『集団行進』をいただき、大変に興味ふかく、得るところも多く拝見しました。巻頭の序文によると、この集は最近一年間において短歌をつくる労働者作家が非常にふえたことを一つの特徴として示しているとのことです。
 この一年と云えば私が不自由な拘禁生活を自身の深い経験の一つとして過した月日であり、その間に外では、短歌の形で自分たちの生活の感情を表現しようとする意志が勤労階級の中から高まって来た月日であったと考えると、私にとってはまことに意味深い示唆が与えられます。この一年間の私たちの生活というものは、歌人でない者にも何かの形でその心持をうたわずにはおれない思いをさせる程のものであったと云うことが出来ましょう。今日の現実は、風流なすさびと思われていた三十一文字みそひともじを突破して、生きようと欲する大衆の声を工場から、農村から、工事場・会社・役所から、獄中からまで伝えて来ている。その点で、この二百頁に満たぬ一冊の歌集がきょうの日本の歌壇に全く新しい価値をもって現れているという渡辺さんの言葉は確に当っていると思われます。そして、それぞれの歌がそれぞれの作者の生活の面を反映させているなかにも、私が心を動かされたのは、「工場から」(岡村浄一郎)、「工場の歌」(平野大)、「脂」(速水惣一郎)、「給仕修業」(烏三平)などのように、今日の日本に生きる勤労大衆の生活の歴史的な一つの道行き、過程をうたったものが、一つ二つでなくあることです。私は昔万葉集や金槐集(実朝の歌集)などを読み、なかなか感心したものです。きょう、短歌を作ろうとする人々にとって、これらの古典はやはり読まれ、研究されるべきものでしょうが、それは全くこの『集団行進』に集まっているような作者たちが生活そのものによって現代の社会に要求し示している新しい素質・主題を益々つよく冴えたものとして活かすためにだけ、学び、研究されるべきでしょう。芸術的な表現の力が、まだどの作にも十分具わっているとは云えないという序文の言葉は正しいと思いますが、私が短歌の素人として読んだ感じでは、例えば、

よろめけば
よろめく方から打って来る拳に
歯をくいしばって体勢を整える。
    ×
なぐらせるという反抗の仕方だけ残され
憎しみのかたまりとなって
うんとなぐらせる。
    ×
手ばなしでなぐられる
金しばりの中で
頑固に自らを試煉する。(以上、烏三平)

 これらの作品は、非常に複雑で熱い意欲をたくみに圧縮しつつ心を打つ力をもっていると思われますし、別な例では、

ようやく終った所長の訓示
ヒヤカシ半分に拍手浴びせ
ワッと喊声あげて職場へ引き上げる。(水原蓮)

など、この前にある二首とともに、そこに集る労働者たちの若さ、肉体の動き、足音、身なり、声々まで想像され、よく生活的に描写されていると感じました。情景のまざまざととらえられ感情化されている作品として、「橋梁架設工事」「生活の脈動」「町工場」「シベッチャの山峡」「下水工事場」「三河島町風景」「無題」などの中に、いくつか印象のつよい作がありました。山田清三郎が獄中からよこす歌には(独房集)何とも云えぬ素直さ、鍛えられた土台の上に安々としている或るユーモアの境地があり、作品に独特なおもむきを与えているではありませんか。
 ところで、この『集団行進』をよんでも思うことは、時事問題を芸術として扱うことの必要と同時についておこるその難しさです。ソヴェトの建設について「思想も統制」されることについて、私たちの日常生活は切れない影響をうけているのだから、それらは芸術化されなければならず、更にこういう主題こそ一層の形象化、具体性を必要とすると思われます。詩人の間に諷刺詩の制作の要求がおこっていることは、今日私たちが取りくんでいる社会情勢との関係で謂わば自然な人間的要求の一発露でしょう。詩のジャンルとして諷刺詩というものがあり得るとか、あり得ないとかいう論議より先に、私共は実際生活の場面で屡々しばしばそれに対して憤りの感情を激発され、しかもそれなりの言葉では云い現わせないという窮屈な事情に出くわしつづけているのです。一九三六年版の年刊には、果してどのように成長した時事的作品が短歌の境域に出現するか、見落せない期待のひとつです。
 山田あき、田中律子という二人の婦人の作品はそれぞれ注意をひき「織布部おりぶのうた」は日々の生活の感情がにじみだしている粘着力のつよさが作品の上に感じられます。
 けれども、五十九人の作者、約七百余首の作品が収録されているというこの『集団行進』の中に婦人の作家はたった二人であること。これは、私達によろこびより寧ろ深刻な警告を与える事実であると思います。『主婦之友』、『婦人倶楽部』などの短歌欄に投稿している婦人の数に比べて、この二人という数は何百分の一に当るでしょうか。『集団行進』の中に辛うじて二人の先達せんだつを送った婦人の大衆はまだまだ「やさしい婦人の歌心」という程度のところに引止められていて、生活のあらゆる重荷にひしがれながらせめてもの息のつきどころ、自分ひとりの金のかからない慰め、現実からの逃げ場所として和歌でもつくっているのであると思います。満州問題がおこって以来、婦人雑誌を読む女のひとの間に和歌と習字との流行が擡頭している事実を考え、またそのことと、今度平生文相が行おうとしている学制改革案で男の学生には「労働証」女の学生には「家政証」を制定することとを思いあわせ、私は自分もひとりの女として胸におさめ切れぬ何ものかを感じるのです。
 人間というものは自身の生きている現実からのがれ切れるものではありません。のがれ切れない以上、その現実に腰を据えてそれととり組み、そこに手がかりを見出し、ほんのちょっとでもこの現実をましな方に向けるような意志をもって生きて行く、それが生であり『集団行進』が人間のそのような喜び、悲しみ、憤りを盛っているからこそ、既成の所謂歌壇に対し特異な価値を主張し得るのであると信じます。
〔一九三六年七月〕

底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「短歌評論」
   1936(昭和11)年7月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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