爾雅の研究に就いては余は嘗て之を二つの方面から考へたことがある。即ち一は新らしい言語學に依つて研究する方法であつて、これは爾雅が如何なる成立ナリタチの書であるとも、又其の中に含んでゐる言語が如何なる時代、若しくは地方のものであるとも、それらのことを必ずしも穿鑿することなしに、單にこれを支那古代の言語を集めた書として、其の傍近の種族が有する國語に比較し、共通した語根を有するや否やを考へ、其の關係を明らかにするので、其の方法は東亞諸國の言語に對する智識を必要とするのであるが、余は嘗て主に東北塞外種族の言語即ち大體ウラルアルタイ語系に屬する言語から考へて、爾雅の中にそれらの言語と一致する言語があるか否かを檢し、其の一端を一度京都大學の言語學會で發表したことがある。當時余は別に稿本をも留めなかつたが、之に就いては他日一の研究論文として學界の批判を請ふべき機會があらうと思ふ。それから今一つの研究方法は爾雅を以て普通に傳へられてゐる如く諸經に對する辭書として、爾雅そのものゝ成立と同時に、諸經の發展をも相關係せしめて考へることであつて、其中の言語が如何なる時代若しくは地方のものであるかと云ふことも或る程度までは考へ得られるので、其の編纂された次序、意義等から推して、某の時代、某の地方の言語を含む經籍が、やはり某の時代、某の地方に於て竄改されたのでないかといふことを斷ずる資料とするのである。此方法に就いては余は久しき以前より興味をもつてゐたが、近頃此の方法に依つて少しく研究を試みた所があるので、猶ほ不完全ではあるが、兎も角其得たる所を發表して吾黨諸君の批判を請ふことにしよう。
 爾雅の成立に就いては、舊來の註疏などの説では、皆其の初を周公に歸してゐて、郭璞の序にも爾雅は蓋し中古に興り漢氏に盛なりと言ひ、※(「形」の「彡」に代えて「おおざと」、第3水準1-92-63)疏に中古とは周公のことであるといつてゐる。又※(「形」の「彡」に代えて「おおざと」、第3水準1-92-63)疏には解家の説く所として先づ春秋元命包の語を擧げ、爾雅は周公の作であるといひ、更に今俗傳ふる所の三篇の爾雅は或は仲尼の増す所とか、或は子夏の益す所とか、或は叔孫通の補ふ所とか、或は沛郡の梁文の著はす所とかいふ諸説を擧げて、先師の口傳には既に正驗無しと言つてゐる。所が後世の學者は之に就いて多く疑問を抱いてゐて、朱子は其の語類に爾雅は傳注を取つて作れるものなるに、後人は却て爾雅を取つて傳注を證すと言つて居り、四庫全書總目提要にも爾雅の古書としての價値をば頗る疑つてゐる。尤も提要には大戴禮の孔子三朝記に孔子が魯の哀公に爾雅を學ばしめたといふことが見えてゐるので、それを以て爾雅の由來の遠い證據としてゐるが、かやうな考證の方法には余は勿論異議がある。又提要に爾雅の出來たのは詩傳を作つた毛亨以後であるとし、大體小學家が舊文を綴輯し、遞に相増益したもので、周公孔子といふは皆依託の詞であると言つてゐるのは然るべきことであるが、揚雄の法言に爾雅を以て孔子の門徒が六藝を解釋したものとしてゐるのも、王充の論衡に爾雅は五經の訓詁であるといつてゐるのをも排して、爾雅の五經を釋するは十の三四にも及ばず、又專ら五經の爲めに作つたものでもないと言ひ、楚辭、莊子、列子、穆天子傳、管子、呂氏春秋、山海經、尸子、國語等と同じ語のあるのは盡く爾雅がこれらの書から取つたのであると解し、爾雅は本來方言急就の流であるが、説經家が古義を證するに都合がよい所から之を經部に列するに至つたに過ぎないといふやうに批判してゐる。此の批判は頗る極端なもので、提要に爾雅が經書以外の諸書の文を取つたといつてゐる所のものは、實は戰國から漢初の頃までの間に出來た種々の書籍に多く共通して載せられてゐるものであつて、其の何れが前であるとも後であるとも定め難いのであるが、それを偏に諸書が前で爾雅が後であると斷じたのは決して當を得たものと云ふことが出來ない。尤も楚辭の如きは漢初に於て經書と同樣に世に重んぜられたものであらうから、是れは或は經書と同じくそれに對する訓詁とすべき部分を爾雅に含んでゐると見られないこともない。それで平心に考へると勿論從來傳へられてゐる所の爾雅が周公の作で孔子、子夏、叔孫通、梁文の増補を經たといふことは不確實であらうが、然し其書の成立が初めに或る部分が出來、それから次第/\に附益され、或は叔孫通や、梁文の頃まで附益されて來たといふことは其人の主名さへ信じなければ、發展の順序だけは大體從來傳へられてゐる通りであるかも知れない。
 さて以上は爾雅の成立に就いて單に傳來の上から常識に依つて判斷したのであるが、此の判斷が正確であるか否かを檢するには、其の内容が此の判斷と一致するか否かを檢するに若くはない。余は其の方法に依つて出來るだけ之を檢したのである。先づ大體上から爾雅を通覽しても直ぐ分ることは、最初釋詁一篇が出來、之に次いで釋言が出來、釋訓以下は次第に増益されたものであるといふことである。試みに其の一部分を證據立てるならば、釋詁に
[#「示+煙のつくり」、26-10]祀祠蒸嘗※(「示+龠」、第4水準2-82-77)祭也
とあるのは即ち祭のことを釋したので、最初の爾雅はこれだけの解釋で滿足してゐたのである。然るに釋天に至り、更に祭名の一章を生じて釋詁にあるよりもずつと細かい解釋をしてゐるが、其の中、※[#「示+勺」、26-12]祠嘗蒸等の主なる祭は全く釋詁と重複してゐるのである。次に釋言篇の如きに至つては全く釋詁の體裁に依つて別に作られたものであつて、編纂の方法にも何等新らしい考が見えてゐない。即ち前に釋詁があつたので、それに對して同じ體裁のものを作つて見たに過ぎないのである。釋訓篇の如きは又釋詁釋言の體裁を學んで、その上に當時既に行はれてゐた詩書、特に詩に對して特別に作られたやうなものである。其他釋親以下の各篇は大體に於て釋天篇と同じ體裁であつて、最初の爾雅が專ら動詞の解釋たるに對して、名詞の解釋を補つたものゝ如くに見える。※(「形」の「彡」に代えて「おおざと」、第3水準1-92-63)疏にも
其諸篇所次、舊無明解、或以爲有親必須宮室、宮室既備、事資器用、今謂不然、何則造物之始、莫先兩儀、而樂器居天地之先、豈天地乃樂器所資乎、蓋以先作者居前、増益者處後、作非一時、故題次無定例也。
とあるは、其當を得たものと思ふ。要するに爾雅の最も古く、又最も完全な體裁を保つてゐるのは釋詁であるといつてよいのである。
 さて爾雅の中で最も古い此の釋詁篇が、其の編次に最初から意義のあつたことは、又疑ない所である。このことは既に※(「赤+おおざと」、第3水準1-92-70)懿行の爾雅義疏に注意して次の如く述べてゐる。即ち釋詁篇は始也より以下終也より以上、皆古言を擧げて釋するに今語を以てしたものである。又釋言篇は上篇即ち釋詁篇が首に始を言ひ末に終を言へるに對して、首に中を言ひ亦末に終を言ふ、蓋し中を以て始終の義を統べ而して上下の詞を包んだものであるといふのである。これに據れば釋詁篇が初めより一定の體裁で作られ、釋言篇もそれに倣つて作られたものたることは、※(「赤+おおざと」、第3水準1-92-70)懿行も明らかに認めて居るのである。所が其體裁から考へて尤も疑問となるのは釋詁篇に於て殊に重複の多いことである。これに就いて※(「赤+おおざと」、第3水準1-92-70)氏が文字重複、展轉相通、蓋有諸家増益、用廣異聞、釋言釋訓以下、亦猶是焉と言つてゐるのは確實であるが、郭註及び※(「形」の「彡」に代えて「おおざと」、第3水準1-92-63)疏には此の重複を以て互訓であると考へ、例へば舒業順敍也、舒業順敍緒也といふのには、※(「形」の「彡」に代えて「おおざと」、第3水準1-92-63)疏に互相訓也といひ、粤于爰曰也、爰粤于也といふのには、郭註に轉相訓としてあつて、すべて此類のには兩方から互に相訓じたものであると解釋したのは誤であらうと思ふ。これは寧ろ初め舒業順の三字を敍の字で以て解釋するのみで足つてゐたのを、後に緒の字が新に用ゐられてきて、新語を以て舊語を更に解釋する必要を生じたから、斯くの如く重複するに至つたものと視るのが妥當であらう。尤も此の重複即ち一部の竄入は、必ずしも以前からの解釋の次に加へられるとは限つて居らないで、時としては其の前に加へられることもある。然し兎も角此の重複が順次に増益されたものなることは正に※(「赤+おおざと」、第3水準1-92-70)氏の言ふ如くであるとせねばならぬ。即ち大體に於て爾雅の各篇は十九篇の中に既に製作の時代の相違がある上に、其の各篇の中にも又時代の違つた増益のあることを知り得るのである。所で此の増益は※(「赤+おおざと」、第3水準1-92-70)氏の言ふが如く單に異聞を廣むといふ無造作な意味のものであらうか。これが更に研究すべき興味ある問題である。
 先づ其の問題に就いて非常に感ずるのは清朝の經學者などが大に輕蔑する※(「形」の「彡」に代えて「おおざと」、第3水準1-92-63)疏に却て頗る貴重なる資料を含んで居ることである。爾雅の郭璞の序の※(「形」の「彡」に代えて「おおざと」、第3水準1-92-63)疏に春秋元命包を引いてゐるが、其の中に
子夏問、夫子作春秋、不以初哉首基爲始何、是以知周公所造也、
とある。この釋詁が初哉首基の字で始まつてゐるから周公の作でなければならぬといふのは勿論妄斷であるが、然し春秋に用ゐてある所の始といふ意味の字は元とか正とかの字であつて初哉首基の字でないといふことが、既に漢代から疑問になつてゐたのは大に注意すべき所である。初哉首基の字は主として尚書の大誥、康誥、召誥、洛誥等の諸篇に用ゐられてゐる文字であつて、周公に關係がある所から、漢代の緯學に於て爾雅をも周公の作と判斷したのは必ずしも無理ならぬことである。尤も今の爾雅には始也とある中に元の字をも含んでゐるが、これは或は後人の竄入であるか或は他書の中にある元の字の解釋であるかも知れない。[#著者所蔵の「研幾小録」の欄外には、「召誥 其惟王位在徳元(孔傳其惟王居位在徳之首)」といふ著者の書き込みがある。]※(「形」の「彡」に代えて「おおざと」、第3水準1-92-63)疏には易の文言の元者善之長也を引いて居り、又邵晉涵の爾雅正義には呂氏春秋造類篇に元者吉之始也とあるのを擧げ、又た説苑奉使篇に史黯曰元者吉之始也を引いてあるが、この造類は召類の誤りであるらしく、召類篇には史黯を史默に作つてあるが、是れはいづれも易の渙卦の爻辭によつて説を爲したもので、文言を引いたのと同意義である。易の經に列したのは春秋より先だとも考へられないから茲に問題としない。それで以上の證據から次の如き疑問を發することが出來る。即ち爾雅の釋詁が最初に製作せられた時には未だ春秋は製作せられてゐなかつたのではないかといふことである。少くとも爾雅の如き辭書に、春秋の書中の文字を解釋する程までには未だ世に行はれてゐなかつたといふことを考へ得るではなからうか。
 次に又尤も重大な疑問とすべきことは、※(「赤+おおざと」、第3水準1-92-70)氏の言へる如く釋詁も釋言も共に終也を以て終るべき筈であるのに、釋詁が終也を以て終らないで其の次に崩薨無禄卒徂落殪死也を以て終つてゐることである。これから生ずる疑問は釋詁篇が最初に出來た時は崩薨無禄卒徂落殪死也の一節が未だ無かつたのみならず、釋言が釋詁の體裁に從つて爾雅に附加へられた時にも猶此の一節が無かつたのではなからうかといふことである。而して更に其の次に起る疑問は此の一節の中で崩薨無禄卒の四語は皆春秋に見はれた所の文字であることであつて、始也の中に春秋の中の言葉を含んで居らないことゝ對照して、益々春秋の製作が最初の釋詁の出來た後に在るのではないかと思はしめるのである。
 更に此の死也の一節から生ずる疑問は徂落といふ尚書堯典の中の文字が釋詁の増益せられた部分に存在してゐることである。之と相應じて同じく疑問とすべきは爰粤于那都※(「搖のつくり+系」、第3水準1-90-20)於也との一節である。この一節は粤于爰曰也と爰粤于也との二節の次に見えてゐて、前の二節は郭璞からして既に轉た相訓ずと解してゐるが、此の一節は前の二節に較べると明らかに附益せられたものなることを知り得るのである。その中都の字は郭璞の注にも皐陶曰都を引いてゐる如く、明らかに皐陶謨から取つたものであるが、それが前の二節に對して後から附益せられたと思はれる一節の中に見えてゐるのは注意すべきことである。然かも徂落とか都とかいふ文字は決して當時の通用語ではなく、何か古語か若しくは方言かであつて、其の一般に行はれたらしく思はれぬ語であることも注意すべきである。これらの點に依つて典謨の諸篇が晩出の書であるといふ疑問をも生じ、又その晩出の書は多く務めて古語若しくは方言の如き通用語ならざるものを含んでゐて、其の書が最初の爾雅よりも以後に現はれて來たのではないかといふことが考へ得られるのである。猶ほ之と相關聯して考ふべきことは平均夷弟易也とある一節の中の弟の字である。此の字は堯典の中に古文では平秩東作とあるのを、今文には平秩を便※[#「豊+弟」、29-16]に作つてゐることに依つて、今文の方の文字が爾雅に見えてゐるといふことも考へられ、又同時に此の弟の字なども所謂互訓といふ重複の證據はないけれども、矢張り後來の附益でないかとも考へられるのである。それから又鬱陶※(「鷂のへん+系」、第3水準1-90-20)喜也の一節に就いて考へねばならぬことがある。それは鬱陶の字である。この字は今の尚書には見えて居らない。然しながら孟子滕文公篇に舜のことを書いて古書を引いたらしく思はれる文があつて、それは從來の學者も既に注意して舜典の一片であらうとまでいはれてゐるが、其の中に鬱陶の字が見えてゐるのである。それで最も多く詩書の語を含み、詩書以外の語を餘り含んで居らぬ釋詁篇に鬱陶の字が見えてゐることは、それに依つて從來の學者の舜典の一片であらうと云ふ説が多分當つてゐると考へ得られるのである。勿論これは互訓の證據とすべきものが無いのであるが、恐らく徂落とか都とかいふ文字と同じ時に釋詁に増入せられたものに相違無からうと思ふ。
 釋言篇は大體釋詁の體裁に倣つたものであるが、其の篇首の殷齊中也といふ一句は、此篇の出來た頃の時代思想の特徴を表はしてゐるとも謂ふべきものである。釋地篇の九府の條に東西南北其他八方の産物を擧げて、最後に中有岱岳、與其五穀魚鹽生焉とあるに依つても、岱岳の附近を支那の中央と考へる思想が或る時代に存在してゐたことが分るのであるが、これと一致した思想は又同じく釋地篇の四極の條に、距齊州以南、戴日爲丹穴、北戴斗極爲空桐、東至日所出爲大平、西至日所入爲大蒙とあつて、郭璞も齊中也と注して居り、齊州とは即ち中州といふ意味に用ゐられてゐる。丁度此の思想と釋言の齊中也との思想とは大體一致するのであつて、恐らく戰國の頃文化の中心が齊にあつた時、即ち稷下に多く學者が集つた時代の思想と推測し得られるのである。それから殷中也に就いては、郭璞は書の堯典の以殷仲春で解釋してゐるけれども、齊中也と同じやうな意味から來たものとすれば、殷も地名と考へてよいのである。殷を中央とする思想は矢張り孔子を素王とする思想と關係があるので、殷中也との解釋は恐らく孔子素王説の起る頃に出來たのではないかと思ふ。さうすると釋言の篇首に此の二つの異つた思想が一句に含まれてゐるのは如何といふに、恐らく最初は殷中也だけであつたのが、後になつて齊中也が竄入せられたのであるかも知れない。それで大體から考へても釋言の全體の體裁は釋地などの體裁よりも古樸に出來てゐるから、釋言の製作は殷中也との思想の起つた時代にあると見るのが適當であらう。さうすると大體七十子以後孟子以前の時代と考へてよからうと思ふ。從つて釋詁が其の以前に出來たとすれば、周禮大宗伯の疏に爾雅者孔子門人作以釋六藝之文言とあるのが、必ずしも無稽といふことが出來ぬのである。
 次は釋訓篇であるが、邵晉涵が此篇所釋、始乎明、終乎幽也といつた所から考へると、釋詁篇が單に始也に始まつて、終也に終つた最初の體裁に※(「にんべん+方」、第3水準1-14-10)つて作つたのではなくして、死也で終るやうに附加された後の體裁に※(「にんべん+方」、第3水準1-14-10)作したといふことが分る。此篇は一篇中前後兩節に分け得るやうに出來てゐて、前半は主として詩書に見えてゐる疊辭の解釋であるが、後半即ち朔北方也以後は頗る雜になつてゐる。尤も前半も其の末の方即ち子子孫孫引無極也以下の部分は其の前と體裁を異にし、前の部分は疊辭の解釋とはいへ、猶其の釋しかたが簡單であつて、釋詁釋言に近い體裁を存してゐるに反して、子子孫孫引無極也以下は直接に其の言葉の解釋をするのではなくて、頗る詩序の體裁に近くなつてゐる。それから後半の中で前の部分は既に書傳若しくは春秋公羊傳などの解釋を含んで居り(一)[#「(一)」は自注]、又或る部分は全く今日の大學の文句そのまゝである。即ち如切如磋道學也から有斐君子、終不可※(「言+爰」、第4水準2-88-66)兮、道盛徳至善民之不能忘也までがそれである。又後半の末の部分は揚雄の方言などゝ類似した所もあつて、益々その後世の附益たることを疑はしめるのである。然しそれでも履帝武敏、武迹也、敏拇也と解釋してゐるのを見ると、これは詩の大雅生民篇の解釋であるが、恐らく三家詩と一致するものであつたらしく、毛傳とは全く解釋を異にしてゐるのである。これらの證據から考へると、四庫全書提要に爾雅の出來たのを毛傳以後と考へてゐることが頗る薄弱になる。今日三家詩は傳つてゐないが、釋訓篇の存在することによつて、三家詩の序の體裁は大體斯くの如きものではなかつたらうかといふことが想像し得られるのである。毛傳は恐らく三家詩以後に其の體裁を學んで新らしく書かれたものであるかも知れない。
 以上兎も角釋詁から釋訓に至る三篇は詩書の古い部分、若しくは古い傳の解釋といふべきものであつて、後に附益せられたと思はれるものでも、春秋公羊傳がそれに加つてゐる位の程度である。それから考へると、畢竟最初に出來た經書は詩書の大部分であつて、其次に春秋が出來たのであるらしい。而してそれは先づ齊の稷下の學問の起る前まで位の時代に出來たと推斷し得ると思ふ。
 それから釋訓以下の各篇即ち釋親・釋宮・釋器・釋樂・釋天・釋地等の各篇であるが、其の大部分は禮に關係のあるものである。これらの諸篇は禮學が起つたが爲めに、其の解釋として必要になつたのである。それで釋親は禮に於て最も重んずる宗法の爲めに書かれたものであり、釋宮以下は名物度數の解釋をしたものである。其の中で時代思想のいくらか見はれてゐるものを擧げると、例へば釋天の歳名の條に夏曰歳、商曰祀、周曰年、唐虞曰載とあり、又祭名の條に周曰繹、商曰※(「月+彡」、第4水準2-85-17)、夏曰復祚とあるが如き其の一である。一體三代を並べ稱する考は、既に論語などにも見えてゐるが、孟子には殊に著るしく、三代の田賦の比較異同などを委しく説いてゐる。それで何事でも三代を並べ稱することは、矢張り或る時期から起つた思想に依つて支配せられたものと思はれる。こゝに擧げた歳名の中でも、商には祀といひ、周には年といつたといふことは、當時の簡策とか金文とかに證據のあつたことであらうが、夏に歳といつたといふが如きは別に證據のあつたことではない。況んや唐虞に載といつたなどに至つては勿論問題とならぬ。祭名に於ても、周の繹、商の※(「月+彡」、第4水準2-85-17)は、猶經に徴證があるが、夏の復祚に至つては諸家の爾雅に此言なく、郭璞の本のみ之あり、その郭璞も未見義所出と注してゐる位である。これらは皆三代を並べ稱する時代思想に依つたもので、其の中には強ひて三代を並べんが爲めに無理につけた名前もあることゝ思ふ。此の三代を並べ稱するのは、多分夏正といふものが暦法家に依つて考へられ、制度の沿革といふことが禮家に依つて考へられた時代、即ち戰國の初期の頃に出來た時代思想であらう。之に依つて推すと、經傳の中にある種々な制度の沿革を三代に割當る思想の根柢を見出すことが出來るのである。鄭玄なども經書を注する時に、古文の禮制と今文の禮制とが符合せない場合には、多くは今文のものを殷の禮であるとして解決した。然るに朱子は其點に就いて破綻を窺知し、語類に漢儒説禮制、有不合者、皆推之以爲商禮、此便是沒理會處、と言つてゐる。
 それから釋天釋地には他の經書若しくは他の書籍と一致しない説があるが、それは却て研究の手掛りとなる所のものである。例へば釋天にある歳陽の名は史記歴書のそれと一致しない。尤もこれは爾雅の方が多分誤であらうと思はれる。それは太歳在戊曰著雍、在己曰屠維の二つが字形の類似に依つて同じものらしく推測せられるからである。若しさうすれば自然他のものも誤つてゐるのではないかと考へられぬことはない。兎も角史記とは傳來の相違といふことだけは疑なき所である。それから又星名が二十八宿整頓してゐないことも淮南子などゝ相違する點であるが、これも二十八宿説が起らぬ前に書かれたものとも考へることが出來るし、或は爾雅の筆者は星暦の專門家でなかつた爲めに疏略に流れたものとも考へることが出來るのである。猶最も著るしい相違のあるのは釋地に見えた九州である。其の書き方が初めの七州だけは禹貢若しくは周禮職方氏などゝ類似してゐるが、末の二州は河の南とか漢の南とかいふ書き方でなく、燕曰幽州、齊曰營州といふ樣な前の分と類しない書き方をしてゐる。齊曰營州といふのが最後に在ることを見ると、矢張り稷下の學問の殘※(「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64)を擧げる輩が書いたらしく思はれるが、體裁の不揃なのは、地理の專家が書いたのでない爲かも知れない。要するに禹貢とか周禮職方氏とかと相違のあるのは、九州に關する傳來の相違であつて、これが殷の制であると郭璞以來解釋してゐるのは朱子の言ふ如く無意味なことである。それから十藪なども大部分は職方氏、呂覽と出入してゐるが、矢張り傳來の異同を見るに足るものである。此の釋地に類似したもので、釋丘、釋山、釋水の三篇があるが、これは殊に晩出の疑があつて、禹貢若しくは山海經、楚辭などの或る部分の如き地理に關する記述が流行り出した頃の作と考へられ、恐らく戰國末期のものらしい。殊に此の三篇の中で釋丘の初めの部分には山海經の解釋と思はれる所がある。釋山の中で五山五嶽に關することが初めと終とに見えてゐて、然かもそれが一致しないなどは、一篇の中に時代若しくは學説の相違が見はれてゐることを示すものであるが、これは恐らく秦漢の際に書かれたものと考へられるのであつて、其の最後の梁山晉望也の句は春秋傳并に國語などゝ關係をもつことを示すものである。然かも梁山が晉の望なる意味が公羊傳にはこれ無く、他の二傳及び國語には共に見えてゐるといふことは、三傳の前後の關係を示すことともなるものである。それから釋水の末の部分で河曲なども矢張り山海經と關係があり、九河は禹貢の解釋とも視るべきものである。これらは山海經と禹貢とが、一は信用すべき經書で、一は信用するに足らぬ小説雜記であるといふ考の反證になるものである。而して又山海經と禹貢との出來た時代も殆ど大差がないといふことが、それに依つて考へ得られるのである。
 次の末の方の釋草釋木釋蟲以下の各篇は、即ち論語に詩を學べば多く鳥獸草木の名を知ると言つてある實證ともいふべきもので、大體は詩の解釋であると視て差支ないのである。或は今日の詩に見えない物名があつても、それを以て直に詩以外のものゝ解釋と速斷することは出來ない。三家詩の佚亡した今日に於て、昔詩の本文に今の毛詩と何れだけ異同があつたかを十分に知ることが出來ぬのみならず、その上それらの物名の解釋には、詩の本文にあるものゝみではなく、詩傳に見えたものゝ解釋をも含んでゐるかも知れない。經書の始めて世に出た頃には、之を傳ふる各家は其傳と共に出したので、爾雅が之に對する解釋も、經傳を嚴密に分けて考へないといふことを知らねばならぬ。これは春秋の傳などに於ても同樣である。但詩の外に楚辭の解釋を含んでゐることは爭はれぬ事實である。恐らく楚辭の學は漢初に於て殆ど經書の研究と同樣に盛であつたので、自然その解釋が爾雅の中に入つたのであらうと思ふ。
 最後に問題となるのは釋獸釋畜の二篇であつて、其の成立に就いては疑問がある。元來釋獸の中には既に釋畜に屬すべきものを含んでゐる。即ち豕子豬より牝※[#「豕+巴」、34-17]に至る部分の如きはそれである。然るに釋獸の後に釋畜一篇があつて、特別に六畜に關することなどを釋してゐるのは、或は此の二篇が二度に時代を異にして出來たのではないかと考へられる。※(「赤+おおざと」、第3水準1-92-70)懿行も其の豕が六畜の一で、釋獸の中に在るのは誤つて置かれたものとしてあるが、寧ろ二度に出來た爲と看る方がよいと思ふ。或は釋草より釋獸に至る各篇は元來詩其他の古書の解釋として先づ出來てゐたのに對し、釋畜だけが後から附益せられたものと疑ふことも出來るのである。釋畜篇の末の部分は殊に易の説卦傳と關係があるらしく思はれる所がある。説卦傳には、兌を羊とし、艮を狗とし、巽を※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)とすることが見えてゐるが、釋畜の最後にそれらのものが一所に列んで擧げられてゐる。このことは邵晉涵も※(「赤+おおざと」、第3水準1-92-70)懿行も已に注意して居る所である。それから同じく説卦傳に乾爲駁馬、震爲※[#「馬/廾」、35-6]足、爲的※(「桑+頁」、第3水準1-94-2)、とある。これらは餘り他書に見えない名であるが、釋畜の馬屬の中に含まれてゐる。即ち駮如馬とか、膝上皆白惟※[#「(馬−れんが)/廾」、35-7]とか、(後)左(足)白※[#「(馬−れんが)/廾」、35-7]とか、※[#「馬+勺」、35-7]※(「桑+頁」、第3水準1-94-2)白顛とかあるので、其中駮は山海經にも出で、※[#「(馬−れんが)/廾」、35-8]は詩にも出て居るが※[#「馬+勺」、35-8]※(「桑+頁」、第3水準1-94-2)は易のみに限られて居る。[#著者所蔵の「研幾小録」の欄外には、「秦風車鄰有馬白顛傳白顛的※(「桑+頁」、第3水準1-94-2)也」といふ著者の書き込みがある。]又釋畜に馬八尺爲※[#「馬+戎」、35-9]といへるに對し、郭璞は周禮を引いて之に注してゐるが、周禮には※[#「馬+戎」、35-9]の字が龍になつてゐる。そこで※(「赤+おおざと」、第3水準1-92-70)懿行の考に依れば、説文※[#「馬+來」、35-10]字下云、馬八尺爲龍、月令駕蒼龍、注馬八尺以上爲龍、淮南時則篇注引周禮、及後漢書注引爾雅、亦倶作龍、郭引作※[#「馬+戎」、35-11]者、欲明此※[#「馬+戎」、35-11]與彼龍二者相當、因改龍爲※[#「馬+戎」、35-11]、非周禮舊文也、といつて居る。この龍も易に最も屡々用ゐられる龍の字の解釋で、説卦傳では震爲龍とある龍のことであるかも知れない。これらから考へてみると、易の説卦傳と爾雅の釋畜篇とは關係があつて、易が經書として認められる頃の時期が、即ち爾雅の編纂の完成せられる頃であつたらうといふことになるのである。若しそれが漢の初め頃とすれば、即ち易の方では田何、爾雅の方では沛郡の梁文の頃となり得るのである。

 以上述べた所を總括すると、爾雅の中でも釋詁篇は七十子を距ること遠からざる時代、若しくは七十子の末年に出來、其後戰國の初め頃までの間に種々附益せられたものと考へ得る。釋言篇は七十子の次に來る時代、即ち孔子を素王とする時代に出來て、稷下の學問の盛なりし頃までに附益せられたものである。釋訓篇は尤も多く種々な時代を含んでゐて、釋言篇と大體同じ頃から漢初までに亙つて附益せられて來たらしい。釋親以下釋天に至る各篇は、公羊春秋が發達して禮學の盛に起つた時代、即ち荀子の前後から漢の后蒼高堂生の頃までの間に出來、釋地以下釋水に至る各篇は矢張り戰國の末から漢初までに成り、釋草より釋獸に至る各篇は、或は詩の解釋としては古い時代から存在してゐたかも知れないが、先づ漢初までに成り、最後に釋畜篇が漢の文景の頃に出來たのではないかといふ考である。但それは爾雅そのものゝ成立の沿革であつて、これから推測される所の經籍の世に出た次第を云へば、書の周公に關する部分、それに詩の風雅并に周頌魯頌あたりまでは爾雅の釋詁篇の古く出來た部分に依つて解釋されるやうになつて居り、書の洪範其他殷に關する部分、及び詩の商頌などは釋言篇の古く出來た部分に依つて解釋されるやうになつて居り、書の唐虞に關する部分、及び春秋公羊傳の基礎になつた部分は、釋詁篇、釋訓篇などの附益せられた部分に依つて解釋されるやうになつてゐる。これらは經書の中で尤も早く出來たものと看做し得るのである。勿論其の間に多少の早晩はあるが、先づ孟子の頃位までの間に出來たものといつてよからうと思ふ。余の考では、公羊傳の如きは春秋の傳ではあるが、これには史學といふ觀念があるのではない。其點は穀梁傳も同樣で、春秋に史學らしい觀念の出來たのは左傳から始まつてゐる。公羊傳はいはゞ春秋を禮で解釋したもので、公羊春秋が盛になつた後には、次いで禮の學問が發達してくるのが當然であるやうである。爾雅にも其の徴候が見はれてゐて、釋親篇以下が禮の解釋となつてゐる。それから其他に戰國の末年から地理の學問などが特別に起つて、書の禹貢、周禮の職方氏、山海經などの如きものが出來上つたのであるが、それに對して爾雅では釋地篇より釋水篇に至る諸篇がある。釋草篇から以下の各篇に就いては、其の出來た年代を的確に考へ得られない。尤も詩に關したものが多いけれども釋詁篇や釋訓篇の時代とは確に違ふやうで、矢張り揚雄の方言の如く、支那の文化や言語が多種多樣になつた結果として、名物が中國の言語のみでは一般に通用し難くなつた所から、これらの諸篇を作る必要が起つたものと考へられるのである。さうしたならば恐らく戰國の末年の頃のものかと思はれる。それから最後の釋畜篇はそれよりも以下の時代に出來たものらしい痕跡が明かに見えるのに、それが易の説卦と關係のあることを考へると、易が經書に列せられたのは最も晩く、章學誠が易は田何の時に始めて竹帛に入つたといつてゐるのが、必しも誤ではないと思はれるのである。
 さて余は前に尚書の編成を考へて、單に時代思想の上から、即ち單に經書に含まれてゐる思想の上から演繹して、其發展すべき自然の順序に依り、尚書の各篇の出來た次第に就いて説明を試みた。而して其の方法を應用すれば、勿論他の經書にも類似した説明が出來得ると信じてゐたのである。然し其の方法は單に論理的に考へてゆくばかりで實證を伴はないものであつたから、他の經書までも其の方法を應用することは餘程複雜な手數を要するものなることを知つた。故に今度は其の方法を一變して諸經の辭書と考へられる爾雅を基礎として、其の實證となるべき部分を拾出し、爾雅の成立に併せて經書の發展する次第を考へてみたのである。この方法も附益、竄入、訛誤などの澤山積重つてゐる古書を取扱ふ方法としては、勿論之に依つて隅から隅まで動かないやうな研究を遂げることは困難であるが、大體の徑路を此の方法に依つて考へるならば、古書の研究に一道の光明を與へ得られないとも限られない。これ余が妄斷の誹を甘んじて受ける覺悟で斯くの如き試みを敢てした所以である。
(大正十年九月、十月「支那學」第二卷第一號、第二號)
  自注
(一)朔北方也は尚書大傳の堯典に北方者何也伏方也と關係があり、曁不及也の句には郭注に公羊傳の隱公元年の文を引て解釋して居る。

底本:「内藤湖南全集 第七卷」筑摩書房
   1970(昭和45)年2月25日発行
   1976(昭和51)年10月10日第2刷
底本の親本:「研幾小録」弘文堂
   1928(昭和3)年4月発行
初出:「支那學 第二卷第一號、第二號」
   1921(大正10)年9、10月発行
※底本の、異体字と思われる「馬/廾」と「(馬−れんが)/廾」の混在は、ママとした。
※本ファイル中に現れる「著者の書き込み」は、底本の親本である「研幾小録」の校本として著者が手許に置いていたものの欄外に、書き入れられていたものである。底本には、編集に当たられた内藤乾吉によって、当該箇所に挿入された。
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年9月21日公開
2006年1月17日修正
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