往来の水たまりに、星がうつっている。いつもなら、爪紅さした品川女郎衆の、素あしなまめかしいよい闇だけれど。
今宵は。
問屋場の油障子に、ぱっとあかるく灯がはえて、右往左往する人かげ。ものものしい宿場役人の提灯がズラリとならび、
「よしっ! ただの場合ではない。いいかげんに通してやるゆえ、行けっ!」
「おいコラア! その振分はあらためんでもよい。さっさと失せろっ」
荷物あらための出役と、上り下りの旅人のむれが、黒い影にもつれさせて、わいわいいう騒ぎだ。
ひがしはこの品川の本宿と、西は、琵琶湖畔の草津と、東海道の両端で、のぼり下りの荷を目方にかけて、きびしく調べたものだが、今夜は、それどころではないらしい。
ろくに見もせずに、どんどん通している。
大山もうでの講中が、逃げるようにとおりすぎて行ったあとは、まださほど夜ふけでもないのに、人通りはパッタリとだえて、なんとなく、つねとは違ったけしきだ。
それもそのはず。
八ツ山下の本陣、鶴岡市郎右衛門方のおもてには、抱き榊の定紋うった高張提灯を立てつらね、玄関正面のところに槍をかけて、入口には番所ができ、その横手には、青竹の菱垣を結いめぐらして、まんなかに、宿札が立っている。
逆目を避けた檜の一まい板に、筆ぶとの一行――「柳生源三郎様御宿」とある。
江戸から百十三里、伊賀国柳生の里の城主、柳生対馬守の弟で同姓源三郎。「伊賀の暴れン坊」で日本中にひびきわたった青年剣客が、供揃いいかめしく東海道を押してきて、あした江戸入りしようと、今夜この品川に泊まっているのだから、警戒の宿場役人ども、事なかれ主義でびくびくしているのも、むりはない。
「さわるまいぞえ手をだしゃ痛い、伊賀の暴れン坊と栗のいが」
唄にもきこえた柳生の御次男だ。さてこそ、何ごともなく夜が明けますようにと、品川ぜんたいがヒッソリしているわけ。たいへんなお客さまをおあずかりしたものだ。
その本陣の奥、燭台のひかりまばゆい一間の敷居に、いま、ぴたり手をついているのは、道中宰領の柳生流師範代、安積玄心斎、
「若! 若! 一大事出来――」
と、白髪あたまを振って、しきりに室内へ言っている。
だが、なかなか声がとどかない。
宿は、このこわいお客さまにおそれをなして、息をころしているが、本陣の鶴岡、ことに、この奥の部屋部屋は、いやもう、割れっかえるような乱痴気さわぎなので。
なにしろ、名うての伊賀の国柳生道場の武骨ものが、同勢百五十三人、気のおけない若先生をとりまいて、泊まりかさねてここまで練ってきて、明朝は、江戸へはいろうというのだから、今夜は安着の前祝い……若殿源三郎から酒肴がおりて、どうせ夜あかしとばかり、一同、呑めや唄えと無礼講の最中だ。
ことに、源三郎こんどの東くだりは、ただの旅ではない。はやりものの武者修行とも、もとより違う。
源三郎にとって、これは、一世一代の婿入り道中なのであった。
江戸は妻恋坂に、あの辺いったいの広大な地を領して、その豪富諸侯をしのぎ、また、剣をとっては当節府内にならぶものない十方不知火流の開祖、司馬老先生の道場が、この「伊賀のあばれん坊」の婿いりさきなのだ。
司馬先生には、萩乃という息女があって、それがかれを待っているはず――故郷の兄、柳生対馬守と、妻恋坂の老先生とのあいだには、剣がとり持つ縁で、ぜひ源三郎さまを萩乃に……という固い約束があるのである。
で、近く婚礼を――となって、伊賀の暴れん坊は、気が早い。さっそく気に入りの門弟をしたがえて、出かけてきたわけ。
さきにおめでたが待っているから、陽気な旅だ。その旅も、今夜でおしまいだというので、腕の立つわかい連中の大一座、ガヤガヤワイワイと、伊賀の山猿の吐く酒気で、室内は、むっと蒸れている。
供頭役安積玄心斎の大声も、一度や二度ではとおらない。
牡丹餅大の紋をつけたのが、
「こらっ、婢っ! 北廓はいずれであるか、これからまいるぞ。案内をいたせっ。ははははは、愉快愉快」
とろんとした眼で見据えられて、酌に出ている女中は、逃げだしたい気もち。
面ずれ、大たぶさ、猪首に胸毛――細引きのような白い羽織の紐が、詩を吟ずる。
玄心斎は、とうとう呶声をあげて、
「しずかにせいっ! わしがこうして、お部屋のそとから声をかけておるのに、貴様たちはなんだ。酒を飲むなら、崩れずに飲めっ!――若! や! 源三郎さまは、こちらにおいでではないのか」
師範代の玄心斎なので、一同は、ピタリッと鳴りをしずめて、キョロキョロあたりを見まわし、
「オヤ! 若先生は、今までそこにおいでなされたが……はてな、どこへゆかれた」
さっき、到着のあいさつに、おもだった門弟のひとりを、妻恋坂の司馬道場へ駈けぬけさせてやったのだが。
いまその者が、馳せ戻ってのはなしによると……。
会わぬ、という。
しかるべき重役が出て、鄭重な応対のあるべきところを、てんで取次ぎもせぬという。
けんもほろろに、追いかえされた――という復命。意外とも、言語道断とも、いいようがない。
約束が違う。聞いた玄心斎は、一徹ものだけに、火のように怒って、こうしてしきりに、主君源三郎のすがたを求めているのだが、肝腎の伊賀のあばれン坊、どこにもいない。
広いといっても知れた本陣の奥、弟子たちも、手分けしてさがした。
と……玄心斎が、蔵の扉まえにつづくあんどん部屋の前を通りかかると、室内から、男とおんなの低い話し声がする。
水のような、なんの情熱もない若い男の声――源三郎だ!
玄心斎の顔に、苦笑がのぼった。
「また、かようなところへ、小女郎をつれこまれて――困ったものだ」
とあたまの中で呟きながら、玄心斎、柿いろ羽織の袂をひるがえして、サッ! 障子をあけた。
「殿ッ! さような者とおられる場合ではござらぬ。だいぶ話がちがいまするぞ」
夜なので、行燈はすっかり出はらって、がらんとした部屋……煽りをくらった手燭が一つ、ユラユラと揺れ立って、伊賀の若様の蒼白い顔を、照らし出す。
兄対馬守をしのぐ柳生流のつかい手、柳生源三郎は、二十歳か、二十一か、スウッと切れ長な眼が、いつも微笑って、何ごとがあっても無表情な細ながい顔――難をいえば、顔がすこし長すぎるが、とにかく、おっそろしい美男だ。
今でいえば、まあ、モダンボーイ型というのだろう。剣とともにおんなをくどくことが上手で、その糸のような眼でじろっと見られると、たいがいの女がぶるると嬉しさが背走る。
そして、源三郎、片っぱしから女をこしらえては、欠伸をして、捨ててしまう。
今もそうで、旅のうらない師というこの若い女を引き入れているところへ、ちょっと一目おかなければならない玄心斎の白髪あたまが、ぬうっと出たので、源三郎、中っ腹だ。
「み、見つかっては、し、仕方がない」
と言った。そして、女を押し放そうとしたとき、
「門之丞めが戻りおって、申すには……」
言いかけた玄心斎、ぽうっと浮かんでいる女の顔へ、眼が行くなり、
「ヤヤッ! 此奴はっ――!」
呻いたのです。
藍の万筋結城に、黒の小やなぎの半えり、唐繻子と媚茶博多の鯨仕立ての帯を、ずっこけに結んで立て膝した裾のあたりにちらつくのは、対丈緋ぢりめんの長じゅばん……どこからともなく、この本陣の奥ふかく紛れこんでいたのだが、その自ら名乗るごとく、旅のおんな占い師にしては、すこぶる仇すぎる風俗なので。
「若は御存知あるまいが、この者は、妻恋坂司馬道場の奥方、お蓮さまの侍女でござる。拙者は、先般この御婚儀の件につき、先方へ談合にまいった折り、顔を見知って、おぼえがあるのだ」
お蓮さまというのは、司馬老先生の若い後妻である。玄心斎の声を、聞いているのか、いないのか――黒紋つきの着流しにふところ手をした源三郎、壁によりかかって、その剃刀のように鋭い顔を、ニコニコさせて、黙っている。
「その妻恋坂のお女中が、何しにこうして姿をかえて、君の身辺に入りこんでおるのかっ? それが、解せぬ。解せませぬっ」
怒声をつのらせた玄心斎、
「女ッ! 返事をせぬかっ!」
「うらないをしてもらっておったのだよ」
うるさそうな源三郎の口調、
「なあ女。余は、スス、水難の相があるとか申したな」
おんなは、ウフッ! と笑って、答えない。
「爺の用というのは、なんだ」
と源三郎の眼が、玄心斎へ向いた。
「司馬の道場では、挨拶にやった門之丞を、無礼にも追いかえしましたぞ。先には、あなた様を萩乃さまのお婿に……などという気は、今になって、すこしもないらしい。奇っ怪至極――」
「女ア、き、貴様は、どこの者だ」
女のかわりに、玄心斎が、
「故あってお蓮様の旨を体し、若のもとへ密偵に忍び入ったものであろう。どうじゃっ!」
「お察しのとおり、ホホホホ」
すこしも悪びれずに、女が答えた。
「お蓮さまの一党は、継子の萩乃さまに、お婿さんをとって、あれだけの家督をつがせるなんて、おもしろくないじゃアありませんか。それに、司馬の大先生は、いま大病なんですよ。きょうあすにも、お命があぶないんです。老先生がおなくなりになれば、あとはお蓮様の天下……ほほほ、それまでこの若様をお足どめして、かたがたようすをさぐるようにと、まア、あたしは、色じかけのお道具というところでしょうね」
「うぬっ、ここまでまいってかかる陰謀があろうとは――若っ、いかがなさるるっ」
と! 瞬間、ニヤニヤして聞いていた源三郎、胡坐のまま、つと上半身をひねったかと思うと、その手に、ばあっ! 青い光が走って、
「あウッ!」
いま歓を通じたばかりの女の首が、ドサリ、血を噴いて、畳を打った。播磨大掾水無し井戸の一刀はもう腰へかえっている。
玄心斎、胆をつぶして、空におよいだ。
首のない屍骸は、切り口のまっ赤な肉が縮れ、白い脂肪を見せて、ドクドク血を吹いている。二、三度、四肢が痙攣した。
首は、元結が切れてザンバラ髪、眼と歯をガッ! と剥いて、まるで置いたように、畳の縁にのっている。
血の沼に爪立ちして、源三郎、ふところ手だ。
「硯と料紙をもて」
と言った。
なにも斬らんでも……と玄心斎は、くちびるを紫にして、立ちすくんでいた。
門弟たちは、まだ源三郎をさがしているのだろう。シインとした本陣の奥に、廊下廊下を行きかう跫音ばかり――この行燈部屋の抜き討ちには、誰も気づかぬらしい。
「萩乃さまの儀は、いかがなさるる御所存……」
玄心斎が、暗くきいた。
「筆と紙を持ってこい」源三郎は欠伸をした。
「兄と司馬先生の約束で、萩乃は、余の妻ときまったものだ。会ったことはないが、あれはおれの女だ」
「司馬老先生は、大病で、明日をも知れんと、いまこのおんなが申しましたな」
源三郎は、ムッツリ黙りこんでいる。仕方なしに、玄心斎が、そっと硯と紙を持ってくると、源三郎一筆に書き下して、
「押しかけ女房というは、これあり候えども、押しかけ亭主も、また珍に候わずや。いずれ近日、ゆるゆる推参、道場と萩乃どのを申し受くべく候」
そして、源三郎、つかつかと首のそばへ行って、しゃがむが早いか、固く結んだ歯を割って、首に、その書状をくわえさせた。「これを、妻恋坂へ届けろ」
と、また欠伸をした。
首手紙……玄心斎が、緊張した顔でうなずいたとたん、女の死体のたもとから、白い紙片ののぞいているのに眼をとめた源三郎、引きだしてみると、書きつけのようなもので、「老先生が死ぬまで、せめて二、三日、なんとでもして伊賀の暴れん坊を江戸へ入れるな」という意味のことが書いてある。
筆者は、峰丹波……。
「その者は、司馬道場の代稽古、お蓮さまのお気に入りで、いわば妻恋坂の城代家老でござります」
「フフン、一味だな」
と源三郎、紙の端へ眼をかえして、
「この、宛名の与吉というのは何ものか」
「つづみの与吉――それは、三島の宿で雇って、眼はしのききますところから、お供に加えてここまでつれまいった人足ですが、さては、司馬のまわし者……」
玄心斎がそこまで言ったとき、廊下に多勢の跫音がド、ドドッと崩れこんできました。
「御師範代は、こちらでござりますかっ? タタ、たいへんなことが――」
「開けてはならぬっ! 障子のそとで申せっ! なんだ」
玄心斎の大声に、一同べたべたと一間のたたみ廊下に手を突くけはいがして、
「こけ猿が紛失いたしました」
室内の玄心斎、障子を背におさえたまま、サッと顔いろをかえた。
「ナニ、こけ猿が? して、お供の人数の中に、何人か見あたらぬ者はないかっ?」
「かの、つづみの与吉と申すものが、おりませぬ」
「チェッ! してやられたか。遠くは行くまい。品川じゅうに手分けしてさがせっ!」
と玄心斎の下知に、バラバラっと散って行く伊賀の若ざむらいども。
「殿、お聞きのとおり、あのつづみの与吉めが、耳こけ猿を持ち出しましてござります。察するところ、彼奴、妻恋坂の峰丹波の命を受け、三島まで出張りおって、うまうまお行列に加わり……ウヌッ!」
「そうであろう」
源三郎は、淡々として水のごとき顔いろ、
「そこへ、今夜この女が、与吉と連絡をとりに、入りこんだものであろう。こけ猿は、なんとしても取り返せ」
「御意!」
玄心斎も、柄をおさえて、走り去った。
こけ猿というのは……。
相阿弥、芸阿弥の編した蔵帳、一名、名物帳の筆頭にのっている天下の名器で、朝鮮渡来の茶壺である。
上薬の焼きの模様、味などで、紐のように薬の流れているのは、小川。ボウッと浮かんでいれば、かすみ、あけぼの、などと、それぞれ茶人のこのみで名があるのだが、この問題の茶壺は、耳がひとつ欠けているところから、こけ猿の名ある柳生家伝来の大名物。
このたび、源三郎婿入りの引出ものに、途中もずっとこの茶壺一つだけ駕籠に乗せて、大大名の格式でおおぜいで警護してきたのだ。
そのこけ猿の茶壺が、江戸を眼のまえにしたこの品川の泊りで、司馬道場の隠密つづみの与吉に、みごと盗みだされたのだった。
肩をいからした柳生の弟子ども、口々にわめきながら、水も洩らさじと品川の町ぜんたいを右往左往する。首を送りこむ役は、門之丞にくだって、手紙をくわえた女の生首は、油紙にくるんで柳生の定紋うった面箱におさめられ、ただちに夜道をかけて妻恋坂へとどけられた。挑戦の火ぶたは、きられたのです。
宿役人の杞憂は、現実となった。春は御殿山のさくら。秋は、あれ見やしゃんせ海晏寺のもみじ……江戸の咽喉しながわに、この真夜中、ときならぬ提灯の灯が点々と飛んで、さながら、夏は蛍の名所といいたい景色――。
槙の湯船の香が、プンとにおう。この風呂桶は、毎日あたらしいのと換えたもので……。
八畳の高麗縁につづいて、八畳のお板の間、壁いっぱいに平蒔絵をほどこした、お湯殿である。千代田のお城の奥ふかく、いま、八代吉宗公がお風呂を召していらっしゃる。
ふしぎなことには、将軍さまでも、お湯へおはいりのときは裸になったものです。
余談ですが、馬関の春帆楼かどこかで、伊藤博文公がお湯へはいった。そのとき、流しに出た者が、伊藤さんが手拭で、前をシッカとおさえているのを見て、あの伊藤さんてえ人は下賤の生れだといったという。高貴の生れの方は、肉体を恥じないものだそうです。
今この、征夷大将軍源氏の長者、淳和奨学両院別当、後に号して有徳院殿といった吉宗公も、こうしてはだかで御入浴のところは、熊公八公とおなじ作りの人間だが、ただ、濡れ手拭を四つに畳んであたまへのせて、羽目板を背負って、「今ごろは半七さん……」なんかと、女湯に聞かせようの一心で、近所迷惑な声を出したり――そんなことはなさらない。
御紋散らしの塗り桶を前に、流し場の金蒔絵の腰かけに、端然と控えておいでです。
五本骨の扇、三百の侯伯をガッシとおさえ、三つ葉葵の金紋六十余州に輝いた、八代吉宗といえば徳川も盛りの絶頂。
深閑とした大奥。
松をわたってくる微風が、お湯どのの高窓から吹きこんで、あたたかい霧のような湯気が、揺れる。
吉宗公は、しばらく口のなかで、なにか謡曲の一節をくちずさんでいたが、やがて、
「愚楽! 愚楽爺はおらぬか。流せ」
とおっしゃった。
お声に応じて、横手の、唐子が戯れている狩野派の図をえがいた塗り扉をあけて、ひょっくりあらわれた人物を見ると、……誰だってちょっとびっくりするだろう。
これが、いま呼んだ愚楽老人なのか。なるほど、顔を見ると年寄りに相違ないが――身体は、こどもだ。まるで七つ八つの子供だ。
身長三尺……それでいて、白髪をチョコンと本多に結い、白い長い眉毛をたらし、分別くさい皺ぶかい顔――うしろから見ると子供だが、前から見ると、このこどものからだに、大きな老人の顔がのっかっている異形な姿。
おまけに、この愚楽老人亀背なんです。
そいつが、白羽二重のちゃんちゃんこを一着におよんで、床屋の下剃り奴のはくような、高さ一尺もある一本歯の足駄をはいて、
「ごめん――」
太いしゃ嗄れ声でいいながら、将軍さまのうしろにまわり、しごくもっともらしい顔つきで、ジャブジャブ背中を洗いはじめたから、こいつは奇観だ。
すると、八代様、思いだしたように、
「のう、愚楽、来年の日光の御造営は、誰に当てたものであろうのう」
と、きいた。
二十年目、二十年目に、日光東照宮の大修繕をやったものだった。
なにしろ、あの絢爛をきわめた美術建築が、雨ざらしになっているのだから、ちょうど二十年もたてば、保存の上からも、修理の必要があったのだろうが、それよりも、元来、徳川の威を示し、庶民を圧伏するのが目的で建てられた、あの壮麗眼をうばう大祖廟だから、この二十年目ごとの修営も、葵の風に草もなびけとばかり、費用お構いなし、必要以上に金をかけて、大々的にやったもので。
もっとも、幕府が自分でやるんではない。
諸侯の一人をお作事奉行に命じて、造営費いっさいを出させるんです。人の金だから、この二十年目のお修復にはじゃんじゃんつかわせた。
これにはまた、徳川としては、ほかに意味があったので――。
天下を平定して、八世を経てはいるが、外様の大大名が辺国に蟠踞している。外様とのみいわず、諸侯はみな、その地方では絶大の権力を有し、人物才幹、一癖も二癖もあるのが、すくなくない。
謀叛のこころなどはないにしても、二代三代のうちに自然に金が溜まって、それを軍資にまわすことができるとなれば、ナニ、徳川も昔はじぶんと同格……という考えを起こして、ふと、反逆心が兆さぬでもない。
それを防ぐために、二十年目ごとに、富を擁しているらしい藩を順に指名して、この日光山大修復のことに当たらせ、そのつもった金を吐きださせようという魂胆であった。
いわば、出来ごころ防止策。
だから、この二十年目の東照宮修営を命じられると、どんな肥った藩でも、一度でげっそり痩せてしまう。
大名連中、「日光お直し」というと天下の貧乏籤、引き当てねばよいが……と、ビクビクものであった。
でき得べくんば、他人さまへ――という肚を、みんなが持っている。で、二十年目が近づくと、各藩とも金を隠し、日本中の貧乏をひとりで背負ったような顔をして、わざと幕府へ借金を申し込むやら、急に、爪に火をともす倹約をはじめるやら……イヤ、その苦しいこと、財産隠蔽に大骨折りである。
ところが、江戸の政府も相当なもので、お庭番と称する将軍さまおじきじきの密偵が、絶えず諸国をまわっていて、ふだんの生活ぶりや、庶民の風評を土台に、ちゃんと大名たちの財産しらべができているのだ。ごまかそうたって、だめ……。
このお庭番の総帥が、これなるお風呂番、愚楽老人なのでございます。
来年は、その二十年めに当たる。
「今度は、誰に下命したものであろうの」
「さようですな。伊賀の柳生対馬あたりに――」
と、愚楽老人、将軍さまのお肩へ、せっせと湯をかけながら、答えました。
八代さまの世に、日光修繕の模様はどうかというと、御番所日記、有徳院御実記などによれば……
小さな修営は、享保十五年、この時の御修復検分としましては、お作事奉行小菅因幡守、お大工頭近藤郷左衛門、大棟梁平内七郎右衛門、寛保三年、同四年、奉行曾我日向守、お畳奉行別所播磨守、くだって延享元年――と、なかなかやかましいものであります。
が、これらは、中途の小手入れ。
例の二十年目の大げさなやつは、先代有章院七代家継公のときから数えて二十年めにあたる享保十六年辛亥……この時の造営奉行、柳生対馬守とチャンと出ている。
つまり、この講談は、その前年からはじまっているのです。
来年の日光を誰に持って行こうかという、上様の御下問に対して、伊賀の柳生へ――と愚楽が答えたから、吉宗公におかせられては、ふしぎそうなお顔。
「対馬は剣術つかいじゃアねえか。人斬りはうまかろうが、金なぞあるめえ」
とおっしゃった。吉宗は相手が愚楽老人だと、上機嫌に、こんな伝法な口をきいたもんです。
「ところが、大あり、おおあり名古屋ですから、まあ、一度、申しつけてごらんなさい」
と老人、ちゃんちゃんこの袖をまくって――オット、ちゃんちゃんこに袖はない――将軍様の肩をトントン揉みながら、
「先祖がしこたま溜めこんで――いかがです、すこし強すぎますか」
「いやよい心地じゃ。先祖と申せば、お前、あの柳生一刀流の……」
「へえ。うんとこさ金を作って、まさかの用に、どっかに隠してあるんですよ」
「そうか。そいつは危険じゃ。すっかり吐き出させねばならぬ。よいこと探ったの」
「地獄耳でさあ。じゃあ、伊賀に――」
「うむ、よきにはからえ」
と、おっしゃった。これで、大名たちが桑原桑原とハラハラしている来年の日光おなおしが、いよいよ柳生対馬守に落ちることにきまった。なんでも、よきにはからえ……これが命令だ。都合のいい言葉があったもので。はからえられたほうこそ災難です。
吉宗、最高政策中の最高政策、もっとも機密を要する政談は、いつも必ず、この愚楽老人ひとりを相手に、こうしてお風呂場で相談し、決定したのだ。
裸の八代将軍をゴシゴシやりながら、なんによらず、幕府最高の密議を練る愚楽老人――この、こどもみたいなお風呂番のまえには、大老も、若年寄もあたまがあがらない。
この千代田湯の怪人は、そもそも何もの?……垢すり旗下の名で隠然権勢を張る、非常な学者で、また人格者でした。
慶長五年九月十五日、東西二十万の大軍、美濃国不破郡関ヶ原に対陣した。ここまでは、どの歴史の本にも、書いてある。
家康は、桃配というところに陣を敷いていたが、野天風呂を命じて、ふろ桶から首だけ浮かべて幕僚に策を授けた。これは、ほんとの秘史で、どの本にも書いてないけれども、この、大将の敵を前にした泰然たる入浴ぶりに、全軍の士気大いにあがり、それがひいては勝敗を決定して、徳川の礎を据えたと言われている。
ところで、そのとき、パラパラと雨が落ちてきた。すると幕下のひとりに、小気のきいた奴があって、その湯にはいっている家康公に傘をさしかけながら、背中を流した。
その落ちついたありさまが、ひどく家康の気にいって、そいつを旗下にとり立てて、世々代々風呂番をお命じになった。
これが初代の愚楽で、それ以来、旗下八万騎の一人として、相伝えて将軍さまの垢をながしてきた。人呼んで垢すり旗下。
だから、愚楽老人、ただの風呂番ではない。真っぱだかの人間吉宗と、ふたりっきり、ほんとうに膝つき合わせて、なんでも談合できるのは、愚楽ひとりだった。
さて……。
今日は、いよいよ来年の日光修理の大役が、指名される日である。
早朝卯の上刻から、お呼び寄せの大太鼓が、金線を溶かしたお城の空気をふるわせて、トーッ! トウトーットッとお櫓高く――。
参覲交代で江戸に在勤中の大名は、自身で、国詰め中のものは、代りに江戸家老が、おのおの格式を見せた供ぞろい美々しく、大手から下馬先と、ぞくぞく登城をする。
御本丸。柳の間は、たちまち、長袴に裃でいっぱい、白髪、若いの、肥ったの、痩せたの……。
内藤豊後守は、狆のような顔をキョトキョトさせ、小笠原左衛門佐は、腹でも痛いのか、渋い面だ。しきりに咳をする松平三河守、癖でやたらに爪をかんでいるのが、彦根侯、井伊掃部頭――子孫が桜田の雪に首を落とそうなどとは、ゆめにも知らないで。
正面、御簾をたらした吉宗公のお座席のまえに、三宝にのせた白羽の矢が一本、飾ってある。
あの矢が誰に落ちるかと、一同、安きこころもない。
「イヤどうも、百姓一統不景気で――」
「拙者の藩などは、わらじに塩をつけて食っておるありさま、窮状、御同情にあずかりたい」
殿様連、ここを先途と貧乏くらべだ。
当てられてはたまらないから、いかに貧的な顔をしようかと、苦心惨澹。
「あいや、伊達侯……先刻よりお見受けするところ、御貴殿、首をまっすぐに立てたきり、曲がらぬようじゃが、いかがめされた。寝挫きでもされたか」
「ウーム、よくぞお聞きくだされた。実は、お恥ずかしき次第ながら、首が曲がらぬ、借金でナ」
中には、
「もうこれで一月、米の飯というものを拝んだことはござらぬ。米の形を忘れ申した。あれは、長いものでござったかな? それとも、丸い物――」
「これこれ、米の噂をしてくださるな。茶腹が鳴るワ」
「森越中殿、其許は御裕福でござろう、塩という財源をひかえておらるるからナ」
「御冗談でしょう。こう不況では、シオがない」
赤穂の、殿様、洒落をとばした。ドッ! と湧くわらい。これだけのユーモアでも、元禄の赤穂の殿様にあったら、泉岳寺は名所ならず、浪花節は種に困ったろう。
お廊下に当たって、お茶坊主の声。
「南部美濃守様、お上り――イッ!」
むし歯やみのような沈痛な顔で、美濃守がはいってくる。
四方八方から、声がとんで、
「南部侯、どうも日光は貴殿らしいぞ。北国随一の大藩じゃからのー」
「よしてくれ」
と南部さま、御機嫌がわるい。
「城の屋根が洩って蓑を着て寝る始末じゃ。大藩などとは、人聞きがわるい」
きょうは、すべていうことが逆だ。
「何を言わるる。鉄瓶と馬でしこたまもうけておきながら……」
「もうけたとはなんだ! 無礼であろうぞ!」
南部侯、むきだ。
金持といわれることは、きょうは禁物なのである。
とたんに、この大広間の一方から、手に手に大きな菓子折りを捧げたお坊主が多勢、ぞろぞろ出てきて、一つずつ、並いる一同の前へ置いた。
「愚楽さまから――」
という口上だ。一眼見ると、みんなサッと真っ赤になって、モジモジするばかり。ふだんから赤い京極飛騨守などは、むらさきに……。
おん砂糖菓子――とあって、皆みな内密に、愚楽老人へ賄賂に贈ったものだ。おもては菓子折りでも、内容は小判がザクザク……愚楽の口ひとつで日光をのがれようというので、こっそり届けたのが、こうしておおっぴらに、しかも、一座のまえで、みんなそのまま突っ返されたのだから、オヤオヤオヤの鉢あわせ。
あわてて有背後に隠して、おやじめ皮肉なことをしやアがる……隣近所、気まずい眼顔をあわせていると、シーッ! シッ! と警蹕の声。
吉宗公、御着座だ。
「用意を」
と吉宗、お傍小姓をかえりみた。
お小姓の合図で、裾模様の御殿女中が、何人となく列をつくって、しずしずとあらわれ出た。濃いおしろい、前髪のしまった、髱の長く出た片はずし……玉虫いろのおちょぼ口で、めいめい手に手に、満々と水のはいった硝子の鉢を捧げている。
それを、一同の前へ、膝から三尺ほどのところへ、一つずつ置いた。
二十年めの日光御修理の役をきめるには、こうして将軍のまえで、ふしぎな籤をひいたものである。
さて、一同の前に一つずつ、水をたたえたギヤマンの鉢が配られると、裃すがたの愚楽老人が、ちょこちょこ出てきた。子供のようなからだに、しかつめらしいかみしもを着ているのだから、ふだんなら噴飯すものがあるかも知れないがいまは、それどころではない。
みな呼吸をつめて、愚楽を見つめている。
老人、手に桶をさげている。桶の中には、それはまた、なんと! 金魚がいっぱい詰まっていて、柄杓がそえてあるのだ。
生きた金魚……真紅の鱗をピチピチ躍らせて。
金魚籤が、はじまった。
愚楽老人は、一匹ずつ柄杓で、手桶の金魚をすくい出しては、はしから順々に、大名達の前に置いてあるギヤマン鉢へ、入れてゆくのだ。
ごっちゃに押しこめられた桶から、急に、鉢の清水へ放されて、金魚はうれしげに、尾ひれを伸ばして泳いでいる。
ふしぎな儀式かなんぞのよう――一同は、眼を見ひらいて、順に金魚を入れてゆく老人の手もとに、視線を凝らしている。
じぶんの鉢に入れられた金魚が、無事におよぎ出した者は、ホッと安心のてい。
愚楽老人の柄杓が、上座から順に、鉢に一ぴきずつ金魚をうつしてきて、いま、半ばを過ぎた一人のまえの鉢へ、一匹すくい入れると、
「やっ! 死んだっ! 当たったっ……!」
と口々に叫びが起こった。この鉢に限って、金魚が死んだのだ。どの金魚も、すぐ、いきおいよくおよぎ出すのに、これだけは、ちりちりと円くなって、たちまち浮かんでしまった。
「おう、柳生どのじゃ。伊賀侯じゃ」
その鉢を前にして、柳生藩江戸家老、田丸主水正、蒼白な顔で、ふるえだした。
シンとした大広間で、一座が、じっと見守っていると、愚楽老人の柄杓で手桶から、柳生対馬守の代理、江戸家老、田丸主水正のまえにおかれたギヤマン鉢へ、一ぴきすくい入れられた金魚が、こいつに限って、即座に色を変えて死んでしまったから、サア、御前をもかえりみず、一同、ガヤガヤという騒ぎ……。
「ヤ! 金魚が浮かんだ。金魚籤が、当たった!」
「来年の日光お手入れは柳生どのときまった!」
「伊賀の柳生は、二万三千石の小禄――これはチト重荷じゃのう」
いならぶ裃の肩さきが、左右に触れ合って、野分のすすきのよう……ザワザワと揺れうごく。
みんな助かったという顔つきで、ホッとした欣びは、おおいようもなく、その面色にみなぎっているので。
なぜこの田丸主水正の鉢だけ、金魚が死んだか?
ナアニ、こいつは死ぬわけだ。この鉢だけ、清水のかわりに、熱湯が入れてあるのだ。
シンシンとたぎりたって、湯気もあげず、独楽のように静かに澄みきっている熱湯――しかも、膝さき三尺離して置くのだから、他の一列の冷水の鉢と、まったくおなじに見えて、どうにも区別がつかない。
指もはいらない熱湯なんだから、これじゃあ金魚だってたまらない。たちまちチリチリと白くあがって、金魚の白茹ができてしまうわけ。
この、金魚の死んだ不可思議な現象こそは、東照宮さまの御神託で、その者に修営してもらいたい……という日光様のお望みなんだそうだが、インチキに使われる金魚こそ、いい災難。
「煮ても焼いても食えねえ、あいつは金魚みたいなやつだ、なんてえことをいうが、冗談じゃアねえ。上には上があらあ」
と、断末魔の金魚が、苦笑しました。
二十年目の日光大修理は、こうして、これと思う者の前へ熱湯の鉢を出しておいて、決めたのだった。
子供だましのようだが、こんな機関があろうとは知らないから、田丸主水正は、まっ蒼な顔――。ピタリ、鉢のまえに平伏していると、
「伊賀の名代、おもてを上げい」
前へ愚楽老人が来て、着座した。東照宮のおことばになぞらえて、敬称はいっさい用いない。
「はっ」
と上げた顔へ、突きだされたのは、今まで吉宗公の御前に飾ってあった、お三宝の白羽の矢だ。
「ありがたくお受け召され」
主水正、ふるえる手で、その白羽の矢を押しいただいた。
「ありがたきしあわせ……」
主水正、平伏したきり、しばし頭をあげる気力もない。
「柳生か」
はるかに、御簾の中から、八代公のお声、
「しからば、明年の日光造営奉行、伊賀藩に申しつけたぞ。名誉に心得ろ」
「ハハッ!」
もう決まってしまったから、ほかの大名連中、一時に気が強くなって、
「いや、光栄あるお役にお当たりになるとは、おうらやましい限りじゃテ」
「拙者も、ちとあやかりたいもので」
「それがしなどは、先祖から今まで、一度も金魚が死に申さぬ。無念でござる。心中、お察しくだされい」
「わたくしの藩も、なんとかして日光さまのお役に立ちたいと念じながら、遺憾ながら、どうも金魚に嫌われどおしで――」
うまいことを言っている。
吉宗公、さっき一同が、あかるみの中で愚楽老人に突っかえされて、皆もぞもぞうしろに隠している菓子箱へ、ジロリ鋭い一瞥をくれて、
「失望するでない。またの折りもあることじゃ」
一座は、ヒヤリと、肩をすぼめる。
「それにしても、だいぶ御馳走が出ておるのう」
みんな妙な顔をして、だれもなんともいわない。
「山吹色の砂糖菓子か。なるほど、それだけの菓子があったら、日光御用は、誰にでもつとまるじゃろうからの、余も安堵いたした」
「へへッ」
皮肉をのこして、そのままスッとお立ちです。諸侯連、控えの間へさがると現金なもので、
「伊達侯、首がすっと伸びたではないか」
「わっはっはっは、それはそうと柳生の御家老、御愁傷なことで」
みんな悔みをいいにくる。
「しかし、おかげでわれわれは助かった。柳生様々じゃ」
いろんな声にとりまかれながら、色蒼ざめて千代田城を退出した田丸主水正、駕籠の揺れも重くやがてたちかえったのは、そのころ、麻布本村町、林念寺前にあった柳生の上屋敷。
「お帰り――イ」
という若党儀作の声も、うつろに聞いて、ふかい思案に沈んでいた主水正、あわてふためいて用人部屋へ駈けあがるが早いか、
「おい、おいっ! だれかおらぬか。飛脚じゃ! お国おもてへ、急飛脚じゃ!」
折れよとばかり手をたたいて、破れ鐘のような声で叫んだ。
病間にあてた書院である。やがてそこが、司馬先生の臨終の室となろうとしているのだった。
病人が光をいとうので、こうして真昼も雨戸をしめ切って、ほのかな灯りが、ちろちろと壁に這っているきりである。中央に、あつい褥をしいて、長の大病にやつれた十方不知火流の剣祖、司馬先生が、わずかに虫の息を通わせて仰臥しているのだった。落ちくぼんだ眼のまわりに、青黒く隈どりが浮かんでいるのは、これが死相というのであろう。
本郷妻恋坂に、広い土地をとって、御殿といってもよい壮麗な屋敷であった。剣ひとつで今日の地位を築き、大名旗下を多く弟子にとって、この大きな富を積み、江戸の不知火流として全国にきこえているのが、この司馬先生なのだった。その権力、その富は、大名にも匹敵して、ひろく妻恋坂の付近は、一般の商家などすべて、この道場ひとつで衣食しているありさまであった。だから、妻恋坂の剣術大名という異名があるくらいだった。
故郷の筑紫にちなんで不知火流と唱え、孤剣をもって斯界を征服した司馬先生も、老いの身の病には勝てなかった。暗い影のなかに、いまはただ、最後の呼吸を待つばかりであった。
まくらもとに控えている、茶筅あたまに十徳の老人は、医師であろう。詰めかけている人々も、ひっそりとして、一語も発する者もない。
空気は、こもっている、香と、熱のにおいで、重いのだった。
「お蓮――」
と、死に瀕した老先生の口が、かすかにうごいた。
医者が、隣にすわっているお蓮さまに、ちょっと合図した。
「はい――」
泣きながら袂で眼をおさえて、お蓮さまは、病夫の口もとへ耳を持っていった。
このお蓮さまは、司馬老先生のお気に入りの腰元だったのが、二、三年前、後妻になおったのである。それにしても、先生のむすめといってもいい若さで、それに、なんという美しい女性であろう!
明りを受けたお蓮さまの顔は、真珠をあたためたようにかがやいて、眉の剃りあとの青いのも、絵筆で引いたように初々しいのだった。
「もう長いことはない」老先生は、喘ぐように、
「まだ来んか。伊賀の――源三郎は、まだ江戸へ着かんか」
「はい。まだでございます。ほんとに、気が気でございません。どう遊ばしたのでございましょう」
お蓮さまは、あせりぬいている顔つきだった。
「神奈川、程ヶ谷のほうまで、迎いの者を出してありますから、源三郎様のお行列が見えましたら、すぐ飛びかえって注進することになっております。どうぞ御安心遊ばして、お待ちなさいませ」
まことしやかなお蓮さまの言葉に、老先生は、満足げにうち笑んで、
「源三郎に会うて、萩乃の将来を頼み、この道場をまかせぬうちは、行くところへも行けぬ。もはや品川あたりに、さしかかっておるような気がしてならぬが、テモ遅いことじゃのう」
と司馬先生は、絶え入るばかりに、はげしく咳く。
いまこの室内に詰めているのは、医師をはじめ、侍女、高弟たち、すべてお蓮さま一派の者のみである。老先生と柳生対馬守とのあいだにできたこの婚約を、じゃまして、これだけの財産と道場を若い後妻お蓮様の手に入れ、うまい汁を吸おうという陰謀なのだ。
剣をとっては十方不知火、独特の刀法に天下を睥睨した司馬先生も、うつくしい婦人のそらなみだには眼が曇って、このお蓮さまの正体を見やぶることができなかった。
十方不知火の正流は、ここに乗っ奪られようという危機である。
多勢が四方から、咳き入る先生をなでるやら、擦るやら、半暗のひと間のうちが、ざわざわ騒ぎたったすきに乗じて、お蓮さまはするりと脱け出て、廊下に立ちいでた。
嬋妍たる両鬢は、秋の蝉のつばさである。暗い室内から、ぱっとあかるい午後の光線のなかへ出てきたお蓮様のあでやかさに、出あい頭に、まぶしそうに眼をほそめて、そこに立っているのは、代稽古主席、この剣術大名の家老職といわれる峰丹波だった。
「いかがです、まだ――」
六尺近い、大兵の峰丹波である。そう太い声で言って、にっと微笑った。
まだ老先生は息を引きとらぬか――という意味だが、さすがに口に出し兼ねて、語尾を消した。
「早くかたづくといいのにねえ」
とお蓮さまは、うつくしい顔をしかめて、かんざしで髪の根を掻きながら、
「品川から、なんとかいって来た?」
「いや、一行はいまだに本陣に頑張って、威張っておるそうですが――」
「あの、手紙をくわえた首は、だれも見なかったろうね?」
「あれには驚きましたナ。イヤどうも腐りが早いので、首は、甕へ入れて庭へ埋めました。手紙はここに持っておりますが、私の身体まで、死のにおいがするようで――」
京ちりめんに、浅黄に白で麻の葉を絞りあわせた振り袖のひとえもの……萩乃は、その肩をおとして、ホッとちいさな溜息を洩らした。
父の病室からすこし離れた、じぶんの居間で、彼女は、ひとりじっともの思いに沈んでいるのだった。
うちに火のような情熱を宿して、まだ恋を知らぬ十九の萩乃である。庭前の植えこみに、長い初夏の陽あしが刻々うつってゆくのを、ぼんやり見ながら、きびしい剣家のむすめだけに、きちんとすわって、さっきから、身うごきひとつしない。
病父の恢復は、祈るだけ祈ったけれど、いまはもうその甲斐もなく、追っつけ、こんどは、冥福を祈らなければならないようになるであろう……。
萩乃は、いま、まだ見ぬ伊賀の源三郎のうえに、想いを馳せているのだ。
先方の兄と、司馬の父とのあいだに、去年ごろから話があったが、父のやまいがあらたまると同時に、急にすすんで、源三郎さまはきょうあすにも、江戸入りするはずになっているのだ――が、まだお着きにならない。どうなされたのであろう……。
といって、彼女は決して、源三郎を待っているわけではない。父がかってにきめた縁談で、一度も会ったことのない男を、どうして親しい気もちで待ちわびることができよう。
伊賀のあばれン坊としてのすばらしい剣腕は、伝え聞いている――きっと見るからに赤鬼のようなあの、うちの峰丹波のような大男で、馬が紋つきを着たような醜男にきまっていると、萩乃は思った。
気性が荒々しいうえに、素行のうえでも、いろいろよからぬ評判を耳にしているので、萩乃は、源三郎がじぶんの夫として乗りこんでくることを思うと、ゾッとするのだった。
山猿が一匹、伊賀からやってくると思えばいい。自分はそのいけにえになるのか……と、萩乃が身ぶるいをしたとたん。
「おひとりで、辛気くそうござんしょう、お嬢さま」
と、庭さきに声がした。
見ると、紺の香のにおう法被の腰に、棕梠縄を帯にむすんで、それへ鋏をさした若いいなせな植木屋である。
父が死ねば、この広い庭に門弟全部があつまって、遺骸に別れを告げることになっているので、もはや助からないと見越して、庭の手入れに四、五日前から、一団の植木屋がはいっている。そのうちの一人なのだが、この若い男は、妙に萩乃に注意を払って、なにかと用をこしらえては、しじゅうこの部屋のまえを通りかかるので――。
どうしてこんな奥庭まで、まぎれこんできたのだろう……と、萩乃が、見向きもせずに、眉をひそめているうちに。
その若い植木屋は、かぶっていた手ぬぐいをとって、半纏の裾をはらいながら、かってに、その萩乃の部屋の縁側に腰かけて、
「エエ、お嬢さま。たばこの火を拝借いたしたいもので、へえ」
と、スポンと、煙草入れの筒をぬいた。
水あぶらの撥さきが、ぱらっと散って、蒼味の走った面長な顔、職人にしては険のある、切れ長な眼――人もなげな微笑をふくんだ、美いおとこである。
なんという面憎い……!
萩乃は、品位をととのえて振りむきざま、
「火うちなら、勝手へおまわり」
「イヤ、これはどうも、仰せのとおりで」
と、男は、ニヤリと笑いつつ煙管をおさめて、
「じゃ、たばこはあきらめましょう。だがネ、お嬢さん、どうしてもあきらめられないものがあるとしたら、どうでございますね、かなえてくださいますかね」
と、その鋭い眼じりに、吸いよせるような笑みをふくんで、ジロッと見据えられたときに、萩乃は、われにもなく、ふと胸がどきどきするのを覚えた。
不知火流大御所のお嬢様と、植木屋の下職……としてでなく、ただの、男とおんなとして。
なんてきれいなひとだろう、情の深そうな――源三郎さまも、こんなお方ならいいけれど。
などと、心に思った萩乃、じぶんと自分で、不覚にも、ポッと桜いろに染まった。
でも、源三郎様は、この植木屋とは月とすっぽん、雪と墨、くらべものにならない武骨な方に相違ない……。
オオ、いやなこった! と萩乃は、想像の源三郎の面ざしと、この男の顔と、どっちも見まいとするように眼をつぶって、
「無礼な無駄口をたたくと、容赦しませぬぞ。ここは、お前たちのくるところではありませぬ。おさがり!」
「へへへへへ、なんかと、その御立腹になったところの風情がまた、なんとも――」
「萩乃さん、萩乃さんはそこかえ」
声を先立てて、継母のお蓮さまが、はいってきた。例によって、大男の峰丹波をしたがえて。
「源三郎様は、まだお越しがないねえ……オヤ、この者は、なんです。これ、お前は植木屋ではないか。まあどうしてこんなところへはいりこんで、なんてずうずうしい!――丹波っ、追っぱらっておしまい!」
司馬の道場をここまで持ってきたのは、むろん、老先生の剣と人物によることながら、ひとつには、この膂力と才智のすぐれた峰丹波というものがあったからで。
妻恋坂の大黒柱、峰丹波、先生の恩を仇でかえそうというのか、このごろ、しきりにお蓮さまをけしかけて、源三郎排斥の急先鋒、黒幕となっているのだ。
まさか変なことはあるまいが、それも、相手が強か者のお蓮様だから、ふたりの仲は、案外すすんでいるのかも知れない……などと、屋敷うちでは、眼ひき袖引きする者もあるくらい。とにかく、お蓮さまの行くところには、かならず丹波がノッソリくっついて、いつも二人でコソコソやっている。
醜態である。
萩乃は、この、ふだんからこころよく思っていないふたりが、はいってきたので、ツンとすまして横を向いていると――身長六尺に近く、でっぷりとふとって、松の木のようにたくましい丹波だ。縁側を踏み鳴らしてくだんの植木屋に近づくなり、
「無礼者っ!」
と一喝。植木屋、へたばって、そこの土庇に手をついてしまうかと思いのほか、
「あっはっは、大飯食らいの大声だ」
ブラリ起ちあがって、立ち去ろうとする横顔を、丹波のほうがあっけにとられて、しばしジッと見守っていたが、
「何イ?」
おめくより早く、短気丹波といわれた男、腰なる刀の小柄を抜く手も見せず、しずかに庭を行く植木屋めがけて、投げつけました。
躍るような形で、縁に上体をひらいた丹波、男の背中に小柄が刺さって、血がピュッと虹のように飛ぶところを、瞬間、心にえがいたのでしたが……どうしてどうして、そうは問屋でおろさない。
ふしぎなことが起こったのだ。
あるき出していた植木屋が、パッと正面を向きなおったかと思うと、ひょいと肘をあげて、小柄を撥ねたのだ。
飛んでくる刃物を、直角に受けちゃアたまらない。平行に肘を持っていって、スイと横にそらしてしまうんです。
柳生流の奥ゆるしにある有名な銀杏返しの一手。
銀杏返しといっても、意気筋なんじゃあない。ひどく不意気な剣術のほうで、秋、銀杏の大樹の下に立って、パラパラと落ちてくる金扇の葉を、肘ひとつでことごとく横に払って、一つも身に受けないという……。
なんでも芸はそうで、ちょいと頭をだすまでには、なみたいていのことではございません。人の知らない苦労がある。それがわかるには、同じ段階と申しますか、そこまで来てみなければ、こればっかりは金輪際わかりっこないものだそうで、そうして、その苦労がわかってくると、なんだかんだと人のことをいえなくなってしまう。なんでも芸事は、そうしたものだと聞いております。
いま、仮りに。
この峰丹波が、あんまり剣術のほうの心得のない人だったら、オヤ! 植木屋のやつ、はずみで巧く避けやがったナ、ぐらいのことで、格別驚かなかったかも知れない。
が、なにしろ、峰丹波ともあろう人。
剣のことなら、他流にまですべて通じているから、今その小柄がツーイと流れて、石燈籠の胴ッ腹へぶつかって撥ねかえったのを見ると、丹波、まっ青になった。
「ウーム!」
と呻いて、縁に棒立ちです。
植木屋は?
と見ると、その蒼白い顔を、相変わらずニコニコさせて、萩乃とお蓮さまへ目礼、スタスタ行っちまおうとするから、丹波、こんどはあわてて、
「お待ちを……ちょっとお待ちを願います」
ことばづかいまで一変、ピタリ縁にすわって、
「まさか、あなた様は――?」
恐怖と混迷で、丹波の顔は汗だ。
お蓮さまと萩乃は、おんなのことで、剣術なんかわからないから、小柄が横にそれただけのことで、この傲岸な丹波が、どうしてこう急に恐れ入ったのだろう……何かこの植木屋、おまじないでもしたのかしら、と、ふしぎに思って見ている。
「柳生流をあれだけお使いなさるお方は……」
と、丹波小首を捻って、
「ほかにあろうとは思われませぬ。違いましたら、ごめんこうむるといたしまして、もしかあなたさまは、あの――イヤ、しかし、さようなことがあろうはずはござらぬ。御尊名を……ぜひ御尊名を伺わせていただきたい」
「オウ、おさむれえさん。おめえ、何か感ちがいしていやアしませんかい」
植木屋は、ペコペコあたまを掻いて、
「御尊名と来た! おどろき桃の木――あっしあ、根岸の植留の若えもンで、金公てえ半チク野郎で、へえ」
「なんと仰せられます。ただいまのは、柳生流秘伝銀杏返し……お化けなすっても、チラと尻尾が見えましてござります、しっぽが!」
「へ?」
と金公、キョトンとした顔。
うたたねの夢からさめた櫛まきお藤は、まア! とおどろいた。
じぶんの昼寝のからだに、いつの間にか、意気な市松のひとえが、フワリとかけてあるのである。
「まあ! あんなやつにも、こんな親切気があるのかねえ」
と、口の中で言って、とろんとした眼、自暴に髪の根を掻いている。
ここは、浅草駒形、高麗屋敷の櫛まきお藤のかくれ家です。縁起棚の下に、さっき弾きあきたらしい三味線が一梃、投げだしてあるきり、まことに夏向きの、ガランとした家で、花がるたを散らしに貼った地ぶくろも、いかさまお藤姐御の住まいらしい。
どんよりした初夏の午さがり……ジッとしていると、たまらなく睡くなる陽気だ。
お藤、真っ昼間から一ぱいやって、いまとろとろしたところらしく、吐く息が、ちと臭い。
今のことばを、口のなかでいったつもりだったのが、声になって外へ出たとみえて、
「姐御、おめざめですかい。あんなやつはねえでしょう。相変わらず口がわるいね」
といって、二間ッきりの奥の間から、出てきたのは、しばらくここに厄介になって身をひそめている、鼓の与吉である。
妻恋坂のお蓮様に頼まれ、東海道の三島まで出張って、あの柳生源三郎の一行に、荷かつぎ人足としてまぎれこみ、ああして品川の泊りで、うまく大名物こけ猿の茶壺を盗み出したこの与吉。いままでこのお藤姐御の家に鳴りをひそめて、ほとぼりをさましていたので。
ゆうき木綿の単衣に、そろばん絞りの三尺を、腰の下に横ちょに結んで、こいつ、ちょいとした兄哥振りなんです。
見ると、どっかへ出かける気らしく、藍玉の手ぬぐいを泥棒かむりにして、手に、大事そうに抱えているのは、これが、あの、伊賀の暴れン坊の婿引出、柳生流伝来の茶壺こけ猿であろう。鬱金のふろしきに包んだ、高さ一尺五、六寸の四角い箱だ。
「おや、いよいよきょうは一件を持って、お出ましかえ」
と笑うお藤の眼を受けて、
「あい。あんまり長くなるから、ひとつ思い切って峰丹波さまへこいつをお届けしようと思いやしてネ」
「だけど、伊賀の連中は、眼の色変えて毎日毎晩、品川から押し出して、江戸じゅう、そいつを探してるというじゃないか。もう、大丈夫かえ?」
「なあに――」
与吉の足は、もう土間へおりていました。
櫛は野代の本ひのき……素顔自慢のお藤姐御は、髪も、あぶら気をいとって乱したまんま、名のとおり、グルグルっと櫛巻にして、まア、言ってみれば、持病が起こりましてネ、化粧もこの半月ほど、ちっともかまいませんのさ、ようようゆうべひさしぶりで、ちょいと銭湯へはいったところで――なんかと、さしずめ春告鳥にでも出てきそうな、なかなかうるさい風俗。
ここんところ、ちょっと、お勝手もと不都合とみえて、この暑いのに縞縮緬の大縞の継つぎ一まいを着て、それでも平気の平左です。白い二の腕を見せて、手まくらのまま、
「さわるまいぞえ、手を出しゃ痛い――柳生の太刀風をバッサリ受けても、知らないよ」
土間の与吉は、やっこらさとこけ猿の茶壺をかかえて、
「何しろ、大将が大暴れン坊で、小あばれん坊がウントコサ揃っていやすからネ。そいつが、江戸中を手分けして、この与吉様とこの茶壺をさがしてるんだ。ちいとばかり、おっかなくねえことアねえが、峰の殿様も、いそいでいらっしゃる。きっと、与の公のやつ、どうしたかと……」
「じゃ、いそいで行って来な」
「へえ、此壺を妻恋坂へ届けせえすれア、とんでけえってめえります。また当分かくまっておもらい申してえんで」
「あいさ、これは承知だよ」
「こういう危ねえ仕事には、けえって夜より、真っ昼間のほうがいいんです」
「お前がそうしてそれを持ったところは、骨壺を持ってお葬式に出るようだよ。似合うよ」
「ヤ、姐御、そいつあ縁起でもねえなあ」
与吉が閉口して、出て行きますと、あとは急にヒッソリして、おもて通りの駒形を流して行く物売りの声が、のどかに――。
しばらく、天井の雨洩りのあとを見ていたお藤は、やおらムックリ起きあがって、手を伸ばして三味線をとりあげました。
すぐ弾きだすかと思うと、さにあらず、押入れをあけて、とり出したのは、中を朱に、ふちを黒に塗った状箱です。紐をほどく。ふたを除く――。
そして、お藤、まるで人間に言うように、
「さア、みんな、しっかり踊るんだよ」
と! です。おどろくじゃアありませんか。その状箱からぞろぞろ這い出したのは、五、六匹の尺とり虫ではないか――。
同時に、お藤、爪びきで唄いだした。
「尺取り虫、虫
尺とれ、寸取れ」
尺とれ、寸取れ」
「尺取り虫、虫
尺とれ、寸とれ
寸を取ったら
背たけ取れ!
尺とり虫、虫
尺取れ、背とれ
足の先からあたままで
尺を取ったら
命取れ!」
こういう唄なんだ。命とれとは、物騒。尺とれ、寸とれ
寸を取ったら
背たけ取れ!
尺とり虫、虫
尺取れ、背とれ
足の先からあたままで
尺を取ったら
命取れ!」
こいつを、お藤、チリチリツンテンシャン! と三味に合わせて歌っているんでございます。
畳のうえには、五匹ほどの尺とり虫が、ゾロゾロ這っている。まことに妖異なけしき……。
トロンと空気のよどんだ、江戸の夏の真昼。隣近所のびっしり立てこんだこの高麗やしきのまん中で、ひとりのあやしいまでに美しい大年増が、水色ちりめんの湯まきをチラリこぼして、横ずわり――爪弾きの音も忍びがちに、あろうことか、尺取り虫に三味を聞かせているんで。
お藤はじっと眼を据えて、這いまわる尺取り虫を見つめながら、ツンツルルン、チチチン、チン……。
「尺とれ、背取れ
足のさきから頭まで
尺をとったら
命取れ――」
一生けんめいに呼吸をつめて、唄っているお藤の額は、汗だ、あぶら汗だ。この汗は、閉め切った部屋の暑さのせいばかりではない。人間のもつ精神力のすべてを、三味と唄とに集中して櫛まきお藤は、いま、一心不乱の顔つきです。足のさきから頭まで
尺をとったら
命取れ――」
上気した頬のいろが、見る間にスーッと引いて、たちまち蒼白に澄んだお藤は、無我の境に入ってゆくようです。
背を高く丸く持ちあげては、長く伸びて、伸びたり縮んだりしながら、思い思いの方角に這ってゆく尺取り虫……。
西洋の言葉に、「牡蠣のように音楽を解しない」というのがあります。また蓄音機のマークに、犬が主人の声に聞き惚れているのがある。マーク・トウェインか誰かの作品にも、海老が音楽に乗ってうごき出すのがあったように記憶しております。
とにかく、動物は音楽を解するかどうか――こいつはちょっとわからないし、また、尺取り虫に音楽の理解力があろうとは思われないが……いま見ていると、この虫ども、一心不乱のお藤姐御の三味に合わせて、緩慢な踊りをおどっているように見えるので。
じつに、世にも奇態なことをするお藤――。
この、なんの変哲もない古びた茶壺ひとつを、ああして大名の乗り物におさめて、行列のまん中へ入れて、おおぜいで護ってくるなんて、その好奇さ加減も、気が知れねえ……と、打てばひびくというところから、鼓の名ある駒形の兄い与吉、ひとり物思いにふけりながら、ブラリ、ブラリやってくる。
その御大層もない茶壺を、あの品川へ着いた夜の酒宴に、三島から狙ってきたこのおいらに、見ごとに盗みだされるたア、強いだけで能のねえ田舎ざむれえ、よくもああ木偶の坊が揃ったもんだと、与吉は、大得意だ。今ごろは、吠え面かいて探してるだろうが、ざまア見やがれ――。
いい若い者が、何か四角い包みを抱えて、ニヤニヤ思い出し笑いをしながら行くから変じァないかと、道行く人がみんな気味わるそうに、よけて行く。
しかし、こんな騒ぎをして、わざわざこんなものを盗みださせる妻恋坂のお蓮さんも、峰丹波様も、すこし酔狂がすぎやアしねえか――。
「萩乃どのの婿として乗りこんでくる源三郎様には、すこしも用がない」
と、この命令を授ける時、峰の殿様がおっしゃったっけ……。
「彼奴は、あくまでも阻止せねばならぬ。が、その婿引出に持ってまいるこけ猿の茶壺には、当方において大いに用があるのだ」
そして、丹波、抜からず茶壺を持ち出せと、すごい顔つきで厳命をくだしたものだが、してみると――。
してみると……この茶壺の中は、空じゃアないかも知れない。
そう思うと、なんだかただの茶壺にしては、重いような気がして来た。
与吉は、矢も楯もなく、今ここで箱をあけて、壺のなかを吟味したくてたまらなくなりました。
好奇心は、猫を殺す――必ずともに壺のふたを取るでないぞ! 中をあらためてはならぬぞ! こういう峰丹波の固い命令だったので、それで与吉、今まであの高麗屋敷の櫛まきお藤の家で、この茶壺と寝起きしていた何日かのあいだも、見たいこころをジッとおさえて、我慢してきたのだが……。
これから妻恋坂の道場へ納めてしまえば、もう二度と見る機会はなくなる。
見るなと言われると、妙に見たいのが人情で、
「ナアニ、ちょっとぐれえ見る分にゃア、さしつけえあるめえ。第一、おいらが持ち出した物じゃアねえか」
与の公、妙な理屈をつけて、あたりを見まわした。
浅草の駒形を出まして、あれから下谷を突っ切って本郷へまいる途中、ちょうど三味線堀へさしかかっていました。
松平下総守様のお下屋敷を左に見て、韓軫橋をわたると、右手が佐竹右京太夫のお上屋敷……鬱蒼たる植えこみをのぞかせた海鼠塀がずうっとつづいていて、片側は、御徒組の長屋の影が、墨をひいたように黒く道路に落ちている。
夏のことですから、その佐竹さまの塀の下に、ところ天の荷がおりていて、みがきぬいた真鍮のたがをはめた小桶をそばに、九つか十ばかりの小僧がひとり、ぼんやりしゃがんで、
「ところてんや、てんやア……」
と、睡そうな声で呼んでいる。大きな椎の木が枝をはり出していて、ちょっと涼しい樹蔭をつくっている。
近処のおやしきの折助がふたり、その路ばたにしゃがみこんで、ツルツルッとところ天を流しこんで立ち去るのを見すますと、与吉のやつ、よしゃアいいのに、
「おう、兄ちゃん、おいらにも一ぺえくんな。酢をきかしてナ」
と、その桶のそばへうずくまった。
「へえい! 江戸名物はチョビ安のところ天――盛りのいいのが身上だい」
ところ天やの小僧、ませた口をきくんで。
「こちとら、かけ酢の味を買ってもらうんだい。ところ天は、おまけだよ」
「おめえ、チョビ安ってのか。おもしれえあんちゃんだな。ま、なんでもいいや。早えとこ一ぺえ突き出してくんねえ」
言いながら、与の公、手のつつみを地面へおろして、鬱金のふろしきをといた。出てきたのは、時代がついて黒く光っている桐の箱だ。そのふたを取って、いよいよ壺を取り出す。
古色蒼然たる錦のふくろに包んである。それを取ると、すがりといって、赤い絹紐の網が壺にかかっております。
その網の口をゆるめ、奉書の紙を幾重にも貼り固めた茶壺のふたへ、与吉の手がかかったとき、その時までジッと見ていたところ天売りの子供、みずから名乗ってチョビ安が、
「小父ちゃん、ところ天が冷めちゃうよ」
洒落たことをいって、皿をつき出した。
「まア、待ちねえってことよ。それどころじゃアねえや」
与吉がそう言って、チラと眼を上げると、あ! いけない! 折りしも、佐竹様の塀について、この横町へはいってくる一団の武士のすがた! 安積玄心斎の白髪をいただいた赭ら顔を先頭に……。
それと見るより、与吉、顔色を変えた。この連中にとっ掴まっちゃア、たまらない。たちまち、小意気な江戸ッ児のお刺身ができあがっちまう。
「うわあっ!」
と、とびあがったものです。
むこうでも、すぐ与吉に気がついた。気の荒いなかでも気のあらい脇本門之丞、谷大八なんかという先生方が、
「オ! おった! あそこにおる!」
「やっ! 与吉め、おのれっ!」
「ソレっ! おのおの方ッ!」
「天道われに与せしか――」
古風なことを言う人もある。ドッ! と一度に、砂ほこりをまきあげて、追いかけてきますから、与吉の野郎、泡をくらった。
もう、ところてんどころではありません。
「おウ、チョビ安といったな。此壺をちょっくら預かってくんねえ。あの侍たちに見つからねえようにナ、おらア、ぐるッとそこらを一まわりして、すぐ受けとりに来るからな」
と、見えないように、箱ごと壺を、ところ天屋の小僧のうしろへ押しこむより早く、与の公、お尻に帆あげて、パッと駈け出した。
いったい、このつづみの与吉ってえ人物は、ほかに何も取得はないんですが、逃げ足にかけちゃア天下無敵、おっそろしく早いんです。
今にもうしろから、世に名だたる柳生の一刀が、ズンと肩口へ伸びて来やしないか。一太刀受けたら最後、あっというまに三まいにおろされちまう……と思うから、この時の与吉の駈けっぷりは、早かった。
まるで踵に火がついたよう――背後からは、与吉待てえ、与吉待てえと、ガヤガヤ声をかけて追ってくるが、こいつばかりは、へえといって待つわけにはいかない。
ぐるっと角をまがって、佐竹様のおもて御門から、木戸をあけて飛びこんだ。御門番がおどろいて、
「おい、コラコラ、なんじゃ貴様は」
あっけにとられているうちに、
「へえ、ごらんのとおり人間で――人ひとり助けると思召して」
と与吉、たちさわぐ佐竹様の御家来に掌を合わせて拝みながら、御番衆が妙なやつだナと思っているうちに、ぬけぬけとしたやつで、すたすた御邸内を通りぬけて、ヒョックリさっきの横町へ出てまいりました。
「ざまア見やがれ。ヘッ、うまく晦いてやったぞ」
ところが、与吉、二度びっくり――ところてんのチョビ安が、こけ猿の茶壺とともに、影もかたちもないんで。
ところ天の荷は、置きっ放しになっている。
あわてた与吉が、ふと向うを見ると、こけ猿の包みを抱えたチョビ安が、尻切れ草履の裏を背中に見せて、雲をかすみととんでゆくのだ。
安積玄心斎の一行は、与吉にあざむかれて、横町へ切れて行ったものらしく、あたりに見えない。
「小僧め! 洒落た真似をしやがる」
きっとくちびるを噛んだ与吉、豆のように遠ざかって行くチョビ安のあとを追って、駈けだした。
柳沢弾正少弼、小笠原頼母と、ずっと屋敷町がつづいていて、そう人通りはないから、逃げてゆく子供のすがたは、よく見える。
「どろぼうっ! 泥棒だっ! その小僧をつかまえてくれっ!」
と与吉は、大声にどなった。
早いようでも子供の足、与吉にはかなわない。ぐんぐん追いつかれて、今にも首へ手が届きそうになると、チョビ安が大声をはりあげて、
「泥棒だ! 助けてくれイ!」
と喚いた。
「この小父さんは泥棒だよ。あたいのこの箱を奪ろうっていうんだよ」
と聞くと、そこらにいた町の人々、気の早い鳶人足や、お店者などが、ワイワイ与吉の前に立ちふさがって、
「こいつ、ふてえ野郎だ。おとなのくせに、こどもの物を狙うてえ法があるか」
おとなと子供では、どうしてもおとなのほうが割りがわるい。みんなチョビ安に同情して、与吉はすんでのことで袋だたきにあうところ……。
やっとそれを切り抜けると、その間にチョビ安は、もうずっと遠くへ逃げのびている。逃げるほうもよく逃げたが、追うほうもよく追った。あれからまっすぐにお蔵前へ出たチョビ安は、浅草のほうへいちもくさんに走って、まもなく行きついたのが吾妻橋のたもと。
ふっとチョビ安の姿が、掻き消えた。ハテナ!――と与の公、橋の下をのぞくと、狭い河原、橋杭のあいだに筵を張って、お菰さんの住まいがある。
飛びこんだ与吉、いきなりそのむしろをはぐったまではいいが、あっ! と棒立ちになった。
中でむっくり起きあがったのは、なんと! 大たぶさがぱらり顔にかかって、見おぼえのある隻眼隻腕の、痩せさらばえた浪人姿……。
「これは、これは、丹下の殿様。お珍しいところで――その後は、とんとかけちがいまして」
とつづみの与吉、そうつづけさまにしゃべりながら、ペタンとそこへすわってしまった。
いい兄哥が、橋の下の乞食小屋のまえにすわって、しきりにぺこぺこおじぎをしているから、橋の上から見おろした人が、世の中は下には下があると思って、驚いている。
筵張りのなかは、石ころを踏み固めて、土間になっている。そのまん中へ、古畳を一まい投げだして、かけ茶碗や土瓶といっしょに、ごろり横になっているのは……。
隻眼隻腕の剣怪、丹下左膳。
箒のような赭茶けた毛を、大髻にとりあげ、右眼はうつろにくぼみ、残りの左の眼は、ほそく皮肉に笑っている。
その右の眉から口尻へかけて、溝のような一線の刀痕――まぎれもない丹下左膳だ。
黒襟かけた白の紋つき、その紋は、大きく髑髏を染めて……下には、相変わらず女ものの派手な長襦袢が、痩せた脛にからまっている。
「おめえか」
と左膳、塩からい声で言った。
「ひさしぶりじゃアねえか。よく生きていたなア」
「へへへへへ、殿様こそよく御存命で、死んだと思った左膳さま、こうして生きていようたア、お釈迦さまでも――」
右腕のない左膳、右の袖をばたばたさせて、ムックリ起きあがった。
与吉はわざと眼をしょぼしょぼさせて、
「しかし、もとより御酔狂ではござんしょうが、このおん痛わしいごようす――」
「与吉といったナ」
と、刻むような左膳の微笑。
「二本さして侍だといったところで、主君や上役にぺこぺこしてヨ、御機嫌をとらねえような御機嫌をとって、仕事といやア、それだけじゃアねえか。おもしろくもねえ。かく河原住まいの丹下左膳、こんなさっぱりしたことはないぞ」
「へえ、さようで――」
と、撥をあわせながら、与吉、気が気でない。その左膳のうしろに、あのチョビ安の小僧が、お小姓然と、ちゃんと控えているんで。
しかも、こけ猿の包みを両手に抱えて。
この丹下左膳は。
いつか、金華山沖あいの斬り合いで、はるか暗い浪のあいだに、船板をいかだに組んで、左膳の長身が、生けるとも死んだともなく、遠く遠く漂い去りつつあった……はずのかれ左膳、うまく海岸に流れついたとみえて、こうしていつのまにか、ふたたび江戸へまぎれこみ、この橋の下に浮浪の生活をつづけていたのだ。
が、いまの与吉には、そんなことは問題でない。
左膳のうしろにチョコナンとすわっているチョビ安をにらんで、どう切りだしたものかと考えている。
何しろ、チョビ安のそば、左膳の左手のすぐ届くところに、鹿の角の形をした、太短い松の枯れ枝が二本向い合せに土にさしてあって、即妙の刀架け……それに、赤鞘の割れたところへ真田紐をギリギリ千段巻きにしたすごい刀が、かけてあるのだから、与吉も、よっぽど気をつけて口をきかなければならない。
まず……。
「へへへへへ」と笑ってみた。
「ちょっと伺いやすが、そのお子さんは、先生の、イエ、丹下の旦那様のお坊っちゃまなので――?」
すると、左膳、すぐにはそれに答えずに、夢を見ているような顔だ。
「今は左膳、根ッからの乞食浪人……これでチョイチョイ人斬りができりゃア、文句はねえ。どうだ、与吉、思う存分人を斬れるような、おもしれえ話はねえかナ。どこかおれを人殺しに雇ってくれるところはねえか」
ほそい眼を笑わせて、口を皮肉にピクピクさせるところなど、相変わらずの丹下左膳だ。
そろそろおいでなすったと、与吉は首をすくめて、
「へえ。せいぜい心がけやしょう。それはそうと丹下の殿様、そこにおいでの子供衆は、そりゃいってえ……」
「うむ、この子か。知らぬ」
「まるっきり、なんの関係もおありにならないんで?」
「おめえより一足さきに、この小屋へ飛びこんで来たのだ」
と聞いて与吉、急に気が強くなって、
「ヤイ! ヤイ! チョビ安といったナ。ふてえ畜生だ。こんなところへ逃げこんでも、だめだぞ。さ、その壺をけえせ!」
と、どなったのだが、チョビ安はけろりとした顔で、
「何いってやんで! 小父ちゃんこそ、おいらからこの包みをとろうとして、追っかけて来たんじゃアねえか。乞食のお侍さん、あたいを助けておくんなね。この小父ちゃんは、泥棒なんだよ」
与吉はせきこんで、
「餓鬼のくせに、とんでもねえことを言やアがる。てめえが其箱を引っさらって逃げたこたア、天道さまも御照覧じゃあねえか」
「やい、与吉、おめえ、天道様を口にする資格はあるめえ」
左膳のことばに、与吉がぐっとつまると、チョビ安は手を拍って、
「そうれ、見な。あたいの物をとろうとして、ここまでしつこく追っかけて来たのは、小父ちゃんじゃあねえか。このお侍さんは、善悪ともに見とおしだい。ねえ、乞食のお侍さん」
与の公は、泣きださんばかり、
「あきれた小倅だ。白を黒と言いくるめやがる。やい! この壺は、こどものおもちゃじゃねえんだぞ。こっちじゃア大切なものだが、何も知らねえお前らの手にありゃあ、ただの小汚ねえ壺だけのもんだ。小父ちゃんが褒美をやるから、サ、チョビ安、器用に小父ちゃんに渡しねえナ」
「いやだい!」チョビ安は、いっそうしっかと壺の箱を抱えなおして、
「あたいのものをあたいが持ってるんだ。小父ちゃんの知ったこっちゃアねえや」
眼をいからした与吉、くるりと裾をまくって、膝をすすめた。
「盗人猛々しとはてめえのこったぞ。いいか、現におめえは、おいらの預けたその箱をさらって、ドロンをきめこみ、いいか、一目山随徳寺と――」
「うめえうそをつくなあ!」
とチョビ安は、感に耐えた顔だ。
与吉、ピタリとそこへ手をついたものだ。
「チョビ安様々、拝む! おがみやす。まずこれ、このとおり、一生の恩に被やす。どうぞどうぞ、お返しなされてくだされませ」
「ウフッ! 泣いてやがら。おかしいなあ!」
「なにとぞ、チョビ安大明神、ところてんじくから唐日本の神々さま、あっしを助けるとおぼしめして――」
チョビ安、どこ吹く風と、
「小父ちゃん、あきらめて帰んな、けえんな」
「買うがどうだ!」
与吉は必死の面持ち、ぽんと上から胴巻をたたき、
「一両! 二両! その古ぼけた壺を二両で買おうてんだ、オイ! うぬが物をうぬが銭出して買おうなんて、こんなべらぼうな話アねえが、一すじ縄でいく餓鬼じゃアねえと見た。二両!」
「じゃ、清く手を打つ……と言いてえところだが」
とチョビ安、大人のような口をきいて、そっくり返り、
「まあ、ごめんこうむりやしょう。千両箱を万と積んでも、あたいは、この壺を手放す気はねえんだよ、小父ちゃん」
その時まで黙っていた丹下左膳、きっと左眼を光らせて二人を見くらべながら、
「ようし。おもしれえ。大岡越前じゃアねえが」
と苦笑して、
「おれが一つ裁いてやろうか」
「小父ちゃん、そうしておくれよ」
「殿様、あっしから願いやす。その御眼力をもちまして、どっちがうそをついてるか、見やぶっていただきやしょう。こんないけずうずうしい餓鬼ア、見たことも聞いたこともねえ」
「こっちで言うこったい」
「まア、待て」
と左膳、青くなっている与吉から、チョビ安へ眼を移して、にっこりし、
「小僧、汝ア置き引きを働くのか」
置き引きというのは、置いてある荷をさらって逃げることだ。
これを聞くと、与吉は、膝を打って乗りだした。
「サ! どうだ。ただいまの御一言、ピタリ適中じゃアねえか。ところてん小僧の突き出し野郎め! さあ壺をこっちに、渡した、わたした!」
チョビ安は、しょげ返ったようすで、
「しょうがねえなあ。乞食のお侍さん、どうしてそれがわかるの?」
「なんでもいいや。早く其壺を出さねえか」
と、腕を伸ばして、ひったくりにかかる与吉の手を、左膳は、手のない右の袖で、フワリと払った。
「だが、待った! 品物は与吉のものに相違あるめえが、返すにゃおよばねえぞ小僧」
「へ? タタ丹下の殿様、そ、そんなわからねえ――」
「なんでもよい。壺はあらためて左膳より、この小僧に取らせることにする」
よろこんだのは、チョビ安で、
「ざまア見やがれ! やっぱりおいらのもんじゃアねえか。さらわれる小父ちゃんのほうが、頓馬だよねえ、乞食のお侍さん」
「先生、旦那、いやサ、丹下様」
と与吉は、持ち前の絡み口調になって、
「あんまりひでえじゃあござんせんか。あっしゃアこのお裁きには、承服できねえ」
「なんだと?」
左膳の顔面筋肉がピクピクうごいて、左手が、そっと、うしろの枯れ枝の刀かけへ……。
「もう一ぺん吐かしてみろ!」
「ま、待ってください。ナ、何もそんなに――」
ぐっと左膳の手が、大刀へ伸びた瞬間、これはいけないと見た与の公、
「おぼえてやがれっ!」
と、チョビ安へひとこと置き捨てて、その蒲鉾小屋を跳び出した。
いくら大名物のこけ猿でも、いのちには換えられない……と、与吉が、ころがるように逃げて行ったあと。
朝からもう何日もたったような気のする、退屈するほど長い夏の日も、ようやく西に沈みかけて、ばったり風の死んだ夕方。
江戸ぜんたいが黄色く蒸れて、ムッとする暑さだ。
だが、橋の下は別世界――河原には涼風が立って、わりに凌ぎよい。
ゲゲッ! と咽喉の奥で蛙が鳴くような、一風変わった笑いを笑った丹下左膳。
「小僧、チョビ安とか申したナ。前へ出ろ」
「あい」
と答えたが、チョビ安、かあいい顔に、用心の眼をきらめかせて、
「だが、うっかり前へ出られないよ。幸い求めしこれなる一刀斬れ味試さんと存ぜしやさき、デデン……なんて、すげえなア。嫌だ、いやだ」
左膳は苦笑して、
「おめえ、おとなか子供かわからねえ口をきくなあ」
「口だけ、おいらより十年ほどさきに生まれたんだとさ」
「そうだろう」左膳は、左手で胸をくつろげて、河風を入れながら、
「誰も小僧を斬ろうたア言わねえ。ササ、もそっとこっちへ来い。年齢はいくつだ」
チョビ安は、裾をうしろへ撥ね、キチンとならべた小さな膝頭へ両手をついて、
「あててみな」
「九つか。十か」
「ウンニャ、八つだい」
「いつから悪いことをするようになった」
「おい、おい、おさむれえさん。人聞きのわりいことは言いっこなし!」
「だが、貴様、置き引きが稼業だというじゃあねえか」
「よしんば置きびきは悪いことにしても、何もおいらがするんじゃアねえ。みんな世間がさせるんだい」
「フン、容易ならねえことを吐かす小僧だな」
「だって、そうじゃアねえか。上を見りゃあ限りがねえ。大名や金持の家に生まれたってだけのことで、なんの働きもねえ野郎が、大威張りでかってな真似をしてやがる。下を見りゃあ……下はねえや。下は、あたいや、羅宇屋の作爺さんや、お美夜ちゃんがとまりだい。わるいこともしたくなろうじゃアねえか」
「作爺とは、何ものか」
「竜泉寺のとんがり長屋で、あたいの隣家にいる人だよ」
「お美夜と申すは?」
「作爺さんのむすめで、あたいの情婦だよ」
「情婦だと?」
さすがの左膳も、笑いだして、
「そのお美夜ちゃんてえのは、いくつだ?」
「あたいと同い年だよ。ううん、ひとつ下かも知れない」
「あきれけえった小僧だな」
「なぜ? 人間自然の道じゃアねえか」
今度は左膳、ニコリともしないで、
「おめえ、親アねえか」
ちょっと淋しそうに、くちびるを噛んだチョビ安は、すぐ横をむいて、はきだすように、
「自慢じゃアねえが、ねえや、そんなもの」
「といって、木の股から生まれたわけでもあるまい」
「コウ、お侍さん、理に合わねえこたア言いっこなしにしようじゃねえか。きまってらあな。そりゃあ、あたいだってね、おふくろのぽんぽんから生まれたのさ」
「いやな餓鬼だな。その母親や、父はどうした」
「お侍さんも、またそれをきいて、あたいを泣かせるのかい」
とチョビ安、ちいさな手の甲でぐいと鼻をこすって、しばらく黙したが、やがて、特有のませた口調で話し出したところによると……。
このチョビ安――名も何もわからない。ただのチョビ安。
伊賀の国柳生の里の生れだとだけは、おさな心にぼんやり聞き知っているが、両親は何者か、生きているのか、死んだのか、それさえ皆目知れない。どうして、こうして江戸に来ているのか……。
「それもあたいは知らないんだよ。ただ、あたいは、いつからともなく江戸にいるんだい」
とチョビ安は、あまりにも簡単な身の上ばなしを結んで、思い出したようにニコニコし、
「でも、あたいちっとも寂しくないよ。作爺ちゃんが親切にしてくれるし、お美夜ちゃんってものがあるもの。お美夜ちゃんはそりゃあ綺麗で、あたいのことを兄ちゃん兄ちゃんっていうよ。早く大きくなって夫婦になりてえなあ」
いいほうの左の眼をつぶって、じっと聞いていた左膳、何やらしんみりと、
「それでチョビ安、おめえ、親に会いたかアねえのか」
「会いたかねえや」
「ほんとに、会いたくねえのか」
すると、たまりかねたチョビ安、いきなり大声に泣き出して、
「会いてえや! べらぼうに会いてえや! そいで毎日、こうして江戸じゅう探し歩いてるんだい」
「そうなくちゃあならねえところだ」
と左膳は、見えない眼に、どうやら涙を持っているようす。
そっとチョビ安をのぞき見やって、いつになくしみじみした声だ。
「だがなあ、親を探すといって、何を手がかりにさがしているのだ」
チョビ安は、オイオイ泣いている。
「おっ母に会いてえ、父にあいてえ。うん? 手がかりなんか何もないけど、あたい、一生けんめいになれば、一生のうちいつかは会えるよねえ、乞食のお侍さん」
「そうだとも、そんなかあいいおめえを棄てるにゃア、親のほうにも、よほどのわけがあるに相違ねえ。親もお前を探してるだろう。武士か」
「知らねえ」
「町人か、百姓か」
「なんだか知らねえんだ」
「こころ細い話だなあ」
「作爺ちゃんも、お美夜ちゃんも、いつもそういうんだよ」
と洟をすすりあげたチョビ安、そのまま筵をはぐって河原へ出たかと思うと、大声にうたい出した。澄んだ、愛くるしい声だ。
「むこうの辻のお地蔵さん
涎くり進上、お饅頭進上
ちょいときくから教えておくれ、
あたいの父はどこ行った
あたいのお母どこにいる
ええじれったいお地蔵さん
石では口がきけないね――」
それを聞く左膳、ぐっと咽喉を詰まらせて、涎くり進上、お饅頭進上
ちょいときくから教えておくれ、
あたいの父はどこ行った
あたいのお母どこにいる
ええじれったいお地蔵さん
石では口がきけないね――」
「おウ、チョビ安」
と呼びこんだ。
「どうだ、父が見つかるまで、おれがおめえの父親になっていてやろうか」
チョビ安は円な眼を見張って、
「ほんとかい、乞食のお侍さん」
「ほんとだとも、だが、そういちいち、乞食のお侍さんと、乞食をつけるにはおよばぬ。これからは、父上と呼べ。眼をかけてつかわそう」
「ありがてえなあ。あたいも一眼見た時から、乞食の……じゃアねえ、お侍さんが好きだったんだよ。うそでも、父とよべる人ができたんだもの。こんなうれしいこたあねえや。あたい、もうどこへも行かないよ」
「うむ、どこへも行くな。その壺は、この俄ごしらえの父が、預かってやる。これからは、河原の二人暮しだ。親なし千鳥のその方と、浮世になんの望みもねえ丹下左膳と、ウハハハハハ」
子供の使いじゃあるまいし、壺をとられました……といって、手ぶらで、本郷の道場へ顔出しできるわけのものではない。
あの端気丹波が、ただですますはずはないのだ。
首が飛ぶ……と思うと、与吉は、このままわらじをはいて、遠く江戸をずらかりたかったが、そうもいかない。
いつの間にか、うす紫の江戸の宵だ。
待乳山から、河向うの隅田の木立ちへかけて、米の磨ぎ汁のような夕靄が流れている。
あのチョビ安というところ天売りの小僧は、なにものであろう……丹下の殿様は、あれからいったいどういう流転をへて、あんな橋の下に、小屋を張っているのだろうと、与吉のあたまは、数多の疑問符が乱れ飛んで、飛白のようだ。
思案投げ首。
世の中には、イケずうずうしい餓鬼もあったものだ。それにしても、悪いところへ逃げこみやがって――驚いた! 丹下左膳とは、イヤハヤおどろいた!
ニタニタッと笑った時が、いちばん危険な丹下左膳、もうすこしで斬られるところだった。あやうく助かったのはいいが、またしても心配になるのは、なんといって峰丹波様に言いわけしたらいいか……。
それを思うと、妻恋坂へ向かいだした与の公の足は、おのずと鈍ってしまう。
しかし待てよ、駒形高麗屋敷と、吾妻橋と、つい眼と鼻のあいだにいながら、櫛巻きの姐御は、丹下様が生きてることを知らねえのだ。あの左膳の居どころを、お藤姐御にそっと知らせたら、またおもしろい芝居が見られないとも限らない……。
そんなことを思って、ひとり含み笑いを洩らしながら、与吉がしょんぼりやってきたのは、考えごとをして歩く道は早い、もう本郷妻恋坂、司馬道場の裏口だ。
お待ち兼ねの柳生の婿どのに会わぬうちは、死ぬにも死にきれぬとみえて、司馬老先生は、まだ虫の息がかよっているのだろう。広いやしきがシインと静まりかえっている。この道場によって食べている付近の町家一帯も、黒い死の影におびえて、鳴り物いっさいを遠慮し、大きな声ひとつ出すものもない。
なんといって峰の殿様にきりだしたら……と与吉が、とつおいつ思案して、軽い裏木戸も鉄の扉の心地、とみにははいりかねているところへ、その木戸を内からあけて、夕やみの中へぽっかり出てきた若い植木屋――。
一眼見るより、与吉、悲鳴に似た声をあげた。
「うわあッ! あなた様は、や、柳生源……!」
「シッ! キ、貴様は、つ、つづみの与吉だな」
と、その蒼白い顔の植木屋が、つかえた。
根岸の植留の弟子と偽って、この道場の庭仕事にまぎれこんでいる柳生源三郎……ふしぎなことに、職人の口をきく時は、化けようという意識が働くせいか、ちっともつかえないのに、こうして地の武士にかえると、すぐつかえるのだ。
「ミ、三島以来、どうやら面におぼえがあるぞ。壺はいかがいたした。こけ猿は――」
と眉ひとつ動かさずに、きく。
与吉は、およぐような手つきで、あッあッと喘ぐだけだ。声が出ない。
どうしてこの伊賀の暴れん坊が、当屋敷に?……などという疑問は、あとで、すこし冷静になってから、与吉のあたまにおこったことで、この時は、つぎの瞬間に斬られる!――と思っただけだ。
植木屋すがたの源三郎は、うら木戸の植えこみを背に、声を低めた。
「壺を出せ! ダ、出さぬと、コレ、ザックリ行くぞ!」
与吉は、やっと声を見つけた。
「へえ、こけ猿の壺は、丹下左膳てえ化け物みてえなお方の手もとに……あっしもそれで、とんだ迷惑を――実あ、チョビ安というところ天屋の小僧が、あらわれ出やしてネ……」
一語ずつ唾を呑み呑み、手まね足真似で、与吉は自分で何を言っているかも知らず、しどろもどろだ。
「丹下左膳? 何やつか、その者は。どこにおる」
「ヘエ、吾妻橋の下に――」
「何を吐かす? 壺の儀は、いずれ詮議いたす。それより、貴様は、余が源三郎であることを観破したうえは、一刻も早く道場の者に知らせたくて、うずうずしておるであろうな」
源三郎は、ほほえんで、
「行け! 行って、峰丹波に告げてまいれ。余はここで待っておる。逃げも隠れもせんぞ」
ものすごい微笑だ。与吉は、いい気なもので、このときすきを発見した気になった。サッと源三郎の横をすっ飛んで、勝手口へ駈けあがった与吉……。
そこにいた婢がおどろいて、
「あれま! この人は草履のまんま――」
言われて、台所の板の間に麻裏を脱ぎ棄てた与吉は、どんどん奥へ走りこんで、かって知った峰丹波の部屋をあけるなり、
「ア、おどろいた! います! この家にいるんです! なんて胆ッ玉のふとい……」
さけびながら与吉、べたべたと敷居にすわった。
この剣術大名の家老にも等しい峰丹波である。奥ざしきの一つを与えられて、道場に起居しているのだ。
机にむかって、何か書見をしていた丹波は、あわただしい与吉の出現に、ゆっくり振りかえった。
「今までどこにおった。壺は、どうした」
どこへ行っても壺は? ときかれるので、与吉はすっかり腐ってしまう。
でも、今はそれどころではないので、壺のことは、丹下左膳という得体の知れない人斬り狂人におさえられてしまったと、その一条をざっと物語ると、ジッと眼をつぶって聴いていた丹波、
「壺の儀は、いずれ後で詮議いたす」
源三郎と同じことを言って、
「与吉、あの男に気がついたか」
と、ためいきをついた。
「気がついたかとおっしゃる。冗談じゃございません。あの男に気がつかないでどういたします。あれこそは、峰の殿様、品川に足どめを食ってるはずの源三郎で……」
「声が高いぞ」
と丹波は、押っかぶせるように、
「一同を品川に残して、そっと当方へ単身入りこんだものであろうが、はてさて、いい度胸だ」
「あなた様は、前から御存じだったので?」
「うむ、知っておった。秘伝銀杏返し――イヤナニ、其方の知ったことではないが、この丹波、ちゃんと見ぬいておったぞ」
「それで、どうしてお斬りにならなかったので?」
「斬る? 斬る? 伊賀のあばれン坊を誰が斬れる?」
丹波は、またしずかに眼を閉じて、
「源三郎に刃の立つ者は、広い天下にたった一人しかないぞ?」
いぶかしげに、与吉は首をかしげて、
「へえイ、それはどなたで?」
「もう一人の源三郎殿だ。つまり、いまひとり源三郎殿があらわれねば、彼と刃を合わすものはあるまい」
「フウム、もう一人の源三郎……」
と、何を思ったか、与吉、ハタと小膝を打って、
「峰の殿様、あっしに心当りがねえでもねえが――」
「いま、源三郎殿は、どこにおる?」
いつのまにか、丹波は、顔いろを変えて、突ったっていた。
「其方が知った以上、やむを得ん。わしが斬られよう。丹波の生命もまず、今宵限りであろう」
「待った! あっしに一思案……」
「とめてくれるな」
と丹波、大刀を左手に、廊下へ出た。
逃げも隠れもせぬ。ここに待っておるから、丹波に告げてこい……源三郎はそうは言ったが、よもやあの刀を帯びない植木屋すがたで、暢気に丹波の来るのを待ってはいまい――与吉はそう思って、丹波のあとからついていった。
司馬道場の代稽古、十方不知火の今では第一のつかい手峰丹波の肩が、いま与吉がうしろから見て行くと、ガタガタこまかくふるえているではないか。
剛愎そのものの丹波、伊賀の暴れん坊がこの屋敷に入りこんでいることを、さわらぬ神に祟りなしと、今まで知らぬ顔をしてきたものの、もうやむを得ない。今宵ここで源三郎の手にかかって命を落とすのかと、すでにその覚悟はできているはず。
死ぬのが怖くて顫えているのではない。
きょうまで自分が鍛えに鍛えてきた不知火流も、伊賀の柳生流には刃が立たないのかと、つまり、名人のみが知る業のうえの恐怖なので。
「どうせ、あとで知れる。お蓮さまや萩乃様をはじめ、道場の若い者には、何もいうなよ。ひとりでも、無益な命を落とすことはない」
と丹波が、ひとりごとのように、与吉に命じた。
ずっと奥の先生の病間のほうから、かすかに灯りが洩れているだけで、暗い屋敷のなかは、海底のように静まりかえっている。
「だが、峰の殿様、どうして植木屋になぞ化けて、はいりこんだんでげしょう。根岸の植留の親方を、抱きこんだんでしょうか」
丹波は、答えない。無言で、大刀に反りを打たせて、空気の湿った夜の庭へ、下り立った。
雲のどこかに月があるとみえて、ほのかに明るい。樹の影が、魔物のように、黒かった。
丹波のあとから、与吉がそっとさっきの裏木戸のところへ来てみると!
まさか待っていまいと思った柳生源三郎が、ムッツリ石に腰かけている。
丹波の姿を見ると、独特の含み笑いをして、
「キ、来たな。では、久しぶりに血を浴びようか」
と言った、が、立とうともしない。
四、五間の間隔をおいて、丹波は、ピタリと歩をとめた。
「源三郎どの、斬られにまいりました」
「まあそう早くからあきらめることはない」
源三郎が笑って、石にかけたまま紺の法被の腕ぐみをした瞬間、
「では、ごめん……」
キラリ、丹波の手に、三尺ほどの白い細い光が立った。抜いたのだ。
あの与吉めが、あんなに泣いたり騒いだりして、取り戻そうとしたこの壺は、いったい何がはいっているのだろう……。
左膳は、河原の畳にあぐらをかいて、小首を捻った。
竹のさきに蝋燭を立てたのが、小石のあいだにさしてあって、ボンヤリ菰張りの小屋を照らしている。
きょうから仮りの父子となった左膳と、チョビ安――左膳にとっては、まるで世話女房が来たようなもので、このチョビ安、子供のくせにはなはだ器用で、御飯もたけば茶碗も洗う。
珍妙なさし向いで、夕飯をすますと、
「安公」
と左膳は、どこやら急に父親めいた声音で、
「この壺をあけて見ろ」
川べりにしゃがんで、ジャブジャブ箸を洗っていたチョビ安、
「あい。なんでも父――じゃなかった、父上の言うとおりにするよ。あけてみようよね」
と小屋へかえって、箱の包みを取りだした。布づつみをとって、古い桐箱のふたをあけ、そっと壺を取りあげた。
高さ一尺四、五寸の、上のこんもりひらいた壺で、眼識ないものが見たのでは、ただのうすぎたない瀬戸ものだが、焼きといい、肌といい、薬のぐあいといい、さすが蔵帳の筆頭にのっている大名物だけに、神韻人に迫る気品がある。
すがりといって、赤い絹紐を網に編んで、壺にかぶせてあるのだ。
そのすがりの口を開き、壺のふたをとろうとした。壺のふたは、一年ごとに上から奉書の紙を貼り重ねて、その紙で固く貼りかたまっている。
「中には、なにが……?」
と左膳の左手が、その壺のふたにかかった瞬間、いきなり、いきおいよく入口の菰をはぐって飛びこんできたのは、さっき逃げていった鼓の与吉だ。
パッと壺の口をおさえて、左膳は、しずかに見迎えた。
「また来たナ、与の公――」
と、壺とチョビ安を背に庇って、
「汝ア、この壺にそんなに未練があるのかっ」
ところが、与吉は立ったまま口をパクパクさせて、
「壺どころじゃアござんせん。あっしア、今、本郷妻恋坂からかけつづけてきたんだ。丹下の殿様、あなた様はさっき、思うさま人の斬れるおもしれえこたアねえかとおっしゃいましたね。イヤ、その人斬り騒動が持ちあがったんだ。ちょっと来ておくんなさい。左膳さまでなくちゃア納まりがつかねえ。相手は伊賀の暴れン坊、柳生源三郎……」
「何イ? 伊賀の柳生……?」
突ったった左膳、急にあわてて、頬の刀痕をピクピクさせながら、チョビ安をかえり見、
「刀を――刀を取れ」
と、枯れ枝の刀架けを指さした。
そこに掛かっている破れ鞘……鞘は、見る影もないが、中味は相模大進坊、濡れ燕の名ある名刀だ。
濡れ紙を一まい空にほうり投げて、見事にふたつに斬る。その切った紙の先が、燕の尾のように二つにわかれるところから、濡れつばめ――。
左膳はもう、ゾクゾクする愉快さがこみあげて来るらしく、濡れ燕の下げ緒を口にくわえて、片手で衣紋をつくろった。
「相手は?」
「司馬道場の峰丹波さまで」
「場所は?」
「本郷の道場で、ヘエ」
「おもしろいな。ひさしぶりの血のにおい……」
と左膳、あたまで筵を押して、夜空の下へ出ながら、
「安! 淋しがるでないぞ」
「父上、人の喧嘩に飛びこんでいって、怪我をしちゃアつまんないよ」
と、チョビ安は、こけ猿の壺を納いこんで、
「もっとも、それ以上怪我のしようもあるめえがネ」
と言った。
チョビ安が左膳を父上と呼ぶのを聞いて、与吉は眼をパチクリさせている。左膳はもう与吉をしたがえて、河原から橋の袂へあがっていた。
こけ猿の壺は、開かれようとして、また開かれなかった。まだ誰もこの壺のふたをとって、内部[#ルビの「なか」は底本では「なな」]を見たものはないのである。
気が気でない与吉は、辻待ちの駕籠に左膳を押しこんで、自分はわきを走りながら、まっしぐらに本郷へ……。
仔細も知らずに、血闘の真っただなかへとびこんでいく左膳、やっと生き甲斐を見つけたような顔を、駕籠からのぞかせて、
「明るい晩だなあ。おお、降るような星だ――おれあいってえどっちへ加勢するんだ」
駕籠舁きども、ホウ! ホウ! と夜道を飛びながら、気味のわるい客だと思っている。
道場へ着いて裏木戸へまわってみると……驚いた。
シインとしている。源三郎は石に腰かけ、四、五間離れて、丹波が一刀を青眼に構えて、微動だにしない。あれから与吉が浅草へ往復するあいだ、ずいぶんたったのに、まださっきのまんまだ。
与吉が、そっとうしろからささやいて、
「丹下さま、こいつアいってえどうしたというんでげしょう。あっしが、あなた様をお迎いに飛び出した時と、おんなじ恰好だ。あれからずっとこのまんまとすると、二人とも、おっそろしく根気のいいもんでげすなア」
その与吉の声も、左膳の耳には入らないのか、かれは、蒼白な顔をひきつらせて、凝然と樹蔭に立っている。
ひしひしと迫る剣気を、その枯れ木のような細長い身体いっぱいに、しずかに呼吸して、左膳は、別人のようだ。
与吉とかれは、裏木戸の闇の溜まりに、身をひそめて、源三郎と丹波の姿を、じっと見つめているのである。
藍を水でうすめたような、ぼうっと明るい夜だ。物の影が黒く地に這って……耳を抉る静寂。
夏の晴夜は、更けるにしたがって露がしげって、下葉に溜まった水粒が、ポタリ! 草を打つ音が聞こえる――。
源三郎は、その腰をおろしている庭石の一部と、化したかのよう……ビクとも動かない。
白い鏡とも見える一刀を、青眼に取ったなり、峰丹波は、まるで大地から生えたように見える。斬っ尖ひとつうごかさず、立ったまま眠ってでもいるようだ。
二分、三分、五分……この状態はいつ果つべしともなく、続いていきそうである。
邸内では、だれもこの、裏庭にはらんでいる暴風雨に気づかぬらしく、夜とともに静まりかえっている。病先生のお部屋のあたりに、ぱっと灯が洩れているだけで、さっきまで明りの滲んでいた部屋部屋も、ひとつずつ暗くなってゆく。
左膳は、口の中で何やら唸りながら、源三郎と丹波を交互に見くらべて、釘づけになっているのだ。二人は、左膳と与吉の来ていることなど、もとより意識にないらしい。
と、たちまち、ふしぎなことが起こったのだ。
丹波の口から、低い長い呻き声が流れ出たかと思うと……かれ丹波、まるで朽ち木が倒れるように、うしろにのけぞって、ドサッ! 地ひびき打って仰向けに倒れた。
かた手に抜刀をさげたまま――そして、草に仰臥したなり、その大兵のからだは長々と伸びきって、すぐ眠りにはいったかのよう……丸太のごとくうごかない。
むろん斬られたのではない。気に負けたのである。
源三郎は、何ごともなかったように、その丹波のようすを見守っている。
左膳が、ノッソリと、その前に進み出た。
「オウ、若えの」
と左膳は、源三郎へ顎をしゃくって、
「この大男は、じぶんでひっくりけえったんだなア」
源三郎は、不愛想な顔で、左膳を見あげた。
「ウム、よくわかるな。余はこの石に腰かけて、あたまの中で、唄を歌っておったのだよ。全身すきだらけ……シシシ然るに丹波は、それがかえって怖ろしくて、ど、どうしても撃ちこみ得ずに、固くなって気をはっておるうちに、ははははは、じぶんで自分の気に負けて――タ丹波が斬りこんでまいったら、余は手もなく殺られておったかも知れぬに、こらッ、与吉と申したナ。その丹波の介抱をしてやれ。すぐ息を吹きかえすであろうから」
与吉はおずおずあらわれて、
「ヘ、ヘエ。いや、まったくどうも、おどろきやしたナ」
と意識を失っている丹波に近づき、
「といって、この丹波様を、あっしひとりで、引けばとて押せばとて、動こう道理はなし……弱ったな」
左膳へ眼をかえした源三郎、
「タ、誰じゃ、貴様は」
ときいた。
眼をトロンとさせて、酔ったようによろめきたっている左膳は、まるで、しなだれかかるように源三郎に近づき、
「誰でもいいじゃアねえか。おれア、伊賀の暴れン坊を斬ってみてえんだ。ヨウ、斬らせてくれ、斬らせてくれ……」
甘えるがごとき言葉に、源三郎は、気味わるげに立ちあがって、
「妙なやつだ」
つぶやきながら、倒れている丹波のそばへ行って、
「カカカ借りるぞ」
と、その握っている刀をもぎとり、さっと振りこころみながら、
「植木屋剣法――うふふふふふ」
と笑った。
変わった構えだ。片手に刀をダラリとさげ、斬っさきが地を撫でんばかり……足を八の字のひらき、体をすこしく及び腰にまげて、若い豹のように気をつめて左膳を狙うようす。
一気に!――と源三郎、機を求めて、ジリ、ジリ! 左へ左へと、まわってくる。
濡れ燕の豪刀を、かた手大上段に振りかぶった丹下左膳、刀痕の影を見せて、ニッと微笑った。
「これが柳生の若殿か。ヘッ、青臭え、青臭え……」
夜風が、竹のような左膳の痩せ脛に絡む。
「おウ、たいへんだ! 鮪があがった。手を貸してくんねえ」
飛びこんできた与吉の大声に、道場の大部屋に床を敷きならべて、がやがや騒いでいた不知火流の内弟子一同、とび起きた。
「与吉とか申す町人ではないか。なんだ、この夜ふけに」
「まぐろが、なんとしたと? 寝ぼけたナ、貴様」
口々にどなられて、与吉はけんめいに両手を振り、
「イエ、丹波様が、お裏庭で、鮪のようにぶっ倒れておしまいなすったから、皆さんのお手を拝借してえんで」
「ナニ、峰先生が――」
与吉の話に、深夜の道場が、一時に沸き立った。それでも、瀕死の老先生や、お蓮様や萩乃のいる奥には知らせまいと、一同、手早く帯しめなおして、
「日本一の乱暴者が二人、斬り合っておりますから、そのおつもりで……」
という与吉の言葉に、若い連中せせら笑いながら、手に手に大刀をひっ掴んで、うら庭へ――。
闇黒から生まれたように駈けつけて来る、おおぜいの跫音……左膳がそれに耳をやって、
「源三郎、じゃまがへえりそうだナ」
と言った瞬間、地を蹴って浮いた伊賀の暴れん坊、左膳の脇腹めがけて斬りこんだ一刀……ガッ! と音のしたのは、濡れ燕がそれを払ったので、火打ちのように、青い火花が咲き散った。
「ウム、丹下左膳に悪寒をおぼえさせるのア、おめえばかりだぞ」
言いながら左膳、おろした刀をそのまま片手突きに、風のごとく踏みこんだのを、さすがは柳生の若様、パパッと逃げて空を突かせつつ……フと気がつくと、二人の周囲をぐるりかこんで、一面の剣輪、剣林――。
筑紫の不知火が江戸に燃えたかと見える、司馬道場の同勢だ。
気を失った峰丹波の身体は、手早く家内へ運んだとみえて、そこらになかった。
この騒ぎが、奥へも知れぬはずはない。庭を明るくしようと、侍女たちが総出で雨戸を繰り開け、部屋ごとに、縁端近く燭台を立てつらねて、いつの間にか、真昼のようだ。廊下廊下を走りまわり、叫びかわすおんな達の姿が、庭からまるで芝居のように見える。
左膳は、一眼をきらめかせて、源三郎をにらみ、
「なお、おい、源公。乗合い舟が暴風をくらったようなものよなア。おれとおめえは、なんのゆかりもねえが、ここだけアいっしょになって、こいつらを叩っ斬ろうじゃアねえか」
はからずも顔をあわせ、焼刃をあわせた左膳と源三郎……今後長く、果たして敵となるか、味方となるか――。
「では、この勝負、一時お預けとするか」
「さよう、いずれ後日に……」
ほほえみかわした二人は、サッと背中を合わせて、包囲する司馬道場の若侍たちへ、怒声を投げた。
「こいつらア、金物の味を肉体に知りてえやつは前へ出ろっ!」
と左膳、ふりかぶった左腕の袖口に、おんな物のはでな長じゅばんを、チラチラさせて。
源三郎は、丹波の大刀を平青眼、あおい長い顔に、いたずらげな眼を笑わせて、
「命不知火、と申す流儀かの」
与吉は、丹波について部屋へ行ったとみえて、そこらに見えなかった。源三郎が植木屋すがたに身をやつして、入りこんでいたことは、与吉は丹波に口止めされたので、一同にいってない。植木屋にしては、武士めいた横柄な口をきくやつ……皆は、そう思いながら、
「これはおもしろいことになったぞ」
「真剣は、今夜がはじめてで――」
「拙者が、まず一刀を……」
自分らの腕が低いから、相手のえらさ、強さがわからない。
白林いっせいに騒いで、斬り込んできた。
「殺生だが……」
つぶやいた源三郎、ツと左膳の背に背押しをくれたかと思うと、上身を前へのめらして、
「ザ、ザ、雑魚一匹ッ!」
つかえながら、横なぎの一刀、ふかく踏みこんできた一人の脇腹を諸に割りつけて、
「…………!」
声のない叫びをあげたその若侍は、おさえた手が、火のように熱い自分の腹中へ、手首までめいりこむのを意識しながら、グワッと土を噛み、もう一つの手に草の根をむしって――ものすごい断末魔。
同時に左膳は。
右へ来た一人をかわす秒間に、
「あははははは、あっはっはっは――」
狂犬のような哄笑を響かせたかと思うと! 濡れつばめの羽ばたき……。
もうその男は、右の肩を骨もろとも、乳の下まで斬り下げられて、歩を縒ってよろめきつつ、何か綱にでも縋ろうとするように、両手の指をワナワナとひらいて、夜の空気をつかんでいる。
左膳のわらいは、血をなめた者の真っ赤な哄笑であった。
不知火の一同、思わずギョッとして、とり巻く輪が、ひろがった。
庭には斬合いが……と聞いても、萩乃は、なんの恐怖も、興味も、動かさなかった。
剣客のむすめだけに、剣のひびきに胆をひやさぬのは、当然にしても、じつは萩乃、この数日なにを見ても、何を聞いても、こころここにないありさまなのだった。
屋敷中に、パッと明るく灯が輝いて、婢たちの駈けまわるあわただしい音、よびあう声々――遠く裏庭のほうにあたっては、多人数のあし音、掛け声が乱れ飛んで、たいがいの者なら、ゾクッと頸すじの寒くなる生血の気はいが、感じられる。
にもかかわらず、派手な寝まきすがたの萩乃は、この大騒動をわれ関せず焉と、ぼんやり床のうえにすわって、もの思いにふけっているのだ。
ぼんぼりの光が、水いろ紗の蚊帳を淡く照らして、焚きしめた香のかおりもほのかに、夢のような彼女の寝間だ。
ほっと、かすかな溜息が、萩乃の口を逃げる。
恋という字を、彼女は、膝に書いてみた。そして、ぽっとひとりで桜いろに染まった。
あの植木屋の面影が、この日ごろ、鳩のような萩乃の胸を、ひとときも去らないのである。
無遠慮に縁側に腰かけて、微笑したあの顔。丹波の小柄をかわして、ニッとわらった不敵な眼もと……なんという涼しい殿御ぶりであろう!
植木屋であの腕並みとは?……丹波はおどろいて、平伏して身もとを問うたが。
「ああ、よそう。考えるのは、よしましょう」
と萩乃は口に出して、ひとりごとをいった。
「自分としたことが、どうしたというのであろう――お婿さまときまった柳生源三郎様が、もうきょうあすにもお見えになろうというのに、あんな者に、こんなに心を奪われるなどとは」
ほんとに、あの男は、卑しい男なのだ、と萩乃は、今まで日になんべんとなく、じぶんにいい聞かしていることを、また胸にくりかえして。
「植木屋の下職などを、いくら想ったところで、どうなるものでもない。じぶんには、父のきめた歴とした良人が、いまにも伊賀から乗りこんでこようとしている……」
でも、伊賀の暴れん坊などと名のある、きっと毛むくじゃらの熊のような源三郎様と、あのすっきりした植木屋と――ほんとうに世の中はままならぬ。でも、恋に上下の隔てなしという言葉もあるものを……。
「萩乃さん、まだ起きていたのかえ」
萩乃は、はっとした。継母のお蓮さまが、艶な姿ではいってきた。
気をうしなった峰丹波は。
自室へかつぎこまれるとまもなく、意識をとり戻したが、おのが不覚をふかく恥じるとともに、なにか考えるところがあるかして、駈けつけたお蓮様をはじめ介抱の弟子たちへ、
「いや、なに、面目次第もござらぬ。ちと夜風に当たりかたがたお庭の見まわりをいたそうと存じて、うら木戸へさしかかったところ、何やら魔のごときものが現われしゆえ、刀をふるって払わんとしたるも、その時すでに、霧のごとき毒気を吹きかけられてあの始末……イヤ、丹波、諸君に会わす顔もござらぬ」
と夢のような話をして、ごまかしてしまったが――心中では、かの柳生源三郎がどうして植木屋になぞ化けて当屋敷へ? と、恐ろしい疑問はいっそう拡大してゆくばかり……。
しかも、素手で、一合も交じえずして自分を倒したあの剣気、迫力!――そう思うと丹波は、乗りかけた船とはいえ、この容易ならぬ敵を向うにまわして、道場横領の策謀に踏み出したものだと、いまさらのごとく、内心の恐怖は木の葉のように、かれの巨体をふるわせてやまなかったのである。
今……。
お蓮さまはこの丹波の話を、萩乃の部屋へ持って来て、
「ほんとに、白い着ものをきた一本腕の、煙のような侍が、どこからともなく暴れこんできたんですって。丹波のはなしでは、それを相手どって、一手に防ぎとめているのが、まあ、萩乃さん、誰だと思います、あの、若い植木屋なんですって」
「あら、あの、いつかの植木屋――?」
と眼を上げた萩乃の顔は、たちまち、朱で刷いたように赤い。
「ですけれど、植木屋などが出ていって、もしものことがあっては……」
と、萩乃はすぐ、男の身が案じられて、血相かえ、おろおろとあたりへ眼を散らして、起ちかけるのを、お蓮さまは何も気づかずに、
「いえ、みんな出ていって植木屋に加勢しているらしいの。でも、なんだか知らないけど、あの植木屋にまかせておけば、大丈夫ですとさ。丹波がそういっていますよ。丹波がアッとたおれたら、植木屋がとんできて、御免といって丹波の手から、刀を取って、その狼藉者に立ちむかったんですって」
とお蓮様も、かの植木屋が源三郎とは、ゆめにも知らない。
「たいへんな腕前らしいのよ、あの美男の植木屋……」
そう言いさしたお蓮さまの瞳には、つと、好色っぽいあこがれの火が点ぜられて――。
二人のおんなは、言いあわしたように口をつぐみ、耳をそばだてた。
裏庭のほうからは、まだ血戦のおめきが、火気のように強く伝わってくる。
と思うと、時ならぬ静寂が耳を占めるのは、敵味方飛びちがえてジッと機をうかがっているのであろう……。
と、このとき、けたたましいあし音が長廊下を摺ってきて、病間にのこして来た侍女の声、
「奥様、お嬢さま! こちらでいらっしゃいますか。あの、御臨終でございます。先生がもう――」
今まで呼吸のつづいたのが、ふしぎであった。
医師はとうに匙を投げていたが、源三郎に会わぬうちは……という老先生の気組み一つが、ここまでもちこたえてきたのだろう。
丹波とお蓮様を首謀者に、道場乗っ取りの策動が行なわれているなどとは、つゆ知らぬ司馬先生――めざす源三郎が、とっくのむかしに品川まで来て、供のもの一同はそこで足留めを食い、源三郎だけが姿を変えて、このやしきに乗りこんでいようとは、もとよりごぞんじない。
ただ、乱暴者が舞いこんだといって、今、うら手にあたって多勢の立ち騒ぐ物音が、かすかに伝わってきているが、先生はそれを耳にしながら、とうとう最期の息をひきとろうとしています。
燭台を立てつらねて、昼よりもあかるい病間……司馬先生は、眼はすっかり落ちくぼみ、糸のように痩せほそって、この暑いのに、麻の夏夜具をすっぽり着て、しゃれこうべのような首をのぞかせている。もう、暑い寒いの感覚はないらしい。
はっはっと喘ぎながら、
「おう、不知火が見える。筑紫の不知火が――」
と口走った。たましいは、すでに故郷へ帰っているとみえる。
並みいる医師や、二、三の高弟は、じっとあたまをたれたまま、一言も発する者はない。
侍女に導かれて、お蓮様と萩乃が泣きながらはいってきた。
覚悟していたこととはいえ、いよいよこれがお別れかと、萩乃は、まくらべ近くいざりよって、泣き伏し、
「お父さま……」
と、あとは涙。お蓮の眼にも、なみだ――いくらお蓮さまでも、こいつは何も、べつに唾をつけたわけじゃアない。
女性というものは、ふしぎなもので、早く死んでくれればいいと願っていたお爺さんでも、とうとう今あの世へ出発するのかと思うと、不意と心底から、泪の一つぐらいこぼれるようにできているんです。
よろめきながら、峰丹波がはいってきた。
やっと意識をとり戻してまもないので、髪はほつれ、色蒼ざめて、そうろうとしている。
「先生ッ!」
とピタリ手をついて、
「お心おきなく……あとは、拙者が引き受けました」
こんな大鼠に引き受けられては、たまったものじゃない。
すると、先生、ぱっと眼をあけて、
「おお、源三郎どのか。待っておったぞ」
と言った。丹波がぎょっとして、うしろを振り向くと、だれもいない。死に瀕した先生の幻影らしい。
「源三郎殿、萩乃と道場を頼む」
丹波、仕方がないから、
「はっ。必ずともにわたくしが……」
「萩乃、お蓮、手を――手をとってくれ」
これが最後の言葉でした。先生の臨終と聞いて、斬合いを引きあげてきた多くの弟子たちが、どやどやッと室内へ雪崩こんできた。
一人が室内から飛んできて、斬りあっている連中に、何かささやいてまわったかと思うと……。
一同、剣を引いて、あわただしく奥の病間のほうへ駈けこんでいった後。
急に相手方がいなくなったので、左膳と源三郎は、狐につままれたような顔を見あわせ、
「なんだ、どうしたのだ――」
「知らぬ。家の中に、なにごとか起こったとみえる」
「烏の子が巣へ逃げこむように飛んで行きおった、ははははは」
「はっはっはっ、なにが何やら、わけがわからぬ」
ふたりは、腹をゆすって笑いあったが、左膳はふと真顔にかえって、
「わけがわからぬといえば、おれたちのやり口も、じぶんながら、サッパリわけがわからぬ。おれとおめえは、今夜はじめて会って、いきなり斬り結び、またすぐ味方となり、力をあわせて、この道場の者と渡り合った……とまれ、世の中のことは、すべてかような出たらめでよいのかも知れぬな、アハハハハ」
「邪魔者が去った、いま一手まいろうか」
闇の中で、あお白く笑った源三郎へ、丹下左膳は懶げに手を振り、
「うむ、イヤ、また後日の勝負といたそう。おらアお前をブッタ斬るには、もう一歩工夫が肝腎だ」
「いや、拙者も、尊公のごとき玄妙不可思議な手筋の仁に、出会ったことはござらぬ。テ、テ、天下は広しとつくづく思い申した」
濡れ燕を鞘におさめた左膳と、峰丹波の刀を草に捨てて、もとの丸腰の植木屋に戻った柳生源三郎と――名人、名人を知る。すっかり仲よしになって本郷の道場をあとに、ブラリ、ブラリ歩きだしながら、左膳、
「だが、おらアそのうちに、必ずお前の首を斬り落とすからナ。これだけは言っておく」
「うははははは、尊公に斬り落とさるる首は、生憎ながら伊賀の暴れン坊、持ち申さぬ。そ、それより、近いうちに拙者が、ソレ、その、たった一つ残っておる左の腕をも、申し受ける機がまいろう」
左膳はニヤニヤ笑って歩いて行くが、これでは、仲よしもあんまり当てにならない。
ツと立ちどまって、空を仰いだ源三郎、
「あ、星が流れる……ウ、ム……さては、ことによると、司馬道場の老先生が、お亡くなりに――し、しまったっ!」
「あばよ」
左膳は横町へ、
「星の流れる夜に、また会おうぜ」
ひとこと残して、ズイと行ってしまった。
もの思いに沈んで、うなだれた源三郎は、それから品川へ帰って行く――。
根岸の植留が、司馬道場へ入れる人工をあつめていると聞きだして、身をやつして桂庵の手をとおしてもぐりこんだ源三郎、久しぶりに八ツ山下の本陣、鶴岡市郎右衛門方へ帰ってきますと、安積玄心斎はじめ供の者一同、いまだにこけ猿の茶壺の行方は知れず、かつは敵の本城へ単身乗りこんで行った若き主君の身を案じて、思案投げ首でいました。
吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖で……そんな暢気なんじゃない。
その吉田は。
松平伊豆守七万石の御城下、豊川稲荷があって、盗難よけのお守りが出る。たいへんなにぎわい――。
ギシと駕籠の底が地に鳴って、問屋場の前です。駕籠かきは、あれは自分から人間の外をもって任じていたもので、馬をきどっていた。
馬になぞらえて、お尻のところへふんどしの結びを長くたらし、こいつが尾のつもり、尿なんか走りながらしたものだそうで、お大名の先棒をかついでいて失礼があっても、すでに本人が馬の気でいるんだから、なんのおとがめもなかったという。
冬の最中、裸体で駕籠をかついで、からだに雪が積もらないくらい精の強いのを自慢にした駕籠かき、いまは真夏だから、くりからもんもんからポッポと湯気をあげて……トンと問屋場のまえに駕籠をおろした二組の相棒、もう、駕籠へくるっと背中を見せて、しゃがんでいる。
駕籠は二梃――早籠です。
先なる駕籠の垂れをはぐって、白髪あたまをのぞかせたのは、柳生対馬守の江戸家老、田丸主水正で、あとの駕寵は若党儀作だ。
金魚くじが当たって、来年の日光御用が柳生藩に落ちたことを、飛脚をもって知らせようとしたが、それよりはと、主水正、気に入りの若党ひとりを召しつれて、東海道に早籠を飛ばし、自分で柳生の里へ注進に馳せ戻るところなので……。
駕籠から首をつき出した田丸主水正、「おいっ! 早籠じゃ。御油までなんぼでまいるっ」
駅継ぎなのです。
筆を耳へはさんだ問屋場の帳づけが、
「へえ、二里半四町、六十五文!」
「五十文に負けろっ!」
円タクを値切るようなことをいう。
「定めですから、おウ、尾州に因州、土州に信州、早籠二梃だ。いってやんねえ」
ノッソリ現われたのは、坊主あたまにチャンチャンコを着たのや、股に大きな膏薬を貼ったのやら……。
エイ! ホウ! トットと最初から足をそろえて、息杖振って駈け出しました。
吉田を出ると、ムッと草の香のする夏野原……中の二人は、心得のある据わり方をして、駕籠の天井からたらした息綱につかまってギイギイ躍るのも、もう夢心地――江戸から通しで、疲れきっているので。
坂へかかって駕籠足がにぶると、主水正は夢中で、胸に掛けたふくろから一つかみの小銭をつかみ出し、それをガチャガチャ振り立てて、
「酒手ッ……酒手ッ――!」
余分に酒手をやるという。じぶんでは叫んでるつもりだが、虫のうめきにしか聞こえない。
長丁場で、駕籠かきがすこしくたびれてくると、主水正、「ホイ、投げ銭だ……」
と駕籠の中から、パラパラッと銭を投げる。すると、路傍にボンヤリ腰かけていた駕籠かきや、通行の旅人の中の屈強で好奇なのが、うしろから駕籠かきを押したり、時には、駕籠舁きが息を入れるあいだ、代わってかついで走ったり……こんなことはなかったなどと言いっこなし、とにかく田丸主水正はこうやって、このときの早駕籠を乗り切ったのです。
田丸という人には、ちょっと文藻があった。かれがこの道中の辛苦を書きとめた写本、旅之衣波には、ちゃんとこう書いてあります。
御油――名物は甘酒に、玉鮨ですな。
つぎは赤坂。名物、青小縄、網、銭差し、田舎っくさいものばかり。
芭蕉の句に、夏の月御油より出でて赤坂や……だが、そんな風流気は、いまの主水正主従にはございません。
駕籠は、飛ぶ、飛ぶ……。
岡崎――本多中務大輔殿御城下。八丁味噌の[#「八丁味噌の」は底本では「八丁味噌の」]本場で、なかなか大きな街。
それから、なるみ絞りの鳴海。一里十二丁、三十一文の駄賃でまっしぐらに宮へ――大洲観音の真福寺を、はるかに駕籠の中から拝みつつ。
宮から舟で津へ上がる。藤堂和泉守どの、三十二万九百五十石とは、ばかにきざんだもんだ。電話番号にしたって、あんまり感心しない……田丸主水正は、そんなことを思いながら、道はここから東海道本筋から離れて、文居、藤堂佐渡守様、三万二千石、江戸より百六里。
つぎが、長野、山田、藤堂氏の領上野、島ヶ原、大川原と、夜は夜で肩をかえ、江戸発足以来一泊もしないで、やがて、柳生の里は、柳生対馬守御陣屋、江戸から百十三里です。
こんもりと樹のふかい、古い町だ。そこへ、江戸家老の早駕籠が駈けこんできたのだから、もし人あって山の上から見下ろしていたなら、両側の家々から、パラパラッと蟻のような人影が走り出て、たちまち、二ちょうの駕籠は、まるで黒い帯を引いたよう……ワイワイいってついてくる。
何ごと? と町ぜんたい、一時に緊張した中を、一直線に対馬守の陣屋へ突っこんだ駕籠の中から、田丸主水正、ドサリ敷き台にころげ落ちて、
「金魚が――金魚が……」
立ち迎えた柳生家の一同、あっけにとられて、
「田丸様ッ、しっかり召されっ! しきりに金魚とおおせらるるは、水か。水が御所望かっ?」
山里の空気は、真夏でも、どこかひやりとしたものを包んで、お陣屋の奥ふかく、お庭さきの蝉しぐれが、ミーンと耳にしみわたっていた。
柳生対馬守は、源三郎の兄ですが、色のあさ黒い、筋骨たくましい三十そこそこの人物で、だれの眼にも兄弟とは見えない。
二万三千石の小禄ながら、剣をとっては柳生の嫡流、代々この柳生の庄の盆地に蟠踞して、家臣は片っぱしから音に聞こえた剣客ぞろい……貧乏だが腕ッぷしでは、断然天下をおさえていました。
半死半生のてい、おおぜいの若侍にかつがれて、即刻、鉢巻のまま主君のお居間へ許された田丸主水正、まだ早駕籠に揺られている気とみえて、しきりに、眼のまえにたれる布につかまる手つきをしながら、
「オイッ! 鞠子までいくらでまいるっ? なに、府中より鞠子へ一里半四十七文とな?」
「シッ! 田丸殿、御前でござる。御前でござる――」
「いや苦しゅうない」
対馬守は、微笑して、
「其方らも早駕籠に乗ってみい。主水正は、まだ血反吐を吐かぬだけよいぞ……主水ッ! しっかりせい。予じゃ、対馬じゃ」
「おや、これはいかな! 柳生の里を遠く乗り越して、対馬とはまたいかい日本のはずれへ来おったものじゃが――おウッ! 殿ッ!」
と初めて気のついた主水正、膝できざみ寄って、
「タ、たいへんでござります。金魚が死に申した」
江戸家老が、こうして夜を日に継いで注進してきたのだから、もとより大事件出来とはわかっているが、対馬守は、さきごろ司馬道場の婿として上京して行った弟、伊賀の暴れン坊が、何かとんでもない問題を起こしたのだとばっかり思っているから、
「ナニ、源三郎が金魚を……何か、司馬先生お手飼いの珍奇な金魚に、源三郎めが失礼でも働いたというのかっ?」
「違いまする、違いまする!」
田丸は、両手を振り立てて、
「源三郎様とは無関係で――おあわて召さるな。金魚籤の金魚が浮かんで、明年の日光御造営奉行は、御当家と決まりましたぞっ」
これを聞くと、樽のような胆ッ玉の対馬守、さっと蒼味走った額になって、
「事実か、それは! 金魚が――金魚が……ウウム、予も早駕籠を走らせてどこぞへ行きたい」
貧乏な柳生藩に、この重荷ですから、破産したって、借金したって追っつかない。天から降った災難も同然で、殿をはじめ、一座暗澹たる雲に閉ざされたのも、無理はありません。
と言って、のがれる術はない。死んだ金魚をうらんでもはじまらないし……と、しばし真っ蒼で瞑目していた柳生対馬守、
「山へまいる。したくをせい」
ズイと起ちあがった。
山へ……という俄の仰せ。
だが、思案に余った対馬守、急に思い立って、これから憂さばらしに、日本アルプスへ登山しようというじゃアありません。
お城のうしろ、庭つづきに、帝釈山という山がある。山といっても、丘のすこし高いくらいのもので、数百年をへた杉が、日光をさえぎって生い繁っている。背中のスウッとする冷たさが、むらさきの山気とともに流れて、羊腸たる小みちを登るにつれて、城下町の屋根が眼の下に指呼される。
どこかに泉があるのか、朽葉がしっとり水を含んでいて、蛇の肌のような、重い、滑かな苔です。
「殿! お危のうございます」
お気に入りの近習、高大之進があとから声をかけるのも、対馬守は耳にはいらないようす。庭下駄で岩角を踏み試みては、上へ上へと登って行く。
いま言った高大之進をはじめ、駒井甚三郎、喜田川頼母、寺門一馬、大垣七郎右衛門など、側近の面々、おくれじとつづきながら、これはえらいことになった、この小藩に日光お出費とは、いったいどう切り抜けるつもりだろう……ことによると、お受けできぬ申し訳に殿は御切腹、主家はちりぢりバラバラになり、自分たちは失業するんじゃあるまいか――なんかと、このごろの人間じゃないから、すぐそんなけちなことは考えない。金のできない場合には、一藩ことごとく全国へ散って切り取り強盗でもしようか――まさかそんなこともできないが、と一同黒い無言。
出るのは溜息だけで、やがて対馬守を先頭に登ってきたのは、帝釈山の頂近く、天を摩す老杉の下に世捨て人の住まいとも見える風流な茶室です。
このごろの茶室は、ブルジョア趣味の贅沢なものになっているが、当時はほんとの侘びの境地で、草葺きの軒は傾き、文字どおりの竹の柱が、黒く煤けている。
「どうじゃ、爺。その後は変わりないかな。こまったことが起きたぞ」
対馬守は、そういって、よりつきから架燈口をあけた。家臣たちは、眼白押しにならんで円座にかける。
三畳台目のせまい部屋に、柿のへたのようなしなびた老人がひとり、きちんと炉ばたにすわって、釜の音を聞いている。
老人も老人、百十三まで年齢を数えて覚えているが、その後はもうわからない、たしか百二十一か二になっている一風宗匠という人で、柳生家の二、三代前のことまですっかり知っているという生きた藩史。
だが、年が年、などという言葉を、とうに通り過ぎた年なので、耳は遠いし、口がきけない。
でも、この愛庵の帝釈山の茶室を、殿からいただいて、好んで一人暮しをしているくらいだから、足腰は立つのです。
一風宗匠は、きょとんとした顔で対馬守を迎えましたが、黙って矢立と紙をさし出した。これへ書け……という意味。
誰の金魚を殺すかと、お風呂場での下相談の際。
柳生は、剣術はうまかろうが、金などあるまい……とおっしゃった八代吉宗公のおことばに対して。
千代田の垢すり旗下、愚楽老人の言上したところでは――ナアニ、先祖がしこたまためこんで、どこかに隠してあるんです、という。
果たしてそれが事実なら……。
当主対馬守がその金の所在を知らぬというはずはなさそうなものだが。
貧乏で、たださえやりくり算段に日を送っている小藩へ、百万石の雄藩でさえ恐慌をきたす日光おつくろいの番が落ちたのだから、藩中上下こぞって周章狼狽。
刃光刀影にビクともしない柳生の殿様、まっ蒼になって、いまこの裏庭つづきの帝釈山へあがってきたわけ。
その帝釈山の拝領の茶室、無二庵に隠遁する一風宗匠は、齢い百二十いくつ、じっさい奇蹟の長命で、柳生藩のことなら先々代のころから、なんでもかんでも心得ているという口をきく百科全書です。
いや、口はきけないんだ。耳も遠い。ただ、お魚のようなどんよりした眼だけは、それでもまだ相当に見えるので、この一風宗匠との話は、すべて筆談でございます。
木の根が化石したように、すっかり縮まってしまってる一風宗匠、人間もこう甲羅をへると、まことに脱俗に仙味をおびてまいります。岩石か何か超時間的な存在を見るような、一種グロテスクな、それでいて涼しい風骨が漂っている。
この暑いのに茶の十徳を着て、そいつがブカブカで貸間だらけ、一風宗匠は十徳のうちでこちこちにかたまっていらっしゃる。皮膚など茶渋を刷いたようで、ところどころに苔のような斑点が見えるのは、時代がついているのでしょう。
髪は、白髪をとおりこして薄い金いろです。そいつを合総にとりあげて、口をもぐもぐさせながら、矢立と筆をつき出したのを、対馬守はうなずきつつ受け取って、
「明年の日光御用、当藩に申し聞けられ候も、御承知の小禄、困却このことに候、腹掻っさばき、御先祖のまつりを絶てばとて、家稷に対し公儀に対し申し訳相立たず、いかにも無念――」
対馬守がそこまで書くのを、子供のようににじりよって、わきからのぞきこんでいた一風宗匠、やにわに筆をもぎとって、
「短気はそんき、とくがわの難題、なにおそれんや」
達筆です。一気に書き流した一風宗匠、筆をカラリと捨てて、ニコニコしている。対馬守はせきこんで、その筆を拾い上げ、
「宗匠、遺憾ながら事態を解せず。剣力、膂力をもって処せんには、あに怖れんや。ただ金力なきをいかんせん」
一風宗匠は依然として、植物性の静かな微笑をふくみ、
「風には木立ち、雨には傘、物それぞれに防ぎの手あるものぞかし、金の入用には金さえあらば、吹く雨風も柳に風、蛙のつらに雨じゃぞよ」
さあ、対馬守わからない。「宗匠、何を言わるる。そ、その金がないから、予をはじめ家臣一同、この心配ではござらぬか」
思わず対馬守は、口に出してどなったが、いかな大声でも、一風宗匠には通じないので。
唖然たる対馬守の顔へ、宗匠は相変わらず、百年を閲した静かな笑みを送りながら、また筆をとって、
「金は何ほどにてもある故に、さわぐまいぞえ。剣は腹なり。人の世に生くるすべての道なり。いたずらに立ち騒ぐは武将の名折れと知るべし」
と書いた。百二十いくつの一風宗匠から見れば、やっと三十に近い柳生対馬守など、赤ん坊どころか、アミーバくらいにしかうつらないらしい。だから、いくら殿様でも対馬守、この一風宗匠に叱られるのは、毎度のことで、ちっともおどろかないが、金は何ほどでもある故に、騒ぐまいぞえ……という意外な文句に、ピタリ、驚異の眼を吸いつけられて、
「金はいくらでもあるという――」
呻いたひとりごとが、すぐそばの寄りつきに待つ側近の人々の耳にはいったから、一同、わっと腰を浮かして、気の早い喜田川頼母などは、
「金はいくらでもござりますと? どこに、どこに……」
茶室へ駈けあがって来ようとするのを、寺門七郎右衛門がとめて、
「まア、待たれい! この話には落ちがあるようだ。文献によれば、三百万両積んだ和蘭船が、唐の海に沈んでおるそうじゃから、それを引きあげればなんでもないとか、なんとか――」
「さよう、一風宗匠のいうことなら、おおかたそこらが落ちでござろう」
と、もう一人が口をとがらし、
「城下のおんなどものかんざしを取りあげて、小判に打ち直せばいいなどとナ、うははははは、殿! かような危急な場合、たあいもない老人を相手に、いたずらに時を過ごさるるとは、その意を得ませぬ。早々御下山あってしかるべく存じまする」
「そうだ、そうだ、一風宗匠はおひとりで、夢の国にあそばせておくに限るて」
まるで博物館あつかい――耳が聞こえないから、宗匠、何を言われても平気です。
対馬守も、暗然として宗匠を見下ろしていたが、ややあって長嘆息。
「ああ、やはり年齢じゃ。シッカリしておられるようでも、もう耄碌しておらるる。詮ないことじゃ。ごめん」
一礼して土間へおりようとすると対馬守の裾を、ガッシとおさえたのは一風宗匠だ。
動かぬ舌をもどかしげに、恨むがごとく殿様を見上げておりましたが、すぐまた、筆に墨をなすって、
「かかる時の用にもと、当家御初代さまの隠しおきたる金子、幾百万両とも知れず。埋めある場処は――」
眼をきらめかせた対馬守、じっと宗匠の筆のさきを見つめていると、
「――こけ猿の壺にきけ」
と一風の筆が書きました。こけ猿の茶壺にきけ――対馬守が、口のなかでつぶやいて、小首を傾けるのを、じっと見つめていた一風宗匠は、やがて筆をとって懐紙に、左の意味のことをサラサラと書き流したのです。
それによると……。
剣道によって家をなした柳生家第一代の先祖が、死の近いことを知ると同時に、戦国の余燼いまだ納まらない当時のこととて、不時の軍用金にもと貯えておいた黄金をはじめ、たびたびの拝領物、めぼしい家財道具などをすべて金に換えて、それをそっくり山間の某地に埋めたというのである。
「山間の某地にナ」
と対馬守は、眼をきらめかして、
「夢のごとき昔語りじゃ」
と、きっと部屋の一隅をにらんだ。
すると、殿の半信半疑の顔を見た一風宗匠は、また筆をうごかして、
「在りと観ずれば在り。無しと信ずれば無し。疑うはすなわち失うことなり」
腕こまぬいた対馬守のようすに、家来たちも、もうふざけるものはない。みんな円座から乗りだして、肩を四角くしている。
対馬守は、筆談をつづけて、
「その儀事実とあらば、藩主たる予の今まで知らざりしこと、まことに合点ゆかず」
一風宗匠の応答……。
「用なきときに子孫に知らすれば、無駄使いするは必定。さすれば、かかる場合もやと、まさかの役に立てんと隠しおきたる御先君の思召し相立たずそうろうことと相なり――」
苦笑した対馬守は、
「されど、天、宗匠に嘉するに稀有の寿命をもってしたれば、過なかりしも、もし宗匠にして短命なりせば、いつの日誰によってかこれを知らん。家中のもの何人も知らずば、大金いたずらに土中に埋ずもれんのみ。心得難きことなり」
「その不都合は万々これなし。迂生臨終のさいは、殿に言上いたすべき心組みに候いき」
濶然と哄笑した一風は、なおも筆を走らせ、「その不都合は万々これなし。迂生臨終のさいは、殿に言上いたすべき心組みに候いき」
「大金の所在は、壺中にあり」
急きこんだ柳生対馬守、
「壺中にありとは、これいかに」
「埋没の個処を詳細紙面にしるし、これをこけ猿の壺中に封じあるものなり」
そのこけ猿の茶壺は、弟源三郎に持たせて、江戸へやってしまった!「埋没の個処を詳細紙面にしるし、これをこけ猿の壺中に封じあるものなり」
対馬守は、大いにあわてて、紙を掴みとるなり、大書しました。
「うずめある場所は、宗匠御存じなきや」
「何人もこれを知らず。その地図は、こけ猿の茶壺に封じ込めあるをもって、茶壺をひらけ」[#この行は底本では天付き]
長い筆談に疲れたものか、宗匠はカラリと筆を投じて、不機嫌に横を向いてしまった。「何人もこれを知らず。その地図は、こけ猿の茶壺に封じ込めあるをもって、茶壺をひらけ」[#この行は底本では天付き]
大金をうずめてある個処を示した秘密の地図が、こけ猿の茶壺に封じてある――なんてことは、だれも知らないから、彼壺はもうとうのむかしに、司馬道場に婿入りする源三郎の引出ものとして、江戸へ持たしてやってしまった!
あとの祭り……。
その黄金さえ掘り出せば、日光御修繕なんか毎年引き受けたってお茶の子サイサイ、柳生の里は貧乏どころか西国一はもちろん、ことによると海内無双の富裕な家になるやも知れない――。
「しまったっ」
と呻ったのは、対馬守です。主君から一伍一什を聞いた高大之進、大垣七郎右衛門、寺門一馬、駒井甚三郎、喜田川頼母の面々、口々に、
「惜しみてもあまりあること――」
「まだなんとか取りかえす途は……」
「イヤ、かのこけ猿の茶壺は、茶道から申して名物は名物に相違ござるまいが、門外不出と銘うって永代当家に伝わるべきものとしてあったのは、さような仔細ばなしござってか。道理で――」
「それを知らずに、源三郎様につけて差しあげたのは、近ごろ不覚千万!」
「迂濶のいたりと申して、殿すら御存じなかったのじゃから、だれの責任というのでもござらぬ。あの老いぼれの一風が、もうすこし早くお耳に入れればよいものを……」
「だが、かような問題が起こらねば、一風は死ぬ時まで、黙っておる所存であったというから――」
「おいっ! おのおの方、司馬道場への婿引出は、何もあの壺とは限らぬのだ。なんでもよいわけのもの。ただ、絶大の好意を示す方便として、御当家においてもっとも重んずる宝物、かのこけ猿を進呈したというまでのことじゃ。今のうちなら、取り戻すことも容易でござろう」
「そうだっ! 是が非でも壺をとり返せっ!」
対馬守は、もとよりこの意見です。なんとかして壺を手に入れねばならぬ!
さっそく下山して、一間に休息させてあった田丸主水正を呼び出し、きいてみると、
「ハッ。金魚の……イエ、日光御用の儀にとりまぎれて、言上がおくれましたが、道中宰領安積玄心斎が江戸屋敷に出頭しての話によりますと、まだ源三郎様の御一行は、江戸の入口品川にとどまっていらっしゃる模様で、それにつきましては、司馬道場のほうと、何か話にくいちがいがありますようで――」
思わず怒声をつのらせた対馬守、
「ナニ? 源三郎は、まだ品川にうろうろいたしておると? しからば、こけ猿の茶壺は、いまだ本郷の手へは渡っておらぬのだな?」
「それがソノ」
と主水正自分の落ち度のように平伏して、
「同じく玄心斎の報告では、こけ猿のお壺は、つづみの与吉とやら申す者のために持ち出されて、連日連夜捜索中なれど、今もって行方知れずと……」
「何イ? 壺を、ぬ、盗まれたっ――!」
そのこけ猿の茶壺を、つづみの与吉の手から引っさらったのが、あの得体の知れないところてん売りの小僧、名も親もはっきりしないチョビ安で――
そのまたチョビ安が与の公に追いつめられて、苦しまぎれに飛びこんだ橋下の掘立て小屋が、偶然にも、かの隻眼隻腕の剣鬼、丹下左膳の世をしのぶ住まい。
何ごとかこの壺に、曰くありと見た刃怪左膳、チョビ安の身柄といっしょに今、こけ猿の茶壺を手もとに預かっているので。
人もあろうに、左膳の手に壺が落ちようとは……。
これは、だれにとっても、まことに相手が悪い。
だが。
そんなことは知らない柳生の藩中、対馬守をはじめ、家臣一同、こけ猿が行方不明だと聞いて、サッと顔いろを変えた。
さっそく城中の大広間にあつまって、会議です。
「あの壺さえありますれば、なにも驚くことはござらぬ。危急存亡の場合、なんとかして壺を見つけ出さねば……」
「しかし、拙者はふしぎでならぬ。壺は昔から一度もひらいたことがないのか」
「いや、今まで毎年、宇治の茶匠へあの壺をつかわして、あれにいっぱい新茶を詰めて、取り寄せておるのです。いつも新茶を取りに宇治へやった壺……厳重に封をして当方へ持ち帰り、御前において封切りの茶事を催して開くのです。そんな、一風の申すような地図など入っておるとすれば、とうに気づいておらねばならぬ」
「じゃが、それほど大切な図面を隠すのじゃから、なにか茶壺に、特別のしかけがしてあろうも知れぬ。とにかく、壺を手に入れることが、何よりの急務じゃ!」
「評定無用! 一刻も早く同勢をすぐり、捜索隊を組織し、江戸おもてへ発足せしめられたい!」
剣をもって日本国中に鳴る家中です。ワッ! という声とともに、広場いっぱいに手があがって、ガヤガヤいう騒ぎ……。
拙者も、吾輩も、それがしも、みんながわれおくれじと江戸へ押し出す気組み。それじゃア柳生の里がからっぽになってしまう。
黙って一同のいうところを聞いていた対馬守、お小姓をしたがえて奥へおはいりになった。するとしばらくして、祐筆に命じて書かせた大きな提示が、広間に張り出されました。
一、天地神明に誓いて、こけ猿の茶壺を発見すべきこと。
一、柳生一刀流の赴くところ、江戸中の瓦をはがし、屍山血河を築くとも、必ずともに壺を入手すべし。
右御意之趣……。
源三郎につぐ柳門非凡の剣手、高大之進を隊長に、大垣七郎右衛門、寺門一馬、喜田川頼母、駒井甚三郎、井上近江、清水粂之介ほか一団二十三名、一藩の大事を肩にさながら出陣のごとく、即夜、折りからの月明を踏んで江戸へ、江戸へ……。品川や袖にうち越す花の浪……とは、菊舎尼の句。
その、しながわは。
東海寺、千体荒神、足留稲荷とそれぞれいわれに富む名所が多い。
中でも、足どめの稲荷は。
このお稲荷さんを修心すれば、長く客足を引きとめておくことができるというので、旅籠や青楼、その他客商売の参詣で賑わって、たいへんに繁昌したもの。
ふとしたことから馴染んだ客に、つとめを離れて惹かれて、ひそかにこの足留稲荷へ願をかけた一夜妻もあったであろう……。
その足留稲荷のとんだ巧徳ででもあろうか。
伊賀の暴れン坊、柳生源三郎の婿入り道中は、いまだ八ツ山下の本陣、鶴岡市郎右衛門方に引っかかっているので。
こけ猿の茶壺は、今もって行方知れず。植木屋に化けてひとり本郷の道場へ潜入して行った主君、源三郎の帰るまでに、なんとかして壺を見つけ出そうと、安積玄心斎が躍起となって采配を振り、毎日、早朝から深夜まで、入り代わり立ちかわり、隊をつくってこの品川から、江戸の町じゅうへ散らばって、さがし歩いて来たのだが――。
一度は、佐竹右京太夫の横町で、あのつづみの与吉に出あったものの、みごとに抜けられてしまって……。
来る日も、くる日も、飽きずに照りつける江戸の夏だ。
若き殿、源三郎の腕は、みんな日本一と信じているから、ひとりで先方へ行っていても、だれも心配なんかしない。何しろ、血の気の多い若侍が、何十人となく、毎日毎晩、宿屋にゴロゴロしているんだから、いつまでたってもいっこう壺の埓があかないとなると、そろそろ退屈してきて、脛押し、腕相撲のうちはまだいいが、
「おいっ! まいれっ! ここで一丁稽古をつけてやろう」
「何をっ! こちらで申すことだ。さァ、遠慮せずと打ちこんでこいっ!」
「やあ、こやつ、遠慮せずに、とは、いつのまに若先生の口調を覚えた」
なんかと、てんでに荷物から木剣を取り出し、大広間での剣術のけいこをされちゃア宿屋がたまらない。
「足どめ稲荷が、妙なところへきいたようで」
「どうも、弱りましたな。この分でゆくと、もう一つ、足留稲荷の向うを張って、早発ち稲荷てえのをまつって、せいぜい油揚げをお供えしなくっちゃアなりますめえぜ」
本陣の帳場格子のなかで、番頭たちが、こんなことをいいあっている。
品川のお茶屋は、どこへ行っても伊賀訛りでいっぱいです。そいつが揃って酔っぱらって、大道で光る刀を抜いたりするから、陽が落ちて暗くなると、鶴岡の前はバッタリ人通りがとだえる。
こういう状態のところへ、植木屋姿の源三郎が、ひょっこり帰ってきました。
立ち帰ってきた源三郎は、てっきり司馬先生はおなくなりになったに相違ない……と肚をきめて、二、三日考えこんだ末、
「おいっ、ゲ、ゲ、玄心斎、すぐしたくをせい。これから即刻、本郷へ乗り込むのだ」
と下知をくだした。
帰って来たかと思うと、たちまち出発――いつもながら、端倪すべからざる伊賀の暴れん坊の行動に、安積玄心斎をはじめ一同はあっけにとられて、
「しかし、若、本郷のほうの動静は、いかがでござりました」
「サ、さようなことは、予だけが心得ておればよい」
不機嫌に吐き出した源三郎のこころの中には。
三つも、四つもの疑問があるので。
司馬道場で、じぶんが柳生源三郎ということを知っているのは、あの、見破ったつづみの与吉と、お蓮派の領袖峰丹波だけであろうか?
あの可憐な萩乃も、あばずれのお蓮様も、もう知っているのではなかろうか……?
だが、これは源三郎の思いすごしで、あのふしぎな美男の植木屋が問題の婿源三郎ということは、丹波が必死に押し隠して、だれにも知らせてないのです。
お蓮さまや萩乃にはむろんのこと、門弟一同にも、なにも言わずにある。
丹波が皆に話してあるところでは……。
変てこな白衣の侍が、左手に剣をふるって、やにわに斬りこんできたので、健気にもあの植木屋が、気を失った自分の刀を取って防いでくれた。ところが、剣光と血に逆上したとみえて、その感心な植木屋が、あとでは左腕の怪剣士といっしょになって、道場の連中と渡りあったとだけ……そうおもて向き披露してあるのだ。
だから、あの、星が流れて、司馬老先生が永遠に瞑目した夜、かわいそうな植木屋がひとり、乱心して屋敷を逐電した……ということになっているので。
が、しかし。
あれが音に聞く柳生源三郎か、あのものすごい腕前!――と自分だけは知っている峰丹波の怖れと、苦しみは、絶大なものであった。
道場を横領するには、お蓮様と組んで、あれを向うにまわさねばならぬ。つぎは、どうやってあらわれてくるであろうかと、丹波、やすきこころもない。
それから、源三郎のもう一つの疑問は、あの枯れ松のような片腕のつかい手は、そもそも何ものであろうか?……ということ。
自分が一目も二目もおかねばならぬ達人が、この世に存在するということを、源三郎、はじめて知ったのです。
峰丹波には、この剣腕を充分に見せて、おどかすだけおどかしてある。もう、正々堂々と乗り込むに限る! と源三郎、
「供ッ!」
と叫んで、本陣の玄関へ立ち出でた。黒紋つきにあられ小紋の裃、つづく安積玄心斎、脇本門之丞、谷大八等……みんな同じ装りで、正式の婿入り行列、にわかのお立ちです。
「エ、コウ、剣術大名の葬式だけに、豪気なもんじゃアねえか」
「そうよなあ。これだけの人間が、不知火銭をもれえに出てるんだからなあ」
「おう、吉や、その、てめえ今いった、不知火銭たあなんでえ」
夜の引明けです。
本郷は妻恋坂のあたりは、老若男女の町内の者が群集して、押すな押すなの光景。
きょう、司馬先生の遺骸が出棺になるので、平常恩顧にあずかった町家のもの一同、こうして門前からはるか坂下まで、ギッシリつめかけて、お見送りしようというのだが――中には、欲をかいて、千住だの板橋だのと、遠くから来ているものもある。
欲というのは……。
群衆のなかで、話し声がする。
「どうもえらい騒動でげすな。拙者は、まだ暗いうちに家を出まして、四谷からあるいて来ましたので」
「いや、わたしは神田ですが、昨夜から、これ、このとおり、筵を持ってきて、御門前に泊まりこみました」
「おや! あなたも夜明し組で。私は、夜中から小僧をよこして、場所を取らせて置いて、いま来たところで」
「それはよい思いつき、こんどからわっしも、そうしやしょう」
「それはそうと、たいした人気ですな。もう始まりそうなものだが……」
これじゃアまるで、都市対抗の野球戦みたいだ。
それというのが。
この司馬道場では。
吉事につけ、凶事につけ、何かことがありますと、銭を紙にひねって、門前に集まった人たちに、バラ撒く習慣になっていて、当時これを妻恋坂の不知火銭といって、まあ、ちょっと大きく言えば、江戸名物のひとつになっていたんです。
不知火銭……おおぜいへ撒くんだから、もとより一包みの銭の額は知れたものだが、これを手に入れれば、何よりもひとつの記念品で、そのうえ、禍を払い、福を招くと言われた。マスコットとかなんとか言いますな、つまりあれにしようというんで、この司馬道場の不知火銭というと、江戸中がわあっと沸いたもんです。
慶事には……そのよろこびを諸人に分かつ意味で。
こんどのような悲しみには――死者の冥福を人々に祈ってもらうため、また、生前の罪ほろぼしのこころで。
銭を撒く――通りを埋める群衆の頭上へ。
吉と呼ばれた男を取りまいて、さっきの職人らしい一団が、しきりにしゃべるのを聞けば、
「それに、まだ一ついいことがあるんだぜ」
「銭をくれたうえにか」
「おう。その銭の包みにヨ。たった一つ、御当家のお嬢さんが御自身で筆を取って、お捻りのうえに『御礼』と書いたやつがあるんだ。よろこびごとなら朱の紅筆で、きょうみてえな凶事にゃあ墨でナ――その包みを拾った者はお前……」
その、幾つとなく撒く中に、ただ一つ、御礼とお嬢さんの筆あとのあるお捻り……お墨つきの不知火銭を拾ったものは。
ただひとり、邸内へ許されるという――門外にむらがる群衆の代表格として。
そして。
お祝いごとなら何人をさしおいても、酒宴の最上座につらなり、お嬢さま萩乃のお酌を受ける。
きょうのようなおとむらいなら。
たといその包みを拾ったものが、乞食でも、かったい坊でも、喪主のつぎ、会葬者の第一番に焼香する資格があるのだ。
「うめえ話じゃアねえか」
と、吉をとりまく職人たちは、ワイワイひしめいて、
「妻恋小町の萩乃さまにじきじきおめどおりをゆるされるばかりじゃアねえ。次第によっちゃア、おことばの一つもかけてくださろうってんだ……まあ、吉つあんじゃないか、会いたかった、見たかった。わちきゃおまはんに拾わせようと思って――」
「よせやい! 薄っ気味のわりい声を出すねえッ。チョンチョン格子の彼女じゃアあるめえし、剣術大名のお姫さまが、わちきゃ、おまはんに、なんて、そんなこというもんか。妾は、と来らあ。近う近う……ってなもんだ。どうでえ!」
「笑わかしやがらア。おらあ、お姫さまのお墨つきの包みをいただいただけで、満足だ、ウフッ」
なんかと、若いやつらは、儚い期待に胸をときめかしております。
群衆は刻々、増す一方――妻恋坂は、ずっと上からはるか下まで、見わたす限り人の海で、横町へはみ出した連中は、なんとかして本流へ割りこもうと、そこでもここでも、押すな押すなの騒ぎを演じている。
「やいッ、押すなってえのに!」
振り返ると、うしろが深編笠の浪人で、
「身どもが押しておるのではない。ずっと向うから、何人も通して押してまいるのだ」
こりゃあ理屈だ。怖い相手だから、
「へえ。なんとも相すみません」
威張ったほうが、あやまっている。
中には、纏い持ちが火事の屋根へ上がるように、身体じゅうに水をふりかけてやってきて、
「アイ、御免よ、ごめんよ。濡れても知らないよ」
とばかり、群衆を動揺させて、都合のいい場所へおさまるという、頭のいいやつもある。
「押さないでくださいっ! 赤んぼが潰れますっ!」
と子供をさしあげたおかみさんの悲鳴――。
「餓鬼なんざ、また生めあいいじゃアねえか。資本はかからねえんだ。なんならおいらが頼まれてもいいや」
江戸の群衆は乱暴です。
「もう一度腹へけえしちめえっ!」
カンガルーとまちがえてる。若い町娘にはさまれた男は、
「なに、かまいません。いくらでも押してくだせえ」
と、幸福なサンドイッチという顔。
ハリウッドの女優さんなんかは、署名係というのを何人か雇っていて、ブロマイドにサインをしてファンへ送っているそうですが萩乃のは、稀のことだから、自分で書くのだ。もっとも、名前じゃあない。なまめかしい筆で、御礼と……。
なにか道場によろこびでもあって、この紅ふでの包みを拾おうものなら、天下一の果報者というわけ。
いま群衆のなかに。
肩肘はった浪人者や、色の生っ白い若侍のすがたが、チラホラするのは、みんなこの、たった一つの萩乃直筆のおひねりを手に入れようという連中なので。
音に聞く司馬道場の娘御に接近する機会をつくり、あとはこの拙者の男っぷりと、剣のうで前とであわよくば入り婿に……たいへんなうぬぼれだ。
世は泰平。
男の出世の途は、すっかりふさがってしまっている。
腕のあるやつは、脾肉の嘆に堪えないし、腕もなんにもない当世武士は、ちょいとした男前だけを頼りに、おんなに見染められて世に出ようというこころがけ――みんなが萩乃を狙っているので。
現代で言えば、まア、インテリ失業者とモダンボーイの大群、そいつが群衆の中にまじって、
「老師がお亡くなりになった今日、必然的に後継の問題が起こっておるであろう。イヤ、身どもが萩乃どのとひとこと話しさえすれば……」
「何を言わるる。御礼の不知火銭を拾うのは、拙者にきまっておる。バラバラッときたら、抜刀して暴れまわる所存だ。武運つたなく敢ない最期をとげたなら、この髪を切って、故郷なる老母のもとへ――」
決死の覚悟とみえます。
萩乃がお目あてなのは、さむらいだけじゃアない。町内の伊勢屋のどら息子、貴賤老若、粋不粋、千態万様、さながら浮き世の走馬燈で、芋を洗うような雑沓。
金も拾いたいし、お嬢さんにも近づきたい……欲と色の綯いまぜ手綱だから、この早朝から、いやもう、奔馬のような人気沸騰……。
妻恋小町の萩乃さま。
本尊が小野の小町で、美人というと必ずなになに小町――一町内に一人ぐらいは、小町娘がいたもので、それも、白金町だからしろがね小町とか、相生町で相生小町などというのは、聞く耳もいいが、おはぐろ溝小町、本所割下水小町なんてのは感心しません。ある捻った人が、小町ばっかりで癪だというので、大町とやって見た。白金大町、あいおい大町どうもいけません。下に番地がくっつきそうで――。
やっぱり、美女は小町。
小町は、妻恋小町の萩乃様。
と、こういうわけで、きょうは司馬先生のお葬式だが、折りからの好天気、あのへんいったい、まるでお祭りのような人出です。
門前には、白黒の鯨幕を張りめぐらし、鼠いろの紙に忌中と書いたのが、掲げてある。門柱にも、同じく鼠色の紙に、大きく撒銭仕候と書いて貼り出してあるのだ。このごろは西洋式に、黒枠をとるが、むかしは葬儀には、すべてねずみ色の紙を用いるのが、礼であった。
大玄関には、四旒の生絹、供えものの唐櫃、呉床、真榊、根越の榊などがならび、萩乃とお蓮さまの輿には、まわりに簾を下げ、白い房をたらし、司馬家の定紋の、雪の輪に覗き蝶車の金具が、燦然と黄のひかりを放っている。
やしきの奥には。
永眠の間の畳をあげ、床板のうえに真あたらしい盥を置いて、萩乃やお蓮さまや、代稽古峰丹波の手で、老先生の遺骸に湯灌を使わせて納棺してある。
在りし日と姿かわった司馬先生は、経かたびら、頭巾、さらし木綿の手甲脚絆をまとい、六文銭を入れたふくろを首に、珠数を手に、樒の葉に埋まっている。四方流れの屋根をかぶせた坐棺の上には、紙製の供命鳥を飾り、棺の周囲に金襴の幕をめぐらしてあるのだった。
仏式七分に神式三分、神仏まぜこぜの様式……。
玄関の横手に受付ができて、高弟のひとりが、帳面をまえに控えている。すべて喪中に使う帳簿は紙を縦にふたつ折りにして、その口のほうを上に向けてとじ、帳の綴り糸も、結び切りにするのが、古来の法で、普通とは逆に、奥から書きはじめて初めにかえるのである。
大名、旗下、名ある剣客等の弔問、ひきもきらず、そのたびに群衆がざわめいて、道をひらく。土下座する。えらい騒ぎだ。
萩乃は、奥の一間に、ひとり静かに悲しみに服しているものとみえる。お蓮さまも、表面だけは殊勝げに、しきりに居間で珠数をつまぐりながら、葬服の着つけでもしているのであろう。ふたりとも弔客や弟子たちの右往左往するおもて座敷のほうには、見えなかった。
やがてのことに、わっとひときわ高く、諸人のどよめきがあがったのは、いよいよ吉凶禍福につけ、司馬道場の名物の撒銭がはじまったのである。
江都評判の不知火銭……。
白無垢の麻裃をつけた峰丹波、白木の三宝にお捻りを山と積み上げて、門前に組みあげた櫓のうえに突っ立ち、
「これより、撒きます――なにとぞ皆さん、ともに、故先生の御冥福をお祈りくださるよう」
どなりました。りっぱな恰幅。よくとおる声だ。
すると、一時に、お念仏やお題目の声が、豪雨のように沸き立って、
「なむあみだぶつ、なんみょうほうれんげきょう……!」
丹波は一段と声を励まし、
「例によって、このなかにたった一つ、当家のお嬢様がお礼とおしたためになった包みがござる。それをお拾いの方は、どうぞ門番へお示しのうえ、邸内へお通りあるよう、御案内いたしまする」
バラバラッ! と一掴み、投げました。
ひとつの三宝が空になると、あとから後からと、弟子が、銭包みを山盛りにしたお三宝をさしあげる。
丹波はそれを受け取っては、眼下の人の海をめがけて、自分の金じゃアないから、ばかに威勢がいい。つかんでは投げ、掴んでは投げ……。
ワーッ! ワッと、大浪の崩れるように、人々は鬨の声をあげて、拾いはじめた。
拾うというより、あたまの上へ来たやつを、人より先に跳びあがり、伸びあがって、ひっ掴むんです。こうなると、背高童子が一番割りがいい。
押しあい、へし合い、肩を揉み足を踏んづけあって、執念我欲の図……。
「痛えっ! 髷をひっぱるのあ誰だっ!」
「おいっ、襟首へ手を突っこむやつがあるか」
「何いってやんでえ。我慢しろい。てめえの背中へお捻りがすべりこんだんだ」
「おれの背中へとびこんだら、おれのもんだ。やいっ、ぬすっと!」
「盗人だ? 畜――!」
畜生っ! とどなるつもりで、口をあけた拍子に、その口の中へうまく不知火銭が舞いこんで、奴さん、眼を白黒しながら、
「ありがてえ! 苦しい……」
どっちだかわからない。死ぬようなさわぎです。
どこへ落ちるか不知火銭。
誰に当たるか不知火小町のお墨つき――。
見わたす限り人間の手があがって、掴もうとする指が、まるでさざなみのように、ひらいたりとじたりするぐあい、じっと見てると、ちょうど穂薄の野を秋風が渡るよう……壮観だ。
「お侍さまっ! どうぞこっちへお撒きくださいっ」
と、女の声。かと思うと、
「旦那! あっしのほうへ願います。あっしゃアまだ三つしか拾わねえ」
あちこちから呶声がとんで、
「三つしか拾わぬとは、なんだ。拙者はまだ一つもありつかぬ」
「この野郎、三つも掴みやがって、当分不知火銭で食う気でいやアがる」
中には、お婆さんなんか、両手に手ぬぐいをひろげて、あたまの上に張っているうちに、人波に溺れて群衆の足の間から、
「助けてくれッ!」
という始末。おんなの悲鳴、子供の泣き声……中におおぜいの武士がまじっているのは、武士は食わねど高楊枝などとは言わせない、皮肉な光景で。
もっとも、さむらいは、例外なしに萩乃様のおひねりが目的だから、躍りあがって掴んでみては、
「オ! これは違う。おっ! とこれもちがう……」
違うのは、捨てるんです――じぶんの袂へ。
この大騒動の真っ最中、もう一つ騒動が降って湧いたというのはちょうどこの時、坂下から群衆を蹴散らしてあがってくる、々たる騎馬の音……!
それも、一頭や二頭じゃない。
十五、六頭……どこで揃えたか、伊賀の暴れン坊の一行、騎馬で乗りこんで来た。
源三郎の白馬を先頭に、安積玄心斎、谷大八、脇本門之丞、その他、おもだった連中が馬で、あとの者は徒歩です。
ものすごいお婿さまの一行――大蛇のように群衆の中をうねって、妻恋坂の下から、押しあげてきました。
「寄れっ! 寄れっ!」
と、玄心斎の汗ばんだ叱咤が、騒然たる人声をつんざいて聞こえる。
「お馬さきをあけろっ!」
「ええイッ、道をあけぬかっ」
「ひづめにかけて通るぞ」
口々に叫んで、馬を進めようとしても、何しろ、通りいっぱいの人だから、馬はまるで人間の泥濘へ嵌まりこんだようなもので、馬腹を蹴ろうが、鞭をくれようが、いっかなはかどりません。
わがまま者の源三郎、火のごとくいらだって、
「こここれ! 途をひらけっ。けけ、蹴散らすぞっ……」
鏡のような、静かな顔に、蒼白い笑みをうかべた伊賀のあばれン坊、裃の肩を片ほうはずして、握り太の鞭を、群衆の頭上にふるう。
乱暴至極――。
ちょうど撒銭のたけなわなところで。
熱湯の沸騰するように、人々の興奮が頂点に達した時だから、たちまちにして、輪に輪をかけた混乱におちいった。
馬列の通路にあたった人々こそ、えらい災難……。
空に躍る銭をつかもうと夢中の背中へ、あらい鼻息とともに、ぬうっと、長い馬の顔があらわれて、あたまのうえで、ピューッ! ピュッと鞭がうなり、
「ム、虫けらどもっ! 踏みつぶして通るぞっ!」
というどなり声だ。柳生源三郎、街の人など、それこそ、蚤か蚊ぐらいにしか思っていないんで。
いまだ自分の意思を妨げられたことのない彼です。思うことで実現できないことが、この地上に存在しようなどとは、考えたこともない。
癇癖をつのらせて、しゃにむに、馬をすすめ、
「ヨヨ、余の顔を知らぬか。ば、馬足にかかりたいか、ソソそれとも、柳生の斬っさきにかかりたいか、のかぬと、ぶった斬るぞっ!」
どっちにしたって、あんまり望ましくないから、群衆は命がけで犇めきあい、必死に左右に押しひらいて、
「いくらお武家でも、無茶な人もあったものだ」
非難の声と同時に、馬の腹の下から助けを呼ぶ人……鞭をくらって泣き叫ぶおんな子供――阿修羅のような中を、馬はさながら急流をさかのぼるごとく、たてがみを振り立て、ふり立て、やっと司馬道場の門前へ――。
群衆に馬を乗り入れる一行は、なんというひどいことをする奴! と、櫓の上から、あきれて見守っていた峰丹波、先なる白馬の人に気がつくと、銭を撒く手がシーンと宙で凍ってしまった。
阿鼻叫喚をどこ吹く風と聞き流して、群衆を馬蹄にかけ、やっと門前までのしあがってきた源三郎の一行――。
見ると。
忌中の札が出ていて、邸内もただならないようすに、源三郎は馬上に腰を浮かして、やぐらのうえの丹波を見あげ、
「司馬道場の仁と見て、おたずね申す」
前に植木屋として入りこんでいたのは、知らぬ顔だ。
はじめて顔を合わせるものとして、源三郎、正式に名乗りをあげた。
「柳生源三郎、ただいま国おもてより到着いたしたるに、お屋敷の内外、こ、この騒ぎはなにごとでござる」
丹波も、さる者。
櫓の上から、しずかに一礼して、答えました。
「柳生? ハテ、当家と柳生殿とは、なんの関係もないはず。通りすがりのお方と、お見受け申す。御通行のおじゃまをして、恐縮千万なれど、ちと不幸ばしござって、今日は、当道場の例として、諸人に銭をまきおりまする。それがため、この群衆……なにとぞかってながら、他の道すじをお通りあるよう、願いまする」
そして、源三郎を無視し、けろりとした顔で、最後の三宝をとりあげ、
「これが打ち止めの一撒き――!」
と叫んで、その三宝ごと、パッと、わざと源三郎をめがけて、投げつけました。
三宝は、安積玄心斎が鞘ごと抜いて横に払った一刀で、見事にわれ散った。白いお捻りが雪のように乱れ飛ぶ。
丹波は悠々とやぐらを下りて、さっさと門内へ消えた。不知火銭は終わったが、おさまらないのは、うまくはずされた源三郎と、源三郎に踏みにじられた群衆とで。
「ヤイヤイ、江戸あ大原っぱじゃアねえんだ。馬場とまちがえちゃア困るぜ」
「柳生の一家だとヨ。道理で、箱根からこっちじゃアあんまり見かけねえ面が揃ってらあ」
半分逃げ腰で、遠くから罵声を浴びせかけるが、源三郎はにこにこして、ピタリ、門前に馬をとめたままです。つづく一同も、汗馬を鎮めて無言。
「おおい、お馬のおさむれえさん! おめえのおかげで、おらア、お嬢さんのおひねりを拾いそこねたじゃアねえか」
なんかと、ずっと向うにいるものだから、安全地帯と心得て、恨みをいうやつもいる。
丹波につぐ高弟、岩淵達之助と、等々力十内のふたりが、門ぎわに立ちあらわれました。
「御礼と萩乃様お筆のあとのある、たった一つの銭包みを拾った者はないか」
「そのつつみを手に入れた人は、出てこられたい。奥へ御案内申す」
「ないのかな、だれも拾わぬのか」
みんな今更のように、自分の拾ったお捻りを見たりして、群衆がちょっとシーンとなった瞬間、
「ホホウ、こ、この包みに、墨で御礼とある……」
と、伊賀の若様が馬上高く手をあげました。
いま丹波が最後に、源三郎をねらって三宝もろとも、はっしとばかり銭包みを投げ落とした瞬間――!
源三郎、眼にもとまらぬ早業で、その一つを掴みとったのだったが、意外といおうか、偶然と言おうか、それこそは、諸人熱望の的たる萩乃さまお墨つきの不知火銭だったので。
にくらしくても、反感は抱いていても、人間には、強い颯爽たるものを無条件に讃美し、敬慕する傾向があります。
力こそは善であり、力こそは美であるとは、いつの時代になりましても、真理のひとつでありましょう。
今。
これだけ群衆を蹂躙し、その憤激を買った源三郎ではありますが……。
その手に御礼のお捻りが握られて、馬上高く差し示しているのを見ると、人々は、いまの今までの憎悪や怒りをうち忘れて、わっと一時に、割れるような喝采を送った。
色の抜けるほど白い、若い源三郎が、今まで片袖はずしていた裃の肩を入れて、馬上ゆたかに威をととのえ、ちいさな紙づつみを持った手を、さっと門へむかって突きだしたところは……さながら何か荒事の型にありそう。
江戸っ児は、たあいがない。
こんなことで、ワーッと訳もなく嬉しがっちまうんで。
「イヨウ! 待ってましたア!」
「天下一ッ!」
なにが天下一なんだか、サッパリわからない。
何か賞めるとなると、よく両国の花火にひっかけて、もじったもので、さっき柳生源三郎と名乗って丹波とのあいだに問答のあったのを聞いていますから、
「玉屋ア! 柳屋ア! 柳屋ア!」
と即座の思いつき……四方八方から、さかんに声がかかる。
なかには、岡焼き半分に、
「落ちるところへ、落ちましたよ。拙者は、諦めました」
「萩乃様とは、好一対。並べてみてえや、畜生」
「アアつまらねえ世の中だ。不知火小町も、これで悪くすると主が決まりますぜ」
溜息をついている。
が、群衆は、知らないものの――。
婿として乗りこんできた源三郎に、この萩乃のおひねりが当たったというのも、これも一つの因縁……臨終まぎわまで源三郎を待ちこがれた、きょうの仏の手引きというのかも知れない。
入場券代わりのこのたった一つの銭包み。
切符を持っているんだから、源三郎は悠然と馬から下りて、
「サ、御案内を……」
門の左右に立った岩淵達之助と等々力十内、顔を見あわせたが、定例であってみれば、お前さんはよろしい、お前さんは困るということはできない。
「いざ、こちらへ――」
と仕方なく先に立って、邸内へはいったが、出る仏に入る鬼……きょう故先生の御出棺の日に、司馬道場、とんだ白鬼をよびこんでしまった――。
子として、父の死を悼まぬものが、どこにあろう。
殊に。
おさなくして生母をうしなった萩乃にとって、なくなった司馬先生は、父でもあり、母でもあった。
母のない娘は、いじらしさが増す。司馬先生としても、片親で両親を兼ねる気もちで、いつくしみ育ててきたのだけれど、あの素姓の知れないお蓮さまというものが腰元から後添に直ってからというものは、萩乃に対する先生の態度に、いくらかはさまったものができて、先生はそっとお蓮様のかげへまわって萩乃に慈愛をかたむけるというふうであった。
萩乃を見る老父の眼には、始終弁解がましいものがひらめいて、彼女には、それがつらかった。
表面、お蓮さまによって父娘のあいだに、へだたりができたように見えたけれど……。
でも、それは、実は、父と娘の気もちの底を、いっそう固くつなぐに役立ったのだった。
その父、今や亡し矣――かなしみの涙におぼれて、身も世もない萩乃は、じぶんの座敷にひそかにたれこめて、侍女のすすめる白絹の葬衣に、袖をとおす気力だにない。
床の間に、故父の遺愛の品々が飾ってある。それに眼が行くたびに、あらたなる泪頬を伝うて、葬列に加わるしたくの薄化粧は、朝から何度ほどこしても、流れるばかり……婢どもも、もらい泣きに瞼をはらして、座にいたたまれず、いまはもう、みんな退室ってしまった。
ひとりになった萩乃は、なおもひとしきり、思うさま追憶のしのび泣きにふけったが――。この深い悲哀の中にも。
ただ一条、かすかによろこびの光線とも思われるのは、父があんなに待ったにもかかわらず、とうとう源三郎様がまに合わないで、死にゆく父の枕頭で、いやなお方と仮りの祝言のさかずきごとなど、しないですんだこと。
源三郎の名を思い起こすと、萩乃はどんな時でも、われ知らず身ぶるいが走るのだった。
伊賀のあばれん坊なんて、おそろしい綽名のある方、それは熊のような男にきまっている……ふつふつ嫌な――!
その源三郎が、どういう手ちがいか、いまだ乗りこんでこないのだから、いくら父のとり決めた相手でも、今となっては、じぶんさえしっかり頑張れば、なんとかのがれる術があるかも知れない――。
それにしても、源三郎の名がきらいになるにつけて、日とともに深められていくのは、あの、植木屋へのやむにやまれぬ思慕のこころ……。
あの凜とした植木屋の若い衆を想うと、その悲痛のどん底にあっても、萩乃は、ひとりでポッと赧らむのです。
「じぶんとしたことが、なんという――しかも、この、お父様のお葬式の日に……」
いくら自らをたしなめても、胸の一つ灯は、逝きにし父へのなみだでは、消えべくもないのだ。
子として、父の死を悼まぬものが、どこにあろう――でも、かの若い植木屋を思い浮かべると、萩乃は自然に、ウットリと微笑まれてくるのだ。
焼香は、二度香をつまんで焚き、三歩逆行して一礼し、座に退くのだ。
出棺の時刻が迫り、最後の焼香である。
遺骸を安置した、おもて道場の大広間……。
片側には、司馬家の親戚をはじめ、生前、剣をとおして親交のあった各大名、旗下の名代が、格に順じてズラリと居流れ、反対の側には、喪服の萩乃、お蓮様を頭に、峰丹波、岩淵達之助、等々力十内等重立った門弟だけでも、四、五十を数えるほど並んでいる。
緋の袈裟、むらさきの袈裟――高僧の読経の声に、香烟、咽ぶがごとくからんで、焼香は滞りなくすすんでゆく。
亡き父への胸を裂く哀悼と、あの、名もない若い植木屋への、抉るような恋ごころとの、辛い甘い、ふしぎな交錯に身をゆだねて、ひとり居間にたれこめていた萩乃は、侍女にせきたてられて白の葬衣をまとい、さっき、手を支えられてこの間へ通ったのだったが、着座したきり、ずっとうつむいたままで……。
気がつかないでいる――じぶんの隣、継母のお蓮さまとのあいだに、裃に威儀を正した端麗な若ざむらいが、厳然と控えていることには。
吉凶いずれの場合でも、人寄せのときには、不知火銭にまじえて、ただ一つ、自分が御礼と書いた包みを投げ、それを拾った者はたとえ足軽でも、樽ひろいでも、その座に招じて自分のつぎにすわらせる例。
今度も、昨夜、おひねりの一つに御礼と書かされた。
だから、誰か一人この場に許されているはずだが……それもこれも、萩乃はすべてを忘れ果てて、じっとうなだれたまま、袖ぐちに重ねた両の手を見つめています。
が、お蓮様は、眼が早い。
岩淵、等々力の両人に案内されて、さっきこの広間へはいってきた若い武士を一眼見ると、サッ! と顔いろを変えて峰丹波をふりかえりました。
これが源三郎とは知らないお蓮さまだが、あの得体の知れない植木屋が、こんどは、りっぱな武士のすがたで乗りこんで来たんだから、ただならない不審のようすで、丹波へ、
「植木屋が裃を着て、ほほほ、これはまた、なんの茶番――」
とささやかれた丹波、源三郎ということは、秒時も長く、ごまかせるだけごまかしておこうと、
「ハテ、拙者にも、とんと合点がゆきませぬ。なれど、萩乃様の包みをひろいましたる以上、入れぬというわけには……」
まったく、それは丹波のいうとおりで。
御礼のつつみを拾われたからには、それが例法、拒む術はありません。
門前に白馬をつないだ源三郎、
「許せよ」
と大手を振って、邸内へ通ってしまったのです。つづく玄心斎、その他四、五の面々、
「供の者でござる」
とばかり、これも門内へ押しとおってしまって、いまこの司馬道場の大玄関には、事ありげな馬のいななきと、武骨な伊賀弁とが、喧嘩のような、もの騒がしい渦をまいているので……。
植木屋がほんとか、武士姿がほんものか、それはまだお蓮さまには、見当がつきませんけれども、今その威と品をそなえた源三郎の顔すがたに、お蓮様が大いに興味をそそられたことは事実です。
いくらお祖父さんのような老夫であったにしても、良人の葬式の日に、もう若い男を見そめてしまうなんて、ここらがお蓮様のお蓮さまたるところで、性質すこぶる多情なんです。
萩乃と自分との間へ座を占めた源三郎へ、お蓮さまはチラ、チラと横眼を投げて、心中ひそかに思えらく。
もとよりこれは、ただの植木屋ではあるまい。なにか大いに曰くのある人に相違ない。いや、たとえ植木屋の職人にしたところで、かまわない。じぶんはどんなことをしても、必ずこの青年の心とからだを手に入れよう……。
じぶんが、この自分の豊満な魅力を用いて近づく時、それをしりぞけた男性は、今まで一人もないのだから――死んだ司馬老先生然り、この峰丹波然り……。
焼香の場です。おのずと顔にうかぶほほえみを消すのに、お蓮さまは、人知れず努力しなければなりませんでした。
この、お蓮様の心中を知らない丹波は、気が気じゃアない。
人もあろうに、選りに選って、とんでもないやつに御礼包みが落ちたものだ――柳生源三郎ということは、どうせ知れるにしても、せめては一刻も遅かれ、そのあいだに、なんとか対策を講じなくては……と、懸命に念じていると!
静かに起った柳生源三郎――。
袴の裾さばきも鮮かに、正面へ進んだ。焼香だ。
つまんでは拝んで、二度香をくべた源三郎、ふたつ続けて、音のない柏手をうちました。うち合わせる両の手をとめて、音を立てない。無音のかしわ手……。
これは、忍びの柏手といって、神式のとむらいにおける礼悼の正式作法で……まず、よほどの心得。
その粛然として、一糸みだれない行動に、一座は思わず無言のうちに、感嘆の視線をあつめています。
萩乃は、まだうつむいたきりだ。
するとこのとき、その萩乃の忘れたことのないあの若い植木職の声が朗々とひびいてきたのです。
「義父司馬先生の御霊に、もの申す。生前お眼にかかる機会のなかったことを、伊賀の柳生源三郎、ふかく遺憾に存じまする。早くより品川に到着しておりましたが、獅子身中の虫ともいいつべき、当道場内の一派の策動にさまたげられ、今日まで延引いたし、ただいまやっとまいりましたるところ、先生におかせられては、すでに幽明さかいを異にし……」
柳生源三郎!……と聞いて、はっと眼をあげた萩乃の表情! 同じお蓮様のおもて――ふたつの顔に信じられない驚愕の色が起こりました。それぞれの意味で。
源三郎は、霊前にしずかにつづけて、
「遅ればせながら、婿源三郎、たしかに萩乃どのと道場を申し受けました。よって、これなる父上の御葬式に、ただいまよりただちに喪主として……」
室内の一同、声を失っている。
角が付木屋で、薄いこけらの先に硫黄をつけたのを売り歩く小父さん……お美夜ちゃんは、もうこれで一月近くも朝から晩まで、その路地の角に立っているのだった。
竜泉寺のとんがり長屋。
一ばん貧しい人たちの住む一廓で、貧乏だと、つい、気持もとがれば、口もとがる。四六時ちゅう、喧嘩口論の絶え間はなく、いつも荒びた空気が、この物の饐えたようなにおいのする、うす暗い路地を占めているところから、人呼んでとんがり長屋――。
鰯のしっぽが失くなったといっては、喧嘩。乾しておいた破れ襦袢を、いつのまにか着こんでいたというので、山の神同士の大論判。
こうして、長屋の連中、寄ると触ると互いに眼を光らせ、口を尖らせているので、恐ろしく仲がわるいようだが、そうではない。
一朝、なにか事があって外部に対するとなると、即座に、おどろくほど一致団結して当たる。ただふだんは口やかましく、もの騒がしいだけで、それがまた当人たちには、このうえなく楽しいとんがり長屋の生活なのだった。
つけ木屋の隣が、独身ものの樽買いのお爺さんで、毎日、樽はござい、樽はございと、江戸じゅうをあるきまわって、あき樽問屋へ売ってくるのである。
そのつぎは、文庫張りの一家族で、割り竹で編んだ箱へ紙を貼り、漆を塗って、手文庫、おんなの小片入れなどをこしらえるのが稼業。相当仕事はあるのだけれど、おやじがしようのない呑んだくれで、ついこの間も、上の娘をどこか遠くの宿場へ飲代に売りとばしてしまった。
その他、しじみ屋、下駄の歯入れ、灰買い、あんま師、衣紋竹売り、説経祭文、物真似、たどん作り……そういった人たちが、この竜泉寺名物、とんがり長屋の住人なので。
お美夜ちゃんの父親、作爺さんの住いは、この棟割長屋の真ん中あたりにある。
前も同じつくりの長屋で、両方から重なりあっている檐が、完全に日光をさえぎり、昼間も、とろんと澱んだ空気に、ものの腐った臭いがする。
作爺さんの家のまえは、ちょうど共同の井戸端で、赤児をくくりつけたおかみさん連の長ばなしが、片時も休まずつづいている。
羅宇屋の作爺さん……上に煙管を立てた、抽斗つきの箱を背負って、街へ出る。きせるの長さは、八寸にきまっていたもので、七寸を殿中といった。価は八文、長煙管の羅宇は、十二文以上の定め。
が、このごろは作爺さんも、商売を休んで家にいる。
それというのが……。
壁つづきの隣は、この間まで、あの、ところ天売りのチョビ安のいた家で、いまはあき家になっている。
あの日、朝出たっきり帰らないチョビ安を待って、お美夜ちゃんは、こうして日なが一日、路地の角にボンヤリ立ちつくしているのだ。
「お美夜や、いつまでそんなところに立っていてもしょうがねえ。へえんなよ」
作爺さんが、白髪あたまをのぞかせてどなると、袂を胸に抱いたお美夜ちゃん、ニコリともせずに振り返った。
「そんなところに立っていたって、チョビ安は帰って来はしないよ。うちへはいりなさいっていうのに」
作爺さんはやさしい顔で呼びこもうとする。洗いざらした真岡木綿の浴衣の胸がはだけて、あばらが数えられる。
「チョビ安は、この作爺やお美夜のことなど、なんとも思ってはいねえのだよ。だから、ああして黙って出たっきり、なんの音沙汰もねえのだ」
そういう作爺さんの顔は、悲しそうである。
「あい」
と素直に答えたが、お美夜ちゃんは、ちょっとふり向いただけで、またすぐ竜泉寺の通りへ眼を凝らすのだった。
七歳のお美夜ちゃん……稚児輪に結って、派手な元禄袖のひとえものを着て、眼のぱっちりしたかわいい顔だ。[#この行は底本では天付き]
作爺さんの娘ということになっているが、父娘にしては、あまりに年齢が違いすぎる。実は、この作爺はお美夜ちゃんの父ではなく、お祖父さんなので、その間にも何か深い事情がありそう……。
羅宇屋の作爺さんとお美夜ちゃんが、このとんがり長屋の一軒に住んでいるところへ、どこからともなくあのチョビ安が、隣へ移って来たのは、一年とすこし前のことだった。
家といっても、天井の低い、三畳一間ずつに仕切られた長屋。
壁の落ちたすき間から、となりが丸見えだし、はなしもできる、まるで細長い共同生活なのだった。
おとこの児の一人住まいなので作爺さんがいろいろ眼をかけてやると、ませた口をきくおもしろい子。
お美夜ちゃんともすっかり仲よしになったので、こっちへ引き取っていっしょに暮らそうと言っても、チョビ安は変に独立心が強くて、この作爺さんの申し出には、小さな首を横に振った。
そして、冬は、九里四里うまい十三里の、焼き芋の立ち売りをしたり……夏は、江戸名物と自ら銘うったところてんの呼び売り。
聞けば、伊賀の生まれとかで、いつからか江戸に出て、親をさがしているのだという。
なにか身につまされるところでもあるかして、チョビ安に対する作爺さんの親切は、日とともに増し、また、お美夜ちゃんも、子供ごころに甚くその身の上に同情したのだろう、ひとつ違いの二人は、ふり分け髪の筒井筒といった仲で、ちいさな夫婦よと、長屋じゅうの冗談の的だったのだが……。
そのチョビ安が、もうよほど前、ところ天の荷を担いで出たまま、いまだに帰らないのである。
お美夜ちゃんは、それから毎日毎日、こうして角に出て待っているのだが、今、作爺さんに呼ばれてあきらめたものか、小さな下駄を引きずって路地をはいろうとすると、覚えのある澄んだ唄声が、町のむこうから――。
「むこうの辻のお地蔵さん よだれくり進上、お饅頭進上……」
「向うの辻のお地蔵さん
よだれ繰り進上、お饅頭進上
ちょいときくから教えておくれ
あたいの父はどこ行った
あたいのお母どこにいる
ええじれったいお地蔵さん
石では口がきけないね――」
チョビ安自作の父母を恋うる唄……それが、巷の騒音の底から、余韻をふくんで聞こえてまいりますから、お美夜ちゃんは狂喜して、通りまで走り出ました。よだれ繰り進上、お饅頭進上
ちょいときくから教えておくれ
あたいの父はどこ行った
あたいのお母どこにいる
ええじれったいお地蔵さん
石では口がきけないね――」
子供同士の恋仲――むろん恋ではないが、一つちがいの兄妹のような、ほんのりと慕いあう気もちが、ふたりのあいだに流れているのです。
見ると、チョビ安、大手をふってやって来る。
まぎれもないチョビ安……には相違ないが、このとんがり長屋から、毎日ところてん売りに出ていたころとは、おっそろしく装が変わってる。
あたまをチャンと本多にとりあげて、肩に継布が当たってるけれども、黒羽二重のぞろりとした、袂の紋つきを着ています。
おまけに、短い脇差を一ぽんさしたところは、なんのことはない、浪人をソックリそのまま小型にしたよう――。
途方もないこましゃくれ方です。
小さな大人、袖珍侍姿……いっそチョビ安という人間には、ぴったり嵌まったいでたちなので。
その、浪人の見本のような風俗のチョビ安、高さ二尺あまりの、大きな四角い箱をふろしき包みにしたのを両手に捧げて、
「おウ、お美夜ちゃんじゃねえか。会いたかったぜ」
と駈け寄ってきた。白の博多献上を貝の口に結んで、うら金の雪駄――さながら、子供芝居のおさむらいさんを見るようです。
「しばらくこっちに足が向かなかったが、それにャア深え仔細があるんだ」
と、相変わらず、チョビ安独特のおとなッぽい伝法口調。
「きょう来よう、明日こようと[#「明日こようと」は底本では「明日こようと」]思いながら、ぬけられねえもんだから、つい……すまなかったぜ」
お美夜ちゃんは、ツンとうしろを向いて、両手をぶらん、ぶらんさせ、足もとの小石を蹴っている。
拗ねた恰好――無言です。
横ちょからチョビ安は、一生けんめいにのぞきこんで、
「決してお前を忘れたわけじゃアねえ。かわいいお美夜ちゃんを忘れてたまるもんか。いろいろ話があるんだ。な、堪忍してくんな、な、な」
なんといっても、お美夜ちゃんはだんまりで、うつむいて、チョビ安のほうに背中を向けようとする。チョビ安はその肩に手をかけて、顔を見ようとするから、二人はいつまでも、同じところをクルクルまわっているんです。
「なア、お美夜ちゃん、よウ、勘弁しなってことよ。おいらアこんなに掌を合わしてあやまってるんじゃねえか」
とチョビ安、手の荷物を地におろして、両手をあわせた。
ふたつの袖で顔を覆ったお美夜ちゃん、またクルッと向うをむいて、シクシク泣き出しました。
「あんまりだわ、あんまりだわ……」
ちょっと痴話喧嘩というところ……。
「いいわ、いいわ、知らないわ――」
と、かわいくふくれているお美夜ちゃんを、チョビ安は汗をかいて、なだめすかして、
「だって、おいらこうして帰って来たんだから、もういいじゃアねえか」
「帰ってこようと、こまいと安さんのかってよ。あたいは待ってなんかいなかったわ」
やっと涙をふいて、お美夜ちゃんは、聞こえないほどの低声です。
チョビ安は得意気に笑って、
「うふふふふ、そんなこと言ったって、お前、ここに立っていたのは、じゃ、誰を待っていたんだえ」
お美夜ちゃんはうつむいて、
「あたいの待っていたのはね、どこかの人よ。そして、その人は、意気なところてん屋さんなの。そんな、お侍さんのできそこないみたいな、ひねッこびた装した人じゃアなくってよ」
こんどはチョビ安がしょげる番で、
「だから、これにはわけがあるといってるじゃあねえか。おらア、仮りの父ができて、さむれえの仲間入りをしたんだ」
「ふん!」
とお美夜ちゃんは、小鼻をふくらませて、
「そう? 安さんは、お武家衆になったの? じゃ、もう、お美夜ちゃなんかとは遊ばないつもりなのね。いいわ、あたいは、お武家なんか大きらいだから……」
大狼狽のチョビ安は、また向うをむいたお美夜ちゃんの肩に手をまわして、
「おいらも、さむれえは好きじゃアねえが……」
「父ちゃんがいつも言うわ」
お美夜ちゃんが父ちゃんというのは、彼女は知らないものの、ほんとはお祖父さんに当たる作爺さんのことなんです。
「父ちゃんがいつもいうわ」
とお美夜ちゃんは、くりかえして、
「お侍なんて、つまんないものだ。食べるために、上の人にぺこぺこして、おまけに、眼に見えないいろんな綱で縛られているって……眼に見えない綱なら、いくらしばられていたって、見えないわね」
「ふうむ、そいつア理屈だ」
チョビ安、小さな腕を仔細らしく組んで、
「おいらの父上も、そんなことを言ったっけ――」
ピクンと耳を立てたお美夜ちゃん、ふしぎそうな顔に、よろこびの色を走らせて、
「父上……って? あら、安さん、あんた父ちゃんが見つかったの?」
「ううん、ほんとの父じゃアねえんだ」
とチョビ安は悲しげに、だがすぐうれしそうにニッコリして、
「あるお侍さんを、当分、父――じゃアねえ、父上と呼ぶことになったんだよ。眼が一つで、腕が一本しかねえ人だ。とっても怖ねえ人だけれど、おいらにゃアそれは親切で、おらア、ほんとの父のように思っているんだ」
しんみり話し出したチョビ安、不意に思い出して、その四角な木箱の包みをとりあげ、
「ホイ! こうしちゃアいられねえ。作爺さんに頼んで、此箱を預かってもらおうと思って来たんだ」
急にあわてだしたチョビ安、お美夜ちゃんを押しのけるように、溝板を鳴らして路地へ駈け込みました。
「作爺さんはいるだろうな、家に」
後を追って走りこみながら、お美夜ちゃんの返事、
「ええ、このごろずっと商売にも出ないのよ。あれっきりいなくなった安さんのことが気になって、それどころじゃないんですって」
「すまねえ。そんなに思っててくれるとは知らなかった」
箱包みを抱えて、土間へ飛びこんだチョビ安は、昼間でも薄ぐらい三畳の間へ、大声をぶちまけて、
「作爺さん、いま帰った。チョビ安さんのお里帰りだ。お土産を持って来たぜ」
暗さに眼がなれてみると、その三畳はみじめをきわめた乱雑さで、壁には、お爺さんとお美夜ちゃんの浴衣が二、三枚だらりと掛かり、その下の壁の破れから、隣の家の光線が射しこんでいる始末。商売用の羅宇のなおし道具は、隅に押しこめられて、狭い部屋いっぱいに、鉋屑が散らばっているんです。
そこにうごめいている影――作爺さんは、チョビ安の出現と同時に、何かひどく狼狽して、今まで削っていた小さな木片を手早く押入れへほうりこみ、ぴっしゃり唐紙をしめきって、
「な、な、なんだ。チョビ安じゃあねえか。どうした」
と、せきこんできく作爺さんの声には、チョビ安を迎える喜びと、隠していたものを見られはしなかったかという恐れとが、まじっているので――。
ほんとうは彫刻師なのです、この作爺さんは。
何か故あって、この裏長屋に身をひそめ、孫のお美夜ちゃんを相手に、羅宇直しの細い煙を立ててはいるものの、芸術的な本能やむにやまれず、捨てたはずの鑿を取っては、こうして日夜人知れず、何かしきりに彫っているんです。
その彫刻師という正体を、なぜかあくまで人に隠しておきたい作爺さんは、言い訳がましい眼とともに、そこらの木屑を片づけ、やっとチョビ安のために坐る場所を作ってやりながら、
「いったいきょうまでどこにどうしていたのだ、チョビ安。オ! 見りゃあ侍の雛形のような服装をしているが――その大きな箱包みは、なんだい」
重要らしい顔で、静かにあがりこんだチョビ安は、
「わかる時が来れゃあ、何もかもわかる。それまで何も言わず、きかずに、この箱を預かってもらいてえんだ」
「それゃあ、ほかならねえお前の頼みだから、預からねえものでもねえが――」
と、ふしぎそうな作爺さんの顔を、チョビ安はにやりと見上げて、
「おいらの身は決して心配することはねえ。それから、この箱がここにある間、入れかわりいろんな侍達が、なんのかんのと顔を出すかも知れねえが、そんな物は預かっていねえと、どこまでも白をきってもらいてえんだ。おいらはこれで、また当分来られねえかも知れねえから――」
「あら、来たと思ったら、もう帰るの。つまんないったらないわ」
鼻声のお美夜ちゃんは、また涙顔です。
「起きろっ……」
刀のこじりが、とんと土に音立てて――。
「ウーム」
答えるともなく呻いて、眼を開けた丹下左膳の瞳に、上からのし掛かるようにのぞいている顔が映った。一人、二人、三人――。
清水粂之助、風間兵太郎らの率いる壺捜索の一隊。
こけ猿の茶壺が、この橋下のほっ立て小屋に住む、丹下左膳の手にあることは、あの鼓の与吉が承知なのだ。
柳生の里から江戸入りした高大之進を隊長とする一団は、麻布本村町、林念寺前の柳生の上屋敷に旅装をとくが早いか、ただちに大捜索を開始した。
茶壺は、丹下左膳におさえられてしまう。おまけに、自分があの植木屋の正体を見破って立ち騒いだばかりに、峰丹波にあの後れをとらしたのだから、つづみの与吉は、このところ本郷に対して、ことごとく首尾のわるいことばかり。亡くなった老先生のお葬式があったとは聞いたけれど、道場へはしばらく顔出しもできない始末で、例によって浅草駒形、高麗屋敷の尺取り横町、櫛巻きお藤の家にくすぶっていたのですが、柳生の里から応援隊が入京ったと聞いて、さっそく注進にまかりでてみると――。
おも立った連中は、捜索に散らばって、いあわせたのは、留守居格の清水粂之助、風間兵太郎、ほか五、六人の連中だけだ。
めざす壺の在所を、この鼓の与吉が知っていると聞いては、一刻も猶予がならない。一同が帰るまで待つわけにいきませんから、さてこそこうして、今この与の公の手引きで、この左膳の蒲鉾小屋へ乗り込んで来たところ。
夜中。川風に筵があおられて、水明りで内部はほのかに明るい。
チョビ安と並んで、夢路を辿っていた丹下左膳は、手のない片袖をぶらぶらさせて、ゆっくり起き上がりました。
「武士の住居へ、案内も乞わずに乱入するとは何事だ」
「黙れっ、貴様に用があって来たのではない。あれなる茶壺を取り返しにまいったのだ」
と清水粂之助の指さす部屋の一隅には、まぎれもないこけ猿の茶壺が、古びた桐箱にはいり、鬱金の風呂敷に包まれて――。
「これは異なことを!」
片眼を引きつらせて笑った左膳、
「あの壺は、先祖代々わが家に伝わる――」
「たわごとを聞きにまいったのではないっ!」
喚くと同時に、気の早い風間兵太郎が、その壺のほうへ走り出そうとした瞬間、左膳の長身が、床を蹴って躍り上がったかと思うと、左手がぐっと伸びて、枯れ枝の刀架けからそのまま白光を噴き出したのは、左膳自慢の豪刀濡れ燕……!
ざ、ざ、ざァ――っ! と筵に掛かる血しぶきの音! 伊賀勢の一人、肩を割りつけられてのけぞりました。
「この壺を持っている限り、飽きるほど人が斬れそうだぞ。フフフこれはおもしろいことになった」
濡れ燕の血ぶるいとともに、微笑む左膳を取り巻いて、剣花、一時に開きました。
チョビ安はちょこなんと起き上がって、この騒動の真ん中で眼をこすっている。
「危ねえっ! チョビ安っ!」
おめいた左膳の声に従って、飛びのいたチョビ安の頭上を、青閃斜めに走って捜索隊の一人、左膳めがけてもろに斬りこんできた。
狭い乞食の小屋のなかだ。
刃妖左膳として鳴らしたかれの腕前を知らないから、柳生の面々気が強いんです。
片眼のほそ長い顔、ひだり手一本に剣を取って、ニヤリと笑った立ち姿……この痩せ犬一匹何ほどのことやある……という考え。
柳生の盆地に代々剣を磨いて、殿様から草履取りにいたるまで、上下を挙げて剣客ぞろい、柳生一刀流をもって天下に鳴る人達だから、恐ろしいの、用心するのという気もちは、はじめっからないんだ。
殊に、今。
主家存亡の秘鍵を握るこけ猿の茶壺を、眼の前に見ての活躍ですから、そのすごいったら――。
左膳にしても、です。
武士てえものがフツフツ嫌になり、文字どおり天涯孤独の一剣居士、青天井の下に筵をはって世間的なことはいっさい御免と、まくらに通う大川の浪音を友として、欠伸の連続の毎日を送っているところへ……ある日突然、このチョビ安なる少年が、茶壺を抱えてとびこんできた。それを追っかけてまいこんだのが、あの、顔見知りのつづみの与吉――。
それからというものは、眼まぐるしい走馬燈のよう。
本郷の道場へ助け太刀に頼まれていって、意外にも柳生の若様と斬り結んだり、それが後では、その源三郎といっしょになって不知火流の門弟を斬りまくったり……。
そうかと思うと。
親のないチョビ安に同情して、父子となって茶壺を預かることになったのだが、その日から、毎日毎晩得体の知れない人間が、この小屋のまわりをうろつく。侍や、町人や、御用聞きふうなのや――それらがみんなこのこけ猿の茶壺を狙っているようすだ。
お申しつけの壺は、ところ天売りの小僧が持ち逃げして、あづま橋の下の、あの、白衣の幽霊ざむらい、丹下左膳という無法者の小屋にありやす……と、つづみの与の公が、司馬道場の峰丹波に復命したんだから、道場から放たれた一味のものが、夜といわず昼と言わず、この橋の下を看視しているので。
これでみると、莫大な柳生家の埋宝と壺との関連を知る者に、外部にはただひとり、この峰丹波があるのかも知れません。
とにかく……。
みずから世を捨て、世に棄てられて、呑気に暮らしているところへ思わぬことから、この変てこなうず巻きに引きずり込まれた丹下左膳、なにが何やら、まださっぱり見当がつかない。自分の立場もわからないし、無我夢中……したがって、この古ぼけた壺には何かしら大いに、曰くがあるに相違ないとは想像しているものの、サテなんのためにこうして皆が壺をつけ狙うのか、じぶんはなぜこの連中と渡り合わなければならない位置におかれたのか、叩ッ斬るにしても、その概念がハッキリしませんから、左膳独特のすごみというものが、まだちっとも出ないんです。
で、清水粂之助、風間兵太郎らチョイと左膳をなめてかかった。
壺の箱を抱えてうしろにまわったチョビ安を、左膳は背に庇って、左腕の剣をふりかぶっています。
風間兵太郎にしても、清水粂之助にしても、いま仲間のひとりを斬った左膳のうで前を見ているから、十二分にこころを配るべきはず。
だが、
相変わらずニヤニヤ笑っている左膳に、気をゆるして、いっせいに左右から斬りこんで行った。
いったい、片手大上段、片手青眼などといって、刀を片手に取ることは、めずらしくない。しかし、それらはみな剣道定法のひとつで右片手です。
ところが、左膳は、右腕は肩からないんだから、左腕左剣……これは相手にとって、恐ろしく勝手の違うものだそうで、三寸にして太刀風を感じ、一寸にして身をかわし、また、敵のふところ深く踏みこんで、皮を切らして肉を斬るといった実戦の場合になると、左剣に対してはそれだけの用意をもって臨まなくては微妙な刀の流れ、角度など、とっさの判断と処置をあやまって、えて遅れをとりやすいと言われております。五分五分の剣技なら、まず、左剣手のほうに勝味がある。
いわんや、剣鬼左膳……。
その、天下に冠たる左手に握られた、大業物、濡れつばめです。
「おいっ、チョビ安、血を浴びるなよ!」
と、おめいたのが掛け声――風間兵太郎の首が、バッサリ! 音を立てて筵にぶつかった。皮一枚で胴とつながったまんまで……。
一瞬間、縦横に入り乱れた斬っ尖に、壁や天井代りの筵が、ズタズタに切り裂かれて、襤褸のようにたれさがった。
その破れから、左膳はヒョロリと外へ抜け出て、
「広いぞ、ここは。どこからでもこいっ!」
白い剣身に、河原の水明りが閃々と映えて、川浪のはるかかなたに夜鳴きする都鳥と、じっと伸び青眼に微動だにしない、切れ味無二の濡れ燕と――。
が、もう、向かってくるものはない。
清水粂之助をはじめ、残った四、五の柳生の侍たちは、いまの風間の最期に、度胆を抜かれてしまった。
とても、これだけの人数では手に負えない……いずれ同勢をすぐってと、怖いもの見たさに橋の上に立つ人だかりに紛れて、ひとまず立ち去ったのです。
「やりやしたね、父上」
かたわらの草むらから、ヒョッコリ出てきたのは、チョビ安だ。大きなこけ猿の箱を、両手にしっかとかかえています。
さむらいの子は、父などというもんじゃアねえ。父上といえ……という左膳の命を奉じて、つけなくてもいいところへ、盛んに父上をつけるので。
行き当たりばったりの仮りの親でも、親のないチョビ安にとっては、やたらに父を振りまわしたいのかも知れません。
「すげえ、すげえ、おいらの父上ときたら」
チョビ安、讃嘆に眼をきらめかして、父上左膳を見あげている。
翌日は、カラッとした日本晴れ。
風間兵太郎ら、その他の死骸は、町方のお役人が出張して、検視をする。
「深夜におよび、これは狼藉者が乱入いたしたる故、斬り捨てましたる次第……」
という左膳の申し立てだから、役人たちはおどろいて、
「乞食小屋へ強盗がはいるとは、イヤハヤ……」
「下には下があるものでござるて」
と言いかけたやつは、左膳の一眼に、ジロリにらまれて、だまってしまった。
とにかく、押込みだというので死体はそのままおとりすて……風間兵太郎らは、いい面の皮です。
内々は、伊賀の連中ということがわかっていますから、林念寺前の柳生の上屋敷へ、そっと照会があったんですが、そんな、いっぽん腕の浪人者に斬り殺されるような者が、一人ならず、ふたり、三人、剣が生命の同藩から出たとあっては、柳生一刀流の面目まるつぶれですから、高大之進が応対して、さようなものは存ぜぬ。柳生の藩中と称しておったとすれば、とんでもない偽者でござるから、かってに御処置あるよう――立派に言いきってしまった。
が、とり捨てになった死骸は、ひそかに一同が引き取って、手厚く葬ってやったんです。
そして、もうこれで壺のありかはわかったし、すでに犠牲者も出たことであるから、一日も早く、一段と力をあわせて壺を奪還せねば――と誓いを新たにして、ふるい立った。
とともに、丹下左膳という人間の腕前が、いかにものすごいか、それが知れたのですから、それはウッカリ手出しはできないと、一同策をねり、議をこらして、機会をうかがうことになる。
一方……。
壺をここへ置いたのでは、危険であると見た左膳、ああしてこの日に、さっそくチョビ安に命じて、その古巣とんがり長屋の作爺さんのもとへ、こけ猿を持たして預けにやったのです。そこで、あのチョビ安の晴れの里帰りとなったというわけ。
だが、左膳もさる者。
その、壺を持たしてやる時に、同じような箱をどこからか求めてきて、同じようなふろしき包み、こけ猿はここにあると、見せかけて、相変わらず小屋の隅に飾っておくことを忘れなかったので。
チョビ安が、とんがり長屋へ出て行ったあと。
「ひでえことをしやアがる」
ブツブツつぶやいた左膳、尻はしょりをして、小屋のそとにしゃがんで、ゆうべの斬合いで破れた筵の修繕をはじめた。
陽のカンカン照る河原……小屋はゆがみ、切られた筵は縄のようにさがって、めちゃめちゃのありさま。
左膳がぶつくさひとりごとをいいながら、せっせと筵の壁をなおしておりますと……。
ピュウーン!
どこからともなく飛んで来て、眼のまえの筵に突き刺さったものがある。
結び文をはさんだ矢……矢文。
矢……といっても、ほんとの矢ではない。こどもの玩具のような、ほそい節竹のさきをとがらし、いくつにも折った紙を二つ結びにして、はさんだもの。
そいつが、頭上をかすめて飛んで来て、つくろっている筵に、ブスッ! ちいさな音を立てて刺さったから、おどろいたのは左膳で。
「なんでえ、これあ――」
ぐいと抜きとりながらあたりを見まわすと、河原をはじめ、町へ登りになっている低い赭土の小みちにも、誰ひとり、人影はありません。
「矢文とは、乙なまねをしやアがる」
口のなかで言いながら、左膳、その文を矢から取って、ひらいてみた。
躍るような、肉太の大きな筆あと――りっぱな字だ。
「こけ猿の茶壺に用なし。中に封じある図面に用あり。図面に用なし。その図面の示す柳生家初代の埋めたる黄金に用あり。われ黄金に用あるにあらず。これを窮民にわかち与えんがためなり。
すなわち、細民にほどこさんがために、いずくにか隠しある柳生の埋宝に用あり。埋宝に用あるがゆえに、その埋めある場所を記す地図に用あり。地図に用あるがゆえに、その地図を封じこめある茶壺に用あり。早々壺を渡して然るべし」
無記名です……こう書いてある。すなわち、細民にほどこさんがために、いずくにか隠しある柳生の埋宝に用あり。埋宝に用あるがゆえに、その埋めある場所を記す地図に用あり。地図に用あるがゆえに、その地図を封じこめある茶壺に用あり。早々壺を渡して然るべし」
じっと紙をにらんだ丹下左膳、二、三度、読みかえしました。
はじめて知った壺の秘密――左膳はそれにおどろくとともに、もう一人新たに、なに者か別の意味でこの壺をねらっている者のあらわれたことを知って……身構えするような気もち、左膳あたりを見まわした。
依然として、森閑とした秋の真昼だ。
江戸のもの音が、去った夏の夕べの蚊柱のように、かすかに耳にこもるきり、大川の水は、銀灰色に濁って、洋々と岸を洗っています。
「この矢文で見ると、柳生の先祖がどこかに大金を埋め隠し、その個処を図面に書きのこして、茶壺のなかに封じこめてあるのだな……ウーム、はじめて読めた、チョビ安とともにあの壺を預かりしより、昼夜何人となく、さまざまな風体をいたしてこの小屋をうかがう者のあるわけが!――そうか、そうだったのか、昨夜もまた……」
左膳は、眼のまえにたれた筵に話しかけるように、大声にひとりごと。
「しかし、貧乏人にやるとかなんとか吐かしやがって、なんにするのか知れたもんじゃアねえ。貧民に施しをするなら、このおれの手でしてえものだ。こりゃアあの壺は、めったに人手にゃア渡されねえぞ」
そう左膳が、キッと自分に言い聞かせた瞬間、あたまの上の橋の袂から、
「わっはっはっは、矢を放ちてまず遠近を定む、これすなわち事の初めなり、どうだ、驚いたか」
という、とほうもない胴間声が……。
まず矢を放って、遠近を定む。すなわち事のはじめなり……あっけにとられた左膳、片手に矢を握って立ったまま、声のするほうを振りかえりました。
橋の上に、人が立っている――のだが、その人たるや、ただの人間ではない。じつに異様な人物なので。
ぼうぼうの髪を肩までたらし、ボロボロの着物は、わかめのように垂れさがって、やっと土踏まずをおおうに足る尻切れ草履をはいているのだが、丈高く、肩幅広く、腕など、隆々たる筋肉の盛りあがっているのが、その縦縞の破れ単衣をとおして、眼に見えるようである。熊笹のような胸毛を、河風にそよがせて、松の大木のごとく、ガッシと橋上に立った姿……思いきや、街の豪傑、蒲生泰軒ではないか!
「オウ! 貴様は、いつぞやの乞食先生――!」
と、思わず左膳は、一眼をきらめかして、驚異七分に懐しさ三分の叫びをあげたが、橋の上の泰軒居士は、悠々閑々たるもので、
「ウワッハッハッハ、乞食、乞食をよぶに乞食をもってす」
と、そらうそぶいた。
「つまり、同業じゃナ。爾後、昵懇に願おう」
ケロリとしている。
代々秩父の奥地に伝わり住む郷士の出で、豊臣の残党とかいう。それかさあらぬか、この徳川の治世に対して一大不平を蔵し、駕を枉げ、辞を低うして仕官を求める諸国諸大名をことごとく袖にして、こうして、酒をくらってどこにでも寝てしまう巷の侠豪、蒲生泰軒です。
黄金を山と積んでも、官位を囮にしても、釣りあげることのできない大海の大魚……いわば、まあ、幕府にとっては一つの危険人物。
学問があるうえに、おまけに、若いころ薩南に遊んで、同地に行なわれる自源坊ひらくところの自源流の秘義をきわめた剣腕、さすがの丹下左膳も、チョット一目おいているんです。
その泰軒蒲生先生――見ると、相変わらず片手に貧乏徳利をブラ下げ、片手に、竹をまげて釣糸でも張ったらしい、急造の小弓を持っている。
今の矢文の主は、この蒲生泰軒――と知って、左膳二度ビックリ、だが、負けずに、ケロリとした顔で、
「フフン、手前にゃア用あねえが、てめえのその鬚っ面に用がある。手前のひげっ面にゃア用はねえが、その鬚っ面のくっついている首に少々ばかり用があるのだ。首が所望だっ……と、おらあ言いてえよ、うふふふっ」
泰軒は、徳利といっしょに、両手をうしろにまわして、ユックリ背伸びをしました。
「化け物――」
と、静かな声で、左膳に呼びかけた。
「なんだ」
化け物といわれて、左膳は平気に返事をしている。
自分から、ばけものの気……。
橋の上と下とで、変り物と化け物との、珍妙な問答はつづいてゆく。
「これ、其方ごとき者でも、生ある以上、動物の本能といたして、日一刻も長生きしたいと願うであろうナ、どうじゃ……」
生ある以上、いつまでも生きていたかろう、どうじゃ……という、禅味を帯びた泰軒のことばに、左膳はニヤッと笑って、
「なんのつもりで、そんなことをいうのか知らねえが、おらア何も、むりに生きていてえこたアねえ。生まれたついでに、生きているだけのことだ。名分せえ立ちゃア、いま死んでもいいのだが、それがどうした――」
橋の下から見あげて、そう問いかえす左膳の片眼は、秋陽を受けて異様に燃えかがやいている。
泰軒はぐっと欄干につかまって、乗り出した。
「ウム、小気味のよいことをぬかすやつじゃナ。生きておりたいならば、壺を渡せとわしは言うのじゃ」
痩せ細った左膳の腹が、浪を打って揺れたかと思うと、ブルルッと、寒さを感じたように身ぶるいした左膳……さっと、顔まで別人のように、すごみが走った。
金属性の甲高い、ふしぎな笑い声が、高々と秋ぞらに吸われて――。
「なんのために皆が壺をつけまわすか知らなかったが、してみると汝も、柳生の埋宝をねらう一人か。細民にほどこしをいたすなどと、口はばったいことを看板に……イヤ、壺を渡さぬと申すのではない。渡すから腕で取れといっておるのだ」
「さようか。どうせいらぬ命というなら、それもおもしろかろう」
しずかな微笑とともに、泰軒ははや歩き出して、
「いずれ、また会う。それまで、壺を離すなよ。天下の大名物こけ猿の茶壺、せいぜい大切にいたせ」
片手に持っていた竹の小弓を、ポイと河へほうりこんだ泰軒、つきものの貧乏徳利をヒョイと肩にかついで、そのまま、橋上を右往左往する人馬にのまれて見えなくなった。
あとに残った左膳は――。
もう、筵のつくろいをつづける気にもなれない。
ドサリ、小屋のそばの草に腰をおろして、考えこんだ……いままで生きて来た自分の一生、左膳のあたまに、めずらしく、こんなことが浮かぶのです。
相馬中村の藩を出て、孤剣を抱いて江戸中を彷徨するようになってから、いろんなことがあったっけ……手にかけた人の数は、とてもかぞえきれない。冒した危険、直面した一身の危機も、幾度か知れないけれど、それはいったいみんななんであったか――?
左膳が眉をひそめると、刀痕がぐっと浮きたつのだ。
自分はいったい、故郷を出てから、なんのために刀をふるってきたのか――わからない。それが、わからなくなってしまった。
ただ、こういうことだけは言える。じぶんはきょうの日まで、自分のことを考えなかった。その証拠には、いまこうして橋の下の小屋住い……ここで一つ、壺によって、その柳生の埋宝をさがし出し、この風来坊が一躍栄華の夢をみる――それも一生、これも一生ではないかと、剣魔左膳に、この時初めて、黄金魔左膳の決心が……。
白綸子のお寝まきのまま、広いお庭に南面したお居間へ、いま、ノッソリとお通りになったのは、八代吉宗公……寝起きのところで、むっと不機嫌なお顔をしてらっしゃる。
朝の六つ半、すこしまわったところ。
お納戸坊主が、閉口頓首して、御寝の間のお雨戸をソロソロ繰りはじめる、そのとたんを見すまし、つまり、お坊主の手が雨戸にかかるか掛からないかに、お傍小姓がお眼覚めを申し上げるのです。
お居間は、たたみ十二枚。上段の間で、つきあたりは金襖のはまっている違い棚、お床の間、左右とも無地の金ぶすまで、お引き手は総銀に、葵のお模様にきまっていた。
正面の御書院づくりの京間には、夏のうち、ついこの間までは七草を描いた萌黄紗のお障子が立っていたが、今はもう秋ぐちなので。縁を黒漆に塗った四尺のお障子が、ズラリ並んでいる。
まことにお見事……八代さまは、ズシリ、ズシリと歩いて、紺緞子二まい重ねのお褥にすわった。
お庭さきのうららかな日光に眼をほそめて、あーアッ、と大きな欠伸とともに、白地に葵の地紋のある綸子の寝巻の袖を、二の腕までまくって、ポリポリ掻いた。
現代ならここで、朝刊でも、金梨地か何かのほそ長い新聞入れに入れて、お前におすすめするところだが……二人のお子供小姓が、お手水のお道具をささげて、すり足ではいってきた。
さきのお小姓は、黒ぬりのお盥を奉じている。
あとの一人は、八寸の三宝に三種の歯みがき――塩、松脂、はみがきをのせて、お嗽ぎを申し入れる。
それから、お居間からずっと離れたお湯殿へいらせられて、朝の御入浴です。
相変わらず、垢すり旗下愚楽老人が、お待ち受けしていて、お流し申しあげる。
ぜいたくなものです。まア、こうはいかないが、亭主関白の位とかいって、たいがいの人が、家庭で奥さんのまえでは、これに似た調子で大いにいばっているけれども、一歩省線の吊皮につかまって役所なり会社なりへ出ると、社長、重役、部長、課長なんてのが威張っていて、ヘイコラしなくちゃアならない。ちょっと悲哀を感ずることもあるでしょう。ところが将軍様なんてのは、いばりっぱなしなんだから、一日でもこうなってみたら、さぞ痛快だろうと思うんで。
やがてのことに……。
湯からあがってきた吉宗は、平服に着かえて、居間へ帰った。
「お爪を――」
といって、あとを追ってきた愚楽老人が、そこの九尺の畳廊下に、平伏した。手に、小さな鋏を持っている。
いま見ると、この愚楽老人、上様拝領の葵の黒紋つきをはおっているのだが、亀背の小男だから、まるで子供がおとなの羽織を引っかけたようにしか見えない。
吉宗はニコリともせずに、縁に足を投げ出した。
愚楽が冴えた鋏の音を立てて、その爪の一つを切りはじめると、
「柳生は、だいぶ苦しがっておるかの?」
御下問です。
冬は、黒ちりめん。
夏は黒絽を……。
お数寄屋坊主は、各諸侯に接するとき、その殿様にいただいたお定紋つきの羽織を着て出たもので。
だから、下谷御徒町の青石横町に住む、お坊主頭の自宅なんかには、各大名の羽織が何百枚となく、きちんと箪笥に整理されていたもので、まるで羽織専門の古着屋の観、
「オイ、きょうはお城で、阿部播磨守様におめどおりするのだが――」
と出がけに言うと、細君が心得ていて、
「阿部播磨さまは、糸輪入らずの鷹の羽の御紋でしたね。ハイ、そのいの抽斗の、上から三番目のホのところですよ」
なんかと、出してくる。
亀井讃岐守に会うのに、森美作守のお羽織で出ちゃア、まずいんです。
松平能登守は、丸に変り柏。
永井信濃守は、一引きに丸屋三ツ。
丹下左膳は、黒地に白抜きの髑髏……。
こいつアお数寄屋衆には、用事がない。
お大名の袖の下が、唯一の目あてのお茶坊主ですから、そのお大名に会う時は、その御紋のついた羽織でないと、ぐあいがわるい。何人もの恋人からネクタイをもらってるモダンボーイが、特定の彼女とのランデブーには、その彼女のプレゼントであるネクタイをして出かける必要があるようなもの。
同時に。
お数寄屋坊主は、その諸侯の羽織の[#「羽織の」は底本では「羽繊の」]おかげで、殿中でもウンとはぶりがきいたものなんです。おれはきょうは堀備中守さまのお羽織を着ている、イヤ、きょうの下拙の紋は、捧剣梅鉢で加賀中納言様だゾ――なんかといったあんばい。
でも。
その諸侯の長たる将軍家の拝領羽織を着ているものは、ひとりもない。
愚楽老人はお坊主ではございませんが、終始、チャンとそのお拝領を一着におよんでいるのは、この老人たったひとりなのだ。
お湯殿以外のところでは、つねにその羽織を着て、肩で風をきっている。もっとも、三尺そこそこだから、肩で風をきるという、颯爽たるようすにはまいらない。裾はひきずり、手なんかスッカリかくれて、ブクブクです。まるで狼が衣を着たよう……。
それでも、何かというと、背中の瘤にのっかっている大きな葵の御紋を、グイと突き出して見せると、老中でも、若年寄でも、
「へへッ!」
とばかり、おそれ入ってしまう。
本人は得意気で、
「虎の威を借る羊じゃ」
というのが、口癖。よく知っているんです。――上様も、だまって見て、笑っていらっしゃる。
その、拝領のお羽織の袖をまくった愚楽老人……柳生はだいぶ弱っておるかの?
というお問いに答えるまえに、パチン、パチンと、ふたつ三つ将軍のお爪をきりましたが、ややあって、
「埋めある黄金をとりまいて、執念三つ巴、いや、四つ、五つ巴を描きそうな形勢にござりまする、はい」
と、左の足の小指へ鋏を移しながら、言上した。
「ふうむ」
と、八代様は、両手を縁につき、おみ足を愚楽老人の手に預けたまま、
「柳生の財産をめぐって、騒ぎをいたしおると?――じゃが、愚楽、その黄金が埋め隠してあるというのは、たしかな事実であろうな?」
愚楽老人は、またしばらく沈黙です。
すんだ鋏の音が、ほがらかな朝の空気に伝わって、銀の波紋のように、さわやかにちってゆく……。
「へい、事実も事実、上様が八代将軍様で、わっしが垢すり旗下じゃというくらいの紛れもない事実にござります。じゃがな、このことを知っているのは、柳生の大年寄、一風てえお茶師と、あっしぐらいのもんで、へえ。それも、そういう金が、柳生家初代の手で、どこかの山中に埋めてあるということだけは聞いておりますものの、所在は、誰も知りません」
「誰も知らんものを、どうして掘り出す?」
「それがその、こけ猿の茶壺と申す天下の名器に、埋蔵場所を記して封じこんでありますんで。ただいまその壺をとりまいて、渦乱が起こりそうなあんばい……」
吉宗公の眼に、興味の灯が、ぽつりとともりました。
「柳生の金なら、柳生のものじゃのに、何者がそれを横からねらいおるのか。余も、その争奪に加わろうかな、あははははは」
大声に笑った八代様は、半分冗談のような、はんぶん本気のような口調だ。
まじめ顔の愚楽老人は、
「柳生は必死でござります。本郷の司馬道場に、居坐り婿となっております弟源三郎を、江戸まで送ってまいりました連中――これは、安積玄心斎なるものを頭としておりますが、そこへまた、国もとからも、一団の応援隊が入府いたしまして、目下江戸の町々に潜行いたしておる柳生の暴れ者は、おびただしい数でござります。それらがみな力を合わせて、いま申したこけ猿の壺をつけまわしておりますが……かんじんの壺はどこにありますのか、とんと行方が知れませぬ由――」
愚楽の地獄耳といって、巷の出来事は、煙草屋の看板娘の情事から、横町の犬の喧嘩まで、そっくりこの愚楽老人へつつぬけなのだから、この、こけ猿の騒ぎにこんなに通じているのも、なんのふしぎもないけれども、まだ丹下左膳なる怪物のことは、さすがの愚楽老人も知らないようす。
「ほかに、どういう筋から壺をねらっておるのかな?」
「本郷の道場の峰丹波、および、お蓮と申す若後家の一派と――それよりも、何者かこの壺をにぎって、離さぬものがありますので……日光御造営の日は刻々近づいてまいりますし、伊賀の奴ばらは気が気でないらしく、これは大きな騒ぎになって、お膝もとを乱さねばよいがと――」
「その金がのうては、伊賀も日光にさしつかえて、柳生藩そのものが自滅しても追いつかぬであろう。名家のあとを絶やすのは、余の本意ではない」
お縁の天井を仰いで、長大息した吉宗のことばに、愚楽老人は、わが意を得たりといったふうに、にやりと微笑し、
「すると、私の手において別働隊を組織し、柳生に加勢して、壺を奪還いたしますかな?」
爪は切り終わっていました。
八代様は、静かに立って居間へはいりながら、
「しかし、柳生のために壺を取ってやるもよいが、日光じゃとて、それほどの大金は必要あるまい。貧藩を急に富まして、その莫大な金を蔵せしめておくは、これまた不穏の因であろう」
そそくさと羽織を引きずって二、三歩、後を慕った愚楽、ふたたびそこへ平伏するとともに、
「さあ、そこでござりまする。こちらへ壺を入手し、その壺中の書き物によって、埋宝をさがしだし、日光御修営に必要なだけを柳生に下げ戻しまして、あとはお城のお金蔵へ納めましたならば、八方よきように鎮まりますことと存じますが」
下を向いて言う愚楽の声……これは、隠密などが使った一種の含み声で、口の中で小声を発するのだけれども、奇妙に一直線に走って、数間離れた相手にまで、はっきり聞こえる。そして、それ以上遠いところや、部屋の外へなどは、絶対に洩れることのないという、独特の発音法です。
吉宗は、もうその話は倦きたといったように、
「名案じゃ、よきにはからえ」
つぶやくようにいったきり、だまりこんでしまった。
お納戸役が御膳部へ、朝飯のお風味に出かけていったのち、毒味がすんで、お膳を受け取ってお次の間まで運んでまいります。二、三人のお子供小姓やお坊主が、それを引きついで、将軍の御前へすすめる。
入れちがいに、一礼して立ちあがった愚楽老人は、人形がお風呂敷をかぶったような恰好で、御拝領羽織をだぶだぶさせながら、大奥から、お鈴の間のお畳廊下へ出ていきました。
なんとも珍妙な風態だけれど、いつものことだから、行き交う奥女中、茶坊主、お傍御用の侍たちも、さわらぬ神に祟りなしと、知らん顔。
「ソレ、お羽織が通る……」
というんで、誰もこの愚楽老人のことを、まともに呼ぶ者はなかった。城外では、垢すり旗本、殿中では、この、お羽織お羽織で通ったものです。
眼引き、袖引き、ひそかに笑う者があったりすると、愚楽老人、
「御紋が見えぬか」
と、背中のこぶを突き出して、きめつけていく。
真青なお畳廊下。金の釘隠しがにぶく光って、杉の一枚戸に松を描いたのが、ズラリと並んでいる。これが有名な松の廊下……元禄の浅野事件の現場です。
お羽織がそこまでさがってきたとき、お坊主を案内に立てて、向うの角からまがってきた裃姿のりっぱな武士……象のような柔和な眼、下ぶくれの豊かな頬には、世の中と人間に対する深い理解と、経験の皺が刻まれ、鬚にすこし白いものがまじって、小肥りのにがみばしったさむらい。
愚楽老人とその侍が、ちょっと目礼をかわして、すれちがおうとしたとたん、不意に立ちどまった愚楽、
「や! これは奇怪な! なんでこのお羽織を踏まれた。いやさ、なんの遺恨ばしござって、このお羽織の裾を踏まれたか。それを聞こう、うけたまわろう!」
と、やにわに、くってかかりました。
越前守と、官を賜っていても、多く、旗本などがお役付きになるのですから、殿中における町奉行の位置なんてものは、低いものだった。
今……南町奉行大岡越前守忠相、踏みもしない羽織の裾を踏んだと、愚楽老人に言いがかりをつけられて、そのふくよかな顔に困じはてた色を見せ、
「いや、これはとんでもない粗相を――平に御容赦にあずかりたい」
弁解はいたしません。踏みもしないのに、しきりにあやまっている。
上様以外、お城に怖いもののない愚楽老人は、ますます亀背の肩をいからせて、つめよりながら、
「そういえば、貴殿は大岡殿であったな。不浄役人に、この羽織をけがされたとあっては、愚楽、めったに引きさがるわけにはゆき申さぬ」
かさにかかっての無理難題……忠相を案内して来たお坊主は、かかりあいになるのを恐れて、おろおろして逃げてしまう。
愚楽の声が高いから、人々は何事かと、眼をそばだてていくのです。
松のお廊下は、千代田城中での主要な交通路の一つ。
書類をかかえて、足ばやに通りすぎるのは、御書院番の若侍。
文箱をささげ、擦り足を早めて来るのは、奥と表の連絡係、お納戸役付きの御用人でしょう。退出する裃と、出仕の裃とが、肩をかわして挨拶してすぎる。
いわば、まあ、交通整理があってもいいくらいの、人通りのお廊下だ。
その真中で、南のお奉行大岡様をつかまえて、愚楽老人が、かれ独特のたんかをきっているんですから、たちまち衆目の的になって、
「またお羽織が、横車を押しているぞ」
「ぶらさがられておるのは、大岡殿じゃ。早くあやまってしまえばよいのに」
それは、言うまでもないので、大岡越前、さっきからこんなに、口をすっぱくして詫びているんですが、愚楽老人、いっかな退かない、
「この年寄りは胸をさするにしても、お羽織がうんと承知せぬわい」
無礼御免の大声をあげた愚楽は、
「こっちへござれ! 篤と言い訳を聞こう」
そう、もう一つ聞こえよがしにどなっておいて、ぐいと大岡様の袖を掴むなり、そばの小部屋へはいっていく。
大岡越前守忠相は、泰然たる顔つきです。愚楽老人に袖をとられたまま、眉一つ動かさずに、その控えのお座敷へついて行きましたが……ピシャリ、境の襖をたてきった愚楽、にわかに別人のごとき声をひそめ、
「ただいまは、とんだ御無礼を――ま、ああでもいたさねば、尊公と自然に、この密談に入るわけにはまいりませなんだので」
大岡様は、事務的です。
「いや、それはわかっております。して、このたびの御用というのは、どういう……?」
「例の壺の一件ですがナ」
と、愚楽老人、神屏風を作って伸びあがるとともに、御奉行の耳へ、何事かささやきはじめた。
「いかがいたしたものでござりましょう」
というのは、峰丹波がこのごろ、日に何度となく口にしている言葉なので……。
いまも、そう呟いたかれ丹波は、月光にほの白く浮かんでいるお蓮様の横顔を、じっとみつめて、
「不意をおそって斬るにしても、かの源三郎めに刃の立つ者は、当道場には一人も――」
「うるさいねえ」
と、お蓮は、ふっと月に顔をそむけて、吐き出すように、
「ほんとに、業が煮えるったら、ありゃアしない。弱虫ばっかりそろっていて――」
丹波の苦笑の顔を、月に浮かれる夜烏の啼き声が、かすめる。
「当方が弱いのではござりませぬ。先方が強いので」
「同じこっちゃあないか、ばかばかしい。あの葬式の日に、不知火銭を拾って乗りこんで来て、名乗りをあげた時だって、お前達はみんな、ぽかんと感心したように、眺めていただけで、手も足も出なかったじゃないか。ほんとに、いまいましったら!」
お蓮様の舌打ちに、合の手のように、草の葉を打つ露の音が、ポタリと……。
それほど閑寂。
妻恋坂の道場の庭――その庭を行きつくした築山のかげに、小暗い木の下闇をえらんで、いま立ち話にふけっているのは、源三郎排斥の若い御後室お蓮様と、その相談役、師範代峰丹波の両人。
あれから源三郎、ドッカとこの道場に腰をすえて、動かないんです。
と言っても、もう萩乃と夫婦になったわけではない。ただ、一番いい奥座敷を、三間ほど占領して、源三郎はその一室に起居し、安積玄心斎、谷大八等の先生方は、源三郎を取りまいてその一廓に、勝手な暮しをしているのだ。
同じ屋敷にいながら、司馬道場の人々とは、顔が合っても話もせず、朝晩の挨拶もかわさないありさま……一つの屋敷内に、二つの生活。
持久戦にはいったわけだ。
どっちかが出るか、押し出されるか――。
こいつはよっぽど変わった光景で、お蓮様、峰丹波の一派は、源三郎を婿ともなんとも認めないばかりか、路傍の人間がかってにおしこんできたものと見ているので、われ関せず焉と、どんどん稽古もすれば、先生亡きあとの家事の始末をつけている。
伊賀の暴れん坊の一団は。
見事な廊下で、男の手だけで煮炊きをするやら、洗濯をして松の木にほすやら……当家の主人は、こっち側とばかり、梃子でも動かぬ気組み。
「どうにかせねばなりませぬ。いかがいたしたものでござりましょう」
これが毎日続いてきたんですから、丹波も悲鳴をあげて、これが口癖になるわけ。
「萩乃様は泣いてばかり――」
いいかけた丹波の言葉を、お蓮様は横から奪って、
「うるさいねえ。あたしだって、泣きたくなるよ」
と、どうやら急に、色っぽい口調……丹波が闇を透してのぞくと、お蓮様は顔をしかめて、切り髪の根に櫛を入れて、きゅっと掻いている。
「おい、天野、魚を縦に切るやつがあるか。骨などあってもかまわんから、こう横にぶった切って、たたきこんでしまえ。おうい、瀬川! 貴様、大根を買いに行くと言って、これは牛蒡ではないか」
「豆腐はどうした、豆腐は?」
「飯の係は、斎田氏ではないか。こげ臭いが、斎田はどこへいった」
「斎田か。きゃつはいま、庭へ出て、燈籠を相手にお面、お小手とやりおったぞ」
奥座敷の次の間から、廊下一面に、にわかに買いこんできた水桶、七輪、皿、小鉢……炊事道具をいっさいぶちまけて、泉水の水で米をとぐ。違い棚で魚を切る。毎日毎晩、この騒ぎなので――。
自分達こそ、この屋敷の正当の権利者とばかり、かってきままの乱暴を働いている伊賀の連中、障子を破いて料理の通い口をこしらえるやら、見事な蒔絵の化粧箱を、飯櫃に使うやら、到らざるなき乱暴狼藉。
その真ん中に泰然と腰をすえて、柳生源三郎、憂鬱な蒼白い顔で、がんばっているんです。
忍耐くらべ……。
先主司馬先生が萩乃の婿と決めただけで、公儀へお届けがすんだわけではない。源三郎は婿の気でいても、お蓮様や峰丹波は、いっこうに認めていないんですから、そこでこの居すわり戦となったわけで、間にはさまって一番困っているのは、当の萩乃だ。
恋い慕っていたあの植木屋が、実は夫と決まっている源三郎様……と知った喜びも束の間、彼女は、柳生の一団の住んでいる奥座敷と道場の者が追いつめられている表屋敷との、ちょうど中間の自分の部屋に、あれからずっととじこもったきりで、誰にも顔を見せない。
いつまでも、源三郎たちを、こうしておくわけにはいかない。
そこで丹波、今夜そっとお蓮様を、この奥庭へつれだして、源三郎の処置を相談しはじめたのだが――。
「うるさいねえ」
というのがお蓮様の一点張り。
「いったいいかがなされるおつもりで。斬り捨てることはできず、さりとて、このまま傍若無人に――」
「フン、源三郎様に刀を向けたりすると、このあたしが承知しませんよ」
ふとお蓮さまは、思わずほんとの心が口に出たのに、自らおどろいたようすで、とっさに笑い消し、
「むかったって、かないっこないくせに――ほほほほ、まあ、あわてないで、あたしにまかせてお置きよ」
源三郎という名を口にする時の、お蓮様のうっとりした顔つきに、峰丹波は心配そうに、
「拙者らの手に負えぬ者を、あなたがいったい、どうなさろうというので――」
「うるさいねえ。男と女の間は、男と男のあいだとは、また違ったものさね。それにどうやら、あの源三郎は、このあたしなら、なんとかあやつれそうだからね。うるさいね。だまって見ておいでよ」
すんなりしたお蓮様の姿が、もう、築山をまわって歩き出していた。
「お嬢様、あの、萩乃様……」
侍女の声に、萩乃は、むすめ島田の重い首を、突っぷしていた経机からあげて、
「何よ、うるさいねえ」
「いえ、お嬢さま、毎度同じことをお耳に入れて恐れ入りますけれど、そうやって毎日とじこもって、ふさぎこんでばかりいらしっては、いまにお身体にさわりはしないかとお次の者一同、こんなに御心配申しあげているのでございますよ」
「好きなようにさせておいてくれたらいいじゃないの。うるさいねえ。どうしたらいいっていうの?」
振り向いた萩乃の顔は、絹行燈の灯をうけて、白く冴えている。ほつれ髪が頬をなでるのを、眉をひそめて邪慳に掻きあげながら、
「あたしの心は、誰もわかってくれないのだからよけいなことを言わずに、うっちゃっておいてくれたらいいじゃないの」
「またそんな情けないことをおっしゃいます。こうしておそばについております私どもに、どうしてお嬢様のお心がわからないはずがございましょう。お父様がお亡くなりになるとまもなく、人もあろうにあの乱暴者がああやってはいりこんできて昼も夜もあのまあ、割れっ返るような騒ぎ……」
女中がだまりこむと、はるか離れた奥座敷で、伊賀の連中の騒ぐ声が手にとるように聞こえてくる。今夜も酒宴が始まったらしい――。
ちょうど、庭の築山のかげで、お蓮様と丹波が話しこんでいる同じ時刻に、こうして女中の一人が、萩乃を慰めにその居間をのぞいたところです。
女中が顔をしかめて、
「ほんとに、田舎者のずうずうしいのには、かないませんよ。お婿さんだなんていったって、先殿様がお決めになったばかりで、お嬢様がこんなにお嫌い遊ばしていらっしゃるのに、なんでしょう、まア、ああやってすわりこんで……そういえばお嬢さま、あの朝鮮唐津のお大切な水盤を、あの伊賀の山猿どもが持ち出して、まあ、なんにしていると思召す? さっきちょっと見ますと、あれをお廊下の真ん中に持ち出して、泥だらけのお芋を洗っているじゃアございませんか。あんまりくやしいから、なんとか言ってやろうと思ったんでございますけれど、あの鬼のような侍達に、じろりとにらまれましたら、総身がぞうっとしまして、どんどん逃げてまいりました。イエ、まあ、わたくしとしたことが、自分ながら意気地のない……ホホホホホ」
「ほんとに、うるさいねえ。あたしは頭痛がするんだから、そこでおしゃべりをしないでおくれ」
「なんと申してよいやら、おいたわしい。あんな田舎ざむらいにすわりこまれては、誰だって病気になりますでございますよ」
「いいえ、だからお前達は、ちっともあたしの気を察しておくれでないっていうのよ。いいから、あっちへ行っておくれ」
「とんでもございません。あんな山猿。どんなにかお嫌であろうとこんなにお察し申して――」
「うるさいねえ、ほんとに」
萩乃は、キリキリと歯をかんでゆらりと長い袂を顔へ……。
「若、あのお蓮様とやら申す女狐が、お眼にかかりたいと申しておりますが……」
と玄心斎が敷居際に手をついたとき、源三郎は、座敷の真ん中に、倒した脇息を枕にして――眠ってでもいるのか、答えは、ない。
「お会いになる用はないと存じまするが、いかが取りはからいましょう」
「う、うるせえなあ」
むっくり起きあがった源三郎、相変わらず、匕首のような、長い蒼白い顔に、もの言うたびに白い歯が、燭台の灯にちかちかする。
「ど、ど、どこへ来ておる」
「そこのお廊下までまいっております。強って御面会を得たいという口上で……」
「自分でまいったのか」
「はい、自身できておりますが」
ちっと考えた源三郎は、
「折れたのかも知れぬ。会おう」
起とうとするのを、玄心斎は静かにひきとめて、
「や、ちょっとお待ちを。あの峰丹波をだきこんでおりますことだけでも、かの女狐は、なかなかのしたたか者ということは知れまする。こうやってわれら一同、いま文句が出るか、きょうにも苦情をもちこんでまいるか、何か申して来たら、それを機会に、この道場をこちらの手に納めてやろうと、かく連日連夜したい三昧の乱暴を働いて、いわばこれでもか、これでもかと喧嘩を吹っかけておりますのに、きょうまでじっとこらえて、なんの音沙汰もなかったところは、いや、なかなかどうして、敵ながらさる者。拙者の考えでは、ことによると、先方のほうが役者が一枚上ではないかと……」
「うるさい。会うのはやめいと申すのか」
「いえ、おとめはいたしませんが、いかなる策略があろうも知れませぬ故、充分ともにお気をおつけなされて……」
「女に会うに、刀はいるめえ」
つぶやいた源三郎は、玄心斎の手を静かに振り払って、懐手のまま、ずいと部屋を出て行った。
つぎの間から廊下へかけて、無礼講に立ちさわいでいた柳生の門弟達が、にわかにひっそりとなるなかを、供もつれずに廊下を立ち出た源三郎は、
「どこに?」
「はい、あちらのお廊下の角に――」
と、とりついだ門之丞の眼くばせ。
むっとした顔で、大股にあるいてきた源三郎を、お蓮様は、眉の剃りあとの青い顔を、ニッコリほほえませて迎えました。
「まあ、あれっきり、まだ御挨拶にも出ませんで」
そう愛想よく言いながら、お蓮様は先に立って、その表屋敷へ通ずる長廊下を、ぶらりと歩き出す。
ところどころに雪洞の置いてある、うすぐらい廊下……源三郎には、ふとそれが、夢へ通ずる道のように思われたのです。
「いや、当方こそ――父上の御葬儀の節には、いろいろと御心配に預かり、かたじけのうござった」
父上と、わざと力を入れた源三郎の言葉に、お蓮様は艶やかにふりかえって、
「源様、いつまでこうやっていらっしゃるおつもり?」
嬌然と笑った。
「いや、そちらこそ、いつまでこうやって楯突くつもりかな」
源三郎は、にこりともせずに、蹴るような足どりで、歩いて行く。
奥座敷をすこし遠ざかると、柳生の連中の騒ぎが、罩もって聞こえるばかり……長い廊下には人影一つなく、シインとしている。
一つの邸内には、柳生と司馬とをつなぐ桟橋。
「御用というは、ナ、ナ、ナ、なんでござる」
と、源三郎がつかえるのは、相手に対して、幾分の気安さをおぼえた証拠です。
内輪ではつかえるが、四角張った場合には、決してつかえない源三郎だ。
「用といって……わかっているじゃアありませんか」
お蓮様は、急に思い出したように、片手を帯へさしこみ、身をくねらせて、ビックリするほど若やいだ媚態。
「御相談がありますの」
斜めに源三郎を見上げた眼尻には、鉄をもとかしそうな若後家の情熱が溢れて……。
鉄をもとかす――いわんや、若侍の心臓をや。
というところだが。
源三郎は、さながら、石が化石したような平静な顔で、
「母上……」
と、呼びなおした。
母上――こいつは利きました。源三郎のほうでは、あくまで萩乃の婿の気。その順序からいえば、故先生の御後室お蓮様は、なるほど母上に相違ないのだが、色恋の相手と見ている年下の男に、いきなり母上とやられちゃア、女の身として、これほどお座の醒める話はない。
ことに今、恋愛工作の第一歩にはいりかけたやさき、お蓮様は、まるで、出鼻をピッシャリたたかれたような気がした。
あなたはお幾歳でしたかしら。お年齢のことも考えていただきたい――そう言われたようにひびいて、年上のお蓮様は、ゲンナリしてしまいました。
同時に、勃然たる怒りが渦巻いて、お蓮様は壁のような白い顔。口が皮肉にふるえてくるのを、制しも敢えず、
「母上!――まア、あなたは手きびしい方ね。あたしは、お前さんのような大きな息子を持ったおぼえはありませんよ。ほほほ、なんとかほかに呼びようはないものかしら」
うらみを含んだまなざしを、源三郎は無視して、
「あすにも道場をお明け渡しになれば、あなただけは母上として、萩乃ともども、生涯御孝養をつくしましょう。さすれば、お身も立とうというもの。悪いことは申しませぬ」
「あたしはねえ、源様、あの丹波などにそそのかされて、お前様にこの道場をゆずるまいと、いろいろ考えたこともありましたけれど、源様というお人を見てから、あたしはすっかり変わったんですよ。今はわたしも、亡くなった先生と同じ意見で、ほんとに、あなたにこの道場を継いでもらいたいと思うんです」
しんみりと語をきったお蓮様は、すぐ、炎のような熱い息とともに、
「でも、それには、たった一つの条件がありますの」
「条件――?」
と、向きなおった源三郎へ、お蓮様は、顔一杯の微笑を見せて、
「お婿さまはお婿様でも、そのお婿様の相手を変えるのが、条件……」
灯のほのかな長廊下のまがり角だ。
立ち話をしている源三郎と、お蓮様の影が、反対側の壁に大きく揺れている。
源三郎は、両手をふところにおさめてそりかえるような含み笑いをしながら、
「ハテ、婿の相手が変わるとは?」
「萩乃からあたしへ」
言いつつお蓮様は、つと手を伸ばして、源三郎の襟元へ取りすがろうとするのを、一歩退ってよけた源三郎、
「ジョ、ジョ、冗談じゃアねえ」
ほんとにあわてたんだ。
「母上としたことが、なんと情けないことを。老先生のお墓の土が、まだかわきもせぬうちに、娘御の婿となっております拙者に、さようなけがらわしいことをおっしゃるなどとは、プッ! 見下げ果てた……」
源三郎、懐中の右手がおどり出て、左の腰際へ走ったのは、いつものくせで、刀の柄に、手をかける心。
無刀なのを、瞬間忘れたほどの怒りでした。
「先生にかわって御成敗いたすところだが、まずまず堪忍……丹波とはちがい、さような手に乗る源三郎ではござらぬ」
お蓮様は、壁にはりついて、あっけにとられた顔で、源三郎をみつめている。
それは、言い知れない驚愕の表情であった。この自分の媚びを手もなくしりぞける男が、この世に一人でもあることを発見したおどろき。
自信をきずつけられた憤りに、お蓮様は、総身をふるわせて、
「よろしい。よくも私に、恥をかかせてくれましたね。それならば今までどおり、どこまでも戦い抜きましょう。お前はあくまでも萩乃の婿のつもり……だが、こちらでは、無態な田舎侍が、なんのゆかりもないのに押しこんで、動かぬものと見ますぞ。また根較べのやり直し――それもおもしろかろう、ホホホホホおぼえておいで」
きっと言いきったお蓮様が、源三郎をのこして、足ばやに立ち去ろうとした時、
「源三郎様っ!」
と泣き声とともにそこの角から転び出たのは、裾ふみ乱した萩乃だ。
聞いていたんです、廊下のまがり角に身をひそめて。
侍女のさがるのを待って、源三郎恋しさのあまり、会ってどうしようという考えもなく、ふらふらと居間を立ち出でた萩乃が夢遊病者のようにこの廊下にさしかかると、壁にもつれる人影――何心なくたちどまった耳に、今までの二人の話が、すっかり聞こえてしまったので。
「どうぞ、源三郎さま、お母様のおっしゃるとおりになすって……あたくしは、どこへでもまいります。もう、もう、一人で――」
泣きたおれようとする萩乃を、源三郎は、片手にガッシと抱きとめて、
「いかがなものでござる、母上。似合いの夫婦で……ははははは」
ニヤッと、はじめて、魔のようなほほえみ。
振り返ったお蓮様は、トンと一つ、踊りのような足踏みをして、
「うるさいねえ、ほんとに。かってにするがいい」
だが、その眼はキッと萩乃をにらんで、おそろしい嫉妬に、火のよう……。
「お手入れか。作爺さんが何をしたというんだ」
「あれはお前、ああ見えたって、押しこみ、詐り、土蔵破りのたいした仕事師なんだとよ」
作爺さん、えらいことになってしまった――。
「なにを言やアがる。あの作爺さんにかぎって、そんなことのあるはずのもんじゃあねえ。でえいち乗りこんで来ている侍達が、おれの眼じゃあ、八町堀じゃあねえとにらんだ」
「それにしても、まっぴるま長屋へ押しこんで来て、ああやって爺さんを脅かしつけているからにゃア、お役筋の絡んでいる者に相違ねえ」
「いや、待て。わからねえぞ。なんだか知らねえが、預かっている物を出せとか言って、大声をあげているぜ」
とんがり長屋の入口は、わいわいいう人集り……。
残ったにしては根強い暑さかな――洒落たことを言ったもので、まったく、江戸の残暑ときちゃア、読んで字のごとく残った暑さにしては、根が深い。
いつまでも、つづく、
今日も朝から、赭銅色の太陽がカッと照りつけて、人の心を吸いこみそうな青空――。
街には、一面に土陽炎がもえて、さなきだにごみごみしたとんがり長屋のあたりは、脂汗のにじむ暑さです。
その汗を、額いっぱいに浮きださせて、
「いやいや、その方の宅に、こけ猿の茶壺をかくしてあることを、突きとめてまいったのじゃ」
わめきたっている侍がある。
長屋の真ん中、作爺さんの住居です。
さっきからこのさわぎなので、長屋は、奥の紙屑拾いのおかみさんが双生児を産んだ時以来の大騒動。でも、みんなこわいものだから、遠く長屋の入口にかたまって、中へはいってこない。
一間っきり作爺さんの家に、あがりこんでどなっている武士は、四人――どこの家中か、浪人か、服装を見ただけではわかりません。
昼間だけに、さすがに覆面はしていないが、身もとをつつんできていることは必定。
狭いところに大の男が、四人も立ちはだかっているのだから、身動きもならない。
お美夜ちゃんはすっかりおびえて隅の壁にはりついたような恰好。円らな眼を恐怖に見開いて、どうなることかと、侍たちを見上げています……。
作爺さんは、すこしもあわてない。
押入れの前にぴったりすわって、
「へい、ある筋より頼まれまして、風呂敷に包んだ木箱を一つ、預かっておりますが、何がはいっておるかは、この爺いはすこしも存じませんので」
「うむ、それじゃ。その箱を出せと申しておるのに」
「いや、手前はあけて見たわけではござりませぬが、こう、手に持ちまして手応えが、どうも、おたずねの茶壺などとは思えませぬので」
「だまれ。だまれ、汝のところに、こけ猿の茶壺のまいっておることは、かの、チョビ安とやら申す小僧のあとをつけた者があって、たしかに木箱を持ってここへはいるところを見届けたのだ。当方には、ちゃんとわかっておるのだぞ」
あの日、左膳のもとから壺を運んで来たチョビ安を、ここまで尾行して来た者があったと見えて――。
そいつは、言わずと知れた、れいのつづみの与吉にきまっているのだがサテ、その与の公の知らせをうけて、こうしてきょう乗りこんで来たこの四人は?
林念寺前の柳生の上屋敷に陣取っている、高大之進一派の者か?
それとも、源三郎とともに本郷の道場にいすわっている、同じ柳生の、安積玄心斎の手の内か?
あるいは……。
その道場の陰謀組、峰丹波の腹心か。
ことによると――愚楽老人が八代公との相談から、そっと大岡様へ耳こすりした、その方面から来た侍か……?
こうなると、さっぱりわかりません。
だいたい、あのつづみの与吉なる兄さんは、あっちへべったり、こっちへベッタリ、その場その場の風向きで、得になるほうにつくのだから、はたして誰がこの与吉の報告を買いこんで、壺の木箱がここにきていることを知り出したのか、そいつはちょっと見当がつかない。
今や、四方八方から、壺をうかがっているありさま。
まだ、このほかに、巷の豪、蒲生泰軒先生まで、これは何かしら自分一人の考えから、ああして壺をつけまわしているらしい。
年長らしい赭ら顔の侍が、とうとうしびれをきらして、さけびをあげました。
「親爺! どけイ! その押入れをさがさせろっ」
「いや、お言葉ではござりますが、手前も、引き受けてお預かりしたものを、そう安々と――」
「何をぬかす。いたい目を見ぬうちに、おとなしくわきへ寄ったがよいぞ」
「しかし、私はあくまでも、内容は壺ではねえと存じますので」
「まあ、よい。壺でなくて、何がはいっておる? うん? 開けて見れば、わかることだ」
「お侍様、りっぱな旦那方が、四人もおそろいになって、もし箱の中身が壺でございません時には、いったいどう遊ばすおつもりで――?」
「うむ、それはおもしろい。賭けをしようというのじゃな。さようさ、その箱に壺がはいっておらん場合には……」
と、ひとりが他の三人の顔を見ますと、三人は一時にうなずいて、
「そのときは、やむを得ん。拙者らの身分を明かすといたそう。親爺、それでどうじゃ、不服か」
「なるほど。あなた方のおみこみがはずれたら、御身分をおあかしくださるか。いや、結構でござります」
「待て、待て。そこで、もし壺がはいっておった場合には、貴様、いかがいたす」
「この白髪首を……と、申し上げたいところでござりますが、こんな首に御用はござりますまい。なんなりと――」
「よし、それなる娘を申し受けるといたそう。子供のことじゃ、連れていってどうしようとは言わぬ。屋敷にでも召し使うが、そのかわり、おやじ、生涯会われぬぞ」
「ようがす」
と、うなずいた作爺さん、さっと押入れをあけて鬱金の風呂敷に包んだ例の茶壺の木箱をとりだし、四人の前におきました。
「さ! お開けなすって」
四人のうちのひとり、小膝を突いて、袖をたくしあげた。
「世話をやかせた壺だ……」
「これさえ手に入れれば、こっちの勝ちだテ」
他の三人をはじめ、作爺さんの手が、ふろしきの結び目をとく手に、集中した。
お美夜ちゃんも、隅のほうから、伸びあがって見ている。
家の中が静かになったので、長屋の連中も一人ふたり、路地をはいって来て、おっかなビックリの顔が戸口にのぞいています。
バラリ、ふろしきがほどける。現われたのは、黒ずんだ桐の木箱で、十字に真田紐がかかっている。
その紐をとき、ふたをとる――中にもう一つ、布をかぶっているその布をのぞくと、
「ヤヤッ! こ、これはなんだ……!」
四人はいっしょに、驚愕のさけびをあげた。
石だ!――手ごろの大きさの石、左膳の小屋のそばにころがっていた、河原の石なんです。
ウウム! と唸った四人、眼をこすって、その石をみつめました。
しかも。
水で洗われて円くなっている石の表面に、墨痕あざやかに、字が書いてある――。
虚々実々……と、大きく読める。
下に、小さく、いずれをまことと白真弓……とあるんです。
あの丹下左膳が、チョビ安にこの壺を持たして、ここ作爺さんのもとへ預けによこした時、左膳も相当なもので、どこからか同じような箱と風呂敷を見つけてきて、それは橋下の自分の小屋へ置くことにしたと言いましたが、さては、かんじんのこけ猿の茶壺は、そっちの箱に入っていて、いまだに左膳の掘立て小屋にあるとみえる。
囮につかわれたチョビ安――さてこそ、人眼につきやすい、あのおとなびた武士の扮装で、真っ昼間、壺の箱を抱えて小屋を出たわけ。
じぶんの小屋から、壺の箱らしいものが出れば、必ず、なに者かがあとをつけるに相違ないと、左膳はにらんでいた。
まさに、そのとおり……おまけに、こどものくせに、いっぱしの侍の風をした異装だから、まるでチンドン屋みたいなもので、あの日あのチョビ安が、与吉にとって絶好の尾行の的となったのは、当然で。
それがまた、左膳のねらいどころ。
開けてくやしき玉手箱――この四人のびっくりぎょうてんも、左膳のおもわくどおりであります。
石のおもてに、左膳が左腕をふるって認めた文字……虚々実々、いずれをまことと白真弓――この揶揄と皮肉と、挑戦をこめた冷い字を、ジッと見つめていた四人は、いっせいに顔をあげて、
「やられたナ、見事に」
「ウム。すると、壺はまだ、例の乞食小屋に――」
「むろん、あるにきまっておる!」
作爺さんを無視して、四人バタバタと家を駈け出ようとするから、こんどは、作爺さんが承知しません。
「ちょっとお待ちを……それでは約束がちがいます」
と呼びとめました。
お約束が違いはしませんか……と、引きとめられた四人の侍は、一時に、作爺さんを振りかえって、威丈高――。
「約束? いかなる約束をいたしたか、身どもはすこしもおぼえておらんぞ」
作爺さんは、畳に片手を突いて、にじりよった。
こんな裏長屋に住む、羅宇なおしのお爺さんとは思えない人品骨柄が、不意に、その作爺さんの物腰ようすに現われて、とんがり長屋の作爺さんとは世を忍ぶ仮りの名、実は……と言いたい閃きが、なにやらパッと、その開きなおった作爺さんの身辺に燃えあがって、四人は思わず、歩きかかっていた歩をとめて見なおしました。
「これは、両刀をお番えになるお武家様のお言葉とはおぼえませぬ。その箱をあける前に、中身が壺であったら、この私の小女郎をお連れなさる、そのかわり、もし壺がはいっておらなんだ節は、お四人様のお身分をおあかしくださると、あれほどかたい口約束ではござりませなんだか」
作爺さんの枯れ木のような顔に、さっと血の色がのぼって。
「このとおり、箱のなかみは石ではござりませぬか。さ、御身分をおあかしください」
詰めよられた四人は、ちょっと当惑の顔を見あわせたが、箱をあけた頭だった一人が、のしかかるようににらみおろし、
「これ、これ、約束とは対等の人間の間で申すことだ。武士と武士、町人と町人のあいだなら、重んずべき約束もなりたとうが、貴様のような、乞食同然のやつと、武士の拙者等と、約束もへちまもあるものか」
くるしまぎれに、理外の理屈をあみだして、またもや家を出かかりますから、作爺さんは別人のように、声を荒らげ、
「何を申さるる! 自らの言は食むさえあるに、その得手かってのいい分……」
いいかける作爺さんを、じっと見ていた一人は、
「これ、その方は根ッからの長屋住まいではないナ。ただいまの其方の言動、曰くある者と見た。何者の変身か、その方こそ名を名乗れ」
その尾について、もう一人が、
「そうだ。拙者らの身分、身分と申して、この親爺こそ、ただものではあるまい。おいっ、身もとを明かせ。明かさぬかっ」
作爺さんは、はっとわれに返ったようで、
「と、とんでもございません。私はただの羅宇なおしの作爺で、お歴々の前に、身分を明かすなんのと、そんな――」
「貴様、この箱に壺がはいっておらんことを、前にあけて見て知っておっただろう」
「いえ、あけては見ませぬ。が、手に持った重みから、なんと申しましょうか、手応えが、茶壺ではないと感じておりましたので」
「手に持っただけで、それだけのことがわかるとすれば、いよいよ貴様は、何者かの変名――」
「問答無益だ!」
一人がさけんだ。
「はじめから約束が違う以上、当方こそ約束どおりに、この娘を引っさらって行かねばならぬ」
と、いきなり、隅にふるえているお美夜ちゃんを横だきにかかえこんで、追いすがる作爺さんをしりめにかけ、そろって家を出ようとするとたん、ぬっと戸口をふさいで立ったのは、房々と肩にたらした合総、松の木のような腕っ節にぶらりとさげたのは、一升入りの貧乏徳利で……。
泣きさけぶお美夜ちゃんを片手にかかえた一人、それにつづく三人が、掌を合わせて追いすがる作爺さんを一喝して、その長屋を立ち出でようとしているところへ――。
ずいと土間へはいりこんできたのは、あの、風来坊の蒲生泰軒先生。
元来が風のような先生で、空の下、地の上ならば、どこでも自分の家と心得ているのですから、到るところへふらっと現われるのは、当然で。
いつでも、どこにでもいるのが泰軒居士……同時に、さア用があるとなると、どこを探してもいないのが、この泰軒先生なのだ。
いま、この通りかかった竜泉寺の横町で、長屋の前のただならない人だかりを見て、何事だろうとはいって来たのですが、
「わっはっはっは――」
と、まず、笑いとばした泰軒は、
「めざしが四匹、年寄りと娘を相手に、えらく威張っておるな」
尻切れ草履をぬぎ捨てて、埃だらけの足のまま、あがりこんできました。
あっけにとられたのは四人で、思わずお美夜ちゃんを畳へおろし、
「なんだ、貴様は!」
「人に名を聞くなら、自ら先に名乗ってから、きくものだ」
「貴様ごときに、名乗る名は持たぬ」
事面倒になりそうなので、そうお茶をにごした四人が、長居は無用と、こそこそと出て行こうとする後ろから、また、われっかえるような泰軒の笑い声がひびいて、
「名乗らんでも、おれにはちゃんとわかっているぞ。道場へ帰ったら、丹波にそう言え。長屋にあります箱は、偽物でした、とナ」
「道場? どこの道場?」
「丹波とは、何者のことか」
と、そう四人は、口ぐちにしらをきったが、本郷の道場の者と見破られた以上、このうえどじを踏まないようにと、連れ立って足ばやに、路地を出ながら、
「おどろいたな。あの仁王のようなやつが、おれたちが司馬道場の者と知っているとは――」
「あいつは、そもそも何者であろう」
「虚々実々、いずれをまことと白真弓……か、うまく一ぱいくわされたぞ」
「かの与吉と申す町人、われわれにこんな恥をかかせやがって、眼にものみせてくれるぞ」
空威張り――肩で風を切って、とんがり長屋の路地を出てゆく。もうこうなると、長屋の連中は強気一点ばりで、
「おう、どうでえ。八や、あの鬼みてえな乞食先生が、フラリとはいっていったら、めだか四匹逃げ出したぜ」
「おうい、おっかア、波の花を持ってきなよ。あの四人のさんぴんのうしろから、ばらばらっと撒いてやれ」
振りかえってにらみつけると、どっと湧く笑い。四人は逃げるように、妻恋坂をさして立ち去りましたが、さて、そのあと。
せまっくるしい作爺さんの家では、きちんとすわりなおしたお爺さんが、お美夜ちゃんをそばへひきつけて、
「どなたかは存じませぬが――」
大胡坐の泰軒先生へ向かって、初対面の挨拶をはじめていた。
「どなたかは存じませぬが――」
と言いかけた作爺さんの言葉を、泰軒居士は、ムンズとひったくるように、
「いや、おれがどなたかは、このおれも御存じないような始末でナ……かたっくるしい挨拶は、ぬき、ぬき――」
大声に笑われて、作爺さんは眼をパチクリ……鬚むくじゃらの泰軒の顔におどろいて、お美夜ちゃんは、そっと作爺さんのかげへかくれましたが。
何を見たものか泰軒、突如、戸口へ向かって濁声をはりあげたものだ。
「見世物じゃないっ! 何を見とるかっ!」
権幕におどろいて、おもてからのぞいていた長屋の連中、
「突っ腹に聞くと、眼のまわりそうな声だ」
「おっそろしい人間じゃあねえか。侍ともなんとも、得体のしれぬ化け物だ」
口々にささやきながら、溝板を鳴らして逃げちっていくと、遠のく足音を聞きすました泰軒は、やおら形をあらため、
「卒爾ながら、おたずね申す」
いやに他所行きの声です。
「それなる馬の彫り物は、どなたのお作でござるかな?」
と指さした部屋の隅には、木片に彫った小さな馬の像が、ころがっているんです。
そばに、うすよごれた布に、大小数種の鑿、小刀などがひろげてあり、彫った木屑がちらかっているのは、さっきあの四人が押しこんで来る前まで、作爺さん、この仕事をしていたらしいので。
いつかも、あのチョビ安が、突然里帰りの形でこの石ころの入った木箱を持ちこんできた時、作爺さんは部屋じゅう木屑だらけにして、何か鉋をかけていましたが、あのときもひどくあわてて、その鉋屑や木片を押入れへ投げこんだように、今も、この泰軒の言葉に大いに狼狽した作爺さんは、
「イエ、ナニ、お眼にとまって恐れ入りますが、これが、まあ、私の道楽なので、商売に出ない日は、こうして木片を刻んでは、おもちゃにしております。お恥ずかしい次第で」
と聞いた泰軒、何を思ったかやにわに手を伸ばし、その小さな馬の像を拾いあげるや、きちんとすわりなおして、しばし黙々とながめていたが、ややあって、
「ウーム! 御貴殿のお作でござるか。さぞかし、ひそかに会心のお作……」
うなりだしてしまった。
その、キラリとあげた泰軒の眼を受けて、こんどは作爺さんが、おそろしく驚いたようす。
「や! それを傑作とごらんになるところを見ると――」
じっと泰軒をみつめて、作爺さん、小首をひねり、
「ウーム……」
いっしょにうなっている。
まったく、現代で申せば、民芸とでもいうのでしょうか。稚拙がおもしろみの木彫りとしか、素人の眼にうつらない。
と! いきなり泰軒が、大声をはりあげて、
「おおっ! 馬を彫らせては、海内随一の名ある作阿弥殿――」
叫ぶように言って、作爺さんの顔を、穴のあくほど……。
作爺さんの驚きは、言語に絶した。
しばらくは、口もきけなかったが、やがてのことに、深いためいきとともに、
「どうしてそれを!……かく言う拙者を作阿弥と看破さるるとは、貴殿は、容易ならざる眼力の持主――」
「なんの、なんの! ただ、ごらんのとおり雨にうたれ、風に追われて、雲の下を住居といたす者、チラリホラリと、何やかや、この耳に聞きこんでおりますだけのこと。当時日本に二人とない彫刻の名工に、作阿弥という御仁があったが、いつからともなく遁世なされて、そのもっとも得意とする馬の木彫りも、もはや見られずなったとは、ま、誰でも知っておるところで……」
作爺さんは、仮装を見破られた人のように、ゲッソリしょげこんでしまったが。
事実、このとんがり長屋の住人、羅宇なおしの作爺とは、世を忌み嫌ってのいつわりの姿で、以前は加州金沢の藩士だったのが、彫刻にいそしんで両刀を捨て、江戸に出て工人の群れに入り、ことに、馬の木彫に古今無双の名を得て、馬の作阿弥か、作阿弥の馬かとうたわれた名匠。
「ふうむ。この小さな馬が、いまにも土煙を立て、鬣を振って、走り出しそうに見えるテ」
ほれぼれと、長いことその馬の彫り物を、手に眺めていた泰軒は、
「して、その作阿弥殿がいかなる仔細にて、この陋巷に、この困窮の御境涯――」
問われたときに、作阿弥は暗然と腕をこまぬき、
「高潔の士とお見受け申した。お話し申そう」
語り出したところでは……。
かれには、たった一人の娘があったが、作阿弥の弟子の、将来ある工人を婿にえらび、一、二年ほど夫婦となって、このお美夜ちゃんを産んだのち、その良人が惜しまれる腕を残して早世するとともに、子供だいじに後家をたてとおすべきだと、涙とともに一心に説いた父、作阿弥の言をしりぞけて、自らすすんで某屋敷へ腰元にあがり、色仕掛で主人に取り入り、後には、そこの後添えとまでなおったが、近ごろ噂にきけば、その老夫もまた世を去って、ふたたび未亡人の身の上だというが……それやこれやで、おもしろからぬ世を捨てた父作阿弥と、ひとり娘のお美夜ちゃんとの隠れすむこのとんがり長屋へは、もう何年にも、足一つ向けたことのない気の強さ――。
作阿弥と、蒲生泰軒とは、初対面から二人の間に強くひき合い、結びつける、眼に見えない糸があるかのよう……まもなく二人は、十年の知己のごとく、肝胆相照らし、この、疑問のこけ猿の茶壺を中心に、いま、江戸の奥底に大いなる渦を捲き起こそうとしている事件について、夜のふけるまで語りあったが――
いずくを家とも定めぬ泰軒、どこにいてもさしつかえない身分なので、この日から彼、乞われるままにこのとんがり長屋の作阿弥の家へ、ころげこむことになったのです。
えらい居候……とんがり長屋に、もう一つ名物がふえた。
その夜、泰軒は、お美夜ちゃんの手をひいてニコニコ顔で、長屋じゅうの熊公、八公のもとへ、引越蕎麦をくばってあるきました。
先の業とは、相手が行動を起こそうとするその鼻に、一秒先立って、こっちからほどこす業。
後の先の業とは……?
相手が動きに移ろうとし、または移りかけた時に、当方からほどこす業で、先方の出頭を撃つ出会面、出小手、押え籠手、払い籠手。
先々の先の業――とは。
先の業のもう一つさきで、相手が業をしかけようとするところを、こっちが先を越して動こうとする、そのもう一つさきを、相手のほうから業をほどこす、これが先々の先の業。
竹屋の渡しに、舟を呼ぶ声も聞こえない。真夜中近く、両側の家がピッタリ大戸をおろした、浅草材木町の通りを、駒形のほうへと、追いつ追われつして行く黒影、五つ、六つ……七つ。
近くの空まで、雨がきているらしい。闇黒に、何やらシットリとしめった空気が流れている。鎬から棟、目釘へかけて、生温かい血でぬらぬらする大刀濡れ燕を、枯れ細った左手に構えた左膳は、
「くせの悪いこの濡れ燕の斬っ尖どこへとんでいくか知れねえから、てめえらたちっ、そのつもりでこいよっ」
しゃがれた声で、ひくく叫んだ。
髑髏の紋が、夜目にもハッキリ浮かんで、帯のゆるんだ裾前から、女物の派手な下着をだらりと見せた丹下左膳、足を割って、何かを踏まえているのは、これこそは、こけ猿の茶壺に相違ない風呂敷の木箱。
そしてその足もとには、例のチョビ安がうずくまっているので。
したい寄る影は、みな一様に黒の覆面に、黒装束。どこの何者ともわからないが、いっせいに剣輪をちぢめて、ヒタヒタヒタと進んでいく群れのなかに、
「よいかっ。一度にかかれっ! 壺はとにかく、小僧をおさえろ、小僧を!」
との声がするのは、たしかに、この壺捜索のために伊賀から江戸入りしている、柳生の隊長高大之進だ。
一気に壺を奪取しようと、月のない今宵を幸い、橋下の左膳の小屋へ斬り込みをかけたのだが、早くも二、三人にその濡れ燕を走らせた丹下左膳は、チョビ安に箱をだかせて、ともにこの材木町の通りを、いま、ここまで落ちのびて来たのだけれど。
払っても、抗っても、すがりよってくる黒法師のむれに、二人はまさに、おいつめられた形で。
左膳、こうして壺を大道の真ん中に置かせ、それをガッシと片あし掛けて、チョビ安を後ろにかばい、ここにしいた背水の陣だ。
この機会を逃がしては……と!
気負いたった伊賀勢、一人が駈けぬけて、真ッ向から左膳に激突するつもり!
だが一人ふたりの相手よりも、大勢を向うにまわしてこそ、刃妖の刃妖たるところを発揮する丹下左膳。
ニヤリと、笑った。
「安っ! 離れるなよっ」
左足を一歩引いて空を打たせ、敵の崩れるところを踏みこんで、剣尖からおろす唐竹割り、剣法でいう抜き面の一手です――左膳の体勢は、すこしもゆるがず、つぎの瞬間、また水のごとき静けさに返っています。
江戸のこどもの遊びに、「子を取ろ子とろ」というのがあった。これは明治のころまでありました。子供が多勢、帯につかまって一列になり、鬼になった子が前へ出てその列の最後の子をつかまえようとする。
「子を取ろ子とろ」
と、鬼になった子がさけぶ。
すると、一列縦隊のこどもたちが、一番おしまいの子を守りながら、
「さあ、取ってみなさいな」
と大声をあわせて、呼ばわるのだった。
かなり古い遊戯で、当時は子供達の間に、非常に流行ったもの。仏教のほうからきた遊びだといいますが、なんでも地獄の獄卒が、こどもたちをつれて通りかかると、戒問樹という木の下に、地蔵菩薩が待っていて、お地蔵さんは子供の神様で情け深い方ですから、こどもたちのために哀れみを乞います。獄卒はこどもを渡すまいとする。お地蔵さんは取ろうとする。その、お地蔵様と獄卒との間に、取ろう取られまいとする争いがもちあがって、これが「子を取ろ子とろ」の遊戯になったのだという。
とにかく……。
この「子を取ろ子とろ」が、この深夜、材木町の通りに斬りむすぶ剣林のなかに、始まった。
「小僧をつかまえてしまえっ」
高大之進は、大声にわめきながら疾駆して、
「壺はかまうな。子供をつかまえろっ」
チョビ安をひっとらえて、即座の人質にしようというのだ。
取ろうとする伊賀の一団が、お地蔵様か。
渡すまいとする丹下左膳が、地獄の獄卒か――。
「安ッ! すきを見て逃げろヨッ!」
左膳が、ちょっと後ろを振りむいて、チョビ安にささやいた……これが敵には、乗ずべきすきと見えたものか、かたわらの天水桶のかげにひそんでいた黒影一つ、やにわに、刀とからだがひとつになって、飛びこんできた。
左膳としては。
足に踏まえているこけ猿の壺にも、気をくばらねばならぬし、うしろのチョビ安にも、心をとられる。
左膳の濡れ燕を、頭上斜めにかざして、ガッシリと受けとめるが早いか、二本の剣は、さながら白蛇のようにもつれ絡んで……鍔競り合いです。
歯をかみしめた左膳の顔が、闇に大きく浮かびでる。
鍔ぜり合いは、動の極致の静……こうなると、思いきり敵に押しをくれて、刀を返しざま、身を低めて右胴を斬りかえすか。
または……。
こっちが押せば向うも押し返す、この押し返して来たところを力を抜き、敵の手の伸びきったのに乗じて、やはり刀をかえして右胴を頂戴するか。
二つに一つ。
だが、鍔競りあいの胴打ちは、大して力のきかぬものとされているから、どう動くにしても、最大の冒険です。
先にうごいたほうが、命をとられる。左膳も、その覆面の敵も、ギリッと鍔をかみあわせたまま、まるで二本の柱のように、突ったっている。とりまく一同も、柄を持つ手に汗を握って、声もありません。
真夜中の斬りあいに驚いて、両側の商家の二階窓が、かすかに開き、黄色い灯の条のなかに、いくつも顔が並んで見下ろしている。
すると、ふしぎなことが起こったのです。
左膳が、スーッと刀をおろしながら、その相手から二、三歩遠ざかった。
それでも、その男は、刀を鍔ぜり合いの形に構えたまま、斬っ尖に天をさして、凝然と立っている。
柱によりかかっていた人が、フワリとその柱をはなれる時のように、左膳は日常茶飯事の動作で、一間ほどその男から遠のいたのですが、黒い影は、まだガッキと腕に力をこめて、大地に根が生えたよう……。
離れた左膳は、不意に、大切なこけ猿を相手の足もとへ置いてきたのに気がついた、またブラリと引き返して、刀を口にくわえ、それを左手に抱きあげてもとのところへ帰って……相手は作り物のように、まだ鍔競り合いの恰好のまま動かないんです。周囲の伊賀の連中は、このありさまに何事が起こったのかと、あっけにとられて眺めているばかり――。
だが、さすが名剣手の高大之進だけは、心中に舌をまきました。
その、刀をくわえて、ボンヤリ壺を取りにひっかえしている左膳のどこにも、一点のすきもないんです。ピンの先で突いたほども、気の破れというものがない。
すると、ここにふたたびふしぎなことが起こったので。
二、三間離れて、壺を左の腋の下にかかえこんだ丹下左膳が、その、まだ一人立っている黒い影へ向かって、ひだり手に刀を持ちなおし、
「やいっ、汝アもう死んでるんだぞ。手前の斬られたのを知らなけれア世話アねえや」
さけんだかと思うと、その黒い影が大きく前後にゆらいで、まるで足をすくわれたように、バッタリ地に倒れました。同時に、右から左へかけてはすかいに胴がわれて、一時に土を染めて流れ出す血、臓腑……いつのまにか、ものの見事に斬られていたんです。
もののはずみというものは、おそろしい。死んだまま立っていたまでのこと。剣の妙も、こうなるとものすごいかぎりで、斬られた本人が気がつかないくらいだから、あたりの者は、誰も知らないわけ。
呆然としている柳生の侍達を、しりめにかけ、
「また出なおすとして、今夜はこれで、帰れ、帰れっ」
あざけりを残した左膳、濡れ燕をさげた左の腋の下に、こけ猿をかかえて歩き出したが……。
ハッとわれに返った高大之進をはじめ柳生の面々、こうなるとすきも機会もありはしない。一度に、渦巻きのように斬ってかかった。
一本腕の左膳が、刀と壺を持つのだから、防ぐためには、また壺を地面におろさなければならない。チョビ安に持たせておくのは不安だから――で、左膳が、
「まだ来る気かっ、性懲りもねえ」
うめきざま、不自由な身で、刀を口に銜えながら、左わきの下の壺を左手に持ちかえて足もとへおこうとした刹那、ドッと襲いかかる足の下をくぐったチョビ安、逃げる気で、いきなり駈けだしたんです。
「そら、小僧を……」
誰かがさけぶ声がした。一同は左膳を捨ててチョビ安を追いにかかったが、こま鼠のようなチョビ安、白刃の下をでるが早いか、駒形の通りをまっすぐにとんで、ふいっと横町へきれこんだ。
「馬鹿ア見やしたよ」
藍微塵の素袷で……そのはだけたふところから、腹にまいたさらし木綿をのぞかせ、算盤絞りの白木綿の三尺から、スイと、煙草入れをぬきとった。
つづみの与吉はあぐらをかいている。
「それでさ、あるやつの小屋から、あるチョビ助のあとをつけてネ、その行った先を見とどけたと思ってくだせえ。目ざす品物が、チャンとそこへ納まったと見てとったから、一番金になるほうへ、そっと売りこんでやったのさ。そこまでアいったが姐御、先方が、いきおいこんで踏みこんでみるてえと、外見はそのねらっていた品物でも、中は石ころじゃアねえか。あっしは、呼びつけられの、どなられの、庭先へ引きすえておいて、すんでのことで斬るてえところを、泣いてたのんでゆるしてもらったんだが、あっしも、こんどてえこんどだけは、面目玉を踏みつぶしやしたよ」
司馬の道場から、与吉の報告にこおどりして、あのとんがり長屋の作爺さんのところへでかけていった峰丹波の一味、石をのぞいて帰っただけじゃア、どうにも腹の虫が納まらないから、与吉をブッタ斬ると息まいたのも当然で、思い出しただけで、与吉は身ぶるいをしています。
市松格子の半纏を、だらしなく羽織った櫛巻きお藤の顔へ、与吉のふかす煙草の煙が、フンワリからむ。
駒形をちょっとはいった、尺取り横町は櫛巻きお藤の隠れ家だ。
ふふんと笑ったお藤、だまって与吉から煙管をとって、一服ふうとふきながら、
「三下が、言うことがいいや。面目玉をふみつぶしたって、お前なんざ、はじめっから、ふみつぶす面目玉がありゃアしないじゃないか。手を合わせて命乞いしたところを見たかったよ」
カラリと煙管を投げ出して、
「ある人の小屋から、ある子供のあとをつけて、あるところへ……なんかと、あたしに聞かせてぐあいのわるい話なら、はじめからだまっているがいい。いやに気をもたせて、なんだい、おもしろくもない。お前、なにかたいへんなことを、あたしに隠しているね?」
与吉はいったいかってなやつで、このお藤姐御の家にだって、よっぽどいるところがなくなって困らないかぎり、てんで寄りつきもしないのだ。だから、与吉がこうやってころげこんでくるのは、目下八方ふさがりの証拠で――もっとも、相手が与の公ですから、お藤姐御はてんで歯牙にもかけていない。来れば来たかで、部屋の隅っこへごろ寝をさせてやるだけで、一つ屋根の下に泊まっていても、なんということはないんです。
丹下左膳が、つい近くの、浅草の橋の下に小屋を結んでいることは、与吉はまだ、お藤姐御に隠してあるので。
明かせば、いまだに左膳へ対して抱いている恋心から、姐御は、さっそく左膳のほうへ味方をするにきまっている。それじゃア敵をふやすようなもので、こけ猿の茶壺を種に、司馬の道場へ加勢するか、あの伊賀の連中へ与するか、どっちにしろ、ここでぼろい儲けをしようとたくらんでいる与の公にとっては、大痛事。
で、黙っていたんだが、隠していることがあると図星をさされてみると、相手は姐御の貫禄、与吉、グウの音もでないでいる時、不意に、表の路地にバタバタとあわただしい跫音。
「おや、なんだろうね、いま時分」
お藤の眉が、美しい八の字を描いて――。
ガラッ!……格子があいた。
お藤姐御は、乱れた裾前から、水色縮緬の湯巻をこぼし――。
与吉は、素袷の膝をひっつかんで。
二人が突ったったとたん!……飛びこんで来たんです、息をきらした一人の子供が、せまい土間へ。
朧の明りにすかし見た与の公、素頓狂な声をあげて、
「やっ! 手前はいつかの小僧じゃアねえか。飛んで灯に入る夏の虫――」
講釈場仕込みの文句を口に、与吉、つかつかと土間へおりようとすると――。
飛びこんで来たチョビ安は、必死の顔色だ。与吉とお藤へ向かって、かわるがわるに、小さな手をあわせたのは、かくまってくれという意味であろう。
「シイッ!」
と、与吉へ眼くばせとともに、無言をたのんだチョビ安は、内部からしっかと格子をおさえているが、その、恐怖と狼狽にみちたようすを、お藤姐御は、両手をだらしなく帯へ突っこんで、上がり框の柱にもたれたまま、じっと見おろしているんです。
「太え餓鬼でさあ、こん畜生は」
と、与吉は、得たりと大声に、
「はじめこいつが、壺をさらって、突っ走りやがったばかりに……またこの間は、乙な服装をしやがって、偽物の壺で、まんまとおいらにいっぺえくわしたのも、この餓鬼だ」
「誰かに追われているんだよ、しずかにしておやりよ」
お藤の眼が、ギロリと与吉へはしって、
「壺ってのは、いつかお前が持ってきて、しばらくここへ置いといた、あの薄汚い壺のことだね? すると、今も、ある子供のあとをつけて、なんて、お前がひどくうらんでいたのは、この兄ちゃんだったのかい。なんだか、隠し立てしていることが、そろそろほぐれてきそうだから、おもしろいねえ」
与吉はまごまごして、
「やいっ! ここをどこと思って飛びこんで来た。摘み出すぞ」
「相手が子供だと、与の公もえらい鼻息だね。だが、お前がそんなにいじめるなら、あたしは、この兄ちゃんの味方になるから、そう思うがいい……ねえ」
と、まだ懸命に格子をおさえているチョビ安へ、
「あたしはね、櫛巻きお藤っていうのさ。あたしんとこへ飛びこんできたからには、決して悪いようにはしやアしない、大船へ乗った気でおいで」
「よけいな侠気ってもんだ。悪い病えだなア」
与吉は往生して苦笑しましたが、チョビ安は、かわいい顔を振りむけて、
「小母ちゃん、あたい、チョビ安っていうんだよ。悪い侍達に追っかけられているの。助けてね」
「ああ、いいとも。安心しておいで。だがねえ、兄ちゃん、小母ちゃんてのはまだ可哀そうだよ。姉ちゃんぐらいにしておくれ」
お藤が笑ったとき、路地の溝板をふんで、行きつ戻りつする多人数の跫音は、ただごとではありません。
「あ、来た……!」
おびえたチョビ安のしのび声と同時に、自暴になった与の公、突拍子もない大声で叫んでしまった。
「チョビ安の小僧なら、ここに逃げこんでおりやすよ! へい」
「オヤ! なんだい与の公、せっかくあたしが助けてやろうと思っているのに――」
いまの与吉の大声で、路地の跫音がいっせいに、この家の表に集まって、ドンドンドン!
「あけろ、あけろ!」
「あけぬとたたッこわすぞ」
お藤姐御は、グッと癪にさわって、真剣な顔だ。
与吉を、にらみつけた。
「ごらん、馬鹿ッ声をはりあげるもんだから、雑魚が寄ってきたじゃないか!」
ピシャリ! 白い平手が空にひらめいて、与吉の頬に、大きな音がした。
姐御のビンタを食った与吉、こうなると、もう自棄のやん八です。
駒形一帯にひびき渡るような濁声をしぼって、
「戸外の旦那方ッ! 諸先生ッ! チョビ安をおさがしでござんすか、ここにおりやす。ここに逃げこんで……!」
「まあ、なんて野郎――!」
姐御は、もう一つ与吉の横面をはりとばして、胸ぐらをとって小突きまわしたが、その時はもう表の戸は、ぐいぐいあけられかかっている。
しばらく中から、戸をおさえてはみたものの、子供の力の詮すべくもなくもう諦めてしまってチョビ安は、
「なあに、ようがす、べつにとって食おうたア言うめえ」
落ちついたものです。相変わらずませた口をききながら、襟をあわせ、前をなおし、従容として捕えられるしたく、衣紋をつくろっていると……パッ! 戸があいた。踏みこんできました、ドヤドヤと――。
黒装束に黒の覆面の伊賀の連中、懸命に左膳をくいとめている一人、二人を残して、高大之進を先頭に、こうしてチョビ安を追ってきたんだ。
子を取ろ子取ろ……壺よりも、まず子供をつかまえようという魂胆なので……。
子供は今や、鬼の手に――。
はいった土間に、チョビ安が両手を後ろに組んで立っているんですから、高大之進がいきなり手を伸ばして、
「小僧! 神妙にしろ」
お捕り方みたいなことをいって、ぐいと肩をつかもうとした瞬間、ピョイと上がり框へとびあがったチョビ安、お藤の後ろへまわって、
「姉ちゃん! なんとかしておくれよ。この連中はあたいを捕えて、父上の持っている大事な壺と、とっかえっこしようとしてるんだからサ」
読めた! 人質にしようとしているんです、チョビ安を。
持って生まれた性分で、どうもよわいほうに味方したくなるんですから、お藤も因果な生れつき。
襟をつかんでいた与吉を、ドンと突っぱなした櫛巻きお藤の姐御、肩からずり落ちそうな半纏を、ひょいと一つ揺りあげながら、ぶらりと一歩前へ出て、
「吹けばとぶような長屋でも、一軒の世帯、あたしはここのあるじでございます。誰にことわって、この家へおはいりになりましたか。まず、それから伺いたいものですねえ」
無言です。
一同は、黒い影を重なりあわせて、押しあがってきました。
「なんです、土足でっ!」
お藤姐御の癇走った声も、耳にも入れない伊賀の連中……なんとか受け答えをすれば、お藤も、それに対していいようもあり、またその間に考えをめぐらして、とっさの策をたてることもできるのですが、黙っているんでは、さすがのお藤も相手ができない。
「この子に、指一本でもさわってごらん、あたしが承知しないよ」
金切り声でさけびながら、チョビ安を後ろにかばって、争ってみましたが、
「小僧っ、静かにしろっ!」
一人の手がやにわに伸びて、チョビ安の首根っ子をおさえると同時に、
「女、さわがせてすまんな」
高大之進の声です。静かにいって、つと、お藤姐御を後ろ手におさえてしまった。
与吉は?
と、見ると、こいつ、例によって逃げ足の早いやつで、あわてふためいて、戸外の闇へ……。
「チョビ安とやら申したな。貴様をとらえて、斬ろうの殺そうのというのではない。貴様と引き換えに壺をもらおうというだけのことだ。だが、彼奴がどうしても壺を渡さんという時は、不憫ながら命をもらうかも知れぬからそう思え」
「お侍さん」
おくれ毛をキッと口尻にかみしめた櫛巻きお藤は、両手の骨の砕けるほど、高大之進に強く握られながら、艶な姿態に胴をくねらせて、ひとわたり黒頭巾を見上げ、
「この子は、今いきなりあたしのところへ飛びこんできたばかりで、いったいなんの騒ぎか、ちっとも存じませんけれど、いま壺がどうとやらおっしゃいましたね? それは、いま逃げていったつづみの与吉が、いつぞやここへ持ってきて、しばらくお預かりしたことのある壺でござんしょうが、それなら、あたしもまんざらかかり合いのないこともございません。まア、この手をお離しなすって、エイッ、離せって言うのに!」
「卑怯なまねをするなあ」
うそぶいたのは、チョビ安です。
「斬合いじゃあ敵わないもんだから、おいらをつかまえて、父上をくるしめようなんて、武士のするこっちゃねえや」
「ほざくなっ!」
と、チョビ安をおさえる一人が、いかりにまかせて、彼の小さな身体を畳へ押しころがし、ぎゅっと上からのしかかったとたん。
「あっ! やって来たっ!」
誰かの声に、一同の顔が戸口に向いた。
闇を背景に、格子をふさいで立っている白衣の痩身。手のない右袖が、夜風のあおりをくらってブラブラしているのは……丹下左膳。
だまって室内をながめまわしています。左の腋の下に壺をかかえ、その左手に血のしたたる濡れ燕をひっさげ、蒼くゆがんだ笑顔――。
「父上ッ」
チョビ安の声と同時に、
「あっ、お前様は、丹下の殿様――」
と、お藤が驚声をあげるまで、それが誰だか、左膳は気がつかないようすでした。
高大之進の一隊が、チョビ安の影を踏んで、路地の奥へ追いこんでいるあいだ……。
なんとかして、一刻も長く左膳をくいとめようと、刀をふるって駒形の街上に立ち向かった、二、三人の柳生の黒法師は。
剣鬼左膳の片手から生あるごとく躍動する怪刀濡れ燕の刃にかかって……いまごろは、三つの死骸が飛び石のように、夜の町にころがっているに相違ない。
壺も壺だが。
気になるのは、チョビ安の身の上。
野中の一本杉のような丹下左膳、親も妻子もない彼に、ああして忽然として現われ、親をもとめる可憐な心から、仮りにも自分を父と呼ぶチョビ安は、いつのまにか、まるで実の子のような気がして、ならないのでした。
ほんとうの人間の愛を、このチョビ安に感じている左膳なんです。
もう、半狂乱。
壺の木箱を左の腋の下にかいこみ、同じ手に抜刀をさげて、あわてたことのない彼が、一眼を血眼にきらめかし、追われて行ったチョビ安の姿をさがしもとめて、駒形も出はずれようとするここまで来ると。
とある横町に、パッと灯のさしている家があって、ガヤガヤという怒声、罵声の交錯。でも、ふっとのぞいてみたそこに、チョビ安がおさえられているのみか、あの櫛巻きお藤がとぐろを巻いていようとは、実に意外……!
「なんだ、お藤じゃアねえか。ここはおめえの巣か」
言いながら左膳、冷飯草履をゴソゴソとぬいで、あがってきた。
狭い家中に、いっぱいに立ちはだかっている黒装束の連中などは、頭から眼中にないようす。
まるで、お藤とチョビ安だけのところへ、のんきに訪ねて来たようなふうだ。
「どうした」
「おひさしぶりでしたねえ、左膳の殿様。手を突いて御挨拶をしたいんですけれど、ごらんのとおり、とっちめられていて、自由がききませんから、ホホホホホ……」
「おいっ、あまり世話をやかせるものではないぞ」
その時まで黙っていた高大之進が、いきなり左膳へ向かって、こう口を開きました。
「多くはいわぬ。壺が大事か、子供の命が大事か――ソレッ」
眼くばせをうけて、チョビ安をおさえている一人の手に、やにわに寒い光が立った。抜き身の斬っ尖を膝に敷きこんだチョビ安の喉元へ擬したのです。
返答いかに?
おとなしく壺を渡せばよし、さもなければ、血に餓えたこの刃が、グザとかわいい小さなチョビ安の咽喉首へ……。
チョビ安は、しっかり眼をつぶって、身動きもしない。できない。
左膳は、どっかとあぐらをかきました。
「まあ、話をしようじゃアねえか」
「えいっ、渡すか渡さぬか、それだけいえっ」
「あたいは死んでもいいから、壺をやらないでね」
むじゃきなチョビ安の言葉に、左膳は、たった一つの眼をうるませて、
「おれがここで暴れだしゃア、その前に、チョビ安の頸が血を噴くってわけか。コーッと、なるほどこいつア、手も足も出ねえゾ――」
実際こうなってみると、いかに刃妖丹下左膳でも、ほどこすすべはない。
チョビ安の咽喉と白刃との間には、五分、いや、三分のすきもないので。
左膳の返事一つで、その斬っ尖がチョビ安の首に突きささることは、眼に見えている。
伊賀の連中も真剣だ。
決しておどかしでないことは、その、チョビ安に刀を構えている侍の、黒覆面からのぞいている血走った眼の色でも、わかるんです。
静寂……秋の夜更けは、身辺に黒い石を積みかさねるように、圧しつけるがごとく感じられる。
沈黙を破ったのは、この隊の頭目、高大之進でした。
「子供をたすけたいと思うなら、さ、それなる壺を拙者の前にさしだされい」
左膳は、隻眼を笑わせて、凝然と天井を振りあおいでいる。
チョビ安は無言……お藤も、今はもう言葉もなく、うなだれているばかり、はだけた襟の白さが、この場の爆発的な空気に、一抹の色を添えて。
「返答はどうしたっ! 返答はっ」
もう、完全に左膳を隅へ追いつめたのですから、伊賀っぽう、めっぽう気が荒いんです。
一人がそうどなった。
その尾について、ほかのひとりが、
「夜が明けるぞ、夜が」
「下手の考え休むに似たり。ええ面倒だ。小僧の首をもらってしまえ」
たちさわぐ部下を制した高大之進覆面の眼を、得意げに輝かせて、
「なかなか御決心がつかぬとみえますな。よろしい、拙者がいま、十まで数を数えますから、その間に御返事をねがいたい」
と、チョビ安をおさえつけている侍へ向かい、
「よいか、おれが十まで数えても、うんともすんともいわなかったら、気の毒だが、その子供の首をひと刺しにナ……」
「心得ました。十のお声と同時にブツリ刺し通してもかまわないのですね」
「そうだ。十の声を聞いたら、やっちまえ」
シインとした中で、やおら左膳に向きなおった高大之進は、きりっとした声で、数えはじめました。太く、低く、静かに……。
一、二、三、四――五――。
ゆっくり間をおいて、
「六……」
誰かが、エヘン! と、咳ばらいをした。
「七――」
左膳の焦慮は眼に見えてきた。娘一人に婿八人、各方面から、この壺をねらう者の多いなかに、片腕の孤剣を持って、よくここまでまもり通してきたものを、今むざむざ……。
と、言って。
ためらったが最後、かわいいチョビ安の命はないもの。
右せんか、左せんか。左膳の額部に、苦悶の脂汗が――。
「八――九……」
「待った!」
くるしい左膳の声だ。
「しかたがねえ。負けた」
静かに、壺を畳へ置いて、高大之進のほうへ押しやりました。
「ウム、神妙な――」
微笑した大之進、それでも、めったに油断をみせません。片手に抜刀を構えたまま、じっと上眼づかいに、左膳をみつめて。
ソロリ、ソロリ……片手で風呂敷をときにかかった。
一座の眼は、その指先に集まっている。
鬱金の風呂敷が、パラリと落ちると、時代で黒ずんだ桐の木箱。
大之進は、ピタとその蓋に手をおいて、
「おのおの方ッ、こけ猿の茶壺でござるぞ。われわれの手で取りもどしたは、真に痛快事。これで、気を負い剣を帯して、江戸表まで出てまいった甲斐があったと申すもの」
一人が、四角ばって、すわりなおした。
「殿の秘命をはたし得て、御同様、祝着至極……」
「この問題も、これにて解決。殿のお喜びようが眼に見えるようでござるワ」
「さっそく、明朝江戸を発足いたし……」
謹んで、壺の蓋をおさえていた高大之進は、その間も、左膳から眼をはなさずに、
「当方にとってこそ、絶大なる価値を有する壺、だが、其許には、なんの用もないはず。おだやかにお渡しくだすって、千万かたじけない」
左膳、女物の派手な長襦袢からのぞいている、痩せっこけた胡坐の毛脛を、ガリガリ掻いて、
「ウフフフ、あんまりおだやかでもなかったぜ。今になって礼を言われりゃア世話アねえや」
チョビ安もゆるされて、ピョッコリ起きあがって、ちょこなんとすわっています。
お藤も手を放されて、居住いをなおすなかに、つと声をあらためた高大之進、
「役目のおもて、大之進、お茶壺拝見」
おごそかに言いながら、ピョイと蓋をはじいた。
蓋は軽い桐材。四角い紙のように、ピョンと飛んで畳を打つ。
のぞきこんだ大之進といっしょに部屋中の眼が箱の中へ――
赤い絹紐であんだすがりの網に包まれて、柳生名物の茶壺、耳こけ猿が、ピッタリとその神秘の口を閉ざし、黒く黙々とすわっている……のが、一瞬間、みなの眼に見えた。
だが。
錯覚。そうと思いこんだ眼に、一時それが実在のごとく閃めいただけで、恋しなつかしのこけ猿の茶壺! と、思いきや!
鍋なんだ、中にはいっているのは。
破れ鍋が一つ、箱の底にゴロッと転がっているんです。
驚きも、声の出るのはまだいい。
高大之進も、左膳も、室内の一同、まじまじと箱の中をのぞいた眼を、互いの顔へパチクリかわしているだけで、なんの言葉もありません。
そうでしょう、大きな鍋が、鉄のつるを立てて、箱のなかにどっかと腰をすえているところは、真っ黒な醜男が勝ちほこった皮肉の笑いを笑っているようで――。
「ウム!」
「フーム」
左膳と大之進が、いっしょにためいきをついたとき、鍋に、一枚の紙片のはいっているのが眼についた。驚きのあまり敵も味方もなくなって、左膳が拾いあげてみると、達者な筆で、
「ありがたく頂戴」
とある。
橋の下の小屋住居に[#「小屋住居に」は底本では「小屋住居に」]、朝夕眼をはなしたことのない壺。
それが、こうして中身が変わっていようとは!
いつ、何者にぬすまれたのか、左膳にも、チョビ安にも、すこしの心当りもありません。
左膳とチョビ安、四つの眼、いや三つの眼で見はっていた壺が、いつのまにやら鍋に化けて、しかも、ありがたく頂戴と嘲笑的な一筆。
丹下左膳不覚といえば、これほどの不覚はないが、がんらいが剣腕一方のかれ左膳、いかなる手品師の早業か、すきを狙われては、どうにも防ぎようがなかったらしく。
こけ猿の茶壺は、とうの昔に左膳をはなれて、何者かの手に渡っていたのだ。
では、どこへ行ったか。
「ウーム、わからねえ、どう考えてもふしぎだ……」
一眼をとじ、沈痛にうめいている左膳を、チョビ安は唖然と見上げて、
「ねえ、父上。どうして盗まれたろう。あたい、いくら考えてもわからないよ」
父上……と聞いて、壺よりも、久方ぶりにめぐりあった左膳その人に、多大の関心を持っている櫛巻きお藤は、そそくさと膝できざみ出ながら、
「あらっ、丹下の殿様、これお前さんの子供なのかい。まあ! いつのまに、こんな大きな子供が!」
その時まで、発音ということを忘れたように、ただ眼ばかりキョロつかせていた柳生の侍達、一度に大声にしゃべりだした。
「やられたっ! 見事この独眼竜に、一杯くわされたぞ」
「かつがれましたなア。鍋を抱えて逃げているとも知らず、懸命にここまで追いつめたが……」
「人をなべやがって――」
いやな洒落です。
「かくまでわれわれを愚弄いたすとは! もう容赦はならぬっ」
さけぶと同時に一人は、またチョビ安を押しころがして、その胸もとに斬っ尖を突きつけ、左膳へ向かい、
「さ! 壺の所在を言えっ」
蜂の巣をつついたような騒ぎのなかで、じっと眼をつぶっている丹下左膳は、甘い女の香が鼻をなでて……お藤が、そっと寄り添っていることを知った。
すると、高大之進は、だまって、さっさと土間へおりてしまった。
「この仁の驚きは、われわれ以上だよ。盗まれたことを知らずにいたのだ。責めても、むだだ。さあ、ひきあげよう」
「しかし、謀られたとしたら……」
「いや、そうでない。何者かが壺を盗み出したことは、この仁の顔色を見てわかる。出なおし、出なおし」
そう笑って高大之進は櫛巻きお藤へ、
「いや、騒がせたナ」
ブラリと尺取り横町を出ていった。他の連中も、しかたなしに、左膳とお藤とチョビ安を、かわるがわるにらみつけておいて、ガヤガヤ立ち去って行く。
急に、しんとしたなかに取り残された三人……鍋を前に、深い無言がつづいています。
顔を見合わせて、吐息をつくばかりです。
さア、こうなってみると、こけ猿の茶壺は、いまどこにあるのか、てんで見当もつかない。
茶壺というと……今の人の考えでは、たかが茶を入れておく容器で、道具の一つにすぎませんが、昔は、この茶壺にたいする一般の考えが、非常にちがっていて、まず、諸道具の上席におかれるべきもの、ことに、大名の茶壺や、将軍家の献上茶壺となると、それはそれはたいへんに羽振りをきかせたもので、禄高に応じて、その人と同じ待遇を受けたものです。
ことに、相阿弥の蔵帳、一名、名物帳にまでのっている柳生家の宝物こけ猿の茶壺。
単に茶壺としても、それが紛失したとなると、これだけの大騒動が持ちあがるになんのふしぎもないわけだが――。
そればかりではない。
柳生の先祖が、他日の用にと、しこたま蓄財した現金をひそかにある地点へ埋めた、その秘宝の所在を書きとめた地図が、このこけ猿の茶壺のどこかに封じこんであるのですから、いま、この宝探しのような、大旋風がまきおこっているのも、理の当然です。
左膳、チョビ安、お藤の三人は、無言の眼をかわして、考えこんでいましたが、そのうちに左膳、指を折って数えだした。
「一つ、壺を奪還せんとする柳生の連中――これは、司馬の道場へ乗りこんでおる源三郎一味と、捜索の手助けに伊賀から出て来た高大之進の一団と……今夜まいったのは、この高の一隊だが、彼奴らは、道場と、林念寺前の柳生の上屋敷の間に連絡をとって、血みどろになって探しておる」
ひとりごとともつかない陰々たる左膳の声に、お藤もチョビ安も、ぞっとしたように口をつぐんでいる。
左膳は、壺をねらっている連中を、数えたてているのです。
「二つ……道場の峰丹波の奴ばら」しばらく間。「三つ、あの得体の知れぬ蒲生泰軒。四つ、どうやら公儀の手も、動いておるようにも思われる――五番目には、かく言うおれと……はッはッは、いや、おれの片眼には、江戸じゅうの、イヤ、日本中の人間が、あの茶壺をねらっているように思われるワ。お藤、泊めてもらうぞ」
ごろっと、壁際に横になった。
大刀を枕元にひきつけて、左手の手まくら。
「いや、知らぬうちに、後生大事に鍋を秘蔵しておったとは、われながら笑止。なに、そのうちに、取り返すまでのことだ――」
無言におちたかと思うと、左膳は、いつのまにか眠りかけて、なんの屈託もなさそうな軽い鼾が……。
「左膳の殿様、そんなところにおやすみになっては……」
お藤は静かに起って、着ている市松格子の半纏をぬいで、左膳の寝姿へ掛けたのち、にっこりチョビ安をかえりみ、
「兄ちゃんは、あたしといっしょに寝ようね。御迷惑?」
さびしそうな笑顔で、寝床を敷きにかかる。
その夜からだ、左膳、お藤、チョビ安の三人が、この長屋にふしぎな一家族を作って、おもむろに、壺奪還の術策をめぐらすことになったのは。
なんの因果で、こんな隻眼隻腕の痩せ浪人に……と、はたの眼にはうつるだろうが、お藤の身にとっては、三界一の殿御です。
恋しいと思う左膳と、こうしていっしょに暮らすことができるようになったのだから、お藤の喜びようったらありませんでした。
莫連者の大姐御でも、恋となれば生娘も同然。まるで人が変わったように、かいがいしく左膳の世話をする。何かぽっと、一人で顔をあからめることもあるのでした。
だが、左膳は木石――でもあるまいが、始終冷々たる態度をとって、まるで男友達と一つ屋根の下に起き伏している気持。左膳の眼には、お藤は女とはうつらないらしいので。
同居しているというだけのことで、淡々としてさながら水のよう……あの最初の晩、一つしかない寝床に、チョビ安とお藤が寝て、左膳は畳にごろ寝したのだったが、それからもずっと左膳は、そこを自分の寝場所とさだめて、毎晩手枕の夢をむすんでいる。
さめては、思案。
「どう考えても、ふしぎでならねえ。あんなに、眼をはなさずに、昼夜見まもってきた壺の中身が、いつの間にすりかえられたか――」
「父上、あたいにも、ちっともわからないよ。だけどねえ、これからどうして探したらいいだろう」
ういういしい女房のように、土間の竈の下を焚きつけていたお藤が、姐さん被りの下から、
「くよくよすることはないやね。丹下の殿様がいらっしゃるんじゃアないか。およばずながらこのお藤もお力添えをして、三人でさがしまわれば、広いようでもせまいのが江戸、どこからどう糸口がつかないものでもないよ」
左膳を仮りの父と呼んでいるチョビ安は、ここにまたお藤というものが現われて、まるで母親を得たような喜びよう。
「ねえ、父上、あたい、この人をお母アといってもいいだろう?」
左膳の苦笑とともに、お藤の顔には、彼女らしくもない紅葉が散って、
「ああ、そうとも、丹下の殿様がお前の父なら、あたしはおふくろでいいじゃないか」
チラと左膳を見ると、左膳、いやな顔をしてだまっている。
豪刀濡れ燕も、この、からみついてくる大姐御の恋慕心は、はらいのけることができないとみえる。
妙な生活がつづいている……すると、朝っぱらから出ていったお藤が、何か風呂敷包みをかかえて帰ってきた。左膳は毎日、ごろっと横になっているだけだが、その時チョビ安、左膳の背後にまわって、肩をたたいていました。
お藤がその前で、包みをとくと、出てきたのは、女の子の着る派手な衣装いっさいと、かわいい桃割れのかつら。
「芸があるんだよ、あたしにゃアね。めったに人に見せられない芸だけれど、壺を探しかたがた、その芸を売り物に、安公と二人、門付けをしてみようじゃアないか」
「いやだい、あたい、女の子に化けたりするのは」
その衣装を見て、チョビ安は口をとがらしたが、すぐ思い返したように、
「でも、そうやって江戸中を歩いていりゃあ、壺も壺だけれど、父や母に逢えるかもしれないね」
としんみり……。
「まあ、かわいい女の子だこと! 鳥追いじゃあなし、なんでしょうね」
「虫踊りなんですよ。虫踊りのお藤さんと、お安ちゃんですよ」
「虫踊り? 虫踊りとはなんでえ」
「オヤ、お前さんもずいぶん迂濶だねえ。いや江戸じゅうで評判の、尺取り踊りを知らないのかえ」
ぱっと晴れあがった日和です。町角に、近所の人達がひとかたまりになって、ワイワイ話しあっている。
本郷は妻恋坂の坂下、通りのはるか向うから、粋な音じめの三味線の音が流れて来て、大小二人の女の影が、ソロリソロリと、こっちへ近づいてくるのが見える。
「あの、ようすのいい年増のお藤さんと、十ばかりのかわいいお安ちゃんっていう女の子とが、組になってサ、お藤さんの三味線につれてお安ちゃんの持つ扇子の上で、尺取り虫がお前さん、踊りをおどるんだよ」
「へーイ! 尺取り虫が? そいつア見物だ」
ガヤガヤ言いあっているところへ、櫛巻きお藤と、お安ちゃんこと、チョビ安扮するところの女の子とが、ぶらりぶらり近づいてくる。
「サア、代は見てのお帰りだ」
「一つ、呼びとめて、その珍芸を見せておもらいしようじゃアねえか」
街の人々にとりまかれた、お藤とチョビ安。
お藤は、木綿の着物に赤い襷をかけて、帯の結びも下目に、きりりとした、絵のような鳥追い姿。
チョビ安の女装したお安ちゃんは、見ものです。
肩上げをした袂の長い、派手な女の子の姿。小さな笠を眼深にかぶって、厚く白粉をぬったあどけないほおに、喰い入るばかりの紅のくけ紐。玉虫色の唇から、チョビ安いい気なもので、もうすっかり慣れっこになっているらしく、
「小父ちゃん、小母ちゃん、虫の太夫さんに踊らせておくれよ。そして、たんと思召しを投げて頂戴ね」
みんなおもしろがって、
「さあ、やんな、やんな」
「お鳥目は、おいらがあとで集めてやらあ」
「毎度おやかましゅう」三味線の手を休めたお藤、
「ではお言葉にあまえまして、江戸名物は尺取り虫踊り……」
チチチン! と、三味をいれて、
「尺取り虫、虫、
尺取れ、寸取れ、
足の先から頭まで、
尺を取ったら命とれ……」
「太夫さん、御見物が多いけど、あがっちゃアいけないよ」尺取れ、寸取れ、
足の先から頭まで、
尺を取ったら命とれ……」
言いながらチョビ安、手にしていた日の丸の扇をさっとひらいて、袂からとりだした小箱の蓋をひらき、そっとその扇の上へ放しだしたのは、お藤手飼いの尺取り虫が三匹。
大事に、温かにして、押入れの奥で飼ってきたのです。
三味の音に合わせて、その三匹の尺取り虫が、伸びたり縮んだり、扇子の上で思い思いの方角に動くのが、見ようによっては、踊りとも見えて、イヤモウ、見物はわれるような喝采……。
縁に立っている源三郎だ。
柱によりかかって、じっと見上げているのは……空を行く秋のたたみ雲。
あせっているんです、源三郎は。
いつまでこうしていても、果てしがない――。
実際そのとおりで、源三郎のほうとしては、あくまで道場は自分のものの気、祝言も式もないものの萩乃は己が妻の気……。
それにひきかえ。
お蓮と峰丹波の側では、道場はどこまでも自分達の所有の気。萩乃は源三郎の妻でもなんでもない気。したがって、縁もゆかりもない田舎侍の一団が、道場へ押しこんできて、したい三昧の生活をしているものと認めている気。
気と気です。
気の対立。どっちの気が倒れるか、自分こそは勝つ気で、両方で根比べをする気。
対立の状態で、ここまでつづいてきましたけれど、性来気の短い源三郎としては、今まで頑張るだけでも、たいへんな努力でした。
それがこの先、どこまでつづくか際限がないのだから、源三郎、いささかくさってくるのに無理はない。
それも。
積極的に争うなら、源三郎お手のもので、間髪を入れず処理がつくのですけれど、今の言葉でいう、いわばまア占拠……双方じっとしてねばるだけだ。
消極的な戦いだから、伊賀の暴れん坊、しびれをきらしてきた。畳を焼いて煖をとったり、みごとな双幅や、金蒔絵の脇息をたたッこわしたり、破いたり、それを燃料に野天風呂をわかすやら、ありとあらゆる乱暴狼藉をはたらき、いやがらせの八方をつくして……。
いま文句が出るか、今文句が出るかと。
いくら待っても、先方はウンともスンとも言わない。
渡り廊下でつづいた別棟に、お蓮様、丹波をはじめ道場の一派、われ関せず焉とばかり、ひっそり閑と暮らしているんです。
売った喧嘩を買ってくれないほど、はりあいの抜けることはない。
源三郎を取り巻く伊賀の若侍たちも、拍子抜けがして――。
暴れくたびれ。
退屈。
あう――ウア! 欠伸の合唱、源三郎の欠伸と門之丞の欠伸とがいっしょだったので、源三郎自嘲的な笑いを洩らし、
「秋晴れだナ。馬に乗りたい」
と言った。
「結構ですな、チトお気ばらしに……」
「余は、江戸はくらい。遠乗りにはどの方面がよかろうかな?」
「拙者もよくは存じませぬが、まず墨堤……いかがで?」
「ま、よかろう、馬ひけ」
「御意。供は?」
「其方と、玄心斎と、大八と、三人でよい」
こうしたわけで、若さと力を持ちあつかった源三郎、轡を並べて、妻恋坂の道場を後に――。
空には、鱗のような雲の影が、ゆるやかに動いていました。
西北から、大きな緑の帯のような隅田川が、武蔵と下総の間を流れている……はるかに、富士と筑波を両方にひかえて。
昼ながら、秋の狭霧が静かに罩めわたって、まるで水面から、かすかに湯気があがっているように見えるのだった。その模糊とした中から、櫓の音が流れて来て、嘴と脛の赤い水鳥が、ぱっと波紋をのこして飛びたつ――都鳥である。
吾妻橋から木母寺まで、長い堤に、春ならば花見の客が雑踏し、梅屋敷の梅、夏は、酒をつんでの船遊び――。
が、今は秋も半ば。
草紅葉の広い野に、まばらな林が風に騒いで、本郷の道場を出た時は、秋晴れの日和であったのに、いつしか空いっぱいに雲がひろがり、大川をくだる帆も早く、雨、そして風さえ孕んだ、暗いたたずまいである。
馬乗り袴が、さやさやと鳴る。
馬具がきしむ。
薄陽と河風を顔の正面にうけて源三郎は、駒の足掻きを早めた。
遠乗りの快味のほか、何ものもない彼の頭に、ただ一つ……。
さっき妻恋坂をおりきった街角に、人を集めて何か芸当を見せている二人の女遊芸人のすがたが、なんとはなく、印象にこびりついているのだった。
三味線を斜めにかまえて、チラと馬上の自分をあおぎ見た年増おんな。
十か九つの女の子が、扇子をひろげて何かのせていたが、通りすがりに馬の上からちょっと見ただけなので、よくわからなかったけれど。
あの二人の女芸人が、妙に源三郎の心をはなれない。
自分を思っている萩乃のこと、同じく自分に思いを寄せているらしいお蓮様――さては、国の兄……いまだに行方の知れないこけ猿の茶壺のことなど、戞々と鳴る馬の一足ごとに、源三郎の想念は、際限もなく伸びひろがってゆく。
「此馬に一汗かかせてくれよう」
源三郎は大声に、
「つづけっ!」
背後をふりむいて叫びながら、思いきり一鞭くれた。
馬は、長堤に呻りをたてて、土を掻い込むように走り出した。玄心斎、門之丞、谷大八の三人も、おくれじと馬脚を入り乱れさせて、若殿のあとを追う。
木母寺には梅若塚、長明寺門前の桜餅、三囲神社、今は、秋葉神社の火のような紅葉だ。白鬚、牛頭天殿、鯉、白魚……名物ずくめのこの向島のあたりは、数寄者、通人の別荘でいっぱいだ。庵とか、亭とか、楼とか風流な名をつけた豪商の寮や、料理屋が、こんもりした樹立ちのなかに、洒落た屋根を見せている。
源三郎の視野のすみを、それらの景色が、一抹の墨絵のように、さっとうしろへ流れすぎる。
ぽつりと、額を打つ水粒。
「雨だな……」
「若ッ! いったいどちらまで?」
玄心斎が、息をはずませて追いついてきた。
砂煙を立てて、馬の鼻面を源三郎と並べながら、
「どこまでいらっしゃるおつもりで――もうよいかげん、ひっかえされては」
玄心斎の白髪に、落ち葉が一枚引っかかっている。
松平蔵之丞様のお屋敷と、須田村の間をぬけて、関屋の里まで行き着いた主従四人は、綾瀬川の橋のたもとにたちどまって、
「ハ、ハ、張り子の虎ではない。雨がなんだ、濡れたとて、破れはせぬぞ」
と、どもる源三郎をとりまいて、今はもう、しとどに横顔を打つ斜めの雨に、ほおを預けながら、
「しかし、この雨の中を、どこまでお走らせになっても、何もおもしろいことはござりますまい。お早々と御帰還のほど、願わしゅう存じまする」
玄心斎がしきりに帰りを促すそばから、谷大八もなんとなく胸騒ぎをおぼえて、
「これから先は、人家もござりませぬ。風流……も、ことによりけりで、この大雨のなかを――」
止められると、理由もなく進みたくなるのが、若殿育ちの源三郎の常で、彼は無言のまま、いきなり馬首を東南に向け、小川に沿って走らせ出した。
いいかげんそこらまで行ったら、このすこし先の道が、水戸街道と出会うあたりから、もとへ引っ返すつもり……。
菖蒲で名高い堀切も、今は時候はずれ。
若宮八幡の森を右手に見て、ぐっと行きつくすと、掘割のような川が、十文字に出会って……。
右、市川。
左、松戸――。
肩をぐっしょり濡らした門之丞が、追いついた馬上から、大声に、
「思い出しました……」
と、やにわに言った。
「お蓮様が、いま本郷の道場においでにならぬことは、殿をはじめ、玄心斎殿、大八殿も、ごぞんじでござろうな」
そう言って門之丞は、何かすばらしい計画を思いついたように、馬をとめた源三郎と、安積玄心斎、谷大八の三人の顔を見まわす。
雨のなかで、湯気をあげる馬が四頭かたまり、馬上の四人の侍が、何やら談合しているのですから、枯れ草をせおった近所の百姓が、こわそうに道をよけて行く。
道が行きどまりになったので、いやでも引っ返さなければならないかと、業腹でならなかった伊賀の暴れん坊は、この門之丞の一言に、たちまち眼をきらめかして、
「うむ、そう言えば、どこかの寮とやらへ出療治にまいっておるとか、ちらと聞いたが……」
「ナニ、療治と申しても、何も病気だというわけではござりませぬ。表面は保養ということにいたして、またかの峰丹波とトチ狂いかたがた、われわれに対する今後の対策を凝らしているものと察しられますが――ところで、わたしは、道場の婢どもが噂をしているのを、ちょっと聞きましたので。なんでもお蓮と丹波は、この先の渋江村とやらにまいっておるとのこと」
門之丞は言葉をくぎって、じっと源三郎の顔色をうかがった。
玄心斎と大八は、門之丞め、悪い時につまらないことを言いだしたと、にがりきって黙っている。
思い合わせてみると、きょうこの向島方面へ遠乗りにでかけようと言いだしたのも、この門之丞。それから、制止する玄心斎を無視して、それとなく巧みにここまで源三郎をみちびいてきたのも、門之丞。
仰向いて笑った門之丞の顔に、大粒の雨が……。
「彼奴ら、われわれとの根くらべに負け、押し出されるがごとく一時道場をあけて、かような片田舎へ逃げこんだものに相違ござらぬが、もとより、対策がたちしだい、いついかなる謀計をもって道場へ引っ返してまいるやもはかりしれませぬ。今ごろは、かの女狐と男狐、知る人もなしと額をあつめて、謀の真最中でござろう。そこへ乗りこんで、驚く顔を見てやるのも一興……」
そそのかすような門之丞の言葉に、思慮の深い玄心斎は眉をひそめ、
「門之丞は、どうしてさようなことを存じておるのかな。同じ屋敷内にあっても往き来もせぬ、いわば敵方の動静……それは、わしも、丹波とお蓮様がちかごろ道場におらぬらしいことは、聞き知っておったが、この近くの寮に出向いておるなどとは、夢にも知らなんだ」
「いや、わたしもはじめてで」
と、谷大八が横あいから、いぶかしげな眼顔。じつは、二人とも知っていたんです、玄心斎も、大八も。
お蓮様と丹波が、腹心の者十数名を引き連れて、近頃、この向島を遠く出はずれた渋江村の寮に、それとなく身をひそめて何事か画策していることを。
それも、この五、六日のことで。
だが、道場では、どこまでも、お蓮様も丹波も在宅のように装って、屋敷を明けていることはひた隠しにかくしているのだが、なんの交渉もないとはいえ、またいかに広い屋敷内でも、一つ屋根の下のこと――今まで知らなかったのは源三郎だけで、それだけに彼は、おどりあがるように馬上に身をひきしめ、
「おもしろい! これより押しかけて、ひと泡ふかせてくれよう。タ、タ、退屈しきっておったところだ。もう、あのにらみあいには、あきあきいたしたぞ。と言って、妻恋坂の道場では、先にも門弟が多いことだし、世間の眼というものもある。がまんにがまんをしてまいったが……ウム! この都離れた片ほとり、狐退治にはもってこいの場所だテ。おのれ、きょうというきょうは、かのお蓮と丹波を一刀のもとに、たたっ斬ってくれる」
蒼白な顔に、決意の笑みを浮かべた源三郎、やおら馬をめぐらして、土橋を渡り、葛西領の四ツ木村のほうへと向かって行く。
玄心斎は、馬をいそがせて、
「若っ! 仮りにも老先生の御後室、婿のお身にとっては母上でござるぞ。斬り捨ててよいものならば、今までにもいくらも折りがありましたものを……あれほど無言の戦いを、そもそもなんのために今まで辛抱強く突っぱってこられたか。それを篤と御勘考のうえ、ここはひとまず思いとまられて、お返しください。おかえしください!」
「爺っ! 臆病風か」
「めっそうもござりませぬ。なれど、智謀には智謀をもって対し、隠忍には隠忍をもって向かう……お引っ返しくださいっ! 若っ!」
「十五人ほどの腕達者が、ひきそっておりますとのこと――」
谷大八の声は、横から風にうばわれてしまう。
雨はいよいよ本降りとなって、先頭の源三郎を、はばむがごとく濡らすのであった。
「暴風雨じゃのう」
源三郎の白い歯が、チカリと光って、すぐあとにつづく門之丞を、振り返った。
客人大権現の境内、ずいぶん広い。
その一隅……生い繁る老樹のかげに、風流な柴垣をめぐらした一棟がある。
竹の濡れ縁に煙草盆を持ちだしていた司馬道場の御後室、お蓮様は、
「まあ、急にひどい吹き降りになって……」
びっくりするほどの若やいだ声で、笑いながら、被布の袂をひるがえして、屋内へにげこんだ。
ドッ! と音をたてて、雹かと思うような大きな雨粒と、枯れ葉を巻きこんだ風が、ふきこんでくる。
「ほんとに、秋の空ほど頼りにならないものはない。朝はあんなに晴れていたのにねえ」
と、思い出したように、
「ああ、いつまでこんなところに待っていなくっちゃアならないんだろう。ほんとに、嫌になってしまう。だけど、道場のほうでは、私達のいないことを、うまく隠しているだろうねえ」
「それは大丈夫だと思います。かたく申しつけてまいりましたから――あなた様をはじめ、一同道場にいるようにつくろって、よもや、源三郎一派に気取られるようなことはあるまいと存じます」
峰丹波は、そう励ますように言いきって、自ら立って縁の雨戸を一、二枚繰り出した。
その音を聞きつけて、次の間から、岩淵達之助、等々力十内の二人が、あわただしく走りでてきて、
「おてずから、恐れ入ります」
「わたしがしめます」
「ことによると、きょうあたり、かの門之丞の案内で、まいこんでくるかも知れませぬぞ」
丹波は、急の暴風雨に備える雨戸を、十内、達之助の二人にまかせてしめさせながら、自分は座にかえり、
「とにかく、門之丞をこっちへ抱きこんだのは大成功で……悪運がつきません証拠とみえますな、はははは」
お蓮様はおもしろくもなさそうに、
「でも、なんとかうまいことを言って釣りだしてくればいいけれど――あの門之丞だって、主人を裏切るような男だもの。ほんとにこっちについたのかどうか、すっかり仕事がすんでみなけりゃアわかりゃあしない。お前のように、そう頭から信用することもできないと思うよ」
「ナニ、あの門之丞だけは、大丈夫です。計画どおり、彼の手引きで源三郎を処分した暁は、大枚の金子とともに、あの萩乃様を……こういう約束でございますからな。萩乃様に首ったけの門之丞としては、色と欲の二筋道で――もうこっちのものです」
達之助と十内が、雨戸のあいだをすかして、別の間へしりぞいてゆく。どうせみんな同じ穴の狐ですから、二人に聞こえるのもかまわず、お蓮様と峰丹波は、高話です。閉てのこした雨戸のすきから、縞のような光線がさしこむだけで、昼ながら、室内はうすぐらい。
ここは司馬家の寮なのですが、故先生が老病になられてから、何年も来たこともなく、手入れもしないので、それこそ、狐や狸の巣のように荒れはてている。
お蓮様が、何を考えてか、峰丹波、岩淵達之助、等々力十内ほか十五人ほどの腹心の弟子達をひきつれて、こっそりここへ来てから、もう五日あまりになります。毎日毎日、しきりに、何かを待っているようす……。
一面の裏田圃……上木下川、下木下川、はるかに葛飾の野へかけて、稲田の面が、波のようにゆらいでいる。釣鐘堂、浄光寺の森は、大樹の梢が風にさわいで、まるで、女が髪を振り乱したようです。
見渡すかぎりの稲葉の海に、ところどころ百姓家の藁屋根が浮かんで、黒い低い雲から、さんざと落ちる雨の穂は、うなずくように、いっせいに首をまげています。物みなそうそうと黒く濡れそびれたなかに、鳴子や案山子が、いまにも倒れそうに危うく立っている。
見るうちに人細り行く時雨かな
ではない、見るうちに馬細りゆく時雨かな……田圃のなかの畦道を、主従四人の騎馬すがたが、見る間に小さくなってゆくところは、まことに風流のようですが、当人達はそれどころではありません。夕立にどの大名か一しぼり
夕立ではないが、野狩りに出た殿様の一行が、雨に濡れて馬をいそがせて行く。はたから見たら、さながら画中の点景人物でしょうが――お蓮様と丹波がいつのまにかこの近くの寮へ来ていると聞いた柳生源三郎は、もう狂的です。これを絶好の機会に、一刀両断に邪魔をはらってしまおうという気……。
とぶように馬を走らせて行く。
どういう考えか門之丞は、しきりに、そのそばに馬の首をすり寄せて、
「もうすぐそこです! きょうこそは、ひと思いに――」
焚きつけるがごとき口調――。
「伊賀の若殿様ともあろうお方が、よく今まで、女や、丹波ごとき者どもに邪魔立てされて、辛抱しておられましたな。若のがまんづよいのに、わたくしはホトホト感心つかまつった……」
「イヤ、言うな。先ほども玄心斎が申したとおり、仮りにも母の名がついておるから、こらえにこらえてまいったのだ。だが、この暴風雨にまぎれて……門之丞、きょうで勝負をきめてしまおう」
玄心斎と、大八は、おくれながらも、左右から声を追いつかせて、
「敵にはいかなるはかりごとがあろうも知れませぬ。なんの対策もなくそこへとびこんでまいるは、上々の策ではござりませぬ。なにとぞ思いとどまって――」
「若ッ! 若ッ! きょうは単なる遠乗りのはず。たしかにお蓮様一味が、その寮とやらにひそんでおるとわかりましたら、いずれ近く日を卜して……」
耳にも入れない源三郎、馬の腹を蹴りつづけて、遮二無二突進――。
暴風雨は、源三郎の頭の中にも、渦巻き、荒れくるっているのでした。
最初。
源三郎の一行が品川へ着いた時、駈け抜けて司馬の道場へ江戸入りの挨拶をしたのが、この門之丞。源三郎の側近にあって、何かと重く用いられている門之丞なんだが、魔がさしたというのか、どういうつもりか、しきりに源三郎を案内して、刻々敵の張りめぐらした罠の淵へとさそってゆく。
揺れなびく田の面の向うに、やがて客人大権現の木立ちが、不吉の城のように、黒く見えてきた。
「殿ッ、あの林のかげでござります」
馬上、門之丞がゆびさした。
虫が知らせるというのか、玄心斎と大八は、こもごも源三郎の馬前に立ちふさがって、
「殿ッ! どうあってもこれから先へお進みなさるというならば、まず、この玄心斎めの白髪首をお打ち落としなされてから……」
いらだつ源三郎の小鬢から、雨の粒が、白玉をつないだように、したたり落ちる。
「何をたわけたことを申すっ! 亡き司馬先生の志をつぎ、道場と、かの可憐なる萩乃を申し受けて、わが面目を立て、また一つには、兄の顔を立てるためには、このさい、なんといたしても邪魔者を除かねばならぬではないかっ」
「ソ、それはわかっております。おっしゃるまでもござりませぬが、時機を待とうというお心で、今までああして、ただ、一つ屋根の下にはりあって、いわば血のなき闘い……ともかく穏便にお忍びになって来られたものを、いまとなってにわかに――」
「馬鹿を言えっ!」
源三郎は、大八と玄心斎のあいだへ、つと馬首をつき入れながら、
「ドド道場では、人眼も多い。世間の騒ぎになろうを慮って、今まで一心に堪えてまいったのだワ。お蓮と丹波が、あれなる寮にまいっておるというからには、もっけの幸い――ゼ、絶好の機会ではないか! いつの日かまた……萩乃に血を見せぬだけでも、余の心は慰むぞ」
「しかし、峰丹波をはじめ、相当手強いところがそろっておりますとのこと」
「丹波――?」
上を向いて笑った源三郎の口へ、雨の条が、小さな槍のように光って飛びこむ。
「これじゃ!」
いきなり、ひょウッ! とふるった源三郎の鞭に、路傍の、雨を吸って重い芒が微塵に穂をみだれとばして、なびきたおれる。サッサと馬をすすめて、
「このとおりじゃ、丹波ごとき……いわんや、爾余のとりまきども――」
「おいっ!」
と大八が門之丞へ、
「どうしてお止め申さぬ。貴公には、この、無手で敵地に入るような危険が、わからぬのかっ?」
ところが、門之丞はけろりとして、
「お止め申したとて、おとどまりになる若ではござらぬワ」
「と申して、貴公はさながら、手引きをするがごとき言動――奇ッ怪だぞ、門之丞!」
いきおいこんだ谷大八も、もう大きな声を発することはできないので。
いつのまにか一行は、客人大権現の境内へはいって、司馬の寮の前へ来てしまっているのだった。
争う時は、過ぎた。もはや、ここまで来た以上、主従四人一体となって、これから起こるどんな危機にも面しなければならぬ。
蛇が出ても……。
鬼がとびだしても。
草屋根の門ぎわに、いっぱいの萩の株が、雨にたたかれ、風にさわいで、長い枝を地によごしている。
古びた杉の一枚戸を、馬をおりた門之丞が、ホトホトとたたいて、
「頼もう! おたのみ申す……」
中からは、なんの応えもない。草を打つ雨の音が、しずかに答えるばかり――源三郎がせきこんで、
「かかかかまわぬ。押しあけて通るのじゃ……」
と呻いたとき、ギイと門内で、閂をはずすけはいがした。
くぐりをあけたのは等々力十内で……。
「お、これはようこそ――」
と、待っていたように言いかけたが、すぐ気がつき、
「これはお珍しい! どうしてわたしどもがここにまいっていることを、ごぞんじで?」
急ぎ口を入れたのが、門之丞です。
「ごらんのとおり、遠乗りにまいられたのだが、にわかの吹き降りに当惑いたし、これなる森かげにかけこんでみれば、この一軒家……ホホウ、道場のお歴々が、この寮にまいっておられるのか。それはわたしどもはじめ、殿もごぞんじなかった次第で」
なんとか辻褄をあわせているうちに。
そんなことは意に介しない源三郎。
きょうはいよいよ、邪魔だていたすお蓮様と丹波の上に、柳生一刀流の刃が触れると思うから、単純な伊賀の暴れン坊、自然に上機嫌です。
まるで、いつもの憂鬱な彼とは、別人のよう……。
若さと、華やかな力とを満面に見せて、その剃刀のように蒼白い顔を、得意の笑みにほころばせながら――。
ヒラリ、馬をおりるが早いか、まごつく十内を案内にうながしたてて、そのまま庭の柴垣にそって、雅びた庭門をあけさせ、飛石づたいに庵のほうへと、雨に追われるように駈け込んでいきます。
つづく玄心斎、谷大八も、自分達がついていて、若殿の身に何事かあってはたいへんだから、馬を木蔭へつなぐのも一刻を争い、門之丞の横顔をにらみつつ、小走りに源三郎のあとを追った。
繰り残した雨戸の間から、庭に面した奥座敷に招じあげられた源三郎、見まわすとそこは、落ちついた風流な部屋で、武芸者の寮とは思われない、静かな空気が流れている。
誰もいません。
源三郎は、むんずと床柱を背にすわって、腕組みをしました。顔に見覚えのある、司馬の門弟の少年が一人、褥、天目台にのせた茶などを、順々に運び出てすすめたのち、つつましやかにさがってゆく。
火燈めかした小襖が、音もなくあいた。
さやかな絹ずれの音とともに、あられ小紋の地味な着付けのお蓮様が、しとやかにはいってきた。
二人は、無言のまま、チラと顔を見合った。切り髪のお蓮様は、いたくやつれているように見えるものの、その美しさはいっそうの輝きを添えて、見る人の心に、いい知れぬ憐れみの情を喚び起こさずにはおかないのでした。
横手に並ぶ玄心斎、門之丞、大八の三人には、会釈もくれずに、源三郎と向かいあって座についたお蓮様は、白い、しなやかな指を、神経質らしく、しきりに膝の上で組んだり、ほごしたりしながらも、
「まあ、ひどい雨ですこと」
思いついたように、戸外の庭へ眼をやり、
「この雨で、せっかくわたくしの丹精した芙蓉も、もうおしまいですね」
と、笑った。雨になるか、風になるかわからない、この会合のまっ先に、お蓮様によって口火をきられた言葉は、これでした。
お蓮様が尾のない狐なら、丹波はその上をゆく狸であろう。でも、それを承知で、こうして乗りこんで来た源三郎も、ただの狐ではありますまい。間に立って奇怪な行動の門之丞は、さしずめ小狸か……。
沈黙がつづいています。
源三郎が、言った。
「しかし、この暴風雨のおかげです。きょうわたしがここへ来たのは――わたしにとっては、感謝すべき雨風だ」
ニコリともしない源三郎の蒼顔に、お蓮様は、平然たる眼をすえて、
「あら、では、この雨の中を、わざわざお訪ねくだすったというわけではないんですのね」
と、チラリと門之丞に視線を投げた。
膝に手を置いた源三郎の肘が、角張った。
「わざわざお訪ねするのでしたら、こう簡略にはまいりません。なんのお手土産もなく」
皮肉に、
「供もこれなる三人きり……まず、煮て食おうと焼いて食おうと、ここはそちらのごかってでござろうかな、ハハハハハ」
「ちょっと風邪心地でございましてね」
とお蓮様は、まるで親しい人へ世間話でもするように、
「この四、五日、こっそりこちらへ養生にまいっておりました」
「それはいけませぬ。それで、もう御気分はよろしいのですか」
「はあ、ありがとう。もうだいぶいいのです」
「し、しかし、もう御養生の要も、あるまいと存じますが……」
「ええ、もうこんなによくなったのですから、ほんとに、養生の要もありません。近いうちに本郷のほうに帰ろうかと、思っていたところでございますよ」
「いや!」
と、源三郎のつめたい眼が、真正面からお蓮様を射て、
「いや、私が養生の必要がないと申したのは、そういう意味ではござらぬ。もう、母上……さればサ、今まで母上と思っていましたからこそ、手加減をいたしておりましたが……もはや母上と思わず、ここでお目にかかったのを幸い、お命をいただくことにきめましたによって、しかる以上、もう御養生の要もござるまいと、かように申しあげたので――」
ニッコリしたお蓮様は、
「このあたしがあなたの母では、たいへんなお婆さんのようで、あんまりかわいそうですよ、ほほほほほ。ですから、あなたももう母と思わずに、斬るというんでしょうが、なら、そこが相談ですよ、源様。おや! こちらにこわい顔をした人が、三人も並んでいては、お話がしにくいけれど、ホホホホホ……」
「退げましょうか」
源三郎の言葉に、玄心斎と大八は、懸命に眼くばせして、死んでもこの座を起たない申しあわせ。
少女のように、恥じらいをふくんで笑い崩れたお蓮様。
「いえ、誰がいても、思いきって言いますけれど、ねえ、源さま、いつかのお話は――」
「ナ、なんです、いつかの話とは?」
「あたしとしては、あなたが道場のお跡目になおるに、なんの異存もございませんけれど、ただ、そのお婿さんの相手が、あの萩乃ではなく、このあたしでさえあれば――」
「またさような馬鹿馬鹿しいことを!」
「でもね、源三郎さま、いま此寮には、不知火流の免許取りばかりが、十五人ほどいっしょに来ているんでございますよ。よくお考えにならなければ、御損じゃないかと……」
「フン! その十五人が、またたくまに、一人もおらんようになりましょう。ついでに母上、あなたも……」
言いながら源三郎は、今はじめて、夕陽に輝く山桜のような、このお蓮様の美しさに気がついたように、眼をしばたたいたのでした。
「とにかく、母上――」
言いかける源三郎を、お蓮様は、ヒラリと袂を上げて、打つような手つきをしながら、
「まあ! その母上だけは、どうぞ御勘弁を、ほほほほほ」
「いや、拙者にとっては、あくまで母上です」
と源三郎は、鯱が鉛を鋳込まれたように、真っ四角にかたくなって、
「おっしゃりたいだけのことを、おっしゃってください。うかがいましょう」
と、横を向く。
若い蒼白な美男、源三郎――剣の腕前とともに、女にかけても名うての暴れ者なのだが――。
このお蓮様の顔を前にしていると。
その、黒水晶を露で包んだような瞳のおくへ、源三郎、ひきこまれるような気がするのだった。白いほおのえくぼは、小指の先の大きさでも、大の男を吸いこむだけの力はある。彼がしきりに母上、母上と呼ぶのは、そうでも言って絶えず自分の心に枷を加えようという気持なので。
お蓮様の視線を避けて、くるしそうに首をめぐらした源三郎の眼の前に、玄心斎、谷大八の二人は、今にも、スワ! と言えば膝をたてそうに、おっとり刀の顔。ふたりに挟まれた門之丞は、これはまた心ひそかに、何かの成算を期するもののごとく、腕を組み、眼をつぶって、じっと天井をふりあおいでいる。
暴風雨の音は、すこし弱くなった。寮のなかはシンとして、十何人もの荒らくれ男が、別室にひそんでいるとは思われないしずかさ。
その静寂のなかに、かすかにすすり泣きの声が聞こえて、源三郎はぎょっとして、あたりを見まわしたが……。
見まわすまでもなく。
その泣き声の主はお蓮さま――何か急に思い出したように、彼女は襦袢の袖を引き出してしきりに眼へ当てながら、身も世もなさそうに、泣き声をかみしめている。
「強いようなことを言ってみても女ですもの……あたくしは、源様あなたの御慈悲がなくては、生きて行けません」
「司馬先生の御遺志どおり、兄との約束にしたがって、穏便に事を運べば、源三郎、決して母上を粗略にはいたしませぬ考え――一に、そちらの出ようひとつでござる」
「はい、よくわかりました。はじめて、それに気がつきました。どうぞよろしくお取りはからいくださいますよう……」
「ソ、それは本心でござるな」
いきおいこんで乗り出す源三郎を、玄心斎と大八は、傍えから制して、
「シッ、殿ッ、これには何か魂胆が――」
「若ッ、こう急に降参するとは思えませぬ」
かわるがわるささやけば、お蓮様は、涙に輝く眼で一座を見わたし、
「そう思われても、しかたがござりませんけれど、今まで楯ついてきましたことは、ほんとに、世間知らずの女心から出た浅慮、どうぞ、わたしの真心をおくみとりなされて――」
生一本な源三郎です。このお蓮様の涙は、ただちに源三郎の心臓にふれて、彼は苦しそうに、つと起って縁の雨戸の間から、雨に乱れた庭へ眼を放った。
さっきお蓮様が丹精していると言った、うす紅色の芙蓉の花は、無残に散り敷いている。それは、いまのお蓮様の姿のように、憐れにも同情すべきものとして、源三郎の眼に映ったのでした。
お蓮様は、その源三郎の立ち姿を、仮面のような顔で、いつまでも見守っていました。
玄心斎がニヤニヤして、
「お気が弱くなられましたな、御後室様。ははははは」
ニッコリうちうなずいたお蓮様、
「気が弱くもなろうじゃアありませんか。あなたのようなお強い方々が、女一人を取り巻いて、いじめるんですもの」
「どうですかナ」
谷大八も気がるな声が出て、お蓮様と笑いをあわせた。
源三郎は静かに座に帰り、
「では、ど、どうなさろうというので」
「それを明日にでも、ゆっくり御相談申しあげたいと存じまして」
チラリと一同の顔を見たお蓮様は、
「わたしは、またすこし悪寒がしてきましたから、これで失礼を」
衣の重さにも得堪えぬように、お蓮さまはスラリと立って、部屋を出て行きましたが……源三郎はそのあたりを払うばかりの美しさに打たれて、思わず、あと見送らずにはいられなかった。
「本心でござろうか」
両肘を膝に、前屈みに首を突き出す玄心斎。
谷大八はせせら笑って、
「さあ、どういうものでしょうな。女の涙は、拙者にはとんと判断がつき申さぬ。だが、まんざら計りごとのようにもみえなんだが……門之丞、貴公はどう思う」
「殿のお心一つだ。殿がお蓮様をお許しなさろうと思召せば、それで四方八方丸くおさまって、何より重畳なわけ――だが、あんなにうちしおれておるものを、殿も、お斬りなさるのなんのというわけには、ちとゆくまいかと考えられまする」
源三郎は、今は小降りになった雨の矢が、裾を払うのもかまわず、竹の濡れ縁に立ち出でて、ふたたびじっとみつめているのは……またしても、見る影もなく花を落とした芙蓉の一株、ふた株。危険なところです――いま気を許しては。
しかし、上には上ということがある。
だが、そのまた上に、上があるかも知れない。そしてまた、その上の上に、もう一つ上が……。
お蓮様が引っ込んで行ったあと家内はいっそう静まり返って、峰丹波をはじめ、誰一人、この部屋に挨拶にでる者もありません。
たださえ暮れの早い初冬の日は雨風に追われるように西に傾いて、いつとはなしに湿った夜気が、この、木立ちの影深い客人大権現の境内に……。
どういう計画がひそんでいるかも知れないと、一同はすこしの油断もなく、無言のまま室の四隅から立ち迫る夕闇に眼を据えていますと……。
ソッと襖があいて、
「お灯を――」
と、いう声。
さっきの少年の門弟が、燭台をささげてはいってきた。それを機会に、
「何もござりますまいが、お食事のしたくを頼んでまいりましょう」
そう自然らしく言って、門之丞が、少年の後を追うように出ていった。夜になって、また風が出たようすです。轟ッ! と、棟を鳴らす音に、燭台の灯が、おびえたように低くゆらぐ……。
門之丞は、そのまま部屋へ帰ってきません。
やがて、同じ少年の弟子が、敷居ぎわにあらわれて、手を突き、
「御膳部の用意が、できましてございますが……御家来衆は別室で、ということで、どうぞお二人はあちらへ――」
と言う。
玄心斎は、さてこそという眼顔で、源三郎を見た。
「若、わたくしどもも、ここで……」
そして、少年へ、
「イヤ、拙者らもここで、いただいてかまわぬとおおせらるる。お手数ながら、拙者らの膳も、此室へお運びねがおう」
「いや、待て、爺」
源三郎は、いつになくニコニコして、
「お、お前達はあっちへ行って食え」
谷大八が、懸命のいろを浮かべて、
「ですが、殿お一人をここへお残し申して――」
この言葉に、伊賀の暴れン坊、ムッとしたらしく、
「ヨ、ヨ、余一人を残していっては、不安だというのか。何を馬鹿なことを、ダ、第一、ひとりになるのではない。コ、これを見よ」
源三郎、膝わきに引きつけた大刀の柄をたたいて、闊然とわらった。
「心配するでない。客は、主人側のいうとおりになるのが、礼である。玄心斎と大八は、別室へしりぞいて、心おきなく馳走にあずかるがよい」
顔を見あわせたのは、大八と玄心斎です。なかなか、心おきなく……どころの騒ぎではない。敵の巣の真ッただなかにすわりこんで、平気で家来を遠ざけようというんですから、この若殿という人間は、危険ということをすこしも感じない、いわばまア一種の白痴じゃないかしら?――長年お側に仕えてきた二人ですが、この時は、そんな気までして、中腰のまま決し兼ねていると、
「あっちへ行って食えと申すに! なぜ行かぬ」
いらいらした主君の声だ。源三郎の気性は、知りぬいている。もうこうなったら、いくら押しかえしたところで、許されません。かえって、怒りをますばかり……。
「門之丞は――」
といって、玄心斎は、なおも心を残しながら、起ちあがった。
「は、別室にて、お二人のおいでをお待ちでございます」
との少年の答えに、
「それみろ。早く行け」
源三郎がうながす。部屋を出る時に、玄心斎がなんとかささやきますと、
「ウム。心得ておる」
そう言って源三郎は、大きくうなずきました。
やがて――。
大八と玄心斎がその室を去りますと、少年の手で膳部が運びこまれて、源三郎の前に置かれた。
「ソ、そちが給仕をしてくれるのか」
「は。不調法ながら……」
無言のまま源三郎は、まず、吸い物をすこし椀のふたにとって、少年の前につきだした。
毒見をしろ……という意。少年も、だまってそれを受け取って、口へもっていきます――。
膳にならんでいるすべての物は、順々にすこしずつ分けて、少年のまえにだまってさしだす……毒殺に備える用心。
少年もまた、臆する色もなく、それらをみんな口に入れている。すき洩る風になびく燭台のあかりをとおして、じっとそのようすを見守っていた源三郎、笑いだした。
「はッはッは、ド、どうだ、ま、まだ死にそうなようすは見えぬな」
少年は、ニッコリ微笑して、
「は? お言葉ともおぼえませぬ。それはどういう――?」
「イヤ、まだ腹は痛うならぬかと申すのじゃ、ハツハッハ」
「いえ、いっこうに……」
「うむ、其方は何も知らぬとみえるナ」
「と申しますと?」
「よろしい。タ、ただ、武将たるもの、敵地にあって飲食をいたすには、これだけの用心は当然――武士の心得の一つというものじゃ」
眼をまるくした少年は、思わず、
「敵地?」
と、声を高めました。
その顔を、源三郎はつくづく見つめて、
「なるほど、其方はまだ年端もゆかぬ。御後室と丹波と、予とのあいだに、いかなる縺れが深まりつつあるか、よくは知らぬのであろう」
「は。うすうすは……」
と少年は、その前髪立ちの頭をしばし伏せましたが、
「しかし、なにとぞ御安心のうえ、お箸をお取りくださいますよう――」
ウムとうなずいて、源三郎は食事をすすめたが、その間も、気になってならないのは……。
丹波をはじめ十五人の道場のものどもが、いまだに顔を出さないのみか、さほど広くもなさそうなこの寮が、イヤにヒッソリ閑として、どこにその連中がいるのか、そのけはいすらもないことです。
挨拶に出べきはず。無礼!――と、いったんは心中におこってみたが、それよりも、不審のこころもちのほうが強い。いま、給仕の少年にきいてみたいと思ったが、なんだかうす気味わるがって、怖れているようで、かれの性質として、それもできないのです。
もう一つは、あの、うちしおれて、憐れみを乞うたお蓮さまのことば……あれをそのままとっていいかどうか。裏にはうらがありはしないか。
また、出ていったきり帰らない門之丞と、別室で食事しているはずの玄心斎と大八は、どうしたか――。
やっぱりあのお蓮様は、斬ってしまうに限る。あしたにでも斬らねばならぬ。それから、峰丹波も……
源三郎は、そうふたたび心に決しつつ、黙々として箸を置きました。雨に追われて、馬を走らせたので、空腹に、思わず食をすごしたようです。
食後も。
誰もくるようすはない。
雨はやみ、風が雲を吹き払って、月が顔をのぞかせたらしい。どこから迷いこんできたのか、死におくれたこおろぎが一匹、隅のたたみに長い脚を引きずっている。
まるで自分は体のいい捕虜……気をひきしめねば、と自らをはげましつつも、源三郎、いつしか眼の皮がだるくなってくるので。
少年の敷いた夜のものにくるまって、源三郎は、なんのうれいも、警戒もないもののごとく、ぐっすり眠った。
不覚! というよりも、腕の自信が強いからで。
それは、呼べば応える別室に、玄心斎、門之丞、大八の三人が、寝もやらず控えている……という心がある。
あらしの後の静けさは、いっそう身にしみます。土庇を打つ雨だれが、折りからの月を受けて銀に光っているのが、屋内にあっても感じられる。
それほど戸外は、クッキリと明るい月夜――。
何刻ほどたったか……フと寝返りをうった源三郎は、瞼に、ほのかに光線を感じて、うす眼をあけました。
はじめは、月のひかりだと思った。
それにしては、黄ばんでいる――。
夜が明けたのかしら……まだ夢にいるような混沌たるあたまで、瞬間、そうも感じたのでした。
と!
そっと襖のしまる音がした。といって、誰かがはいってきたのではなく、この時まで室内にひそんでいた何者かが、ちょうど今、忍びやかに出て行ったらしい気配――。源三郎は、一時にパッと眼がひらいて、ハッキリそれを感じた。全身に感じた。
まるで、暗い海底から、陽のあかるい水面へ泡が立ちのぼって、ポッカリ割れるように、急に、冴えざえとした意識……。
耳も眼も、異常に鋭くなった源三郎、気がつくと、燭台の灯が、うすあかく天井を照らし出している。
ふしぎ! 寝る前に、たしかに消したはず。
源三郎の顔に、ニッと、言うにいわれぬ微笑が――。
来たナ。何かコソコソやりおるナ、というこころ。
耳をすますと、ふすまの外で、
「ウム、ぐっすり眠っておるぞ」
という低声。つづいて、
「だが、敷き寝しておって、取れぬ……」
というのは、刀のことを言うらしい。
源三郎は、床の下にさしこんで寝ている大刀を、そっと上からさすって――またしても浮かぶのは、残忍とも見える、血を待つほほえみ。
にわかに、室外に、けんめいに笑いをこらえる声が聞こえた。それがだんだん高くなって、ウハハハハ、あははははは、と、突如として家をゆるがす夜中の哄笑、ぞっと総毛立つものすごさをともなって。
七、八人をうしろに従えて、いきなり、ガラリ! 襖をあけた峰丹波は、
「源三郎殿、夜中ながら、御挨拶に推参……」
低い声を投げこみましたが――丹波、ビックリした。
床は、もぬけのから……室内には、だれもいない。
と見えたのは、源三郎、早くも起き出ると同時に、そのあけられたふすまの側の壁に、ピタリ背をはりつけているので。
稽古襦袢に袴の腿立ちとった一同、頓みには入りかね、手に手に抜刀をひっさげて、敷居のそとに立ちすくんでいる。
シイーンと静まり返った中から、やがて、伊賀の暴れン坊のふくみ笑いが……。
「ママ待ちかねておったゾ。ようこそ。サ、サ、ズッとこれへお通りめされ――」
むやみに飛びこんでは、身体を入れた瞬間に、真上からか、横からか、源三郎の豪刀が伸びてくるにきまっている。
こうなると、室外の連中、呼吸をはかって竦みあうばかりで、いつかな埓があかない。
こうした場合の常識……誰かが刀の斬っさきに羽織をひっかけてツイと、部屋の中へ投げこんだ。
が、児戯――。
気がうわずっていれば、これに釣られて羽織へ刀を振りおろす。その動きのすきをねらって、一団となっておどりこもうという寸法なんですが、ドッコイ、そんな月並みな手に乗る源三郎じゃアありません。
ウフフフフフ……と、ふすまのかげから、源三郎の低い笑い。
「よせ、よせッ。こどもだましは!」
声とともに、忍んでいる源三郎の手もとあたりに、ピカッ! ピカッ! と光のざわめくのが一同の眼を射るのは、明鏡のように磨ぎすました刀に、うす暗い燭台の灯が、映ろうのらしい。
そして、源三郎が柄の握りかげんをなおすたびに、天井から向うの鴨居へかけて、白い、ほそ長い閃光がチカチカ走るのが、敷居のそとから、気味わるく見えるのです。
ちょっとはいれない……。
深沈たる夜気がこって、鼓膜にいたいほどの静寂。これは、声のない叫喚だ。呶号をはらむ沈黙だ。
かくてははてしがない――と見た不知火剣士の一人、つぎの間から壁越しに、ここらに源三郎がいると思うあたりへ、グザッ! 柄も通れとばかり刀を突っこんだ。と、見事な京壁、稲荷と聚楽をまぜた土が、ジャリッ! と刃をすり、メリメリッと細わりの破れる音!
同時に、
「うわアッ……!」
とのけぞる源三郎の叫声。つづいて、
「痛ウ――!」
と低くうめくのは、さすがの源三郎横腹の深傷をおさえて、よろめくようす……わが隠れている壁から、ふいに繰り出された一刀で、源三郎、脇腹から脇腹へ、刺し貫かれたとみえる。
「ウーム、苦しい! 卑怯だっ! 正面から来いっ!」
血を吐くような源三郎の声が聞こえた秒間、しすましたりと、こなたは丹波を先頭に、ドッ! と唐紙を蹴倒して、雪崩こみました。
煽りをくらった灯が、消えなんとして、ぱッと燃えたつ。
と! どうです。
畳にころがって、のたうちまわってでもいるかと思った源三郎、部屋の隅にスウッと伸び立って、思いきり斬っ尖をさげた下々段の構え――薄眼をあいて、ニヤニヤ笑っているじゃアありませんか。
「ははア、御苦労。やっと姿を現わしたナ」
と言ったものです。血なんか流れてもいないどころか、この下々段のかまえたるや柳生流でもっとも恐ろしいとなっている不破の関守という刀法……不破、他流にはちょっと破れないんです。
それと、ピタと向きあってしまった。このもっとも避けていた場面に立ちいたった峰丹波、もう面色蒼ざめて、
「おのおの方、御用心、御用心!」
かすれた声で叫びました。
かつて植木屋の若い者に化けて、道場へはいりこんだこの柳生源三郎と……。
峰丹波、いつか真剣の手合せをして、不動のにらみあいに気力で圧倒されたあげく、意気地なくも、フワーッとうしろへブッ倒れて、何も知らずにこんこんと眠ってしまったことがある。
意気地なくも――とはいうものの、あの時、あの庭の隅で、相青眼にかまえたままのにらみあいは、いまから思うと、まるで永遠のように長かった。そのうちにかれ丹波、一刀を動かさず、一指をも働かせずに、ズウンと気がとおくなって、土をまくらにしてしまったのです。意識をとり戻したときは、身はすでに座敷へ運び入れられて、医者よ、薬よ……という面目ない騒ぎ。
決して丹波が弱いんじゃない、源三郎が強過ぎるので。
あの時のことは、丹波一代の不覚――いま思いだすと、暗いところに独りでいても、カッカと耳が熱くなるくらい。
が、相手の腕前はこれで十二分に知っていればこそ、丹波、今まで自重に自重をかさねて、策をめぐらしてきたのだ。
なみたいていのことで立ち向かっては、だれが出ても、とうてい敵いっこない……だから、苦心惨澹して、やっとここまでおびきだしたのに――。
それなのに!
やっぱり、いけない!
みごとに裏をかかれて、今この、刀を持った源三郎と、こうしてこの狭い部屋で、面と顔をあわせることになってしまった。
まるで獅子の檻へ、じぶんから飛びこんだも同然で……こりゃア丹波、あわてるなといっても、無理です。
しかし、こっちは人数が多い。あたま数で押して、遮二無二討ちとってしまおうと、自分はすばやく岩淵達之助のうしろへまわって、
「かかれっ! かかれっ!」
声だけはげましたが、誰だって斬られるのはあまり好きじゃない。一同。しりごむ気配が見えた時……。
「キ、気の毒だが――」
弁解のようにうめいた伊賀のあばれン坊、不破の関守の構えから、いきなり、身を躍らせると見せておいて……とりまく剣陣のさわぐすきに、近くの一人へ、横薙ぎの一刀をくれた。
遠くを攻めると見せて、近くを払ったのだ。
肉を斬り、骨を裂くものすごい音とともに、そいつは、持っていた刀を手放し、空気をつかんで、ッ! と畳を打つ。
とたんに。
誰かの裾が燭台をあおって、フッと灯が消えた。
闇黒――のどこかに、戸外の夜光がウッスラ流れこんで、白いものが白く見えるだけのうすあかり。
一同は、言いあわしたように、さっと壁ぎわに身を沈めた。手に手に、白い棒とも見える抜刀を低めて。
同時に、また一人の叫声が走ったのは、源三郎の剣、ふたたび血を味わったらしい。
すると、この瞬間です! 源三郎の横手に立っていた峰丹波の手から、何やら、長めの手拭いとも見える白い布ぎれが飛んで、ちょうど振りかぶっていた源三郎の刀へ、キュッと、ふしぎな音して捲きついたのです。
しゅウッ! と異様な音を発して、空をさいて峰丹波の手から、生あるごとく流れ出て源三郎の長剣に、捲きついたもの。
ふたりを斃し、いま三人めをねらって、大きく刀をかぶっていた源三郎は。
ぐっと手もとに、かすかな重みの加わったのを知ると同時に。
何かしら、かたなを背後へひかれるような気がした。
変なじゃまものに、刀をしばられた感じ――。
オヤ! と思いました。
それとともに、
いま水粒がぱらっと飛んで、刀もつ手から自分の首すじへかけて、かすかにとばっちりをうけたのを意識した。
丹波はそれなり壁ぎわへ飛びすさって、一刀を平青眼……。
じっと闇黒をすかして源三郎のようすを、見守っている。
刹那のしずかさ。
岩淵達之助、等々力十内、ほか大勢も。
呼吸をのみ、うごきを制しあって、くらい中に源三郎の立ち姿を見つめていますと。
源三郎、金縛りにあったようにそのままの姿勢です。
この得体の知れない出来ごとに眉をひそめ、小首を捻って、とっさの判断に苦しむようす。
無理もない……。
いまも柄を握る源三郎の両手に、何かは知らず、うす気味わるい冷たい液体が、ジクジクしたたり落ちている。
闇の中で見えませんから、このつめたい液体がなんだかひどく不吉なものに感じられて、これがとっさに、源三郎の心理におよぼす影響は、決して小さくありません。
「ウヌ……!」
と源三郎、うなりながら、刀をひきおろしてみた。
刻一刻、重味の加わるような気のするその刀――。
「小細工を……」
剣林のまんなかですから、八方に気をくばりつつ、伊賀の若様、片手の指をその刀身に触らせて調べてみると!
「ナ、なんだ、これあ」
べっとりと冷たく濡れたものが、刃をつつむようにからみついて、キリキリと締めつけている。
除ろうとしても、急にはなれやしない。
「真綿でござるよ、アハハハハハ」
かたすみから、笑みをふくんだ峰丹波の声が流れて、
「濡らした真綿――オイソレとは取れぬもの。まず、そのお刀はお捨てめされ!」
まったく。
ドブリと水に漬けた、ほそ長い真綿なのだ。あつかうには、特別の術と習練を要する。水をふくませた真綿を、たくみに投げて、敵の刀を捲きつかせれば、適度な重味をあたえられた真綿のきれは、それ自らの力で小蛇のごとく、グルグルッとたちまち刀身ぜんたいにからみついて、水で貼りつき、綿でもつれて、ちっとやそっとのことでは取ろうたってとれない。
どんな利刃も、即座に蒲団を被て、人を斬るどころか、これじゃあ丸太ン棒よりも始末がわるい。源三郎、ギリッと歯をかんだ。
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作者記 これまでのところを、先へすすむ前に、ちょっとここで整理いたします。本来ならば、お蓮様の寮で柳生源三郎が剣豪峰丹波一党にとりかこまれ、くら闇の中に命と頼む白刃を濡れ真綿でからめられた「源三郎の危機」から稿をつづけるべきですが、更始一新の気持でここへこの「発端篇」をさし加えます。
「触るまいぞえ手を出しゃ痛い、伊賀の暴れン坊と栗のいが」
五本骨の扇、三百の侯伯をガッシとおさえ、三つ葉葵の金紋六十余州に輝いた、八代吉宗といえば徳川もさかりの絶頂です。
そのころ、いま言ったような唄が流行った。
唄の主――。
伊賀の暴れん坊こと、柳生源三郎は、江戸から百十三里、剣術大名柳生対馬守の弟で、こいつがたいへんに腕のたつ怖ない若侍。
美男で非常な女たらしだ。ちょいと不良めいたところのある人物だったんです。
江戸へ婿入りすることになりまして、柳生家重代のこけ猿の茶壺、朝鮮渡来の耳こけ猿という、これは、相阿弥、芸阿弥の編した蔵帳にのっている、たいそう結構な天下の名器だ。それを婿引出に守って、伊賀の源三郎、同勢をそろえて品川までやってきた。
ところが、その夜。
八ツ山下の本陣、鶴岡市郎右衛門方の泊りで、
「若ッ! 一大事出来! 三島の宿で雇い入れました鼓の与吉という人足めが、かのこけ猿の壺をさらって、逐電いたしましたっ!」
えらい騒ぎ。波紋の石は、まずこの江戸の咽喉首、品川の夜に投ぜられて、広く大きく、八百八町へひろがっていく。
その、江戸は本郷、妻恋坂に。
十方不知火流という看板を掲げた司馬老先生の道場が、柳生の若様の婿入り先で、娘を萩乃といいます。老先生は長のいたつき、後妻のお蓮さまという大年増が、師範代峰丹波とぐるになって、今いい気に品川まで乗りこんできている源三郎を、なんとかしてしりぞけ、道場をぶんどろうと企んでいるのだ。
「老先生がおなくなりになるまで、婿引出をぬすみ隠して、源三郎めを品川へとどめておけ」
つづみの与の公、この丹波の命をうけて供の人数へ紛れこみ、こけ猿の茶壺をかつぎだしたのです。引出物がなくては、お婿さんの行列は立ち往生。
一同、品川で足どめを食った形。あの辺の青楼やなんかは、イヤもう、どこへ行っても伊賀訛でいっぱいだ。毎日隊伍を組み、豪刀をよこたえて、こけ猿の茶壺やいずこ? と、江戸市中をさがしまわっている。
この、消え失せたこけ猿の茶壺――耳が一つ虧けているので、耳こけ猿、こけ猿という……この壺の秘密をめぐる葛藤が、本講談の中心でございます。
さて。
話はここで、お濠の水しずかな千代田の城中、奥深く移って。
将軍八代様のお湯殿。八畳の高麗縁につづいて、八畳のお板の間、御紋散らしの塗り桶を前に、お流し場の金蒔絵の腰かけに、端然とひかえておいでになるのが、後に有徳院殿と申しあげた吉宗公で。
来年は、二十年目ごとの、日光御廟御修営の年に当たる。ひそかに軍用金でもためこんでいそうな雄藩を、日光東照宮修理奉行に命じて、その金をじゃんじゃん吐きださせようという、徳川の最高政策です。
どんな肥った藩でも、日光を一ぺんくうと、げっそり痩せると言われた。
「のう、愚楽。来年の日光だが、こんどは誰にもっていったものかな?」
吉宗公、お風呂番に相談している。そもそも、こいつをただの男とおもうと、大間違いなので……。
亀背で小男の愚楽老人、この上様のお風呂番は、垢すり旗下と呼ばれて、たいへんな学者で、かつ人格者だった。
将軍の垢はするが、胡麻は摺らない。
隠密の総帥で、みずから称して地獄耳、いながらにしてなんでも知っている。八代吉宗、最高秘密の政機は、すべて入浴の際、このせむしの愚楽にはかって決めたものだそうだ。
「来年の日光造営の奉行は、誰に?」
との御下問に、愚楽、答えて、
「伊賀の柳生対馬守へ――小藩だが、だいぶ埋蔵しておりますようで」
柳生対馬守は、源三郎の兄だ。この愚楽の進言の結果、莫大な費用を要する日光修復は、撃剣と貧乏で日本中に有名な、柳生へ落ちることになった。
その、いよいよ柳生を当てるにも、です。
昔はまわりくどいことをやったもので……金魚籤。
お城の大広間に、将軍家出御、諸大名ズラリといならび、その前に一つずつ、水をたたえた硝子の鉢をおいて、愚楽さんが一匹ずつ金魚を入れて歩くんです。その金魚の死んだ者に、東照宮様の神意があるというんだが、ナアニ、これと思うやつのまえに、前もって湯の鉢をすえとくんだから、金魚こそいい迷惑だ。
こうして、人のいやがる日光修繕をしょわされちまった柳生藩、剣なら柳生一刀流でお手のものだが、これには殿様はじめ重役連中、額をあつめて、
「よわった! こまった! どうしよう――」
の連発……青いき吐息。
この日光祖廟おなおしの件は、やがて本講談の大筋の一つとなります。
しかるに。
その柳生藩に、百歳あまりの一風宗匠という、活きた藩史みたいな人物があった。この人によって、柳生の先祖が、かかる場合の用にもと、どこかの山間にとほうもない大金を埋め隠してあると知れて、一藩は蘇生の色に、どよめき渡った。
あの愚楽老人の言ったことは、やっぱり嘘じゃあなかったんです。其金さえさがしあてれば、柳生は貧乏どころか、日本一の富裕な藩になるだろう。
が、その大金の埋蔵個所は、ただ一枚の秘密の地図に描き示してあるだけで、誰も知らない。
では、その密図は――?
「こけ猿の茶壺に封じこめあるもの也」
口のきけない一風宗匠、筆談で答えた。
さあ、たいへん! よろこんだのも束の間、問題のこけ猿の茶壺は、弟源三郎の婿引出に持たしてやって江戸で行方不明……
「名器は名器にしろ、あの薄ぎたない茶壺が、柳生家門外不出の逸品と伝えられていたのは、さては、そういう宝の山の鍵がおさめられてあったのか。そうとも知らず――」
と、地団駄踏んでも、あとの祭。さっそく、藩士の一隊が決死の勢いで、壺探索に江戸へ立ち向かう。
妻恋坂、司馬道場の峰丹波はこのこけ猿の秘密を知っているに相違ない。お婿さんの源三郎には来てもらいたくないが、壺には来てもらいたいので、ああして鼓の与吉を使って盗みださせたのも道理こそ……。
幾百万、幾千万という大財産の在所を、そのお腹ン中に心得てる壺だ。
そろそろ、四方八方からの眼の光り出したこけ猿……それは今、どこにある?
浅草は駒形の兄哥、つづみの与吉とともに、彼の仲間の大姐御、尺取り横町の櫛巻お藤の意気な住居に、こけ猿、くだらないがらくたのように、ごろんところがっているんです。
口あれど、壺に声なく――。
ヒュードロドロドロ……青いお江戸の空に、鳶が輪を描いています。
ばかにいいお天気。
「姐御、もうでえぶほとぼりの冷めたころだから、あっしアこれから、品川であの柳生源三郎の一行から盗みだしたこの壺を、妻恋坂の峰丹波様へ納めてくるぜ」
「チョイト、張り板が裃を着たような、ヤに突ッぱった田舎のお侍さんたちが、眼の色かえて江戸じゅう、そいつを探しているっていうじゃないか。与の公、大丈夫かえ」
「止めてくれるな、出足がにぶるってんだ。思いついたが吉日でえ」
勢いよく壺の箱を抱えて、とびだした与吉だったが、途中で与の公、壺の中が見たくなった。
「源三郎には用はないが、その持っておるこけ猿の壺には、当方において大いに用があるのだっ! 必ずともに壺を盗みだしてこいヨ。よいかナ」
そう、峰の殿様はすごい顔で、厳命したっけ。よウし! なにが入ってるか、一つ見てやれ――と与吉は、本郷への途中、壺を開きかけると、あ! いけねえ!
言わないこっちゃアない。ちょうど向うを通りかかっていた、柳生の侍の一団が、この時与吉を見つけて、ドッ! と雪崩をうって迫ってきました。
あわてた与吉、かたわらに荷を出していたところてん屋の小僧、チョビ安という八つばかりの少年に壺を預けて、お尻に帆上げて逃げだした。イヤ、その早いこと、早いこと! グルッとそこらを一まわりして、伊賀の連中を晦いてから、ノホホンと元のところへ来てみると、与の公、二度びっくり!
今度はそのところてん屋の小僧チョビ安が、壺をかかえてドンドン逃げていくではないか。
「小僧! 待てエッ! 待てエッ!」
与吉は必死に追っかける。チョビ安少年は、その壺の包みに、何か素晴らしいものでもはいっていると勘違いしているらしく、一生懸命にすっ飛んでいきます。
逃げるほうもよく逃げたが、追うほうもよく追った。三味線堀は佐竹右京太夫様のお上屋敷、あれからいたしまして、吾妻橋の袂といいますから、かなりの長丁場。
チョビ安、どんどん駈けながら、
「泥棒だアッ、助けてくれえ!」
大声をはりあげる。これにはさすがの与の公も、子供ながら上には上があると、あきれている。
とたんに、チョビ安の姿がふっと消えた。橋下の河原へとびおりたんです。つづいて与吉も、橋桁の下へもぐりこんでみると、そこに、浮き世をよその蒲鉾建ての乞食小屋。
チョビ安、えらいところへ逃げこんだもので……筵の垂れをはぐって、与吉が顔をさし入れて見ると!
薄暗い中にむっくり起きあがったのは、なんと! 大たぶさがバラリ額にかかって、隻眼片腕の痩せさらばえた浪人姿――。
箒のような赤茶けた頭髪。一眼はうつろにくぼみ、その眉から口尻へかけて、溝のごとく深い一線の刀痕――黒襟かけた白着に、大きく髑髏の紋を染めて、下には女物の派手な長襦袢が、竹ン棒みたいなやせ脛にからまっている。
「アッハッハッハ、おれか? 俺あ丹下左膳てえ人斬り病……」
その背後に、チョビ安め、お小姓然と控えているんで。イヤ、与吉の野郎、おどろきました。
こうして偶然にも、この万人のつけねらうこけ猿の茶壺は、巷の放浪児チョビ安の手から、人もあろうに隻眼隻腕の剣怪、丹下左膳の手に納まることとはなった。まことに厄介な次第になったもので。
このチョビ安という小僧は。伊賀の国は柳生の郷の生れとだけで、両親の顔も名も知らない、まったくの親なし千鳥。
当時、浅草の竜泉寺のとんがり長屋、羅宇屋の作爺さんの隣家に住んでいるが、その作爺に、お美夜ちゃんという七つになる孫娘があって、これがチョビ安と筒井筒の幼同士、まア、子供の恋仲てえのも変だけれど、相手が化け物みたいにませたチョビ安だから、わけもわからずに、末は夫婦よ、てなことを言いあっているんです。とにかく、おっそろしく仲がいい遊び友達のチョビ安とお美夜ちゃん。
そのチョビ安が、ある日ふらっと、例によってところてん売りにでかけたきり、とんがり長屋へ帰ってまいりませんから、お美夜ちゃんはたいへんな悲観と心配。
これは安公、長屋へ帰らないわけで、
「向うの辻のお地蔵さん、涎くり進上、お饅頭進上、ちょいときくから教えておくれ、あたいの父はどこへ行た、あたいのお母どこにいる、ええじれったいお地蔵さん、石では口がきけないね――」
この、チョビ安自作の、父母を慕いさがす唄を耳にした左膳、同情のあまり彼を手もとにとどめおいて、
「うむ。これからはおれが、仮りの父親になってやろう。どこへも行くな。その曰くありげな壺はこのにわか拵えの父が、預かってやる。父と子と、仲よく河原の二人暮しだ。親なし千鳥の其方と、浮き世になんの望みもねえ丹下左膳と、ウハハハハハ」
というわけ。変な父子ができちまったが……それからほどなく。
河原の小屋に壺を置いたのでは、夜な夜なねらう者の多いところから、左膳はチョビ安に、人眼につきやすい侍姿をさせて、壺の箱を持たして竜泉寺のとんがり長屋、作爺さんのもとへ預けにやったのです。
子供が、おとなもおとな、浪人の装をして街を行くのだから、眼にたつ。はたしてこの後をつけて、壺が作爺さんの家へ納まるところを見きわめたのが、日夜左膳の掘立小屋を見張っていた鼓の与吉だ。チョビ安、それを知ってか知らずにか、壺の箱を作爺さんにあずけ、お美夜ちゃんともしばしの対面を惜んで、帰ってゆく。
この作爺さん、実は作阿弥というたいへんな彫刻の名人で、当時故あって江戸の陋巷にかくれすまい、その娘、つまりお美夜ちゃんの母なる人は、腰元からなおって、今はさる御大家の後添いにおさまり、お美夜ちゃんなど見向きもしないということです。
話かわって……。
本郷妻恋坂、司馬十方斎の道場では。
老先生は病あらたまって、死の床。きょうあすをも知れない身でしきりに、剣をもって相識る柳生対馬守の弟を、娘萩乃の入り婿に乞い請けた。その柳生源三郎の到着を、枕の上に首を長くして待っている。
ところで――かんじんの萩乃は、伊賀の暴れン坊と唄にもあるくらいだから、強いばかりが能の、山猿みたいな醜男に相違ないと、頭からきめて、まだ見たこともない源三郎を、はや嫌い抜いている。
この時です。妻恋坂の司馬の屋敷へ雇われてきた、若いいなせな植木屋がございました。
色白な、滅法界いい男。
瀕死の司馬十方斎先生は、同じ剣家、柳生一刀流の大御所対馬守との間に話のきまった、その弟伊賀の源三郎の江戸入りを、きょうかあすかと待って、死ぬにも死ねないでいます。
源ちゃん、品川まで来たのはいいが、婿引出のこけ猿の茶壺を失って、目下大騒ぎをしてさがしていることは、一同ひた隠しにして先生の耳へ入れないでいる。
「源三郎の顔を見て、萩乃と祝言させ、この道場を譲らぬうちは、行くところへも行けぬわい」
というのが、死の床での司馬先生の口癖。
ところが。
当の萩乃は、恋不知火のむすめ十九、京ちりめんのお振袖も、袂重い年ごろですなア。
「源三郎様なんて、馬が紋つきを着たような、みっともない男にきまってるわ」
ひどいことを考えている。
「おお嫌だ! 伊賀の山奥から、猿が一匹来ると思えばいい」
まだ品物を見ないうちから、身ぶるいするほど怖毛をふるっている。
すると……。
紺の香のにおう法被の上から、棕櫚縄を横ちょにむすんで、それへ鋏をさした植木屋の兄イ――見なれない職人が、四、五日前から、この不知火御殿といわれた壮麗な司馬の屋敷へはいって、さかんにチョキチョキやっていましたが。
「触るまいぞえ手を出しゃ痛い、伊賀の暴れン坊と栗のいが」
口の中で、いやに気になる鼻唄をうたっている。こいつが萩乃に、変に馴れなれしく口をきいているのを見て、怒ったのが師範代峰丹波だ。
短気丹波といわれた男……。
「植木屋風情が、この奥庭まで入りこむとは何事ッ! 誰に許しを得て――無礼者めがッ!」
発止! 投げた小柄を、植木屋、肘を楯に、ツーイと横にそらしてしまった。柳生流秘伝銀杏返しの一手……銀杏返しといったって、なまめかしいんじゃアない。ひどくなまめかしくない剣術のほうだが、峰丹波はサッ! と顔色をかえ、ドサリ縁にすわって――指を折りはじめた。
「ハテナ、柳生流をこれだけ使う方は、まず第一に、対馬守殿、これはむろん、つぎに、代稽古安積玄心斎先生、高大之進……ややっ! これは迂闊! その前に、兄か弟かと言わるる柳生源三――おおウッ!」
傲岸[#ルビの「ごうがん」は底本では「ごうかん」]、丹波の顔は汗だ。そのうめき声を後に……触るまいぞえ手を出しゃ痛い――唄声が、植えこみを縫って遠ざかっていく。
根岸の植留の若えもンで、渡り職人の金公てエ半チク野郎――こういう名で入りこんではいるが。
これが、実は、伊賀の若様源三郎その人なんだ。
こういうところが、源三郎の源三郎たるゆえん。
供の連中は品川を根城に、眼の色変えてこけ猿の行方を、探索している。その間に自分は、ちょっと退屈しのぎに、かくは植木屋に化けて、この婿入りさき司馬道場のようすをさぐるべく、みずからスパイに――そんなこととは知らない萩乃は、この美男の植木屋に、ひそかに、熱烈なる恋ごころを抱くにいたりました。
「あんなしがない植木屋などを、こんなに想うなんて、あたしはいったいどうしたというのだろう……あアあ、それにつけても源三郎さまが、あの植木屋の半分も、きれいであってくれればいいけれど――」
娘島田もガックリ垂れて、小さな胸にあまる大きな思案。
罪ですネ、源ちゃんは。
せっかく盗みだしたこけ猿の壺を、チョビ安てえ余計者がとびだしたばっかりに、丹下左膳という化け物ざむらいにおさえられてしまった鼓の与吉。
なんといって、妻恋坂の峰丹波様に言いわけしたらいいか。
いつまで黙ってるわけにもいかないから、ことによったら、この首はないものと、おっかなびっくりの身には、軽い裏木戸も鉄の扉の心地……与吉のやつ、司馬道場へやって来た。
とたんに。
出あい頭に会った若い植木屋を、一眼見るより与の公、イヤおどろいたのなんのって、あたまの素ッてんぺんから、汽笛みたいな音をあげましたね。
「うわアッ! あなた様は、や、柳生の、げん、げん、源三郎さまッ!――」
こいつあ驚かずにはいられない。これから起こった、あの深夜の乱陣です。与吉の口から、柳生源三郎とわかった以上、もはや捨ててはおけない。峰丹波、今宵ここで、伊賀の暴れン坊に斬られて死ぬ気で、立ち向かいました。
「源三郎どの、斬られにまいりました」
「まあ、ソ、ソ、そう早くから、あきらめるにもおよぶまい」
法被姿の源三、庭石に腰かけて、含み笑い……素手です。
星の降るような晩でした。
これより先、伊賀の若殿に刃向かう者は、一人しかない。それは、もうひとりの源三郎が現われねばならぬと――いう丹波の言葉に、与吉はふっと思いついて、こっそり屋敷を抜け出るが早いか、夜道を一散走り。
吾妻橋下の河原の小屋へ。
かの、隻眼隻腕の刃妖、丹下左膳を迎えに。
思いきり人が斬られる……と聞いて、おどりあがってよろこんだのは、左膳だ。しばらく人血を浴びないで、腕がうずうずしているところへ、しかも相手は、西国にさる者ありと聞いた伊賀の若様、柳生源三郎!
「イヤ、おもしれえことになったぞ」
相模大進坊、濡れ燕の豪刀を、一つきりない左腕ににぎった丹下左膳、与吉のさわぎたてるまま辻駕籠に打ち乗って――。
ホイ、駕籠! ホイ!
棒鼻におどる提灯……まっしぐらに妻恋坂へかけつけました。この時の左膳は、理由なんかどうでもよい、ただ柳生流第一の使い手と、一度刃を合わせてみたいという、熱火のような欲望に駆られて。
行ってみると、おどろいた!
丹波と源三郎は、まだ二本の棒のように、向かいあって立ったままだ。丹波は正眼、源三郎は無手。と! すっかり気おされて、精根がつきはてたものか、峰丹波、朽ち木が倒れるように堂ッと地にのけぞってしまった。
刀痕の影をきざませて、ニッと微笑った左膳。
「なかなかやるのう。かわりあって、おれが相手だ」
もとより、なんの恨みもない。斬りつ斬られつすべき仔細は、すこしもないのだ。ただ、剣を執る身の、やむにやまれぬ興味だけで、左膳と源三郎、ここに初めて真剣の手合せ――まるで初対面の挨拶のように。
源三郎は、意識を失った丹波の手から、その一刀をもぎとって、柳生流独特の下段の構え。
丹波の身体は、与吉が屋内へかつぎこんだ。
この騒動に、お庭をけがす狼藉者とばかり、不知火の門弟一同、抜きつれて二人をかこむ。名人同士の至妙な立合いを、妨げられた怒りも手伝い、左膳と源三郎、こんどは力をあわせて、この司馬道場の連中を斬りまくることとなった。
ちょうどこの時、奥まった司馬先生の病間では……。
「おうッ! 不知火が見える! 生れ故郷の不知火が――」
これが最後の言葉、司馬老先生は、とうとう婿の源三郎に会わずに、呼吸をひきとってしまった。庭で、左膳と源三郎に剣林を向けていた弟子達は、いっせいに刀を引いて、われがちに先生の臨終に駈けつける。
急に邸内がざわめいて、あかあかと灯がともったと見る間に、サッと潮のひくよう、囲みの人数がひきあげて行くから、左膳と源三郎、狐につままれたごとき顔を見合わせ、
「烏の子が、巣へ逃げこみおった。何が何やら、さっぱりわからぬ、うわははははは」
そのとき……。
ツーイと銀砂子の空を流れる、一つ星。
「あ、星が流れる――ウウム、さては、ことによると老先生がおなくなりに……し、しまった!」
刀を納めた源三郎へ、左膳は、
「あばよ」
と一瞥をくれて、
「星の流れる夜に、また会おうぜ」
一言残して、そのままズイと行ってしまった。
勝負なし……さすがの左膳も、この柳生源三郎に一太刀浴びせるには、もう一段、腕の工夫が必要と見たに相違ない。
このおれと、ほとんど対等に立ちあうとは、世の中は広いもの――かれ左膳、ひそかに心中に舌を巻いたのです。
一方、品川の旅宿へ立ち帰った源三郎は。
こけ猿の茶壺は手になくとも、もはや一刻の猶予はならぬと、急遽供をまとめて本郷の道場へ乗りこんできた……あられ小紋の裃に、威儀をただした正式の婿入り行列。
ちょうどこの日、妻恋坂では、伊賀の暴れン坊を待ちきれずに死んだ、司馬十方斎の葬儀。
その威勢、大名をしのいだ、不知火流の家元のおとむらいですから、イヤその盛大なこと。
白黒の鯨幕、四旒の生絹、唐櫃、呉床、真榊、四方流れの屋根をかぶせた坐棺の上には、紙製の供命鳥をかざり、棺の周囲には金襴の幕……昔は神仏まぜこぜ、仏式七分に神式三分の様式なんです。
この日、門前にひしめく群集に撤銭をするのが、司馬道場の習慣だった。当時、江都評判の不知火銭というのは、これです。
その、山のように撒くお捻りのなかに、たった一つ、道場のお嬢様萩乃の手で、吉事ならば紅筆で、今日のような凶事には墨で、御礼と書いた一包みの銭がある。これを拾った者は、お乞食さんでも樽拾いでも、一人だけ邸内へ許されて、仏前に焼香する資格があるのだ。われこそはその萩乃のお墨つきを手に入れて、きょうの幸運児になろうと眼の色変えて押すな押すなの騒ぎだ。
ここへ馬を乗りいれた源三郎をめがけて、銭撒き役の峰丹波、三方ごと残りのお捻りを投げつけたのだが、偶然源三郎のつかんだ一つが、その、万人のねらう萩乃のお墨つきでありました。
入場切符みたいなもの――招かざる客、伊賀の暴れン坊は、こうしてどんどん焼香の場へとおってしまった。
出る仏に入る鬼。
きょう故先生の御出棺の日に、司馬道場、とんだ白鬼を呼びこんだもので。
「おくればせながら、婿源三郎、たしかに萩乃どのと道場を申し受けました。よって、これなる父上の御葬儀は、ただいまよりただちに喪主として……」
源三郎のりっぱな挨拶に、室内の一同、声を失っている。あの恋する植木屋と、見ずに嫌いぬいてきた伊賀の若殿とが、同一人であることを知った萩乃の胸中、その驚きとよろこびは、どんなでしたでしょうか。
こけ猿の茶壺は、まだ橋下の左膳の掘立小屋にある――と、にらんでいるらしく、いま四方八方からねらって毎夜のように壺奪還の斬り込みがある。
君懐しと都鳥……幾夜かここに隅田川。
その風流な河原も、今は血なまぐさい風が吹きまくって。
柳生藩の人達は、江戸で二手に別れて、壺をはさみ撃ちにしようというのです。日光御造営に大金のいる日は、刻々近づいてくる。早くこけ猿をさがしだして、その秘める埋蔵金の所在を解かねば、殿は切腹、お家は四散しても、追っつくことではない。一同、火を噴かんばかりにあせりきっています。
押しかけ婿、源三郎の供をして、妻恋坂へ乗りこんだ連中は、柳生一刀流師範代安積玄心斎、谷大八ら、これは壺を失った当の責任者ですから、まったくもう眼の色かえて左膳の手もとをうかがっている。
問題の壺を源三郎に持たしてよこしたあとで、日光おなおしが伊賀へ落ちて、とほうにくれている時、お茶師一風宗匠[#ルビの「いっぷうそうしょう」は底本では「いっぷうそうしゅう」]によって初めてこけ猿の秘密が知れたのだ。こけ猿さえ見つけだせば、その中に隠してある秘図によって、先祖のうずめた財産を掘りだし、伊賀の柳生は今までの貧乏を一時にけしとばして、たちまち、日本一の大金持になってしまう。日光なんか毎年重なったって、ビクともするこっちゃない。ところが、そのかんじんのこけ猿が行方知れずというんだから、こりゃアあわてるのも、それこそ、猿の尻尾に火がついたように急くのも、無理ではございません。
イヤ、行方が知れないわけじゃアない。
丹下左膳という隻眼で一本腕のさむらいが、シッカと壺をにぎって放さないことは、与吉の注進で、まず司馬道場の峰丹波とお蓮様の一派に知れた。司馬の道場に知れれば、そこにがんばって日夜互いにスパイ戦をやっている源三郎の同勢には、すぐ知れる。
同時に。
柳生の里から応援に江戸入りした高大之進を隊長とする一団、大垣七郎右衛門、寺門一馬、喜田川頼母、駒井甚三郎、井上近江、清水粂之介ら二十三名の柳門選り抜きの剣手は、麻布本村町、林念寺前なる柳生の上屋敷を根城に、源三郎の側と連絡をとって、これも、夜となく昼となく、左膳の小屋にしたいよる。
隻眼隻腕の稀代の妖剣、丹下左膳――しかも、その左腕に握っているのは、濡れ紙を一枚空にほうり投げて、落ちてくるところを見事ふたつに斬る。その切った紙の先が、燕の尾のように二つにわかれるところから、濡れつばめの名ある豪刀……剣鬼の手に鬼剣。
この左膳の腕前は、誰よりも源三郎が一番よく知っているところであります。
伊賀の暴れン坊が、一目も二目もおくくらいだから、まったく厄介なやつが壺をおさえちゃったもンだとみんないささか持てあまし気味。
峰丹波の一派、源三郎、玄心斎の一団、高大之進の応援隊と、一つの壺をめがけて、あちこちから手が伸びる――娘ひとりに婿八人。
おもしろずくで相手になっていた左膳も、ちょっとうるさくなりかけたやさき。
ある日……。
前夜の斬りこみで破られた小屋の筵壁を、背にポカポカと陽をあびながら左膳がつくろっていますと、ビュウーン! どこからともなく飛んできて、眼の前の筵に突き刺さったものがある。結び文をはさんだ矢……矢文なんです。
とたんに。
「ワッハッハ、矢をはなちてまず遠を定む、これすなわち事の初めなり。どうだ、驚いたか」
という、とてつもない胴間声が、橋の上から――。
ひょうひょうと風のごとく、ねぐらさだめぬ巷の侠豪、蒲生泰軒先生。秩父の郷士の出で、豊臣の残党だというから、幕府にとっては、いわば、まア、一つの危険人物だ。ぼうぼうの髪を肩までたらし、若布のような着ものをきて、鬚むくじゃらの顔、丈高く、肩幅広く、熊笹のような胸毛を風にそよがせている。
どこにでも現われ、なんの事件にでも首を突っこむのが、この蒲生泰軒だが、いったいどういうわけでこの先生が、このこけ猿の壺をめぐる渦巻に飛びこんできたのか、そのいきさつは、今のところまだ謎です。
とにかく。
この矢文には、どういう仔細で、そうみんなが顔いろかえて、このうすぎたない一個の壺を手に入れようとあせっているのか、その訳がすっかり書いてある。
で、ここに初めて左膳は、壺の秘密……柳生の埋蔵金のことを知ったのです。命にかけても、この壺をうばい返そうとするのも、無理ではない。今も昔もかわらない、黄金にたいする人間の利念慾欲が、この壺ひとつに凝っていたのか……。
「ウウム、読めた。さては、そうであったか。あれほど真剣にねらう以上、何か曰くがなくてはならぬと思っておったが――イヤ、そうと判ってみればなおのこと、めったにこの壺は渡されねえ」
左膳、左手に濡れ燕の柄をたたき、一眼をきらめかせて、固く心に決しました。
剣魔左膳の胸に、この時から、黄金魔左膳の芽がふいて――。
「いずれ、また会おう。それまで、壺をはなすなよ。天下の大名物、こけ猿の茶壺、せいぜい大切にいたせ」
言い捨てて、橋上の泰軒、来た時と同じように、ブラリと行ってしまいました。
さて、ここでふたたび物語の遠眼鏡を、お城の奥ふかく向けますと――。
「どうじゃナ、柳生はだいぶ苦しがっておるかの?」
吉宗公、愚楽老人へ御下問です。
この、将軍様とその知恵ぶくろ、愚楽と、いろいろお話のあった結果でしょう。まもなく愚楽は、時の江戸南町奉行大岡越前守さまと相談をいたしまして、ひょっとすると将軍のお手もとからも、こけ猿をつけねらう新手の別働隊が、繰りだされそうな形勢となった。
が、それはそれとして、
十方斎先生亡き後の、司馬道場には、二つのふしぎな生活がつづいている。
道場の主におさまった気の源三郎と、あくまでもそれを認めず、ルンペンの一団でも押しこんできて、かってに寝泊りしているものと見なしている、お蓮さまと丹波の陰謀組と。
広い屋敷がふたつにわかれて、妙なにらみあい。
なかにはさまれた萩乃は、一心に源三郎を思いつづけているのだが、お蓮様も、幾度はねられても源三郎を恋しています。三竦みの形。
すると、です。
あの、浪人姿のチョビ安のあとをつけて、こけ猿の木箱が、とんがり長屋の作爺さんの家に隠されたと見た与吉の報告で、丹波の手からはなされた一隊の不知火流の門弟どもが、ある日、突如として長屋をおそったのだ。作爺さんをおどしつけて、その木箱をあけて見ると! おどろいた。
中は、水で洗われて円くなった河原の石。
その石の表面に。
虚々実々、いずれをいずれと白真弓、と、墨痕あざやかに読める。
左膳の字だ。剣怪左膳、はかりごとにおいても相当なもの、見事にいっぱいくわされたんです。
業を煮やした不知火の弟子達が壺のかわりにとばかり、無態な言いがかりをつけて、お美夜ちゃんをかかえていこうとすると!
ぬッと戸口をふさいで立ったのは。
ふさふさと肩にたらした合総、松の木のような腕ッ節にブラリ下げたのは、一升入りの貧乏徳利で……。
おどろく侍どもをしりめにかけて、押し入って来た蒲生泰軒は、この日からこのとんがり長屋にお神輿をすえることになった。長屋に、また一つ名物がふえたのはいいが、この時、部屋の隅にころがっている馬の彫刻に眼をとめて、
「おおっ! 馬を彫らせては、海内随一の名ある作阿弥どの――!」
と、一眼で作爺さんの素性を看破したのも、この泰軒居士でした。
それから、まもなく。
竹屋の渡しに、舟を呼ぶ声も聞こえない真夜中のこと。
「くせのわるいこの濡れ燕の斬ッ尖、どこへとんでいくか知れねえから、汝らッ! そのつもりで来いよっ!」
おめきながら左膳は、こけ猿の箱包みをかかえ、チョビ安を従えて、この材木町の通りを駒形のほうへと、すがりつく黒影を白刃に払いつつ、行く。
せまい河原の乱闘はめんどうと、追いつ追われつここまで来たところ。今宵の襲撃者は、麻布林念寺前の上屋敷からくりだしてきた、高大之進の一隊、ちょいと手ごわいんです。
子を取ろ子とろ……というんで、壺よりも、まずチョビ安をおさえてしまえ、という戦法。左膳が斬りむすんでいるまに、チョビ安が追われて逃げこんだのが、偶然にも、高麗屋敷は尺取り横町の、あの櫛巻お藤の隠れ家だった。折りあしく、そこにとぐろをまいていた鼓の与吉に、大声に戸外へどなられて、チョビ安、押しこんで来た黒覆面の連中に、難なくつかまってしまった。ほどなく左膳もこの家に現われたが、見るとチョビ安は、畳におさえつけられて、咽喉に刀を擬せられている。
「一、二、三、四――」
十まで数えるうちに、左膳のかかえこんでいる壺を渡さなければ、ズブリ! 突き刺すというんだ。
「八、九――!」
かわいいチョビ安の命には、換えられぬ。
「待った! しかたがねえ」
左膳があきらめて引きわたした壺の木箱を、高大之進の一団、おっとりかこんで、その場であけてみると! 思いきや、ころがりでたのは、真っ黒々な破れ鍋が一つ!
しかも、達者な筆で「ありがたく頂戴」と書いた紙きれがついて、
敵も味方も、これにはあいた口がふさがりません。壺はいつのまにか、河原の小屋から見事に盗み出されていたんだ。それとも知らず左膳は、いつからか、この掏りかえられた鍋を、今まで後生大事にまもってきたとは!
上には上。何者の仕業? サア、こうなると、こけ猿はどこへいったか、皆目行方がわからない。
高大之進の一行は、骨折り損のくたびれ儲け。これじゃア喧嘩にもならない。ブツクサ言って引きあげて行く。だが、その夜からだ、左膳、お藤姐御、チョビ安の三人が、この長屋に奇態なトリオをつくって、おもむろに、こけ猿奪還の秘術をめぐらすことになったのは……。
日光御修復の日は、いやでも近づく。茶壺やいずこ?
物語はこれより大潮に乗って、一路、怒濤重畳の彼岸をさしてすすみます。
源三郎、ギリッと歯を噛んだ。
刀身にまつわりつく濡れた真綿から――ポタリ、ポタリとしたたり落ちる水が、気味わるく手を伝わって、肘へ、二の腕へ……。
この一瞬間の、寂然たるあたりのたたずまいは、さながら久遠へつづくものと思われました。
むろんこれには、独特の技術を要するのです。
長い真綿を水につけて、相手の刀へ投げかける。それはキリキリッと鎖のように捲きついて、いつかな離れればこそ――。
「おいそれとは取れぬもの……まず、そのお刀は、お捨て召され」
いま、隅のほうから峰丹波、こう冷笑を走らせたも、道理です。
十方不知火流の秘伝中の秘伝、奥の奥の奥の、そのまた奥の、ずっと奥の――どこまでいっても限りがございません……奥の手。
たいへんやかましいんですなア、この刀絡め。
「ヒ、卑怯な!」
急にひっそりとしたなかに、火を噴かんず勢いの暴れン坊の呻きが、聞こえた。
しかし。
勢いばかりよくったって、綿に包まれた刀……蒲団を着た刀なんて、およそ役にたたない。
ふとん着て寝たる姿や東山。しごくノンビリとしちまって、この乱刃の場には、縁の遠い代物だ。
呆然と立ちつくした源三郎の耳に、この時、米が煮えるように、クックッと四方から漂ってきた音――それは、等々力十内、岩淵達之助ら、司馬道場のやつらの、呼吸をつめた笑い声でありました。
闇の部屋にあって、源三郎は、絵巻物をくりひろげるようにハッキリと、ここにたちいたった径路を見た。わが身にせまる危機を感じた。全身に、汗の湧くのをおぼえた。
本郷の、道場へおしかけて、がんばりあいをつづけていたのだが、婿とは名のみ、萩乃とはまだ他人の仲です。若さと力を持ち扱った今朝のことだ。急に思いついて、遠乗りに出たのだ。
それも。
江戸の地理は暗いといった自分に、墨堤へ――とすすめて、この方面へ馬の鼻を向けたのは、門之丞だった。
考えてみると、あの門之丞がくさい。
途中から雨になって、引っ返そうとしたのを、先に立って、無理にここへ案内して来たのも、門之丞……いよいよ、怪しいのは門之丞だ。
ここは、向島を行きつくした、客人大権現の森蔭、お蓮さまの寮です。こんなところに、司馬家の別荘があろうとは、源三郎、知らなかった。ましてや今、お蓮様、丹波の一党、十五人ほどの腕達者が、ひそかにここへ来ていようとは! 近ごろ道場に姿の見えないことだけは、うすうす感づいていたけれども。
門之丞はいつのまにか敵と内通して、はじめから計画的に、若殿源三郎をこの窮地におとしいれたに相違ない。その門之丞は、さっき、しきりに源三郎に心を残す玄心斎、谷大八の二人とともに、どこか控えの間へ招じ去られたきり、なんの音沙汰もない。寮の内は、森閑として、
とっさに、これだけのきょう一日の追憶が、源三郎の脳裡を走ったのでした。
はかられたと知った源三、血走る声で、
「爺!、安積の爺! ダ、大八ッ――!」
叫んだ刹那です。
「筑紫の不知火は、闇黒にあって初めて光るのじゃっ!」
岩淵達之助の一刀が、右から躍って……。
岩淵の達ちゃん……なんて、心やすく言ってもらいますまい。
岩淵達之助、この人は、泣く子もだまるといわれた怖いオッサンで、本郷界隈では、だだッ児の虫封じに、しばしばその名を用いられた。これじゃアまるで、小児科の適薬みたようです。
冗談はサテおき。
司馬道場では峰丹波から数えて二番目の使い手。
いったい、物語に出てくる女といえば、こいつがそろいもそろって、みんな美人。剣術つかいは、出てくるのも出てくるのも、かたっぱしから剣豪だらけで、まことに恐れ入りますが、しかし、考えてみると、これでなくっちゃア話になりません。弱い剣士なんてエのは、場ちがいです。あつかわないんです。
剣豪のうえに大剣豪あり、そのまた上に大々剣豪があるから、物事がこんでくる。
で、今。
筑紫の不知火は闇に光る――なんかと、ひどく乙なことを言って、畳を踏みきる跫音すごく、源三郎に斬りかかってきたのが、この岩淵達之助だ。
人の刀を使えなくしておいてから、切るたんかでは、たかが知れている。
はたして。
ボンヤリ立っていた源三郎だったが、太刀風三寸にして剣気を察した彼、フイと身をそらしたから、はずみをくらった岩淵達之助は、刀を抱いたまま部屋の向うへスッ飛んで、どすん! 御丁寧に襖とでも接吻したらしい音。なるほど、不知火のような刀影が、見事闇黒に白線をえがいて走りました。
これだから、剣豪もあんまり当てにならない。
といって、この醜態で達之助をわらうことはできないのだ。なんと言っても、相手は伊賀の暴れン坊である。刀は絡められても、腕は絡められない。
真綿のへばりついた長剣を、依然として下々段にかまえ、壁を背に、スーッと静かに伸び立っている。
柳生流でいう、不破の関守……。
やっぱり、この構えだけは破れない――と見えたのは、ホンの二、三秒でありました。なにしろ、この恐ろしい敵の手にある刀は、もう刀じゃなく、ステッキのようになってるんだから、そう用心することはありません。不知火の連中、一時に気が強くなった。
もりあがる殺気に、四方のやみを裂いて数本の刃線が、一気に源三郎をおそった。呶号する峰丹波。同士討ちを注意する、あわただしい等々力十内の声……入りみだれる跫音と、胆にしみる気合いと。右から左から、前からうしろから、ただ一人を斬りに斬った。
「えェイッ! これでもかっ!」
「さ、この一太刀で冥途へ行けっ!」
「これが引導だっ!」
「おいっ、とびちがえては危い。一人ずつかかれっ!」
「ア痛っ! 誰かの斬っ尖が、おれの指にさわったぞ」
だらしのないことを言うやつもある。黒闇闇裡――聞こえるのは、不知火連のかけ声だけ、閃めくのはその一党の剣光のみ。
源三郎は、音もたてない。この刀林の下、いかな彼もたまるまい。すでに膾にきざまれたに相違ないのだ。
と! この時です。廊下のほうからこの部屋へ、ぽっと、一道の明りがさしてきて、
「まあ、お前たち、しばらくお待ちったら! しばらく――」
意外、この場の留め女が、お蓮様とは!
ただでは刃向かえぬ手ごわいやつをやっと謀略でおびきよせて、せっかく殺しかかったこの仕事なかばに、自分でここへ出て来て止めるとは!
と、丹波をはじめ一同は、いぶかりながらも、とにかく主筋となっているお蓮さまのお声がかりだから、みんな不平そうに刀を引いた。
でも、内心、仕事なかばどころか、もう完全に仕事は終わったと思ったのです。
みなの剣は血にぬらつき、たしかに、返り血らしい生あたたかいものをあびた覚えもある。
いま、部屋の中に罩もっているのは、むっと咽せっかえるような、鉄錆に似た人血のにおい……一党は、手さえ血でべとべとしている。
ここへ今、灯がはいれば、たたみには深紅の池が溜って、みじめに変わりはてた伊賀の若様の姿が、展開されるだろう――。
そう思って、早く燈火を歓迎するこころ。
一同、シンと声をのんで、明りの近づくほうをふり返りました。
「まあ、しばらく、しばらく、お待ち……」
お蓮さまはあたふたと、さやさやと衣擦れの音をさせてはいってきた。
「なんですねえ、ドタバタと、騒々しい!」
さっき宵の口に、源三郎の夕餉に給仕に出た少年が、先に立って手燭をささげている。
その光に。
さッと室内の状が、うかび出た。
とたんに。
峰丹波、等々力十内、岩淵達之助、ほか十数名。
「ヤヤッ! これはっ――!」
驚愕の合唱をあげた。
お蓮様は? と見ると、柳の眉の青い剃りあとを、八の字に、美しい顔をひきゆがめたなり、声もなく立ちすくんでいます。
無理もない。
見るがいい!……室のまん中に全身朱にまみれて長くなっているのは、不知火門弟の若い一人! 仲間じゅうでよってたかって斬りさいなみ、突きまくった刀痕は、頸、肩、背といたるところ、柘榴のごとく口をあけて、まるで、蜂の巣のよう――!
「ウーム! あやまって、とんだ惨いことをいたした……」
悄然たる丹波の言葉も、誰の耳にもはいらないらしく、一同、刀をさげ、頭をたれて、黙々とその無残きわまる同志の死体を、見おろすばかり、頓みには声も出ません。
こんなこととは、誰不知火。
道理で、なんだか手応えが弱いと思った。
「迷わず成仏――」
なんかと、かってな奴があったもので、一人が片手を立てて拝んだりしたが、こいつは迷うなったって、無理です。これじゃア成仏できますまい。
足もとにばかり気をとられて、一同がポカンとしている時、
「ヤヤ! じゃ、かんじんの源三郎は? どこに?」
と気がついたのは、お蓮さまだ。見まわすまでもなく、広くもない座敷、片隅へ行ったお蓮様の口から、たちまち、調子ッぱずれのおどろきの叫びが逃げた。
伊賀の源三郎、どこへも行きはしない。
ちゃんと床の間へあがりこんで、山水の軸の前にユッタリ腰を下ろし、高見の見物とばかり、膝ッ小僧をだいているではないか!
ニヤニヤッと笑ったものだ。
「もう出てもよいかナ」
チャリン! 揚げ幕をはねて花道から、しばらく……しばらくと現われる、伊達姿女暫。
この留め女の役を買って、この場へ飛びだしたお蓮様の気持たるや、さっぱりわかりません。
いや、お蓮さまにかぎらず、だいたい女というものは、そう簡単に割りきれる代物ではないんで。
女性は男性にとって、永遠の謎でございます。その謎のところがまた、男をひくのかも知れない。
道場横領の邪魔もの、源三郎を亡きものにしようと、ああして策謀の末、やっとのことで今しとめようというどたんばへ、こうして止めにはいったお蓮さまの心理。
恋している男を、いざとなってみると、とても殺せなかったのかも知れません。
また。
自分に素気ない源三郎に、この恩を売っておいて、うんと言わせようのこんたんかもしれない。
どっちにしろ、源三郎としては今の場合、一難去ったわけですから、その細長い、蒼白い顔をニヤッと笑わせて、のこのこ床の間からおりてきた。
刀の真綿はすでにとりさって、ピタリ鞘におさめ、なにごともなかったような落とし差し……大きくふところ手をして、ユッタリとした態度です。伊賀の暴れン坊、女にさわがれるのも無理はない。じつに、見せたいような男っ振りでした。
丹波の一味はあっけにとられ、刀をさげて、遠巻きに立って眺めるのみ――もう源三郎に斬りつける勇気とてもございません。
血みどろの死骸を見おろした伊賀の若様、ちょっと歩をとめて、
「身がわりか」
と言った。ふところの手を襟元からのぞかせて、顎をなでながら、いささか憮然たる面もち。
と、血のとんでいる畳に、白足袋の[#「白足袋の」は底本では「白足袋の」]爪立ち、さっと部屋を出ていった。
「源様、どうぞこちらへ。ちょっとお話し申しあげたいことが……」
お蓮さまは、あわてて後を追う。前髪立ちの少年が、手燭をかかげて急いでつづけば、あおりをくらった灯はゆらゆらとゆらいで、壁の人影が大きくもつれる。
バタバタと三人の跫音が、廊下を遠ざかって行きます。
あとに残された一同、あんまりいい気もちはいたしません。
「なんだ、馬鹿にしておるではござらぬか。殺すはずのやつを助けて、アノ源さま、どうぞこちらへ――か。畜生ッ!」
「おのおの方はお気がつかれたかどうかしらぬが、お蓮の方は眼をトロンとさせて、彼奴を眺めておられたぞ。チエッ、わしゃつらいテ」
なんかとガヤガヤやっている時、お蓮さまは、悠然たる源三郎の手を持ち添えぬばかりに、やがて案内してきたのは、細い渡廊をへだてた奥庭の離庵です。
雲のどこかに月があるのか、この茶庭の敷き松葉を、一本一本照らしだしている。
「あの、もうよいから、灯りはそこへ置いて、お前はあっちへ行っていや」
とお蓮様、にらむようにして小姓を去らせた。
源三郎は突ったったまま、
「安積玄心斎、谷大八、門之丞の三人は、いかがいたしましたろう」
ぽつりと、きいた。
お蓮様は、その問いを無視して、白いきゃしゃな手をあげて、自分の前の畳をぽんとたたき、
「ま、おすわりになったらいかが? 源さま」
源三郎は、依然としてふところ手。
いま、雨と降る白刃の下をくぐった人とも思えぬ静かさで、
「供の三人は、どこにおりますか、それを伺いたい」
言いながら、しょうことなしに、そこに片膝ついた。
まったく、不思議。
玄心斎、大八、門之丞の三人は、どこへつれさられたのやら、この広くもなさそうな寮のうちは森として、たとえいくら間をへだてていても、今の斬合いが、三人の耳へはいらないはずはないのだけれど。
真夜中の空気は、凝って、そよとの風もございません。垣根のそとは、客人大権現の杉林。陰々たる幹をぬって、夜眼にもほのかに見えるのは、月を浮かべた遠い稲田の水あかりです。
その、田のなかの細道を、提灯が一つ揺れていくのは、どこへいそぐ夜駕籠か。やがてそれも、森かげへのまれた。
フと、くッくッと咽喉のつまる声がして、源三郎はギョッとして[#「ギョッとして」は底本では「ギヨッとして」]お蓮様を見かえりました。
顔をおおって、お蓮さまは泣いている。小むすめのように、両の袂で顔をかくし、身も世もなく肩をきざませているお蓮様――。
と、その声がだんだん高くなって、お蓮さまはホホホホホと笑いだした。
泣いているんじゃアない。はじめっから笑っていたんだ。
「ほほほほほ、まあ! 源三郎さんのまじめな顔!」
チラと膝先をみだして、擦りよるお蓮様のからだから、においこぼれる年増女の香が、むっとばかり源三郎の鼻をくすぐります。
「ねえ、源さま。なるほど、お亡くなりになった先生は、萩乃の父ですけれど、それなら、いくら後添えでも、このわたしは彼娘の母でございますよ」
いかにもそれに相違ないから、源三郎はだまっていると、お蓮さまはそれにいきおいを得て、
「それなら、いくら父だけが一人で、あなたを萩乃のお婿さまにきめて死んでいったところで、この母のわたしが不承知なら、このお話は成りたたないじゃアありませんか」
この辺から、お蓮様の論理は、そろそろあやしくなって、
「いつまでたったって、萩乃はあなたのお嫁じゃございませんし、道場もあなたのものではないのですよ、源様」
ほっそりした指が、小蛇のように、熱っぽく源三郎の手へからみついてくる。
「あなただって、何も、萩乃が好きのどうのというのではござんすまい。いつまで意地っぱりをおつづけ遊ばすおつもり? ほほほ、いいかげんにするものですよ、源様。そんなにあなたが、司馬の道場の主になりたいのだったら、あらためて、このわたしのところへお婿入りして……ネ、わかったでしょう?」
道ならぬ恋の情火に、源三郎は思わず、一、二尺あとずさりした。
「母上!」
と相手の言葉が、この場をそのまま、身をかばう武器です。
刀で殺さずに、色で殺そうというのでしょう。
剣にはどんなに強い男でも、媚びには弱いものです。
イヤ、男を相手にして強い男に限って、女には手もなくもろいのがつねだ。
千軍万馬のお蓮様、そこらの呼吸をよっく心得ている。
だが、なんぼなんでも娘となっている萩乃の婿、いくらまだ名ばかりの婿でも、その源三郎にこうして言いよるとは、これはお蓮さまも、決して術の策のというのではございません。
真実、事実、実際、まったく、断然、俄然……ナニ、そんなに力に入れなくてもよろしい、このお蓮様、ほんとに伊賀の暴れン坊にまいっているんだ。
男がよくて、腕がたって、気性が単純で、むかっ腹がつよくて、かなり不良で、やせぎすで、背が高くて、しじゅう蒼み走った顔をしていて、すこし吃りで、女なんど洟もひっかけないで、すぐ人をブッタ斬る青年……こういう男には、女は片っ端から恋したものです。
むかしのことだ。今はどうか知らない。
が、今も昔も変わらぬ真理は、恋は思案のほか――お蓮さまは、モウモウ源三郎に夢中なんです。
立とうとする源三郎へ、背をもたせかけて、うしろざまに突いた手で、男の裾をおさえました。
「ほんに気の強いお人とは、源さま、おまはんのことざます」
そんな下品なことは言いませんが、ぐっと恨みをこめて見上げるまなざしには、まさに千鈞の重みが加わって、大象をさえつなぐといわれる女髪一筋、伊賀の若様、起つに起てない。
剣難は去ったが、この女難はにがてです。
もっとも、女にかけては、剣術以上に名うての源様のことだから、たいがいの女におどろくんじゃあありませんが、このお蓮さまだけは、どう考えたって、そんな義理あいのものじゃアない。
第二の危機……。
「母上としたことが、チチ、近ごろもってむたいな仰せ。げ、源三郎、迷惑しごくに存ずる」
角ばった口上――しかも、この場合母上という呼びかけは、熱湯に水を注ぐよう、まことにお座のさめた言葉ですが、お蓮様は動じるけしきもなく、
「わたしの言うことをきけば、いいことばかりですよ、源さま」
「ハテ、いいことばかりとは?」
「あなたは何か、命にかけて、探しているものがおありでしょう」
「う、うん」
源三郎は、顔色を騒がして、
「ソ、それは、母上もかの丹波めも、同じ命にかけてさがしておるものでござろう」
「さ、そのこけ猿の茶壺……」
「ウン、そのこけ猿の茶壺は――?」
二人はいつのまにか、息を凝らしてみつめあっている。
「ほほほほほ、そのこけ猿ですが……当方ではもう探しておりません」
「ナナ、何? では、探索をうちきられたか」
「こっちの手にはいりましたから、もうさがす要はございませんもの」
「何イッ! こ、こけ猿を入手したっ!」
「はい。今この寮にございます。いいえ、この部屋にあります」
と、つと立ちあがったお蓮様の手が、床わきの違い棚の地袋を、さっと開くと!
夢にもわすれないこけ猿が、チャンとおさまって――源三郎、眼をこすりました。
思いきや、われ人ともに狂気のようにねらっているこけ猿の茶壺が、いつのまにかこの一味の手にはいって、今この部屋の、この戸棚のなかにしまってあろうとは!
源三郎は、眼をしばたたきました。と見こう見するまでもなく、古びた桐の木箱を鬱金の風呂敷につつんであるのは、まぎれもないこけ猿だ。
「ド、ド、どうしてこの壺がここに――?」
おめいた源三郎、走りよろうとした。
と、いちはやくお蓮さまの白い手が灯にひらめいて、この地ぶくろの戸をしめていた。
そして、はばむがごとく、うしろざまに手をひろげて、ピタリその前にすわったお蓮様。
「ほほほほほ、今になってそんなにびっくりなさるなんて、源さまもよっぽど暢気ですよ。なんとかいう一ぽん腕の浪人が、橋の下の乞食小屋に、後生大事に守っていたのを、丹波が人をやって、こっそり摸りかえさせたんです」
寸分違わない風呂敷と木箱をつくり、その箱の中には、破れ鍋一個と「ありがたく頂戴」と書いたあの一枚の紙片……左膳の小屋からほんものを盗みだし、かわりにこれを置いたのは、さては、峰丹波の仕業であったのか。
それとも知らず左膳は、あの高大之進の一党が斬り込んだ時、命を賭して破れ鍋をかかえて、走ったとは、左膳一代の不覚――お藤の家でチョビ安をおさえられて、それと交換に、おとなしく大之進方へ渡した箱の中から、衆人環視のなかに出てきたのは、この鍋と、ありがたく頂戴の紙きれであった。
源三郎は、そんないきさつは知らないけれど、ほんもののこけ猿は、とうの昔にここにあったのかと、顔いろを変えてお蓮様につめより、
「さ、渡されい。その壺は、品川の泊りにおいて拙者が紛失いたしたるもの。正当の所有者は、いうまでもなく余である。おわたしあって然るべしと存ずる」
ふところ手のまま立って、じっとお蓮さまを見おろしながら、退けっ! という意……懐中で肘を振れば、片袖がユサユサとゆれる。
お蓮様は笑って、
「そうですとも。この壺は、あなたのですとも。ですから、お返ししないとは申しませんよ」
「うむ、では穏便にお返しくださるか」
「はい。お渡ししましょう。でも、それには条件がございます、たった一つ」
「条件? ただ一つの、とはまた、どういう――?」
「はい」
とお蓮さまは恥も見得もうちわすれた、真剣な顔で、
「女子の口から言いだしたこと。わたしも、ひっこみがつきませぬ。源様、そうお堅いことをおっしゃらずとも、よろしいではございませんか」
眼をもやして、すがりついてくる。源三郎は一歩さがって、ひややかな笑いに口をゆがめ、
「いや、これは伊賀の源三郎、あまりに野暮でござった。必ずともにあなたの女をお立て申すにつき、ササ、壺をこちらへ……」
「では、あの、わたしの言うことを――」
「うむ。きっと女を立てて進ぜるによって、早く壺を……」
恋は莫連者をも少女にする。頬に紅葉をちらしたお蓮様が、
「おだましになると、ききませんよ」
キュッと媚びをふくめて、源三郎を見上げながら、地袋の戸をあけて壺をとりだした瞬間! 腰をひねって抜きおとした源三郎の長剣、手に白い光が流れて、バサッ! 異様な音とともに畳を打ったのは、お蓮様の首……ではない。つややかな切り髪であった。
「これで女が立ち申した。あなたが女を立てるには、故先生の手前、この一途あるのみ、ハッハッハ」
源三郎の哄笑と同時に、壺の箱は、もはやかれの小わきに抱えられていた。
「もはや何刻であろうの?」
大刀を抱いて、草のなかにしゃがんだ安積玄心斎は、そういって、かたわらの谷大八をかえりみた。
「さア、月のかたむきぐあいで見ると――」
と、大八の首も、月のようにかたむいて、考えにおちた。
客人大権現の森蔭。
お蓮さまの寮とは、反対側のこの小藪のなかです。前は、ちょっとした草原になっていて、多人数の斬りあいには、絶好の場処。
玄心斎、大八、門之丞の三人は、誰が言いだしたともなく、さっきコッソリ寮を抜け出て、この灌木のかげに身をひそめ、眼前の草原に人影のあらわれるのを、いまか今かと待っているのだ。
それというのが。
とめてもきかずに、若君源三郎が門之丞を案内にたて、駒をいそがせてあのお蓮さまの寮へ行き着いたのは、まだ宵の口であった。
まもなく……。
源三郎には馳走の膳がすえられ同時に、三人の供の者は、不安のこころを残しつつ、別室へさがって、これも夕餉の箸をとることになったが――。
その時、三人のいる控えの間の襖のそとに、峰丹波をはじめ二、三人の声で、容易ならぬひそひそ話。
「では、なにか事をかまえて、この向うの野原まで源三郎どのをおびきだし……」
「そうじゃ、多数をもって一人をかこみ、じゃまを入れずに斬り伏せるには、あの草原こそ究竟、足場はよし、味方は地理を心得ておるしのう――」
「雨後の月見にでもことよせて、お蓮の方にひきだしてもらうのじゃナ」
「なにしろ相手は、名にしおう伊賀の暴れン坊じゃで、おのおの方、手抜かりなく――」
と、コソコソ耳こすりする声が、唐紙を通して三人の神経へ、ピンとひびいた。
門之丞のほか、これが策略だと知る者は、一人もありません。
こうして、聞こえよがしに知らしておけば、玄心斎、大八らは、先をこす気で寮を出て、その付近に忍んで待つに相違ない。腕っ節の強い供の者を出してやったあとで、源三郎を討ちとろうという計画だったのだ。
敵に内通している門之丞は、はじめから委細承知で、もっとも顔に動いているので。
この内密話を聞いた玄心斎と大八は、食事もそこそこ、門之丞を加えて三人、すぐさまソッと寮をあとにして、さっきからこの藪かげに、夜露にうたれ、月に濡れて、かくは乱闘の開始を待っているのだけれど……。
いつまでたっても、人っ子ひとり出てこない。
手ごわい玄心斎、大八らは、計略をもって遠ざけた。ここまでは、丹波の一味にとって、すべて順調にはこんだのだが――。
さてこそ。
さっき室内の乱刃で、源三郎がいくら呼ばわっても、玄心斎も大八も、ウンともスンとも言わなかったわけ。こんな遠いところにがんばっているんだもの。
「どうしたというのであろう、もうやって来そうなものだが」
ふたたび、師範代玄心斎の言葉に、
「なにか手違いでもあったのでは……」
と、あたりを見まわした大八、大声に、
「ヤヤッ! おらん! 門之丞がおらんぞ、門之丞が!」
最初、源三郎の一行が、江戸入りをして品川へ着いた夜、命を奉じて一人駈け抜けて、妻恋坂の道場へ到着の挨拶に走ったのが、この門之丞でした。あの時、彼は、司馬家の重役が来て相当の応対をするどころか、伊賀の柳生源三郎など、そんな者は知らぬと、玄関番が剣もほろろに追いかえしたと火のように激昂して品川の本陣へ立ち帰り、復命したものだったが……。
その後も。
何かにつけ門之丞は、源三郎の身辺近く仕えて、あの、不知火銭をつかんで源三郎が、故先生の御焼香の席へ、押し通ったときも、かれ門之丞、大きな一役をつとめたし、じっさい玄心斎老人、谷大八とともに、源三郎側近の三羽烏だったのに――。
イヤ、人の心ほど、当てにならないものはありません。
恋が思案のほかなら、人のこころも思案のほかです。コロコロコロロと、しょっちゅうころがっているから、それでこころというのだなんて、昔の心学の先生などが、横山町の質屋の路地奥なんかに居をかまえて、オホン! とばかり、熊さん八あんや、道楽者の若旦那相手に説いたものですが、まったくそうかもしれません。きょうの味方もあすの敵となる。きょうの敵も、あしたは味方……その人心機微の間に処してゆくところにこそ、人の世に生きていく無限のおもしろみがあるのでございましょう。
しかし、むろん、しじゅう転がっているこころなんてものは、大丈夫の鉄石心、磐石心ではない。
いやどうも、話がわきみちへそれて恐れ入ります。
ところで、この門之丞の心が、それこそチョイト門からころがりでて、とほうもない方向へ走りだし、いまこの丹波の一党に加担するようになったのは、あの十方斎先生のお葬式の日からでした。
と言うのは。
かれ門之丞、あの時主君源三郎にくっついて、棺を安置した奥の間へ踏みこんだのでしたが、とたんに彼は、白の葬衣をまとって上座にさしうつむく萩乃の姿を眼にして、生まれてはじめて、ハッと、電気にうたれたように感じたのだ。
雨にうたれる秋海棠……なんてのは古い。
激情の暴風雨にもまれて、かすかに息づくアマリリス――こいつは、にきびの作文みたいで、いやですネ。
とにかく、なんともいえないんです、萩乃さまの美しさ、いじらしさといったら。
ふたたび、恋は思案のほか……。
脇本門之丞、当年とって二十と六歳。萩乃様を一眼見て、背骨がゾクッと総毛走った拍子に、スーッと恋風をひきこんじまった。
「アア、世の中には、こんな女もいたのか――」
と、それからというものは門之丞、フワアッとしちまって、はたの者がなにをいっても、てんで用が足りない……夢遊状態。
この門之丞という青年は、源三郎をすこしみっともなく、色を黒くしたようながらで、剣は相当たって、まんざらでもない男なんです。
朝夕道場に起き伏ししているうちに、チラチラと萩乃を遠見する機会もおおい。層一層、想いはつのる一方で、ついには、
「すまぬことながら、わが君源三郎様さえ亡き者にすれば――」
とんでもない野郎で、ひそかに、こんなことまで思うようになった。いわゆる、魔がさしたというんでしょうなア。
で……源三郎を遠乗りにつれだしたのも、この門之丞。あのお蓮様の寮へ案内したのも、門之丞。あのお蓮様の寮へ案内したのも、丹波らとはかって、あの隣室のひそひそ話を玄心斎、大八に聞かせたのもこの門之丞。
いま、その門之丞は――。
「オイッ、駕籠屋ッ!」
すこしおそいが、大引け過ぎのこぼれを拾いに、吉原へでもかせぎに行こうと、今し本所のほうから、吾妻橋の袂へさしかかっていた一梃の辻駕籠。
こう、闇に声を聞いて、ピタリとまりました。
今なら、コンクリートの遊歩道路に、向島へいそぐ深夜の自動車がびゅんびゅんうなって、すぐ前はモダンな公園……というところですが、昔あの辺は、殺し場の書割めいた、ちょっとものすごいところで、むこう側は、花川戸から山之宿へかけての家々の洩れ灯が、金砂子のように、チカチカまたたいている。
こっちは、橋のすぐとっつきが、中の郷瓦町、その前が細川能登守、松平越前様の門、どっちもこれがお下屋敷でございまして、右手、源兵衛橋を渡った向うに、黒々と押し黙る木々は、水戸様の同じくお下屋敷。夜眼にも白い海鼠塀が、何町というほどズウッとつづいているのが、道のはずれに遠く見える。
中をつないで、七十六間のあづま橋。
真夜中の江戸は、うそのようにヒッソリ閑としています。折りから満潮とみえまして、ザブーリ、ザブリ、橋杭を洗う水音のみ、寒々とさえわたって、杭の根に、真白い水の花がくだけ散っている。
ギイと駕籠の底を軋ませて、地面におろした先棒が、息杖によりかかって、
「ヘイ。駕籠の御用で――」
かたわらの暗黒の奥を、すかし見た。
ノソリと現われたのは、野狩りのかえりででもあろうか、たっつけ袴をはいた若い侍で、
「本郷までやれ」
顎をしゃくったときに、雲間を流れる月かげに、照らしだされたその顔を見ると、息せききって走ってきたふうで、大たぶさの根がゆるみ、面色蒼褪めているのは、あながち月の隈取りばかりではないらしい。
新刀試しの辻斬り? よくあるやつです。
そうではないにしても、あまり気味のよいお客様じゃアないから、先棒と後棒は、ちらと眼で、用心の合図をかわしつつ、
「本郷はどちらまでで?」
「妻恋坂だ。あそこの司馬道場、存じておるであろう。急いでやれ」
「ナアおい、相棒、妻恋坂だとよ。へっ、いいかげん長丁場だなア」
「ねえ、旦那。あっしらア戻り駕籠で、これから巣へけえって、一ぺえやって寝ちまおうと思ってたところなんだ。けえりが半ちくになりやすから、思い入れはずんでおくんなせえ」
「もう電車はないんですから、つけめですよ。だいぶガソリンもくいますから、七十銭やってください」
そんなことは言わない。
「賃銀はいくらでもとらせる。酒代も存分につかわそうほどに、めちゃくちゃにいそいでくれっ!」
「オーケー、さァ。お乗んなせえ」
かご屋が駕籠の中へ手を入れて縞の丹波木綿の小座蒲団を、ちょいと裏返しする。いい客と見て、これがまァお愛想。特別サービス。
ギシギシ揺れて、最大急行でスッとんでゆく駕籠のなかで、眼をつぶり、腕をこまぬいた脇本門之丞、心中に考えている。
「あの森かげの小藪に、玄心斎のおやじと大八めを、スッポかしてすりぬけて来たのだが、今ごろはこのおれを探して、さぞ立い騒いでいるだろうなア」
たちまちその心の眼に浮かんでくるのは、あの、命も何もいらぬと思うほど恋しい、萩乃さまのおもかげ……。
妻恋坂――妻恋坂、この名は、門之丞にとって、ゆかりのないものとは思われなかった。
駕籠はそのつまこい坂をさして、一散に……。
いま、はるか彼方の縁の雨戸に、コトリと、外から人でもさわるような物音がして、萩乃は、びくっと首をあげた。
眉をよせて、遠くを聴く顔。
その、艶にうつくしいほおに、遠山の霞をえがいた朱骨絹ぼんぼりの灯が、チロチロと、夢のように這っています。
片側の襖は、これはちとこの部屋に似つかわしからぬ、荒磯に怒濤のくだける景で、これにはすこしわけがある。いくら女でも、剣家の娘だから、常住、雄渾豪快な気を養わねばならぬといって、亡き父十方斎[#「十方斎」は底本では「十万斎」]が、当時名ある画家に委嘱して、この会心の筆をふるってもらったもの。いわば、故先生の家庭情操教育の一つのあらわれ。
その父、今やなし、ああ。
でも、優しい一方とのみみえる萩乃の性質に、どこか凜として冒すべからざるところの仄見えるのは、この、生前先生ののぞまれたとおりに、勇烈確乎たる大精神が、この荒磯の襖とともに、その心栄えに宿っているのでありましょうか。いや、萩乃ばかりでなく、ふだんはそうは見えなくても、日本婦人はみんな、底の底のほうに、こういった何かを持っているのです。日本の女はすべて、このむかしの武家の女性の、やさしい中にも強いものをなくしちゃアいけない。武士道は決して男の占有物ではないのです。
ここは、司馬家の奥まった一棟、令嬢萩乃の寝間だ。
文字どおりの深窓――しかも夜中だから、めったに人のうかがい知ることのできない場所だが、そこは講談の役得で、便利なもの。どこへでもノコノコはいりこんでいく。
室の中央に、秋の七草を染め出した友禅ちりめんの夜のものが、こんもりと高く敷いてあるが、萩乃は床へはいってはいない。
派手な寝まきの肩もほっそりと隅の経机によって、しきりに何か物思いに沈んでいるようす。
この真夜中を寝もやらず、かわいい胸になんの屈託か。机上の白い手が、無意識にもてあそぶのは、父の故郷に近い博多みやげの、風雅な、ちいさな、一対の内裏雛。
灯にはえるその顔が、みるみる蒼白くゆがんで、やがて得耐えず、鈴をはったような双の眼から、ハラハラと涙のあふり落ちたのは、きっと亡き父のうえをしのんだのでしょう。と、たちまち、きっと引きしまった口もとに、言いようのない冷笑の影が走って、
「まあ、ほんとうに、お母さまとしたことが――」
おもわず洩れるひとりごとは、やくざな継母、あのお蓮様のうえを、ひそかにあざけりもし、またあわれみもしているとみえます。
すると、つぎに、その萩乃の表情に、急激な変化がきた。眼はうるみをおびて輝き、豊頬に紅を呈して、ホーッ! と、肩をすぼめて長い溜息。
思いは、またしても、婿ならぬ婿、夫とは名のみの源三郎のうえへ――。
「源さま、源三郎様……」
熱病のようにあえぎながら、萩乃は、夢中で手にしていた二つの博多人形、その男と女の小さな人形を、机のうえにぴったりくっつけて、置きました。
そして、じっと見入る眼には、消えも入らんず恥じらいの笑みが――。
その時、障子のそとの廊下に、人の体重をうけたらしくミシと鳴る板の音。萩乃はそれも、耳にはいらなかった。
恋すちょう、身は浮き舟のやるせなき、波のまにまに不知火の、燃ゆる思い火くるしさに、消ゆる命と察しゃんせ。世を宇治川の網代木や、水に任せているわいな……といった風情。
艶なるものですナ。
早く産みの母をうしない、素性の知れない義理の母、お蓮様には、つらいめばかり見せられて、泣きのなみだのうちに乙女となったこの青春の日に、また、たった一人の、頼りに思う父に死に別れたのみか、わが夫へときまった人をこんなにおもっているのに、それも、継母やあのいやらしい丹波から、じゃまの手がはいって、いまだに、祝言のさかずきごとさえあるじゃなし――。
道場の一郭は、源三郎が引きつれてきた伊賀の若侍に占領されて、そこでは日夜、大江山の酒顛童子がひっ越して来たような、割れるがごとき物騒がしい生活。
早く文句をつけてくれ、そうしたら一喧嘩してやる……と言わぬばかり。亡き父が自慢にした絞りの床柱は、抜刀の斬り傷だらけ、違い棚にあった蒔絵の文箱は、とうの昔に自炊の野菜入れになっているという侍女の注進である。そのワアワアいう物音が、遠く伝わってくるたびに、萩乃は、ゾッと恐怖におののくのだった。じっさい、どっちを向いてもすがりどころのない、萩乃の心中はどんなでしたでしょうか。おまけに。
継母は、なんの力にもなってくれないどころか、丹波とぐるになって源三郎様を自分から遠ざけて、由緒あるこの道場を横領しようとするさえあるに、あろうことか、あの源様にたいして妙なこころを動かし、色のたてひきに憂身にやつしているらしいとのこと。
このあいだから丹波の一味をつれて、葛西領渋江の、まろうど大権現の寮へ、出養生を名に出むいているけれど、またなにかよからぬたくらみをしているに相違ない――。
「なんという、あさましい……」
だが、萩乃がいちばん気になってならないのは、かんじんの源三郎が、じぶんをどう思っているかということです。
彼女は、夜も昼も、この一間にとじこもったきり――胸の不知火に身をこがしている。
今も今とて。
この夜半。
別棟に陣どっている柳生の若侍たちも、夜は人なみに眠るものとみえて[#「眠るものとみえて」は底本では「眼るものとみえて」]、広大な屋敷うちが、シインと深山のよう……昼間のあばれくたびれか、白河夜船のさいちゅうらしく、なんのもの音も聞こえません。
主君源三郎は、今朝馬を駆って出ていったきり、夜になっても帰らないけれど、供頭安積玄心斎、谷大八、脇本門之丞と、名だたる三人がいっしょだから、一同なんの心配もなく、かえって、鬼のいぬ間の洗濯と、宵から大酒盛をやったあげく、みんなその場へへたばってしまって、イヤモウ、たたいても打っても眼をさますこっちゃアありません。
と、駕籠を飛ばして道場へ帰り着くが早いか、まず、ソッとこのほうをうかがって、このようすならめったに起きる心配はない。大丈夫と見きわめをつけた門之丞。
それからすぐ、萩乃のいる奥棟へしのびこんで、長い廊下を泥棒猫よろしく、かねてここぞと当たりをつけてある萩乃の寝部屋の前。
この夜ふけに、室内にはボーッと灯りがにじんでいます。呼吸をこらして、障子のそとに立っていると、
「源さま、源三郎様……」
耐え入るような、萩乃の声だ。わが主君ながら、男冥利につきた源三郎! と思うと、嫉妬にわれを忘れた門之丞、ガラリ障子を引きあけ、
「いや、おどろかないでください、萩乃さま。私です、門之丞です――」
ズイとはいりこみました。
「あらっ!」
萩乃は、突かれたようにのけぞって、闇黒をせおってはいってきた男を、見あげた。
門之丞などという名は、彼女は知らない。が、見れば、源三郎にくっついて伊賀から来ている青年剣士の一人。しかも、源三郎の右の腕のように、先にたって道場で乱暴を働いている男だから、これは萩乃、おどろくななんて言われたって、おどろかずにはいられない。
驚愕のあまり、うしろざまに片手をついた拍子に、派手な寝間着の膝がわれて匂いこぼれる赤いもの。
萩乃はいそいで、その裾前をつくろいつつ、
「お酔いになって、とまどいなすったのではございませんか。ここは、あなた様方のお部屋ではございません。女の夜の部屋……どうぞ、おひきとりくださいまし」
「いや、酔っているのでも、ねぼけているのでもありません」
ズカリとそれへすわった門之丞、思いつめた面上には、ものすごい蒼さがはしり、もう、眼をすえている。
「萩乃さま、どうぞ、お静かに――思いきって、こうして夜中、お寝間と知って、推参いたしました門之丞、かなわぬまでも、この胸のうちだけはお聞きとりねがいたいと存じまして……」
「まあ、あなた様は、なんという無礼なことを! 女ひとりとあなどって――」
萩乃は、すっくと起ちあがった。とたんに、怒りにもえる彼女の眼にうつったのは、机のうえに二つ仲よく並んでいる、小さな博多人形のお内裏様。
源三郎さまと、自分と……この男は、さっきから障子のそとで、じぶんがこの人形をくっつけておくところなど、そっと垣間見ていたに相違ない。そう思うと萩乃は、このとっさの場合に、火のように赤くなりながら、あわてて、机の上の二つの人形をはなしました。
「私は、命を投げだして此室へまいったのです。こんなにあなたさまを思っておりますものを、すこしでもあわれと思召すお心があったら、どうか、萩乃様、この念いを――」
もう夢中の門之丞だ。内々考えてきた口説の文句など、実際となると、なんの役にもたちません。相手がアア言ったらこう、コウ出たらアアなどと、順序や策が頭に浮かぶあいだは、人間万事、まだほんとうに真剣ではないのかもしれない。門之丞は、これが主君のいいなずけだということすら、すっかりどこかへケシとんで、ただ、われとわが身の情炎に、眼もくらめき、たましいもしびれ、女対男、男対女……としかうつらない。
妙なる香のたゆとう深夜の寝室。
ねまき姿もしどけなく、恐怖と昏迷に白い顔をひきつらせて、キッと立っている妻恋小町――知らぬ火小町の半身に、かたわらの灯影が明るくゆらめき、半身は濃むらさきの闇に沈んでいる。
あまりの美しさ! あまりにもあでやかな眺めに、門之丞はしばし、その血管内に荒れ狂う意馬心猿もうちわすれ、呆々然として見惚れたのでした。
切れ長な眼に、かよわい女の身の、ありったけの険をふくませて、萩乃は真っこうから、門之丞をにらみつけながら、
「声をたてますよ! 声をたてますよ」
門之丞は無言。ニヤリッと笑って、片膝立てた。まさに獲物をおそわんとする豹のごとく……。
いつもはつぎの間に、侍女のひとり二人が寝泊りするのだけれど、ひとり夜更けに起きて物思うようになってからは、それも何かとうるさいので、このごろは遠ざけて、近くに呼びたてる人もない。
でも、萩乃は、それを見せては、弱身になってつけこまれると思ったから、さも隣室に人ありげに、
「浦路や、浦路! 桔梗! これ、桔梗はいないの? ちょっと起きておくれ」
と、あわただしく、だが低声に呼びたてた。
しかし、門之丞もさるものです。
前もってそこらの部屋部屋をすっかりのぞいて、近くに誰もいないことをたしかめてある。
しずかに立ちあがった。血走った眼で萩乃をみつめて、ソロリ、ソロリと近づいてくる。
「お嬢さま、萩乃様……」
と、うわずった声です。
「この望みさえかなえば、わたしは、八つ裂きにされてもいといません。もとより、主君の奥方様ときまったお方に、かような、だいそれた無態を言いかけます以上は、その罪万死にあたることはよく承知しております。しかし――しかし、萩乃さま、人間命を投げだせば、何もこわいものはござりませぬ。ハハハハハハハ」
通せんぼうのように両手をひろげて、その笑いは、もうまるで怪鳥の啼き声のよう……あわれ脇本門之丞、痴欲に心狂ったかと見えます。
一歩一歩、萩乃は、夜具蒲団の裾のほうへと、さがりながら、
「大声をたてて、人がまいっては、あなた様のお身の上も、ただではすみますまい。どうぞ、早々にお引取りを」
「人が来る前に、割腹して相果てます」
「まあ、ほほほ、お冗談ばかり。仮りにも武士たる者に、さようなお安い命はござりませぬはず」
「一人では死なぬ。一刀のもとにあなたを斬り捨てて、腹掻ッさばくのだ」
「ほほ、ほほほほ、それではまるで下司下人の相対死に……いいえ、無理情死とやらではござりませぬか。両刀を手挟むものが、まあ、なんという見ぐるしいお心根――」
「イイヤ、イヤ! 下司下人はおろか、畜生といわれてもよい! 犬でもよい! 犬だ。そうだ、門之丞は犬になりましたぞ萩乃様」
ハッハッと火のようにあえぎつつ。
「いかにも、われながら犬だと思う。だが、浮き世の約束、身分の高下を、すっかりとりのぞいてしまえば、男はみんな犬のようになって、女をほしがる。うわはははは、それでいいのだ。して、この門之丞というあたら侍を犬にしたのは、誰だ? みんな萩乃さま、あなたではないか! あなたのその星のような眼、その林檎のようなほおが、この門之丞を情痴の犬にしてしまったのだッ!」
そのころ、林檎があったかどうか知りませんが、とにかく門之丞、美文をつらねだした。
はじめは、言論をぬきにし、直接行動におそいかかろうともくろんだのだが、美しいがうえにも毅然たる萩乃の威に気おされて、こんどは門之丞、あわれみを乞うがごとくに、トンと膝をついてうなだれた。
「萩乃様、錦につつまれた不自由よりも、あの青空の下には、あなたの今おっしゃった下司下人の、ほがらかな巷の生活があります。どう送っても一生です。萩乃さまッ! 今宵ただいま、この門之丞といっしょに逃げてはくださらぬかっ」
「サ、今にも源三郎さまが、お帰りになりましょう。あなたのおためです。早く此室をお出になってください」
「フン! 知らぬが仏だ。その源三郎は今ごろ、一寸試し五分だめし、さぞ小さく刻まれていることでござろうよ」
「エエッ?」
仰天した萩乃の胴から、その時、なんのはずみか、サラサラと帯が空解けて――。
手も加えずに、立ったまま帯が解けるとは、なんの辻占?
空解けの帯は、待ち人……源さまきたるの先知らせか。
それなら、吉。
吉も吉、門之丞にせまられるこの場にとっては、大々吉。
だが――。
もしかすると、源三郎様のお身の上に、ひょんなことでもあって、その虫のしらせでは?
吉か、凶か。
と、萩乃の胸は、百潮千潮の寄せては返す渚のよう……安き心もあら浪に、さわぎたつのだった。
解け落ちた帯は、はなやかな蛇のように、サラリとうねって足もとの畳に這っている。
帯とき前のしだらない己が姿。ひらいた襟のあたりの白い膚にくいいるがごとき門之丞の視線を知った萩乃は、手早く拾った帯のはしを巻きなおし、挟みこんで、ソソクサと胸かきあわせながら、
「言うに事をかいて、源さまのお身に変事などとは! 源様も、そちのような家臣をもたれて、さぞおよろこびなされることでしょう。ひろい日本中に、源三郎さまに刃の立つ者が、一人でもいますか。お前が何を言っても、わたしは信じません。そんなことより、ここにこうしていては、後日の誤解の種です。わたしの迷惑は第二としても、伊賀の源三郎――いいえ! この司馬道場の主の臣を、こんなおろかしいことで傷つけたくはありません。もう、一番鶏のなくころでしょう。鶏がなく前に出ていかなければ、ほんとうに大声をたてて人を呼びますよ」
若い娘の萩乃様の口から、こんなしっかりした言葉を聞こうとは門之丞、思わなかった。違算です。備わる貫祿に圧迫されて、彼は手も足も出ない。
手をかえた門之丞、声をひそめて、
「源三郎は、今ごろはもはや亡き者……だが、この儀については、多くを言いますまい。夜が明けたら、客人大権現の寮の、お蓮様と丹波のもとからしらせがあって、何ごとも分明いたすはず。それよりも萩乃さま、拙者はあなたに、ある一つの壺を献上いたそうと存ずるが、御嘉納くださるでしょうな?」
萩乃は、いぶかしげに、小首をかしげて、
「壺とはえ?」
「は。源三郎殿が、伊賀より持ちきたったる――」
「あらっ! いま皆が大さわぎをしている、こけ猿とやらいう……」
「サ! そのこけ猿です!」
門之丞眼を光らして、
「丹波が、かの橋下の掘立小屋より、破れ鍋をかわりに置いて盗みださせたのを、拙者がまた、それと寸分違わぬ箱やら風呂敷を、ひそかにととのえて、この道場にある間にそっとすりかえたのです。それとも知らず丹波の一味は、あの、私の作った偽物の箱包みを、後生大事に持っていって、いま寮に、虎の子のようにしまいこんであるでしょうが、はッはッは――ただいま、お眼にかけます」
言いながら門之丞は、はいって来た障子のほうへあとずさりして、しずかにあけた。さっきここへはいる時、そとの縁に置いてきたものとみえる。
「すりかえてから、考えあぐんだあげく、故先生のあの大きな御仏壇の奥へ、押しこんでおいたのです。あそこなら、神聖視して誰も手をつけませんからナ。今、この部屋へ来る途中、ソッと取りだしてまいりました。ここにございます」
「まあ……!」
「へへ、へへ、これです。どんなもので」
と門之丞、言葉も手つきも、なんだか急に骨董屋みたいになって、取扱い注意の態度よろしく、萩乃の前へさげてきたのを見ると!
なんと! 驚くじゃアありませんか。包んである布の味といい、木箱の古びかげんといい、これこそ正真正銘、ほんもののこけ猿の茶壺ではないか!
四つにむすんだ古布のあいだから時代のついた木箱の肌を見せて、ズシリと畳にすわっている箱包みは……。
人でも、物でも、長く甲羅をへたものは、一種の妖気といったようなものが備わって、惻々人にせまる力がある。
今このこけ猿の茶壺を、萩乃がジッとみつめていると、名器から発散する言うべからざる圧力にうたれて、彼女は、声も出ません。
門之丞も、呼吸がせまって、無言です。
だまって、萩乃を見上げた。萩乃は立ったまま、眼をまんまるにして、壺の箱を見おろしている。
一瞬二瞬、空気は固化して、ふたりとも石像になったよう――身うごきもしません。イヤ、できません。巨大な財産をのむ名壺の魅縛……これをこそ、呪縛というのでしょうか。
このふるびた包み布をほどけば、年月によごれた桐の木箱。そこまでは、外からも見える。今その、十文字にかけた真田をといて、サッと箱のふたをとったとしましょうか。中にはもう一枚、金襴の古ぎれで壺が包んであるに相違ない。その色褪せたきんらんを除くと、すがりといって、紅い絹紐であんだ網をスッポリと壺にかぶせてあることだろう。
さア、そこで、そのすがりを取るとします。そうすると、ここにはじめて、朝鮮渡りの問題の名品、耳こけ猿の茶壺が、完全に裸身をもって眼前に浮かびでるでしょう。薬の流れぐあいから、その焼きといい、においといい、まことに天下をさわがす大名物、きっと頭のさがるような品格の高い、美しい味のものにきまっている。で、その壺のふたをとると、なかに、莫大な柳生家財産の埋蔵個所をしめした一片の地図が、幾百年の秘密を宿し、この大騒動を知らぬ顔に、ヒラリと横たわっているのだ……。
萩乃は、一枚一枚着物を脱がすように、こうしてこの壺の包装を、一つずつとり去るところを心にえがいて、もうその壺のふたをとったように、胸がどきどきしました。
「あけてみましょうか」
といって、箱のわきにしゃがんだ。
「御随意に――」
かたわらで、門之丞は、にやにや笑っている。
「では……」
と、萩乃の手が、ふろ敷の結びめにかかった時だった。剣道修業で節くれだった門之丞の黒い手が、むずと、萩乃の白い手をおさえたのです。
「萩乃さま。源三郎どのが死なれた以上、この婿引出のこけ猿は、当然あなたのものですから、お返しはいたしますけれど、そのかわりに、なにとぞ拙者の胸中をお察しあって――萩乃様っ!」
その手を払った萩乃、
「またしても、源三郎様がおなくなりになったなどと、さような嘘を! 女ひとりとあなどると、そのぶんには捨ておきませぬぞっ」
立ちかける萩乃に、門之丞はすがりついて、
「イヤ、うそなら嘘で、もうまもなくわかること。それよりも、男の一心だ。よいではござらぬか、萩乃さま」
モウ武士の威信もうちわすれて、武者振りつく拍子に、その手が着ものの裾にかかれば、逃げまどう萩乃は、われとわが力で着物を引いて、あられもない姿になりながら、
「司馬十方斎の娘、手は見せませぬぞっ!」
白い脛を乱して、懐剣のしのばせてある手文庫のほうへ、走り寄ったとたん、
「ウハハハハ、おもしろい芝居だが、ここらで面をだしたほうがよかろうテ」
意外、声とともに、部屋の一方の押入れの襖が、内部からサラリとあいて、
「おいっ! この面が看板だ!」
いつから、どうしてこの部屋の押入れになぞ、人がひそんでいたのだろう?
「わはは、驚いてやがら」
おもしろそうに笑いながら、あぐらをかいていた押入れの下段から、ノソリと立ち現われた人物を見ると!
門之丞も、萩乃も、一眼でゾッとしてしまった。
家の檐も三寸さがるといって、夜は、魑魅魍魎の世界だという。
その真夜中の鬼気が、ここに凝ったとでもいうのでしょうか。
魔のごとき一個の浪人姿――。
油っ気のない、赤っぽい大たぶさが、死人のような蒼い額部へ、バラリたれさがって、枯れ木のような痩せさらばえた長身だ。
その右眼は、牡蠣のようにおちくぼんでいるのが、たださえ、言いようもなく気味がわるいところへ、眉から右の口尻へかけて、えぐったような一本の刀痕は、しじゅう苦笑いしているような、かと思えば泣いているような、一種異様なすごみを、この浪人の表情に添えている。
右の袖は、肩さきからブランとたれさがって、白衣に大きく染めぬいたのは、黒地に白で、髑髏の紋……まことに、この世のものとも思えない立姿。
人間よりも、縷々として昇る一線の不吉な煙……。
パクパクと、乱杭歯の口をあけた。声は、しゃがれて、鑢で骨を挽くような、ふしぎなひびき。
「姐さんも、お侍えも、ヤに眼ばかりパチクリさせてるじゃアねえか」
と、申しました。
「おらア言い飽きた科白だが、お前ッちにゃア初耳だろう。姓は丹下、名は左膳……ウフフフフ、コウさむれえ、えらいところをじゃましてすまなかったが、おらア因果と、この壺てエものを見るてえと、やたらに欲しくなる性分でナ。この壺せえもらやア、用はねえのだ」
たちすくむ門之丞を、左眼でじろりとにらむ。つかつかとこけ猿のほうへ寄る。動くと、魔のような風がさっさっと起こる。この浪人の影には、死神が笑っているに相違ない。
「待てっ!」
やっと発音機能をとり返したように、必死にさけぶ門之丞の声に、丹下左膳はぶらりと立ちどまった。
ギュッと顎をねじって、皮肉に笑っている左眼を、門之丞へ向ける。
「ナニ、待てとは――おれがこの壺をもらっていくのが、不承知か」
「いや、不承知というわけではないが……」
と門之丞、変に気をのまれちまって、しりごむばかりだ。
「あなた様は、どうしてここへ――?」
横あいから、一歩進み出た萩乃の問いに、左膳はヌラリとそのほうへむきなおって、
「や、これはお嬢様、そうきかれると丹下左膳、こそ泥のごとき真似をいたして、恥じいる次第だが……」
鍋とかわったほんもののこけ猿は、この道場にあるに相違ないとにらんで、尺取り横町のお藤の家にチョビ安を残し、ひとり出てきた左膳、昼間のうちからこの屋敷へまぎれこみ、灯などをはこぶ宵のくちのどさくさに、早くから、この部屋の押入れにしのんでいたのだ。
「こいつが来たので、出場を失ったのだ」
と左膳、一つきりの眼に、みるみる殺気が光って、
「手前、なんだな、今聞いていれば主をはかったな?」
もの言うたびに、腰の大刀がゆれて、笑うごとくカタカタと鳴ります。
「汝ア、まさか助かろうたア思うめえな」
左膳は、ぐっと顎を突きだして、門之丞を見た。
その左膳の全身から、眼に見えぬ飛沫のような剣気が、ほとばしり出て……萩乃は、何かしら危ない感じで、そっと雪洞を、壁ぎわへ置きかえた。
しばられたように、手足がすくんで、動こうとしても動けぬ門之丞。
ジッと上眼づかいに、左膳のようすをうかがうと――!
一つきりない左膳のひだり手の指が、まるで小蛇の這うよう……そろそろ、ソロソロと、右腰にさした豪刀の鯉口へ、かかってゆくではないか。
萩乃は?
ピタリと襖に背をはりつけて、手の甲を口に、眼を裂けそうに見ひらいて、立っている。
殺気は室内に満ちみちて、柱も、畳も、机も、物すべてが、はッはッと荒い呼吸をしているようだ。
脈動にうつる、ほんの一瞬前の静止。
来る気だな!――と門之丞が思った時。
グッと首をまげて突きだした左膳、あいている左の眼で、ニヤリと笑った。
左膳にこの笑いがくると、危険だ。
と、同時に。
左の膝をすこし折ったかと思うと、眼にもとまらぬ疾さでくりだした一刀の柄、それを、鍔元を握って顔の前に立てるが早いか、舌の先で、目釘をなめ湿している。
門之丞から見ると……柄のかげに、左膳の顔が、低くおじぎをしているようで。
だが。
額ごしの左眼は、不動金縛りの力で、強く門之丞を牽制しながら、左膳、口をひらいた。
木枯らしのような、がらがらした声。
「おれの[#「おれの」は底本では「おのれ」]きれえなことばっかりしておきながら、それで、斬られるのがいやだというんなら、そりゃアお前、無理ってもんだぜ」
変にねっとりした口調です。
顔半分は、依然として笑っている。
「俺アなア、第一に、人をだしぬくってことが大きれえなんだ。女のことになりゃア、主も家来もねえというんなら、それもよかろう。だが、お前は、源三郎をだしぬいて、この女を口説きにかかったじゃアねえか。おらアそれが気にくわねんだっ!」
こんなことを言っているあいだに、いつサッと斬りこんでくるか知れないと、門之丞、一刀の柄に手をかけて、ゆだんなく身構えながら、
「乞食浪人の説法、聞きたくもないっ! 早々に立ち去れっ!」
「だまって聞けエ。第二に、おれのきれえなことは、女を追いまわすことだ。それに、なんぞ、さっきからこの押入れン中で聞いていれば嚇かしたり、ペロペロしたり……みっともねえ野郎だっ! 言うこときかなけりゃア、チッ、面倒くせえや、なぜ斬ってしまわねえんだっ! おれアその、女にいちゃいちゃするのが、むしずの走るほど大きれえでなあ。第三に、お前の面がどうも気にいらねえ――ウフフ、これだけそろっていりゃアおらアお前をバッサリやってもいいだろう。なあ、おとなしく斬らせてくれよ」
「こやつは狂人じゃ」
門之丞がふっとつぶやいた刹那、たっ! と柄鳴りして、左膳、口に鞘をくわえると見えたとたん……一線の白い虹が、スーッと門之丞の胴を横切って走りました。
足を開き、身を八の字なりに低めた左膳。
右から左へ薙いだ左腕の剣を、そのまま空に預けて、その八の字を平たく押しつぶしたような恰好のまま――。
夢にはいったよう、じっとしている。
一道に悟入した姿の、なんという美しさ!
伸びきった左手の長剣、濡れ燕、斬っ尖から肩まで一直線をえがいて微動だもせず、畳のうえ三尺ばかりのところに、とどまっています。
この時の左膳の顔は、一芸の至妙境に達した者の、こうごうしさに輝いてみえました。
落ちくぼんだ、蒼く澄んだほお……歯に刀の提げ緒をくわえて、胸のあたりに、長い鞘が、ななめにぶら下がっている。
かすかにあけた口から、ホッ、ホッと、刻むがごとく呼吸を整えて――そして、左膳、たった一つの眼もつぶって、まるで眠っているようです。
と、こういうと、非常に長く経過したようですが、ほんの五秒、六秒もありましたでしょうか。
門之丞は――?
と見ると、さっきのとおり、右手を柄頭にかけて、立ったまんまだ。
ただ――。
眼をうつろに、あらぬかたへ走らせて、機械仕掛のように上顎と下顎をがくがくさせ、両ほおに、紫の色ののぼりそめたのは、どうしたというのでしょう。おや! 胴のまわりの着衣に、糸のような細い血の輪がにじみだして……。
すると、です。
左膳がガタガタと首をゆすって口にくわえていた提げ緒を、振り落とした。割れたところを真田紐で千段巻きにした鞘が、トンと畳を打つ。とともに、左膳はホーッと太い息、力をぬいて身を起こした瞬間!
なんといいましょうか。呪いがとけたように、支柱がとれたように……立っている門之丞のからだが、大きく前後左右にゆらいで、たちまち、朽ち木をたおすごとく、斜め右にバッタリ倒れました。同時に、胴がパックリ二つに割れころがって、一時にふきだす血、血……。
なアンだ、門之丞、とっくの昔に胴体を輪切りにされて、今まで、死んだまんま、ノッソリ立っていたんです。
すえ物斬りの妙致が、うまくはまると、はずみで、こういうこともあるかも知れない。
なんとかいう侍は、ひどく剣術のできる友達と喧嘩をして、スパッと首の斬られたのを知らずに、おでんやなんかで帰りに一ぱいやって、ウーイ、ああいい気持だと、家へ帰ってきた。そして、ただいま、と頭をさげる拍子に、首がコロコロところがり落ちて、はじめて斬られていたことを知って、おれはモウ死んだのかと急にあわてだしたというんですが、こいつはどうかと思いますね。
もっとも、現代でも、よく似た話があるもので――ある方が、会社で上役と喧嘩をして、帰りにカフェーで気焔をあげて自宅へ帰ったら、速達がきていた。あすより出社におよばず……ここにおいてはじめて、ネックになったのかと、そぞろに御自分の首をなでてみたというんですが、ウー、ブルル! 縁起でもない話で、恐れ入ります。
「部屋をけがして、申し訳ない。あとしまつは、よしなに頼む」
片隅にいすくむ萩乃へ、ジロッと一眼を投げて、左膳、廊下へ出た。
その腋の下には、こけ猿の茶壺が、ガッシとかかえこまれて。
お蓮様の寮で、源三郎も、まごうかたなきこけ猿を手に入れたはず。
ハテふしぎ!……こけ猿の壺は二個あるのか?
「おい、おめえ見たか。おらア先生が、肌脱ぎになって水をくみこむところを見たが、肩なんかお前、松の根っこみてえだぞ」
「何言ってやがんでえ。いつも横町のおかめ湯で、先生の背中を流すのは、このおれ様だってことを知らねえのか。先生の背中は、四畳半もあらア」
それじゃアまるで鯨だ。
「余の者がこすったんじゃア、蠅がすべってるほどにも感じねえというんで、こちとら真っ赤になってフウフウいって流すんだが、イヤまったく巌みてえなからだだよ」
「へええ、頭の力でも、そうですかねえ。なんだそうでげすナ。小さな長屋の柱のまがったのなんざあ、あの泰軒先生が一つ腰を入れて、グンと押すと、しゃっきり立てなおるってえじゃアげえせんか。いや、なんにしても、えらい御仁があったものだ」
「この長屋の王様だあね。いやもう、とんがり長屋の名物どころじゃアねえ。とんがり長屋の泰軒さまといえア、江戸の名物だ。モウ、とんがり長屋てえのを、泰軒長屋とかえてもいいや」
「泰軒長屋か。ほんとだ。何か事がありゃア、あの先生を押し出しゃあ即座にピタと鎮まろうてもんだから、豪気なもんよなあ」
「いっそ心強えや。オウ、みんな、泰軒様を大事にしなくっちアいけねえぜ」
うす陽の街上に、小さな旋風が起こって、かわいた馬糞の粉が、キリキリと縒り糸のようにまっすぐに、家の庇ほども高く舞い立っています。
ここは、あさくさ竜泉寺町、とんがり長屋の路地口。
灰屋、夜かご、祭文語り、屑拾い、傘張り、夜鳴きうどんなど、もっとも貧しい人達がこのトンネル長屋にあつまって、いつもその狭い路地には、溝泥の臭気と、物のすえたしめっぽいにおいとともに、四六時中尖った空気が充満して、長屋の住民はどれもこれも、みんな貧ゆえのけわしい顔――。
亭主は亭主同士のいがみあい、山の神は井戸端会議の決裂、餓鬼は餓鬼で戦争のようななぐりあい、なんだかんだと夜昼喧嘩口論のたえまはなく、長屋中いつ行ってみても、眼をとがらし、口をとがらし、声とがらしているところから、誰いうとなく、人呼んでとんがり長屋。
この、名所図会にない浅草名所とんがり長屋に。
さきごろから、変わり種が一つふえた……というのは。
あの羅宇直しの作爺さんの家に、蒲生泰軒というたいへんものが、ころげこんでいるんです。
いつか――。
チョビ安の預けていった壺の箱をねらって、峰丹波一派の者が、この作爺さんの家へ押しこんだことがあった。そこで、箱のふたをあけてみると、内容は、左膳の計略で壺にはあらで、隅田川の水に洗われたまるい河原の石……いずれをいずれと白真弓と、左膳がその石のおもてに一筆ふるってあったのは剣怪ちかごろの大出来だったが、憤慨したのは司馬道場の弟子どもで、かわりに、作爺さんの孫、お美夜ちゃんをさらっていこうとひしめいているところへ、どこからともなくブラリとあらわれて、侍たちを追っ払ってくれたのが、この泰軒居士であった。
いつだって、どこからともなくフラッと現われるのが、泰軒先生の便利なところなんだ。
今も今で、こうして長屋の連中が角に立って、ワイワイ先生のうわさをしていると……。
「向うの辻のお地蔵さん、よだれくり進上、おまんじゅ進上――ハッハッハ、どうじゃ、なかなか堂に入ったものじゃろう」
変な唄歌が、通りのほうから……。
たいしたもんですね、泰軒先生の人気たるや。
そう、遠くのほうから、チョビ安作、親なし千鳥の唄をうたってくる先生の声が、聞こえると、路地にガヤガヤしていた長屋の一同、兵隊さんがさわいでるところへ師団長が来かかったように、ピタリ鳴りをしずめて、
「お! お帰りだ! お帰りだ!」
「先生のおもどりだぞ」
「御帰館だ――」
なんかと、なかには、ブルジョア用語を心得てるのもある。
この声々が、口から口、耳から耳とリレー式に、たちまちのうちに路地口からトンガリ長屋の奥まで、ズーッと伝わっていくところは、壮観です。
角に待つ連中は、声をひそめて、
「あれで、泰軒先生は、腕っ節のつええばかりが能じゃアねえんだ。学問ならおめえ、孔子でも仔馬でも、ちゃアんとあの腹ん中にしまってるんだから、ヘッ、豪勢なもんヨなあ」
「いつかも、人間はなんとかてエ七輪が大事だと、先生がおっしゃったぞ」
「馬鹿野郎! 七輪じゃアねえ。五徳だ。仁義礼智信、これを五徳といってナ」
「なにを言やアがる。五徳ばかりあったって、七輪がなくっちゃアしょうがねえや」
「なにをっ!」
と双方、肌ぬぎになりかけて、喧嘩になりそうだ。やっぱりどうも、トンガリ長屋です。
それでも……。
泰軒先生が近づくと、襟をかきあわせたり、袖口をひっぱったり、ある者は手に唾をして、小鬢をなでつけたり、手拭で裾をはたいたり……イヤ、忙しく身づくろいして並んでるところへ、
「ウム、つぎは――、
ちょいときくから教えておくれ、
あたいの父はどこへ行た
あたいのおふくろ……
と、これでええのかな?」あたいの父はどこへ行た
あたいのおふくろ……
泰軒先生濁み声をはりあげて、お美夜ちゃんに、チョビ安の唄を習いながら、ブラリ、ブラリ、大道せましとやって来る。
「ほほほほほ、そこんとこの節まわしが、ちがうわ。あ、た、いのウであがって、父はアってさがるのよ。小父ちゃんのは、それじゃ逆だわ」
「いや、なかなかむずかしいもンじゃのう。
あたいのお母どこにいる
じれったいぞエお地蔵さま
石が口ききゃ木の葉が沈む――」
「あらっ、だめ! ちがうわよ、ちがうわよ。それじゃアまるででたらめの文句だわ。いやな泰軒小父ちゃん! ほほほほほ」じれったいぞエお地蔵さま
石が口ききゃ木の葉が沈む――」
「イヤ、こりゃア失敗った。またしくじったかの」
秩父の郷士の出で、豊臣の流れをくんでいるところから、徳川の世を白眼ににらんでいる巷の侠豪、蒲生泰軒居士。
肩をなでる合総、顔を埋める鬚と胸毛を、風になぶらせて、相変わらず、ガッシリしたからだを包むのは、若布のようにぼろのさがった素袷に、縄の帯です。たいていの貧乏にはおどろかない、トンガリ長屋の住人ですが、この泰軒の風体にだけは、上には上があるとホトホト感心している。
ひやめし草履をひきずる先生の横に、ちょこちょこ走りのお美夜ちゃん……稚児輪の似あうかわいい顔で両袖かさねて大事そうに、胸のところにだいているのは、泰軒小父ちゃんの一升徳利で。
この奇妙な取り合わせの二人づれが、トンガリ路地へかかると、待っていた一同、ていねいにおじぎをして、あとからゾロゾロ、うやうやしくついてはいる。いやモウ、たいへんな尊敬……。
「先生、うちの娘っこに、このごろ悪い虫がつきやしてナ、どうも心配でならねえのですが――」
泰軒先生のあとから、長屋の連中が行列のようについて、ワイワイいって作爺さんの家へ送りこむんです。
その群れから、こういって声をかけた者がある。長屋のずっと奥にすんでいる、どこかの見世物小屋の木戸番です。
泰軒先生は振りむきもせず、せまい路地に悠々と足音を鳴らしながら、
「ホホウ、娘に虫がついた。恋ごろも土用干しせぬ箱入りのむすめに虫のいつつきにけむ……やはり、蚤、虱の類でもあるかな?」
「へえ、もっと性の悪い虫なんで。二本足の虫でげす」
「二本足の虫? それはめずらしい。後学のため、わしも見たいものだな。一度うちへよこしなさい。しかし、あんたも、そうはじめから悪い虫ときめてしまわんで、よくその虫を見ることだな。案外、娘さんにとっていい虫かも知れんでな」
「へえ、ありがとうごぜえます。どうぞ、その野郎を――イヤ、ソノ虫をつかわしやすから、とっくりごらんなすってくだせえまし」
これじゃアまるで昆虫学みたいだが、こうやって泰軒先生は、この長屋の人事相談いっさいを引き受けているかたちだ。
「先生ッ!」
と叫んで、通りかかった家の中から、髪をふりみだした女房がかけでてきた。
「ア、くやしい! 先生、あたし、どうしたらいいんでしょう。うちの亭主野郎ったら、悪所通いばっかりして、もうこれで三日も家へよりつきません。ほんとにほんとに、帰ってきたらどうしてやろうか……」
泰軒はニコニコして歩きながら、
「あははははは、お前さんはホンノリ化粧でもして、酒の一本もつけて、いつでもあったかい飯をたけるようにしたくして、亭主野郎の帰りを待つんだナ」
「まあ、馬鹿馬鹿しい! そんなことができますか。ほんとに嫌だよ。男はみんな男の肩をもってさ。先生も男なもんだから、そんなことをいうんですよ。男ってどうしてそうかってなんでしょう」
「いや、そうでない。そうしているうちに、宿六の浮気がとまる。うちへも一ぺんよこしなさい。酒でも飲みながら、ゆっくり話そう」
ほかの一人が、泰軒のうしろに追いついて、
「先生、すみませんが、あとで手紙を一本書いてもらいてえんで」
「よろしい。あとで来なさい」
先生が作爺さんの家へはいるまで、長屋の連中ははなしません。どぶ板のこわれたのから、猫の喧嘩まで一々先生のところへ持ちこんでくる。泰軒はまた、めんどうがらずに、かたっぱしからその始末をつけてやるんです。
戸口のところで、長屋の人達と別れた泰軒は、しずかに作爺さんの家へあがった。壁は落ち、障子はやぶれて、見るかげもない部屋に、作爺さんこと作阿弥は、垢じみた夜着をきて寝ている。
病気なんです――もうずいぶん長い間。
「御気分はどうじゃな、作阿弥どの」
そういって泰軒は、まくらもとにすわった。そして、いま買ってきた何やら木の実のようなものを薬研に入れて、ゴリゴリていねいにくだきはじめました。
お美夜ちゃんはそのそばに、しょんぼりすわっています。
どこが悪いというのでもない。
いわば、老病というのでしょうか。それとも、からだの節々がいたみ、だんだん四肢のうごきに不自由を感ずるところを見ると、今でいうリウマチとでもいうのかもしれない。
作爺さんはもうこれで二、三ヶ月も、枕から頭があがらないのです。
羅宇直しの稼業に出られないのは、むろんのこと……なによりすきな、というよりも、イヤ、それはもう第一の本能といっていいほど、閑さえあれば手にせずにはいられない馬の彫刻にも、モウ長いこと鑿をとりません。
作爺さん、それがさびしいらしい。たまらなくつらいらしい……。
馬を彫らせては当代随一の作阿弥――そういえば、いつかこの部屋で、隅にころがる半出来の馬のほりものを一眼見て、この老人の素姓を看破したのは、この蒲生泰軒だった。
これだけの名人作阿弥が、どういうわけで羅宇なおしの作爺さんになりきって、曰くありげな孫むすめお美夜ちゃんと二人っきりで、今このとんがり長屋にかくれすんでいるのか、その仔細はまだわからない。
あるいは、泰軒は知っているのかもしれないが――。
御気分はどうじゃナ……といった泰軒先生の問いに、作爺さんは重い頭をあげて、
「イヤ、至極良好、快方に向かいつつある――と申しあげたいが、ざんねんながら、いっこうにはかばかしからぬ。もうこれきり、鑿を手にすることもかなわぬかと思えば……」
もう作阿弥ということを知られていますから、言葉つきも、長屋の作爺さんを捨てて、本来のままです。
「うわはははは」
と泰軒は、わざと大声に笑いとばして、
「なんの大名人ともあろう人が、それしきの病に、そんな気の弱いことを」
薬研を摺る手に、力を入れて、
「この稀薬を手に入れたからは、病魔め、おそれいって退散するに相違ないテ」
はたしてそんなにきく稀薬かどうかは知りませんが、泰軒、さっきお美夜ちゃんの手を引いて出て、なけなしの銭をふるって買ってきたんです。なんだか変てこな、どす黒いかわいたものだ。それを船型の薬研に入れて、ごろごろ丹念に摺りつぶしている。
お爺さんが病気なので、お美夜ちゃんはいじらしいほどおとなしい。両手を膝に、眼をまんまるにして、ひげの伸びた祖父の顔をジッと見つめたまま、チョコナンと枕もとにすわっています。と、不意に、
「チョビ安お兄ちゃんは、どこへ行ったかわからないのねえ」
と、こどもながらも何かしら、しんみりした口調で申しました。
蒲団からのぞいている作爺さんの顔が、痩せた笑いにゆがんで、
「お美夜や、安はわしらを見捨てたのじゃ。モウ戻ってこんのだから、お前もそういつまでも、チョビ安のことを言うんじゃない」
と、悲しそうです。泰軒はチョビ安のことは知らないから、だまってゴリゴリをつづけている。
みすぼらしい部屋に、ちょっと、暗い沈黙が落ちました。
と、ちょうどその時です。誰やらおもての戸を、ドンドンドンとたたく音。
長屋の者が、また悶着でも持ちこんできたか?……と、泰軒先生が眉をあげたとたん。
ヒラリ! そとの路地から家の中へ、生あるごとく舞いこんできた一枚の紙片――投げこんだ人はそのまま立ち去るらしく、しのぶ跫音が、いそいで遠ざかってゆく。
泰軒があけてみると、紙には、ただ一行……。
「即刻御来駕を待つ――」
誰からの投げ入れ文?
「いや、ただいま使いをやりましたから、ほどなくまいりましょう」
忠相は、こう言って、その下ぶくれの柔和な顔をほころばせて、客を見た。
桜田門外の、江戸南町奉行大岡越前守忠相のお役宅だ。
その奥座敷――。
前の庭は闇にとざされて、植えこみの影が黒く黙している。
が、室内には……。
燭台の灯が明るくみなぎって、磨きぬいた床柱と、刀架けの蝋鞘と、大岡様のひたいとを、てらてらと照らしだす。
「壺の騒ぎは、以前お話のありましたとおり、それとなく看視はしておりますが――」
と言いかけて、忠相はまた、相手へ眼をやった。
客は。
七、八つの子供ような、小さなからだに、六十あまりの分別くさい顔――それが、いかにもグロテスクな大きく見える顔で、おまけに、これだけは一生の荷の瘤を、背中にしょっているのは、言わずと知れた亀背の愚楽老人である。
千代田の三助……垢すり旗本。
お庭番という、将軍家直属の隠密の総帥。
八代吉宗公のかげの最高顧問です。
白髪を、根の太い茶筅にゆい、柿いろの十徳を着て、厚い褥のうえにチョコナンとすわったところは、さながら、猿芝居の御隠居のようだ。
額部に幾本もの深い皺をきざみ、白い長い眉毛の下から、じっと忠相を見つめて、
「上様にも、ひとかたならぬ御心痛でのう」
と、言った。
野太い、よくとおる声だ。もの言うたびに、背中の瘤がヒクヒク動くのは、たしか奇態な動物が、着ものの下にもぐりこんでいるように見える。
「知ってのとおり、日光御修営は、日一日と近づく。柳生はそのこけ猿の壺とやらを手にいれぬかぎり、ほかに金の出どころは絶対にないのじゃから、イヤモウ、一藩をあげて今は必死のありさまじゃ」
「すると、上様は」
と忠相は、ちょっと頭をさげて、
「柳生に御同情をたれ賜うて、柳生のために、それほど御心配になっておらるるので」
「うむ。それもある。剣をもって立つ天下の名家を、かようなことで、むざむざとつぶすにもあたらぬからのう」
「ごもっとも」
「第一、柳生をくるしめるのは、上様の本意ではない。しかるに、このままで押しすすんで、柳生がこけ猿を手に入れて財産を掘りだす前に、日光御造営の日を迎えることになれば、柳生藩一統はくるしさのあまり、何をしでかそうも知れぬ。そこは、剣術はお手のものの連中だし、例の伊賀の暴れン坊とやらをはじめ、手ごわいやつがそろっておることだから……上様の御憂慮なさるのは、この点じゃ」
「なるほど、つまり、天下をさわがしとうない――」
「と言うと、こけ猿の秘める財宝のすべてが、柳生の手にはいるのも、これまた困りものじゃて。いくら日光でも、そうはかからぬのじゃから、あまった金が柳生の手にあっては、こんどはまたそれが、何かと間違いのもとになりやすい――」
「そうたびたび金魚籤をあててやることも、できますまいからな、ははははは」
「そうじゃ。きまって柳生の金魚ばかり死なすわけにも――あっはっは」
愚楽老人が、全身をゆすぶって笑った時、庭の奥から闇黒の中を、こっちへ近づいてくる跫音が……。
すね者というと、変につむじまがりか、さもなければ卑屈な人間が多いけれど、この蒲生泰軒先生のように、とてもほがらかに世の中をすねちゃった人物は、ちょっとほかに類がないであろう。
いったい人間には。
ちゃんと家庭をいとなみ、一定の住所をもち、確たる職業につき、それ相応の社会的地位をたもっていこうとする、いわば市民的なおもての生活のかげに。
一面……。
ともすれば無情を感じ、隠遁を好み、一笠一杖、全国の名所寺社でも行脚して歩いたら、さぞいいだろうと思うような、反世間的な、放浪的な気もちがあるものです。
人によって、その思う度合いはちがい、また、考えのあらわれ方も異なりますが、だいたい人間は、ことに東洋人は、誰しも、この現実の俗な責任と、それにたいして反動的な、無責任な逃避を欲する心と、内心、この二つのたたかいにはさまれて生きているといっていい。
ですから。
ここに。
はじめっからその社会生活を拒絶している人があったとしたら、その人はある意味で、ずば抜けたえらい人だと言わなければなりません。誰だって、そうでしょう。
会社や役所へ出て、上役にペコペコし、上役はそのまた上役にペコペコし、お世辞でないようなお世辞を言い、同僚には二重三重の気がね……お金持はお金のないような顔をするし、金のないやつは金のあるような顔をするこんなイヤな世の中に、がんじがらめにされて生きてゆくよりは、サラリと利欲をすてて、いい景色でも見ながらフラフラ野山を歩いたほうが、よっぽどいいにきまってる。
わが泰軒居士はそれなんです。
ただ。
捨てるべき利念も、気がねも、はじめから持ちあわせない蒲生泰軒。
「俺ば、したいことをするだけだ」
というのが、先生の信条であります。
だが――。
これは、したいほうだいのことをするというのとは、だいぶ違う。
してはいけないことは、常に、決してしたくない人にして、はじめてこういうことができるのです。してはいけないことをしたくないのが道徳で、していいことをするのが自由だ。
泰軒先生は、これが完全に一致している。さぞサバサバした心境でありましょう。
一升徳利を枕に、いつも巷に昼寝する蒲生泰軒、その海草のような胸毛に、春は花吹雪、夏は青嵐、秋の野分、冬の木枯らしが吹ききたり、吹き去って、洒々落々とわらいながら、一生を弱い者の味方として送った人です。
歴史には名は出ていなくても、隣家の大将、裏の姐さん、お向うの兄ちゃんには、神のように、父のように慕われ、うやまわれたんです。
泰軒はこれでいいのだ。
長々と余談にわたって、まことに恐縮ですが――。
しかし……今をときめく南町奉行、大岡様のおやしきへ、こうして夜中に、庭からやってくるなんて、この泰軒のほかにはない。
「やあ、呼んだから来たぞ」
と先生は、暗い植えこみの影のかさなる庭から、ブラリと縁側へあがりながら、
「おお、来てるのか」
愚楽老人をじろりと見やって、埃だらけの長半纏の裾をはね、ガッシと組む大あぐら――。
この蒲生泰軒は。
その昔……。
日本国中を流れ歩いて、お伊勢さまへおまいりしました時に。
徳川専横の世にあって、皇室尊崇という国体観念の強い泰軒先生は、どんなに清らかな、またいかにはげしい日本愛をもって、伊勢大廟のおん前にぬかずいたことでありましょうか。
神代ながらのこうごうしさに打たれる、伊勢の神域。
ある学者が、北畠親房の神皇正統記という、日本精神をあきらかにした昔の歴史の本を評しまして、この神皇正統記は、前に遠く建国の創業をのぞみ、のちに遙かに明治維新をよぶところの国史の中軸であると道破されました。
まことにそのとおりでありますが、これは何も、その歴史の本だけのことではない。泰軒先生のような人物についても、まったく同じことが言えるのであります。
この幾多名の知れない泰軒先生が、各時代を通じて存在していたということは、じつに、前に遠く日本建国の創業をのぞみ、のちにはるかに明治維新の絢爛たる覇業をよぶところのもので、一蒲生泰軒自身、大日本精神の一粒の砂のようなあらわれであったと申さなければなりません。それが、昭和のこんにちお互いが見るような、この強大な日本意識、民族精神の拡充となったのです。これをさしてファッショなどという伊太利あたりの借り物などと思うのは、大たわけだ。
さて。
それがいいが……。
たましいの澄みわたる杉木立ち、淙々千万年の流れをうたう五十鈴川の水音に、心を洗った若い日の泰軒先生は、根が無邪気な人ですから、日本を思い、おそれ多いことですが皇室をしのびまつって、すっかり嬉しくなっちゃったんですネ。
連日連夜、山田の木賃宿にがんばって、ひとりで祝盃をあげた。
そこまではいいとして。
そいつをちっとばかりあげすぎたんです。
その当時から、かたときもはなさない貧乏徳利を振りまわして、フラフラ山田の町中を威張ってあるいた。イヤ、山田の町の人が、おどろきましたね。何しろ、容貌魁偉、異様な酔っぱらいが、愉快だ愉快だと、毎日町じゅうをねって歩くんですから。
とどのつまり、交叉点か何かに大の字なりに寝こんでるところを泰軒先生、通行妨害というんで山田署へひっぱられちゃった。
司法主任の方がとりしらべると、乞食のような風体だが、言うことがおそろしく大きい。
奇抜なルンペン……ただの鼠じゃあるまいとなって、このとき、みずから泰軒を訊問したのが、当時、この伊勢山田のお奉行様だった大岡忠相でした。まだ越前守と任官しない前のことですな。
そのとき、大岡様は泰軒にスッカリほれちまって、二人は、肝胆相照らす心の友となったのです。それからの交際だ。
山田の大虎事件では、泰軒は説諭放免となり、その後数年にして大岡さまは、八代吉宗公に見いだされて、この生き馬の眼をぬく大江戸の奉行、南北にわかれて、二人ございますけれど、まあ現代で申せば警視総監と裁判所長をいっしょにしたような重職におつきになったのです。
だから、桜田門外、奉行官邸の塀を乗りこえて、ぶらりはいってくるのも、先生一流のやり方で、べつに不思議はありませんが……。
愚楽老人をつかまえて、
「化け物がきてる――」
とは驚いた。が、より愕いたのは、そう言われた愚楽が、敷物をすべって、ピタリ、両手を突いたことです。
千代田の怪物、愚楽老人――将軍吉宗公の側近中の側近、何しろ、お風呂番なのですから、裸の将軍様をごしごしこする。文字どおり赤裸々の吉宗に接して、いろいろと最高政策の秘密のおはなしをなさるんです。
上様のおっしゃることは、みんなこの愚楽老人から出るんだ……といわれたくらい。
大老も老中も、若年寄りも、この愚楽のきげんを損じては、首があぶないから、一にも愚楽様々、二にも愚楽様々――。
吉宗の政治は愚楽政治。
まことに、威令ならびなき垢すり旗本なんです。
その愚楽老人をつかまえて、
「やあ、化け物がきてるな」
という泰軒先生、怪物の上をゆく怪物か、さもなければ、こわいもの知らずのよっぽどの馬鹿か。
両方なんです、泰軒先生は。
相手に求めるところがあれば、自然、みずからが卑屈になる。
世の中から何ものをも得ようと思っていない蒲生泰軒居士、ほんとに、愚楽老人なんか、ただのかわいそうな不具者としか眼にうつらない。
しかし、
一寸法師で亀背の愚楽を、化け物とは、いくらそう思っていても、面と向かってひどいことを言ったものだが、どこへ出しても生地をむきだしの泰軒、徳川などは天下の番頭、したがって愚楽ごときは、番頭の番頭ぐらいにしか思っていないんだ。
ところが。
化け物といわれた愚楽老人は?……と見ると。
ふしぎ!
いつもお城で、大老など鼻であしらって、傲岸そのもののような愚楽が、どうしたのか、ちゃんと座蒲団をおり、両手をついて、泰軒のまえに頭をさげている。
「御無沙汰いたしております。御健勝で、何より……」
ていねいな挨拶です。不思議といえば不思議だが、考えてみれば、これは何もふしぎはないンで。
人物を知るには人物を要す。大岡様を通じてだいぶ前から相識になっているこの蒲生泰軒を、愚楽は、学問なら、腹なら、まず当今第一の大人物とみて、こころの底から泰軒に絶大な尊敬を払っているんです。
お城には、話せるやつなんか一人もいないが、いまこの日本で、自分が膝をまじえて語るに足る人物はといえば、まず、南の奉行大岡越前と、この、街の小父さん蒲生泰軒と、いずれも、兄たりがたく弟たりがたし……この二人よりないと、愚楽老人ひそかに思っている。
大岡様は、大岡さまで。
世の中にはいろんな人がいるが、衷心から尊敬に値して、なんでも秘密をうちあけて智恵を借りる畏友は、風来坊泰軒居士と、この湯殿のラスプチン愚楽老人以外にはない――こう考えている。ラスプチンというと、なんだか愚楽も、ひどくエロごのみでいんちき宗教をあやつるように聞こえますが、わが愚楽、そんなところはちっともないんです。ただ、常人のうかがい知ることのできないお城の奥深く、一種の妖気ともいうべきふしぎな威勢、魅力、呪縛力をそなえている点で、たとえてみれば、お湯殿のラスプチン……
泰軒先生も。
今の世でいくらか話せるやつは、大岡とこのせむしの化け物――どっちも葵の扶持をいただく飼い犬だけれど、まアこの二人は、相当なもんだ……ぐらいに思ってる。
だから、天下に何か困った問題が起こると、深夜コッソリこの三人が集まるんです。
「お呼びだてして、はなはだ恐縮だが――」
忠相はにこにこして泰軒を見た。
今までだって、何か重大なことが出来すると、よく夜中に、この越前守のお屋敷に三人があつまって、人ばらいのうえ、談合をかさねたものでありました。
吉宗公の言うことは、この愚楽老人から出る。
その愚楽老人の意見は、この忠相、泰軒、愚楽の三人会議の席上でまとまることがおおい。
三人寄れば……文殊の智恵。
並製の人間でも、三人も集まれば、大智者文殊に匹敵するくらいの智恵がわくものだという。
いわんや――。
ひとりでもおのおの文殊に劣らぬほど頭のいいのが、三人寄って智恵をしぼるんですから、この三人会議は、文殊跣足の智略の泉で。
たいがいの事件が、この三人の秘密会で、解決のつかぬということはない。
「どうじゃナ、湯かげんは」
泰軒は、だしぬけにこう言って、のんきそうな笑顔を、愚楽へ向けた。
「相変わらず、吉さんを洗っておるかの? じゃが、からだは人に洗わせることはできても、心は人に洗ってもらうわけにはゆかんからナ、アッハッハ」
八代様のことを、吉さん吉さんという。
相手が相手ですから、愚楽はだまって、ニコニコ笑っていますが、ほかでこんなことを言って、もしお役人衆の耳にでもはいろうものなら、首がいくつあったって足りません。
ケロリとして、泰軒はつづける。
「ま、よく心を洗うように、泰軒がよろしくと言うておったと、吉さんにつたえてくれい」
「は」
と愚楽老人は、くすぐったそうな笑顔。
「承知いたしました。おつたえいたしますが。泰軒大人、いくら心を洗うても、何か気になることがあっては、そのこころの洗濯が洗濯になりますまい。このごろ上様におかせられては、あの柳生の壺騒ぎを、ひどくお気にかけておらるるでのう」
それを聞きながして、泰軒は大岡さまへ、
「使いに来たのは、大作か」
「うむ。伊吹をやった。例によって、文を投げこんでこいと言うてな」
伊吹大作……この人は、越前守手付きの用人中、一ばん信任のあつかった人だ。あの天一坊事件や、雲霧仁左衛門事件で大活躍をした方で、まア、腕っこきの警部さんといったところ。
「投げこむが早いか、ドンドンと戸をたたいて、トットと逃げよった。出てみたら、もう影も形も見えん。すばしっこいやつじゃ。長屋じゅう、何ごとがおきたかと驚いておった、ハハハハハ」
いつも泰軒に用のある時には、ああしてトンガリ長屋の住居へ投げ文をして、呼び出すことになっているんです。
「当分、あの長屋におるつもりかの?」
忠相にきかれて、泰軒は哄笑一番、
「もう、ちょっとどこへも動けんようになったわい。みなが大事にしてくれるでな。愚楽さん、長屋の人たちは、そりゃアかわいいもんですなあ。しかし、わしの言うことなら、何を言うてもそのまま信じるから、うっかり冗談も言えん。吉さんが日本六十余州の将軍なら、この泰軒はトンガリ長屋の大将軍じゃ、ハハハハハ」
「宵のくち早くから、愚楽どのがお見えになってな」
と忠相は、ひとしきり笑いのしずまるのを待って、真顔に返り、
「例のこけ猿の件につき、君と三人でよく相談したいと言われるので、御足労をわずらわした次第だが……」
「アア、こけ猿か。だいぶゴチャゴチャやっとるようじゃのう――」
泰軒は軽く言って、膝もとにひきつけた貧乏徳利を手にとりあげ仰向いてグビリグビリ、燃料を補給しだした。
酒のこぼれた口ばたを、ぐいと手の甲で押しぬぐった泰軒は、
「しかし、徳川に智恵を貸してやるには、一つ条件があるが……」
大岡様と愚楽は、ちょっといぶかしげな顔を見合わせた後、異口同音に、
「それは、どういう――」
「ただ一つの条件とは、いったい何……」
泰軒は、キチンとすわりなおして、
「大政を朝廷へ奉還することじゃ」
「まじめになって言いだすから、こっちも緊張してきいていればハッハッハ、――泰軒はいつもこれじゃ。それは、われわれの手ではどうにもならん。チと条件が大きすぎるぞ」
忠相のおだやかな笑いに、愚楽老人もにこにこして、
「いや、むろん、そうあるべきところ。徳川も十五代も続きましたらば、いずれ、そういうことになるでしょう」
どうです。御一新はこの時分から、ちゃんと約束されていたんだ。
いったい泰軒が、こんなことをヒョコヒョコ言いだすには訳がある。それは、事につけ物にふれ、要路の大官へむかって尊王思想を宣伝しようという気持。泰軒だって、こけ猿の茶壺と天下の大政をいっしょに考えちゃアいない。
笑いだした泰軒は、
「そうか。よろしい。では、それまでおとなしく待つとして……ドッコイショッ」
ごろりと横になって、肘まくら。
「そこで、御両所、こけ猿のことは、心配するな。そのうちにおれが、大岡のところへ持ってきてやる」
と言いました。
前にも一、二度、三人で相談して、なんとかしてあの壺を、こっちの手に入れなければならないと、話をきめたことがあるんです。
それは、この愚楽老人、城中では常に将軍家拝領の葵の紋つきを、ひきずるように着て、なんかといえばすぐ、背中の瘤にきせたそのあおいの紋をつきだし、これが見えぬかと威張っている。
上様のほかに、葵の紋のついたお羽織を着ているのは、愚楽一人ですから、みんな、ソレお羽織が来たといって、誰も愚楽のそばへ寄る者はない。
いつか……。
元禄の赤穂事件で有名な、あの松の廊下で。
愚楽老人、ちょうどすれちがったこの大岡忠相が、その長い羽織の裾を、踏みもしないのに踏んだと、わざと言いがかりをつけて、人眼をごまかして大岡様を別室へひきいれ、そこでこの壺に関して篤と密談をしたことがあります。
あの晩も、さっそく、泰軒をまじえて三人、ところも同じ今のこの座敷で、いろいろと策をねった。
で、その結果。
泰軒がひそかに壺の移動に眼をつけることになって、ああして、当時まだ吾妻橋下の河原に小屋をむすんでいた左膳のもとへ、泰軒が橋の上から矢文をはなち、それによって左膳も、壺ののむ柳生の埋宝の秘密をはじめて知ったというわけ。
そもそも、大岡様や泰軒がこの事件に関係しだし、また、剣魔左膳が壺の内容を知って、いっそう執念の火をもやすようになったについては、こういういきさつがあったのです。
以前の事情を説明しておかないと、話がすすまない。
そこで、またしても、今夜のこの三人文殊の寄りあい……。
「まあ、よい。おれにまかせておけ。ちょっと考えがあるんだ」
ムックリ起きあがった泰軒のひたいの前に、ソッと二人のひたいが集まる。あとは三人のヒソヒソ話、よく聞こえません。
すっかり傾いた明けの月。
通りすがりの船板塀から、松の枝が、おどりの手ぶりのような影を落として、道路のむこうを、猫が一匹ノッソリと横切ってゆく。
寝しずまった巷には、この人恋しい夜にもかかわらず、粋な爪弾き水調子も、聞こえてこない……。
本郷は司馬道場の裏木戸を、ソッと排して、青い液体を流したような月光の中へ、雪駄の裏金の音をしのんで立ちいでたのは、大たぶさにパラリ手拭をかけた丹下左膳である。
いま、脇本門之丞を胴輪斬りに、その血を味わった妖刃濡れ燕は、何ごともなかったかのように、腰間にねむっている。
足をはこぶたびに、例のおんな物の下着が、ぱっぱっと、夜眼にもあざやかにおよぐ。
ひだりの一本腕の下に、こけ猿の包みをかかえた左膳、やがて、月を踏んで帰り着いたのは、駒形の高麗やしき――尺取り横町のお藤の家だ。
「おい、お藤! あけてくれ……おれだ。左膳様のお帰りだ」
あたり近所をはばかって、トントンと静かに雨戸をたたく。
なかから、つっかけ下駄で土間へおりるけはいがして、スーッと音もなく戸があいた。
さらりとした洗い髪、エエモウじれったい噛み楊枝……といった風情。口じりに、くろもじをかみ砕きながら、お藤姐御の白い顔が、ほのかな灯りに浮かんでのぞく。
「ま、お前さん。今ごろまでいったいどこを、ほッつき歩いていたんですよ」
と、キュッと上眼使いににらみあげるのも、女房きどりのうらみごとです。
左膳は、あの仮りの子チョビ安をつれて、もうだいぶ前から、この櫛巻お藤の隠れ家へころげこんでいるのだ。それというのも、なかばは姐御のほうから、どうぞいてくださいと一生けんめいにひきとめているので……櫛まきお藤、この、隻眼隻腕のお化けじみた左膳先生に、身も世もないほどゾッコン惚っているんです。
ヒネクレ者で、口が悪く、見たところはごぞんじのとおり、使いふるした棕櫚箒に土用干しの古着をひっかけたような姿。能といったら人を斬るだけの、この丹下左膳。
どこがいいのか、はたの眼にはわかりませんが、女も、お藤姐さんぐらいに色のしょわけを知りつくし、男という男にあきはててみると、かえって、こういう、卒塔婆が紙衣を着てまよい出たような、人間三分に化け物七分が、たまらなくよくなるのかも知れません。
今夜も。
夕方フラリと出ていったきり、ふけても帰らぬ左膳を待ちこがれて櫛の落ちたのも知らずに、柳の枕のはずれほうだい、うたた寝していたところらしく、ほおに赤くほつれ髪のあとがついている。
だが――。
人の心は、思うままにならないもので、お藤がこんなに想っているのに、左膳のほうでは、平気の平左です。
まア、頼まれるからいてやる……そうまで阿漕ぎな気もちでもないでしょうが、どうせ行くところがないのだから、幼いチョビ安を夜露にさらすのもかわいそう、当分ここにとぐろをまいていよう――ぐらいの浅いこころ。
どんなにお藤がさそっても、左膳は見向きもいたしません。一つ屋根の下に起き伏ししていても、二人の間は、あかの他人なんです。
いまも左膳は。
「うむ、いい稼業をしてきたぞ」
と、手の壺の箱へ、ちょっと顎をしゃくって見せたきり、ひややかに家の中へ――。
お藤の、袖屏風した裸手燭が、隙もる夜風に横になびいて、消えなんとしてまたパッと燃えたつ。
左膳を追って、お藤はうれしげに、とっつきの茶の間へあがる。
二間きりの小ぢんまりした家です。かたすみの煎餅蒲団に、チョビ安が、蜻蛉のような頭髪をのぞかせ、小さな手足を踏みはだかって、気もちよさそうな寝息を聞かせています。
左膳は、さもさも父親のように、そのチョビ安の寝顔をのぞきこんで、
「罪がなくていいなあ、餓鬼は」
と、思い出したようにお藤をかえりみ、
「あすは旅だ」
どてらをひろげて、左膳のうしろへ着せかけようとしていたお藤姐御は、この突然の言葉に、吐胸をつかれて、
「オヤ、だしぬけに旅へ……とはまた、どちらへ?」
「ゆく先か、それアこの壺にきくがいい」
どっかり長火鉢の前へ、細長い脛で胡坐をくんだ左膳、こけ猿の包みを小わきに引きつけて、
「どこへ旅に出るか、おれもまだ知らねえのだ」
「あらま、ずいぶんへんなおはなしじゃないか」
と、半纏の襟をゆりあげながら、お藤は左膳と向きあって、火鉢のこっち側に立て膝。
喫みたくもない長煙管へ[#「長煙管へ」は底本では「長煙管へ」]、習慣的にたばこをつめつつ、
「ハッキリ言ってもらいたいわね。あてなしの旅に出るなんて、このあたしの家にいるのが、そんなに嫌におなりかえ」
左膳は苦笑して、
「ウンニャ、そういうわけじゃアねえが、今この壺をひらいて、中の紙きれに……」
「え? その壺のなかの紙片に――?」
「どこと書いてあるか知らねえが、その紙ッきれにしめしてある場処へ、おらア、ある物を掘りに行かなくっちゃアならねえのだよ」
くすりと、ゆがんだ笑いをもらしたお藤、そっぽを向いて、
「……とかなんとか、うまいことを言ってるヨ。だがね、ほんとにこのあたしが嫌になって、それで家を出て行くんでなければ、あたしがくっついて行ってもかまわないだろう? え? 虫のせいか知らないけど、あたしゃ因果と、お前さんが好きでたまらないのさ。どんなにじゃまにされたって、あたしゃどこまでだってお前さんにへばりついて行くから、ホホホ、大きな荷物をしょいこんだつもりでネ、その覚悟でいるがいいわサ」
「いや、お藤、これ、お藤どの」
左膳はいささか、持てあまし気味で、
「くしまきの姐御ともあろうものが、そんな小娘みてえなことを言うのア、うすみっともねえぜ。実もって今度の旅は、足弱をつれていっていいような、そんななまやさしいものじゃアねえんだ。まったく、伊賀か、大和か、それとも四国、九州のはてか、どこまで伸さなくっちゃならねえか、この壺をあけてみねえうちは、誰にもわからねえのだからなア」
「フン、その壺はお前さん、前にあのつづみの与の公が、品川の柳生源三郎の泊りとかから、引っさらって来た壺じゃアないか。そんなきたない壺一つが、いったいどうしたというんですよ。もったいをつけないで、早くあけてみたらいいじゃアないか。何もそのうえの相談サ」
言いながらお藤、左膳が突然この家をはなれるときいて、嫉妬と悲しみにくるってヒステリカルになっている心中で、そんなら、この壺さえなかったら、恋しい左膳をいつまでも自分のもとにとどめておくことができるのだナ、と、ひそかに思いました。
蛇になった女もある。まことに、恋ほど恐ろしいものはございません。
「ウム……」
と左膳は、軽くうなずいて、
「壺中の小天地、大財を蔵す――あけてみるのが楽しみだな」
ヒタヒタと壺の箱をたたきながら、
「だが、あければすぐ、その埋蔵物を掘りに行くという、苦難の仕事が始まるのだ。日本のはて、どこの山奥までも、ただちにおもむく、……してまた、その財宝を手に入れるまでに、この濡れつばめは何度人血をなめねばならんことか。ウフフ、働いてくれよ」
いささか憮然たる面持ちで、左膳は、ひだりの膝がしらに引きつけた長刀、相模大進坊の柄を按じて、うすきみのわるい含み笑いをしました。
そして、何ごとか思いさだめたふうで、
「イヤ、壺をひらいてしまえばそれまでだ。ひらくまでが、たのしみなのだ。なかなかあけねえところに、そのたのしみは長くつづく」
お藤はあっけにとられた顔で、
「なにを酔狂なことを言ってるんですよ。唐人の寝ごとみたいな……じゃ、あたしゃ先に寝ますよ」
なにげなさそうに言って、しどけなく帯をときながら、ユラリと起ちあがったが。
そのお藤の胸中には。
はや一つの思いきった考えが、ちゃくちゃく形をとりつつあったので。
男には、恋は全部ではないかも知れない。
だが、女には、恋こそはその全生命、全生活なのです。だから、恋のため……ことに、かなわぬ恋のためには、なんでもする。とくに、お藤のような性格の女は。
と、そのとたんだった。ちょうど彼女が、何をいってるんですよ、唐人の寝ごとみたいな――と言った時。
まるで、それにヒントを得たかのように、部屋の片隅にねむりこけるチョビ安が、ハッキリした声で、寝ごとをいいました。
「お美夜ちゃん、お美夜ちゃん!――お前はどうしている。おいら、こうしていても、おめえのことばっかし思ってるぜ。オイ、お美夜ちゃん……」
子供に、恋慕のこころはありますまい。ただの友情ではあろうが、はげしくお美夜ちゃんをおもう気もちが、いまこの寝ごととなって、チョビ安の口を出たのです。
たった一声。
あとは何やらムニャムニャと、眠りながら笑っているのは、夢は荒れ野を駈けめぐり……じゃない、夢はとんがり長屋へ帰って、お美夜ちゃんに会っているに相違ありません。
その、チョビ安の寝ごとを聞いたときに、お藤姐御の胸は、しめつけられた。
思わず、ホーッともれる長いためいき――。
「あああ、子供でさえも、思う人のことを、あんなに、夢にまで口に出すのに……ほんとににくらしい情なしだ」
浴衣をかさねた丹前の裾に、貝細工のような素足の爪をみせて、凝然とたちすくんでいる櫛巻お藤、艶なるうらみをまなじりに流して、ジロッと左膳の君を見やりますと。
左膳はそれも聞こえないのか。
知らぬ顔の半兵衛で、長火鉢の猫板に巻紙をとりだし、硯に鉄瓶のしたたりを落として、左手で墨をすりはじめている。
床へはいったお藤は、胸に一物ございますから、ねるどころではありません。すぐさま、わざとスヤスヤと小さないびきを聞かせて、薄眼をあけ、じょうずな狸寝入り。
見られているとも知らず、左膳、口に筆をかんで、いやに深刻な顔で巻紙をにらんでいる。どこへやる文やら、寒燈孤燭のもと、その一眼は異様な情熱にもえて――。
おらァ、女にいちゃいちゃするのが、大嫌えだ。これが一つ……と数えたてて、左膳、あの門之丞を斬ってすてたのですけれど。
また。
こんなに真実をつくす櫛巻の姐御を、いっしょに住んでいて見向きもせず、はたの見る眼もいじらしいほど、振って振りぬいていた左膳だが。
かれといえども、べつに木製石作りというわけじゃアない。
くしまきお藤のようなタイプの女は、左膳の性にあわない。好みじゃないというだけのことで――では、どんなのが左膳の理想のおんなかといえば。
なにも理想のどうのと、そうむずかしく言うにはあたらないが、あの司馬道場の萩乃、ああいうのこそ、女の中の女というのだろうなアと、左膳、さっき月にぬれて帰る途中から、ふっとものを思う身となってしまったのです。
萩乃様を?
この丹下左膳が?
恋してる?
イヤどうも妙なことになったもので、萩乃の迷惑が思いやられますけれど、しかし、まったくのところ、どうもそうらしいんですからやむをえません。
左膳だって、惚れたの腫れたのという軽い気もちではないのだ。
さっきあの寝間ではじめて会ったときは、そうも思わなかったのだが、壺を小腋に道場を出て、ブラブラ帰るみちすがら、あの茫然と見送っていた萩乃の立ち姿は、左膳のまぶたのうらから消えなかった。いや、消えないどころか、それは、彼が強い意思でもみつぶそうとするにもかかわらず、だんだんはっきりした形をとって、今はもう、拭うべくもなく胸の底にやけついているのです。押入れのすきまから、そっとのぞいているとも知らず、机の上に二つの博多人形をくっつけて置いていた萩乃……。
あの、門之丞があらわれた時、おどろきのうちにも毅然として、ああして理のたった言葉でたしなめた萩乃――あれほどの強い、正しい、美しい女性を見たことがないと、左膳はスッカリ感心してしまったのだ。
その感心を胸にだいて帰る途中、月にいろどられ、夜のいぶきにそだてられて、いつのまにか恋ごころに変わったのを、左膳、自分でもどうすることもできませんでした。
「壺を持って出てくるおれを、白い顔に大きな眼をみはって、ジッと見送っていたっけ……」
筆の穂尖に墨をふくませながら、左膳は今、口の中にうめいた。
夜風とともに、恋風をひきこんじまった丹下左膳。
恋の奴の、剣怪左膳――。
左膳の妖刃、濡れ燕も、糸し糸しと言う心……戀の一字のこころのもつれだけは、断ちきることができないでございましょう。
イヤどうもとんでもないことになっちゃった。たった一つの眼も、恋にくらむとは、えらいことになるもので。
萩乃さんの身にとっては、門之丞という一難去って、また一難。虎が躍りでて、狼をかみころしてくれたのはいいが、こんどはその虎が、爪をみがいて飛びかかろうとしているようなもの……。
ですけれど。
恋にかけては、とっても内気の左膳なんですネ。
「なんと書いたらいいものだろうなア」
くちびるに墨をぬりながら、またつぶやいた。
これでみると、左膳のやつ、さっそく萩乃のところへ、手紙をやろうとしているらしい。
かたわらで、こけ猿の茶壺が、早くあけてくれ、早くあけてくれと、声なき声を発するがごとく――。
左膳、萩乃に心をとられて、せっかく手に入れたかんじんかなめのこけ猿を、たとえ一瞬時でもわすれたわけではございません。
それじゃア普段の左膳が泣く。
濡れ燕が、承知せぬ。
決してそういうわけじゃないんです。
ただ……さんざん世話をやかせた壺だけれど、壺に足があるわけではない。現実に、ここにこうして存在してるんだから、べつに逃げだしはいたしません。あけようと思えば、今にもあけて見られるのだから、あえていそぐにはあたらない。
まず、萩乃に一筆したためてから、ユックリあけてみるとしよう。見るまでの楽しみは大きいんですから、できるだけそのたのしみを長くしようという考え。
なんのことはない。
好きなお菓子をいただいたこどもが、すぐかぶりつけばよさそうなのに、なかなか食べないのと同じような心理で。
それよりも。
この壺の秘める密図の指示するところにしたがって、東西南北いずれにせよ、どっちみち明朝早く江戸を発足するのだから、もう当分、萩乃に会えない。
それを思うと左膳、がらにもなくちょっと暗然としちまうんです。
で。
また会う日まで……なんていうと、讃美歌みたいですが、とにかく左膳、なんとかしてあの萩乃様へ、今この心のたけを書き送っておきてエものだと――。
剣を持たせれば変通自在、よく剣禅一致ということを申しますが、わが左膳においては、剣もなく禅もなく、いわんやわれもなく、まったく空気のような、色もにおいも味もないほどの、武道の至妙境に達した男でありますが。
文はまた別。おまけに恋文。
「チッ!書けねえもんだなあ」
と、煙突掃除みたいな大髻のあたまをかかえて、長火鉢の猫板に左膳の肘を突き、筆といっしょに顎をささえて一つッきりの眼をしかめ、ウンウンうなってるところは、まことに珍妙な図。
まったく、どなたかに助けに飛びだして、書いていただきたいくらいのもので……しかし、丹下左膳のやつが、ラブレターを書く身になろうたア思わなかった。
わからないもンですネ。
「ウッ、汗をかくだけで、一字も書けねえや」
剣妖、われながらつまらない洒落をいった。
とたんに。
「何をお前さんウンウンうなってるんだい。お腹でも痛むの?」
ねてると思ったお藤姐御が、ムックリ枕から頭をあげて、皮肉なひとこと。
これには左膳も、不意の斬込みをくった以上にあわてて、
「ウンニャ、い、一首浮かんだから、わすれねえうちに書きとめておこうと思ってナ」
「オヤ、火鉢のひきだしに、一朱あったのかえ」
「ナ、何を言やアがる。寝ぼけてねえで、早くねむっちめえ、ねむっちめえ!」
「お前さんも早くおやすみよ。油がむだだわサ」
お藤はそのまま、くるりと暗いほうを向いたが――ドッコイ、ねむってなるものか。
おんしたわしき萩乃どの……左膳は一気に、ぬれ燕ならぬ濡れ筆を、巻紙へ走らせたが、すぐ、
「まずいなア」
と一本黒々と線をひいて、そいつを消してしまった。
「ちえっ、若旦那のつけ文じゃアあるめえし――」
左膳、ひとりでてれて、かわいそうに、真っ赤になっています。
いつまでたっても、少女を感動させるような名文は、できそうもありません。
すっかりくさった左膳、髪の中へ指をつっこんで、ガリガリ掻くと、雲脂がとぶ。
竹になりたや紫竹だけ、元は尺八、中は笛、末はそもじの筆の軸……思いまいらせ候かしく。
といいたいところだが、これじゃア義理にも、そんな艶っぽい場面とは言えない。
ましてや。
筆とりて、心のたけを杜若、色よい返事を待乳山、あやめも知れめ水茎の、あとに残せし濃むらさき。
なんてェのは、望むほうが無理で、色よい返事を待乳山――どころじゃアない。そのまつち山から、まず夜が明けそうです。
じっさい。
室内のどこやらに、白っぽい気がただよいそめて、今にも牛乳屋の車がガラガラ通りそう、お江戸は今、享保何年かの三月十五日の朝を迎えようとしている。
巻紙をにらむ左膳の眼ったら、まさに非常時そのものです。
とうとう、書いた。
「萩乃殿――唐突ながら、わすれねばこそ思いいださず候」
こいつはどこかでみたような文句だ。ちょいと借用したんです。
「かわいいかわいいと啼く明け烏に候」
これは自分ながら上出来だと、左膳、ニヤニヤしたものだ。
「鳴く虫よりも、もの言わぬ螢がズンと身をこがし候。さて、小生こと明日出発。埋蔵金を掘りにまいる所存、帰府のうえ、その財産をそっくり持参金として、おん身のもとへ押しかけるべく候。たのしみにしてお待ちあれ。頓首頓首」
これだけの文句です。アッサリしたもの。しかしどうもあきれたものだ。支離滅裂……右の腕も右の眼もなく、傷だらけのところは争われないもので、はなはだ筆の主左膳に似ていると申さなければなりません。左膳らしい恋文。ブッキラ棒で、ひとり飲みこみで、何がなんだかわからない。
唐突ながら――と冒頭に自分でもことわってるとおり、いかにも唐突。
これを受けとった萩乃さんは、どんなにおどろくことでしょう。二度よみかえして、ふきだしてしまわなければいいが。
たのしみにしてお待ちあれ……ナンテ、冗談じゃない。誰が楽しみにするもんか。
だがその左膳は大得意、
「うむ、われながら会心の出来だテ」
と、声にだして言いました。
そして、この手紙を見て、萩乃が胸をとどろかすであろう場面を想像して、左膳の胸もときめき、また、思わずあかくなった。ほんとに、かわいいところのある左膳、一生けんめいに書いたんですもの。
しかし、これで見ると左膳は、その柳生の埋宝を掘りだしたうえで、そいつをそのままかかえて司馬道場へ、入り婿に乗りこむ気とみえる。ますますもって容易ならぬ考えを起こしたものだ。
けれども。
そうなると、あの伊賀の暴れン坊、柳生源三郎との正面衝突は、まず、まぬかれぬところ……さっき萩乃の部屋の押入れの中で、ソッと聞けば、源三郎はもはやなきものだといったが――事実か?
左膳、源三郎を思いだして、その生死を案じわずらい、急にあわてだした。
「死んだ男から、女をとるなんてエのは嫌だなア。おい! 源三! おれがブッタ斬るまで、頼むから生きててくれよ」
と、胸のなかで大声に……。
苦笑をつづけた左膳、なおも心中ひとりごとをくりかえして、
「お前が死んで、そのおかげで萩乃をもらうなんてのは、どう考えてもおらア虫がすかねえ。なあおい、伊賀のあばれん坊ッ! おれの手にかかって生きのいい血をふくまで、後生だから生きていてくれよ。お前の命は、この濡れ燕があずかってるんだぜ。それまでア大事なからだだ。粗末にするなよ」
剣につながる、一種の殺伐な友情ともいうべきか、敵味方を超越したふしぎな感懐が、こんこんとして泉のごとく、左膳の心に……。
「あの源三郎を殺っつけることのできるやつあ、このおいらのほかにゃアねえはずだ」
しばらく考えたのち、やっと安心した体で、
「あの源三が死んだなどと、ちゃらっぽこにきまってらあナ」
あたまの中で、大声にどなった左膳。
とにかく手紙はりっぱに――あんまりりっぱでもないが……書けたんですから、明るくなるのを待って角のポストへ入れに行こうと――イヤ、ポストじゃない、チョビ安をたたき起こして、妻恋坂へ持たしてやろうと、左膳はありあけ行燈の灯かげに、ニッとほくそえんだ。
そして。
天井までとどけと、ニュッと両手を突きあげて、大きな欠伸をしました。オット、ひだり手だけです。左膳に両手があっちゃア話はめちゃめちゃだ。
それにしても。
人が両手を突っぱってあくびするところを、片手でやるんですから、なんだか信号のようで、変な欠伸の恰好だ。
そんなことはどうでもいい。
さて――。
これからソロソロこけ猿の茶壺をあけにかかろう……と、左膳は舌なめずりをして、横に置いてある壺のほうへ、膝をむけなおしました。
いよいよ壺の秘密があかるみへ――!
数百年をへた地図には、はたしてどこに財宝が埋めてあると書いてあるだろう?
中国か、山陰か、甲州路か。それとも北海道? 満洲? ナニそんなところのはずはないが、江戸でないことだけはたしかです。
どことあっても左膳は、これからすぐ旅ごしらえ、濡れつばめを供に、かわいいチョビ安の手を引いて、発足する気でいるんだ。
左手が、一番上の風呂敷にかかった。ばらり、むすびめがほどける。
いつの世、いずくの世界でも、人をして真剣ならしむる我利物欲……そのとほうもない莫大な財産が、人に知られずどこかの地中に眠っている。おまけに、今それには、柳生一藩の生死浮沈がかかり、この江戸だけでも、何十人という人間が、眼の色かえてこの壺を、いや、壺の中の秘図を必死にねらっているのだ。
古今をつらぬく黄金の力――剣魔左膳の一眼に、異様な光が点じられた。
柳生の先祖の封じこめた埋宝箇処は、いまその左膳の左眼に読みとられようと、壺の中で、早く早くと、声なくあせっているように感じられる。
夜の引き明け前には。
一度、深夜よりも森沈と、暗くものすごく、夜気の凝る一刻があるという。
今がそれだ。
気をつめ、呼吸をはずませて、箱から壺を取り出す左膳の横顔に、魔のごとき鬼気がよどんで、黒くゆがんで見えるのは、眉から口へかけての刻んだような一本の刀傷。
壺には、チャンと紅い絹紐のすがりがかかっています。その、網の目をとおしてのぞいている、壺の肌のゆかしさ! 美しさ!
さすがに伝来の名器だけのことはあると、左膳がその品格にうたれた時です。
暁の風に乗って、遠く近く、あれ! 半鐘の音が……。
「あら、お前さん、火事だよ」
とお藤が言った。夜具から首を伸ばして左膳を見た。
「うん、どうやら火事らしいナ」
左膳は生返事だ。
それどころではないのである。
すがりの網を片手でぬがせて、しずかに壺をとりだしている。
朝鮮古渡りの逸品だけに、焼きのぐあいがしっとりとおちつき、上薬の流れは、水ぬるむ春の小川……芹の根を洗うそのせせらぎが聞こえるようだと申しましょうか、それとも、雲とさかいのつかない霞の中から、ひばりの声がふってきて、足もとの土くれが陽炎を吐いている――そののどかなけしきのなかへ身も心もとけこむような気がする……。
とでもいいましょうか。
とにかく。
今このこけ猿の壺を眼の前にして、じっと見つめていると、その作ゆきといい、柄といい、いかさま天下にまたとあるまじき名品。
夢のごとき気を発散して、みる者をして恍惚とさせずにはおかないのです。
左膳のような、人斬り商売の武骨者にも、そのよさはわかるとみえまして、彼は、
「ウーム、こうごうしいものだなあ。これだけ人騒がせをしておきながら、イヤに平気におちついていやアがる。フン、なんとも癪な代物だが、ちょっと怖なくて手が出せねえような気がするぜ」
例になく左眼をショボショボさせて、口の中でつぶやきましたが、これはこの時の左膳の正直な感想でしたろう。
半鐘の音は、大きく、小さく、明け方の江戸の空気をゆすぶって、静かな池へ投げた小石の波紋のように、ひたひたと伝わってまいります。
「なんだか近いようじゃないか。ちょいと横町へ出て見て来ておくれよ」
ごそごそ起き出たお藤。寝巻に細帯をまきつけながら、じれったそうな舌打ち。
「なんだね、いつまでそのうすぎたない壺と、にらめっくらをしてるんですよ。ジャンと鳴りゃ駈け出すのが、江戸の男だわさ」
左膳はそれも耳にはいらぬようすで、
「イヤ、あらたかなもんだ。外から拝んでいたんじゃアきりがねえ。どれ、そろそろ中身を拝見するとしようか」
ひとりごちつつ、壺のふたに手をかけた。
なるほど。
耳こけ猿という銘のとおりに、壺の肩に三つある小さな耳のひとつが、欠けている。この中に、日光御修営を数限りなくひきうけてもビクともしない大財産と……イヤ、今は一藩の生命とが納められているかと思うと、この大名物がひとしお重々しく、ありがたく見えるのもふしぎはない。
その、左膳の手が壺の口にかかったのと。
かんしゃくを起こしたお藤姐御が、
「お前さん! 火事ですってのに、あの半鐘が聞こえないのかえ。男の役に、火の手がどこだぐらい見てきておくれよ」
と叫んだのと、同時だった。
おまけに。
「おい、ありゃアお前、本所の三つ半じゃアねえか。近そうだぞ」
「辰のやつア走りながら刺子を着て、もう行っちめえやがった。早え野郎だ」
「いま時分また、なんの粗相で……」
「ワッショイワッショイ、火事と喧嘩ア江戸の花でえ」
「アリャアリャアリャ!」
まるでお捕物みたような騒ぎ、
「他人の家が焼けるんだ。こんなおもしれえ見ものアねえや」
なかにはけしからんことを言うやつもある。尺取り横町の連中が、一団になってもみあいヘシ合い、溝板を踏みならして行く。
左膳は、壺へ掛けた手をそのままに、きっと戸外へ耳をやった。
チョビ安が眼をさまして、床の中から、
「父上! 火事ですね」
と、イヤにのんびりとして言った。
いったいこのチョビ安という子供は。
ふだん何ごともない時には、いつも駈けたり跳ねたり、つまずいたり、たんかをきったり、とても騒々しいあわてん坊で、一人で町内をさわがしているんだが。
今のように。
いざ地震、雷、火事、おやじ……もっとも、このチョビ安の父親は行方知れずで、それで左膳を仮りの父と呼んでいるわけだが――一朝、こういうあわてるべき場合に直面すると、逆に、変にのどかになっちまうのが常で。
皮肉な小僧だ。
「火には水という敵があります。もえてえだけもえりゃア消えやしょう。下拙はいま一ねむり……」
そんな洒落くさいことを言ってまた向うむきに夜着をひっかぶってしまった。
自分のことを下拙などと、これが七、八つの子供の言い草ですからイヤどうも顔負けです。
壺のふたを持ちあげかけた左膳の手は、そのまましばらくとまっていたが、
「おい、安公! 餓鬼ア雀ッ子といっしょに起きるものだ。やいっ、用がある。起きろっ!」
「あい、なんだい。父。起きたよ」
「起きてやしねえじゃねえか」
「耳は縦になっていても横になっていても聞こえるよ」
「アレだ。ちょっと本郷の妻恋坂へ走って、司馬道場のお嬢さんへこの手紙を渡してこい」
「なアンだ、何かくれるのかと思ったら、ちえっ、おもしろくないネ。三銭切手の代用か」
チョビ安がしぶしぶ床を出た時。
恨みをこめて、ジロリと左膳を流し見た彼女の眼には、いっぱいの涙があふれて今にも落ちそうでした。
ちょっとしらじらとした空気が、室内に流れた。
チョビ安は寝ぼけまなこをこすりながら、裏手の井戸端へ顔を洗いに、ガタピシ腰高障子をあけて出ていった。
半鐘の音はいつしかやんだようです。夜はもうすっかり明けはなれている。
あの手紙を萩乃へとどけておいて、自分はモウすぐにも埋宝個処へ旅に出ねばならぬ。
オオそうだ、こうしてはいられぬ、壺中の秘図をとりだすのが第一だった、と。
心づいた左膳が、ふたたび、こけ猿のふたに左手をのせて、その、奉書を貼りかためたふたを持ちあげようとした時だ。
「エエ町内のお方々、おさわがせ申してあいすいません。火事は遠うごぜえます。葛西領は渋江むら、渋江村……剣術大名司馬様の御寮――」
番太郎が拍子木を打って、この尺取り横町へはいってくる。
「チェッ! 火事は渋江村、ときやがら。こちとら小石川麻布は江戸じゃアねえと思っているんだ。しぶえ村とはおどろいたネ。おどろき桃の木山椒の木……」
さっき火事を見に出た隣近処の連中がガヤガヤいって帰ってくる。
じっと左膳の顔を見つめていたお藤、低声に、
「太郎冠者、あるか。おん前に……」
洒落たやつで、仇名のとおりに、櫛まきにとりあげた髪を、合わせ鏡にうつして見ながら、立て膝のまま口のなかでうたいだしたのは、長唄末広がりの一節――。
「太郎冠者あるか。おん前に。念のう早かった。頼うだ人はきょうもまた、恋の奴のお使いか、返事待つ恋、忍ぶ恋……」
恋の奴のお使いか。
返事待つ恋。
忍ぶ恋。
二度しんみりとくりかえしたお藤、返事待つ恋。
忍ぶ恋。
「馬鹿にしてるよ、ほんとに。アアア、いやだ、嫌だ」
「寝ぼけた半鐘じゃアねえか。畜生め、葛西領の火事に浅草の兄イが駈けだすなんざアいい図でおす」
なかにひとり物識りぶったのが、
「一犬虚に吠えて万犬実を伝うといってナ、小梅あたりの半鐘が本所から川を越えてこの駒形へと、順にうつって来たものとみえやす」
「あっしゃア渋江なんてえところがこのにっぽんにあることを、今朝はじめて知りやした。一つ学をしやした」
「オオ寒! なんにしても業腹だ。ひとつそこらへ放火をして、この埋めあわせをしようじゃアねえか」
ぶっそうなことを言ってゆくのは、この横町第一の火事きちがい、鍛冶屋の松公だ。
「それッてんで威勢よく飛び出したまでアいいが、どっちを向いても煙のけの字も見えやアしねえ。ワイワイいってるところへ、あの番太の野郎がヨ、まぬけた面アしやがって、エエ火事は渋江村ってふれてきやがった時にゃア、おらア彼奴の横っつらはりとばしたくなったぜ。なんでエ、なんだってもっと近えところをもやさねえんだ。あの番太なんざアなんのために町内で金出して飼っとくんだかわかりゃしねえ」
言うことが乱暴です。
みんなブツクサいってぞろぞろ家の前をひきあげてくる。
左膳は。
さっき番太郎が、火事は渋江村、剣術大名司馬さまの御寮――といったのが、妙に耳についていてはなれない。
あけかけた壺を膝もとにひきつけたまま、
「ハテ、さようなところに司馬家の寮があったのか。してみると、源三郎はもはや亡きものと、かの門之丞とやらが萩乃に言った口裏でも、その寮とやらにでもヒョンなからくりがあったのかも知れぬ。その家が今また出火とは、はてナ合点のゆかぬ……」
胸に問い、胸に答えて。
ひとり不安な気もちに浪だつ。
ふたたび、壺のほうはお留守です。
と、そのやさき、
「オウッ、父上ッ! てえへんだ、てえへんだ!」
うらの井戸ばたで顔を洗っていたチョビ安が、濡れ手ぬぐいを振りまわして駈けこんできた。
「この裏の担ぎ煙草の富さんネ、渋江のほうに親類があって、ゆうべそっちへとまったところが、今朝の火事なんですと。まろうど大権現の森ン中の、不知火流の寮だそうですよ。侍が一人焼け死んだそうで、それがあの伊賀の暴れン坊柳生源三郎てえ人だとさ。イヤモウたいそうな評判だと、いま富さんが飛んでけえってきて話していましたよ、父上」
「ゲッ、何イ?」
左膳は腰を浮かして、
「伊賀の源三が焼け死んだと?」
「ウン。富さんはくすぶる煙の中から、その死骸をかつぎ出すところを見たんだとサ」
「ちえェッ、惜しいことをしたなア」
立ちあがった左膳、貝の口にむすんだ帯をグッと押しさげ、豪刀濡れ燕を片手でブチこみながら、
「お藤ッ!」
「あいヨ」
われ関せず焉と水口の土間で、かまどの下を吹きつけていたお藤が、気のない声で答える。
プウッと火吹き竹をふいているお藤姐御、ほおをまるくしているのは、心中はなはだおもしろくないから、海豚提灯のようなふくれっつらにもなろうというもの。
「オヤ、火が消えてから火事場へお出ましかえ。火もとあらためのお役人衆みたようで、フン、乙う構えたものさネ」
と、申しました。
「おいっ!」
左膳は、お藤のつぶやきを無視して、チョビ安へ、
「本郷の道場へ手紙を持って行けといったが、取消しだっ」
「え? 文の使いはもういいのですかい、父上」
「うむ。源三郎が死んだとありゃア、おれアスッパリと萩乃を思いきる。源三が生きていてこそ鞘当てだ。死んだやつの後釜をねらうのは、俺にはできねえ」
なんのことだかわからないから、チョビ安もお藤も、ポカンとしている。
だが、チョビ安は、わからないくせに、もったいらしく小さな腕を組んで、
「ウム、死人のあとは、ねらえねえ……それでこそ父上だ。見上げたものだ」
と首をひねりながら、
「しかし父、富さんがそういっただけで、ほんとに源三郎さんてえ人が焼け死んだものかどうか、そいつはまだわからねえ」
「それもそうだナ。伊賀のあばれン坊ともあろうものが、いくら火にまかれても、そうやすやすと焼き殺されようたア思われねえ」
「これからすぐ渋江村へ――」
「安、おめえも来るか」
「あい」
「向うへ行ってみたうえで、源三郎の死んだというのが間違いとわかったら、お前その足でこの手紙を、本郷へとどけてくれナ」
「言うにゃおよぶ。源さんの生死をたしかめるのが第一だ」
チョビ安、源さんなどと心やすいことを言いながら、はや先にたって土間へ……。
ひらかれようとして、まだひらかれない壺。
手もとにある以上、あけようと思えばいつでもあけられると思ったものだから、萩乃へ恋文を書いたりして夜を明かし、いざこれからふたをとろうという時に、この火事騒ぎ――気をゆるしたわけではありませんが、早くあけて見ればよかったものを。
今はそのひまもない。
左膳は手早く壺にすがりをかぶせ、古金襴の布にくるみ、箱に入れて、風呂敷につつみました。
すっかりもとどおりにしまいこんで……チョビ安にでもさげさせて、いっしょに持って出ればよかったのに――。
「お藤、すぐけえってくる。それまでこの壺を、大事にあずかってもれえてえ。頼むぞ」
「嫌だねえホントに。どこまで水臭いんだろう。お前さんの大事なものなら、あたしにだって大切な品だろうじゃないか。なんの粗略にしてたまるものかね。安心して行っておいでよ」
「壺を押入れにでもかくして、おれがけえってくるまで家をあけねえでくれよ」
「あいサ。承知之助だよ」
萩乃へあてた手紙をふところへねじこんだ左膳、この声をうしろに聞いて、左手に濡れつばめの柄をおさえ、尺取り横町を走り出た。
チョビ安はもうドンドン先へ駈けてゆく。
その時。
駒形の大通りから、この高麗やしきの横町へきれこもうとしていた一人の屑屋。
「屑イ、屑イ! お払いものの御用は……」
縦縞の長ばんてんに継ぎはぎだらけの股引き。竹籠をしょい、手に長い箸を持って、煮しめたような手拭を吉原かぶり。
「エエ屑屋でござい――」
横町の角で、いきなり飛びだしてきた誰かに、ドシンとぶつかった。
出あいがしら……よろめきながら、
「ヤイッ、気をつけろい!」
と、威張りました。
「なんでエ、屑屋にぶつかるたア人間の屑だから、拾ってくれてえ洒落かい」
駄弁をろうして立ちなおりながら、とっさに相手を見ますと。
右眼がつぶれ、そのうえに深い刀痕の這っている蒼い顔。
右の袖をブラリとゆりうごかし左手に大刀の柄をおさえた異様な浪人者だから、今の雑言でテッキリ斬られると思った屑屋。
「うわあっ、かんべんしておくんなせえ。こ、このとおり、あやまりやす、あやまりやす」
飛びのいて、必死に掌をあわせて拝みました。
ところが。
見向きもしないその片腕の浪人は、
「おれの粗相だ。許せよ」
と、ひとことはき捨てて、案に相違、トットと通りを向うへ駈けさってゆく。
ひどくいそいでいるようす。
さきへ走る子供に追いついて、二人で浅草のほうへ一散に……。
「なアんだ、あんな侍でも、さすがにこのおれ様はこわいとみえる。あはははは、お尻に帆あげて逃げていきゃあがった。ざまア見やがれ」
いい気になって左膳のあとを見送ったのち、肩の籠を一揺りゆりあげて、
「エエ屑イ、屑イ……お払いものはございやせんか」
尺とり横町へはいっていきます。
「屑やでござい。屑イ、屑イ――」
「チョイト、屑屋さん!」
横町の中ほど、とある小意気な住居の千本格子があいて、色白な細面をのぞかせた年増があります。
何人もの男を、それでコロリコロリと殺してきたであろうと思われる切れの長い眼、髪は櫛巻き……。
それが、火吹き竹をチョット振ってよびとめ、
「壺だけれど、持っていっておくれかえ」
「ヘエヘエ、壺でも鉢でも、御不用の品はなんでもいただきやす、へえ」
「じゃ、ちょっとこっちへはいっておくれよ」
と、お藤は手の火吹き竹で土間へ招き入れた。
新世帯にうれしいものは、紅のついたる火吹き竹――なるほど、この火ふき竹にも、吹き口にはお藤姐御の寒紅がほんのりついていますけれど、うらむらくはこの左膳との生活に、それらしい新婚のよろこびは、すこしもございませんでした。
のみならず。
今は。
この壺と、壺にまつわる本郷司馬道場の誰やら、ほかの増す花に見返られて、あわれ自分はすてられようとしている――。
そう思うと、怨みと妬みにわれをわすれたお藤、この壺さえなければと考えたので。
火吹き竹も、へっついの下をふいているうちは無事ですが、ここに思わぬ渦乱の炎を吹きおこすことになるのです。
火ふき紅竹……吹かれた火は、ほんとにくれないに燃えあがるでしょう。
「これだよ。いくらでもいいから持ってっておくれ」
とお藤は、こけ猿の茶壺をとりだしてきて、じゃけんに鼻っさきへ突きだした。
受け取った屑屋、頓狂なおじぎとともに、
「ヘッ、おありがとう――と申しあげてえが、ウワア、なんて小汚え壺だ!こんなものアただもらってもいやだねえ。御新造、こいつア、いくらにもいただけやせんぜ」
「何を言ってやがるんだよ。無代より安価いものあなかろうじゃないか。あたしゃア見るのもいやなんだから、さっさと持って行っておくれヨ」
とお藤は、ピシャッとやけに障子をたてきりました。
柳生藩江戸家老、田丸主水正は象のような眼をしている。
「すると、別所信濃守は――?」
と言いさして、その細い眼で、勘定方を見やった。
珠の大きな紫檀の唐算盤を、前においた勘定方が一人、
「は。これだけ」
パチリ、パチリと、珠を二つはじいて、そろばんに二の数を見せた。
「二つか」
「は」
二両だか二十両だか、二百両だか二千両だかわかりませんが、とにかく金のことらしい。
「ふうむ」
主水正は、口をへの字にして、
「大滝壱岐守どのは?」
会計の手が、そろばんの珠を三つおく。
「三本か」
「は。ほかに、ちりめん十匹、酒五駄」
「きばったもんだナ。曾我大膳介殿は?」
そろばんがだまって答える。
「ふたつ半。きざみやがったナ」
そんな下品なことは言いません。
「記けておるであろうな」
と主水正は、かたわらの用人をかえりみた。
そばに帳面方がひかえて、そろばんに現われる数字を、いちいち帳簿に記入している。
一、秋元淡路守――三つ半、および鮮魚一盥。
一、藤田堅物――三つ、および生絹五反。
一、伊達どの――五つ、および仙台味噌十荷。
一、別所信濃守――二つ。
一、大滝壱岐守――三つ、および縮緬十匹、酒五駄。
一、曾我大膳介――二つ半。
こういう名前と、数字と、品物とが、横とじの帳面に無数につづいている。
麻布林念寺前、伊賀藩柳生対馬守のお上屋敷。
その奥庭の離室だ。午下りのうららかな陽が、しめきった障子に木のかげをまばらにうつして、そよ風に乗ってくる梅の香。
どこかに、笹啼きのうぐいすが聞こえる。
藩侯柳生対馬守は、まだお国もと柳生の庄にいる。江戸のほうを一手にきりもりしているのは、この田丸主水正老人である。
いまこの室内に、人を遠ざけて何ごとか秘密の帳合いをしているのは、その主水正と、そろばん係が一人、記入方がひとり、三人きりだ。
「これでだいたい終わったと思うが――うむ、桜井豊後守は?」
主水正はそろばんをのぞきこんで、
「六つ。ほほう、伊達公の上ではないか。えらくまた――桜井豊後、六つ」
「は」
帳面方が答えて、
一、桜井豊後守――六つ。
と書き入れていく。
「もう、来るべき筋はすべて来たようだ。きょうあたり締め切りにしようではないか」
こういって主水正が二人を見かわすと、そろばん係が、そろばんをがちゃがちゃとくずして、
「ただいまのところでは、別所信濃様が最低……」
記入係が筆をなめて、
「石川左近将監殿からは、まだ――」
「ほ! 石川どのは、まだだったかな」
この主水正の声と同時に、障子のそとの小縁に、前髪立ちの取次ぎの影がさして、
「御家老さまに申しあげます」
「なんじゃ」
「ただいま、石川左近将監様より御使者が見えまして――」
「来た、来た」
主水正は笑って、
「噂をすれば影じゃ。お広書院にお通し申しておけ。二つの組かな? それとも三つ半は出すかな……」
と、たちあがった。
石川左近将監の使者は、竹田という若い傍用人であった。
石川家の定紋、丸に一の字引きを染めぬいた、柿色羽二重の大ぶろしきに、何やら三方にのせた細長いものをそばにひきつけて、緊張した顔で広書院にすわっていた。
田丸主水正は、主君対馬守のお代理という格式で、突き袖をせんばかり、そっくりかえってその部屋へはいっていくと、竹田は、前に出ていた天目台をちょっと横へそらして、両肘を角立てて、畳をなめた。
平伏したのだ。
「これは、御家老田丸様……いつも御健勝にて、何よりと存じまする」
「アいや、そこは下座。そこでは御挨拶もなり申さぬ」
と主水正は、袴のまちから手を出して、床の間のほうへしゃくるような手つきをした。
「どうぞ、どうぞあちらへ――」
「は。今日は、主人将監のかわりでござりますれば、それでは、失礼をかえりみませず、お高いところを頂戴いたしまする」
および腰のすり足、たたみの縁をよけて、ツツツウと上座になおった竹田なにがしが、
「実は、主人将監が自身で参上つかまつるはずで、そのしたくのさいちゅう――」
いいかけることばを、主水正は中途からうばって、
「いや、わかっております。そのおしたくのさいちゅう、この二、三日ことのほかきびしき余寒のせいか、にわかに持病の腹痛、あるいは頭痛、あるいは疝気の気味にて、外出あいかなわず、まことに失礼ながら貴殿がかわって御使者におたちなされたと言われるのでござろう」と、くすぐったそうなふくみ笑い。
竹田はポカンとして、
「そのとおり。よくごぞんじで。手前の主人のは、その頭痛の組でございます」
「伊達様と、小松甲斐守殿と、そのほか頭痛組はだいぶござった。イヤ、どなたの御口上も同じこと。毎日毎日おなじ応接を、いたして、主水正、ことごとく飽き申したよ」
まったく、それに相違ない。この十日ばかりというもの、一日に何人となく諸国諸大名の使いが、この林念寺前の柳生の上屋敷へやってきて、さて、判で押したような同じ文句をのべて、おなじような贈り物をさしだす。
もうすっかりすんだころと思ってきょう締め切ろうと、ああして総決算にかかったところへ、また一人、この石川家の竹田がやって来たというわけなので。
「ははア、さようでございましょうな」
と竹田は、感心したような、同情したような顔をしたが、このままでは使いのおもてがたたないので、ピタリと畳に両手を突いてやりはじめた。
「このたびは、二十年目の日光東照宮御修営という、まことに千載一遇のはえある好機にあたり……」
「ちょ、ちょっとお待ちを。お言葉中ながら、二十年目の千載一遇というのは理にあい申さぬ。強いて言おうなら、二十年一遇でござろう。これも私は、七十六回なおしました。貴殿で七十七人目だ」
「イヤどうも、これは恐れ入ります。なるほど御家老の仰せのとおりで――その二十年一遇の好機にあたり、御神君の神意をもちまして、御当家がその御造営奉行という光栄ある番におあたりになりましたる段……」
「はい。あれは、にくんでもあまりある金魚めでござったよ。いっそ、石川殿の金魚が死ねばよかったに」
「いえ、とんでもない! 桑原桑原……エエどこまで申しあげましたかしら。そうそう、御当家がその御造営奉行の光栄ある番におあたりになりましたる段、実もって慶賀至極、恐悦のことに存じまする。これが戦国の世ならば――」
途中で暗記でもしてきたらしく竹田某、ペラペラとやっている。
「もしこれが戦国の世ならば」
と、竹田は、一気につづけて、
「上様の御馬前に花と散って、日ごろの君恩に報い、武士の本懐とげる機会もござりましょうに、かように和平あいつづきましては、その折りとてもなく、何をもってか葵累代の御恩寵にこたえたてまつらんと……いえ、主人左近将監は、いつも口ぐせのようにそう申しております。ところで、このたびの日光大修営、乱世に武をもって報ずるも、この文治の御代に黄金をもってお役にたつも、御恩返しのこころは同じこと。ましてや、流れも清き徳川の源、権現様の御廟をおつくろい申しあげるのですから、たとい、一藩はそのまま食うや食わずに枯れはてても、君の馬前に討死すると同じ武士の本望――」
「いや、見上げたお志じゃ。よくわかり申した」
来る使いも、来る使いも、この同じ文句を並べるので、主水正、聞きあきている。
「いえ、もうホンのすこし、使いの口上だけは、お聞きねがわないと、拙者の役表がたちませぬ――まことに、この日光おなおしこそは、願ってもない御恩報じの好機である。なんとかして自分方へ御用命にならぬものかと、それはいずれさまも同じ思いでございましたろうが、ことに主人将監などは、そのため、日夜神仏に祈願をこらしておりましたところ……」
主水正は、そっぽを向いて、
「何を言わるる。口はちょうほうなものだテ。祈願は祈願でも、なかみが違っておったでござろう。どうぞ、どうぞ日光があたりませぬように、とナ」
この言葉を消そうと、竹田なにがしは大声に、
「主人将監は、将軍家平素の御鴻恩に報ゆるはこの秋、なんとかして日光御下命の栄典に浴したいものじゃと、日夜神仏に祈願、ほんとでござる、水垢離までとってねがっておりましたにかかわらず、あわれいつぞやの殿中金魚籤の結果は、ああ天なるかな、命なるかな、天道ついに主人将監を見すてまして、光栄の女神はとうとう貴柳生藩の上に微笑むこととあいなり……」
「コ、これ、竹田氏とやら、よいかげんにねがいたい。あまり調子に乗らんように」
「その時の主人将監の失望、落胆、アア、この世には、神も仏もないかと申しまして、はい、三日ほど床につきましてござります」
「厄落し祝賀会の宿酔いでござったろう」
「文武の神に見放されたかと、その節の主人の悲嘆は、はたの見る眼もあわれで、そばにつかえる拙者どもまで、なぐさめようもなく、いかい難儀をつかまつりました」
「どれもこれも、みな印刷したような同じ文句を言ってくる。そんなにうらやましいなら、光栄ある日光造営奉行のお役、残念ではあるがお譲り申してもさしつかえない、ははははは」
「イヤ、とんでもない! せっかくおあたりになった名誉のお役、どうぞおかまいなくお運びくださるよう――さて、今日拙者が参堂いたしましたる用と申しまするは……」
「いや、それもズンと承知。造営奉行の籤がはずれて、はなはだ残念だから、ついては、その組下のお畳奉行、もしくはお作事目付の役をふりあててもらいたい、と、かように仰せらるるのであろうがな」
「は。よく御存じで――おっしゃるとおり、二十年目の好機会を前にして、この日光御修理になんの力もいたすことができんとは、あまりに遺憾、せめてはお畳奉行かお作事目付にありつきたく、こんにちそのお願いにあがりましたる次第」
言いながら竹田は、定紋つきの風呂敷につつんだ細長いものを、主水正の前へ置きなおして、
「石川家伝来、長船の名刀一口、ほんの名刺代り。つつがなく日光御用おはたしにあいなるようにと、主人将監の微意にござりまする。お国おもての対馬守御前へ、よろしく御披露のほどを……」
あらためて、平伏した。
田丸主水正は、ひややかな顔で、
「はあ、刀一本。で、それだけですか」
ろこつなことを訊く。
「悪魔払いの名刀。それに添えまして……イヤ、どうぞあとでおひらきになって、ごらんください。ついてはただいまおねがい申しあげたお畳奉行か、ないしはお作事目付の件、なにとぞ当藩にお命じくださいますよう、せつに、せつに、なにとぞお命じくださいますよう……」
なにとぞお命じくださいますよう――と、いやにここへ力を入れて、何度もくりかえした。
くすぐったそうな顔を、主水正はツルリとなでて、
「では、日光に何か一役お持ちになりたいとおっしゃるので。それはそれは、ちかごろ御奇特なことで」
「はっ。おそれいります。お口ききをもちまして、何分ともに、日光さまに御奉公がかないますよう……」
そう言いながら、竹田はそっと顔をあげて、すばやく片眼をつぶった。
丹下左膳の片眼じゃアない。こいつはウインクです。
ウインクは、なにも、クララ・ボウあたりからつたわって、銀座の舗道でだけやるものと限ったわけじゃアない。
享保の昔からあったとは、どうもおどろいたもので――この石川左近将監の家来竹田某は、日本におけるウインクの元祖だ。
そのウインクを受けた田丸主水正、なにしろわが国ではじめてのウインクですから、ちょっとまごまご、眼をぱちくりさせてしばらく考えていたが、やがてその意をくんだものか、これもさっそく、キュッとウインクを返した。
「心得ました。必ずともに日光お役の一つを、石川殿に受け持っていただくよう、骨をおるでござろう。しかしそれも、この包みのなかみ次第でナ」
と、ニヤニヤしている。
もうすっかり、話の裏が通じたとみてとって、竹田はホット安心の体、
「いや、この品は、ほんの敬意を表するというだけの意味で」
彼はそう言って、その贈り物をもう一度、主水正のほうへ押しやった。
敬意を表する……便利な言葉があったものです。百円札の束をぐるぐると新聞紙にくるんだり、思い出してもゾッとするような五月雨が、ショボショボ降ったり――イヤ、そんなことはどうでもいい。
この間から、全国諸侯の使者が、踵を接してこの林念寺前の柳生の上屋敷をおとずれ、異口同音に、日光御修営に参加させてくれとたのんでは、競って高価な進物を置いてゆく。その品物の中には、必ず金一封がひそんでいるので。
その真意は。
これを献上するから、日光造営奉行の下のお畳奉行やお作事目付は、どうぞごしょうだからゆるしてくれ……という肚。
早く言えば、日光のがれの賄賂だ。早くいっても遅くいっても、賄賂は賄賂ですが。
主水正のほうでも、それはよッく承知していて、一番進物の額のすくない藩へ、この、人のいやがる日光下役をおとしてやろうと、今、全部の藩公からつけとどけのあつまるのを待って、きょうあたりボツボツ締め切ろうかと思っていたところだ。それが、最後の五分間になっても、こうしてまだやってくる。
お向うの林念寺の坊さんなどは、訳を知らないから、柳生様では大名相手のお開帳でもはじめたのかと、おどろいている。
竹田は、そのまま帰るかと思うと、
「いや、ここまでは使いの表」
と、ちょっと座を崩して、低声に、
「ときに――例のこけ猿は、みつかりましたかな?」
おどろいたことに、こけ猿の一件はモウだいぶ有名になってるとみえる。
「例のこけ猿の茶壺は、もはや見つかりましたか」
と竹田がきいた。こけ猿事件がこんなに有名になっているとは、おどろいたものだが、それよりも、もっとおどろいたことには……。
きかれた田丸主水正。
さぞかし大いにあわてるだろうと思いのほか。
この時主水正、すこしもさわがず、すまして手をたたいたものです。
「品川の泊りにて、若君源三郎様が紛失なされたこけ猿の茶壺、ちかごろやっと当家の手に返り申した。ただいまお眼にかけるでござろう」
「お召しでございましたか」
十六、七の小姓が、はるかつぎの間へきて、手をついた。
「ウム。こけ猿をこれへ」
「はっ」
お小姓は顔をうつ向けたまま、かしこまって出ていった。
柳生では、こけ猿の茶壺という名器が行方不明のために、その壺の中に封じこめてある先祖の埋宝個処がわからず、日光お着手の日を目前に控えて、ほとほと困却の末、藩一統、上下をあげて今はもう狂犬みたいに逆上している――という、目下、大名仲間のもっぱらの噂である。
竹田もこの評判を耳にしていたので、いま帰りぎわに、ちょっと、同情三分にからかい七分の気もちできいてみたのだが……世上の取り沙汰とちがって、今その壺は、チャンとこの柳生の手におさまっている――という返事。
ハテナ、と、竹田が首をひねると、主水正はにこにこして、
「だいぶ世間をおさわがせして、申し訳ござらぬが、実は、最近ある筋から、こっそり壺を返してまいりましてナ」
「ははア。それは何より結構でございました」
と竹田は、四角ばってよろこびをのべたが、内心とてもがっかりしている。
近いうちにきっと一騒動持ちあがるに相違ないと、ひどいやつで、おもしろい芝居でも待つように、人の難儀をこころ待ちしていたのだが、壺がこっちへ返ってしまえば、柳生は一躍たいへんに裕福な藩。日光なんかジャンジャン引き受けたって小ゆるぎもしない。さぞ苦しがって今に暴れだすだろうと思っていたのが、これじゃアさっぱりおもしろくないから、竹田の失望は小さくございません。
さっきのお小姓が、ふるびた布につつんだ箱をささげて、はいってきた。
主水正はイヤに緊張した顔で、うやうやしく受けとり、
「これです。この壺に関して、とかく迷惑なうわさの横行いたす折りから、御辺がおたずねくだすったのは、何よりありがたい。一つ、御辺を証人として、無責任なごしっぷを打ち消すために、壺をごらんにいれよう」
「ぜひ」
と竹田は乗りだす。
そんなに乗りださなくっても、これはどこから見ても、誰が見ても、まったくこけ猿の茶壺に相違ない。じつに不思議なこともあればあるもので、主水正が、上の布を取りのぞくと、時代がついてくろずんだ桐の箱が出てきた。その箱のふたをとれば、あかい絹紐のすがりがかかって、そのすがりの網の目を通して見える壺の肌は、さすがに朝鮮古渡りの名器、焼きのぐあいといい、上薬の流れあんばいといい、たとえば、芹の根を洗う春の小川のせせらぎを聞くようだと申しましょうか。それとも、雲と境のつかない霞の奥から、ひばりの声が降ってきて――。
いかさまこけ猿の銘のとおりに、壺の肩のあたりについている把手の一つが、欠けている。
「ウーム!」
竹田がうなった。
「いや、たいしたものですなア」
石川左近将監殿家臣、竹田なにがし、煙にまかれたように、すっかり感心して帰ってゆくと、主水正はその壺をしまいだしたが、とり出す時の、あの、いかにも名品を扱うような、注意深い態度とうってかわって。
このしまい方の乱暴さは、どうだ!
こけ猿の壺をひっつかまえて、ぶつけるようにすがりをかぶせる。そいつを、まるで裏店の夫婦喧嘩に細君の髪をつかむように、グシャッとつかんで、ぽうんと箱へほうりこむ。
グルグルっところがしながら風呂敷につつんで、――さて、主水正、またぽんぽんと手をならした。
出てきたのは、竹田を送り出して玄関から帰ってきた小姓だ。
「壺を見せたら、おどろいて帰りましたね。当藩はたいそうな金持になったと思ってるんだから、笑わせますね。こんな貧的な藩はないのに」
「コレコレ、よけいなことを申すな。しかし、この壺はよくできてるなア」
「じっさい、こけ猿にそっくりでございますね。よくもこう似せられたものですね」
「こいつを見せると、みな恐れ入って引きさがるからふしぎだ。こうやって、こけ猿は柳生の手に返ったと宣伝しておいて、その間に、一刻も早く真物を見つけださねばならぬ」
「何ごとも宣伝の世の中ですからね」
「くだらぬことを申さずに、この壺をその床の間へかざっておけ。客の眼につくようにナ。まだ来ない大名もあるから、きょうは一時に殺到するかも知れん」
小姓の手で、にせ猿の壺は、うやうやしく床の間の中央に安置された。とりどりの噂ありたるこけ猿は、かくのごとく、まさに、たしかに、当柳生家にもどり申し候。したがって当藩は、日光などお茶の子サイサイの大富豪に御座候。今後そのおつもりにて御交際くだされたく候……なんかと、さながら、そう大書してはりだしたように、その床の間のにせ猿が見えるのでした。
「今この竹田の持ってきた刀の包みを、向うへもっていけ」
小姓が、その長いやつをかかえて、勘定方と記録係のひかえている、あの庭の奥の離室へはこんでゆく。
ところへ。
別の取次ぎが顔を出して、
「御家老へ申しあげます。一石飛騨守様のお使いがお見えになりましてござります」
「おお、壺をかざったところでちょうどよかった。こちらへ」
一石飛騨守の使いというのは、まるまるとふとった男だった。はいってくるとすぐ、床の間の壺を見て、ひどくおどろいたようすだったが、持ってきた何やら大きな贈りものをさしだして、口上をのべはじめた。
「エエこのたび、柳生対馬守さまにおかせられては、二十年目にただ一度めぐりきたる光栄のお役、権現様御造営奉行におあたりになりましたる段、慶賀至極、恐悦のことに存じたてまつります。云々」
「どうつかまつりまして」
「それ戦国の世においては、物の具とって君の馬前に討死なし、もって君恩に報いたてまつるみちもござりまするなれど、うんぬん――」
「この治国平天下の時代には」
主水正が、ひきとった。
「せめては日光様のお役にあいたち、葵累代の御恩の万分の一にもむくいたいと、御主君一石飛騨守どのはなんとかして日光御造営奉行に任じられますようにと、日夜神仏に御祈願……」
「ハイ、そのとおりで」
「水垢離までおとりなされて――」
「おや、よくごぞんじで」
「それが柳生へ落ちてまことに残念だから、せめてはお畳奉行かお作事目付にでも……」
主水正、大きな欠伸をした。
……といったようなわけで、一石飛騨守の使者が、
「ぜひとも、ぜひとも、日光お役の一つを、わたくしどもへお命じくださいますよう、平に御容赦、イエ、せつにお願いつかまつりまする」
と、なんだかシドロモドロのことを言って、でかでかとした大きな贈り物を置いて、帰りじたくをしながら、
「ちょっとうかがいますが、あれなる床の間にかざってございますのは、あれは、こけ猿の茶壺で……?」
「はア。さようです。だいぶ世話をやかされましたが、ちかごろやっと手にもどりました次第」
「それはそれは、結構でございましたなあ。ヘエエ! あれが有名なるこけ猿。なんともお見事なる品で――もうこれで、お家万代でござりまするな。いや、おめでとうございます」
そこへ、また取次ぎの者があらわれて、
「エエ御家老様、堀口但馬守様からお使いの方がおみえになりまして……」
「ウム、こちらへ」
「では、拙者はこれにてごめんを」
飛騨守の家来、あわてて帰っていく玄関への廊下で、入れちがいにはいってきた堀口但馬の臣と、擦れちがい、
「イヤどうも」
「イヤどうも」
双方でバツのわるい挨拶。
飛騨守の使い、相手の手にある進物の包みを、ちらと横眼に見て、ナニ、おれのほうがだいぶ大きい、この分だとのがれられるワイと、安心して出てゆく。
座になおった堀口但馬守お使者は、
「このたびは名誉ある日光御造営奉行におあたりになりましたる段、実もって祝着至極」から始めて、これが戦国の世ならば――主人堀口但馬は神仏に祈願――水ごり――せめてはお畳奉行かお作事目付に……。
「これはホンの名刺がわり」
と何やらお三方に乗せた物を押しすすめて、
「さて、チョッと伺いますが、あれはこけ猿――?」
「御家老様へ申しあげます。井上大膳亮様のお使いがおみえになりまして」
「千客万来、みな来ると困るなり」
なんて口の中で言いながら、田丸主水正、ひどくいい気もちそうだ。
井上大膳亮の臣、
「このたびは名誉ある……これが戦国の世ならば……神仏に祈願……水垢離……せめてはおたたみ奉行……これはほんのおしるしで。ところで、あれが有名なるこけ猿で?」
「御家老、山脇播磨守さまのおつかい……」
つぎ――宇都木図書頭。
つぎ……岡本能登守。
つぎっ! お早く願います。こみあいますから中ほどへ。これじゃアなんの話だかわからない。
この柳生の上屋敷の前は、各大名の使者にくっついてきた供の者、仲間、折助たちで押すな押すなの混雑。豆大福を売るおばあさんや、焼鳥屋の店が出て、顎紐をかけたお巡りさんが整理にあたっている。
主水正の若党儀作は、下足番で、声をからしています。
「エエろの十六――ろの十六。おうい、一石飛騨守様のお供ウ、お帰りだぞウッ」
なんて騒ぎ。
門前には、近所の人たちがぎっしりひしめいて、
「いま出てきたのは、河骨菱の御紋だから、堀口但馬様の御家臣だ」
「オ! 三つ追い揚羽の蝶がへえってゆく。宇都木さまだぜ。絵のような景色だなア」
その夜。
深夜の十二時をもって、賄賂の受付を締め切りました。
「いや、どうも、えらいめにあった」
田丸主水正は、そう言って、くたくたになって、奥庭の離れへもどってきた。
離室には、灯がはいって、勘定方と記入係の二人が、そろばんと帳面を前に、ぽつねんと待っていた。
「だいぶ押しかけましたな、締め切りまぎわに」
と、そろばんが言った。
「いまひととおり調べましたが、やっぱりどうも、別所さまの二つというのが、最低のようで」
帳面が、そうそばから言葉をそえた。
「まったくひどいめにあった。ドッコイショッ!」
家老の威厳もうちわすれて、主水正はそこへ、くずれるようにどっかりすわって、
「あの、石川殿の用人、竹田とやらがまいった時から、ずっとすわりつづけで、脚がもうしびれてしもうた。やれやれ」
「すこしおもみいたしましょうか」
「いや、それにはおよばぬ。しかし、驚いたなあ。きょうになって、こんなに来ようとは思わんかった。一時に、ドッときたよ」
「こう申してはなんですが、内証のくるしい方々は、持っていらっしゃる金子のくめんにお困りになって、それでこうギリギリおしつまるまで、のびのびになったのでございましょう」
「そうとみえる。同じ文句を聞かされて、嫌になってしまった。どうしてああ来るやつも来る奴も、寸分たがわぬことをいうのじゃろう。まるで相談してきたようじゃぞ」
帳簿とそろばんは、声をあわして笑った。
「それにまた、あのにせ猿の茶壺をかざっておくことは、この際、いかにもよい思いつきじゃったテ。みながみな、言いあわしたようににせ猿に眼をとめては、結構なお品だの、これで柳生はたいそう金持の藩になったじゃろう、だのとナ、口々に祝いをのべて帰りおったぞ。冷や汗が流れた、ハッハッハ」
「それにつけましても」
と、うれいのこもる眉をあげたのは、そろばんでした。
「一刻も早く、ほんもののこけ猿を手にいれねば……」
「まったく。かくなるうえはなおのこと、こけ猿を見つけ出すが刻下の急務」
と、帳面も、肩を四角にしてりきむ。
「わしから一つ、高大之進に厳重に督促するとしよう」
主水正は、決然としてうなずいたのち、
「サ、ではやってしまおうか」
「は。それではこれで、いよいよ締め切りに……エエ石川左近将監どのより、四つ。ほかに、長船の刀一口。一石飛騨守様より五つ半、および絹地五反。堀口但馬さまより――」
一、堀口但馬守様――七つ。
一、井上大膳亮殿――四つ。ならびに扇子箱。
一、山脇播磨守どの――三つ半。砂糖菓子。
一、宇都木図書頭さま――六つ。
一、岡本能登守様――八つ。
なんて調子に、記入方がひかえていく。その、横綴じの長い帳面の表には「発願奇特帳」とある。みんな日光に一役持ちたいと、口だけは奇特な発願をたてて、表面どこまでも、そのための献金なんですから。
「ホホウ、八つというのが出たナ。はじめてだな」
主水正は、うれしそうです。
「いえ、四、五日前にきた赤穂の森越中様のが、やはり八つでした」
「じっさい、三つや四つで日光下役を逃げようてエのは、虫がよすぎるからなア」
と、主水正、だんだん下卑たことを言いだす。
「しかし、これだけ賄賂があつまれば、当藩はだいぶ助かる。では、一番けちな別所信濃へ、畳奉行をおとしてやるとしようか」
発願奇特帳……皮肉な名前の帳面が、あったもんです。
先方が願を立てて、奇特な申し出をしてくる。そのなかで、もっとも進物のたかのすくないやつに、ねがいどおり望みをかなえてやる――。
「ところで、お作事目付は、誰にもっていったものかな」
と、主水正、その発願奇特帳をペラペラとめくりながら、
「サテと、藤田監物の三つかな」
そろばんが、そばから口をだして、
「山脇播磨様も三つ――」
「いや、そうじゃない」
帳面が、訂正した。
「播磨守殿は、三つ半じゃ」
「三つ半なら、秋元淡路守様も三つ半」
「ウム、ここに大滝壱岐守、三つというのがある」
「サアテ、藤田監物殿の三つと、壱岐守様の三つと、どちらをお取りになりますかな?」
主水正は、またしばらく黙って、はじめからおしまいまで、もう一度発願奇特帳をていねいにめくってみた。やがて、とっぴょうしもない大声をあげて、
「ヤア! 何も迷うことはない。ここに、二つと四分の一という、いやにこまかいやつがあるぞ」
「誰です、四分の一などと、変てこなものをくっつけたのは」
「小笠原左衛門佐どのじゃ」
「ア、あの横紙破りの――」
と、言うと三人は、声をあわせてどっと笑いくずれたが、主水正はすぐ真顔にかえり、
「では、これできまった。小笠原左衛門佐殿に、お作事目付を押しつけてやるのじゃ」
あれほど大騒ぎをした日光御造営奉行組下の二役も、ここにやっと決定を見ましたので、主水正は、記入係に命じて、いそぎ二通の書状をつくらせた。その一つには、
「お望みにより名誉あるお畳奉行の御役、貴殿におねがいつかまつり候
別所信濃守殿」
そして、もう一つの手紙には、別所信濃守殿」
「せつなるみ願いにより、日光お作事目付、貴殿にお頼み申しあげ候。何分、子々孫々にいたるまで光栄のお役ゆえ、大過なきよう相勤めらるべく候
小笠原左衛門佐殿」
それぞれ、二通を状箱にふうじて納めた主水正は、即刻、儀作ともう一人の若党をよんで、同時に別所、小笠原の二家へ、とどけさせることになった。二つの提灯が、この林念寺前柳生の門から飛びだして、左右へすたこら消えて行く。小笠原左衛門佐殿」
各大名の家では、今夜は夜明かしで、柳生の締め切りの結果を待っています。自分のところでは、あれだけもっていったのだから、まずどっちものがれることができるだろうと、どこでもそう思っていると、小石川第六天の別所信濃守の門を、柳生家の提灯が一つ、飛びこんできた。と思うと、さしだされた状箱を奥の一間で、重役らがひたいをあつめて、心配げに開いてみる。
「ワッ! 畳奉行が当家へ落ちた。いや、これはありがたい」
「ほんとうですか。イヤ、なんという名誉なことじゃ」
「光栄じゃ」
名誉だ、光栄だと、口では言いながら、みんな青菜に塩としおれかえって、ベソをかいている。
「なんじゃい、このざまはっ!」
奥庭の離室から、この、剣士の一隊の寝泊りしている屋敷内の道場、尚兵館へやってきて、真夜中ながら、こう大声にどなったのは、田丸主水正だ。
「まるで、魚河岸にまぐろが着いたようじゃないか」
主君柳生対馬守の御筆になる、「尚兵館」の三字の額が、正面の一段小高い座に、かかっている。
広い道場の板の間に、薄縁を敷きつめ、いちめんに蒲団を並べて寝ているのは、こけ猿の茶壺を奪還すべく、はるばる故郷柳生の郷から上京してきた高大之進の一隊、大垣七郎右衛門、寺門一馬、喜田川頼母、駒井甚三郎、井上近江、清水粂之介、ほか二十三名の一団――だったのが、左膳を相手のたびたびの乱刃に、二人、三人命をおとして、今は約二十人の侍が、こうしてこの林念寺前の柳生の上屋敷内、尚兵館という道場に寝泊りして、相変わらず、日夜壺の行方をさがしているのです。
今は真夜中……昼間の捜索につかれた一同は、蒲団をひッかぶって寝こんでいる。
いや、もう、南瓜をころがしたよう。
ひとの蒲団へ片足つっこんだり、となりの人の腹を枕にしたり、時計の針のようにぐるぐるまわって、ちょうどひと晩でもとの枕に頭がかえる……ナンテのはまだいいほうで。
なかには。
道場のこっちはしに寝たはずのが、夜っぴて旅行をして、朝向う側で眼をさます。などという念のいったのもある。
血気さかんの連中が、合宿しているのだから、その寝相のわるいことといったらお話になりません。
重爆撃機の編隊が押しよせてきたような、いびきの嵐です。
歯ぎしりをかむもの、何やら大声に寝ごとをいう者。
発願奇特帳の総決算を終わった田丸主水正は、こけ猿のことを思うと、いても立ってもいられなかった。
朝になるのを待てずに。
今。
庭つづきのこの尚兵館へ現われて、ああ呶号したのだったが、誰一人起きる気配もないので。
主水正は、また一段と声を高め、
「おのおの方ッ、こけ猿の所在がわかり申したぞっ!」
武士は轡の音で眼をさますというが、伊賀侍は、こけ猿というひとことで、みないっせいにガバッと起きあがった。
「こけ猿が? どこに? どこに?――」
「われわれがこんなに血眼で捜索しても、とんと行方の知れぬこけ猿が、ど、どうしてこの真夜中――?」
はるか向うの一段高いところに、静かに床をはねてすわりなおしたのはこの一団の長、高大之進です。柳生一刀流の使い手では、一に藩主対馬守、二に伊賀の暴れん坊こと源三郎、三、安積玄心斎、四に高大之進といわれた、その人であります。
「身支度せい」
と、ことばすくなに部下へ言っておいて、主水正へ、
「シテ、壺はいずこに?――」
薬がききすぎたので、主水正はあわてて、
「いや、その所在がわかったわけではないが、いよいよ一刻も早く、わからんと困ることにあいなったのじゃ。諸君も御承知のとおり、日光造営の日は、時の刻みとともに近づく一方……のみならず、このこけ猿の件は、諸藩のあいだに知らぬ者もなきほど……」
「諸藩の間に、誰知らぬ者もなきほど有名になっている。で、先般来、造営奉行の下役なるお畳奉行と、お作事目付にありつきたいと言って――」
田丸主水正、道場のはしに立って、寝間着の一群へ向かって演説をはじめた。
皆ゴソゴソ起きあがって、ねぼけた顔をならべている。
「ヘン、日光組下にありつきたいんじゃアなく、なんとでもしてのがれたいの一心でござろう」
誰かが弥次を飛ばした。
「ウム、言ってみれば、マア、そのとおり……で、各大名の使いが数日来、当屋敷につめかけたことは、諸君も知ってであろう。そいつらが、異口同音にこけ猿のことをきくので、拙者もつらくなってな。そこで一策を案じ、こけ猿によく似た駄壺をさがしだして、耳を一つ欠き、にせ猿の茶壺ということにして飾っておいたのじゃ。この計略は図にあたり、みなもうこけ猿は、当藩の手にもどったものと思って、喜びをのべて行ったが、わしの心苦しさはます一方じゃ。もはやいかなる手段をつくしても、まことのこけ猿を手に入れねばならぬ」
「いや、その儀なれば、御家老のお言葉を待つまでもなく……」
喜田川頼母が、腕をボリボリかきながら言いだすのを、主水正は叱咤して、
「おのおの方は、いったい何しに江戸表へこられたのじゃっ! 大宝を埋めある場処をしめした秘密の地図、その地図を封じこめたこけ猿の茶壺、その壺を奪還せんがためではござらぬかっ。しかるに、毎日、三々五々、隊を組んで市中見物を――」
「あいや! いかに御家老でも、その一言は聞きすてになりませぬ」
起ちあがったのは、憤慨家の井上近江だ。
「われわれ一統の苦心も買われずに、何を言われるかっ!」
轟々たる声が、四方から起こって、
「相手の正体がはっきりわかってこそ、吾人の強味が発揮される。古びた壺一個、この八百八町に消えてしまったものを、いかにして探しだせばよいか、拙者らはその方策に困じはてておる始末」
「のみならず、寸分たがわぬ壺が、あちこちにいくつとなく現われておるし……」
「これと思って手に入れてみれば、みな偽物」
「御家老も、そのにせ猿を一つ作られたというではないか、ハッハッハ」
「田丸様、こんな厄介なこととは、夢にも思いませんでした」
「毎日毎日あてどもなく、江戸の風にふかれて歩くだけで、どこをどう手繰っていけばよいやら……」
ワイワイというのを、高大之進は、
「弱音をはくなっ!」
と、一言に制して、
「とは言いますものの、田丸先生、拙者も、一同とともに泣きごとを並べたいくらいじゃ。かようなややこしい仕事は、またとなかろうと存ずる」
主水正は声をはげまし、
「さようなことを申しておっては、はてしがない。君公のおためじゃ。藩のためじゃ。日限をきり申そう。むこう一ト月の間に、是が非でも、こけ猿を入手していただきたい」
「ナニ、むこう一ト月のあいだに?」
そう、大之進がききかえしたとたん、主水正をおしのけるようにして、道場の入口から駈けこんできた二人の人影……安積玄心斎と谷大八が、あわてふためいた声をあわせて、
「若君源三郎様は、コ、こちらにまいっておいでではないか」
玄心斎の茶筅髪はくずれ、たっつけ袴は、水と煙によごれたところは、火事場からのがれてきた人と見える。
この二人は、本郷の司馬家に押しかけ婿として、がんばっているはずの伊賀の暴れん坊にくっついて、この不知火道場に根拠をさだめ、別手にこけ猿をさがしてきたのだが……。
その、師範代玄心斎と大八が、深夜このただならぬ姿で、どうしてここへ?
と、口ぐちにきく一同の問いに答えて、
源三郎が急に思いたって、向島から葛飾のほうへと遠乗りにでかけ、門之丞の案内で、不安ながらもお蓮様の門をたたくと、思いがけなくお蓮さま、峰丹波の一党が、数日前からそこにきていた――。
殿にも膳部がはこばれ、自分達も別室で、夕食の馳走になっている時、となりの部屋からヒソヒソ声でもれてくる奸計のうちあわせに驚いて、この二人と門之丞が戸外の藪かげで乱闘の開始を待っているうちに、
月のみ冴えて、源三郎にたいする襲撃は、なかなかはじまらない。
ふと気がつくと、いっしょにいた門之丞の姿がないが、今にもここへ源三郎をおびきだして、峰丹波らが、討ちとろうとしていると信じこんでいる二人は、そんなことなどにかまってはいられない。
「早鳴る胸をしずめ、夜露にうたれて、ひと晩中その木かげにひそんでおったが……」
玄心斎の言葉を、谷大八がうけとって、
「何事もない。まるで、狐につままれたようなものじゃ。で、安積の御老人をうながして、いま一度寮へ立ち帰ろうとすると!」
その時、寮のどこかに起こった怪火は、折りから暁の風になぶられて、みるみるうちに、数奇をこらした建物をひとなめ……。
「われら二人ではいかに立ち働いたとて、火の消しようもなく……」
「シテ、峰丹波の一党は?」
「それがふしぎなことには、火事になっても、どこにもおらんのじゃ。まるで空家が燃えたようなもの」
「それで、源三郎様は?」
この問いに、二人はぐっと声がつまり、うちうなだれて、
「火がしずまってから、御寝なされたお茶室と思われるあたりに、壺をいだいた一つの黒焦げの死体が、現われましたが」
「ナ、何! 若殿が御焼死?」
一同はワラワラと起ちあがって寝るまもぬがぬ稽古着の上から、手早く黒木綿の着物羽織に、袴をはき、それぞれ両刀をたばさんで、イヤモウ戦場のような騒ぎ。
「御師範代をはじめ、三人も手ききがそろっておられて、なんということを……」
「いや、その門之丞は、途中からふっといなくなったので――」
「ウム、門之丞があやしい。で、貴殿らお二人は、ここへくる途中、本郷の不知火道場へお立ちよりになりましたか」
「いや、その黒焦げの死骸が、源三郎様でなければよいがと、いろいろ調べたり、また丹波らの行動がいかにも不審なので、そこここ近処をたずねたりいたし、心ならずも夜まで時をすごして、とにかく、当上屋敷へ真一文字に飛んでまいったわけ……」
伊賀侍の一団は、みなまで聞かずに、おっ取り刀で屋敷をとびだした。眠る江戸の町々に、心も空、足も空、一散走りに、お蓮様の寮の火事跡をさして……。
人の話を聞いても、さっぱりわからないんです。
なんでも、明け方、この寮の四方八方から、一時に火が起こって、あっと言うまにあっけなく燃えちまったという。
それだけのこと。
誰も人の住んでいるようすはなかった。さながら、がらんどうの家から火が出て、そのまま焼け落ちたようなものだが、ただ、老人と若いのと、見なれない侍が二人、何か主人の安否でも気づかうふうで、近くの村々の火消しとともに、あれよあれよと走りまわって、消防に手をつくしていたが。
そして。
焼け跡から、まっくろになった死骸が一つ、何やら壺のような物をしっかり抱きしめたまま、発見された……というのが、駒形のお藤の家から駈けつけた丹下左膳が、まだ余燼のくすぶる火事場をとりまいている人々から、やっとききだし得た情報の全部でした。
「その死骸は、どうしたのだ?」
きかれた人々は、異様な左膳の風態におどおどして、
「へえ、火消しどもが、その死骸をかつぎだして、わいわい言っているところへ、なんでも、火元改めのえらいお役人衆の一行がお見えになって、その死人をごらんになり、ウン、これはたしかに、綽名を伊賀の暴れん坊という、あの柳生源三郎様だと、そう鑑別をしておいででした」
左膳はギックリ、
「ナニ、役人がその死骸を見て、柳生源三郎だと言ったと?」
相手の町人は、揉み手をしながら、
「ヘエ、伊賀の暴れん坊ともあろう者が、焼け死ぬなどとはなんたる不覚……そうもおっしゃいました。はい、あっしはシカとこの耳で聞いたんで……」
「そうすると、やっぱり、伊賀の暴れん坊は死んじゃったんですねえ」
そばからチョビ安が、口を出す。
蝶々とんぼの頭に、ほおかぶりをし、あらい双子縞の裾をはしょって、パッチの脚をのぞかせたところは、年こそ八つか九つだが、装と口だけは、例によっていっぱしの兄イだ。
左膳はそれには答えずに、
「ふうむ。寮の者ははじめから、一人も火事場にいなかったというんだな?」
「ヘエ、なんでもそういうことで」
その源三郎の死体らしいのが、壺をしっかり抱いていたというのが、左膳は、気になってならなかった。
壺……といえば、こけ猿の壺のことが頭に浮かぶ。こけ猿はいま自分が、お藤に預けて出てきたのだから、こんなところにあるはずはないけれど――。
なおもくわしくきいてみようとして振り返ると、もうその町人は、向うへ歩いていっていた。
寮は見事に焼けてしまって、周囲の立ち樹も、かなりにそばづえをくい、やっと一方の竹林で火がとまっているだけ。暗澹たる焼け跡に立って、ここが源三郎の落命のあとかと思うと、左膳は、立ち去るに忍びなかった……なんとかして、その源三郎の死骸てエのを、一眼見てえものだが。
「フン、くせえぞ」
この火事そのものに、機械があるような気がしてならない。左膳は、左手で顎をなで、頭をかしげて考えこむ。チョビ安も、左手で顎をなで、頭をかしげて考えこむ。なんでもチョビ安、父左膳のまねをするんです。
好敵手……いつかは雌雄を決しようと思っていた柳生源三郎。
かれの一刀流、よく剣魔左膳の息の根をとめるか。
または。
相模大進坊濡れ燕、伊賀の暴れん坊にとどめをさすか――?
たのしみにしていたその相手が、むざむざ卑怯な罠にかかって、焼け死んだと知った左膳の落胆、その悲しみ……。
同時にそれは、自分から、ただ一つの生き甲斐をうばった峰丹波一味への、焔のような怒りとなって、左膳の全身をつつんだのだった。
「畜生ッ!――星の流れる夜に、いま一度逢おうと刀を引いて、別れたきりだったが……」
と左膳、焼け跡に立って、悵然と腰なる大刀の柄をたたいた。
「やい、大進坊、お前もさぞ力をおとしたろうなア」
「アイ、おいらもこんなに力をおとしたことはねえ」
まるで刀が口をきいたように、そばからチョビ安が、こう言った、そのことばに、左膳ははじめてわれに返ったように、
「安、丹波の一党は、どこかこの近くにひそんでいるに相違ねえ。これからお藤の家へ帰って、壺の中身をあらためたが最後、旅に出なくちゃアならねえからだだ。そうすれあ二月、三月、埋宝の場処によっては二年、三年、江戸に別れをつげなくちゃあならねえ。発足前にとっくりと、源三郎の生死をたしかめてえものだが――」
「うむ。そんならねえ、父、あすの朝までこの辺をウロウロして、それとなくあたってみようじゃあねえか」
このチョビ安の提案に、同意した左膳は、その、寮の焼け跡から近くへかけて、まるで岡っ引きのように木の根、草の葉にも心をそそいで、歩きまわっているうちに……。
その日は、終日埃っぽい風がふきすさんで、真っ黒にこげた焼け跡の材木から、まだ立ちのぼっている紫の煙を、しきりに横になびかせていた。
宏壮……ではなかったにしても相当な建物だったのが、一夜のうちに焼け落ちて見る影もない。残っているのは土台石と、台所の土間に築いたへっついだけ。雲のゆききにつれて、薄陽が落ちたり、かげったりしながら、早くも夜となりましたが、左膳とチョビ安の姿は、黒い壁のような闇がおそってきても立ち去ろうとしなかった。
蕭条たる屋敷跡に、思い出したようなチョビ安の唄声が、さびしくひびく。
どこかに源三郎が生きているような気がして、それを見つけだすまでは、左膳はどうしても、この場をはなれることができなかったのです。
どこかに。
そして、この近くに。
「やい、安公、つるぎの恋人の源三郎をとられて、おらあ、この隻眼から、涙が出てならねえんだ。今夜だけは、そのかなしい歌をうたわねえでくれよなア」
「ウム、そうだったねえ。ほんとの父やおっ母は、行方知れずでも、あたいには、こんな強い父ちゃんがあるんだったねえ」
焼け残りの材木に腰かけて、ぽつねんと考えこんでいた左膳、とうとう焼け跡に一夜を明かして、やっとあきらめて起ちあがった時!
朝靄の中から、突如人声が生まれた。
「向うの辻のお地蔵さん
ちょいときくから教えておくれ
あたいの父はどこへ行た
あたいのお母どこにいる――」
ちょいときくから教えておくれ
あたいの父はどこへ行た
あたいのお母どこにいる――」
「ナニ、源三郎様にかぎって、さような死をおとげなさるはずはない」
「それにしても、陰謀の巣へ、単身お乗りこみになったとは、いささかお考えが浅うござったワ」
「腕に自信がおありだったから、かえって危険を招くことにもなる」
乳のような濃い朝霧をわけて、息せききってここへ駈けつけてきたのは、安積玄心斎と谷大八の注進によって、麻布上屋敷の尚兵館をあとにした伊賀侍の一団。
麻布から向島のはずれまで、たいへんな道のりです。
高大之進、井上近江、喜多川頼母ら、四、五人の頭株は、途中から辻駕籠にうち乗り、他の者はそれにひきそって、朝ぼらけの江戸を斜かいにスッとんできたのだから、明けやらぬ町の人々はおどろいて、何事が起こったのかと見送っていた。
客人大権現に近く……。
司馬寮の焼け跡にころがるように行きついた一同。
「アッ! またあの、隻眼隻腕の侍が!」
と、誰かが指さす方を見やると。
奥座敷だったとおぼしいあたりに、大小二つの人影が、ヌッと並び立っている。
駕籠をおりたった高大之進は、部下をしたがえて左膳へ近づきながら、ニヤニヤして、
「よく逢うな、貴公とは……いつぞや、あの駒形のなんとかいう女芸人の家で、その子供の生命とひきかえに、にせの壺のふたをあけて以来――」
「ウム、ひさしぶりだ」
あのときの斬りあいで、丹下左膳の腕前は十分に知っているから、高大之進もゆだんをしない。うちつづく同勢へ、チラチラと警戒の眼を投げながら、
「シテ、貴公がどうしてここへ?」
「源三郎に会いに来たのだ」
「その源三郎様は焼死なされたと聞いて、われらかくあわてて推参いたしたわけだが」
「死んだ源三郎にしろ、生きている源三郎にしろ、伊賀の源三に会わねえうちは、おれは一歩もここをどかねえつもりだ」
チョビ安は左膳のうしろにせまり帯につかまって、とりまく伊賀の連中を、かわいい眼でにらみまわしている。
高大之進はつめよるように、
「こけ猿の壺をさがしもとめて、われらは毎日江戸の風雨にさらされておる始末。また源三郎さまは、婿入り先の司馬道場の陰謀組のために、今この生死もさだまらぬおんありさまじゃ。これと申すも、みな、其方ごときよけいなやつが、横合いから飛びだして、壺を私せんとしたため」
「おいおい、それは話がちがうぞ。源三郎がここで火事にあったのは、かれのかってだ。壺は、強い者が手に入れるだけのこと。おれは何も、じゃまだてしたおぼえはねえ」
「言うなッ! 貴様は壺の所在をぞんじておろう。ここであったがもっけの幸いだ。一刻もあらそう壺の詮議……ありかを知っておったら言えっ。まっすぐに申しあげろっ!」
「なんだ、それは。へたな八丁堀の口真似か――ふむ。こけ猿の所在は、まったくこの丹下左膳が承知しておる。いや、壺はおれの手にあるのだ。が、むろん、お前らに渡してやるわけはねえ」
「よしッ、きかぬ。それ、おのおの方……」
時日はせまる、壺はわからぬ、上役にはせきたてられる……で、自暴自棄になっている高大之進、いきなり、抜いたんです。
同時に。
尚兵館の若侍たちは、一時にパッと飛びのいて、遠巻き……。
その手に、一本ずつ秋の流水が凝ったと見えるのは、一同、早くも抜きつれたのだ。
「理不尽!」
口のなかでうめいた左膳は、左手で、ちょっとチョビ安をかばいながら、顎を突きだし、顔を斜めにして高大之進を見やった。
その鼻先にドキドキする高大之進の斬っ尖が、ころあいをはかってヒクヒク突きつけられている。
ニヤリと笑った左膳だ。
「フム。そんなにおれを斬りてえのか、おい! そ、そんなにこの左膳の血を見てえのかっ」
と、ひとことずつせりあがるように、
「イヤサ、どうでも手前らは斬られてえのだな。ウム? 死にてえのだナ?」
くぎるように言いながら、そっと左右に眼をくばった剣妖左膳、ものうそうに欠伸まじりに、
「血迷ったな、伊賀侍ども。よしっ、相手になってやるっ!」
言葉の終わらぬうちに、足をひらいた左膳、ツと体をひくめたかと思うと、腰をひねって流し出した豪刀濡れ燕の柄! たっ! と音して空につかむより早く……。
「洒落くせえっ!」
正面の敵、高大之進はそのままにしておいて。
白いかたまりのように、横ッ飛びに左へ飛んだ丹下左膳は、その左剣を、抜き放ちに後ろへ払って。
折りから――。
左膳をめがけて跳躍にうつろうとしていた大垣七郎右衛門の脾腹を、ななめに斬りさげた。
血飛沫たててのけぞる七郎右衛門の武者袴に、時ならぬ牡丹の花が、みるみるにじみひろがってゆく。
青眼の構えよりも、すこしく左手を内側に締めこんで、剣尖をややさげ、踏みだした左の膝をこころもち前のめりにまげて、立ったまま、一眼をおもしろそうに笑わせて立っている。
焼け野の鬼……。
何しろ、おそろしく足場がわるいんです。焼けた梁や板、柱の類が累々とかさなっているその一つへ、痩せさらばえた片足をチョンとかけて、四方八方前後左右へ眼をちらす丹下左膳……見せたい場面です。
「一人っ!」
その時、ほがらかな声がひびいたのは、チョビ安が、そう大きく数えはじめたのだ。
のんきなやつで、チョビ安、手に一本の小さな焼け棒ッ杭をひろって、包囲する伊賀勢の剣輪をもぐってかこみの外へ走りぬけた。
鬼神のような左膳の剣技にどぎもを抜かれて、一同は、子供などにはかまっていない。
チョビ安はやすやすと、地境に焼け残っている土蔵の横へ駈けつけた。
そして、くすぶった白壁に、一と大きく数字を書きつけました。
左膳が一人ずつ斬りたおすそばから、チョビ安はここで記録をつける気とみえる。どうも洒落たやつで。
左膳は?
と見ると。
令嬢萩乃の寝部屋で、脇本門之丞が真っぷたつになっていたのだから、司馬道場の人たちは、おどろいた。
師範代玄心斎、谷大八とともに、源三郎にくっついていったはずの門之丞が、どうして一人だけここに……?
萩乃は、死者を傷つけるがものもないと、やさしい心やりから、
「姓は丹下、名は左膳とかいう、隻眼隻腕の怖らしい浪人者が、こけ猿の茶壺をねらって、深夜忍びこんできたのを、折りからひとりかえったこの門之丞が、とりおさえようと立ちむかったため、この最期――」
と、真相はおのれの小さな胸ひとつにのんで、うまく言いつくろったから、源三郎の家来どもは、口々に、
「さすがは門之丞殿だ。身をもって萩乃さまをかばったとは、見あげたおこころ……若殿がお聞きなされたら、どんなに御満足に思召すことか」
「それにしても、丹下左膳という妖怪が、また出たとは、おのおの方、ゆだんがならぬぞ」
左膳、すっかり化け物あつかいだ。
「こっちもこけ猿を探しておるのに、そのこけ猿をさがしに入りこむなんて見当がはずれるのであろう」
「なんにしても、門之丞どのはお気の毒なことをいたしたテ」
「われらさえ眼がさめたらなア……さだめし激しい斬りあい、物音もいたしたであろうに、白河夜船とは、いやはや、不覚でござったよ」
同僚の忠死をいたむ伊賀ざむらい。門之丞の死骸は、二つになった胴をつなぎあわせ、白木綿でまいて、ねんごろに棺におさめ、主君源三郎の帰りを待つことになった。
これやそれやの騒ぎで、その日一日は、はやくも暮れてしまう。
これは、源三郎の婿入りにつきしたがって、柳生の庄から江戸入りしている一団だ。
十方斎先生なきあとの司馬道場にがんばって、居すわりの根くらべをしている連中。
林念寺前の上やしきなる尚兵館の、あの高大之進の一派と呼応して、江戸の巷にこけ猿を物色しているのだ。
居直り強盗というのはあるが、これは、居なおり婿のとりまきである。
あくまでも萩乃の婿のつもり、すなわちこの道場の主人の格式で、乗りこんできている源三郎は、この荒武者どもをひきつれて、道場の一郭に陣どり、かって放題の生活をしていたのだ。
庭に面した座敷を、幾間となくぶちぬいて、乱暴狼藉のかぎり。
剣術大名といわれたくらい、富豪の司馬様だから、りっぱな調度お道具ばかりそろっている。それをかたっぱしからひきだしてきて、昔から名高い薄茶の茶碗で、飯をかっこむやら、見事な軸へよせ書きをして笑い興じるやら……それというのも、こうでもしたら司馬家のほうから、今にも文句がでるかという肚だから、これでもか、これでもかといわんばかり、喧嘩を売ってきたのだ。
もてあました峰丹波とお蓮様、このうえは源三郎をおびきだして、ひと思いに亡き者にするよりほかはないと、門之丞をだきこんで、ああして葛飾の寮へひきよせたのだった。
その、伊賀の暴れん坊源三郎、とうとう彼らの策に乗り、今は真っくろこげの死体となった――?
ともしらぬ一同は、その日も帰らぬ源三郎を案じながらも、門之丞のことなどあれこれと話しあって、その晩は早く寝についた。
すると、ちょうど明け方近くだった。
彼らの寝ている部屋のそと、しめきった雨戸ごしの庭に、ヒヒン! とふた声、三声、さも悲しげな馬のいななきが聞こえた。
水の流れもとまるという真夜中すぎに、馬のなき声である。
五十嵐鉄十郎という人が、いちばん敷居際の、縁に近いところに寝ていた。
そのいななきを耳にして、最初に眼をさましたのは、この五十嵐鉄十郎だった。
「はてな……」
と、彼は身をおこした。
「若殿の御帰館かしら。それにしても、この深夜に――」
轟ッと立ち木をゆすぶり、棟をならして、まっ暗な風が戸外をわたる。さながら、何かしら大きな手で、天地をかきみだすかのよう……。
ひとしきり、その小夜あらしが走って、ピタとやんだのちは、まるで海底のような静かさだ。
なんのもの音も聞こえない。
枕から頭をあげていた五十嵐鉄十郎は、
「空耳?――だったに相違ない。今ごろこの奥庭で、馬のなき声のするはずはないのだから」
とそう、われとわが胸に言いきかせて、ふたたびまくらに返ろうとした瞬間、こんどこそは紛れもない馬のいななきが、一声ハッキリと……。
「殿ッ! お帰りでござりまするか」
思わず大声が、鉄十郎の口をにげた。
と、となりに寝ていた一人が、眼をさまして、
「なんだ、どうしたのだ」
「しっ!」
「ホ、この庭先に、何やら生き物の気配がするではないか。うむ! 馬だな」
それに答えるかのように、戸外では、土をける蹄の音が、断続して聞こえる。
今は躊躇すべきではない。五十嵐鉄十郎ともう一人の侍は、力をあわせていそぎ雨戸をくってみると、――もう、空のどこかに暁の色が流れそめて、物の影が、自くおぼろに眼にうつる。
裏木戸を押しやぶって、はいってきたものに相違ない。雨戸の外、庇の下に、ヌウッと立っていたのは一頭の馬だ。
それが、戸のあくまももどかしそうに、長い鼻面を縁へさしいれた。おどろいた鉄十郎と相手は、顔をみあわせて、しばし無言だった。
馬は、口をきけないのがじれったいと言わんばかりに、頸をふり、たてがみをゆすぶって、何やら告げたげなようすである。
じっと見ていた五十嵐鉄十郎がうめいた。
「おう、これは、殿の御乗馬では……!」
「うむ! たしかにそうだ。源三郎様は、此馬にめされて、遠乗りに出られたはず」
「今この馬が、こうして空鞍でもどったところを見ると――」
「若殿のお身に、何か異変が……」
「これ! 不吉なことをいうでない」
とどろく胸をおさえて、二人は、互いに眼の奥をみつめあった。すると、馬はここで、ひとつのふしぎなことをしたのだった。
馬は動物のなかで一番利口だといわれている。この馬は、源三郎の愛馬で、故郷伊賀からの途中も、駕籠でなければこの馬にまたがり、しじゅう親しんできたものだった。
あの、司馬十方斎先生の葬儀の日に、不知火銭の中のただ一つの萩乃さまのお墨つきをつかんで、源三郎が首尾よく邸内へ押しこんだ時も、かれのさわやかな勇姿を支えていたのは、このたくましい栗毛の馬背であった。
今この馬のつかれきったようすで見ると、司馬寮の焼ける時、厩につながれていたのが、火をくぐってぬけだし、主人のすがたを求めてひかれるように江戸へ立ちかえったものの、本郷への道を思い出せずにあちこちさまよい歩いたあげく、やっと今たどりついたものらしい。
馬がふしぎをあらわしたというのは、この時いきなり、何を思ったものか、鉄十郎の寝巻の袂をくわえて、力をこめて庭へひきおろしたのだった。
五十嵐鉄十郎の寝間着の袂をくわえて、馬は、ぐんぐん庭へひっぱりおろす。
「ウム、これはいよいよ若殿のお身に……」
そのまも馬は、早く乗ってくれというように、からだを鉄十郎のほうへすりよせるのだった。
「これはこうしてはおられぬ。刀をとってくれ」
渡された刀を帯するより早く、鉄十郎はヒラリと馬にまたがった。
もうその時は、一同は起きいでて、上を下への騒ぎになっていた。
「何ッ、源三郎様のお馬が、帰ってきたと?」
「畜生のかなしさ、口をきけぬながらも……」
「何か一大事を知らせにきたものに相違ない」
「かわいいものだなア」
「殿は、あの馬をかわいがっておられたからな」
「そんなのんきなことを言っておる場合ではない。サ、したく、したく」
言われるまでもなく、皆もう用意をすまして、パラパラッと庭へ飛びおりると、
「鉄十郎殿はどうした」
「馬はどこにおる」
「鉄十郎を乗せて、ドンドン駈けていってしもうた」
「ソレ行け。見失うな」
ほのぼのと朝の色の動く司馬道場の通用門から、一隊の伊賀侍が、雪崩をうって押しだした。
見ると。
庭の柴折戸をやぶって飛びだした源三郎の愛馬、五十嵐鉄十郎を乗せたまま、砂煙をあげて妻恋坂を駈けおりていく。
一同はこけつまろびつつづいたが、先が馬ではすぐはぐれてしまう。気のきいたのが、自分たちも司馬家の馬小屋から、四、五頭ひきだしてきて、馬で後を追った。徒歩の者は、道みち駕籠を拾ってつづく。
騎馬の一人が連絡係となって時どき引っ返してきては、駕籠に方向を知らせておいて、また先頭に追いつく。
戞々たる馬蹄の音が、寝おきの町を驚かせつつ、先駆の五十嵐鉄十郎の馬は、いっさん走りに向島を駈けぬけて、やがて葛飾へはいり、客人大権現の森かげなる司馬寮の焼け跡へついた。
馬というものは、おぼえのいいもので、帰りはむだ道一つせず、主人を思う一心から、ちゃんと火事跡へ駈けつけたのだ。
来てみると、鉄十郎は二度びっくりしなければならなかった。
一面に焼け木の横たわる惨澹たる屋敷跡に、今し激しい斬りあいが始まっているではないか。
こけ猿の探索に、かねて邪魔を入れている丹下左膳という隻眼片腕の浪人者が、左手に長剣を握って、焼け跡の真ン中にスックと立っている。
とりまく面々は、上屋敷にいる同藩の高大之進の一党。
「おのおの方、援軍到来!」
大声にさけびながら、鉄十郎は馬をおりた。
ほかの騎馬の侍もかけ着いて手早く刀の目釘を湿す。おくれて駕籠や徒歩の連中もみな到来した。伊賀勢は、ここに思わぬ大集団となったのである。
もう乱軍だった。
二重三重の剣輪が、ギッシリ左膳をとりまいている。こうなってはいかな左膳でも、空を翔け、地にもぐる術のない以上、一本腕のつづくかぎり、斬って斬って斬りまくらねばならない……。
「ウフフ、枯れ木も山のにぎわいと申す。よくもこう木偶の坊がそろったもんだ」
刀痕の影深い片ほおに、静かな笑みをきざませて、左膳は野太い声でうめいた。
「この濡れ燕は、名代の気まぐれものだ。どこへ飛んでいくかわからねえから、そのつもりで応対しろよ」
女物の長襦袢が、ヒラヒラ朝風になびく左膳の足もとに、すでに二、三の死骸がころがっているのは、そのくせの悪い濡れ燕に見舞われた、運の悪い伊賀者だ。
「皆あせってはならぬぞ。遠巻きにして、つかれるのを待つのじゃ」
高大之進の下知に、とりまく剣陣はすすまず、しりぞかず、ジッと切尖をそろえて持久戦……。
人あってもしこの場を天上から眺めたならば――。
まるでシインと澄みきってまわっている独楽のように見えたことだろう。
中央の心棒に白衣の一点、それをとりまいて、何本もの黒い線。
めんどうと見た左膳、
「さわるまいぞえ手を出しゃ痛い……伊賀の源三さえいてくれたら、手前ッチも、もっと気が強かろうがなあ。にらみあいでは埓があかねえ。そっちからこなけりゃあ、こっちから行くぞっ!」
ニヤリと笑いながら、右へ片足。
その右手の伊賀の連中、タタタと二、三歩あとずさりする。
「静かなること林のごとし……なるほど柳生一刀流の妙致だ。いつまでたってもジッとしているところは、フン見あげたものだ」
と左膳、またふくみ笑いとともに、左へ一歩。
右手の伊賀侍が、そろりそろりと後ろへ退く。
剣神ともいうべき丹下左膳の腕前を見せられて、もうこの連中、すっかり怖気づいているのだ。
「めんどうだっ!」
叫んだ左膳、濡れ燕を大上段にひっかぶり、まるで棒をたおすように、正面の敵中へ斬りこんでいった。
縦横にひらめく濡れ燕。鉄と鉄のふれあうひびき。きしむ音、おめき声、立ち舞う焼け跡の灰。
その灰けむりのおさまったあとには、ふたたび水のように、つめたく静まりかえった丹下左膳の蒼い顔と、青眼にとった妖刀濡れ燕と……。
そして。
またもやそこここに三人の伊賀侍が、一人は膝をわりつけられて、立ちもならず、
「あっ痛ゥ!」
と、這いながら焼け灰をつかむ。その、苦痛にゆがむ顔のものすごさ!
もう一人は、肩先をやられて、片手で傷口をおさえながら、のたうちまわっている。三人目は、どこをやられたのか、あおむけにたおれたまま、血の池の中でしずかに眼をつぶろうとしている。
「三人!」
チョビ安の大声がした。この乱闘の場をすこしはなれた焼け残りの土蔵の横に、チョビ安、焼けた棒で、土蔵の白壁へしるしをつけながら、
「父上ッ! 〆めて九人……!」
早朝から、空の大半は真っさおに晴れて、焼け跡のすぐそばを流れる三方子川の川づらを、しずかになでてくるさわやかな風。
だが。
人の膚をつきさすような、ジリジリした日光には、もうどこやら初夏の色がまじって、川水一面、金の帯のように照りはえている。
寮の前の往来の片側に、長くつづいている客人大権現の土塀から枝をのばした樹々のしげみが、かげ涼しげにながめらるるのだった。
平和なのは、この自然の風景のみ。
真っ黒な焼け跡には、いまし全伊賀勢を相手に、丹下左膳の狂刃が、巴の舞いを演じているのである。
いま言った土塀の上に。
近処の者や、通りすがりの人の顔がズラリと並んで、
「オウ、由や、見ねえな、講釈のとおりじゃアねえか。足をジリジリ、ジリジリときざませて、両方から近よっていくところなんざア、すごい見物だぜ」
「あの片手の侍は、よっぽど腕がたつと見えるぜ。取り巻えてる連中の、ハッハッハという息づかいが、ここまで聞こえてくるようだ」
「ソラ、一人うしろへまわったぞ」
「刀を下段にかまえて……ソレ、しのびよっていく、しのびよっていく」
「ああ、おれはもう見ちゃアいられねえ」
と気の弱いひとりが、たまらなくなって眼をふせる。
「ほんとだ。あいつもバッサリやられるにきまってらあ」
この言葉が終わるか終わらぬかに、塀の上に並ぶ見物人一同、ワアッと歓声をあげた。
見るがいい!
前へ斬りこむと見せて、そのままあとへはらった左腕の左刀、うしろざまに見事にきまって、背をねらってしたいよっていた伊賀侍、ガッと膝をわりつけられてのめってしまった。そがれた白い骨が、チラリと陽に光って露出する。一、二、三、四、五と、五つ数えるほどのまをおいて、はじめてドッと血がふきでるのだった。
塀の上に並ぶ顔は、いっせいに眼をふさいで、
「すげえもんだなア!」
「オウ、見ろ、見ろ! よほど苦しいとみえて、土をつかんでころがりまわっているぜ」
「侍は、どうでエ、ニヤニヤ笑って、血刀をさげたまま、右に左に歩きまわっている。あいつはおっそろしく度胸がすわっているのだなア」
「イヨウ、剣術の神様!」
「人斬り大明神!」
「待ってましたアッ!」
「大統領ッ!」
人間の顔が、首から上だけ塀の上にズラリと並んで、割れるような喝采だ。通りかかった人が、この斬りあいにみんな塀の中へ逃げこんで、首だけのぞかせてながめているのだ。
甘酒屋のお爺さんが、赤塗りの荷箱をおっぽりだして、塀のかげへ走りこんだかと思うと、すぐその顔が築地塀の上に現われた。
「この時木曾殿はただ一騎、粟津の松原へ駈けたもう。喚き叫ぶ声、射ちかう鏑の音、山をうがち谷をひびかし、征く馬の脚にまかせつつ……時は正月二十一日、入相ばかりのことなるに、薄氷は張ったりけり――」
のんきなお爺さんで、軍談もどきに平家物語の一節。
三方子川の川べりへ、糸をたれようと、釣竿をかついでやってきた若い男。
これも、この乱闘に胆をつぶして、竿をかついだまま塀の中へ飛びこみ、人を押しのけて顔を出そうとすると、
「オイオイ、あとから来て、このいい場をとろうてエ手はねえだろう。ここは特等席だ」
なんて言うやつもある。
一同は、すっかり芝居でも見物する気で、ワイワイ声をかけるやら、大声に批評するやら、たいへんな騒ぎ。
それでも、左膳の濡れ燕が、また一人ズンと斬りさげたりすると、いっせいに顔をひっこめて……桑原、桑原!――南無阿弥陀仏――こわいもの見たさで、いつまでも立ち去らない。
「また一人!」
チョビ安が大声にさけんで、土蔵の白壁に焼けぼっくいでしるす記録の線が、一ぽんふえていく。
「ヤアまた一人……これで十三人だ! 父上、しっかり頼むぜ」
レコード係と応援団を、チョビ安、ひとりでひきうけている。
見物はことごとく喜んじまって、
「小僧ッ、そらまた一人だぞ!」
「十三人じゃアねえ、十四人じゃあねえか」
「オウイ、あそこにころがってるのを数えたかよウ?」
四戒ということを言う。
恐れ、驚き、疑い、迷う……これが剣道の四戒。
技と理合とは、車の両輪、鳥の両翼。その一方を欠けば、その効は断絶される。技は面に表れる形であり、理合は内に存する心である。技と理合がともにある境地に達すれば、心に思ったことがただちに技となって表現するのだ。
が、これはまだ未熟のうち。
左膳のごとき達人になれば、技と理合も、内も、外も、いっさい無差別。すべては融然と溶けあって、ただ五月雨を縫って飛ぶ濡れ燕の、光ったつばさあるのみ。
何も考えなしに行っている業こそは、自然と理合に適ってくるのである。
考えて行うのではない。
また行って考えるのでもない。
天地の理法に、行と心の区別はないので。
剣心不異というのは、まことにここのことである。
だから、そこへ、今の四戒の一つが兆しでもしたら、もうそれだけでも浮き足だつにきまっている。
いかにすれば勝てるか……などということを考えない丹下左膳、濡れ燕のとぶがまま、思いの赴くにまかせて、斬ってきって斬りまくった彼は、相手方が一人ふたりずつ数の減ってゆくのを、意識するだけだった。
けれど。
大将株の高大之進を討たねば、なんにもならぬ――そう気がつくと同時に。
左膳、とっさに一眼をきらめかして、大之進の姿をさがしもとめた。
と、乃公のでる幕は、まだまだと言わぬばかり……大之進も相当の人物で、乱陣の場をすこしはなれた路傍の切り株に腰をおろし、大刀を杖にだいて、ジッと左膳のようすに眼をこらしている。
「オイ、お前の番だぜ」
左膳のネットリした声。
「父ちゃん! 一騎討ちだ」
チョビ安が叫んだ。
「では、未熟ながら、お相手いたそうかな」
高大之進はそう言って、焼け跡のわきの切り株にかけていた腰を、あげた。
「助太刀はゆるさぬぞ」
と彼は、不安気に見まもる伊賀の勢へ、チラと眼をやった。
「かんじんのこけ猿は、いまだに行方不明。日光御着手の日は、目睫の間にせまっておる。申し訳にこの大之進、腹を切らねばならぬところだ。一人で切腹するよりは、この化け物に一太刀でもあびせて……」
ひとりごとのようにうめきつつ、静かに雪駄をぬいで、足袋跣足になった大之進は、トントンと二、三度足踏みをして、歩固めをしながら、
「だが、どうせおれの生命はないものだ。高大之進は、いまこの隻眼隻腕の浪人に討たれるのだ。骨を拾ってくれよ」
言ったかと思うと彼は、スラリ一刀をひきぬいて、左膳のほうへ歩みだした。
捨て身になるとおそろしいもの。
刀をまじえようとするよりも、まるで、このままスパリと斬ってくれとでもいうように、左膳の前へ進んで行く大之進。
何か相談事があって、話に出かけていくような態度だ。
これをむかえた左膳は、いささかかってがちがって、濡れ燕の斬っ尖ごしに、きっと大之進をみつめて無言。
大之進の一刀と、濡れ燕と、ふたつ斬っ尖のあいだがみるみるせばまって、チチチと二本の刃物のふれあうひびき……と! サッと二人は前後にわかれた。
相正眼――。
塀の上の見物人も、もう駄弁をろうするどころではない。
シーンと静まり返ったなかに、すぐそばを流れる三方子川の水音が淙々、また淙々……。
胴を打つ技は、姿勢がくずれやすい。
むずかしい業だ、胴は。
下腹の力をぬいてはならぬ。撃つ時には、十二分の力を剣にこめねばならぬ。背と腰を、竹のごとくまっすぐに伸ばしてうたねばならぬ。撃ったあとは、左の拳が腹の前方にあって、右腕と左腕とが交叉するように、手を返さねばならぬ。左手をひくこと、右面をうつ場合のごとし――。
高大之進、一気に左膳の胴をねらって、剣を大きく振りかぶり、ソロリ、ソロリと、右足から踏みだした。
左足が、きざむようにこれにともない、双の爪先で呼吸をはかりながら、にじりよる。
この瞬間。
逆胴!……左膳はそこにすきを見た。反対に、左足から踏みきった左膳、斜め右側へまわるがごとき気勢をしめしたが、ツと、
「行くぞっ!」
笑いをふくんだ気合いとともに、濡れ燕はまるで独立の生き物のように、長い銀鱗を陽にひらめかして、見事に大之進の左脇腹へ……!
が、大之進もさるもの。
のけぞって空を払わせた大之進、うしろ飛びのまま三方子川[#ルビの「さんぼうしがわ」は底本では「さんぽうしがわ」]の川べりをさして、トットと数間、逃げのびたのだった。
「口ほどでもねえやつ!」
いらだった左膳が、相模大進坊を下段にかまえたまま、一足とびに追いにかかった時だった。ちょうどそこは焼け跡のはずれで、黒くもえのこった羽目板が五、六枚、地面に横たえてあるのだが、左膳の足がその板を踏むと同時に、メリメリッとすごい音がして板が割れるが早いか丹下左膳、濡れ燕をいだいたまま、深い竪穴の中へ、棒っきれのように落ちこんだのだった――おとし穴。
チョビ安をはじめ、当の相手の高大之進、尚兵館の伊賀侍、五十嵐鉄十郎ら司馬道場の伊賀勢、そのほか塀の上に顔を並べている弥次馬連中……白昼、これだけの人間の見ている前で、丹下左膳のからだがフッと消えたのだ。
さながら、地殻が割れてそこへのまれ去ったかのように……。
じっさい、そのとおりなのだ。
今にも追いうちに、濡れつばめが飛んでくるかと覚悟をきめていた高大之進は、ウンともスンとも言わずに左膳が、穴の中へおちこんでしまったのだから、ホッとすると同時に、あっけない感じ。
ヤヤッ! と、駈けよって穴のふちをのぞく。
伊賀の同勢も、ふしぎな思いでいっぱいだ。
「こんなところに穴が……」
「穴の上に、この焼け板が渡してあったのだナ」
「これは初めから罠としてたくらんだものでござろう」
口ぐちにわめきながら、穴のふちへ走りよって下をうかがうと。
ちょうど人ひとりはいれるくらいの穴が、まっすぐに地底へのびていて、何やらうすら寒い風が、スーッと吹きあげてくる。
一同は狐につままれたようである。
顔を見あわせるばかりで、言葉もなかった。
チョビ安は夢中だった。伊賀ざむらいをおしのけて、穴の縁へ立ち現われたチョビ安、
「父上! 父上! かような卑怯なめにおあいなされて……」
穴のふちは、土がやわらかい。勢いこんだチョビ安の足に、土がくずれて、ド、ドウとこもった音とともに、土塊が穴のなかへ落ちこんでいく。
それとともに、チョビ安のからだも穴の底へめいりそうになるのを、五十嵐鉄十郎がグッとひきあげて、
「おい小僧ッ、あぶないっ! あっちへ行っておれ」
「何いってやんで! ヤイ! 父をこんなめにあわせたのは、手前ッチだろう。剣術じゃアかなわねえもんだから――父をけえせ! おいらの父をけえせっ!」
チョビ安、泣きながら、小さな拳をふるって、鉄十郎をはじめそばの伊賀者へ、トントンうちかかる。
「これはちかごろ迷惑な!」
鉄十郎は苦笑、
「かかる場処にこんなおとし穴がしつらえてあろうとは、われらもすこしも知らなんだ。これ、小僧、おちつけ。これは峰丹波一味のしわざで……」
塀の上の見物も、承知しない。
「手前ら四、五十人もいて、腕は百本もあるだろう。それが一本腕にかなわねえで、穴へおとしこむたアなんでえ」
ガヤガヤののしりあう人声……それを左膳は、竪坑の底でかすかに聞いていた。
はじめ、足をかけた焼け板が下へしのったとき、左膳はギョッとしたのだったが、もうおそかった。板が割れると同時に、左膳のからだは直立の姿勢のまま、一直線に地の底へ落ちたのである。からだの両脇に土を摺って、風が、下からふいた。四、五丈も落ちたであろうか。猛烈な勢いで、全身横ざまに地底をうち、ハッと気がつくと、そこは、土を四角にきりひらいた四畳半ほどの小部屋である。
落ちながら刀をはなさなかったので、濡れ燕を杖に、いたむ身をささえてやっと起きあがろうとすると、闇黒の中に声がした。
「おお! ササ、左膳じゃアねえか。丹下左膳、ひさしぶりだなア。あはははは、その後は御無沙汰……」
左膳は、ただ一直線におちたような気がしたが。
穴は垂直ではなかった。
直径三尺ほどの幅に、急な勾配をもってずっとこの地底のあなぐらへ通じているのである。
察するところ、その地下室は、地上の穴から斜めに入りこんで、ちょうどあの、路傍を流れる三方子川の真下にあたっているらしい。
左手に濡れ燕を突いて起きあがった左膳、したたか腰をうったらしく、抜けるようにいたい。
「イヤ、不覚……」
苦笑しながら、掘りたての土軟かな床へ、刀を突きさし、ひだり手で腰のあたりをさすろうとした時……今あの、タ、丹下左膳ではないか、ひさしぶりだナ、その後は御無沙汰、という声がしたのだ。
「誰だっ?」
左膳、濡れ燕をかまえるが早いか壁に飛びのいて、眼をこらした。
地の底……。
幾丈とも知れない地下で、地上からの穴は急勾配なのだから、闇のなかに、どこやらかすかに外光がただよっているにすぎない。
が、声をかけた人は、この暗黒になれているらしく、
「キ、貴殿も足を踏みはずしたのか。ハハハハハ、やられたな」
という声は、伊賀の暴れん坊、柳生源三郎である。
左膳もそれと気づいて、
「源三じゃアねえか。お前はこの司馬寮の火事で、焼け死んだと聞いたが、さては、ここは冥府とみえる。してみると、おれもあの世へきたのかな」
うすく笑って、左膳、声のするほうをすかして見ると、柳生源三郎のほのぼのとした白い顔が、その、四畳半ほどの真ん中にキチンと静座しているのが、彼の一眼にもうっすらと見えてきた。
「イヤ、源三、お前ははかられて、このおとし穴へ落ちこんだのだろうが、おれは、時のはずみでおちたのだ」
左膳はそう言って、源三郎の前にドッカと胡坐。
剣をもってふしぎな運命にむすばれる二人。
この思いがけない地底で、ふたたび顔をあわせたのだ。
「何から話してよいやら……」
と源三郎も、心からなつかしそうである。
左膳が、つづけた。
「この罠は、火事にまぎれてお前を落としこむために、こしらえたものに相違ねえ。お前は見事、それにかかったわけだが、丹波のやったこの仕事を、おれの相手の伊賀侍が知るはずはねえのだから、おれはかってにおちたようなもので――しかし、驚いた。だが、おかげてこうして、死んだと思った伊賀の暴れん坊にめぐりあったのは、左膳、こんな安心したことはねえ。これも、今おれの手にはいっている、こけ猿の茶壺の手引きにちげえねえのだ」
悠然と笑う左膳の片手を、源三郎、喜びと驚きにギュッと握りしめて、
「ナニ、こけ猿はいま貴公の手にある?」
「ウム、開きかけた壺をそのままに、貴様の災難を聞いたので、飛んできたまではいいが、おれもそのお供をしてこの始末よ、あははははは」
二人は、フッと話をきった。
どこやら闇のなかに、ポタリ! ポタリと、水のしたたる音がする……。
たとえば、豪雨がやんで、雲の切れめから青空がのぞくころ。
屋根の流れを集めた樋が、まだ乾きもやらず、大粒な雨垂れをたたくように地面へ落とす。
それによく似たひびきである。
ポタッ! ポタッ! と、一定の間をおいて、だるい水の音がせまい部屋にこもる。
天井のどこかから水が落ちて、床の土をうつのらしい。
ふたりは、べつに気にもとめずに、話をつづけて、左膳が、
「こうと知ったら、お前なんざあ見殺しに、おらアあの壺の教えるところにしたがって、お前の先祖の埋めた大宝を掘りだしに行きゃアよかった」
剣友の無事な顔を見て、安堵の胸をさすった左膳、どうあっても源三郎を見殺しにすることはできないくせに、こうして顔を突きあわせていると、男同士の、口がわるいのだった。
「柳生の金は、柳生のものだ」
と、にがく言う源三郎へ、左膳はおッかぶせるように笑って、
「掘り出した埋宝の中から、日光にいるだけの金を柳生に返しゃあ、あとは、天下の財産だ」
「日光? フム、貴公は容易ならぬことを知っておるな」
「蒲生泰軒の矢文で、おれはなんでも知っておる。片眼でも、お前の両眼以上に見えるのだ」
「ナニ? 蒲生泰軒! 矢文?」
「まア、おれのことはいいやな。それより、おめえはどうしてこのもぐらもちになったのだ」
「卑怯なのは丹波とお蓮だ。剣の厄も、お蓮の女難も、源三郎見事にくぐり抜けたが……そのお蓮からとりあげたこけ猿の壺……」
「イヤ、待て。こけ猿は、おれの手にある。昨日この司馬寮に、同じ茶壺があるわけはねえのだ」
「何を言う! 現に余がこの眼で見、この手にとり、その壺を枕頭にひきすえて、やっとのことでお蓮を遠ざけ、離室で一人寝についたのだが、すると――」
「ホ、すると?」
「すると、明け方近く、あの火事だ。四方八方から一時に火の手が起こったところを見ると……」
語をつごうとする源三郎を、左膳は手をあげて、静かに制し、
「マ、長話はあととして……この穴を出るくふうはねえかな」
「ハハハハ、言われるまでもなく、貴公が仲間入りする前に、今までおれはさんざんやってみたのだ。が、四方は土、天井は手のとどかぬほど高い。落ちてきた穴はほとんどまっすぐだし、第一、なんの足場もないから、その穴へ飛びつくこともできぬのだ」
「伊賀の暴れん坊と丹下左膳、この穴の底に同居住まいとは、気のきかねえ話だなア。だが、そのうちに出る算段をたてるとして、そこで朝方の火事だが――」
「ウム、四方から一時に火の起こったところをみると、丹波一味の放火にきまっておる」
言いながらも、源三郎のくやしさ、そのいきどおりは、烈々として焔のごとく感じられるのだった。
水の音は、やまない。土をうつ水滴が、二人の会話に奇妙な合いの手を入れる。
地上ではどんなにさわいでいるか知れない……。
耳を澄ましても、この深さではなんの物音も聞こえないのだ。
チョビ安はどうしたろう。
自分がこの穴へおちるところを彼は見ているのだから、きっとなんらかの方法を講じて、助けにくるに相違ない――と、左膳はそう思う一方、しかし、子供ではどうしようもあるまいし、それに、伊賀の連中につかまりでもしては、チョビ安、手も足も出まい。
闇になれてくると、その穴蔵のさまが、ぼんやりと眼にうつる。
上から細い穴を斜めに掘ってきて、ここだけ部屋のように掘りひろげたものとみえる。四方は粘土まじりのしめった土。地中に特有のヒヤリとした空気がおどんで……床をうつ水の音が、耳いっぱいに断続して聞こえる。
左膳は思いだしたように、源三郎へ、
「こけ猿の茶壺が二つあるはずはねえ。おれが手に入れて、駒形のある女のところに隠してあるのだから、お前がここで、お蓮からとりあげたというのは、偽の壺にきまってらアな」
源三郎は沈思の底から、太いまゆをあげて、
「余はあけて見たわけではない。貴公もその壺を、まだひらいたのではないのだろう」
「ウム、今もいうとおり、あけかけたところで、この火事だ。とうとう開かずにここへ飛んできたのだが――」
「それでは、いずれが本物、いずれがにせ物と判断はできぬ」
「焼け跡に、こけ猿の壺らしいものをいだいた黒焦げの死骸が一つ、見つけだされて、それが源三郎に相違ないとのことだったが、貴様はこうしてりっぱに生きておるところをみると、その死骸はいったい何者であろうナ」
「丹波の計じゃ。宵のうちに余をとりまいて、亡き者にしようとした折り、あやまって仲間で斬りころした不知火組の若侍にきまっておる」
「ウム、その死骸を黒焦げにして伊賀の源三郎と見せかけようとしたのだな」
「こけ猿の壺を、死人とともに焼くわけはないから、それは名もない駄壺にきまっておるが――」
いらだち気味に、左膳はあたりを見まわして、
「埋もれた宝を掘りに行くはずのおれが、自分がこうして埋められては、せわアねえ」
自嘲的につぶやいて、たちあがりながら、左膳の胸中は、熱湯のにえくり返るように、苦しかった。
こうして源三郎が生きている以上、萩乃にたいする自分の恋は、そだててはならぬ。わが心に生えた芽のままで、摘みとってしまわなければならないのだ。
現に、彼のふところには、思いのたけを杜若、あの恋文がはいっているのだけれど、もうこれを、萩乃にとどけることはできない……。
「こうしていてもはじまらぬ――」
そう言って源三郎も、身を起こした時。
天井からしたたる水粒は、早くなって、点々、点々と土をうつ。
うすくらがりの中を手探りで、その小部屋の隅へ行ってみると、上に小さな穴があいているらしく、そこから落ちる水が、じっとりと足下をぬらしている。
「この真上は?」
源三郎の問いに、左膳は静かに方向を考えて、
「三方子川の川底らしい」
「こりゃいかん! 頭の上を川が流れておるのか」
二人は、同時にうめいた。
ギョッ! として、顔をあげた二人。
左膳と源三郎の間に、天井からのしたたりは、ポタリ、ポタリとつづく。
その水滴の脚が、刻一刻早くなる。
「ウム、これは案外、深いたくらみがあるとみえるぞ」
歯ぎしりかむ源三郎の顔を、左膳は闇をすかして、じっと左眼にみつめた。
「落ちてきた穴を這いあがることはできぬし……」
水のしたたりは、二人の立っている土を濡らす。
小さなぬかるみが、だんだんひろがってゆく。
左膳はしゃがんで、左手を椀のようにへこませて、落ちてくる水を受けてみた。
トントンとやつぎばやに、掌を打つ水の粒。
「三方子川の川水であろうか」
「この上が川床だとすると――その水であろう」
「点滴石を穿つ――この雨垂れのような水でも、こうひっきりなしに落ちてくるうちには……」
それよりも、今にも川床の地盤がゆるんで、この天井全体が、一時にドッと落ちてくることはないか。
そうすれば。
この地下の部屋全体、一瞬にして水浸しとなる。
逃るる術はない……。
このおそれは、期せずして、今このふたりの心に、同時にわきおこったのだったが、それは、口にすべくあまりに恐ろしい――闇黒にとざされて見えないが、おそらくこの時は、さすがの左膳も源三郎も、ともに顔色が変わっていたに相違ない。
剣をとっては、千万人といえどもわれゆかん――じっさい、この二人がそろっていれば、天下に恐るるもののない柳生源三郎と丹下左膳。
だが――。
柳生一刀流も、左膳の濡れ燕も、水を相手では、どうすることもできないのだ。
闇のなかに、突如左膳は、自分の片腕をギュッとつかむ源三郎の手を感じた。
そして、耳のそばに、伊賀の暴れん坊のささやき。
「オイッ! もうしたたりではない。ほれ、一筋に落ちてきた……」
まことに、そのとおり。
今までポタ、ポタとまをおいてしたたっていた水は、今はひとすじの細い線となって、絶えまもなくそそぎかけてきた。
「源三、おれを肩車に乗せてくれ」
懐中の手拭をとりだした左膳、
「とどくかとどかぬか知れぬが、なんとかして、あの天井の穴をふさがねばならぬ」
水さえはいらねば、そのあいだに脱出の方法も立つかも知れぬし、救いの手がのびてこようもはかられぬ。
源三郎は二つ返事で、左膳を肩に乗せた。
穴蔵の黒暗々裡に、ふしぎな水止め工作がはじまった。
若殿源三郎の肩に身をのせた左膳、片手を伸ばして、穴へ手拭をつめようとあせるのだが、天井に手が達しない。
もう一、二寸――。
「だめだ。貴公よりおれのほうが、背が高い。貴公、おれの肩車に乗ってくれ」
「ヤヤッ! そういう間も、もう水がたまりだしたぞ。土ふまずへ、ヒタヒタと水がきた」事実、部屋全体にうすく水が行きわたったらしく、線のほそい滝の水が、条々と……。
こんどは入れかわって。
左膳がしゃがみこみ、
「ごめん……」
と源三郎は、その左膳の首へまたぐらを入れた。
痩せた左膳のからだが、高々と源三郎をささえ上げる。両手を伸ばして伊賀の暴れん坊、
「やっぱりとどかぬ」
あせる指先を愚弄するように、天井は、まだ一、二寸高い。
「とびはねてくれぬか、左膳殿」
「そんな曲芸はできぬ。またヒョイと飛んだところで、お主の手のほうが長い仕事はできなかろう」
とつぜん、左膳は大声に笑いだした。
「こりゃあどうも、あわてているときは、しょうのねえものだ。おぬしが下になろうが、おれが台に立とうが、十尺のものは十尺、どう伸び縮みするわけもねえのに、アハハハハ」
「まったく、理屈だ。われら両人、かなり狼狽いたしおるとみえる」
狼狽するのも、もっともで。
鉄瓶の口から、つぎこむように、天井の小さな穴から、ただ一条そそぎこまれる水は、刻々たまる一方だ。
左膳の肩車をおりた源三郎、もう、足の甲まで水にかくれるのをおぼえて、愕然としたのであるが、なんの方策もたたぬ。
二人は、黙然と顔を見合わせるばかり。
左膳がこの穴へ落ちこんでから、もはや何ときたったであろう。
源三郎は、その一日前から飲まず食わずで、この地下に幽閉されていたのだ。
たいがいのことにはビクともせぬ伊賀の暴れん坊だけに、そのうちになんとかなるだろうと、泰然としてこの地底に、胡坐をかいて澄ましこんでいたのだが。
水が出ては。
もう、その胡坐もかけぬ。
いつのまにかふたりは、たかだかと着物の裾をはしょって、洪水の難にあった姿。
「一刻にどのくらい水嵩がますのであろうの」
「サアそれは、ちょっとわからぬが――」
首まで来るまでには相当時間があろう。その間に、なんとでもして脱出のくふうをつけねばならぬ。
なんとでもして!
けれど。
どうしたらよいか?
四畳半ほどの地底の一室である。地面に達する唯一の穴は、天井高く三尺ほどの直径に、斜めに通じているだけで、そこにとどく足場もなければ、とびつこうにも手がかりがない。
周囲は、荒削りの土石の壁。
もう地上は、たそがれどきでもあろうか。
さっきまで、穴からかすかに流れこんでいた光線は、すっかり消えて、闇の中にそそぎ入る水音のみ、高い。
伊賀の連中はどうしたろう!
チョビ安は?
「オイッ!」
と、源三郎が、左膳の注意をうながした。
足でジャブジャブ水をけって見せた。
いつのまにか、もうふくら脛の半ばまできている。まもなく膝を没するであろう。それから腿、腹、胸、首……やがて全身水びたしに――。
左膳と源三郎、沈黙のうちに、狂的な眼をあわせた。
水は、つめたく脛をなめて、這いあがってくる……。