見えて、随分粗末な材料の服装をして居ながら其姿に貴婦人の俤のある女が沢山に見受けられる。自分は[#「自分は」は底本では「自分ば」]是等の趣味の根柢になつて居る物が何であるかを早く知りたい。
今姑く自分の欧洲に於ける浅はかな智識で推し量ると、仏蘭西の女の姿の意気で美しいのは、希臘や伊太利から普及した古い美術の品のよい瀟洒[#ルビの「せうしや」は底本では「しやうしや」]な所が久しい間に外から影響したのでは無いか。ルウヴルの博物館にある伊太利の絵と彫刻とを見た丈でも自分は然う云ふ事が想像される。其等古代の美術にある表情と線とが現に巴里の芝居の俳優の形に著しく出て来る様に、同じく自分は其れを仏蘭西の女の日常の形に見出す気がして成らない。其れが全部で無くても、大部分は古代芸術の自然の影響と、又意識して採択した結果とであらうと想はれる。殊に女優の形と云ふものは希臘や伊太利の古美術に現はれた人体の美しい形を細密に亘つて研究して居るらしいから、其女優の形が上中流の婦人社会に影響するのは当然であらう。
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自分が仏蘭西の婦人の姿に感服する一つは、流行を追ひながら而も流行の中から自分の趣味を標準にして、自分の容色に調和した色彩や形を選んで用ひ、一概に盲従して居ない事である。自分は三四着の洋服を作らす参考にと思つて目に触れる女の服装に注意して見たが、色の配合から釦の附け方まで全く同じだと云ふ物を一度も見たことが無い。仕立屋へ行けば流行の形の見本を幾つも見せる。誂へる女は決して其見本に盲従する事なく、其れを参考として更に自分の創意に成る或物を加へて自分に適した服を作らせるのである。
又感服した一つは、身に過ぎた華奢を欲しない倹素な性質の仏蘭西婦人は、概して費用の掛らぬ材料を用ひて、見た目に美しい結果を収めようとする用意が著しい。此点は京都の女と似通つた所がある。富んだ女が絹を用ひる所を麻で済ませ、麻も日本などに比べて非常に高価であるから、麻の所を更に木綿で済ませて居ると云ふのが普通である。模造品の製造が巧であるから木綿でも麻や絹に見える上に、着る人の配色が調和を得て居るので、絹を着たのと同じ美しさを示して居る場合が多い。
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欧洲の女は何うしても活動的であり、東洋の女は静止的である。静止的の美も結構であるけれど、何うも現代の時勢には適しない美である。自分は日本の女の多くを急いで活動的にしたい。而うして、其れは決して不可能で無い許りか、自分は欧洲へ来て見て、初めて日本の女の美が世界に出して優勝の位地を占め得ることの有望な事を知つた。唯其れには内心の自動を要することは勿論、従来の様な優柔不断な心掛では駄目であるが、其れは教育が普及して行く結果現に穏当な覚醒が初まつて居るから憂ふべき事ではない。但し女の容貌は一代や二代で改まる物で無いと云ふ人があるかも知れないが、自分は日本の女の容貌を悉く西洋婦人の様にしようとは願はない。今の儘の顔立でよいから、表情と肉附の生生とした活動の美を備へた女が殖えて欲しい。髪も黒く目も黒い日本式の女は巴里にも沢山にある。外観に於て巴里の女と似通つた所のある日本の女が何が巴里の女に及び難いかと云へば、内心が依頼主義であつて、自ら進んで生活し、其生活を富まし且つ楽まうとする心掛を欠いて居る所から、作り花の様に生気を失つて居る事と、もう一つは、美に対する趣味の低いために化粧の下手なのとに原因して居るのでは無いか。日本の男の姿は仏蘭西の男に比べて随分粗末であるが、まだ其れは可いとして、日本の女の装飾はもつと思ひ切つて品好く派手にする必要があると感じた。
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松岡氏と良人と自分がアンリイドの停車場からロダン先生を訪ふ為にムウドン行の汽車に乗つたのは、初めて詩人レニエ先生を訪うた日の午後であつた。此汽車は甲武線の電車の様に、街の中を行きながら家並よりは一段低く道を造つた所を走るのである。短距離にある市内の停車場を七つばかり過ぎて郊外へ出ると、涼しい風が俄に窓から吹き込んで来るのであつた。暗がりから明るみへ出た様な気味で自分は右と左を見廻して居た。近い所も遠い所も[#「遠い所も」は底本では「遠い所は」]家は皆低くてそして代赭色の瓦で皆葺いてある。態とらしく思はれる程その小家の散在した間間に木の群立がある。雛罌粟の花が少しあくどく感じる程一面に地の上に咲いて居る。矢車の花は此国では野生の物であるから日本で見るよりも背が低く、菫かと思はれる程地を這つて咲いて居る。自分が下車すると、例の様に、
「ジヤポネエズ、ジヤポネエズ。」[#「「ジヤポネエズ、ジヤポネエズ。」」は底本では「『ジヤポネエズ、ジヤポネエズ。』」]
と云つて、一汽車の客が皆左の窓際へ集つて眺めるのであつた。自分は秋草を染めたお納戸の絽の着物に、同じ模様の薄青磁色の絽の帯を結んで居た。停車場の駅夫にロダン先生の家へ行く道を聞くと、彼処をずつと行けば好いと云つて岡の下の一筋道を教へて呉れた。馬車などは一台もない停車場である。真直に突当つてと云はれた道が何処迄も果ての無い様に続いて居る様なので、自分は男達に後れない様にして歩きながら時時立留つて汗を拭いては吐息さへもつかれるのであつた。松岡氏と良人とは逢ふ人毎に目的の家を尋ねて居る。逢ふ人毎と云つても一町に一人、三町に二人位のものであることは云ふ迄もない。粉挽小屋の職人までが世界の偉人を知つて居て、
「ムシユウ・メエトル・ロダン。」
と問ひ返して、其返事を与へる事に幸福と誇りとを感じて居るらしいのを見ると、自分は涙ぐましいやうな気分にもなるのであつた。
だらだら坂の二側に
アカシヤの樹のつづく路。
あれ、あの森の右の方、
飴色をした屋根と屋根、
あの間から群青を
ちらと抹つたセエヌ川。
涼しい風が吹いて来る、
マロニエの香と水の香と。
之が日本の畑なら
青い「ぎいす」が鳴くであろ。
黄ばんだ麦と雛罌粟と、
黄金にまぜたる朱の赤さ。
誰が挽き捨てた荷車か、
眠い目をして路ばたに
じつと立つたる驢馬の影。
「ロダン先生の別荘は。」
問ふ二人より側に立つ
キモノ姿のわたしをば
不思議と見入る野良男。
「ロダン先生の別荘は
ただ真直に行きなさい。
木の間からその庭の
風見車が見えませう。」
巴里から来た三人の
胸は俄にときめいた。
アカシヤの樹のつづく路。
やつと其道の尽きる処まで来た。其処は自分達の今乗つて来たのとは異ふ別の汽車道の踏切である。そして一層人気のない寂しい道へ自分達は出た。二町程来た時前を行く人を呼んで松岡氏が尋ねると、ロダン先生の邸は直ぐ此処の左で、其処に門がある、そしてずつと奥に家があると云ふのであつた。見ると牧場の柵の様な低い木の門が其処にある。マロニエの木が隙間もなく青青と両側に立つて居た。然し人の通ふ道の上には草が多く生へて居る。右の掛りに鼠色のペンキで塗つた五坪位の平家がある。硝子窓が広く開けられて入口に石膏の白い粉が散ばつて居るので、一見製作室である事を自分達は知つた。けれど之は弟子達のそれであらう、床も天井も低い、テレビン油で汚れた黒い切の沢山落ちて居るこの狭い室が世界の帝王さへも神の様に思つて居るロダン先生の製作室だとは入つて暫くの間自分には思はれなかつた。白い仕事着を着た頤鬚のある、年若な、面長な顔の弟子らしい人と男達の話して居る間に、自分は真中に置かれた出来上らない大きい女の石膏像を見て居た。矢張りロダン先生が此処で仕事をされるのであると思つた時自分の胸は轟いた。半から腕の切り放されてある裸体の女は云ひ様もない清い面貌をして今や白※[#「執/れんが」、U+24360、239-4]の様な生命を与へられやうとして居る。先生は巴里の家の方においでになつて夕方でないと帰られない、殊に今日は他家へ廻られる筈であるから、それを待つより巴里へ行かれる方が好いであらうと弟子は云ふのであつた。自分は良人と相談をして夫人への土産だけを出し、その弟子に托して名残惜しい製作室を出て引き返さうとした。
「一寸お待ち下さい。」
と云ひながらその人は又自分達を中門の中まで案内して置いて母家の窓の下へ寄つて夫人に声を掛けた。自分はこんな事をも面白くもゆかしくも思つた。大芸術家の夫人が窓越しに弟子の話すのを許すと云ふさばけた所作をさう思ふのであつた。此処からはずつと向うが見渡される。起伏した丘にあるムウドンの家並や形の好い陸橋なども見える。此村は美観村と云ふのださうである。
「奥さんがお目に掛りますからお待ち下さい。」
と弟子は云つて、又自分達をもとの製作室へ伴つた。そして前よりは一層打解けた調子で男達と弟子は話すのであつた。自分はまた男達と一緒に先生の未成品を眺めて居る事が出来るのであつた。まだ外に男の半身像や様様の石膏像が十ばかりも彼方此方に置かれてあつた。帰り途を聞くと、
「船にお乗りになるのが好いでせう。奥さんがお許し下すつたら私がその船乗場までお送りしませう。」
と弟子は云つた。その言葉の中にも夫人をどんなに尊敬して居るかと云ふ事が見えてゆかしい。ロダン夫人は無雑作に一方口の入口から入つて来られた。背の低い婦人である。白茶に白いレイスをあしらつた上被風の濶い物を着て居られる。自分の手を最初に執つて、
「よくいらつしつた。」
と云はれた。松岡氏が自分に代つて面会を許された喜びを述べた。夫人の頭髪は白金の様に白い。両鬢と髱を大きく縮らせたまま別別に放して置いて、真中の毛を高く巻いてある。自分がロダン先生の曾て製作された夫人の肖像に寸分違ひのない方だと思つたのは、一つは髪の結様が其儘の形だつたからかも知れない。夫人の斯うして居られるのは自身の姿が不朽の芸術品として良人に作られた其喜びを何時迄も現はして居られる様にも思はれるのであつた。そんな感じのするせいか、これ程の老夫人が母らしい人とは思はれないで、生生とした人妻らしい婦人であると自分には思はれるのであつた。「未だ良人の許しを得ませんから今日は何のおもてなしを致す事も出来ませんが、この次は御招待をして寛りとして頂きます」などと夫人は懐しい調子で云はれるのであつた。
「一寸お待ちなさい。」
と云つて、夫人は母家の方へ行かれた。暫くすると露の滴る紅薔薇の花を沢山持つて来られた。
「二三日雨が多かつたものですから、わたしの庭の一番好い花を切つたのですけれど、この通なんですよ。」
と云つて、夫人は花を自分に渡された。自分は心のときめくのを覚えた。夫人は自分達を船乗場まで馬車で送らせると云つてその用意を命ぜられるのであつた。其間に椅子へお坐りなさいなどと自分の為に色色と心を遣はれた。製作場の向側にはギリシヤ辺りの古い美術品かと思はれる彫刻を施した円い石や角な石が転がつて居るのであつた。馬車の用意が出来た頃弟子がもう一人帰つて来た。夫人は返す返す再会を約して手を握られた。自分達三人は馬車の上でどんなに今日の幸福を祝ひ合つたか知れない。世界の偉人が此馬車に乗つて毎日停車場や船乗場へ行かれるのであると思ふ時、右の肱掛の薄茶色の切がほつれかかつたのも尊く思はれた。この帰りに更にロダン先生に逢つた事の嬉しさを今此旅先で匆匆と書いてしまふのは惜しい気がする。暫く一人で喜んで居よう。(六月廿日)
アカデミイの絵の開会中に一寸倫敦見物に出掛けようと思つて居ると、日本へ帰る石井柏亭君が小林萬吾君と一緒に再び英国へ行くと云ふので、其れを幸ひに僕等夫婦も倫敦まで同行する事にした。途中巴里から三時間で着くアミアン市に一泊して、博物館のシヤンヌの壁画や十三世紀のゴシツク式建築の御寺などを見物した。壁画は随分沢山あつて其れがシヤンヌの前期の作と後期の作に分れて居る。僕の歎服する所は勿論巴里のパンテオンや市庁や、マルセエユの博物館やの壁画と同じ手法に成る後期の作にあるが、まだ旧套を脱し切らぬ前期の作に於ても此画家の色彩の特調と下図の確実な事とを示して居る。館内の他の新しい絵には巴里のサロンに出品して政府に買上られた物が多かつた。仏蘭西政府は年毎に買上げたサロンの絵を如此くして各地の博物館に分配するらしい。猶館内にはロダンの作つたシヤンヌの大理石像があつた。御寺は巴里のノオトル・ダムや[#「ノオトル・ダムや」は底本では「ノオトルダムや」]ツウルのカテドラルと同期に建てられたゴシツクではあるが少し様子が異つて居た。窓が多い所為で堂内の明るいのは難有さを減じる様に思はれた。塔の正面の丹を塗つた三ヶ所の汚れた扉は薄黒く時代の附いた全体の石造と調和して沈静の感を与へた。其前の広場の石畳が反対の側へ幾段かに高まつて居て、其処が大通から少し離れて裏町である為に車馬の往来しないのが好かつた。御寺の直前に立つたのでは容易に大きな塔の全体が眼に入らないので僕等四人は其広場の上を後退りし乍ら眺めるのであつた。老人の乞食が附近の物寂びた家の階段に腰を据ゑて帽を静に差出すのも煩くなかつた。二人の画家は翌日再び来て此塔の正面を描いた。
幅の狭いアミアン川が市街に入つて更に幾つとなく枝流を作つて居るので石の小橋が縦横に掛つて居る。或る裏町にある小橋の四方を雑多な形の旧い煤ばんだ家が囲んで、橋の欄干の上に十人許腰を掛けて長い釣竿を差出した光景が面白かつた。夜に入つては音楽祭だと云ふので辻辻に焚火が行はれ、男の児等は爆丸を投げて人を驚かし、又大通には音楽隊を先に立てた騎馬の市民の提灯行列があつた。
僕等は夜の十一時に眠たい目をして汽車に乗り、カレエの港から汽船に乗つたのは翌日の午前一時であつた。英国の海峡は珍らしい凪の中に渡つたが、海の夜風が寒いので三等客の僕等は甲板の上で慄へて居た。一時間の後ドオアに着いて海峡の夜明の雲の赤く染つた下で更に倫敦行の汽車に乗移つた。(六月二十四日)
よく荒れる処だと聞いて居た英仏海峡を夜の一時に仏蘭西のカレエ港からドオバアの港へ渡る事に成つた。月は無かつたが朧月夜と云つた風に薄く曇つて居る星明りの中に汽車から下りて直ぐ前の桟橋に繋がれた汽船へ乗移つた。三等客は皆甲板に載せられるので誰も手荷物を側に置いて海を眺め乍ら腰を掛けた。船員や乗客の間に英語が交換されるので、外国語を知らぬ自分にも俄に言葉の調子が耳立つ。六月の二十三日と云ふのに海峡の夜風は凍る様に寒い。生憎良人も自分も外套を巴里に残して来たので思はず身を慄はすのであつた。仕合せ[#「仕合せ」は底本では「仕合」]な事に浪は全く無い。一緒に来た小林萬吾さんと石井柏亭さんは外套の襟を立てて煙草を吸附け乍ら食堂の蔭に成る腰掛で話して居る。良人は自分丈を二等の寝室へ移すと云つて船員へ交渉しに下へ降りて行つたが、二等の婦人室は誰も相客がないから切符を買ひ更へずとも自由に休憩してよいと船員が云ふので、自分は其婦人室へ良人に伴れられて行つて横に成つた。部屋を世話する英国婦人の給仕が自分の帽を天鵞絨を張つた直ぐ上の壁へ針で留めて掛けて呉れた。今夜の十一時に仏蘭西のアミアン市から立つて来たので眠たくはあるが、さてずつと一人横に成つて見るといろんな事が頭に泛んで来て眠られ相にも無い。敦賀から一人乗つた露西亜の汽船の中の様な心細さは無いが、矢張気に掛るのは東京に残して来た子供等の上である。
旅人の愁ひも此処に尽きよかし仏蘭西の岸割けて海見ゆ
海峡の灯台の灯は明滅すわがおちつかぬ旅の心に
汽車を下り船に上るも更けし夜は影の国踏むここちするかな
海峡に灰を撤きたる星ぐもり我を載せたる船流れ行く
海峡の夜風に聞けば旅人のざれたる声もかなしきものを
ひんがしのはなれ小島に子をおきて臥す女ゆゑ寒き船かな
ゆゆしかる身の果としも思はねど大海に寝て泣く夜となりぬ
何れぞやわがかたはらに子の無きと子のかたはらに母のあらぬと
こらしめは烈しき恋の中に来ぬ子等に別れて海にさまよふ
歌うたひ旅より旅に行く事もわが生涯のめでたさながら
こんな事を歌つて気を紛らさうとするのであるが何時の間にか鬢までが涙に濡れて居た。良人が甲板から降りて来てドオバアへ着いたと知らせて呉れた。纔か一時間で海峡を渡つたのである。
星あまた旅の女をとりかこみ寒き息しぬ船を下れば
午前三時と云ふのに東の空はもう赤紫を染めて、船から倫敦行の汽車に乗移る旅客の昨夜ろくろく眠らなかつた顔があらはに見える。自分は白い面紗を取出して顔を掩うた。此港にも山の上と海岸の二箇所に灯台があつて頻に灯火を廻転させて居た。
自分達の汽車は午前六時にチヤアリング・クロスの停車場へ着いた。折悪しく日曜の朝なので倫敦の街は皆戸を締めて死んだ様に寝て居る。停車場に居た老人のボオイが親切に案内して呉れたので、直ぐ横町に唯だ一軒起きて居た喫茶店へ入つて顔を洗ふ事が出来た。小林さんと石井さんとの宿は自分達の宿と余り離れては居ないが別に成つて居る。今頃どの宿へ行つても容易に起きては呉れまいと思つて悠悠と話し乍ら朝の紅茶と麺麭とを其喫茶店で取つた。自分達の汽車で同じく着いたらしい三人の西班牙人が入つて来て喫茶店の老爺と西班牙語で話して居た。自分達が自動車に乗つてフインボロオグ・ロオド二十八番のフイルプス夫人の家へ来た時は未だ七時半であつた。幾等鈴を鳴らしても戸が明かないので、仕方なしに門の石段の上へ革包を据ゑて其れに腰を掛けて二人で書物を読んで居た。併し牛乳配達と掃除馬車の男とが自分達を珍らし相に見て過ぎる外に街を通る人も無かつた。予め通知して置いた日から四五日も遅れて着いた自分達を宿の方で待設けて居ないのは無理もない。主婦のフイルプス夫人が戸を明けて呉れたのは九時であつた。通りに臨んだ三階の明るい窓硝子に日蔽を下して、自分達は昨夜の不眠を補ふ為に倫敦へ着いた第一日を昼過ぎまで寝て居ねば成らなかつた。
其午後乗合自動車に乗つて東京の銀座と浅草とを一緒にした様に賑やかな、ピカデリイの大通りへ出て食事を済まし、ゼエムス公園を抜けてウエスト・ミンスタア寺を訪ひ、丁度日曜の勤行に参り合せたのを初めに、今此筆を執る日まで丸八日経つ間に倫敦の御寺と博物館と名所とを一通り見物して仕舞つた。巴里を立つ時倫敦を短い日数で観て歩くには住み慣れた日本人に案内して貰ふ必要があらうと思つて居たが、自分達は地図とベデカアを頼りにした丈で格別まごつく事も無かつた。其れには一ヶ月前に倫敦へ遊んだ二人の画家の徳永さんと川島さんから色色倫敦の様子を聞いて居たのと、オムニブスの通る路筋を示した倫敦の図を二人から貰つて、予め巴里で読んで置いたのとで非常に便宜を得た。自分が此処へ着いて三日目に倫敦市内を縦横に縫ふオムニブスの番号と路筋を全く暗記して仕舞つたのは何の珍らしい事でも無い、案内者なしに自分達で見物して廻つた為であつた。
倫敦の博物館は何れも立派な建築で明りの取方に申分なく、其上配列が善く整頓して居る。巴里のルウヴル博物館は旧い王宮丈に壮麗であるが、始めから倫敦の様に博物館として建てられたので無い為に不充分な所が多い様である。自分はナシヨナル博物館で伊太利や西班牙の昔の諸大家の絵を観、テエト博物館で英国近代の名家の絵を観た事に幸ひを感じた。巴里で観られなかつたミケランゼロもナシヨナル博物館で観る事が出来た。ロセツチ初めラフアエル前派の逸品や、数室に亘るタアナアの大作などは到底テエト博物館ならでは観難い物である。ロセツチの絵は想像して居たよりも鮮かな色が面白かつた。ワツツは写真版で観て居た時の方が好かつたかも知れない。サウスケンシントン博物館にある毛氈の下図を描いたラフアエルの大きな諸作は恐らく伊太利にも少い傑作であらう。又其処に附属した印度の博物館を観ては、一面に欧洲美術と交渉し、一面に日本支那の美術と連絡を保つ印度美術の大概を窺ふ事が出来るやうに想はれるのであつた(六月三十日)
倫教は巴里に比べて北へ寄つて居る所為か、七月になつても薄寒を覚える様な気候である。巴里の様に上衣を脱いでコルサアジユ丈で歩く女を未だ一人も見受けない。一日に幾度も日本で云ふ「狐の嫁入雨」が降るので、自分は水色の日傘を濡らし乍ら、其雨の中にセント・パウル寺へも詣り、倫敦塔へも上つた。倫敦塔の中は古代武器の展覧場に成つて居る。又其一部に※[#濁点付き井、254-7]クトリヤ女皇と先帝との戴冠式に用ひられた宝冠や、宝石と貴金属で華麗を尽した沢山の花環やが陳列されてゐる。昔の牢獄の中へ帝王の大典のめでたい記念を飾ると云ふ事は東洋人の為相にない事である。薄暗くて狭い、曲つた石の階段の泥靴で汚れたのを踏んで、混合ふ見物人に交りながら裾を搴げて登る厭な気持の後で、幾多の囚人の深い怨みを千古に留めた題壁の文字や絵を頂上の室に眺めた時は、今も猶どこかの隅で嗚咽の声が聞える感がして自分の雨に濡れた冷たい裾にも血の滴るのかと戦かれるのであつた。
倫敦へ来て気の附く事は、街の上でも公園でも肉附の好い生生とした顔附の児供を沢山に見受ける事と、若い娘の多くが活発な姿勢で自由に外出して居る事とである。巴里では概して家の中に閉ぢ込めて置く所から、一般に娘児供が生白い顔をして如何にも弱弱し相である為め、自然仏蘭西人の前途まで心細く思はれぬでも無いが、英国の娘児供の伸伸と生立つて行くのを見ると、其家庭教育の開放的なのが想像せられると共に著しく心強い感がする。其れに倫敦では上野公園に幾倍する大きな公園が幾つも街の中に有つて、例へば日本人が自分の庭で遊ぶ様に出入の心易いのが娘児供許りで無く一般人の散歩に都合が好い。同じく街の中にあつても東京の公園は倫敦の程街に密接して居ないから市民に親しみが乏しく、日比谷公園や上野公園へと行くと云へば何だか特別な事に成るが、直ぐ大通と並んで居る倫敦の公園は非常に出入が気軽い。巴里の市内にある公園は聯や押韻の正しい詩を読む気がして整然とした所に特色を認める丈窮屈な感を免れないが、英国の市内公園の散文的に出来て居るのは自然の森を歩む様に胸の開く心地がする。
表面の観察ではあるが巴里を観て来た目で評すると概して英国の女は肉附の堅い、骨の形の透いて見える様な顔をして居て、男と同じ様な印象を受ける赤味がかつた顔が多い。世界の都を代表する顔で無く幾分田舎らしい顔で、目附は勿論一体の表情が何処となく真面目と怜悧とを示して居る。巴里の女の様な粋な美には乏しいが愛と智慧とには富んで居相である。巴里の女は軽佻で無智で執着に乏し相であるが、英国の女は其反対の素質を余計に持つて居るのではないか。女子参政権問題の生じた事などに種種の複雑した原因はあるにしても、其主たる原因は外面の化粧に浮身を窶す巴里婦人と異つて、女子教育の普及した結果内面的に思索する女が多数に成つたからであらう。或は男に近い教育を受け、男と斉しい資産を持つて独立の生活をして居る為に、自然その容姿までが一層男に近く成つて来たとも云はれるであらう。参政権問題に就ては急進派の婦人が男子も最早現代に敢てしない様な暴動を相変らず実行して識者を顰蹙させて居る。併し或階級の婦人が男子と対等の資格を要求するのには拒み難い真理がある。其れが偶参政権問題となつて鉾先を示して居るのだと思ふ。従つて又※[#「執/れんが」、U+24360、257-11]中の余りに急進派の暴動を生ずるのも[#「生ずるのも」は底本では「生ずるもの」]一時の過程であらう。時期が熟したら温健な主張の婦人の手に由つて一切婦人問題に識者を満足さす解決が附けられるに違ひない。自分は堅実な英国人の間に起つた婦人運動が決して空騒ぎで終らない事を信じる。唯だ英国の現代の婦人は日本の婦人よりも更に切迫した過渡期に遭遇して居る。其れが為に容姿の美を疎かにする迄に賢くならうとして居るのが悲惨である。(七月二日)
帽も服装も英国の女のは日本の上方言葉の「もつさりして居る」と云ふ一語で掩はれる。ジヤケツの上衣の長いのや裳の大きく拡がつたのなどは、昔長崎へ来た和蘭船の絵の女を見る様に古風である丈今日の目には田舎臭い。倹約な巴里の女が外見は派手であり乍ら粗末な質の物を巧に仕立てるのと異つて、倫敦の女は表面質素な様で実は金目の掛つた物を身に着けて居る。唯だ惜しい事に趣味が意気でない。併し之は一般の観察であつて、芝居などで観る美しい貴婦人の中には巴里の流行を巧に取入れて品の好い盛装をした女の少くないのに目が附く。女の大学生が髷を包んだリボンと同じ色の長い薄手の外套を着て、瀟洒とした所に素直な気取を見せたのは一寸心憎い様に思はれる。一体に白、水色、淡紅色などの明かるい色のロオヴを着た女が多く、其等を公園の木立の下の人込の中で見るのは罌粟の花を散らした様である。
自分達は或日の午後、もとヒス・マゼステイ座の俳優で今は興行者と成つて居るフレデリツク・ヱレン氏夫婦から茶の時に招かれたので、石井柏亭さんを誘つてレゼント公園の側の其家へ出掛けた。夫婦は三越の松居松葉さんの[#「松居松葉さんの」は底本では「松井松葉さんの」]さんの旧い知合で、自分達も松葉さんの紹介で面会を求めて置いたのであつた。客室には広重や其他日本の版画が飾られてあつた。夫婦は松葉さんの噂をして其若い姿の写真を取出して見せた。席に音楽家のヤング氏も自分達に逢ひたいと云ふので先に来て待つて居た。ヤング氏は曾て日本の音楽と俗謡とを研究する為に東京や薩摩に半年程留まつて居た人で、驚く許り日本語が達者である。在来の如何はしい日本通と異つて大分に精細な所まで研究が行届いてるらしく、貞奴の語がヱレン氏の口から出ると「彼女は俳優でない、芸者である」と打消した。氏は沢山の日本の謡曲や俗曲を飜訳して其れに自分で譜を附けて居る。氏は又オスカア・ワイルドの親友の一人であつたと云つて、ワイルドの話を聞かせて呉れ、日本にワイルドの「サロメ」其外の訳があると聞いて非常に喜んで居た。ヱレン氏は自分達の観たいと思つて居た沙翁劇の季節が既に過ぎた事を語つて、ツリイの今演じて居るジツケンス物へ案内しようかと云つた。自分達が成るべくバアナアド・シヨウの劇を観たいと云つたら、其は丁度今キングス・ヱエ座で演じて居るから来週の火曜日の晩に席を取つて置かうと云つて呉れた。帰る時にヱレン夫人は自動車に乗つた自分の手へ百合の花を取らせた。
其晩十時を過ぎてからヱレン氏夫婦とヤング氏とに紹介せられて、ピカデリイの大通からレゼント・ストリイトを少し上つて左へ入つた地下室にあるキヤバレエ・テアアトル・キユルブへ行つた。倫敦に居る芸術家の或一部が英国の習慣を破り徹宵して隠し芸を出し乍ら遊ぶ為に新しく会員組織で設けた巴里風の酒場である。まだ先週から開いたばかしなので広くは知られて居ない。もと倉庫か何かであつた穢い地下室を、すつかり白と丹と緑の配色で美しく塗直し、舞台の電灯の装置から卓や椅子までが凡て新しく出来て居る。殊に三面の壁を立体派の図案で装飾したのは好く調和して居た。此奇抜な画風を室内の装飾に応用する事は未だ本元の巴里でも敢てしない事で、其が好い効果を収めて居るのは奇だと柏亭さんと良人とが評して居た。来会者の中から舞台に出て色色の歌や踊が演ぜられた。会員には英国人以外に仏蘭西、諾威、丁抹、西班牙などの人人も加はつて居るので世界的の隠し芸が演ぜられるのであつた。其国の野蛮に派手な服装をした印度人の一群と、青い服を着けた波斯の男の踊子と丈は特に雇はれて居るらしい。会員の中には名を知られた女優なども居ると、一一ヤング氏が自分の耳に口を寄せて其人達の身分と演じる物とを話して呉れた。ヤング氏も屡ビアノに向つて伴奏をした。氏が訳した日本の短い二首の俗謡が或夫人に由つて歌はれもした。其時の紹介にヤング氏は舞台に立つて「これからわたくしの訳した日本の歌を、わたくしの作曲で歌ひます」と明晰な日本語で述べた。自分達にヤング氏が「之を見て下さい」と云ふので青く塗つた大きな柱を仰ぐと、平仮名で太く「ぬしとねるときはまくらはいらぬ、たがひちがひのおてまくら」と氏の手で書かれてあつた。氏は又印度人の歌を評して「夷狄の楽です」とも日本語で云ふのであつた。自分達は次の夜も柏亭さんと小林萬吾さんとを誘つてこの酒場へ行つた。(七月四日)
僕達は大略倫敦の見物を済ましたから今日の午後の汽車でカレエ迄乗り、其処から汽船で白耳義のオスタンドへ渡る積りだ。短時日の滞在の割に英国から受けた利益の多大なのを僕は喜ぶ。ナシヨナル、テエト、サウスケンシントンの三大博物館を観たことは就中感謝せざるを得ない。之に加へて巴里のルウヴル及びリユクサンブルの二大博物館を観れば欧洲の絵画の古今に亘る精粋を概観し得たと云つて好いであらう。芝居の季節に来なかつた事が遺憾だから此冬を期して其が為に今一度倫敦に遊びたいと思ふ。
巴里に姑く慣れて居た者が倫敦に来て不便を感じるのは、悠悠と店前の卓に構へる事の出来る珈琲店が全く無いのと、食物の不味いのとである。一般の英国人は其等の点に仏蘭西人程の興味を持つて居ないらしく、一時の嗜欲を満せば足ると云つた風に食事の時間迄が何となく忙しげだ。僕達はピカデリイのオランピヤと云ふ仏蘭西料理屋へ度度行つて食事をした。小林萬吾君も英国料理に困つて滞在中は探花楼と云ふ支那料理へ行く事に定めて居る様である。
僕達は在留の日本人に逢ふ機会が無かつた。長谷川天溪君の住所を大使館で聞いたが不明であつた。同君は既に日本へ出発したと云ふ噂を日本人倶楽部で聞いたが其も確でない。大阪の骨董商山中氏の店を一寸訪ねて見たが今は日本品よりも支那の骨董品を主として売つて居る。日本の如何はしい美術品が売行かなくなつたのは自業自得であらう。正金銀行支店の諸君から日本料理の生稲へ招かれて一夜を語り更した。小島烏水永井荷風二君の旧知揃ひで二君の噂が頻に出た。紐育の支店で以前荷風君を銀行の客分として部下に使つて居た某某二氏は、同君の在米当時を話して、何時も銀行へ風の如く来て風の如く去つて仕舞ふのは同君であつた。後で思へば「亜米利加物語」の材料を人知れず作つて居ながら、唯僕等の前では温厚しい貴公子で、文学のぶの字も全く言はなかつたのは一人僕等を俗物だと思つて居たのであらう。今考へて気の毒なのは美しく額へ垂らして長くして居た髪を無理に刈らせて仕舞つた事だなどと語るのであつた。
テエムス河に大きな汽船が繋がれ、対岸に沢山な煙突が烟を吐いて居る景色を見ると、巴里のセエヌが優美な芸術国の女性的河流であるなら、之は活動的な商工業国の男性的河流だと云ふ感がする。[#「。」は底本では「、」]セエヌは常に藍を湛へて溶溶と流れて居るが、テエムスは何時も甚だしく濁つて忙し相である。彼が優麗なルウヴル宮やトロカデロの劇場を映すのに対して、之は堅実な国会の大建築を伴つて居る。僕は巴里に居て常にセエヌの河岸を逍遥した如く、屡テエムス河の岸と倫敦橋の上とを散歩して英仏両国民の性情の相異る特色を此処に読む気がした。僕達は又午後五時から二時間程の間倫敦市の中心から吐出されて、テエムスに架せられた幾多の大鉄橋を対岸へ渡つて行く幾万の労働者の帰路に混じつて歩き乍ら、故国を行く如き一種の気安さを感じると共に、自らも亦是等の大群と運命を斉しくする弱者である事に想ひ到つて苦い悲哀に撲たれざるを得なかつた。殊に注意すべき事だと感じたのは是等労働者の大半を若い女子が占めて居る事である。(七月四日)
自分が倫敦で泊つたフインボロオグ・ロオド二十八番地のフイルプス夫人の家は、主人が有名な建築家で、夫人の連子である先の良人の令息も同じく建築家として父の工場へ通つて居る。家族が此三人きりなので淋しくない為めにと大学生や画師を三人程下宿させて居るが、裕福な家だから宿料などは何うでも好いと云つた風である上に、下宿人に対する待遇が賓客を待つ様に鄭重である。親切な夫人は朝だけ其処で取る自分達の食卓を離れずに給仕して下さる。仏蘭西と違つて英国では朝の食事に麺麭と[#「麺麭と」は底本では「麭包と」]紅茶又は珈琲の外に二品許りの魚と肉との料理が附く。夜更しをして帰つて来る自分達は兎角遅く起きる朝が多いのに、夫人は何時でも温かい料理を出す様にと気を附けて居られる。初めに辞退しなかつたので毎朝其通りの料理が出て加之に其量が多い。自分達は日本に居ても朝は大抵牛乳位で済して居る習慣が附いて居るので大分之には難有迷惑を感じたが、皿に手を附けずに居ると料理が不味いからだらうと云つて夫人の心配せられるのが気の毒なので、我慢して少しでも頂くことにして居た。実際英国の料理加減は巴里の料理を経験して来た者に取つて著しく不味いのである。勿論自分達がビカデリイ附近で毎日昼と晩との食事を取つたのは何れも安料理屋であつた所為もあらう。何でもビフテキ専門の有名な美味しい料理屋のあると云ふ事を聞いて居たが案内して貰ふ人が無いので行かずに仕舞つた。下宿の夫人は外にも色色の事に注意を与へて下さるのであるが、良人の英語が不充分なので遺憾に思ふ場合が多かつた。令息は仏語が出来るのであるけれど毎日早くから工場へ出て行くので話す機会が無かつた。自分は夫人の親切と共に此家の清潔なのと湯槽があつて入浴の自由なのとを嬉しいと思つた。
食堂には各国の美術品が飾られて居た。中に日本や支那の骨董品も多く混つて居た。夫人の先の良人も建築家であつたが、東洋の美術を愛した人で従つて日本人贔屓の人であつたから、日本人を見れば懐しいと夫人は語られた。先の良人は温厚しい学者肌の人であつたが、或旅先で悪友に誘惑かされてうつかり勝負事に関係した為め、少からずあつた其財産が凡て失はれて居た事を良人の死後に発見して途方に暮れた夫人は、令息を伴れて良人の友人である倫敦の今の良人の許に頼つて来た。親切な今の良人は此若い未亡人と幼児とを助けたい為めに進んで結婚を求めたのであつたと夫人が語られた。同じく食堂には薄桃色をした鸚鵡の籠が吊されて居た。鸚鵡は自分達が朝の食事を取る度にけたたましい声を立てて食物の催促をするので、夫人は何時も「静かになさい」と云ひ乍ら麺包を与へられた。夫人は早く起きて割烹をし、広い四階屋の各室の掃除から水の用意までを一人で済して置いて、暇があれば此鸚鵡の籠の下で編物や読書に耽られるのであつた。
夫人は四十五六であらうか、色の白い細面の、目の大きくぱつちりとした、小皺が寄り乍らも肉附の豊かな頬などの様子は四十歳計りとしか見えない。途上の行きずりに聞く英国婦人の言葉遣ひと違つて、英語も此様に物優しい国語かと思ふ程美しく品の好い発音をする人である。物を言はれると温かい表情が顔に上るけれど、黙つて居られると何処となく心の上に苦労を経験した人に免れない一種の淋しさを覚えるのであつた。自分達の出立する時夫人は涙を目にいつぱいためて自動車の窓越に手を執られた。自分は此後英国を思出す度に先づ此夫人の顔が目に浮ぶであらう。
ドオバアからオスタンド迄の海上三時間は少し許り波の立つのを感じた。晶子を酒場の側の寝台へ休息させて置いて、自分は甲板の上の船客に交つて涼しい汐風に吹かれて居た。白耳義は仏蘭西と同じ貨幤を用ひて居るが、唯十文銭や二十五文銭の孔の開いて居るのが異つて居る。自分は酒場の釣銭に其孔の開いた白銅を受取つて欧洲の銭で無い気がした。汽船と直ぐ接続するオスタンド発の汽車に乗つたが途中ガン市に住んで居る画家の児島君を訪ふ約束をして置いたに拘らず、其所書を巴里へ忘れて来た事に気が附いたので下車を見合せ、ずつと直行して夜の十時三十分にブリユツセル市へ着いた。停車場を出ると大きな珈琲店が幾つも並んで店先の椅子に男女の客が満ちて居る。耳に聞く言葉は凡て仏蘭西語である。小巴里と謂はれる首府丈あつて自分は巴里に帰つた様な気安さを感じた。旅館の食堂で夜食を済ませた後で自分達は明るい街の人通りを眺め乍ら遅く迄或珈琲店に涼んで居た。
ブリユツセルは京都程の大きさに過ぎない都で、其れが麹町区の様な高台と神田日本橋両区程の低地とに際立つて区分され、高台の方に王宮初め諸官衙や諸学校や美術館やが凡て集つて居る。高台と低地との間の傾斜地に属する街が最も旧い街なのでサン・ギユドユルだの、ノオトルダム・ド・サブロンだのと云ふ十三四世紀のお寺や、奇体な窓を幾つも屋上に建て出した古風な老屋などが其処に多く見出される。而して一般の低地は商人街である。王宮は立派な近年の建築であるが、寂の附いて居ない白い石造には難有味が乏しい。美術館では和蘭の古画と併せてリユウバンスとン・ダイクの[#「ン・ダイクの」は底本では「ンダイクの」]作品に注意すべき物が少し有つた。近代博物館の方ではレエスの人物画を好いと思つた外白耳義の十九世紀の画家に取立てて感服すべき絵が無い様に思はれた。此処で感謝すべきことはロダンに対抗すべき大彫刻家ムニエの芸術に接し得ることである。市の東にある先王の金婚式記念の博物館をも訪うたが、其処の日本部には凡そ十室に亘つて歌麿、春信、広重、豊国其他の浮世絵が蒐集せられて居た。随分如何はしい飜刻物も混つて居るが、是丈多数に蒐集せられた処は英仏は勿論本国の日本にも無い事である。白耳義政府が其購入に定めて巨額を支出したのであらうし、又其保存に年年少からぬ財力を費しもするだらうと想像して感謝の念に撲たれざるを得なかつた。
一体にブリユツセル市民は日本人に対し好感情を持つて居て、何かと自分達に便宜を与へて呉れる事が多かつた。辻馬車の馭者迄が特に親切であるのを感じた。又市民は前の浮世絵の博物館と市外のロオヤル公園の中に前年の博覧会の記念として保存されて居る日本の五重塔とを有する事をブリユツセルの誇として居る様である。自分達が浮世絵の博物館を訪ふた時は曇つた日の午後三時頃であつたが、各室の監視人は自分達の為に被ひの帷を徹して浮世絵の一一を実は内内迷惑を感じるまで仕細に観せて呉れ、閉館の時間を余程過ぎても出よとは云はなかつた。中に一枚歌磨の自画像だと称して特に金紙の装幀を施した絵をわざと高い処から降ろして観せて呉れたのが有触れた遊冶郎の絵であつたのは驚いた。好い加減な事を日本人の誰かが説明して聞かせたのであらう。兎に角欧洲の旅客がブリユツセルを過ぎて是非訪ふべきものは此浮世絵の博物館である。
ブリユツセルの街を歩いて居て或辻角に出た時鉄柵の中に珍らしい噴水のあるのに気が附いた。愛くるしい三歳位の小児の裸の石像が無邪気な姿勢をして立ち乍ら手で軽く支へた前の物から、細い噴水が勢ひよく円を描いて流れて落ちるのである。之と同じ姿勢をした木彫の小児を巴里のクルニイの博物館で観た事を思出したが、此奇抜な放尿の噴水に如何なる由来があるかは早速繰返して見た案内書にも見当ら無い。僕は欧洲の公園を巡つて初めて噴水の美を知つた。併し木立の間などから稍遠く離れて見渡す大噴水こそ美であるが、近く寄つて女体の人魚や海馬などの口から吐き出す形を見るのは決して懐かしい物で無いと想つて居る。僕に此放尿の噴水が不快の感を与へないのみか却つて自然の天地に帰つて胸を開く様な快さを覚えしめるのは童貞の無邪気と純潔とを人間の作法に拘泥せずして具体化した芸術家の力であらう、之がわざわざ広場や公園の真中に設けられずに、古ぼけた街裏の狭い辻角に建つて居るのも附近の民家の幼児が一寸横町の塀下で立小便をして居るのと同じ感じであるのを面白いと思つた。後で或絵葉書屋を漁つて居ると、此処の王立博物館にあるリユウバンスの諸作中で僕の好きな「火神の工場を訪へるヌス」の絵葉書と並んで此童子の噴水の絵葉書もあつたので早速併せて買収めた。絵葉書に迄成つて居るのだから何か由来があるだらうと思つて絵葉書屋の神さんに聞くと、此可愛い童子はマヌケン・ピスと云ふ名の昔の幼王である。戦争中父の王が亡くなつたので将士の心を繋ぐ為に此頑是ない幼王を陣中へ伴つて来たが、或日幼王が此石像の如く一人で無邪気に放尿して居る処へ我軍大勝利の快報が達した。其歴史上のめでたい記念に建てられたのが此石像の由来である。後世奈破翁始め幾多の君主が此噴水を訪うて裸の幼王に捧げた衣裳が日本で云へば長持に一杯と云ふ程今も保存されて居る相である。僕は由来を聞かないで独り合点をして居た方が一層興味が深かつたと思つた。
少し曇つた日の涼しい朝ブリユツセルから四十分間汽車に乗つてアントワアプに着いた二人は、中央停車場の横の建築家ケエセエの名を負うた通の旅館に鞄を下した。日が永いから此港街の見物は一日で済まされるのだが、倫敦以来晶子が慣れない徒歩を余り続けて少し疲労して居るので一晩此処に泊つて明日巴里へ帰る事にした。
巴里や倫敦を経て来た旅客に取つて狭い他の郡市の見物は地図一枚を便りにする丈で案内者を頼む必要も無く宛ら嚢の中を探る様に自在である。先づ手近なリユウバンス町へ曲つて画家が晩年を其処に送つて終焉を遂げた旧宅を訪うたが、今は其れが私人の有に帰して二戸に分れ、一戸の方は住む人も無く常に門を閉ぢて居るが、右の方の一戸は商会に成つて居て門を入つた内玄関の上にリユウバンスの石膏像が据ゑられて居た。親切な其家の主人は中門を開いて内庭へ導き、画家の昔の邸も改築せられて仕舞つた今日唯残つて居るのは彼れ丈だと云つて、塀越に隣の家の内庭にある二階家を指さして説明して呉れた。縦覧を許されないから其内部は知らないが、薄桃色の塗料の雨風に褪せた、外観の平凡な画室であつた。其処を辞して電車の通つて居るメエル町を真直に行くと、三角に成つた街の人家に打附かつて路が俄に細く左右に分れ、間口の狭い雑貨店がごたごたと並んで人通りの多い様子が大阪の御霊神社の境内へ入る横町の感じと似て居るのに興を覚え乍ら電車の通らない右の方の路を廻つてルトの広場に出た。珈琲店や安料理屋が四方を囲んで居る穢い且つ狭い広場である。疎らなマロニエの樹立の中央に例の寛衣を着けて劔を帯び庇の広い帽を少し逸反らして被つた風姿の颯爽としたリユウバンスの銅像が立つて、其前にバナナや桜実を堆く盛つた果物屋の車が其れを輓かせて来た頸に綱を附けた三匹の犬と一人の老婆とに由つて店を出して居た。而して京都の八坂神社の塔を意外な建込んだ街中に発見する如く、広場の一方の人家の上に有名なノオトル・ダムのカテドラルが古色を帯びて屹立する雄姿を仰ぐのであつた。僕等は細い小路を曲つて吸はれる如くカテドラルの二重扉の中へ入つて行つた。薄暗い穹窿の下に蝋燭の火と薫香の煙と白と黄金の僧衣の光とが神秘な色を呈して入交り、静かな読経の声が洞窟の奥に谺する微風の様に吹いて居る。僕等は数列の椅子に就て居る敬虔な信者の黙祷を驚かさない様にと心掛けて靴音を潜め乍ら壁画の中にリユウバンスの諸作を探して歩いた。
カテドラルの直下の家の三階に金字で画家ン・ダイクの生れた家だと書いてあるのを見附けて、其家の一部にある煙草屋で記念の絵葉書を買つた。僕等がカテドラルに入つたのは横の入口で、表の入口へ廻ると其処はグランド広場へ面し、露店の並んだ広場を隔てて市庁と対して居た。
半町程行つてエスカウト河へ出たが、大小の汽船が煙を吐いて荷揚人足や荷車の行交ふ忙しい港街の光景に久し振に接する心地も悪くない。画家の名を負うたン・ダイクの河岸の凹凸の多い石畳を踏み、石炭、干魚、酒などの匂ひの入交るのを嗅ぎ乍ら色んな店を覗いて歩いた。郵船会社の寄港地丈に日本の雑貨を店頭に見出す事の少く無いのも勿論粗末な廉物許りであるが嬉しかつた。
足を痛めて居る晶子の為に馬車を探し乍らナシヨナル通を歩いて行く中に目的のロオヤル博物館へ来て仕舞つた。富んで居る国民の設計丈けあつて、ブリユツセルの博物館も此処のも立派な建築である。殊に此処のは四方の庭園が広いので見栄がして居る。土地に縁のある丈けリユウバンスとン・ダイクの作を多く蔵めて居るが、巴里や倫敦で見受ける様な二家の傑作は見当らない。寺院から頼まれて描いた物に大作は多いが何れも其構図から僕等の気に入らない。寧ろ小幅の肖像画に捨て難い物を発見する。実際云ふとン・ダイクは兎に角、リユウバンスには余り多くを白耳義で観せつけられた所為か少し厭倦が来た様である。近代の作品にも目を惹く物は無かつた。十六世紀の和蘭古画の中にあるケンタン・マツシスの「サロメ」の濃厚な色彩の調子が、英国近代のバアン・ジヨオンスやロセツチの作と似通ふ所のあるのを珍らしいと思つて出口で其絵葉書を買つた。
午後二時近く成つたので酷く空腹を感じた。博物館前の料理屋でゆつくり午餐を済ませた上疲労して居る晶子を馬車に載せて市の中央にある公園の池の畔を一周し、旅館へ一旦引返して晶子を休養させ、更に僕一人で午後の見物に出掛けた。後に残した晶子が気に成るので時間を節約する為に自動車を命じたが、其運転手の独逸人は未だ土地慣れないのか、サン・ジヤツク寺もサン・パウル寺もサン・シヤル寺も知らなかつた。地図を目の先へ突附けて教へて遣つても異つた街へ入つてまごまごするので、短気な僕は途中から狭い運転手台へ一緒に乗つて地図と街とを見比べ乍ら、右へ行け、左へ曲れと命ずるのであつた、サン・パウル寺は夕方の一時間しか観せないと門番が云ふのでリユウバンスの壁画を観ずに仕舞つたが、どの御寺も其外観の荒廃し掛けて黒く煤びて居るのを仰いで過ぎる方が通りすがりの旅客の心に趣が深い様に思はれた。再びン・ダイクの河岸へ出て自動車を捨て、河に臨んだ旧屋にあるスチインの小博物館を訪うたが午前中で無くては観られないのであつた。赤く入日を受けた雲の水に映るのを眺めて高く突き出た桟橋の上に立つて居た時は何だか漂泊者らしい感がした。傍に来合せた巡査に日本の汽船が碇泊して居るかと聞いたら、一昨日常陸丸が出て仕舞つたと語つて、本国へ帰る為めに船待ちをして居る日本人だとでも思つたらしく其巡査から気の毒相に顔を眺められたのも淋しかつた。
午前観たカテドラルの下を今一度徘徊してン・ダイクの故宅の前の店でエスカウト河の帆掛船の景色を描いた小さな陶器を買つて居ると、汚れた労働服を着た一人の風来者が傍から口を出して彼れにせよ之にせよなどと云ふ。煩くも感じなかつたので好い加減な応答をして居たら、買物を済ませた後も先に立つて一緒に歩き乍らプランタスの博物館を観たかと問ふので、まだ観ないが今日は時間が遅からうと言ふと、自分と一緒に来なさい、必ず特別に観られる様にすると云つて僕の断るのも聞かずに其方の街へ曲つて行く。少し酒気を帯びては居るが人の悪い案内者風の男でも無いから僕も附いて行つた。此老人の立ん坊と話し乍ら行く日本人を珍らしがつて附近の子供の一群もぞろぞろと附いて来た。博物館の門は立ん坊の指先で押した鈴に由つて開られ、僕は中庭へ入つたが、番人の妻は縦覧時間が過ぎたと云つて謝絶した。立ん坊君が頻りに押問答をするので番人の妻は三度迄階上へ昇つて館員に議つて呉れた。僕に取つては観たくも無い博物館なんだが、見ず知らずの風来者に伴れられて来て其厚意と※[#「執/れんが」、U+24360、284-12]心を目撃すると、つい其れに絆されて、番人の妻が三度目に階上へ昇らうとする時は僕も進んで口を出し、明日の滞留を許さない身の上だから出来る事なら是非今日観て[#「観て」は底本では「 て」]行きたいと云ふ様な事を可成※[#「執/れんが」、U+24360、285-1]心に主張した。併し館員は終に其れを許さなかつた。其れで僕は無駄に時を費した上に某かの銅貨を其風来者に与へて礼を述べざるを得なかつた。
コンメルスの大通に出て土地に過ぎた程立派な二つの大劇場を眺め、美術学校前の広場を横ぎつてン・ダイクの新しい石像を一瞥して旅館へ帰つた。夜は晶子と公園の木陰を散歩し、引返して旅館の近所の珈琲店で遅く迄音楽の中に居た。
今朝に成つて出立迄時間の余つて居るのを利用して停車場の後の動物園を観た。有名な丈に完備して居るが、倫敦の大動物園を観た目には驚く事も無い。唯象や駱駝を入れた室の内外の装飾を鮮かな埃及模様で描いてあるのを面白いと思ふのである。東京の動物園でも熊の室をアイヌ模様で装飾する位の趣味を加へるが好からう。動物園内の珈琲店の一卓で僕は今此筆を擱いた。早く巴里へ帰らう。(七月十日)
七月十三日の晩、自分は独立祭の宵祭の街の賑はひを見て帰つて、子供の時、お祭の前の夜の嬉しかつたのと殆ど同じほどの思ひで、明日着て出る服や帽を長椅子の上に揃へて寝た。夜中に二三度雨が降つて居ないかと聞耳を立てもした。けれど、それは日本の習慣が自分にあるからで、高い処に寝て居る身には、雨が地を打つ音などは聞えやうが無い。マロニエの梢を渡る風がそれかと思はれるやうな事がままあるくらゐである。そんなに思つて居ながら、夜更かしをしたあとなので、矢張朝が起きにくい。それに、此処は四時前にすつかり空が明るくなつてしまふ。神経質の自分には、到底安眠が続けられないので、眠い思ひをしながら何時も起き上るのである。顔を洗つて髪を結つた時、女中のマリイがパンとシヨコラアを運んで来た。まだ八時前で、平生よりも一時間ほど朝の食事には早いのである。
「お祭を見に出るか。」
と良人が云ふと、
「ウイ、ウイ。」
と点頭きながら答へるマリイの目は嬉しさに輝いて居た。
「祭は午後でないと見に行つても面白くないのだよ。」
と良人に云はれた時、自分はまた子供らしい失望をしないでは居られなかつた。読書をして居ると十時前にマリイが廻つて来た。何時もは午後四時過ぎでないと来てくれないのである。良人が市街の地図を出して、何処が一番賑やかなのかと聞くと、プラス・ペピユブリツクだと云ふ。其処は巴里市内の東に当つて革命の記念像が立つて居る広場である。マリイは十一時頃に晴着のロオヴを着て出掛けて行つた。自分はトランクの上の台所で昼御飯の仕度にかかつて、有合せの野菜や鶏卵や冷肉でお菜を作つた。お祭だと云ふ特別な心持で居ながら、やはり二人ぎりで箸を取る食事は寂しかつた。一時半頃に服を更へて家を出た。
「まあペピユブリツクへ行つて見るんだね。」
と良人は云つて、ピガルの広場から地下電車に乗ることにした。人が込むだらうからと云つて一等の切符を買つたが、車は平生よりも乗客が少かつた。同室の四五人の婦人客は皆ペピユブリツクで降りた。この停留場は余程地の上へ遠いのでエレベエタアで客を上げ下しもするのである。音楽の囃を耳にしながら何方へ行かうかと暫く良人と自分は広場の端を迷つて居た。聞いた程の人出は未だないが、ルナパアク式の興行物の多いのに目が眩む様である。高く低く上り下りしながら廻る自動車台の女七分の客の中に、一人薄絹のロオヴの上に恐ろしい様な黒の毛皮の長い襟巻をして、片手で緋の大きな花の一輪附いた広い帽を散すまいと押へた、水際だつて美しい女が一人居た。子供客は作りものの馬や豚に乗せて回転する興行物に多く集まつて居る。聞けばミカレエム祭や謝肉祭のやうに人が皆仮装をして歩いたり、コンフエツチと云ふ色紙の細かく切つた物を投げ合つたりする事はこの日の祭にはないのである。自分等はそれからルウヴル行の市街電車に乗つた。初めて自分は二階の席へ乗つたのである。細い曲つた梯子段に足を掛けるや否や動き出すので、其危ないことは云ひ様もない。唯この蒸暑い日に其処ではどんなに涼しさが得られるか知れないと云ふ気がしたのと、ルウヴルが終点であるから降りるのに心配がないと思ふからでもあつた。この祭は労働者を喜ばす祭と云はれて居るだけあつて、高い席から見て行く街街の料理店には酒を飲んで歌ふ男の労働者、嬉しさうに食事をして居るマリイの様な女の組が数知れず居た。悪い気持のしない事である。自分等は電車から降りてルウヴル宮に沿うたセエヌの河岸のマロニエの樹下道を歩いてトユイルリイ公園へ入つた。上野の動物園前の様な林の中の出茶屋で休んで居ると、傍で鬼ごつこを一家族寄つてする人たちも居た。コンコルドの広場へ出ると各州を代表した沢山の彫像の立つて居る中に、普仏戦争の結果、独逸領になつたアルサス、ロオレン二州の代表像には喪章が附けられ、うづだかく花輪が捧げられてあるのを見て、外国人の自分さへもうら悲しい気がした。花を手向けたい様な気もした。けれど其廻りを取巻いた人達は何も皆悄然として居るのではない。未来に燃える様な希望を持つ人らしい面持が多いのであつた。それから自分等はシテエ・フワルギエエルの滿谷氏の画室近くまで、また地下電車に乗つて行つたが、滿谷氏等はもう祭見物に出掛けた跡であつた。それから、カンパン・プルミエの徳永さんの画室まで歩いて行つた。氏とは昨夜宵祭を見て歩いたのである。日本の話をした後で近日から自分が此画室へ油画の稽古に通はして貰ふ約束などをして、氏と別れてリユクサンブル公園へ入つた。そして、その近くのレスタウランで夕食を済して、また公園へ帰つて来た。一人一人に変化のある、そして気の利いた点の共通である巴里婦人の服装を樹蔭の椅子で眺めながら、セエヌ河に煙花の上る時の近づくのを待つて居た。七時半頃になつて街へ出たが、まだ飾瓦斯も飾提灯の灯もちらほらよりついて居ない。サン・ミツセルの通に並んだ露店が皆ぶん廻し風の賭物遊びの店であるのに自分は少し情けない気がした。河岸へ出るともう煙花の見物人が続続と立て込んで居る。警固の兵士が下士に伴れられて二間おきぐらゐに配置されて立つて居た。河下へ向いて自分等は歩いて居るのである。昼間歩いた向河岸に当る辺は見物するのに好い場所と見えて、人が多い。今夜は橋の上を通る人に立留ることを許されない。また遊覧船を除いた外の船は皆岸に繋がれて居た。振返つて見ると高台にはもう灯が多くついて瞬間に火の都となつた様に思はれる。自分等はルウヴル宮の横の橋を渡つて北岸で見物する事にしたが、待つて居るのに丁度程よい場所がない。ふと橋の下から掛けて左右に荷揚場の石だたみが広く河に突き出て造られてあるのに気が附いて、良人は其処へ降りやうと言つた。降り口の石段が二処に附いて居る。降りて見ると下にはまだ見物人が四五人より来て居ない。併し此処にも兵士が三人許り警固に置かれてあつた。何故だか橋を境にして左の方へは行くことを許されない。水際の石崖に腰を下すと、涼しくて、そして悲しい様な河風が頬を吹く。十分二十分と経つ中に河岸の上の人数が次第に殖え、自分達の場所を目掛けて降りて来る人も多くなつて行く。積んだ材木の上に初めは腰を掛けて居たのが、何時の間にか其上に上つて坐る人の出来る事なども、東京の夏の夜の河岸の風情と同じ様である。両国の川開きであるなどと、自分は興じて良人に言つて居た。九時半頃に、それは極く小さい煙花の一つがノオトル・ダムのお寺の上かと思ふ空に上つた。風でも引いては成らないからもう帰らうと良人が言つて、十時頃に三四発続いて上るのを見てから河岸の上へ上つた。丁度さうした頃から華美な大きい煙花が少しの休みもなしに三ヶ所程から上るやうになつたのである。自分等はまたルウヴル宮の橋の袂の人込に交つて空を仰いで居た。四種か五種の変化より無くて、日本のに比べては技巧の拙いことを思はせるのであるが、満一時間少時も休む間無しに打上げられる壮観は、煙花は消えるもの、楽しさとはかなさとを続いて思はせるものだなどとは、夢にも思はれない華美な珍らしい感を与へられるのであつた。二十分程のうちに其後の空に火の色の雲が出来た。最終のは殊に大きく長く続いてセエヌ河も亦火の河になるかと思はれる程であつた。今夜は辻待の自動車や馬車が大方休んで居て偶にあつても平生の四倍ぐらゐの価を云ふので、自分等は其処からゆるゆると※[#濁点付き井、293-4]クトル・マツセの下宿まで歩いて帰つた。途中の街々のイルミナシヨンの中ではオペラの前の王冠が一番好いと思つた。寝台へ疲れた身体を横たへ乍ら、街街の広場の俄拵への囃し場で奏して居る音楽に伴れて多数の男女が一対の団を作り乍ら楽しさうに踊つて居た事などを思つて、微笑んで居た。門涼みをして居る人達までもじつとしては居られない気持になつて、暗がりで手を拡げて踊る振をして居た事なども思ひ出された。女中のマリイは暁方の四時に帰つたと、次の日に話して居た。(七月十五日)
欧洲婦人の髪(晶子)
[#「欧洲婦人の髪(晶子)」は底本では「欧洲婦人の髪」]一体に西洋の女が何故さう毛が少いかと云ふと、其れは毛を自然に任せず、酷くいぢめ過るからである事は云ふ迄もあるまい。濃い珈琲を飲むからだと云ふ人のあるのは点頭き難い事である。生れ立てから十五六迄の女の子の髪は皆房房として居る。其れが焼鏝を当てる様になり、乃至「ヌマ」と云ふ曲つたピンに巻いて縮らす様になると、癖を附けぬ毛の三倍程も毛は膨れるが、其右に曲り合つた髪が真直な歯の櫛に梳かれる時に切れ落ちるのは是非もない。少くなれば一層多く縮らさなければならなくなつて、結局はみじめな髪になつて仕舞ふのである。髪を自然に垂して置く日本の或島の女が驚くべき美事な毛を持つて居るのは之と反比例である。
×
序に此頃の巴里の髪の形を紹介して置く。今多く結つて居る髷は毛を小く分けて指の先でふうわりと一寸程の高さの輪に巻いてピンを横に差して押さへた、機を織る杼の中の管糸巻の様なのを、多いのは二十程、少くとも十四五を円く並べた物である。それから其輪を大きくして横に三つ日本の三つ輪と同じ様な形を拵へた者もある。後ろに大きく一つ巻き上げたものもある。三つ組のくるくる巻も少しはある。又丸髷[#「丸髷」は底本では「丸髭」]の型と同じ様な物を中に入れて結つた種種な形もある。附髷をした時地毛の相当に残つた人は其れを後で二つに分けて髷の縁を巻くのである。さうでない人はリボンなどでも巻く。金属で巻く飾りも出来て居る。前髪を前で分けたり七三で分けたりしてあるのが若い女の頭で、四十以上の人は日本の廂髪と同じ形を好んでして居る。添毛をするのに一層勝手が好いからであるらしい。前に云ふのを忘れたが、髪結の店には白髪交りの附髷や鬘、全く白いのなども夥しくあるのである。それから前で分ける形の中に此間コメデイ・フランセエズ座の女優で三つに分けた人があつた。真中[#ルビの「まんなか」は底本では「まつなか」]が立ててあるから丁度日本髪の様であつた。
西洋婦人の様に真中で毛を分けて其毛で額を作つた形は日本の王朝の貴婦人も同じであつた事が想はれる。今の日本人の様に額を剥出しにして居るのは王朝の尼額と一緒である。若い尼が男と話して居るうちに後へ撫で附けた髪を前へ引いて、そつと額をつくるなどと云ふ事も何かで見た様である。今の日本婦人は額を作る事を忘れて居る。生際の好い人は其れでも好いが、さうでない人は何とか工夫を施したいものである。日本の様に剥出しにしなければならない事になつたら、巴里の美人の数は日本と同じ位にも減る事であらう。縮らせたりしない以上は髪が損はれる気遣ひも無いのであるから、出来る丈工夫して欲しいと日本婦人の為に自分は痛切に思ふのである。
自分も巴里で時時[#ルビの「とき/″\」は底本では「とき/\」]其床屋へ行く。其れは髪の毛が一本でも散ばつて居ないのを礼とする此処では自分で手際よく髪を持ち扱ひ難いからである。髪結は多く男である。瓦斯の火で※[#「執/れんが」、U+24360、299-1]くされた二挺の鏝が代る代る当てられる。鏝をちよんちよんと音させたり、焼け過ぎたのを醒す時に其鏝の片脚を持つてきりきりと廻したりするのが面白相である。そして櫛の目を髪に立てやうとは思はないのであるから、鏝を当てると直ぐ手で上へ差櫛で止めて、やがて護謨の紐で其れが結ばれ、自分の髪は三つに組まれて投げる様に輪にされる。其れが極めて和かに組んであるのと、横に立てて上すぼみの輪にされるのとでピンで止めた時は或一種面白い形の物が[#「物が」は底本では「物が」]寄集つて居る様になるのである。それから頭全体が目に見えない様な極繊い毛網で包まれる。毛が一筋も零れないのも道理である。種種の髷が自分の居る傍で結はれるのであるが、心に入れる毛(此処では云はないが、それを英国辺りでは其形から聯想して「死んだ鼠」と仇名を呼んで居る相である。あなたの傍へ寄ると鼠の香ひがしますよなどと男が戯談を云ふと云ふ事である。)だの、かもじだの、髷形などを皆持つて来る。かもじは初めから三つに組んで置いて地毛の束髪の外を巻く様である。かもじの価も日本の十倍位するのである。首筋の辺りで髪を切つて、そして唯縮らせて垂らした人もあるが、さう云ふ人も床屋へ来て網を掛けさせて居る。髪を洗はせて瓦斯の火力で煽られて乾かし、そして直ぐ髪を結はせる人もある。自分は此頃マガザンで毛網を買つて来て独りで結ふ事が多くなつた。然し乍ら後れ毛があつても咎める事のない気楽な日本へ早く帰りたいと思つて居る。(八月十八日巴里にて)
私等は五時頃にリユクサンブル公園を出ました。私が油絵を外へ描きに出るやうになつてこれが三度目です。
「絵の具が身体中に附いて居るやうな気がして気持が悪いんですよ。」
私は五六歩先に歩いて居る良人に追附いて斯う云ひました。
「さうかい。」
と云つて、良人は私の方を向きました。
「穢いのねえ。」
私はテレピン油で拭いた後のグリインの浸染んだ掌を開いて良人に見せました、
「リラへ行つて洗ふさ。」
と良人は云ひました。
「さうしませうね。」
と云ひながら私も一緒に足早に歩いて行きました。
「それからあの辺で夕飯を食べて徳永君の処へでも行かうか。」
「ええ。」
と私は云つて居ました。海馬の噴水の横から道を斜に行くともう白に赤の細い縁を取つたリラの店前の張出した日覆が、目の前でぱたぱた風に動いて居ました。
良人は張出しの下の一つの大理石の卓を選んで水色の椅子に腰を掛けました。私は絵具箱を良人の横の椅子に置いて家の中へ手を洗ひに行きました。
人が物を云ひ掛けますと私はいい加減に、「セツサ」とか「メルシイ」とか「ウイ、ウイ」とか云ひながら良人の傍へ出て来ました。何時の間にか画家のSさんが来て良人の向ひの椅子に居ました。
「奥様、お暑いですね。」
「お暑う御座いますねえ。」
私はSさんにかう云ひながら絵具箱を下へ降して其の椅子へ腰を掛けました。Sさんの白い顔が今日は目に立つて青味を帯びて居るんです。私は直覚的にSさんは今日何か不愉快なことに逢つたに違ひないと思ひました。先に良人に云ひ附けられました珈琲を二つ卓の上へ運んで来ましたギヤルソンに、Sさんは、
「ウヰスキイ」
と云つて、持つて来ることを命じました。こんなことも何時もとは違つたことなんです。Sさんは良人と同じ京都の人で、評判の柔順しい人交際の好い人なんです。米国の或家庭へ傭はれて其処で仏蘭西に三年間居るだけの学資を作つて巴里へ来た人なんです。親孝行な人で毎月学資の中から日本へ逆に送金して居ると云ふ噂もありました。
Sさんはウヰスキイを半分程飲んだ時、
「奥さん、西洋人の親と子は接吻をしますね、西洋人の親子はさうして肉体が触れるのですね、僕等は日本へ帰つたらゆきなり親父にぶん撲られるんです、さうしてそれが親子の肉体が触れる時なんです。」
と云ひました。
杜鵑亭(レスタウラン・ド・クツクウ)は巴里にある一つの伊太利亜料理店である。モンマルトルの高い所に白い凄じい大きい姿を見せて居るサクレエ・クウル寺の近くにあるのである。
プツティイ・パリジヤンの記者のフアロウさんの家のお茶に呼ばれた日の夕方、其処を出た自分等夫婦は杜鵑亭を未だ御存じでないやうに伺つた松岡曙村さんに晩餐をその家で上げることに同意して頂いた。
巴里の道ももう此辺はアスフワルトでもなければ切石を敷いた道でもない。清水の三年坂程の勾配を上る靴はかなり迷惑な土ぼこりを身体に上げる。八月の中頃であるから未だ暑さも一通りではない。左側に続いた赤い煉瓦塀の家の中で先づピヤノの音がする。主人達が避暑に行つた跡を預かつた用人の娘か小間使の手すさびの音とも聞かれる。右手は千駄が谷辺で貸地と云ふ札などのよく立てられてある処のやうな広い唯の土のでこぼこである。正面の崖の上は籠つた木立になつて居る。曙村さんは優しい方で、
「お苦しいでせう、奥さん。」
とばかり云ひ続けておいでになつた。[#「なつた。」は底本では「なつた、」]踵の上つた靴も穿かない草履穿で今日も出たなら疲れはもつとひどかつたかも知れないと、上り切つた処で立ち留つて息を突きながら思つた。人通りなどの殆どない心安さに、扇を出して使はうとすると、
「もう直ぐ其処ぢやないか。」
と良人が苦い顔をして急き立てた。もう此処はサクレエ・クウル寺の寺域なのである。絵葉書とか、この寺の絵を模様に附けた陶器とか、十字架とか、キリストの像とかを売る露店が四五軒出されてあつて客を待つて居る前を通つて行く。陶器の中の品は何であるか濃い紫地に金で彩つたものが甚しく頭を刺激した。本堂を半円に廻つて後へ出た。まだ実は普請の出来上つてない処などが気附かれる、寺院らしい[#「らしい」は底本では「らして」]威厳の少しも見出されない建築は其色とともに不愉快なものの象徴のやうである。誰も名所巡りの客でないから振向いても見ずに街の方へ足を早めた。
場末街らしい小さい床屋に黄色くなつた莢隠元や萎びた胡瓜の淋しく残つた八百屋、廉い櫛や髪針の紙につけたのから箒、茶碗、石鹸などまでを並べた荒物屋、洗濯屋などがみじめに並んだ前の道では、さうした家家の女房子供が出て居る。皆穢い姿をした中にも男の子は目立つた襤褸で身を包んで居る。自分等がこの道の方から上つて来たのは今日が初めであつたから、少し道が違はないかなどとも危ぶまれたのであつたが、其処を横切つて南北の中位の幅の道に出ると直ぐ見知りの空地があつた。今日もテニスをする女学生の姿が見られた。七八間歩くともう杜鵑亭の前の空地へ出た。その南北の通りは空地の前まで続いて居るだけで尽きて居る。道はあるがそれは石段になつて居るのである。愛宕山程の石段が四段程も附いて居て、此処を降りれば帰りは十息かそこらの間にクリツシイの通へ出られるのである。石段の口からは巴里の半が絵のやうに見える。ルウヴル宮の大きいのとオペラの図抜けた屋根とが何時も乍ら磁石の役をして自分などにも彼処此処が何の所在と云ふ事が点頭かれるのである。ふらふらと風に散つて居る雲もある。未だ土の上には斑に日影が残つて居て午後六時頃かと自分は一人で思はれるのであつた。杜鵑亭の食堂の一つの卓を自分等は選んで席に着いた。杜鵑亭の食堂は即ち道の入り込んだ空地なのであるから十四五分して小さい料理店の家の中から客を見附けた給仕女が布巾を持つて出て来て卓を拭く。酒だけを飲んで行くのか、食事をするのかを聞いた後で、食事がしたいのだと分ると白い卓覆ひを持つて掛けに来る。卓の数は五六十あるがまだ外に相客はない。今に家の中から古卓古椅子を運び出さないと席が不足する迄に到らうとは一寸想像が出来ないやうである。
空地の正面の突当りは大きい家の塀で、其処の入口は料理店の直ぐ左にあるのである。塀には蔦が心地よく這ひまつはつて居る。左の家並が三軒程に分れて居るがどれも低さの同じ程の二階建の間口の余りない小さい家である。一番奥になつた最も小さいのが料理店である。田舎めいた赤地に白の格子縞のある窓掛をして、硝子戸の外に葵の花が三鉢づつ程並べられた窓が二つあるが、人があれで立つて居ることが出来やうかと思はれる程の低い二階である。下の入口から中は暗くて見透かされないが、やはり小さい卓の四つ五つは土間に置かれてあるやうである。それから門口に藤棚のやうにして藪からしが沢山這はせてある。こんな曲りかけた家などに配合すると藪からしの太い蔓も忍草よりもはかない風情が見えないでもない。道の向ひの塀の隣りで、此処とは筋向うの鼠色の家の一番上殆ど家根とすれすれの処に一つきりある窓から十六七の少女が顔を出して先刻から曙村さんを手真似などでからかつて居るのてあつた。空地の左の大きい高い家は思ひ切つて酒落れて建てられた家で、家の壁にはいろんなモザイク模様がある。石段の直ぐ脇になつて居る門の二つの柱には鬼のやうな恐い顔が描かれてゐる。顔は茶色でそれを囲つた桂の葉は萌黄で地の塗りは灰色がかつたお納戸である。塀は態とらしく庭の中から伸び余つた蔓草であつさりと緑の房を掛けさせてあるのである。これは絵師の家であると云ふことは前に聞いたことがあるので自分は知つて居た。そして其絵師が未だ独身の変り者であると云ふことも何故だか知つて居た。
自分は少し寒くなつて来た。暑いと云ふ心地の忘られたのは此処へ着いた時からなのであらうか、市中を見下して居た時の涼風からか、よく意識しない。自分は前に来た時寒いであらうと云つて夜が更けてからであつたが給仕女が貸して呉れた白い毛糸の肩掛のことを思ひ出した。気味悪さに着るにもよう着ないで居た自分の姿が可笑しく目に浮ぶのであつたから寒いなどとは誰にも告げやうとはしなかつた。自動車が出て来たから此処の客かと思ふと、さうではなくて石段に尽きた道に失望して引返すのであつた。三人伴れが一組来た。男ばかりである。漸く最初のメロンが運び出された。メロンは唐茄子のやうな形も中味の色も有つた真桑瓜に似た味の瓜で氷で冷してあるのを皮を離して砂糖を附けて食べるのである。五色の藁の苞で半包まれた伊太利亜の赤い酒も来た。鼠色の家の子供が道に出て来て曙村さんを指差して笑ふ。二階に居た娘の妹などであるらしい。絵師の家の門が開いて黒い服の女が出て来た。後から出て来て門の前に更にある低い柵の木戸の錠を開けて握手して客と別れて居たのが画伯であるらしい。三十余りの姿の好い女は何か独笑をして石段から隠れて行つた。帽に附けてあつた桜実の赤さが何故かいつまでも頭に残つた。夕雲と思つた美しい空の色が次第に藍気を帯びて来て鼠色の家の上の窓なども定かに見えなくなつて来た。小さい揮発油のかんてらが七八組になつた客の卓にそれぞれ置かれた。風にあふられて青い火を出す時、肌の寒さと共に苦い心細さが胸の底から首を出するのを覚えた。
一尺程の大きさの伊勢海老が持ち出され、薄黄の色のソオスが白い磁の器に入れられて来たので貧乏ぶるひをするやうであつた卓もいささかの花やかさが加はつた。馬車で来た一組の中に、白い羽の帽子を被た二十四五の飛び離れた美人があつた。巴里人であることは云ふ迄もないが、伴れの男達は皆英人であつた。直ぐ自分等の隣で絵師の家の塀際の卓に着いた。後の方では頻りに独逸語の話が交されて居た。かんてらの数が多くなる程ますます食堂は暗くなつて行く。何時の間にかもう客の数は百に多く余る程のものになつて居る。この間白い肩掛を借りて着て居る女客を自分は暗い中に透し見て知つて苦笑した。
絵師の家の主人が出て木戸の錠を下して出掛けて行つた。先刻の女客の行つたと同じやうにまた石段から直ぐ隠れてしまつた。
「早く家根の下へ入りたい。」
赤い酒に少しお酔ひになつた曙村さんは頸をすくめながらかうお云ひになつた。
「なかなか此処の連中は気が長いから溜らないね。」
と良人も自分に云つて居た。マカロニが湯気を立てて来た。星が踊場の灯のやうに上に白く数多く輝いて居る。そしてそれの余り遠いのを笑止に思つた。自分の足元の見えないやうな所に居ることは巴里であるだけ心細くも覚えるのであらう。
自分は沢山の石段を降りる快さなどを思つて見た。急に明るいクリツシイ通に出て行きつけの珈琲店へ入つて行くことも思つて見た。其処の演奏者の中の大きいハアプの琴を真中に居て弾いて居る女を伊太利亜美人だと云つて、毎夜あちこちの柱の陰から男の目が覗くその人気者の顔を心に描いても見た。ハアプ弾きの持つて居る美は丁度今夜の空のやうな冷え冷えとしたものであるなどと批判して思つたりなどもして居た。
家の中の灯は藪からしの繁りを美しくして見せた。二階からはぼんやりした明りよりさして居ない。真実に冷くなつて来た。白い卓覆ひに指が触れると少し身慄ひの起るのを覚えられる。自分の背にして居る方の塀越しに大きいマロニエが自分の臆病心をおびやかして居る。巴里の一番高い土地の杜鵑亭へ食事をしに来ることももう終りの度になるかも知れない。秋になるから。(八月十日)
巴里は七月の中頃から曇天と微雨とが続いて秋の末方の様な冷気に誰も冬衣を着けて居る。此陰鬱な天候に加へて諒闇の中に居る自分達は一層気が滅入る許りである。御大葬の済む迄は御遠慮したいと思ふので芝居へも行かない。独逸から和蘭へかけて旅行しようと思ふが雨天の為に其れも延び勝ちである。
和田三造さんから切符を貰つたので巴里の髑髏洞を一昨日の土曜日に観に行つた。予め市庁へ願つて置くと毎月一日と土曜日と丈に観ることが許されるのである。自分は一体さう云ふ不気味な処を見たくない。平生から骨董がかつた物に余り興味を持つてない自分は、況して自分の生活と全く交渉の無い地下の髑髏などは猶更観たくないが、好奇心の多い、何物でも異つた物は見逃すまいとする良人から「自動車を驕るから」などと誘かされて下宿を出た。零時半の開門の時間まで横町の角の店前で午飯を取つて待つて居ると、見物人が自動車や馬車で次第に髑髏洞の門前に集つて来た。中に厚紙の台に木の柄を附けて蝋燭を立てた手燭を売る老爺が一人混つて居る。見物人は皆其れを争つて買ふのである。其内に和田三造さんと大隅さんとが平岡氏夫婦を案内して馬車を下りるのが見えた。自分達もレスタウランを出て皆さんと一緒に成つた。
群集は門衛に切符を渡し、一列に成つて電灯の点いて居る狭い螺旋形の石階を徐徐と地下へ降り始めた。戯れに御経を唱へ出す男の群があつて皆を笑はせた。日本ならば念仏と云ふ所であらう。凡そ三百段も降りた時いよいよ闇穴道の入口に差掛つて、其処には鬼ならぬ一人の巡査がカンテラを持つて立つて居る。人人は其カンテラの前に立留つて蝋燭の火を点けた。
洞は三縦列に成つて歩く事の出来る広さで、上は普通の家の天井よりも高く、其れが一面御影質の巌石で掩はれて居るのを見ると巴里の地盤の堅牢な事が想はれる。下は白い砂を敷いた様な清潔な道が両壁の巌から自然に沁出る水があるのか少し湿つて居る。洞の左右には処処に暗い大きな龕が掘られて居て、人人は蝋燭を其中へ差入れて覗いたが何物も見えなかつた。石壁の上に地上の街の名が書かれて其れが度度変るので凡そ三町も屈折して歩いて居る事が解つた。死の世界にも人間界の街の名が及んで居るのを可笑しいと思つた。
或龕の中へ身を片寄せて二三間後に成つて居る和田さんと良人とを待ち合せた時、幼い時に聞いた三途の河の道連の話を思ひ出すのであつた。又半町程行つて二十畳敷許りの円い広場へ出たと思ふと、正面に大きな厳しい石門が立つて居る。石門の中も亦広場になつて居て、更に第二の石門が闇の口を開くのに出逢ふ。是からが髑髏洞の奥の院である。門を入つて右に折れると洞の屈曲は蠑螺貝の底の様に急に成り、初めて髑髏の祭壇が見られる。飴色や暗紫色をした肋骨と手足の骨とが左右に一間程の高さでぎつしりと積まれ、其横へ幾列にか目鼻の空ろに成つた髑髏が掛けられて、中には一つの髑髏を中心として周囲に手足の骨で種種の形に模様づけられたのもある。千九百幾年に何処の墓地で掘出したと云ふ様な事が一区域毎に記されて居るのは、巴里の市区改正や地下電車の土工の際などに各墓地から無縁の骸骨を集めたからである。多少知名な人人の遺骨で改葬すべき子孫の無い物は特に墓標が設けられて居る。之が凡そ五町程も続くのであるが案外に不気味で無い。或人は手際よく積まれた手足の骨を見て日本の薪屋の前を通る様だと云つた。如何にも其様な感じがするに過ぎない。死に対する厳粛な感念などは勿論起りさうに無かつた。和田垣博士が曾て之を評して「巴里人は髑髏を見世物扱にして居る」と批難せられたといふのは尤もである。
先に立つた見物人が足を留めて故の墓地の名や偶ある墓標の主の姓氏を読んだり、又英米の旅客が自身の名を石壁の上に留めたりするので生きた亡者の線は幾度か低徊する。自分は手燭の火で前の女の帽の縁や裳の後を焼きはしないかと案じる外に何の思ふ所も無かつた。不気味と云へば倫敦の博物館の数室で見た埃及の木乃伊の幾十体の方が何程不気味であつたか知れない。髑髏洞の尽きた所にある二つの石門を潜つて更に一町程の闇穴道を過ぎ、再び螺旋の石階を昇ると、初めの入口から七八町も遠ざかつた街に出口が開かれて居た。買つた蝋燭は殆ど燃え尽きて居る。皆出口に置いた箱の中に手燭の儘捨てて出るのであつた。曇つた大空を馬車の上で仰いでほつと新しく呼吸した時、自分は地上ならぬ世界の暗黒などん底を一時間余りも歩んだ経験を愉快に思つた。(八月二十日)
自分の思郷病は益人目に附く迄劇く成つた。其れで土地が変れば少しは気の紛れる事もあらうと良人に勧められて不順な天候の中に強ひて独墺及び和蘭陀の旅を思ひ立つのであつた。ナンシイ市を過ぎて仏蘭西の国境を離れた汽車の中で二人は初秋の夜寒を詫びた。自分は三等室の冷たい板の腰掛の上で良人の膝を枕に足を屈めて辛うじて横に成つて居た。心に上る物の凡てが灰色を隔てつつ眺められるのは今夜に限らず近頃の病的な心の癖である。
海底の砂に横たふ魚の如身の衰へて旅寝するかな
眠ること無くてわが見る悪しき夢うとましき夢数まさり行く
とり縋る児等の諸手のまぼろしは無残と呼びて母を追ひ来る
欧羅巴の光の中を行きながら飽くこと知らで泣く女われ
青白き天つ日一つわが上を照して寒し外に物無し
子を捨てて君に来りしその日より物狂ほしくなりにけるかな
わが心よし狂ふとも恋人よ君が口より教へ給ふな
朝着いたミユンヘン市には小雨が降つて居た。モツワルト街のヒルレンブラント夫人の家を訪うて二階の扉の鈴を押した時、在留の日本学生から「日本婆さん」と謂はれて居る物優しい老夫人が自ら出迎へて呉れた。良人が仏蘭西語でドクトル近江の住所は何処かと尋ねて居ると、其時偶然隣の扉を開けて黄八丈の日本寝巻の儘石鹸の箱と手拭とを提げ乍ら現れた人は近江さんであつた。去年良人の出発した時自分は横浜から同じ船で神戸迄見送つたが、其時初めて自分達は近江さんにお目に掛つた。文学好の此青年医学士は特に良人の乗る船を択び、部屋迄も同じ部屋を択んで渡欧するのであると語られた。若い美しい其夫人が横浜での別れに泣崩れて居られたのは今も目に泛ぶ様である。近江さんが近頃下宿を此処に変へられた事を知らぬ自分達は其奇遇に驚いたが、氏のお世話で直に此家の一室へ落附く事が出来た。
ミユンヘンは第一衛生上の設備が行届いて市街の清潔な事の著しい都である。下水工事の完備して居る点などに就て近江さんから色色と説明を聞いた。四十年前迄窒扶斯の巣窟と云はれた此地が、今では医科大学での臨床材料として毎年一二の窒扶斯患者を得る事すら甚だ困難な相である。建築を初め何事にもどつしりとした趣に富んで居るのは、之が独逸流なのであらう。珈琲店の椅子一つでも頑丈な木に革を張つて真鍮の太い鋲で留めてあると云ふ風である。重苦しい趣味が幾分支那に似て居ると自分は感じた。大通から少し横へ這入れば何の家も四方を庭園で繞らし、蔦などを窓や壁に這はせた家も少く無いのは仏蘭西と異つて居る。花壇の花迄が仏蘭西の様に繊巧で無く「意志の華」とでも言ひたい様に底力のある鮮かな色をして居る。古い都丈に建築が寂びて居て清潔な割に生な感を与へないのも好い。独逸は南北に由て風土にも人情にも差があると聞いて居たが、南独逸の精粋であるミユンヘンは自然の景勝も人づきあひも自から仏蘭西に似た所が多い様である。
学問に於て伯林や維納に対峙して居ると云はれるこの都は、更に芸術に於て独墺両国中に卓出して居ると云ふ事である。音楽は聞く機会が無かつた。設ひ機会があつたとしても、知らない事の多い自分の最も知らない物は欧洲の音楽であるから一辞をも着け得べきで無いのは勿論である。自分達は幾つかの美術館を訪うて、ラフワエル、チチアン、ベラスケツ、ムリリヨオ、リユウバンス、ン・ダイク等外国の傑作の多く集められて居るのに益を受けた許りか、レンバツハ、シユインド、フオオエバツハ、ベツクリン等独逸近代の大家の名品に初めて接する事の出来たのを嬉しいと思つた。自分はムリリヨオの果物を食べて居る少年の図の四枚ある前から暫く立去る事が出来なかつた。又ベツクリン其他独逸近代の大家の作品は其理想主義と云ひ其手法と云ひ自分には李太白の詩を読む心地で遠い世界へ引入れられる感がした。五月から十月迄開かれて居ると云ふ新しい絵の展覧会をも観た。よく選抜されて居るので駄作は無い様であるが特に目を引く物は無かつた。多く近世独逸派の踏襲で無ければ仏蘭西印象派の模倣であると良人は評して居た。
近江さんに案内して頂いて自分達はイザル川を横ぎり森の中を雨に濡れ乍ら歩いた。川は石灰を融した様に真白な流れが激して居た。森には種種の樹が鮮かに黄ばんで居る。真赤に染んだのも稀に混つて居て其度に日本の秋を想はせた。
目の白く盲ひたる群の争ひて走るが如きイザル川かな
イザル川白き濁りに渡したる長き橋より仰ぐ夕ぐれ
うら寒く錫のやうなる雨降りぬイザルの川の秋の切崖
如何ばかり物思ふらん君が手にわが手はあれど倒れんとしぬ
青き枝こがねの繍をおける枝朱を盛れる枝雨の流るる
其処此処に紅葉の旗を隠したる木深き森の秋のたはぶれ
事無さにイザルの森をさまよふか雲居の外に子等は待たぬか
何事に附けても東京に残した子供の思ひ出されるのが自分の思郷病の主な現象であり又基礎となる物である。此ミユンヘンの宿で湯に入つて居て、ふと洗つて遣る子供等が傍に居ない事を思うて覚えず自分は泣くのであつた。我ながら随分辛抱強いと考へて居た自分が今では次第に堪へ力が無くなつて行く。子供の名を一一声に出して喚ぶ事なども近頃は珍らしく無い。勿論其れは唯一人居る時の事であるが、時には良人の前でも思はず口を開くのである。其度に気が附いて自分は次第に発狂するのでは無いかと思ふと怖ろしさに身を慄はさずには居られない。良人は或は叱つたり或は賺したりして自分の気鬱症を紛らさせやうと力めて居る。自分は斯様な妻を伴れて欧洲を旅行する良人が気の毒でならない。其れで度度一人で先に日本に帰らうとも思ふのである。
哀しみは遠き窓より我に来ぬ夜を催す黒雲の如
恋人と世界を歩む旅に居てなどわれ一人さびしかるらん
わが脊子よ君も物憂し斯かること言放つまで狂ほしきかな
宿の近くにババリヤ公園があつて、其処にバイエルン国の精神を表示した女神像が立つて居るが、徒に巨大な許で少しも崇高な感の起らない物である。自分は絵にしても彫像にしても余りに大きな物は却て空虚な心地がするので好まない。大作と云ふ物が物質的の容積と比例すると思ふ様な迷信を早く世界の上から無くしたい物である。一年一度の賑ひであると云ふ十月祭の用意に、東京の青山練兵場を半分にした程の公園が見世物小屋の普請で一杯に成つて居る。靖国神社のお祭の見世物小屋が一週間前から用意せられるのに比べて、一箇月も前から永久の建築物かと思はれる位頑丈な普請を念入にして居るのは矢張独逸流の遣方であると思つた。公園の後の高台に工業博覧会が五月以来開かれて居た。自分は宿のバルコンを掩うた蔦紅葉を写生する気に成つて絵の具弄をして居たので観に行かなかつたが、観て来た良人は其博覧会の実質に富んだ事を讃めて居た。自動車に乗つてニンフンブルグに在る離宮を観に行つたが、之は仏蘭西のルサイユ宮の庭園を模して及ばざる物であつた。其よりも自分の面白いと思つたのは王立醸造場の夜の光景である。ミユンヘン麦酒の産地丈に大きな醸造場が幾つも有つて何の醸造場でも大きな樽から直に生麦酒を杯に注いで客に飲ませるのであるが、中にもバイエルン王の自ら営んで居られる大醸造場は外観の宏壮な事が劇場の如く、内は階上階下の二室に別れて併せて五千人の客を入れ得る装置が出来て居る。階下は労働者の室であり、階上は他の階級の客の室である。昼の間は稀にしか客を見受けないが、日が暮れ初めると次第に各階級の人人が加はつて十時頃には早座席が無くなり立ち乍ら杯を手にする人も少く無い。その杯は頑丈な陶器で出来て居て側面に王冠の模様を焼附け、同じく頑丈な把手と蓋とが附いて居る。階上の室には音楽の壇があつて独逸の名家の曲を初め各国の音楽が入替はり奏せられる。波波と注いだ杯を前にし、其等の音楽を聞き乍ら皆呑気に夜を徹する。一種の特色ある菓子麺麭や軽い幾品かの夜食を取る事も出来るのである。良人は毎夜此処に遊んで殊に階下の室の労働者で一杯に成つて居る光景を喜んで居た。自分が近江さんに伴はれて階上の室へ行つた晩は四五人の日本学生の人人の外に、日本学生の語学教師であるエエドル嬢も一緒であつた。麦酒を唯苦い物だと思つて居た自分にも此王立醸造場の麦酒は好い味の物に感ぜられた。此処へ来る事は恥で無いので立派な風采の客も相応に多い。若い令嬢を伴れた親達も見受けられた。王立の酒舗と云ふのは如何にもミユンヘンに限つて有る世界唯一の名物であらう。(九月一日)
汽車で渡つたドナウ河は濁つて居た。加特力教のユウカリストの大会があつて六十万人の信者が諸国から入込んで居る維納へ、其れとは知らずに着いた風来の自分達は宿の無いのに困つた。ミユンヘン大学のドクトル試験に及第して猶此処の病院で研究を続けて居る深瀬さんのお世話で日本人に縁の深いパンシヨン・バトリヤの一室に漸と泊る事が出来た。自分達と前後して土耳其から着いた外務省の留学生の某さんは自分達が出立した後の部屋へ泊られる積で、其迄は隣の杉村医学士の部屋の長椅子で寝て居られた。此下宿の主婦も日本婆アさんと呼ばれて居るが、ミユンヘンのヒルレンブラント婦人に比べられる様な親切な人柄では無かつた。
来た折が生憎なのか墺地利の首都として予想して居たのに反し優雅な趣に乏しい都である。何となく田舎らしく又何となく東洋じみた都である。勿論之は二三日の滞在に外観を一瞥した丈けの感じであつて、其学問芸術の方面に伯林を圧する力を持つて居ると云ふ最近の維納の内景に到つては容易に窺ひ得べくも無かつた。
どの街も屋根と云ふ屋根から黄色の長い旗がお祭の為に靡いて居る。黄色計りでなく黄色に赤や黒や緑を配した旗である。其下の人道を胸の辺に真鍮の徽章を附けた善男善女の団体が坊さんに伴れられて幾組も練つて歩き、電車も皆其団体で一杯に成つて居る。どのお寺も黄色の旗と常緑樹の門とで、外部を飾り、其内部の壮厳は有らゆる美を尽して、いろんな法衣の坊さんと参拝者と香煙と灯明とで満ちて居る。黄色の旗と巡拝者とで埋まつた此都は何となく西蔵とか印度とか云ふ国へ来た感を起させるのであつた。
羅馬法王から此大会に寄越した使節僧の一行を皇帝自身に迎へられる儀式があると云ふので、其日の見物の桟敷が王宮の前にも内庭にも黄いろい布を張つて設けられてあつた。自分は西班牙の闘牛場の絵を観る様な気持で、其れ等を眺めて通つた。どの街も雑沓して居たが王宮の内庭を横断してステフワン寺へ抜ける間が殊に甚だしかつた。皇帝の御居間の直下に当ると云ふ広場などは人間の塊で身動きの成らぬ程であつたが、自分達は自動車に乗つて居たお蔭で辛うじて通り抜ける事が出来た。
道路はミユンヘンと反対に不潔である。市の中央を円く囲んだリンクと云ふ大通は建築も立派で殊に王宮、議事堂、大学、オペラ、新古の両博物館などの集つて居る辺は小巴里の称に負かないとも想はれた。併し博物館は観るべき物に乏しかつた。市の外れにある離宮センブルンは仏蘭西のルサイユを真似たものであるが、芝草の青青とした三笠山の様な丘の上にある層楼の石の色を夕暮に見上げた感じは好かつた。此処では流石に欧洲の覇者であつた昔が追憶ばれた。
自分達は此地で明治天皇陛下の御大葬の当日を過した。折悪く風を帯びた寒い雨の降る朝であつた。二人は徒歩で博物館へ行つて人込の中を分けつつ絵を観たが、定められた十一時少し前に馬車を急がせて日本大使館へ行つた。大野書記官の部屋でお話をして居ると、階上の室で最後の御別れに御聖影を拝し奉る時間が来た。集つた者は秋月大使始め十七八人であつた。自分は御聖影のおん前に何か祭壇が設けられて居るであらう、白絹や榊で斎ひ清められて居るであらうと想つて居たが少しも其辺の用意が見え無かつたので、一方に満都の加特力教徒が荘厳な宗教的儀式に※[#「執/れんが」、U+24360、330-11]狂して居るのに比べて甚だ物足らなかつた。そして又斯かる場合に猶官位に由つて礼拝の順序を譲り合ひ、其れが為に自分達に迄少からぬ時間を空費せしめた官人の風習を忌忌しく思つた。
高く、濶く、奥深い穹窿の、
神秘な人工の威圧と、
沸沸と迸る銀白の蒸気と、
濛濛と渦巻く煤煙と、
爆ぜる火と、哮える鉄と、
人間の動悸、汗の香、
および靴音とに、
絶えず窒息り、
絶えず戦慄する
伯林の厳かなる大停車場。
ああ此処なんだ、世界の人類が、
善の代りに力を、
静止の代りに活動を、
弛緩の代りに緊張を、
平和の代りに戦闘を、
涙の代りに生血を、
信仰の代りに実行を、
自ら探し求めて出入する、
現代の偉大な、新しい
人性を主とする寺院は。
此処に大きなプラツト・フォオムが
地中海の沿岸のやうに横はり、
その下に波打つ幾線の鉄の縄が
世界の隅隅までを繋ぎ合せ、
それに断えず手繰り寄せられて、
汽車は此処に三分間毎に東西南北より着し、
また三分間毎に東西南北へ此処を出て行く。
此処に世界のあらゆる[#「あらゆる」は底本では「あらゆを」]目覚めた人人は
髪の黒いのも、赤いのも、
目の碧いのも、黄いろいのも、
みんな乗りはづすまい、
降りはぐれまいと気を配り、
固より発車を報らせる鈴も無ければ、
みんな自分で検べて大切な自分の「時」を知つて居る。
どんな危険も、どんな冐険も此処にある、
どんな鋭音も、どんな騒音も此処にある、
どんな期待も、どんな興奮も、どんな痙攣も、
どんな接吻も、どんな告別も此処にある。
どんな異国の珍しい酒、果物、煙草、香料、
麻、絹布、毛織物、
また書物、新聞、美術品、郵便物も[#「郵便物も」は底本では「郵便物も」]此処にある。
此処では何もかも全身の気息のつまるやうな、
全身の筋のはちきれるやうな、
全身の血の蒸発するやうな、
鋭い、忙しい、白※[#「執/れんが」、U+24360、334-13]の肉感の歓びに満ちて居る。
どうして少しの隙や猶予があらう、
あつけらかんと眺めて居る休息があらう、
乗り遅れたからつて誰が気の毒がらう。
此処では皆の人が唯だ自分の行先許りを考へる。
此処へ出入する人人は、
男も女も皆選ばれて来た優者の風があり、
額がほんのりと汗ばんで、
光を睨み返す様な目附をして、
口は歌ふ前の様にきゆつと緊り、
肩と胸が張つて、
腰から足の先までは
きやしやな、しかも堅固な植物の幹が歩いてる様である、
みんなの神経は苛苛として居るけれど、
みんなの意志は悠揚として
鉄の軸の様に正しく動いて居る。
みんながどの刹那をも空しくせずに、
ほんとに生きてる人達だ、ほんとに動いてる人達だ、
みんながほんとの今日の人達だ、ほんとの明日の人達だ。
あれ、巨象の様な大機関車を先きにして、
どの汽車よりも大きな地響を立てて、
ウラジホストツクから倫敦までを
十二日間で突破する
ノオル・エキスプレスの最大急行列車が入つて来た、
怖しい威風を持つた機関車は
今世界の凡ての機関車を圧倒する様にして駐つた。
ああわたしも是れに乗つて来たんだ、
またわたしも是れに乗つて行くんだ。
(一九一二年、九月十四日)
自分達は伯林に五日滞在した。何となく支那風に重苦しい、そして田舎者が成り上つたやうに生生しい凡ての感じは、其れ以上滞在して居られない様な気がした。併しこんな気がしたのは伯林の皮相ばかりを忙しく一瞥した為であることは云ふ迄もない。独逸語が少しでも解つて、そしてせめて三月でも此処に留ることが出来たら北独逸の生活の面白さが少しは内部的に解つたであらう。兎に角五日位の短い滞留の間に伯林から受けた表面の印象はミユンヘンやヰインに比べて反対に面白くないものであることを正直に述べて置く外はない。
市街の家屋が五階建に制限せられて居るのは、規則づくめな日本に慊らない自分達に取つて第一に窮屈で、また単調で、目の疲労を覚えた。
北独逸の人は男も女も牛の様に大きく肥つて一般に赤面をして居る。巴里や倫敦では自分達と同じ背丈の、小作な、きやしやな人間の方が多いのに、此処ではどの男もどの女も仰いで見ねばならない。断えず出会ふ人間から威圧を受ける気がする。
其れから、どの建築も、どの道路も、どの家具も、皆堂堂として大と堅牢と器械的の調整とを誇つて、其れが又自分達を不愉快に威圧する。仏蘭西風の軽快と洗錬との美を全く欠いた点がやがて独逸文明の世界に重きをなす所以であらうが、自分達の様な体質や気質を持つた者には容易に親みにくい文明である。建築の外観の宏壮なのも、実は近寄つて見ると巨石を用ひた英仏の古い奥ゆかしい建築と異つて、概ね人造石で堅めてあるのでがつかりする。どの博物館も新式の建築術を用ひて間取や明り取りの設備には敬服させられるが、陳列品に自国の美術としては殆ど何物をも有つて居ないのは気の毒な程である。併し仏蘭西の印象派や最も新しい後期印象派の絵までが蔵められて居るのには感服した。
伯林の女は肥満した形が既に美でないのに、服装も姿態も仏蘭西の女を見た目には随分田舎臭いものである。
女の帽子針の尖に鞘を篏めて居るのは、仏蘭西の女が長い針の尖を危険くむき出しにして居るのと異ふ。衛生思想が何事にも行亘つて居るのはさすがに独逸である。
ウンデル・リンデンの並木路を美しいと聞いて居たが、其れは巴里のシヤンゼリゼエを知らない人の言ふことであつた。
自分達は澤木梢さんと其友人の西村さんとに伴れられて度度ポツダム・プラアツの角にあるロステイと云ふ珈琲店へ行つた。一つは其処へよく遊びに来ると聞いて居た画家のルンプさんに逢ひたかつたのであるが、折悪く一度も逢はなかつた。或日其隣の何とか云ふレスタウランで澤木さん達と晩餐を一緒にしたが、其処の建築は珍しく一切木造で出来て居て、用材は各館共何と名を云ふのか、黒檀質の立派な木である。其一室の如きは二抱へもある四角な黒檀質の柱が参拾本以上並び、其れに電灯の映つた下で幾十の食事の客が大理石の卓を囲んで居る光景は他に見られない壮観であつた。
物価は巴里に比べて概して二三割方廉い様である。自分達は巴里のボン・マルセに似た大きな店で羽蒲団を二つ買つた。羽と蒲団とを別別に買つて詰めさせるのである。羽には日本の綿の様にいろいろの種類があるが、自分達の買つた羽は中位の品で、其価は一枚分が四十八マアク(弐拾四円)であつた。(九月十五日)
わたしは先刻から眠くてならない。
「もう二時間でアムステルダムですつて。」
「さうさ。眠いかい。」
と云ふ良人も眠さうである。この人は昨夜鼻加太児から発※[#「執/れんが」、U+24360、342-3]して苦しがつて夜通し寝なかつたのである。私も心細くて起きたままで居た。伯林は昼の十二時半に立つて来た。今は夜の九時過ぎである。
「あの国境でね、あなたが取られていらしつた払増しが余り高いのね、二等の切符を別に買はせたのぢやないかしら。」
眠気ざましに私はこんな話を持ち出した。
「さうかも知れないね。何方の仏蘭西語が悪いのか知らないが、よく通じないままで金を払つて来たのだから。」
「でも好いわ。旅つてそんなものでせう。実際ね、彼方此方で払増しをして二等に乗り替へるのに三等の廻遊切符なんか初めから買ふのがもういけないんだわ。」
わたしは斯う云つて笑つて、一人づつの仕切になつて居る肱掛に頭をかがめて載せて居た。
「余程眠いと見えるね。」
「眠くつてね。真実に。」
わたしはもう余程意識が朦朧となつて来た。
「和蘭陀と云ふ国は可愛さうな位小さい国だね。素通りしてしまはうと思へば七時間位で通つてしまへるのだからね。」
こんなことを良人は云つて居たやうである。風を引くから外套を掛けてやらうかとも聞いたやうである。わたしは首を振つたかどうしたか知らないが、外套は身体に掛つて来ないやうである。やや眠が浅い境へ帰つて来た頃、良人は誰かと頻りに話して居た。目を開いても見たが、良人と並んで向ふ側に黒い人が一人居るのを知つて居た。汽車が徐行しかかつたと思つた時、
「ムツシユウ、もう此処がアムステルダムですか。」
と良人の云つたのに対して、
「ウイ、ウイ。」
と相手の答へたのがわたしの耳に入ると、わたしはふらふらとして立つた。
「アムステルダムだよ。」
「さう。」
「綺麗ぢやないか、見て御覧。」
良人は窓から外を見て居るらしい。よくは分らない。私も何とか云つて居るらしい。黒い空と黄色い灯が並んでるのと、それと同じ灯が下で慄へながら同じ処まで長く長く伸びて居るのと、近い所に大きい粗末な建物の続いて立つて居るのとが意識されたやうであつた。それよりも向ふは海だと直覚で感じた方が鋭かつた。それで居てもうわたしは棚の上の帽子を取つて、それから髪を包んで居た切れを外してそれを被て、外套の前を胸で合せて居た。しまひに極めて落着いた黒地の中の停車場へわたし等二人は降りた。ばらばらと二三十人位が歩いて居るだけである。切符を調べさせて、ぎらぎらとした硝子の反射の作る光線の中を通つて広場へ出た。自動車と馬車と交ぜて七八つあつたかも知れない。無いやうな気もする。※[#濁点付き井、345-5]クトリヤ・ホテルは一町とない処と云ふので、赤帽に鞄を持たせて、その跡を私等二入は歩いて行つた。わたしは目が覚めた。見えない暗い中も見透せる程頭がはつきりとして来た。初秋の風が心地よく醒めた私を吹いた。広い水の堀割が前にある。松葉形で、右手になる方は一つで、丁度わたし等の渡つて行く橋からは二筋に分れて居る水が地面とすれすれに静かに流れて居るのである。柳と同じ和か味を持つた、夜目には見分きの附かない大木が岸の並木になつて居る。あちこちに捨石がいくつも置かれてあつた。黄色い灯、黒ずんだ紅玉の色の灯、花やかな桃色の灯、青い灯白い灯が水に泳いで居る。窓から引いた光と船から引いた光とがまじつて縦横に縞を作つて居る。家は皆それ程高くなくて、それの上半分は霧の中にぼやけてしまつて居る。帆柱が際立つた黒い木立のやうに見えて両岸にそれぞれ寄りかたまつて居た。ひらひらと横長い旗が動いて居るのも見えた。
「大阪の川口のやうな処だね。」
早足で歩いて居る良人は後を見返つて云つた。
「静かで好い処ね。」
良人は聞いたか聞かぬか知らない。わたしは身に沁む程アムステルダムが好きになつてしまつた。赤帽は橋詰の右角の、夜目に鼠色に見える家へ入つて行つた。※[#濁点付き井、346-7]クトリヤ・ホテルなのであらう。中老人の帳場番頭の居ること、制服のギヤルソンが二三人敬しさうに立つて居ること、此等はどの国の旅館も少しの違ひがない。客が三四人帰つて来てエレベイタアで上へ上つて行くのなどもさうである。二つ部屋があると云ふので、見せて貰ふことにして二階へ上つた。廊下を二角程曲つてギヤルソンの開けたのは白い冷たい感じのする部屋であつた。かちかちと云はせてあちこちの捩をねぢると、あるだけの灯が皆点いた。黄色い間に見えるやうになつた。そしてギヤルソンは隣の化粧部屋へ通ふ戸、談話室との間に垂れた帳などを皆開けた。バルコンもある。棕櫚竹の大きい鉢が二つ置いてあつた。わたしはバルコンへ出た。目の下が水である。丘のやうな堤のやうな遠い先の方に灯が無数に見える。向ふ河岸の並木の間からは馬車のゆききなどが見えた。近い処に炉を置いたやうな火光を見せたのは停車場である。
「あまり立派過ぎるぢやないか。」
「ええ、さうですわ。」
と答へたが、私はバルコンを離れて他の室へ行くのが残り惜しく思はれた。良人がその事を通じるとギヤルソンは点頭きながらまたわたし等を一階上へ導ひた。室の広さは前のよりは広い位に思はれたが副室は一つもない。良人は直ぐ此処に決めた。五分間もしないうちに荷物が運ばれて、それぞれの所へ配置された。部屋附の女も来た。
「温かい珈琲でも貰はうね。」
と云つて、良人が命じると女は出て行つた。
「わたしは葡萄酒でも貰はうかしら。」
「外国を歩いて居る間は葡萄酒は実際贅沢なんだからね、巴里へ帰つたらいくらでも飲ませて上るよ。」
「厭なこと、そんなことを云はれると酒飲のやうよ。唯ね、脳貧血が起るやうな気がしたからさう思つたのですよ。」
「ぢやあお貰ひよ。」
「珈琲でも濃ければいいでせうよ。」
「菓子も頼んだから。」
「さう、うれしいわ。」
わたしは帽子を取つたり、着て居たものを上から一つ一つ剥いだりした。身軽になつて窓の処へ走り寄つたわたしは、
「あら、小林萬吾さんのお描きになつた橋がある。」
と大きい声を出した。(九月十六日)
和蘭陀はアムステルダムと海牙との両都を纔か二日で観て通つたに過ぎない。海面より低い此国は、何処へ行つても狭い運河が縦横に通じて、小橋と色色に塗つた美しい船との多いのが他に見られない景色である。建築は一体に矮い家ばかりで三階以上の物は少い。古い文明国だけに凡てが寂びて居る。市街も人間も何だか疲れて居て活気に乏しい。男は皆水夫上りの様な田舎びた印象を与へるし、女は皆尼さんの様な慎しやかさと寂しさとを持つて居る。秋の季節に来たせいもあらうが、まことに秋の国とも云ふべき、調子の弱い、色の柔かい、人間の欲望を滅入らせる様な国である。どの運河の水も鏡のやうに明るくて井のやうに深く、其上に黄いろく染んだ並木や、淡紅く塗つた家の壁や、いろいろに彩つた荷船やが静かに映つて居るのを見ると、平和会議が此国で開かれるのも其所を得て居る気がした。どの博物館にもレンブランを除けば格別記憶に留めたい画もない。レンブランとても海牙にある有名な「解剖図」位なもので、其傑作は却て白耳義その他の国に散在して居る。僕は何処か此国の田舎へ入つて一週間も留りたいと思つたが、東京に残して来た子供等をひどく気にする晶子が此月の二十一日にマルセエユを出る平野丸で急に先に帰りたいと云ふので、海牙を夜半に発する汽車に乗つて巴里へ直行して帰つて来た。(九月十八日)
(これは自分が巴里の文芸雑誌「レザンナアル」の記者の望みに応じて書いた所感の一部である。)
自分は仏蘭西へ来て未だ数箇月を経たに過ぎません。又自分は未だ仏蘭西の中流以上の家庭を覗ふ機会の少い為に、自分の知りたいと思ふ仏蘭西婦人の最も優れた性格と其最近の生活状態とに就て何等の資料を得て居りません。
自分は偶然の機会に由てモンマルトルに下宿して居る。其れが遊楽の街である事を知つたのは巴里に着いて後数日の事であつた。自分は之に由て艶冶を衒ふ或階級の巴里婦人を観察する事が出来ました。併し是れ等の仮装の天使が真の仏蘭西婦人の代表者で無い事は勿論である。是等の賤劣なる婦人と交際する男子を仏蘭西の道徳が排斥するのは日本の其れと同じであらう。而して自分の驚く事は其等の娼婦の需用者が概ね英米其他の諸外国より来れる旅客である事である。常に婦人を堕落させる者は婦人自らで無くて、男子の不道徳に原因すると信じて居る自分は、同じく巴里の遊里を盛大ならしめる者は、其富と不良な好奇心とを以て異邦の若き女子を飜弄する事を恥ぢない英米の偽善的男子であると想像する。
併し又自分は、なぜに是等娼婦の増加を防止する運動が教育ある仏蘭西の紳士貴婦人の間から起らないかと怪しんで居る。まさか仏蘭西人は是等の放逸な歓楽を以て外国の旅客を巴里に招致しようとするのでもありますまい。仏蘭西には誇るべき芸術、哲学、科学、及び卓絶した天然の景勝を沢山に持つて居るではありませんか。或人は之を以て仏蘭西の自由を称揚する様ですが、併し自由とは決して悪徳の異名で無いと思ひます。
又自分は是等娼婦の公開――モンマルトルに限らず巴里全市に亘つて――が子女の教育を妨害する事の多大であるのを想像して窃に戦慄致します。聞く所に由れば仏蘭西の中流以上の家庭は概ね今猶数世紀前の禁欲主義的な教育を以て若い女子を家庭に閉込め、社会の悪風に感染しない様に警戒して居ると云ふ事ですが、其様な消極的な教育が子女に害を及ぼす事の多大な事は最早論ずる迄も無い事だと思ひます。又如何に家庭に閉込めて置けばとて其等の悪風が全く若い女子の耳目に触れないとは定められないでせう。
世の人は少年少女を目して他日の社会の一員だと考へる様ですが、自分は彼等を以て矢張現在の社会の若き一員だと考へる所から、賢くて慈愛な父母の保護の下に常に彼等を解放して有らゆる社会の活動を目撃させ、其れに由て彼等子女の智識と情操とを養はせたいと云ふ思想を持つて居ります。時代遅れの宗教に教育を託する事の有害なのは云ふ迄も無く、家庭と書籍と丈で今後の子女を教育しようと云ふ事も不可能だと思ふのです。其れで若し彼等子女の目に触れて有害な物があれば其等を社会から滅絶させるか、社会の一都に閉込めて隔離するかの手段を取るのが宜しいと思ふ。
自分は前に述べた通り未だ仏蘭西の中流以上の家庭を委しく観察する機会を得ないのを遺憾に思つて居ります。併し中流以上の家庭にある婦人のみが仏蘭西婦人の優秀なる性格を専有して居るでせうか。恐らくは否と云ひたい。自分は猶他の婦人に於て[#「於て」は底本では「於の」]仏蘭西婦人固有の元始的な根強い優れた本性を認め得られると信じます。其れは何かと云へば巴里に於る下級な一般商家、一般工場の婦人等及ぴ仏蘭西の田舎に於る一般の婦人等である。自分が多少此方面に費した観察に由れば、概して如何に彼等が貞淑で、正直で、己が職業に勤勉で、己が父母に向つて敬虔で、己が良人に向つて調和的であるかは予想外に感服すべきことであります。勿論彼等は現代の文明に就て、より少く教育せられて居りますから其愚直は軽率なる罪悪を醸す原因となる場合もあるでせう。併し彼等は概して野生の草花の如く物優しく、其草花の根の風霜に耐へる如く根気強く己が義務に忠実であるのです。(自分は日本の下級婦人の多数に就ても同じ感を持つて居る。)
自分は如此く信じます。是等の固有の美質を堅く貯へて持続する婦人の多数を有して居る以上、仏蘭西婦人の将来、否仏蘭西人全体の将来は益光栄と幸福とに富んで居ると。なぜなれば真の貴女は是等多数の低級なる而[#ルビの「さ」は底本では「さう」]うして美質に満ちた婦人の間から将来益発生する事を期待するからである。貴女とは今日及ぴ将来に於て最早爵位や物質的の富に由て定まるもので無く、家庭及び社会に貢献する実蹟に由て決するものである以上、又優秀なる教育の必要が益一般婦人に自覚せられて行く以上、必ず真の貴女は本来の美質に富む是等多数の婦人から起つて来る事を疑ひません。之を日本に於ける最近十二年間の事実に見ても、新しい教育を受けて社会の各事莱に貢献しつつある優秀な婦人は概して平民より出て居ります。其れで自分は日本婦人の将来を楽観する如く仏蘭西婦人の将来を楽観したいのです。
併し将来の事は兎も角、今日自分の想像する所では、仏蘭西の婦人は自己の権利を主張する事につき英国の新しい婦人に比して少し遜色がないでせうか。今のジヨウジ・サン女史は誰ですか。或は自己の権利を主張する事を要しない程仏蘭西の中流以上の家庭は既に自由と幸福とに満ちて居るのでせうか。
自分は日本に於て斯様な事を屡論じました。柔順を以て女子が最良唯一の美徳とせられる間は、人間の道徳は未だ低く、世界の文明は未だ高度に達して居ない。何故に男子と女子とは対等の生活を楽むことが出来ないのであらうか。其れは男子が女子を従属物だと思ふ野蛮な気習を改めず、女子も遅疑して其気習から脱する勇気が無いからであると。自分の直覚を以て間違なしとすれば、どうやら仏蘭西の男子諸君も亦東洋の男子と同じく其内心の奥には女子を従属物視し、或は玩具視し、或は厄介物視して居る様である。若し然うであるならば、如何に女子が富と位地と四季折折の遊楽とに飽くとも、依然数世紀前の貴婦人たるに過ぎないであらうと想はれる。自分は敢て問ふ、仏蘭西の婦人は何故に自ら奮ひ立つて各自己の教育を男子と斉しくすることを謀らないのか。我等女子が現代文明の幸福に均霑せん為め――我等自らの幸福の為めとのみ云はず、我等の良人及び子女の幸福の為め――要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。自分は仏蘭西に於ける[#「於ける」は底本では「於け」]婦人運動が過去三十年前に比して甚だ手温いのを不思議に感じます。と申して英国の婦人の様な過激な運動を望まないのは勿論です。伶俐な仏蘭西の婦人達は必ず之に対する立派な御意見がありませう。自分は其れを聞きたい。
此点に就て日本に於ける妙齢の女子は最近三四年間に非常な内心の覚醒を自らして居ります。併し日本婦人の美質として過激な運動に出でやうとはせず、表面には隠忍しつつ実際に於ては有らゆる刻苦を尽して自己の教育を高める事に努力し、又経済上の独立を得る事に著眼して、何れかの職業に従事して各自活の計を営まうとして居ります。温健にして※[#「執/れんが」、U+24360、357-6]烈な是等の新運動は今や非常な速度で日本の到る処の青年女子の間に伝播して居ります。日本政府及ぴ日本の父母は表面保守主義な様ですが、事実に於て世界の思潮を見越す事に鋭敏ですから、時には舵を取る為に馬鹿げた干渉もする様ですが、概して温健な推移ならば寛大に見て居る風がありますので、我我は二三十年前の日本婦人に比べて雲泥の差と云ふべき思想上の自由を得て居ります。
自分は想像する。仏蘭西の男子も亦女子を家庭に閉込め、日常の雑用と台所向の仕事とのみに犠牲たらしめようとするのでは無からうか。若し然うであるなら、其れは昔の社会が男子のみで成立つて居ると思ふ迷信の致す所である。世に婦人の胎より生れない偉人があらうか。何人も大半は婦人に由て教育せられるのであると云ふ一事を見ても、婦人は男子と対等の生活を営み得る権利を有つて居るのは明かである。若し前に述べたやうな大多数の婦人の正直と労力とが仏国今日の富を助長して居る事の大いなのを想ふならば、台所に許り閉籠つて居る婦人の然まで役立たないことが解るであらう。
自分は女子のみを男子の助成者だと云ふことを好みません。女子が男子の助成者となるには古来既に女子の可能を傾けて捧げて居る。女子の助成者としての男子は従来余りに不親切では無かつたでせうか。女子の自立的運動は男子も進んで之を助けて欲しいと思ふ。
男女が互に助成して社会を円満に形造るのは二十世紀以後の文明に賦与された幸福である。男女は対等に教育せよ。併せて対等に社会に立つて活動せよ。而うして対等に社会上の権利を得るに到れよとは自分の願である。但し自分は常に「対等」と云つて「同等」とは云はない。人は男子同志でも体質と性情を異にして居て「同等」なる者は有り得ない。殊に男子と女子とは互に体質と性情の差に由て其能力に長短があり、同等たることを得ないのは勿論であるが、要するに其適した所に赴いて可能を尽し、対等の義務を負ふて対等の幸福の下に生活を楽みたいのである。尤も従来男子の専有であつた職業に女子が参加して、男子と同じ丈け又は其れ以上の効果を挙げ得るかも知れないから、男子は従来の独占を捨てて有らゆる職業を女子に開放する時機が早晩来ることを自分は期待する。
自分は家庭を尊重する。家庭は社会の奮闘の中に置かれた自分及び自分の子弟の大本営であり、兵站部であり、練兵場である。従来は余りに家庭が社会と隔絶して居た。家庭で聞いた教訓が社会へ出でて役に立たない事が多かつた。自分は家庭を以て社会の縮図たらしめ、家庭教育を以て子女が社会を知る基礎たらしめたいと思つて居る。其れで父母は社会に立つて対等であると共に、家庭に於ても対等に正直と賢明と勤勉と慈愛とを示して其子女の模範とならねばならぬ。子女をして其母を軽蔑せしめる様な事があつては成らぬ。
自分は日本に在つて「台所を縮少せよ」と論じた。台所に時間を費すのは人生を空費する者である。自分が東京に居て台所に働く事を恰も書斎に働くと等しく楽しい事にして居たのは、之に分外の時間を費さず、適当な時間を以て簡潔に処理する習慣を養つたからであつた。自分等の母の為した如く終日台所に齷齪として居る事は自分等に取つて苦痛であるけれども、或程度に之に時間を費すのは読書に費すのと等しく快楽である。従つて自分は台所を女中にのみ放任する主婦を憎らしく思ふ。彼等は如何なる労働にも相応の快楽のあることを知らない怠惰な婦人である。それに附けても自分は仏国の貴婦人の台所振を観たいと思ふ。
自分は仏蘭西の女の姿態の醇化せられて気の利いたのと、仏蘭西の風物の明るくして幽静なのとを愛します。併し未だ自分は仏蘭西の景物に就て製作を持ちません。唯だ目を見開いて驚く許りです。詩も亦牝鶏が卵を抱く様に或る孵化の時日を要するものなんでせう。
僕は九月二十日の夜汽車で日本へ帰る晶子をマルセエユまで送つて行つた。倫敦から着いた平野丸は乗客が満員になつて居て、一二等を通じて空いた部屋が無かつた。纔に一人専用の特別一等室だけが塞がらずにあると聞いて、六百円の一等乗船券に更に一割の増金を払つて辛うじて其れに載せることが出来た。其日は積荷の都合で出帆しないと云ふので、其晩は僕も平野丸の客室に蚊に食はれながら泊めて貰つた。晶子は思郷病に罹つてひどくヒステリツクになつて居る。其れに少し体の加減も損じて居る。気強く思ひ立つて巴里を立つて来たものの、今マルセエユを離れやうとすると心細くもあるらしい。彼れは黙つて涙ぐんで居た。慣れない途中の航海と晶子の不安な健康状態とを想像して、僕も何だか之が再びと会はれない別れの様な悲哀を覚えるのであつた。此処から偶然同船して帰朝する安達大使館[#「大使館」は底本では「大使官」]参事官と、其夫人と、船の加藤事務長とに彼の事を頼んで置いて、僕は翌朝六時に平野丸を見捨てた。
マルセエユから巴里へ帰る途中にリオンへ寄つて其処の博物館を観た。シヤンヌの秀れた壁画の外にロダンの彫像の逸品が三つばかり心に遺つて居る。シヤンヌは此地に生れたのである。仏蘭西の河は何処へ行つても美しいが、リオンもまた市内を屈折して流れる河に由て明媚な風致に富んで居る。折悪く日曜日であつた為に三井物産会社の支店へ尋ねた某氏に会ふことが出来なかつた。其れで観たいと思ふ織物工場を案内して貰はずに仕舞つた。
リオンから夜更けて乗つた巴里行の汽車の三等室は途中で降りる労働者を満載して居たが、労働者同志で座席の事から喧嘩を初めて、酒気を帯びた一人がピストルを取出して輪のやうに振廻した。其れが僕と背中合せの席での事である。田舎廻りの汽車でボギイ車でないから逃出すべき廊も附いて居ない。「おお」と云つて片隅へ他の女客と一緒に避ける間もなく発射せられた一発は窓硝子を裂いて外へ逸れて仕舞つた。其時仲間の労働者がピストルをもぎ取つて、大勢で其暴漢を抑へて呉れたので、ほつと誰れも安心した。こんな狼藉を見たのは欧洲へ来て之が初めてである。(九月二十三日)
おれが此モンマルトルの[#「モンマルトルの」は底本では「モンンマルトルの」]下宿へ移つて来たのは一月の末であつた。もう十ヶ月経つ。此間にいろんな種類の下宿人が出たり入つたりした。今ではおれとKIKIと云ふ女とが古参になつて仕舞つた。
キキイは田舎から出た女であらう、其言葉の調子が純粋の巴里つ子では無さ相だ。或時キキイ自身がおれに向つて二十二歳だと云つたけれど、下宿の細君が二十五歳だと話したのが真実であらう。
おれが此下宿へ来た始めの頃のキキイは第一階に住んで居た。壁を桃色に塗つた、大きなピヤノを据ゑた、派出な部屋であつた。今では其部屋に踊場タバランへ出る西班牙の姉妹の踊子が住んで居る。其れからキキイはいろんな部屋へ移つて廻つた。おれの部屋の下に当る二階の、今ムウラン・ルウヂユの踊場へ出る音楽者夫婦が住んで居る部屋などにも二ヶ月居た。次第に落魄して[#「落魄して」は底本では「落魂して」]近頃はおれの部屋からまだ二階上にある屋根裏に移つて居る。おれはキキイの住んでる部屋を覗いて見たことはないが、下宿の細君が参考に見て置けと云ふので、或日屋根裏へ昇つて行つてキキイの隣の明間を見たことかある。亜鉛で作つた一人寝の寝台を一つ据ゑた前に一脚の椅子と鏡とが備へてある。窓は唯だ一つ寝台の上の矮い天井に附けられたばかりで、寝ながら其窓を開けて空気を入れられるやうになつて居る。雨の降る夜などは窓硝子を打つ音で寝附かれないと云ふことである。
おれは会話を覚える必要から、初めの四月程は主人夫婦の食卓で飯を食つて居た。飯を一緒に食ふ下宿人はおれの外に四人の女が居た。下宿人は大勢居るのだが、大抵各自の部屋で自炊するか、さもなくば現在のおれのやうに外へ出て食ふのである。
初めて此下宿の食卓に就いた日から、おれはなぜだか正座へ据ゑられた。そして下宿の主人夫婦がおれを四人の女に紹介した。其中にキキイも居た。巴里へ著いてまだ一ヶ月にしかならないおれは、突然多勢の若い女の間へまじつたので少からずどぎまぎした。主人の紹介した所に由ると、どの女の名の上にもマダムが附いて居る。それで、おれは敬意を表して「皆さんと御交際致すのは私に取つて非常な光栄に存じます」と云ふ様な改まつた文句を用ひて挨拶したもんだ。それが今から考へると可笑しくてならない。
食事の終りに、隣に坐つて居たキキイは美しい手で胡桃の割りやうをおれに教へて呉れた。快濶な主人夫婦はじめ四人の女は皆親切に話しかけて、仏蘭西の風俗と言語とに慣れないおれを気拙く思はさないやうに努めて呉れた。女達は皆おれの職業を聞いてお世辞を並べた。併しおれは礼を失すると思つて彼等の職業を問ひ返すことをしなかつた。
此下宿の食事は始まるのも終るのも珍しく遅い。昼飯は午後一時半に始まつて三時に終る。晩飯は八時に始まつて十時に終る。雑談を交換しながら呑気に飲み且つ食ふのである。外の在留して居る日本人が下宿の飯は吝臭いと云つてよくこぼすが、おれの下宿は反対に潤沢なのに驚く。元来少食なおれは兎角辞退ばかりしなければならないのに弱る程である。食事が済んでもまだ雑談は尽きない、時には歌留多を取ることもある。十二時頃になるとキキイを除いた三人の女は、派手な身装をして大きな帽の蔭に白粉を濃く刷いた顔を面紗に包み、見違へるやうな美しい女になつて各自何処へか散歩に出て行く。主人夫婦もおめかしをして寄席や珈琲店へ出掛ける。おれも初めの頃はよく主人夫婦と夜明近くまで遊び歩いたもんだ。
おれは最初此女どもを皆財産があつて気楽に遊んで暮してる連中だと想つて居た。オネエと云ふ一人の女などは、「昨日も競馬で儲かりましたから今夜酒場モニコへ御一緒に参りませう」なんて、よくおれの部屋を叩いて云ふことがあつた。おれは辞退して其女と一緒に歩いたことは無かつたが、おれは其女の巧に素早く化粧する所を彼れの部屋で見せて貰つたことなどもあつた。目の四方に青い隈を注したり、一方の頬に黒い頬黒を拵へたりする女であつた。おれは又この女どもを人の情婦になつて囲はれて居るのかとも思つた。併し格別男らしい者がどの女の部屋へも尋ねて来る様子はなかつた。
キキイは其頃から蒼ざめた顔をして居た。灰色を帯びた鳶色の髪を無造作に束ねて、多分其れ一枚しか無いのだらうと思はれるやうな古びたオリイヴ色の外套を襯衣の上から着て居た。古びた裳も同じくオリイヴ色である。襯衣丈は三日位に取換へるので白く目立つて居た。おれはキキイがなぜこんな服装をして居るのか、他の夜毎に盛装して散歩に出る三人の女とキキイとの間にどんな身分の懸隔があるのか解らなかつた。
おれは初めの間語学に※[#「執/れんが」、U+24360、368-11]中して居たので、よく主人夫婦をつかまへて解らない所を質問した。又外出せずに居るキキイが中庭へ下りて来て、大きなアカシヤの木の蔭の青く塗つた長椅子で新聞を読んだり小犬をあやしたりして居るのを見附けて質問する事もあつたが、主人夫婦に比べてキキイが非常に無教育な女だと云ふことはおれにも想像された。
おれは大分キキイと親しくなつたので、或日例の中庭でこんな話をした。
「キキイ、おまへの希望は何だね、毎日斯うして何を待つて居るんだね。」
「わたしには何もないの。唯だ早く此アカシヤが葉をつけて、美しい日光のさす時節が来ればいいと思ふばかり。」
おれは詩の一節を読んだ気がして、あとは黙つて勝手な聯想に耽つて仕舞つた。キキイも後の言葉を次がなかつた。
四月に入つておれは初めて明るい欧洲の春に接した。庭のアカシヤに夜が白み初めた頃からメルルが来て啼くやうになつた。下宿ではキキイの外の三人の女が何処かへ引越して仕舞つて、其あとにはモニコの踊子を落籍せて[#「落籍せて」は底本では「落藉せて」]情婦にして居る大学生のピエルと画家のコツトとが食卓へ就くことになつたが、陽気がよくなつて以来主人夫婦がよく外へ出掛けて飯を食ふので、下宿人ばかりが女中のマリイの給仕で食卓に就くのは何だか淋しい気がする。其れで二人減り一人減りして、十日程の後にはおれとキキイが向ひ合つて不景気な飯を食ふ日が多くなつた。キキイは前月あたりから食事を多く取らない。初めの中はいろいろと話して呉れたのに何うしたのか口を利くのも太儀相である。例の外套の襟を合せて腹部を片手で押すやうにしながら、食卓越しにおれの名を呼んで握手する手が非常に冷たい。姿も一層淋しく細つて行くやうである。おれはもう大分巴里の事情に通じた気がするので、四月の末日限り此陰気な食卓から逃れて仕舞つた。
おれは其頃になつて、引越して行つた三人の女の職業を漸く想像することが出来た。或日下宿の細君に、
「あれは皆夜の天使だつたんですね。」
と囁いた。細君は笑つて頷きながら、
「モンマルトルのああ云ふ種類の女の中ではどれも第二流ですよ。」
と教へて呉れた。それでよく夜明がたに階段を[#「階段を」は底本では「階級を」]昇つて帰つて来る靴音を聞いたことも合点が行つた。此下宿の食事の時間が遅いのも、あの女どもが正午過ぎまで寝込んで居るからであつた。おれは同じ時、
「なぜキキイだけはああして内にばかし居るんです。」
と細君に聞くと、
「キキイもやつぱり売る女ですよ。併し冬から姙娠して居ます。もう六月目ですの。」
と細君は云つて、
「日本では女が幾日目に赤さんを生みますか。」
と問うた。おれは笑ひながら、
「それはどの国の女でも同じです。十月で生むのが。」
と、うつかり斯んな事を云つたら、細君は目を円くして、
「十月ですつて。」と驚いた調子で云つて「仏蘭西の女はそんなに長くは掛りません。」
と云つて、大抵二百三十幾日目とかで生むと云ふことを教へて呉れた。細かい日数の計算をするものだとおれは感心して聞いて居た。それから、おれが、
「キキイは何うして生活して居るんですか。色男から送つてでも来るのか、貯金でもあるんですか。」
と聞くと、
「全く貧乏なんですよ。市外の会社に勤めて居る弟――折折昼中に尋ねて来て、正午の食卓に就くことがあるでせう――あの弟が姉思ひで、月給の中から貢いで居るんですよ。」
「仏蘭西の女は素人でさへ姙むことが無いのに、なぜキキイが姙んだんだらう。」
と笑ひながら聞くと、細君も笑つて、
「其れは過失です。」
と云つた。五月の中頃過ぎに日本から妻が巴里へ来たので、おれは俄に妻を伴れて欧洲の各地へ旅行することになつた。九月の中頃に和蘭陀から巴里へ帰つて来ると、下宿の細君が十日程前の晩キキイが女の児を産んだと云ふ話をした。次の朝偶然おれの部屋の窓から下を見ると、食堂の入口に見なれない婆さんと二十二三の女とが立つて下宿の細君と何か話して居る。二人とも帽を着ないで、田舎らしい拡がつた裳を着けて居た。午後女中のマリイが部屋を掃除に着た時、
「キキイの赤ん坊は今朝田舎の人が迎ひに来て伴れて行つて仕舞ひましたよ。」
と云つた。
「僕は其伴れに来た女づれを窓から見たよ。キキイは赤ん坊を預けたのかね。」
「いいえ。」
とマリイは頭[#ルビの「かぶり」は底本では「かばり」]を振りながら云つて、蔑むやうな目附と身振をした。おれは重ねて問はなかつたが、金を添へて永久に呉れて仕舞つたのだと云ふことがマリイの様子で想像された。其金もやつぱり人の好さ相なあの弟が算段したのだらうと想つた。
其れから五日ほど経つて、おれは妻と芝居を出て夜の十二時過ぎに自動車で下宿の前まで帰つて来ると、丁度其時門の戸を押して外へ出た女が、おれ達を見附けて、
「今晩は、ヨサノさん、ヨサノの奥さん。」
と云つた。おれが
「おお、マダム・キキイ、今晩は。おまへの体はすつかりいいのかい。」
と云ふと、
「有難う、もう、すつかり宜しいのよ。」
斯う云つて、クリツシイ街の方へ金糸の光る手提を手にしながら行つて仕舞つた。月明りで見たのだが、こんなに盛装した、またこんなに美しく化粧した、こんなに得意相なキキイを見たのは其晩が初めであつた。
附け足して置く。夏の初めであつた。食事の後で名の話が出て、キキイが
「ヨサノは伊太利人のやうな名ですね。」
とおれの名を云つた。おれは無邪気な冗戯の積りで、
「キキイは猿の啼き声だ、日本では。」
と云つたら、キキイは何時になく気色を変へて、
「わたしの真実の名はCHESANNEです。」
と云つたことがある。其れが真実で、キキイは字かも知れない。
欧洲の芸術界に最も新しい傾向を何かと言へば未来派の勃興である。之は三四年前に伊太利の詩人画家の一団が未来主義を唱へ出して以来の新運動である。其宣言書の一条に「予等は狂人と呼ばるることを最上の光栄とす」と云つて居る位であるから、万事を昨日の標準で眺めようとする習癖を脱しかねて居る我我に取つて、彼等未来派の宣言や其芸術が一見奇怪と錯誤とに満ち、正気の沙汰と思はれないのも道理であるが、さりとて僕の如きは此春ベルンハイムで[#「ベルンハイムで」は底本では「ベルン・ハイムで」]開かれた伊太利の画会を観て以来、この秋のサロンに数室を占めることの寛大を許された仏蘭西未来派の絵画に到るまで、奇怪至極とは思ひながらも、其れに背を向けること難く、ぐつと襟元を掴んで引寄せられるやうな強い魅力を感じると共に、果は我れを忘れて其中へ突き入つて共に顛倒し共に混迷したいやうな気持になるのは何う云ふ訣であらう。言ひ換れば前印象派乃至後印象派の芸術には僕等と共鳴する世界の多いに関らず、猶越え難い距離のあるのを覚えて、ロダンの彫刻にしても、セザンヌ、ゴツホ、マチス諸家の絵にしても、僕等の容易に接近し難い天才の世界であるが、未来派の芸術、と言ふよりも未来派の芸術家の生きて居る世界は、やがて又僕等の生きて居る世界であるのを感じるまで、ひたと全人的に共鳴し得る様である。
未来派の人人自身も、他の芸術家も、未来派を以て芸術界の無政府主義者だと考へ、芸術界の猛烈な破壊者であると思惟するやうであるが[#「あるが」は底本では「あるるが」]、僕が見る所では矢張芸術界の当然な推移であり、現代思想の大河に波を揚げる一脈の流に外ならないと思ふ。
立体派の絵がセザンヌの芸術に負ふ所多くして、従つて印象派の芸術が立体派に一分科したものだと見るのが至当である如く、未来派の絵も亦印象を張大する点に於て固より印象派の別運動であり、其れに立体派の[#「立体派の」は底本では「主体派の」]手法を大胆に採用して居るし、また動的の材題のみを極端に描くことを特色とするのは、ロダンの彫刻や、ルハアレンの詩の動的芸術を徹底させたものと見るべきである。殊に近頃の未来派は流動を力説するベルグソンの哲学に刺激せられた所が多いと云はれて居る。
未来派の絵の特色は種種あるが、一刹那に幾多の印象が「併存」し、「連続」し、「混融」し、「反撥」し、且つ「乱迷」して流動しつつあることを画布の上に再現しようとするのが其一である。従つて其絵は万花鏡を覗く如く、活動写真を観た後の心象の如く、大顕微鏡下に水中の有機体を検する如く、雑多な印象が剪綵せられずに其儘並べられて居るが、印象には自ら強弱と明暗があるから、画家が故意に求めずして一幀の上に核心となる印象と縁暈となる印象とが出来て居る。併し其核心となるものが決して在来の絵で云ふ中心でも、主題でもなく、其れが全体の調和を引緊めて居るのでもない。要するに、在来の意味で云ふ調和を度外視して、雑然と混乱し分裂して居る動的生命の印象を誇示しようとするのが今日までの未来派の絵である。
其れは未来派の音楽に由つて最もよく此派の思想を味解することが出来ると云ふことである。僕は此派の音楽を聴く機会をまだ得ないが、評判に由ると、不協音を以て新音楽を建設しようとするのが此派の主張であつて、其音楽はあらゆる猛獣と鷙鳥[#ルビの「してう」は底本では「しゆてう」]類と、飛行機を初めあらゆる近世の科学が生んだ器械や発動機とを、同時に鳴かせ、吼えさせ、唸らせ、軋らせた如きものであると云ふ。是等の騒音の大集団が現在及び未来に亘る我等の生活を象徴し、鼓舞し、創造する音楽であり、我等の生活の伴奏となる音楽であると主張するのである。猶此派の踊も奇抜だ相である。
僕等は古今の天才の芸術に憬れる。希臘、羅馬の昔から、アンゼロ、ラフワエル、チチアノ、ダ・※[#濁点付き井、379-1]ンチ等の[#「ダ・※[#濁点付き井、379-1]ンチ等の」は底本では「ダ※[#濁点付き井、379-1]ンチ等の」]伊太利ルネツサンスの芸術、グレコ、ベラスケス等の西班牙派、レンブラン、リユウバンス、ダイク等の[#「ダイク等の」はママ]和蘭陀派及びフラマン派、マネ以下の仏蘭西近代の印象派、其等天才の芸術が地上にあるのは、常に僕等の生活に新しい元気を齎すものである。其意味に於て我も人も古今の天才に帰依する。併し僕等を最も力附ける芸術は、僕等と同じ時代に、僕等と共に苦み、共に いて、最もよく現代を領解し、最もよく未来を見越した芸術家に期待せねばならぬ。不協音の芸術、混乱妄動の芸術、僕が刻下の生活はより多く此末来派の思想に傾倒せざるを得ない。なぜなら僕の生活は分裂して居る。中心もない、調和は固よりない、右往左往に妄動を続けて居る。盲目ではなく、眼は開いて居ながら周囲と混融し、或は反発し合つて妄動して居る。未来派の絵はやがて僕の世界なのである。
けれど又、未来派の絵を此様に解釈するのは僕の得手勝手かも知れない。末来派の絵は僕の生活のやうにみすぼらしくない、弱くない、疲れて居ない。其絵は力に満ちて居る。猛烈な鮮新な力の妄動である。其れに対すると僕までが血を湧し、肉が引緊る程に力強さを覚える。果して僕にも其れ丈の活力[#「ルビの「タリテ」は底本では「リリテ」]があるか、何うか。矢張未来派も僕と一緒にされない新しい天才の芸術か。
末来派の詩に就て少し書かう。其主領とも云ふべきは伊太利ミラノの詩人マリネツティイ氏で、其同派の詩人にはアルトマレ、ベテュダ、ビツッティ、カバックシオリ、ダルバ、フォルゴレ、ゴンニイ、フロンティニイ、バラッチェッシイ等の伊太利詩人があつて、既に多くの詩集が出て居る。マリネッティイ氏はミラノで機関雑誌「ポエジア」を出して居るが、巴里へ来ては仏蘭西語で詩を作り、ポオル・フォオル氏の雑誌「詩と散文」などに稿を寄せる。氏の崇拝者は欧洲の諸国に亘つて漸次増加して行く様である。巴里ではランティイヌ・ド・サンポワン女史が氏の高弟と称すべき女詩人である。
此派の詩の根調となるものは新英雄主義である[#「新英雄主義である」は底本では「新英・雄主義である」]。また活動主義である。一はニイチエなどの感化、一はルハアレンなどの影響であらう。其題材に飛行機、自動車、砲兵工廠、戦争などを喜んで用ひ、推進機の音、発動機の爆発、砲丸の炸裂、自動車の躍進などを歌つて活動的生活を讃美するのはベルグソンと行き方が似て居る。其女性を攻撃するのも弱者を蹂躙するニイチエズムに外ならない。また其詩中に雑多な印象の並存と混乱とを許するのは従来の自由詩を徹底させたものであつて、此派の絵や音楽と同じ行き方である。そして猶其詩中に砲丸や、飛行機や、あらゆる器械の音、工場の騒音などが聞かれるのは、ルハアレンの詩が近世の鋼鉄で出来た器械の壮大な音に富んで居るのを更に押し進めたものだとも見られる。
マリネツティイ氏等は謂ゆる新理想主義者の急先鋒なのであらう。併し同じ未来派でも、僕は絵に於る如き親しみを以て氏等の詩に同感することは出来ない。まだ氏等の詩を多く読んだのでも無いから僕の判断が間違つて居るかも知れないが、[#「、」は底本では「、、」]今日までの所では、読む時には可なり引入れられるやうであるけれど、読み終つた後では何だか縁遠い世界の消息の気がするし、多少の反感さへ残るやうである。マリネッティイ氏等は余りに英雄主義者である、余りに天才気取である。
マリネッティイ氏は近頃更に新しい詩体を案出して発表した。其れは、従来の詩は甚だ其の叙し方が冗漫だ、一刻を争ひ寸陰を惜む現代人に其様な手緩い形式を把つて居る事は作者も読者も堪へ得ない事だ、今日猶従来の[#「従来の」は底本では「従来の」]文法を守つて居るのは馬鹿の骨頂だと云ふ主張から、氏の詩は文典を一切排斥するのみならず、氏の語彙の中には一切の冠詞、前置詞は愚かな事、一切の副詞、感嘆詞、動詞、代名詞、形容詞を採用しない、唯名詞と熟語及び数字丈が保留される。其れから一切の句読点其他の記号をも排斥する代りに代数学の符号が新に採用され、行や聯を分つのも不経済だとあつて唯だ聯の場合丈に約一寸許り字間を明け、其他は散文の如くに続けて書く。又定つた綴音も脚韻も顧慮しない代りに頻に頭韻法を繰返す。氏は自ら未来派の天才であると公言し、古臭い詩風の破壊を敢てした事を光栄とすると言つて居る。僕は氏が自ら傑作なりとして世に出した「戦争」と題する長篇の中の一聯を見本として紹介する。
十月一日からモンマルトルの下宿を引払つて再びパンテオンに近いオテル・スフロオに移つた。間もなく伊太利へ出掛ける積だから、荷物の預け場所にと思つて四階の狭い部屋を択んだが、下の部屋よりも明るいのは儲け物である。三階の一室に土屋工学士が居る。其下の僕が巴里へ着いた初めに居た一室に槇田中尉が居る。近頃は近所のリユウ・デ・ゼコルに住んで居る内藤理学士とすつかり気の合ふ友人になつて仕舞つた。内藤とよく街をぶらつく。一緒によく仏蘭西人を訪問する。よくレスタウランへも珈琲店へも一緒に行く。
モンマルトルのピオレエの家へ洗濯料を払はずに来たことに気が附いて持つて行つたら、細君のブランシユが寝台の下から之が見附かつたと云つて晶子の遺つてた絵具箱を渡して呉れた。馬車の中に置き忘れたのだらうと思つてた物が出たので、僕もふと絵具いじりがして見たくなつて、此頃はホテルの窓で間があると林檎や撫子を描いて居る。山本鼎がホテルの湯に入りに[#「入りに」は底本では「入り」]来ては真面目に手解きをして呉れる。
秋のサロンがグラン・パレエに開かれて居る。菊の花の競進会も同じ画堂の一室を占めて居る。之を観ると日本の菊作りは最早顔色が無い気がする。欧洲の園芸家は科学的知識と美的趣味とを応用して、我等日本人の夢にも想ひ及ばない形と色とを備へた見事な花を咲かせて居る。形は概ね手毬の様に円く大きく盛上り、色は異つた種種の複色を出して、中には冴えた緑青色をした物さへある。すべて鉢植でなく切花を硝子罎に挿して陳列して居る。菊と一緒に果物の競進会も開かれて居るが、李より大きい葡萄のあるのは日本の子供に見せたい。
秋のサロンで先づ僕の注意を惹くのは、展覧会向の大きな絵よりも建築と室内装飾との見本の幾つかである。コバルトと赤と薄黄の三色で濃厚な中に沈静な趣を出した「菊と薔薇の間」が最も気に入つた。其間に属した小さな控室に一鵬斎の美人絵が薄明に照されて二枚掛つて居るのも好い取合である。一体に何の建築にも多少支那及び日本の匂ひがする。庭園の隅の休憩所に擬した物に壁へ鍵の手に狐格子を廻らし其上に刷硝子の角行灯を掛けて中に電灯を点け、其前に一脚の長椅子を据ゑて周囲に紅い小菊を植ゑたのなどが其れだ。凡てをキユビズムで行つた書斎も悪くない。此画風が装飾的にのみ意義と効果のある事が益頷かれる。其次には織物や刺繍の図案が目を引く。何れも派手と濃厚とを極めた奇抜な大模様で我国の桃山式を聯想せしめる物許りである。其等の図案の下に其等を応用した織物や刺繍が併せて陳列されて居るのは効果を鮮明にして居て好い。絵の部は余りに無鑑別に沢山並べてある為か、又は僕の目が巴里の絵に慣れて仕舞つた為か、兎に角感服すべき物に乏しい。展覧会向に描かれた大幅の前には日本の其等と同じく人だかりがする。僕にはマチスの婦人肖像一枚が水際立つて光を放つてる気がする外、ン・ドンゲンの「鳩」と「海」との二幀が奇抜な装飾画として興味を惹く。其れから仏蘭西の未来派が数室を占めて居るのは、大分世間の批難があるらしいけれど、僕は其奇怪を極めた画面に苦しめられながらも、猶何となく其新しい力に引附けられるのを感じる。但し何れかと云ふと僕は此春の伊太利の未来派の絵の方に余計に同感せられる。仏蘭西の其れは画家の詩でも音楽でもなく、画家の印象を冷して装飾画化して行く嫌ひのあるのを不満に思ふ。余りに立体派の技巧を採用し過ぎたせいかも知れない。近代の諸大家の人物画を集めた参考室の中に一八八〇年代のルノワアルの婦人像が一枚目に附く。併し其近作に新しい興味を覚え出した僕に取つて其れは物足りない。
僕は大分巴里に慣れて仕舞つた気がするが、何時も飽くことを知らないのはジユラン・リユイル氏の本邸へ印象派諸大家の絵を観に行くのと、芝居と、サン・クルウの森の散歩とだ。サン・クルウは森其物が四季折折に面白い許で無く、行に機関車附の旧式な乗合車の二階に乗つて、モネが屡描いたサン・クルウ橋を渡り、帰りに八銭均一の小蒸気でセエヌを遡るのも面白い。
此夏徳永、澤木、晶子と四人で無駄話に気を取られて居て怖ろしい雷雨に遇つたのも其森だし、僕が新しく買つた絵具箱を画家然と提げて行つたのは好いが、絵を初めた第一日に出来上つた物をアンデパンダンだと同行の小林萬吾に笑はれたのも其森だ。其れから詩人ルアレン翁が住んで居ると云ふ事もサン・クルウの好きな一つの理由である。翁の新しい詩集「戦ぐ麦」には以前の詩集「触手ある都会」と反対に作者自身の郊外生活から贏ち得た題目が多い。
一日、セエヌ河の秋雨を観がてら翁を訪はうと思つて降る中を雨染のする気持の悪い靴を穿いてサン・クルウへ出掛けたが、落葉し尽した木立の間から石と泥とを混ぜた家家の白茶けた壁に真赤な蔦紅葉の這つて居るのは綴の錦とでも月並乍ら云ひたい景色であつた。雨が降つて居ても快く明るい感じを受けるのは東京の郊外の灰がかつたのと異ふ。ムンツルツウ街の五番地も矢張石と泥とを混ぜた壁の家だ。正面には四階とも御納戸色と白とで瀟洒とした模様が施してある。
裏庭の雑木林が少しの黄色を残して居るのが横手の空地から見えて居た。之が東洋に迄も名を知られた大詩人の寓居であらうとは思はれぬ程、粗末な田舎家である。下の室の窓から季節外れの淡紅色の裳を穿いた十七八の娘が首を出して居たので「詩人は居られるか」と問ふと「知りません、門番にお聞きなさい」と甚だ素気ない返事をする。我が大詩人を知らないとは怪しからんと同行の内藤理学士に囁き乍ら、内に入つて門番の婆さんに尋ねると、愛嬌の好い田舎気質を保つて居る婆さんは、夏の旅行から引続いて未だ詩人の帰つて来ない事を告げた。「何時お帰りだらう」と問ふと「こんなに曇り勝な寒い季候には何処に居られても面白く無いでせうから二週間以内には屹度帰られるに違無い、然うぢやありませんか」と笑ひ乍ら云つた答が面白いので、僕等は詩人に就ていろんな事を尋ねた。写真で知つて居る詩人の垂下つた長い髭は最う白く成つて居るかと云ふ様な事を聞いた。詩人は故郷の白耳義を旅行して居るのである。婆さんは日本のオト大将と島川少将とを一度泊めた事があると話したが「オト」は奥の間違かも知れない。此婆さんは「戦ぐ麦」の中の「小作女」と云ふ詩に歌はれた人好のする快濶な婆さんである。(十月二十日)
夕方ノエル・ヌエ君が訪ねて来た。貧乏な若い詩人に似合はず何時も服の畳目の乱れて居ないのは感心だ。僕が薄暗い部屋の中に居たので、「何かよい瞑想に耽つて居たのを妨げはしなかつたか」と問うたのも謙遜な此詩人の問ひ相な事だ。「いや、絵具箱を掃除して居たのだ」と僕は云つて電灯を点けた。壁に掛けて置いたキユビストの絵を見附けて「あなたは這麼物を好くか」と云ふから、「好きでは無いが、僕は何でも新しく発生した物には多少の同情を持つて居る。力めて其れに新しい価値を見出さうとする。奇異を以て人を刺激する所があれば其れも新しい価値の一種でないか」と僕が答へたら、ヌエは苦痛を額の皺に現して「わたしには解らない絵だ」と云つた。ヌエは内衣嚢から白耳義の雑誌に載つた自分の詩の六頁折の抄本を出して之を読んで呉れと云つた。日本と異つて作物が印刷されると云ふ事は欧洲の若い文人に取つて容易で無い。況して其れで若干かの報酬を得ると云ふ事は殆ど不可能である。発行者の厚意から其掲載された雑誌を幾冊か貰ふのが普通で、其雑誌の中の自分の詩の部分の抄本を幾十部か恵まれるのが最も好く酬いられた物だとヌエは語つた。僕は其れを読んだ。解らない文字に出会す度にヌエは傍から日本の辞書を引いて説明して呉れた。七篇の中で「新しい建物に」と云ふ詩は近頃の君の象徴だらうと云つたら、ヌエは淋し相に微笑んで頷いた。君が前年出した詩集の伊太利に遊んだ時の諸作に比べると近頃の詩は苦味が加はつて来た。其丈世間の圧迫を君が感ずる様に成つたのだらうと僕は云つた。
午後七時に内藤理学士が来た。今夜三人で食事をしようと約束して置いたのであつた。外へ出ると朝から曇つてた空は寒い劇しい吹降に成つて居る。リユクサンブル公園の前まで歩いて馬車に乗つた。途中でヌエはユウゴオやサント・ブウブの[#「サント・ブウブの」は底本では「サントブウブの」]住んで居た家家を誨へて呉れた。ヌエが厳格な菜食主義者なので巴里唯一の菜食料理屋へ行つた。同主義者の男女が大勢食ひに来て居る。独逸の菜食主義者には肉を食つては成らない病人が多く混じつて居ると聞いて居たが、今夜の此処の客に病人らしい者は見当らなかつた。菜食料理と云つてもバタや牛乳を用ひるのだから日本の精進料理と同様には云へないが、黒麦の茄でたのに牛乳を掛けた物などは内藤も僕も少からず閉口した。唯だ何かの野菜の太い根を日本の風呂吹の様にした物だけが気に入つた。酒も酒精[#ルビの「アルコホル」は底本では「アルコネル」]を抜いた変な味の麦酒が出た。這麼物を食つて一人前五フラン以上払はされたのを見ると菜食料理は倹約になる訳で無い。此家の入口の右手は本屋に成つて居て諸国の菜食主義の出版物許りを並べて居た。
食後、僕等は是からクロツスリイ・ド・リラの火曜会へ行く積だと云つたら、ヌエが詩人等の集まるのは九時後だから其れ迄の時をわたしの下宿で費しては何うだと云ふので其言葉に従つた。度度傘を紛失して買ふのも癪だと云つて居る内藤は僕の傘の中へ入つて歩いた。自動車にでも乗らうと云つたが、謙遜なヌエは近い所だと云つて聞かなかつた。ラスパイユの通りへ出た。Aの字形に間口を引込めて建てた大きな家をヌエは指さして、あの妙な恰好の家の理由を知つて居るかと問ふた。何時も変な建物だと思つて見て通る許りだと内藤が云ふと、以前まだ此辺[#ルビの「このへん」は底本では「これへん」]が森であつた時分にユウゴオが此処に住んで居た。あの家の前に曲つて立つて居る木はユウゴオが手づから植ゑたのだ。あの一本の木を旧の位置の儘保存する為に這麼形の家を建てたのだとヌエが云つた。髑髏洞の手前の獅子の銅像のある処まで来た時、あの獅子の体が雨に濡れて居るのは油を掛けた様だとヌエが云つたので、流石に詩人の観察だと数学者の内藤が感心して居た。其処から左へ折れて巴里天文台の傍のヌエの下宿の三階へ上つた。
若い詩人は其粗末な小さな部屋を小綺麗に片附けて居た。一つしか無い窓を開けると小路を隔てて塀の高い監獄の構内を直ぐ見下すのである。妙な処に住んでるね。朝夕に囚人を見下すのは残酷だと云つたら、皆自分の影だ、成るべく其窓の方へ寄らない様にして居る。併し今時分あの監獄の黒い窓や疎らな灯火を見るのは好い。其処に沢山の人の慰安と平和がある。却て自分には彼等の様な穏かな眠が無い、夜も生活の資を得る為に働かねば成らないからとヌエは云つた。
ヌエは三方の壁に書棚を掛けて、其れをクラシツクと現代大家の作と自分と同じ程の青年作家の物とに区別して居る。寝台の外に一つの卓と三脚の椅子とを除けば是等の書棚がヌエの貴い家財の凡てである。僕が殆ど若い作家の詩のみに留意して居る事を知つて居るヌエは、一方の書棚の前に立つて洋灯を左の手で照し乍ら、其等の若い詩人の詩集を抽いて一一の作者の特長や詩の題目及び傾向を簡潔に聞かせて呉れた。中にもレオ・ラルゲエやエル・メルシイやジユル・ロオマン等を褒めた。ロオマンの「群集年活は世人に顧みられないで絶滅に成つて居るが[#「居るが」は底本では「居るか」]、此若い詩人は劇場、珈琲店、競馬場、寄席、音楽堂、市場と云つた風の題目を好み、多数人の群居した心理を歌ふ。「壁を撤した生活」と云ふ詩には巴里の夜の街のどの家の壁も作者の前に無くなつて各人の心持が大音楽の様に聞える光景を歌つて居る。其れから與謝野夫人に見せたかつたのはエレンヌ・リセルとエミル・アルネルと此二人の女詩人の詩集だなどとヌエは云つた。是等青年詩人の詩で多数の若い詩人の間に愛誦せられる物も稀にあるが、大抵は世に知られずに古本屋の庫の隅に葬られて仕舞ふ運命を有つて居る。併し黄金は砂中に在つて人間の手に触れない方が黄金の質を汚さないで好い。詩は詩人の心に生きてさへ居れば満足であらうとヌエは附足した。僕は心の中で詩の盛で無い国に生れた日本の詩人を幸福だと思つた。仏蘭西などに在つては何かの機会で世に著れた詩人の下積に成つて、老も若きも多数の作家は全く泛ぶ瀬を失ひ、勢ひヌエの様に諦めを附けて独を楽しむ外は無いのである。
僕等は今夜斯うして夜通しでも話して居たい気持に成つた。併しヌエが何か夜業をする妨げをしては好くないと思ひ、又火曜会も一寸覗いて見たかつたので此下宿を辞さうとしたが、平生から淋し相なヌエが殊に今夜は一層淋し相に見えたから、僕は一人残して置かれない気に成つて、君も僕等と一緒にリラへ行かないかと云つた。然う云ふ会合に加はることをヌエが好かないことを知つて居る僕等はヌエが多分当惑するだらうと思つたら、わたしは多くの時を有たないが一寸なら行つても好いと云つた。雨の中を又歩いてリラへ来た。
其処にはもう大分詩人が集まつて居た。ポォル・フォォルの夫人が令嬢を伴れて奥の方に来て居た。
夫人の左には詩の評をする某夫人、右には二十前後の女詩人が三四人並んで居た。僕の後から日本でなら小山内君兄妹と云つた様な若い詩人が妹の手を取つて入つて来た。どの文人も皆最初にフォォル夫人に挨拶して握手した。幸ひ夫人に近い場所に一卓が空いて居たので僕等三人は其れを囲んだ。詩人に交際の少い、否寧ろ交際を避けて居るヌエは誰とも握手をしなかつた。皆思ひ思ひに好む飲料の杯を前に据ゑて雑談に耽つて居る。暫くして気が附いたが稍離れた後の卓に滿谷、徳永、小柴、柚木、などの画家が食後の珈琲を取りに来て居たので僕が挨拶に行つたら最う立上つて帰る所であつた。一人の若い詩人が入つて来て僕の隣へ坐つた。其男をヌエは知つて居て互に手を握つた。其男と内田魯庵氏の様な風采の中老人とが頻りに稿料の話をして、中老人は誰が何を書いて幾百フラン儲けたと云ふ様な事を細細と話して居たが、後で聞けば其中老人は文学雑誌フワランジユの主筆であつた。
ポォル・フォォル氏が遅れて遺つて来た。僕は此人の詩を読まないが散文詩許を書いて近年巴里の若い詩人の人気を一身に集めて居る大家だ。此夏詩人王に選挙せられたが、真面目な選挙で無いと云ふ批難を少数の識者から受けて居る。今夜の会に集つた若い詩人は大抵此人の崇拝者である。四十五六歳の筈だが三十五六にしか見えない若い男だ。黒い髪を長く垂れて反身に成つて気取つた物言をする。場内を卓から卓へ軽卒しく歩き廻つて何人にも愛嬌を振撤くのを見ると其れが人気者たる所以であらう。僕が此人と物を言ふのは今夜が初めで多分又同時に最後であらう。僕が持合せた紹介状を出すと「おお是れはレツト君の手跡だ、中を見ないでも解つて居る」とフォォル氏が云つた。彼と握手をする時何うした機会か僕の足が老人と話して居た若い詩人の卓の下に引掛つて[#「引掛つて」は底本では「引掛て」]其上の杯が高い音を立てて覆つた。其音に場内の視線は皆僕に集つたが、誰一人顔や声に出して笑ふ者の無かつたのは感心だ。過失を僕も若い男に謝したがヌエも僕の為に謝して呉れた。フォォル氏はいろんな文人を僕に引合せた。其中にバルザツクの旧宅を保管して居ると云ふ老人は内藤鳴雪翁そつくりの顔をして居た。フォォル氏は僕に名刺を呉れると云つて夫人と一緒に探して居たが、やつと一枚服の衣嚢の何処からか見附出して皺を直し乍ら呉れたのは黄色く成つた古名刺であつた。僕は此名刺の古茶けたのを受取つて、矢張詩人らしい無頓着な所があると思つた。十二時を過ぎると例の自作の朗読などが始まるのだが、僕は風邪の気味を覚えたのと、ヌエが不愉快を忍んで附合つて居て呉れるのが気の毒なのとで内藤を促して帰つて来た。(十月二十八日)
平野丸より良人に(晶子)
[#「平野丸より良人に(晶子)」は底本では「平野丸より良人に」]かばかりの炎※[#「執/れんが」、U+24360、408-5]は未だ知らぬ身なりしかなと、日も夜も苦しみ続け候ふ程は、この航海よ、我想像の外なりし世界を歩むよと憎く、甲板に出でて浪の起伏を見候ふことも悲しく、ベツドの中に朝より読書のみ致して髪も唯梳きて根束ぬるばかりのさまにて居り候ひき。旋風器の起す風はわが髪の雫たるる濡髪となるをすら救はず候へば、その音の頭に響く音の愈疎ましく覚え、それも止め候うては身は唯※[#「執/れんが」、U+24360、408-9]湯の中にあると思はばよからんと心を定め申し候。さは云へ身の衰へ行くを思ひ候ふて束の間の眠をも得たき願ひに夜は何時も氷を頂きて寝ね申し候。紅海に出でて四日目の夜は睡眠の欲と外囲の苦しさとに枕持ちて甲板の籐椅子を床としに出で申し候。灯の一つ二つ残れる広き所に散りぼひたる長椅子の上には、私より先に早や三四人の人、白き団扇を稀に動かしつつ眠を求めてあるを見受け候。三十分もその一人となりてあり候ひけん。くらがりの海のものおそろしさも、衰弱の極となれる神経を刺すこと多く、はてはもとの※[#「執/れんが」、U+24360、409-4]湯の中に死なずして目を開く魚となり申し候ひき。其頃私が人に打語りしことに心細き筋多かりしに候ふべし。明日の朝より印度洋の向ひ風吹くと云ひて船員達の喜びて語れる夜のやや更けゆくに、早く私の船室の窓は風を運び初め候。いかばかりの嬉しさに候ひけん。翌朝はわが室附の男女の顔に血の気多く見えしは思ひなしにや。運動会、競技の会、この日より続続行はれ、私も漸く船内を散歩しまはるやうになり申し候。後方の下甲板には何時も二十を四五まで越せしと見るばかりの品よき英国紳士十五六人、四五人づつ横の列つくりて手を取り合ひ足揃へて歩めるを見受け候ふが、この人達は香港へ巡査となりて渡る人と云ふことを赤塚氏より聞きて知り申し候。大英国は羨むべき国よなど密かに思ひ申し候。この甲板へ藁蒲団敷き詰めて角力の催しなどもありしよしに候。私の室附の山中は五人抜きの勝利を得し由に候。大阪生れの者にや梅やんとか云ふ優名を呼ばれ居る人がと可笑しく候ひき。ボオイの仲間ばかりならず白人の客人も多く負かせしとかに候。私の見候ひしは洗濯の競技にて、香港へ行く若き人達に貴婦人の一部うち交りて、出火の際の水を運ぶ桶に七分の水を入れたると、洗濯石鹸一つづつ前へ置き、ボオイが大籠に入れて穢れしタオルを持ち来るを、目に見分けず後へ手をやりてその一つを皆の取れば初めの笛鳴り、中にも紳士はホワイトシヤツの袖口を厭ひもあへずしやぶしやぶと洗濯を初め候。地の厚きタオルなれば、彼のいひなづけの許に行き給ふ中の一人二人の姫達のために私はいたましき気の致し候。審判長は鷲鼻せる英人の大僧正に候。見る人見らるる人の笑ひ声の中にまた笛鳴りて、ボオイの引ける麻綱の上にタオルは乾され申し候。この競技の審判の陪審官は女の中より出づるよし聞き候ひしかど、乾きし上にて決ることに候へば、私はその儘帰り申し候。前方の下甲板には水泳場の設けられあり候。実は早四五日の前、紅海に入りてよりの設備なりしことにも候ひけん、私は今日迄知らざりしに候。ベツカの愛女マリイの君は黒の水泳服、ヱヂツの君はお納戸の服着て船長に泳ぎを習ひ居給ふを見申し候。男女と一時間おきに代るよしに候。向ひ風の日になりたりとは申すものの有るは印度洋に候。額髪の湯のしづく落す苦しさも昼と夜に一度づつは嘗め申し候。ベツカ夫人、君は寿命のあり給はばコロンボに上陸し給ふやと或日私を諷し給ひ候。心弱き人は醜くも候ふかな。子を見ん命、君を見ん命のさばかり惜しく歎かるるにて候ふべし。明後日コロンボに入ると云ふ日の夜、音楽会のありとてベツカの君誘ひ給ひたれば、例は波の音に唯聞き耽りて過ぎし日のまぼろしを追ふ頃を、髪上げ衣更へて甲板に出で申し候ふに、はや会場の整ひ居り候ふて、私は招かるる儘に大使の姪とやらん聞えたるスペインの貴婦人に並びて前列の椅子に着き申し候。飾電気の灯火常よりも倍したる明るさをもて海のくらがりを破るありさまは、余りなる人の子よと竜神の怒らずやなど思ひ申し候。初めの程のピヤニストの勝れたれば声曲家は皆色なく見え申し候。かの香港へ志し給ふ若き人達の中よりも弾手歌ひ手の代る代る出で候ひしは物優しき限りに覚え申し候。中に至りて大僧正の君立ち給ひ、この程の競技に勝ちたる人人を呼び出すを、そが美しき夫人、一人一人の手に賞を与へ申し候。一人にて十四五の賞得しはかの香港への君達の中にて候ひき。それより後方の甲板に立食場は開かれ、案内致されし私は僧正の君の勧めにて、サンドウヰツチ、アイスクリイムなどの御馳走を戴き候。平野踊の舞人と思はるる黒紋附に白袴穿きたるいでたちのボオイ達、こちたく塗れるおしろいの顔、出場を待遠げに此方彼方するが、夜目に変化のものの心地もせられて可笑しく候ひき。遠州灘を夢の間にとか云ふやうなる歌に合せる手は誰の附けしか知らず、四人の舞人二人づつからみ合ひ候ふ振の奇妙さ、顔と顔擦る注文通りに合はぬ気の毒さ、中に座頭と見ゆる端の舞手はわが風呂を世話する男に候。地なる太鼓三味線の擲らるる如き音たて申し候ふこと、彼の倫敦の地下の家にて聞きし印度楽の思はれて独り苦笑致し候。その夜帰りてよりまた心地悪しくなり申し候。コロンボに着きしは九日の朝に候ひき。木彫の羅漢達の如き人人船の中を右往左往し、荷上げの音かしましき中へ私はまたよろめきながら出で行き候。窓の皆閉さるる苦しさ、港なる日は船室にあるにもあられぬために候。妹の料にとて宝石二つ三つ求め候ひしは土地にて名の知られし商人に候やらん、我等を見て日本の大使、公使、大武官、小武官、学者、実業家の名刺を数知れず見せ候ふがうるさく候ひし。はては私のをも乞はれ、与へ候ふに、よき商人なりと云ふ筋を書けよと重ねて乞はれ候ひしかば、
この人は何をあきなふ恋人の紅き涙としろき涙と
と致して逃げ出し候。此処にてもまた文得給ふ人多く候ひき。安達様御親戚の君ボンベイより[#「ボンベイより」は底本では「ボンペイより」]来てあり給ふ筈なるが、昼過るまで船へ見え給はず、夫人の心づかひし居給ひしはこの船の一日早く入港せし故とお気の毒に思ひ申し候。午後は此君達あらかた留守になり申し候。残れるは小き人伴へる婦人達のみ、さあらぬは私の如き病人に候。スペインの君は幼き人二人伴れたる身にて、なほ病がちに弱げなるをいとほしく何時も見てあり候。もつとも支那人のまめまめしき乳母は随へるに候。結婚して六年間に六度海越えて故郷を見に行くと云ひ居給へるを、思ふ儘に事する憎き婦人なりと云ひ合へる男達もあるよしに候。この君の室は私などの室よりは一階下の食堂の隣に候。やや広ければ特別室とせられ、価も其れに添ひたるもののよしに候へど、機関に近く窓の小さければ、特別は特別に※[#「執/れんが」、U+24360、414-3]き意なりしかなど船員を揶揄しあるを見申し候。新聞の届きしとて人の見せ給ふを見れば何れも既に巴里の宿にて読みしものに候へば、今更の如く水上に日月なしと覚束なさを歎かれ候ひき。今宵出帆する予定の変りて明日未明に碇を抜く由に候。錫蘭ルビイ、錫蘭ダイヤ、エメラルド、見切りて安く商はんと云ひつつ客を追ひ歩き候ふ商人は、客室の中にまで満ち申し、行く処もあらぬ儘に一隅に小く腰掛け居れるに、後の窓より貴婦人貴婦人と云ふ人人のあり候ふに、見返ればこれも宝の玉安げにざらざらと音させて勧むる群に候ひき。梛子を松と見れば唯大磯あたりの心地する海岸のホテルども、夜は木がくれの灯の美しく見え申し候。赤塚氏は父君への御土産に菩提樹の実の珠数玉を買はんと再び船を雇ひて出で行かれ候。夜は暑くるしき床の中に、西部利亜の汽車の食堂にありし二十ばかりのボオイの露人、六代目菊五郎に生うつしなりと思へりしに、今日見し荷揚人足の黒人奴の中に頭くるくると青く剃りたりし一人がまたその六代目の顔してありしことなどを思ひ出でて可笑しがり居り候ひき。十日の朝八時頃、※[#「執/れんが」、U+24360、415-6]田丸の此処に入港せしと云ふを聞き、私は心ときめき申し候。去年君の乗り給ひたればとて今その影の留まれるならねど、ゆかりはうれしくはた悲しきものに候。行き違ひたらばとの懸念より新聞など皆新嘉坡に置き来たりしとか、ボオイが彼の船のことを云ひてあるうちに早私の船は進行を初め候。なつかしき船は終に私の目に入らぬものに候ひき。この日の夕飯は食堂のも日本料理なれば彼処へ出で給へとの人の言葉を反くも少し憎げなりと思ひ候ふうへ、物好き心も進み居り候ひけん、私は船に入り候うて後初めての洋装を致して下へ参り候。料理は鮪の刺身、照焼の魚、鴫焼の茄子、ひややつこ、薩摩汁などに候ひき。さ候へど、この日は浪やや高く、殊に昨日より今日まで一日一夜の静止の後に候へば、客人達は船酔ひがちに食事も進まぬ様に候ひき。赤塚氏朝夕二度来給ふこと変らず、独逸と仏蘭西をかたみに賞め合ふ事のみ致し、英は大国の風ありとのみをよき事にして話より何時も遠ざけられ居り候ふも、こはこの小き一室のみの事にて、まことは満船の客英人ならぬは敷島のやまとの国を故郷として帰る七人と、独逸人一人、西班牙人一人、仏蘭西人一組の夫婦あるのみに候。彼れも英人なりと誇かに云ひし黒人のドクトルはコロンボにて降りしに候。
十月十四日の午後の出来事を先づ書くべきに候はん。その前夜私常よりも一層眠り苦しく、ほとほとと一睡の夢も結びかねて明かせしに候。昼餐を運ばれ、服薬を致しなどせし後、何程の時の間にてもなく候へど、意地悪き迄の深き眠りに落ちしに候。目覚め候ひしは前の甲板、上の甲板に起りし騒音の神経を叩きしにて候。多くの人の足音、入り交る声、波ならぬ喞筒とも覚ゆる水の音、また桶より流す水の音、また例の火事の際の予習の初まりつれ、最上層の甲板にてはボオトを降ろすならんなど、寝返りして目の開きし瞬間に我が思ひしは之れにて候ひき。
急ぎ足にて自室に帰り来給ひし安達氏が、夫人に、
「火事ぞ。」
と云ひ給ひし声よ、いかばかりの驚怖を私にも与へ候ひけん、思ひ出づべくも余りに複雑に候。されどまた、
「さばかりのものならねど。」
と続きて云ひ居給ふに聊か心落ち居候ひぬ。この時起き上らんとする心ながら手の一つも私は動かず候ひき。いかなる際と云ふとも、この部屋に夜も昼も籠れる女の一人を忘れ給はぬ人の幾人かはあるべし。溜息つくうちに、私は斯く思ひ申し候。ボオイの松本の顔の現はれ候。
「煙の臭ひうるさしと思さずや。」
「否。火は何処にて。」
「右舷の客室。」
「なほ燃えてあるや。」
「今少し。さらば、用おはさば召し給へ。」
この男の出で行きし後、何時の程にか我身の力附きたりと云ふよりも常に倍したる活気を覚え候ひて、私は手早く身づくろひを致し終り候。
「與謝野の君、火のありと申すなれば、とにかく御身一つの用意ばしなさせ給へ。」
安達夫人は静かに帷の外よりかく云ひ給ひ候。紙入を唯一つふところに入れて廊下に出で候に、此処は出水のさまに水行きかひ、草履穿の足の踏み入れ難く覚えられ候ひしかば、食堂の上の円き欄に一人もたれ居しに、安達氏、富谷氏など来給ひて、早や消火し尽したる如しと仰せられ候。原因は電線の発火に候ひき。それより後二夜は満船蝋の火の光に夜を照し続けられ候。くらがりの海を外に漏り難き弱き火を点けて船の進み行くさま、昔の遠洋航海のさまも思はれ申し候ひき。かかる時船ばたの燐の光の時得顔に金光を散らし候ふこと、はためざましく候ひき。カトリツクの尼君昨夜紐にて燐を釣られしなど語る人もおはしき。喪の国へ帰り行く船と申す如き心地も此夜頃に深く身に沁み候ひしか。ピアノの音、蓄音器の声もせず、波の響のみ凄げに立ち居り申し候。
公園と植物園に行く事、乗物は自動車にする事、同行には船附のドクトルの君または赤塚氏にお頼みする事、私も洋装する事など、新嘉坡[#「新嘉坡」は底本では「新坡嘉」]入港と云ふ十六日の朝より、いく度、小林夫人と大事の如く語り合はれ候ひけん。されどそれも皆夫人が足運び来給はるにて、私は此日も甲斐なく寝台に横たはり居りしに候。昼前に久し振にて鬢にさし櫛する髪に結ひ上げ候ひしは、帽子の留針のために候。鼠色の服を着け候て、帽は黒の羅を覆へるをして甲板に立ち候に、私を不思議相に覗き行かぬはなく、恥しく候ひき。いよいよ船の港に進み入り候に、丸木船漕げる土人多く見え申し候中に、十二三の子の一人乗りたるを見て、
「君の如き子よ。」
と小林氏の子息に私語き申し候。光るに戯ぶるると覚えて心も嬉しく候ひき。此港に許嫁を見給ふ三人の花嫁の君の顔覗き見ずやと云ふ人のありしは誰に候ひけん。桟橋に船の着き候に出迎への人多く、ほとほと百に余り候人の一時に船へ進み入り候。終に花婿の君達もそれと見分け得ず候ひき。此頃より我心地悪しくなり候ひしは陸の※[#「執/れんが」、U+24360、420-5]風ひたと船に迫り来りし故かとも思ひ候。鈴木を尋ね、預けたる鍵を受取りて部屋に入り、私はまた靴の儘うち臥し居ることになり申し候。此処にて必ず得べきものと思ひし家よりの手紙を手にするを得ざりし力落しも加はり候ひけん。小林の君、赤塚の君皆上り給ひ候。四時頃に悩ましさのやや静まりたれば絵の具箱をもちて廊甲板に座を取りスケツチを一枚いたし候。たそがれと云ふもののなき辺とは聞き候ひしが、絵筆を持てる時とてより強くその感を味ひ候。今日より点火されし遊歩甲板の電灯の光にて、水色の麻のナフキン、象牙の箸、象牙の櫛など勧めらるるが儘にあがなひ候。初更の頃、甲板の長椅子に居り候に、オルレアンやツウルあたりの野の雛罌粟の花の盛りの目に見え候うて私は泣き申し候ひき。尋ばかり隔たれる後の方に居給ひし安達夫人の何事かと歩み寄り給ひしこそ恥しく候ひしか。
「雛罌粟の盛りの頃には猶未だ一人して故郷を見に帰るべき心ゆめ持たず候ひき。」
かく語りし時、彼の君の御目にも光る露の見え申し候。
「明日領事の奥村氏が我等を招かんと云ひ給ひしが、曲げてその仲間に加はり給へ。今日逢ひしに君の上をいとよく知り給へば。」
と、この時勧められ候ひき。今日の如く早くより支度せず、静かに其時までなし居てなど心に思ひ候ひて、
「嬉しき事に思ひ侍り。」
と答へまつり候。夜もすがら前の甲板に荷を積む音の私を眠らしめず候ひしが、なほ其あたりに立働く人の上を思はれぬに候はねば腹も立てず候ひき。翌日は朝より赤塚氏の訪ひ来給ひてさまざまの興ある話を聞かせ給ひ候、昨夜の散歩に天草辺りより来れる哀れなる女達の住める街を通り給ひて、門涼せる二人の女の故国人と見て語りし身の上話などにて候ひき。
領事館のあるは市の外なる山の中にてほぼ三里の路に候。自動車にありて二十分が程に我眼の見し所のもの総て珍しからぬはなかりしこと、幾多の西の国にも勝り候。裸体の車夫が引ける武者絵の人力車に相乗せる裸体人、青物市場などに見る如き土間に売品を並べたる商家よ、中形の湯帷巾を着たる天草女よ、あなさがな、悪きは数へ候ふまじ。焔の木と云へるアカシヤに似たる大木の並木が附けし火の雲、二月の花、三月の花、はた楓の紅葉の盛りを仮にも紅しと思ひ候ひけん、かばかり積極的なる植物はまだ見知らず、魂を奪はれ候ひき。
奥村氏の家は青銅色に塗られしものにて、突出されたる楼上の間の八方は支那簾に囲はれ、一間二間それの掲げられたるより、なつかしき雛罌粟の色せる絹笠を被たる灯火の見ゆるを下より仰ぎ見候ひし時、いかばかり心をどり候ひけん。欄近き籐椅子に倚り候ふに、見渡さるる限りのオレンヂの森、海のやうにて、近き庭には名も知らぬ百花、百花と云ふ字の貧弱なることよ、万花とや申し候ふべき。宿り木、蔓などにて少くも一木に五色の花附けぬはなく候へば、実れる木も多く、葉の紅葉はた雁来紅の色したる棕櫚に似たる木など目もあやに夕闇に浮び居申し候ひき。夢ごこちなる耳に遠方の虫の声の入り来りしこそ云ふよしもなき艶かしさを感ぜしめ候。日本食のかずかずの御料理頂きしよりも猶主人夫妻の君の私をもてなし給ふ厚さの嬉しく候ひき。帰り候時、車に乗りし私に、「夫人よ、心強く持ちてあり給へ」など云ひ給ひ候。望まれて書きし歌に君のことの思はず出で来りて、密かに拭へりし袖の雫や見られ候ひけん。卓にかざられし緋と桃色のホノルルの花を束にして私等女三人に取らせ給ひ候。新婚し給ひて一月とか云ひ給ひし郵船会社支店長某氏の夫人に、
ホノルルは何を祝ひて咲くやらん此若き日の妹と背のため
と書きて贈りしその花に候。奥村氏の前庭の紅木槿垣に這ひまつはりしもその花に候。翌日は早ほろほろと船室の中に紅を零し候。十八日に新嘉坡を出で、二十三日に香港に入り候迄また私は甲板を覗かんともせず候ひき。気候は次第に冷になりセルさへ軽きに過ぐる心地する夜もあり候。新嘉坡にて積まれし数数の※[#「執/れんが」、U+24360、424-6]帯の果物は食事の度に並べられ候。マンゴスチンと申す茄子の如き色形せるもの、皮やむくべき、甘き汁を吸ふ事やすると惑ひ居り候ひしに、鈴木の来りて、二つに竪に割りて中子を匙にて食へと教へ申し候。これを中中味よきものと私は覚え申し候ひき。機関長の君の見舞に見え、欧洲より極東まで寝て通り給ふ君などと諷し給ひ候。大阪の小野氏に此船中にて初対面を遂げんとはゆめ思はざりしことに候。十二三年前に文の上の交りせし同氏は今新嘉坡より五六十里奥の山にて護謨の栽培に従事され居るよしに候。兄君の病重ければとて大阪へ帰り給ふ不幸の際にいましけれど何時も話多くなり申し候ひき。初め船のドクトルの君より紹介せんと云ひ給ひし時、同じ姓持つ人、大阪の同じ町にありしが名の変り居るにやと云ひ候ひしが、当りしも不思議に候。香港の夜の灯は珠玉なりと君のかねて云ひ給ひしが、この港に入り候ひしは夕も過ぎし頃にて、甲板へ出でし私の目は余りのまばゆさに暈まむと致し候。京の円山を十倍したる様にほのかに輸廓の思はるる山の傾斜の木がくれに建てられし館どもに点れる青き火、黄なる火、紫の火、さては近き海岸の紅き火など波に映るさまは何人の想像にか上り候ふべき。夜見しにつゆ劣らぬこの山の街の朝の眺めもまた嬉しきものに候ひき。されど支那商人の来りて真鍮の器並べて商ふ、それはまだよし、孔雀の色に何時も変らぬ紺青、青竹色のこちたき色を交へし絹の模様物を左右より見せ附けられ候が苦苦しく候ひき。赤塚氏など皆云ふ迄もなく上陸し給ひケエブルカアに乗り給ひしよしに候。此処にても東京よりの文は手に致さず候ひき。書き難き節の起りつつあるにやあらんなど、思ひ候ひき。かくて漸く明日の朝薩摩富士の見ゆべしと云ふ海に来り候。これにて船中の筆とどめ申し候。かしこ。(十月廿七日)
雑誌レザンナルの主筆に頼まれて晶子が書いた「仏蘭西に於ける第一印象」に就ていろんな手紙を受取つた。東帰を急ぐ晶子は第二第三の印象を書く暇も無く匆匆として巴里を見捨てたから、其出立後に受取つた其等の手紙の中の二三を訳して晶子へ送る事とする。晶子の批評が仏蘭西中流の婦人に同情してあつた為に、反響は概ね其等の階級から起つた様である。初めの手紙は仏蘭西女権拡張会の副会頭ブリユンシユ・※[#濁点付き井、427-6]ツク夫人から来た。
私は我我の社会的約束例へば門閥、富、又は学校教育等に由て高い階級に置かれた様な婦人を敢て誹謗しようと欲するのでは無いが、私は以上の事を断言し得ると信じます。何故なれば高貴なる婦人を最も近く観る時は凡て偽造的である。凡て贅沢の陳列及び事事しき嬌飾の其等よりも、卓越した機敏と貞淑な点を却つて卑い階級の婦人に見出すのです。猶此問題に関しては複雑な討議を費さねば成らぬ筈です。
私は余りに傍径をしましたから最う休めませう。夫人よ、私は自分の驚嘆と敬意とを表明して、仏蘭西婦人の上に与へられたあなたの非凡にして公明な批判に対する感謝をあなたに捧呈するのが此手紙の目的でした。(下略)
さて私があなたに手紙を捧げる事を敢てする理由は、あなたのお書きに成つた問題に対して仏蘭西婦人の意見を知りたいと云ふ御希望をあなたの記事に見出したからです。私は市民の中級に位置して居る女ですから、あなたが私共を対象とせられた感想文は特に私を感動させました。あなたは例へば英国婦人の為す如く仏蘭西の婦人は其権利を要求しない様であるとお述べに成りました。其れは真実です。併し兎に角女権論者は我国に於ても非常な進歩を致しました。そして私一個人としては男子と女子との間が本来平等のものであると考へて居る上から女子も亦選挙権を有すると云ふ如き日の早晩到来する事を期待して居ります。併し夫人よ、政治上や社会上の或位地が女子の自然の職務と一致しないでは無からうかと云ふ事をあなたはお考へに成りませんか。私には政治上の位地を占有した婦人は比較的深い注意と興味とを以て婦人自身の義務に竭す事が出来ない様に見えます。と云つて私共婦人を退化した因循卑屈の人種であると思ふのでは無いのです。教育に由つて益自己を修養しようと望む仏蘭西の若い婦人は現に非常に多数であると信じます。ああ夫人よ、私は有らゆる手段を以て自身を教育しようと力めて居る一人です。私は無智です。私には知らない事が沢山にあります。私は読書と研究に由て常に自身を完全にしようと心掛けて居ります。併し私は沢山な時がありません。而も時は只迅速に過ぎ去ります。私は何うも未だ私の時を整理する事を知らないのでせうか。ああ夫人よ、あなたの仰つた事は道理であると信じます。併し特に下婢などの寡い、或は全く其等の者を有して居ない処の一婦人に於て家庭の仕事を節減する方法が何うして有りませうか。私の理想はお説の如く、家庭の義務及び智識上の修養を融会する事を知つた、教養ある敏活な一婦人と成りたい事です。又お説の如く子女の教育が母としての本質的の職能であると云ふ事は私にも信ぜられます。如何にも婦人は此いたいたげな愛らしい者の精神に優良な原理と偉大にして善美な愛とを注ぎ入れて未来の社会を形作ると云ふ事に其身を献げねば成らないでせう。夫人よ、厚顔にもあなたに対して手紙を書いた事を何うぞお赦し[#「お赦し」は底本では「お赦しし」]下さい。私に取つて会話の際に甚だ嫻雅であると想像せられるあなたの国語を解しないと云ふ事は甚だ遺憾に存じます。猶又たとひあなたが私の国語を御承知に成りませんとしても兎に角此手紙の内容を御会得下さる事を私は希望致します。夫人よ、此希望を何卒此差出人にお許し下さい。
私は私共の国と格段に異つた美しい国の日本婦人と話したいと常に願つて居ります。日本婦人があれ程しとやかな形の好い固有の服装を次第に捨てようとして居ると云ふ事は真実ですか。夫人よ、私の尊敬と称讃とをお受け下さい。地中海の岸も甚だ好風景に富んで居りますから少しく其れを御賞玩にお出に成りませんか。(下略)
僕は往復二ヶ月間の割引二等乗車券を買つて伊太利行の汽車に乗つた。仏蘭西から瑞西へ入ると最う真冬の景色で枯残つた菊の花に綿の様な雪が降つて居た。襞と云ふ襞を白く曵いたアルプス連山の姿は予て想像して居た様な雄大な趣で無く、白い盛装をした欧洲婦人の群を望む様に優美であつた。其れに湖は未だ凍らずに好い御納戸色を湛へ、最う遊客の帰つて仕舞つた湖畔の別荘やホテルがいろいろに数奇を凝らした美しい建築を静かに湖水に映して居たのは目も覚める心地がした。冬ですら[#「冬ですら」は底本では「冬ですから」]彩色絵葉書で見た通りの色彩に富んで居るのだから、夏の湖畔は何れ丈豊麗な風致に満ちるのだか知れないと思つた。
少年の時に地理書で教へられた長い隧道を越えて伊太利へ入り、マヂオル湖に沿うて汽車の駛る儘に風物は秋に逆戻りして、葡萄の葉は赤く、板屋楓は黄な広葉を光らし、青草の氈の上に並んだ積藁からは紫の陽炎が立つて居た。アロナ附近でベツクリンの絵の「死の島」は之に由つたのだらうと想はれる湖上の島を眺め乍ら昼食を取つて居ると、同じ卓へ向合せに着いた姉妹の英国婦人の、少し容色の劣つた姉の方が頻りに拙い仏蘭西語で僕に話し掛けて「日本は我英国と兄弟の国だ」とか「ゼネラル乃木が何うだ」とか愛嬌を撒いた。一体に他国人の話す仏蘭西語は僕等に仏蘭西人のよりも聞取よい。此方も先方に劣らず拙いのだが、双方で動詞の変化などを間違へ乍ら意思が通じ合ふから面白い。妹の方は顔を赤くして話す様な内気な娘だが、瑞西で棒の様な垂氷を見たことなどを語ると姉の方が其れを訳して聞かせた。互に面倒な言葉を要する内容の話を避ける様にするのだから随分気の利かない会話許りだが、食事が済んでも女達が席を去らないので終にミラノまで話し込んで仕舞つた。姉の方が伊太利のホテルの安心のならないことを僕に注意して、ネチヤでは自分達が先に行つて泊つて居る父の馴染のホテルへ来る様にと言つたが、一等室に乗つて居る二人に書生旅行の僕が附合へ相に無いから其親切を謝して僕はミラノへ降りた。
早速停車場から遠くない「伊太利亜ホテル」へ入つて行つた。ベデカアで読んで置いた中位のホテルだ。二日以上なら下宿並にすると主婦が言ふ。部屋代と三度の食事其他一切を込めて二日で十フランと云ふ廉い約束で泊つた。僕の姓のヨサノから想像して主婦は僕を伊太利人の子孫かと云つて笑はせた。明日の晩の、ネチヤ行の汽車の時間を下部に問うて二十三時二十分と答へられたのには一寸面喰つた。此国には午前午後の区別が無いと予てベデカア氏に注意せられて居たのだが余り唐突なので弱つた。見れば頭上の時計迄が二十四時間で書かれて居るのである。其れから僕の時計を五十五分進ませた。
夜食に鮎のフライが出た。日本の様な風味だ。鶏にあしらつた米も日本米の様に美味かつた。壜の腰を藁で巻いた赤い葡萄酒は何うせ廉物だらうが、巴里で飲んだ同じ物より本場丈に快く僕を酔はせた。
ミラノは伊太利の大阪だ。商工業地として仏蘭西の里昂と同じ程度に活気に満ちた街丈あつて僕の様な風来の旅客には落着いて滞在の出来ない土地の様だ。町の名にダンテ、※[#濁点付き井、437-11]ンチ、ガリバルヂイ、マクマホンなどと耳慣れた偉人の名が附いて居るので忙しく見物して廻る者の記憶に便利である。先づ市の中央にある大寺院ドオモを訪うた。是迄竪長いゴシツクを見慣れてた目に此方形に大きな伊太利式ゴシツクの荘美と優美とを兼ねた外観に驚かされた。外壁の上の彫像は二千躯あると云ふが一一に好い形をして居る。ベデカア氏は月夜の光景を賞めたが、此下で折柄の時雨に立濡れた僕の感じも悪くなかつた。二万人を容れ得ると云ふ堂内には、暗い中に立つた幾十の大石柱が四方の窓の濃麗な彩色硝子から射す薄明にぼんやりと白んで、正面の聖壇には蝋燭の星が黄金を綴り、其前の椅子には幾列かの善男善女が静に黙祷に耽つて居る。精進の悪い僕も思はず靴音を偸んで歩まねば成らなかつた。
ドオモの前の広場には伊太利皇帝としての奈破翁の騎馬の記念銅像があり、其処が各所に通ずる電車の交叉点丈に人と車で雑沓を極めて居る。僕がドオモを出ると三人の怪しい男が寄つて来て、初めはポルトガル語で、其れから英仏両語で食事を一緒にしようなどと勧める。僕の顔は何う云ふ訳か、兎角ポルトガル人に[#「ポルトガル人に」は底本では「ホルトガル人に」]間違へられる。支那人と云はれるよりか余程気持がいい。ポルトガルも[#「ポルトガルも」は底本では「ホルトガルも」]今こそ衰へたれ、欧洲人の一部である。さて其等の男に口を利かれて、伊太利の険呑なのは之だと思つたから、僕は答もせずにずんずんと附近の宏荘な商品陳列所※[#濁点付き井、439-2]ツトリオ・エマヌエルの中へ入つた。其処を通抜けて※[#濁点付き井、439-3]ンチの石像のある広場で絵葉書を買つて居ると横から口を出す奴がある。見れば今の三人だ。斯麼奴に見込まれては溜らないと思つて、急足で伊太利銀行の前へ出て折好く来合せた六号の電車に飛乗つてサンタ・マリア・デレ・グラツチイ寺の方に向つた。
此寺の式は何と云ふのか知らないが、赤煉瓦造の大分東洋臭い古い建築である。聖壇がモザイクで出来て居る。内院の廊の壁に坊さん達の肖像を濃厚な色彩で描いたのが大半剥げて居る。もう夕暮だつたが有名な食堂の壁画を観ることを許された。僕の此地へ留つたのは実はロンバルド派の第一人たるレオナルド・ダ・※[#濁点付き井、439-10]ンチの此「最後の晩餐」の為であつた。一方に小さな窓が一つある許の暗い室だから善くは見えないが、僕は望遠鏡を取出して眺めた。模写で見て居たのと異つて剥落を極めて居る。基督の顔が女の様に描かれて居た。
翌朝は早く出てブレラの美術館が開くまで市内の各所を駆歩いた。スフオルチエスコの古城は方形の珍しい城であつた。其後の新公園を朝霧の中に濡れた落葉を踏んで凱旋門まで抜けたのは気持を清清させた。其処で逢つた三人連の小学の女生徒が黒い服に揃ひの青い帽を冠つて背嚢を負うて居たのは可愛かつた。一人は俗謡らしい物を歌ひ一人は口笛を吹いて其れに合せて居る労働者にも其処で逢つた。サン・ロレンツオ寺の頽れた古廊も秋の季節に見るべき物である。
美術館では沢山あるリユニイの絵を面白いと思つた。ラフワエルの「処女のマリア」は呼物であるに拘らず芝居掛つた有難くない絵であつた。※[#濁点付き井、440-8]ンチの作だらうと云ふ「基督」は一も二も無く※[#濁点付き井、440-8]ンチに決めて仕舞ひたい程佳い絵である。之も女らしい基督で、顔にも髪にも緑色を用ひたのが其の悲し味のある表情に適して居た。
午前四時にネチヤへ着いた。水の上の街は夜霧の中にぼんやりと黒く浮いて居る。乗客の少い夜汽車から降りた三十人程の者は夜が明けて後に来る一銭蒸汽を待つ積か大抵停車場の待合室へ入つて仕舞つた。前の岸には五六隻のゴンドラが寄つて客を呼んで居る。三四人其れに乗る人もある様だから僕も其内の一隻へ飛乗つた。いや飛乗らうものなら直ぐに顛覆するに決つてるが、其れと見て岸に居る一人の立ン坊が船を押へて呉れる。其処へ船の中から差出す船頭の手につかまつて徐つと乗つたのだ。早速立ン坊君に五文銭一枚を与へねば成らなかつた。ゴンドラは軽く跳る様に水を切つて小さな運河へ入つた。天鵞絨を張つた真黒な屋形の中に腰を掛けた気持は上海で夜中に乗つた支那の端艇を思ひ出させた。狭い運河の左右は高い家家で劃られ、前は暗と夜霧とで二間と先が見えない。運河は矢鱈と曲り、曲り角の高い壁に折折小さな瓦斯灯の霞んでる所もある。出会ふ舟も無いのだが、大きな曲り角へ来る度に船頭が「ホオイ」と妙に淋しい調子で声を掛ける。あとはなみなみとした水を切る櫓の音許りだ。一人乗つてる僕は大分心細かつたが二十分の後に再び大きな運河へ出て詩人の名を家に附けたホテル・カサ・ペトラルカの門前へ着いたのでほつと安心した。門の鈴を船頭が稍久しく押してると、之がネチヤ美人と云ふのだらう、目の大きく張つた、チチヤノの絵に見る様な若い女が寝巻の上に遽に着けたらしい赤い格子縞の前掛姿で白い蝋燭を手にして門を開けて呉れた。
一寝入したと思ふ間も無く寺寺の朝の鐘が遠近から水を渡つて響くので目が覚めた。窓の下が騒がしいのでリドウを揚げると運河には未だ水色の霧が降つて居る。弱い朝日の光が霧を透すので青青とした水が、紫を帯び、其れに前の家家の柱や欄干や旗やゴンドラを繋ぐ杭などが様様の色を映してるのが溜らなく美しい。そして騒がしいのは行き交ふゴンドラの船頭の声であつた。
朝の食事を済せてホテルの門を出ると、直ぐ半町程左に面白い形の橋がある。橋の両側も通路だが、中央の通路は両側に商家が並んで織物や土地の名物の硝子の器又はモザイクの細工物などを売つて居る。之がネチヤに四百以上もある橋の中で第一に古くて名高いリアルト橋であつた。僕は其を渡つて地図の示す儘に右へ折れたが、細い路は突当ると思ふと、左右に、又斜に幾筋となく分れ、橋又橋を越へて屡突当り、屡曲る。丸で迷宮の中を歩むのだ。男は然程注意を惹かないが、行交ふ女が老も若きも引擦る様な広い裳を穿いて、腰の下迄ある長い黒の肩掛を一寸中から片手で胸の所の合目を抓んで歩くのが目に附く。[#「。」は底本では「、」]石井柏亭の気に入つたのは此姿だと思つたが、僕には十数年前の日本の田舎の女学生を見る様で野暮臭かつた。一体にネチヤ女と褒めるけれど目が大きいのと鼻が馬鹿に高い丈で色は青黒いし表情は沈んでる。尤も柏亭君の滞在は長かつたから良家の女を見た上の批評だらうが、僕の短い逗留中では先刻迎へに出て呉れたホテルの一人娘を除いた外に美しいと思ふ女は見当らなかつた。
突然出た広場は歩廊のある大きな層楼で三方を囲まれ、一方に幾つかの円屋根と様様の色大理石を用ひた幾十の柱と五つの扉とを外にしたサン・マルコの大寺院が金碧朱白の沈雅な趣をした外壁の絵を、前に立つた三つの大きな幡の上に光らせて居る。広場の中央には名物の鳩が幾百となく下りて豆や菓子を呉れる旅客を繞り、肩や手に上つて驚かぬものもある。歩廊の中にづらりと並んだ店から土産物を勧める声に振返りもせず、左に高い鐘楼を一瞥した儘僕はサン・マルコ寺の煤色をした扉を押して入つた。朝の勤行が白い法衣に金色の袈裟の長老を主座にして行はれてる最中であつた。初めて見るビザンチン式の建築やモザイクの壁画はゴシツクやルネツサンス式以外に古雅な特色を有つて居る。案内者が頼みもしないに錠を開けていろんな所を見せた。中二階の様な所へも上らせて高い壁画や天井画に接近させたが、出る時に一フランを強請つた。隣にある昔の市長の住んだドガアルの宮殿はモネが此春描いた絵で見知つて居たが、僕の着いた当日は何かの節会で縦覧させない。美術館も休んでると聞いて向ひの岸へ渡ることを止め、海岸へ出て真直に北へ歩いた。アドリヤ海は春の様に霞んで碇泊してる大小の汽船は節会の為に満艦飾をして居る。僕はネチヤが海上の一覇王として東洋に迄交通して[#「交通して」は底本では「交通し」]居た貴族政治の昔を忍ばずに居られなかつた。絵葉書売と擬宝玉売とが煩さく行交ふ旅客に附纒つた。僕は何時しかコバルト色の服と猩猩緋の胴衣を着た此国の青年海軍士官と仏蘭西語で話し乍ら歩いた。士官は中世から今迄引続いてる海軍造船所へ伴れて行つて節会に関らず縦覧させて呉れた。古代の船の模型などにも益を受けたが、門前にある希臘から持つて来た四つの大獅子の古い彫刻の方が僕には面白かつた。
ホテルで昼食を済せてからゴンドラを雇つてサンタ・マリヤ寺を始め沢山なお寺廻りをした。大運河の両岸の層楼は何れも昔の建築で大抵は当時の貴族の邸宅だが、今はホテルや又は名も無い富家の有に帰して、碧朱欄さては金泥の画壁を水に映し、階上より色色の大きな旗を靡かせて、川に臨んだ入口毎にゴンドラを繋く数本の杭が是亦青や赤に彩られて居る。船頭はフオスカリだの、ムシユコだの、バルバルコだのと昔の主人の貴族の名を呼びつつ其邸を指点して教へた。仏蘭西語を知つて居る船頭が其等の貴族の旧邸で今は美術品の製造所に成つて居る家家へ矢鱈に船を着けて記念の為に縦覧せよと勧める。モザイクの製造所其他を二三縦覧して土産物を買はせられたのに懲りて、後は何と云つても船から上らなかつた。夕方ホテルの裏に当る青物市場や魚市場を過ぎて最も奮い市街を散歩したが、狭い間口の雑貨店が不調和に濃厚な色彩を見せたのと、人間の風采の甚く穢いのとが上海の旧城内によく似て居た。此辺の狭い町角では薩摩藷や梨を茹でて湯気の立つのを売つて居た。
三日目には美術館でチチアノの「基督昇天」、「ピエタ」を始めチエボオロの画を観、又貴族政治時代の栄華をドガアルの宮殿に眺めたが、フイイレンチエ行の汽車の時間が迫つたから委しく書く余裕が無い。最後に昨夜の月明に何処からとも無く響くギタルの音を聞いて寝たのが何だか物哀しかつたことを附記して置く。
ヂヨツト、ダンテ、ミケランゼロ、ボツカチオ、ラフワエル、アンゼリコ、バルトロメオ等芸術史上の偉人を多く出したフイイレンチエに来てアルノ河の岸に宿つた。彼寺、此邸、皆其等古人の目に触れ、前の橋、後の路、凡て其等偉人の足跡を印して居るのだと思へば予の胸は自から跳る。
シニヨリヤの狭い広場が先づ面白い。昔も今も市の中心として数百の男女が常にうようよとして居る前に、十四世紀初期の建築の粗樸な外観を以て城の如く屹立して居るのは、ツクチオ邸だ。其れと斜に対して右方に聳えたウフイツチ邸は階下の広大な看棚を広場に面せしめて、其中には希臘羅馬時代の古彫像が生ける如く群を成して居る。予はツクチオ邸の階を昇つて、※[#濁点付き井、449-2]ンチとミケランゼロ二人の意匠に成つた「五百人の広間」の色大理石の装飾其他を観、更に隣のウフイツチ邸を訪うて幾十室に満ちた絵と彫刻を唯だ一瞥する丈に二時間を費した。
※[#濁点付き井、449-8]ンチ、バルトロメオ、ラフワエル、リツピ、チチアノ等の傑作の多い中に、チチアノの花神、ラフワエルの自画像、ヂヨツトのマドンナの前には暫く低徊せざるを得なかつた。数百の肖像画のみを陳べた室には※[#濁点付き井、449-11]ンチ、ミケランゼロ、リツピ等の肖像もあつた。ミケランゼロのデツサンやスケツチを多く蔵めて居るのも他に類が無からう。伊太利各派の名品許で無く欧洲各派の佳作も多数に蔵められて居る。
予は和蘭派のリユウバンスに就て其気魄と精力の偉大、其技巧の自由を驚歎し乍ら、何となく官臭とも云ふべき厭味のあるのに服しなかつたが、此処にある両幀の内の「バツカスの興宴」の超脱して居るのを観て初めて此大画家が好きに成つた。愛神キユピツトに立小便をさせたなどは実に他人を眼中に置かない遣方だと思ふ。此邸の裏から直ぐ対岸のピチ邸へ連接する為めツクチオ橋の中央に長い石廊が架せられて居る。予は其れを越へてピチ邸の絵画館をも観た。
ウフイツチ邸に劣らぬ多数の名幅を蔵めた中にラフワエルとチチアノの傑作が最も多く、就中予はラフワエルの円形の中に描いたマドンナが毫も宗教臭味を帯びず、唯だ画題をマドンナに仮つて崇高優美な人間を描き出した見識と筆力とに敬服した。是等の諸邸は何れもフイイレンチエ歴代の貴族である。日本の岩崎、三井、安田の諸富豪、島津、毛利、前田、鍋島の各貴族が其私邸と所蔵の美術品とを公開し若くは国家に寄附して一般に縦覧せしめるのは何れの日であらうか。
予はフイイレンチエの偉人廟であるサンタ・クロス寺の広場へ来てダンテの大石像を仰ぎ、寺内へ入つてヂヨツトの筆に成る粗樸にして雄健な大壁画に見恍れた。堂の四壁にはミケランゼロ、ガレリヨ、マキアベリイ等芸術家、学者、政治家の墓が無数にある。ダンテのもあるが、真の墓はランナにあつて此処のは名誉的空墓だ。
フイイレンチエ随一の大寺院ドオモは十四世紀以来数百年を費して大成し、伊太利ゴシツク建築中最も著しい特色を有つて居る。外観の配色は柔かい白と緑とより成り、何となく木造の感を起させるが凡て石造だ。其左側の鐘楼も亦荘麗である。予は屡此門前を徘徊して帰るに忍びなかつた。
予はもと貴族の邸であつて後世牢獄とも成つた事のあるバルゼロの国立博物館を訪うて、ミケランゼロのダ※[#濁点付き井、452-13]ツド其他の彫像を観、又其最上の一室を占めたドナテロの諸作を観た。就中ドナテロのダ※[#濁点付き井、453-1]ツドの情もあり勇気も智慧もある微笑の立像に心を惹かされた。又有名なダンテの肖像をも壁画の中に仰ぎ見た。ダンテは頭巾も上衣も共に赤かつた。
案内者は其右手の女群の一人がベアトリチエだと教へて呉た。併しベアトリチエは詩人が空想の女で史実には何の憑拠もないらしい。ダンテもウフイツチ邸で見たラフワエルも美男子だが、之が昔からフイイレンチエの男の型なのであらう。今も此土地の男にはダンテやラフワエル風の好男子が多い様だ。其に反して女は皆ボチセリイの「春」に描いた女の様に顔だちが堅く引緊り過ぎて居る。
ボチセリイの「春」と云へば其れは此処の美術学校の絵画館で見る事が出来た。写真版で見た時向つて右手の蔦の葉を咬へた女の形を厭だと思つたが実物に対しても同じ感を失はなかつた。其処にはボチセリイの作も多くあつたが、ミケランゼロの彫像には巨大なダ※[#濁点付き井、454-3]ツドを初め多数に傑作を蒐めて居た。予は此処ですつかり彫刻が好きになつて仕舞つた。羅馬へ行つたら更に此感が深からうと想はれる。予はまた此絵画館でリユニイが書いた「女人水浴」の図を見て、近世のシヤンヌの画風の由来する所を知つた気がした。
ルネツサンス芸術の保護者であつた貴族メデイチ家の霊廟をサン・ロレンツオ寺に訪うてミケランゼロの建築に良久しく陶然とした。種種の色大理石を自由に使役して、此高雅と壮大と優麗との調和を成就した彼れの才の絶大さよ。此処には彼れの雄偉なる未成品「昼」「夜」「朝」「夕」の四像もあつた。予はフイイレンチエに来て初てミケランゼロとドナテロの彫像を観、さうして彼等の精神を真に黙会した現代の天才は唯だ一人のロダン翁であることを感じた。ロダンはミケランゼロの直系である。
下宿の主人ロツテイニイ夫婦は予を詩人だと聞いて非常に歓待して呉れる。毎夜予を芝居や珈琲店へ伴つて行つて其支払を何う云つても予にさせないと云ふ様なことは、欧洲のホテルや下宿の主人にして珍らしい。一体に此地の人は正直で親切である。なぜ僕はもつと早く来て此処に三月も留らなかつたか。
羅馬に七日、ナポリとポンペイに二日と云ふ駆歩の旅をして伊太利から帰つて見ると、予が巴里に留まる時日は残り少くなつて居る。せめて今半年も此処に遊んで居たいのだが家郷の事情は其れを許さない。俄に心忙しくなつて来た。
告別の為に内藤とロダン翁を訪うて、翁の手紙を受取つた大阪の水落露石の伝言など述べ、露石から託された斎漫画集を呈した。翁は画集を喜んで姑く巻を放たずに眺め込み、斎の略伝を問うた後、日本人の名は覚えにくいからと云つて画集の末に作者と水落君との名を記す事を望まれた。翁の談話中に多年巴里に学んで居る彫塑家藤川勇造君の製作を近頃観たと云つて激賞して居た。
翁は自ら案内して数室に亘る自分の製作を観せ、「何う感じるか、自分は此部分が好いと思ふ。之は不充分だ」などと一一謙遜する所なく自讃して聞かせた。其中に日本の踊子「花子の首」は特に絹の小蒲団の上に横たへられて居た。翁のデツサン二百余点と十幾個の製作とを東京に送つて展覧会を開く相談は、目下日本大使館の安達峰一郎氏が引受けて東京へ帰つて居るが、翁は東京の有島氏とも協議して便宜に取計らふやう予に依頼された。翁は日本の外務省から通知があり次第荷造りをして発送すると云はれた。製作の中には「花子の首」をも加へると云つて居た。
詩宗ルアアレン翁を約束して置いた日に訪うた。扉を開けて呉れた快濶な女中に名刺を渡すと、気軽な詩人は直ぐに出迎へて握手し乍ら「あなた方は此遠方へ三度まで訪ねて下さつて初めてお目に掛る事が出来たのですね」と云つた。内藤理学士と一緒に訪うたのである。ロダン翁は老齢の所為で少し日常の事には耄碌の気味だから、逢ふ度に初対面の挨拶をしたり以前の話を忘れて居たりして訪客を困らすが、其れに比べてルアアレン翁が前に二度其留守へ尋ねた予等の事を覚えて居て呉れたのは嬉しかつた。
尤も翁は五十幾歳の元気盛りだから七十三歳のロダン翁と一緒には云はれない。翁の書斎は予が見た此国の他の文学者の書斎に比べて非常に狭く且つ質素な物で、六畳敷程の二室を日本の座敷流に真中を打抜き、其れに幾つかの大きな書棚や二つの大きな卓其他が据ゑられて居るから、やつと四五脚の椅子を並べる空席がある許りだ。予等の外に白耳義の青年詩人が一人先に来合せて居た。翁は自分の椅子を予に与へて暖炉の横の狭い壁の隅へ身を退いて坐られた。
室内は流石に詩人の神経質な用意が行渡つて、筆一つでも歪んで置かれない程整然として居た。小さな卓に菊の花が活けてあつた。四方の壁に幾十の小さな額が掛つて居るが、見渡した所凡てが近頃の親しい作家の絵許であるのは一奇だ。予が幾枚かの浮世絵を呈したので、談は日本画に移つたが、久しく東洋の研究に興味を有つて居る翁が我浮世絵の作家の名を幾人もすらすらと列挙して「自分は春信をより多く好む」などと肯綮に中つた批評をせられたのは意外であつた。詩人レニエ氏の髭も有名だが、ルアアレン翁の頤まで垂れ下つた口髭も名物である。翁は少し背を屈めて其口髭のある顔を前に出し乍ら、予等の為に自家の詩に就て快濶に色色と語られた。「或人は自分の作物に東洋の思想と共通の点があると評したが君達は何と思ふか」と問はれた。又「自分の作物を読んだ一外国人が自分に向つて印度へ旅行した事があるだらうと問ふから、否と云つたら、其れは不思議だ、あなたの或象徴に用ひた花が同じ様な意味で印度の何処かの門に描かれて居ると云つたが、全くの暗合だ」とも語られた。
予は又晶子が翁に呈する為に残して置いた[#「置いた」は底本では「置いた。」]「春泥集」を翁に贈つた。翁は日本の三十一音から成るタンカを知つて居て「今も猶如此き素朴な詩の作られるのは懐かしい」と[#「懐かしい」と」は底本では「懐かしい」 と」]云ひ、其装幀の美を褒めて「之が自分の書斎へ来た最初の日本の出版物だ」と云はれた。談は出版物に及んで「先年日本の書肆の希望に任せて小さな一書を東京で出版した事がある」と語られたのは予等に取つて初耳であつた。予が先生の新しい詩集「戦ぐ麦」の特別刷を買つた事を告げたら「其れは好かつた。もう一月前に品切と成つたので此某君などは買遅れた相だ」と傍の若い詩人を見て云はれた。
翁は日本の詩壇の近状を問ひ、仏蘭西の象徴主義の影響した事を聞いて驚き、主な日本詩人の名を予等より聞いて書留められた。翁は死なない中に一度日本を訪問すると云はれた。翁の名を、ルアアレンと発音し、同じく白耳義人であるメエテルリンクをメテルランクと発音することを今日翁に質して知つた。翁は其詩集「触手ある都会」を其初めに自署して予に与へられた。翁の夫人に会ふことを得なかつたが、翌朝翁と夫人から鄭重な礼状を受け取つた。夫人に捧げた日本の織物に対してである。
国立劇場コメデイイ・フランセエズを辞した老優ル・バルヂイが噂の如くポルト・サン・マルタン座へ入つて首席となり、文芸院学士アンリイ・バタイユの新作「炬火」を演じると云ふので巴里初冬の劇壇は其方へ一寸人気を集めて居る。其れに巨万の慰労金を貰つて国立劇場を隠退した俳優は巴里市で興行することの出来ない規定があるのに、剛腹と[#「剛腹と」は底本では「剛復と」]我儘とを極めた性格の老優が其れを破つてサン・マルタン座へ出たのだから、初日にはコメデイイ・フランセエズの[#「コメデイイ・フランセエズの」は底本では「コメデイイ・フラセエズの」]役員が揃つて見物し翌日直ちに裁判沙汰が持上つた。ル・バルヂイ氏に何う云ふ言分があるか知らないが、新聞の上の批評では裁判の予測が衆口一斉に不利な様だ。
梅原と内藤と[#「内藤と」は底本では「内藤と」]三人で「炬火」を観たが、愛情の生活から思想の生活に復ると云ふ筋の全体は甘く出来た作だが、部分に少しづつ面白い所を見受けた。舞台に出る男女が凡て医学界の名家であるのも目先が変つて居た。主人公たる老大医を演じたのでル・バルデイの芸を予は初めて観たのだが、ムネ・シユリイ以外に円熟した老優としては如何にも此人を推さざるを得ないと感服した。決闘の負傷に由て絶入る迄の昂張した最後の一幕の長台詞を斯くまで醇化して森厳の気に満ち、一秒の隙も有らせず演じる名優は仏国に二人と見出し難いと思つた。予は何となく故団蔵の俤を思出すのであつた。予は此人が近く更に演じやうとするロスタンの「シラノ・ド・ベルジユラツク」を観ずして東に帰らねば成らないのを悲む。
此前二月程日本に滞在して居る中母堂の訃に接して巴里へ帰つたシヤランソン嬢が再び予と前後して東京へ行く筈だ。シベリヤを経るのだから予よりも先に着くであらう。嬢は富豪の女で珍らしい日本贔屓の婦人だ。殊に日本文学を愛して、日本語を巧に語り、日本文をも立派に書く。源氏物語を湖月抄と首引で読んで其質問で予の友人を困らせた程の※[#「執/れんが」、U+24360、462-1]心家だ。嬢は日本の文人と交ることを望んで居る。日本の文人が嬢をして失望せしめないならば彼女は永久桜咲く国に留りたいと云ふ希望をさへ有つて居るのである。(十二月十日)
巴里より をはり