私たちの日常生活にある歴史の感覚というものを考えてみると、いろいろ非常に興味ふかくもあり同時にこわいようなところがある。一定の時間がすぎて、所謂歴史となって目の前に現れたとき、その時代の諸関係諸要素というものがある程度まで客観化されて、例えば今日明治初年の文化の性質を語る場合のように、把握しやすい輪廓をもって見えて来るけれども、今日の私たちの生活の感覚が日々の歴史の全体の動きと、自分という個人の歴史とのかかわり合いの刻々の断面を、どのように感識し、わが生活の実質として自分に把握しているかということになると、実感に立っての答えは極めて複雑であろうと思う。
 私たちが、今日の時々刻々を歴史として明確に自分の生活の足の裏へじかに感覚しつつ生きてゆく習慣に馴らされていないということは、人間の歴史としての、飾らない歴史の感情に馴らされて来ていない過去の思考の伝習の影響でもある。
 歴史が、ほかならぬ今日の、この時の、この私たちの感情と行動にもこもってそのものとして生きているという感覚がはっきりしないことは、昨今のように世界の歴史が強烈に旋回して、日常の気流が至って静穏を欠いている時期、とかく私たちの現実の歴史感を麻痺させられ、歴史への判断から出発する自身の生活的思意を渾沌とさせられる危さが多い。しかも現実は容赦ないから、その生活的思意の無方向のまま矢張り我々は歴史の因子として厳然と存在しつづけ、そのような怠慢で自分が存在したことの報復は極めて複雑な社会全般の事情の推移そのものから蒙って生きて行かなければならない関係におかれているのであると思う。
 歴史に対する我々のポテンシャリティの捉えかたとの連関でみると、文学におけるディフォーメイションの問題はその過程に様々の曲折をふくんでいる課題の一つだと思われる。

『新潮』六月号に片岡鉄兵氏が「嫌な奴の登場」という題で小論をかいていられる。「近頃誰からも嫌われる、ふてぶてしい押の強い、ある共通したタイプの人物を小説に取扱うのが流行っている」しかし作者たちがそれを描く意図が常に明瞭でなく、そこには、「ただ人生のディフォーメイションがあるのみである」ことを窪川鶴次郎が警告的に語っている言葉に対して、片岡鉄兵氏は寧ろ反対に、そこに日本の小説の新しい段階を見ようとしている自身の見解を示していられる。
 筆者の意見によれば、小説のなかに流行しはじめている「誰にも嫌われる、ふてぶてしい性格」の登場の今日の必然は、彼等の存在が今や無視出来ないほどの重要性を持ち、作家をして書かずにはいられなくさせていること、同時に近頃の小説が一方で従来の繊細な内的追及に没頭している他の一方では、これまでの文学の心情と全く縁のない、別の生の発展に興味を持ち出し、「嫌な奴」を若い作家たちが従来の文学の武器で粉砕しないのは、それらの若い作家たち自身のうちにその一部分が流れているからでもあろう。いま、それらの作家たちは「嫌な奴」と取組みはじめたのであり、その取り組みの中から新しい武器を獲得して来ようとしているのだ、という見地から、そういう今日の流行を人生のディフォーメイションがあるのみであるとする論に反駁していられるのである。

 文学におけるディフォーメイションは、本来意志的なものであるということは、ディフォーメイションの最も高度な様式が象徴と諷刺の文学であるという点から誰にも明らかであると思う。このような文学の力づよいディフォーメイションは、その文学の源泉としてそれらの作家たちの内部に極めて手強てごわく強靭な人生への健全な観察と判断とを前提している。ゴーゴリやドーミエの諷刺を思い合わせる迄もないことであると思う。そのような文学のディフォーメイションが初めて当時の現実と対抗し得るものであったことを、否定するものはないのである。
 しかし、私たちが注目をひかれることは、これらの文学のディフォーメイションの古典の選手たちは、決して今日日本の小説へ「嫌な奴」の登場を流行させはじめた一部の作家たちのように、そして片岡氏がそれを肯定していられるように自身の内にもその一部の流れをもっているという人々ではなかった。
 日本の文学における人間性の問題は三年ばかり前にヒューマニズムの問題が現実の推移した事情のままに揉み拉がれて以来、不運なめぐり会わせに消長しているために、今日登場する「嫌な奴」が作家との間にもっている内在的関係も云わば複雑怪奇ならざるを得ない点もある。若しその内在的なものを肯定するとすれば、そのように人生的な意味では既に現代らしくディフォーメイションしたものとしてあらわれている「嫌な奴」の存在を、文学として、即ちそれによって現実をかえりうつべき武器としてのディフォーメイションに迄たかめてゆくためには、大変つよい、明徹な判断の力とその客観的なよりどころがそれ等の作家たちに必要とされるわけであろうと思う。さもなければ、それらの作家たちは現実の一部として自分にも内在する人生の歴史的な歪曲の姿とそれなりに馴れ合ってしまうしかしかたがないことになって来るのである。

「嫌な奴」を作家が観照の圏外に追放しただけで文学の生命が純血に保たれないのは勿論であるし、文学が現実を隈なくとらえてゆく意味でのリアリティを失ってゆくのも実際であるが、小説のなかにただそういう性格が実際生活の中でと同様に跋扈ばっこするという現象と、時代と社会がディフォームしたものとして露呈している現実を典型として文学のディフォーメイションの裡に批判し再現してゆくということとは全く別なのである。バルザックのリアリズムは、この意味でディフォームされた素材を、それをこそわが文学の世界として渉猟しているのであるが、甚だ興味あることは、彼自身時代のディフォーメイションを内在物としてもちつつ社会関係の中では、そのことからの損傷の被害者の立場にありその流血的な日夜から彼の文学は遂に馴れ合い以上のものとして再現して来ている。
 今日、日本の小説に、自身の身内をも流れる同質のものを感じつつ「嫌な奴」を登場させているという一部の作家たちは、以上のような関係では、外的・内的な「嫌な奴」と作家としての自己との間にどんな関係を自覚しているのであろうか。彼等が「嫌な奴」を粉砕していないという事実の人生的・文学的機微は案外にもこのあたりに潜んでいるのではなかろうか。「いま『嫌な奴』と取組みはじめた作家たちが、もし『嫌な奴』に負けてしまったなら、どのような事が起るだろう」と我知らず洩されている片岡氏の危懼きくは、とりも直さず文学の現実としてその危懼をまねく何かの必然が今日に見えているからこそであろうと思える。刻々の歴史に対する客観的な眼力を喪えば、文学上のディフォーメイションはディフォームした人生の局面の屈伏した使用人ともなるのであると思う。
〔一九四〇年五月〕

底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「帝国大学新聞」
   1940(昭和15)年5月27日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
2005年11月8日修正
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