別役べっちゃくの姉上が来て西のあがはなで話していたら要太郎が台所の方から自分を呼んで裏へしぎを取りに行かぬかと云う。自分はまだ一度も行った事がないが病後の事であるからと思うて座敷で書見しょけんをしている父上に行ってもよう御座いましょかと聞くと行くはよいが傘をさして行けとの事であったから、帽をかぶってわるい方の蝙蝠傘こうもりがさを持って裏門へまで行くと、要太郎はもう網をこしらえて待っていた。「別役のせい様がこないだから連れて行てくれい云いよりましたがのうし。」「そうかそれでは呼んで来い」とて下女をやった。間もなく来たから連れ立って裏門を出た。バッタが驚いて足下から飛び出した。「いくら汚れてもよいように衣物きものを着換えて来たね。」精は無言でニコニコしている。足には尻の切れた草履ぞうりをはいている。小川を渡って三軒家さんげんやの方へ出る。あちこちに稲を刈っている。あぜに刈穂を積み上げていている女の赤い帯もあちらこちらに見える。※(「虫+廷」、第4水準2-87-52)とんぼが足元からついと立って向うの小石の上へとまって目玉をぐるぐるとまわしてまた先の小石へ飛ぶ。小溝に泥鰌どじょうが沈んで水が濁った。新屋敷の裏手へ廻る。自分と精とは一町ばかり後をついて行く。北の山へ雲の峰が出て新築の学校の屋根がきらきらしているが風は涼しい。要太郎が手を上げたから余等は立止って道にしゃがんだ。久万川くまがわの土手に沿うた一丸の二番稲があってその中に鴫が居ると見える。網を斜めに下向けてしきりにねらっている。自分等も息を殺して見ているとたちまち頭の上でばさ/\と音がする。※(「虫+廷」、第4水準2-87-52)とんぼが傘にとまっていたのがほかのとんぼと喰い合って小溝へ落ちそうにしてぷいと別れた。溝からの太陽の反射で顔がほてるような。要太郎はやはりねらいながら田を廻っている。どうも鴫は居ぬらしい。後の方でダーダーと云う者があるからふりかえると、五、六けん後の畔道あぜみちの分れた処の石橋の上に馬が立っている。その後についているのは十五、六の色の黒い白手拭をかぶった女の子であった。馬はどっちへ行こうかと云う風で立止っていると、女の子は馬の腹をくぐって前へまわってまたダーダーと云いながら新屋敷の方へ引いて行った。鴫はやっぱり見えぬらしい。要太郎も少しだれ気味で網を高く上げて振るとバタ/\と一羽飛び出して堤を越して見えなくなった。要太郎の指をさす通りにグサ/\と下駄の踏み込む畔を伝って土手へ上ると、精の足元からまた一羽飛び出して高く舞い上がった。二、三度大廻りをして東の方へ下りた。「何処どこへ下りましたぞのうし。」「アソコに木が二本あるネー。あの西の方に桑があるだろう。あの下あたりのようだ。」要太郎は黙って堤を下りて行った。堤には一面すすき野萩のはぎいばらがしげって衣物にひっかかる。どう勘違いしたのか要太郎はとんでもない方へ進んでいる。声を掛けようかと思ったが鳥を驚かしてはならぬと思うて控えていると果然しぎは立った。要太郎は舌打ちをしたと云う風であったが此方こっちを見て高く笑うた。そして二本並んだ木蔭へ足を投げ出して坐って吾等を招いた。「ドーダネ。マー一服やって縁起を直しては。巻煙草をやろか。」「ヤーありがとございます――。昨日は私の小さい網で六羽取りましたがのうし。」今に手並を見せると云う風で。
 野菊が独り乱れている。「精ドーダ面白いか。」「あつい」と云いつつ藁帽をぬいで筒袖で額をでた。「サーそろそろ行きましょう。モット下へ行って見ましょ。」小津おず神社の裏から藪ふちを通って下へ下へと行く。ところどころ籾殻もみがらであおっている。鶏は喜んであっちこちこぼれた米をひろっている。子供が小流で何か釣っている。「ふなか。」「ウン。」精の友達らしい。いつの間にか要太郎が見えなくなったと思うていると遥か向うの稲村いなむらの影から招いている。汗をふきふきついて行った。道の上で稲をいている。「御免なさいよ。」「アイ御邪魔でございます。」実際邪魔であるので。要太郎を見ると向うの刈田の中をいかにも奇妙な腰付で網の中程を握って走っている。すると精が「居る居る――要太郎があんなに走り出したらきっと鴫が居る」と云う。なるほど要太郎は一心に田の中の一点を凝視みつめてその点のまわりを小股に走りながらまわっている。網の竿をのばしたと思うと急に足を早めて網を投げた。黒いものが立つと思うと網にかかった。バタ/\している。要太郎も走る。精も走る。綺麗な鴫だ。ドレドレと精は急いで受取って足を握って羽をバタ/\さす。「綺麗な鳥よ、綺麗ジャノー。」「にがしちゃいやでございますよ。」「ニガスモンカ。」早く殺さないと肉が落ちると云うので要太郎が鳥の脇腹をつまむと首がぐたりとなった。もろいもので。これが手始めでそれからは取るは取るは、少しの間に五羽、外に小胸黒こむなぐろを一羽取った。近頃このくらい面白かった事はない。「今晩鴫の御化けが来るぜ。」「来たら脇腹をつまんでやらあ。」
(明治三十四年九月)

底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
   1996(平成8)年12月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2004年3月24日作成
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