作家や評論家というものが、女の生活についてどういう考えかたをしているかということは、一応わかりやすいことのようで案外めいめいにとってもわかりやすくない部分を内部にもっているのではないだろうか。
 文学の世代的な性格に即して云えば、石川達三、丹羽文雄、高見順などという諸作家が新進として登場した当時、一時代前の新進は女に捨てられたり失恋したりして小説をかいて来ていたものだが、現代の新人は反対に女を足場にして登場した、ということが云われた。そういう批評には、卑俗なものの云いかたも一面に伴っているのだけれども、それでもやはりそこには無視されない何事かが関係していたことは、それから今日までのこれらの作家の生きかたや仕事の内容に語られている。
 大きい歴史のうねりで眺めれば、明治二十年末期の『文学界』のロマンティシズムがその踵をしっかりとつかまえられていた封建の力を、殆どそれなり背面にひっぱったまま大正末から昭和の十年間という時期をも経て、今日の、或る点から云えば極めて高度な近代の秩序に適応していてしかも本質の土台は遠く遠く数百年にさかのぼり得るような状態に来ている。昔を今に、今や昔という複雑さは、日本の四季がこまごまと文学に映っているとおり、文学の作品のなかに生きている。そこに、世界文学史のなかでみた現代日本文学のつきぬ意味あいがあるわけであろう。
 同じような複雑さが、女の生活というものについて考える作家や評論家の頭脳的な要素または心情的なものに反映しているのではないだろうかと思う。
『文学界』のロマンティストたちは、自分たちの人間的存在への主張と一つものとして、女の成長を要望していた。若々しいその情熱は、習俗とのぶつかりで深く傷き、透谷のような人をも出した。
 ロマンティストたちの破れた夢のみなもとまで探り入って、その底にある仕組みにふれて、人間再建がのぞまれた時代を経て、最近の数年は多くの作家・評論家にとって、女は題材であり無視出来ない読者ではあるが、真の芸術的な主題として把握して、その運命のおきふしをわが運命のおきふしにかかわりあるものとして真摯に作品の世界で生きられるということはなくなって来ている。
 婦人作家が女の生活を描くときでさえも、昨今のこの傾向では一つになっている面がある。
 読者としての婦人に向って作家・評論家が何かを語る場合には、誰でも或る程度までは女自身のうちにある様々の向上の欲望や、古いものから脱しようという苦しみの肯定に立って発言していると思う。何故なら、一般の女のひとたちがその作家や評論家の読者としての関係で今日の世の中にあらわれて来ている動機は、何かの形でその女のひとたちの向上心とつながり、自分としての趣味の主張とつながったものなのであるから。
 ある評論家たちは、婦人雑誌で婦人の教養のためにかなりの文筆活動をもしている。文学そのものがつまりは人間の精神の発展と表現との意欲を本質として立っているのだから、意識してそれをはぐらかさない限り、人間生活の歴史から来る社会と個人との不幸に対して文学が無感覚ではあり得ないことのおのずからな形である。
 ところがその反面、恋愛論などで婦人の精神と肉体とに非常に溌溂積極な表現を期待しているような評論家でも、そういう場面よりほかのところで女が活溌であることは何となくうけがいかねる感情をもったりして、自分の男としての情緒にそれをそのまま肯定しているのはどういうわけなのだろう。
 そのひとの文学理論の立場から云えば、いくらか前進した生活感情がありそうだと思われるのに、思いのほか旧套にこもって、女の生活の苦しみを割合浅いところで見ている例に遭うことも、様々に深く私たちを考えさせることである。
 それらの原因こそは、明治のロマンティストたちをひきずり下した踵の重りそのものであるということは、云ってみればそれ等の作家・評論家自身に、解釈としてとうに理解されていることどもであろう。現在では、そんなことはわかりきったことだが、現実の感情として男は云々と、そこをつよみのように云われているのだと思う。
 女の心持から云って一番せつない、そういうわかったようなわからなさは、何か作家・評論家という仕事の形からも影響されているのではないだろうか。文学の本質と文学の仕事をしてゆく日常の形態というものは現在のような段階ではいつも必しも一致した足どりばかりはもっていない。大体、文筆の仕事は、仕事の形として極めて孤立的だと思う。一人一人が自分の机に向ってやっていて、そのとき書いているものがごく先へ行った女性の解放論であるにしろ、それをかく最中、家の雑用に頻々と煩わされるのはやりきれなく、妻なり誰なり女手が仕事をやれる空気をつくるために求められる。
 家屋の仕事だから、所謂いわゆる家庭的な空気が負担で、家長的、父的位置と芸術家の心の自在な動きが撞着して、一層の孤立のため旅へ出るとして、やはり家をちゃんとしてくれる女が必要であろう。
 文学の仕事と文学を職業とするということの間に矛盾があってはならないわけであるけれども、いつしか文学を職業とする方へ主軸が傾きがちで、職業的労作の単純化、統一化、能率化のためには、真の文学精神が回避出来ない筈の両性の波瀾をも、わが家の中では御免という余分に馴らされる点がなくはならないのだと思う。その感情のなかから表現されるときには文学的な構想を与えられて、女の幸福とか人生のより高い姿とかに於て描き出されて来る。一面では常識の先を行っている人々のように思われているだけに、作家・評論家たちが女の中に時々めざめて来るものをなだめている力は、本人やひとが想像しているより大きくつよいのではないだろうか。
〔一九四〇年十月〕

底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:「新風土」
   1940(昭和15)年10月1日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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