清朝の乾隆嘉慶の時代は考據の學が全盛を極めた時であつて、經學は勿論史學に於ても考據の大家たる錢大※(「日+斤」、第3水準1-85-14)・王鳴盛などといふ人が出て、史學の風潮を全く考據に傾けたのであつた。然るにその時代に於て、浙江の紹興府から一人の變つた學者が出た。さうして一代の風潮の間に獨立して、史學を考據の方法に據らずして、全く理論的の考へ方から研究したのである。その人が即ち章學誠である。
 この人はその生立ちからして少し普通の學者とは變つて居つた。その幼時には極めて遲鈍であつて、至つて記憶が惡く、十五六歳頃、その父が地方の知縣をして居つて、家庭教師を雇ひ入れて學問をさしたが、僅か數百字の文句を暗誦することにも非常に困難を感じた位であつたが、そのくせ何か意見はもつて居つて、文章も下手であるけれども、自分一己の理窟を立ててものを書き、家庭教師などの言ふことは聞かない。殆ど持てあまされた程であつたが、二十一二歳位からその學問がその長所を發揮して來て、殊に一己の創見によつて著述することに興味をもつて來た。進士の試驗には首尾よく及第したが、その學風もまたその人と爲りも餘程變つて居つたので、官途の出仕も出來ず、一生不遇に暮した。しかしその間に著述した所の文史通義・校讐通義といふ本は、まだ出版せられない當時からして、既に有識者に認められ、之を好む人は非常に崇拜して、その一文の出づる毎に皆之を寫し傳へて持つて居つた程であつた。それで歿後その子によつて著述は出版せられ、幾度も版を重ねたが、最近數年前に至つて、その全集を出版する人があつて、今ではその學問は非常に光を放つて、殊に新らしい西洋の學問などを修めた人々に尊重せられるやうになつた。
 自分はこの人の文史通義・校讐通義を讀んだのは明治三十五年が初めてで、その時に大變面白かつたので、本を二部杭州で買つて、一部を當時支那留學中の狩野博士に贈つた。その後とも、大學などでも頗るこの人の學問を鼓吹したが、その爲めにその著述も我邦では割に多く讀まれるやうになつた。十數年前に端なくもその全集の未刊本を得て、之を通讀した所から、この人の年譜を作つて發表したのがもとになつて、支那の胡適といふ人が更に自分の作つた年譜を増訂して世に公にしたので、支那の新らしい學者の間に注意されるやうになつた。その前から支那の舊學を修める人でも、張爾田・孫徳謙などといふ人は、その學風を慕つて特別に研鑽をして居つたが、最近になつては胡適の外にも精華學堂を出た姚名達並びに四川の學者で劉咸※[#「火+斤」、472-9]といふ人などが、最も章氏の學を發揮して、各※(二の字点、1-2-22)著述を公にしてゐる。今日ではこの人の學問を特別に鼓吹する必要もない程になつたけれども、以前はその學問が一種の勝れた特色があることは一般に認められず、或は多少認められても、その眞意を了解するものが少かつたので、自分も之を鼓吹したのであつた。
 今日でも、乾隆嘉慶年代に於て、かくの如き卓拔な一種の學問をしたといふことは、依然としてその價値は失はれないのであつて、その學問の淵源は、勿論古く漢代の劉向・劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)、唐代の劉知幾、宋代の鄭樵などから出て居るとはいへ、章學誠獨自の極めて透徹した前人未發の考もあつて、殊に史學を標榜しては居るが、あらゆる學問を方法論の原理から考へるといふことは、類ひなき卓見といつて差支ないのである。でこの人の學問は理論の組織が頗る細密であつて、その組立てた方法に從つて研究して往かなければ理解がしにくいから、之を短い時間で説明するといふことは頗る困難であるけれども、試みにその根本になる所の原則だけを説明して、その學風の一端を紹介して見たいと思ふ。
 一般の學者からは、この人は史學家として見られてゐるのであるが、本人の考では、その著述の表題にもある如く、文史に關する原則の研究を主としたのであつて、文史といへば大體に於て著述の全體に渉るのである。唐書の藝文志には、文史類を廣義の文學評論の意義に用ひてゐる。文史通義といふ意味は、今の言葉で言へば、著述批評の原論ともいふべきものであるが、勿論この著述即ち思想の表現の第一の對象となるものは道である。文史通義の原道といふ篇の中に、道といふものをこの人は説明して、「道なる者は、萬事萬物の然る所以にして、而して萬事萬物の當に然るべきにあらざるなり。人の得て見るべきものは、則ち其の當に然るべきのみ。」と言つてゐる。この人はその道の發生して來る順序を考へて、道は天に生じ、天地が人を生ずれば、斯に道があるのであるが、それだけでは未だ形に現はれない。道の形に現はれるのは三人居室から始まる。三人室に居れば、そこに分任、今日の言葉で言へば分業といふものが生ずる。或は各※(二の字点、1-2-22)別に事を司る、或は更代の仕事をするといふことになるが、さうなつて來ると均平・秩序といふことが出來る。平等と秩序とが紊れることがあるので、年長者をしてその平を持せしめる、即ち裁判をするといふことになる。それからして長幼尊卑の別も出來、それから什伍千百といふやうに數が殖えて、さうして各※(二の字点、1-2-22)組が分れるといふことになつて來ると、各※(二の字点、1-2-22)その上に才のすぐれた組の頭が出來、さうして更に徳の盛んなものを推して之を統治するといふことになつて、そこに君となり師となる者が出來て來る。
 かくの如くして道は段々發展して來たのであるが、支那の歴史としては、法が積み美が備はり、唐虞の時代に至つて善を盡した。殷は夏に因り、周は殷に鑑み、周公に至つて大成した。周公が大成したといふのは、周公はもとより聖人であるけれども、しかしその大成するのは周公の智力によつて能くしたのではない。その時會が然らしめたのである。古來の聖人で集めて大成したといふのは、勿論周公獨りであるが、これは時會が周公をしてさうさせたので、周公自らも、自分が集めて大成する時會に當つたといふことを知らずに自ら大成したのである。然るに支那では、孟子の如き人は、集めて大成したのは孔子だと言つてゐるが、今自分は周公を集めて大成した人だと言へば、孟子の説と違ふやうに考へられるであらうけれども、それは必ずしもさうではない。勿論孔子も集めて大成した人であるが、周公の集めて大成したのは道であつて、孔子の集めて大成したのは、周公の道を教へとした所に存するのである。
 これらの由來を眞に理解しようと思へば、道と器との區別を知らなければならぬ。易には「形より上なるもの之を道と謂ひ、形より下なるもの之を器と謂ふ。」といつてゐるが、道といふものは器を離れて存するものでない。さうして孔子の教を載せてゐる所の六經といふものは、勿論道を載せて居る所の書であるが、しかしその實、六經に載せてゐる所のものは皆な器である。六經といふものは古來の聖人の前言往行であるが、その前言往行といふものは、皆な器によつて現はれて居るので、それを記載したのが六經であるから、六經が道を現はすには、器によつて之を現はしてゐるのである。然るにその古代に於ては、その器によつて教を立てて、即ち治教、政治と教とが二つに分れず、官と師が合一であつて、即ち政治と教育とが一致をして居つたから、教へ、學問は政治の實際の器によつて現はれ、學ぶ者がその器によつて直ちに道に接することが出來たので、器の外にこれが道であるといふものを示されなくても、自然の器によつて道を會得したのである。然るに周の世が衰へた頃からして、治教が二つに分れ、官師が二つに分れることになつたので、その器を著述の上に現はしてさうして教へとしたのが即ち孔子であつて、ここに至つてその文字を以て著述とすることになつた。で孔子は或る時は「予れ言ふ無からんと欲す」と言つた。それはこの世の中にありとあらゆる器によつて自然に道が現はれて居るのであるが、之を六經に載せるに就ては、言ふ所あらざる能はざるのである。然るに又一面で、孟子の如きは、「予れ豈辯を好まんや」と言つてゐる。それは道と器とが離れて、道は器によつて現はれずに、人によつてなづけられるやうになつて來るといふと、我れの道、彼の道といふやうに色々分れて來るので、自然にそこに論辯を要することになつて來るから、已むを得ず論辯するといふのである。
 しかしながら孔子の道は、單に空言に託せずして、之を行事に現はすといふことを主とした、その行事といふのが即ち古來の前言往行をいふので、それを現はす所のものは即ち史であるから、この人の考では、凡そ學問といふものは即ち史學である、史學でないものは學問でないと、かう考へたのである。
 章學誠は又原學篇を書き、學問といふことに就て、易に「成象之を乾と謂ひ、效法之を坤と謂ふ。」學問とは模倣の謂ひなり、道なるものは成象の謂ひなりと考へて、又孔子の「下學而上達す」といふ語があるに就て、即ち形而下の器によつて學んで、形而上の道に達するのが學問の目的であり、方法であると考へたのである。どういふ風にして成象たるを知つて、之に模倣するかと云へば、前言往行の色々の變化を究め、久しき年代に亙る所のものを多く識つて、さうしてその間に所謂成象といふものを自得して、それに模倣するのが即ち教育の道である、と考へて、道の規範に從つて教育するのであるが、この意味から言へば總ての學問が即ち史學でなくてはならんといふことになつて來るのである。只だ茲に後世になつて道なり教なりが、色々多岐に分れて來るといふのは、即ち儒者などの如く、その古來から存してゐる器によつて學んで居りながら、器よりして道を認める所まで思ひを致さないで、只だ故なく前言往行を記憶してゐるだけで、發明する所がない愚昧な一派の者がある。これは即ち孔子のいふ學んで思はざるものである。一方には又古來の前言往行に因らず、器を載せた六經に因らずして、只何んでも自分の心で考へて、自ら是とするやうになる一派の者もある。これは即ち聖人のいふ思うて學ばざるものであつて、それが即ち諸子百家の雜説の因つて來る所である。
 以上は章學誠の道と學との因つて來る根本を説明した所であるが、かういふ原理の上に立つて、さうして總ての古來の著述を判斷して行つたのである。それは色々な論文によつて現はれてゐるが、その一つの有名なのは「言公」の論である。章學誠が言ふには、「古人の言は公の爲めにして、私に據つて己れが有と爲さず」と言つて居つて、古人が言を立てる、即ち著述をするといふやうなことは公の爲めにするものであつて、一個の私有物とする爲めに、之が自分のものだといふ爲めに立てるのではない。元來は道を明かにするが爲めに、言で以てその目的を明かにし、それから言を十分にする爲めに文といふものを用ひる、その文によつて目的が達せられれば、必ずしもそれが自分の説であると言つて、私有しなくてはならぬといふことはない。で一番初めは著述のない時代、即ち道を現はす器といふものは、政治その他の世の中にありとあらゆる機關によつてのみ現はれて居つたのであるが、その中にそれを著述によつて現はすことになつても、最初の著述はその器を載せ道を明かにする爲めの著述であるから、自分の一個の言を立てる爲めの著述ではないのである。で一人の立言者があつた時に、その道を傳へた後の人は、その立言者の著述の後に直ぐ又附け加へて書いても、前の立言を推し弘める爲めであれば少しも差支ない。後の立言者は前の立言者と一體になつて、さうして之を又後世に傳へて差支ないのである。然るに後世の學者は、それらの古代の著述を見た時に、これが最初の立言者の眞の著述であつて、その附け加へたものは皆後人の僞作だといふ風に判斷をするが、その判斷は當つて居らぬ。つまり前の立言者に對して後の繼續者が擴充して書いたまでであるから、眞僞の議論をその間に加ふべきものではない。その立言者とその繼續者との關係によつて、その議論の發展を見るべきものである。
 これが大體に於て言公の論の主旨であるが、章學誠は六經その他の著述に就て、一々事實を指摘して、古代の著述の批判を示してゐる。これは古人の著述を批判する方法として、一つの新らしい見方を出したものであつて、經學史學の研究法に於て究めて重要な考へ方である。
 第二には、章學誠は「六經皆史なり」といふ標語を出して、これが支那の學者一般に非常な衝動を與へたものである。六經皆史といふことに就ては、時としては經學者などの誤解を招いて、その反感を買つたことが少くない。經學者は、經といふものは總ての著述の上に一段高く立つて居るもので、之を史といふ風に見るのは、何か經を汚したことのやうに考へて、聖人の立言である經と後世の學者文人の書いた史と同じ位に置いたやうに誤解することがある。章學誠の六經皆史といふことはさういふ意味でないのであつて、六經は皆古來の前言往行を記録した所のもので、即ちその聖人の道を載せる所の器を現はしたものであるといふ意味である。例へば章學誠は「易教」といふ篇を書いて居るが、それには易は即ち周禮の器である、易の尊い所以は、それが古代の聖人が之を一種の禮制の道具なりとして用ひた所の、その遺法を傳へた書であるからである。易の如く古の聖人が實際使つた、器を記載した本は、さういふ來歴即ち歴史を有つてゐるから尊いのであつて、後の人が易の眞似をして作つた例へば揚雄の太玄とか、司馬光の潛虚とかいふやうな本は、一人の智慧で實際古代に行はれた實跡も何もないのに、妄りに製作したものであつて、そんな來歴といふものを有たないから、少しも尊ぶに足らず、これが妄作と云つてよいものであると言つてゐる。
 それから章學誠は又「書教」といふ篇を書いて、記録の法を論じてゐる。その言葉に「三代以上。記注有成法。而撰述無定名。三代以下。撰述有定名。而記注無成法。」と言つてゐる。これは記録の方法に關する議論であつて、殊に歴史を著述として見る上に於て、大變重要な觀察をして居るのである。元來記注といふものは、前言往行を忘れない爲めにするものであるが、その記注には必ず事實あつたことをそのまま書く法則を立てて、さうして遺漏なく之を傳へなければならぬ。それは即ち材料として記録されて貽されて居るのであつて、それが著述となつて現はれる場合は撰述無定名であつて、その記録の中から自分の好む所の題目によつて、各※(二の字点、1-2-22)然るべき著述をしてよいのである。その目的に從つて、例へば尚書の召誥・洛誥の如く、周の時代の都を奠めたことを書かうと思へば、その記録の中から都を奠める上に就ての必要なる事實を拾ひ出して、さうして最も適當な方法でそのことを著述すればよろしい。或は又康誥などの如く、天子が自分の親族を諸侯に封じたりすることを、教訓として後に貽さうと思へば、それに關する始末を記録の中から拔出して、さうして一つの著述とする。著述は如何樣な體裁でもよろしいのであるが、その根本たる記録は一定した正しい根據から成立たなければならぬ。これが昔の方法であつて、後世になるといふと、歴史といふものが、例へば史記といふやうな歴史の體裁が出來るといふと、その後の歴史は悉くその同じ體裁によつて書く。然るにその體裁の根據になる所の記録といふものは、十分に確實な記録が備はつて居らぬ。それで確實な記録のない所から、著述の體裁だけの一定したものを作らうとするから、その著述といふものが、非常な不確かな信用の出來ぬものになる。これが即ち三代以下、撰述有定名而記注無成法といふことになるのである。記注に成法がないから、材料を取るのは困難で、さうして動もすれば事實を紊る。然るに撰述に定名があつて、體裁は一定してゐるから、本を作ることは割に容易く出來る。そこで文が質に勝つて、いよいよ以て不確かな記述が出て來るのである。三代以下の著述でも、その良い勝れた著述といはれたものは、皆必ずしもきまつた體裁はないのである。例へば通典が作られた時に、通典は一體禮の變遷を書いたものであるが、その間に禮に關する議論を差挾んでも差支ない。又司馬遷の史記は自分が書いた本文の後に、その材料になつた所の原文を存録してゐることもある。さういふことは少しも差支ないのである。
 所で著述が段々變つて行く所の道行きとしては、初めの尚書は最も理想的な著述である。即ち成法のある記注を本として、さうして自分の必要な題目によつて勝手に著述をしたものである。然るに後になつてこの尚書の體裁が一變して左氏の春秋となつた。尚書にはきまつた體裁がないけれども、左傳にはきまつた例、即ち編年體が出來て來た。左傳が一變して司馬遷の史記即ち紀傳體の歴史になつた。左傳は年月によつて事實を並べて行つたが、司馬遷は之を變じて類例によつて歴史を作つた。司馬遷の史記が一變して班固の漢書になつた。史記は古代から近代までを一つの歴史として、通じてその變遷を現はして書いてあるのに、班固は漢一代のことを斷代の歴史として書いた。しかしともかくもこの時までは古來からの法が段々變化はして來たが、それで形は違つて居るけれども、精神は一樣である。殊に司馬遷の史記の如きは、本紀・書・表・世家・列傳と體を分けて書いてあるが、しかしそれは單に外形上さういふ區別をしたのであつて、内容に於てはそのやり方は自在で、その名前に拘束されて居らぬ。例へて言へば、司馬遷の伯夷列傳は、伯夷の爲めに傳を書くばかりでなしに、總ての列傳の總序として一番初めに書いたのであつて、題目は何んであつても、その内容は自由自在に如何なることを書いても差支ないやうにしたのである。その後、班固以來、紀傳體の斷代の歴史が續いたが、宋の司馬光に至つて、又左傳と同じやうな編年體の通鑑を作つた。然るにその後になつて、南宋の袁樞といふ人が通鑑紀事本末といふものを作つた。歴史の體は古來かくの如く變化をして來てゐるが、この紀事本末の體の歴史が最後に出來たといふのは、これ即ち一番最初の尚書の體裁に復つて來たのであつて、袁樞その人は勿論さういふ大したえらい見識を以て書いたのでなしに、單に通鑑の記事を、一つ一つ事件を纏めて記憶する爲めに、便宜上書いたに過ぎないのであるけれども、歴史の發達の順序としては、かういふつまらない人の著述でも、自然に古代の最上の著述の趣意に合するやうになり來つたのである。章學誠のかういふ見方はつまり言はば、最近の歴史の體裁と自然に合して居るのであつて、今日西洋の有名な著述でも、すべてこの紀事本末の體で書くことになつてゐるのであるが、歴史がさうなるべきものだといふことは、章學誠は百五十年前に於て既に考へて居つたのである。
 章學誠は又詩教の篇を書いて、あらゆる著述は支那では戰國の時代から初めて盛んになつて來た。章學誠の意見では、戰國の文は、源は六藝に出てゐるけれども、又最も多く詩の教から出てゐる。後世の文はその體は皆戰國に備はつて居り、著述といふものは戰國になつて初めて專門の仕事になつた。詩の教といふのは必ずしも韻を蹈んでゐるばかりでなしに、その詩の精神といふものが、事を論じ、ものを形容するのに自由自在であつて、如何なる方法にでも思想を表現することが出來るから、それであらゆる著述といふものは詩教から出發するのである。かういふので、易教・詩教・書教、この三つによつて、古來の著述の源流を論じたのであるが、その外にこの人は禮教といふ篇を書いたけれども、これは最初に出版された文史通義には載つて居らぬ。それは易教・詩教・書教に比しては、十分な力を有つた論文ではなかつた。或る友人は、この人に春秋教といふものを書くことを勸めたが、それは書かなかつた。章學誠の書教の論の中には、春秋の中のことも含んで居るので、書教を書けば春秋教といふものを書く必要がなかつたのである。つまりこの人は支那の在來の經書の分け方の中に、古來の著述を總括して、さうしてあらゆる應用の方法を論じたのである。
 その外にも、小さい論文の中に、時々この人の卓見を現はして居るのがあつて、例へば史徳といふ篇には、歴史を書く者の資格、即ち才・學・識の三長を有すべしとは、昔から言はれてゐるが、そのことやら、殊に著述の眞實、即ち正しく著述をするといふことに就て論じてある。即ち著述は詩の教の思ひ邪なしといふことを以て精神とすべきであるといふことを論じてある。それから又歴史の材料の取扱ひに就ては、史釋・史注などといふ論文の中に論じてある。それから又歴史には一代の史あり、一國の史あり、一家の史あり、一人の史ありとして、各※(二の字点、1-2-22)それに關する用意を論じてゐる。その外に著しいのは申鄭といふ篇があつて、申鄭とは宋の時代の鄭樵のことをほめたのである。元來支那で三通といはれてゐる通典・通志・文獻通考、この三つの中で、通典の勝れた著述であることは、何人も異論はないが、通志と文獻通考とに就ては、同じく宋末の著述であつて、その書き方の相異のある所から、屡※(二の字点、1-2-22)比較論が出來てゐる。一般には馬端臨の文獻通考が大變に整頓された良い著述であつて、鄭樵の通志は劣ると言はれてゐるのであるが、章學誠はそれに反して、通志の方がその出來榮が惡くても、史論が勝れて居つて、精神は立派なものであるといふことを主張して、馬端臨の文獻通考の方が劣るといふことを論じた。これが最も乾隆時代の一般の學風とは反對の位置に立つてゐるのである。
 それで章學誠の考では、歴史を研究するのに、整輯排比といふやり方があつて、それは史纂である。參互搜討といふことをするのは史考である。これは兩方とも史學とはいはれない。勿論その整輯排比、參互搜討、共に役に立たんといふことではない。良い著述をする爲めには、材料を並べたつまらない著述の中から、必要なことを取出すのであるから、そのつまらない著述も役には立つのであるが、史學といふものは、その材料を集め、材料を選擇するだけでは史學にならないので、それを如何に取扱ふかといふことが史學である。それで章學誠は獨斷の學といふことを大變尊んだ。ここでいふ獨斷といふのは、材料を考へずに空言空論で獨斷でするといふ意味ではなくして、そのある所の材料を如何に處理するかといふ考へに就ては、一個の自分の頭腦によつてやるべきものであるといふことを獨斷と稱したのである。獨斷の學問の尊いことを頻りに主張してゐる。章學誠は支那の古來の正史の中で、古い史記・漢書その他の歴史は皆家學であつて、親から子に傳はつて、澤山の材料を如何に處理すべきかが十分に考へられ拔いた上で出來上つた著述であるから、それで尊いのであるが、唐時代からして一度に澤山の學者を寄せて、それに色々仕事を分擔させ、又それを總括する人があつて、さうして纂輯する方法で歴史を作るといふことになつてから、著述の一貫した精神がなくなつて、その史學といふものは衰へたといふ考へ方をして居るのである。
 この人の學問にはこの外にも色々な題目に亙つた考へがあるが、殊にその中で史學の分派として最も大切なのは方志の學といふものである。即ち地方志の學問である。地方志の學問には章學誠は古來にない一家の組織立つた考へを有つて居つて、之に就ては當時の有名な經學者戴震などと全く反對の位置に立つて、論難をした。地方志を書くに、紀傳體に志を書くこと、掌故といふもの即ち律令典例などの如きものを書くこと、それから文藝に關することを書くこと、この三つの體裁を備へて、さうして地方志が一般史の材料になるやうに著述をして置くといふことの必要を主張した。當時の地方志を書いた多くの人が、單に地方志を沿革地理を主として書いたのとは違つて、過去のこと現在のことの資料として書く意見であつたので、それは沿革地理を書くといふ主義とは別個の考へであるが、隨分面白い考へである。
 その外、この人も最も勝れた研究は校讐學である。校讐學は校讐通義に主に論じてあるが、これが即ち著述の源流を考へる學問であつて、一面から見ると書籍の目録の學問であるけれども、その目録の學問といふのは、單に書籍の目録を並べて分類するといふのではなくして、書籍の著述の意義から考へて、書籍の世の中に出て來るのを發生的に考へて、さうして分類法を考へたのである。必ずしも古代の分類が良くて、近代の分類が惡いといふやうに、昔のことばかりを尊ぶ意味から論じたのではない。勿論古代の分類が勝れて居つたこと、即ち劉向・劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)などの分類が勝れて居つたことを論じて居るけれども、それは即ち劉向・劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)が學問の流別といふことを知つて、著述の發生する次第に明らかであつたからであつて、劉向・劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)時代に書籍を六部に分けたのが、後世になつて四部に分けられるやうになつたのは自然の勢で、これは已むを得ないといふことを十分に認めつつ、分類が如何にすべきものかといふことを、根本から研究して居るのである。これらも今日の目録學に取つても非常に有益なものである。
 大體章學誠の學問は以上述べたやうに、今日から考へれば、史學を單に事實を記録する學問とせずに、その根本として原理原則から考へようとしたのである。その考へ方は哲學的であるが、しかしこの人の考へとしては、あらゆる學問は哲學が根本ではなしに史學が根本である。あらゆる學問は史學そのものである。史學の背景のないものは學問にならぬといふ意味で、總ての著述を批判しようとしたのが特別な點である。これらの考へは文史通義を通讀して、精細にその組立ての仕方を考へると判るのであるが、粗雜に讀み去つたのでは、これだけの精密の組立ては判り難いのであるから、支那のこれを崇拜する學者達でも、なかなかこの人の眞意を得ることはむつかしいのであつて、漸く最近に至つて幾らか西洋の學問をした人達によつてその眞價が認められるやうになり來つたのである。で史學のみならず學問の見方から言つて、この人の學風といふものは今に於て生命があるものと考へられるので、ともかくこれを今日の學界に紹介して置きたいといふのが自分の本旨である。

底本:「内藤湖南全集 第十一巻」筑摩書房
   1969(昭和44)年11月30日発行
   1976(昭和51)年10月10日第2刷
底本の親本:「支那史學史」京都大学支那史学史講義
   未刊
初出:大阪懷徳堂講演
   1928(昭和3)年10月6日
   「懐徳」第八号に講演録所収
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年7月9日公開
2004年2月4日修正
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