ついこの頃、科学の仕事をしている友人から大変興味のある話をきいた。それは植物の分類に関することで、従来の分類は、目で見えるだけの葉っぱの形、花の形、実の工合などが目安でされていた。鋸状の葉っぱは葉っぱの目に見えるその特徴によって、他の鋸状の葉っぱをもつ樹との類似を見られて分類の条件とされていた。ところが最近の植物の分類の方法は進歩して来て、只そうやって肉眼で見える形の上での類似などばかりにたよらず、もっとその植物の生存の本質的な点、例えば或る葉が一定の光の下でその葉緑素にどんな変化をおこすかという点にふれて観察して、その有機作用の共通性で、植物の分類をするようになって来たというのである。だから、昔の、目で見較べたばかりの分類より、もっと各植物の生活の内部に直接ふれて観察が行われてゆくわけである。
 この自然科学の一新面の話が、ひどく面白く思われるのは、文学のリアリズムの問題がすぐ思い浮ぶからであった。リアリズムへの疑問というようなものは、これまでの文学の歴史のなかでも様々な時代に様々な社会層の心情の反映として表明されて来ていると思う。今日もやはり一部にはリアリズムへの反撥が存在していて、その原因は社会的にも心理的にも単純ではないと思える。リアリズムにあき足らず思う感情の根には、いつも、現実をそのまま写したって、という不満が強くうごめいている。それに対してリアリズムを芸術の正道と信じている人々は、何も写実が今日のリアリズムではないと迄は云うけれど、では、どういうのが目ざされているリアリズムかというと、それを短くはっきり定義づけることには困難が感じられているようだ。
 リアリズムが、目に訴える人間のいろんな心と体との動きを外側から追ってついて行って片はじから、本当のように描くばかりのものではなくて、同じ今日という社会の息を吸いながら、Aはそれをどう吸収し、Bはそれからどんな作用をうけ又作用を与えているかという、その社会生活と個人との間にある有機的な性格にふれて描こうとするものだという点では、植物の分類法の上に行われている新しい方法が、きわめてまざまざとリアリズムの真実なありかたの一面に共通している。
 人間性という言葉は文学の上で、とかくあらましな総括でつかわれるならわしだが、その人間性の具体の姿は、それぞれの植物がもっているような特質とその特質における共通性をももっているわけで、人間性もその発露は、自然主義が本能に帰結させたより遙に多角なものとしてうけとられて来ているのだと思う。人間は植物とちがって、自分の意欲で、自分の社会的な分類の埒から跳躍する力をもっている点も、人間の文学のリアリズムの面白さ複雑さである。人間性への具体的な迫真の試みだけが、リアリズムを自然主義の匂いの中から歩み出させ、明日の文学へ新しい展開を与える可能を見出してゆくのだと思われる。
〔一九四〇年九月〕

底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年4月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「月刊文章」
   1940(昭和15)年9月号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2003年2月13日作成
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