この自然科学の一新面の話が、ひどく面白く思われるのは、文学のリアリズムの問題がすぐ思い浮ぶからであった。リアリズムへの疑問というようなものは、これまでの文学の歴史のなかでも様々な時代に様々な社会層の心情の反映として表明されて来ていると思う。今日もやはり一部にはリアリズムへの反撥が存在していて、その原因は社会的にも心理的にも単純ではないと思える。リアリズムにあき足らず思う感情の根には、いつも、現実をそのまま写したって、という不満が強く蠢いている。それに対してリアリズムを芸術の正道と信じている人々は、何も写実が今日のリアリズムではないと迄は云うけれど、では、どういうのが目ざされているリアリズムかというと、それを短くはっきり定義づけることには困難が感じられているようだ。
リアリズムが、目に訴える人間のいろんな心と体との動きを外側から追ってついて行って片はじから、本当のように描くばかりのものではなくて、同じ今日という社会の息を吸いながら、Aはそれをどう吸収し、Bはそれからどんな作用をうけ又作用を与えているかという、その社会生活と個人との間にある有機的な性格にふれて描こうとするものだという点では、植物の分類法の上に行われている新しい方法が、きわめてまざまざとリアリズムの真実なありかたの一面に共通している。
人間性という言葉は文学の上で、とかくあらましな総括でつかわれるならわしだが、その人間性の具体の姿は、それぞれの植物がもっているような特質とその特質における共通性をももっているわけで、人間性もその発露は、自然主義が本能に帰結させたより遙に多角なものとしてうけとられて来ているのだと思う。人間は植物とちがって、自分の意欲で、自分の社会的な分類の埒から跳躍する力をもっている点も、人間の文学のリアリズムの面白さ複雑さである。人間性への具体的な迫真の試みだけが、リアリズムを自然主義の匂いの中から歩み出させ、明日の文学へ新しい展開を与える可能を見出してゆくのだと思われる。
〔一九四〇年九月〕