この一年あまりの間に日本の文化がどんなに新しく、そしてゆたかになったかということについては、いろいろの複雑な問題がある。文学は字であらわされる芸術であるし、字というものは生活の言葉であるから、私たちの生活の実感というものと照しあわせてそれを理解し判断する手がかりがある。つまり素人でも文学は批評できるし、その批評は批評として成りたつ。文学が特殊な人々の愛玩物ではなくて、私たちすべての生活人の社会生活のいきさつと、心持とそこからの発展を意味するものであればある程、社会人としての文学上の素人の意見は文学に大きい評価の価値を占めてくるものである。
 おなじ文化でも音楽のことになると、音楽の特別な性質――感覚的な音というもので表現される芸術として訴える力は大きいが文学のような大衆からの素人批評が音楽そのものを発展させ新しくさせる力に乏しい。文学よりも音楽は技術が特殊で、それは素人と玄人との差別をあんまりきっちり分けるから。
 絵画の問題も仲々むずかしい。日本画は、そのもっている制約から今日の人民の生活の複雑な感情をうつし出すに困難であるし、洋画は文学のように誰でも新聞小説を読むというふうな生活へのはいりこみ方をしていない。本場のフランスでさえ、セザンヌの住んでいた村でセザンヌは理解されていなかったし、ゴッホの忠実な弟がいなかったら、そして理解のある弟の妻がいなかったら、私たちはゴッホを紙屑籠の中へ失ったであろう。この間新聞である女流の日本画家と洋画の女流画家とが短い意見を発表しているのをみた。日本画の女流画家は、洋画一般が日本の生活とどんな必然性をもっているか、日本人であるということをどこまで分っているのだろうという疑問を出していた。これは面白い問題の提出であると思う。
 日本人であるということ、或はフランス美術をものにしているかいないかということ、それだけが問題ではないと思う。つまるところ私たちの生活の実感と今日洋画といわれている絵画の世界との間に、心からの必然がないことが問題だと思う。文学だとこんな小説がなんだろうと率直に疑問がいい表わせる。けれども画になると、例えば梅原龍三郎の画の世界の必然が分らないということは、いわゆる文化人には出来かねる。自分の分らない技術によって組立てられている世界、そしてその芸術は莫大な金銭によってあがなわれ、大家といわれているとき、文化感覚の中にある卑屈な事大主義が社会人として正直な、しかしそれは素人の批評である批評をひかえめにさせる。そのために大局からみれば梅原龍三郎をかれの世界へ停滞させて、とりまきにおだてさせておく事情になるし、より新しい美術の生れて来る生活感情へのもだえを消し批判と新しい創造力をあいまいにする。
 例えばピカソの画についてどれだけの人がピカソの世界の必然性を実感するだろう。ピカソの画が分らないということは画が分らないということではない。スペインの頽廃した近代の歴史と、そこで生れたピカソがパリに暮して絵画の世界市場で自分の存在をあらそって来た過程でかれの芸術がどのような変転をしてきたかという、その現実に突き入って理解しなければピカソは分らない。近代ヨーロッパの芸術、特に絵画は資本主義の社会がきずきあげた個人主義のもっとも集中的な表現をもっている。ピカソの世界は社会的な源泉の上に立ちながら芸術としての領域においては全く個人的な封鎖をされている。ピカソとマチスを並べてみてある共通性があるとしても、それぞれ独自の世界であり、ルオーのグロテスクは武者小路実篤にわかると思われていても数百万の勤労者に分らないのが自然である。美術品も商品である。これが資本主義社会での美術である。画商の存在の意義を考えればよく分る。
 芸術における独自性と独得なテンペラメントと、商品としての独自性の必要とはブルジョア画家の画業のうちにかなしくまじりあってかれらをかりたてている。
 近代の絵画の一ツの特徴のようになっているディフォーメイションということは、今日、重大に考え直されねばなるまい。音楽上のディフォーメイション、文学上のディフォーメイション、それはどれもみんな主観的な角度で或は感覚で客観的な現実を別の形に変形させること、つまりディフォームさせることである。
 人間精神の美と客観的真実とはディフォーメイションであるだろうか。ルネサンスにディフォーメイションがあったろうか。鋳型にはめたような中世の肖像画からレオナルドの生きた人間がおどり出した。ディフォーメイションは大づかみにいえばそのものとして発展する新しさを失った、近代の資本主義の社会の現実の中で、それを本質的に飛躍させる力をもたない精神が物憂く非人間的な現実からの脱出をもとめてもがきまわった、落着きない眼玉にうつった事象である。
 明日の芸術家の課題はディフォーメイションからの脱出である。新しいリアリズムの発見と完成とである。音楽でもオネガーは過渡期の古典となっている。文学に於る心理主義も第二次大戦後の今日からみれば古典的な現象である。洋画の世界で近代画家の必要なテクニックの一ツであるように思われているディフォーメイションもその徹底的な疑問がもたれていい時だ。ディフォーメイションがデッサンの不確さを蔽うというイージーな画業への害悪を取上げてみても真面目な画家ならそこに疑問を発見するだろうと思う。
〔一九四七年六月〕

底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
   1952(昭和27)年5月発行
初出:「美術運動」第2号
   1947(昭和22)年6月
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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