前書

 女人芸術の編輯部から一つのたのみをうけた。それは、十月号からずっと二三ヵ月つづけて、文学に関することを何か講座風に書いてくれというのだ。
 その話をきいた時はもう締切り間もなく、おいそれと云って、まとまった筋書が立たない。自分はもし時間があったら、ソヴェトの現代作家が作品の中に婦人をどうとり扱っているか、そしてそれは、例えばツルゲーニェフやチェホフ、トルストイでもよい、革命までの所謂ロシア文学の中に現れた女性と比べて、どう階級的な、大飛躍をしているかというようなことを具体的に調べて見たいと思った。今からそれはとても間に合わない。
 そこで、とにかく、われわれがプロレタリア婦人作家として日常の芸術行動、文化活動をして行くうちの経験として最近感じた一つの問題をとりあげ、少し吟味して見ることにした。

        何故これまで婦人作家は男の作家より少なかったか

 いつだったか、ブルジョア・ジャーナリズムがやっぱりこの問題をとりあげた。そして、世界各国の歴史を通じて何故婦人作家が男より少ないか、ということを云い出したが、問題をまともに追究せず、笑い話で下げにしてしまった。
 何故男より女の作家が少ないかと云えば、文学を司る神はミューズで、ミューズは女性だ。だから動物電気の工合で、男をヒイキにするが、女とは同性で相反撥し合う。やきもちをやく。故に女の作家というのは少ないが、音楽家を見るがいい、女で素晴らしい人がこれまでも多勢出たし、いまも出つつある。音楽の神はアポローだ。男だ。女をヒイキにしてくれるアポローのおかげで女の音楽家には素晴らしいのが沢山いるのだ。そういう説明でお茶を濁していた。
 この解答が、思いつき以外の何でもないことは、誰にでも、ハッキリわかる。
 では、ほんとにどういう理由で、世界の文学はあらゆる時代を通じて傑れた婦人作家というものを僅かしか持っていないのだろうか?
 封建時代及資本主義社会においてはいつも婦人の社会的地位がひくく、したがって文化的発達の可能が男のもっている可能性に比べて常に限られていた。これが一番基本となる社会的な理由だ。
 音楽、特に女性がこれまで偉大な足跡をのこして来た声楽の場合では、その自然的な条件が文学的創作の場合と大分違う。女の喉しかソプラノの声は出さない。美しいソプラノの出る、または味のあるアルトの出るよい女性の喉を持ってさえおれば、声楽家として第一の必須条件は生理的に具わっている。規律正しい練習、健康法、その他の勉強をしてゆくに強大な忍耐と意志と聰明さがいる。そして、そういう音楽勉強の許される経済事情が必要であるのは明らかだ。それにしても、文学的創作をやってゆく場合より、女性としての自然の生理的条件が、遙かにひろい基礎的な役割をしめる。文学的創作は、理知的な構成力、綜合力を非常に要求する。どういう階級に属していようとも、自分の描こうとする社会、心理を具体的に、観察的に把握し、その全体をひっくるめた相互関係を歴史の発展性の上において理解し、整理しなければものにならない。
 われわれは、現在、世界資本主義末期の激化した階級闘争、窮迫した経済事情の裡に生きている。めいめいが一こと二ことに云いつくせない苦痛、憤怒、不安、或は未来の勝利への希望をもって、生き、闘っている。その生活の間に、いろいろ刻みつけられ、忘れようとしても忘られず、独りで坐ってでもいるときには、つい紙に向い、その事件、印象を書きたくなるようなことがある。
 どんな男でも女でも、生きて行くうちに、一つや二つ、ひとりでに書いて見たい心持の起るような経験はもっているものだ。
 ところで、いざ、書翰箋なり原稿紙なりひろげて書きはじめてみると、どうも思うように書けない。胸いっぱいに書きたい気はあるのに、どう筋を立てていいのか、或る事件をどう説明していいのか。到頭根まけがして、クシャクシャに丸めてしまいましたと云う例がよくある。
 この場合、困難は文章をかくということにだけあるのではない。われわれが口を利いて言葉で長い文章をつくれる以上、文章をつづるということ自体は問題でない。真の困難は「書きたいことが一どきに頭に浮んで」始末がつかないというところにある。
 云いかえると、A子ならA子という一人の女が、忘られない程強烈な印象をうけた事件、見聞、経験なりを、一旦ひろい社会機構の内へつきはなし、抑々そもそもそのような事件の発生した客観的な事情、そこに動いている各人物の心理動機などを解剖し、綜合して見直し、第三者にのみこめるように再びくみたてる力の不足が、困難の原因なのだ。
 これまで日本文学における和歌と小説と、どっちの領域に多くの婦人作家が活動していたか、それを比較するとその相異がわかる。
 和歌の小さい形式、一首の和歌の中に社会の一小情景を再現するか、さもなければ、主観的な感慨を再現し得る伝統的形式は、社会現象を引くるめて大きく構成的に散文として把握し得ない婦人にでも、適当な芸術形式として利用されて来た。
 ちょっと歌もよむという小中流の婦人は多い。短いものなら小説も書くという婦人は尠い。――
 イギリス、フランスは早くから婦人作家の出た国だ。イギリスは冬の長い陰気な室内生活により一般に読書好きなのと、キリスト教的な婦人の啓蒙教育のおかげで、小説の世界で中流的だが、古典でジョージ・エリオットにしろ、ジェーン・オーステンにしろ、ブロンテ姉妹、ブラウニング夫人、ギャスケル夫人等なかなかしっかりした婦人作家を出した。
 フランスはサロンと芸術の世界に婦人の解放された国として知られている。十八世紀のラファイエット夫人。ドイツのロマンチシズムをフランスに紹介しナポレオンをひどくきらったスタエル夫人。情熱的で作品の上にはっきりと婦人の社会的権利を主張したジョルジュ・サンド。現代でも詩人のノアイユ夫人。小説家のコレット。そのほか活動している婦人文学者は少くない。
 だが、イギリス、フランスでも、数と質において総体的に見れば、婦人作家は男の作家に劣っている。
 日本においては勿論そうだ。
 同じ、ブルジョア文化発達過程の中でも、婦人の文化は一般的にいって男のもつ水準より低かったこと、日常生活の中では封建的な遺物がより多くおっかぶさって解放をおくらしていたことの、これは実に雄弁な証拠だ。
 何故なら、どの国の、どの階級の文学でも、その発展はきっちりその国のその階級の経済的政治的地位、それに伴う文化の発達の程度と結びついている。
 中世紀の文学は僧侶に独占されていた。中世期の封建的なヨーロッパに支配権をもっていたのは王と貴族と僧侶だった。貴族は武力を統帥し、僧侶は貴族階級のイデオローグとして最高の文化活動を担任していた。だからラテン語で書かれたその頃の文学は、どんな馬子によっても書かれなかった。ただ僧侶のものだった。当時は文盲の王があり貴族があった。
 日本の現在までの婦人作家が、どういう階級から出て来ているかということを考えても、事実は一目瞭然だ。
 日本の既成の婦人作家はプロレタリア作家といわれている人々をこめて、没落した小市民層かそれより以上の経済的基礎をもった層から出ている。
 世界のプロレタリア解放運動は、その文化戦線をもふくめて、最近益々積極的ではあるが、残念ながら資本主義社会で大衆の文化教育機関とジャーナリズムとをプロレタリアの手の下におくところまでは行っていない。
 それは、この間うちつづけて読売新聞紙に載っていた「処女航路を行く女流作家」という紹介を見てもわかる。
「処女航路を行く女流作家」というのはよんで字の通り商業的なジャーナリズムが自身の立場から新進の婦人作家を並べて、短い自己紹介の文章と写真とを一覧に供したものだ。十人ばかりの婦人作家の名があった。中には、女人芸術その他にもう何回か作品を発表していた人もあったし、もっとひどいのは既に過去数年間、文筆家として生活して来たような人も加えてあった。だが、問題は、そこにはない。新顔として紹介された婦人作家たちの中に、ハッキリ、プロレタリア文学を把握しようとしているらしい感想を書いていたのは二三人しかなかったこと、及、その十人ばかりの婦人作家たちは、みんな小中流以上の家庭の人で、文化学院などを出た人が相当あったことだ。
 世界の経済恐慌によって、どこでも階級闘争は進展し、資本主義とその文化のもがきは、其等の新進婦人作家たちの短い抽象的な文章の中にさえ反映している。それでも商業ジャーナリズムは、遠かれ近かれ、自身の属す社会圏から婦人作家を見つけ出そうと焦っている。
 紡績工場に働いている若い婦人労働者の中に、若しかしたら、面白いプロレタリア詩をつくる婦人はいないだろうか、とは考慮されていない。そこまで大衆の中に沈まないでも、例えば『ナップ』その他にこの頃一田アキという名で望みのある詩を書く婦人が現れている。しかしそういう新しい婦人詩人のところまでは新進を求める手をのばさない。

 それにしても同じ資本主義社会の文化の中にありながら、過去において、婦人の文化水準が総体的に男にくらべてどうしても低かったというのは何故だろう? 婦人の一生にとって最も密接な影響をもっている家族制度に集中的にあらわれている日本の封建制が、全面的に婦人の発展をはばんでいる。一応婦人の自由が認められ、また女性尊重の風のある文学や科学、政治、経済という真面目な仕事に婦人の進出がまれであったことこそ資本主義の社会での文化の本質的な特徴なのだ。
 人道主義的な動機から、キリスト教的な表現として、エレン・ケイがそれを主張して以来、わたしたちは母性の尊重とか、人間としての男女平等とかいう文句を毎日耳にしている。然し、世界の資本主義の社会は、果して現実に母性を尊重し男女平等の待遇をしているだろうか?
 実例を、日本にとって見よう。
 日本には、百五十三万四千三百十四名(一九三〇年六月、社会局)の婦人労働者があり、その六割六分までが工場労働者だ。資本主義社会の生産は、こうして夥しいプロレタリア婦人の労力によって運転されているのだが、資本家の利を守るために行われる産業合理化によって労働時間は九時間以上十一時間、十三時間(!)という驚くべき苛酷さだ。婦人労働者の賃銀は、一九二七年、工場労働者総数平均賃銀が、男二円十五銭に対して女はタッタ八十七銭だった。差は一円二十八銭という額にのぼっている。経済恐慌によってこのヤスイ賃銀もズルズル低下し、昨年頃は婦人工場労働者の平均賃銀は八十四銭まで落ちた。弁当もちで、交通費をもって、この有様だ。企業者は、この話にならない賃銀さえスラリとは渡さない。どの工場でも何よりみんなのいやがる罰金制、歩増制度、強制貯金などが行われているのは、誰でも知っている。日本では婦人労働者がその八割六分を占めている繊維工業者らは、実物供与、寄宿舎、光熱、被服、賄等を会社の手に独占して更にそこから儲けている。而も一九二五年、六百二十軒の工場で、宿舎に雨戸のあるのが二百四十九軒。雨戸のないのが三百七十一軒という有様だ。そういうひどい条件で働いている十四から二十四五の婦人労働者は、どの位の文化程度をもっているものだろうか。不就学、さもなければ小学中途退学が一番多い。
 その低い文化水準を高めるために、経営者たちは工場の寄宿舎につめられている労働婦人にどんなものを読ませ、どんな講話をきかせているだろうか?
 商業ジャーナリズムの一隅、工場御用雑誌営業者が歴と存在して、『白百合』『処女』などという印刷物を出し、婦人労働者の奴隷的地位の太鼓もちをやっている。有給生理休暇なんぞのないのは分りきっている。――
 だって、それはひどい工場労働婦人のことで、われわれのことではないと云う人があったら、その人を百貨店へ案内しよう。
 朝から夜まで立ちづめで、「すみません、ありがとうございます。お待ち遠さま」と労働している婦人たちは、どうか。
 ああいう仕事が屈辱的でないか? 体にいいか? そして、訊こう、どういう階級の婦人たちがああして働いているか、と。
 資本主義の経済はゆきづまって、これまで中流家庭の若い婦人が働く必要に迫られはじめたのは一九一九年ごろからのことである。これらの若い女性は、女学校を出ている人が少くない。婦人の女学校から専門学校出の最多数が銀行、会社などに使われているのだ。
 作家の菊池寛は、今日女で男なみに給料のとれるのは女給だけだ、と云った。そして、見識あるらしく、今の女は、専門技術家としてどんな技術ももっていないと云っている。しかしこれは「今の女」のつみだろうか。日本の教育は男児と女児とを、小学校のころから区別している。女は家庭で良人の補佐ができればよいという明治時代の女子教育は進歩していないのだ。
 資本主義の国として、しかもつよく封建性ののこっている日本文化は、支配者自身でさえ今では不便がるほど基礎的な男女教育にまで差別を設けている。女学校は綱領として経済的寄生者である良妻をつくることを目標としている。生産単位として男と同じ熟練技術者をつくろうとは決してしない。
 あらゆる分野で、男より低廉な賃銀で過労し、母性の重荷を負った不熟練技術者としての婦人を準備しつつある。その社会的な弱点を改正しようとしないで、女は、女は、と女のおくれをせめつけるのは甚しい矛盾だ。なぜなら、「女は」と女をいやしめる人々はきっとその一面に「女のくせに」という言葉をもっているのだ。そして、女性が自分たちの力で自分たちの境遇を打ちやぶってゆこうとするのを「女のくせに」なまいきな、可愛くないこととして圧えつける。資本主義社会における婦人のこういう一般の事情の中で、文化の最高点である芸術運動に、婦人が少数しか参加し得ないのは自明だ。日本で、婦人はまだ十分人間になっていない。

 ではどうしたら、婦人の文化水準をひき上げ、少くとも男と同程度にまで高めることができるだろう。
 一部のインテリゲンツィア婦人は、婦人参政権獲得同盟というのを結成した。婦人も代議士に選挙されるようになれば、婦人の経済状態を社会的地位、したがって人間としての文化事情も改善し得ると考える人々だ。が、現実にどうしてそんなことが可能だろう! ブルジョア政治のワクの中でブルジョア政党の代議士に婦人がなったところで、それらの婦人が政党を操っている大金融資本の小指一本でも統制出来るか!
 英国では、マクドナルド労働党内閣は婦人労働大臣にミス・ボンフィールドを任命していた。大臣はソヴェト同盟ばかりではないぞといばった。資本主義経済の必然の行きづまりで、労働党内閣は、今度保守党自由党の連立内閣をつくった。そして、労働党も日本の資本家御用労農大衆党と同じファシズムに対して何の反撥力もない連中であることが曝露した。
 日本の婦人参政運動者をよろこばせた婦人労働大臣ミス・ボンフィールドはどうなっただろうか。彼女が持っていたかも知れない小さい人道主義的な立場に立つ協調主義はけとばされて、地主資本家の利益のはっきりした擁護者保守党のネヴィル・チェンバーレンが労働大臣に任命されている。
 男と同じ長時間、女性の生理にとっては男よりもこたえる労力、搾取にあい、それでいて、ひどい差別待遇をうける世界のプロレタリア婦人は、資本主義の社会機構が立て直されて、社会主義の社会が建設される時こそ、文化における男女の差別は無くなるものだと知っている。
 日々の闘争を通じ、プロレタリア婦人の実力はもり上りつつある。一日も早く、女も男と同じ社会生産の単位として生きられる世の中になるように、正しい力の結集をめざして闘っているのだ。

 今、われわれの棲む地球で、男女が社会の生産の単位として対等に見られ、その上ほんものの母性保護によって現実に保護されているのはソヴェト同盟だけだ。
 では、そのプロレタリア革命を経験し社会主義の社会を建設しているソヴェト同盟で、婦人作家はどんな発育をとげ、現在活動をしているだろうか。

        ソヴェト同盟の婦人作家(上)

 十月革命まで、ロシアは世界で最も文盲率の高い国とされていた。
 ツァーの支配者たち、貴族と資本家の多くの者はロシアの人民が物の道理をはっきり知って、搾取に反抗するのを嫌った。帝政ロシア時代の小学校教育がどんなひどいものであったかは、チェホフが手紙の中で屡々熱情的に抗議しているのを見てもわかる。
 帝政時代、料理女の子供たち、貧乏な百姓、工場の平労働者の子供は、男女とも中学へ入ることさえ許されなかった。ロシアの支配者は人民に学問や現実的な知識を授ける代りに、高い税で政府がしこたま儲けつづけた火酒と、封建的な絶対服従にあきらめる思いを祈祷の文句で、人民の精神に植えつける僧侶とをあてがった。
 女と男との地位は、ひどく男尊女卑だった。人民――労働者農民は、気の向いた時に彼等を擲りつけることの出来る主人をもっていた。主人の樺の枝の鞭の前には平伏しなければならない小作人でも、自分の小屋では主人だった。
 彼が擲りつけても誰からも苦情の出ない者を公然ともっていた。それは女房だ。子供らだった。
 ロシアの古い民謡の中に、若い娘の婚礼の唄がいくつもある。陽気なのは一つもない。哀しそうに
私が嫁に行くと云って
何のよろこぶことがあろう!
自由な楽しい私の若い日は終るのに!
 実際、娘たちは編下げの髪を編みながら涙をこぼしてそういう唄をうたった。父親同士が勝手に結納として家畜だの道具だのをやりとりしてしまえば、当の娘は否も応もない。まだ見たこともない男の妻となり、その一家に新しく加った一人の無償労働者として耕地を這ずりまわらなければならなかった。
「十月」はロシアのあらゆる場所でいためつけられていた勤労婦人を実質的に解放した。労働者農民・働く全人民の解放のためのたたかいを支持し、その困難な建設時代を貫いて男と等しく生産にたずさわり、男と等しく戦線に立ち、ソヴェトの勤労婦人は解放された女の真価というものを、自分とひととに向って確めた。
 ソヴェト権力とともに、文化の光はシベリアの奥へまで射しはじめた。一つの村に赤旗が翻ると、もうそこには、村のクラブと文盲撲滅の学校が出来た。そこで機械がまわり、男女の労働者が働いている工場なら生産管理の工場委員会が男女労働者とその指導者によって組織されると同時に、文化部の活動がはじまった。
「十月」以後、ソヴェト同盟では勤労大衆がみんな自分の年齢を忘れた。年を忘れて、社会主義社会の建設に熱中しはじめた。
 工場クラブの文盲撲滅学校でやっと二年前に字を書くことを覚えた四十五歳の織物女工が、代表に選ばれてピオニェールの野営見学に出かけ、その報告を工場新聞に書くほど、飛躍的に一般婦人勤労者の文化水準は高まったのだ。が、過去の枷あとは、そう急に消えない。革命後九年目の一九二六年にとられた統計で見ると、ソヴェト同盟の女の文盲率はまだ男より高い。

[#ここから横組みの表]
 都会における読書きの出来る男女の比率
   ┌─────┬──┬──┐
   │  年齢  │ 男 │ 女 │
   ├─────┼──┼──┤
   │10……14歳│86.0│83.5│
   │15……19歳│88.5│83.3│
   │20……24歳│92.2│81.4│
   │35……39歳│86.9│63.1│
   │55……59歳│71.5│39.7│
   │70……74歳│52.9│24.7│
   └─────┴──┴──┘

 農村において読書きの出来る男女の比率
   ┌─────┬──┬──┐
   │  年齢  │ 男 │ 女 │
   ├─────┼──┼──┤
   │10……14歳│65.2│43.3│
   │15……19歳│69.0│45.9│
   │20……24歳│76.9│45.4│
   │35……39歳│65.6│22.8│
   │55……59歳│40.6│ 7.5│
   │70……74歳│24.1│ 3.6│
   └─────┴──┴──┘
[#ここで横組みの表終わり]
 こういう工合だった。
 工場委員会、市、町、村、地区のソヴェト役員として女の生産、政治における大衆的進展は実にすばらしいテンポで増大した。が、この名誉ある「十月」は、世界のプロレタリア文学の婦人作家として誰々を送り出しているだろうか?
 ロシア文学は十九世紀から世界文学の中でも特に独特な高い位置をもって来た。ロシア文学には、ほかのどの国の文学よりも人生と人間生活との問題に直接ふれた作品が多くロシアの近代文学はつよい一本のヒューマニズムにつらぬかれている。プーシュキン、ゴーゴリ、レルモントフ等をはじめ、トルストイ、チェホフ、ゴーリキイなどをのぞいたら、世界の文学は云わば背骨の大切な部分をひきぬかれたようなものだ。チェルヌイシェフスキー、ベリンスキーその他の人々の文芸評論は、世界文学に、社会と文学との生きている関係を理解させた。
 ロシアの豊富で雄大な自然と、そこに営まれている社会の暗い恐るべく暴虐なツァーの封建的絶対制、その上に急に花咲き出した資本主義搾取の二重のおもしの下にあって苦しみ、人生を浪費する人民の悲劇を見つづけるロシアの作家たちは、植民地成金になった十九世紀から二十世紀初頭のイギリスの暮しのらくな中流人的文学とは、まったく種類の違う芸術作品をわれわれにのこしている。
 ツァーのロシア社会の暗くむごたらしい封建的な絶対制はそれを批判し、社会を発展させようとするインテリゲンツィアを流刑にさらし、監視の下におき作品発表の自由を奪った。チェルヌイシェフスキー、プーシュキン、レルモントフ、ゴーリキイみんなそういう目を見ている。ドストイェフスキーは死刑の二分前で殺されなかった。
 ロシアの正直な文学者はその精神行動においてロシアの革命史からまずはなされない関係をもっている。従って作品の主題は人道主義的正義観、人間解放への熱望などで特色づけられているのだ。ドストイェフスキーの作品の悲劇的な分裂の世界は、ロシアの苦悩が正当なはけぐちとしての人民の革命的方向からはなれた結果の錯乱として、世界的な例を示している。
 ヨーロッパ諸国からロシア風の情熱とよばれたロシアの十九世紀から二十世紀のはじめに、ロシアのインテリゲンツィア婦人の一部は決して眠ってはいなかった。急進的な教養のある若い婦人達の人民解放運動への参加は目醒しかった。革命家としてのヴェラ・フィグネル、数学者としてのソーニア・コ※(濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82)レフスカヤ、十二月党デカブリストの妻たちは世界にしられている。
 ツルゲーニェフは、彼の「その前夜」「処女地」などで不十分であるがこの時代の進歩的ロシア女性の或る姿をかいている。ゴーリキイに婦人オルグをあつかった好短篇がある。
 こうして、社会変革のための活動に少からぬ婦人が活動したけれども文学的創作の分野にはとりあげるほどの足跡をのこしていない。
 その理由は明らかだ。この時代、ロシアの教育ある婦人たちは、主として貴族、大資本家、学者、などのインテリゲンツィアの間に生れているばかりだった。彼女等はフランス語を母国語のように喋った。ドイツ語で夢を見、ドイツ語で哲学、文学の本をよんだ。音楽、ダンス、手芸。立派な家庭教師を雇ったり、女学校へ馬車で通わしたり、親たちはドシドシ娘を仕込んだ。親の目的は世界の俗っぽい親の目的どおり到って現実的だった。出来るだけ金持の男へ、出来るだけ権勢ある貴族へ好い条件で娘を嫁にやれるように、という範囲でなら、何も特色の一つだ。哲学ずきさえも、もし美しく化粧することを忘れない程度ならサロンの風変りな花形として黙認した。つまり、あらゆる婦人のための学問教養が「客間用」として授けられた訳なのだ。これは、プーシュキンの初期の作品にもよく描かれている。
 ところが、皮肉なことに、貴族やブルジョアに生れた娘の知識と欲望はいつも親どもの希望するような方向にだけひろがるときまらない。親が黙許した限度に止っているとは限らない。若さは時代の空気に敏感で、素質のいい、若い少数のインテリゲンツィア婦人たちは、強烈に先ず家庭内の封建性と衝突し、引いて貴族やブルジョア社会の破廉恥、搾取、無目的な浪費生活をきびしく批判するようになった。
 家長専制の当時のロシアの上流中流社会で、娘が親を矯正することは不可能だった。
 ソーニア・コ※(濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82)レフスカヤのように、勇敢なインテリゲンツィアの若い婦人たちは、医学を勉強しようとして、科学を勉強するためにさえ家出しなければならなかった。家出した娘たちは個人教授をやったりして、自活しながら勉強し、大学生活と自活生活におけるたたかいから政治的活動にも関係をもつようになった。ロシアの革命史の中に書かれる婦人の功績は実に多い。更にその名も書かれず、事業も表面には記録されないような場所と役割で、光輝ある人民解放運動のために一生を忠実に働いたインテリゲンツィア婦人は決して十人や二十人ではなかったのだ。レーニン夫人のクループスカヤも小学校の女教師をしながら、レーニングラードの労働者学校に働いてマルクシストとなった。
 弾圧のきびしい地下運動の間で、彼女達はよしんば才能と希望があったにしろ文学活動をやっている余裕はなかった。
 例えばチェルヌイシェフスキーやツルゲーニェフの多くの作品にも解放運動に働くロシア婦人の姿は描かれた。だが、政治的に急進した婦人自身は、文学作品としてその経験を記録する暇なく激しく速い行動のうちに生涯を燃やし切った。
 この事情は、中国の婦人と文学の事情にもあてはめられる。中国の人民解放のために献身している婦人の数はどれほどだろう。解放軍の進むあらゆるところに協働する婦人の姿がある。幾万人という革命的婦人がある。だが、どれだけ新しい婦人作家が出ているだろう。過去の英国の文学史になかった作品をかく婦人作家が将来において生れる社会的基礎が現在用意されつつある。
 おくれて発達したロシアの資本主義は急速に爛熟し崩壊しはじめた。二十世紀のはじめのロシアのシンボリズムの婦人詩人ギッピウス、デカダンス文学の作者としての婦人作家が数人数えられた。なかでもウェルビツカヤが女で好色の文学をかくことで有名だった。
 文化は依然として、支配階級の手の中にあった。
 メレジュコフスキーの妻であったギッピウスは、フランス文学のデカダンスの影響をうけ、革命からはなれて、前途に何の見とおしもなくなった有閑インテリゲンツィアの無気力、人生への無興味と生存の無目的。死に対してさえ冷淡な蒼白さを、大胆に、声高く謳った。ギッピウスの詩は、腐敗したロシアのブルジョア社会が放つ気味悪い燐光として閃きわたった。
 現在、ソヴェト同盟の婦人作家として活動している婦人作家のなかの多くの人々は、もうこの時代に生れていた。ヴェラ・インベルはいろいろな用紙印刷人の父、小学校校長であった母の娘として。小官吏の娘アンナ・カラヴァーエ※(濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82)は中学を卒業し、農村小学校の教師として赴任した頃だった。マリーヤ・マリッチはペテルブルグで教育を勉強していた。眼玉の大きい韃靼だったんの血の混った娘リディア・セイフリナはそのころは二十前後で、タシュケントやウラジ・カウカアズ、オレンブルグなどで舞台にたっていた。一八七五年生れのオリガ・フォルシュは絵画学校を出て、既に文学作品を発表している。そして鉄道に関係があってパリだのミュンヘンだのへ行っている。非常な勉強ずきで哲学から鉱物学、結晶学まで専門にやったマリエッタ・シャギニャーンは、当時紡績織物専門学校で紡績についての研究をやっている。――
 一九一四年に、第一次世界大戦がはじまって、一九一七年三月には、ケレンスキーの仮政府ができ、つづけて、「十月」プロレタリア革命が遂行された。
 貴族、金持たちは、出来るだけの宝石、金貨をひっさらってオデッサから、ペテルブルグの波止場からフランスへ逃げた。
 多くのブルジョア芸術家も逃げ出した。ギッピウスもフランスへ逃げた。彼女が海の彼方のブルジョアの国に居候しながら、革命の悪口、ボルシェビキの悪口を云っている間に、ソヴェト権力は鎖をすてて立ったロシアのプロレタリア、農民、働く人民の政権として樹立された。
 新しい燃ゆるような社会主義の生活が開始された。そろそろ文学活動をはじめていた婦人作家達は、どんな工合に、人類にとって偉大なこの歴史の転換期を経験しただろうか。

        ソヴェト同盟の婦人作家(下)

 興味のあることは、これら数人のソヴェト同盟の婦人作家たちが、一九一七年までは、殆んど誰も革命的な政治活動に直接関係していなかったことだ。
 ただ一八八八年生れのシャギニャーンが一九〇五年の革命の時、中学校の八年生で、学生委員会の代表をやったことを、短い自伝の中に書いている。(ゴーリキイは一九〇五年一月十九日の血の日曜日について「一月十九日」という記録をかいている。ゴーリキイはこの頃次第にロシア・マルクシストの団体に近づいていた。)
「十月」にまで高まりつつあったロシアの人民の革命的発展というものに、大して密接な関係なく、彼女たちの或るものは小学校女教師として暮し、或るものは田舎の町の女優、作家として暮していたわけだ。
 だから、一九一七年、ケレンスキー内閣の崩壊。ボルシェビキのソヴェト政権確立と、火花を散らす大変革がおこった当時、党指導部に参加していたり軍事委員の内部にあってプロレタリア革命の時々刻々の推移を見たという婦人作家は一人もいない。わずかに評論・報告集二冊をのこして一九二五年ごろ死んだラリーサ・レイスネルがある。レイスネルはレーニングラード大学教授の娘であった。家庭の革命的雰囲気のうちに育って「十月」が来たとき彼女はパルチザンの政治指導員であった。一度も「疲れた」と云わない美しくて若い婦人指導者として知られていた。ラデックの妻であった。ラデックが「十月」にもう反革命の組織者の一人であったことをラリーサ・レイスネルは知らないで死んだ。
 アンナ・カラヴァーエ※(濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82)は率直に書いている。「十月革命は私の精神に途方もない擾乱と動顛を与えた。」
 構成派の影響を多分にうけ、詩集や短篇集を出版していたベラ・インベルは、「十月」が世界的な、震撼的な出来事だということは理解した。が、彼女はどんな大衆的行動にも、歴史的な市街戦にも参加しなかった。革命は彼女の「わきを通り過ぎた」。
「十月」はそんな工合にあらわれたとしても、それに引きつづいてすぐソヴェト同盟の建設という大事業がやって来た。
 ソヴェト権力はロシアじゅうの古くさくて権柄な村役場を、農民の村ソヴェトにかえた。書類は今までと違うように書かれ、憲法は「働かざるものは食うべからず」ということから書かれるようになって来た。
 学校だって、きのうまでのロシアの学校ではない。教育方針は根本からの建て直しだ。あらゆる学校は「学問をすべての勤労者に」という立場から文化を、専門技術を人民のものとして身につけ高める為にこそ動くようになって来た。
 いたるところに新しい活動がおこり、いるのは人手だ。あらゆる場所でいるのは、社会主義社会というものを理解し、その建設のために骨おしみをしない人だ。ソヴェト権力は、この巨大な新建設の要求のために、ドシドシ有能な市民の自発性を抱擁した。その新しい社会の働きてとしての価値においては男、女の旧い区別は消されている。
 セイフリナは十月革命の時にもう舞台をやめて、オレンブルグ地方で図書館監督をしていた。ケレンスキー内閣の時分、彼女は社会革命党に属していたが、一九一七年には、地方の革命的鉄道従業員と一緒に、そんな政党からは脱退してしまった。そして、一生懸命、地方に新ソヴェト文化を撒きひろげるため、シベリア国立出版所の書記となって働き始めた。
 紡績を専門に研究したマリエッタ・シャギニャーンは、今こそソヴェト同盟にとって、大切な一人の紡績技師、教師であった。彼女は、ドン地方で、最初のソヴェト紡績専門学校を設立する任務を与えられた。シャギニャーンは、暇々にツァーのロシアの社会で指導的位置をもっていた象徴派の婦人詩人ギッピウスの詩の批評を書きながら、その紡績専門学校で養羊学と、養蚕学とを講義しはじめた。
「十月」にはびっくりした若い女教師アンナ・カラヴァーエ※(濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82)だって、いつまでも呆然としてはいなかった。積極的な気質で、一九二二年には、ロシア共産党に加盟した。そして、中央執行委員会の中の、質問応答掛で働き出した。
 革命とともに数百万の女が、ソヴェト同盟の新社会の礎を据えるために男と並んで働きだした。八時間労働。同一労働に対しては男女同賃銀。婦人の活溌な社会労働は、完全な母性、幼児保護の設備なしには期待出来ない。産前産後四ヵ月の有給休暇。無料産院。托児所。出産仕度金は月給の半額まで支給され、ソヴェト同盟の労働法は姙娠五ヵ月以上の婦人労働者と、生れて十ヵ月未満の赤坊を抱えた婦人労働者は、殆んど絶対に解雇することは許されない。
 こないだまでの世の中とは何という違いだろう! 支配人の顔なんぞ見たこともない工場の職場を、今日は同じ労働者出身の工場監督が親しく笑ったり喋ったりしながら、仲間として指導して歩きまわる。工場委員会は自分らのものだ。もとは、夜会服を着た男や女だけが見物するものときまっていた国立オペラ・バレー、すべての芝居は、労働組合手帖で半額で見られる。
 一年に一ヵ月の有給休暇があって、その時は絵でばかり見ていたようなクリミヤの離宮や大金持の別荘がプロレタリア、農民のための「休みの家ドーム・オトドイハ」となっている。そこへ行って、台所の心配もぬきにして楽しく休める。工場では十三時間も働らかされ、搾られ、男の半分しか賃銀が貰えず、亭主には殴られていたロシア婦人労働者の日常生活は、そういう内容でかわって来た。
 実際に労働して来たもの、人につかわれて来たものには、資本主義のもとでの搾取労働、奴隷のような労働と、ソヴェト政権のもとで社会主義の方法で組織された労働との違いは、骨肉にしみてわからずにはいられない。
 そのねうちがわかれば、どんなに古風なロシアの年とった女でも、自分たちのソヴェトを支持しないではいられない。支持しようとすれば、どうしたって革命的な連中と会ってよく話をききたいし、あっちこっちの事実を知りたい気になる。妙な間違ったことを本気にしている連中には、ちゃんと教えてやりたい。その時まともに字も書けず、本もよめず、理屈のたったことも云えないというのは、この上なく不自由なことだ。
 婦人労働者だって、農村婦人だって、今はソヴェト役員にも選ばれるのだ。党に属さない大衆からよけいソヴェト役員は選ばれている。
 工場学校。労働クラブのいろいろな研究サークル。文盲撲滅の講習会。各大学・専門学校の労働科。それらのどこへ行っても熱心に学ぶ女たちの姿の見えない文化施設はソヴェト同盟のどこへ行ってもないようになった。
 国内戦、饑饉、チブスの中から、不屈な革命的大衆の力でソヴェト同盟の新文化がモリモリせりあがって来たのだ。この時代、ソヴェト同盟の勤労大衆に、異常な関心をもたれる一人の若い婦人評論家が現れた。
 それは、さきにふれたラリーサ・レイスネルだ。『プラウダ』紙に「戦線」という文章があらわれ、非常な注目をひいた。小説ではない。一九一八年から二〇年にかけてのヴォルガ・カスピ海地方における赤軍の活動、ソヴェト権力確立までの実録だ。が、その事実の歴史的、政治的把握の確かさ、文章の活々した情熱、恐ろしい困難、闘争、建設を貫き彼女が身をもって経験した数々のエピソードの感銘ふかさは読者をつよく動かした。写真を見たものは、みんなはレイスネルの優美さにおどろき、この優美な一人の女性が階級婦人闘士として、不撓に努力した活動ぶりに尊敬を深めた。
 ラリーサ・レイスネルは、大学教授レイスネルの娘として一八九五年に生れた。早くからドイツやフランスに住み、カール・リープクネヒトなどと親交のあった大学教授レイスネルの家庭には、革命に対する真面目な関心があって、「十月」の頃ラリーサはまだ二十三歳だった。が、小さい時から革命的影響をうけていた彼女は「十月」と同時に、党員となった。チェッコスロヴァキア戦線へ派遣された。
 また、ヴォルガ・カスピ海地方のあらゆる革命戦線に働き、共和国海軍司令部のコミサールをやった。
 一九二〇年から二二年にかけてレイスネルはアフガニスタンへ外交官として暮した。翌年はドイツへ。
 レイスネルの、豊富な革命的活動の経験、見聞は、「アフガニスタン」「バリケードのハンブルグ」「ヒンデンブルグの国で」となって続々あらわれた。
 建設のウラル地方へ彼女が行った時に書かれたのが「石炭、鉄と生きた人間」だ。
 レイスネルの初期の文章は、なかなか凝っている。いろんな外国語がはいったり、云いまわしが念入りだったりして、ソヴェト同盟の大衆にはむずかしすぎた。レイスネルは、然し、自信をもっていた。自分はレーニンの文章はきらいだ。あんな味もそっけもない、ボキボキした文章じゃないと云っていたが、彼女が段々革命そのものの中での活動を深め、成熟するにつれてその意見がかわって来た。
 レーニンは素敵な文章家だと云うようになった。そして、彼女自身の文章もかわって来た。簡単に分り易く、しかもその一句一句が魂に刻みこまれるように書くことは、書こうとする事をそれだけハッキリ、強く掴んでいなければ出来ないことなのだということを、レイスネルも悟ったのだ。彼女の独特な芸術作品はこの技術上の発見で一段と輝きを増した。
 ところで、他の婦人作家たちだ。
 レイスネルのように戦線にこそ立たなかったが、ソヴェト同盟の新社会建設の文化的事業の中で、一刻の猶予なく活動しているうちに、生活は充実し、見聞と観察とは深まり、小説を書かずにいられないような心持になって来た。
 ソヴェト同盟のこの時代は、一日が一世紀にもつっかう時代だった。日常生活における猛烈な旧いものと新しいものとの噛み合い、新しい社会力の勝利、困難な、然し英雄的な大衆の建設力などの強烈な印象は、これまで小説なんぞ書いたことのない者の心さえ掴んだ。マメにつけられた日記一冊が、これまで世界文学のどこにもなかった記録の一つとなり得た時代だった。
 セイフリナの短篇処女小説「パウルーシュキンの出世」が書かれた。相当評判がいい。続いて中篇小説「四つの頭」が『シベリアの火』というシベリア地方の指導的な文学雑誌に現れた。写実的な手法でセイフリナは自分が活動の間に理解し、見聞を蓄積した地方ソヴェト農村の階級的闘争を書き出した。
「十月」革命の当時はレーニングラード附近の新しい学校で図画の先生をやっていたフォルシュはそれから後、キエフ市へ行った。彼女はウクライナ共和国の国立出版所で、ロシア部の担当だった。国立出版所の机の前で働くかと思うと、「土曜労働スボートニク」でジャガ薯掘りをやりながら、フォルシュは四度キエフ市の政権が代るのを見た。反革命の白軍が南方ロシアの旧い美しい都市であるキエフを占領する。赤軍が逆襲して、市ソヴェトに赤旗が翻ったかと思うと、チェッコの侵入軍が、派手な制服の士官に引率されて襲撃して来る。
 赤旗をかくせ!
 党の政治部は書類を焼きすてて地下へもぐった。工場の門前にバリケードが築かれる。やって来るならやって来い! ボルシェビキの闘争力を見せてやるぞ! キエフ市はソヴェト第一の大炭坑区ドンバス地方に近い。しつこく「白」が最後に潰滅する迄つきまとった。
 フォルシュはそのはげしい革命の波にうたれながら、「ラビ」「居住者」など、彼女の代表作となったものを書いた。
 シャギニャーンの『文学日記』『自分の運命』『ソヴェト・アルメニア』等が出版される。
 党員となったアンナ・カラヴァーエ※(濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82)の生活はガラリとかわった。彼女が中央執行委員会の質問応答掛として毎日接触するのは、プロレタリア革命の下に新しい社会生活に入った勤労大衆だ。彼女はこの新しい経験から「熊使い」を書いた。一九二一年の新経済政策はカラヴァーエ※(濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82)に「岸」という小説を書かせている。カラヴァーエ※(濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82)の作品はどちらかというと事務的で、文章に性格がなく新しい味わいにとぼしい。が、日常の活動がきっちり党、大衆の建設力と結びついているため、主題が他のどの婦人作家よりも進展的だ。彼女はもちまえの頑丈な体でドシドシ前進するソヴェト同盟の社会情勢と並んで進み、前進する一つの社会的階程にあてて一つずつの作品を書く精力をもっている。
 例えばここに一人の労働婦人があって、ソヴェト権力確立とともに生産の中へ働くようになり、働くことによって次第に自身の文化を高め、政治的にもプロレタリアートの女としてしっかりした意識を持つように成長して来つつある。同じことがソヴェト同盟の婦人作家についても現れた。
 革命は彼女達を書斎から、教室からもっとひろい、もっと激しい社会主義社会建設の真只中へひき出した。婦人作家たちは、その中に全力的に生きることによって、目覚ましい作家活動を開始したのだ。
 ソヴェト同盟の新社会の焔は、経験のある男の作家たちに言葉で云えない程の若返りをさせた。同時に大衆の中から多くの新しいプロレタリア作家を立ち上らせた。
 バーベリが、短い強い文体で独特な手法を示しながら国内戦の豊富な大衆的経験を主題とする短篇を発表しはじめた。
 六十一歳のセラフィモヴィッチが、壮大な革命的叙事詩「鉄の流れ」を完成した。
 一ヵ月たった十ルーブリ(一ルーブルは一円)で田舎の小学教師をしていたこともあるニェヴェーロフが一九二〇年にはタシケントに行って、類の少い佳作「パンの町タシケント」を書いた。
 一九一八年の党員で、フルンゼと一緒に赤色戦線で働き、クバン駐在赤軍政治部長をやった若いドミトリ・アンドレーウィッチ・フールマノフは、ボルシェビキ作家の誇、「チャパーエフ」(日本訳、赤色親衛隊)、「反乱」などをわれわれに与えた。グラトコフの「セメント」、フセワロード・イワーノフの「装甲列車」、ファジェーエフの「壊滅」等、みんなこの前後に発表されたものだ。
 男の作家たちが、めいめいの傾向に相違はありながら、世界最初の社会主義社会が生んだ文学として、値うち高い成果を示している時、婦人作家たちは、共同の戦線に立ってまた独特の筆致と着眼とで、プロレタリア文学の発展に参加した。

(一九四九年一月加筆)
 一九三一年、十月、十一月、十二月とかかれたこの文章はここで終っている。まだあとのつづきがあるらしい調子で、しかしここで終っている。もしつづけて書いたとしたら、どんなことが書かれるべきであったろうか。それは、これらの婦人作家たちが労働組合の文学サークルや赤軍の文学サークルで、指導者としてどんな風に活動しているか、ということについてだったろうと思う。それから若いコムソモールの男女から、労農通信員ラフセルコルの中から、わかての作家が生れはじめて来ていることなどについてであったろうと思う。アンナ・カラヴァーエ※(濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82)は一九三〇年にオソアビアヒムの文学サークル指導をしていたし、同じ年赤軍の文学サークルの作った戯曲「第一騎兵隊」を完成上演させるために努力した。
 当時からいままでに、ただ、二〇年がすぎたのではなかった。ナチスの侵略に対してソヴェトの全人民が、世界の平和と社会主義の祖国を防衛した第二次世界大戦の防衛戦において、ヴェラ・インベルもカラヴァーエ※(濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82)も飛躍的な経験をした。インベルの「日記」はレーニングラードがナチスの包囲線を戦いぬいた記録として注目すべきものだと云われている。二〇年前に名も知られていなかった女詩人、婦人作家が、一九四〇年以後に活躍している。ワンダ・ワシレフスカヤの「虹」は幸い日本にも翻訳され、その映画を見た人も少くない。わたしたちは、一日も早くこれらの新作が紹介されることを待っている。
〔一九三一年十―十二月〕

底本:「宮本百合子全集 第九巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年9月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本「宮本百合子全集 第六巻」河出書房
   1952(昭和27)年12月発行
初出:「女人芸術」
   1931(昭和6)年10〜12月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年10月28日作成
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