ふだん近くにいない人々にとって、岡本かの子さんの訃報はまことに突然であった。その朝新聞をひろげたら、かの子さんの見紛うことのない写真が目に入り、私はその刹那何かの事故で怪我でもされたかと感じた。そしたら、それは訃報であって、五日も前のことであった。一種流れ掠めて行くものを感じた。五日も前。――
 初めてかの子さんに会ったのは、昔、或る会の折であった。その会には女が二人しかいず、その一人はかの子さん、一人は二十一ぐらいの私であった。従って、はじめから終りまで一緒に並んでいて、食卓に向ったときも隣りあわせた。料理に何か串焼のようなものが出たら、かの子さんがいかにも食べにくそうに、どうしてたべるのかしらと眺めていられるので、私がその串をぬいてあげたことがあった。
 和歌の話が出て、私は何も知らず、そういう伝統も持たないが、「金槐集」はすこし読んだことがあって好きと思ったというようなことを云った。歌集をおくられたのは、それからどの位の時が経っていただろう。
 その歌集を貰った時分、私は青山に住んでいて、生活のうちに落付けず、輾転反側していた時代であった。歌集を読んで、どんなことを云ったか手紙をかいた。そして、或る雪の降る日、自分の息苦しい生活から、雪の外気へとび出るような気持で家を出て、芝白金の方のかの子さんの家をさがした。坂の裏側の町筋へ出てしまったかで、俥が雪の細い坂をのぼれず、妙なところでおりて、家へ辿りついた。小ぢんまりしたあたり前の家構えであった。太郎さんという息子が風邪で臥ている、そこへ通された。話したことはちっとも覚えていない。どちらも余り話らしい話もしなかったとおもう。かの子さんはそのときお盆にのせてカルピスのお湯にとかしたのを出してくれた。ああ、これがカルピス? と私は笑ったように思う。一平さんが、人生漫画を描いていられる頃であったか、カルピスは初恋の味というような文句のついたユーモラスな絵が一平画とサインされてあったのは新聞などで見かけていたのだろう。そのカルピスが、かの子さんによって重々しく出されたので、そこに又ユーモアを感じた。そのときのカルピスは、酸っぱい気がした。
 それから又余程たって、どこかの家でかの子さんと話したことがあった。同じ芝白金だったのか、そうでなかったのかよく分らない。かの子さんの自宅で会った最後は、もうやがて六七年も前のことになろうか。かの子さんが外国から帰られて程なくのことであったと思う。青山高樹町の家の客間に通され、フランス土産の飾り板などある長椅子のところで、毛糸の部屋着の姿で、そのときは割合永い間あれこれと話した。芝白金時代、かの子さんの健康はすぐれない状態であったが、その後の数年間に恢復して、その時分は本当に体がいい気持というような風であるらしかった。体が癒って気持がすっかり明るくなったというような話も出たが、その青山の折、私はかの子さんがこれ迄と違って来ていることを感じ、その感じが主としてかの子さんの話をきく立場に私をおいたが、その話が、尚かの子さんのちがいを感じさせた。自分の体のいい気持、自分の心のいい気持、つまり生きているありようが満足の感情で感じられているような時期が、一人の人生の或る時あったとしても、よいのだろう。そういう心持で、私は高樹町のところから電車にのったのを思い出す。そのときのかの子さんの印象は、自身の白い滑らかさ、ふっくらした凹凸、色彩のとりどりを自身で味いたのしみながら辿っているとでも云う心理に映った。主婦として女中さんの待遇について話すようなときも、同じその感覚が、自身の主婦ぶりに向けられているらしくあった。
 やがて、かの子さんの小説が出るようになった。精力的に、溢れるという形を示した作品が現れるようになった。作品の世界は、幻想的と云われ、或は逞しき奔放さと云われ、華麗と云うような文字でも形容され、デカダンスとも云われ、あらゆる作品の当然の運命として、賞讚と同時の疑問にもさらされた。文学の作品として、かの子さんの幻想ならぬ幻想が、その世界として客観的になり立ち得ていたかどうかということについては、ここで触れない。かの子さんの小説がどっさり現れるようになってから、かの子さんの顔を見ると、いつも私の心に起って来る妙な居心地わるさというか苦しいというか名状しがたい心持について、暫く考えて見たく思うのである。
 一口に云えば、印刷になった彼女の小説を読むときは、それとして読むのであるが、特徴あるおかっぱのかの子さんの顔を見た刹那、どうしてもその作品がぱっと彼女のなかへ入ってしまわない。彼女と作品とが融合し溶け合わず、一つの肉体となってしまわないで、かの子さんのまわりに書かれた小説が立っている感じが苦しいのであった。
 作者と作品の溶け合っているこの自然の力は微妙となって、例えば夏目漱石の写真を見たとき、人は、「吾輩は猫である」も「文学評論」もひっくるめて何となくわかった気がする。漱石の作品の全系列が人と一つのものとして、わかったという気持で映って来る。作品がどれ程巨大であり多量であろうとも、作者の質量ヴォリュームそのものの中にあってわかった感じがするものである。作家の資質のよさわるさ、大きさ小ささ、それなりにその人を見ると何かわかるところがある。作品のすきさもわかった気がし、きらいがあるとすれば、それも成程と肯けるものが必ずある。そして、これは決して、文学の専門的な何かを前提とするものではなくて、作家と作品の間にある血液循環、細胞関係の必然の結果であり、人間的な総括的な直感である。この事実は日頃あらゆる人々の経験しているところであると思う。
 かの子さんの小説は、かの子さんの曲線、色、厚み、音調、眼の動かしかた、身ごなしすべてをもっているのであるけれども、そこにかの子さんという人が出て来ると、一目でわかったものの代りに、何だか分るのだけれど分らない気がする。あすこだな、と内部的にぴーっと一致する点が見つからないのである。作品が人に溶けず人が作品にとけ出して来ない。かの子さんの色彩強烈な肉体のまわりに色彩強烈な作品が、空間をもって林立してでもいるような感じで、一言話せば作品の世界がじかに触れ開けて来る感じでなくて、何か苦しかったのである。
 一平氏が妻であり芸術家であったかの子さんへの追想として書かれた文をよんでも、そういう私の分らなさは、わかったものとならなかった。
 それにしても、このわからなさは何なのだろう。私だけの心持で、その一筋を追いつめてゆくと、悲しさに通ずるものが心に湧いて来るのである。
〔一九三九年五月〕

底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
   1952(昭和27)年10月発行
初出:「中央公論」
   1939(昭和14)年5月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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