ある日・1

 近頃、大衆小説を読んであまりこころよく思わないことがある。
 それは、往々にしてその作者が、自作の映画化を企図して書いていると思いなされる場合があるからだ。
 文壇の誰だったかが、
「文学は文学、映画は映画と言う風に別々に進んだ方がいいのじゃないか」
 と言う意味のことを書いていたが、一応頷ける言い分ではあるまいか。
 僕等が文芸家側から求めるものは、在来の映画物語ではなく又シナリオ化された小説でもなく、僕等映画作家に映画製作への強い意欲と興奮を与えてくれ、オリジナルな内容を持った文学作品だ。
 どうかすると、文芸家仲間から、映画作家には自己内容が貧困していると言われる。
 又生活内容の貧困を言われる。
 然し、映画化を意図して書かれた作家の作品を読んで、それに盛られた内容と、映画作家の持つそれと、はたしてどれだけの懸隔があるかを疑わざるを得ない場合が多いのだ。その上、文芸家の作品を映画化することになった場合、
「原作のままで行ってほしい」
と言われる場合がある。それがストーリーの上で言われるのなら黙って頷きもしようが、構成や殊に甚だしいのは表現技術に於てもそれが強要される様な場合、僕等はそれを敢然として拒絶しなければならぬことが多い。
 如何に、その構成が文芸家には映画的に出来ていると思われていても、(烏滸がましい偏見かも知れぬが)僕等の側から見ればどんなによく見ても頂戴しかねる。
 構成に、又、表現に関しては、文学の場合と映画の場合と技術原理が異うのだ。
 文学の目が如何に客観的であるとしても、キャメラの持つ様な純粋客観性は持ち得ないであろう。
 僕等はそのキャメラと共にものを見、それを語り、それを生かそうとして相当の年を喰って来た人間だ。
 そこで、僕等が文芸家に望むものは、映画構成や表現技術を教えられることではなく、より深い自己内容を、より新しい生活内容を供給してもらうことである。
 それは、唯単なる生活常識を注入してもらうことではなく、それを基調にした、明日の生活への自己内部のエネルギーを与えてもらうことなのである。

 ある日・2

 トーキー・シナリオを書くに当って、僕が特に苦しむのは台詞の点である。
 それは言語美学等の問題でではなく、台詞の一つ一つに真実を持たせたいからだ。
「言語は哲学である」と言うが、客観的な気持でシナリオの台詞を書く場合、それが忘れられようとする。
 そして、それを忘れた時の台詞はきっと(映画)になった場合、浮いたものになる。
 外国の映画では、此の台詞の点実にねたましく感じる。
 煎じ詰めた、而も、たまらなく美感と滋味のこもった言葉が小癪なほど豊富に飛び出し、而もそれ等が一つ残らず(画面)の底にとけて流れて行く。
 あそこまで行かねば嘘だと、いつも歯痒く思う。
 そして、今さら、自己の生活体験の浅薄をしみじみとかこたざるを得ないのだ。

 これは余談になるが、新しい大衆小説から得る台詞の言葉より、古い講談本等に非常に味のある言葉が多い。
 古い民謡と、新民謡新流行歌とを対比する様に、現代人の言葉には非常に粉飾が多いが、昔の人の言葉には余分のものがない。
 直情的だ。
 それだけに短い言葉にも真実がある。短い言葉にも社会が反映しており、思想がこもっている。
 スピードが生命の映画では、欠くことの出来ない捨台詞は別として出来る限り無駄台詞をつつしまねばならぬことは誰も知っていることであろうが、そのくせなかなかむづかしいのだ。

 言葉の味のことで、ふと思いついたが、酒を飲む者の言葉には注意していると面白いものが多い。

「山中の道楽は酒を飲むことと、映画を見ることだ。」
 と言われているのを耳にする。
 映画人が映画を見るのが何の道楽だ。
 映画人が映画を見、映画を作るのは仕事だ。
 酒の場合は?
 これにはどう答えてよいか。
 兎に角僕は心おきない人と盃を交すのが好きだ。
 そして静かなところで、ボツリボツリと話し合っているうちに、酒に酔うことを忘れていつしか相手の、又時には自分の言葉の味に酔っている。
 愛酒家の言葉……これが映画の中へ持って行って生かして使えるとなれば、飲酒も亦僕の仕事の一部と言えるのではあるまいか。
 呵々!

底本:「山中貞雄作品集 全一巻」実業之日本社
   1998(平成10)年10月28日初版発行
入力:野村裕介
校正:伊藤時也
2000年2月18日公開
2003年10月17日修正
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