私が坂を下りやうとした時、下の方から急激な怒號が起つた。
 罵る叫ぶ叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)する、呻く力を張る、そのどの聲でもあるやうに聽えた。
 坂上には忽ち多くの人や車が停滯して、みな怖る怖る坂下を見おろしてゐた。
 坂の下では三人の荒くれ男が、三頭の牛に、瓦斯タンクのやうに偉大な眞つ黒な蒸汽氣罐を牽かして來て、そこでこの急坂を奔け上る爲に、眞劒になつて牛を勵ましてゐる處だつた。
 然し牛はあの調子で意外な儲けものでもしたやうな顏をして緩る緩ると休むでゐる。
 まるで鈍重な意地そのものゝやうに見える。牛方の顏はまるで仁王のやうに血と汗で彩色され、狂氣のやうに物淒い怒號を續ける。
 ほらつしよ、よいつしよお、ほらつしよ、よいつしよお……牛は手綱を強く引つ張られる度に、その白つぽく砂に塗れた大きなからだを支える爲に、痩せた後肢を後へと突つ張つて喘いだ。
 さうしてやつと、坂の途中まで上りかけた彼等は、そこでちよつとでも氣を緩めやうものなら、忽ちドオーツと、はづみを啖つて、その過重な荷と共に無慘な轉落をするだろう。
 牛も臀部の筋肉を痛々しく露出させて、極度の努力を示してゐれば、牛方の男も何とも意味の解らない怒號を發しつゞけてゐる。
 今、今、牛も人も氣が狂つて、何ものにか突進してくるのではないか!
 私は思はず何處かに遁げ場を求めやうとして周圍を見廻した。
 巡査も群衆も皆ひとりでに逃げ道を用意しながら、凝とその光景を見つめてゐた。
 よいつしよ、ほらつしよ、よいつしよお……牛方はやつぱり、唯是れ鬪爭――といふ氣勢で、愛情も生命も投げ出してしまつたものゝやうに、死力を盡して叫ぶ。
 それでも牛は、つぶらな可愛い、體の割に小さい瞳を、無邪氣に柔順に※(「目+爭」、第3水準1-88-85)り、咽喉のたるみをいよいよ急しくひこひこと波打たせ涎の絲を地にひきながら、疾う疾う坂を上り切つた。
 それを見送つてゐると、私の眼からは熱いものが流れた。
 しかも大きい牛の體は、更に大きい蒸汽氣罐の怪物の影に隱れて、乾いた長い路を、白い沙塵をあげながら、鋸の齒形のやうに、ギクギクと刻むでいつた。
 あの努力! あの努力!
 私は其處に人が見てゐなかつたら面を掩ふて泣いたろう。そして私は心の中でいつた。
 安價なセンチメントだと嗤はないで下さい※(感嘆符二つ、1-8-75) 古くさい譬喩だと冷笑しないで下さい!
 人々は、兄弟は、自分は、牛は牛方の男は、今皆苦しみ惱み、默々と喘いでゐる……。
 人々も牛を見送つてしまふと、皆いひ合はしたやうにホツとして汗を拭いて、堰を切つたやうに急坂をなだれおちた。
 私は人知れず、交番のプラタアヌの影で洋傘を翳して、自分の泣蟲を耻ぢながら涙を拭いた。

 ある日の午後、貧民窟といつてもいゝやうな、ある場末の乾うどんやの前で、私は若い女の人と話しあつてゐた。
 その婦人の負ぶつてゐる赤ン坊は、この暑中に、赤い綿ネルのボタボタを着て、小さい手を私の方へ差し伸べ、パラソルの柄を堅く握つて放さなかつた。
 私の顏と傘とを等分に見比べながら、ニコニコと何事をか語りかけてゐる。
 肥つた可愛い子!
『お子さんは何時お生れでしたの?』
『この一月ですよ』
『まあ大きい事、もうお誕生位に見えるのね、』
 私は心から可愛らしい子だと思つた。
 話はもうそれで途切れてしまつた。
 婦人は何處か一つ所を凝と無愛想に見つめてゐる。
 そして暫く時が經過した。
 すると突然疳高い聲が私の胸を貫いた。
『これツ、いまに呉れつちやうんです。』
 婦人は自分で自分にその勇氣と決斷とを示すやうに、こんな重大事を事もなげにいひ放つと、何かおちつかない風に、おどおどと私の顏を[#「顏を」は底本では「顏ち」]見てゐた。
 私にも何か急に重いものが、自分の方へ倒れがゝつてくるやうな息苦しさが感じられた。
『折角まあこんなにして、御親類へでもこのお子をおあげになるといふんですか?』
 對手の感情を支えるやうな氣持ちでいふ。
 すると婦人は、燻ゆぶつてゐるけれど玉子なりの眼鼻立ちの整つた面をふりあげて、
『いゝえ、これから搜さなきやならないんですよ、あなた……』
 訴へるやうな表情でいつた。
 赤ン坊は背中で機械の龜の子のやうに、ぷりぷりと手足を浮かして泳いでた。
 何の條件もなしに無造作に與へるといふ、この快活な赤ン坊を見てゐると、知らず知らず、私は桃太郎のお婆さんのやうな悦びを感じずにはゐられなくなつた。
 赤ン坊もその母親のやうに、中高なはつきりとした顋をしてゐた。
 然し……どういふ運命の子、どういふ遺傳を背負つてる、どういふ性格……段々赤ン坊の顏を見てゐる中に、黒雲のやうなものが私の心に襲來してくる。
 そして赤ン坊が何か急に、暗い大きい背景の中から浮かみ出してる魔物のやうに感じられても來るのだつた。
 またその赤ン坊の生命の中から流れる暖いものが、永遠に向つて蔓草のやうに根を張つてゆくだろう事を思ふと、私はひやりと手をひつこめて、何か非常な冷酷な事を敢てするやうに、
『さようなら。』と其處を見棄てた。
 けれど私はそれから幾日經つても[#「經つても」は底本では「經つてに」]何處までいつても、
『これ今にくれつちやうんです。』さういつて私を見た婦人の瞳が壁虎のやうに、私の背中に啖ひついてゐるやうな氣がしてならない、おそらくは今日までも――。

底本:「文藝戦線10月号」文藝戦線社
   1925(大正14)年10月1日発行
入力:林幸雄
校正:大野裕
2001年1月11日公開
2010年10月30日修正
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