一 万葉びと――琉球人

古代の歴史は、事実の記憶から編み出されたものではない。神人に神憑りした神の、物語つた叙事詩から生れて来たのである。謂はゞ夢語りとも言ふべき部分の多い伝への、世を経て後、筆録せられたものに過ぎない。日本の歴史は、語部と言はれた、村々国々の神の物語を伝誦する職業団体の人々の口頭に、久しく保存せられて居た律文が、最初の形であつた。此を散文化して、文字に記したのが、古事記・日本紀其他の書物に残る古代史なのである。だから成立の始めから、宗教に関係して居る。神々の色彩を持たない事実などの、後世に伝はりやうはあるべき筈がないのだ。並みの女のやうに見えて居る女性の伝説も、よく見て行くと、きつと皆神事に与つた女性の、神事以外の生活をとり扱うて居るのであつた。事実に於て、我々が溯れる限りの古代に実在した女性の生活は、一生涯或はある期間は、必巫女として費されて来たものと見てよい。して見れば、古代史に見えた女性の事蹟に、宗教の匂ひの豊かな理由も知れる事である。女として神事に与らなかつた者はなく、神事に関係せなかつた女の身の上が、物語の上に伝誦せられる訣がなかつたのである。
私は所謂有史以後奈良朝以前の日本人を、万葉人マンネフビトと言ひ慣して来た。万葉集はほぼ、日本民族が国家意識を出しかけた時代から、其観念の確立した頃までの人々の内生活の記録とも見るべきものである。此期間の人々を、精神生活の方面から見た時の呼び名として、恰好なものと信じて居る。古事記・日本紀・風土記の記述は、万葉人の生活並びに、若干は、其以前の時代の外生活に触れて居る。茲に万葉集を註釈とし、更に今一つ生きた註釈を利用する便宜が与へられて居る。
万葉人の時代には以前共に携へて移動して来た同民族の落ちこぼれとして、途中の島々に定住した南島の人々を、既に異郷人と考へ出して居た。其南島定住者の後なる沖縄諸島の人々の間の、現在亡びかけて居る民間伝承によつて、我万葉人或は其以前の生活を窺ふ事の出来るのは、実際もつけの幸とも言ふべき、日本の学者にのみ与へられた恩賚である。沖縄人は、百中の九十九までは支那人の末ではない。我々の祖先と手を分つ様になつた頃の姿を、今に多く伝へて居る。万葉人が現に生きて、琉球諸島の上に、万葉生活を、大正の今日、我々の前に再現してくれて居る訣なのだ。

     二 君主――巫女

大化の改新の一つの大きな目的は、政教分離にあつた。さう言ふよりは、教権を奪ふ事が、政権をもとりあげる事になると言ふ処に目をつけたのが、此計画者の識見のすぐれて居た事を見せて居る。
村の大きなもの、郡の広さで国と称した地方豪族の根拠地が、数へきれない程あつた。国と言ふと、国郡制定以後の国と紛れ易い故、今此を村と言うて置かう。村々の君主は、次第に強い村の君主に従へられて行き、村々は大きな村の下に併合せられて行つて、大きな村の称する国名が、村々をも籠めて了ふ事になつた。秋津洲・磯城島と倭、皆大和平原に於ける大きな村の名であつた。他の村々の君主も、大体に於て、おなじ様な信仰組織を持つて、村を統べて居た。倭宮廷の勢力が、村々の上に張つて来ると、事大の心持ちから、自然に愈似よつたものになつて来たであらう。
村の君主は国造と称せられた。後になる程、政権の含蓄が此ことばに乏しくなつて、教権の存在を感じる様になつて行つた様である。国造と称する事を禁じ、村の君主の後をすべて郡領と呼びかへさせ、一地方官吏と看做す事になつても、尚私かに国造と称するものが多かつた。平安朝になつても、政権に関係なく、村々の君主の祀つた神を、子孫として祀つて居る者には、国造の称号を黙認して居た様である。出雲国造・紀国造・宗像ムナカタ国造などの類である。倭宮廷でも、天子自ら神主として、神に仕へられた。村々の君主も、神主として信仰的に村々に、勢力を持つて居たのである。
神主の厳格な用語例は、主席神職であつて、神の代理とも、象徴ともなる事の出来る者であつた。神主と国造とは、殆ど同じ意義に使はれて居る事も多い位である。村の神の威力を行使する事の出来る者が、君主として、村人に臨んだのである。村の君主の血縁の女、娘・妹・叔母など言ふ類の人々が、国造と国造の神との間に介在して、神意を聞いて、君主の為に、村及び村人の生活を保つ様々の方法を授けた。其高級巫女の下に、多数の采女ウネメと言ふ下級巫女が居た。
此組織は、倭宮廷にも備つて居た。神主なる天子の下に、神に接近して生活する斎女王と言ふ高級巫女が、天子の近親から択ばれた。伊勢の斎宮に対して、後世賀茂の斎院の出来た事から見れば、本来は主神に仕へる皇族女子の外にも、有力な神に接する女王の巫女があつた事は考へられる。さうして此下に、天子の召使とも見える采女ウネメが居た。宮廷の采女は、郡領の娘を徴して、ある期間宮廷に立ち廻らせられたものである。采女は単に召使のやうに考へて居るのは誤りで、実は国造に於ける采女同様、宮廷神に仕へ、兼ねて其象徴なる顕神アキツカミの天子に仕へるのである。采女として天子の倖寵を蒙つたものもある。此は神としての資格に於てあつた事である。采女は、神以外には触れる事を禁ぜられて居たものである。
同じ組織の国造の采女の存在、其貞操問題が、平安朝の初めになると、宮廷から否定せられて居る。此は、元来なかつた制度を、模倣したと言はぬばかりの諭達であるが、実は宮廷の権威に拘ると見た為であらう。此事は、日本古代に初夜権の実在した証拠になるのである。村々の君主の家として祀る神の外にも、村人が一家の間で祀らねばならぬ神があつた。庶物にくつゝいて常在する神、時を定めて来臨する神などは、家々の女性が祀ることになつて居た。
此等の女性が、処女である事を原則とするのは勿論であるが、其は早く破れて、現に夫のない女は、処女と同格と見た。而も其は二人以上の夫には会はなかつたものと言ふ条件があつた様である。其が更に頽れて、現に妻として夫を持つて居る者にも、巫女の資格は認められて居たと見える。「神の嫁」として、神に出来るだけ接近して行くのが、此人々の為事であるのだから、処女は神も好むものと見るのは、当然である。斎女王も、処女を原則としたが、中には寡婦を用ゐたこともある。
併し、此今一つ前の形はどうであらう。村々の君主の下になつた巫女が、曾ては村々の君主自身であつた事もあるのである。魏志倭人伝の邪馬台ヤマト国の君主卑弥呼ヒミコは女性であり、彼の後継者も女児であつた。巫女として、呪術を以て、村人の上に臨んで居たのである。が、かうした女君制度は、九州の辺土には限らなかつた。卑弥呼と混同せられて居た神功皇后も、最高巫女としての教権を以て、民を統べて居られた様子は、日本紀を見れば知られることである。万葉人の時代でも、女帝には殊に、宗教的色彩が濃い様である。喜田博士が発見せられた女帝を中天皇ナカツスメラミコト(万葉には中皇命)と言ふのも、博士の解説の様に男帝への中継ぎの天子と言ふ意でなく、宮廷神と天子との中間に立つ一種のすめらみことの意味らしくある。古事記・日本紀には天子の性別についても、古い処では判然せない点がある。さう言ふ処は、すべて男性と考へ易いのであるが、中天皇の原形なる女帝が尚多く在らせられたのではあるまいか。
沖縄では、明治の前までは国王の下に、王族の女子或は寡婦が斎女王同様の為事をして、聞得大君キコエウフキミ(ちふいぢん)と言うた。尚家の中途で、皇后の下に位どられる事になつたが、以前は沖縄最高の女性であつた。其下に三十三君と言うて、神事関係の女性がある。其は地方々々の神職の元締めのやうな位置に居る者であつた。其下に当るのろ(祝女)と言ふ、地方の神事官吏なる女性は今も居る。其又下に其地方の家々の神に事へる女の神人が居る。此様子は、内地の昔を髣髴させるではないか。沖縄本島では聞得大君を君主と同格に見た史実がない。が、島々の旧記には其痕跡が残つて居る。

     三 女軍

万葉及び万葉以前の女性とさへ言へば、すぐれて早く恋を知り、口迅くちどに秀歌を詠んだものゝ様に考へられて来て居る。併し此とてもやはり、伝説化せられたものに過ぎなかつたのである。佳人才女の事蹟を伝へたのは、其女性自身の作と伝へながら、実は語部の叙事詩其自身が、生み出した性格でもあり、作物でもあつた。つまりは物語や、其から游離した歌謡の上にのみ、情知り訣知りらしく伝はつたので、後世から憧れる程のものでなかつたのである。唯、事の神事に関する限り、著しく女性としての権威を顕し、社会的にも活動したのは事実である。神の意思を宣伝し、神の力を負うて号令する巫女の勢力が、極度に発揮せられるのである。
近江・藤原の宮の頃から禁じられ出したが、尚、其行き亘らなかつた地方には、存して居たらうと思はれるのは、女子の従軍である。昔から学者は軍旅の慰めに、家妻を伴うたものと解して居る。尤、此法令の出た頃は、女と戦争との交渉に就て、記憶が薄らいで居たものであらう。戦争に於ける巫女の位置と言ふ様な事を考へると、巫女にして豪族の妻なる者の従軍は、巫女であるが為といふ中心点より、妻なるが為と言ふ方へ、移つて行つて居たのである。
日本武尊の軍に居られた橘媛などは、妻としての従軍と考へられなくもない。崇神天皇の時に叛いた建埴安彦タケハニヤスヒコの妻安田アダ媛は、夫を助けて、一方の軍勢を指揮した。名高い上毛野形名の妻も、其働きぶりを見ると、単に「堀川夜討」の際の静御前と一つには見られない。やはり女軍の将であつたらしい。調伊企儺ツキノイキナの妻大葉子オホバコも神憑りする女として、部将として従軍して、俘になつたものと考へられる。神功皇后などは明らかに、高級巫女なるが故に、君主とも、総大将ともなられたのである。
女が軍隊に号令するのに、二つの形がある。全軍の将としての場合と、一部隊の頭目としての時とが其である。巫女にして君主と言つた場合は、勿論前の場合であらうが、軍将の妻なる巫女の場合には、後の形をとつた事と思はれる。
神武天皇の大和の宇陀を伐たれた際には、敵の兄磯城エシキ弟磯城オトシキの側にも、天皇の方にも、男軍ヲイクサ女軍メイクサが編成せられて居た。「いくさ」と言ふ語の古い用語例は軍人・軍隊と言ふ意である。軍勢に硬軟の区別を立てゝ、軍備へをする訣もないから、優形やさがたの軍隊と言つた風の譬喩表現と見る説はわるい。やはり素朴に、女軍人の部隊と説く考へが、ほんとうである。巫女の従軍した事実は際限なくある事で、皆戦場に於て、神の意思を問ふ為である。其と共に、女軍を指揮するのだから、真の戦闘力よりも、信仰の上から薄気味のわるい感じを持つて居たのであらう。一方からは、他の種族の祀る異教神の呪力を、物ともせない勇者にとつては、極めて脆い相手であつたのである。神武天皇なども、女軍を破つて、敵を窮地に陥れて居られる。
黄泉醜女ヨモツシコメの黄泉軍衆イクサと言ふのも、死の国の獰猛な女の編成した、死の国の軍隊と言ふ事である。いざなぎの命が、あれ程に困らされた伝へのあるのも、祖先の久しい戦争生活から来た印象である。
沖縄の記録を見ると、三百年前までは、巫女従軍の事実は屡見えて居る。離島方面では、島々の小ぜり合ひに、かうした神意の戦争が、近年までくり返されて居た事と思はれる。

     四 結婚――女の名

妻覓ツマヽぎ」と言ふ古語は、一口に言へば求婚である。厳格に見れば、妻探しと言ふことになる。此と似た用語例にある語は「よばふ」である。竹取物語の時代になると、既に後世風な聯想のあつた事が見えて居るが、やはり「呼ぶ」を語原として居るのである。大きな声をあげて物を言ふことである。つまり「なのる」と言ふのと、同義語なのである。名誉ある敵手の出現を望む武士の、戦場で自ら氏名を宣する形式を言ふ事になつて了うたが、古くは、もつとなまめかしいものであつた。
人の名は秘密であつた。男の名も、ずつと古くは幾通りも設けて置いて、どれが本名だか訣らなくしたものがあつた。大汝命などの名の一部分の意義は、大名持即多数の名称所有者の意であつて、名誉ある名「大名オホナ」を持つと言ふ意ではない様だ。事実色々の名を持つた神である。名を人格の一部と見て、本名を知れば、呪咀なども自在に行ふ事が出来るものと見たところから、なるべく名を周知させぬ様にしたのである。男は其ではとほらぬ時代になつても、女は世間的な生活に触れる事が尠かつた為、久しく、此風は守り了せたものである。平安朝の中末の頃になつても、やはりさうであつた様である。
万葉(巻十二)に「たらちねの母がよぶ名を申さめど、道行く人を誰と知りてか」と言ふ歌のあるのは『あなたは、自分の名も家も言はないぢやありませんか。あなたがおつしやれば、母が私によびかける私の名をば、おあかしも申しませうが、行きすがりの人としてのあなたを、誰とも知らずに申されませうか。』と言ふのである。兄弟にも知らせない名、母だけが知つて居る名――父は知つて居るにしてもかうした言ひ方はする。併し、母だけの養ひ子の時代を考へると、父母同棲の後もそんな事もなかつたとは言へない――其名を、他人で知つて居ると言ふのは夫だけである。女が男に自分の名を知られる事は、結婚をすると言ふ事になる。だから、男は思ふ女の名を聞き出す事に努める。錦木を娘の家の門に立てた東人とは別で、娘の家のまはりを、自身名と家とをよばうてとほる。此が「よばひ」でもあり「名告り」でもある。女が其男に許さうと思ふと、はじめて自分の名を其男に明して聞かすのであつた。
かうして許された後も、男は、女の家に通ふので、「よばふ」「なのる」が、意義転化をした時代になつても、ある時期の間は、家に迎へる事をせない。此は平安朝になつてもさうである。だからどうしても、長子などは大抵ごくの幼時は、母の家で育つのである。古くから祖の字を「おや」と訓まして、両親の意でなく「おつかさん」の意に使ふ事になつて居るのは、字は借り物だが、語には歴史がある。母を専ら親とも言ふのは、父に親しみの薄かつた幼時の用語を、成長後までも使うた為である。
娘の家へ通ふ神の話は、其こそ数へきれぬ程ある。此は神ばかりでなく、人も行うた為方であつた。どこから来るとも名のらず、ひどいのになると、顔や姿さへ暗闇まぎれに一度も見せないのがある。小説とは言ひでふ、源氏物語の人情物の時代になつても、尚且、光源氏の夕顔の許へ通ひつゞけた頃は、紐のついた顔掩ひをして居た様に書いてある。まさか其頃はそんな事もなかつたであらうと思ふ。が、かうした事の出来るのは、過去の長い繰り返しのなごりである。つまりは、よその村の男が通うて来る時に、とつた方法と見るべきであらう。よその村が異種族の団体と見られて居たのは、国家意識が出て後にも、尚続いて居たであらう。が、かうした結婚法は、どこまでが実生活の俤で、どこからが神話化せられて居るのか、区別がつきにくい。
唯、此形の今一つ古い形と見られるのは、女の家に通ふと言ふ手ぬるい方法でなく、よその娘を盗んで来る結婚の形である。
外族の村どうしの結婚の末、始終円満に行かず、何人か子を産んで後、つひに出されて戻つた妻もあつた。さうなると、子は父の手に残り、母は異郷にある訣である。子から見れば、さうした母の居る外族の村は、言はう様なく懐しかつたであらう。夢の様な憧れをよせた国の俤は、だん/\空想せられて行つた。結婚法が変つた世になつても、此空想だけは残つて居て「ハヽが国」と言ふ語が、古代日本人の頭に深く印象した。妣は祀られた母と言ふ義である。又古伝説にも、死んだ妣の居る国と言ふ風に扱うて居るが、此語を使つた名高い僅かな話が、亡き母に関聯して居る為であらう。此語は以前私も、日本人大部分の移住以前の故土を、譬喩的に母なる国土としたのだと考へて居たが、さうではない。全然空想の衣を着せられて後は、恋しい母の死んで行つてゐる所と言ふ風に考へられたであらうが、意義よりも語の方が古いのである。かう言つた結婚法がやはり段々と見えて居る。
奪掠婚と言ふが、此は近世ばかりか、今も、其形式は内地にも残つて居る。唯古代の奪掠法とも見える結婚の記録も、巫女生活の記念と言ふ側から見ると、さう一概にも定められぬところがある。景行天皇に隙見せられた美濃クヽリミヤ弟媛(景行紀)は、天子に迎へられたけれども、隠れて了うて出て来ない。姉八坂入媛ヤサカイリヒメをよこして言ふには「私はとつぎの道を知りませんから」と言ふのである。
おなじ天皇が、日本武尊らの母印南大郎女イナミオホイラツメ(播磨風土記)の許に行かれた際、大郎女は逃げて/\、加古川の川口の印南都麻イナミツマと言ふ島に上られた。ところが川岸に残した愛犬が、其島に向いて吠えたので、其処に居る事が知れて、天子が出向いて連れ戻られた。印南の地名は、隠れる・ひつこもるなどの意の「いなむ」と言ふ語の名詞形から出たのだと言ふ。島の名も、かくれ妻と言ふ意だとある。「いなみづま」言ひかへれば、逃婚と言ふ事になる。奪掠婚に対して、逃走婚と言ふ方法を考へに入れねば、奪掠の真意義もわかりにくからうと思ふ。
地方豪族の娘は、其土地の神の巫女たる者が多い。殊に神に関した事のみ語る物語の性質から見ても、此等の処女が、巫女であつた事は察せられる。巫女なるが故に、人間の男との結婚に、此までの神との仲らひを喜んで棄てる様に見えては、神にすまなくもあり、其怒りが恐ろしいのである。其で形式としても、逃走婚の姿をとらなければならなかつた。又真実、従来の生活と別れる事の愛着の上から言つても、自然にもさうなつたであらう。弟媛オトヒメの如きは其例で、原則としての巫女の処女生活を守り貫いた訣である。大郎女オホイラツメの方は、あんなに逃げて置きながらと思はれる程、つかまつたとなると、極めて従順であつた様である。
此も沖縄の民間伝承が此の説明に役立つ。首里市から陸上一里半海上一里半の東方にある久高島では、島の女のすべてが、一生涯の半は、神人として神祭りに与かる。大正の初めに島中の申し合せで自今廃止と言ふ事になつて、若い男たちがほつとした結婚法がある。
婚礼の当夜、盃事がすむと同時に、花嫁は家を遁げ出て、森や神山(御嶽オタケと言ふ)や岩窟などに匿れて、夜は姿も見せない。昼は公然と村に来て、嫁入り先の家の水壺を満たす為に、カアの水を頭に載せて搬んだりする。男は友だちをカタラうて、花嫁のありかをつき止める為に、顔色も青くなるまで尋ね廻る。若し、三日や四日で見つかると、前々から申し合せてあつたものと見て、二人の間がらは、島人全体から疑はれる事になる。勿論爪弾きをするのだ。長く隠れ了せた程、結構な結婚と見なされる。「内間ウチマまか」と言ひ、職名外間祝女ホカマノロと言はれて居る人などは、今年七十七八であるが、嫁入りの当時に、七十幾日隠れとほしたと言ふが、此が頂上ださうである。夜、聟が嫁を捉へたとなると、髪束をひつゝかんだり、随分手荒な事をして連れ戻る。女も出来るだけの大声をあげて号泣する。其で村中の人が、どこそこの嫁とりも、とう/\落着したと知る事になるのである。
かうした花嫁の心持ちは、微妙なものであらうから、単に形式一遍に泣くとも見られぬが、ともかく神と人間との間にある女としての身の処置は、かうまでせねば解決がつかなかつたのである。此風を、沖縄全体の中、最近まで行うて居たのは、此島だけである。其にも拘らず、曾て一般に行うたらしい痕跡は、妻覓ツマヽぎに該当する「とじ・かめゆん」(妻捜す)「とじ・とめゆん」(妻覓る)など言ふ語で、結婚する意を示す事である。
又此島では、十三年に一度新神人の就任式の様なものがある。神人なる資格の有無を試験する事が、同時に就任式の形になるのである。「いざいほふ」と言ふ名称である。同時に、二人の夫を持つて居る様な事がないかを試験するので、七つ橋と言ふ低い橋の上を渡らせる。此貞操試験を経て、神人となると共に、村の女としての完全な資格を持つ訣である。何でもない草原の上の仮橋から落ちて、気絶したり、死んだりする不貞操な女もあると言ふ。此は、巫女が処女のみでなく、人妻をも採用する様になつた時代の形で、沖縄本島でも古くから巫女の二夫に見ゆるを認められなかつた事実のあるのと、根柢は一つである。ところが、内地の昔にも亦、此があつた。東近江の筑摩神社の祭りには、氏人の女は持つた夫の数だけの鍋をかづいて出たと言ふ。伊勢物語にも歌がある程で、名高い事だが、実は一種の「いざいほふ」に過ぎなかつたものと思はれる。鍋一つかぶる女にして、神人たる資格があつたものと思はれる。

     五 女の家

近松翁の「女殺油地獄」の下の巻の書き出しに「三界に家のない女ながら、五月五日のひと夜さを、女の家と言ふぞかし」とある。近古までもあつた五月五日の夜祭りに、男が出払うた後に、女だけ家に残ると言ふ風のあつた暗示を含んで居る語である。
鳰鳥の 葛飾早稲を贄すとも、彼愛しきを、に立てめやも
誰ぞ。此家の戸押ふる。新嘗忌ニフナミに、わが夫を遣りて、斎ふ此戸を
万葉巻十四に出た東歌である。新嘗の夜の忌みの模様は、おなじ頃のおなじ東の事を伝へた常陸風土記にも見えてゐる。御祖ミオヤの神即、母神が、地に降つて、姉なる、富士に宿を頼むと、今晩は新嘗ですからとにべもなく断つた。妹筑波に頼むと新嘗の夜だけれど、お母さんだからと言うて、内に入れてもてなした。其から母神の呪咀によつて、富士は一年中雪がふつて、人のもてはやさぬ山となり、筑波は花紅葉によく、諸人の登る事が絶えぬとある。
新嘗の夜は、神と巫女と相共に、米の贄を喰ふ晩で、神事に与らぬ男や家族は、脇に出払うたのである。早稲を煮たお上り物を奉る夜だと言つても、あの人の来て居るのを知つて、表に立たして置かれようか、と言ふ処女なる神人の心持ちを出した民謡である。後のは、亭主を外へ出してやつて、女房一人、神人としての役をとり行うて居る此家の戸を、つき動かすのは誰だ。さては、忍び男だな、と言ふ位の意味である。
神社が祭りを専門に行ふ処と言ふ風になつて、家々の祭りが段々行はれなくなると、家の処女や、主婦が巫女としての為事を忘れて了ふ様になる。其でも徳川の末までは、一時イツトキ※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)などゝ言つて、女の神人を、祭りの為に、臨時に民家から択び出す様な風が、方々にあつた事を思へば、神来つて、家々を訪問する夜には、所謂「女の家」が実現せられたのであつた。
沖縄でも、地方々々の祭りの日に、家族は海岸などに出て、女だけが残つて、神に仕へる風が可なり多い。

底本:「折口信夫全集 2」中央公論社
   1995(平成7)年3月10日初版発行
底本の親本:「古代研究 民俗学篇第一」大岡山書店
   1929(昭和4)年4月10日発行
初出:「女性改造 第三巻第九号」
   1924(大正13年)年9月
※底本の題名の下に書かれている「大正十三年九月「女性改造」第三巻第九号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
※訓点送り仮名は、底本では、本文中に小書き右寄せになっています。
※平仮名のルビは校訂者がつけたものである旨が、底本の凡例に記載されています。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2004年1月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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