毎朝起きて顔を洗いに湯殿の洗面所へ行く、そうしてこの平凡な日々行事の第一箇条を遂行している間に私はいろいろの物理学の問題に逢着ほうちゃくする。そうしていつも同じようにそれに対する興味は引かれながら、いつまでもそのままの疑問となって残っているのである。今試みにその中の二三をここにしるすことにする。
 第一は金だらいとコップとの摩擦によって発する特殊な音響の問題である。普通の琺瑯引ほうろうびきの鉢形はちがたの洗面盤に湯を半分くらい入れる。そうしてやはり琺瑯引きでとっ手のついた大きい筒形のコップをそのわきに並べて置き、そうしてコップの円筒面を鉢の縁辺に軽く接触させる。そうして顔を洗うためにはちの水が動揺すると、この水の定常振動と同じ週期で一種の楽音を発することがしばしばある。それでよく気をつけて見ると、これは鉢の縁とコップとの摩擦によって起こる鉢の振動のためらしい事がわかった。うちの洗面台はきわめて粗末な普通のいわゆる流しになっていて、木製の箱の上に亜鉛板を張ったものであるが、それが凹凸おうとつがあって下の板としっくり密着していないために、洗面鉢の水が動揺するにつれて鉢自身がやはり少しの傾斜振動をする。しかるに鉢の底面からは相当離れた所に固定しているコップは不動であるから、そこで相互間の週期的の摩擦運動が起こり、そのためにちょうど弓でクラドニ板をこする場合に似た事がらが生ずるのであるらしい。さてこれだけならば問題ははなはだ平凡であるが、ここで問題になるのは、右のような条件が具備した時でも必ずしもきれいな音響を出さぬ場合と、また非常によく鳴る場合とがあることである。
 古い物理書などに書いてあるとおりガラスのフィンガーボールの縁を指頭で摩擦して楽音を発せしめる場合に、指を水でぬらしておいて摩擦する事になっているが、現在の場合でも接触面が水でぬれている事が必要条件であるらしく見える。これも充分に実験を重ねた上でなければ断言はできないが、これまでの経験ではそう思われる。しかし次に起こって来る問題は、単に水でぬれているだけでそれで充分であるかどうかということである。
 近年のいわゆる「表面化学」の発達によって次第に明らかになって来たとおり、固体ことにガラスや陶器などの表面にはガスのみならずある種類の液体や固体の薄膜を頑固がんこに付着せしめる性質がある。そうして、普通人間の手に触れる物体は自然に油脂類のそういう皮膜でおおわれていて、それを完全に除去するのはなかなか容易でない事が知られている。そこで洗面鉢せんめんばちやコップなどにはほとんど当然にそういう皮膜があるものと仮定しなければならない。そうしてその皮膜が厚い時もありまた薄い時もあり、その上をぬらしている水と皮膜との境界面の分子構造もまた時により一様でないかもしれない。それでさしあたり行なってみたい実験は、まずできるだけ注意して油脂類を除去したものと、一方では、また故意に一定量の油脂をかぶらせたのについてそれぞれ発音の模様を験することである。もっともこれに連関しては昔レーリーがガラス板の上で茶わんをすべらせたりした草分けの実験から始まって、その後ハーディの有名な研究(物理学文献抄ぶんけんしょう第一集二五八ページ)などに引き続きいろいろの方面に関係しての文献は少なくはない。しかしそれだけではこの洗面鉢の問題はまだなかなか解決されそうもない。第一水の存在が必要だとすればその水がいかなる役目をするかについては、おそらく何人なんぴともいまだ適確な答解を与えることができないであろう。
 自分の経験では金だらいの縁がひどく油あかでよごれているときは鳴らない。石鹸せっけんで一応洗った時によく鳴るようである。しかし絶対に油脂を除去するのは簡単にはできないので、その場合にどうなるかは不明である。
 この場合に油膜の存在と摩擦の関係が明らかになったとしても、この場合の摩擦によって金だらいの規則正しい振動の誘発される機巧についてはまだよくわからないことがかなりに多く伏在しているのである。クラドニの実験や、またヴァイオリンの場合に松やにをつけた毛で摩擦する際にどうして振動が継続されるかの問題についてはヘルムホルツ以来本質的にはほとんど一歩も進んだ解釈は与えられていないように思う。もちろんただ通り一ぺんの説明はついている。すなわち振動体の減衰するエネルギーを弓の仕事で補給する、その補給の回数と適当な位相とを振動体の振動自身が調節するというのである。この点では実際ラジオなどに使う真空管とよく似た場合である。
 しかしこれだけの説明で満足しないでもう一歩深く立ち入って考えてみると、もういっさいが暗やみになってしまうのである。弓の毛髪と振動体とが複雑な週期的相対運動をしている際に摩擦係数がはたして静的係数と動的係数との間を不連続的に往復しているのか、それとももっと複雑な変化をしているのか、これについてはまだだれも徹底的に研究した人はないようである。
 クントの実験でも同様である。あの場合になぜ金属棒は松やにを着けた皮でしごき、ガラス棒だとアルコールを着けた綿布でこするか、この幼稚な疑問に対してふに落ちる説明をしてくれる教師はまれであろう。それにもかかわらず物理学をデモンストレートする先生がたはなかなかこの目前の好個の問題を手に取り上げて落ち着いて熟視しようとはしないのである。
 同じく摩擦に関した問題で日常おもしろいと思うものがもう一つある。それは雨の日の東京の大通りを歩いているときにしばしば経験させられることであるが、人造石を敷いた舗道が非常にすべりやすくなることがある。煉瓦れんがやアスファルトの所はすべらないのに、適当にどろの皮膜をかぶった人造石だとなかなかよくすべる。それがおもしろいことには靴底くつぞこの皮革の部はすべらないで、かかとのゴムの部分だけがよくすべるのである。それでこういう際はかかとを浮かして足の裏の前半に体重を託してあるけば安全だということを発明したわけである。人造石がかわいている場合にはもちろんすべる心配はない。たぶん適当な軟泥なんでいの層をかぶっている事が条件であるらしい。しかしもしも軟泥の層が単なるリュブリケーターとして作用しているのなら、何も人造石対ゴムに限る必要はないはずである。それが事実は特に人造石とゴムとの組み合わせによって特別な現象が起こるのであるから、これは必ずしも既知の単純なリュブリケーションの問題として不問に付することはできないように見える。これも一つのまじめな研究題目とすればなりうるであろうし、これを深く追究すれば、元来きわめて不明瞭ふめいりょうな「摩擦」そのものの本性に関する諸問題に意外な曙光しょこうをもたらすようなことにならないとも限らない。従来はただ二つの物質間の摩擦係数さえ測定されればそれで万事が解決したと考えられていたようであるが、分子物理学の立場からすれば摩擦の問題はまだほとんど空白として残されているようである。もっとも最近における物質表面層の分子状態に関する研究の成果にはかなりに目ざましいものがあるから、遠からず、私の金だらいの場合や靴底くつぞこの場合に対しても、いくらか満足な解釈が得られるであろうと期待される。しかし私の希望するところはだれか日本人でこの方面に先鞭せんべんをつけてくれる人があればいいと思うのであるが、日本ではたいてい西洋の学者がまずやり始めて、そうして相当流行問題になって来ないと手を着ける人が少ないようであるから、まず当分はこれらも例の「ばからしい問題」として、私の洗面台とそうして東京の街路の上に残されることであろう。
 近ごろネーチュア誌を見ると、コップにビールをつぐ時にビールのあわが立つ、その泡の多少を決定する条件が問題になっていて、そうしてその条件中にコップ表面に存する油脂皮膜も問題になっているようである。人間の手を触れる限りの物体にはたいていこの種の皮膜が知らぬ間に付着しているので、ガラスの表面の性質と思っているものが実はこの皮膜の性質であることがはなはだ多い。従ってわれわれ身辺の物理的現象には、この皮膜のいたずらが意外なところまでも入り込んでいるかもしれないのである。
 たとえば、これもやはり私の洗面台の問題の一つであるが、前夜にたてた風呂ふろの蒸気がへやにこもっているところへ、夜間外気が冷えるのと戸外への輻射ふくしゃとのために、窓のガラスに一面に水滴を凝結させる。冬の酷寒には水滴の代わりに美しい羽毛状の氷の結晶模様ができる。おもしろいことには、水滴が付着する場合に、一枚一枚のガラスの上のほうと下のほうとで、水滴の大きさや並び方に一定の統計的な相違があることである。これは温度の相違によるか、それともガラスのよごれ方の相違によるかという問題が起こって来る。次の問題は水滴が多量になると、それが自分の重さでガラス面に沿うて流れおりて来る際に、いくつかの水滴が時々互いに合流しきれいな樹枝状の模様を作るのであるが、それがその時々でまたいろいろの模様の変化を示し、しかも同じ時にはおのずから一定の統計的平均の形を示すのである。この合流の統計的方則が何であるか、これを支配する物理的与件が何と何とであるか、これも直ちに発せられる疑問である。ガラスの面の一部を石鹸せっけんでこすっておくと、そこだけはこの水滴の凝結に対してまた全くちがった作用をするのである。
 ガラス面に水滴の着く事に関してはいわゆる「呼気像」(Hauchbild, breath figure)の問題として従来多少の研究があった。特に近来の表面化学の進歩につれてかなりまで解答の糸口が得られかかったようではある。しかし具体的の諸問題について追究すべき事がらはまだ非常に多い。私の洗面所の問題のごときもその一つであると思われる。
 水滴の合流するしかたの統計的方則に関しては現在の物理学はほとんど無能に近いと言っても過言ではない。これに類する多くの問題は至るところに散在している。たとえば本誌(科学)の当号に掲載された田口※(「さんずい+卯」、第4水準2-78-35)三郎たぐちりゅうざぶろう氏の「割れ目」の分布の問題、リヒテンベルク放電像の不思議な形態の問題、落下する液滴の分裂の問題、金米糖こんぺいとうつのの発生の問題、金属単晶のすべり面の発生に関する問題また少しちがった方面ではたとえば河流の分岐の様式や、樹木の枝の配布や、アサリ貝の縞模様しまもようの発生などのようなきわめて複雑な問題までも、問題の究極の根底に横たわる「形式的原理」には皆多少とも共通なあるものが存在すると思われる。すなわちいずれにも「安定、不安定」の問題が係わっているように見えるのである。不安定の入り込む多くの場合には事がらが統計的になるので従来の物理学からはとかく疎外されがちであった。通例こういう場合には「事がらが再起的 reproducible でないから」という口実で、惜しげもなく放棄されて来たのである。なるほど従来の再起的という言葉はいわゆるデテルミニスティックな意味での再起性を意味するものであるから、そういわれるのは一応はもっともらしいようであるが、しかし以上のいわゆる非再起的の場合でも、統計的の意味ではちゃんと決定的再起的である。そうして「方則」も統計的には立派に存在しているのである。翻って従来の決定派の物理学について考えてみても一度肉眼的領域を通り越して分子原子電子の世界に入ればもはやすべての事がらは統計的、蓋然的がいぜんてきな平均とその変異との問題にほごされてしまう。のみならず今日ではその統計的知識にさえもある不可超限界が置かれようとしているのである。さてこのような時代にわれわれが物理的統計学についてはたしてどれだけの知識を持っているかというと、これも見方によっては実に貧弱な知識しかもっていない。いわゆる古典的統計法が原子物理学の大海に難破して、これに代わる新しい統計が発明されても、それとこれとの関係もそれぞれの意味もなかなかのみ込めない。それは別問題としたところで、私の眼前のガラスの水滴の合流をいかに統計的に取り扱ったらよいかと思って諸文献を渉猟してみても結局得るところははなはだ少ないのである。それは私が結局何物もないところに何物かを求めているためであろうか。それがそうではない証拠にはちゃんと眼前の事象が存在している。すなわち事象は決してめちゃくちゃには起こっていない。ただわれわれがまだその方則を把握はあくし記載し説明し得ないだけである。
 私がうちの洗面所で日常に当面する物理学上の諸問題はまだこのほかにもいくつかある。たとえば湯の温度によって湯げの立ち上がる様子がちがうので、その湯げの立ち方で温度のおおよその見当がつく。これには対流による渦動かどうの問題がある。また半ば満たした金だらいの中央にコップの水を注入する時に水面に菊花状の隆起を生じる事がある。これもまた渦動の一問題であるらしい。また半球形の湯飲み茶わんに突然水を放射すると水は器壁に沿うて走り上り、縁から外に傘状からかさじょうに広がる、そうしていつまでたっても茶わんには水が満たされない。これについても流体運動の一問題として追究すべき事がらはいくらもある。そうして、これらの問題はいずれも工学上のみならず気象学や海洋学上の重要な諸問題とかなり密接につながっていることはおそらく説明するまでもないことであろう。それにもかかわらず、これら眼前の問題に対していくらかでも知識を得たいと思ってライブラリーを渉猟しても満足な答解を与えてくれるものはまれである。そうかと言ってみずからこれらの多くの問題のどれもに手を着けることは到底不可能である。それで私が今本誌の貴重な紙面をかりてここにこれらの問題を提出することによって、万一にも、好学な読者のだれかがこの中の一つでもを取り上げて、たとえわずかな一歩をでも進めてくれるという機縁を作ることができたら、その結果は単に私の喜びだけにはとどまらないであろうと思うのである。
(昭和六年四月、科学)

底本:「寺田寅彦随筆集 第三巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
   1963(昭和38)年4月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第64刷発行
※底本の誤記等を確認するにあたり、「寺田寅彦全集」(岩波書店)を参照しました。
※「田口三郎」対する底本のルビ、「たぐちうさぶろう」は「たぐちりゅうざぶろう」にあらためました。
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2000年10月3日公開
2003年10月30日修正
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