火鉢には一塊の炭が燃え尽して、柔らかい白い灰は上の藁灰の圧力にたえかねて音もせずに落ち込んでしまった。この時再び家を動かして過ぎ去る風の行えをガラス越しに見送った時、何処とも知れず吹入った冷たい空気が膝頭から胸に浸み通るを覚えた。この時われは裏道を西向いてヨボヨボと行く一人の老翁を認めた。乞食であろう。その人の多様な過去の生活を現わすかのような継ぎはぎの襤褸は枯木のような臂を包みかねている。わが家の裏まで来て立止った。そして杖にすがったまま辛うじてかがんだ猫背を延ばして前面に何物をか求むるように顔を上げた。窪んだ眼にまさに没せんとする日が落ちて、頬冠りした手拭の破れから出た一束の白髪が凩に逆立って見える。再びヨボヨボと歩き出すと、ひとしきりの風が驀地に道の砂を捲いて老翁を包んだ時余は深き深き空想を呼起こした。しかしてこの哀れなる垂死の人の生涯を夢みた時、あたかもこの人の今の境遇が余の未来を現わしていて、余自身がこの翁の前身であるような感じがした。
彼は必ず希望を抱いて生れ、希望の力によって生きて来たであろう。否今もなおこの凩に吹き散る雲の影のようななんらかの希望の影を追うているではあるまいか。そしてこの果敢ない影を捕えんとしては幾度か墓のに躓いているのではあるまいか。凡そ何がはかないと云っても、浮世の人の胸の奥底に潜んだまま長い長い年月を重ねて終にその人の冷たい亡骸と共に葬られてしまって、かつて光にふれずに消えてしまう希望程はかないものがあろうか。
浮世の人はいかなる眼で彼を見るであろうか。各自の望みを追うに暇のない世人は、たまに彼の萎びた掌に一片の銅貨を落す人はあっても、おそらくはそれはただ自分の心の中の慈善箱に投げ入れるに過ぎぬであろう。そして今特別の同情を以て見ている余にさえも、この何処の何人とも知れぬ人の記憶が長く止まっていようとも思われぬ。
彼はたぶん恋した事もあろう。そして過ぎ去った青春の夢は今幾何の温まりを霜夜の石の床にかすであろうか。
彼はたぶん志を立てた事もあろう。そして今幾何の効果を墓の下に齎そうとしているのであろう。
このような取り止めのない妄想に耽っている間に、老人の淋しい影は何処ともなく消え去った。突然向うの曲り角から愉快な子供の笑い声が起って周圍の粛殺を破った。あたかも老翁の過去の歓喜の声が、ここに一時反響しているかのごとく。
(明治三十四年十二月)