砂風の吹く、うそ寒い日である。ホームを驛員が水を撒いてゐる。硝子のない、待合室の外側の壁にもたれて、磯部隆吉はぼんやりと電車や汽車の出入りを眺めてゐた。
 靴のさきが痛い。何だか冷たいものでも降つてきさうな空あひで、ホームの中央に吊りさがつてゐる電氣時計は、四時を一寸廻つて、四圍はもうくらさをたゞよはせて、如何にもあわたゞしい。若いうちは、中途半端な事に何の怖ろしさもなく、無性に自信を持つてゐたものだけれども、もう、五十の年をきいては、中途半端でゐる事は何よりも不安至極で、人間として少しも値打ちのないやうな空白を感じてくる。このおもひつぶさに云ひがたしで、隆吉は、刻み煙草に火をつけながら、ぽつぽつ家へ戻らうかと思つた。
 磯部隆吾が、滿洲から、妙子を連れて引揚げて來たのは、一ヶ月ほど前であつた。誰一人身寄りもない日本ではあつたけれども、戻つてみると、故郷はありがたい。古い袷に手をとほしたやうなぬくぬくとしたものを感じた。妻の糸子は甲州のかじかざはと云ふところの生れださうだけれども、これとても、子供の頃に東京へ出て來てゐたので、そのかじかざはと云ふところの名前が、どんな文字で書かれるのかも判らなかつた。
 東京の病院で、看護婦をしてゐた糸子と二十五年前に結婚して、すぐ、滿洲に渡り、奉天を振り出しに、北滿の果てまで轉々と居を變へて終戰になつたのである。ハイラルでは四年ほど住んでゐた。驛近くで高級食料品店を開いてゐて、二十歳を頭に、三人の娘があつたのだけれども、女房と、中の娘は終戰と同時に肺患で亡くなり、長女は新京で行方知れずになり、末娘の妙子と二人で今日に到つた。妙子は十七歳で、日本の土地を一度もふんだ事のない娘であつた。
 同じ引揚船で苦樂をともにして戻つて來た仲間のうちに、滿鐵の社員で、年配も隆吉と同じ年頃の河邊亮太郎と云ふ男がゐた。家族は東京に殘したまゝであつたので、戻つてゆく栖家すみかには不自由がない。戸山ヶ原の近くに五百坪ばかりの地所もあり、家も燒けのこつてゐた。磯部はひとまづ、河邊の家へ落ちついた。無一文、無財産ではあつたけれども根が樂天家で、ほほを抱き眞を含めりで、どのやうな環境にもびくともしない心根は、長い間の大陸放浪から來てゐる無欲てんたんにあるのに違ひない。河邊の妻は、私立女學校の家政科の教師をしてゐたが河邊のやつかいな道連れを、あまり心よくは迎へてはくれなかつた。
 妙子のきてんで、母のかたみのダイヤの指輪をズボンの裾の縫目に、妙子は閉ぢこめておいた。髮の毛はぢやきぢやきに剪つて、中耳炎の如くよそほひ汚れた繃帶を頭からあごへ卷きつけて兩方の耳の中に、母のプラチナの時計一つと、金の指輪を一つはさみこんで隱して持つて來た。
 隆吉は何も知らなかつた。妙子は本當に耳が惡いのだと思つてゐた。繃帶はところどころ血がついて、煮〆たやうに汚れてゐた。十七の娘が、見るかげもなくやつれ果てて痩せて背の高い姿は、誰の注意も惹かなかつた。
 無事に、この三つの寶は、娘の體に守られて故國へ戻つて來た。妙子は隆吉の娘のうちでも、とりわけきりやうのいゝ顏立ちで、日本へ戻つて一ヶ月もすると、めきめきと美しさが光を放つて來た。性質は闊達。新京の女學校の寄宿舍では、毒婦と云ふ蔭のニツクネームがあつた位で、どの男の教師も、妙子にあつては自由自在にあつかはれる魔力がひそんでゐた。肌は淺黒く、背が高いので、年よりは一つ二つ大人に見えた。野性的のしろい齒並の美しさが、笑ふ度に、何とも云へない魅力を持つてゐたし、太い眉と眼はつまつてゐたけれども、眼は大きく情をたゝへてよく光つてゐた。
 首の細いのが弱々しく見えたが、聲は美しく澄んでゐた。日本の土を生れて初めて踏んだ妙子は、何も彼も珍しく、苦難な脱出の日の數々の思ひ出も、祖國にかへつて充分なぐさめられるやうな氣がした。
 財産を失ひ、妻や娘を亡くした隆吉も、月日がたつにつれ、一種のあきらめが出來て、妙子の持つて歸つたさゝやかな寶石類を賣つて六萬圓ばかりの金をつくつた。亮太郎の世話で、池袋の商店街に、小さいマアケツトの出物があつたのをゆづりうけて、そこでさゝやかな酒場を開いた。名前も自分で皮肉つた崩浪亭はうらうていとつけて、妙子と二人で一生懸命に働いた。開店の時期もよかつたのか、ことのほか繁昌したし、客種も割合よくて、食料店をやつてゐたゞけに、酒だけはぎんみしてゐたので、とくいの客も段々ふえて行つた。なかには、妙子を目標にして來る客もあり、妙子はよく心得て、さうした客達をじよさいなくあつかつてゐた。
 磯部隆吉は、店が繁昌していつたところで、それが愉しいと云ふわけでもなく、一生懸命に働いてはゐても、昔ほどの野心も欲望もなく、酒好きな河邊亮太郎が尋ねて來ると、隆吉は亮太郎と、狹い自分達の部屋で、酒を飮みながらよもやま話をするのが唯一の愉しみであつた。
 店の土間は三坪ばかりで、粗末な卓子と椅子を置き、紙張りの天井には、雨漏りの汚點が出來てゐると云つた佗しいかまへで、自分達の部屋も六疊一間で、軍隊毛布を、破れた疊に敷き、小さい電氣コンロの炬燵を置いた風情のない部屋であつた。臺所が土間の三疊で、こゝだけには豐富に酒や、仕入れの食料がぎつしり詰つてゐた。臺所の出口には、隆吾が手作りの箱をつくつて、そこへ白色レグホンを二羽飼つてゐた。朝の早い隆吉は、鷄の鳴く聲がきゝたいばつかりに鷄を飼つたのである。
 滿洲でも、隆吉は鷄を澤山飼つてゐた。仄々と明けてゆく夜明の時刻に、たけだけしく鳴く鷄の聲は、隆吉にいろいろな思ひ出をさそふのである。あゝあんな時もあつた、こんな事もあつたと、蒲團に腹這ひになつて、煙草を一服つけながら、間をおいては、時を告げる鷄の聲に耳をかたむけてゐる氣分は何とも云へなかつた。自分によりそつてぐつすり眠つてゐる妙子のおもざしのなかに、亡くなつた妻の糸子のおもかげがはうふつとして、ふつと若き日の夫婦のこまやかな思ひ出を呼びおこす……。駈落のやうな氣持で内地を去るときの、若い糸子との旅立ちも、いまは一片の夢になり果てて、もう苦樂をともにした妻は冥府へ去つてゐないのだと思ふと、何となく、寒々しい淋しさが身内にせまつて來た。をかしい事だけれども、女房と云ふものはいゝものだと思へた。年を取るにつれ、澤山の友人も一人去り二人去り、浮氣心で關係のあつた女もかすみの世界に消えていつた現在では、思ひ出すのは亡妻の事ばかりである。
 鷄の聲をきゝながら、隆吉は、あたゝかくお互ひの體をよせながら、夜明けのひとゝきを語りあつた、愉しい日々を仄々と思ひ浮べてみる。隆吉は、妻と一緒の時代にも、方々へ出張する度、その場所や、時のはずみで、四五人の女を知つてゐたのだけれども、いまは、その女達のおもかげは、まるでしやもじのやうに、のつぺらぼうな顏かたちにしか浮んで來ない。女房よりいゝ女はなかつたと、隆吉は心の底でしみじみと、その戀しい女房の片身である娘と添寢しながら、何とないあたゝかな幸福を感じるのであつた。
 この娘が、どのやうな男を得るのかは判らないけれども、いゝ男を選んで倖せになつてくれるといゝと念じる。長い事洗はないとみえて、娘の髮の毛が匂つた。かつかうのいゝ鼻つきから、うすく唇をひらいたところは、亡妻にそつくりであつた。閉ぢたまつげは、深いかげをつくり、まことに憎からぬ風情で妙子は平和な寢姿でゐる。
 隆吉は、娘の寢姿に見とれながら、子供のやうにせぐりあげる淋しさに落ちこんでゆく。財産よりも身内のものが何よりも寶だと思へた。幽靈にでもなつて亡妻が出て來てくれぬものかと、妙な事を考へてみる。年齡のせゐか、ひどく人生が虚無的になり、朝々、鷄の聲をきゝながら隆吉は、ぼんやりと、そのひとゝきを無上の境地として過してゐるのであつた。
風來りて房戸ばうとに入り
夜中枕席ちんせき冷かなり
氣變じて時のかはるを悟り
眠らずして夕の永きを知る。
 隆吉は何かの詩句にあつた、この文章が好きで、朝、白い月の殘つてゐる時なぞ、ひとしほこの思ひが濃く胸の中を去來して、人戀しくなるのである。――亮太郎が時々冗談にことよせて、茶飮み友達がなくちやア淋しいね。三十八になる未亡人があるのだが、隆吉さん、どうです? 結婚する氣はありませんかと云つた事があつた。今さら女房を貰つて無駄な苦勞はしたくないねと云つてはみたものの、隆吉もまだ老春らうしゆんらしき氣配はあつた。まんざら女がいらないわけではなかつた。痛切に欲しいと思ふ時もあつたが、妙子の成長する姿を見てゐると、もうすべて、男のいやしい慾望は捨てなければならぬと悟つてもみる。
 いまさら女房を貰つて、あと何年間か、つまらぬくりかへしを營んだところで、それが何であらうと思ふのであつたけれども、糸子が病みついて亡くなつてから、まる五年と云ふもの、隆吉は僧侶のやうな精進けつぱくな生活をおくつてゐた。幸ひその間は戰爭つゞきで、あわただしく過してゐたせゐもあつて、別に生身なまみな男の淋しさと云ふものを味はつた事はなかつた。さうしたきざしがあれば、酒を飮んでうさをごまかしてもゐた。
 戰爭も終り、急轉して運命が變り、いまは昔のおもかげもない、小舍同樣のバラツク住ひのみすぼらしさに落ちてしまつた。
 運命がすつぱりと一刀兩斷に切り變つてしまつた現在では、もう考へる事すべてが無駄である。淋しさを慰さめる、人間の生身の相手は、酒のみにあらずと云ふ考へも浮び、老人の最後の燭火ともしびも欲しいと云ふ、いやしい欲も時々ほのめく時がないでもない。鷄の聲は朝々いさましく時を告げた。隆吉は、その鷄の聲をきくたび、同じやうな考へに耽り、ああと、あくびまじりな溜息がいくつか出てくる。

 或る日、亮太郎が、その未亡人を連れて來た。それは思ひがけなく、若々しい女で、小柄ではあつたが肉づきのいい、美人ではなかつたが、愛嬌のある丸顏で、未亡人と云つた暗さのない女であつた。良人は軍醫中尉で、マニラで戰死したのだとかで、子供もなく、洋裁をして今日まで何とか切り拔けて來たのだと亮太郎から聞いた。隆吉は、背の高い大柄な女が好きであつたが、その婦人は、自分の好みとは反對であつたけれども、如何にも好感の持てる風姿であつた。美しい手をしてゐた。亡妻と違つて色白で、きめのこまかい、それに、情熱のこもつた細い眼もとが、隆吉には素直にうけとれた。妙子は知らん顏をしてゐる樣子だつたが、心ではよく承知してゐたとみえて、甘えるやうなかつかうで、その女に洋服の仕立てを頼んだりしてゐる。妙子は機敏に相手を利用する事がうまく、すぐ、もう寒さに向ふ支度をちやんと、心のなかに勘定してゐる樣子である。
 何氣ない見合ひであつたけれども、何にしても、お互ひは他人同志である。貰ふにしても、他人同志のぎごちなさをとりはらふには、狹い部屋で年頃の娘と枕を並べて寢ると云ふわけにはゆかない。妙子は駻馬である。隆吉は思ひ迷はずにはゐられなかつた。後日の亮太郎の話によれば、その、宮内はなと云ふ女性も、隆吉に好意を持つてゐると云ふ事であれば、隆吉としては何となく心が動かないではゐられなかつた。五十の坂を越して、自分をすつかり見捨ててゐた時であるだけに、多少なりとも、若い女性に好意を持たれる事はうれしい事である。
「宮内さんは、以前、うちの女房と同じ女學校にも勤めてゐてね。若い娘はあつかひつけてゐるンで、妙子さんにも好意を持つてゐるンだよ。妙子さんの冬服をつくるンだとはりきつてゐたよ」
 隆吉は惡い氣はしなかつた。
 宮内はなは信州の生れで、現在は、姉一人のみよりだけで、いまは、大家族の姉の家にやつかいになつてゐるのださうである。結婚の相手でもみつかれば、何とか早く越してしまはなければならぬと云ふありさまで、越すにしても、ミシンを二臺に、身のまはりのものも多少はあると云ふので、まさか隆吉のバラツクのやうなところにいれるわけにゆかないであらう。亮太郎の話によれば、
「何も君、折角の縁だもの、このへんにかつかうの部屋をみつけて、君達だけ越すのさ。妙子さんは、店へあのまゝ留守番に置いとけばいゝだらう」と云ふのであつた。
「さうもゆかないよ。まだ、何ていつても子供だもの、あぶないからね」
 すると亮太郎はからからと笑つて、
「妙子さんなら、君よりも大丈夫だ。とても悧巧者で、ちやんとやつてゆけるよ。何なら、僕から云つてもいゝがね……」
 亮太郎は一日も早くまとめたい風な樣子である。
 隆吉は迷はないわけにはゆかなかつた。妙子と今日まで辛苦をともにして來てゐながら、いまさら、自分の幸福だけを考へるのも、殘酷なやうな氣がして來る。妙子は相變らず元氣で、父親のさうした惱みには少しもふれては來なかつた。
 見合ひをして、ものの十日もたゝぬうちに、妙子に灰色のスーツに、ピンクのブラウスが宮内はなのところからとどけられて來た。スーツの布地は隆吉が同じマアケツトの店からみたてて割合安く買つておいたものであつたが、ピンクの、デシンのブラウスは宮内はなの心づかひであつたので、妙子よりも隆吉はその贈物に心をときめかせるありさまで、縫賃も取らないと云ふ、まことに有難いほどな心意氣であつてみれば、もう、一瀉千里な氣特にならずにはゐられない。
 或る夜の、親子の寢物語りに、隆吉は、それとなく、亮太郎からの話だがねと、宮内はなとの縁談を妙子に話してみた。妙子は一寸眞生目な表情で父を見てゐたが、ふつと、唇邊にうす笑ひを浮べて、
「私、お父さんの幸福になる事なら何でもいいと思ふわ。でも、私一人でこゝに留守番するの厭よ。――私が、何處からか通つて來ていけないかしら……」と云つた。
「通ふつて、何處から通ふンだい?」
「うん、私、いゝところあるのよ。此間から、私、そこへ行きたいと思つてゐたンだけど、お父さんが叱ると思つて默つてゐたのよ……」
 いゝところがあると云はれて、隆吉は何とも云へない氣持がした。いゝところと無雜作に云はれてみると、隆吉は、急に、妙子をあてにして來てゐるやうな客の顏が浮んだ。
 あれでもない、これでもないと、一人々々のなじみの客を思ひ浮べてみる。いつたい、いゝところと云ふのは何處の誰のところであらうか……。不意にむほんをおこされたやうで、隆吉はしやくぜんとしない。
「學校の友達にでも遇つたのかね」
 わざと逆手を考へて、隆吉が天井をむいたまゝたづねた。大きな物音で鼠がさわぎたててゐる。この界隈は馬鹿に鼠の多いところで、晝間でも平氣で臺所なぞに現はれて來る。
「うゝん、女のひとぢやないの、男のひとなのよ」
「ふうーん」と隆吉は唸つた。
 まだ子供だと思つてゐた年頃が、急にぐつと大人になりすました感じである。
「誰だ? 店に來るひとかね?」
「一度きりしか來ないのよ。滿洲にゐたひとなの……道であつたの……」
「たつた一度や二度遇つて、お前に來いと云ふのか?」
「あら、もう、妙子、何度も遇つてゐるのよ。昨日も一緒に遊んだのよ」
 なるほど云はれてみると、連日のやうに、何處かに出掛けてゐなくなる時がある。別に商賣にさしさはりのある程の長い時間ではなかつたので、隆吉は氣にもとめなかつたが、その時間が、男とあひびきの時だつたのかと、隆吉は肚の底でうーんと唸るばかりだ。
「お前の年頃ではまだ早いと思ふがね。どんな人物か知らんが、早く世帶を持つて苦勞をする事も考へもンだな。第一、經濟と云ふものがなりたつまい。――若い時は夢をみがちだ。別にどうしろと云ふわけぢやないが、お前のためを思ふから、お父さんは心配するンだよ」
 妙子はくるりと腹這ひになつて、枕に頬杖を突くと、
「大丈夫よ。滿洲で妙子が死んだと思へばいいぢやアないの。部屋をみつけるつたつて、お父さん大變なのよ。いま、小さい部屋一つ借りるにしても何萬圓つて權利金がいるンですもの、宮内さんにはこゝへ來て貰つて、私がこゝへ通つて來るわ。私に月給をくれゝばいゝわ。さうすれば、私とても助かるンだもの……」
 隆吉は、天井をむいたまゝ一言の言葉もない。妙子はぼんやりとした表情で、何かを考へてゐるらしかつたが、やがて口笛を吹き始めた。
「相手の男は何をするひとだね?」
 隆吉がたづねた。
「新聞記者。新京で一寸知つてゐるのよ。奧さんと子供があつたンだけど、奧さんは死んぢやつて、女の子は親類へあづけてあるンだつて、アパートに獨りでゐるのよ。この近くなの……年は三十五ですつて……でもとても若く見えるひとなのよ。何處かお父さんの若い時に似てるひとよ」
 隆吉はをかしくなつて眼をつぶつた。なるほど、わが娘ながら大したものである。躯の關係があるのかないのか、いゝ年をしてたづねてみるのもきまりが惡かつたけれども、そこまで話がついてゐる以上は、只事ではないにきまつてゐる。死んだと思へと云はれてみると、それもさうだと、隆吉は辛かつた。一年あまりの滿洲での苦勞を思ひ出さずにはゐられない。
「始めは口の惡いひとで、おこりつぽい人だつたンだけど、いまでは心の優しい人だつて判つたのよ。――お父さんをいゝひとだつて云つたわ。とても純情で、このごろは私の云ふとほりになるの……」
 ほゝう……隆吉はまた眼を開けて天井を見た。小袋と小娘は油斷がならぬとはよく云つたものだと、その時期が來れば、自然に花粉を呼ぶしくみになつてゐる人間の世界が隆吉には面白くもある。娘と二人きりで働き、時時は昔がたりをして世をはかなむ愚はもうやめた方がよいのであらう。妙子は妙子なりに、この心細い親子の關係をたちきつて、自分のよりどころや、前途を考へるのも不思議はない。――急に宮内はなの細い眼もとを思ひ出した。
「お前とは、大分としが違ふね」
「えゝ、時々、そのひと笑ふのよ。お半長衞門だつて……お半長衞門つてなんだか知らないけど、そんな事どうでもいゝのよ。一緒にゐるのが幸福なンだもの……。少々ひもじい思ひをしても二人とも何ともないの。だから、私に月給をくれゝば、私はそこから通つて來て、みんなにじやんじやん酒を飮まして、崩浪亭をうんとまうけさしてあげるの……。お父さんだつて、宮内さんを貰へば幸福になるわ。もう鷄の聲をきかなくつても、宮内さんが慰さめてくれるでせう?」
 妙子はくすりと笑つた。鷄の聲をきくと、お母さんの事を思ひ出すねと、口ぐせに云つてゐたのを妙子はちやんと覺えてゐたのである。

 二三日して、とぼしい手まはりのものを持つて妙子は隆吉におくられて、伊織いおりのアパートに行つた。伊織はちやんと部屋の中を片づけて待つてゐた。妙子は宮内さんのつくつてくれた灰色のスーツを着こんで、いつになくめかしこんでゐた。大柄なせゐかはたち位にはみえた。腰つきもふくらみ、張りこんで隆吉が買つてやつた絹の沓下のかつかうも、まるで白人の女のやうにすんなりとしてゐる。ビロードの紅いざうり底の靴がなまめかしい感じだつた。
 伊織は案外若々しい男で、背もぐんと高く、色白な廣い額が立派であつた。何よりも肉づきのあつい立派な體格が堂々としてゐた。大柄な妙子とはいゝとりあはせで、あまりによく似合ひすぎた一組であることに隆吉は内心非常な滿足を感じた。
 青年はいゝものだと思つた。街でみかける弱々しい男とはかつぷくが違つてゐて、頼もしい風貌である。それに、伊織は、二十代の青年とは違つて、一度は女房もゐたし子供もあると云ふ男だけに非常に落ちついて、話も現實的で、常識もちやんと心得てゐた。何時の間にか、窓ぎはには、妙子の日常つかつてゐた小さい姫鏡臺も置いてある。
 妙子がきびんに牛肉と野菜を買つて來てスキヤキの用意をした。何も彼もが、隆吉の昔の新世帶の思ひ出ならざるはない。看護婦をしてゐた糸子との世帶の持ちはじめが、またこゝにむしかへされてゐる。隆吉は酒に醉ひ、この若い者同志の心づくしに出あひ滿足であつた。――女の子は六つになるのださうである。細君は伊織の郷里の女で肺で亡くなつたのだと云つた。隆吉は同病相哀れむで、似たやうな夫婦もあるものだと思つた。伊織も醉つて、默つて妙子と事を運んだのはきまりが惡いのだと云つた。
 サラリーは二千七百圓ほど取つてゐるのだけれども、毎月、子供の方へ五百圓づつ送らなければならないので、それだけ御承知下さいともはつきり云ふのである。隆吉は瞼がうるんで來るやうな氣持だつた。その正直さが得がたいものだとも思へた。
 隆吉は、妙子を伊織のアパートにおくり、戻つて來るとすぐ亮太郎に宮内の話をすゝめて貰ひたい由をつげた。裏口に空地があるので、三疊をたたまし[#「たたまし」はママ]にかゝつた。ミシン二臺位と女の荷物はそこへはいるつもりであつた。建ましの許可もおり、大工もきまり、壁をこはしにかゝつて數日たつても、亮太郎のところからは何の返事もない。
 妙子は毎日元氣よく夕方から崩浪亭へ通つて來た。
「お父さん、急におしやれになつたのね」
 妙子は父をからかつたりしてゐる。
 隆吉もまんざら惡い氣もしなかつたが、亮太郎から返事のないのが何となく不安であつた。――自分で出むいて行くのもきまりが惡かつたので、妙子を河邊のところへ使ひに出してみた。夜になつて戻つて來た妙子は、うかない顏つきで、
「お父さん、宮内さん駄目よ。あのひと、變なひとだわ……年下の好きなひとがあつたンですつて、急に何とも云はないで、横須賀へ行つちやつたンだつて……そのひとゝは一緒にゐないンだつて……でもね、宮内さん、お父さんの話は氣が變つたのよ。どうも、調子がよすぎるとは思つたけど、あの位の女のひとは、かへつて、娘よりもあつかひにくいものだつて河邊さんのをぢさん云つてたわ。迷ひの深いひとは、貰つてもお父さんが不幸だつて思つたから、私、お父さんもあきらめるでせうから、ことわつておいて下さいつて云つてきたの。をぢさん、またいゝひとがみつかつたらお世話しますつて、明日あたりうかゞふつて云つてましたわ」
 隆吉は内心おだやかではなかつた。すつかり貰ふつもりで、愉しい夢を描いてゐた。鷄も二羽とも店につかふつもりで、新しい妻の寢ざめの心づかひまでしてゐた自分の氣持がみじめになつて來た。粗末な木口ではあつたが、木の香の匂ひが、いまでは不安をさそふ匂ひは[#「匂ひは」はママ]かはつた。

 隆吉は、亮太郎にきいた横須賀の宮内の住居を尋ねてみべるく、思ひきつて、今日は東京驛まで來たのであつたが、幾度となく出這いりしてゐる電車や汽車のものすごい音に氣持が重く屈して來るのを感じた。
 はずみだけで、この老人をつかまへて見合ひをさせられたのはやりきれない事だが、いまさら女を追つたところで、詮もないことであるに違ひない……。
 暫くホームに立つて、賑やかな乘り降りの人の群をみてゐると、隆吉はしみじみと孤獨を感じた。いまさら實盛氣取でもあるまい。
 このまゝ居酒屋崩浪亭の親爺で終ることもいゝではないかと、ふつと四圍をみ廻した。十一月の寒々とした氣配が、かうした草木のない驛のなかにも、ひそやかにたゞようてゐる。
 乘る人降りる人、みなそれぞれに營みがある。隆吉は、また、明日から.鷄の時を告げる聲をきかなければならないだらう。それも亦まんざら愉しくない事はない……。
 人間の心と云ふものは、いつまでたつても、かうしたはずみを食つてどうにもならぬほど氣持を追ひつめる時があるものだと、隆吉は人生五十年の自分の年齡の、燭火の佗しさに思ひ到り、冷たくなつた靴のさきをふみしめて省線のホームの方へ降りて行つた。
(一九四七・九・一七)

底本:「暗い花」文藝春秋新社
   1948(昭和23)年5月20日発行
初出:「小説新潮」
   1947(昭和22年)10月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:花田泰治郎
2005年8月20日作成
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