燥々しながら立つて毛布をはたいた、煙草の灰が蛇の抜殻のくづるる様にちる、私は熱湯の中に怖々と身体を沈める時に感ずる異様な悪感に顫へながら強ひて落着いた風をして沈と坐つて見た。品川高輪芝浜を通り越す時分には、私は黒い際立つた建築や車庫や獣類の臭気に腐れたまま倒れかかつてゐる貨物車の影と、その湿つた九時頃の暗碧な夜の空に薄紫の弧灯がしんみりした光を放つてゐるのを見た。愈停車場の構内に着いたと思つた時には既に面と向つて驕奢な而して冷酷な都会にブツツカツてゐたのである。此処には最早旅愁をそゝのかされるやうな物売の呼声を聞くことができぬ、意外に空気は急忙だしいが厳粛なものであつた、私は押し流されるやうにして、この魔宮の正門に達する大理石の舗石の如く、又は、監獄へゆく灰白色の坦道に似た長いプラツトホームを顫へながら急ぎ足に歩いた時の心地は今にも忘れることができない。而して私が歩行きながら第一に受けた印象は清潔な青白い迄消毒されてゐる便所から泌み渡つてくるアルボースの臭気であつた。即ち都会の入口の厳粛な匂である。その他、停車場特有の貨物の匂、燻らす葉巻、ふくらかな羽毛襟巻、強烈な香水、それらの凡てが私の疲れきつた官能にフレツシユな刺戟を与へたことは無論である。
改札口へ出るとすぐ私は迎へにきてゐた数名の友人から取り巻かれながら、強ひて平気を装ひつゝ正面の階段へ押されて行つた。高貴な人々はここから幾組となく幌馬車を駆つてゆく、俥がゆく、電車がゆく。そしてそれらの行手に電気灯の黄色と白熱瓦斯の緑金色とが華やかに照り耀いてゐる市街が見えた。それが銀座だと教へられたばかり、美くしい『夜』の横顔を遠くから見たままで、私は暗い烏森の芸妓屋つづきの路次をぬけて、汚ないある街の某と云ふ素人下宿に辿りついた。そうして冷たい女主人の顔を見、友人の誇らしい浮薄な風采を見、牢獄同様に仕切られた狭い一室に、疲れはてた身体を休めた時、つくづく私は何だか都会の幻影に欺かれてゐたやうな気がした。
その後、私は寥しくなると何時も新橋停車場に出かけては五年前に経験した都会の入口の臭気と感覚とを新たに嗅いでくる。而して身も霊も顫へながらなほ新しい官能の刺戟を求めたかの時のみづみづしい心をあちらこちらと拾ふてあるくのが何時となしに私の習慣となつた。
底本:「日本の名随筆 別巻95 明治」作品社
1999(平成11)年1月25日第1刷発行
底本の親本:「白秋全集 第三五巻」岩波書店
1987(昭和62)年11月
入力:ふろっぎぃ
校正:門田裕志
2002年1月11日公開
2005年12月14日修正
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