一九四七年の文学の動向として大へん目立つことは大体三つあると思います。
 その一つは、一九四六年中は戦争に対する協力者としての活動の経験から執筆をひかえていたどっさりの作家が、公然と活動をはじめたことです。これは日本の政府が自分自身の組織の中に、あいまいな条件におかれている多くの政治家をもっているために、戦争の責任者の究明をごく申訳け的に行っている事情に呼応するものです。
 雑誌編集者も作家自身も、戦争協力に対する責任の追求が、政府のがわからはきわめて緩慢で申訳け的であり、人民の民主的自覚がおくらされているために、民主的文化の陣営からの追求も居直ってしまうことが可能であるということを発見した結果です。『文学界』の人々は、もっとも戦争中戦争遂行に協力した人々の一群であるし、このごろさかんに執筆している石川達三氏は戦時中の協力に対して、日本がふたたびあやまちを犯せば自分もまたふたたび犯すであろうという意味を雑誌の上に明言しています。石川達三氏は、今日の人民的な民主主義をうちたてようとしているすべての正直な人々の努力の真只中でこういう放言をしながら、四国地方の反動団体の巻頭言などを書いています。
 また先日日比谷で行われたユネスコの大会で、ユネスコ文学のことについて演説をされました。ユネスコ(国際連合教育科学文化部)は中心題目として科学、教育、文化の上に平和と独立と自由とを確保して次の戦争を防止しようとする国際的組織です。
 去る十二月二十日に行われた東京ユネスコ協力会発起人会で招請状を出した新居格氏は、ユネスコの本質上この会は会員の純潔な良心に期待しなければならないと力説されました。発言した方々のすべてのことばはここに一致していました。その会の委員として石川達三氏があげられているということは矛盾ではないでしょうか。日本はふたたび軍事的・侵略的なあやまちを犯さないために組織されようとしている会の委員に、日本がふたたびあやまちを犯せば自分も犯すであろうといって、明瞭に今日国際間の問題になっている日本の反動勢力の擡頭に呼応する立場をしめしている石川達三氏がユネスコの「純潔な本質」にふさわしいと判断されるでしょうか。
 これは一人の作家の問題ではありません。ユネスコに限られた問題でもありません。日本の人民生活の全般と日本の民主的文化の建設の仕事が、今日権力者のたくみなリードによってきわめて不徹底におかれようとしている危険な注目すべき現象です。人民の民論はこういう現象に対して率直な意見を展開すべきであると思います。
 第二のことは、サルトルの実存主義の皮相的な流行と坂口安吾氏の文学を中心とする肉体主義の流行、それから日本の民主的革命の歴史的な段階をあやまって理解した「近代」主義の流行等がありました。これらの流行は文学の範囲をこえた影響をおこしていて、哲学者といわれる田辺元博士まできわめてジャーナリスティックな扱いで実存主義にふれるような傾向をよびおこしました。
 坂口安吾の文学は、毎月彼と関係のあるジャーナリストを呼んで大盤振舞いをするほど繁昌しています。田村泰次郎氏の肉体主義は彼にりっぱな邸宅を買わせたと新聞に出ました。戦災者や引揚者が住むに家なく警察の講堂に検束される形でやっと雨露をしのぐ有様が一方にあるのに。
 第三は、インテリゲンチャの間から野間宏、椎名麟三、中村真一郎氏その他の作家が注目すべき創作活動を行ったこと、勤労大衆の文化的活動がさかんになってきて文学サークル協議会が確立し、『文学サークル』という雑誌が出るようになったし、全逓新聞の応募小説になかなか優秀なものがあって、その七篇が『檻の中』という小説集にまとめて出版され、日本の文学の中に新しい健全な民主的要素を活躍させはじめたことがあります。
 詩の方面では、国鉄の詩人達が職場の詩人としての成果をしめして、ますます発展しようとしていることや、勤労者によって書かれた戯曲が自立劇団の上演目録に登場しはじめたことなどを見逃すことはできません。古い天皇制的な祝日が民主的な人民の祝日にかわろうとしている時、メーデーの歌が素朴な明るいメロディーをもって、人に知られない着実な生活をいとなんでいる主婦の一人である坂井照子さんによって作曲されたことも忘れられません。あの「町から村から工場から」の歌詞は国鉄詩人の作品です。
 新日本文学に属する民主的立場の作家の活動は、それぞれの作家の特長にしたがってだんだん流動してきました。毎日新聞の出版文化賞に「播州平野」と「風知草」とが当選したことは、その作家一人の問題ではなくて、民論が一方で坂口安吾氏の文学を繁昌させながらも他の一方ではやはり真面目に今日の社会の矛盾について考えており、その解決をもとめており、人民を幸福にする可能をもつ民主主義を欲しているという事実を雄弁に語るものでした。
 さて大掴みに注目されるこれらの三つの現象は、本年度にどう展開されてゆくでしょうか。
 これまでは文学の問題は文学の枠の中からだけとやかくいわれました。しかしこの段階は誰の目にもはっきり過去のものとしてうつっていると思います。なぜなら以上の三つの問題のどの一つをとってみても、ただ小説の問題とか詩の問題とかにかぎってその狭い地盤の上で発生している現象ではありません。どれもこれも、日本の社会が全体として今日当面しているいろいろの事情から湧いている現象の一つとしての文学現象であるといえます。
 前年度に見られた現象がこういう本質のものであるとするならば、一九四八年度における文学の諸問題は文学という分野の特殊な性質をたもちながらも、たしかに一九四八年度の日本の民主化の歴史がどうすすむかという事情と一致した歩調で、いくらか社会現象よりおくれながら働いてゆくものだと思います。つまり日本の大多数の人がどのように具体的に自分たちの民主的な毎日を確保してゆくために努力するかということときっちり結びついています。
 こう見てくると実に面白いことがあります。それはもう前年度の文学現象の検討の中に、自ら現代文学の重要な発展の可能性が示されているということです。前年度の回顧の中の第一の分類に属する丹羽文雄氏が「私は小説家である」といういせいのいい論文で、社会小説を主張して私小説から脱却しようとする今日の潮流に合していますが、一社会人として社会の進歩の歴史に対して責任を負わない客観主義に立つ社会小説というものは、人間一人一人の自覚と自主が確立される社会を建設してゆこうとする民主的な方向と一致しないものであることは、明らかに理解されます。作者の社会人としての感覚、歴史に対する積極的な参与を自覚しない客観主義は、いわば十九世紀の自然主義のぬりかえにすぎず、社会を客観的に見てあらゆる社会階層の現実とその発展を描破しようとする民主主義文学でないことは明瞭です。
 石川達三、林房雄氏その他の戦争協力者が民主化の低迷に乗じての活動は本年中どう動くかということは、これこそ実に数百万の小説を読む人々が自分たちの運命についてどこまで自分の主人になりうるかという問題と関連しています。日本の民主主義勢力が日本の民主化をおし進める努力とその成果との対照なしにいえないことです。
 本年度は勤労人民の中からの文化活動は、経済的な苦痛を打開しようとするたたかいとともに活溌になります。組織的にいえば、組合の文化部は前年度の経験によって、だんだん文化の過小評価をなくしてきたし、サークルの指導者たちは文学その他の文化的活動がいわゆる「文化的」な勤労者らしくないさまざまの栄養をうけていることについて十分な注意をよびさまされてきています。
 たとえば四七年十二月にもたれた新日本文学会の大会で行われた文学サークル協議会の報告は、これらの活動家やサークル員の一人一人がごく自然なかたちで、人民の文学というものが、ジャーナリズムとばかり結びついた「流行作家」たちの実存主義や肉体主義あるいは客観主義と、どんなにちがうかということを実感しはじめています。
 本年は、このサークルや職場の人々の間にもたれる文学コンクールの成績が、一そう文学的に評価されるものとなるでしょう。そして民主主義文学の中核をなすべき勤労階級の文学は、だんだんその流れの幅をひろげるでしょう。日本に新しい生活と新しい文学を求めるすべての人々は、はげしい期待をもってこの流れに注目しています。
 おなじように、前年度から活動をあらわしたインテリゲンチャの新進作家たちの、本年度の仕事は非常に期待されると同時に、個々別々にそれぞれの作家として発展させなければならないさまざまの矛盾や希望的なモメントを前年度において示しています。
 たとえば野間宏氏は「暗い絵」を完結して「肉体は濡れて」「顔の中の赤い月」「華やかな彩り」とうつってきましたが主題の小ささにくらべて長い小説にまとめてゆく文学上の危険な現象を、本年はどのように緊密な方向へ発展させるか、また右と左の足がそれぞれに別な土台に立ってしかもその間に「統一をもとめている同時的把握」の課題がこの作家によってどう解決されるかの問題があります。これは野間宏氏という一人の作家の肉体と精神とをたて裂きにするかどうかという問題です。
 また椎名麟三氏には、自分の社会的人間的経験の文学的表現を、どういうふうにしてドストイェフスキーの影響からとき放し、日本の歴史の成長をとげてゆくかということの課題があります。梅崎春生氏には、既成文学的達者さをどういう風にして洗い落してゆくかの課題があり、中村真一郎氏には文学の厳粛性をどう理解してゆくかの課題があります。全体としてインテリゲンチャ新進作家にとっての本年の課題は、日本の歴史の矛盾だらけのひだのすきから生じた個性主義を、どのようによりひろいより歴史的な発展の道におくかという課題があると思います。これらの作家の共通な「近代」の足かせを、今年もこの人々は好んで自分の足首につけておくのでしょうか。
 前年にある程度の成果をもって活動した広範囲の民主的作家の活動は、本年になればそれぞれに辿って来たテーマを発展させ、よりひろい社会的な文学に進むだろうと思います。民主主義文学というものは、進歩的な小市民層の生活と文学とを包括するものですから、勤労者の文学をもっとも注意ぶかく鼓舞しなければならないと同時に、一見なんの奇もないような店をいとなんでいる人の生活、勤人の生活、会社員、主婦などの生活の声が文学に反映してきてよいと思います。
 本年度は、農民の生活をうつす多様な文学と、児童のための文学が真面目にとりあげられ、民論によってはげまされなければならないと思います。今日これほど問題の多い子供の生活に語りかけてゆく健全な文学がこんなに少いということはおどろくべきことであるし、日本の民主化の道程で歴史的な場面に立っている農民のこの複雑な現実が、見るべき一つの作品にもまとめられなかった片手落は、本年度においてとりかえされなければならないと思います。
 戦時中農民を主題として書いた作家が戦争遂行のための農村収奪の方向に協力するばかりで、真に農村の人々の心にはいって作品を書かなかったという悲劇を、本年はまったく新しい人々のペンによって、血によごれていない人々のペンによって語られなければならないと思います。
 ところがこのようなさまざまの期待と希望があるにもかかわらず、用紙の問題はどうでしょう。雑誌・書籍の生産費の暴騰はどうでしょう。そして今の電力割当で、どれほどの本が読めるでしょう。人民の所得は戦前の百倍と査定している政府が、百二十六倍の税額を払わせる時、私たちの文化費はどこに残るでしょう。文化と文学の発展は、社会の生産や権力の性質とこんなにも切りはなせないものだということを、本年度はすべての人が切実に発見する年でもあると思います。そして文学はこの社会的な発見の実感の中にさえも新しい萌芽をもっています。
〔一九四八年一月〕

底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
   1952(昭和27)年5月発行
初出:「東京民報」
   1948(昭和23)年1月1日号(第七四七号)
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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