一九三四年のブルジョア文学の上に現れたさまざまの意味ふかい動揺、不安定な模索およびある推量について理解するために、私たちはまず、去年の終りからひきつづいてその背景となったいわゆる文芸復興の翹望に目を向けなければなるまいと思う。
 知られているとおり、この文芸復興という声は、最初、林房雄などを中心として広い意味でのプロレタリア文学の領域に属する一部の作家たちの間から起った呼び声であった。それらの人たちの云い分を平明に翻訳してみると、これまで誤った指導によって文学的創造活動は窒息させられていた、さあ、今こそ、作家よ、何者をもおそれる必要はない、諸君の好きなように書け、書いて不運な目にあっていた文芸を復興せしめよ、という意味に叫ばれたと考えられる。
 ところが、このプロレタリア文学の側から見れば文芸における階級性の問題を時の勢に乗じて一蹴したと見られる文芸復興の呼び声は、はからずブルジョア文学の上にも深い共鳴と動揺とを起す結果となった。ブルジョア作家が自身の行づまりを感じ、創作力の衰弱をその作品に反映していたのはすでに二三年前から顕著な社会的現象であったが、昨年末は、その低下が特別まざまざと世間一般の読者にも感じられた。非常時情勢の重圧は、一方プロレタリア文学運動を未曾有に混乱させると同時に、他の一方ではプロレタリア文学運動のそのような混乱を目撃することによってますます自身の生きる現在の社会の紛糾に圧され、懐疑的になり、無気力に陥った小市民的インテリゲンチアの気分が、ブルジョア文学の沈滞として反映したのであった。
 折から叫び出された文芸復興の声は、その手足をかがめて沈み込んだ状態に耐えられなくなりかけていたブルジョア作家たちの声を合わせて、文芸を復興させよ、特に純文学を復興せしめよと力説させた。このことは、市場としてのジャーナリズムの上をほとんど独占しているかのように見える、直木三十五などを筆頭とする大衆文学と陸軍新聞班を中心として三上於菟吉などがふりまくファッシズム文学とに対抗してあげられたブルジョア純文学作家たちの気勢であったとも見られる。
 この気運の具体化された一例は、昨年末から今年の初めにかけて『文芸』の発刊その他無数の文芸同人雑誌が刊行されるようになったことにも現れていると思う。
 さて、文芸復興の声はこのようにしてブルジョア文学の全野に鳴りわたったが、矢つぎ早に問題が起った。実際の作品の上ではちっとも文芸復興らしい活躍が示されないではないか、はたして文芸は復興したか? という疑問である。
 その解決を求めて、今年のブルジョア文学は前例ないほどドストイェフスキーやバルザック、ゴーゴリなど外国の古典的作品の再検討をとりあげ、明治文学研究も行われた。(「浪漫古典」の森鴎外、二葉亭四迷、漱石などの研究特輯、佐藤春夫「陣中の竪琴」など)リアリズムの問題も、プロレタリア文学運動に新たな方向を与えた社会主義的リアリズムについての究明と呼応して取りあげられたのであるが、私たちの注意をひく点は、ブルジョア文学におけるこれらの諸課題=リアリズムの問題も、外国の古典作品の研究、明治文学の再吟味などすべてが、文学創作にとって実際上新生面を打開する積極的な役割ははたし得ず、かえって抽象的な不安とともに文学の論争を流行させる結果にたちいたったことである。
 今日の情勢は、ブルジョア作家の各人の日常の生活現実にも影響して、その経済的基礎を脅かし、思想の自由を抑圧している。プロレタリアートの組織は極度に破壊されているし、よしんばそれがどこかにあったとしても小市民的インテリゲンチアの日常の救いにはならない。このように不安な時代に生れる文学はリアリズムの方向にもどるにしろ当然かくの如きインテリゲンチアの不安を語り、摘発し、解決する文学でなければならない、というのがその論拠であったと考えられるのである。
 そういう社会的不安を反映する文学の創作についての問題を究明するに当って、ブルジョア作家たちのとった態度は、注目すべき一風変ったものがあった。それらの作家たちは、日本の今日の階級社会の生活が現実として彼らにも与えている苦悩、不安、社会的根源をついてそれを芸術化し、作家としての彼らの生活までを改革の方向に向わせるような実践的な努力はせず、不安の文学の手本をフランスに求めた。そして、かつて動揺していた時代のアンドレ・ジイドの低迷的な作品や正統なロシア文学史には名の出ていないようなロシア生れの批評家シェストフ(この人は一八九〇年代の最も陰気な反動時代、「ナロードニキ」の敗北と政府の悪辣な主脳者ポベドノスツェフの弾圧によって、ロシアの知識階級がすべての急進的実践に対して自己破滅を感じ、歴史の発展を絶望した時代にパリへ移住してしまい、恐らく現在ではソヴェト同盟の社会的建設、哲学、文学における成果の価値をも正当に評価し得ないであろうと思われる)の虚無的著作を、非常なとりまきでかつぎあげながら持ちこんできた。落付いて観察すると、これはまことに奇妙なやりかたというべきではないだろうか?
 最初叫ばれた文芸復興という一般的な要求にしろ、私たちは、社会生活の実際の条件の中に新しく文学を豊富にし創作を旺盛ならしめる可能性をもった条件が積極的な努力でつくられて行かなければ、それは実現し難いものであることを理解している。これは、一人の作家、マクシム・ゴーリキイの発展の歴史を見るだけでも明瞭な事実である。しかし、文学的要因にふれ得ずに、純文学の復興を叫んだ作家たちは同じ誤りを犯しつつ、不安の文学を提唱したのであった。
 深田久彌のように、作品の上ではある簡勁さを狙っている作家も、この問題に対しては、自分が日常生活ではスキーなどへ出かけつつ、かたわら不安の文学について云々している矛盾の姿を自覚することができなかったのである。
 不安の文学提唱、その流布の浅薄な性質については、春山行夫などが、言葉に衣をきせずに批判した。彼は、現在フランスでは左翼的な立場を明らかにしているジイドの発展性を見ずに不安の文学の代表者のようにかついだり、五十三年も前に死んだドストイェフスキーの作家としての特殊性、歴史性を無視して今日の日本でとやかくさわいでも、それは現実の問題として日本のブルジョア作家の生活とかけはなれていて、いまさら文学の新しい力となり得るものでないことなどを指摘したのであった。
 生活そのものにつかみかかって来るような必然性に欠けた、インテリゲンチアの知的自慰にすぎぬ不安の文学が、当然の結果として夢想しているように強烈な、ヨーロッパ的立体性をもった内容の新しい心境文学を創り出すことができないでいる間に、いい加減に残されていたリアリズムの高唱、明治文学再評価がかえって実際の実を結び、ブルジョア文学の上に、本年度の特徴をなす一現象が現れた。それは、明治文学の記念碑的長篇「夜明け前」を『中央公論』に連載中の島崎藤村はもちろん、永井荷風、徳田秋声、近松秋江、上司小剣、宮地嘉六などの諸氏が、ジャーナリズムの上に返り咲いたことである。
 このことは、ブルジョア文学の動きの上に微妙な影響を与えたばかりでなく「ナルプ」解散後のプロレタリア文学にもある反響をあたえた。それについてはのちにふれることとして、ちょうど前後してある意味ではいわゆる文壇を総立ちにさせた一作品が『文芸』に発表された。龍胆寺雄の「M子への遺書」という小説である。
「M子への遺書」はいわゆる文壇の内幕をあばき、私行を改め、代作横行を暴露し、それぞれの作家を本名で槍玉にあげたことを、文学的意味ではなく、文壇的意味において物議をかもし出したのであった。
 ある作家、編輯者はこの作に対して公に龍胆寺に挑戦をしたり、雑誌の六号記事はどれもそれにふれる有様であったが、この作品は、文壇清掃の初歩的な爆弾的効果をもはたさず、いわば作者一人の損になってしまった形で終った。
 ブルジョア文壇への登龍門があるとすればそれには就職運動と同じようにさまざまのブルジョア的なひきがからんでいること、今日文壇に出ようと思えば銀座辺のはせ川とかいう店で飲まなければ駄目だとか、公然の秘密となっている菊池寛を先頭としてのさまざまの程度の代作あるいは放蕩、蓄妾その他は、ブルジョア風な世界観に支配されているブルジョア社会の一部である文壇において決して意外のことではないのである。「M子への遺書」の作者が、どのような内心の憤激と自棄にかられてあの作をかいたか分らないけれども、もし、真面目にそれらの社会的腐敗を作家として問題にするのであれば、全く別のやりかたでされなければならなかったであろうと思う。ブルジョア文壇に悪行があるとすればそれはとりも直さずその作家たちの属する社会層の悪行であり、その根絶への方向は、一作家の文壇の枠内でのジタバタ騒ぎにすぎないことはわれわれの目に明らかなのである。
 さて再び、自然主義以来の老大家の作品とその影響とに戻ってみよう。
 これら一連の老大家たちの作品の中で、よかれあしかれ最も世評にのぼったのは荷風の「ひかげの花」であった。当時、批判は区々であったが、大たい内容はともかく荷風の堂に入ったうまさはさすがであるという風に評価された。そのうまさを買わないで、内容にふれた世評をするのは文学を理解しないものであるかのように考えられた。荷風が小説家としてたたき込んだ芸が云々された。しかしそのうまさというものも、内容の調子の低さにふさわしく紅葉時代硯友社の文脈を生きかえらせた物語体であり、天下の名作のようにいわれた谷崎潤一郎の「春琴抄」がひとしく句読点もない昔の物語風な文章の流麗さで持てはやされたことと思い合わせ、私は日本の老大家の完成と称するものの常態となっているような文学上の後ずさりを、意味ふかく考えるのである。
 さらに我々の深い注意と観察を呼ぶことは、一方においてジイドやドストイェフスキーやシェストフや、盛に深刻強烈なジリッと迫った心境を求めているかのように見える作家たちが「ひかげの花」に取扱われているそれとは全く反対の生ぬるい、澱んだ、東洋風の諦観に貫かれているのでもなければ、フィリップの作のように、生活への愛に満されているのでもない、ずるずるべったりの売笑婦とその連合いとの生活を描く作者の心境に対してはっきりした軽蔑を示し得なかった事実である。私はこのことをもう一度後段でとりあげたいと思うが、荷風が往年特徴としたデカダンスの張りあいない腰をおとした作家的態度を見すごすこと(実質的にはそういうものへの妥協)は、何か後輩の大人らしさという風にポーズされ、この「ひかげの花」は「春琴抄」とならんで、一般文学愛好家の間にまでいわゆる文章道の職人的手腕に対する関心をかき起した。
 今日の社会的段階にあって、リアリズムはそれが客観的現実を反映するリアリズムであるならば社会主義的リアリズム以外に内容され得ない。その必然を理解しないでふるい世界観のうちに閉されている作家たちが、若々しい年齢にもかかわらず、荷風のあるうまさだけを切りはなして問題にしたことは十分うなずけるが、この職人的な腕を作品の持つ社会的歴史的価値から切りはなして、評価する誤りにはプロレタリア文学を創ろうとしている一部の作家たちもまきこまれた。
 やはり、リアリズムの不確実な理解に煩わされて、現実にきりこむ作者の態度と血の通ったつながりにおいて文章のうまさを見ようとせず、ただ作家には技術が必要であるという、文学における階級性以前の立場から「春琴抄」のうまさ「ひかげの花」のうまさをとりあげる傾向が生じたのであった。これらのことをふくめて総体に見れば、老大家たちの作品の多くは、その社会的文学的効果において、文学を前進せしめ、新たな深みをあたえる意義は持たなかったのである。
 正宗白鳥は自然主義時代からの作家として今日も評論に小説に活動して一種の大御所のような風格をもった存在となっているのであるが「ひかげの花」について菊池寛の見解に反対した意見(十一月号『改造』)の中には、その矛盾においてなかなか教えるところがある。
 菊池寛は「ひかげの花」について、荷風も下手になったといい、「この頃はエロでなくても、傾向がわるいという理由ですぐ切り取りを命ずる警保局が、なぜあんな世道人心を害」する作品を切りとらせないかといった。正宗白鳥は、菊池が自身の側においたような風でいっている警保局云々の考えかたを、そのようにケシかけたりするのは意外のようであるとし、山本有三、佐藤春夫、三上於菟吉、吉川英治その他が組織した文芸院の仕事の価値をも言外にふくめて「文学者がさもしい根性を出して俗界の強権者の保護を求めたりするのは、藪蛇の結果になりそうに、私には想像される」といっている。国家が芸術なんかを保護しなかったのはかえってよかった、現在保護と監視は同義語である、と説破しているところは、やはり自然主義作家正宗の進歩性がそのおもかげをのこしていると感じられて愉快である。
 けれども、白鳥は、荷風の人となりと「ひかげの花」の境地には賛成しているのである。「戦国時代には、弱者たる普通の民衆は、戦々きょうきょうとしてその日その日をどうにか生き延びていたであろうが、せちがらい今日『ひかげの花』の男女が、どうにか生きのびているのも同じ訳ではあるまいか」「人生の落伍者の生活にも、それ相応の生存の楽しみが微かにでもあることを自ら示している」ところの人間の希望を描いた作品であるとしているのである。ここに到ると、白鳥は自然主義の作家としてまぎれもなく持っている自身の制約性を、さながら自分から私たちにとき示しているかのようではないか。民衆ははたして単なる弱者であろうか? 社会の発展が未来に約束している希望は、「ひかげの花」にもられている希望と同質のものであろうか? 「ひかげの花」の二階生活にあるものをある種の希望と呼び得るならば、それは、そのようなものをさえなお人間生活の希望の部へ繰り込まなければならない社会の現実について憤りを禁じ得ぬ種類の、最も消極的幸福のかげである。荷風の消極の面を白鳥は自身の永年の惰力的な楽なニヒリズムで覆うてしまっているのである。
 また、菊池寛のかつぎ出したものに対して、白鳥が、保護を拒絶した態度は興味があるけれども博覧な彼もついに見落していることがある。それは、この地球上には世界に比類ない大きい規模で諸芸術を花咲かせ、作家の経済的安定の問題から、住居・健康のことまで具体的な考慮をはらい得る国家が現実に存在していること、そして、そこでは山本有三が松本前警保局長と対談したとは全く異った内容性質で、作家が国家機構へ参加していることなどを、第一回全連邦ソヴェト作家大会の記事がジャーナリズムの上に散見するにかかわらず、正宗白鳥は作家たる自身の生活につながる問題として常識のうちにくみとり得ないでいるのである。

 石坂洋次郎が去年から『三田文学』に連載している「若い人」は、はなはだしく一般の注目をひいて以来「馬骨団始末記」「豆吉登場」などつづけて作品が発表されるに至ったのは、以上のように純文学の新生を期しながら、作家たちの実生活、創作活動は依然として非生産的な雰囲気のうちに低迷していた折から、一脈新鮮な息づかいが、文壇的には新人であっても、すでに何年か小説をかいてきていた作者の作に感じられたからであろう。
 今からほぼ十年ほど前に、慶応の国文科をで、葛西善蔵、宇野浩二らに私淑し、現在では秋田県の女学校教師であるこの作家の特徴は、非常に色彩のつよい、芝居絵のような太い線で、ある意味での誇張とげてものの味をふりまきながら、身振り大きく泣き笑いの人生を描くところにある。
 資本主義の都会生活に不自然に一様化された小市民の、臆病で、窮屈で、しかもこざかしい生活態度に反抗し、同時に作者自身の近代的弱さ、複雑さを克服しようという意気ごみで、石坂洋次郎の作家的意企は、思想よりも生活を、精神よりも肉体を描くことに置かれているらしく考えられるのである。
 表面的に理解すると、精神や肉体が全く二元論的に見られているようにもとられるその標語で「馬骨団始末記」の作者は、これまでの純文学作家たちがしていたように、単純な一つの行為をするだけにさえ三十枚、四十枚とその心理的過程を追求する小説を書くようなことを目ざさず、とにかく、生きて動いて直截に行動している人間を、生きて動いている人間との関係において描きたいといっていると見るべきであろう。
 それらの心持を十分に推察しながらも、私は一つの疑問に逢着した。初期の暗鬱な涙の中にユーモアをもった短篇から「ふてぶてしく」「大手を振って生きよう」という今日の信念に到達した道には、石坂洋次郎として進展の足どりを認めることができるであろう。然しながら、すべての批評家が指摘している誇張癖とともに、作品のうちに試みられている強さ、逞しさ、単純で無垢な野蛮さへの翹望というようなものの本質は、どこまでも真に新しい社会性を含み、それを方向としているであろうか。私はこの作家によって意企されている美しい荒々しさというようなものが、八〇年代のロシア・インテリゲンチアの世界観に対して、新たな階級の感情として生れたゴーリキイの初期のロマンティシズムとは全く異った性質をもつものであると感じる。作者が従来生きてきた社会層の枠の内での常識が裏がえしの形で出された、人為的なものではないかとあやぶまれるのである。
 この作者の才能を認める川端康成その他多くの作家たちは、石坂の作品にある誇張癖、古めかしさなどを、一概に咎めだてすることはできぬといって、作品にこもっている作者の生活感の豊かさを評価している。もっともではあると思うが、私どもは、この作家の作品にある古めかしさ、誇張などを、ただ手法上の不十分さという風に切りはなして問題にしただけでは、まだ解決されないものを感じる。また、作者自身が、賢く第三者の評言をうけいれて、そのマイナスの意味をもつ特徴は自分が育って今も住んでいる東北地方の陰鬱な風土の影響であろうと自省しているところに、この問題を真に文学上発展させるモメントの全部があるとも考えられない。
 なぜなら、この作家の作品にめだつ誇張は、思わず知らず作者の若さが溢れ出したという種類のものでもないし、荒削りな北方の自然にかこまれた田舎の人の重いきつさというものでもない。ずっと計画性のひそんだものとして私どもにはうつる。作者が、制作にあたって意識をある方向に強調することから誇張が生じていると思われ、そこに何かいい意味にもわるい意味にも自然でないものが直感される。そのギャップを、強引にこのごろまたはやり出しているニイチェ風に押しきり得るものか、あるいはその折れ目からかえって全くインテリゲンチア的に虚無的な低下へまで堕ちこむか、私たちは、石坂洋次郎がすでに一つの重大な内容をはらんだ前進をよぎなくされていることを感じるのである。

 本年度に入って「ナルプ」が外的・内的の圧力によって解散したこと、ならびにかつて文学の全野の上に鮮やかな階級性の問題を押し出して来ていたプロレタリア文学運動の指導者たちのある部分が、敗北して、現在では自分たちの階級作家としての実践で歴史の推進を実証することはできぬものとなって再び一般文学の中へ還って来ている事実。この二つは、プロレタリア文学を建設しようとしている作家たちを混乱させたと同時に、一般のインテリゲンチアに、自身の消極性を正面から肯定させるような結果に導いている。
 横光利一の「紋章」が、現在ブルジョア文学の上では非常な注目をひいているのであるが、その騒がれている心理的な背景は、この問題ときりはなして理解し得ないものであろうと考えられるのである。
 数年前、プロレタリアートの擡頭とともに文学における階級性の問題が提出された頃、インテリゲンチアの苦悩と不安とは今日と全く別様な本質をもっていた。新たな世界観を我ものとして身につけ切れない自身を自覚して、自分の弱さを苦しく思う心持。インテリゲンチアの急速な階級的分化の必然はわかっているのであるけれども、自分はさまざまの理由からその移行ができないことについての自己嫌悪。そのような内容をもつものであったと思う。それらの人々の当時の不安は、自分たちの生活の無内容を、より積極的な階級進展の必然性の前に承認した意味では、ある前進的な意味をふくんでいたのであった。
 こんにち、ブルジョア・インテリゲンチア作家たちは、何かの形で、いわば、いなおっているといえると思う。文学における階級性の問題は、現在の情勢の下では、それが具体的になれば、いずれ治安維持法にうちあたる性質のものである。その現実にぶつかって見れば楽なものでないことは、勇ましげにあったプロレタリア作家たちの敗北に現れている。自分たちがそんなことに進めないし、進めなかったのはむしろ当然である。自分たちはこれでよいのだ。以上のような安価な見透しに立って、インテリゲンチア作家たちは、つまりマルクス主義のこちら側で、自己をうちたてよう、強い自己を文学の上にうちたてて右からの波、左からの吸引に対し、高邁に己れ一人を持そうとしていると観察されるのである。純文学家が「不安の文学」とともに問題としている文学における自我あるいは「自己意識」の確立の問題は、それが、マルクス主義に打ちあたってのちのブルジョア・インテリゲンチアの間に再起した個への還元の問題として、大きい社会的内容を私どもに印象づけるのである。
「紋章」については多数の人々がさまざまにそれを突いていた。その批評にあらわれた抽象的な物のいいかた、哲学の引用の様子そのものが、すでに、まざまざと今日の知識階級がどんなに古い知識の破片をうず高くかぶって、窒息せんばかりの状態におかれているかを感じさせる有様である。
 横光利一は「紋章」の久内の生きかたによって、今日大多数の小市民・インテリゲンチアが求めている階級性を絶した自己の確立感、不安、動揺の上に毅然と立つ一個の自由人の境地を示そうとしているのである。雁金八郎という、小学校をでたばかりであるが発明についての才能をもった男が、久内と対蹠的人物として「紋章」にでてくる。その雁金の存在と醤油製造、乾物製造についての発明の過程や、久内の父である山下博士の雁金に対する学閥を利用しての資本主義的悪策など、それらがわたしたちの現実の見かたから批判すれば、リアリティーをもって描かれていないと批評したところで、作者横光は当然のこと「紋章」の崇拝者青野季吉を先頭とする多くの読者たちは、ぴくりともしないであろう。
 また、これとは反対に、プロレタリア作家が属す階級とその文学の性質について知りながらも、やはり「紋章」に心ひかれ、その理由を、「紋章」では作者が生産をとりあげようとしているとか、近代的な科学性を示しているとか、あるいは進んで作者はそれを意企していないであろうが、資本主義社会機構を計らずもあばいているではないかなど、合理化をしている姿をみれば、先ず作者である横光利一が、ふん、と豪腹そうに髪をはらって、自意識ないプロレタリア作家を見下し、うそぶくであろう。「あれは、実験室的なものだよ」と。――
 何かで、この作者が「考えごとをしているときは働いている時だと思う」と言っている言葉を読んだことがある。多くのインテリゲンチアが、自分たちはこれでいいのだと自身にいいきかせつつ、自身の思考力を疑ったり、その思考生活を狐疑したりしている間に立って、横光は処女作「日輪」にもすでにうかがえる生活力の強引さで、自分の独断を強引に文学の中に具体化しようとしている。雁金がリアリズムの見地でリアルであるかないかは、彼にとって問題でなく、作者が自分の主張の代人である久内を自由人として鋳出すに必要なワキ役のタイプとしていかす必要にだけ腹をすえて、雁金も山下も、妻、初子すべてを扱っている。長篇「紋章」の終りに到って久内に、
「日本の国にはマルキシズムという実証主義の精神が最近になって初めてはいり込んできたということは、君も知っているだろうが、こいつに突きあたって跳ね返ったものなら、自由というものはおよそどんなものかということぐらい知っていなくちゃ、もうそれあ知識人とはいえないんだからね。これからの知識人というものは、自由の解釈いかんから始ってくるんだ。」
といわせ、その自由の内容を「自由というのは自分の感情と思想とを独立させて冷然と眺めることのできる闊達自在な精神なんだ。雁金君なんかは僕にとっちゃたしかに敵だが、敵なればこそあの人の行動は、僕に誰よりも自由という精神を強く教えてくれたのだ……。」と結論せしめるために、あれだけの長篇を、ぐっと引っぱってきている。
 作者のこの気象から出る作家的な気張りは、その文章の構えかたにもあらわれ、一般読者は作中の人物、事件は何となくガラスのようで、研究材料のようだとは感じつつ、ある程度まで作者の確信や度胸で遅疑なくキューと描かれている輪廓のつよさ、鮮明さに、錯倒的現実感をひき起されるであろう。(私どもは、嘘をあんまり、はっきり、自信をもっていわれるとかえって自分が怪しくなるのを知っている。)
 青野季吉が、この「紋章」にすっかり「圧迫され」批判どころか横光の「自由の精華」の前で掌をすり合わしている姿は、一つの歴史的な見ものである。一般の読者にとって「紋章」の魅力あるゆえんは、作品が今日のインテリゲンチアとして共通な、社会的要因の下に立っていることと、たとえ独断であろうと作者の知的主張が水際だって強いことにあるとともに、読者の胸に現実の問題としてのこされる漠然たる疑問――ここにいわれているような自由は常にどこにおいてでもなり立つものであろうかという、煙のように日常の生活から湧く疑い、それはとつおいつものを考える癖に陥っているインテリゲンチアに一つのかみ切ることのできない観念的餌食を与えることとなって、作品の刺戟と魅力の一部を構成しているのである。
 まず以上のように、からまっているさまざまの蜘蛛の糸を払って、むき出しに「紋章」を眺め、横光によってたどられた自由建設の道行きを調べると、私どもは、いわゆる高邁な文学的業績を熱愛する作者が、実は案外、単純で、楽な道具だてだけをこの作品のために拾ってきている事実を見出すのである。
 総体がリアリズムによって書かれているのではないことを一応認容した上で、これはいえることなのであるが、久内が自由の精神によってもって立つ人間と自覚し得るに到るために、作者は久内に多岐多様な内的苦悩を経験させているとは決していえないのである。
 雁金という人物は、非行動的で、自意識の過剰になやむインテリゲンチア山下久内に対照するものとして、単純な、変りものの発明狂、行動者として扱われているばかりでなく、作者は、はじめから、久内が「同情し得る」程度の条件しか持たぬ人物としてこしらえている。雁金のお人好し、単純性は、変りものの発明家などにはそういう気質のものがあるという意味で「紋章」にすくい上げられているのではなく、久内に配合して久内を破綻せしめず目的の「自由」へ送りこむために便利な単純性に、現実の体を与えれば、雁金のような発明家でもつくるしかなかったと思われるのである。
 横光は「敵なればこそあの人の行動は、僕にとって何よりも自由という精神を強く教えてくれたのだ」と久内にいわせているが、敵として雁金の持っている内容は、ある精神力の水準に到達した知識人にとって、大した困難なく超越して、対手を同情し得る種類のものである。久内に対する雁金の敵としての関係は、外部的なものであって本質的なものではないのである。もし知識人にとって、現在あるがままの知識人であることに疑いを抱かせ、その精神を混乱せしめ従って社会的存在意義を危うくするものが敵であると考え得るならば、横光は、なぜ一人の実践力あるマルキシストを作中にひきこんでこなかったか。(たとえ転落しようとも、再び立ち上る力を客観的必然として持つのはマルキシストであるのだから。)
 雁金のかわりに、こけつまろびつしつつも、結局は行動性のチャムピオンであるそのような人物が試験管に投げこまれれば、久内はもっと沸騰し、上下に反転し、煙を立て、作者の知的追求に対しておびただしい多彩な醗酵の過程を示さざるを得なかったに違いない。それを横光の如き野心あり、発展性ある作家がどうしてやって見なかったか? 答は明瞭であると思う。横光はそのような冒険で、万一久内が対立人物と同化してしまったり、あるいは久内ともう一人の人物がもみあったまま、ついに「紋章」という一定の実験室的目的をもったガラス試験管が爆発してしまったりしては、何にもならない。そのことをよく心得ているのである。
「紋章」は初めから作者によって準備されている一定の結論のために、限度をあんばいして配置された人物の動きによって、全篇をすすめられているのである。
 ここで、私たちはもう一遍、横光の主張する自由への道が、どのような社会的モメントに置かれているかということを、「紋章」についてたずねてみよう。久内は「俺は真をも善をも知ろうとは思っちゃおらんのだ。俺は他人に同情できればそれで満足なんだ」とうめいている。
 雁金を窮地におとしいれた父山下博士に対しても別居をやめてかえった久内は「父を見ても予期していたような対立的な重苦しさを感じない」それというのも「海中深く没してしまった自分の身の、動きのとれぬ落付きでもあったろう」としんみり述懐しているのである。父が破産するに及んで月給取りになった久内は、こうもつぶやいている。「むかし自分の頭を占めて離れなかった雑多な思想を思い浮べてみることもあったが、それらはことごとくからまり合った一連の網となって、頭上はるかな高い海面でただ揺れ動いているかのように見えるだけだった」そして、月給日など「裏町の小路をのっそりと歩いたり、なんかガスのように下方をはい流れているうつらうつらとして陰惨な楽しみに酔う自身の姿に気がついて、なるほど世に繁茂する思想の生え上った根もとはここなのかと、はっと瞬間目醒めるように眼前の空間の輝きわたるのを意識した。けれでも、そのたびに『いや、眠れ、眠れ』と、彼は自分にきかす子守唄をうたうのである。」
 私どもはこのような行文を読んで、これはまことに正宗白鳥の小説の中の文章ではないのかと、おどろいてそれが横光の作中にあることを考えなおす次第である。
 久内はかかる気持で生きつつある男なのである。このように沈下した精神状態は、心理学の教科書によらずとも、およそ外界の事件に対して共感、同情のひき起され難いものであることは明らかではないかと思われる。
 久内は自分を、雁金というドン・キホーテについてゆくサンチョであるというが、サンチョ・パンサはなぜドン・キホーテにくっついて行ったのであろうか。ドン・キホーテの単純な私心ない行為に「負かされ詰めだけれども、結果としてとうとう僕の方が勝ったのだ。ところが、こいつは誰にも通じやしない。もっとも僕は通じなくたって悲しんでやしないがね」という独善的な結論をかためるためにくっついて行ったのではなかったことは、分明なのである。
 この場合、ドン・キホーテになぞらえられている発明家という人物を、さっきのように一行為者としてのマルキシストに置きかえて横光の以上のような結論の性質を観察して見るとしたら、私たちの感想は、これを何と表明したらよいであろうか。

 横光利一という作家は、頭脳のある程度の緻密さと、作家として大切な生理的気力を持ち、そうざらにはない男というべきであろう。その横光にして、久内によって代表されるインテリゲンチアというものがなぜ常に自分たちの「思うことと実行することが同一になって運動し」ないことについて苦悩しなければならないかという、その制約の根源をあばく気魄がないのであろうか。酵母についての科学的知識を示すならば、どうして、インテリゲンチアの生活解剖に、社会科学を活動せしめるに堪えなかったのであろうか。
 久内が、父の山下などと茶の湯をやる、茶の湯の作法を、横光は丹念に書いて「戦乱の巷に全盛を極めて法を確立させた利休の心を体得することに近づきたいと思っている」久内の安心立命、模索の態度を認め、更に「わが国の文物の発展が何といっても茶法に中心を置いて進展してきている以上は、精神の統一の仕方は利休に帰ってみることがまず何よりの近路に相違ない」「なるほど、茶法の極意を和敬清寂と利休のいったのに対して、それを延して、人に見せるがためにあらず自己の心法を観ずる道場なりと変化さし得て今に至ったことは、ここに何事か錯乱を妨ぐ精神生活者の高い秘密がある」と直覚した久内に、全く賛同しているのである。
 ビヤホールで、賢くも確りもしていない善作に向い久内である作者が説明した自由の「自分の感情と思想とを独立させて冷然と眺めることのできる闊達自在な精神」なるものは、そうして見ると、動的なものではなくて、ある身構えによって輪廓づけられているところの日本的な虚無感の充実にすぎぬという結果が出て来るのである。身を深く海中に没し云々というくだり、自分に唄う子守唄のところ、そこに出ている久内の生活の調子の実際のひくさは、ただひとえに、彼自身が、ひとに分らなくても悲しくはないぞといいつつ主観的に強調している自意識の自由感によって辛くも合理化され、彼を自殺から救っていると見られるのである。
 パスカルだの、プロメシウスだの、ヨーロッパの文学の中からの言葉が「紋章」の中には散見するのであるが、精神的高揚の究極は茶道の精神と一脈合致した「静中に動」ありという風な東洋的封建時代の精神的ポーズに戻る今日のインテリゲンチア作家の重い尾※(「骨へん+(低−イ)」、読みは「てい」、第3水準1-94-21)骨は、年齢を超えて正宗にも横光にも全く同じ傾向をもって現れている。このことは驚くべき意味深い事実である。横光の場合主観的な知的逞しさは感覚されているのだが、本当の社会的な意味でひるむところのないインテリゲント、実行力としての現実的内容をもつ理智は獲得されていない。
 春山行夫という批評家は、その人としてのいい方で、横光の自我は現実を裁断する力がないから未完成である、といっている。これは普通の言葉でいうと、横光の生活的作家的生きかたは、要するに頭の中だけで問題をこねているから、まだであるということになるのであろうと思う。

 工場で十三時間の労働をしている大衆にとって、また、山ゴボーの干葉を辛うじて食べて娘を女郎に売りつつある窮乏農民にとって、この「紋章」は今日何のかかわりがあるであろうか。そういう感想は全く自然に起るし、いまさらびっくりするほどインテリゲンチアの問題に終始しているブルジョア文学のことが勤労階級にとって何の連関があるだろうと一応はつきはなせないものでもなく思える。しかしながら、われわれがなおこれをとりあげ吟味するのは、これらの作家たちの作品を機械的にプロレタリア文学の立前と照らし合わせてそれが非現実的な、主観的作品だときめつけるのが眼目なのではなくて、われわれが生き、たたかい、そしてそれを芸術のうちに再現しようとしているこの社会的現実のうちに、彼らをしてそのような作品をかかしめている要因があるということ、それを文学の面においてはブルジョア文学の作品形象のうちにとらえ、理解すること、これが私たちの目的である。なぜならば歴史の今日の段階にあっては、ブルジョア・インテリゲンチア作家をそのように一見高そうで実は低いところへつなぎとめている封建的力が、現実にはプロレタリア作家のうちにも何らかの形で影を投げているのであるし、その解決は、本質上、彼らの仕事ではあり得ず、勤労階級の仕事だからなのである。

 もう一つ二つわれわれの見落してはならぬことがある。本年も終りに近づいてから、舟橋聖一などによって、目下のところでは未だ方向の明らかにされていないインテリゲンチアの行動性を煽る「リベラリズム」という立場が主張されて、「ダイヴィング」などという作のでてきていること、支配階級の大衆的文化政策としてラジオのみならず出版界に宗教復興が大規模に企画されはじめている。それを反映して、本荘可宗が巧に不安の文学提唱に際してかつぎ出され流行しているドストイェフスキーを捕えてきて「新しき文学と宗教的慧智」というような論文を書いていることなどである。『三田文学』の十一月号には岡本かの子が「百喩経」という小説を書いていた。パリへ行ってきたことまでもある彼女は、「仏教と文芸はむしろ一如相即のものである」ことを主張し、たとえば「愚人食塩喩。塩で味をつけたうまい料理をよそで御馳走になった愚人がうちへ帰って塩ばかりなめてみたらまずかった」というような前書で、それを形象化しようとしたコントを書き、そういうものをいくつか一篇として並べているのである。
 この作品一つでどうなるというほど強烈なものではないけれども、横光に見るような主観的な高邁への憧憬にしろ「ひかげの花」の地につくばった生き方にしろ、宗教的なものにずり込む可能性は多分にある。岡本一平はなまじかの禅臭で自身の漫画をついに鋭い諷刺にまで高め得ずにいることは、小説とはちがうが、興味ある教訓である。
 舟橋聖一のリベラリズムは、手をこまねいて情勢に圧されているインテリゲンチア作家の態度を不甲斐ないものとし、ニヒリズムでも、厭世論でも、そう信じるなら、そう叫べというのであり、「知識階級本来の面目である闘争的な良心的な姿をとり戻せ」と主張しているのであるが、この行動性の要求は、石坂洋次郎の作家としての立前およびそれを評価した一般の空気の中にもただよっていた要求である。
 不安の文学の提唱も大して体系的に深められぬまま、すでにこれらの人々は考えるに飽き、今は、行動へ、明るさ朗らかさへ、野生で溌溂たる生へ! と落付かぬ眼差しを動かしているのである。けれども、このはっきりした基準のない行動への衝動欲求は、非常に多くの危険と文学の崩壊の要素をふくんでいると思われる。
 行動が、歴史の積極面と結合して階級移行の方向になされ、質的変化を可能とする見とおしに立つのでなければ、この現実の客観的情勢のうちで、しかもマルクス主義のこちら側で、どのような質的内容をもった新しい行動が文学において可能であるだろうか。ファッシズムや、エロティシズムの方向をとることはさし当り見易い一つの危険である。雑誌『行動』主催で、文学の指導性座談会が催された席上で、文学における行動性について、たとえば新居格は「なんでもいいからやれば宜いと思うんだ」といっている。さらに指導性について、各自意見の混乱を示している中で、阿部知二は、はっきりファッシズムに興味をもち、人にきいたり一生懸命研究してみるつもりであると断言しているし、フランスから新帰朝の小松清はジイドの文学的節操に感歎しつつ文学における性問題のおし出しに力を入れているのである。また、自分の文学に指導性はないといいつつ中河与一は、ぼんやりとながらイギリス、アメリカなどの国家社会主義的経済統制を根源とするナショナル・サルベーションの傾向(民族自救とでもいう意味であろう)に興味を示している。これらは彼らによって討議された文学における行動性、指導性、民族性の問題にふくまれている危険であるが、この座談会で、ただ一つ文学にとって積極的なモメントとなり得る諸氏共通な欲求が認められた。それは「文学が怒りを持たねばならぬ」ということにおいて一致した見解である。
 もちろんこのことも、漠然とした、そして瑣末的な実例について語られ結果はアイマイになっているのであるが、積極性に発展し得る小さいモメントをもわれわれはまめにとりあげ、勤労階級の文学的実践をとおして彼らのうちにいささかなりともある芽をひき出さねばならないであろうと思うのである。
 本年は『百鬼園随筆』をはじめ非常に随筆集が出た年であった。またバルザック、ツルゲーネフ、チェーホフ、ジイドの全集、ついにシェストフの全集まで出版されるらしいが、それはどういう社会的情勢を反映するものであったかということにも言及すべきである。しかし今は時間がなくなった。
 また、何人かの婦人作家をこめて送り出されてきた新進作家について、また、同人雑誌についてふれていないことは、この文章の大きい欠陥であるが、半年、読書を奪われていた私は、それらのすべてを読むことは力およばなかった。読者のおゆるしをこう次第である。
〔一九三四年十二月〕

底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「文学評論」
   1934(昭和9)年12月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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