十二月十日、珍らしいポカ/\した散歩日和で、暢気に郊外でも※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)ぶらつきたくなる天気だったが、忌でも応でも約束した原稿期日が迫ってるので、朝飯も匆々に机に対った処へ、電報!
 丸善から来た。朝っぱらから何の用事かと封を切って見ると、『ケサミセヤケタ。』
 はて、解らん。何の事ッたろう。何度読直しても『今朝店焼けた』としか読めない。金城鉄壁ならざる丸善の店が焼けるに決して不思議は無い筈だが、今朝焼けるとも想像していないから、此簡単な仮名七字が全然さっぱり合点のみこめなかった。
 且此朝は四時半から目が覚めていた。火事があったら半鐘の音ぐらい聞えそうなもんだったが、出火の報鐘しらせさえ聞かなかった。うして焼けたろう? 怎うしても焼けたとは思われない。
 暗号ではないかとも思った。仮名が一字違ってやしないかとも思った。が、怎う読直しても、ケサミセヤケタ!
 すると何となく、『焼けそうな家だった』という心持がして、急いで着のみ着のまゝの平生着ふだんぎで飛出した。
 呉服橋で電車を降りて店の近くへ来ると、ポンプの水が幾筋も流れてる中に、ホースが蛇のように蜒くっていた。其水溜の中にノンキらしい顔をした見物人が山のように集っていた。伊達巻の寝巻姿にハデなお召の羽織を引掛けた寝白粉の処班らな若い女がベチャクチャ喋べくっていた。煤だらけな顔をした耄碌頭巾の好い若い衆が気が抜けたように茫然ぼんやり立っていた。刺子姿の消火夫が忙がしそうに雑沓を縫って往ったり来たりしていた。
 泥塗れのビショ濡れになってる夜具包や、古行李や古葛籠つづら、焼焦だらけの畳の狼籍しているを[#「狼籍しているを」はママ]しているを横に見て、屋根ものきも焼け落ちて真黒に焼けた柱ばかりが立ってる洋物小売部の店(当時の丸善の仮営業所は鍵の手になっていて、表通りと横町とに二個処の出入口があった。横町の店が洋物小売部であった。)の前を通って、無事に助かった海苔屋の角を廻って仮営業所の前へ出ると見物人は愈が上に集っていた。鳶人足がカン/\板囲を打付けている最中であった。丸善の店も隣りの洋服屋も表掛りが僅かに残ったゞけで、内部は煙が朦々と立罩めた中に焼落ちた材木が重なっていた。丸善は焼けて了った。夫までは半信半疑であったが、現在眼の前に昨日まで活動していた我が丸善が尽く灰となって了った無残な光景を見ると、今更のように何とも云い知れない一種の無常を感じた。
 猶だ工事中の新築の角を折れて、仮に新築の一部に設けた受附へ行くと、狭い入口が見舞人で一杯になっていた。受附の盆の上には名刺が堆かく山をなしていた。誰を見ても気が立った顔をしている店員と眼や頤で会釈しつゝ奥へ行くと、思い/\に火鉢を央に陣取ってる群が其処にも此処にも団欒していた。みんなソワ/\して、沈着おちついてる顔は一人も無かった。且各自めいめいが囲んでる火鉢は何処からか借りて来たと見えて、どれも皆看馴れないものばかりだ。小汚ない古椅子が五六脚あるぎり、思い/\に麦酒の箱や普請小屋の踏台に腰を掛け、中には始終腰を浮かして立ったり座ったりしていた。誰も皆気が立っていた。誰も皆ワサ/\していた。誰も皆ガチ/\していた。誰も皆元気付いてるようで何処か陰気な淋しい顔をしていた。
 大抵は目眩るしいようにセカ/\往ったり来たりして、人と人とが衝突りそうだ。用あり気に俄に駈出したかと思うと、二タ足三足で復たとまってボンヤリしているものもあった。元気に噪いで喋べり捲ってるかと思うと、笑声の下から歎息をくものもあった。空気が動揺していた。塵埃が舞っていた。焦臭い臭いが充満していた。
 無難に持出した帳場デスクの前に重役連が集まっていた。何れも外套帽子のまゝの下駄がけであった。重役の一人の繃帯が誰の目にも着くので直ぐ訊かれるが、火事場の怪我で無いと聞くと誰も皆安心した顔をして、何の病気だと折返して訊くものも無かった。※(「けものへん+胃」、第4水準2-80-43)はりねずみのような頭の□□は益々ガチ/\していたが、ガチ/\は同じ平生いつものガチ/\であっても、其のガチ/\の底に陰気の音が籠っていた。総支配人は平日に無い靴を穿いていた。『△△さんの靴は初めて見た、』と暢気な観察をする小僮こどももあった。黒い髯で通る○○は露助然たる駱駝帽を被って薄荷パイプを横啣よこぐわえの外套の衣兜かくしに両手を突込みの不得要領な顔をしていた。白い髯で通る社長老人は眼鏡越しに眼をパチ/\して、『わしとこへは店から火事だと電話が掛った。処が中途でプツリと切れたので、直ぐ二十八番を呼出そうとすると、丸善は今焼けてるという交換局の返事だから、そりゃ大変というので……』と、恰も一里も先きに火事があったように悠々閑々と咄していた。
 ると、持出された書類函が重なって、中から帳簿が喰出はみだしていた。四方が真黒に焦げたカード箱が投出されてる傍には、赤く焼け爛れた金庫が防火の功名てがらを誇り顔していた。四隅が焦げたカードやルーズリーフや書類が堆かく一山になっていた。
『何時ごろ?』『四時半ごろ。』『火許は何処?』『富田のアイロン場。』――と、誰が誰に話すのか解らぬが其処此処で聞えた。中には百遍も繰返したものもあったろう。
 話を綜合すると、
 今暁四時半、隣家の富田洋服店の三階の火熨斗場ひのしばから発火して、一間と離れない丸善の二階へ直ぐ燃付いて、瞬く中に仮営業所の全部に火が廻って、到頭隣家の二三軒までも焼落ちて了った。此晩の丸善の宿直が揃いも揃って近視鏡を用ゆる三名、寄宿の小僮が十名。唯った之ぎりの人数だから、近所の取引先きや出入の職人の手伝いもあったが、火さきは早いし、手は廻らず、一番重要な書類を漸とこさ持出したゞけで、商品は殆んど全部が焼けて了ったという。
 雑然喧然騒然紛然たる中に立って誰からとなく此咄を聞きつゝ何とも言い知れない感慨に堪えなかった。眇たる丸善の店は焼けようと焼けまいと社会に何の影響も与えまいが、此中に充積する商品は皆日本の文明に寄与する糧であった。戦争に勝っても日本の文明は猶だ欧米と比べものにならない今日、ラデュームやエレクトロンやプラグマチズムや将たイプセンやニーチェやトルストイの思想が学者間の談柄にのみ限られてる今日、欧米首都の外は地理的名称さえ猶だ碌々知られていない今日、自然主義を誨淫文学と見做し社会主義を売国論と敵視する今日、ロイテル電報よりも三面雑報の重大視される今日、滔々たる各方面の名士さえ学校時代の教科書たる論語とセルフヘルプの外には哲学も倫理もなきように思う今日、此の如く人文程度の低い日本では西欧知識の断片零楮も猶お頗る愛惜しなければならない。眇たる丸善の損害は何程でもなかろうが、其肆頭の書籍は世間の虚栄を増長せしむる錦繍綾羅りょうらと違って、皆有用なる知識の糧、霊魂の糧である。金に換えたら幾何のものでなくても、其存在の効果は無際涯である無尽蔵である。此の焼けて灰となった書籍の一冊を読んで大発明をし、大文章を書き、大建築を作る人があったかも知れない。書籍は少くも五百部千部を印刷するゆえ、一冊や二冊焼けても夫程惜しくないと云う人があるかも知れぬが、日本のような外国書籍の供給が不十分な国では、一冊や二冊でも頗る大切である。且其の焼けた一冊が他日の大発明家、大文学家、乃至大建築家を作るべき機縁を持っていたかも解らない。何千部何万部刷ろうとも失われた一冊は日本文化に取っては一冊の世界的知識の損失であると、感慨一時に湧いて来たが、周囲の人声やげたの音に忽ち消されて了った。
 工事中の新築の階下へ行って見ると、材木や煉瓦やセメント樽を片寄せて炭火を焚いてる周囲に店員が集って、見舞物の握飯むすびや海苔巻を頬張ったりするめを焼いたりしていた。メリヤスの肌着シャツと股引の上に外套を引掛けた焼出された宿直の一人が、富田の店員が三人屋根伝いに逃げて来て助けて呉れと云った顛末を語っていた。其傍に同じ焼出されの宿直が素綿入の寝巻に厚い駱駝の膝掛けを纏付けて、カン/\した炭火に当りながら茶碗酒を引掛けていた。
 煤けた顔をして縄襷を掛けてるのや、チョッキ一つで泥だらけになってるのや、意気地の無いダラシの無い扮装なりをして足だけ泥にしているのや、テンヤワンヤの姿をした働き手が裏口から焼け跡へと出たり入ったりしていた。小僮が各自に焼残りの商品を持てるだけ抱えては後から後からと出て来た。
 焼残りの書籍や文房具や洋物雑貨が塵溜のようにゴッタに積重ねられて隅々を塞げていた。其傍に無残に厚硝子をこわされた飾棚が片足折れて横たに倒れそうに傾いていた。其中には銀細工やニッケル細工のこまかい精巧なものが倒れたり破れたりして狼籍し[#「狼籍し」はママ]、切子の美しい香水瓶が憐れに破われて煙臭い塵臭い中に床しいホワイトローズの香気をただよわしていた。銀の把柄にぎりの附いたステッキが薪のように一束となって其傍にほうり出されていた。
 一方の片隅には肩掛や膝掛が焼焦だらけ水だらけになって一と山積んであった。中には自働車や馬車に乗る貴夫人の肩や膝に纏わるべき美しい織物もあった。
 山高や中折や鳥打やフッドの何れも歪んだり潰れたり焦げたり水を被ったりしたのが一ト山積んであった。新流行のオリーブの中折の半分鍔を焼かれた上に泥塗れになってるのが転がっていた。滅茶々々に圧潰されたシルクハットが一段と悲惨みじめさを添えていた。
 其傍の鉋屑の中に、行末は誰が家の令嬢貴夫人の襟を飾ったかも知れない駝鳥ボアが水にショボ湿れてピシャ/\になっていたのが老いすがれた美人の衰えを見るように哀れであった。其外にも如何なる貴女紳士の春の粧いを凝らすの料ともなるべき粧飾品や化粧品が焦げたり泥塗れになったり破れたりしてそこらこゝらに狼籍[#「狼籍」はママ]散乱して、恰も平家の栄華の末路を偲ばせるような心地がした。
『どうです、洋物部の損害は?』と丁度居合わした半分真黒けな顔をした洋物部の主任に訊くと、
『全滅です、』と淋しげに笑った。
 ここを通って新築の裏口から賄い場へ抜けると、其先きは焼け跡であった。奥蔵の※(「木+眉」、第3水準1-85-86)間を焼灰の堆かい上を蹈んで、半分落ち掛ってる黒焦げの桁を潜ると、柱一本も残らぬ焼原であった。
 朦々と白い煙の立罩めた中に柱や棟木が重なって倒れ、真黒或は半焦になった材木の下に積重なった書籍が原形のまゝ黒焦げとなって、風に煽られる度に焼けた頁をヒラ/\と飛ばしていた。其処此処の熱灰の中からは折々余燼がチラ/\と焔を上げて、彼地此所に眼を配る消火夫の水に濡れると忽ち白い煙を渦立たして噴き出した。満目唯惨憺として猛火の暴虐を語っていた。
 焼けた材木を伝い、焼落ちた屋根の亜鉛板を踏んで、美術書の陳んでいた辺へ行くと、一列のフォリオ形の美術書が奇麗に頭を揃えて建てたなりに、丁度一本の棟木のように真黒けにソックリ其儘原形を残して焼けていた。
 是等の美術書の大部分は巴黎の「リブレール・ド・ボザール」や「デューシエ」や独逸の「ヘスリンク」から此頃新着したばかりのもので、各種の図案粧飾、又は名画彫塑の複製帖等、何れも精巧鮮美、目も覚めるようなものばかりであった。其価を云えば廉なるも二十円三十円、高価なるは百五十円二百円というものであった。是れだけの図案美術書類は、今日の日本には普通の図書館は勿論美術専攻の如何なる研究所にさえ揃っていないと断言して宜かろう。
 ツイ此頃の新着だから、尚だ尽く目を通していなかったが、デュポン・トーベルヴヰ※[#小書き片仮名ヰ、156-1]ルの名物織物譜や、巴黎で新らしく出版された日本の織物帖、ビザンチンの美術大観、某々名家の蒐集した※(「縢」の「糸」に代えて「貝」、第3水準1-92-27)がよう等、其製版摺刷の精妙巧緻は今猶お眼底に残って忘れられない。
 其中には又クラインマンのアッシリア壁画の帖があった。スタインの※(「門<眞」、第3水準1-93-54)コータン発堀の[#「発堀の」はママ]報告があった。前者はアッシリアの浮雕レリーフを撮影した全紙の玻璃版で、極めて緻密なる細部の雕刻までを鮮明に現わして殆んど実物を髣髴せしめた。後者は印度文明の揺籃地に関する最新の発見報告であって、其発堀せる遺物の精巧なる写真数十葉は何れも皆東洋芸術の根本資料として最も貴重なるものである。此の二つは必ずしも二度と得られないというものでは無いが、彼程の立派な研究資料をムザ/\と焼いて了ったは如何にも残念であった。
 其中には又ヴヮンダイクの著名なエチングの複製画があった。(価は四百円であった。)英国印刷界を驚倒したメヂチ版の複製画があった。ニコルソンの飄逸な筆に成った現代文豪の肖像画等があった。新らしいものではあるが、是等は大抵多数に頒つを目的としないで、三百乃至五百、中には僅に五十部乃至百部を限った出版もあるゆえ、其中には二度と再び得られないものもあった。
 之が皆焼けて了った。数十部の画帙画套が恰も一本の棟木のように一つに固まって真黒に焼けて了った。世界の大美術書の総数に比べたなら九牛の一毛どころか百牛の一毛にも当るまいが、シカモ世界の文献に乏しい日本では此の百牛の一毛なり万牛の一毛なりの美術書でさえが猶お貴重せざるを得なかった。
 スチュヂオやアート・ヂャーナルの増刊やマイステル・デア・ファーベや其他各種の美術書は凡そ一千部以上も焼燼した。こんなものは註文すればイクラでも得られる、焼いても惜しくないと云えば云うようなものであるが、日本では欧羅巴に数千部を頒布する是等の普通の美術雑誌でさえも帳中の秘書として珍襲する美術家又は鑑賞家の甚だ少からぬを思い、更にこんな平凡普通なものをすら知らずに美術を談ずる者がヨリ一層少からざるを思うと、恁んなものでも灰となって了ったを亦頗る惜まざるを得ない。
 余は屡々人に話した。倫敦タイムズ社が売った数千部のブリタニカやセンチュリー大辞典はツンドク先生の客間や質屋の庫に埋もれて了ったと、賢しら顔して云う人もあるが、客間の粧飾となっていようと質屋の庫に禁錮されていようと、久しい間には誰かゞ読む。一人が読めば一人だけを益する。ツマリ数千部のブリタニカやセンチュリーが日本に広がったは夫だけ日本の公衆の平均知識を増したわけである。
 日本では夜肆よみせで外国の古新聞古雑誌の挿画を売っている。其の多くはロンドン・ニュースやグラフフヰ※[#小書き片仮名ヰ、157-14]ック、パックやウォッヘの切抜で下らぬものばかりである。こんなものさえ大切にスクラップ・ブックへ貼付けて珍重する日本では、残念ながら猶だ/\当分の中は外国書籍のお庇を蒙らねばならない。此種の美術書の焼失は金銭の問題では無い。金子かねさえ出したら絶対に買えないものは無いだろうが、一冊でも多く外国書籍を普及したい日本では、縦令再び同じものを得られるとしても、焼けたものは矢張日本の文化の損失である。
 と心窃に感慨しつゝ、是等の大美術書を下駄で踏むのがアテナの神に対して済まないような気持がしながら左見右見とみこうみとしていると、丸善第一のビブリオグラアーたるKが焼灰で真黒になった草履穿きで煙の中を※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)いつゝ、焼けた材木や煉瓦をステッキで堀返しては[#「堀返しては」はママ]失われた稀覯書の行衛を尋ねていた。
『ドウダネ、堀出し物でも[#「堀出し物でも」はママ]あるかネ?』
『何にもありません。悉皆焼けて了いました、』とKは力の抜けた声をして嘆息を吐いた。
『シーボルトは?』
『焼けて了いました。』
 シーボルトの名は日本の文明の起源に興味を持つものは皆知ってる筈である。葡萄牙ポルトガルのピントー以来日本に渡来した外人は数限りも無いが、真に学者として恥かしからぬ造詣を蓄えて、学術研究の真摯まじめな目的を抱いて渡来し、大にしては世界の学界に貢献し、小にしては日本の文明にも亦寄与したものはシーボルト一人であった。シーボルトが若し渡来しなかったら、日本の蘭学や本草学はアレ程に発達しなかったであろうし。又日本の動植物や特殊の文明も全然欧洲人に理解されていなかったであろう。其のシーボルトの『日本動植物譜』は特に我が文明の為に紀念すべき書たるに留まらず、古今の博物書中の大著述の一つで、殊に日本に関する博物書としては今猶お権威を持ってる名著である。且初版以後一度も覆刻されなかった故、今日では貴重な稀覯書として珍重されて、倫敦時価一千円以上である。且又其価は年々騰貴するから、幾年後には何千円を値いするようになるかも計られない。日本では、伊藤圭介翁の遺書が大学の書庫に収められてる筈であるが、其外に恐らく五部と無いものであろう。
 此のシーボルトの『動植物譜』は先年倫敦の某稀覯書肆から買入れたのが丸善の誇りの一つであったが、之が焼けて了ったのだ。
『片無しかネ?』
『片無しでもありません。今、其処で植物フロラ発見みつけましたが、動物ファウンナが見付かりません。』
 と、Kがステッキで指さすを見ると、革の表紙が取れて、タイトル・ページが泥塗れになったシーボルトが無残に黒い灰の上に横たわっていた。が、断片零紙も惜むべき此種の名著は、縦令若干の焼け損じがあっても、一部のフロラが略ぼ揃える事が出来たなら猶お大に貴重するに足る。之を尽く灰として了わなかったは有繋さすがの悪魔の猛火も名著を滅ぼすを惜んだのであろう。
『リンスホーテンもこんなになって了いました、』とKは懐ろからバラ/\になった焼焦だらけの紙片を出して見せ、『落ちてたのを之だけ拾って来ました。』
 リンスホーテンの『東印度旅行記』――原名を"Navigatio ac itinerarivm"と云い、一五九九年ヘーゲの出版である。比の貴重なる初版が日本の図書館に有る乎無い乎は疑問である。
『ジェシュートの書翰集は?』
『あれは無論駄目です。あの棚のものは悉皆焼けて了いました。』
 此書翰集こそ真に惜むべき貴重書であった。原名を"Cartas que los padres y hermaos de la Compania de Iesus, que andan en los reynos de Iapon"と云い、日本に在留したザビール初めアルメイダ、フェルナンデス、アコスタ等エズイット派の僧侶が本国に寄せた天文十八年(エズイット派が初めて渡来した年)から元亀二年(南蛮寺創設後三年)までの通信八十八通を集めたもので、一五七五年即ち天正三年アルカラ(西班牙スペイン)の出版である。殊に此書は欧羅巴刊行の書籍中漢字を組入れた嚆矢としてビブリオファイルに頗る珍重される稀覯書である。
 帝国大学の図書室で第一の稀覯書として珍重するは所謂"Jesuit press"と称する是等のバテレンが本国へ送った通信であって、蒐集の量も又決して少く無いから、或は此書翰集も大学に収蔵されてるかも知れないが、大学を外にしては日本では他の図書館或は蒐集家の文庫に此稀覯書を発見し得る乎怎う乎、頗る掛念である。
 丸善は新書の供給を旨としておる。無論、日本では猶だ外国の稀覯書を珍重するほどの程度に達していないから、此の如き稀覯書を外国から仰いで積んで置く事は出来無いが、猶且容易に手に入れる事の出来ない此種の珍本も数十点あった。之が皆灰となって了った。
 稀覯書というでは無いが、ベンガルの亜細亜協会の雑誌(一八三二年創刊?)の第一号から一九〇五年分までが揃っていた。亜細亜協会は東洋各地に設立されてるが、就中ベンガルは最も古い創立で、他の亜細亜協会の雑誌よりもヨリ多く重要なる論文に富み、東洋殊に印度学の研究の大宝庫として貴重されておる。其価は金一千二百円で、雑誌としては甚だ不廉のようであるが、七十四年間の雑誌を揃えるは頗る至難であって、仮令二千円三千円を出した処で今日直ちは揃え得られるものでは無い。僅か十年かそこらの日本の雑誌ですらも容易に揃えられないのは雑誌を集めた経験ある人には能く解る。況してや七十四年間の外国雑誌は長い間に何度も繰返して重複したものを買集めなければ揃えられないので、恐らく此雑誌も全部揃ったは日本に幾何も無いであろう。之が尽く灰となって了った。
『目録も焼けたろうネ?』
『焼けました。あれが焼けて了ったのが一番残念です、』とKは愈々憮然たる顔をした。
 目録というは売品では無い。営業上の参考書である。が、丸善が最も誇るべきものゝ一つは此外国の各種の目録で、Kが専ら其衝に当って前後十何年の丹精を費やした努力の賜であった。
 図書館の設備と書店の用意とは自ずから異なってるから、丸善に備えつけた目録を図書館に需めるは不当であろうが、日本の普通図書館には求められない特殊の外国書目が丸善には準備されているのだ。尤も書肆であるから学術上の貴重なる書目を尽く揃えていたわけでは無いが、試に其の一つ二つを云えば、Heinsius "Bucher-Lexicon"が一七〇〇年から一八九二年まで二百年間尽く揃っていた。ロレンツの仏蘭西書目が一八四〇年から今月まで六十年間全部揃っていた。レイボールドの『米国書目』は米国書目中の貴重書として珍重されて時価著るしく騰貴しているが、此の貴い書目も丸善の誇りの一つであった。学術上から云ったら余り貴くないかも知れぬが左に右く恁ういう日本には珍らしい書目が十数種あった。
 現行書目にしも、英独仏露伊西以外、和蘭、瑞西、波蘭、瑞典、那威、澳太利、匈牙利、葡萄牙、墨西哥、アルゼンチン、将た印度、波斯、中央亜細亜あたりまでの各国書目を一と通り揃えていた。無論日本の分類書目的の普通目録であるが、恁ういう交通の少ない国の書目は最も普通のものでも猶お珍奇とするに足る。
 其他各国大学又は図書館協会或は学会等、及びクワーリッチ、ヒールセマン等英仏独蘭の稀覯書肆から出版した各種の稀覯書目録(欧羅巴の稀覯書肆の特別刊行の書目は細密なる分類を施こし且往々解題を加え或はファクシミルを挿入する故書史学者の参考として最も珍重すべきものである。)が数百種あった。凡そ是等の特種書目は三百部乃至五百部を限るゆえ再び之を獲る事は決して出来ないのだ。
 無論、是等の書目の多くは日々の営業上必要なものでなく、大抵高閣に束ねて滅多に参考する事は無いが、外国書籍の知識を得る為めには絶好の資料であった。我々が外国古文学又は特殊の書籍又は稀覯書等に就て知らんとするに方って普通の目録や書籍歴史では決して得られない知識を探り得られる是等の含蓄多き貴重なる書目の滅亡は真に悲むべきであった。
 Kと一緒に暫らく灰燼の中を左視右顧しつゝ悵然ちょうぜんとして焼跡を去りかねていた。
 四壁の書架は尽く焼燼して一片紙の残るものだに無かった。日本の思想界を賑わしたトルストイもニーチェもワイニンゲルもストリンドベルグもハウプトマンもアンドレーフもアナトール・フランスも皆跡もなく猛火の餌食となって了った。近代的装釘技術の標本として屡々人に示したクレーマー出版の『ウェルタール・ウント・メンシハイト』の精巧細緻なレザーの模範的装釘も痕跡だになく亡び、此頃での大出版と云われる剣橋ケンブリッジ現代史も尚だ到着したばかりの十四冊物百数十部即ち凡そ二千冊が大抵灰燼となって、僅に残存した数十冊が表帋ひょうしは破れ周囲は焦げて惨澹たる猛火の名残を留めていた。
 眇たる丸善の損害は幾何でも無いが、一万三千余種八万巻の書冊は其数量に於てこそ堂々たる大図書館の十分一将た二十分一にも過ぎないが、其質に於ては大図書館にこそ及ばざれ、尋常普通の文庫に勝るものがあった。之を区々一商店の損失として金銭を以て算当すべきでは無かろう。
 古来焚書の厄は屡々歴史に散見する。殊にアレキサンドリアの文庫の滅亡は惨絶凄絶を極めて、永く後世をして転た浩嘆せしめる。近頃之を後人の仮作とする史家の説もあるが、聖経、詩賦、文章、歴史等古代の文献が尽く猛火の餌食となって焔々天を焦がし、尊いマニュスクリプトを焚いて風呂まで沸かしたというに到っては匹夫の手に果てたる英雄の最期を聞く如き感がある。一書肆の災を以て歴史上の大事件に比するは倫を失したもので聊か滑稽に類するかも知れないが、昨日までは金銀五彩の美くしいのを誇った書冊が目のあたりに灰となり泥となってるを見、現に千金を値いする大美術書を足下に踏まえてるを気が付くと、人世無常の感に堪えない。彼処には"Indian Archives"が炭のように焼けておる。此処にはロガンの"Journal of Indian Archipelago"が黒き灰文字となって僅かに面影を残しておる。見よ、心なき消火夫か泥草鞋もて蹂躙ふみにじりつゝ行く方三尺の淡彩図を。嗚呼、是れシラギントワイトの『西蔵探険記』の挿図に非ず哉。五十年前初めて入蔵した此強胆なる学者の報告は芝居気満々たる山伏坊主の冒険小説に非ざる地理学上の大貢献であって、今日猶お東方研究の三墳五典として貴重されておる。此大著述も亦日本に幾何も存在しないだろうが、シカモ其の幾何も存在しない中の一部は此の如や半ば焼かれて此の如く泥草鞋に蹂躙られつゝある。嗚呼是れ何たる惨事であろう。
 此満目傷心の惨状に感慨禁ずる能わず、暫らくは焼けた材木の上を飛び/\、余熱に煽られつゝ彼方此方に佇立低徊していた。其中に面会者があると云って呼びに来たので、何の書断片であるかは知らないが満文蒙文或るは瓜哇文の散紙狼藉たる中を、タイプライターの赤く焼けた残骸二ツ三ツが無残に転がってるを横に見つゝ新築家屋の事務所へ戻ると、人声が四壁に反響して騒然、喧然、雑然、囂然ごうぜん、其処ら此処らで見舞物を開いて蜜柑を頬張るもの、煎餅を噛るもの、海苔巻を手に持つもの、各々言罵りてワヤ/\と騒いでいた。中には両手に余るほどの煎餅を懐ろに捻込みつゝ更に蜜柑の箱に吶喊するものもあった。茶碗酒をあおりながら蜜柑の一と箱を此方へよこせと※[#「口+斗」、U+544C、165-6]くものもあった。古今の英雄の詩、美人の歌、聖賢の経典、碩儒の大著、人間の貴い脳漿を迸ばらした十万巻の書冊が一片業火に亡びて焦土となったを知らず顔に、渠等はバッカスの祭りの祝酒に酔うが如くに笑い興じていた。
 重役の二三人は新聞記者に包囲されていた。自分に特に面会を求めたのも新聞記者であって、或人は損害の程度を訊いた。或人は保険の額を訊いた。或人は営業開始の時期を訊いた。或人は焼けた書籍の中の特記すべきものを訊いた。或人は丸善の火災が文明に及ぼす影響などゝ云う大問題を提起した。中には又突拍子もない質問を提出したものもあった。曰く、『焼けた本の目録はありますか?』
 丸善は如何に機敏でも常から焼けるのを待構えて、焼けるべく予想する本の目録を作って置かない。又焼けてから半日経たぬ間に焼けた本の目録を作るは丸善のような遅鈍な商人には決して出来ない。概算一万三千種の書目を作るは十人のタイピストが掛っても二日や三日では出来るものではない。恐らく此記者先生は丸善を雑誌屋とでも思ったのであろう。此質問一ヵ条を持出して、『目録は出来ていません』と答えると直ぐ『さよなら』と帰って了った。
 見舞人は続々来た。受附の店員は代る/″\に頭を下げていた。丁度印刷が出来て来た答礼の葉書の上書きを五人の店員が精々せっせと書いていた。其間に広告屋が来る。呉服屋が来る。家具屋が来る。瓦斯会社が来る。交換局が来る。保険会社が来る。麦酒の箱が積まれる。薦被りが転がり込む。鮨や麺麭や菓子や煎餅が間断しっきりなしに持込まれて、代る/″\に箱が開いたかと思うと咄嗟に空になった了った。
 誰一人じっとしているものは無い。腰を掛けたかと思うと立つ。甲に話しているかと思うと何時の間にか乙と談じている。一つ咄が多勢に取繰返し引繰返しされて、十人ばかりの咄を一つに纏めて組立て直さないと少しも解らなかった。一同はワヤ/\ガヤ/\して満室の空気を動揺し、半分黒焦げになったりポンプの水を被ったりした商品、歪げたり破れたりしたボール箱の一と山、半破れの椅子や腰掛、ブリキの湯沸し、セメント樽、煉瓦石、材木の端片、ビールの空壜、蜜柑の皮、紙屑、縄切れ、泥草履と、塵溜を顛覆返したように散乱ってる中を煤けた顔をした異形な扮装の店員が往ったり来たりして、次第々々に薄れ行く夕暮となった。
――明治四十一年十二月十一日、火災の翌日記――

底本:「魯庵の明治」山口昌男、坪内祐三編、講談社文芸文庫、講談社
   1997(平成9)年5月9日初版発行
底本の親本:「内田魯庵全集第六巻」ゆまに書房
   1984(昭和59)年11月20日初版発行
※「狼籍」は、底本、底本の親本でもともに、こう表記されている。底本、底本の親本ともに、一箇所だけ「狼藉」とあるところは、本ファイルでもそのままとし、特別な注記は行わなかった。
※「掘」と思われるところが、底本、底本の親本でもともに「堀」とされている。
入力:斉藤省二
校正:松永正敏
2001年5月19日公開
2012年3月2日修正
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